お仕置き
「香水の匂いがする……」
抱きしめるなり、彼が言った言葉がそれだった。まずいな、と思った。さっきまで会っていた女の移り香だ。撮影所で見かけた、最近デビューしたばかりの女優に声をかけたのは一昨日のことだ。頭の悪い、鈍い女だったが、胸と腰回りは申し分無かった。少し配役をチラつかせたら二つ返事でホテルへ来た。そこで楽しんでいたのがほんの三十分前だ。本当はもっと早く切り上げるつもりだったのに馬鹿女は「次はいつ会えるの」だの「私を忘れないで」だの下らないことを繰り返して抱きついてきやがった。シャワーを浴びた後にその騒ぎだったから、おそらく移り香はその時のものだ。だから、さっさと離れろと言ったのに、馬鹿女め。
「気のせいでしょう」
そんな言葉で誤魔化せるわけがない。女との情事の後に総統との密会、なんてスケジュールは無理があったな、と臍を噛む思いだ。彼は執着心が強いのだ。一時の欲望に身を任せたツケだ。犯されるだけでなく、犯したいと思って手軽な女で楽しもうとしたのが間違いだった。
「自分の匂いだから、お前は気づいていないだろうがな……さっきまで女といただろう?」
図星です、はい。でも、それを言ったらあなた赦してくれますか? まさか。現在進行形で怒っているくせに。抱きしめる指先から怒りが伝わってきますよ。痛いです。そんなに強く服を握らないで。髪を掴まないで。穏やかなのは言葉だけですよ。
思っていることは到底言えることではない。叱られる子供の気分で黙り込んでいると、彼のため息が聞こえた。
「まったく、いけない子だ……ヨーゼフ」
はい、私はいけない子です。悪い子です。だから気まぐれで女を抱きます。浮気もします。その直後にあなたに会いにきます。そういう子だと認めてください。その上で愛してください、総統閣下。……今までのあなたも十分いけない事を私にしてきたでしょう?
「私は前から言っているはずだ。私は独り占めが好きで、誰かに渡すことは我慢ならない、と。私にお前は私だけのものだとせめて信じさせろ、と。それを破ったらお仕置きだと」
言いましたっけ? 覚えてないなぁ……覚えていてもやってしまうと思うけど。芥子から取れる阿片みたいに、女の身体は私を引きつけるのです。阿片中毒者が阿片を手放せないみたいに、私は女を手放せないのです。だから……
「お仕置きなんか無駄ですよ、閣下」
瞬間、身体が投げられた。着地点は、ベッド。正確には突き飛ばされた、くらいだが……まずい、彼はかなり怒っている。瞳の中で蒼い炎が揺れている。余計なことを言うのもするのも得策ではなさそうだ。上半身だけ起こして、彼の次の言葉を待つ。
「そんなことは分かっているさ。今まで何度もお仕置きしたのだから」
だったら、やる必要も無いでしょう。悪い子は反省しないから悪い子なんです。諦めてください。あなたのお仕置きは無意味です。だいたい、お仕置きには馴れてきました。どうせ身代わりか、緊縛でしょう?
「だから今回はいつもとは違うお仕置きをするんだよ、ヨーゼフ」
今、なんて? 言うなり、彼は私を押さえ込んだ。彼の手が乱暴にネクタイをはぎ取り、シャツのボタンを外す。よからぬことをする気だと、すぐに分かった。
「やめろ……」
彼を押し退けようとする腕は払われた。もとより、体力では敵うはずもない。彼の手がベルトを外しにかかる。させまい、とズボンを引き上げる抵抗も虚しいものだった。僅かな攻防の後、下着ごとズボンは引きずり下ろされた。外気に晒された性器は、心許なく不安を煽る。
「自業自得、だよ。いけない子」
悪魔のような笑いを浮かべながら、よく言えたものだ。少なくとも、人に馬乗りになっている奴の言うべき言葉とは思えない。私を押さえる体勢はそのままに、彼はサイドボードの引き出しを開ける。彼がそこから取り出したものが何か、分かった瞬間に悲鳴を上げていた。
「じっとしておいで、痛くないから」
「嫌だ!! 離せ!!」
両脚を閉じようとしても、彼の身体が間にあってできない。彼の手が股間に滑る液体を広げてゆく。逃げようと身体を捩っても、彼の手がそれを赦さない。その間にも彼は冷たい液体を丹念に股間に――性器の周辺に塗り込んでゆく。
「やめろ!! 嫌だ! 怖い!! 閣下、お願い」
「大丈夫、じっとしていれば怪我はしない」
液体を塗り込むのを終えた彼は、そう言って「引き出しから取り出したもの」を、剃刀を股間に当てた。銀色に鈍く光るそれは、見ているだけで鋭い痛みを感じさせた。耐えきれず、目を固く閉じた。
「何も切り落とすつもりはないさ……動いたら血が出るかも知れないがな」
「は……」
微かに、小動物が草を食むような音がする。先ほどの液体よりなお冷ややかな物が肌の上を滑るのが分かる。まさか……
「髭剃りみたいなものだ。すぐ終わる……」
「閣下……何で、そんな……」
剃刀が陰毛を剃り落としてゆく。性器のすぐ側を刃物が動いているのが、見なくてもわかった。切除されるわけではない、とようやくその時に気づいた。だが、動けないことにも、危険なことにも変わりはない。彼は器用に剃刀を動かしながら、やがて口を開いた。
「ずっと考えていた……お前を別の女の元へ行かせない方法を……お前が居なければ、世界は彩りを失ったも同然だ。色盲の見る世界のように、私は色のない世界を見ることになる」
自分だって過去の女を忘れず、私に彩りの無い世界を強いるくせに……と言いたかったが、言えなかった。その一言で彼の「手元が狂う」ことだって考えられる。
「お前の人生に女がいない時なぞ無いだろう? 聞かなくても分かる。止めることも無理だと、お前の過去を知って悟った」
「……それと、これと、どう……関係が?」
いつの間にか、彼の瞳の蒼い炎は消えていた。そこにあるのは、深い闇。彼はそっと剃刀を肌から離し、代わりに顔をそこに寄せた。
「閣下……」
「自分では分からないだろうがな……ここは、まるで子供のようだぞ。こんな状態で女を抱けるかな? どう説明する? 恥ずかしいだろう? ヨーゼフ」
「あ……や、閣下っ……ん」
柔らかく熱いものが、股間を這う。いつもとは明らかに、感覚が違う。生々しい。そうか……肌に直接触れるから……見せられない状態になっているから……
「元通りになるまで、私にしか見せられないだろ?」
彼以外に、見せられない身体になった。そうか……これが……
「お仕置き、だよ。ヨーゼフ」
お仕置き