月のソワレ
BL/総統×宣伝相/第三帝国
「あんたは最低だ」
「そうだな」
否定できない事実を、目の前の男が告げる。普段なら常に下の方から聞こえる声が、上から聞こえる。彼が立っているからだ。もっとも押さえ込むように聞こえる理由はそれだけではない。私はベッドに腰掛けたまま、反論せずに受け入れるしかない。彼の言っていることは正しい。何も言えずに黙り込んでいると、彼は苛立ったため息を吐いて続けた。
「男に女の格好させて強姦して、何が楽しいわけ?」
楽しいわけではない、抑えられないんだ……そう正直に言えば受け入れてくれるだろうか? まさか。私が彼の立場だったら絶対に赦さないだろう。死んだ恋人の身代わりを勤めるなんて、娼婦だって願い下げだろう。まして、私たちは同性だ。
「どれだけ私が痛い思いしているか、考えたことある? 自分が抱かれるのは嫌だって泣き喚くくせに」
答えられずに黙り込んでいる私に、彼は容赦なく言葉を投げる。すまないとは思っていた、自分でもどうしようもなかった――そう事実を言っても、彼には無意味だろう。彼に身代わりを強要するのは、熱病のようなものだった。前触れもなく始まり、一時猛り狂い、あっけなく終わる。行為の最中は自分を抑えることができない。悲鳴を上げる彼を押さえ込み、力ずくで体を開く。彼を彼とは思えず、死んだ彼女の名で呼んでいる。……彼に体を開くことは恐ろしくてできないというのに。
「黙ってないで何か言えよ!!」
我慢ならない、というような彼の叫び声が聞こえる。同時に顔の左側に衝撃を感じる。視界が揺れ、体が倒れるのが分かる。殴られたようだ。首になま暖かく細いものが絡んでいるようだ。息苦しい……馬乗りになった彼が首を絞めているのだ、と分かるまで少し時間がかかった。
「あんたなんか大っ嫌いだ!! 人を利用しやがって! 都合が悪くなりゃ黙り込んで!」
こんなに……と何かを続けてがなり立てる彼は泣いているようにも、苦痛に耐えているようにも、怯えているようにも見えた。彼は端正な顔を悪魔のように歪め、よく分からない言葉を喚き散らしている……可哀想だ、そう思えた。呼吸の苦しさよりも、そちらが気になる。こんなにも彼が荒れ狂っている。普段は冷静な彼が、私のせいで。そんなに悲しそうな顔をして……どうして……
「ヨーゼフ」
両手でそっと、彼の両頬を撫でてやる。掌に液体が広がるように感じられる……泣いていたのか。どうして泣くことがあるのだろう? よく分からない。君の気が楽になるならそれでいい。そうなりたいから、こういうふうにしているんじゃないのか? 徐々に意識が薄れてゆく。死ぬかもしれない。そう思った時、彼は突然手を離した。急に流れ込んできた酸素にむせる。呼吸を整える間も無く、彼が倒れ込んできた。私にしがみつき、まだ何事かを叫んでいる。いや……泣いている。
「殺せる、わけ……ない、じゃないか……閣下が死んだら……」
何を言っているかはよく分からない。とにかく私を殺すことは止めたようだ。代わりに私の体にしがみついて泣きじゃくる。迷子の子どもみたいだ……とぼんやりと思った。
「閣下……死なないで……」
「わかった……」
殺そうとしていたくせに、死なないでくれと反対のことを言う。背中を撫でてやると、抱きつく力を一層強めてくる。そして、また泣きじゃくる。最近の彼はおかしい。身代わりを解いた後に怒り狂うのは以前からのことだったが、暴力に訴えるようになっている。異常なのは私の行為だ。彼が荒れ狂うのは無理もない、と受け入れている。だが、彼の気は少しも晴れていないようだ。暴れ狂った後は必ず泣き崩れる。今のように私にしがみつき、泣き疲れて眠るまで、ずっと……
(少し……痩せたか……)
すまない、と心から思う。狂気は私ではなく、彼を蝕んでいる。彼は少しずつ壊れていく。異常な男に弄ばれて……
(ヨーゼフ……)
カーテンの隙間から、細く白く月の光が差し込んでいる。いずれ来る破局を回避する為に、私は一つの決意を固めていた。
「閣下から?」
「はい」
机の向こう側から、ナウマンが白い封筒を差し出してくる。封蝋が押してある、ということは開封していないのか。取り上げてみたところ、特に変わったものが入っているわけではなさそうだ。
「閣下の秘書の方が持ってきました。博士に必ず渡し、今日の夕方までには開封するように、とのことです」
回りくどい……と苦笑が漏れる。そんなに大事な話なら手紙にすることも無いだろう。直接電話を掛ければいい。だいたい、ここ、宣伝省と総統官邸は目と鼻の先だ。直接会いにくることも造作はない。それとも……昼間に他人には言えないことか。ペーパーナイフで切り開けば、果たして出てきたのは一枚の便箋。彼の字だ。
「今日の夜、ここへ」
郊外の住所が書かれた紙に、それだけが添えられていた。聞いたこともない住所だ。到底、仕事に関係があるとは思えない。あぁ、やっぱり「昼間に他人に言えないこと」か。彼はどこまでも身勝手だ。こんな紙切れ一枚で私を呼び出し、いいように利用する気だ。官邸でもできることを、わざわざ場所を変えるとは何が目的だ。どうせ、私が一番嫌がることだ。ここのところ、ずっとそうだった……
「博士?」
ナウマンの声で現実に引き戻された。まずい、嫌悪感が顔に出ていたか……普段は無表情な彼の目元が曇っている。考えを読みとったのだろう。
「総統からのお呼びだしですか? もし、お嫌でしたら私から」
「いや、行くさ」
ナウマンは優しい。そして全てを知っている。だから、私を止めようとする。だが、私は閣下がいなければ生きていけないことを、ナウマンは知らない。知っていても実感はできないだろう。事実、私の言葉を理解できない、という顔だった。
(なぜ彼の横暴を許しておくのか)
(なぜ辱められると分かっていて行くのか)
(なぜここにいてくれないのか)
そう言いたげな顔だね、ナウマン。教えてあげるよ。
「彼を愛しているからね、夜は出かけるよ」
彼から指定された場所は、郊外の洋館だった。持ち主が誰なのかは知らない。もしかしたら、もうこの国にはいないかもしれない(ひょっとしたら、この世にすらいないかもしれない)。でも、ここで彼に会える。二人きりで。それだけが今は嬉しい。それ以外のことなど些末なことだ。どうでもいい。
「閣下……?」
玄関の扉を開けて、中に入る。玄関ホールになっているようだ。暗い。電気が通ってないのか? 窓と開いた扉から差し込む月光だけが頼りだ。階段と、それから続く二階が見える。彼は、どこだろう……?
「ヨーゼフ」
突然、上から声が響く。驚きで心臓が跳ねる。でも、この声は。
「閣下」
「上がっておいで」
さぁ、と手招く。何だ、二階にいたのか。暗さと近眼のせいでよく分からないが、彼は穏やかそうだ。それならせめて明かりくらいは用意して欲しかった。足下に目を凝らし注意深く歩くしかない。たどり着いた階段は一段登る度に耳障りに軋んだ。まったく……よくこんなことをしてくれるものだ。ようやく彼に歩み寄る。抱きしめようと伸ばす腕を、彼はそっとかわした。
「屋根裏部屋へ……そこまで我慢してほしい」
「はぁ?」
お望み通り、会いに来てやったのに、何を言うんだ。かれの真意が読みとれない。少しおかしい。初めてのことが続いていて、混乱する。駄々っ子を宥めるような口調で彼は重ねた。
「そこで全て説明する……だから」
そんな風に言われて、そっと手を取られては仕方ない。彼がこんなに優しいのだから、素直について行こう。後で何をされるにしても、今の彼はこんなに優しいのだから。
月の光。彼に手を引かれたどり着いた屋根裏部屋で見たのは、それだった。プラチナ・ブロンド、と言っていいのだろうか……白銀の光が空間に満ちていた。屋根裏、といってもそれを感じさせない。天窓が大きく取られているからだ。月光はそこから差し込み、部屋に満ちている。壁も床も白く、それが余計に部屋を明るく感じさせている。
「きれいだろ」
「えぇ……すごく……」
何かあるとは思っていたが、これは予想外だ。月の光。こんなに美しい月光はいつ以来だろう。空気も冷たく澄んでいるように思えるほどの、銀の光だ。
「これを見せるために?」
「それだけではないな」
彼は柔らかく微笑んで、上着のポケットから小箱を取り出した。掌に乗る程度の、小さな箱だ。開けてごらん、と私の掌に載せてくれる。そっと開けてみれば、中には紅い石の飾りがついた銀のタイピン。どういうことか、と彼を見れば。
「蠍座だから、紅い石がいいかと思って……誕生日おめでとう、ヨーゼフ」
そう言って唇を重ねてきた。今、なんと? 私の誕生日? それは確かに、今日だが。覚えていてくれた? 彼が? 胸の奥から甘やかな痺れが全身に広がる。彼が接吻してくれていなかったら、幸福のあまり叫びだしていたかもしれない。彼が、私を祝ってくれる。彼が、贈り物をしてくれる。彼が、私に接吻してくれる。私を、私として扱ってくれる。こんなに幸せなことが他にあるだろうか? 彼を抱きしめる。自ら求めて彼の唇を受け入れる。今夜、これから身代わりにされても構わない。この瞬間は少なくとも、彼は私を思ってくれている。
長い接吻だった。息継ぎを繰り返し、それでも飽きたらず彼を求めた。全身が彼を欲しがっていた。ただの性欲ではない、と思えた。もっと深く、多く、彼の体だけではなく全てを欲しがっていた。こんなにも彼を愛していると思った。
やがて、彼は唇を離した。もっと、と抱き寄せようとする腕は彼に抑えられた。何故、と見上げた彼の瞳は、水晶のように澄んだ蒼をしていた。真剣な時の表情だ。問いかけることを拒んでいる。こうなったら黙るしかないのだ。彼は、ゆっくりと私から離れた。光の加減で、顔が陰る。
「誕生日、本当におめでとう」
もう一度、彼は同じことを繰り返した。だが、その声の調子は最初よりも硬質な響きを持っていた。嫌な、予感がした。
「ヨーゼフ……私のことは、愛しているか?」
いつもなら皮肉の一つも返せる言葉なのに、できなかった。いけない、と、心の奥から声がする。
「うん……閣下を……愛している」
彼は、微笑んだようだった。心臓が、跳ねる。さっき暗闇の中で彼に呼ばれた時とは別のリズムだ。すぐに彼を抱きしめたいのに、動けなかった。何かをすれば、見えない大切な何かを壊してしまう気が、した。
「私も……君を、愛している」
その一言を聞くために生きている、と言っても過言ではないはずの言葉なのに、喜びは湧き上がってはこなかった。何か、不吉な呪文でも聞いたような寒気が走る。彼は、何をするつもりなのだろう。おそらく、それは自分には想像もつかない、恐ろしいことだ。
「ずっと、考えていた……」
彼が月を見上げる。天窓からの銀の光を受けて、彼の瞳はいよいよ蒼く澄んで見えた。
「身代わりをさせる度に、君が傷つくのを見て……何とかする方法はないかと……そんなことをさせるのをやめられないかと……自制しようともしたが……無理だった。自分でも、止められないんだ。本当にどうしようもない」
自嘲するように言ってまた俯く。どうして、それを今言うのだろう……まるで叱られる子どもだ。言いたいことも言えないで、言葉を聞くだけで精一杯だ。
「私がそうやって君を巻き込むから……君まで壊れていくように思えて……何とかしなければと、ずっと考えていた」
私が、身代わりの後に彼を殴ったことを言っているのだろうか? 別におかしくなったわけではない。彼が私を見てくれないから……
「こうするしかない、と分かった。君を守るためだ。ヨーゼフ、落ち着いて聞いてほしい」
まさか、彼は……そんなはずがない!! だって、さっき誕生日を祝ってくれたじゃないか! 贈り物までくれたじゃないか!! あんなに長い接吻をしたじゃないか!! まさか、あれが最後の口づけだなんて言うはずが!
声が出ない。彼が何を言わんとするか、わかってしまっている。止めなければ、と焦れば焦るほど、喉に声が詰まる。
「一番美しいものを見ながら、君に言いたかった……だから、ここに来てもらった」
嫌だ!! 聞きたくない!! 言うな!!
「ヨーゼフ・・・・・・終わりにしよう」
私の心は生まれた日に、一番愛する彼に、銀色の月光のなかで殺された。
月のソワレ