溶ける。(津田葵)
あなたが教えてくれたこと、すべて覚えているから。
そう言い残して彼女はいなくなった。
わたしは生きるのをやめようと思った。正確に言うと溶けたい、と思った。生きていれば他者を幸せにすることができるかもしれない。と、同時に、生きていると大切な人を傷つけてしまうこともある。
どうでもいい人に傷つけられるより、大切な人に嫌われるほうが、よっぽど身に堪えるし、ひとに傷つけられるより、ひとを傷つける方がずっと自分を苦しめる。
ひとは支え合って生きている? それは本当なのだろうか。もしそれが真理ならわたしはひとではなかったということか。わたしは支えていない。支えられていたはいたけれど、わたしは何もできなかった。
こんなわたしのこと、嫌いになられてもしかたがない。あなたから愛されないわたしなんて、わたしだって大嫌い。でもね、わたしがあなたのことを好きでいることだけは許してほしい。例えあなたがどれほどわたしを嫌おうと、あなたがわたしに教えてくれたことが真であることに変わりはない。それなら、あなたに対する評価を変えることなんてできない。だから、好きでいさせて。もしも、あなたが自信をなくしたり、誰かからけなされたりするようなことがあっても、わたしはあなたの素晴らしさを叫び続けるから。
わたしの指の先が透き通っていく。色の抜けた手から見える世界はわたしにまとわりついて一体化しようとする。今まで私は誰にも何にも寄り添われずに生きてきた。いや、寄り添ったものを手で払って亡くした後に泣き喚いた。幼稚だった。愚かだった。こんどこそわたしに寄り添うこの意味を持たないものと生きて、そして死んでいく。割れた頭に侵入してきたそれがわたしの体を引き裂いて、溶かしていく。
最後に感じたのは静寂。
そこへ水道の蛇口から一滴の雫。
わたしへ落ちて、波紋が広がる。ゆっくりとだんだん大きな円となって。それはたった一滴から。こうやって小さな小さな器のわたしでも今は遠くのあなたへなにか残せたのだろうか。
あまりに連絡がなくなったものだから、彼女の部屋を訪ねた。部屋のどこにも彼女はいなかった。携帯も財布も何もかも置いて、どこへ行ってしまったのだろうか。お風呂の湯船に白濁化した液体が張ってあった。お湯に入浴剤でも入れてあったのだろう。そこへ水道の蛇口から一滴の雫。蛇口がちゃんと閉まらないのかな、と思いながら、僕は栓を抜いた。
溶ける。(津田葵)
排水口に吸い込まれるように消えていった彼女に彼は気付かなかった。