ネオテニー

 九十年代の東京、下町の一角で、今日も猫が死んでいる。

1

 あの子は荒れてるから、一緒にいないほうがいいよ。ほら、あの子。

遠くで誰かが揶揄した。僕は聞こえないフリをして、我が物顔でアスファルトを歩み続ける。
 大ブームになっているサンダルの模倣品を履いて、やかましいパンクをウォークマンで聴きながら。 チープな品質のサンダルが破け、親指が見える。

 カラスが鳴いてる。引き裂かれた有刺鉄線が、ゆらゆら揺れている。 橙色の光がそれらを照らす。半年前潰れて無人になったタバコ屋に、ヤンキーのマーキングした跡がある。

「メメコちゃん。いるか?」
僕は、そのタバコ屋の扉を引っ張りながら、言った。返事はない。
今日はいないか。そう見切りをつけたとき、店の奥でぱん、という音が聞こえる。
「メメコちゃん。いるんじゃないの」
なりふり構わず僕は、タバコ屋へずけずけと上がっていった。中へ入ると、さっきの音の他に、もうひとつ音を発見した。しばらくしてそれは、猫の鳴き声と解る。

 ぱん、とまた鳴る。
猫も鳴く。泣き声にも聴こえた。
「メメコちゃん」
店の奥まで進むと、畳の敷かれた居間のスペースがある。今は土足で当然のように踏み込んでしまうから、野良犬みたいに薄汚れている。
そこに鎮座する、僕と同じくらいの年の女の子の背に話し掛けた。その子の手には、ちゃちなモデルガンが握られている。銃口の先には、子猫が二匹。
 「おお、サカタくん」
そう発すると同時に彼女は引き金をひいた。猫が金切り声を上げる。腹のあたりから出血している。僕は呆れて溜め息をついた。
「また、猫いじめてんの?」
「うん」僕には振り返らず、メメコちゃんは答える。そのあと、堪らんよ、とにやつく。
 「サカタくんもやる?」メメコちゃんは、僕に銃を渡してきた。持ってみると、案の定安っぽい軽さを感じる。
とくに何も考えずに、弾を撃ってみた。二匹の猫のうち、黒い方の尻尾に当たって、そいつは鈍く鳴いた。鋭い眼光をこっちへ飛ばす。
「へったくそだなぁ。サカタくん。ちょっと見てて」
彼女は僕の手から銃を引ったくると、適当に狙いを定めてトリガーを引いた。

BB弾が、もう一匹のほう、白い方の猫の眼球に向かって飛んでいった。猫は、見ているこちらも痛々しさを感じるくらいに悶えた。畳を引っ掻く。手足をばたつかせる。

 「うわぁ。さすがにそれはむごいわ、メメコちゃん」
少し軽蔑のニュアンスも込めて、ちらりと彼女を覗いた。メメコちゃんは、満悦の表情でのたうち回る猫を見ていた。
「そんなもん知らん。私は何をしても許されるんだ」
まるで悪者みたいな台詞だなぁ、と内心で呟いた。けれども、それは紛れもない事実なのだ。メメコちゃんは、誰よりも可哀想な女の子だ。

 メメコちゃんの腹は、ふてぶてしいほどに大きく膨らんでいる。だけどだらしなく肥満しているわけではなかった。

メメコちゃんは僕と同い年。十二歳だ。しかし、学校には行っていない。
それでも、誰も咎めない。
「そういえばメメコちゃん、中学校には通うの?」
もし中学校に行くのならば、僕とメメコちゃんは同じ学校になるはずだ。
 彼女は、かぶりを振った。「行かない」と不機嫌そうに呟く。
「どうせ私に将来なんてないんだ。だから、行く意味なんてないの」
自暴自棄みたいな言葉だったけれど、これを笑い飛ばすことは出来なかった。「そんなことないよ、頑張りなよ」なんて、気休めを言うのなんてもっての外だ。

 メメコちゃんのお腹の中には、子供がいる。

2

 彼女の話を聞くとみんな、異口同音に「可哀想だね」という。
でも、どんなに慈愛に溢れている人であろうが、メメコちゃんに手を貸すことは不可能なのだ。
「死ねっ。死ね、死ねっ」
 口汚く罵りつつメメコちゃんは、弾を猫に放ち続ける。白猫はもう息絶えた。辛うじて息がある黒猫が、片足を引きずって逃亡を試みる。
 それも虚しく、畳を数歩歩いたのを最後に吐血して倒れた。ひどく猟奇的だった。僕になすすべがないから、ぽかんと口を空けて置物みたいに突っ立っている。
「どうすんの? それ」
二匹の猫の死骸を指差して訊ねた。空き家とはいえこのまま、屋内へ放置しているのもいかがなものか。

「川に捨ててくる」
メメコちゃんはそう言うと、血が手に付着するのも構わず二匹の猫を両手につかんで、僕をほったらかして外へ出ていった。


 メメコちゃんは、小学五年生のとき強姦された。家出して真夜中に通りを歩き回っていたとき、突如現れた乗用車に詰め込まれたらしい。
そしてさんざん弄ばれたあげく、車から投げ出された。翌朝道路に全裸で這いつくばっているところを誰かが見つけなければ、彼女はその時点でのたれ死んでいたのかもしれない。
 その彼女を見つけたのが僕なのだ。早朝に何も纏わず地面で寝転んでいる女の子に物申しがたい異常性を感じ、慌てて家まで駆け込んだ。だから、毎朝のジョギングを命じている父には、このときばかりは感心した。

 僕には母親がいない。母は兄を四年前に産んだ時点で絶命した。今まで僕と兄は男手ひとつで育ってきた。父は、現在も再婚はとくに考えていないらしい。
そんな父が、あのときは妙に物分かりがよかった。もっとも、普段から決断することに抵抗感をいっさい感じていないかのような思いきりを醸し出しているのだが、あのような不可解かつ非日常的なケースに遭遇しても彼は、驚愕の声を上げることすらしなかった。
 僕の主張を冗談だと疑わなかったのも意外だったが、何より、「そうか」と、まるで病院で名前を呼ばれたときのように、そうなることを初めから解りきっているかの如く反応をしたのは、むしろ不気味にも思えた。

 僕はろくでもない子供だから、悪いことも随分している。今ポケットの中にあるウォークマンだって、ヤンキーっぽいバイクに引っ掛かっていたヘルメットに入っていたのをくすねてきたものだ。それでも、自分が悪だとは思えない。僕は善悪の判断が欠落しているのだ。だから、メメコちゃんをレイプした犯人のことも、猫を理不尽に殺すメメコちゃんにも、憤ることができない。
 そして父は、僕を家に返してから、メメコちゃんを車に乗せて、一人で病院へ向かった。帰ってきたのは深夜だった。
どうだったの、あの子、と僕は訊ねた。父は、
「夜中一人で歩いているところを、突然おっさんに襲われたらしい。服が脱がされていただけで、深刻な怪我はしていない」と答える。あえて、幼い僕を気遣って、「レイプ」といった言葉を避けていた父の思いを裏腹に、僕には、彼女が服を脱がされている、という時点でそのことにだいたい目星はついていた。
そこで僕が「どうしてあの子は服を脱がされていたの?」と質問することも出来たが、実際にそうしてしまうほど僕は野暮ったくない。
 「あの子、名前は何て言うの?」
代わりに、こう訊いた。
「イノウエメメコ。漢字は解らん。お前と同い年だ、聞いたことはないのか」
渋ることなく父は教えてくれた。その名前を聞いたことはなかった。

3

 布団の中で、僕は、イノウエメメコについて、追及してみようと結論づけた。純粋な好奇心であった。

 翌日。幸いにも日曜日だった。学校は休み。僕は、やさぐれた問題児だったし友達もいなかったけれど、欠席は原則としてしなかった。課題ももれなくこなした。僕のようなろくでなしがあえて真面目に授業を受ける、という行為がとても面白いものに感じられたからだ。
 僕は一つしかこの街にある病院を知らなかった。だから、駄目元でそこへ向かった。
受付に、サトウメメコという人物は入院しているか、と訊ねたとき、まるでミステリドラマみたいだ、と少し愉しげな気持ちになった。
 受付の女は、奥の部屋へ消えていき、しばらくして戻ってくると、「いないですね」と冷淡に告げた。父の話は嘘だったのか。でも、そもそも、仮に居たとしても教える義理はないのかもしれない。
 その後近くの公衆電話ボックスへ入り、電話帳を捲った。イノウエ、という姓名は、全部で五つあった。「井上」が三件、のこり二件は「猪上」と「居上」。
 手始めに電話した「井上」三件はいずれも異なるようだった。中年男性、若い男、最後は声のしわがれた老婆が出た。あの子の家族は母親しかいない(真偽はともかく)のなら、どれも違うだろう。
 そうして、コンスタントに僕は「猪上」の番号を押した。さっきの二つよりも繋がるのに時間がかかった。
「もしもし、猪上さんのお宅でしょうか」
媚びた声を使った。
「ああ? そうですけど?」とても女の声とは思えなかった。つり上がった口調。若気の至りを全うする不良じみていた。
「あなたは、メメコさんの、母親ですか?」
あえて単刀直入に言った。こういった人との会話では、話を長引かせれば長引かせるほど、結論へ辿り着けなくなることを、僕は知っていた。悪童である僕のもとには、こんな輩がたくさん現れる。
 「はぁ? お前は誰だよ」
十二歳である僕は、声変わりはまだ途中段階であった。だから、ふつう声質から少年と理解してしかるべきだ。だが、この女はそうとはせずいきり立った口調のまま、問いに問いを返してきた。もしくは、子供と解っていながらも、トーンを変えるつもりは滅相ないのか。
「酒田康夫です。メメコさんは、あなたの娘なのでしょうか」
声が途絶える。強引に切ったのだろうか。だとしたら、事実である、と仮定して差し支えない。

4

 僕は、「猪上」の家を模索してみることにした。電話帳に住所も記載されている。幸い、僕も知っている町だった。
 バス停まで歩くと、レコードショップの袋を提げた兄がそこにいた。それを把握しつつ、僕は目を逸らそうとする。しかし、見つかった。
「康夫。どっか行くのか」
兄は、馴れ馴れしく話しかけてきた。どうやら、今、隣街から帰ってきたらしかった。
「いやぁ。良かったぜ。ペイパーのインディーズ時代のアルバム、やっと見つけたんだ」
へぇ、と投げやりに言う。ビニール製の袋の中には、『ペイパー』、ロックバンドの『Paper Knife Mans』のCDが透けて見えた。
小便を我慢しているときのように、兄は浮き足立った様子で、じゃあな、と僕に断って去っていった。全く、呑気な奴め。少し軽蔑した。

 二十分程度、ウォークマンから流れる音楽に身を投じていると、時刻表に記載されていた時間に三分遅れて、バスが到着した。
バスの中は空いていて、涼しかった。とりあえず座席へ腰掛ける。
バス停を八つ通りすぎてから、僕はバスを降りた。三人しかいなかった乗客のうちの一人、太った女の子も降りてきた。
 太った女の子、と内心で復唱した。彼女の姿に見覚えをかすかに感じたためだ。もしかすると、あれは単なる肥満ではないのかもしれない。
バスが発車するよりも先にその女の子は背を向け、アスファルトを歩き出した。ここらには、住宅地しかない。
「あ、あのさ。ちょっといいですか」
おかしな言い回しになった。僕は彼女に背後から話しかけた。大人びた印象はなく、あくまで僕と同じ小学生もしくは中学生に違いないだろう。
「もしかして、猪上メメコ……さん、ですか?」
彼女は、えっ、とわざとらしく声を漏らした。目が泳いだ。やはり、彼女が、猪上メメコなのだろうか。
 あんた誰なの、と武骨なアクセントで彼女は言った。その態度に若干の憤りを覚え、「酒田康夫だ」とやや乱暴に述べる。

「サカタ」
独り言のように、猪上は呟いた。先程の威勢の良さが感じられなかった。
 そして、彼女は、
「酒田……ツトム?」
我が父の名前を口にしたのだった。つまり彼女が猪上メメコであることは事実らしかった。父に病院へ連れられたときに、名前を知ったのだろう。

「僕が、酒田勉の息子の、康夫だ。君が道路で倒れていたのを見つけたのも僕だ」
無意識に口調を強調していた。
 猪上メメコは、僕の右目の辺りを思いきり殴った。物申しがたい痛みを感じる。一瞬視界が霞んだ。
何すんだよ、と僕ががなり立てると、負けじと猪上メメコも、泣き喚くように言った。

 「酒田ツトム! あいつに私は殺されたんだ!」
猪上メメコは懐から取り出したポーチから、万年筆を掴んだ。拳に握って、僕ににじり寄った。自らの顔に向けられたペン先からは、刃物じみたヒステリックが滲み出ている。
 訳が解らなかったけれど、僕はあえて抵抗しなかった。

5

 彼女の腹の中の子供は、僕と血が繋がっている。

 猪上メメコをレイプしたのは、紛れもなく僕の父だったのだ。あの迅速な対応は、全て予定調和。深夜、僕と兄が寝静まったあと、車を走らせ、一人でいる猪上を襲った。そして翌朝、発見者を装って病院へ搬送する。僕に課せられていたジョギングすらも、犯行の手口の一環となっていたのだ。
 犯行の様子について、彼女の口から生々しく語られた。お前も共犯だ、と罵られる。
理解に苦しんだ。堅実な父が、少女を強姦するなんてあり得るだろうか。まぁ、実際そうなら、そうなんだろう。右目を押さえつつ僕は考える。



 その後、僕は兄を呼び出してこの事を話した。はじめは聞く耳を持たなかった兄も、やがては現状をのみ込んでくれた。無論、父の目の届かない場所で。そうして、二人で結論を弾き出した。あと、兄は僕を眼科へ連れていってくれた。

 僕たちは父を警察へ突き出すことに決める。子供である僕らの主張を警察に真に受けて貰うのには苦心するかと思いきや、僕とは違い比較的真人間である兄の活躍もあり、事は円滑に進行した。
パトカーに詰め込まれる父の瞳に、後悔とか自己嫌悪の色はなかったと思う。たぶん、自暴自棄になっていたのだろう。

 いろんな大人たちからあわれみや同情の声を飛ばされた。とてもうざったかった。いままで僕を蔑んできた奴らも、手のひらを返していく。
別に、猪上を強姦した父に怒りややるせなさを覚えた訳ではない。憤ったのは兄だった。生涯で最も幻滅した、と言って、涙を溜めていた。
 父の居なくなった食卓では、やはり喪失感は否めなかった。



 相も変わらずぼんやりしている右側の視界。畳に腰を下ろしてしばらくすると、メメコちゃんは無粋な顔をしながら戻ってきた。
 父が逮捕されたあと、再び彼女に会えたのは偶然の産物に近かった。そして、ここまで対等な関係を築けたきっかけは、もう曖昧になっている。
「川に投げてきたら通りかかったばばあに見つかった。発狂された」
舌打ちまじりにメメコちゃんは言った。


「当然の報いだよ」
右目を押さえながら、最後に見た父の背中を思い出しつつ、呟く。

ネオテニー

必ずしも物語の登場人物が全うな人間である必要はない。
やさぐれた不良少年が主人公でもいい。猫殺しの女の子がヒロインでもいい。
そんな思いを込めました。

世間体がなんとなく殺伐としていた時代を舞台とし、少女妊娠という不謹慎なテーマを扱うゆえ、文章が軽くならないように心がけ ました。

ネオテニー

九十年代、東京。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-08-24

Copyrighted
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Copyrighted
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