不能認識

そんな大した文章ではありませんが、人によっては不愉快に感じるかもしれません。

 


 セミの鳴き声が止んだ。
読んでいた本からふと目を上げて窓の外を見ると、いつの間にか雨雲が近づいて暗くなっていた。
「あら、やだわ。今日は英子、午前中で学校が終わるのに。」
娘の英子は今年、小学校に入学したばかりだ。
時計を見るとちょうど正午だった。
もう少しで授業が終わる。
「今日は傘を持って行かせてないのに。雨が降り始める前に帰って来られるかしら。」
網戸を開けて少し窓から顔を出してみると、すでに小雨が降り始めていた。
「仕方ないわ、迎えに行きましょう。」
子供用の傘を持って、小学校の方へ向かう。

 小学校までは家の前から続く、細くて暗い坂道を通らなくてはいけない。
ただでさえ陰気な道は雨で湿った空気がいつもより更にその道を不気味にさせていた。
「やだわ、車で来れば良かった。お父さん、今日に限って車で仕事に行っちゃうんだから。」
今朝、車に乗って家を出る夫を見送ったときを思い出す。
ふと急に、夫が死ぬ映像が思い浮かぶ。
今よりずっと年老いて痩せた夫が暗い病室のベッドの上に横たわっている。
同じく、今よりずっと大きくなった娘と息子がベッドの横で椅子に座ってすすり泣いている。
急に頭に浮かびあがってきた不吉な映像に思わず身震いする。
「やだやだ。早く小学校に着かないかしら。」

 ずいぶん長いこと速足で歩いていたように思うが、まだ小学校は見えてこない。
「おかしいわ、こんなに遠いはずないのに。」
自分のぜいぜいという呼吸が耳の中で大きく響く。
気づくと、いつの間にか雨は止んでいた。
それにも関わらず、外は真っ暗だ。
いつの間にか、夜になっていた。
はっと息を飲む。
「あぁ、きっともう照二を塾に迎えに行かなきゃいけない時間だわ。」
心臓がどくどくと鼓動しているのが大きく聞こえる。
英子の2つ年下の弟の照二は来年、高校受験を控えていて毎週土曜日は遅くなるので、車で迎えに行くのだ。

辺りは静まり返っている。
小学校はまだ見えてこない。
途方に暮れて座り込むと急に視界がまぶしくなった。
光の方を見ると誰かが懐中電灯の光をこちらに向けて近づいてくる。
目を細めてみるとその誰かは警官の制服を着ている。
ガサガサという機械の雑音が聞こえ、そのあとで警官の声が聞こえた。
無線で誰かとやり取りをしているのだ。
「おばあちゃん。」
警官が話しかけてきた。
おばあちゃん?
失礼な、私はまだそんな年じゃないわよ。
ポカンとして警官を見上げると彼は続けた。
「おばあちゃん、たぶんあなたのことを娘さんが捜していたよ。
自分の名前、言えますか?」
なんてこと!
この警官、どこまで私を馬鹿にするのかしら。
「あなた、さっきから失礼ね。私の名前は…」
 私の名前は…
私の名前は……
分からない。
私は自分の名前を忘れてしまったのだ。
 
 すると一台の車が近づいてきた。
辺りが車のライトで明るく照らされる。
運転席からバタンッと音を立ててドアを開け、誰かが出てきた。
見ると50代くらいの女性だ。
「お母さん!!」
お母さん?
じゃあ、このおばちゃんは…英子?
女性の顔を見ると、ずいぶん年を取ってはいるものの、確かに英子の面影があった。

 あぁ、なんてこと…
 私は時間の歪んだ世界に、閉じ込められてしまったんだわ…

不能認識

認知症の人の世界の見え方ってこんな感じかな、と想像しました。
知識が浅いので、もし不愉快な気持ちにさせてしまったらすみません。

不能認識

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-21

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