伯林愛玩人形
BL/総統×宣伝相/第三帝国
あれからどれくらい時間が経ったのか、見当もつかない。
それどころか、今、自分が生きているのか死んでいるのかすらはっきりとは分からなかった。この無音と無明の世界が冥界なのかもしれないし、生きているのだとすれば自分の視覚と聴覚は失われてしまったのだろうーーそう、ヨーゼフは理解した。あの事件以来、ヨーゼフの世界は変わり果ててしまった。音も、光もない静寂と漆黒の世界。今の彼に残されているのは触覚と嗅覚と味覚だけだった。
しばらくは起き上がることもできない日が続いた。徐々に身体機能は回復したが、光と音は戻って来なかった。そして、今いる場所は明らかに自宅でも、自分の執務室でもなかった。どの国の、どの都市なのか、それすらヨーゼフは分からなかった。行動範囲は今いるこの部屋の中だけ。何度も手探りで歩き回り、この部屋の中は自由に動けるようになった。ベッドとテーブルと椅子が二つ、ソファ。続きの間が風呂と手洗いだった。窓は小さなものが一つだけ、それも填め殺しで外に出ることはできない。廊下に続くドアは、いつも堅く鍵がかけられていた。
それでも、この自分を訪なう男が二人いた。一人は何一つできなくなった自分の世話をしてくれる男ーー体つきがそう思えたーーだった。食事を与え、身体を洗い、髪を整え、髭を剃り、着替えをさせる。その手つきは優しく、労りに満ちていた。かつて自分に仕えていた秘書なのだろう、と彼は思うことにした。
最初の頃は恐慌状態を繰り返した。男が身体に触れる度に何をされるか分からない恐怖に震え上がった。ヨーゼフ自身の耳には聞こえなかったが、幾度もその男に問いただした。自分はどうなってしまったのか、元に戻れるのか、お前は何者なのか、ここは何処なのか。掌に指で字を書くか、手を握ることで答えてくれ、と。男は何も答えなかった。幾度もその質問を繰り返し、時には口汚く罵りもした。幾度も同じ質問をされた男は、やがてある時に、答えた。そっと右掌に「知って、どうなるのですか」と指先で書くことによって。それが自分が元に戻れないことを何より雄弁に語っていた。それ以降、質問することはやめにした。今の自分には、知ることなど無意味だと彼は思い知った。自分にできることは、何もない。
そして、もう一人の男は彼のよく知る男だった。
世話をする男から事実を突きつけられ、全ての問いを放棄した頃に、もう一人の男は初めてこの部屋を訪れた。そして、ヨーゼフを抱きしめ背中に指先でこう書いた。
「ヨーゼフ、愛している」
その瞬間、総統閣下、と叫んだかどうかは定かではない。でも、それだけは信じられる気がした。声も顔も分からない自分に付け込んで、誰かが騙しているとは不思議に思わなかった。疑うことを放棄したのではない。抱きしめる体勢、頭の上に感じる息づかい、身体から発するにおい・・・・・・記憶の中の彼そのものだった。そして、その後に続いた接吻も閨房の営みも・・・・・・
「ヒトラー」は三日と空けずに訪ねて来ては、ヨーゼフを抱いた。事故以前と変わったことがあるとすれば、その営みがより一層甘やかになったことくらいだ。誰かの身代わりを強要されることも、無理矢理に身体を開かれることもなくなった。こんな身体になった自分を抱こうというのか、と腹立たしく思うこともあった。しかし、以前は考えられないことだったが、彼が拒めばそれ以上は強要されることはなかった。そして、身体を許した時には切ないほどに優しく、男は自分を抱いてくれた。自分の知っているヒトラーはこんなに物分かりのいい男ではない、と疑ったこともあった。自分を哀れんでの変貌か、それともよく似た別人なのか・・・・・・自分にそれを確かめる術はない。こんなに似ている他人はいない、と信じるしかなかった。その諦めもあり、繰り返される甘美な時間に、心は静かにとろけていった。
そして、今も、ヨーゼフはその男に肩を抱かれてソファに座っている。この「ヒトラー」を愛している、と彼は思った。もし今一度、光を取り戻せるなら彼の瞳を見たい。もし今一度、音を取り戻せるなら彼の声を聞きたい。しかし、それが叶えばこの甘やかな時間は終わってしまうだろうとヨーゼフは不安になるのだ。
もし、この男が「ヒトラー」でなかったら・・・・・・それはとても恐ろしい。利用され、身体を汚されたからではない。それはあれほど愛し崇拝した男が、不具の身体となった自分を捨てたことに他ならない。そして「ヒトラー」であったなら・・・・・・それは以前に戻ることを意味する。死んだ女の身代わりとされ、自由を奪われ、「調教」と称して拷問され、それに耐えても決して彼を独占できないことに苦しむ日々に・・・・・・
(今のほうが、幸せだ・・・・・・)
不意に溢れてくる幸福感を堪えられず、ヨーゼフはそっと男の頬に唇を寄せた。そして指先で男の唇を探り当てるとそこに自分の唇を重ねた。男は、「ヒトラー」はそれを受け入れ、そっと舌を差し入れてきた。監禁される、という点では今も変わらない。しかし、彼は自分だけを見てくれる。自分だけの彼でいてくれる。それもまた、ヨーゼフの現実である。
(これでよかったんだ・・・・・・)
感覚の大半を喪失したことと引き替えに、自分はようやく彼に愛された、彼を手に入れた、とヨーゼフは思った。たとえ、それが人形として愛玩されるだけの存在になることであっても。現に、「ヒトラー」はこんなにも優しく自分を抱いてくれる。男は服を脱がし、体に接吻を落としながら、ヨーゼフの背中に指先でそっと言葉を紡いだ。
「ヨーゼフ、愛している」
ヨーゼフは無上の幸福感に微笑んだ。
人形遊びの時間は流れてゆくーーゆっくりと、甘やかに、永遠にーー
伯林愛玩人形