第一章 Mika

私は長年こういうSFのような物を書きたかった。
ご賞味を。

第一章 「Mika」

第一章 「Mika」


僕の体に何かが降ってきた。青いカーテンを閉め切ったまま、ほんの少し明かりが見える景色は薄っすらと灰色の明かりを見せていた。まだ5時半だぜ。もう少し寝かせてくれ。学校が始まるのは8時半だ。僕の掛け布団に降ってきた「何か」は、錘のように重たくもなく温かなぬくもりを感じさせていた。重くも軽くもない「何か」は僕の体を起き上がらせようと跳ねていた。いや遊んでいるのかも知れない。「何か」はひょこひょこ僕の体の上をねじ上ると、また跳ねた。僕は胃を思いっきり踏みつけられると、うっと唸った。それを見掛けた「何か」は要らん言葉を発した。
 「人間世界ってやつは面白いところだな」
僕は目をこすりながら起き上がると、そこに居たのは小動物だった。何だ? 僕はペットも飼っていないしハムスターだって飼っていない。小動物をまじまじと見ると、なにやらモルモットだった。モルモットが喋っている。喋っているぞ、僕の掛け布団の上で。僕はもう一度自分の部屋を見渡した。週間バスケットの雑誌と、数学の教科書が左斜め方向の机にある。白い絨毯の上には片付けてもいない埃が舞い上がろうとしている。僕の部屋に変わりはなかった。ただ変わっていたのは、この喋りやのモルモットだけであった。僕は正常だよな、と頭を何度も掻き毟り、モルモットを見た。モルモットは話したり飛び上がったりしないだろう。それより何より、人間の言葉を発したりだなんて、しないだろう? なあ、先生、しなかったよな? 科学の先生に訴え掛ける様に、僕はカーテンの隙間から光を見た。振り返るとモルモットはそのまま、僕の机の上に素早く乗り移り、数学の教科書をぱらぱらとめくった。
 「数式か? まるで役に立たん。私の頭に入っている数式の方が、よっぽど役に立つぞ」
気持ちが悪い。モルモットがぺらぺら喋る筈がない。一体どこから降ってきたんだ。僕に迷惑をかけるな、小動物め。
 「帰れよ、寄生虫め。どこから降ってきたんだかわかんねえけど、迷惑だ」
モルモットは数学の教科書を閉じたかと思うと、僕の掛け布団の上にぼんっと落ちた。きょろきょろ辺りを見渡したかと思うと、
 「迷惑……よくイスラム教徒が発していた言葉だった。私が生まれる前にイエスは逝ってしまった。君は現代社会にいる生き物だろう」
 「ああ、そうだよ。イスラムだかイエスだかなんてこの世に存在する訳ねえだろ」
首を傾げたモルモットがぱっと小さな手を広げ、操り人形の様に念じていた。ただモルモットの姿でいれば可愛いだけなのに、「何か」が入っているだけで可愛げがちっともなくなる。するとぱっと僕の前に出したのは、綿菓子だった。青い綿菓子は僕の胸に当たったかと思うと、魔法の様に自分のところに戻し、モルモットはそれを旨そうに食った。こいつは一体なんなんだ。魔法使いか?
 「ああ、旨いな。君は自分が誰かに狙われているのか判らないのか?いい加減目を覚ませ。私は代四さまに命じられた代三の命者だ」
こいつは綿菓子を平らげたあと、
「かのイエスが言っていた。私はそれに命じられてここに来ただけなのだ。人間社会を苛める為にやってきたわけではない。つまり君を救う為にやってきたのだ」
「救うだって? はは。馬鹿なこと言うなよ。ここは日本。平凡に暮らしてるただの高校生。核兵器も持ってやしないし、何も起こらない」
「人間に扮した邪悪な者がいるのだ。その者から君を守らなくてはならない」
僕はモルモットの言う言葉を無視して、三時間ほど眠ることにした。馬鹿らしい。これは夢だ。大体モルモットが喋ること自体がちゃんちゃらおかしいのだ。青い布団を覆い被さって、僕は今日の授業のことを考えていた。今日は英語の時間に(一番大嫌いな科目だ。なくなればいいんだ)、体育、書道の時間に数学が終われば学校から開放される。大きなあくびをしたあと、再び寝た。僕をからかう奴らは適当に無視すればいいさ。そうさ、あの子のこと、美香のことだって、胸を痛める必要もなくなる。寝不足な頭に部屋をノックする音が聞こえた。母さんか……もう学校の時間か。僕は起き上がってよろよろとドアの方に向かって開けた。ノックし続ける音にうるさくなって勢いよくドアを開けた。
「俊太郎、学校の時間でしょう? とにかくご飯を食べなさい」
僕は机を見た。やばい。やばすぎる。
 「何か隠そうとしてるのね? 大丈夫。怖がらないで」
母さん? 怖がらないでってどういう意味だ?あのお喋りモルモットは、ペンを手にして何か書いている。人間社会のことを知らないのか。動物がそんなことをするわけないだろ、辞めろよ!僕はモルモットを右手でがっと掴むと、ペンは下に落ちて、ころころ転がっていった。
「はは、母さん。こいつ母さんに内緒で飼ったんだよ、な、可愛いだろ」
首根っこを掴まれたモルモットは苦しそうに僕の親指をよじ登ろうとしていた。モルモットも学んだのか、じたばた動くふりをするだけで何も言わなくなった。
「そう、判った。でも全部知ってるからね」
「なんだって?」
僕は母さんのことがあまり信じられなくなった。全部知っている、だって?一体何をだ。母さんがドアノブを占めると、僕はふう、とため息をつくとモルモットを下に落としてこう言った。しかし今の母さんの言葉は聞き捨てならなかった。実験台も知らないらしい。
「いいか、ここは人間社会なんだ。動物が喋ったりなんだりするところを、万が一誰かに見られたらどうする! お前は実験台にされるぞ」
「私を守ってくれたのか俊太郎。それは有難いことだ。私は人間社会のことをあまりよく知らない。教えてくれ」
ああ、やはり夢ではなかったのか。僕は半分眠りながら学校の準備をして、とぼとぼ住宅街が密集する道路沿いを上った。僕の家の近くだが、ちょうどぶどうの木がなっている。この時期にぶどうというのもなんだが、涼しげに感じられた。今日も暑いな。それに毎回毎回この坂はきつすぎる。モルモットは僕を凝視しながらバッグの中から観察していた。こいつに何度も学校へは来るなと言ったのに、こいつは僕の体をよじ登って顔を引っ掻きながら行くと言ってきかなかったのだ。手すりに掴まりながら上る僕を見て、バッグの中にいるモルモットがチャックを開けてこう言い放った。
「お前は体力がないな。代四さまが人間をあなどるんではないぞと言っていたのに」
「黙れこの実験台」
モルモットは目を二度三度開けたあと、
「実験台にしないようにしてくれたのは君じゃないか。矛盾しているな」
僕はチャックを思いっきり閉めたあと、手すりに掴まらずに上っていった。その先に校門がある。学校に登校するだけで汗だくなのはまっぴらだ。鐘の音が鳴ったので、急いで校門に到着した。それに汗だくなのは僕の体力がないせいじゃない。こいつが錘の様にバッグの中にのめり込んだからだ。朝7時頃に決して皆の前に出るなと忠告しておいたが、大体こいつが来たら何が起こるか判らないだろう。僕はバッグのチャックを、モルモットの力では開けられないようにきつく閉めておいた。教室に着いた時には、もう生徒達が席に着いていた。僕の親友の健一もいた。まさか健一も、この黒いバッグの中に動物が存在しているだなんて思わないだろう。おかしすぎるし、こいつがいつ何を話し出すか判らない。僕は美香の隣の席に座った。挨拶をしたあと、僕はこの子のことを考えた。この子は僕のことをどう思っているのだろう。バスケの試合で目立たなかったから、あまり興味が沸かなかったのかな。明日から夏休みだが、僕には部活がある。美香も見てきてくれるかな。
「俊太郎」
頬杖をついて黒板を見ている僕に声を掛けてきたのは、あいつだった。あのチャックを小さい手でこじ開けたと言うのか? ふざけるな。僕はまたチャックを閉めた。しかしまたチャックを開けるので、いい加減辞めてくれと言わんばかりに小声で言った。
「何だよ、授業始まるんだよ」
「あっちを見るなよくれぐれも。ちょうど向かって左斜め45度だ」
45度だって? あっちの方向の席には、僕をからかう奴らと健一がいる。それがなんだと言うのだ。危険を及ぼす存在だって? 笑わすな。僕はこいつの言うことを無視して、親友に消しゴムをぶつけた。健一は消しゴムに書いてある『アホ』という文字を見て笑っていた。するとまたこいつがチャックを開けて僕に言った。
「見るなと言ったろう!」
その声は授業中の教室全体に響いた。僕は慌ててアイポッドから流れたものだと、先生に言った。左手でバッグの奥底にモルモットを押し込めると、健一が薄ら笑いを浮かべるのが判った。あいつが薄ら笑いをする訳がない。気のせいだと自分に言い聞かせた。モルモットの首がぴくっと動いたのが判ったが、それだけだった。

                       ☆

廊下の窓ガラスを開けて、生温い風を浴びながら、僕はバッグに向かってこう言った。生徒達がぞろぞろ帰る頃に、おかしな独り言を言うしかないのだ。
「まだ怒ってるのか? もういいだろ、終わったことだよ」
モルモットはむすっとしているのか潜り込んでいつまでも話そうとはしない。健一を見たからか? それともからかう奴らを見たからか? 何にせよ、僕は悪いことなどしていない。こいつが勝手に喋りだすから変なことになるのだ。僕もどうかしている。こいつなんか、喋りだした途端に窓から放り投げればよかったのだ。くそ。
「……そうだな。俊太郎の言うことは正しい。見てしまったものは仕方がない。だがやってくるぞ、ディアボロスという言葉を知っているか」
「知るかそんなもん」
僕は自分は関係ないとでも言うように、窓から紙くずを投げた。遠く投げた紙くずは、案の定下に落ちただけで、見えなくなった。生温い風に吹かれて、僕の髪は目に当たった。うざったいというように左手で掻き揚げると、モルモットは言った。
「簡単に言うと、新しい聖書にテモテへの手紙というのがあってな。ディアボロスせず、つまり何者にも中傷せず、妨害せず、という意味なのだ。君を見たあの少年は、ディアボロスしてくるぞ。しかも殺そうと、何度でもやってくる。以前にもなかったか」
僕はちょうどこいつがやってくる前の頃を思い出していた。確かにからかう奴らは僕を苛めようとバスケのボールを何度でもぶつけてきたし、健一は……健一は、ただ僕を見つめているだけだった。健一がそのディアボロスしてくる奴だというのか! 馬鹿らしい。健一はただ僕を助けられない自分に腹が立っているだけだったと思う。健一がそんなことをしてくる筈がない。あの僕の親友が、けしかけてくる筈がない。僕は頭の髪の毛をぐしゃっとやると、こいつのせいだと何度も思った。こいつさえいなければ、何事もなく平穏に暮らしていけた筈だ。僕はキリスト信者でもなんでもない。ではこいつは何者だというのだ。ただ僕を生贄にして食っちまおうって魂胆なんじゃないのか。僕がモルモットを左の拳でぶち殺そうと思った瞬間、健一が僕の所に駆け寄って来た。健一、全部お前に言ってやってもいい。助けてくれ。バッグの中にいる正体を全部ばらすから、助けてくれ。モルモットはそれに気がついたのか、早く逃げろと言いやった。僕が健一の所に行こうとすると、黒いバッグが僕の右手を引っ張って、離そうとしない。両足が後ずさりする様に、物凄い力で僕を健一の元へはやろうとしない。何て力なんだ。僕はバッグを手放して、健一の元へ行った。健一は僕を見遣ると、少し離れたバッグを横目で見ただけで、僕に何も話そうとしない。おかしい。僕は健一に言った。
「助けてくれ。あのバッグの中に入っているのは……」
すると健一が言う筈もない何か判らない言葉を言うと、僕を手のひらで吹っ飛ばして廊下の壁に追いやった。僕は壁に頭をぶつけたかと思うと、目がくらくらして前がよく見えなかった。何もかもが二重に見える。僕が右手で頭を抱えると、モルモットがバッグから抜け出してウサギの様に跳ねて行った。そして何か言うのを聞いた。台風の様に風が舞い上がるのを見遣ると、それと共に僕は浮き上がった。バッグも埃も舞い散るのが見えた。すると台風の目の様なものが健一の体にどんっとぶつかったのが判った。健一が唸ると、再び起き上がった。
「辞めろよ!」
するとモルモットは僕の姿を見た後、
「こいつは君の親友なんかではない。邪悪な者だ!」
と叫んだ。
「代四さまに頼み、殺さなければ、君も死んでしまうぞ!」
「なんだって?」
台風の目と黒いうじゃうじゃとした牙とが一騎打ちしているのに目をとられて、モルモットが何を言っているのかよく判らなかった。なんだこのスターウォーズみたいな光景は。小さな小動物が人間と戦っているぞ。台風の目が健一にしかと向けられているのがよく見える。健一の牙は蛇のようにうごめいていた。普通ならばこんな動物は死んでいるのに。ただこの戦いと言えるべきものだけが、僕の心の中からこの『健一』を追い去ったのだけは判った。健一、お前は健一じゃないのか? モルモットは違う呪文を唱えると、右手をゴムの様に伸ばして健一の心臓に突き刺した。緑色の様な血が噴出したかと思うと、健一は廊下に倒れた。浮き上がった体が健一のあとに続いて降りたかと思うと、僕は健一の元に行った。緑色の血が、幾度も流れるだけで、健一は何も発しなかった。その血が僕の左手に当たると、僕は人間に流れる血ではないと瞬時に判った。人間が緑色の血を流すか? 僕はあの健一とこの『健一』を反芻すると、何かが違うと頭の中では判った。しかし倒れた健一を見ると、あの頃の健一とは変わりはなく、僕は必死に訴えかけた。あんな光景を見ていても、健一は健一なのだ。
「健一、僕だぞ。俊太郎だ」
僕は死んだのかとモルモットを凝視したが、モルモットは首を振った。僕は何が起こったのかいまいち判らないでいると、こいつがまた口を開いた。
「俊太郎。今はまだ判らなくていい。ただ、僕はこの少年を殺すことはできない。人間に乗り移った悪を殺すことは、私にはできないのだ」
「殺す、だって?」
僕はモルモットをにらめ付けた。こいつには、僕と健一との絆が判らないのか。人間を殺すのはお前じゃないか。よくも健一の胸を突き刺したな、悪党め。
「お前はよく軽々しく人間を殺すだなんて言えるな! 実験台にしてやるぞ!」
「俊太郎……私は君の気持ちがよく判る。だが部活にはもう行くな。こいつは補習には来ないだろうから、学校には来てはいいが、危険だ。私は代四さま、つまりキリストさまに命じられたのだ。最もキリストは次々と変わっていくが……とにかく君は強く賢い生き物なのだ。どんなものも消し去る、もしくは救うこともできる。悪にとって、君は邪魔なのもの。だから反撃に来るのだ」
モルモットは毛づくろいをしたかと思うと、
「ディアボロスに来るのだ」
ディアボロスだか悪だかキリストだか知らないが、あんな凄まじい戦いを見た後に言えることではなかった。だがこいつの言う通り現実を受け入れなければという思いもあった。健一は緑色の血をすっと消し去ったかと思うと、僕を見ずにすたすたと歩き去って行ってしまった。健一、僕はもうお前の親友ではないのか? すると美香が夏休みの宿題を少し終えたのかと、職員室に入っていくのを見た。美香も危ないのではないのか。また健一がやってくるのではないのか。僕は自分の心臓の音を聞きながら、他の生徒達の身の危険を察知した。なんだ? 心臓の音を聞くと何かが判るのか。仲間がいるような気がする。僕の仲間が。僕はよろめいた足で職員室に入っていくと、何かを感じた。先生達が僕を見ると、白いシャツに緑色の血が少しついているのだと判った。科学の先生が僕を見ると、少し怪訝そうな顔で見た。
「お前、勝手に実験室に入ったのか」
「違います」
僕は科学の先生の後ろを見ると、あの子が具合悪そうにビニール袋に吐いているのに気がついた。バッグの元に入ったモルモットも、それに感づいている筈だ。モルモットは小声で「あの子は病魔にかかっているぞ」と言った。どうすればいいんだと僕は訊くと、私がここで治せればいいのだが、人が目立って治すにも治せないと言った。やっと人間社会というものが判ったか、と反面思ったが、いや違う、全て僕の為にやっているのだと思った。科学の先生はじっと僕を見遣ると、関係なさそうにそっぽ向いた。何も用がないのなら職員室から立ち去れと促すと、僕はあの子に用事があると言った。そして職員室の椅子やら机をどけながらベランダに近い位置にいるあの子の所に行った。彼女は普通の堰ではなく、まるで肺から全て息を吐き出す様な堰をしていた。苦しそうだったが、僕にできることは何もなかった。古典の先生が彼女の背中を撫でながら僕を見つめた。しかし何も言わなかった。
「彼女を職員室から出せ、俊太郎」
僕は適当な嘘をついて職員室から彼女を出そうと思ったが、どうにも思いつかなかった。モルモットは苛々し始めているのか、かばんの中で呪文を唱えたかと思うと、職員室の先生達全員を眠らせてしまった。次々と倒れていく先生達を見て、僕は唖然としてしまった。ベランダの風と人間が倒れた勢いでどんどん紙が舞い上がる。死んじゃいないよな……?と、一人の先生をしゃがんで見ると、どうやら息を吸っているようだ。しかし、開いた口がふさがらないというのはこういうことを言うのだ。こいつって、なんでもできるんだな、と感心していると、バッグもろとも僕と彼女を両手で廊下に放り出した。彼女は再びあの堰をすると、嘔吐した。聞きたくもない堰がどんどん僕の耳に入り込んでくる。彼女の顔が蒼白になっている。彼女は何の病気にかかっているのだ。
「これは難病だな。再生不良性貧血だ。最初はあまり目立たない病気なのだ」
「なんだそれ」
モルモットは再び毛づくろいをして、
「骨髄の造血能力が低下していき、赤色髄が減り、脂肪髄が増えていく難病だ」
「もっと判りやすく言えよ」
「つまりは全ての骨髄が脂肪に変化してしまうのだ。医者は何をやってるんだ」
よく判らないと言った風に僕は首を傾げると、モルモットは仕方なくと言った様に呪文を唱えた。両手をぱっと開き、何か喋っている様子を見ると、まるで操り人形だ。するとふわっとした真珠の様な玉が転げ落ちた。それを見ると、万華鏡の様にころころと色に変化を見せた。小さなその玉は廊下全体を照らしていた。黄色や赤、紫に青の色達は透明な光を放っている。その不思議さに、僕はまじまじとその玉を見ていた。まぶしい。とにかく彼女が助かるならそれでいい。
「これを飲ませろ」
「判った」
僕は彼女の口を押し開けると、その玉を入れた。無理やりにでも飲んでくれと言うように顎を閉じさせた。彼女は一瞬顔をしかめると、喉の奥に入った様子が見えた。
「治るのか」
モルモットは当たり前だと言うように、
「治る」
と言った。みるみるうちに彼女の顔色がよくなっていく。虚ろにしていた目も、段々と開き始めた。彼女の中に玉が入ったお陰で、彼女は治ったのか。
「さて私は再びバッグの中に入るとするか」
中に入ろうとよじ上るモルモットを見て、
「お前はナイチンゲールなのか」
と言った。モルモットはそれはなんだと言う様に僕を見た。
「ナイチンゲール? 人間の固有名詞はよく判らん。とにかく彼女が起き上がる前に私はバッグの中に入らないと、それに疲れた」
そう言ってよじ上りバッグの中に入るのを確認すると、僕は彼女の頬を叩いた。彼女はゆっくりと起き上がると、自分の体の調子に驚愕したのが判った。体が重くない、と言った様に、すっと僕の前に立つと、ラジオ体操の様にジャンプした。こいつは悪者ではないのだ。さっきの決闘も僕の為にやったのだ。しかも彼女までをも救ってくれた。ああ、お前は何の為に来たのか、お前が何者なのか、いまいちよく判らないが、とにかく悪者じゃない。ただ、事実を言うだけのお前は、僕の勘に触ることもある。
「なんなの? これ。今までの体の調子が嘘のようだわ」
彼女は僕に目を向けると、今までのことはなんでもなかったんだと言った。ただの気の迷いだったのだと、そう言っただけで、僕はバッグを持って立ち去ろうとした。
「あなた、名前なんだっけ」
僕は左手で頭を掻くと、
「鈴木俊太郎だよ」
と言っただけで、少しかっこつけ過ぎたかな、と思った。モルモットもそう感じたのか、バッグの中からばか者めが、と言った言葉が耳に入ってきた。僕は家路に着こうと真夏のくそ暑い中を、右手にバッグを持ちながら、なぜかすっきりとした気持ちで歩いていた。モルモットは何か伝えることがあるかのように、バッグの中をよじ上り、ちょうどチャックのところにぶら下がった。ただ黙っていれば可愛い動物なのにな。
「いいか俊太郎。僕は君に伝えなければならないことがある。まず掟の一つに、私は呪文を一日に10個しか使えないこと、使わないこと。二つ目に、呪文を使う度に体力が低下していくこと、低下したと判ったらすぐに辞めること。三つ目に、乗り移った人間を殺すことができない、しないということ。四つ目には、人間を殺すことは許されない、ということだ。これらを、特に三つ目と四つ目をすると、私の階級が下がる。そして私の命者の役割をも終えて、天国でも地獄でもないところへ行かされる」
淡々と説明した言葉に、僕は三つ目と四つ目の掟とやらに思考がいった。
「健一はどうなるんだよ」
「邪悪な者に獲りつかれた人間は、私にはどうしようもないのだ。悪に獲りつかれたまま、寿命を過ごすか、そのまま死ぬかどちらかだ」
そんな、お前は救済者なのに人間を救うこともできないのか? 僕は道路沿いを下ろうとする足を止めた。左手には大きな赤いレンガ作りの住宅があって、猫が僕の足元を通り過ぎた。何かに気づいたのか、猫はバッグに威嚇し始めた。僕は猫を少し蹴飛ばすと、怯えて逃げ去って行った。
「何をする。あれは生き物だぞ。むやみに蹴飛ばしては……」
「じゃあどうして健一を救うこともできないんだよ!」
僕は住宅街に響くような声で叫んだ。あまりに不憫だ。なぜお前は言う言葉と行動が一致しないんだ。事実だけを残酷に発するだけで、行動はというと違う。
「俊太郎、そんなに健一が大事なのか」
モルモットは再び淡々と言葉を発するだけであった。まるで自分には関係のないように言う。冷酷な感じもするような目は、普通のモルモットには存在しないだろう。
「大事だ。友達なんだよ! それを見捨てる訳にはいかないんだ。なあ、何か方法はあるんだろう? 健一をあのけだものから救う方法が」
「ああ、あることはある。だが危険だ」
危険なんて構うものか。健一を救うことができれば、それでいいんだ。僕は家路に着くと、途中で図書館で借りてきたナイチンゲールの本と、人間の歴史の本をこいつに読ませた。こいつは机に飛び移ると、貪る様に読み耽った。途中で考え事をしたかと思えば、ノートに何か判らない言葉を書き写した。僕はというと格別何かをするということもなく、ベッドに横になって、ただ雑誌を読んでいた。勉強は嫌いなんだ。嫌いだが、こいつに任せればなんでもできるだろう。受験もすぐ受かるんじゃないか。僕は雑誌を置いて、また、心臓に手をやった。何かを感じる。誰かの話し声が聞こえるが、それが誰かはまったく判らない。ただ僕の仲間が、僕を呼んでいる様な気がした。よく耳を澄ませてみると、爬虫類に乗り移った使い者が僕の所にいつまでも居座って離れようとしない、ということだけ聞き取れた。僕は息を切らせながら心臓から手を離して、大の字になった。心臓に手をやると疲れる。たった一分間の時間だけでこんなに疲れるのか。まるで400mリレーでもしたかのように、僕の額から冷や汗が流れた。
「おい俊太郎。このナイチンゲールは素晴らしいな。実に平等に他人を救っている。負傷者達に見返りをも求めず、最期は病魔で死んだのだな。実に素晴らしい!こんな人間も居たということは、この現代社会にも伝わるであろう!」
なあ実験台。僕はそれどころじゃないんだ。どうして心臓に手をやると声が聞こえるんだ? 何かを感じるんだ? 勉強熱心なのは判るが、少し僕の疑問に耳を傾けてくれ。モルモットは僕の身に何かが起こると、すぐ判るらしい。僕の心臓に手をやろうと、間違えて僕の顔面へ到着しようとした。何するんだ! そこは心臓じゃなくて僕の顔だ! こいつはおっと間違えた、と言うように、息をついた。 爪が痛くて思わず息を吹きかける。こいつは僕の体の上を歩くと、心臓に手をやった。
「ああ。これは私の戦いを見たからだな。少しばかり私の力が君に宿ったらしい。だが逆を言えばこれは良い見方としてもとれるぞ。君が借りてきた本をすべて読んだが、人間は逆上をすると何をしでかすか判らないらしいな。火事の馬鹿力、というのか」
こいつはどこでそんな日本語を覚えてきたんだ? 僕は頭の中に疑問という疑問が炸裂して、ついにこいつに言った。
「お前、どこで日本語を覚えてきたんだ。どこからやってきたんだ。それに何者なんだ。僕に何の力があるんだ? そして心臓の音は何なんだ、それに健一を救う方法はなんなんだ」
「俊太郎、そんなに疑問を並べ立てても、私が一度に答えられる筈がないだろう」
モルモットは僕の心臓から手を離すと、ゆっくりと答えた。
「まあ、すべてを話すのには少し早い。が、私は天界からやってきた、いわば使い者なのだ。そして代四さまに日本語というものを教えられた。ペットショップとやらから、こいつに乗り移り、現代の人間社会、つまり君の居場所へとやってきたのだ。さっきも言ったろう。君には恐ろしい力が宿っているのだと。悪を消すこともできるし、善を救うこともできる。心臓の音は、私の戦いのせいで少しばかり力が宿ったのだ。それに健一という者を救うには……」
モルモットは暫く黙ったままで、何も言おうとしない。小さな口を開いたかと思うと、大きな歯が剥き出しになっただけで、その口を閉じた。
「何だよ、言えよ、肝心なことだろ」
「私の魂を売ることだ」
                          ☆

僕が起き上がってモルモットの目をじっと見つめると、その目は酷く力がないように思えた。こいつは大きく息を吸って吐いたかと思うと、うな垂れる様に僕に言った。
「私は君を守るためにここへ来た。健一を救ったあと、君はどうするつもりなんだい」
僕は考えた。今の僕に力はない。その悪とやらにやられるのがおちだ。しかし健一を救わなければ、僕の立場はどうなるんだ? 見捨てたまま、友達を放って置くのか。
「私は自分の立場を棄てるつもりはない。なぜなら君が殺されてしまうからだ。先ほど私は言ったろう。君には私より遥かに大きな力を持っているのだ。それを引き出すことができるのなら、君は健一を救うことができるだろう」
方法はそれが一番いいとモルモットが言うと、僕はどうすればいいのかと尋ねた。父親が帰ってくるのが判ったが、それを無視し、こいつの言うことをきいた。こいつを殺しても、得られるものは数少ない。ないと言っても過言ではないだろう。モルモットはまず、自分の仲間を探し出すことだと、そう言った。自分の仲間……つまり僕の仲間でもありこいつの仲間でもある。仲間を探し出す為には、また心臓に手を当てて、声を聞くことだと言った。しかし苦しいんだよ、なあ実験台。僕とモルモットがベッドの上で作戦を練っていると、急に母さんが入ってきた。
「俊太郎、夕ご飯できたけど……」
僕は母さんに、言ったこともない言葉を発した。
「それどころじゃないんだよ!出て行け!」
母さんは目を見据えたまま、僕を見た。モルモットはシーツの下に潜り込んで、黙っている。母さんは目に涙を浮かべてゆっくりとドアを閉めるだけであった。僕は母さんの後姿を見て、一息ついた。母さん、僕がこいつの正体をばらしても、どうせ信じないだろう? 母さんにも父さんにも危険が及ぶだなんて、判らないだろう? 僕と母さんの間に距離ができたのはこれで知ったが、みんなを救うためにはこれしかないんだ。判ってくれよ、なあ母さん。僕はシーツに潜り込んでいるモルモットを叩き起こすと、シーツの隙間から顔を出した。なあ、どうして僕がこんな目に合わなければならないんだ。
「ああ、俊太郎か……少しばかり寝ていた。すまぬ。君の母上には申し訳ないと思うが、全体的に物事を捉えてみろ。私がいなければ、今頃この社会は全滅しているぞ。苦しいだろうが、もう一度心臓に手をやってみてくれ。私には判らないのだ」
「ああ……判ったよ、やればいいんだろ!」
僕は再びベッドの上に仰向けになり、心臓に左手をやった。目を閉じて静かに音を聞いた。モルモットはいつでも僕の助けになるように、呪文の準備をしている。今度は何か聞こえてきた。聞こえてきたぞ! 途切れ途切れになる言葉が聞こえてくる。僕は必死に耳を傾けた。なんだって? 僕はその声に質問をした。『どこにいるんだ? あたしも動物と一緒に暮らしてるんだ』 その声はゆっくりだが答えた。『屋上……テイタスビル』 はっきり聞こえた。僕の耳に劈く様にはっきり聞こえたその声は女の声だった。僕は居場所が判ると勢いよく左手を離した。左手が壁にぶつかったかと思うと、そのままシーツの上に落ちた。そして額から滲み出る汗を右手で拭き取った。息が苦しい。しかしやっと判った。テイタスビルだ! 女の子が集うあの服専門店だ!
「なあ、テイタスビルに、屋上に、女がいる。爬虫類に乗り移った奴がいるみたいだ」
モルモットは目を見開いたかと思うと、よくやったと両手を閉じた。
「よくやった。しかしその屋上に上ることができるのかい?」
「できる訳ないだろ! 階段はあっても、鍵がかかってる」
「では飛ぼう。君が街中にいては、狙ってくる者どもが襲ってくるぞ、しかも大勢の人が死ぬ。空に居た方が、まだ君の安全も保証できる。しかし油断してはならぬぞ」
空を飛ぶだって? 僕は哺乳類動物が空を飛べる訳ないだろうと、こいつに言ったが、ただ乗り移っているだけで、私はモルモットではない、と言った。こいつは窓ガラスを両手でこじ開けると、生温い風が僕の肌を覆った。夜の6時。まっすぐに目をやると、瞬くように星が照らしている。この三階から下を見下ろすと、気が遠くなりそうだった。ここから飛び降り自殺、なんてことも頭を過ぎった。『高校二年生、鈴木俊太郎、受験のストレスから飛び降り自殺』 ああ、気色悪い。モルモットの右手が僕の左手を掴むと、勢いよく部屋から脱した。僕は外から一気に追い出されたかと思うと、僕の体が下に落ちていくのが判った。世界記録保持者よりも物凄いスピードで下に落ちて行った。下の自動車にぶつかりそうになると、ぴたっと止まった。僕は叫び声をあげるだけで、モルモットはこれが普通なんだと言った。僕を真っ直ぐ上に飛び上がらせようとすると、そこから上下に動いて、また僕を空へと力ずくで押し込んだ。押し込んだこいつの手が離れると、僕は下の景色を見た。実に不思議な感覚だった。まるで夢に見た光景だった。下に見える物を見下しているかのように、浮かんでいる。プールに浸かって自分の体を泳がせているものと似ていた。浮かんでるぞ!星がすぐそこに見えそうだった。掴まえようとじたばたするが、そこに停滞するだけだった。
「なあ実験台。僕はこれからどう飛べばいいんだ」
「軽く手を伸ばせば、その方向に飛んでいく筈だ。私はその場所を知らない。君が私の目となり案内役となる。もしも乗り移った悪がいれば、悪を人間から離し、私が殺す。悪だけを殺すならば、私の階級も下がらない」
「どうしてそれを教えてくれないんだ。健一もそうすればいいだろう?」
モルモットは残念そうに空を見遣った。
「健一に乗り移った悪は、もう体を乗っ取っている。私の力ではどうしようもない。悪という者は、弱い人間に乗り移るのだ。特に精神的な」
僕はテイタスビルに行こうと右方向に手を伸ばした。するとバランスを崩しながらも僕がいう方向へ飛んだ。テイタスビルは僕の家から見て約200m。もう少しだ。テイタスビルが見えるというところに着くと、何か判らない呪文を唱えた人間がいた。僕は後ろを見ると、実験台は既に準備をしていて、人間から悪を追い遣った。人間から離れる悪を見ると、ちょうど小さいこうもりの様に見えた。人間はそのまま下に降りていくかと思うと、ぴたりと静止し、ゆっくりと地面に落ちていった。実験台は悪とやらの心臓に向けて、再びゴムの様に伸ばしたかと思うと、突き刺した。気持ちが悪いうめき声を出したかと思うと、僕の前からガラスの破片の様に消え去った。モルモットは早く行けと促すと、僕はテイタスビルの屋上に辿り着いた。着地するのがまだ下手糞なのか、コンクリートの上に無様に転がった。右手首を捻った様だ。目の前にはすぐ火災報知器があって、後ろを見遣ると手すりがある。僕は蹲っている女の子を見ると、女の子の首に蛇が巻き付いているのが判った。うねうねと動いている蛇を見ると、思わず反吐がでそうだった。僕は女の子に話しかけようとすると、先に蛇が口を開いた。
「おお。代三使いさま。こいつが救世主なのか? 随分よわっちい奴に見えるな」
実験台はその蛇に向かってこう言った。
「私に向かって、その言葉遣いはないだろう。少女の首に巻きつけば、少女は怯えるだけだ。それにお前は私の手下だ。その子を助けなければ、いつでも殺すぞ」
蛇は驚いて女の子の首からするすると離れて行った。舌を長く伸ばすと、実験台の口元へやった。ひえ。蛇がモルモットを脅かしている。僕は女の子に近づいていくと、女の子は震え上がった様に蹲っている。この蛇のせいで女の子はこの屋上から抜け出せないでいるのだ。しかしどうして屋上なんかにいるんだ。
「おい代三使いさま、知ってるだろ? おれぁ人間を殺すこともできるんだぜ。この女を生かすことも殺すこともできる。何が使命だ。おれぁ居心地のいい天界に戻りたいぜ、代三使いも判るだろ? こんな危なっかしい人間世界にいつまでもいたくねえ」
実験台はため息をつくと、蛇に向かってこう言い放った。
「お前はいつそんな言葉遣いを覚えた。この子を殺せばお前の階級も下がるのだぞ。なぜお前がこの少女を守ろうと人間社会にやってきたのかわからぬが、もしもこの少女を身の危険に置いたとなると、私はお前を生かしてはおけん」
「わーかったよ。こいつぁ寄生虫博物館が好きらしいんだよ。だから乗っ取った。んでもっておれぁ空が好きでね、こいつの首に巻きついてここにきたんだよ。今のキリストっちゃ何を考えてるか判らねぇな。俺なんかを人間社会にやるとわな」
僕は奇妙なやり取りを見続けながら、女の子を守るように肩に手を添えた。大丈夫だ。僕の居場所にやってきたのは身を危険に晒すものではない。そう言い聞かせると、彼女は少し安心したのか、震え続ける肩が正常に戻った。僕は蛇をにらめ付けた。
「お? やるのか? 人間。そんなやわっちい体でおれを倒せるとでも思うのか?」
一瞬その言葉に怯えたが、僕は負けじと蛇に向かって言った。
「人間を殺すなら、僕はお前を殺す。殺せないとでも思ってるのか?」
蛇はその言葉を訊いたかと思うと、瞬時に後ずさりした。何か僕の異変に気づいているとでもいる様な、そんな気がした。なんだ? すると女の子が口を開いた。
 「あ、アンタはどうしてあたしがここに居るって気づいたんだ」
「それは教えられない。僕は親友を助けようと思って、仲間を探した。だけど、君に宿ってるこの蛇は、なんにも判ってくれないみたいだな」
蛇はこちらを見ると、すぐそっぽを向いた。役たたずめ。なあ、実験台。何か言ってくれよ。僕は仲間を探し出して……探し出したあと、何をすればいいんだ? 僕は屋上に吹く風が、嫌みったらしくて、そして健一を救えない苛々が倍増した。その怒りが倍増したかと思うと、一気に風が舞い上がって垂直三角形にするすると変化したかと思うと、空へといった。遠い遠い星空へと空気と共に消えていった。僕は息をきらして風を感じようとするが、風がない。風がないとぬめっと湿った湿気だけが、僕の体に纏わりついた。僕は息を切らしながら三人を見た。フットワークをしていたというのに、やっぱり体力がないのか。三人も、いや、二匹も気づいたかと思うと、驚愕したような目付きで蛇が僕を見た。酸素が少し足りない様な気がする。しかし僕はなんともない。一体何が起こったんだ。しかし実験台もなんともないようだ。女の子が堰をしたかと思うと、
「なんなんだアンタ、魔法使いでもいんのか?」
と言った。蛇はこれはこれはと言わんばかりに、また舌を出して、今度は僕に向けた。
「こいつぁ驚いた。どうやった。本当に救世主なんだろうな?」
疑わしい目で僕を見ると、実験台がこう言った。
「私は俊太郎が、この現代社会に潜まる悪から救う者だとキリストから教えられた。これができるのも、俊太郎だけだ。そしてディアボロスから守るのは、私だ」
実験台が当たり前だと言う様に、蛇に言い聞かせた。いや、女の子に言い聞かせたと言っても過言ではないかも知れない。僕はすべてを二人、いや一匹にも聞かせた。僕の身に何が起こっているのか、僕が実験台に教えたことも言った。この子にはまだ何も教えていないし、寄生虫にはまりっぱなしで蛇がこういう話し方になったんだということも話していない。彼女は蛇に『ヒルガー』と名づけたと言うと、僕はただの『実験台』と弱弱しく答えただけであった。実験台というとあまりに残酷だと思ったのか、彼女はもう少し違う名前をつけたらと言った。風がない、しんと静まり返った屋上では、息を吸う音も聞こえるような気がした。あまり大きな声で話すことではない。僕はまた心臓に手をやると、仲間がまだ2人いると気付いた。敵は4人。4人? おかしい。何かがおかしい。3人の音は聞こえるが、1人は音がなく、感情だけだ。何かおぞましい言葉を言ったかと思うと、僕の精神を痛めつける様に斧で頭をぶった。頭が破裂しそうだ。頭が真っ二つに切り裂かれそうだ。僕は瞬時に心臓から手を離すと、早鐘のように息が収まらない。何か悪ではない、好奇心から産まれた憎悪が僕に話しかけている様だった。誰だ。犯罪者か? 僕は好奇の目で2人に見られているかと思うと、改まって2人の前に立ち上がった。少しよろめいて立った僕を、支えるかの様に、実験台は僕の足をぐいっと押しやった。真っ直ぐに立つと、僕は言った。
「とにかく、協力して欲しいんだ。なんかがいて、僕達を殺そうとしてる」
「協力ってなんだ? キリストの文字に力が4つ入ってるな、協力……協力」
「代二者、協力というものは力を合わせて戦おうという意味だ。少しは勉強をしろ」
ヒルガーはうろたえたかと思うと、彼女はそいつに手をやって胸で縛り付けた。おえ。よく爬虫類なんかに触れるな。さっきの怯え様はなんだったんだ。腹が減って死にそうだとヒルガーが言った。朝、彼女に獲りついたかと思うと、この今までずっと屋上に居たらしい。彼女もまたヒルガーの何度も繰り返す『おまえさんを救いたいが地上にはいたくねえ』との言葉にずっと耐えていたらしい。それは参る筈だ。しかしこうしている間にも健一は他の人間を殺していて、違う何者かも何人か殺している筈だ。
「私は街中に居るのは危険だと思うぞ、俊太郎。だが代二者には食べ物を自ら出す能力はない。街中にいる間は、私達は姿を判らなくしてしまえば、少しは安心して飲み食いできるだろう。代二者もそうだが、空腹だと呪文を唱えることはできない。ディアボロスに来る奴がくれば、君が言葉巧みに騙してしまえばいい。君の言葉の能力というものによるが……」
「あたしにいい案があるよ」
寄生虫好きな彼女は一言発した。
「アベックのふりすればいいのさ、この救世主って奴と」
アベックだって? こんな気持ちが悪い寄生虫好きな、不良と組むしかないのか。僕にはあの子が……あの子が心配だ。いやこの際仕方がないかも知れない。健一を救う為だ。なんだってやってやる。
「あたしは裕美っていうの。さっきのすげえなんかを見たら、気に入ったよ」
裕美は蛇を抱いた腕で僕の腕を組んだ。うわ。易々触るなよ。ぐっと胸に引き寄せられると、もっと気味が悪くて仕方がない。とにかくここは酸素が薄い。僕のせいだが、地上に降りるしかない。僕は実験台に訊いた。
「なあ、とりあえずどこに行けばいいんだ」
実験台は右手を大きな鼻に手をやると、
「ふむ……とりあえずここの右斜め下方向、65度に行こう。万が一何かあった時にはすぐにここに来ることができるからな」
「判った」
僕は後ろを振り返ってすっと塀を飛び越えると、まっさかさまに下に降りていった。降りて行ったかと思うとまた垂直に飛び上がった。裕美達は僕の姿を見ると、遅れて行った様に蛇に連れられて落ちていった。実験台は最後に飛び降りて行った。景色が見える。65度。どこだ。店が密集していてどこがどこだか判らない。風の勢いに乗せられたまま実験台に訊くと、ハンバーガー屋だと言う。ここか。『マクドナルド』と書いてある方向に、人目につかない路地に着地した。今度は失敗しなかった。手をついたが、さほど痛くはない。裕美の首に巻きついた蛇は下手糞なのか、裕美を頭から着地させた。あまり酷い衝撃ではないが、痛そうだ。仰向けに倒れた裕美を哀れみの目で僕は見ると、蛇は代二階級にそんな特別なことできるかと反論した。上を見ると、二足立ちで実験台が降りてくる。うわ。んなことして降りてくる動物がいるかってんだ、小動物め。実験台がすとっと降りると、動物の動きに戻り、蛇に姿を消す様促した。姿を消しても、そこには存在するらしい。一時的に姿を消しても、何かあれば、すぐに姿を現す様だ。夜の繁華街には人が大勢いる。麻薬の取引をしている人間や、夜の仕事で疲れきったサラリーマンもいる。誰が敵だかさっぱり判らない。僕は周りを見渡しながら路地から覗いていた。しかし心臓に手をやれば、なんとなくだが判る。疑わしき者がいるとなると、どうすればいいんだ、実験台。僕は裕美に連れられ、いかにも自然を装うようにマックに入って行った。スマイル0円。アルバイトであろう女性が僕に注文を尋ねる。僕が発しようとする言葉を塞ぐように、裕美は女性に注文した。いい加減僕の腕に引っ付くのは辞めてくれよ。気持ちが悪いな。
「えっとお、ビッグマック1つにポテト3つ、ああ、Lサイズね。あとベーコンレタスバーガー1つ、苺サンデーね」
僕は目を見開いて裕美を見た。
「おいおい、そんなに頼んでどうすんだよ」
「こいつら腹減ってるんだろ、アンタが注文するとどうせ単品で2つってとこだろ?」
注文された女性はレジに向かってタイプしているが、僕のことを怪訝そうに見た。いや僕は腹が減っているんだと言うと、女性は略した単語を奥の店長たちに言った。こいつらがこんなに食うかよ、それに好みもあるだろう。それを考えられないのかよ。僕はメニューを右手の人差し指でとんとんと叩きながら、苛立っていた。メニューの全てが目の前に出されると、タバコを吸うか吸わないか訊いてきた。僕は吸わないと言おうかと思うと、それを遮って、裕美が喫煙席でと言った。女性は、
「ではあちらの席しか空いていないので、そこに」
と言った。
僕はタバコの煙が苦手なんだよ。まだ17だぞ。裕美は一体いくつなんだ。僕達は喫煙席に向かうと、対面に座った。裕美はハイライトメンソールを旨そうに吸って、僕に吹きかけた。協力してくれないのかよ、大体予想つくだろ、僕が君に協力を求めようと思ったのは。それに気がつかないのか裕美はベーコンレタスバーガーを食べ始めた。僕は仕方がないと言う様に、両手をテーブルに置いて健一のことを話した。
「健一は今も誰かを殺そうとしてるんだ。なんで協力してくれないんだよ」
裕美は僕を見遣ると、
「あー判ってるってば。そのことは今関係ないだろ。何も言わないでただ話せばいいのさ、ああ、ちょっとこれ飽きた、食ってよ」
「食えるかよ、人の食ったもんなんか」
一体なんなんだよ、実験台。こいつに宿った理由はなんなんだ? 何の手がかりにも、助けにもならないじゃないか。実験台は様子を見るように、何も言わないで居た。隣に座っている男女はいかにも怪しそうにこちらを見た。僕は無視すると、実に変な会話だと思った。僕は仕方なく裕美が手をつけたものを食べようとすると、何かテーブルの上に置いた紙切れを見た。その紙切れを僕はゆっくり開くと、僕は仰天した。
「19895111991611199471119973112000211200311 Kyrie eleison」
「何その紙。何読んでんだよ」
「知らない。でも最後に英語が書いてある」
ヒルガーはポテトを貪り食った。浮かんでいる様なポテトは周囲を驚かせた。旨い旨いとヒルガーは食っているが、実験台は何も手につけない。実験台はその数字を追っているのか? 何か気付いたのか? 偶然居合わせただけだよな?
「何だよこれ、僕達がここに座るの予測してたように置いてある」
僕はその白い紙切れをテーブルに置くと、彼女は僕の手を遮った。
「ちょっとまってねえ、あ、アンタクロスワード知ってる?」
僕はやれやれと言う様に答えた。
「知ってるよ。当てはまる答えを探すやつだろ?」
「そう。これはそれとおんなじようなもんでさ、謎解きのようなもん。簡単だよ。これはただの数字の羅列にしか見えないだろうけど、ホントは意味がある。このケイリー・エレイソンはラテン語で『主よ憐れみ給え』って意味。ってことはこの暗号は歴史と関係するんだよ」
彼女はポケットからシャープペンを取り出し、紙切れの裏側に、何か数式の様なものを書いている。僕のテーブルにはベーコンレタスバーガーが残っているだけで、後は何も残っていない。ヒルガーがすべて食ったのだ。空中に浮遊するハンバーガーは、他人にとっては不可解なものだろうな……僕がヒルガーのびくっとした動きに気がついた。実験台もそうだ。見えない筈だが、何かを感じる。一体なんなんだ。最初僕が空中浮遊を失敗した時からそうだ。なぜかどんどん進化、いや感じ取れるようになっている気がする。彼女がシャープペンをテーブルの上に落とすと、
「これは歴史に反することだよ。やっちゃいけないことが書いてあるのさ。これは未来を暗示してる。ラテン語はどうやら、キリストってやつに救いを求めてるようだね」
と言った。
僕は驚いて彼女の目を見た。彼女の目は良く見るとグリーンだ。まじまじと見ている僕に気に食わないのか、彼女はこう発した。
「何見てんのさ、協力してやってんだろ。こんな子供だましの暗号解けないとでも思ってんの?あたしは前興味範囲でラテン語を勉強したんだ。それに科学も、数式も。精神的な異常を、死体から解剖して調べたこともある。5年前、今から5年前、つまり20の頃大学の博士と一緒にやったよ」
「それでなんで瞳がグリーンなんだ?」
彼女はそれを恐れるかの様に、
「ハーフって言いたいところだけど……名前はオリビア・ジーン。ホントはボストン出身。日本人に見えるでしょ」
僕はその言葉に唖然としてしまった。手がかりを掴める手段として裕美が選ばれたのだ。多分僕の考えているより遥かにIQも高い筈だ。しかしなぜ恐れるのか判らない。ボストン生まれだからと言って、彼女が恐れる必要はないだろう。彼女にしか知りえない恐ろしいことがあったのだ。裕美は白い壁に背中を押し付けるように頭をもたげてぐったりとして言った。天井をしばらく見た後、ようやく話した。
 「死んだんだ。ラボで難病を負ってた彼を助けようと思ったの。あたしは23の時には医師の免許を持っていたし……もちろん回りには反対されたよ。I can*t youってね。でも医療チームを組んでなんとか連れ戻すことができた。でも彼を救うことができなかった。あたしのミスじゃなかったけど、刑務所に何ヶ月かいたんだ。もうラボにいる資格がないって。それがこのざま」                  
僕は彼女のグリーンアイズを見つめながら、じっとその話を訊いていた。テーブルの上には食べた残骸が残っている。僕はベーコンレタスバーガーを食べる気にもならなかった。ただ話を訊いていると、健一のことまで忘れそうだった。僕達は外に出て、裕美は紙切れを渡して僕は空へ向かって飛び立った。彼女も危険かもしれない。ヒルガーが役に立つかは判らないけど、僕は彼女がこいつを操れると信じている。その信用は、どこからきたのか判らない。下を見ると、まだ彼女が居る。遠くからであまり判らないが、涙を流しながら笑っている。とても優しい瞳で泣いている様に見えたが、その心の奥底には、まるで砂場に溢れ出した湖の様な、濁りのない涙があった。彼女の悲痛な叫びが聴こえる様だった。僕が彼女の心を救うことは、きっとずっと、一生出来ないだろう。なぜだか判らないが、そう感じる。裕美は左手を大きく振って、僕に『じゃあね』と言って、裕美もまた空へとゆっくり向かい、僕達の反対側へと飛び立った。
                       ☆
「なあ、実験台。僕達なにか見落としてないか?」
僕はベッドの上に寝っころがると、実験台は机に向かって勉強している。動物が鉛筆を持って書く姿は、なんとも奇妙な心地になる。実験台は勉強をするのを辞めて、僕のベッドの上にぴょんっと飛び跳ねた。そのせいか少しベッドが揺れた。
「暗号のことだろう? 私はひろみーの手助けのお陰で解読できたぞ。歴史に反するということは、たとえば死者を蘇らせられるという実に興味深い発展に達したぞ」
僕はがっかりと言う様に、目を閉じた。
「そうじゃない。僕が言いたいのは裕美のことだ。それにひろみーじゃない。裕美だ」
「ああ、そうだったのか。彼女は大切な人を失ったのだろう。それはとても悲しいことだ。難病というものが何かは判らなかったが、きっとキリストに関連している筈だろう」
「彼女は泣いてたんだ。過去に何かあった筈だ。……そうだな、ボーイフレンドを失った痛みだけじゃない。なにか、なにかとにかくあったんだ」
ノックの音が聞こえて、母さんだと思った。母さんはノックは必ず2回する。
「俊太郎、夕食よ、今パパは会社で忙しいから。今日は何してたの?」
実験台は瞬時に姿を消し、僕は母さんに答えた。ベッドの横に実験台はベッドに座っている筈だ。感じるんだ。実に妙な気分だった。
「ああ、友達と買い物に行ってただけだよ」
母さんは僕のやつれた顔に気付いたのか、悲しそうな目で僕を見た。僕は母さんに促され、ベッドから降りて(実験台も)階段を降りていった。真ん中に三人がけのテーブルがあり、僕は階段に近い位置の椅子に座った。実験台は父さんの席に座って居る。テーブルに並べられた料理は、いつもと違っていた。普段は和食な筈なのに、紫色のぶどうの枝(だと思う)、ポテトサラダに小麦粉の食パンだ。しかも何かが変なのは、コップに赤いジュースがあることだ。それにナイフとホークがある。白いナプキンの上に、綺麗にそろえてある。今日の母さんは何かおかしい。どうしたんだ?
「父さんが帰ってきてしまっては、この食事を出すことはできないわ。これは特別なものなの。何も言わずに、右手にナイフと左手にホークを持って、食べなさい」
僕は仕方なく、まずコップのジュースを飲んだ。実験台はそのジュースが何かに気付いたのか、肩をぴくっと反応させた。うげ。これは血じゃないか! ジュースじゃない。
「なあ母さん、これ誰の血だ? 血を飲ませるなんてあんまりじゃないか」
母さんは優しく微笑んで、
「これは私の血よ。心配しないで。まずいでしょうけど、飲み干すのよ」
「母さんの血? なあ、母さん、怒らないで欲しいんだけど……」
「気が狂ったと言いたいんでしょう? でも違うわ。永遠に生きられる血よ」
永遠に生きられるだって? これは映画じゃないんだぞ。実験台は『飲み干せ』と言った。何か知ってるんだな。僕は血を言う通りに全部飲み干した。吐きそうだ。僕は唸って、堰をした。しかし無理やり喉に押し込み、唇を閉じた。だが母さんはたぶん正しいことを言っている。狂っている様に見えたが、違う。母さんの顔を見ると、真剣な眼差しで僕を見ている。実験台もそう思っている。僕はナイフとホークを握って、柔らかいパンを切った。上手くいかない。だがようやく切れた。真ん中に切ったパンを、僕は食すと、これは上手かった。ジャムをつけなくても美味しい。ポテトサラダも本当に美味しい。レタスと、ポテトと、後は殆ど野菜ばかりだが、本当に美味しかった。
「母さん、ありがとう。 なんとなく気分が落ち着いた様に感じたよ」
「大丈夫。でも父さんには絶対言っては駄目よ」
「判ったよ」
父さんにこんな食い物出したら、きっと怒るだろう。いつも深夜に帰ってくるし、三人でテーブルを囲むのは久しいくらいだ。三人で食べるときはいつも、朝は母さんのしょっぱい味噌汁と玉子焼き。夜は父さんの好きな焼肉。ある時はしゃぶしゃぶだ。肉料理が好きな父さんは、仕事で疲れているから、僕が肉に飽きてきていても、仕方がなかった。食事を終えて階段を上るときに、実験台は言った。
「あれはキリストが私達に与える食事風景だ。ぶどうの枝と血、食パンは永遠に生きられるある種の思い込みの様なものだ。君の父上が帰る頃にはあんな素晴らしい食事は出さないだろう。父上は人間だからな。しかし君の母上が何者なのかは私には判らない。言えることは1つ、君の母上もキリスト信者ということだけだ」
なんだと? じゃあ僕は人間じゃないっていうことか? とうとう僕もキリスト信者になってしまったのか。まだ血の味が残っている。うええ。僕は部屋に戻ってベッドの上に横たわって、母さんのことを考えていた。確かにここ最近は食事がご飯だったのが食パンに、ただの野菜炒めがポテトサラダに、トマトがぶどうの枝にと変わって行った様な気がする。何が引き金でこうなったんだ? 実験台がすっと僕のところに降りてくると、姿を現した。しかしすぐさま姿を消した。ノックの音が聞こえたからだ。母さんなのか? いや違う。徐々にノックの音が早くなっている。突き破ろうとドアをみしみしと言わせている。ドアの柱の端っこの方が突き破れた。危険だ。途端にドアが突き破れて、僕の部屋に押し込んだ。物凄い音だ。まるで殺人者が人質を手に取りビルに立てこもっている異様な雰囲気だ。僕はすぐさまベッドの中のシーツに隠れた。母さんは、どうしたんだ。何をやったんだ。父さんももうそろそろ帰ってくる筈だ。いや帰っているかもしれない。誰なんだ?! 実験台は感じ取れたのか、すぐさま戦いの準備をしているようだ。 二足立ちで人差し指を敵に向けている。敵なのか、味方なのか?
「俊太郎! これは健一だ。かなり進行している。私はこいつを殺すことはできない。君の力を貸してくれ」
「なんだって。このでかぶつの黒いやつが健一なのか? 殺すのは駄目だ。いいか。 絶対に駄目だ! 前にも言ったろ、眠らせろよ」
まるでコウモリだ。コウモリの様に羽根は小さくない。横に広げる羽根は約一メートル半はある。頭はまるでゾンビの様だ。グレーと黒が混じっている感じがする。コウモリの様なでかぶつの健一はドアを突き破った後、何もしなかった。しかし悪魔とやらと闘っているのか、健一の声と混合されて何を言いたいのか判らない。お願いだ。答えてくれ。お前を救いたいんだ。
「ごめ……俊太郎……僕は判らないんだ。美香……なに……か投与された。僕は16人殺した……それが……何かは……僕達は……友達だった……い……までも」
美香が何かに投与された?16人殺した?美香が危ないのか。そうなのか?!健一はかろうじてそう言うと、悪魔にぜんぶ乗っ取られたのか、ゾンビの様なコウモリはどす黒い声で話し出した。ゲロが出そうな声だ。とても低い声だ。
「ただの代三者に何ができるというのだ。俺様に勝てると思っているのか?俺は戦いが好きだ。殺すのも好きだ。特に人間の生肉だ。ただの天使に何ができる」
「これは代四さま、キリストに命じられた使命だ。私はお前を生かすことも殺すこともできるぞ。この少年は救世主だ。狙ってきたのだろう?」
実験台はそう言うと、ラテン語の言葉で言った後、悪魔が手を出す前に眠らせてしまった。しかしすぐ起きてしまった。だが僕の中に何かを感じた。まるで声が聞こえた様だった。男の声だった。僕の声なのか?実験台は危険と感知したのか英語で「Kill you!」と叫んだ。なんてことをするんだ!殺すなと言ったろう!僕は横たわった健一にありったけの声で叫んだ。ああ。ああ。眼球が見開いたままで、口を開けているだけだった。緑色の血から赤い血に変色していった。健一だ。しかし涙は出なかった。なぜかは判らない。ただ怒りと悲しいという気持ちだけで、後は何もなかった。なぜ涙が出ないんだ。僕は健一の体に触って、まだ温かい感触を感じていただけだった。段々と冷たくなっていく死体が息を引き取って安らかに目を閉じる様だった。
「なんで殺したんだ!」
「……君は心の中で殺せと言った筈だ。私には聞こえた。だから殺せたのだ。そうでなければ、もっと多くの人々を殺す羽目になるぞ。仕方なかったのだ。階段を降りて下を見てみろ」
「僕が……? 命じてない!絶対にだ。健一を殺すとは言ってない!!」
「いや言った。正確には感じた」
僕は死体をまたいで、右の奥にある階段を降りていった。足の裏を左手で持ち上げてみた。血みどろだった。赤い血だ。なんてことだ。どうしてなのか、僕は何も感じなかった。怒りと悲しみだけだ。よたよたと壁に手をつけながら降りていくと、リビングには母さんと父さんがいた。まるで白い狂気に包まれた雰囲気であった。白いマットの上に母さんと父さんが仰向けに倒れているのを見た。僕は感じ取った。死んでいる。確実に死んでいると。なぜ殺した! 僕がか? 僕がやったのか?!怒りで実験台を殺そうと階段を上った。しかし実験台は僕を吹き飛ばした。僕は階段から転げ落ち、頭を打った。痛かったが、それ程でもなかった。 わざと実験台は僕に被害を加えないようにしているのだ。実験台は再びリビングに行くようにと促した。私もついていくと言い残し、それだけだった。僕はまたリビングに戻った。母さんと父さんの死体には心臓がつき抜かれているのが判る。それも心臓だけじゃない。健一の死体も全部が突き抜かれていた。まるで銃弾のように。 残酷な死体が白いマットの上で泣いている。僕は愕然とした。リビングの真ん中に立ちつくしたままだった。母さんはよく僕に料理を作ってくれていた。味噌汁(少ししょっぱかったが)や僕の好きな玉子焼きをよく作ってくれていた。母さんは怒りっぽかったが、その分僕を可愛がってくれた。さっきもそうだ。母さんはとても優しかった。おかしな食事だろうが、キリスト信者だろうが、母さんの血だろうが、優しさに変わりはなかった。その母さんの思い出がすべて焼き尽くされるように、僕は死体から目を逸らした。父さんは仕事ばかりだったが、夕食はいつも一緒だった。三人で囲むテーブルはもう血まみれになっていて、ここにはもうない。僕の心臓がどくどくと鳴った。また来た。合図だ。なぜ僕は今泣けないのだ? なぜ僕は今平気なのか?自分の心に訊いてもよく判らなかった。怒りと悲しみ、慈しみだけが僕を襲うだけだった。健一が死んだことも、母さんや父さんが死んだことさえ、なんとも思わない。ただあまりにも可哀想なので、目を右手で閉じてやった。誰がこんなことをしたんだ!三人に、健一に一体何をしたんだ!怒りがどんどん込み上げてきて、それも実験台に伝わっている様だ。健一は最後に何かを投与されたと言っていた。だからあんな風になってしまったのだ。実験台は言った。
「これは私が今までに見た悪魔と少し異なるのだ。悪魔は心臓を一突きにし殺すが、これは違う。いくつもの刺し傷が多くある。私は少しミスをした。あれは悪魔であって、悪魔ではない、異なる種の生き物だったのだ」
「判ってる。何か投与されたんだろ? 裕美の携帯知ってるから、訊いてみる」
僕は階段を上って携帯を取りに行こうと部屋に入り健一の死体をまたいだ。見たくもなかったが、目に入った。すぐに机の上にある携帯をとり、階段をすたすたと降りた。実験台がいなければ、僕は助からない。しかし僕は確かに殺すと言ったのか?心で命じただけで? 馬鹿らしい! そんなことは一言も言っていない!僕はすぐリビングに戻って、実験台にこう言った。
「おい、これなんなんだよ。十字架のシールをぺたぺた貼って、まるで本当にキリスト信者みたいじゃないか!」
実験台は君は確かか?と言うような目付きではっきり言った。
「君の机の引き出しにキリストシールがあったぞ。覚えていないのか?買った筈だ」
「いいや覚えてない!買ってない!剥がすぞこんなもん」
「駄目だ。剥がしては駄目だ。君の力を発揮する重要なものだ」
僕は知らん振りをして携帯を掛けた。2コールで裕美が出た。今は朝の四時だ。僕もなぜか眠れない。眠らないでも済んでいる。まるで麻薬でもやったかの様だ。裕美もまた同じなのか。眠れないで居るのか。苦しんでいる筈だ。
「ああ、なに俊太郎」
「訊いてくれ!僕の両親が殺されたんだ!あと健一も。あの暗号は健一が書いたやつじゃない。誰かが、何者かが置いたんだよ。僕達を狙って」
「なんだって?健一は悪魔じゃないわけ?なのに健一も殺されたって、どういうことさ」
「それは僕にも判らないんだ。僕が健一を殺したみたいなんだ。なあ、どうすればいい、僕は自分が自分でない様な気がしてきた。眠れないし死体を見てもなんとも思わないんだ。なあ、何か助け舟はいるか?助けてくれ」
裕美は疑心の塊で僕に訊いた。
「『みたい?』だって?アンタが殺したのさ。ただの犯罪者になっちまったね。確かにあたしは眠れないでも済んでるよ。今はね。でも犯罪者に言われたかないね。切るよ」
「待て! 信じられないかも知れないけど、訊いてくれ。僕は見たんだ。健一はドアを突き破って中に入ってきた。その姿はなんだと思う? 見たこともない生物なんだよ。まるでコウモリみたいに、羽根は一m半はあった。顔はゾンビの様で、とにかくどす黒かった。これでも信じられないのか?」
裕美は少し間を置いた後、マクドナルドで話したことを思い出している様だった。そして恐れる様に僕に言った。
「ちょっと待って。それはグレーだった?目はでかかったか?顔には湿疹があった?」
「知ってるんだな。ああそうだよ。目はでかかったしとにかくぐろかったよ」
恐れる様に裕美はまた言った。
「それはまずい。また出たのか……」
「なんだって? その言葉聞き捨てならないぞ。また出たってどういう意味だ」
「……彼を救うために、死んだ人間を実験台にして作ったんだ。その血を輸血すれば、助かる筈だったんだ。でも遅かった。彼が死ぬ前にあの生き物は生き返ってラボのドアを突き破って出て行った。そりゃ必死で追いかけて鎮静剤を打とうと思ったよ。だけど、出て行ってしまった」
裕美は涙を流している様だった。電話越しで嗚咽をしながら泣いているのが判る。その泣いている様子が僕には妬ましくて怒りが込み上げてきそうだった。しかしぎゅっと胸に手を当てて心をなんとか落ち着かせた。大丈夫さ、僕だって人を慈しめる。僕はなんとか裕美を責めようとする気持ちを制限して、深呼吸した後言った。
「なあ、何か手がかりになる人物はいるか?例えばそれを作ったもう一人の人間とか」
「いる。ハーバード大学のジェイソン・エイブラハム博士だよ」
ハーバードだって? アメリカじゃないか。僕は訊いた。
「その人は今どうしてる」
「精神科に入院してるよ」
                        ☆
僕たち4人、いや正確には(ヒルガーや実験台は人間じゃない)2人で飛行機に乗っている。僕は母さんと父さんの通帳から金を引き出し、朝の10時に裕美とアメリカに行くこととなった。母さん父さん、ごめん。僕はいい子のつもりだった。こんな羽目になるとは思わなかったんだ。僕は少し目を瞑ると、裕美はエコノミー席の4人がけの対抗方面から声をかけた。流石に参っているのか、両手に抱えた朝食を食べないで居る。
「博士はもう10年も入院してる。イカれちまったのさ。面会許可は身内じゃないとできないよ」
「なんだって? じゃあ身内を探さないといけないじゃないか。居るんだろう?」
「居るよ。息子がね。アメリカ経由でイラクに行くことはできない。あたしは前もってイラク経由の便のチケットを取ったよ」
一体裕美は何を知っているんだ。あの白い紙切れを持ったままぎゅっと握り締めている。何かIDカードをぶら下げているが、よく見ると何かのIDカードだった。英語で書いてあるから、何のIDなのかさっぱり判らない。すると実験台が僕に声をかけた。透明になったまま、何か食べている様だった。また呪文で甘いもんを食っているのか?
「私達天界に居るものは人間の作った生き物はよく知らない。だが悪魔に変わりはない。君の力によって、殺すことができたのだからな。私も階級が下がらなくて済む」
こいつは血も涙もないのかよ。もう少し人間を敬ってくれよ。僕さえ助かればいいってのか?健一を殺したのは僕じゃない。実際手を出したのはお前だよ。ちくしょう。
「ああ、えっと、息子の名前はボブ・エイブラハム。詐欺まがいの容疑で過去七回も逮捕されてる。IQは……190だね」
裕美は資料を手に持って念入りに字を追っている。彼女もどうやら息子を知らないようだ。しかし彼女はシャープペンを持って英語で字を書いている。何か考えがある様だ。ヒルガーはというと、何かまた肉を食っている。こんな時間からよく肉が食えるな。
「ああ、こいつは一筋縄では行かない相手だね。でもあたしはFBIに居たから大丈夫。説得できるよ」
「何を根拠にそう言ってるんだ。FBI? FBIに居たってどういうことだ。それにどう説得する」
「できるよ。未だにFBIとは繋がりを持ってる。あたしにしかできない仕事があったからね」
裕美がそう言った後、ちょうどイラクに到着する連絡が乗務員にあった。イラクに行くには色々検査があった。すべて自己責任であった。広いホームに着くと、そこはあまりにも綺麗なホームであった。隅々まで掃除されているのか壁は白くステージの様なものはまるで大理石みたいだ。グレーと白のコントラストがとても似合っている。イラクはもっと薄汚いんじゃないのか?人もみんな、普通の服を着ている。例えばスーツだ。女性は日本人のような服をきている。男性は黒いスーツに身をまとっている様だった。裕美はグレーのスーツの中に白いシャツを着ている。髪は長く黒髪だ。よく見ると美人であった。僕はというと白とクリアブルーのシャツを着て、ジーンズを履いているだけだ。あまりにも似使わない。背は低いし(165)裕美はというと170cmくらいはありそうだった。裕美はまず大きな首都のバグダットに行こうとしていた。バスで約20分くらいだった。ヒルガーと実験台は黙ったままだった。僕達はバグダットの40階もありそうな高層ビルに入って行った。一体こんなところで何をする気だ。
「言っただろ? 一筋縄ではいかない相手なんだ。ここで売人と交渉しているに決まってる。今の時間で言うと、18時30分には終るね。あたしは規則破りまくって調べたよ。今は関係ないけどさ。ブロイルズの許可を得てね」
僕は携帯を見た。この十字架のシールを僕が買っただって?覚えてないんだぞ。操り人形のようだ。よくもやってくれたな、実験台。実験台はというと、また綿菓子を食べている。好きなのか? 綿菓子が。相変わらずのんきな奴だな。
「来たよ。あの黒髪短髪で目は緑だ。サングラスかけて黒いスーツ着てる」
「あの怪しそうな人間がか? 大丈夫なのかよ」
「あたし? 平気だよ。今ホームの階段から降りてくる。ちょっと待ってね」
あの怪しい奴と交渉して大丈夫なのかよ。それに生意気そうだ。裕美はすたすたと怪しい息子に近づいていくと、怪しい奴は勘が鋭いのか立ち止まってこう言った。
「What?」
「I*m FBI and Olivia Jean. I want you to meet your father. Cause he*s parents does killed」
「FBI? I don*t wanna meet father. You should think me. He is crazy. So I don't wanna meet him. Do you know something?」
「Yes. Your father was docter. And he researched something」
「He certainly did the rotted research. Am I related to him?」
「it have. You had dealings with the pusher . You can be arrested.」
何を話しているのかさっぱり判らない。聞き取れるのは博士がイカレたということだけだ。裕美は多分脅しているのだ
「Is it a nature that threatens me? Anyway, it is unrelated to me」
彼はすたすたと立ち去ろうとしたが、裕美は立ちふさがった。
「I know everything.!」
そうすると彼は仕方なくと言った様に僕の方へと近づいてきた。なんだ? 
「日本人か? それとも中国人?」
日本語が話せるのかよ。 僕は恐ろしくて少し足を退いてしまった。
「日本人みたいだな。君はあのかわいこちゃんと関係があるのか?」
「ああ。そうだよ。あなたの父親は研究をしてた。僕はその生物を見たんだ」
「可哀想だが俺の親父は頭がイカレてる。つまり会いたくないんだよ。だが君の彼女が俺のすべてを知ってるって言うもんでね。協力って言っても、俺は、会う、だけだ」
ボブは父親に会いたくない様だ。なぜだ? 精神科にいるからか? すると実験台が声を掛けた。
「こいつは頼りになるぞ。我々が知らないことを知っている筈だ。特に父親はな」
僕達五人はアメリカのフロリダ州の便に乗った。4人掛けの席でヒルガーと実験体を除いて三人だ。ボブと裕美(オリビア)、そして僕だ。飛行機の中では中国人や、多分パリの人やスペイン人までいる。多国籍人ばかりだ。客室の中は明るく、裕美は白い壁に腕をやって電話している様だ。
「なあ、ジーン。確かに親父は科学者だった。だが大昔に柔軟剤が何で作られてるか研究してた」
裕美は少し笑みを浮かべて左手の人差し指を顔にやった。
「言ってる意味が判るか? 親父が大昔にやったくそったれの研究で、この少年の両親を、柔軟剤で救うことはできない」
ボブの父親は科学者であったが、今は入院しているからかおかしくなった様だ。僕は引き出しの様なテーブルを出して、食パンとハム、チーズがはさんであるサンドウィッチを食べた。あまり上手くはないが、ただのカップ麺よりマシだった。ボブはコーヒーを飲んでいる。僕がコーヒー好きなんですか?というと、ああ、そうさ、昔から飲んでるよ。と答えた。裕美はというと紙切れを解読しながらまた数式を書いている。この紙切れは一体何を意味しているんだ? きっと博士に会えば、判るんだろう。裕美は電話をポケットから出し、英語で誰かと会話をしている。このエコノミー席は最悪だ。特に食事だ。僕はお菓子を頼んだが、変な黄色の丸い粒で、着色料が沢山入っている。甘かったが、甘すぎた。僕は実験台にやった。ボブは不思議そうな目付きで僕を見た。
「お前、誰にやってんだ? まさか親父の様に気が狂ってるんじゃないだろうな」
「違う。こいつは僕を救うためになんでか判らないけど、天界からやってきたみたいなんだ。信じられないだろうけど」
ボブはサングラスを外し、僕に訊いた。眉と目の幅が狭く、本当に外国人だ……
「ああ、信じられないねえ。天界?誰だか判らないが俺には関係ないね。何の信仰もしてないからな。もう一度言っとくが、俺は親父に会うだけだぞ」
「判ってる」
裕美は携帯を切り、右のポケットに入れた。黒いケータイだ。音も初期設定のままだ。だいぶ地味だな。僕も偉そうなことは言えないが。言ったら殺されそうだ。裕美の様に勘が鋭い女は大体恐ろしい。僕はサンドウィッチを食べ終わると、水をがぶがぶ飲んだ。腹がいっぱいだ。よくこんな時に物を食うことができるな、と自分でも思った。僕の母さんと父さん、健一が死んだと言うのに。なぜ僕は平気なんだ。何度も問いかけてるが、さっぱり判らない。健一は何か投与されたと言っていた。なんだったんだ?
「エイブラハム。フリンジ・サイエンス、判るでしょう?幽体離脱、テレパシー、予知夢、透明人間、死体蘇生」
「待て待て待て、死体蘇生? それってエセ科学だろ。現実には存在しない」
「ええ、そうね。理論的にはね。あなたのお父さんはその研究をしてた。出来る筈よ」
「ああ、何年か前に人体実験をしたさ。だがそのお陰で助手は死んだんだ!」
フリンジ・サイエンス? エセ科学? 正式な科学ではなく疑似科学のことかよ。科学は好きだったが、エセ科学は知らない。大体そんなものが存在する訳がない。するとヒルガーがボブに噛み付いた。おいおいおい。姿を現すなよ!まだ飛行機の中なんだぞ。ボブの首に巻きつくと、黒い点々の薄い緑色の蛇はまた噛み付いた。
「俺の救世主に下手な口を利くんじゃねえ! 俺は代二使いだ。今度やったら殺すぞ、この皮肉屋め」
実験台は急いでヒルガーに透明な姿になる様促した。そして殴った様だ。ヒルガーの体がぐにゃっと潰れて、少し意識を失った様だ。やるな実験台。僕は一息ついた。ボブは噛み付かれた首を確かめる様に右の首を傾げて、血を右手で拭った。
「こいつは蛇かよ。いきなり出てきて俺に噛み付いて、変な言葉口走ったな? 救世主だか代二使いだか!一体誰だこいつ、なあ、ジーン」
流石に怯えたのかボブは訴えかける様に裕美に訊いた。裕美は笑みを浮かべてこう答えるだけであった。
「はは。やっと目を覚ましたか?」
ボブはぜいぜい息を吐きながら、やっと口を開いた。そして左手で目頭を押さえて下を向いた。隣に居る僕までなんだかおかしくなりそうだ。信じられないのは僕も同じだ。
「ああ、ああ。透明人間だろ! でも人間じゃない。蛇だぞ。どういうことだ?」
「それはまた後でね」
飛行機がアメリカのフロリダ州に着地するようだ。シートベルトをしっかりつけるようにと乗務員のアナウンスが流れた。ごーっとする音が煩くなってきて、僕は思わず耳を塞いだ。まるでノイズがでかくなった様な音だ。2人は慣れているのか、何てこともないように座っている。まさか僕がアメリカ人と関わることとなるとは、考えもしなかった。搭乗員は飛行機の開け口からぞろぞろと降りて行った。僕達も裕美とボブの後について、降りた。降りると風は優しいそよ風だった。髪の毛が少し揺れた。気分がいい。太陽はオレンジ色の光を見出して、僕の目を見つめている。乗客達も暖かい空気に包まれて微笑んだりしている。裕美は早足でタクシーを掴まえ様としていた。だがタクシーは通り過ぎて行ってしまい、彼女は肩を降ろした。そして髪を掻き揚げた。よく見ると彼女の長い髪の毛は茶色交じりのブロンドだ。昨日は深夜だったから、あまり見る暇がなかった。落ち着いていなかったんだ。ボブはというと、眠そうに右手で目を擦った。再びサングラスを掛け、太陽が目に当たらないようにして居る。フロリダの景色はまさにアメリカってとこで、新聞スタンドやジェニー・モーニングと書かれたレストランもある。上に飾られた看板が赤く、くるくる回っている。日本の新宿辺りによく似ているが、カラフルな店達はなんだか違和感を覚えた。タクシーは左側通行で、イエローだ。あまり日本と変わりはないが、すぐに通りすぎて行ってしまう所は少し日本と違う。それに左側通行だ。外国人がタバコを吸いながら乗客を待っている様だった。ボブはというと、タバコは吸わない様だ。その代わり、スターバックスに寄って、ホットコーヒーを買ったみたいだ。そのコーヒーには何か入っているのか黒と白が混じっている。多分、クリームだな。よく飲めるな。僕はコーヒーは嫌いだ。例えクリーム入りでもだ。
「で、どうするんだ?」
ボブは裕美にそう言うと、裕美はスーツのポケットに手を入れて、俯いた。口を開こうとしたが、閉じた。そしてまた言いかけ様とした。実に言いにくそうだった。
「謎が解けたの」
ボブは目を見開いて、裕美を見た。眉をしかめて疑わしそうに訊いた。
「謎? 俺に二度も噛み付いた蛇のことか? それかこのコーヒーの味が判った?」
「違うよ。この紙切れを見て。数字が書いてあって、最後にラテン語」
実験台は黙ったままだった。だが何か感じたのかヒルガーに仲間がいるぞと言った。2人には聞こえない様だ。透明になっているからだ。仲間?僕は再び心臓に手をやった。ボブは何をしているんだと言う様に訝しげにこちらを見遣った。すぐ目を逸らして裕美が持っている紙切れを手に取った。誰かいるのが判る。声が聞こえる。前よりだいぶクリアに声が聞こえるぞ。『私はグリージャ・ヨハンソンよ。まだ21で童顔だからすぐに見つかると思うわ。髪はブラウン。4人掛けの所に居るわ。ジェニーにいる。助けて。なんだか怖いの』声が終った後、再び僕は息をぜいぜいと吐いて灰色のコンクリートに蹲った。僕は堰が止まらなくなった。苦しい。ボブは感づいたのか、僕の背中を擦ってくれた。温かい手だ。擦ってくれたせいか、僕はやっとゆっくり立ち上がることができた。実験台は『よくやった』と言う様に拍手をした。拍手の音が聞こえる。拍手なんてうんざりだ。こんなに苦しい思いをしてまで仲間を探さなければならないのか?
ボブは裕美にそれどころじゃない、病院に連れて行ったほうがいいと言った。しかし彼女は首を振った。彼はもう大丈夫。強いから、と。ボブは意味が判らないと言った様に立ち上がってゆっくりコーヒーを飲んだ。すると裕美は僕に近寄って声を掛けた。
「何か判ったんだね? 言いな」
「ああ……でも不思議な名前だ。グリージャ・ヨハンソンって言ってた。そこのレストランに居るらしい。怖がってる。また多分何かと一緒に居るんだ」
裕美は判ったと頷くと、ボブを左手で促し、すぐ傍のジェニー・モーニングに行った。僕も走って二人を追い掛けた。もちろんヒルガーも実験台もだ。人々をすり抜けてドアを開けると鈴の音が鳴った。ドアが開いた合図だ。僕達は彼女を探した。だがどこに居るのか判らない。たしかに言ったのに、なぜか判らない。とにかく4人掛けの5つあるテーブルにいる人を全て探した。店員は疑っているのか用がないなら出て行けと促した。早く探さなければ。髪はブラウンだ。多分大人しそうな子だ。実験台は声を掛けた。『彼女は大人しいんだろう?そして怯えている。だったら1人で居る筈だ』 僕は裕美とボブに1人で居ると伝えた。すると早く見つけ出したのはボブだった。綺麗なシルバーのテーブルに、1人で座って居る。窓際の奥に座っていて、頭を抱えて、1人で泣いている。しかし何か居る訳ではなかった。普通仲間を探したら、動物か何かが怯えさせて居る筈だろう?ボブは彼女の向かい側に座って、ゆっくり落ち着かせる様に言った。
「君はグリージャっていうんだな? なんで泣いてる」
「怖いの。怖いのよ。何かが、ああ、たぶん日本人」
裕美と僕はお互いに気付いて、僕はグリージャの横に、そして裕美はボブの隣に座った。テーブルの上にはオニオンスープがあるだけで、他には何もない。僕はグリージャに声を掛けた。少し知るのが怖かったが、知る必要がある。
「グリージャ、君は『日本人』と言いましたよね?名前は判りますか?」
グリージャは首を振って、判らないと言った。ただ泣いて白い紙切れを渡した。手が震えている。怖がっている。ボブは落ち着かせる様に歌を歌ってやった。曲名は知らないが、優しく流れる様なメロディーだった。白い紙切れには今度は違う数字で書かれている。書かれているのは「200611200947201251201547201857 Greja Johanson」だ。また何かの暗号か?裕美は今度は黒い手帳を取り出し(また黒か)、数式や、時には日本語やラテン語を急いで書いた。名前はこの子の名前で、数字は一体なんなんだ? ボブの優しい歌声に少し落ち着いたのか、グリージャはオニオンスープを飲んだ。無料で出されたポップコーンも1口食べた。
「共通点が4つ見つかったよ。まず1つ目は三年置きに数字が並べられてる。2つ目は1が以前には16あったのに、今は5つ。3つ目は47が以前には1つしかなかった。4つ目は彼女の名前だよ」
僕は疑心暗鬼に裕美に訊いた。何が共通点なんだ。おかしいじゃないか。僕はテーブルの上に両手をぐっと握り締めて、とにかく店員にかたことの英語で『Please water』と頼んだ。すると少し大きめのコップに水が置かれた。僕は『Thank you』と言った。
「これは一見すると共通点がない様に見える。でも違う。すべてにおいて、グリージャに関連してることだよ」
ボブは驚いた様に目を見開いた。正確に言うと、やめてくれと言う様だった。
「3つ置きに並べられてる数字は誰かを殺す暗示。なぜなら、ボブが持っている紙に、『主よ、憐れみ給え』と書いてあるから。非常に切実な叫びよ、判るでしょ? 2つ目は非常に簡単なことで、引くと11で足すと21になる。書いた奴は彼女のことをまだ知らなかったみたいだね。子供か、大人か。3つ目も簡単だよ。日本の都道府県の数字を表してるだけ。数字が増えているのはあなたに知って欲しかったからよ。4つ目のグリージャ・ヨハンソンと、1つ目の紙切れ、ケイリー・エレイソンはどっちともラテン語に通じてる。つまり奴は殺すのは嫌だったからグリージャと結びつきたかったわけ。あとは……」
ボブはもう辞めてくれと彼女の左手を(向かい側からみると右手)掴み、黙らせた。謎を解いてやったのになんだよ、という目付きでボブを睨んだが、グリージャは泣き叫んで取り乱している。店員も、他に居る客もすべてこちらを見遣っている。おいおい。辞めてくれよ。ボブはグリージャの手を握って、落ち着かせた。ゆっくりだが、不思議と彼女を落ち着かせることができた。すると実験台は僕に声を掛けた。
「裕美の言ったことは判ったぞ。あとは、の次はつまり日本人。日本人が人間を殺そうとするのだな。結びつきを持ちたかったのは、その日本人が殺したくないので、グリージャに頼んだのだな。しかしあそこのハンバーガー屋では日本人は裕美と俊太郎しか居なかった」
「だからどうしたって?」
「俊太郎がその日本人を知っているからだ。俊太郎の力に気付いたのだろうな。グリージャがここに居ることを」
僕は水を半分飲んだだけで、後は残してしまった。裕美もボブも黙ったままで、ただグリージャの手を握り、宥めているだけであった。
                       ☆
「おいグリージャ、君は人を殺してなんかいない。絶対だ。ジーンの言うことを全部信じるなよ、俺の親父みたいに頭が腐る」
グリージャはやっと落ち着いた様で、肩まであるブラウンの髪を両手で少し押さえた。しかしグリージャは何か話し出した。何の言葉だ?英語じゃないのは確かだ。早い。
裕美は手帳にシャープペンでその言葉を書き出した。グリージャはグリージャであって、そうではない。こんなに早く話せる訳もない。まるでテープの早送りだ。だけど本来の彼女は大人しく、ゆっくりと話す。それに目を瞑って、何かに暗示をかけられた様に固まって話す仕草はどう見てもおかしいに決まっている。グリージャはそこで暗示がほどけた。自分でも何を話していたのか判らないらしい。当たり前だ。グリージャは目を見開いてちらちらと辺りを見渡した。僕がまだジェニー・モーニングに居ると話すと、そうなの、と言って、それからポップコーンをもう1つ食べた。何か判ったか? 裕美。
「言語はやっぱりラテン語だった。グリージャ、さっきはごめん。アンタを脅かすためにやったわけじゃないのさ。ただこの少年が酷い目にあってね。その協力をしたかったの、判ってくれるかしら?」
グリージャは頷くと、またポップコーンを食べた。ポップコーンが好きなのか?僕も好きだが、今はどうにも食べる気にならない。実験台、お前のせいだよ。
「読み上げるとね、『私は赤い薬を投与された。そして1度目は人を食べてしまった。2度目も同じ。ラテン語を無理やり誰かに学ばされたの。数字の羅列を正しく書けなければ私は殺されるから。私はもうすぐ死ぬわ。せっかく助かったのに。どこにいるのか判らないの。今ベッドに寝かされて青い点滴を打たれてる』 だってさ」
すべてはグリージャのせいではないことが判った。しかし彼女が覚えていないうちに人を食っているみたいだ。カニバリズムだ。実験台は先刻僕に『君が知っている日本人』と言っていた。駄目だ。思い出せない。でも私、と言っていた。女の話し方だ。女だ。ああ、なんてことだ。
「ああ、すぐに博士が必要だよ、ボブ。女性が殺される。協力できるね?」
ボブは仕方なくと言った様に、立ち上がって裕美の前をすぐに立ち去り、ジェニー・モーニングから出て行った。僕達もテーブルにお金を置いて、グリージャを守るようにそっと立ち上がらせた。レストランの向かいにあるガソリンスタンドに、ボブは居た。なぜガソリンスタンドに? そうか。逮捕歴が7回もあるから何でも自由なんだな。
「何する気?」
「もちろん、こうするのさ……」
ガソリンスタンドの店員がいるだけで、外に他には誰もいなく、トイレや自動販売機が置かれている中に人々は居た。誰も僕達に気がつかないで居る。まだ洗浄したばかりの自動車のドアを、ポケットに入っている針金で無理やりこじ開けようとしている。右に少し動かし、左に少し動かすと、ドアが開いた。急に店員が追いかけようとしてきたが、遅かった。車のキーはラッキーなことに車のシートの上にあった。ボブが運転席に乗り、僕は助手席、裕美とグリージャは後ろに乗った。すぐにエンジンを掛け、鈍い音が鳴った。ボブは80キロオーバーで運転していた。
「君の友人が大変なんだろ? じゃあ窃盗もスピード違反も見逃してくれよな」
車が猛スピードで道路を走り抜けていく。ここから約1キロもある。景色は段々と森の中に入っていき、田舎の様だった。実験台が話したことを、僕は思い出して居た。たしか『せっかく助かったのに』と言っていた。そして女の声だ。あんな話し方をするのは1人しかいない。美香だ! 美香が今殺されそうになっている。時間がない。
「なあ、ボブ。もう少しスピードをあげてくれないか? 僕の友人だ。もうあと二時間弱しかないんだよ」
「ああ、判ってる。だが言って置くが俺はこんな羽目になるとは思わなかったよ!」
ボブは少し苛々しながら曲がりくねった急斜面をブレーキをかけずに曲がった。僕達3人は左に揺れて、僕は助手席のドアに頭をぶつけた。鈍痛が走ったが、痛がっている暇はない。僕の大切な友人だ。健一も殺されたと言うのに、あの子も殺されたのではたまったもんじゃない。ボブはもうすぐ着くぞ、と言うと、森の向こうには広々とした草原の中に古く白い建物があった。何か変な雰囲気だ。英語でAdicalria Hospitalと書かれてある。ボブは急ブレーキを掛けると、僕は前につんのめった。
「ここだ。着たくもなかったがね。だが急ぎの用事なら仕方ない」
「用事じゃない! 美香が殺されそうなんだよ!」
ボブと裕美は降りて、走って病院へと向かって行った。裕美はすぐにポケットから携帯を出してFBIと連絡を取っている様だった。僕とグリージャはただ待つしかなかった。左手にある時計を見ながら二人が来るのを待っていた。いや、博士もだ。今は博士が必要なんだ! 時計は14時25分を指していた。するとグリージャが声を掛けた。
「あなた、日本人なのね……大切な人を、失ってきたのね」
まるで同情だ。僕は答えなかった。今同情は必要ない。必要なのは彼女を救うことだ。彼女はよく僕のバスケを見に来てくれていた。僕は一瞬だが涙を流しそうになった。だがその涙はうっすらと瞳から消え、僕を再び怒りの世界に追い込んだ。せっかく実験台が彼女の難病を救ったのに、これではぶち壊しだ。僕は苛々しながら時計をちらちら見た。まだかよ。もう15分経つぞ。僕は貧乏揺すりをしながらじっと待つしかなかった。しばらくして、遠くから人が見えた。やっと来たか! 早く車に戻るんだ。これにはGPSがある。しかし使い方が判らなかった。いや僕は判る筈だ。美香の居場所を、知っている筈だ。僕は右手に心臓を当て、言葉を訊こうとした。苦しくてもやるべきだ。 グリージャは不思議そうに僕を見たが、僕は無視した。息を大きく吸って、吐いた。そして目を閉じた。集中しろ。『Florida.......I......』 フロリダは判る。それとなんだ。『俊太郎くん? 美香よ。 あたしの居場所を教えるから、どうかまた救って。いい?フロリダのジャクソンビルの、地下よ。奥に多分色々な薬が置いてある。あたしはまだ生きてる。でもどうか急いで』僕は心臓から一気に手を離した後、また息が苦しくなった。しかし前ほどではない。そこまで苦しくはない。なぜだ?実験台の力を貰ったからか?いや、今はそれどころじゃない。裕美とボブ、そして博士が来た。博士は60代くらいで、髪は黒と白が混じっている。瞳はブルーだった。なんだか落ち着かない様子で両手のコインをいじくり回している。
「どいて!あたしとボブがなんとかする」
「いいや、僕は美香の声が聞こえた。居場所が判る!」
仕方なくと行った様に裕美は後部座席に乗った。博士は少し太っているのか、奥に3人で乗る羽目になった。今は仕方がない。博士はこう言った。
「ボブはな……昔私にカップケーキを作ってくれた……ああ、10歳の頃だったな、しかし、しかしだな……甘すぎて食えたもんじゃなかった」
「ずっとこの調子だ。最初の第一声はなんだと思う?『もう少し太ってるかと思った』だ。俺は親父が頼りになるとはとても思えないね」
僕も博士に苛々していたが、早く出発しなければいけない。僕はボブに居場所を教えた。それなら知ってると、ボブはエンジンを掛け、急発進させた。博士はびっくりしたのか、肩がぴくっと動いた。裕美はFBIのIDカードを見せて、医者に退院の許可を貰った様だ。だがそれには後見人が必要で、身内にしかなれないと言った。ボブが苛立っている様子から見ると、無理やり後見人にさせた様だ。景色が徐々に森の中から住宅街、そして街へと向かって行った。
「ジーンが言ったんだ。脅しと同じだ。俺が今までにやってきたことをある人にバラすと言って、俺はこんなくそったれの世界に巻き込まれたんだよ!」
「くそったれだなんて言わないでよ。1人の人間の命が博士によって助かるかも知れないんだから」
「助かるだって?ジェイソンにそんな力があったらぜひお目にかかりたいね」
すると博士は何かあったのか、下を見た。
「すまん……小便漏らした」
皆はため息をついた。もちろん僕もだ。しかしボブはきちんと博士を理解しているのか、皮肉な笑みを浮かべ、
「流石うちの親父」
と言った。
「ねえ、俊太郎。さっきジャクソンビルって言ったわよね? 私もそこに居たの」
僕と実験台は驚いて、僕は堰を、そして実験台は空中で透明になっていた体を皆に見せる羽目になった。僕の上にモルモットが乗っている。ああ、しまった。
「それなに?」
先に声を発したのはグリージャだった。グリージャは後部座席から助手席を覗いていた。ただのモルモットだよ、と僕は言おうとしたが、先に実験台が口走ったので、僕は止むを得なくただ黙って聞いていた。
「私は天界からの命者だ。この俊太郎という者は全世界の救世主なのだ。私はこの少年を意地でも助けなければならない」
驚きを覚えなかったのは、ただ裕美と博士だけで、グリージャとボブは頭が混乱している様だった。当然だろう。僕は世界の救世主でもない、単なる平凡な高校生だと言っただろう! ……いや、健一との戦いを見てからはそうは思えなくなった。それに僕の何かを感じる力だ。段々心臓の音もクリアに聞こえるようになったし、僕にしかヒルガーと実験台の声は聞こえない。僕をなんとか救おうとしているんだ。そう思うと自分が特別な存在なのかもしれないと思い込んだ。いいや、現実じゃない。僕は単なる……
「おっほう! モルモットが二足立ちに立っているのは見たことがない。それに声を発することもできるのか!ぜひ……」
「動物実験は辞めろよ、ジェイソン」
ジェイソン博士は笑ってしないさ、と言った。首を振ったが本当はしようと思ったんだろう、博士。こいつに逆らうとえらい目に合うぞ。グリージャはまだ理解出来ないで居る。判らなくていいんだ。実際、知らない方が良いことだってある。車はジャクソンビルに到着した。何か赤茶色のレンガで出来ていて、2階だての様だった。古臭くはない。だが変な匂いがする。皆は気付いていないのか、ただすぐに車から降りた様だった。車の中から、窓も開いていないのに、匂いがするなんて変だ。なにか、嫌な匂いだ。腐った様な匂いだ。まさか。僕は急いで4人より先にジャクソンビルに入っていった。鍵が開いている。裕美は止まってと命令したが、僕は平気だ。ビルの中はただの部屋で、右側にキッチンと真ん中に丸い1人用のテーブル、左手にはソファーがあるだけだ。そして僕の正面にも小さなグレーのソファーがあるだけで、他には何もない。左手にあるドアを開いても、バスルームとトイレしかない。地下はどこなんだ。僕は心臓に手をやろうと思ったが、辞めた。それじゃ遅すぎる。目を瞑って、少し鼻で深呼吸した。判った、判ったぞ、右手に階段がある筈だ。少し遠いだろうがその下に地下がある。僕は携帯で裕美に電話をした。たった1コールで裕美が出た。実験台も心配してない様だった。ヒルガーはというと、のんきに姿を現し、周囲を驚かせている。
「拳銃も持ってないでしょ!どうやって救う気?!相手は武器を持ってるよ、絶対に」
「ああ判ってる。僕は平気だ。博士を連れてきてくれ」
裕美は博士にFBIで使う銃を1つと普段使わない50口径の銃を手渡した様だ。銃など使ったことがない様で(僕も使ったことない)どう使うんだと説明した。気をつけてと言って、ただそれだけだった。博士はやっと判って、僕のところに近づいてくる。博士がいないと何を調合して、どう解毒剤を作るのか僕には知る由もない。何も三人を巻き込むことはない。博士さえ居れば、なにか方法がある筈だ。昔のことをよく覚えている。
「博士!」
僕は博士が着たのに気付いて、振り返った。
「ああ、着たよ……何をすればいいのかい」
「当たり前だ! 彼女を救うんだよ、解毒剤が作れる筈だ。地下にある」
僕はまた振り返って右手の人差し指で指した。そして急いで僕は戻って鍵を閉めた。
「あ、ああ。解毒剤か。実に楽しみだな。10年以上やっていないが覚えているぞ」
楽しみだという言葉にイラっと来たが、今は博士にしか頼りになれる人は居ない。なんとか解毒剤を作らせて、彼女を救わなければならない。僕と博士は長い階段を降りて行って、5分もかかって地下に着いた。確かに変な色の薬が沢山置いてある。空の点滴バックや注射器も置いてある。それにビーカーだ。しかし凄い匂いだ。人間が死んだ後の腐臭がする。なんて匂いだ。僕は広いコンクリートをすべて見渡した。死体も何10人と言えない程仰向けにされている。すべて骨と血だけだ。眼球なんかない。目が真っ黒だ。もちろん下のものもだ。脂肪も何もかも取り除かれていて、しかし残された変色した女性の胸の肉を見て、僕は思わずゲロを吐いた。酷い。あまりに酷すぎる。博士は何とも思わない様だ。僕は少し落ち着いたのか、やっと最後の胃液を吐き出した。何とも言えない匂いだ。死臭はこの地下全体に広がって居て、あまりここには居たくもない。しかし博士は面白そうに棚の中を漁っていた。この匂いが気にならないのか?やっぱりおかしい。クソ。ここで何人もの人が殺されたのか。
 「それで、彼女の病名はなんだ?」
「病名なんか知らない!ただ青い点滴を打たれていると言ってた。それで、赤い薬だ。多分何かのカプセルだと思う。 彼女はカニバリズムに洗脳されたんだ」
博士はしばらく考えていた。何か思い出そうとうろうろして居たが、そんな暇はないんだ。どうか思い出してくれ。博士なら出来る筈だ。なんせエセ科学をしていたんだからな。何かを唱えている。なに?ポリウォーター? それで彼女を救えるのか?
「あ、ああ……実際ラボでないと実験はできないんだが、今は実験している暇などないんだろう? では仕方がない。いや、これは困った。困ったぞ……大変だ」
「博士。さっきポリウォーターって言いましたね?」
博士は自分が何を言っていたのか忘れている様だ。彼を扱うのが大変だ。
「そうだ!ポリウォーターだ。とても危険な水だが確実な方法はそれしかないだろう。今は既に作られていないが……」
「それはどれです」
「ああ……1966年にボリスが研究してた。それは社会現象にもなって……」
僕は苛々が止まらなくなって、博士にどなってしまった。時間がないんだ。ちょっとは正気になってくれよ。博士はそれではっきりと目覚めたのか、僕に色々と要求してきた。何がなんだかさっぱり判らないが、とにかく準備をしないといけない。
「まず、ガラス管を用意してくれ。そして水だ。純度100%の、なければ、出来る限り純度の高い水でもいい。それで……やかんはあるかい?」
僕はあらゆる棚を探して、20年前くらいのやかんがあった。それを博士の目の前のテーブルに置くと、次はコンロだな、と瞬時に悟った。コンロはテーブルの左にあった。
「それでなんとか大丈夫だ。熱膨張率は1.4倍。後は水を粘性15倍にするのだ。そして融点は?約20℃。そして沸点を約350程度にしておけば、ガラス管の中に素晴らしいポリウォーターが出来るだろう!しかし、しかし何かが足りない」
融点?20℃だって?しかも沸点は350度って、どういう原理だ。少しは手伝うことも出来るが、博士自身もやらなければならない。僕は何が足りないのか訊いて見た。
「出来ればメタノール、酢酸を準備してくれ。これは高分子材料の産業が開花されるか仮説を立てたのだが、私は違う。人体実験をした時には効果があったのだ」
僕はメタノールと酢酸を準備し、博士の目の前に置いた。博士はやかんにほんの少しの水を、入れた。量が足りなすぎるんじゃないのか? しかしこれを中空繊維の中空部に、低融点物質を入れると流動体の状態に置いて吸引するとできるようだ。しかし沸点はどうするんだ? 沸点はやかんが沸騰した状態で約100度が限界だ。博士は融点の温度を少し高くすればいい、と言った。同じ中空繊維の機器を使用することを可能だとも。
「よし、徐々にこの水は融点が?20℃になってきている。次に沸点を行う」
「それにメタノールと酢酸をいれれば、可能なのですか?」
「そうだ。なくてもできるがより危険になる。だから入れるんだよ」
やかんが沸騰しても止めない様に僕に言った。なぜならすぐ冷えてしまうからだと。
「さて、これを沸騰させて……」
すると誰かの足音が聞こえた。敵だ。しかも人間だ。僕は目を瞑って集中した。博士の研究の邪魔はさせない。やかんに水が少なくなってきているのを確認すると、すぐに博士はガラス管にそれを入れた。そのガラス管はいくら熱があっても爆発しない様だ。僕は念のため、博士から銃の使い方を訊くと、すぐポケットに忍ばせた。僕は暗い死臭がする廊下をじっと歩くと、すると瞬間、右側から男が出てきて手をあげろと命令した。博士はその大きな声に驚いたのか、せっかく作ったガラス管を割ってしまった。くそ。お願いだから、もう一度作ってくれ。頼む。博士は集中すると止まらないらしく、銃を向けられても平気の様だった。正しくは、銃を持っているのに気がついていない。僕は大人しく手を上げた。しかし目を瞑って集中させた。銃なんてどうってことない、と念じるかの様に。震えた両手が徐々に下がっていく。男はその様子を見て、何をやっている、と尋ねた。しかし次第に僕の体は熱くなって行き、(まるで鉄板に置かれた様に熱く、痛みがあった)その熱をその男に移させることができた。僕はふう、と息をつくと、ドラム缶の様な爆発の音と共に、僕は目を開けた。死体が転がっている中で、その男が黒焦げになっているのを確認した。しかもばらばらになっていた。銃は粘土の様に変な方向に曲がり、灰が空中を舞い、僕は堰をした。博士も堰をしたが、僕にどうやったのかと訊いた。僕は無視して解毒剤を作ってくれと言った。僕に興味を示しているみたいだが、今そんなことを訊いてどうする。博士の命も関わっているんだぞ。僕はカニバリズムで食い尽くされた死体をまたぎながら、(これは未だに慣れない。慣れる方がおかしい)今度は銃を出し、顔全体に黒い帽子を被り、白いマスクをした男から銃を受けそうになった。しかし玉がスロー再生の様に見えた。なぜだ? 今度は目を瞑ってもいない、心臓に手を当てても居ない。僕は左側に避けることができた。そして僕は例え敵でも、人を殺すのは嫌だったので、目を瞑って男の両足の太ももを撃つ様にした。銃を下に向けて、2回撃つつもりだったのが、その男の胸に3回も撃ってしまった。僕は敵に駆け寄って、生きているかどうか確かめたが、死んでいた。2人も殺してしまった。その罪悪感と後悔で、自分をも撃とうと思ったが、辞めた。僕が死んだら一体この世界はどうなるんだ? そう考えると、不思議に気持ちが穏やかになった。しかしなぜ僕は救世主なんだ? 一体どこが救世主だ? 人を殺したというのに。後に実験台に訊こうと思った。博士はようやく解毒剤が作れたと言うと、すぐ美香の場所へ行くと解毒剤を持った。注射器に透明な液体が入っている。博士は出来るだけ首の血管に打つ様にと促した。僕は頷くと、走りながら死体を跨いで美香の居る場所に着いた。何か透明な窓ガラスの中に、まるで入院患者の様にベッドに仰向けになって居る。僕はドアに鍵がかかっているのを確認すると、美香にこう言った。
「美香! 僕はドアを開けられないんだ。この下からこれを取って首にさしてくれ」
美香はすぐには動けない様だった。酷い堰をしながら点滴を手首からぶちやぶった。せっかく治ったと言うのに、あいつらは美香になんてことをしたんだ。美香はベッドから転げ落ち、這い蹲って僕のところまで来た。それでいいんだ。僕は大きなガラス窓の下に穴が開いているのに気付いたので、美香にそれを渡した。右の手首から血が流れている。仕方がないんだ。赤い薬から逃れる為には、この解毒剤が必要なんだ。美香は手を震わせながら右手で首に注射した。途端に暴れだしたが、博士、大丈夫なのか? 脚をじたばたさせながら、しかし、次第に静まり返った。僕はその様子を見ようと美香をじっと見つめたが、僕は美香に催眠状態にされたかの様に、固まって動けなくなった。頭がくらくらする。目を開いたり閉じたりしながら、僕はなんとか意識を保とうとした。美香はこう言っている様だった。
「あなたのお陰でまた自由になったわ。たしかにあの連中は敵だった」
「どういうことだ?」
「あなたとまたこうして会えることを望んでた。健一を使って、16人殺させたわ」
すると美香はドアを開け、ゆっくりと僕に近づいて来た。
「世界の終わりが近づいてるの。私は生き延びる筈だった」
僕が目を開けると、薄いブルーの患者用の服に忍ばせて置いたのか、50口径のピストルを僕に向けている様だった。世界の終わり? 生き延びる筈だった? 僕はここで死ぬんだ。こんな死体の腐臭のする中で、終わりを告げるんだ。実験台、君は正しかったんだ。僕をいつも見守り助けてくれた。だが今度こそ終わりなんだ。美香に解毒剤を打たせたのがまずかった。彼女は僕の好きな女の子だった。僕は美香を下から見上げると、まるで別人の様だった。裏切ったのか。すると大きな銃声の音が聞こえた。途端に催眠状態から僕が抜け出すと、後ろに居たのは博士だった。また振り返って美香を見た。死んでいた。僕は博士に何も言うことができなかった。
「まさか私が、人を殺すだなんて、思いもよらなかったよ……」
僕は博士を見て、銃を降ろしたのに気付いた。手が震えている。
「様子を見に来ただけだったんだ。その、解毒剤が効いているかをね……しかし君が催眠状態に犯されているのに気付いた。仕方なく、私は撃ったのだ……すまん…」
僕はもう一度振り返って美香を見た。仰向けになって、頭を撃ち抜かれているのにようやく気付いた。そしてもう一度博士を見た。博士は涙を流し、僕に駆け寄り、ぎゅっと抱き締めた。博士はもう一度、僕に謝った。何が起こったのか、判らなかった。僕はただ蹲って、黒い廊下の一部を見ていただけだった。

第二章 「Olivia」

「Olivia」

僕はゆっくりと目を覚ました。天井にはいくつもの黒い線があって、どうやらここは病院の様だった。僕の右腕に点滴が刺さっている。広い個室だった。左を見ると、窓ガラスの向こうに可哀想な顔をした3人が居た。この人たちは誰だったっけ。すると1人の女の人が個室に入ってきた。 黒人の女性はこう話しかけた。
「鈴木君、もう大丈夫よ。あなたは酷い催眠状態に犯されて……でももう大丈夫」
「僕に何をしたんだ?」
すると先生らしき女の人がこう答えた。
「ここはただの救急外来よ。あなたの友人が救急で搬送してくれた。FBIの人達があそこの様子を見て、今調査しているの。あなたはまだ何も考えなくていいのよ」
僕は右腕に刺さっている点滴を見た。薄い黄色の液体だった。もうすぐなくなりそうなのに気がついて、ただの鎮静剤か、麻酔だと思った。僕は何をして、あんな外国人と話しているんだ? FBIなんて知らないぞ。 僕が混乱しているのに気付いたのか、黒人の先生と男が話しているのを見た。すると男はドアを開けて、話し掛けてきた。
「なあ、君なら俺を覚えてる筈だろ? あんな頑丈に作られたドア、勝手に鍵閉めやがって。オリビアとグリージャはだいぶ心配したんだぞ」
「鍵? オリビア? グリージャ?」
男は仕方なくすべてを話すことにしたのか、僕に長々と説明した。
「いいか。残酷な話だが君は思い出す必要がある。ジャクソンビルの地下で、君とジェイソンは解毒剤を作った筈だ。美香っつー女を救うためにな。君は男2人を殺して、解毒剤を美香に渡したんだよ。だが彼女は君を裏切った。ジェイソンは君の様子に気付いたんだか判らないが、彼女を殺した。君は訳の判らない言葉を言いながら、ジェイソンは俺らに君を預けたんだ。それでここに居る」
僕は人間を殺したのか?! 犯罪者じゃないか。何も覚えていないぞ。僕は点滴の針を左手でぶち破り、喚いた。その喚き声はガラス窓の向こうにも伝わり、2人の女は耳を塞いだ。いい加減にしろと男は僕の顔を拳でぶん殴り、目を覚まさせようとした。向こう側に居る2人は目を思わず瞑った様だ。あと2人?いや人間じゃない。動物が浮かんでる。何かハムスターよりでかい動物と、蛇だ。
「この痛みだよ!覚えてないとは言わせないぞ。君はあの透明な動物を知ってる」
男は右手で窓ガラスの向こうを指した。僕はこいつに殴られた痛みによって、少しずつ思い出してきた。思い出そうとして居た。しかし思い出せない。僕は頭を抱えた。しかし何かを思い出す必要があるには違いないと気付いた。あの動物には見覚えがある。確か動物が僕を救世主だと言って、友人……それと僕の母さんと父さん……
「死んだんだ! 僕の友人が死んだ。 それと母さんと父さんも」
男はようやくほっとしたのか、僕の左側にある椅子に軽く腰掛け、うなだれた。この男は、サングラスをしていた。男はそのサングラスを外すと、その男の瞳は緑だった。眉と目の幅がせまく、少し髭を生やしていた。確か、皮肉を言っていた。
「俺の名前覚えてるだろうな? 救世主君」
「あ、ああ……ボブ。ボブ・エイブラハム」
「そうだ。それでいいんだ」
ボブはゆっくりと腰をあげると、僕の顔を見てにやりと笑った。そしてドアを開けて出て行った。女性2人と話している。あの2人も覚えている。長い髪の女性は……裕美だ。それでポップコーンが好きなもう1人は、グリージャだ! 僕はようやく現実を受け止めることができた。しかし心が痛む。痛くて仕方がない。僕は大丈夫だ、僕は強い。すると動物がすっとドアをすり抜け、僕のお腹に乗った。
「さすが君だ。こうして生き延びている。彼女は君を裏切った。多分悪に獲りつかれたのだろうな。そしてカニバリズムへと変化していった。彼女も何か投与された筈だ」
「お前は実験台だ。モルモットだ。美香は、美香はどうして僕を裏切ったんだ?」
実験台もそれは判らないと言ったように、透明なまま僕に話した。
「君は知っている筈だ。彼女と会話をしたか、彼女に何か言われたか」
恐ろしくて話すことが出来なかった。死体の腐臭がして、僕は美香を救おうと思ったのに、彼女は僕を裏切った。最後に彼女が話したのは……何か不安なことだった。だが実験台には言うべきだった。恐ろしいことでも、話すべきだ。僕はやっと口を開いた。
「美香はこう言ったんだ。やっと自由になれた。健一を使って16人殺せたって。でも僕が殺したのは美香の敵だった。あとは……もうすぐ世界が終るってだけだ」
「そうか。君の両親も、正しくは健一が殺したのではなく、美香が殺したのだな。世界が終るということについてだが、心配することはない。私は君を救うのだからな」
するとドアが開き、またあの黒人の先生が来た。点滴をぶち破ったのに気付いたのか、椅子に腰掛け、優しく僕の左手を握った。とても温かい手だ。
「思い出したのね。とても大変なことがあなたに降りかかったことを、残念に思うわ。でももう大丈夫。あなたは何もしていないのよ。もうすぐ退院できるから、待っていて」
先生は僕に笑い掛けて部屋を出た。裕美とグリージャに何か話している様だった。しかしジェイソン博士はどうしたんだ?博士は僕を救ってくれたのに、博士はどうしたんだ、ボブ。実験台は、博士は今ボストン近くのホテルに居ると言った。そしてボブは博士の元に行ったと告げて、後は何も言わなかった。裕美とグリージャが中に入ってきて、僕の顔色を伺った。とても悲しそうな目で僕を見ている。僕は悲しそうに見られると、なぜか怒りが込み上げてくる。きっと嫉妬だ。涙を浮かべることができるのは、僕が人間ではないという証拠でもあるんじゃないのか? いや違う。僕は人間だ。
「ブロイルズにきちんと話してきたから、もう大丈夫だよ。ボブの窃盗とスピード違反もね。10人以上の死体には、全部美香の指紋がついてたよ。アンタが殺したのはやむを得ない事情があったからよ。なんで彼女をわざわざ連れ去ったのかは疑問に思うけど。日本にまで来てね。博士もそう言ってた」
裕美は紺のスーツに身をまといながら僕に話した。グリージャも頷きながら、僕に少しだけ笑い掛けた。グリージャはカラフルな半そでのシャツを着ている。好みが僕と似ているな。シャツは僕も好きだ。もちろん、地味なシャツも。僕は先生にもう退院していいと言われると、それに従って、起き上がった。麻酔やら鎮静剤やらを打つと、やっと眠れるんだな。裕美は僕に着替えを手渡すと、グリージャと共に出て行った。会計をする様だ。僕は迷惑をかけたなと、少し反省した。しかしなぜ美香は、裏切ったんだ。世界が終るってどういう意味だ。そして僕が人を黒焦げにできたのはなぜだ?毎回思うが、疑問が終る度に、次の疑問がやって来るのはもううんざりだ。僕は入院服を脱いで、ジーンズを履いた。美香はどうして……まさか僕の力に気付いていたのか?そして白いシャツを羽織って、ボタンを途中まで閉めると、実験台は言った。
「君はだいぶ悩んでいる様だな。それに栄養も取っていない。何か食え。まあ多分君が今考えている様に、美香は悪魔に洗脳され、カニバリズムへと変化してしまったのだろう。私が彼女の病気を治す前に、もうそうされた筈だ。弱い者に乗り移るのだ。君が敵を殺せたのは君の力が強くなっているからだ。これでもういいかい?」
まるで僕が死ぬ筈がない様に言うのはやめてくれよ。僕はなんとか頷くと、病院のフロントへと向かった。裕美が会計をしている様で、その金額にびっくりした。100ドルだと?! 約10万じゃないか。たった一日入院しただけなのに、そんなにかかるのか。裕美は緑色の長い財布から100ドルを数えながら出すと、会計が終った。緑色の財布には、誰かの名前が書いてあった。裕美の名前じゃない。
「何見てんのさ。昨日の報酬だよ。アンタはそんなに金ないだろ」
「いやそうじゃなくて、アベル・シャビエルって隅に書いてある」
裕美はそれを隠そうと、すぐポケットに入れた。まるで恐れるかの様に。誰だ?すると実験台はすぐに気がついたのか、僕に話しかけた。また綿菓子食ってる。いい加減青だのピンクだの甘いもんばっかり食うなよ。すぐに食べ終わると、次は飴玉だ。
「これは旧約聖書の名前だ。アダムとイブを知ってるかい。彼らは2人の兄弟を産んだ。その兄に殺された子供の名さ。私は旧約聖書はあまり好きではないがね」
なんだって?! 裕美の財布に刻まれてる名前は、実験台の言うとおりに考えると、恐らく死んだボーイフレンドの名前だ。アベルという女性の名前は居ない筈だ。兄貴の名前はなんだと訊くと、実験台は『カイン』だと答えた。アマラとカマラじゃないんだから……裕美は僕を無視して先にタクシーに乗ってどこかへ行ってしまった。グリージャと僕だけが残された。グリージャは僕にポップコーンを買ってきたというと、腹が減っていたので、貪り食った。まるでヒルガーと同じだ。ヒルガーが裕美の役に立つといいんだが……するとボブと博士が病院に戻ってきた。博士はずっとホテルに居っ放しで、風呂に浸かりっぱなしのところを、ボブが発見した様だ。
「あ、ああ君か……実はずっと考えていたんだが……どうやらその薬は私が作った様で、ああ、つまりだ。悪魔というものは昔から存在していて、人間にその薬を呑ませると、より効果が発揮するのだ。その……」
「人間を食い散らかす人間を作り出す、ってことだろ?」
なんだって? つまり博士が作った薬を誰かが盗んでまた作り出したということか?
「ジェイソンによると、食い散らかす人間だけじゃなく、攻撃性のある人間を作ることができるって理論だ。まあ理論じゃなく、実際に起きちまったがね、あんたのせいでな。他に何か隠してるだろ、全部言えよ」
ジェイソン博士は言いにくそうに言った。
「私は攻撃的な人間を作ろうとした訳ではない。誰かが私の作り出したものを改良したんだ。彼女も言ったろう?世界が滅亡すると。その準備の為に20年前作ったんだ」
準備ってなんだよ、とボブが訊くと、それから先は何も言わなくなった。しかし他の言葉を口にした。 ボブも博士の顔をじっと見つめた。もしくは睨んだ。
「世界に2人生き残れるんだ。その、1人ではなく」
                         ☆
ボブと僕、そしてグリージャは博士を睨み付けた。『2人残れる』、正しくは2人しか残れないってことだろう。どういう理屈なんだ。博士の仮説であるかも知れないと、僕はあまりまともに聞かない様にした。実験台は知っているかの様に僕に考えが読めない呪文を唱えた。博士みたいなことするなよ実験台。お前が答えないと、博士はいつまで経っても答えないぞ。忘れてるかもしれないんだぞ。
「おいおいおい。冗談は辞めてくれよ。2人しか残らないってどういう意味だ?」
「それは忘れた。すまん……」
博士が深刻そうな顔をすると、どうやら事実の様だ。博士が思い出すまで、実験台は一言も話さないぞ。グリージャは博士に言った。何か思い付いた様だ。
「つまり大雑把な言い方すると、世界に何かが起こって、2人残れるってことは、子孫を作り出すため?」
「そ、そうだな……その、世界に何かが起こる理論は覚えていないんだが……子孫を残すのは実に簡単だ。セックスをしてだな……」
僕とグリージャはあんまりにも突拍子な言い方で下品なことを口にするものだから、思わず頭を掻いた。ボブは博士を正気に戻そうと試みたが、博士は一切言葉を発しなかった。実験台もだ。重要なことなのに、なぜ言わない。僕は永遠の命など欲しくはない。だが僕の大事な人が死ぬのを見るのはもう沢山だ。それが例え、敵だとしてもな。 博士は病院の中をうろうろするものだから、病院の受付の人に言われた。
「何かご容態でも?」
「ああ、ここにシリアルはあるかね?」
ボブは博士の肩を強引に抱いて、
「はは。面白いこと言うなあ。おい、さっきから様子が変だぞ」
博士とボブは何か話している様だったが、先刻裕美がタクシーに乗ったことについて議論を白熱させているみたいだ。終ったのは約10分経ってからのことだ。その間に僕は実験台に説明してくれと頼んだが、ぼやかす様に空中でダンスをしているだけだった。しかもステップを踏んでだ。ダンスなんかするなよ!こんなときに。
「おい、救世主。判ったぞ。ジェイソンの理論によると、悪魔は連中の作った薬を土台にして、爆発人間に変身しちまうらしい。投与された人間はそれを制限することができなく、俺らによって殺されちまう。そして君の友人であるオリビアは投与された危険性がある。なぜならさっき怯えてタクシーに乗ったからだ。何か隠してるに決まってる。投与された人間でも運がよく正常に戻ることもあるってな」
こいつは気付いていたのか。裕美がタクシーに乗っているところを目撃したことを。ボブは相変わらず勘がいいな、さすが詐欺者。毎回驚くことをしてくれるぜ。しかしなぜ裕美がそんな羽目になったのだ?どうして次々何かを投与される必要がある。健一も美香もそして裕美もだ。まさか全員に投与されたのか?それならとっくに変異している人間がいるはずだ。薬の効果が現れた人間がいればすぐに発見することが出来る筈だ。ボブの言うことが正しいのなら今すぐ裕美を救うべきだ。しかし他の方法は何かあるのか?手段は一体……僕はその正体たちに勝つことができるのだろうか?判らないが、絶対に食い止めてやる。ぜったいに。
「おい、オリビアの居場所がわかったぞ、GPSの追跡番号を見つけた」
ボブは病院の中をうろつきながら何か新しい、見たこともない黒い小形の携帯電話を手にして裕美の居場所を突き止めた様だ。一体どうやって?裕美の携帯番号をいじったわけでもないのに。僕はボブに訊いた。
「タクシーで行った筈なのにどうやって居場所が判ったかっていいたいんだろ」
「そうだ、どうやって追跡したんだ?」
「さっきのタクシーのナンバーは556089だ。そして外部からは追跡することはできない。しかし外部からでも追跡できる方法はいくらでもある。例えば宅急便。あれは営業用の細かい運行管理を保存することができる。タクシーも同じだ。ある種のアタッチメント、携帯電話、そして」
ボブは息を呑んだ後、
「無線機だ。この携帯を見ろ。オリビアが発信しないとしても、このタコグラフを見れば一瞬にして人の居場所を見つけることができる。メモリーカードで一日の保存を記録に取ることもできるが、このタコグラフは一瞬だ」
「タコグラフって、なんなんだよ?」
「そいつは後だ。今はオリビアの身の危険の心配をしろ。今彼女が居るのは多分当時の場所、つまり行き着く先は多分、モーテルだ。とにかく皆急げ」
ボブはジェイソンがうろついているところを見て、右手をぎゅっと掴み僕達と一緒に車へ向かうことへとなった。ボブはジェイソンがいつまでも手をいじっているのを見て、イラついたのかぐいっと引っ張って無理やり引き出させた。ジェイソンもムカッときたのかボブの手を引き離そうとしたが、なんとか引きずり出す事ができた。グリージャはけろっとした表情で肩を上げ僕を見た。まるで仕方がないじゃないと言っている様に。僕はその姿を見て少し安心したが、確かにジェイソン博士抜きでは裕美を救う事は出来ない。こっちのモーテルというと、休息を取れることができる一時のホテルみたいなものじゃないか。ということは推測すると向かっているモーテルに居る人間は男か!
僕達は急いでジェイソンが盗んだ綺麗な白い高級車に乗り込んだ。ジェイソンはなかなか乗ろうとしないのでボブが無理やり後部座席に乗せた。ジェイソンは一言「なんだい、私の事を何処かに連れて行くつもりか」等と言ったが、ボブは判っている様に「そうだ」と応えた。ボブは父親の事をよく理解し、ボブなりの思いやりでジェイソンに言ったのだろう。ボブが父親を愛する気持ちが僕にまで伝わってきた。しかし、僕も両親を失ったのに、涙がなぜか、流れてこない。とてもとても悲しい筈なのに、なぜ流れて来ないのだ。その訳は今も判らない。僕もまた薬を投与されているのかもしれない。怒りや憎しみは溢れてくるのだが、悲しみ、素直に笑う事が出来ない。人を思いやることもそうだ。人間を救うという気持ちは溢れ出して居るのに、それが出来ない。「ちくしょう!」と思い、僕は助手席の前にあるグレーのエアーに頭を思いっきり頭をぶつけた。痛みはある。頭がカチ割れそうな痛みだ。すると右の髪の毛の下からたらっと血が流れ出してきた。ほんの数センチだった。血は赤い。思い出したが、なぜ美香の血は緑だったんだ? 僕の血の色は赤い。ボブが左を向いて「大丈夫かよ」と訊いて来たが、大丈夫だと答えた。そうするしかなかった。今の僕の血は赤い。少し頭がずきずきと痛むが、血が赤くてよかったと、本当に思ったのだった。グリージャも後部座席から英語で『Are you safe?』等と訊いて来たが、僕も英語で『I*m okay』と答えた。僕は英語が一番苦手だが、これぐらいは話せる。英語と日本語で、あまり通じないのが、僕の気持ちを揺るがせたが、今はそれどころではないと、血を右手でぐいっと拭き取り、ボブにグリージャと同じ英語を発した。ボブは皮肉っぽい笑みを浮かべながら、僕に一瞬振り向いただけで、それで終った。車がすぐに発進し、ボブは携帯を使わずハンドルとエアーバッグの真ん中にある番号を押し、裕美に連絡を取ろうとした。繋がったが、たった2コールで終ってしまった。しかしボブが僕に電源をを切ろと言ったが、その時裕美の声がした。かぼそい声であった。怯えている様なそんな声であった。ボブは気付いたのか、今会っているのがアベルというカイルの弟だということが判った。僕はボブの物凄いスピードに揺られながらそんな気持ちを考えていた。しかし、正直僕には裕美の気持ちは全く判らなかった。何故昔のボーイフレンドの所へ行く必要がある。もう愛しては居ない筈だろう?女性ならば男性を踏み台にし、翌朝にはそいつの事を忘れている筈だ。男性は最も、違うが。いつまでも引き摺り、切ない、恨みや、憎しみ、遣る瀬無さ、そんなことを一生忘れない筈だ。勿論、人によってそれは違うと思う。裕美が言っているのは『Help me』だ。かすれそうな声で泣きそうに怯えている。その声は今にも声が出なくなりそうな途切れ途切れの声であった。裕美は多分、アベルと会って、何かに怯えているのだ。アベルか、それとも、何か、だ。ボブはそのモーテル、グリーンモーテルへと向かおうと必死に急ブレーキを掛けたり、自動車が古びた白いガードルにぶつかりになりそうになりながら、急発進をして裕美を救おうとして居るのか、それとも仕方なく車を走らせているのか判らないが、僕がボブの表情に見るにしては、ただただ顔をしかめっつらで必死に向かおうとしているのが読み取れるだけだ。ボブは『ここだ』と言って、急ブレーキを掛け、エンジンを止めた。
「ボブ?」
グリージャが突然心配そうな表情を浮かべ、ボブへと泣きそうな声で言った。何だ?何か感じ取れるのか? 何かは理解出来ないが、ボブにとっては重要な事だと気付いた。しかし丸腰だと危ない。僕は博士に話しかけ、車から降りるよう、カタコトの英語で話した。彼はよく説明しないと判らないが、危険だと察知した時は、誰であろうと、科学の事、歴史、そして聖書についてはよく知っている筈だ。博士は絶対に必要だ。僕は博士に訴え掛け様としたが、グリージャがそれを止め、『I go to the for Olivia』と発した。まるで自分が裕美を救えるとでも思っている様な、今度は強い口調で言った。しかし博士が居ないとまずいのではないかと僕は言ったが、グリージャは博士を車のドアを閉めて、出られない様に『鍵を閉めて置くのよ』と言った。博士は一瞬、せっかくの楽しみが……と言っていたが、博士は長い間精神科病棟に入れられていたのだ。今の技術の進歩など、判る筈がない。ボブとグリージャ、そして僕は思い切って古いグリーンモーテルへと走って行った。そのモーテルはとても古く、つまりおんぼろだったが、緑色のドア、303のドアをノックした。しかし誰の声も聞こえない。ボブは前持って準備していただろう針金でこじ開けようとしていた。左に一度針金をドアノブに差込み、右に半回転した後、そのドアは開いた。かちゃっと静かにボブは自分の父親の様子を見ながら、ゆっくり裕美の所へ深緑色の端っこの方が黒く錆付いてる。それを意味するのが何か、僕には判った。裕美が昔彼とよく通っていたモーテルだ。僕達はゆっくりとそのドアを開けると、誰も居ない。あったのは沢山の薄汚れたぬいぐるみ、そして裕美が呑まされたであろう薬品だ。僕はジェイソン博士に訊いた。
「この薬品は一体なんなんですか」
「それはいい質問だ、坊や。これはアディミカルと言った人間を豹変させてしまう薬の部類だ。これは私が作ったものだ。しかし誰かが盗んだのだ」
博士は頭を抱えて、すべては自分のせいだと頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。しかし博士は硬直したようにぴたっと止まった。何かを考えている様だ。実験台やヒルガーもその様子を見るようにじっと固まっていた。僕は『何を考えているんだ!』と実験台をを手掴みにし、ぐっと思い切り力を込めた。僕のTシャツに赤いしみができた。実験台は苦しそうにのたうち回っているのが見えた。僕はそれを見て、なぜこんなことをしでかしたのだろうと心の隅っこの方に苦しみの匂いがするのが判った。
「人間は……どうにもならないと考える時……誰かに八つ当たりするのだな、俊太郎。しかしその気持ちはよく判らない。私はそれでも俊太郎を守るしかないのだ」
僕は実験台から手を離した。赤いしみが点々とできていて、まるで赤い果実の様な匂いでも漂ってきそうだった。するとグリージャが声を掛けた。
「それ血? モルモットになぜそんなことをしたの」
「なんでもないんだ。今は裕美を助けないと」
グリージャは訝しげに僕を見遣った後、すぐ僕から離れる様に歩いた。303の部屋は酷く臭く、美香の時と同じ様な匂いが充満していた。何か腐臭のするとても嫌な匂いだ。また再び思い出してくる。中は白の汚れた壁で、『普通』と違う何かの黒い点々がこびり付いていた。いつも裕美が使っているシャープペンが2人分の机の上にあった。薄茶のそのテーブルが、アベルとの関係を象徴している様だった。グリージャは大きなソファーの上に座り、腕を組みながら何かを考えている。ボブはというと、あちこち見て回っている。ビーカーやスポイトが並んである1つに何か気がついたのか、ボブはこう言い放った。
「ジーンは間違いなくここに居る。このビーカーの中にシリアルが入ってる。ビーンズじゃない。普通のシリアルだ。毒見はしたかなかったが、1口食べた」
「何やってるんだよ!毒が入っているかも知れないんだぞ!知らないぞ、僕は」
 ボブは僕をふっと皮肉の目で見遣った後、逸らしてバスルームの方へと向かっていった。僕も追いかけて向かおうとしたが、部屋にはそこら中にヒトラーのモダンアートが並んでいた。僕は久々に怖気を覚えた。アベルはドイツとは無関係なんじゃないのか?違うのか?何が一体正しいんだ。すると実験台が声を掛けた。
「兄のカイルはヒトラーをこの上なく愛していたと代四さまが言っていた。アベルがそれに取り付かれたと言ってもおかしくはない筈だ。それにアベルは兄を憎んでいた」
僕は実験台の言葉に目を疑った。悲しみが僕を包んでいたのだ。裕美の考えている事は判らないが、アベルの気持ちは判る気がする。僕は深緑色のモーテルの部屋の中の真ん中に突っ立って、考えていた。アベルは兄が憎く、ヒトラー(もしくは当時ドイツ軍であったヒトラーの企み)の真似事をしていただけだったのだ。それを裕美が知っているかどうか判らないが、僕は迷わずボブを右手で追い払い、迷わずバスルームへと近づいていった。臭い匂いが充満する。思い出すのは嫌であったが、血の匂いには、この反吐の出る様な匂いにはいつの間にか慣れてしまった。するとバスルームの方から少し声が聞こえてきた。
「アベル! なぜこんな事をしたの? あたし達の仲間はとっくに気付いているわ」
「そんなことはない。君は僕の気持ちを知らずに去っていってしまっただけの話さ」
なんだ? 何を話しているんだ? アベルは裕美のことをまだ愛していたのか?ボブはバスルームを思いっきり開け、裕美が湯船に浸かって、左手の手首から血を流しているのを見た。アベルは銃を持っている。裕美の浸かっている泡は血に染まって鮮やかな色をしていた。裕美は呼吸をしようとなんとか、僕達に伝えようとしていた。
「あたし達は恋人だったの……でもアベルが……裏切った。あたしは彼がヒトラーの血を引いているだなんて思わなかったんだ……」
しかしアベルはその言葉を封じるように、もくもくと熱気が舞い昇るバスルームの中でこう言った。言ったというよりも、怒りに弾いて、罵声を浴びせたと言ったほうが正しい。アベルは思いっきり悲しみと怒りの魂を裕美にぶつけていた。
「黙れ!裏切り者は君だろう!なぜ僕を信じられなかったんだ!ヒトラーを崇め続けたのはカイルの方だ。今度こそ君を地獄の淵へと追い遣るぞ!」
アベルの声は次第に大きくなっていき、僕の心を怒りの底へと突き落とした。僕が駆けつける前に、アベルは銃を構えていた。裕美はかろうじて声を出そうとしていたが、眉間に皺を寄せて苦しそうにのたうち回っているだけであった。その時既に息を切らして駆けつけていたグリージャが居た。僕の後ろ側に付いているグリージャはアベルにこう発した。
「私を撃つなら撃ちなさい。けれど、ヒトラーとの関係は兄ではなく、あなただったのよね、アベル? カイルはあなたを止めようとしていた。けれど出来なかった。あなたが何かに獲りつかれていたからよ」
実験台は素晴らしい洞察力だ、とでも言うかの様に拍手をしていた。こんな時に拍手なんかするなよ! 裕美が死にそうなんだぞ、たった今。
「そうさ、でもオリビアは裏切ったんだ。僕を止めるんじゃなくて、兄を止めようとしていた。本当に好きだったのはカイルだったのさ」
「あなたがオリビアをどれだけ好きだったのかは判らないわ。けれど、オリビアをこうして苦しめることは、あなたにとって……それが本当の幸福なの」
アベルは暫く黙って、銃を降ろした。そして自身が握っていたシャープペンをグリージャに渡そうとした。しかし裕美がバスルームから起き上がって、アベルを思い切りぶん殴った。カイルを助けようとしていたのは化け物に変化しつつあるあなたを止めようとしていただけで、本当に愛していたのはあなただったのだと、声を張り上げアベルに向かって言った。アベルは死体を貪り食っていた。カイルはそれを止めようとしていた。けれど出来なかったアベルに対して、裕美が止めようとしていたのだ。愛とはなんなんだ。家族とはなんなんだ。僕は必死に頭を抱えて、考えようとしていた。いったいここで何が起こっていると言うんだ。また記憶が欠けるのはまっぴらだぞ。ふざけるな!僕はヒトラーのモダンアートを引っぺがした。バスルームにまで貼り付けるなんて、どうかしているぞ。裕美は息絶えそうな力でアベルを殴ったのだ。裕美はぜいぜいと息を吐きながら、シャワーで自分の体を当てた。自分に左手の静脈を切ろうとしたのは誰かなど判っている筈だ。裕美は鈍感ではない。あまりに敏感すぎるのだ。そしてあまりに純粋すぎる。アベルは横たわったまま、気を失っているだけの様で、どうやってアベルの呪文から抜け出したのか検討も付かなかった。ボブもようやく目を覚まして、自分の左横に真っ黒な髪の毛をしたアベルが居るということを気付いた様だった。ボブは真っ先に裕美の下へと手を伸ばした。裕美はその手を振り払おうとしたが、ボブは全力で裕美の右手を握り締め、ボブの胸へとやった。裕美は一瞬たじろいたが、なぜここに来れたのかと真っ先に聞いた。アベルは気を失っているだけで、また起き上がるに決まっている。ボブは追跡番号で君に辿り着いたと言った。グリージャはアベルに何かをしている様で、アベルに何か言わせようとしていた。バスルームの下に浮かんでいる入浴剤はラベンダーの匂いがした。
「僕はオリビアを愛していた……しかしオリビアはその耳を傾けてくれなかった。カイルの様になりたかった……ヒトラーに獲りつかれた僕には何もない。僕もユダヤ人が憎い。ユダヤ人を殺したんだ。僕が……殺してしまったんだ。ここにある死体も、僕が全てやってしまったんだ……どうすれば僕の心から呪縛を払えるんだ?」
「あなたが、あなた自身がそうであるならば医者に行くべきよ。本当にオリビアを愛しているのなら、あなたが自分自身で自分を救わなきゃ」
「いや救えない!僕も何者かに投与されて、オリビアも投与されてる。誰にも止められやしない。オリビアも、いずれ自分の事に気付く筈さ……」
ボブは裕美の左手首に消毒液をかけ、包帯を巻いて応急処置をした。とにかく静脈すれすれのところで裕美は助かったのだ。しかしいったい、カイルとアベルの関係には気が付いたが、なぜヒトラーの血を引いて、何かを投与されなければならなかったんだ? 僕は博士の言葉を思い出していた。『人間の力を増幅させる薬だ』多少間違っている点もあるが、覚醒させる薬だと、それを鎮める力もあると、そういう薬だと思う。実験台は僕に問いかけ様としていた。しかしグリージャが気が付いたのか、それを留めてアベルに向かって言った。
「あなたはカイルの様になりたかったと言ったわよね?カイルがあなたに投与した危険性がある可能性は考えられないの?」
「それは知らないんだ……カイルはとにかく僕に優しくしてくれた。それだけだよ」
グリージャはそれに何か気が付いたのか、アベルの短い黒髪を撫でた。シャワーから水が少しずつ滴り落ちるのが判った。
「するとあなたはヒトラーの血など引いてない筈よ。本当に引いていたのは、カイルでは?カイルがその……なんというか、何かをあなたに呑ませた可能性は?」
ボブはグリージャにそれ以上何も言うなと促したが、アベルはそれを止めて、彼女に自分が判るすべてを話した。
「判らない。判らないんだ。でも話せるだけ話すよ。カイルは確かにヒトラーを崇めていたのかも知れない。でも僕を救おうとしていた。僕は自分が好きなラベンダーの紅茶を呑まされたのだけは覚えている。それから……僕の何かが変化していったんだ」
「違うわアベル。カイルがあなたに優しくしようとしていたのはすべて、あなたへの利用の為よ。カイルはまだ生きている筈。カイルの居場所は知っているわね? でも今あなたを救う必要があるわ。あなたはまだ……」
するといきなりアベルがグリージャの首に噛み付いた。歯が鋭く、グリージャの肉を食いちぎった。アベルの口から血が流れ出し、グリージャの血が止まらなくなった。ボブも慌ててグリージャの首を押さえようと、モーテルにあった深緑色のシーツで縛り付けた。傷口だけだぞ。思いっきり縛り付けては駄目だ。死んじまう。アベルはいったい……何だ、そうか! アベルはまだ人を食い殺す力を持っているんだ。グリージャは左手で右の首をぐっと押さえた。解毒剤が必要だと僕に言った。アベルはまたグリージャの首に噛み付こうとしたが、僕は力ずくでアベルの右手を取って止めた。こいつは力が強い。僕が幾ら力でこいつを止めようとしても、何度でも噛み付こうとする。僕は必死でこいつの頭をシャワーの取っ手に、そしてアクリルの壁へと追い遣った。押さえていた。なんだこれは。しかし僕には何も出来ない。すると実験台はこう言った。
「今日は悪に対する呪文を何も使っては居ないから大丈夫だ、俊太郎。こいつを眠らすことができるぞ。しかも昏睡状態に」
僕は目を見開いた。昏睡状態は駄目だ! アベルと裕美の関係が判らなくなってしまう。しかし実験台は呪文を解き放ち、アベルの方向へと光を放った。酷い眩しい光だった。そして皆目を閉じた。僕とヒルガー、そして実験台だけ目を開けている。まさかボブや裕美、グリージャにまでやったのか?!そうなのか?!
「違うぞ、俊太郎。アベルの昏睡状態から少し眠りの呪文も入れて置いた。君が居なくてはこの3人を救うことは出来ないからな。私は今日2つの呪文を使った」
「代三者、あなたは素晴らしい天の使いだ。俺の救世主を救ったのだからな」
「代二、キリスト様から命じられた筈だぞ。裕美を救うのは君だ。私は疲れている」
すると実験台がすっと僕の目の前から消えた。死んだのか? いや違う。僕の前から姿を消した方が、僕の心を和らげると、実験台は思ったんだろう。ヒルガーは呪文を使おうと、裕美の手首にふっと息を吹きかけた。しかし思った様に上手くいかなかったんだろう。また裕美の手首が痛み出しているのが判った。ボブは必死でグリージャの首元をシーツで押さえつけ、僕はヒルガーの呪文が効くことと信じて、傍にいるしかなかった。アベルは眠っている。ずっと眠っているままだ。息を吸い、吐き、それだけだ。ヒルガーはもう一度チャレンジしようとしているのか、舌を伸ばし、裕美の手首に近づけた。舌を上下に動かした途端、モーテル全体の建物に地震のようなものが起こった。震度6ぐらいの物凄い揺れだ。バスルームにいては危ない。この3人を今すぐベッドの方へと運ばなければ。僕はボブをベッドの方へと行くように促した。震度6? ふざけるなヒルガー! 君は天使なんだろう?!……いや、僕がこの地震の揺れを止めなければいけない。僕は目を閉じて、バスルームの中を見ないように強く心を持った。
泡が急に排水溝へと消え去って行くのが判った。皆がシャンプーや石鹸が床に落ち、すべり落ちそうになったのが判ったが、僕は震度6強の地震を止めようとした。強く念じるんだ。怒りだ。悲しみだ。なんでもいい。僕に力を貸してくれ。僕に……なんだ?
すると地震が収まり、モーテルの中の揺れも止まった。このモーテルの中のベッドは倒れていなかったが、シーツやガラスは割れていた。当たり前だ。こんな地震に引き摺り込むなんてあんまりじゃないか、ヒルガー。
「おお。これはすげぇや。さすが救世主。オリビアも助かったぞ」
「そうか、やったなヒルガー。とりあえずグリージャの手当てが必要だ。あの子だけ救急車に乗せて行くことはできないか」
「いや、それは無理だ。こんな死体のくっせえところなんか間近で見た奴なんか、誰でも気を失っちまうし、ここにいる奴らが逮捕される羽目になるぞ」
僕はボブがそっとグリージャと裕美を横にさせた後、再びヒルガーが声を発した。
「グリージャのことは俺にまかせろ、俺は傷の手当てだけはキリストに教えられたからな。人間世界での手当てってもんは知らねえが、俺様独特の手当てならできる」
いったいどう手当てするんだ? こうしている間にもアベルや(彼はグレーのソファーに寝かせてやったが)グリージャが大変な事に巻き込まれているというのに。裕美は黒いスーツのまま、横たわって、ただボブが服を脱がせてやって、羽根布団の上に寝かせている。グリージャはとんでもないことになっている。出血が止まらない。ヒルガー、なんとかしてくれよ。部屋の窓ガラスは全部割れたが、彼女を救うことはできるだろう?僕は部屋中のガラスの破片をタオルで鷲掴みにし、ゴミ箱へ入れてやった。コンドームだと? こんなもの棄てちまえ! するとヒルガーが僕の手を止めた。ボブが透明動物と話しているのをやはり訝しげに見るのは当然だ。
「コンドーム! それだ。それがあればグリージャを助けられるぞ」
「コンドームがだって? 言っとくけどあれは……」
ヒルガーはそれを見た途端に袋からねじ開け、舌で噛み砕いた。コンドームの噛み砕いた破片を、グリージャのシーツの上にそっとやると、また念じた。何か僕には判らない呪文だ。なぜコンドームが彼女の手助けになる。しかしグリージャの首元の血が塞がって行くのが判った。縫い目を施すように、どんどん血が塞がっていく。僕は瞬きをするのを忘れて、ただ彼女の首元を見ていた。糸で結ばれた様に彼女の首が瞬く間に治療されていくのが判るだけだ。それはシーツの下を見なくても判った。
「ヒルガー、おい、ヒルガー」
「黙ってろ、すぐ終る」
僕は黙って、ボブと一緒にシーツを開いた。首元の血が収まっている。縫い目が施され、やはり彼女は救われたのだ。ボブと僕は手を叩いた。しかしなぜコンドームなんだ? コンドーム、あれは男性が使うものであって、女性が使うものでは……
「お前も馬鹿だな、救世主。あれはゴムで出来ているだろ。すると縫い目の変わりになるんだなぁ、これが。ゴムが縫い目の役割を果たしてくれたんだ。俺も疲れちまった。少し寝るぞ、後は任せた。その皮肉屋の男となんとかしろ」
なんとかしろって言われても……
ボブは変な目で僕を見ていた。動物と話しているのがおかしいと思ったのだろう。当然だ。博士を呼んでくればいい。博士を呼べばなんとか事の修理をできる筈だ。博士は車に乗ったままの筈だ。ボブは博士を呼び出そうと急いでモーテルから出た。僕は疑心暗鬼のまま、こいつの横に座って色々考えていた。大体ヒトラーの暗示にかけたのはカイルであって、しかしなぜカイルはアベルを助けようと思ったんだ?こいつが昏睡状態じゃ、何も訊けやしない。後は裕美に尻拭いをしてもらうだけだ。しかし今の裕美とグリージャは寝てしまっている。アベルもそうだ。ボブは博士を連れて、モーテルへと戻ってきた。博士は苛々していた様で(当然か)、ボブに言い放った。
「私を現場に連れていかないとはどういうことだ? 鍵を開けようとしたが開かなかった。なぜ鍵を閉めた。私がいなければ皆死んでいたぞ。」
「いや、死んじゃいない。アベルに訊けよ。アンタならできるんだろ?」
ジェイソン博士はアベルの目を見た。茶色だった。眼球を見れば何か判るのか?アベルとの会話ができるというのか。博士はボブに今すぐビーカーとスポイト、それに軽い麻薬を持ってきてくれと言った。軽い麻薬なんてここには置いてないぞ?
「あるんだなあ、これが。ヘロイン、判るだろ。これを微量、ほんの0.001?ビーカーに入れるんだ。水に溶かして、スポイトからアベルの口にいれるんだってよ」
「そうだ。少し目を覚まさせなければいけない。なぜここにヘロインなどの麻薬があったのかは判らないが、大体検討はつく。この人を覚醒する為の実験さ」
「実験? ジェイソン、なあ待てよ。人体実験までして置いて、またアベルに実験をさせるのか。危険だぞ、辞めとけジェイソン」
「いいや、本当のことを訊けるのはこの人だけだ。重要な事を1つ残らずテープレコーダーに録音するんだぞ」
ボブはやれやれと言った様に、テープレコーダーはもう古いと言った。その代わり、円盤をレコードにかけた。パソコンがすぐ傍にあったので、電線を青、緑、赤、白と繋いでくれと言った。順番を間違えると大変なことになるので、慎重にと息子へ伝えた。電線はパソコンからレコードに、そして青い画面が出た。そこには誰かが音波を発している信号が脈々と出ていた。なんだこれは。まるで誰かが話しているみたいじゃないか。実験台とヒルガー、そして裕美、グリージャは眠ってしまったので、僕とボブ、そして博士しか居なくなって居た。
「ボブ、そのヘルツを120に上げてくれ」
「はいはい、判りましたよ」
「いきなりじゃない、ゆっくりだぞ」
ボブはやれやれと言った様に音波をゆっくりと上げていった。すると何かの声がした。
『俺はカイルだ。アベルを操っていたのも俺だ。ナチスに関わっていたのも。弟はそれを裏切った。ただの復讐にすぎないと思っているだろうが違う。オリビアの為だった。それもお前らのお陰で台無しになった。世界に2人しか残れないというのなら、オリビアを救いたかった。その為の実験だった。よくも邪魔をしてくれたな』
博士は黙って訊いているだけであった。ボブは驚いて、アベルの口からカイルの声が聞こえるのを心底驚いている様だった。僕もそうだ。
『ナチスは世界を救う良い実験台だった。俺には出来ないから弟にやらせてやった。カニバリズムを作ったのもその影響だ』
「ナチスが世界を救うだって? 冗談は俺には通じないぞ」
『ナチスとユダヤが手を組めば、俺は不老不死になった筈だった。しかしそれもぶち壊しだ。君らも既に判っているだろう。世界に2人しか残れないという事を』
博士は信号をアベルから切ろうとした。しかし出来なかった。アベルがカイルへと変身していくのが判ったからだ。カイルは死んじゃいない。どこかに身を潜めているんだ。お前が裕美を、オリビアを傷つけたんだぞ。愛していたのはお前じゃない。アベルの方だ。財布の隅に刻んでいたのもお前の名前じゃない。アベルだ。
『終りだ。俺がオリビアを愛していたのも判らず、邪魔したのはお前達の方だ。俺はオリビアと共に死ぬ』
するとオリビアの体が捻じ曲がり、のた打ち回っていた。グリージャは寝たままだ。誰か居ないのか。博士、あなたに出来ることは何もないのか!アベルが苦しんでいることを、オリビアが苦しんでいることに気付いたのか、博士はヘロインを過剰にアベルの体へと注射しようとしていた。ポケットに潜めて置いたのか?!なぜこんな事になることを知っていて、今まで誰にも話さなかった。ボブは注射器を持つ博士に必死に訴えかけていた。博士の肩に手を遣り、左手で俺の顔を見ろとでも、言う様に。
「待てジェイソン!こいつを殺せばオリビアも死ぬぞ!手がかりになる奴を死なせるのか!まだ方法はある筈だ」
「いいや違う、こいつを殺さなくてもオリビアは死ぬ。だから私は手を打つのだ。ナチスは確かに君の言う通り良い実験台だった。しかし私は善人を救わない手はないぞ。私は家族の為、仲間の為ならなんでもする。裏切り者でもな」
博士はそう言った途端、アベルの体にヘロインを首に打った。僕とボブは目を瞑って、その様子を伺いたくもなく、打った後のアベルの体を見た。ただ、目を見開いて、呆然と暗い部屋の天井を見詰めていただけであった。ボブはジェイソン博士に向かって、何て事をしてくれたんだと責めた。しかし博士も涙を流していた。ただ息子の責める言い分を聞き取って、ただ、泣いているだけであった。嗚咽をしていた。僕はグリージャとオリビアの寝ている様子を見て、再びアベルの姿を見た。カイルが何者だったのかはよく判らなかったが、アベルは、悪魔でも天使でもなかった。ただの、人間だったんだ。ただ、みんなのように。ぼくのように……一筋の涙がアベルの目から流れ出ていくのが判った。オリビアもそれに気が付いたのか、右の目から、同じ様に流していた。

Bob&Jeishon

第三章 Bob&Jeishon

「グリージャとオリビアは、どうしてる」
ボブはさも自信満々でこう言った。今は翌朝7時だ。僕とボブ、博士はモーテルから脱出し、オリビアも上層部の人間にすべて話したと言った。レコードと共に、証拠品扱いするしかないのだ。2人とも今は寝ている。ボブも博士も少し眠そうで、ソファーに少し間を開けて座っていた。ヒルガーも見くびっちゃいけないな。今は誰もいないボブの部屋に運んだと言った。ボブの部屋は全てが茶色で、簡単に言うと木材の家だった。木で作られた家具には色々な物が入っていた。グレーのスーツ、黒のスーツ、それにピンクのシャツまで置いてある。これ男物か? Lサイズだった。茶色い四角のテーブルには大きなコップが1つだけであった。 コーヒーが生温い。飲む気がしなかったのか?ボブはシングルベッドしかないと伝えると、実験台がこう発した。
「君はまたやってくれたのだな。私もヒルガーも疲れて、寝ていた。君が居なければあそこからグリージャとオリビアを救うことはできなかったろう」
「なあ、訊きたいんだけど、なぜオリビアは自分の名前を裕美と偽っていたんだ?」
「簡単だろう。日本の国籍を取る為に偽のカードを作っただけだ」
そうか。オリビアは勘違いしていたのか。アベルから逃れる為だと誤解していただけだったのか。カイルがヒトラーの血を引いている人間だと知らずに、はるばるFBIの称号を棄てて日本にまでやってきたというのか。まだカイルの謎が解けない。ボブは起きたのか、大きなあくびをして(まるで実験台とそっくりだ)僕に寝言の様な声で言った。
「起きたか救世主……君は俺らと違って、物凄い力を持っているようだな」
「僕は眠ることができないんだ。眠らなくても平気なんだよ」
「なんだって? 眠れないんじゃ死ぬぞ」
ボブは目を疑った様に僕を見た。しかし僕は眠らなくても死んでいないんだぞ。なぜ眠れなくなったのかは自分でも判らないが、今はそのことを考えている暇はないと言ったろう。多分僕が監視していないと、救世主がいないと、また悪に手を出されるのが判っているからこうなったのだ。あくまで推測に過ぎないが。ボブはソファーから起き上がって、オリビアの左手をぎゅっと握った。そして僕は、グリージャの右手をぎゅっと握った。僕の手は冷たかった。しかしボブの手は温かかった様で、オリビアは再び眠りの底へとついた。グリージャはその氷の様に冷たい手に一時たじろいたが、すぐ僕の手だと判ったのか、ぎゅっと握り返し、その手を緩めた。
 「なあ、ボブ。訊きたい事があるんだけどいいかな」
ボブはどうぞいつでもという様に、オリビアの元から去って、僕の所へ来た。僕はまた部屋の中心に突っ立っている。
「いいけど、いい加減部屋の真ん中に突っ立ってるのはやめてくれるか? 俺の親父はぐーすか寝てるが、まるで親父みたいだぞ」
「……そうだな。僕がソファーに座ることを許してくれるかい」
「どうぞ、お好きなだけ」
ボブはジェイソン博士が寝ているソファーの隅に座らしてくれた。コーヒーを飲むかと訊いてきたが、できれば砂糖をいれてくれと頼んだ。するとボブは大さじ2杯入れたコーヒーを持ってきてくれた。ボブはまたブラックコーヒーだ。
「訊きたい事があるんだろ、もったいぶらずに話せよ」
僕はたじろいで、コーヒーに手を伸ばした。実験台は起きているが、ヒルガーは眠ったままだ。実験台より階級が低い生き物は疲れるだろう。僕はその甘いコーヒーを飲みながらゆっくりと口を開けた。
「アベルは、どうなったんだ、死んだのか」
「そうだ。カイルも死んだ。ナチスとの関係は未だに判らないが、その関係がなければ兄弟は本当の力を発揮できないとジェイソンが言っていた。繋がるんだよ。方法は違うにあるにせよ、カニバリズムを作るにはもってこいの薬だ。ジェイソンは鎮める力もあると言った。オリビアはそれを自分の力で鎮めたんだ、オリビアは強いよ」
「じゃああのタコグラフは?」
ボブは肩を落としてもう1つまで今更答えなきゃいけないのかと言った。
「いいか。宅急便だってタクシーだって無線機の1つや2つ所持してるに決まってる。そこから車両がどこへ行くまでの時間、距離、それさえあればばっちりだ」
ボブは頭がいいなと改めて思った。僕はまた酷く悩んでいた。美香の投与された危険性、そしてカイルとアベルの考えていた事。そして僕の親友、両親の事だ。カニバリズムをなぜ作らなければならない? 僕は目を遠く見据えたまま、ボブの声に耳を貸さなかった。ボブは僕の頬を平手で思い切りぶん殴った。僕は目がくらくらして、右の取ってのソファーに横たわった。
「いいか、君は少し考えすぎだ。いや考えすぎなんだ。少し忘れたらどうだ」
「……いや、僕がやらないとすべての人間が死んでしまう。運命を築くのは自分だ」
「おいおいおい、ずいぶん偉そうな事が言えるな。できると思ってるのか?」
僕の心に揺らぎはなかった。オリビアが起きたのか手首を支えた後、髪の毛を掻き揚げた。眉間に皺が寄ってる。あちこち見ながらここはどこと訊いてきた。ボブの部屋だと言うと、ボブがオリビアを、僕がグリージャを抱えて車を走らせたと言った。オリビアは上半身裸の自分を見て、すぐシーツで自分の体を隠した。
「なんだよ! 人の服剥ぎ取って、誰がやったんだよ!」
「俺さ」
ボブは別にどうとでもない様に肩をすくめた。濡れたままの服だと風を引くだろ、それを判らないのかとオリビアに向かって言った。それに応急処置をしたのは俺だ、君はそれともアベルと共に死にたかったのか?と言い放った。ふざけるなとでも言う様に、オリビアは自分のケータイをボブの額へぶつけた。オリビアは何を考えているんだ?自分のケータイをボブにやっちまえば、証拠がすべてわかるんだぞ。
「へえ。良いケータイじゃねえか。俺は言って置くが、君の証拠を探ったりはしない」
「アベルとの、博士との最後のやり取りが録音してあるわ。見て損はないんじゃない?」
ボブはオリビアの顔をキツく睨み付け、録音してあったレコーダーからアベルと博士、そしてオリビアの最後の会話を訊いた。
『アベル!あなたの最後のラボでの救いよ。あたしの話を訊いてちょうだい』
『救いだって? 僕にそんなものは……いら……ない』
『博士!アベルの脈が心拍停止状態になろうとしてます。どうすればいいですか』
『この赤い薬を呑ませるんだ。開くか閉じるか判らないが試してみよう』
『アベル、これであなたを救えるのよ。カイルは言ってたでしょ、あなたを救いたいと。カイルはあなたを大切に思ってる。今でもよ』
『違う!違う!僕を裏切ったのはカイルの方だ!君を利用しようとしてるんだ。僕もだ。カイルの言うことを訊くなら、僕は死んでやるぞ』
『アベル君……苦しいだろうがこの薬を呑んでくれ。君の恐ろしい力を鎮めてくれるかもしれない』
『博士!助手が急変して喉をつまらせてます!この青い点滴を打てば彼女は助かりますか』
『いや遅い。喉をつまらせてしまっては私の可哀想な助手を救うことはできない。君が赤い薬をアベル君に呑ませてやってくれ』
『判りました。苦しいですが、アベルの口を開かせます。ああ!アベル、あたしの手を噛んでは駄目よ、ゆっくりでいいから飲み込んで』
『うわあああああ! 僕をどうする気だ。何て事をするんだオリビ……』
『博士、アベルが薬を飲み込んだ途端心拍停止になりました。収まるんでしょうか?』
『判らない。様子を見ないと……ああ、駄目だ。駄目だ駄目だアベル!鎮静剤をくれ』
『アベル! 外へ行っては駄目よ! ああ、ああ……ああ!アベル!……』
そこで会話が途切れ、ぶつっと音がして終った。ボブと僕は目を見開いたままオリビアを見ていた。オリビアは涙を流しながら鮮明に過去を思い出そうとしていた。俯いて右手で涙を拭き取ろうとしていた。戻らない過去というものは、いずれかは自分で始末をつけなければならない。しかし誤解というものは蜘蛛の糸の様に幾度も重なって、単純な筈なのに、難しくなってくる。話に収集がつかなくなると、今度はあちらこちらに話がとんで行き、本当の事が判らなくなってくる。僕は両親との会話も思い出していた。僕が誤解を生まなければ、あんな残酷な事はしなかったろう。過去は洗い流す事は出来るが、他人にとってはいつまでも残る記憶だ。いつまでも執着し続ける。何を話したらいいのか、どこから話せば判ってくれるのか、思いやりを持ち続けることもこっちにとっては厄介な出来事になってくる。そうすればどちらとも記憶からずっと逃れ続ける事は出来ない。
「これで判ったでしょ。カイルは結局あの薬を呑まされていなかった。アベルは投与されて……今、どこに居るの」
ボブは言い難そうにオリビアへ言った。
「残念だが死んだ。ああするしか方法はなかったんだ。君も判るだろう?」
「ふざけんじゃないよ! 誰がやったのさ、あたしに知る権利はある」
ボブは仕方がないようなのか、いや、違う。父親を庇おうとしていた。ボブの眉間に皺が寄って、しばらくソファーから立って、うろうろしていた。考えているのだ。どう説明すればオリビアは判ってくれるのかと。しかしオリビアは勘が鋭い。オリビアとボブとの間に距離ができたのが判った。オリビアは瞬時に立って、枕に隠してたであろう銃をボブに向けた。ほんの数メートルであった。僕には入る隙がない。
「おい、俺を殺せば父親も死ぬんだぞ。何の手がかりもなく終わりにする気か」
ボブは一旦間を置いてから言った。
「アベルはああしないと、ずっとカニバリズムになり続けるんだぞ。勿論一時的に阻止する事もできるが、君はそうしたかったのか?」
オリビアはぐっとこらえて銃を降ろした。グリージャは起きていたのか。大丈夫か、グリージャ。オリビアはただ泣いている。布団の上に拳を握り締めて震え上がらせている。もうアベルを殺した本人は知っている筈だ。しかし許すしかないのだ。僕はまだ誰が敵なのかが判らず、誰をも許すことはできないが、許すという事は妥協とは違う。
「オリビア。君なら判っていた筈だ。止める事ができなかったんだよ」
「……」
グリージャは首に包帯が巻いてあるところを震える手で触った。大丈夫な様だ。オリビアを救ったのも、グリージャを救ったのも、皆ヒルガーや実験台のおかげだ。すると実験台は僕の右上に浮かび、話しかけた。
「君の言う事は少し違うな。私はあの大地震を止めることは不可能だった。確かに我々が彼女達を治したのは確かだが、君には果てしない能力が存在している」
「能力、能力って一体なんなんだよ!僕になにができるっていうんだ?!人を殺す兵器人間を止めることができなかったんだぞ!」
実験台は言った。
「つまり運命を変える能力だ」
                        ☆
実験台は不安そうな目付きで僕を見ていた。ゆらりゆらり浮かぶ彼は僕に不安を突き刺そうと思っているのではなく、自分には出来ないから君がやれとチャンスをくれているんだ。つまり勇気をくれている様なものであった。ボブとオリビアは喧嘩をしながらも互いを思いやっている。まるで夫婦喧嘩みたいだな。あんな事件がオリビアに降りかかったというのに。……なんだ?僕は今まで実験台、裕美と呼んでいた。なのに今度は彼、オリビアと呼んでいる。
「君は私とオリビア、グリージャ、博士、ヒルガーに親近感を覚え始めた様だ」
「親近感だって?」
「そうだな。本来今の君には存在しない感情なのだが、ちょっとした軸を変えた」
僕は少し不安になってモルモットに言った。
「軸ってなんだよ。僕が変えたのか?」
「そうだ。君が『仲間』と呼んでいたのは初め単なる『人間じゃない生き物』と捉えていたほうが正しいか。今の君の『仲間』というものは、『人間』として考えている。つまり少し運命を自分で刻んだのだ。私の目に狂いはなかった様だな」
グリージャはとても深刻そうな顔をして僕を見ていた。ベッドの上から転げ落ちそうになったのを見て、僕は首を捻らないように瞬時にグリージャをベッドの真ん中に乗せた。グリージャは悲しそうな顔で笑って、僕に言った。
「あなたはとんでもない力を持っているけれど、私はその力が正しいとは言えないわ。確かに美香を突き止めたのも、オリビアを救ったのもあなただけれど」
モルモットはグリージャの言葉を塞ぐように劈く様に喚いた。口を大きく開けてぺらぺら話す彼はグリージャの心にも伝わった感じだ。
「何を言う! 俊太郎は命を救ったのだぞ。その力を棄てるという事は俊太郎は悪に殺されてしまうのだぞ。君は何も判っていない」
「いいえ。判るわ。彼の力は確かに立派だわ。でも相応しくない事だけは判る」
グリージャは声が聞こえたのか? なぜだ? 薬を打たれているからか? モルモットは僕の声を塞ぐ様に、次の言葉を口にした。
「ではなぜ君は助かった。地震の揺れを止めたのは誰だい。何ものにも相応しいだの相応しくないものなどない。ただ1つ重大な事は俊太郎だ」
グリージャは仕方がないと言って、僕の頬にキスをした。僕は心臓が高鳴ったが、すぐその感情は消えた。何をするんだ。何の為にキスをした。僕は判らなくなって、次に起こる事がなんなのかボブに言った。オリビアは引き下がってグリージャの頭を撫でていた。
「次に起こる事だって? なんにも起こりゃしないさ。2人とも助かった。君のお陰でな。でも何も心配する事はない。何も起こらない。判ったか?」
「いや違うんだ。まだ悪は潜んでいる。誰かに成りすましているに決まってる。安心できるのは君とオリビアだけだ。博士を起こしてくれよ」
ボブは僕の頭がおかしくなったのかと思い、不審な目付きで僕を見た。そして博士を起こし、ジェイソン博士は眠たそうに右手で目をこすった。
「ああ……君か。夢を見たよ。ボブの小さい頃だ。大人になった今もボブはレモンクッキーが好きでな」
「博士、そういうことじゃないんです。カニバリズムとナチス、神に科学、それが合わさったとき何が起こるんですか」
「そ、そうだな……それらはばらばらに並べられている言葉なんだが、私の理論だと
少し見方を変えると、それらが合わさり、思わぬ方向に向くと破壊や消滅、そういった事が起こるな。それにだ……神というものは実際には存在しないが作り出す事も出来る。つまり人間だ。それは科学に繋がり、ナチスは1873年にはもう我々の想像を超える科学の進歩が産まれた。というと、カニバリズムや蘇生、そういった不可能を可能にするという事ができるのだ」
僕は難しくてよく判らなかったが、ようやく口を開いた。
「博士が言っていた、世界の滅亡ですか」
「そうだな……つまり私達は、君も含め、ハチの巣の様にヘキサゴンと呼ばれる」
「六角形、僕達の事?」
モルモットは博士の太ももに乗り、実に素晴らしいと褒め称えていた。何が素晴らしいんだ? 僕達6人の中で2人しか残れないという事実を僕が止めろと言ったのは君だぞ。しかし運命を変える事ができるのも僕だ。2つの現実が真っ向に僕に当たると僕はいつも苦しみを覚える。2つだけではないが、何かの試練にぶち当たるといつもそうだ。苦しみが芽生え、怒りが燃え、爆発する。ボブは博士の座っているソファーに近づき、ヘキサゴンの事を訊いた。
「つまり雪の結晶の事か?」
博士は頷き、言葉を発した。
「そうだ。大人になったな。雪の結晶は実は全て6角形なんだ。何1つとしてトライアングルやペンタゴンになったりはしない」
「僕達は雪の結晶だということですか?」
「そうだ。解けてしまう前に、それを止めないと次元を超え、何もなくなる世界へと引きずり込まれる」
オリビアはグリージャにビスケットを持っていき、グリージャに食べさせた。グリージャは咳をしてビスケットを吐き出した。ソファーの横に経つのはまずい。まだ早い。僕はグリージャを抱き抱え、博士に彼女をソファーに寝かせる様に言った。彼女の背は低い。オリビアとは大違いだ。博士はゆっくり腰をあげて、場所を空けた。オリビアはあまり事務所に行く事はない様で、プライベートの事件については、プライベートの友人に話していた。つまりブロイルズだ。僕はグリージャの傷も心配だったが、むしろオリビアの心の傷が心配であった。彼女の目はいつも大きく見開いている。目を潤わすように、眼球の底にはいつも果てしない純粋があった。もっと早くオリビアの心に気付くべきだった。しかしいつも影を持っていて、その純粋な心を覆う様に、男勝りに口と行動だけは立派だ。僕はというと、ボブから貰った甘いコーヒーを右手で持ちながら、博士を見ていた。自分のせいなのじゃないかと疑い始めている様だった。まるで迷っている少年にしか見えなかった。博士は腕組みをしながらボブを避けて、うろうろしていた。だからだ。狭い生い茂った杉の木で囲まれている。太陽が今見えたろう。ぬめった土に光が差し込んでいる。だが光はその目に映っていたのだろうか。そんな眉間に皺を寄せ、自分を追い詰めるかのような博士に。還暦を迎えそうな博士が記憶を辿っている。
「ねえ、もしかしたら、俊太郎は救世主じゃなくて、悪の手先に騙されてるんじゃないの?」
するとモルモットがグリージャの左手に噛み付いた。こいつが人に噛み付く事は見たためしがない。よっぽど怒ったんだろう。酷い目付きだ。今にも彼女を殺そうとしている様だ。だが人は傷つけない宿命らしく、ほんの少しかすり傷を負っただけであった。僕は騙されて動いているのか? そう思うとどうしようもなく自分の中にある『救世主』という言葉を消し去るしかなかった。もしグリージャの言うとおりだったら、僕は誰かに騙されていて、健一が殺されたのも両親が殺されたのも、美香も、オリビアも、僕のせいじゃないか。僕は怒りが込み上げてくるのではなく、ただまだ温かいコーヒーを見つめているだけであった。だったらなぜモルモットはそんなに自信満々なんなんだ?
「君は間違っている。ではなぜ私はキリストから命じられ、俊太郎を救わなければと、使命を受けたと思う」
「私も神を信じているけれど、あなたのキリストは間違ってると思う。直感よ」
モルモットも仕方なくと言ったように、少し吐き出した。
「ああ、確かにそうだ。キリストは変わるのだ。それが良いキリストなのかは私にも判らない。だが私自身で決めて、地球に降り立ったようなものなのだ」
よく判らないが、とにかくキリストの命令だけに従った訳ではないということか? こいつ自身の気持ちも含めはるばる僕の元に降り立ったというのか。じゃあ僕はキリストの命令もこいつの言う事も訊かない方がいいんじゃないのか。僕は何が何だか判らなくなって、コーヒーを一気飲みした。テーブルに押し付かれたコーヒーカップは割れそうな音が響き、皆僕の事を見た。ああ、僕が悪かったよ。だから皆、お願いだから僕の顔から目を逸らしてくれよ。
「俊太郎、グリージャの言う事をすべて鵜呑みにするんじゃない。だが私自身でここに来た。そして第四さまの命令を少し違った方法を使って私は舞い降りたのだ」
「違う方法ってなんだ」
「ご機嫌取りだ」
                        ☆
僕は森の中にいた。杉の木でもない、生い茂った広い森の中だ。少し侘しいフォークソングの曲が聞こえる。誰の歌だったのかは忘れた。ハーモニカとアコースティックギターの柔らかい歌だった。英語で、僕には判らなかった。眩しく日のあたる森に僕は佇んでいた。しかしその柔らかな音色はしばらく経つと酷いノイズの音に聴こえてきた。僕は森の中で耳を塞いだ。やがて光は遠のき、僕の耳はフォークソングだけになった。僕はどこにいる。本当はどこにいるんだ。砂時計の様に時間が過ぎていくだけは判った。照らされた目を瞑りそうな草原に、母さんと父さんがいた。父さんは切実な目をして、俊太郎、こっちへきてくれと言っていた。しかし母さんの目は別になんとでもない様な目付きをしていた。僕は口笛を吹きながら、空を吹き飛ばした。真っ暗な星屑だらけの宇宙の様なところにいた。母さんは消えていた。僕は一粒の涙を流していた。息を吸うことも出来ない宇宙には、母さんは居られなかった様だ。しかし父さんは何処へ行ったんだ? 僕は追い掛けた。石の様な星屑を踏みしめながら、両親を探していた。なあ、母さん、父さん、僕が悪かったよ、帰ってきておくれよ。星屑は僕の足元から崩れ落ち、僕は真っ暗な闇の世界へと放り込まれた。
「俊太郎、俊太郎、どうした」
僕は目をふっと開けると、頭を掻いた。いや、なんでもないと皆に言った。僕は正気を取り戻し、怒りが込み上げてきた。
「ご機嫌取りだと?」
「仕方なかったのだ。私の宿命と第四さまが望んでいる宿命は違っていた。私はこのまま俊太郎を放っておく訳にはいかない、そう思ってやって来たのだ。許してくれ」
僕はモルモットの遣る瀬無い目付きを見ると、許すしかなかった。そもそも許すとか許さないなど、今の僕には関係のないことだったのだが。用件を話したオリビアは、僕に話した。
「次の犠牲者が出たそうよ。アンタならやってくれるわよね?」
僕は少し黙って、頷いた。博士がまだうろうろしている所をみて、ボブが手を取り、車へと乗せた。グリージャは僕が支えて、一緒に後部座席へと乗った。彼女は手にビスケットを持っていて、僕に1つ渡した。何か食べないと自分が駄目になると、そう言いながら。モルモットなら、集中力は切らすといけないからな、と言う筈だ。今の僕には、事件はどうでもよかった。あの正夢のような夢が、忘れられなかったからだ。すぐ着くと、そこはボブの家の近くのジャクソンビルだった。色あせた壁や看板が、僕を思い出へと導いていくのが判った。しかし僕はそれを追い遣った。すぐ降りると、そこは古く広い壁ばかりの部屋だった。そこら中に鍵が閉めてあり、博士しか判らないと思った。博士は、順序どおりにドアを開けようとしたが、どうやらその番号を思い出せない様だった。しかししばらくして、はっと気付いたかのように、『2210』という番号をくるくると回した。黄色い色と、人形が置いてある部屋に連れられた。そこで死んでいる女性がいるのが判った。僕はよく顔を見た。母さんだ! 僕は切り刻まれている母さんの首元をなんとも思わず抱きついた。なぜ僕の夢に出てきてくれなかったんだ。なぜここにいるんだ! 僕は母さんを抱き締めた後、そこら中に張ってある宗教と科学の記号が書かれてあった。グリージャ、ボブ、そしてオリビアはその死体を見て唖然としたが、僕は人のことを一時的にならすぐ忘れる事が出来る。その様子を見た皆はとても怪訝そうな顔で僕を見ていたが、僕はどうって事はなかった。黄色い壁には思ったとおりに森の絵が描かれていた。これは誰の作ったものなんだ?
「これは10数年前、私が作ったものなんだ」
「なんだって?」
「でも私が投与した訳ではない。投与したのは誰かだ、もしかしたらこの死体かもしれない。解剖してみないことには判らないが……」
「母さんだって言いたいのか?! じゃあ投与された人を調べてみろよ」
僕は段々と感情を表に出し始めていた。まず頭脳の一部が拡大されているか、そうでないかを調べる様だ。何か色のついためちゃくちゃな機械を、まずオリビアの頭に被せた。オリビアは怯えて少し震えている様だったが、強く歯を食いしばり、目を閉じた。これ以上彼女をどん底に落としたくはない。黄色、緑、赤、青。赤の点滅がした時に、投与された人が判ると言う。僕達は長い時間、僕は短く感じたが、オリビアの頭上に赤い点滅がかちかちと鳴ったのが判った。彼女はそんなまさか……というため息と共に、ボブの足元に崩れ落ちた。泣いているのが判ったが、ボブも真剣な目つきでオリビアと同じ実験を行った。しかしボブも赤であった。ボブとオリビアは支えながら床に落ち着いていた。次はグリージャだった。
 「これ、前も受けた事があるから判るわ、やって」
どうしてそんなに落ち着いていられるんだ。グリージャは神様なのか?人間なのか?一体誰なんだ? そうこうしている内に点滅が少しずつ出始めた。それはゆっくりと、色を現していた。まさか。そんな。
「青のようだな」
「前もそうだったの。女の人に実験を受けさせられたわ。その時私は思いっきりその人を吹っ飛ばす事が出来たの。まだ五歳だった」
「そうか。君はどうやら投与はされていないらしい。理由は判らないが……」
次に僕だった。博士は言った。
「黄色はまだ子供だという事だ。緑はただの人間。赤は投与された人間。青は、神に立ち向かえる人間だという事だ」
「僕はどちらに近いんですか」
「……どちらかというと、緑と、青に近いな」
僕は頭に古い機械を被されながら、どっちでもいいと思っていた。むしろ普通の人間の方がいいと願っている。時間はすごく長かった。判断するに時間が要していた。早く結論を出してくれ、僕が普通の人間だと。
「青だ」
ボブとオリビア、そして博士も驚いていた。僕もだった。だが遅い。グリージャと同じならば、オリビアもボブも救う事が出来るだろう。母親の死体がなぜここにあるのか判らなかったが、そんな事はどうでもいい。僕は仲間を救う事さえできればいい。博士が機械を外すまでに考えていた。僕の感情が噴出すように出てくるのはどうしてなのか、どうして僕達が選ばれなければいけなかったのか、そしてなぜ皆カニバリズムにされなければならなかったのだ。犯人を捜さなければいけないと考えたが、僕は一瞬あの夢を思い出した。母さんはなぜ消えたんだ? 父さんはなぜ逃げたんだ?
「伏せて!」
その言葉にはっとしたが、遅かった。グリージャが狙われた。右肩をすっとすり抜ける銃弾は少し赤い血を噴出していた。僕は彼女にパワーを引き出せるかと訊いた。その、五歳の時にのだ。後は博士に僕達が雪の結晶だということを証明して貰う事だ。ボブとオリビアも、ガラス窓が割れる寸前に、床に伏せていた。人形があった。博士が居ないととにかく話にならないんだ。モルモットとヒルガーが援護に入るから、「君は自分が雪の結晶でないことを祈っていてくれ」と言っただけであった。グリージャと動物達(今は動物ではない)は僕を援護してくれていて、博士は実験を始めると言い、ボブとオリビアに少し鎮静剤を打ち、六角形の白い紙を机の上に置いた。僕は銃で撃ってくる奴らを次々と吹っ飛ばして行った。しかしそいつらはすぐ起き上がり、また三人の下へやってきた。こいつら皆同じ顔じゃないか。よくよくその顔を見ていると、父さんの顔だ。父さんと同じ顔をしている様に見える奴らは、容赦なく魔法の力に対抗してきた。父さんなんだな?!
「父さん! 僕だよ!」
「駄目だ救世主。こいつらはお前の親父さんじゃねえ。クローンみてえなもんだ」
「なんだって?」
モルモットは騙されるなと言い、摩訶不思議な光景を見るしかなかった。殺すな、お願いだから、敵も味方も殺してくれるな! 僕はそう願い、クローンの様な父さん達を次々と眠らせていった。父さんはふらふらとしながら倒れていって、次の4人も同じ動きをしながらよろめき伏せた。僕はすぐ、父さんのところへ駆けつけた。少し傷のある手首には、また緑色の血だ。確かに、こいつは父さんじゃない。でも僕の父さんの顔なんだ。なんで父さんの顔に成りすました奴をここに置いておく! 母さんの死体もだ!モルモットによくやったと言われる前に、僕は思いっきり叫んだ。なんでだ。なぜ涙が溢れてこない。なぜ怒りや悲しみだけが僕を包み込む。ガラス窓が次々と割れて、何をするのだとモルモットは言ったが、そんな気安い声をかけてくれるな。僕の力に効き目がなかったのか、クローンの1人がすぐ起き上がり、博士を撃とうとした。しかしボブがふと目を覚ましたのか、博士の身代わりになった。机が倒れ、ヘキサゴンの紙は真っ二つに折れた。神に立ち向かえる人間だと? そんなもの要らない。ただ博士の上に乗っかるボブの背中に撃ち抜かれた銃弾が、寂しく音を立てているだけであった。その音が終ったとき、博士は目を覚まし、ボブの目を閉じている様子を伺い始めた。モルモットはクローンの1人を殺し、僕の下へ駆け寄ってきた。
「やはり狙いは君だ。余計な物を排除し、君を殺す気だったんだ」
「今ボブが撃たれたんだぞ! 最初から僕を殺せばいい!」
「そうはいかないからだ。君は悪にとって危険なものだが、殺せない理由があったんだろう。多分、ごく身近な奴だ」
ボブは博士に言った。
「なあ親父……俺にとってアンタは実を言うと厄介者だった。だが今は違う。レモンクッキー、今も昔もずっと好きだよ」
「ボブ、私は科学者だ。お前を救う事が出来る。それまで我慢していてくれ」
しかし最後の言葉を言う前に、ボブの目は見開き、天井を見つめているだけであった。博士はボブを溺愛していた筈だ。そうすると危ない。博士が居なくなってしまう。
「辞めろ、博士!」
鋭い刃物で自分の首を切り裂いた博士は、赤い血を僕にぶちまけて、逝ってしまった。僕の顔など血だらけになっても構わない。僕はねとっとした血を右手で触り、大声で叫んだ。博士は悟っていたのか? ここに来る前に覚悟していたんだろう。長くはないと。なあ、なあ! ボブと博士の思い出が蘇ってくる。最初は捻くれものだと思っていた、短い髪の、グリーンの目。少しぼけている博士。美香からやられる前に救ってくれた博士。僕もレモンクッキーは好きだよ。だから死なないでくれ。僕はボブと博士の体を揺さぶった。どうしてだ! なぜ死んだ! よくもやってくれたな。僕は父さんの面影を残しながら無意識にクローン達を殺していった。僕の声と共にガラス窓は次々と割れて行き、オリビアとグリージャはただ叫んでいるだけで蹲っていた。モルモット共にヒルガーは、僕の力を鎮めようとしたが無駄だった。博士、いやジェイソンさん、あなたは少しぼけていたが、僕は助けられたんだ。今もくだらないボケをかましてくれよ。目を覚ましてくれよ。ボブ、君のジョークも好きだった。ブラック過ぎたが。なあ、生きているんだろう?!目を覚ましてくれよ、もう何も巻き込まないから、少しでいいから息を吸ってくれよ。モルモット、君なら出来るだろう?何度もそうやってきたじゃないか。僕はモルモットに声を掛けた。
「なあ、お前ならできるだろ、博士とボブを救うことが」
彼は少し黙っていた。
「君ならもう判るだろう、君たちは雪の結晶だとジェイソンが言っていた。すると彼の理論はこうだ。身を潜めていたとしても落ちる。どこにも逃げ場所はない。まれに解けない結晶もあるが、本当にごくまれだ。ボブとジェイソンは解けてしまったも同然だ」
現実を突きつけられた僕は、ただ四体のクローンと、割れたガラス窓、それに色褪せた人形を見つめ続けていた。何分経ったのだろう。心に温かい錘が落ちる。硬い石の様に、僕を悲しみの奥底へ連れて行った。
「立ち向かうしかないのだ」
僕はふとモルモットの方を向いた。
                         ☆
オリビアが始めに声を掛けた。いや、オリビアは赤だった。駄目だ。雪の結晶だ。なあ、僕の敵なんだろう?
「ねえ、お願いだから正気に戻って。ボブはあたしも好きだった。博士も」
「そうよ、どうにか持ち直してちょうだい」
よくそんなことが言えるな。今僕が何を考えていると思う。僕は下にあるガラスの破片でオリビアを殺そうとした。しかしモルモットが止めた。オリビアは涙を流しながら何を考えているのと、ゆっくり崩れ落ちた。ただ静かに泣いているだけであった。ボブと博士の死体を見た。博士の電磁波には緑の信号が点滅している。普通の人間だ。誰を殺すかもしれないこの2人の連中を残しておくつもりか。ふざけるな。いや、本当は僕が最大の敵なのかも知れない。悪にとっても、善にとっても。
「とにかく私は疲れた。今日で8個の呪文を使った。寝る」
するとヒルガーも、
「おれぁも疲れた。だいぶ疲れた。後は任せたぞ」
しかしオリビアの様子がおかしくなってきている。手足が震え、まるで、凍えるような南極にいるように。頭もがたがた震え始め、目が赤になった。僕を睨み付けていた。僕は瞬時に気付いていた。僕を殺す気だ。でもオリビアじゃない。オリビアはあんな皮肉な目つきで笑ったりしない。何かの衝動でそうなったのだろう。オリビアは僕に向かって、机を飛び越えた。僕は手をかざし、オリビアを窓ガラスの下にぶつけた。オリビアはすぐ起き上がり、まるで動物の様に僕の頭に噛み付いた。痛い。軽いが、痛い。痛いぞ、でもこれはオリビアじゃない。グリージャもそれを悟ったのか、僕の援護をした。彼女はオリビアがいる方向へと、目を瞑り水を被せた。しかしキリがない。
『お前は俊太郎だろう。私を殺すこともできるのだろう?』
その瞬間、僕は今まで霧の中に居た様な気がした。私だと?女の声に違いはない。女は美香の時と同じ様に数字を言った。グリージャは暗記していた。
『2010time was back2011time was finnish Ioannes Baptista』
時が戻ってきた? 時が終っただと。これはどういう意味だグリージャ。僕は悲しみを抑えながら、せめて博士の目を閉じさせた。仲間が死ぬということはこういう事を言うのか。目を閉じてあげることすら、恐ろしい。優しい指先で、そうする他なかった。
「あなた恐れが戻ってきたのね」
「お前は平気なのか?! 死んだんだぞ、ボブも、ジェイソンも、オリビアも今は君の助けで起き上がらないが、おかしくなり始めてる」
「平気よ。前にもこんなことがあったもの」
僕は目を見開いた。
「なんだと?」
オリビアは僕の右腕に噛み付き、血を噴出させた。僕は痛みに耐え、オリビアを吹っ飛ばした。正気に戻ってくれ皆。殺す気はない。オリビア、目を開けてくれ。
「オリビアは助からないわ。美香の目、そしてアベルの目を見た?皆赤よ。カイルも多分そうな筈。投与されてはいないけど、赤い目が見えた」
僕はもっと他の方法はないのかと訊いたが、グリージャは首を振った。
「赤い目をした人は、いえ、今のキリストがやったから助かる訳がないわ。私の力でも彼女に立ち向かうことはできないもの……」
瞬間、すり足が聴こえた。何か妙な音と共に聴こえる。扉の向こうを見ると、死体が動いている。その声が僕の耳に届く時、妙な違和感を覚えた。
「駄目よ! この人から洗脳されたのよ、私がまだ無垢な子供だった時に」
『ああ……グリージャ、ずいぶんと久しぶりだね。元気? 私はオリビアを殺し、あなたを殺す為に作ったの。クローンではないけれど。あなたはこの子を助ける様になったのね。ありがとう。でも必要ないわ』
止めろ、母さんの様な声で話すな。騙されないぞ。そんな手に乗るとでも思っているのか。僕がどんな思いで母さんと父さんの死体を見たと思う。僕は机を飛び越え、オリビアをグリージャの下へ渡した。これ以上死人を出してたまるか。グリージャは魔法を使いながら、どうにかオリビアの目を覚まさせようとしていた。母さんの様な死体は血だらけで、僕に向かってきた。僕は思い切って壁に張り倒した。響くクロコダイルの様な床は、ますます僕の怒りを買っていった。母さん、いや、黒い目をした彼女は僕に向かって炎を噴出した。あちこちの物が、机や人形が燃え始め、僕の逃げ場所はなくなった。僕は水を噴射した。100リットル以上の水を、その炎たちに向けた。炎は消えたが、彼女の力は僕より強いらしく、この部屋を火達磨にした。僕はかろうじて燃えていない机の脚に掴まっていた。グリージャはここから飛び降りるのよと言った。そんな時間あるわけない。彼女と戦うだけで精一杯だ。僕は後で行くと言い残し、グリージャとオリビアはガラス窓から逃げようとした。上へ向かおうとしているのだ。しかし彼女は炎を再び噴射し、オリビアを焼き殺した。黒焦げになったオリビアはガラス窓を突き破り、こちらに戻ってきた。しゅうしゅうと墨の音を出しながら、オリビアは言った。
「私は……いいから、グリージャと共にいてあげて……」
息を引き取ったオリビアは眠りについた。深い眠りに。彼女、母親に似たような人間が普通吹っ飛ばしたと同じなら、一階に行くはずだ。しかし引き戻したのはなぜだ。
「いいこと。オリビアは非常に優秀だったわ。それを少し使ったの。オリビアから今力を貰ったの」
僕は怒りで頭がぶち切れそうだった。頭のてっぺんが少し禿げて、肉がむき出しになっているのは判ったが、オリビアから力を貰うだなんてあんまりだ。グリージャは最大限の力を発揮し、母さんの顔に印をつけた。ナチスのマークだ。彼女はゆっくりと仰向けに倒れた。死んだのかと思ったが、最後に僕に向かって言った。
「あなたが必要なの、俊太郎」
グリージャは力を使い果たし、ガラス窓から転がっていった。僕は母さんの言葉がこだまするように聞こえながら、グリージャを助け出した。ジャクソンビルは炎に包まれ、怒りでも悲しみでもなく、ただ愛おしさだけが残っていた様な気がした。燃え盛る炎はどこか悲鳴をあげていた。僕はグリージャの体を抱いて、再び夢の世界へと誘われた。
ただ真っ白な雲の様なところに居た。その雲は大きな空中の上にあり、僕は上を見上げた。青空など見えず、ただ直線的な光が5つか6つ、あった。群青色の雲の上から、黄色い光が見えただけだ。僕の体を突き抜け、すっと消えていった。見た事もない動物たちが、カラフルな動物たちがはしゃいでいる。動物たちから少し離れたところで、母さんと父さんが居た。何か話している。その言葉はラテン語でさっぱり判らなかった。ただ口論していることだけは判った。僕は割って入り、口論を止めさせようとした。しかし母さんは僕の胸の奥に何かいれ、地上に落とされた。父さんは僕を追って、手を伸ばす様に、掴まれと言った。もう少しで掴む事ができたが、僕は落ちて行ってしまった。あの雲の上にはいくつか食べ物があった。ぶどうの木やパン、それに血だ。その瞬間、僕ははっと目を覚まし、グリージャの様子を見た。病院に彼女をつれてきたのか? 点滴を打たれている様だった。
「あたし、青がよかったな」
「別に透明でもいいじゃないか」
僕達はゆっくり抱き締めあい、グリージャの左手をぐっと握った。美香やオリビア、ボブに博士の葬式にも行く。本当は行きたくなかった。
「あなたから悲しみが伝わるわ。ペンタゴンがディゴンになってしまったから」
「…………」
僕は言葉を発そうと思ったが、押し留めた。しかしグリージャは話して、と言った。
「いや、単なる悪い夢だよ。別にたいしたことじゃない。正夢じゃないし」
「夢は真実を語るときがあるの。怖がらないで、話してみて。力になるから」
すべての夢をグリージャに話す事なった。彼女はただ真っ直ぐな目をして、僕を見ていただけであった。彼女の目は強い目をしている。僕は時々目を逸らしながら、胸の奥を語った。それが終るころ、グリージャは発した。
「1つ目の暗号ってね、ただ2010年、今のことよ。何かが訪れるの。2011年、一年後にはそれが終るの。名前はヨハネの洗礼者のことよ。七つの教会へ行けと命じてるの。それは遥か昔のアジアにあるの。 エペソ、スミルナ、ペルガモ、テラテア、サルビス、ヒラデルヒア、ラオデキヤ。書き物を送らなければならないとね。でもそれは間違ってる。勝利を得るために、マナを送ろうと思ったの。女の子供を報いるためだから」
「つまり使徒か」
「そうよ。だからあなたが狙われてる。あの死体も、あなたのお母さんよ」

第一章 Mika

第四章まで続く物語ですが、今回はまだ仕上がっていないので、第二章まで送り届けます。

第一章 Mika

  • 小説
  • 中編
  • SF
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い反社会的表現
更新日
登録日
2010-11-19

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一章 「Mika」
  2. 第二章 「Olivia」
  3. Bob&Jeishon