永訣

 随分と、静かになったものだと思う。むろん、ソ連軍の砲撃が止んだということではない。現に地鳴りのような低音は今も地下壕に響き続けている。静かになったと思えるのは、自分の心がそうなったからだろう。
(総統がいない世界、か……)
 ふっと紫煙を吐き出す。空洞の肺を満たすように、唇に煙草を宛がい深く吸い込む。特徴のある苦みと独特の甘みが鼻腔と喉の奥に満ちていく。ゆっくりと吐き出す。長く、深く、今吸い込んだ分を全て出すように細く紫煙を吐く。吐き出された煙は頼りない白い塊として、自分の周囲に凝っていたがすぐに空気に紛れ、その姿は透けていった。
(私にとって初めての世界だな)
 彼を知らないでいる世界、はもう経験済みだ。ほんの二十数年前まではそれが当然だった。アドルフ・ヒトラーなる人物は、パウル・ヨーゼフ・ゲッベルスにとって存在しないも同然で。彼の身の上に起こることは自分にとっては「地球の裏側で蝶が羽ばたいた」というくらいの意味しか持たず。そして、それは逆もまた然りで。自分たちは、全くの無関係な赤の他人だった。
 私は短くなった煙草を床に捨てると革靴の踵で踏みつけた。背中を預けていたコンクリートの壁は相変わらず冷たく、それは彼の死を連想させた。
 総統がいなくなった、といって急に世界が変わるわけではない。現に今も戦争は続いている。彼の死で変わったことといえば、第三帝国が終わった、ということくらいだ。様々な事象がこの地下壕の中に生じてはいるが、それらは全てこの一言で片付く。そして、私にとってそれは全て予想の範囲内だ。もっとも、予想に反することが出たとして私にはさほど関係は無い。行くべき道はもう見えているのだから。
 二本目の煙草に火を点ける。先程と同じようにゆっくりと深く吸い込み、吐き出す。白い煙は行き場を見失ったように僅かな間私の周囲に留まっていたが、すぐに消えていった。
(どうということも無いじゃないか……)
 アドルフ・ヒトラーは、パウル・ヨーゼフ・ゲッベルスにとって全てだった。その人が死んだ、それでもどうということはなく私は煙草を吸っている。そして、もうじき自分は死ぬ。ただ、それだけのことだ。人の死はそれ以上でも以下でもない。
(あなたの例があるから……もっと取り乱してしまうかと心配だったんですよ、総統)
 姪を喪った時の彼の恐慌を今も覚えている。そして、自分は会ったことはないが若い頃に愛し合い先立たれた女のことも知っている。そして、彼がその女をついに死ぬまで忘れなかったことも。

(彼女に会えるんだ・・・・・・)

彼は何日か前に、そんなことをふと呟いた。人が何か辛い過去を受け入れる時に見せる、やわらかな表情で――彼は死後の希望を呟いた。私はその時どんな顔をしたことだろう。怒っていたのか、悲しんでいたのか――よく分からない。ただ、呆れただけかもしれない。生涯引きずり回した過去の女を、事ここに極まっても「死後の希望」として祭り上げるのか、と。

彼女を忘れられなかった彼に付き合わされて、随分と酷い目にあったものだ。身代わりと称して女装させられたり、その姿で犯されたり……それはそれは苦痛だった。それでも人の心とはうまくできたもので、繰り返されるうちに屈辱にも僅か慣れた。そして、いつの頃からか、行為の最中の彼を観察する余裕を得た。それは滑稽な程に歪んでいて、時に笑い出したくすらなった。そして、同時に哀れなほどに狂っていて、時に優しく撫でてやりたくなるほどだった。

たった一人の人間が死んだ……それが何故ここまで人間を破壊するのか――見事に壊れた彼を間近に見つつも結局、私にはよくわからなかった。だから、最近は密かに恐れを抱いていたのだ。

――彼の死後、彼のようになってしまったら、どうしよう、と――

私は既成の事実になりつつあった彼の死以上に、自分が狂うことを恐れ続けた。彼のようになる瞬間がいつくるのか? 生きている彼と別れる時か、彼を殺す銃声を聞く時か、彼の死体を見た時か、彼の死体に触れた時か、あるいは――彼を焼く瞬間か――

その全てが過ぎた。そして、何も起こらなかった。

変わったことと言えば、ここで煙草を吸うことくらいか。私は何も変わってなどいない。これで証明された、ということだ。人一人の死ぐらいで人間が壊れてしまうのは、やはり珍しいことなのだ、と。それでも……

(あなたの気持ちが、少し分かった気がしますよ、総統)

明日には自分も死ぬつもりだ。全ての手続きが完了すれば、この国も自分も生きている理由なぞありはしない。そして、今の自分はそれだけを心の支えとして、生きている。彼と、生涯掛けて作り上げた第三帝国の最期を看取る為に――そして、第三帝国の歴史に最後の記述――第三帝国は国家元首と忠臣の家族を道連れにした殉死で幕を閉じた――を書き加える為だけに、生きている。そして、それが今の私の唯一の希望だった。

生涯引きずり回された男と、その男と見た夢を、事ここに極まっても「死後の希望」として崇め奉る――主体か客体か、生きているか死んでいるかの違いがあるくらいで、私も彼も大して変わりはしなかった。そもそも狂わずにいられるのも、近く再会できるという事実のおかげだと言われればそれまでだ。

(黄泉の国でどんな顔をしているやらね)

ようやく、それに気づいた今の自分を見て、彼は笑うだろうか。それともようやく通じ合う経験を得た私を、彼は受け入れるだろうか――意味の無い夢想だが、私は死後の世界を、そこにいる彼を思い始めていた。

今頃、彼は思い続けた女と再会を果たしたろうか。余りに幸福すぎて自分の罪などけろりと忘れてしまっただろうか。美しい花が咲き乱れるエリュシオンで、引き裂かれた不幸な恋人が、時を隔てて奇跡の再会、あら、すてき――そこに自分が行ったらどうなるだろう? まさに招かれざるお客人?

(似合いませんよ、総統――あなたに花園で安らぐ死後なんて)

目指すなら、荒野がいい。そこにその女はいるまい。そこで彼と、鋼鉄の夢でも見たいものだ。何だったら地獄の業火で焼いてくれても構わない。そこで彼に会えるなら――そこで、彼と愛し合えるなら、彼に愛してもらえるなら……それが、死にゆく私の最期の希望となるのだから。

永訣

永訣

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-08-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted