君思うのは
目覚めた時、もう彼はいなかった。もしかしたら……と周囲の気配を探る。物音一つしない……本当に、この部屋にはいないようだ。何時くらいなのか……と窓の外に広がる空に視線をやるが、どんよりと重い雲が垂れこめるばかりで時間帯を判別することはできそうもない。軋むように痛む右腕を持ち上げ、腕時計を確認する。午前九時に近い……ということは、眠っていた時間はさほど長くはなさそうだ。仕事に行かなければ、と身体を起こそうとするが、できなかった。
「っ……」
痛い。下腹部から腰部にかけてが、万力で締め付けられるように痛む。痛い、というより苦しい。起こしかけた身体を起こしきれず、胎児のような姿勢にならざるを得なかった。両腕で腹を抱え、呻きながらソファに横たわるより他にない。小さく息を吐きながら、苦痛の波が引くのを待つ。もう慣れたことだ、と自分に言い聞かせながら……
(今、私が思っているのは間違い無くお前だよ、ヨーゼフ)
彼はそう言いながら人を犯しそのままに放置した、ということか……身体的苦痛の波が引くのに合わせるように、惨め極まりない状況が呑み込め始めた。一晩中ずっと貪られるように求められ、それに応え続けた。明け方頃に性の営みから解放されて、ようやく浅くまどろんだ。そのまま深く眠れればよかったのに、そうはならなかった。
(エルナ)
夜半に目覚めた私が悪いのか、それとも死んだ女の夢を見て彼女を呼んだ彼が悪いのか……どっちにしろ、どちらにも不幸な出来事だ。まどろみから眠りに速やかに移行できていさえすれば……彼の夢なぞ知らなくてすんだ。彼が愛した女の夢を見ていると知らなくてすんだ。……男である私を抱いた後に心底幸せそうに彼女の夢を見ている彼の微笑を見なくてすんだ。真珠に接吻けるようにかつて愛した女の名を呼ぶ彼の声を聞かなくてすんだ……眠れてさえいれば、幸せな夜で終わりにできた……ヨーゼフとして愛され抱かれた、と思っていられたはずだった。
益体も無い考えが気泡のように湧き上がる。それらにいちいち取り合っていれば、自分が潰れてしまうことは経験から学んでいる。身体を刺激しないようにゆるゆると動き、自分の状態を確認した。どうやら服だけは着せてくれたようだが、身体を清めてはくれなかったようだ。シャワーを浴びて、着替えたい……と、思った。自分の内側が粘りつくように感じられた。
求められて差し出して、好きなように使われて、それが終われば放り出される……とんだお笑い草である。もっとも、ここに至る最後の一コマは、自分が招いたものだっけ。
ふらつく脚で立ち上がりながら、皮肉な笑いが顔に浮かぶのを止められなかった。誰に対する笑いかは、自分でもちょっと分からない。自分の意図を誤解した彼か、誤解されるような言い方をした自分にか――馬鹿馬鹿しい。もう終わったことを考えても無意味というものだ。勝手に浴室を借りることにして(最も彼の私室で逢引した時はいつも使っているのだが)扉を開ける。不器用に着せられた服を脱ぎながら――彼はワイシャツのボタンを掛け間違えていた――元凶となった自分の言葉を思い出してみる。
「抱け」
と、言ったっけな。
「彼女と俺は違うって分からせろ。俺にも分かるように抱いてみろ、変態」
「分からなくなるんだ……あんたが抱いているのが俺なのか、それともその女なのか……女の服を着ているとかそんなこと関係無く、あんたはその女のことを考えている。……あんたはどっちを抱いて、どっちを思っているんだ」
そんなことを言ったような気がする。それが不味かった。何故って彼は――所謂「心の機微」に疎いあの馬鹿者は――完全に誤解して事を進めたのだから。
曰く「お前にしたことは全部エルナにはしていない、できないことだぞ」と。ジャム塗れの指を口に突っ込んでかき回し、挙句に後口に何やら塗り込んで指で犯すことなんて、そりゃ確実に初心だった若い頃の彼はしてないでしょうよ。まして、女にはとことん甘い彼のこと。おそらく考えもつかないことだったのだろね。身代わりさせられた時の経験からも容易に想像がつくことだ。私も大概、女の扱いは丁寧だけど身代わりを強いる時の彼には負けるかもね。それくらいに穏やかに、甘やかに、生温いほどに彼は「エルナ」を慈しむ。その対極が、私を抱く時、というわけだ。分かりやすい。
シャワーの下に立ち、蛇口を捻る。勢いよく流れ出る熱いくらいの湯に身体を曝してみる。気持ちいい。身体の内部に向けられていた意識が、表面に向けられることで気分が幾らかは冴える。これで大丈夫と思った瞬間、悪寒が走った。思わず眉間に皺を寄せ、うつむいた視界にそれが見えた。
「な……あ……」
赤い、塊。それと、白い粘液。どろり、と交り合いながら太股の内側を伝い落ちて来るそれらが何か、分かるまでは異様に長く感じられた。余りにも長いから、自分でもよくわからない事を考えた。
「女の、生理みたいだ……」
口走った戯言に、吐き気がした。堪え切れずに倒れるように蹲った。シャワーを出しっ放しにしていなければ、そのおぞましさに本当に吐いただろう。それくらいに、その赤さは自分の戯言は生々しかったのだから。赤い塊は、苺のジャム。彼が私に塗り込んだ何か、の正体だ。白い粘液は考えるまでも無く、彼の精液。それが体内で交り合って、異物として排出されるにすぎないのに。それなのに。
「私は、女じゃないんだ……私は……男だ……それなのに」
分かり切ったことに、どうしてこんなに狼狽えなければならないのか。嗚呼、違う。本当は分かっている。認めるのは、怖い。でも。
「どうして……こんな時に……」
あの女は――「エルナ」という名を持つ、彼の死んだ恋人は――こうして無用になった胎児の寝床を流したのだろう。紛い物ではなく、本物の血を流す、本物の女――身代わりではない、本物の恋人。男の私が流すそれは、ほんの戯れに身体に注がれた、赤いだけの汚物に過ぎない、紛い物だ。
「違うって……言って……分からせて……ほしかった……」
ただ、それだけを求めただけだったのに。それだけだったのに……
視界が滲む。湯とは別の熱さが頬を伝うのが分かる。
ただ、昨夜のように抱いてほしかった。「ヨーゼフ」と呼んでほしかった。「身代わりではない、お前を愛しているよ」と一言だけ言ってくれればそれで十分だったのに。
「アドルフ……」
やっぱり、あなたは私を見ていない。「エルナ」と違う、と思わせるための行為は全て「本物のエルナ」と「紛い物のヨーゼフ」を示すだけだ。あなたは何の自覚も無くそれをやってのける。「エルナにはできないこと」を私にすることで「違い」を証明するとはよく言ったものだ。笑い飛ばしてやりたいくらいに、あなたの狙いは当たったのだから。だって、私がどれほどに傷んでも一雫の血も胎内から流れ出やしないとあなたが残したものが私を嘲笑っているのだもの。そしてそれは、あなたが男の身体を無意識に女の身体に――「ヨーゼフ」を「エルナ」に近づけようとすることを……ヨーゼフを通してエルナを思うことを、こんなにも分からせてくれるもの。
君思うのは