ある春の日
春はいい季節だ。陽射しは暖かく、空気も柔らかいように感じられる。何より花と緑が美しい。そんな呑気なことを自分のような人間に考えさせてしまうほど、春は人の心を溶かしてしまう。
(そんなことを言っている場合ではないのだが……)
フライエント少佐は無表情のまま、フロントガラスの外側に視線を向けた。運転するのはまだ若い曹長――腕前は可もなく不可もなく、と言ったところか。何も言わずにいる点にだけは好感を持てた。そして、自分の隣にはカイテル元帥――直属の上官だ。
「良い天気だと思わないかね? ヨーン」
「そうですね、閣下」
朝からずっと機嫌がいいのは、天気のせいか。それだけではないであろうことを、少佐は誰よりも知っていた。今日の予定「総統との面会」がその理由であろうことは容易に察しがついた。「多忙な総統」が自分の為に時間を作ってくださった――そんな風にカイテルは理解しているであろうことも。自身には全くそうは思えないが……ということは常に胸に燻ぶっている火種だった。
「こんな日はピクニックにでも行きたくなるねえ……そう思わないかい?」
「はあ……ま、散歩をするにはよい気候でしょう」
こんな時に何を言っているのだか……という言葉は胸に仕舞っておく。いくら春の陽光に暖められてもそこまでのびやかに平安な発想はできない。そもそも、そんな行事が世間にはあることさえ自分の頭脳からは抜け落ちていた。余りにも感覚が違う。これが別の人物なら「豪胆」「寛容」となるのだろうが、カイテルの口から出ればたちまち冷笑を買うは彼の格の限界、ということだろう。カイテルもそれを察したのか、おどおどしたように視線を落とした。それがまた、少佐には歯痒く思われる。堂々と笑えば少しは違うだろうに……ともどかしい気分が広がり、かける言葉が見つからない。
こんな時に気の利く運転手なら何か話題を提供するのだろうが、運転席の曹長にその技術は無いらしく沈黙のままだった。車中は春の日に似合わない重苦しい沈黙に占領される。やがて、カイテルは小さな声で呟いた。
「どうしても……春が来ると嬉しくなってしまってね……産まれ育った環境のせいかな……」
「農場、ですか?」
カイテルは大農場の主の息子だと、少佐は聞いていた。
「春になるとね、農場は一気に忙しくなるんだよ。種まきや作付、家畜の出産も時にはあるしね。だから、一家総出で働くんだけど……厳しい冬が終わったことの何よりの証だから、みんな嬉しくてね。子どもには家族揃って働くのが、まるでお祭りみたいに思えてね……春が大好きだった」
「元帥……」
そう思い出を語るカイテルは目を細め、儚いものを慈しむ顔をしていた。小さな陶器をそっと掌で包み込むような、温もりに満ちた顔をしていた。
「だから……軍人になった今でも春が来ると嬉しくて堪らないんだ……もう農場なんか何年も行ってないのにね……おかしいだろう」
ああ、この表情がいけない。この人は全て分かっている、と何よりも自分に示してくる。自分が決して軍人に向いているとは言えないことも、自分の地位に能力が追いついていないことも、自分の振る舞いが滑稽に思われることも、全てこの人は知っているのだ。だが……
「そんなことはありませんよ」
フライエント少佐は意識して唇を釣り上げ、力強く笑ってみせた。
「育った場所と思い出を大切に思っていらっしゃる、ということでしょう。それこそが独逸軍人の愛国心、ひいては総統への忠誠の源でしょう。おかしいことではありませんよ」
どれほど無能であろうとも、今の独逸に彼のように素朴な感情を持っている人間はいないだろう。その極めて人間的な感情こそ、軍人が欠いてはならないものではないか――フライエント少佐にはそう思えた。
いつも冷徹な表情を崩さない副官の思いもかけない笑顔にカイテルは一瞬戸惑い、それから小さく笑った。
「ありがとう……ヨーン」
「いえ……」
あなたに喜んでいただければ、それでよいのです……その言葉を少佐は静かに胸に沈めておいた。窓の外には検問所が見え始めていた。
ある春の日