ウルワツの恋

ウルワツの恋

大学4年生の剣人は、英語科に属していながら、一度も海外旅行をしたことがない。そのことを懇意にしている担当教授の岩井貴教から指摘されて、慌てて計画もなく、バリ島へと旅立った。そこで出会ったのは、雑誌のモデルのダンスの女優だった。そして、彼女と恋に落ちた。剣人は、結婚も考えるのが、彼女にはフィアンセがいた。さて、臆病な剣人はこれで諦めるのか。ウルワツというケチャダンスとサーフィンのメッカで起きたハプニング。

思い付いた旅

黒田剣人、ユリアティー、貴島教授、ガミーラ(ユリアティーの友人)、ガブール(ユリアティーの父)、ウェイビー(ユリアティーのお母さん)

今日は、大阪からバリ島にやってきて3日目だ。ぼくはU外国語大学英語科の4年生だけど、昨今の日本の内向き思考の影響を受けて、これまで海外旅行をしたことがなかった。そろそろ就職活動で忙しくなるだろうからと、懇意にしている貴島教授が強く勧めたので、海外に行くことにした。と言っても、このことは5日前の月曜日に決めたことだった。そして、ぼくは一人っ子だった。貧乏な一人っ子だった。母子家庭の一人っ子だった。母さんが必死に働いて、ぼくを大学までやってくれた。ところが、その大事な母さんを最近病気でなくした。人はショックが大きすぎると、悲しみ方を忘れるらしい。だから、ぼくは精神的に落ち込むこともなく、思い立って海外に飛び出した。ネットで調べて、瞬く間にチケットを手配しバリ島へと出発した。
 こうして、今バリ島クタのこじんまりとしてはいるが、手入れの行き届いたプールがあって、居住部分はコテージ風の個室で、客室は優に30平米はあろうかいうのに、一泊4500円という安さだ。
 なんでもオーナーが日本人で、日本語がよくできるスタッフを集めて、日本人が使いやすくて居心地をよくしたおかげで、いつも予約で一杯らしい。
 
 ぼくは、出発前に、バリ島の旅の雑誌を3冊買って、覚えるほど読んだ。
 なんでも、バリ島は祭りの島で、インドネシア唯一の芸術大学があるということだった。また、別のページには、民族衣装を着飾った20歳の前後の踊り子の写真があった。 
 その姿は妖艶で、美しかった。派手な民族衣装と濃い舞台化粧のせいかもしれないけど、その踊り子の目と踊っている姿は、まるで阿修羅の力を秘めてて、次元と空間を超えて太古の昔までぼくを連れて行ってしまいそうなインパクトを持っていた。
 彼女のジャコウ猫のような目は、ぼくの心を掴んで離さなかった。 民族衣装で着飾っている彼女が妖艶な決めのポーズを見とれているうちに、そのまま遠い何処かに連れて行ってもらいたくなった。その顔は、邦画にも、韓国映画にも、ハリウッド映画にも出てこないような、アーリア人と南洋系の血が混じり合った、不思議で魅惑的な顔だった。旅は不思議だ、日常から離れるときに、もしかしたらこれまで全くできないことが、次の旅ではできてしまうかもしれない、あり得ないことが起こるかもしれないと思わせる力がある。

 ぼくはたったそれだけの準備で、シンガポール航空に乗り込んだ。ジェットの中は、僕にとって未知の空間だったから、そこにいるときにファンタジーの世界に入り込んだ気さえした。バリ島の国際空港は、ウングライ空港という。ウングライは、バリ島の第二次世界大戦の英雄だという。
 空港からホテルは近かった。ぼくは、すでに、ジェット機の着陸音さえもが心地良く響き渡るコテージ作りのアレールというホテルのレストランに座り、椰子の木で囲まれたプールを静かに見ている。プールに張られた水にヤシの葉が落ちて、静かに波を周囲に広げていた。テーブルに置いたコーヒーカップには、バリコピーと発音されている濃い目のコーヒーが入っていたが、これは乾燥したこの地の風土に合ってて、濃いけどうまい。

 こうして、きっと大阪なら、サラリーマンが満員に通勤電車に揺られるというもっともストレス値が最高になる時間帯の8時半に、まったりとした時間を過ごしていた。プールにゆっくりと落ちていった椰子の葉は、そのまま浮かんで風に合わせてゆったりと浮かんだまま、どこにも動かなかった。止まった時間に至福があると気がついた。
 バリのウェイターは給料が安いらしい。けれでもよく働くみたいだ。それに、以外にも、着いた日からぼくに給仕してくれる若いウェイトレスは英語ができる。
ぼくがなにげなく英語雑誌を開いていたら、彼女から「イッツ、イングリッシュ ブック?」と話しかけてきたことから、片言の英語で、名前、年齢、住んでいるところを語り合った。二人とも、それまで勉強した英語力を試して見たいんだろうとお互いのことを感じていた。
ところが、普通になんでもない会話しかしていないのに、旅の解放感のなせるわざのせいか、もしかしたらこのまま、この子と恋人になれるかもしれないと自惚れつつ、感じた瞬間があった。

 ウェイトレスと話したことで、彼女がいなくなってもニンマリしていると、目の前のプールサイドにバリ人の男性が現れた。彼もゆったりとした動作で、朝からプール周りの木々に散水している。

 さっき、初対面で親しくなったので、 ぼくは、ユリアティーという19歳のウェイトレスが気になって仕方がなくなった。彼女はバリ島唯一の芸術大学の3年生で、バリダンスの代表選手だと教えてくれた。そのとおり、ヒップラインはかなりのボリュームを持ちながら、ひざ下のふくらはぎの幅が約5センチという理想的なフォルムを持っていた。身長は、178センチのぼくよりちょうど10センチ低いから、168センチくらいだろう。
代表選手だけあって、 バストは多分90センチを超えているだろう。それよりも、ウェストラインのシャープな締まり具合が何ともいず、ぼくの全身をゾクっとさせるのだった。
日本では、寡黙な僕なんだけど、南国の暖かさが作り出す解放感と、街のカフェで平気で男女が抱き合い、キッスまで平然としているその現実に完全に飲み込まれていた。
ユリアティーは午前10時までしかいない。だから、デートに誘うには、今しかない。僕のテーブルの上の皿を片付けに、こちらに近付いている。あと3歩だ。目の前にユリアティーのしなやかな腕が現れた。手首に蝶々貝で作ったハンドメードのブレスレットをはめていて、ムラサキの鮮やかさがこころをドキドキさせた。
「ありがとう、美味しかったけど、ユリアティー、良かったら明日映画に行かないか?どうしても見たい映画があるけど、ほらインドネシア語ってできないから、僕一人だとチケット買えないと思うんだ。」
と一気に英語で言った。
「ありがとう、でもだめ」と言われるのではないかと心配しつつ、彼女の口元に目を注いだ。

「ええ、行きたけど、お昼の時間でもいいの?」
(よし、ラッキー!!ツイテル)
「ああ、いつでもいいよ、行こう」

「おごってくれるの?」

「もちろん。でも、私に変なことしないよね?例えば、いきなり抱きついたりしないよね?」
「もちろん、ただ映画のチケットを買うのを手伝って欲しいんだ」

「わかったけど、何を見るの?」
「ゴジラ」
「ああ、アメリカの映画ね、私も見たいわ」

映画が終わって、クタ市内のカフェに行って、2人でゴジラの感想を述べあった。
「とっても面白かったけど、ゴジラ映画は、どうして日本が舞台なの?」
「それはそうさ、だって最初のゴジラ映画は、日本人監督が、日本人の俳優だけ使って、作ったんだからさ。」

その時は、ユリアティーとバリコーヒーを飲むだけだったけど、話が次々に話題を呼び、めちゃ楽しい会話ができた。つまり、日本にいたら到底できなかっただろうナンパができてしまい、深夜一人のコテージ前のベランダの椅子で、タバコを吸いながら、にんまりとした笑いが漏れるのを抑えることができなかった。それに、次はどうやって誘おうかと、僕の冴え渡った前頭葉が、彼女とのデートの場面を想像し始めるのを止めることができなかった。

次の日の朝、ぼくがレストランで、たんまり買い込んで来たバリ島の旅行雑誌を見ていると、ウェイトレスのユリアティーが近寄ってきた。緑のロゴ入りのTシャツに黒のジーンズというシンプルな制服を着たユリアティーには、清楚な美しさがあり、きっと親のしつけが行き届いた生まれなんだろうと想像した。 ユリアティーは、開いているページをじーっと覗き込んできた。
「あっ、それ?それもしかして?」
と言って、ぼくから旅行雑誌を取り上げた。開いていたページには、例の踊り子の写真が写っていた。
ユリアティーは、まじまじとその写真に見入った。
「これ多分私です。この踊りの場所は、ウルワツの舞台です。わあー」
えっ、どういうこと、あの踊り子がこの子?まさか、日本を出発する前に、この写真の子に会ってみたくてこの場所を選んでいたことを思い出して、なんとも言えない縁しを感じた。
「ユリアティー、君って踊り子なの?これって演芸場の踊りの後なの?」
「ああ、そうです。この踊り見に来ませんか?日本人、いっぱい見に来てますよ。」

そうして、この日も簡単に次のデートが決まり、ユリアティーの案内で、ウルワツ観劇場まで来てしまった。ここの観劇場は独特で、大自然の中に作り上げられた青空の舞台だった。なにしろ150メートルはあろうかという絶壁のすぐ上に、1000人は収容できそうなコンクリート造りの階段状の野外舞台の造りになっていた。そして、目の前には水平線がどこまでも続いているように見える、インド洋があって、そこに夕日が落ちつつある。

野外席に人が座りきれなくなって、ケチャケチャケチャという生の男性が合唱するかのような声のバックグランドミュージックに合わせて、舞台は始まっているにもかかわらず、さらにその周りに新規客が入場してきたから、なおいっそう熱気が上がった。
ケチャケチャという声がづっと続いて、主人公の登場が待ち遠しくなったころ、シータ姫とラマ王子が現れた。ユリアティーは、「私、シータ姫役をするのよ」と言っていたから、今目の前で踊り始めたのがシータことユリアティーに違いない。そして、その二人は、すっかりインドの長編叙事詩「ラーマヤナ」の雰囲気のとおりに目元を濃く黒く塗っていて、二人の踊りは、静かな中にも、妖艶で、幻想的だった。
 ぼくは、着飾ったシータ姫の衣装の下は、もうすぐ僕の恋人になってくれるかもしれないユリアティー本人だと思うと、言いようのない満足感に包まれて、どうにも胸の奥が締め付けられて仕方がなかった。
それは、テレビドラマの人気タレントが、実は目下熱愛中の彼女だというのに似た、優越感の気分だった。ラーマヤナに基づくその劇は、約2時間も続いたのだが、その間、ぼくは夢見心地だった。
シータ姫の相手役のラマ王子も、また日本で言えば、宝塚のトップ男優にも負けないくらいの女性らしい筋肉質で力強い美貌なのだが、僕自身が、ブラックを基調としたダンス衣装に身を包んでいるラマ王子であって、そのままスローテンポの目線の配り、動作の停止などの独特のフォームを踊っている気分だった。
最終場面でわらが円形に広げられて、それに火を着けて、ケチャの声も最高潮に達し、会場もトランス状態に近付いた。ぼくは、完全に酔ってしまい、劇のストーリーの通り、シータ姫を守るため、自らの命の危険も顧みずに、果敢に魔王に挑むラマ王子になり切ってしまった。 劇に溶け込んだぼくは、本物のラマ王子に負けないくらいに、ユリアティーを守っていこうと深く心に刻んだ。

劇がはねた時、ぼくは絶壁の一番奥に作られたウルワツ寺院がよく見える、アセロラの樹木の下で、ユリアティーを待っていた。

舞台衣装を脱いだユリアティーの顔は、ほんのりと汗が滲んでいて、驚くほど清々しい顔をしていた。舞台で見た目元の彫りの深さは、アイラインの化粧を落としても変わらないように思えた。
「さあ、行きましょう、剣人。今日は、あなたがディナーおごってくれるんでしょ。そのために、いつもより頑張ったんだから」
と言いながら、僕の左側に立って、早くも腕を組んできた。
たった今劇を見終えたお客が多くて歩きにくかったが、何人かはぼくの横にいる子がさっきの舞台の主演女優と気が付いていると思うと、優越感の余り、妙な自信が込み上げてきた。

ユリアティーが見つけてくれたタクシーに乗り込んで、近くのカフェバーに行った。
ビンタンという名前のグリーンのボトルビールを頼み、ジョッキに注ぎあって、日本語で「乾杯!」と声を合わせた。「うーん、うまい」、「バグースよ」と声を出し合いながら、乾き切った 喉を通るビールが胃に染み渡った。そして、ビールが胃に達して気持ちが落ち着くと、「こんな美人と本当に一緒にいるんだろうか、これって罪にならないだろうか」という感覚を感じながら、ユリアティーの、少しばかりの中央に寄っている大きな目が、実は左右に切れて長くなっている瞳を遠慮なく見入った。
「ちょっと、私の顔ばかり見ないでよ、恥ずかしいでしょ」
と言いながら、ユリアティーは、寄って行こうとする僕を右手で差し止めた。
「ああ、ごめん」と言って、ぼくが困った顔をすると、ユリアティーは黙ってビールを注いでくれた。
間ができてしまい、どうしようかと考え始めた頃、さっきユリアティーが頼んでくれたフード3皿をウェイトレスが持って来てくれた。
「このお米でできたミックスライスはナシゴレンって言うんだけど、日本にもあるの?」
「ああ、あるよ。焼き飯っていうんだ。でも、インドネシアのナシゴレンほどスパイシーじゃないし、もっと塩辛いよ 」
「でも、美味しんでしょ?」
「うん、正油っていう独特のソースを使っているんだ。絶対に美味しいよ」
「そうそう、さっき食べたセトアヤム?串焼きのことかな?日本にも似たのがあって、これは30種類くらいある。魚、牛肉、豚肉を串焼きにしているけど、メチャおいしいよ」
「へえ、食べてみたいなあ?」
「・・・」
沈黙はいやだ、なにか言わないと。
「食べに来てよ、絶対に美味しいし、ほかにもいろいろ美味しい料理は一杯あるから。おれが連れて回って、お腹一杯にさせてやるよ、来いよ」
「私、本当に!行ってみたい」
「来いよ。日本もいいところだよ。ここと同じくらい」
ユリアティーの目が一瞬、宙を泳いだ。
「ここいいところじゃないよ」
というや、泳いだ目が下を向いて、口元が尖ってしまった。
「あれ、おれ、なんか変なこと言った?」
「そうじゃない。そうじゃない」
「なんだか分からないけど、ごめん」
「そうじゃないから、謝らないで。もっと食べよう。美味しいうちに。これがミーゴレンって言って麺ね、ヌードル?そして、これがお肉を焼いたものよ、甘いわよ、どんどん食べよう。私、思い切り踊ったから、お腹空いているのよ」
また、はしゃぎ出した。その変化も好きだ。ぼくにはない部分だ。
五皿もあったのに、あっという間に手を着けて、ビールも3本も飲み干してしまった。来た時から、こちらを、というよりユリアティーの美貌を気にしてチラチラ見ていた、男性3人連れも、いつの間にかいなくなっていた。
ぼくが右腕にはめた日本製の腕時計にチラッと目をやると、それに気付いたのかユリアティーは
「私の地元はウブドゥという田舎で、私は、ウブドウから30キロ離れた、サヌールの芸術大学に通うために、友達とアパートに住んでいるのよ。」
と言った。
その言葉の意味はわかったが、彼女が期待している僕の答えは、「送って行くよ」だろうか、それとももっと違うことだろうか?
「送って行くよ、日本では、デートの後は、女の子を送って上げるのが、礼儀なんだ」
彼女は、コクリと深くうなづいた。
すぐに立ち上がって、カフェの出口に向かった。カフェを出ると、うるさいほどに車と人が行きかう南国がそこにあった。ぼくの左側にいたユリアティーが、スーッと体を寄せてきた。ぼくは、そうするのがその場の雰囲気に合うと感じて、左手を伸ばして、おそるおそるユリアティーの右手を握った。すると、ユリアティーが指の一番奥まで密着させた上、ギュと握って来た。その強さに驚いたぼくは 「エッ」と声を出して、左に顔を向けて、ユリアティーの顔を覗き込んだ。ユリアティーは何も答えず、先に歩こうとした。
通りには人がたくさんいたから、それをよけるのが大変だったけど、間を抜けて歩くのが、僕とユリアティーの共同作業になった。
「インドネシアでは、初めてのデートで、手をつなぐのか?」
「いや、男性と2人きりでお酒を飲んだのも、手をつなぐのも初めてよ。」
これからどうしようと、酔った頭で考えた。
「ゆっくり話したいね。」
「うん、そうね」
「公園か人の少ないビーチにでも行かない?」
「うん、まかせて」
「・・・」
僕らは、肩を寄せ合い手をつないだ。そこから10分くらい歩いたただろうか、ホテル「ハイアットサヌール」の広々とした庭園に隣接したビーチには、木製のベンチがあった。ユリアティーは、自然と僕の左横に座り、同時に肩と肩が触れ合うくらいに、近づきあった。
「ここならいいでしょ」
「ああ、とってもいいところだ。静かだし、波の音がきれいだし。それにイカ釣りの漁船だろ、煌煌と電灯を付けているのは?」
「うん、そうらしい。日本にもあんな釣り船ってあるの?」
「あるよ、もっと小さ目かな?でも電灯はもっと明るいと思う。それが何十艘も海上を漂っていて、とてもきれいだよ。それに、日本にはホタルイカって言って、小さな光るイカが海を泳いでいて、それを網で船から釣りあげるんだよ。」
「へえー光るイカかきれいなんでしょうね、行ってみたいなあ?日本に」
「来いよ。今すぐにでも」
「本当に、日本に行ってもいいの?」
「ああ、来いよ。一緒に遊ぼうぜ」
「でも、私いろいろ問題あるよ、剣人には相応しくないかもしれない」
というや、ユリアティーの顔が切なくて、悲しそうな顔に変わった。
「えっ、どうしたの?」
「・・・」
「まあ、嫌なことは忘れてしまえよー」
「うん、分かったそうするわ」
「あのさあ、おれ、いまメチャ幸せだよ」
「ええ、どうして幸せなの?」
「どうしてって、こんなに美人のユリアティーとはいま二人っきりでここにいるし・・・」
「うん、私も同じ気持ちだよ」
ぼくは、もどかしくなった。僕自身は、これ以上に人を恋したことはないと確信していて、どうみてもその相手も僕を好きみたいだ。そして、ぼくの故郷にも来たいと言っている、何を待つことがあるだろうか。
ぼくは、ユリアティーの肩をぐっとこちらに引き寄せて、ユリアティーの顔をこちらに傾けさせた。ぐっと引き寄せた瞬間に、ユリアティーはぼくの目をじっと見た。間違いなく期待している目だ。ぼくは、ゆっくりと唇を近付け、息を止めた。そのとき、ユリアティーは目をつむった。ぼくはそのまま、そっと唇を重ねた。唇が重なるや、ユリアティーの両腕にぎゅっと力がたまり、ぼくを思い切り、引き寄せた。
口を閉じたままのキッスがイラついて、どちらからともなく、口を開き、戸惑いながらも、強烈に相手を求め合った。僕の背中に回されたユリアティーの腕は、ますますその力が強くなった。
初めてのしかし強烈なキッスが終わると、さっきよりもっとなんでも話したくなった。なんでもお互いのことを知りたくなった。
「ユリアティーは彼氏がいたことはある?もしかしたら、今もいる?」
「まさか、いま好きな人がいるなら、あなたとキッスなんかしないわ。あなたこそ日本に恋人はいないの?」
「おれがまさか。おれってこれまでモテたことはないよ」
実はぼくにも過去に付き合った女性がいて、その子とは肉体関係まで行ったことはあったが、その彼女とのキッスの感激度は、さっきのユリアティーとのキッスの1000分の1だった。ユリアティーを知った以上は、僕にとっては過去の女性関係は、ゼロになった。
「ホント?じゃあ、さっきのキッスは本気だった?」
「本気さ、もちろん」
当然のように、すぐにもう一度お互いを求めあった。今度は、なにも迷わなかった。すぐにお互いの唇にたどり着いた。
「ねえ、私のこと聞いてくれる。そして、驚かない?」
「うん、聞くよ、そして、何を言われても、ぼくはユリアティーから離れない」
「うん、私、生まれたのはウブドゥっていう田舎なんだけど、とても両親を好きなのよ、特にパパをね」
「ああ、ぼくには、両方ともいないけど」
「ええ、嘘でしょ、両方ともいないなんて」
「嘘じゃないさ。パパは僕が3歳の時に行方不明になった。ママは最近病気で死んじゃった」
「可哀想。ママはどんな人だった?」
「ああ、一人でぼくを育てたから立派なひとでさあ、ぼくが成長するのが夢のくせに、『あなたの好きなようにしなさいって』ってよく言っていた。『あなたには、パパに似て、特別な才能があるとか、特別な霊感がある』とかよく言っていた。」
「もしかして、日本人なのに貧しかった?」
「もちろん、貧しかったよ、貧乏な日本人もたくさんいるよ。貧しいから、ぼくを大学にやるのは無理なのに、ママは無理して学費を作って、ぼくを大学に行かせてくれた。」
「私はねえ、ウブドゥで一番か二番のお金持ちの家なのよ、だから、踊りの師匠がいつでも家に来てくれたし、高い踊りの衣装だって数え切れないほどある。おかげで、この前のウルワツでのケチャクダンスの主演にまでなれたわ。でもね、私さあ、親が決めた許嫁がいて、その人と結婚しないといけない。ゴメンね」
これが現実だと思った。これまでのことが夢だった。ぼくはどうしていたんだろう、会ってからまだ10日しか経っていないのに、このまま永遠にユリアティーと一緒にいられると思い込んでいたことにいまやっと気が付いた。一時の甘い甘い夢だったんだ。
「そうなんだ。僕の方こそ、悪かったね。で、そのフィアンセとは?」
「嫌だわ、絶対に、顔も見たくないわ」
「えっ、嫌いなのか?」
「そう、あんな人と一緒にいるのは、1日でも1時間でも1秒でも無理だわ」
ユリアティーの顔が、ケチャクダンスの時の主演女優のシータ姫の顔に変わった。そして、シータ姫が、魔人ラワナをはねのけた時に見せたゾクっとする程の怖い顔がそこにあった。
「剣人、あなたはもうすぐ日本に帰る人だよ。こちらこそゴメンね。でも今、とっても好きだわ、それは本当よ、信じて」
そう言ってぎゅっとぼくの手を握りしめた。ケチャックダンスの時に、一時シータ姫が観衆を一気に惹きつけるキメの瞬間があった。その時、観衆は息を飲んでシータ姫に惹きつけられた。いまぼくは、ユリアティーに惹きつけられた。彼女のためにできることは何でもしてあげたいと。
もう一度、何の疑いのないキッスをしてから、手を繋いで彼女の住まいまで歩いた。ぼくらは、ぼくがここにいる限り何度も会おうと約束して、夜が明け始めた時刻に別れた。

戸惑い

 第2章 戸惑い

 その翌日だった。ぼくは初めての海外旅行で、英語ができたことがきっかけで、ガールフレンドができたことを自慢げに言ってやろうと、ホテルアレールの部屋から貴島教授に電話をかけた。
「もしもし、貴島教授?ゼミ生の黒田です」
「おう、黒田君かどうしたんだ?海外に行ったのか?」
「行ったどころか、バリ島のこじんまりしたコテージ風のホテルに泊まってて、なんと現地の大学生の踊り子と英語だけでデートして、そしてなんと今でも付き合っているんですよ」
「おおーそれは格好いいなあ。で、踊り子っていうとどんなことをしているんだい?」
「まあ、地元の民族ダンスというかラマヤナ物語に基づいた劇なんですけど、その劇の主演女優ですよ」
「おおいいなあ?それで付き合っているというが、どんな関係なんだ?」
「うーん、彼女も日本に行きたいっていっているし、ずっとぼくと付き合っていた言っていってくれるんですけど、ただ彼女には、親が決めたフィアンセがいるらしくて」
「フィアンセがいるのに、お前と付き合っているって。本当か?」
「ええ、本当です」
「お前、真剣に考えないといけないぞ。東南アジアで親がきめた婚約に抵抗するとか、女性だと大変なことだぞ。それこそ彼女は家から追い出されて財産もなにもかも失うことなんだぞ。もしそうでなければ、お前は騙されているんだ」
「えっ、本当ですか。でも彼女はぼくとキッスして、それから一晩中話して。お互いの気持ちを確認して」
「だから、東南アジアで、親が決めたことに娘が反対するなんて、相当のことだぞ。分かっているのか」と驚くほど大きな声で言われた。
「えっ・・・」
「きっと騙されているんだよ、黒田よく考えてもっと情報を集めろ、お前なりに。できれば一旦早く帰って来い、おれが相談に乗るから」
「ああ、はい」
 急にぼくの声が小さくなった。それまで抱いていた夢と理想的な彼女を見つけた自信が急にグラグラとなった。ぼくだってある程度は知っていた。例えば、東南アジアの歓楽街で知り合った女性と恋に落ちて、たんまりと金を貢いで結局トンずらされたとかいう話し、金は騙されなかったが、病気をもらった話し、まもともに現地の女性と結婚したのはいいが、婿入り先は耕運機もない農家で、朝から晩まで奴隷のように働かされる状態の婿になってしまった話しなどを情報としてはネットから知っていた。でもでも、ユリアティーはそんな子じゃない、絶対に。
 それでも、貴島教授の言うとおり、フィアンセがいるとかフィアンセとは絶対に結婚したくないとかなどすべてユリアティーからの情報だった。彼女以外から、彼女のことを知るすべはなかった。
 ホテルアレーナ9号室の黒塗りのインドネシア家具の机に座って、壁にはめ込まれた鏡をじっと見た。そこには、さっきまで溢れていた自信を明らかに失ったぼくの傷心した顔があった。
 
 次の日、それでも、ぼくは、ユリアティーと二人切りになりたくて、バイクを借りてサヌールビーチまで行った。後部席に座ったユリアティーは、両腕でぼくをしっかり抱きしめた。
 午後6時半、夕日がブノア湾の東側に沈み始めた。靄が濃すぎて、いつもの美しさはそこにはなかった。
「剣人、どうして急にサヌールに行こうって言い出したの?それにどうしてバイクに乗っている途中、なにも話してくれなかったの?」
「ああ、バイクの運転はここでは難しいから。話しながらだと事故起こしそうでさあ」
 歩きながらだと話しにくいけど、今は正面にユリアティーの顔が見えない方がよかった。昨日、貴島教授から言われて、ぼくの心にユリアティーに対する疑いが生じていた。だから、後ろめたい気持ちがあって、自分の顔を見せたくなかった。
「ほら、海岸の中央に、海に突き出た堤防があるでしょ、そこには東屋もあるから座ろう。恋人たちの特等席なのよ」
「・・・」
 ぼくは、ユリアティーがたった今『恋人』と言ってくれたことが、どうしようもなく嬉しくて、疑ったことを申し訳ないと思った。幸い、ほかにカップルはおらず、東屋を二人で独占した。

「ユリアティー、フィアンセがいる、つまり婚約しているって本当なのか?」
「そうよ、そんなことで嘘つくわけない」
「そう、それなら、僕と付き合うとか、日本に来るとか大変なことじゃないのか?日本だとそれほどのことじゃないけど。このことをユリアティーのご両親が知ったら、大反対するんじゃないか」
「そうね。私は今地元のウブドゥから離れているから、好きなことができるの。でもフィアンセとは結婚したくないわ、絶対に」
「じゃあ、じゃあ、おれとのことは本気なのか?遊びじゃなくて」
「本当に好きよ、でも無理よ。私は結婚したらすべての自由を失って、嫌いな人と一生離れられないから、いまのうちに好きな剣人一緒にいたいのよ。だから、私も勝手なことしているんだから、剣人も気にしないで」
そう言ったときのユリアティーの顔は、切なくて、悲しそうだった。舞台でもこんな場面があった。でも、舞台で作った表情よりもずっと辛そうだった。ユリアティーは、ぼくから顔をそむけて目を閉じた。自分でハンカチを出して目に当てた。
 ぼくは、なんとかユリアティーを助けたかったし、そのためにももっと情報が欲しかった。
「たとえば、ユリアティーの親に僕を会わせてくれないかなあ。日本語を教えてもらっているとか英語で話が通じた友たちと仲良くなったとか適当なことを言って、あくまでも友達だからってことで。あれなら、芸術大学に来ている日本からの交換留学生で、ユリアティーと同じクラスだからとかうそ言ってさあ、ユリアティーのご両親に会わせてくれないかなあ」
 きっと怒ったような顔をしてぼくの目を見た。
「会ってもなにも変えることはできないわよ。あなたには無理よ、そんな無理はしないで今だけ楽しみましょう。それが一番いいわ」
「でも、フィアンセとは結婚したくないんだろう。本気でそうなら何とかしたい」
「ホントに?」
「うん」
「・・・剣人に迷惑かけるわ。うちの親はいいかもしれないけど、フィアンセも変だし、フィアンセの親も普通じゃないらしいわ。」
「いいからいいから、ユリアティーの親にだけでも会わせて欲しい。その場に合うような話しをして、ぼくらが付き合っているなんてバレないようにするから」
 しばし沈黙が続いている。もしかしたら、これで終わりにしようと言われるかもしれない、なにも言わずに帰ってしまうかもしれない。
 ここに着いた時タッチダウンするのにもっと時間がかかるように見えた太陽は、すっかり海の中に消えてしまった。
「分かったわ。剣人ならその場に合わせた嘘がつけるわね。数日待ってね、そろそろ実家に帰る時期だし、大学に来ている留学生と言っておくわ」
「うん、それにさあ、ユリアティーは来年も大学生だろ。来年日本に来いよ。おれ、金もないし親もいないから大した歓迎はできないけど、しょう油とかみそとか日本の美味しいもの食べさせるから」
 さっき泣きそうになっていたユリアティーが、日本に誘ったことでいきなり笑顔に変わった。そして、ぼくの左手を強く握ったので、ぼくははっとした。
「行きたい、日本に、絶対行きたい。ねえ、バリ島の女子大生が一番行きたい外国は日本なんだよ。行きたいなあホントに。日本料理ももちろんだけど、本物のメイドさん?アキハバラとかいうところの?見てみたいなあ。きれいなトイレも使ってみたいし」
 笑った、ユリアティーが笑った。日本に行きたいと言って笑った。ラーメンとか豚汁とか食べさせたら喜ぶだろうな。それに焼き鳥屋でビールグラスで、ビールを注ぎ合ったら楽しいだろうなあ。ユリアティーが和服を着たらどうなるんだろう、どれくらいきれいなんだろう。和服を着たユリアティーを見たくて仕方がない。
 
 1週間後、ユリアティーが「芸術大学に来ている日本からの留学生が、ウブドウを見たいと言っている」という嘘をご両親に付いてくれた。そして、借り上げたタクシーでユリアティーの実家に行くことになった。行く前に、親の名前を憶えて欲しいと言われた。
 お父さんはガブール、お母さんはウェイビーとだけしっかり覚えることにして、出発した。
 ウブドウは、デンパサール空港から車で2時間くらいのアグン山という聖なる山に行く途中にあるバリ島一番の芸術の街だ。ここは木工芸品製作、染色などで有名で、日本では人件費が高くて廃れてしまった手作業の彫刻品が安く店頭に出ている。
 
 ユリアティーの実家は、ウブドウの中心地にあり、自宅の周囲をぐるりと2メートルくらいのコンクリートで囲まれていた。門の上段には、ガルーダという聖なる「鷲の神」のお面がはめ込まれていた。
 門から入って開放的な客間に案内された。バリでは、床に意匠を凝らしてあることが多く、ここの床も白黒の大理石板で作られていた。どっしりとしていて、手彫りの彫刻が彫り込まれた椅子に座らされ、しばらく一人にされた。ご両親が客間に来るのを待たされた。
 中央には、これもどっしりとした木製のテーブルが置かれていた。
 テーブルに出されたお茶に手を付けずに待っていると、ユリアティー、続いて中年の男性、さらに中年の女性が入ってきた。きっとご両親だ。
「スラマ シアン 日本から来た黒田と申します」
と日本語でぼくが話したのをユリアティーがバリ語に通訳した。
「よく来てくれました。父親のガブールです、娘がお世話になっています」
「はじめまして、母のウェイビーです。ウブドウに興味があるんですか」
 恋人の通訳によりその両親と意思疎通を図るのは通常は難しい。しかし、真実を言う必要がない場合は難しいことは少ない。
「ええ、ウブドウは芸術の街っで有名なんで、是非前から来たいと思ってまして」
「あなた、日本では何を専門に勉強されてるの?工芸?音楽?それとも?」
 ぼくの専門はしいて言えば言語学系。工芸とかまったく無関係だ。でも沈黙はやばい。どうせうまくユリアティーが話してくれるだろう。
「ええ、音楽です。ダンサーが踊りやすいように音楽を日本の専用キーボードとコンピューターでアレンジするんです」
 ユリアティーが笑った。うまい嘘を即興で考えたと認めてくれたんだろう。
 僕が言った英語をそのままお母さんにバリ語に訳したようだ。
「ここは古い街で日本にはないような習慣があるのよ。子供は親が決めた婚約をしているのよ。」とウェイビーが切り出し、ユリアティーの顔が曇った。
 そう言いながら、ウェイビーは何か冊子にパッキングされた写真集かなにかをテーブルに出してきた。大事そうに持ち出したことからすると、きっとフィアンセの写真だろう。ユリアティーの顔がさらに曇った。
 ウェイビーが冊子を開いた。そこには、正装した男性の上半身の写真があった。正装した男性は、日本でいうと軍服のような真っ白な服であり、肩から腰付近まで斜めにかけた装飾用のたすきのようなもので飾っていた。
 その後も、ウェイビーは話し続けた。話している言葉の多さの割に、ユリアティーの通訳は簡単だった。これがフィアンセなのよ。ウブドウで一番の名家なのよ、とでも言っているんだろう。ぼくも不機嫌な顔をしてしまったと思う。
 そして、その写真の中の正装した男性は、たしかにいけ好かない顔だった。体重80キロは優に超えていて、丸々とした顔にずんぐりとした丸鼻で口も大きくて、あの大きな口でキッスされるのはどんな女の子も嫌だろうなと想像した。それに、見るからに甘やかされたおぼっちゃんというオーラが漂っていた。ユリアティーは、ダンスの劇団に小さい頃から所属しているって言っていたから、男を見る目があるんだろう。ユリアティーが「一緒にいるのも嫌よ」、と言った理由がよくわかった。
 ほおっておくと、ウェイビーの自慢話しは限りなく続きそうだった。それをユリアティーも感じたらしく、何事かウェイビーに話しかけて、写真冊子を持たせた、二人とも客間から出て行った。そして、ぼくとお父さんのガブールだけがそこに取り残された。
ガブールも困った顔をした。迷ったけど、ぼくは、あらかじめパソコンで作っておいた音楽を録音したアイフォンを入れていた。そして、その音楽を聴いてもらおうと、バッグの中をがさごそといじった。きっと簡単な英語と手ぶりで分かってもらえるだろうと思って、持ってきた紙の動作で何をしたいか書き込んだ。
「これ、ミュージック、私、作った」
と英語と身振りでガブールに伝えると、うんうんとうなづいてくれた。
 ぼくは、あなたのために作ったと言って、アイフォンに入れて来たガムランと日本の琴とかの音を合成させたゆっくりとした音楽を鳴らした。
 ガブールは黙って聞いてくれている。

rich and tough

 第3章

 ぼくが作った音楽は、コンピューターを使って、ガムランとキーの高いピアノ音、ハープ音それに海の潮騒の音を合成したもので、全部聞いても5分くらいのものだった。そして、ベースにしたのは、ゆっくりしたテンポのガムランだったから、バリ人にも聞きやすかったと思う。お父さんは目を瞑って味わいながら聞いてくれていた。
 ひと通り終わってから、お父さんは
「バグース、バグース」
と言ってくれ、それから何かを伝えたいかのように困った顔をした。
 ぼくも、ガブールがなにかを言いたいことはわかった。しかし、ここでは英語も日本語も使えず、ぼくは買い物と道を尋ねるくらいのバリ語しか知らないので、どうにもしようがなく、お互いにもどかしく黙ってしまった。
 ユリアティーとウェイビーが戻ってきた。
 ユリアティーは、僕の横に座りながら、目で『なにもしゃべらないで』という合図を送ってきた。そして、またウェイビーがさかんにしゃべり始め、そのいくつかをユリアティーがぼくに通訳した。
 ウェイビーの手振りと顔の表情から、さっきの写真の男の素晴らしさやその親元の裕福さ、ユリアティーとフィアンセの婚約後の両家の付き合いは順調に進んでいると言っているようだった。なるべく不機嫌な顔にならないように注意していたが、ぼくがなにも言わないのもおかしいと思った。当たり触りのない反応を考えた末、フィアンセの名前の由来を聞き、これをユリアティーに通訳してもらった。
 ウェイビーは、「名前は、トニーマという。トニーマの名前の由来ははっきりとは知らないけど、立派なご両親だから、きっといい由来をもっているに違いない」とぼくに通訳した。 
 それに、トニーマの父は、名前をオーカーとか言って、言葉に訛りがあるからもともとはここの出身ではないけど、幅広く商売をしていて、数名の妻を持っている、と通訳してくれた。
 ぼくは、ある程度予想していたことだけど、フィアンセがいる女性の実家に、大学の友達とは言え、訪問してしまったことを後悔した。
 お昼時だというのに、お茶だけが出された。日本でいうジャスミンティーだった。そして、こちらの通常の仕方のとおり、砂糖がたんまりと入っていて、気持ち悪いほどだった。
 カップのジャスミンティーが半分になった頃、ウェイビーがユリアティーにひそひそ声で何かを言った。言い終わったころ、ユリアティーが僕に話しかけた。
「クタのホテルまでうちの使用人に送らせるから、そろそろ帰ってもらいなさい、って言われたわ。ごめんね、そうした方がいいわよ。また、連絡するから」
 ぼくは、この雰囲気ならそれも仕方がないと思った。ウェイビーの実にとげとげしい言葉の鋭さに、胸が痛くて仕方がなかった。
「失礼するよ。あと1週間したらいったん日本に帰って、3か月後にまたホテルアレールに来るから、そのときに会って欲しい」
とユリアティーに言った。けど、ユリアティーは、困惑しているのかなにか振り切れないような顔をした。
 ユリアティーだけが、ぼくを玄関まで送ってくれた。玄関先には、日本車が用意されていて、使用人がドアを開けて待っていた。後部席に乗り込むときに、ユリアティーの目だけをしっかりと見つめた。そして、「絶対にまた会おう。日本に呼ぶから」と言った。
 ユリアティーは、無言だったが、しっかりとうなずいてくれた。
 ユリアティーとの今後の連絡は、メールだけになってしまうだろう。でも、いつまで実家にいるんだろう。
 ぼくが後部席に乗り込むや、ほとんど急発進で出発した。バックガラス越しにユリアティーを見たら、泣きそうな顔で手を振ってくれていた。

 そこからアレールホテルまで約1時間半かかる。ぼくはもしかしたら、ユリアティーが別の車に乗って追ってくるのではないかと後ろばかり見ていた。
 ユリアティーの家を出て3つ目のカーブで、緑色のスズキ車が後ろに着いた。運転手と助手席は男性、後部席に女性が乗っていた。
「あれなんだろう?」
と思いつつ、スズキ車のナンバー83-56を覚えた。
 出発してから10分が過ぎて、後ろを見たら、すぐ後ろは、緑のスズキではなく、シルバーのスズキ車だった。シルバーのスズキは、バリ島で一番多く見かける。だから、気にも留めなかった。
 ぼくは、アイフォンを取り出して、ガブールさんに聞いてもらった自作の音楽を聞き直した。
「けっこう、悪くないと思うけどなあ?」
 イヤフォンもつけずに鳴らしていたから、運転手もこれを聞いていた。
「バグースね」とバリ語で、いい音楽だなと言った。
 ぼくは、通じないことを承知の上で、ユリアティーのフェイアンセがどんな奴か聞きだそうと英語で話しかけた。
「ユリアティー、フィアンセ、ハウ アバウト ヒー?」
通じたらしく「ユリアティー フィアンセ ノット グッドね シークレット、シートレットね」と愛想よく言ってくれた。さらに
「ワイフ ストロング ボス ノット」
 きっとガブールとウェイビーのことだろう。使用人の運転手もいい目に合っていないだろう。
 ぼくは、もっと情報を得ようと
「フィアンセズ パパ イズ リッチ アンド タフ?」
と聞いた。すると、運転手は
「ああー、リッチリッチね。タフ?タフ イズ ワット?」
「フィアンセズ パパ イズ リッチ アイ ノー。アンド パパ イズ フォーイグザンプル ライク マフィア?」
「アイ ドント ノー、バット メイビー ルーモー イエス」
 何てことだ、噂だけだけど、フィアンセの父親はやくざかもしれないだと。
 ぼくはすっかり力を失い、ぐったりとなった。頭を深くシートに凭れかけさせて、深く息を吐いた。

 あと20分でホテルアレールに到着しようかという頃、なにか気になることがあって、後ろを見た。すると、緑のスズキ車が付いていた。暗くてナンバーは見えず、また乗車している人物も分からなかった。
「オーカーとかいうフィアンセの父親は、マフィアかもしれないのか。」と独り言を呟いた。教授にこのことをそのまま報告したら、なんと答えるだろう、当然再度バリに行くことには反対するだろうな。
 もう一度後ろを見たら、また緑のスズキ車が付いていた。「同じ車か?」と急に緊張が背中に走った。ホテルアレールには入口にガードマンがいるから、いきなり襲われることはないだろう。しかし、いかに治安のよいバリ島とは言え、相手が手段を選ばなければ外国人であるぼくはなすすべがない。そのことに気付いたとき、最悪の事態が次々に頭に浮かんできた。そして、これが最悪というものを思いついて落ち着こうとするのだが、さらに悪い事態が想像されて、頭が混乱して息が詰まった。すると、それまで気が付かなかったホテル周辺の照明の暗さにようやく気が付いた。
 僕には、助けを求める相手がこの近くにいない。
 警察に飛び込んでも、殴られてもいないから、なにも相手にしてくれないだろう、そればかりがフィアンセがいるバリ人の女性に手を出したことで、こっぴどく説教されるだけで終わるだろう。
ホテルの部屋にたどり着いた時には、午後10時を過ぎていた。シャワーを浴びて、ベッドに座り、なんとか落ち着こうとしたが、シャワーの温水がぬるかったせいかそれとも不安の大きさのせいか、がちがちを体が震え始めた。
「ジャリーンジャリーン」と電話が鳴り、はっとして受話器を取った。交換の声だった。
「名前を名乗らない方から、黒田様あてにかかっておりますが、お繋ぎしますか?」と日本語で言われた。
 迷ったが、もしかしたら日本からなにか援助の電話ではないかとも思った。
「繋いでください」

「ゆーくろだ?にほんじん?」
「はい、そうですが。どちら様。」
「ゴージャパン、アーリー。ゴージャパン、アーリー。イフ ユー リブ ロング、ゴージャパン アーリー ディス イズ コーション!」
 電話は切れた。少なくとも、そいつはぼくがこのホテルに泊まっていることを知っていた。たぶん、ウブドウから追ってきたスズキの乗っていた奴だろう。
 ほんの1週間前、ぼくは、ユリアティーという最高の美人とロマンティックな恋の急行列車に乗っていた。それなのに、いきなり地獄に突き落とされた。ユリアティーに会えないどころか、顔も見せない人物から今脅されている。

 その頃、ホテルアレールそばの暗い脇道に止められた緑のスズキ車の後部席の女性は、携帯の電話を切った。そして、世界で一番香りは甘いが、タールが20mgも含有しているインドネシア製のガラム(GARAM)というたばこに火を着けた。

 たばこを一本吸うと、また電話をかけた。
「ボス、今警告の電話を掛けました。ええ、確かに日本人の黒田と確認して警告しましたから。ええ、今日はこれくらいでいいんですね。はい、最近バリでは日本人の人気が高いし、日本人が行方不明になると、地元の警察も本気で探すでしょうからね。これ以上は簡単に手は出せないですね。はい、今後も見張りを続けます」

 電話を切った女性は、日本女性だが、ウブドウのオーカーに雇われている。
 

帰国、それから

  第4章 「帰国、それから」

 ぼくはまだバリ島クタのアレールホテルのレストランにいる。ウェイトレスとしてここに籍を置いているユリアティーは、休暇を取ってウブドウに帰ったままだ。
 ぼくは、明後日には、いったん日本に帰ることにした。ぼくはまたバリに来て次はユリアティーと結婚の約束をしたい。そのつもりで「絶対にまた会いたい」と強く言ったし、深く頷いたユリアティーもそのつもりだと直感した。
 けれども、どうしたらいいだろう?本気なら、ユリアティーを呼ぶのに生計を立ててやらないといけない。彼女が日本に来るには、家出に近い状態になるだろうから。そうして、無理にユリアティーを呼んでも、ぼくは仕事もしていないから、食べさせていけない。
 僕自身母さんが残してくれた家と貯金でやっと食べている。
「おれがユリアティーを食べさせるから、日本に来い」と威勢のいいことを言っても、現実が付いていかない。帰ったら就職活動もしないといけない。懇意にしている貴島教授は、ぼくを大手に推薦してくれるだろうか。ぼくは、英語を生かした仕事に就けるだろうか?
 すべては旅先での夢だったのだろうか?通り過ぎた甘い甘い夢に過ぎないのか?バリコーヒーは、日本のコーヒーよりも2倍くらい苦い。だから、バリ人は、3杯も砂糖を入れて飲んでいる。このレストランで頼んだコーヒーも、たっぷりと砂糖が入っている。苦くて甘い。ぼくはこの旅で、ユリアティーとの甘くて同時に苦い恋を経験して、それで終わりにするのがいいのだろうか? 
 プールサイドの周りをホースで水を撒きながら、踊るように歩いている従業員の軽やかな足取りが気に障る。あいつも踊りのセンスがあるんだろうか?
 プールサイドにはバリ舞踊の舞台がある。舞台とはいっても、大理石の床の上に作られた開放的な東屋があって、その壁の一角に、10人くらいが一度に映る大きな鏡が造られているという簡単なものだ。ぼくの前頭葉に、その舞台で踊るユリアティーの姿が浮かび上がってきた。ゆっくりテンポのガムランで踊るユリアティーが見えた。
 ぼくは、すぐに携帯音楽プレイヤーで僕が作ったガムラン風の音を鳴らして、そのあたりに響き渡らせた。
 ガンサ(鉄琴)とレヨン(手でたたく釜)の音の組み合わせは、ぼくの心を落ち着かせた。その音を聴いていると、ぼくは無性にもう一度、あのウルワツの絶壁の舞台でケチャダンスを踊るユリアティーを見たくて見たくて仕方なくなった。いやユリアティーでなくてもいいから、せめてシータ姫を見たくて仕方がなくなった。

 こうしてぼくは、ウルワツの舞台に2度目の訪問をした。舞台の客席に座っていると、ウルワツ寺院は、青い背景のインド洋の上に浮かんでいるようだった。まるで、寺院自体が海上で瞑想しているように見えた。寺院を見ている僕の顔に、パワーのある海風が心地よく吹いてきた。劇が始まるには、まだまだたっぷりと時間があった。ぼくは、舞台の前から5番目の席に一人で座って、インド洋にゆっくりと沈む夕日を見ているうちに、幻想的で敬虔な気持ちになった。1000年以上前に創建されたウルワツ寺院は、高さ約80mの絶壁の先端に建っている。その場所だと、大空と大海しか見えず、80m下方から海水が岩に打ち砕かれるやや弱い爆音しか聞こえないだろう。だから、そこだときっと雑念が湧かず、宗教的な気持ちでいっぱいにできるのだろう。
 今日の舞台の観客は、4割くらいしか入っていない。そろそろ始まる。シータ姫とラーマ王子は冒頭に現れる。
 舞台の入り口は飾り門になっている。その門の向こうにあるインド洋は実に美しい。門の中の空と海の間から、白っぽい衣装に赤、黄色の飾り物をきらびやかに身にまとったシータ姫、続いて黒ベースの上下の服に、青、緑の飾り物をきらびやかに身にまとったラーマ王子が現れた。背丈からいうと、ぼくの席から5メートルに現れたシータ姫がユリアティーでもおかしくない。だが、化粧が濃くてわからない。
 早速ゆっくりしたテンポの踊りが、ケチャの力強い男性コーラスに乗って始まった。前回はケチャケチャケチャという男性の合唱ばかりが目立ったが、今回は同時にガルーダ役が身に着けているガムランボールの鈴の音が、妙に哀しく聞こえる。僕の席は前から5番目だというのに、シータ姫の人相が分からない。それに、シータ姫はぼくを見たりはしない。
 夕日が沈む前に始まったケチャダンスだったが、約1時間20分が過ぎ、終盤に近付いた。あたりはすっかり暗くなり、クライマックスで、火を付けるための、わらが舞台に円形に敷き詰められ始めた。
 
 その頃、シータ姫を同じ舞台の反対側で見ている男性3~4人と女性1人がいた。舞台入口すぐ横のイス席に座っていた。その女性はエメラルドの指輪を左手にはめていた。その女性は隣の男性に話しかけた。
「ユリアティーの友達だといっている黒田は、あれ以来、ホテルから出ていません。もうすぐ日本に帰るようだとホテルの従業員から聞き出しました。」
「そうか。また脅しておけばあきらめるだろう。」
「それにしても、うちの息子はどうしているんだ。最近ウブドウにいるのか?それとも、クタの繁華街で、外人の女のけつでも追いかけ回しているのか?」
「はい、そうかもしれません。」
「・・・まったく困った奴だ」
「あら、社長、それでもトニーマさんが可愛くて仕方ないんでしょう?」
「・・・」
「それにしても、ユリアティーの踊りはやはり最高だな。」
「そうですね、さすがに大会で優勝するだけのことはありますね」
「ああ、どうしてもうちに欲しいな」
「はい」
「ところで、黒田という日本人のことをもっと調べてくれ」
「あら、ボス、なにか興味があるんですか?」
「いや、なに?うちのドラ息子と比べてどうかなって思ってな?興味本位なだけだよ」
「ボス、もうすぐ一番いいところですよ、白猿とガルーダが格闘するところですよ。そして、最後にシータ姫とラマ王子が元通り一緒に暮らせる結末の場面ですよ」
「ハッピーエンドか?つまらんな」
「あら、ボス。ちっぽけな幸せには興味ないんですか?」
「ああ、興味ない、退屈だ」

 シータ姫とラーマ王子がもう一度入場して来る場面だ。ぼくはデジカメの拡大機能を使うことにやっと気が付いた。そして、拡大を最大にして、再入場するシータ姫を待った。
 次の場面は、すべてが解決して幸せを取り戻したのを表現する場面だ。「パチ、パチ」と拍手が起こった。
 来た来た、手を繋いで入場して来た。シータ姫もラーマ王子も笑顔を作っている。シータ姫は、入場門すぐ横の男性グループに目を一瞬やった。オーカーたちの方に視線を投げて、そっと微笑んだ。微笑んだときに、首筋がよく見えた。
 その時だ。拡大したデジカメの画面に、シータ姫の首が見えた。
 「あっあのほくろはユリアティーだ。間違いない。あのときに僕が見つけたユリアティーの秘密だ」
 僕は一瞬のうちに胸が熱くなった。なんでこれまで気が付かなかったんだろう。
 初めてのキッスの時に、僕が見つけた首の右横のほくろだ。

 退場していくとき、ぼくはデジカメでじっとユリアティーの顔を見つめていた。そして、ユリアティーとラーマ王子が手をつないで舞台中央をゆっくりと回りながら、客席に笑顔を振りまき始めた。一歩二歩とユリアティーがぼくに近づいてくる。そして、すぐ目の前に来たそのときデジカメから顔を上げたぼくの目と目が合った。分かっていたんだ。ぼくが来ていることを。
 ぼくは、すっかり納得し、いつまでもユリアティーの後ろ姿を追った。

 次の日も、そして、次の日もホテルアレールでユリアティーを探したが、ここには来なかった。それで、ぼくは、3度ユリアティーにメールを送った。メールの返事は来たが、なんとも不安の残る内容だった。そして、ユリアティーハフィアンセの実家から観察されているらしいからというので、ぼくはとうとうユリアティーに会わずに日本に帰ってきた。
 帰ってからは、バリ島の時間の進み方の違いについて行けず、それにユリアティーを無くしてしまったような虚脱感も生まれてきて、気力は湧かず、腹に力も入らず、あるとき亡霊のような気分だった。
 メールだけは3日に1回はやり取りしている。しかし、話しは煮詰まっていない。ユリアティーは、親の決めた縁談を断るのは難しいけど、フィアンセとは結婚したくないって言っている。ぼくは、「すぐにでも日本に来いよ」、と簡単にメールで伝えるけど、伝え方が軽いせいか稼ぎのない学生の言葉の軽さのためか今一つ迫力がない。
 ぼくは今U大学の廊下を歩いていて後貴島教授に挨拶に向かっている。
 「トントン」、「おう、入れ」
 ドアを開けると、応接テーブルにウィスキーグラスを置いて、テレビを見ている貴島教授がいた。ここは一つから空元気でも出さないと。
「教授、行ってきてよかったです。なんか吹っ切れた感じです。これでもう青春に心残りはないって感じです」
「ほう、満足したんだな、英語の力も付いたか?」
「そうですね、英語で現地の女の子を口説いたりしたし、それにショップで値切るのも楽々できるようになったし完璧です」
「そうか?ところで、黒田、おまえで就職活動はどうなっているんだ?」
「はい、出遅れたんで、またこれからです」
「内定なしか?」
「なしです。」
「あっこれお土産です。免税店で買ったタバコとアラックっていう泡盛に似たバリの地酒です」
「そうか、おまえ、出発前よりいい顔になったなあ。」
「ええ、ちょうどよく黒くなったでしょ」
「そうじゃなくて、強くてかつ色気が出たって感じだな。それに抜け目なさも着いたかもな?」
「はい、ありがとうございます」
「おまえ、商社の面接受けてみるか?とっておきだぞ。佐藤忠商事だ」
「ええ、あの大手の商社ですか?」
「ああ、大学時代のポン友がそこの人事課にいるんだが、骨のある奴がいないって愚痴ってなあ。黒田、おまえトイックだけはよかったなあ?」
「はい、900はあります、これだけは高校生の頃から頑張ってたんで」
「OKだ。じゃあ2週間後、面接受けてこい、推薦状を書いてやろるから、それからバリ島でのナンパはどうした?」
「いえ、ナンパじゃないです、本気です」
「本気?なに言ってるんだ?」
「だから、惚れたんです」
「どうかしたのか?熱帯の熱にやれらたか、相手の女は、現地人でしかも婚約しているんだろう、無理だろう」
「いや、無理じゃありません」
「だいたい、どうやって日本に連れてくるんだ、ビザが取れないだろう」
「?」
「ビザが取れないだろう」
「ビザって彼女の?」
「そうだよ、日本人みたいに誰でも金さえあれば海外に行けるわけじゃないぞ。日本に親戚がいるとか、多国籍企業で転勤だとか理由がなければ、相手の女はビザが取れなんだぞ」
「おれ、全然考えてなかったです」
「まあ、もういいじゃないか。それより佐藤忠商事の面接は2週間後だ。それに合格すれば、あとは形式だけの筆記試験が月末にある。面接で堂々と応対できるように気持ちの整理をしておけよ。くれぐれも旅先でナンパしたなんて言うんじゃないぞ」
「はい」と返事はしたものの、ぼくは、「ユリアティーのビザは取れない」という現実を突き付けられた。

 その頃、ウブドウでは、ユリアティーは、ウェイビーから「先方がどうしても、当人同士で会いたい。」って言うのよ、と強く言われた。ユリアティーは、取り乱した振りをして断ろうかと思ったが、昼間だけという約束というので、仕方なく会うのを承諾した。
 お昼ご飯を一緒にするだけならと、ウブドウのホテルのレストランで会うことになった。そこは、元は外国人専用のレストランで、昼間からコース料理が出てきそうだった。
 真っ白なテーブルクロスに包まれたテーブルを挟み、向かい側にぷっくりと太ったトニーマがそれこそふんぞり返って座っていた。元々椅子から出そうなくらいの大きなお尻なのに、さらにふんぞり返って座っているから、椅子が壊れそうで、椅子が痛々しくて可哀相に思えた。
 トニーマは、鼻が横に広がっていて、片方の鼻の穴だけでも4匹くらいハエが入りそうだ。また、目は八の字にたれていて、目はごま粒2個分くらいしかなかった。
 私たちの席は、ほかのテーブルとは仕切られた別区画になっていて、レースのカーテンで仕切られていたから、変なことされてもだれにも見られない。
 そして、お料理が出てこない、全然。
 時間をもてあまして仕方がない。そんな状況で沈黙が続いていたので、私は、トニーマがこちらに寄って来るのではないかと心配になってきた。
「お料理、遅いですね」と言うと、大理石の床をスルスルと素足で歩く音がして、やっとウェイトレスが来た。やった、やっと料理が来た。
「失礼します」と言いながら、ウェイトレスがテーブルに置いたのは、瓶ビールとグラス、それにほんの少しのつまみだった。
「もう、どうしてこれだけしかないの。場がモテないわ」と思いつつイライラした。
トニーマは、「飲みなさいよ」と言いながら、私にグラスを持たせていっぱいに注いだ。
 私も慌てて注ぎ返した。乾杯でもするのかと思っていたが、勝手に一人でグラスを傾けた。「どうしてそんなーー」と驚いた。
 次の料理が来ない。間が持てない。トニーマはなにも言わない。仕方なく、私が
「ところで、トニーマさん、いままだ大学生ですよね。勉強大変でしょ。たしかジャカルタの大学に行かれているんですよね」
「ああ、ジャカルタの国立大学で経済学部をやっているよ。勉強は大して難しくない。」
「経済学部ですか?難しそう。その分野に興味があるんですか?」
「別にないけど、私の成績から入学できそうなのがそこだったからね」
「じゃあ、将来はお父様のご商売をなさるのですか?」
「いや、どうだろう。なにも考えてない。何もしなくても親父が金くれるからね」
「将来の夢みたいなのはないですか?」
「親父の仕事をすることかな?」
「それで、もうお席が用意されているんですね。いいですね」
とユリアティーは、嫌みのつもりで言った。
「そう、おれには何もかも用意されている」
「はあー」と思わず声が出そうになった。全く甘えすぎて大きくなったに違いない。
 もう帰りたくなった頃に、お料理が次々に出てきた。今さら出されてもしらけてしまって嫌だ。そう思いつつも、なにも食べないとなると、後で私の親が先方から嫌みを言われるのだろうと思って、仕方なく出された料理を口に運んだ。
 パクパクと口を動かすだけだった。意地悪なことに食べたつもりなのに、テーブルの上のお料理は少しも減らない。
 そして、またトニーマは私のビールグラスにビールを注ごうとした。
 私がグラスをわざと持たないでいると、「どうして受けないんだ」と大声を出した。気がつくと、私のすぐ横に立っていて、今にも私の肩を抱こうとしていた。『はあー、何しているの?』と思い、「どうしたんですか?」と咎めた。
 トニーマは何を考えているんだろう、私が厭がっているのに、さらに私の横の席に移ってきて顔を近づけてきた。口から口臭が漂ってきたが、その臭いは州都デンパサールの場末の食堂に捨てられた食べ残しの魚が腐ったような不快な臭いだった。私は思わずぞっとして、急いで椅子から立ち上がった。
 それなのに、トニーマは「どうしたんだ?」と言いながら、私の肩を抱きかかえるようにして、再び椅子に座らせた。その瞬間に、トニーマの脇のあたり強い体臭が臭ってきた。ジャカルタであらゆるお肉を食べているに違いない。バリ人はお肉は鶏肉くらいしか食べないから、こんな体臭はしない。トニーマは、ジャカルタで好きなものをたらふく食べ、運動もせず、ぶらぶらとだらしない生活をしているに違いないと思った。
 約束の午後3時が来て、「お約束の時間ですから、これで失礼します」と言い置いて、私は走るようにそこから逃げてきた。

 
 トニーマとの間で、あれだけ嫌なことがあったので、ユリアティーは溜まらなくなり、幼ななじみのガミーラに相談することにして、親が持っている山中のライステラスの東屋に呼び出した。ユリアティーの不安の渦巻く心中にもかかわらず、東屋には水を張った水田で作られたさわやかな風が吹き抜けていた。棚田には水が張られ、この日は雨期にしては空気が乾燥して心地よい風が東屋を吹き抜けていた。
 ガミーラは、ユリアティーが婚約者のトニーマをいやがっていることを知っていた。
「どうしたのユリアティー?また、彼とのことで嫌なことがあったの?浮かない顔しているけど?」
「そう、昨日はひどかったわ。レストランに呼び出されたけど、いいことはなにもなくて・・・」
「でも仕方ないじゃないの?親同士は乗り気なんでしょ。結婚して子供ができれば夫なんか関係なくなるらしいわよ」
「そんなこと言っても・・・あたしトニーマとは一秒だって一緒にいたくないわ。ああ、もうこんな状態で結婚なんてできるわけがないわ」
「全く、あなたは恵まれすぎているのよ、親が決めた婚約だと言っても、男の方にお金さえない場合だってあるんだから、いいじゃない、トニーマはお金があるんだから」
「そんな!一秒だって一緒にいたくないのに、結婚して一緒の家に住んで、抱かれて・・・ましてやそんなに嫌いな人の子供を育てるとか考えられないわ」
「でも、それもアグン山の神様が決めたことかもしれないじゃない?全ては運命の巡り合わせよ。因果とも言ってもいいんじゃないの?」
「嫌よ、絶対に嫌よ」
 ガミーラは、今のユリアティーにはとりつく島もないと思って黙ってしまった。出してもらったアイスティーのグラスの露が固まって下に集まりだした。風が止まり、むっとする暑さが水田から吹き込んできた。
 アイスティーを二口飲んだガミーラは、もしかしたらという顔をして
「ユリアティー、あなた好きな人ができたんじゃない?それも相当好きな人が?」
「・・・」
「言っちゃいなさいよ、言ってしまわないと苦しくなるわよ」
 ユリアティーは、両手を握りしめて、「うん」と深く頷いた。
「やっぱり。どんな人?バリ人?それとも?」
「日本人の大学生なのよ。」
「へええ、留学生?」
「じゃなくてアルバイト先で知り合った人よ」
「うん、それじゃあ、ユリアティーが悩むくらいだから、相当格好いいのかな?背は高い?顔は細い?太い?筋肉質?それともやせ形?」
「背は私より10センチくらい高いわ。顔は細くて長いかな?筋肉質じゃないけど、どちらかというとやせ形かな?」
「へえ、いいじゃない」
「もう勝手なこと言って!」
「それで、もうキッスくらいしたの?それともそれ以上したの?」
「・・・」
「言いなさいよ、言わないと全てやったと思うわよ」
「もうキッスだけよ」
「へええ、そうなんだ。いいなあ」
「もう人ごとだと思って勝手なことばかり言って」
「でもねえ、日本ってさあ、私たちから見たら、さぞかしいいところみたいだけど、インドネシア人が行くと大変らしいよ。最近看護師とか日本で受け入れてくれるけど、周りの日本人は冷たいらしいよ。それで半分は帰ってきてるって。だからさ、結婚は相手の男だけじゃなくて、親のつきあいとか生まれてくる子供のためにいい環境を作ってあげられるとかが大事になるんだから。ねっ。もう少しの辛抱じゃないの。悪いこと言わないわ、いまの婚約者とそのまま結婚してしまいなさい。第一、3か月後日本人の彼氏がまた来てくれるかどうか、分からないでしょ」
「うん、それもそうだけど・・・」

 その頃、日本で就職面接を翌日に控えた剣人は、ユリアティーにメールを丁寧に書き込んでいた。

そして、日本へ

 第5章  「そして、日本へ」

 その頃、日本で就職面接を翌日に控えた剣人は、ユリアティーにメールを丁寧に書き込んでいた。
 『ユリアティー、どうしている?これまでのぼくは、大学4年生というのに就職活動もせず、だらだらとした大学生活を送っていた。けど、ユリアティーに会ってこのままじゃいけないって思って。そしたら、教授から『大手の商社の面接を受けてみないか』と言ってもらった。ぼくはこれに絶対に受かってみせるよ、そして、就職を決めてからユリアティーを迎えに行きたい。絶対に。必ず行くからね。いますぐにでも会いたいけど。元気で』
と翻訳プログラムを使って易しい英語に変えた。
 これで伝わるだろうか、自動翻訳だと本心が伝わらないかもしれない。そう心配しつつ、送信した。
 明日の面接で何を聞かれるんだろう。骨のある学生が欲しいっていうからには、海外旅行の経験を言った方がいいのではないか。ぼくはユリアティーに会って初めて生きがいというか、誰かのために本気で生活を立てていくことを考え始めた。そう人生に勝負をしている気持ちにさえなっている。ぼくのいいところっていえば、そのエネルギーの強さ。それから何だろう、トーイックの成績だけは、900点取っている。これは高校生の頃からの信念だった。大学に入学するための学力ではなく、アメリカの実際の生活で役に立つ実際的な力を付けなければ意味がないと思っていた。これは売りになるだろう。ほかには何があるだろう、ぼくだけにしかないような実力って何があるだろう。骨がある若手というイメージに合うようなことって何があるだろう。ぼくはどちらかという口べただから商社に向いていないと言われそうだし。

 昨晩は緊張と不安からよく眠れなかった。しかし、既に戦いは始まっていた。ぼくは今面接官3名を向かいにおいて、ぼくなりに丁寧に応答してきたつもりだ。面接が始まって10分が過ぎようとしている。
「商社というのはそんなにきれいな仕事ばかりじゃないですよ。社内的にも社外的にも難しい人間関係をうまく切り抜けなければいけない。ところで、君は海外旅行をしたことがありますか?」
 やはり聞いてきた。就職面接で沈黙を作ってはいけないと言われている。
「はい遅ればせながら、最近インドネシアのバリ島に約3週間行って参りました。いろいろな経験をしてきましたが、ウルワツという寺院そばの舞台で見たケチャダンスは、シーンも素晴らしく最高でした。」
「ほう、そうですか?例えば、現地で友達を作ったりしましたか?いや商社マンとしてはどんなところに行っても、社交的なところが要求されるのでね、どうです、友達はできましたか?」
 友達を作れたと話した方がいいに決まっているが、彼女を作ったかどうかまでは、軽々に答えられないなあ。
「ええ、英語でのコミュニケーションで現地の同年代の人と友達になれました。」
「ほう、そうですか?そのやり方は?」
「ええ、お互いに知っている英語の単語を並べて、あとは身振り手振りで」
「うん、いまは身振り手振りでもいいでしょうが、商社の仕事となるとそれでは大変なことになりますよ、言った言わないで」
「それはもちろんです。これからさらに力を付けて行きます」
「いや、まだあなたをこちらで取るかどうか決まっていませんけど」
と言って、笑うでもなく試すような目線を送ってきた。ぼくは即座に
「あれ、採ってもらえないかもしれないんですか?足りないところを言っていただければ1か月で、その能力を補います、絶対に」
「うーん、そうですか?どうしてもうちに来たいですか?」
「ええ、絶対に」
「その理由は?」
「佐藤忠商事だからです。それに私は今こそ私の力を全力で出したいと思っています。人には力を出すべき時期があると思います。私としては今がそのときです。そういう時期に、御社にご縁ができたということは、はやりただならぬ縁を感じます。どんな仕事でもやります。」
「例えば?」
「そうですね。命令されることであれば、例えば商談の交渉相手の好みのお酒、お土産、好みの食事等々、事前にご自宅をそれとなく覗いてでも調べ上げて・・・」
「はははーいまどきコンプライアンスにひっかるかもですよ、でも分かりました、あなたの熱意は。それに・・・」
「それに?」
「それに、これからは年配の男性と親しくなるように努めないといけないですね」
「はい、わかりました。ありがとうございます。私はきっと普通の大学生とは違うと思います。ですが、私は性格分類法として有名なエニアグラムの『9つの性格』のなかの「第3の性格」でして、結果を出すためにあらゆる工夫をするし、そのためにあらゆる情熱を発揮できるタイプです。必ずお役に立ってみせます。」
「熱が入ってますね、ところでご家族は?まあ差し支えなければで結構ですが?」
「ええ、母が最近亡くなりました。父はぼくが幼い頃にもう・・・それで私には父母がおらず、転勤など海外どこへでもOKです」
「そこでも売り込みですか。頑張りますね」
「はい、どうしても採用いただきたいもので」
「じゃあ、終わりました。結果はU大学の方に後日通知しますので、お疲れ様でした」
「ありがとうございました」

 10日後、剣人の元に佐藤忠商事から封書が届いた。
 中を開けると、そこに「採用内定しました。つきましては・・・」との記載があった。
 剣人が、心臓から発した喜びが頭頂部を突き抜けるほどだったのは、当然だった。
 さっそく、ユリアティーに「合格したよ。佐藤忠商事ってインドネシアにも支店がある商社だよ」という短いメールを送った。
 翌日には、ユリアティーからその返事が来ると思ったが、返信が届いたのは、3日目のことだった。
「おめでとう、でもやはり、私はやはり剣人に会えないかもしれない」
 なんだって、何故なんだ、これで全てうまくいくと思ったのに。フィアンセ側からの妨害か?それなら、早く僕がバリに行ってユリアティーを助け出せばいいんだ。
 ユリアティーの持っている携帯では日本からの電波が受信できなくて、通話ができない。だから、もどかしいスピードのメールでやり取りするしかない。
「なんで?困っているなら、すぐにでもぼくがバリに行くよ。そして、そのまま日本に一緒に来いよ」
「・・・」
「・・・」
 返信が遅い。でもそれはユリアティーのせいじゃない、せいじゃないけどユリアティーのせいだと思ってしまいそうだった。やっときた。
「本当にバリに来てくれるの?」
「行くよ」
「それはなんのため?」
「決まっているじゃないか、ユリアティーに会うためさ」
「ありがとう、本当に来てくれるのね?」
「いつ、来てくれる?」
「今から1週間後の11月3日でどう?」
「いや、ちょうと早いかな?11月10日ころでは?」
「分かった。じゃあ、シンガポール経由のチケットで11月10日夜デンパサール空港に着くようにするよ」

 それからの2週間、剣人は、佐藤忠商事内定後の書類作り、卒論の準備、貴島教授が催してくれた就職内定の祝賀会などで忙しく過ごした。おかげで、ユリアティーとのメールのやり取りはなかったが不安を感じるひまもなかった。そして、11月10日、関西国際空港発のシンガポール経由の便でデンパサール空港へと飛び立った。

 チャンギ国際空港を使うシンガポール航空を使った場合、乗り換えの待ち時間は平均1時間から2時間。場合によっては30分という短さで、乗客が走らされる場合もある。それに、インドネシアの通信状態が悪かったので、ユリアティーとの間で、肝心の待ち合わせ場所を決めていなかった。ぼくは、乗り換えの時間に空港内のインターネットパソコンを見付けて、ユリアティーからのメールが来ていないかとメールボックスを開いた。1通のメールが来ていた。
『剣人、早く会いたいわ。私が友達とデンパサール空港まで迎えに行くわね。荷物少ないよね?気をつけてね』
 メールを見て安心した。これで確実にユリアティーに会える。でも「荷物は少ないよね?」って何の意味だろう。分からない、分からないことは考えないようにしよう。チャンギ空港からバリデンパサール空港までは1時間半だ。大阪からシンガポールまで6時間かかることに比べると短く感じた。「皆様、当機はまもなく着陸態勢に入ります。シートベルトを・・」の機内放送を聞いて、それからは流れるように預け荷物の受け渡し場所まで行けた。大きめのリュックサックを受け取り、大きな自動扉のゲートを抜けて、両脇に、銀行の窓口のような造りの両替商が立ち並ぶ通路を通り抜けると、送迎客を待ち受けるタクシー、ホテルの送迎係、バリ人の旅行ガイドたちが、アリの子のように待ち並ぶいわゆる送迎エリアがある。
 ぼくは、ガラス張りの両替商に挟まれた通路を軽やかに歩きながら、その先の送迎エリアで待つユリアティーを想像した。
 「スラマシアン、ミスター田中?ホテル○○です。」、「はーい、こちらHISです。○○さん、お待ちしてます」と騒がしく待ち人を探す声が聞こえてきた。あと4メートルで送迎エリアだ。ちょうどそのとき、ふと気がつくと、両替商のカウンター横に立っていた女性がすーっとぼくに近づいて来るや、ぼくの左脇を掴んで引っ張った。「スラマシアン、黒田さん?ちょっと付いて下さい」というや両替商の扉を開けて、ぼくを中に引き込んだ。「あれあれ」と思っているうちに、両替商のさらに奥に作られていた扉を開いて、そこに引っ張っていった。ぼくは拒むヒマもなく、そのままその女性に連れていかれた。両替商の奥には、両方を壁に囲まれた長い通路になっていた。
「えっ誰?誰だ?お前は・・・」
「心配しないでユリアティーに頼まれているんだから。すぐそこでユリアティーが待っているから。」
「ユリアティーの友達?」
「そうよ、もちろん。送迎エリアには嫌な奴が待ち伏せしているみたいなのよ」
 通路の行き止まりに扉があり、そこは鍵もかかっていなかった。
「さあ、ここを出て。その先の建物の陰で待ってて、すぐにユリアティーが来るから」
というやその女性はもう一度通路の入って早足でどこかに行ってしまった。
 扉の外は、空港スタッフ用の駐車場だった。外はバリの暑さがひどかった。日本を出るときは11月だったから、昼間の気温は17度くらいだった。でもバリは年中夏だから、この日も30度はあった。
 ぼくはリュックから帽子を取り出して、顔が目立たないようにと深くかぶった。ユリアティーはどこから現れるんだろう。さっき女性が入っていた扉からだろうか、と思い、その扉を再び見た。扉が動く気配はなかった。それで、視線を移して遠くを見た。遠くの大空にカイトが上がっていた。ぼくの立っているところから40メートルくらい先に幹線道路があり、車やバイクの往来が激しかった。左方の端は空港のゲートがあった。そして、真正面には駐車場の出入口に繋がる誘導路があった。
 ちょうどそのとき誘導路に一台のバイクが走っていて、この駐車場にやってきそうだった。ヘルメットをかぶっていたが、近づくにつれてそれが若い女性だと分かった。足も長くて、ヘルメットの下の方から髪が流れていた。駐輪スペースはもっと遠くなのに、そのバイクはドンドンこちらに近づいてきて、僕の目の前に止まった。ライダーはヘルメットを取り始めたが、そのときその髪の長さから、それが
「剣人、お待たせ。バイク運転できる?私後ろに乗りたいわ。ヘルメット2つあるから」
ユリアティーと分かった。
「なんか、すごく格好いいよ。」
「あら、バリではバイクは生活の必需品よ。女の子でもバイクに乗れないと、買い物も仕事もできないのよ」
と言いながら、ヘルメットを僕に渡した。バイクはスズキの125CCくらいだった。これくらいなら、乗れるだろう。
「私、大学構内で誰かから付け狙われいるのよ。それに変なメモもバッグに入っていたわ。でも詳しくは後で話すから、とにかく急いで出発して」
「分かった」
 ぼくはリュックをユリアティーに担がせて、バイクの前席に座り、後ろにユリアティーが座ったのを感じて、右足で蹴ってエンジンをかけた。クラッチの状態を右足つま先でチェックしてなんとか運転できそうだと、出発した。誘導路から10分くらいは直線の幹線道路を慎重に運転した。
「ユリアティー、これからどこに行くの?」
「ああ、ゲストハウスを借りたわ。あのまま剣人が送迎エリアから予約したホテルに行ったら誰かに捕まっていたわよ、きっと」
「そんなに酷いのか?」
「そうよ、日本とは違うのよ。だから、さっきから私ときどき後ろを見ているのよ、怪しいスズキの車が付けてこないかなって」
 通りで、さっきからときどきバイクのバランスが崩れると思ったら、ユリアティーが身体を揺すって後ろを見ていたからだったんだ。
 幹線道路は2車線だ。右側をすれすれに車が追い越していきそうになる。それにバイクだって無理して追い越していく。車が途切れたりすると、後ろから追いついたバイクがぼくらと並進する。それも1台だけじゃなくて、2台、3台と平気で並進する。日本では2台並進しても危険運転として道路交通法違反になる。ユリアティーがゲストハウスを採ったって言っていた。改めて、ぼくらは本当に次のステップに入ったことを知った。もう子供じゃないんだ。ユリアティーを守らないと。バイクの速度を落としたとき、後ろかが突風が来て、ユリアティーの髪がぼくの顔にかかった。柑橘系のシャンプーだろうか香水だろうか、その香りの心地よさがぼくに勇気をくれた。
「ああ、もうすぐ脇道に入るから、アスファルト道路じゃないけど、大丈夫?」
 がんばろうと思ったとたんに、僕を試すような道路がやってくるのか?
「いや、大丈夫だよ、たぶん」
 アスファルト道路から脇道に入ると、とたんに道が酷くなった。しかもスピードを出せない。なおさらバランス感覚が必要だが、なんとか切り抜けた。
「付いたわよ。このうちの奥がゲストハウスになっているのよ」
 ぼくは、バイクをドンドン敷地の奥まで入れていった。すると、一番奥にこじんまりとした2階建てのアパート仕様の住居があった。「2階の奥だから。先に行って部屋の空気入れ替えておくわ」
 僕はアパートの脇にバイクを止めてユリアティーが上がっていった2階へと行った。そして、奥の部屋に入った。
「結構広いんだ。ソファもベランダもある」
 ぼくらは、ソファに座る前に目が合った。お互い同じことを考え、戸惑った。けれども、やっと二人きりになれた感激が高まったのは同じだった。抱きしめ合い、唇を重ねた。
 長いキスの後、ポットに湯を沸かして、ユリアティーがバリコピーを煎れてくれた。
「それで、本当に誰かに付け狙われていたんだね。」
「そうよ、メモには『そのままバリにいろ、まさか日本に行くんじゃないだろうな、バリから出られないように、いつも見張っている』って書いてあったわ。そして、その封筒の中に写真とこんなものが入っていたわ」
 写真を見たら、ぼくとユリアティーが公園を歩いているところだった。それに、ユリアティーは、コロンと手から小さな金属の粒をテーブルに落とした。
 それは、出来の悪い拳銃の弾に見えた。
「これ、まさか本物?」
「さあ、金属の弾は本物かどうかは知らないけど、写真は本物よ。私と剣人がしっかり映っているわよ。」
「ひどいなあ」
「私、やっぱり怖いわ。」
「バリって治安はいいんじゃないのか」
「それは、バリには大きなマフィアはいないけど、オーカーは裏社会とも顔が繋がっているらしいわ。だから、オーカーがマフィアに金を渡せばどうにでもなるわ」
「写真は、すでにマフィアが動き始めたって証拠?」
「それはないと思うわ。尾行くらい誰だってできるわ」
「でも、どこかで歯車が狂えば、ぼくらは明日にでもこの世にいないとか?」
「さあ、どうかしらねえ、あるかもよ」
「それでどうしようと?」
「どうしてくれる?私を?」
「守るよ!」
「どうやって?」
「だから、守るって」
「インドネシアの若い女性は日本に行くのにビザがないわよ」
「・・・」
「もしかしたら、マフィアと打ち合いになるかもしれないから、拳銃もいるかも?拳銃持っている?」
「・・・」
「逃避行になったら、バリ島の奥地で私をおんぶして一山越えてくれる?」
「・・・」
「あれ、できないの?」
「いや、できるよ」
「ふうふうふーー」
「もしかしたら、オーカーかトニーマがこの場所も突き止めていて、明日にもで逃避行しないといけないかもよ?」
「・・・」
「大丈夫よ、剣人って嘘付けないのね。一生懸命考えてくれるのが嬉しいわ」
「私ね、もう待てないと思って。つまり剣人が私の両親から結婚の承諾を取るなんて絶対ムリって思ったから、日本に行くために留学することにしたのよ」
「えっ本当?」
「そうよ、こんなことで嘘ついてどうするの?だから、私パスポート採ったのよ。留学するからと言って。ほら見てええ」
 そう言ってユリアティーがバッグから取り出したのは、緑色の日本のパスポートと同じサイズのインドネシアのパスポートだった。ユリアティーから受け取ると、中にちゃんとユリアティーの顔写真が貼ってあった。
「だから、私は明日か明後日にもでデンパサール空港から日本に行くのよ、嬉しい?」
「嬉しいよ。嬉しい。ホントに」
「よかった。じゃあ、明後日、私予約しているから、剣人も予約していいかな?」
「もちろん」
「じゃあ、後で予約の電話するわね」
 飲みかけたバリコピーを啜りながら、気になることを話し始めた。
「ぼくらがオーカーかトニーマに見つかるとどうなる?」
「さあ、本気ならどこかに売られるってこともある。バリ島では聞いたことないけど、東ティモールで起こっていた内戦のときなんか、キッドナッピングって言って、戦地で人がさらわれて人身売買されたという噂さがあったわ。若い女は身を売られて、子供は殺されて臓器を取り出されて・・・」
「臓器売買ってことか、ぞっとするな」
「あり得るわよ」
「・・・」
「今からでも、私が親を通じてオーカーに『結婚は間違いない』って言えばそれでなにも起こらないわよ。それですべてが終わり。私たちも。そっちがいい?そして、剣人はいずれ日本人のお嫁さんを貰う」
「いまさら、ばかなことを言うなよ」
 ユリアティーの目を見たら、その目には悔しさが宿っていて、一つ二つと涙がこぼれて来た。
「私、怖いわ」
 いまさら後に引けるわけがない。こんなにぼくを頼ろうとしている美人が目の前にいるというのに。もしかしたら夢が叶うかもしれないというのに。ユリアティーが来るっていうからには、ぼくもひたすらに前に進むだけだ。
「悪いこと考えるのは止めて、酒でも飲もう?」
とユリアティーの目を見ながら同意を求めて、ぼくは冷蔵庫から缶ビールを出してきた。
 放心状態のユリアティーはぼくの言うとおりに手を動かしているだけだった。
 ぼくがふたつの缶のプルを立てて缶のまま
「じゃあ、ぼくらの10年後に!乾杯!」
とやったがユリアティーの缶には力がこもってはいなかった。それでもう一度「乾杯!」というと今度は、力が込められていて、缶が割れそうなくらいに大きな音がした。
 飲んでいるうちに、ユリアティーが元気になってしゃべりはじめた。
「ねえ、私さあ、剣人のためにプレゼント持ってきたのよ」
と言いながら、自分のバッグの中から紙包みを取り出してきて、それをぼくに差し出してきた。それは、使い古しの新聞紙に心込めて包み込まれていた。丁寧に止められたセロテープを一つ一つ剥がしていくと、最後に両手くらいの幅で、それと同じくらいの厚みがあるお面が出てきた。お面の人相は、日本で言えばカラス天狗のような形で、鳥と人間の中間のような様相だった。そして、ユー蒸らすなユーモラスなのに不思議な魔力を備えていた。
「これって、もしかしてガルーダ?」
「そうよ、でも彫り物師に頼んで、目だけは剣人の目にしてもらったのよ、ほら目は剣人みたいに、可愛いわよ」
「可愛いってそんな?でもありがとう、嬉しいよ」
「そうよかった、私と思ってリュックの奥に入れておいてよね。なくしちゃあだめだよ」
と言いながら、最後にお面にキッスをしてから、自分でぼくのリュックにしまい込んだ。
ぼくらはソファーに戻ってゆったりと座り直した。改めて二人で座ると、ソファーは少し小さめで窮屈だった。アイフォンを見たら、午後11時だった。バリの夜は昼間に比べたら、ずっと涼しくなった。乾いた風がベランダから吹き込んできたが、椰子の葉の欠片も飛び込んできた。ぼくはゆっくりとユリアティーをこちらに引き寄せた。軽く唇を重ねた。そして、もう一度アイフォンを見た。
「時間を気にするのは止めなさい、ここはバリだから。ここではどんなときでも、時間はゆっくり進むのよ」
 そう言うや、ユリアティーがぼくの首にしがみついてきて、ユリアティーの甘く、少し汗ばんだ匂いが鼻をくすぐった。それから、時間を忘れて抱き合った。ぼくはユリアティーの身体の隅々に宿る不安の種を口で吸って消し、その場%

次のフライトは?

 ウルワツの恋 第6章 「再びのフライト、そしてケチャダンス!」

 繰り返した抱擁から、ようやく疲れが出て眠ったのは、東側の窓が少し白くなり始めた頃だった。
翌朝、目が覚めると、ユリアティーが顔色を変えて、まだベッドに寝ている僕に近寄ってきた。「どうしよう、剣人、いまシンガポール航空に電話したら、結局、剣人が乗る飛行機は、シンガポールからの接続が悪くて、私が乗る便の一つ後になるからって。シンガポールチャンギ空港で、私たちは離れ離れになるわ。つまり私が先に日本に行ってしまうってことよ」
「うーん、でもどうにもならなんだろう。」という言葉が機械的にぼくの口から出てきた。
 やっぱりだ、やっぱりなにかが起こると思っていたら、その通りだった。
「そう、何度も頼んだけど、やっぱりだめだって。だから、私たちはデンパサールからチャンギまでは一緒だけど、私がさきに関西空港行きのSQ124便で大阪に着き、剣人はその後のSQ136便だって」
「まさか、チャンギ空港までオーカーとかが追ってくるわけでもないだろう」
「分からないわ、私がチャンギ空港のトイレで拉致されるかもよ」
 そんな冗談はやめて欲しいと思いつつ
「まるでぼくらはケチャダンスのシータ姫とラーマ王子の辿った運命を繰り返しているみたいだなあ。」と言った。
 ユリアティーは
「そうかもね」と言ったのでぼくが
「でもケチャダンスの通りなら、シータ姫とラーマ王子は結ばれるから、ぼくらは大丈夫じゃないのか」と楽天的になるといういう気持ちでユリアティーに言ったんだ。
「でも、ケチャダンスの原型のインドのラーマーヤナ物語の結末は違うのよ」
「どう違うんだ」
「つまり、古代インドのラーマーヤナ物語では、ラーマ王子がシータ姫の純潔を疑うのよ、そして、シータ姫は純潔を証明するために、大地の底からグラニー女神を呼んだの」
「それで?」
「めったに出てこないグラニー女神だったけど、シータ姫の願いが強かったから、出て来たの。そして、出現することでシータ姫の純潔を証明したのよ」
「じゃあ、よかったじゃないか」
「違うわ。グラニー女神が出てきて、シータ姫の純潔は証明されたけど、なんとグラニー女神は立ち去るときに、シータ姫も大地の底に連れて行ってしまったわ」
「まさか?シータ姫は二度と出てこなかったとか?」
「そう、そのとおり」
「なんてことだー。ぼくらは、やはりマフィアの手先につかまって、果ては心臓と腎臓を取り出される運命になっているかも?あるいは、ぼくだけが生き残ってラーマ王子みたいに、さらわれたシータ姫をずっと恋しがる残りの人生になる?」
「まさか!」
「おい、ユリアティー。チャンギ空港でトイレに行くなよなあ。」
「分かったわ、でも大丈夫よ、きっと。私は剣人が来てくれるまで、毎日バリの神様に祈っていたのよ。アグン山の神様に。それにガルーダの神様にも」

 そんな不安を抱えながらも、まずできることからやっていくしかないと思い、ぼくらは125CCのスズキのバイクで、デンパサール空港へと向かった。道路はぼくらの心の状態とは無関係に、痛いような日差しの中で、溢れかえるほどのバイクとスズキの車で溢れていた。
 そして、ぼくとユリアティーは、また例の両替商の扉から空港内に入った。受付カウンター脇の自動チェックイン機で、ぼくがチェックインを済ませ、チケットが排出されてほっと一安心した瞬間、ユリアティーの気配がなくなっていることに気付いた。
「ええ。。」
 ぼくは後ろを見て、あたり一帯を必死で目で追った。すると、チェックインカウンターの端の通路へと人影が消えて、消える直前に手だけが見えたような気がした。
「???」
 ゆっくり考える暇はない、追いながら考えた。チェックインカウンターから10メートル必死に走ると、手が消えた奥には長い通路があり、そこにユリアティーらしき人物が男性3人くらいに両腕を摑まれて小走りに走っていた。
 扉が開かないのか、そいつらは通路から外に出られないようで、その間にぼくはそいつらに追いついた。男性のうちのひとりがぼくに殴り掛かってきた。必死にもがいていたのはやはりユリアティーだった。そして、その瞬間、ユリアティーは摑まれていた手を振りほどいた。
「おまえらはだれだ?」
「トニーマよ、この太ったいやらしい男は」とユリアティーが叫ぶような声で言った。
「おい、日本人め、こんなことをして逃げられると思うなよ」とトニーマが怒鳴りながら、もう一度ユリアティーを捕まえようとした。その頃、この騒ぎに気付いた空港スタッフらしき一群が「ちょっとなにをしている?」などと言いながら、こちらに近付いてきた。
 ぼくは、トニーマに向かって「悪いけど、ユリアティーはぼくが幸せにするから」と言い返した。怒ったトニーマは、「この野郎!」と怒鳴り、ぼくを睨み付けた。そして、右手を振り上げてぼくに襲いかかろうとしてきた。振り上げた右手を見ると、そこに光るものが見えた。光るものが振り下ろされるのが直感的にわかり、ぼくはそれから逃れようと瞬間的に、リュックを盾にして光るものがこちらに向かってくるのを遮った。リュックに重い衝撃を感じたが、なにかの金属がリュックの中の固いものに突き刺さった感触があった。
「この野郎、離せ」とトニーマが言い出したかと思うと、その頃、「止めろ、止めないか」という男性の制止する声がいくつも聞こえて、空港警備員らしき人たちがトニーマを取り押さえた。
『なんてことだー。刃物でぼくを刺してくるなんてーー』と今の事態を感慨していると、ユリアティーが「よかった、無事なのね。けがしてないのね」と涙声で言いながら、ぼくに近付ついて来た。
 僕らも事務所に一応同行したけど、ユリアティーが「お願い、私は留学するために、次の便で日本に行かないといけなんです。こちらの男性がフィアンセです。彼に悪いところはありません。」などと必死に言ってくれたおかげで、空港職員から「いいだろう、悪いのは日本人に殴り掛かったバリ人だから、後日警察に出頭してくれ」として、早々に解放してくれた。

 ぼくらは、シンガポール行きのSQ機に乗り込んだ。一段落したところで、ユリアティーが
「まるで、逃避行ね」
「全くその通り」
と答えながら、出てきた汗を拭くために、ファイスタオルを取り出そうと、上部の棚から下ろしたリュックの中をさぐった。すると、タオルの下に割れたお面があった。それを見たユリアティーが
「ああ、このお面が剣人を助けてくれたのね。まあ、よかったわ。それに、剣人にそっくりのお目目はつぶされていないわね」
と言ったので、よく見たら、そのとおりちょうど眉間のあたりで割れていたが、眼部は無傷だった。
「この目は、ほんとに剣人の目に似て、可愛いわ」
 ぼくは、こんな場面でも無邪気になれるユリアティーのたくましさに驚き、苦笑いするしかなかった。

 シンガポールチャンギ空港に無事到着した。
 ぼくは、リュックの中のお面で命拾いをしたから、きっとその後もアグン山の神様が守ってくれるだろうと思った。シンガポールチャンギ空港は建設当初からビッグな国際空港として有名だった。それに年々自動化が進んでいるらしく、乗降客の流れはオートメーション機械のようだった。ユリアティーを見送った後、ぼくはその機械の流れのようにユリアティーは無事関空に到着し、そして予定とおり最初の待合室でぼくを待っていてくれるだろうと思った。
 
 よりによって、機内でシートに座って映画を選ぶとき、機械的に「ゴジラ」を選んでしまった。ゴジラ登場の「ぱぱぱん、ぱあぱぱん、ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱぱぱぱぱぱぱん、」というBGMは腹にズシンと響き渡りなにか恐ろしくて巨大なものが出るに違いない、という音楽だった。
 それに、ユリアティーとバリで見たときには気付かなかったことに気付いた。見ているうちに、ゴジラの咆哮のすさまじさにこころを揺さぶられた。映画の力点は、大自然からたちがあり、原子爆弾の威力さえも飲み込んで、これをエネルギーにして巨大化して生まれたゴジラという存在だった。それは、アメリカの映画哲学が日本化したのではないかと。
 つまり、アメリカ特にハリウッドはキリスト教原理主義がベースにあるから、人間は自然を支配している関係にある。けれども、ゴジラという大自然の不可思議な力は、人間の最先端の科学力が生んだ原子爆弾というものを飲み込んだのだ。だから、ゴジラは、そして、ハリウッドは日本の文化と親和して近付いたと思わざるを得なかった。
 そんなことを思いながら、関空に到着後、通路を歩きながら、目先10メートルに待合室が見えてきた。『いるんだろうか、ユリアティーはもしいなければこれまでのことがすべて水の泡だし、ユリアティーを不幸にしたのはぼくということになる。これでよかったんだろうか』と不安が渦巻くのを止めることができなかった。
 全体の流れは順調なのに一つの歯車が狂うことはあり得て、その歯車の崩壊に心を引きつけられることがある。剣人には今がその時だった。
『ぼくは・・・ぼくは・・』
 待合室には長椅子が6脚、7脚と見えて来たけど、座っている人はいないようだ。
 「ユリアティー、どこにいる?」
 「ユリアティー、どこにいる?」
と2回声に出した。なぜか、「ぱぱぱん、ぱあぱぱん、ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱぱぱぱぱぱぱん」というゴジラのBGMが頭の中にコダマした。
 さらに、「ユリアティー、おれはいま着いたよ」と最後に出した声は、抑えられない思いから、ぼくの周りにいる人たちが、はっと驚いてぼくを見た。
 なんの返事もなかった。ぼくはうしろ、まえ、さらに右左と必死にユリアティーを探した。
必死に探した。なにも起こらない、ないも。
 そのとき、後ろから「DO YOU LOOK FOR SOMEONE?(だれかお探しですか?)」と女性の声がした。剣人は振り返らなかった、故意に。もう一度、その声がかかるのを待った。
DO YOU LOOK FOR SOMEONE?剣人?
 間違いない、高くてボリュームのある声、間違いなくユリアティーだ。ゆっくりと振り返り、そこにある嬉しそうな笑顔を見た。その笑顔の大きな両目から、ポロポロと涙が落ちてきていた。
 ついに、日本で二人とも帰ってきた。本当に生きて帰ってきた。
と二人で感激し合って、通路にお客があふれ出したというのに、周りも見ずに、思い切り抱き合ってしまった。
「やったねえ、来たねえ、無事に日本に来たねえ、二人とも」         
「やったねえ、来たねえ、無事に日本に来たねえ、二人とも」
と二人の声は自然と合唱になってしまった。

(1年後)     
 朝の出勤前の慌ただしい時間。剣人はテーブルの上に、飲み干したコーヒーカップをゆっくりと置いた。開け放った窓から、一陣の風が数枚の椰子の葉とともに吹き込んできた。
「剣人、今日仕事何時に終わる?何時ころ、帰って来れる?今日、私、ダンスの発表会だけど、見に来れる?」
「ああ、大丈夫だよ、ユリアティーの両親も来れるかな?」
「うん、来てくれるよ、ウブドウからサヌールまでは1時間半だから、夜の発表会なら間に合うよ」
「それが終わってから、ご両親と一緒に食事に行くんだね」
「分かったわ。じゃあ佐藤忠商事デンパサール出張所からサヌールまでは1時間だから、午後7時には間に合うよ」
「じゃあ、待っているわね」
 
 ユリアティーからの電話を受けてから、ぼくは残った仕事を急いで終わらせにかかった。
 あれから、ぼくは大学を卒業した4月に、佐藤忠商事に新入社員として就職した。
 ユリアティーは、4月から大阪の私立の外大に留学生として入学して、通学し始めた。けれども、ぼくが9月にバリ島のデンパサール出張所に赴任することが決まったとき、大学をやめてしまった。もともと、僕と一緒になるために、留学したから、それは大した問題ではなかった。
 出張所といっても、社員はぼくひとりしかいない。バリ島での取引量はまだ期待されていないから、ジャカルタ支店にくる顧客をバリ島で接待するのがぼくの主な仕事だった。そのために、妻がバリ人というのは好都合ということで、ばくがここに派遣されることになったらしい。それでも、ぼくは日本から旅立つとき、バリ島でトニーマやオーカーらが待ち伏せしていないかと心配だった。よっぽど転勤を断ろうかとさえ思った。ユリアティーは「大丈夫よ、アグンの神様が守ってくれるわよ」と気楽に構えていた。
 
 ユリアティーのダンスの発表会が終わってから、ユリアティーとガブール、ウェイビーらとともに、サヌールのハイアットホテルの中の中華料理店で円卓テーブルを囲んだ。
 ぼくの右側にユリアティーが、左側にウェイビーが、その向こうにガブールが座って、円卓を回しながら、笑いあって、中華料理を突っつきあった。ビンタンビールをウェイビーさんがぼくのグラスに注いでくれた。  
「ホントに良かったわ、ユリアティーがあなたと結婚できて」
「まったく、そのとおりだ」とガブールもうなづきながら、賛成した。
 ぼくは
「うわさでは少し聞いたんですけど、トニーマさんとかオーカーさんとかはどうなったんですか?」
「あら、ユリアティーから聞いていなかった?」
「ええ」
「それがねえ、トニーマさんは、あの頃、クスリに溺れていて、そのことに怒ったオーカーさんがねえ・・・」
「おい、あんまり詳しく話すよ」
「あら、いいじゃない、ユリアティーは危うく不幸な目に遭うところだったんだから」
 ユリアティーが笑った。ぼくは黙って箸を動かしていた。
「そう、だからトニーマさんは、あの頃すでにクスリで頭がおかしくなっていて、家でオーカーさんに殴り掛かったらしくて・・・」
 ガブールは黙っていた。
「トニーマさんは完全に狂っていて、とうとうヤシの実を割る鉈を持ち出して、『どうして嫁が逃げた?父さんのいうとおりにしたのに』と言って鉈をオーカーさんに振り下ろしたらしいの。オーカーさんは身をかわしたけど・・・」と涙ぐみながら、離し続けようとした。
「オーカーさんは身をかわしたけど、左肩に深く鉈が突き刺さったらしいわ。その頃、使用人が飛び込んでトニーマさんを抑え込んで・・・結局警察に突き出して・・・」
 ウェイビーさんは、抑えていた涙が止まらなくなり、話を続けることもできなくなった。オーカーがけがしたことがよっぽど悲しかったんだろう、その悲しみが伝わってきた。ガブールは無表情で何も言わなかった。ユリアティーもうつむいて不機嫌な顔をしている。
「あの、ウェイビーさん。」
 ぼくは聞きたいことの最初に浮かんできた言葉ではなく、二番目に浮かんできた言葉を出した。
「亡くなられたってことですか?オーカーさんは?」
「ええ、お見舞いに行った日に亡くなったわ。」とウェイビーは答えて、目を伏せた。
 ぼくは、さっき口に出してウェイビーに聞きたかったことが気になり、「あの、ウェイビーさん、オーカーさんは・・・」と言ったところでガブールさんが 
「まあ、いいじゃないか?こうして剣人がユリアティーを嫁にもらってくれて、ユリアティーは最高に幸せになれたんだから」
とガブールは言いながら、ユリアティーの目をいとしげに見つめていた。
 ユリアティーはぼくを見ながら笑っていた。
 ぼくは、つまり昨年初めてバリに来て、ユリアティーに会った時のことを思い出していた。そして、例の写真、つまりトニーマから隠し撮りされたぼくとユリアティーとが抱き合っている写真をこっそりとユリアティーと二人で見た。
「トニーマは、このラブラブの写真を見て、妬けたでしょうね」
「そうだね、きっと」
「もう一枚あるわよ」
 その写真は、ぼくが、ユリアティーの踊りの決めのポーズをまねして、手と足を無理な角度に曲げて片足で立とうとして転んだばかりだった。ぼくとユリアティーは目を合わせて笑った。
 ガブールとウェイビーは、ぼくらが笑っている理由も知らないくせに、ぼくらの笑い声に吊られて笑い出した。
「バリの夜は長いのよ。そして、時間はゆっくりと進むのよ」
「分かっているよ、もうここに住んでいるんだから」
 ぼくらの夕べの宴は、料理店の閉店時間を優に超えて、延々と続いた。
 

 

ウルワツの恋

ウルワツの恋

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-19

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