蕾の涙

2012/01/16

 露の音が聞こえなくなった。雲間からは青空が見えている。雨に流され沐浴を済ませた石畳の色は、鮮やかに冴えていた。水は汚れを流してしまう。流れていった汚れはどこに消えてしまうのだろう。どこかにたくさんの澱が溜まってしまうのではなかろうか。それとも泥は大地へと還ってゆくのだろうか。波打つの水に降り注ぐ雨が、どこかに消えてしまうように。
 濡れた石畳を歩くと、足の裏に伝わるその感触が心地良い。植木の葉の上で光る雫に触れると、それは指を伝って零れてしまった。そして重そうに裸足の爪先に落ちる。草いきれが辺りを包み、生温く纏わりつく空気が重くなるようだった。薄手で軽い装束ではあるが、祈りのために水に触れている時でなければ、やはり暑くて敵わない。風もなく、雨上がりの空気は濃くなって沈み、体の細部があらゆる方向から、押し返される。
 湖畔へと沈む石の階段を降りてゆくと、水に漂う装束は風に吹かれたように、波に翻弄された。緩やかな歩みに合わせて、水面に浮く蓮が揺れる。
 深く、深く沈む体が、やがて頭上まで湖に浸かると、仰向けに倒れて水面に浮いた。白い装束が蓮の花のように咲いていた。
 溶けるようにたゆたう。目を閉じてしまうと、水と体の境目が分からなくなるのだ。このまま水に消えてしまえば、どこへ辿り着くのだろう。供物として役立てるだろうか。それとも、寄せては返す波のように、ここに留まり続けるのだろうか。
 いつの間にか、空には虹が架かっていた。幾重にも重なる色は、一体いくつあるのだろう。人に寄って色の数が違うのであれば、見えている景色さえ、違うものとなる。目の前に見えている虹は、全ての人が見えるものなのか、それとも幻覚なのか、判別ができない。誰かと分かち合おうとしても、言葉はこの心をすり抜けて、粉々に砕けてしまう。
 手を伸ばし、雲の奥にある白昼の白い月に触れようとするが、届くはずもなかった。
 雲は音も立てずに動く。晴れるのだろう。流れる雲間から現れた光芒が、伸ばした指先を照らした。焼けるような暑さが、指先から全身へと広がる。日光は眩しくて、目を閉じてしまった。
 人々は奇跡だと言う。太陽は平等に降り注ぐのではないらしい。伸ばしたこの手を、太陽は掴んでくれるだろうか。
 熱い、痛い。肌が焼けてしまいそうな程に。手を差し伸べるのは、こんなに痛いことだったのだろうか。

 波に押されて岸辺に打ち上げられる。童女が繊細な刺繍を施された布を抱えて近づくのが見えたので、横たえられた体を起こした。頭上から掛けられた布を胸の前で交差させて立ち上がり、石畳を踏んで歩く。布が体と装束の水気を吸って重みを増すと、締めつけられて、息が苦しい気がした。ずぶ濡れの雑草のようになって、それでもこの足で歩くのは、どれだけ珍妙なのだろう。根もなく、不安定に立ち上がる体。これが奇跡なのだとすれば、どれだけ常軌を逸しているのだろう。
 雨に濡れた花弁が艶やかに輝いたので、屈んで漂う蓮の蕾に触れると、それはいとも容易くもげてしまった。美しいまま命を断ってしまったそれを見るに耐えることができなくて童女に渡すと、頭を下げて、さも有難そうに受け取られた。蕾は童女の小さな手に包まれる。
 その手の中で、花弁から雨粒が流れ落ちた。

蕾の涙

続きません

いつか物語になればと思います

蕾の涙

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日
2012-01-16

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