読者の獲得と喪失

-これは誰だろう?-

記憶喪失かな? と思った。
意識を得るなり 見知らぬ部屋で 見知らぬイスに座り、
ぼぉ と光るディスプレイを眺めている。
そして全身を覆う “初めての感覚” に、さらなる自体に気付かされる。
今、この状況に至るまでの記憶を 見失っているようだ…。
それどころか 「自身の肉体情報の記憶」 すら欠如している。

目線の高さ 体の疲れ具合 血管の走り方から触覚感覚まで、 全てが真新しい。
と 同時に 身に覚えのない、自身の口臭や体臭にめまいがし、 思考ができない…
目の前にある情報を 目で追う事 で精いっぱいだ。
あらゆるものに見当がつかない…自分は一体こんなところで何をしているんだろう…?
必死で記憶を追いかけてみる。
が、
すぐに終わった。
どうやら意識を得てからのぶんしか記憶は存在しないらしい。
思い出そう、という行為に意味を見いだせないほどに。

しかしずっと感じていた 今現在の体の感覚から 推察できることがひとつある。
ここは自分の家では ない。
意識を得てから 今までずっと、
部屋全体の空間、 イスの感触に至るまで、 まるで馴染みが無い。
このくたびれたイスはどうだ… こんなものに腰を落ち着かせて
体を休ませたい人間が いるだろうか?
初めて 他人の部屋に上がり込んだような異物感が、 今も全身を覆って…

…いや待てよ、

仮に自身が この部屋に長年 住んでいたものだとしても、
その長年住んだ部屋の あらゆる記憶情報が 無い場合、
そこは 初めて訪れる他人の部屋と 何が違うのか?
今 頭の中で使っている この言語だって、
どこの なんという 言葉だろう?
自分は 正しく思考ができて いるのだろうか?
正しい思考? 考えるって どういう動作だったっけ?
この体は 自分は今何をしているか、 自分で正確に理解できる 体なんだろうか?
何を信じればいい?…

急激に心細くなってきた…
心を鉛筆削りで削られるような、
自分が 何の価値も無い、 無意味なものになっていく気分…
こわいのだろうか…? 


しかし、“分からない”という事なら分かる。
“それが辛い”という事も感じられる。
自分が今一人だと感じる、それを表現する言語も持ち合わせている。
なんてことはない、
気付いてみればいつの間にか 見聞きし、肌で感じた 元々言葉では無い“体験” が最先端にあり、
それを言語で二次創作することで 「思考」 し、 それが人足り得る“証明”を与えてくれる。
このあまりにも脆弱な事実に すがるようにして自我を保つ様は、元来 滑稽なのかもしれない。戸惑うのは自然な事だ。
しかしこの苦しみも やがてはかさぶたになり、体の一部になる。そんな気がする…


なにやら気が遠くなってきた…
また自分を失うのだろうか…
でも不思議とこわくはない。
例え次の瞬間、 この自分 というものが完全に消失しても 世界は残る。
画面の向こうに必ず誰かがいる。
それが自分がここにいるという証明だから。
そして最後はあなたへ還っていく…
そこに体がある限り。

読者の獲得と喪失

読者の獲得と喪失

  • 小説
  • 掌編
  • 成人向け
更新日
登録日
2014-08-25

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