「そこにいた女」

 38歳のOL亜希子は年下の彼氏に捨てられて寂しい日々を過ごしていた。
 いつもの様に買い物をしてアパートへ帰ると、部屋に侵入していた何者かに包丁を突きつけられ、手足を縛られ監禁されてしまう。
 その正体は、近所で母親を刺し殺して逃亡して来た17歳の少年であった…。

第一章 1


 五月も終わりに近いある日の夕暮れ。帰宅ラッシュの電車に揺られ、いつもの様に亜希子は帰って来た。吊り革につかまって、片手で文庫本を読みながら。
 いつも読む本は近所の図書館で借りているのだが、行き帰りの電車と昼休みにしか読まないので、いつも返却期限を過ぎてしまう。
 面白そうな本なら何でも読むけれど、やっぱりミステリー系が一番好きだ。事件の真相や犯人は誰か等、面白い展開だと読むのも早いけど、今回の本はいまいちなので、なかなか読み終わらない。
 小田急線の経堂駅で降りて、南口の改札を出ると農大通り商店街を買い物をしながら歩く。
 スーパーや八百屋等、行き付けの店を何箇所か回って予定の買い物を済ませて行く。
スパゲティにかけるレトルトのソース、お弁当の付け合せにするトマト。朝食代わりに食べるバナナ、飲料水のペットボトル。夜のお笑い番組を見ながら食べるスナック菓子……。
 今日はディスカウントショップに6本で600円の発泡酒があったけど、もう両手が一杯で持てないや。
 隆夫が一緒にいれば持ってくれるから買えたのに……でもまだ冷蔵庫に3本くらいあったから、今夜飲む分は足りるだろう。
 買い物を済ませると、商店街を抜けて車道を渡り、住宅街に入って行く。両手に下げたビニール袋が重く指に食い込んで痛い。
 いつもの通りを近くまで来て、アパートへ続く道への角を曲がった時、異変に気付いた。
 暗い道を赤い光が照らしては消え照らしては消え……どうやらパトカーが止まっているらしい。
 それも一台や二台ではない、ピカピカと点滅を繰り返す赤色灯が、少なくとも三つ以上は見える。
後から考えれば、その時の異変をもっと敏感に感じていれば、側に立っている警察官に、近所の者ですが何かあったんですか? と質問でもしていれば、警戒心を持つことが出来て、あのことも無かったかもしれない……。
 その時はとにかく両手に提げた買い物袋が重かったので、何事が起きたのかを見物することもせずに、目と鼻の先にあるアパートへ急ぎ足に向ったのだった。

 亜希子の住んでいるアパートは木造モルタルの二階建てで、一階と二階にそれぞれ三世帯ずつ、合わせて6世帯が住んでいる。
 薄い壁を隔てて何年も同じ屋根の下に住んでいながら、他の住人とは殆ど顔を合わせることは無い。それこそ何ヶ月かに一度、出かける時や帰って来た時すれ違いに「こんにちは」と会釈を交わすくらいで、それ以上の付き合いは無い。
 隣りに住んでいる20代後半くらいの無精ひげの男も、学生なのか、フリーターなのか、一体何をしている人なのか分からなかった。
 毎日遅い時間に出かけて行く音が聞こえるので、何か夜中の仕事でもしているのかな……くらいの認識しか無かった。
 亜希子のアパートは高級な一軒家の建ち並ぶ住宅街の中の、車道から路地を入って、ちょっと奥まったところにある。場所が分かり難いので、ピザを配達に来た人が辿り着けなかったこともあった。
 むき出しのブロック塀に囲まれた敷地へ入ると、二階へ上がる錆びた階段があり、その下に集合ポストがある。
 その中から「倉田」と名札の付いた蓋を開く。何も入っていないのでパタンと閉めて、一階の一番奥にある自分の部屋の前へ来る。
 買い物袋を二つとも右手に持ち替えて、左手でバックからキーを取り出す。ガチャガチャと鍵を開け、真暗な部屋へ入る。
 とにかく重い買い物袋を置いてしまいたい。入ってすぐ床に置き、パンプスを脱いで台所に上がる。
 最初に違和感を感じたのはその時だった。室内の空気が動いている……。
 ドアの外からではない、ドアを閉めて、一度空気の動きが無くなった後に、まだそよそよと微かに空気が動いている感じがするのだ。
壁のスイッチを入れて台所の電気を付ける。
この部屋には三畳程の台所と六畳の和室しか無い。六畳の方は真暗なままだ。
着替えようと六畳間へ入って、垂れ下がっている蛍光灯のスイッチを引こうとした時、その声がした。
「声出したら殺すからな」
 それは霊魂の様にいきなり暗闇から沸いて出た。そんなに大きな声ではなかったけれど、何処か違う世界から響いて来た様な声だった。
 ビクッとして振り返ると、目の前に今にも突き刺さりそうな包丁の先端がある。
 暗くて顔はハッキリ見えないけど、亜希子が仕事に行っている間に侵入していた何者かが包丁を突き付けているのだ。
「こっち見るなよ、向こう向いてろ!」
 弾かれる様に顔を背ける。何が起こっているのかさっぱり理解出来ないまま、身体が縮み上がってしまう。
 全くリアリティーが無い。でも今見た包丁の刃には、全体にヌラヌラと魚をさばいた様な血の模様が付いていた。
「言う通りにしないと今すぐ殺すからな」
 全身の毛が逆立つのが分かる。
「分かったのかよ! 返事しろよ」
その声は男の様だったが、女性が金切り声を出している様にも聞こえる。アニメに出て来る中性的な悪魔みたいな感じもする。
「おい、分かったのかよ!」
 ドカッ、と亜希子の腰の辺りを蹴ったのか殴ったのか分からなかったが、強い衝撃が当たる。
「はっ……はいっ」
 亜希子は震えながらぎこちなくガクッと頷く。今殴られた(蹴られた?)腰の後が痛い。その人は項に息がかかる程側にいる。
「電気点けるからな、絶対こっち見るなよ」
 亜希子の肩越しにその人の手が蛍光灯のスイッチを引っ張る。
 ピカピカッと短い明滅があって、部屋の中が明るくなる。閉めてあったはずの窓を覆うカーテンが風で波打っている。
 顔は全く動かせなかったが、亜希子の目に入る範囲で部屋の中が物色されているのが分かる。
「そのまま下に両手をついてうつ伏せになれ」
 言う通りにしなければ……硬直して身体の感覚が無かったが、ガクガクとぎこちない動きで膝を折ると、その場に両手をつく。四つん這いになり、スカートが捲くれない様に手で押さえながら両脚を延ばし、腹這いになる。
「両手を後ろで組み合わせろ」
 言う通りにする。
「絶対こっち見るなよ、ちょっとでも動いたら殺すからな」
 このまま私をあの大きな包丁で串刺しにするつもりなんじゃないだろうか……殺される! 殺される! 殺される! 殺される!
 その人は亜希子の腰の上に座り、後に回した両腕を紐でグルグル縛り始める。縛り難いのか無理に引っ張ってギュウギュウと締め上げる。
「ああっ……痛い……あの」
「喋るなって言ってるだろうが!」
 恐怖で訳が分からなくなっていたが、口が勝手に言葉を吐いてしまう。
「あの、お願いします、私何も……」
 ボカッ! ボカッ! と後頭部に硬い物がぶつけられる。手で殴ったのか足で踏み付けたのか分からないが、脳に響く程凄い衝撃だった。
「黙ってろって言ってんだろこの野郎!」
「……」
 何も言えなくなる。感じている恐怖も戸惑いも全くお構いなしに、亜希子は転がされたまま両手の自由を奪われ、うつ伏せにされて馬乗りになられている。
 ……私の腕を縛ったビニール紐は、雑誌等を縛って捨てるのに使っていた紐かも知れない。押入れに入れてあったはずの。
 無理な体勢で後に両手を引き絞られるので、肩の関節が外れそうに痛い。
 次に揃えた足首を縛り始める。見えないけど今度は紐ではなく何か細長い衣類で縛っているみたいだ。縛られる感触がさっきの細い紐とは違う、何か繊維質の様な感じがする。タンスにしまってあったストッキングだろうか、マフラーかもしれない。
 そうして足首と膝の辺りもガチガチに縛られてしまうと、今度はタオルが横から口を塞ぐ様に渡される。
「口開けてアーンてしろよ」
 とにかく言う通りにしなければ……と大きく開けた口の間にタオルを噛まされる。
 背中に馬乗りになったその人は、そのままタオルの両端を後に引っ張る。首が持ち上げられて身体が海老反りになる。
顔が宙に浮いた状態でタオルの両端が後で縛られ、大きく開けた口がそのまま閉じられなくなる。
 不意に顔に何か被せられる。息を出来なくして窒息させられるのか、それとも首を締められるのかと思ったが、目隠しをする為らしい。
 暗闇に包まれて目が見えなくなってしまうと、途端に恐怖が倍増し、耐えられない慄きに自分でもどうにもならず身体が震えてしまう。
「動くなって言ってんだろ、お前そうやって動くんなら死んでもらうからな」
 ビクリとして力を振り絞り、震えを止める為に身体を硬直させる。
 恐い! 恐い……だっ、誰か助けて!
 今にもあの包丁の先端が身体のどこかに突き刺さってくるのではないかという恐怖が全身の神経をささくれ立たせている。
 亜希子は声を発することも出来ず、目も見えず、その姿勢のまま固まって動くことも出来ない物体になった。
 太ももの辺りに違和感があって、暖かい感触が広がって来る。
 ジョジョ~~ジョジョジョジョ……感覚は無いけれど、勝手に失禁しているらしい。
「ああ~っ、お漏らししたんだ」
 その言葉のトーンはそれまでの狂暴めいた感じと違い、ちょっと幼いと言うか、やはり男か女か分からない甲高い感じだけれど、何か他人をせせら笑う残酷な子供の様な感じがする。
「しょうがないなぁもう、待ってね、今拭いてあげるから」
 呻くことも身をよじることも出来ない、もはや恥かしいと感じることも無い、瞬く間に信じられない事態に陥っている驚きと、受け止め切れない恐怖を超越した亜希子は、完全に物と化している。
 フワフワとした感触があって、太腿の辺りをタオルか何かで拭いてくれている様だ。このタオルの感触は……きっといつも風呂上りに使ってるバスタオルだろう。
「僕も小さい頃ね、夜中にオネショした時、よくお父さんがこうやって拭いてくれたんだよ」
 僕……今自分のことを僕と言った。ということはやっぱり男なんだろうか、だとするとやっぱり私はレイプされるんだろうか、こんなおばさんでも? 私は38歳だ。こんなことで今更自分が女なんだということを自覚させられていることに、思わず可笑しさを感じてしまう。この非常事態が私の感情を狂わせ始めているんだ……。
 だけど自分のことを僕と言ったからって、男の人とは限らないんじゃないか。だって男性にもオカマという者がいる様に、女性だってまるで男性の様な背広を着て、自分のことを「俺」と呼んだりする人だっているのだから。
 その人は横から身体をつかんで乱暴に転がして仰向けにする。転がされて腕が下になった時激痛が走る。痛い……そして今度はそのタオルを持った手が前を拭き始める。
 スカートを脱がされるんだろうか。でもその人はタオルを持った手をスカートの下から突っ込んで、パンツの周辺を押す様に拭き取るだけで、その手つきもなんだかぎこちない。
 小便はすぐに冷たくなって、その人はスカートを捲り上げることもせず、周りを拭いてくれただけで離れてしまう。
 亜希子の近くからその人の気配が消え、物音もしなくなる。
 物音がしなくなってしまうと、目隠しをされた暗闇の中では、その人が何をしているのかさっぱり分からなくなってしまう。恐い……さっきの包丁の鋭利に尖った先端が目の中に大きく浮かんでいる。
亜希子に分からない様に気配を消して、でも実はすぐ横にいて、今まさに両手で包丁を逆手に持って振り上げ、突き降ろそうとしているのではないのか。
 今にもブスッと来るのではないか! 今にもブスリと突き刺さって来るんじゃないか!
「ううっ、ううっ、う~っ! ううう!」
 亜希子は言葉にならない呻き声を漏らして吠えたてる。黙っていろと言われたけれど、黙ってなどいられないのだ。身体を襲う絶望的な恐怖が、勝手に身体を震動させて呻き声が上がってしまう。
「黙れっ、黙れ! 黙れって言ってんだろうこの野郎っ!」
 ドスッ、ドスッ、ボカッ、ボカッ……メチャメチャに身体を蹴られて亜希子の身体が転がり悶える。
「ううっ、うっ……」
 必死に黙ろうとするがどうしても身体が震え、呻き声が漏れてしまう。
「静かにしてろよ! 言うこと聞いてれば簡単に殺したりしないんだから! な、静かにしてろってば」
 断末魔の虫の様な亜希子の反応に戸惑ったのか、その人は宥める様に少し穏やかな調子で言う。
亜希子は芋虫の様に蠢きながら必死に嗚咽を堪えている。
 あの包丁を刺されたら、私はこのまま死体になって、放置されて、このまま何日も発見されないんだ……きっと腐って、酷い臭いが漂い始めて、身体が半分腐った辺りでやっと訪ねて来た誰かに発見されるんだ……。
 もしそうなったら、私の死体を発見するのは誰だろう……隆夫……いや、もう隆夫がこの部屋を訪ねて来る事は無いだろう。
 だとすれば会社の人か、今まで一度も無断欠勤なんかしたことなかったから、このまま連絡が取れなくなれば、おかしいと思って誰かが見に来るかもしれない。それともお母さん……。
 いや普段から部屋にいても家からの電話には出ずに留守電に応対させたりしてるから、私が何日も電話に出ないからと言って、すぐに不審がってお母さんが様子を見に来ることは無いだろうと思う。
 お母さんが訪ねて来るとしたら、それこそ連絡が取れなくなって何週間も経ってからだ。でもきっとそれまで私の死体はもたないに違いない……。
 あの人は一体何をしているんだろう……。
 亜希子の拒絶反応が収まり、静かな嗚咽を漏らすだけの状態に落ち着くと、また物音がしなくなり、その人が何をしているのか分からなくなってしまった。
 お願いだから音を立てて、今あの人が何をしているのか分からせて欲しい。
 亜希子は何も見えず、真暗な中で身動きも出来ないまま、荷物の様に転がされている。
 唯一辺りの様子を伺うことの出来る耳だけが敏感になって、何か手掛かりをつかもうと必死に作用している。
 パタ、パタ、パタ……足音がする……床の上だ、台所を歩いてるんだ。冷蔵庫や戸棚を開けたり閉めたりする音が響く。
 何か食べる物を漁ってるんだろうか……。
 ガサゴソとビニール袋の中をかき回す音がする。さっき買い物して来て、台所の床に置いた手提げ袋だ。ああ……出来たら冷凍食品とアイスクリームは冷凍庫に入れておいてくれないだろうか……。
 袋を破る音がして、ボリボリと食べる音がする。きっとカッパえびせんかポテトチップを食べてるんだ。この音はきっとえびせんの方だろう……後でお笑い番組を見ながら食べようと思ってたのに……。
 さっきは失禁して濡れたところをタオルで拭いてくれた。最初は私を嘲笑ったのかと思ったけど、本当に他意はなくただ拭いてくれただけなんだろうか、だとすると狂暴なだけでなく、少しは人間的なところもあるんだろうか、そう思うと少しはホッとする気持ちもあるけれど、やっぱり恐い……。
 一体何が目的なんだろう。泥棒なんだろうか? お金? それなら何故こんな古いアパートに入ったの? 私にはお金なんて無い、そりゃ少しは銀行に貯金はあるけれど、とても人に言える様な金額じゃない。
 前から私に目を付けてたんだろうか、ストーカー? まさか38歳にもなるオバサンの私にそれは無いと思う……どうやら犯される気配もなさそうだし、言動にそれらしき感じもしなかった……。
 空き巣に入っていたところへ私が帰って来てしまったの? それなら何故サッサと逃げてしまわないんだろう。私は顔も見てないんだし、こうして身動きも出来ないくらいギュウギュウに縛られて、口も塞がれてるんだから、叫んで助けを求めることも電話をかけることも出来ないんだから。
 でももし空き巣なら、私が帰って来るまでここでノコノコ待っているはずは無いんじゃないか……。
 身動きの出来ない暗闇の中で、亜希子はあれこれ考える。考えなくても頭が勝手に錯乱した様に考えあぐねる。そしてある結論を思いついた。
 あの包丁に付いていた血の跡は、人間の物なんじゃないだろうか、だとするとあの人はきっと……何処かで誰かをあの包丁で刺して、逃げて、そしてたまたまこの部屋に入って隠れていたのではないだろうか。
 そう思った時、全く動かすことの出来ない身体中に悪寒が走る。
 もしかしてこのままここに隠れて、立て篭もるつもりなんじゃないだろうか、冗談じゃない……ああ……でも何でそれが私の部屋じゃなきゃならないの。
 助けて、誰か……隆夫、隆夫と一緒なら、こんなことにはならなかったのに。いや、もし部屋に入って来た時隆夫が一緒だったら、この人と争いになって隆夫が刺されていたかもしれない、そんなことになったら大変だ。
 助けて、誰か……警察の人……あっ! さっきアパートに帰って来る時、近所に集まっていたパトカーの灯り……。アレとこの人は関係あるんじゃないか。近所で何かをやって逃げて、奥まったところにあって人目に付かないこのアパートの、そのまた一番奥のこの部屋を選んで、隠れた……。

 暫らく台所でガサゴソと食べ物や飲み物を物色する音がしていたかと思うと、パタパタと台所の床を歩く足音が六畳間のカーペットを歩く小さな音に変わる。
 こっちに入って来たんだ……。
 何かされるのではないかと身を硬直させていたけれど、何もされる様子は無い。
 ピッ、ピッ……聞き慣れた電子音が響く。買い物袋と一緒に台所に置いたハンドバックから、私の携帯電話を出して操作しているんだ。
 ピッ……と言う電子音を残して、音が途切れる。電源を切ってしまったのかもしれない。
 暫らくまたガサゴソと戸棚や引き出しの中にある雑誌やCDを見ている様な音がして、やがて何処かに腰を下ろしたのか、音が途絶える。
 ドアも窓も開ける音はしなかったから。外に出て行ったのではない。
 こうなってからどのくらい時間が経ったろうか、澄ましている耳に、時おり雑誌を捲る様な音や、ペットボトルから何か飲んでいる様な音が断続的に聞こえて来る。だがやがてそれも聞こえなくなる。
 何の物音もしなくなってからずい分時間が経った様な気がする……。
 何も見えない、身動きも出来ないこんな状態では、時間の感覚も麻痺しているだろう。大分長い間の様な気がするけど、感じているより全然時間は経っていないのかもしれない。その人は何も言わない。まるで亜希子のことなどここにはいない様に無視されている。
 その時、澄ましていた耳にスー……スー……と微かな呼吸音が聞こえて来る。寝息だろうか……微かだけど確かに規則的に繰り返されている。
 ……寝ているんだろうか。でも何処で? その音はほんの身近なところから聴こえている気もするし、離れている様な感じもする。音だけでは正確な距離をつかむことが出来ない。
 何も見ることは出来ないけど、目隠し越しに微かに光を感じることで、部屋の電気が点けっ放しであることは分かる。
 相手が眠っているのなら、このままでも芋虫みたいに身体をくねらせて、玄関のドアの方まで這って行くことは出来ないだろうか。
 そう思って身体を少しよじらせてみると、足に何かが当たった。
 あっ……と思って身を硬くする。聞こえていた寝息が途切れる。ドキッとしたが、暫らくするとまた聞こえて来る。
 すぐ横にいるんだ……私が横たえられている位置関係からみて、私と玄関ドアの間に寝てるんだ。
 そうと分かると、這って玄関まで行くことは絶望的に思われる。
縛られた手首と、無理に後へ曲げられた肩と、足首と、膝と、身体中が物凄く痛い。特に痛かった両肩の辺りはもう痛みさえも麻痺して、硬い塊の様になってしまっている。
 どうしてこんなことになってしまったんだろう……思っても意味が無いことは分かっていても、どうしてもその思いが亜希子の頭を駆け巡ってしまう。
 いつもの様に会社に行って、いつもの様に買い物をして、いつもの様に帰って来ただけなのに……ああ、でもあの何台も止まっていたパトカーを見た時、もっと気をつけていれば……今更そんなこと思ったって意味が無いけど……。
隆夫……助けて、今何処にいるの? もう私のことなんて微塵も頭に無いのだろうか。
別れてから半年くらいが経つけれど、私はまだ全くその事実を受け入れられていない。
「隆夫……」亜紀子は部屋にひとりでいる時、一日に一度はその名を呟いている。ここでよく二人で過ごしていた頃みたいに。まるですぐ横に隆夫が座っているみたいに。時にはまだ隆夫が布団の中でむずがっているのを横目に歯を磨きながら「早く起きないと遅刻するぞ~」と言った朝みたいに、そして幾度と無く過ごしたあの夜の様に。
 名前を呟くことで、テレパシーの様な物が働いて、自分の思いが隆夫の心に通じるのではないか……なんて、寂しさに感けてそんなことを考えたこともあった。

「あ、どうも、お久し振り……」


 この前久し振りに隆夫の声を聞いた。大規模建築資材部から隆夫が業務連絡をして来た時に、電話を取ったのが偶然亜希子だった。
 私も驚いたけど何気ない風を装って「どうも、お久し振り……」と言った。隆夫の方も電話に出たのが私だったことに戸惑ったのか、何処か口調がたどたどしかった。ほんの一言二言交わしただけで他の担当者に換わってしまったけれど、隆夫はもっと喋りたかったんじゃないだろうか。
 もしかしたら若い彼女と上手く行ってないんじゃないだろうか、それとも何か問題が起きて、また私を頼りにして来てくれたんじゃないだろうか、それとも私が寂しがっていることを分かってくれてるんじゃないだろうか……そんなことを期待してしまう自分が嫌だった。
 本当はさり気無くでも私が今も隆夫のことを応援している気持ちを伝えたかったのに、少しでも鬱陶しく思われるのが嫌だったから、努めて普通に、でも素っ気無くはならないように気を付けて受け答えするのが精一杯だった。

 身体中の痛みと疲労に苛まれながら、取り留めもなくそんなことを思い出している。そのうちに意識が朦朧としてくる。
 何も見えない視界の中で、ぼんやりと何かを眺めている。それは目の前に置かれたパソコンのモニター画面だった。受注製品の名称と数量のリストがズラリと表示されている。
 工務店等から建築現場で使う様々な資材を受注して、その部品ごとに製造している会社へリストアップして発注する。
 そして納品書を打ち込み、月末になると請求書を起こして、また受注して発注して……来る日も来る日も画面の表を見てカチャカチャとキーボードを打つ私の手……。

「倉田さん、コレ良かったらどうぞ」
 総務の大先輩の小石さんが、先週御主人と行ったヨーロッパ旅行のお土産だと言うパスタで作ったお菓子を、亜希子に向って差し出している。
 そんな風に差し出されたのでは断ることも出来ず「すいません」と端からひとつ手に取る。
「良かったよ~ローマは寒かったけどね、行きたかった所全部回ったのよ、やっぱり実際に見ると凄い感動したの……」
小石さんは大企業の重役をしていたという御主人と、度々休暇を取っては豪勢な海外旅行に出掛けている。そして帰って来ると皆にお土産を配り、写真を見せては旅先の事を話したがる。
 高い化粧品を使っていつも上品な身だしなみをしているけど、近くで見るとお婆さんの様なシワが目尻や口元に浮かんでいる。
 いつも朗らかな人で、亜希子が隆夫と課内恋愛していた時も、隆夫が異動になった後別れてしまってからも、何も無かった様に接してくれたのは小石さんだけだった。
「そうですか、良かったですね」
 仕方なく変わったお菓子を食べながら相槌を打って、やりかけの仕事が気になるという素振りを見せる。
「あ、美味しそう、私もひとつ頂いていいですか~」
 と横から手を出したのは亜希子と同世代で、やはり独身OLの絵美子さんだ。
「どうぞどうぞ、写真いっぱい撮って来たから、見て見て」
「へぇ~ありがとうございます」
 と絵美子さんは小石さんが差し出す写真の束を受け取る。
「いいなぁ~私も是非行ってみたいですね」
「いいわよ~死ぬまでに絶対行くべきよ」
 仕事そっちのけで小石さんの話に調子を合わせる絵美子さんのパソコンには、キンキキッズの堂本光一君の写真がペタペタと貼り付けてある。
絵美子さんは確か私よりひとつ若いと言って喜んでいたから、37歳のはずだ。キンキキッズというのは20代のアイドルだけど、最近の男の子のアイドルはずっと年上の主婦層からも人気があるっていうから、まぁいいのかなぁとも思う。
でもついこの間までは、こんなに近くに座っていながら絵美子さんとは殆ど言葉を交わしたことが無かった。
 どちらかというと絵美子さんの方で私を避けている様な感じだったのに、私が隆夫と別れたということが社内に広まった頃から、急に親しげに話し掛けて来る様になって、自分が堂本光一君にどれくらい入れ込んでいるのかを説明してくれた。
 親しくしようとしてくれるのは良いのだけれど、キンキキッズのDVDを貸してくれようとしたり、一緒にコンサートに行こうと誘ってくるのだけは勘弁して欲しいと思う。
 絵美子さんはお菓子を美味しそうに食べながら、小石さんの旅先の写真を熱心に見ている。
楽しそうにお喋りする小石さんと絵美子さんを横目に見ながら、亜希子は忙しいフリをしてキーボードを打つ。

 寂しい……この課に隆夫がいた頃は、毎日が楽しくて、こんな寂しさを感じることなんて想像もつかなかったのに……。
 住宅建築資材部の中では、二人の付き合いは周知の事実になっていた。
 5年前に他の部署から配属されて来た隆夫のことを、亜希子が何かにつけて面倒を診ている姿から、親密になって行く二人の関係は傍から見ても明らかだったに違いない。
 私と5歳も年下の隆夫とは、歳の差カップルとして他の女子社員たちが羨む空気になっていた。
 行く行くはゴールインするものと見られていたらしいけど、去年の秋に隆夫は大規模建築資材部に異動になった後、そこの受付け嬢と付き合い始めた。
 そして社内には隆夫が亜希子を捨てて若い女に乗り換えたと言う噂が流れた。
 その頃は周囲の噂話や同情の眼線に居た堪れなさを感じたけれど、生活の為には仕事を辞める訳にも行かず、我慢して勤務を続けて来た。
 時に同僚や後輩の女の子たちが、亜希子のいる前では隆夫のことを話題にしない様に気を遣っていることが分かったりすると、凄く惨めになった。
 以前と何も変わっていない振りをして、隆夫と別れたことなんて私にとっては大したことではないのよ、という態度を周りに見せたかった。
 本当は奈落の底に落ちて真暗になって、何も見えなくなってしまった様な心境だったけど、務めて普通に装っていた。
 それが行き過ぎて突然仕事に張り切り出したみたいな感じになったり、ハイテンションで明る過ぎる態度になってしまったりして、自分で自重しなくちゃなんて思うこともあった。
 きっとそんな私の心情を想像してる人も多かったと思うけど、本当の辛さを他人に知られるのは嫌だ。
 でもオフィスの電話が鳴る度に、もしかしたら隆夫からではないか、と反応してしまう自分がいる。
 大規模建築資材部から時おり掛かってくる連絡は、半年前までこちらにいて事情を良く知っている隆夫が掛けて来ることが多い。
 電話が鳴って、他の人が取る度に、無意識に耳を向けてしまっている。

「ダメじゃないか! 明和興業さんからまたクレーム頂いたぞ」
「申し訳ありません、何か私のパソコン前から調子が悪いものですから……」
 派遣社員の木村由さんが課長のデスクの前でペコペコと頭を下げている。
「そんな言い訳なんか関係ないだろっ!」
 課長の牧は相手が弱い立場だと極端に横柄な態度を取る。
 派遣社員には何ヶ月かに一度契約の更新があって、その時派遣先の上司の評価が悪いと契約を切られてしまう。その後はまた他の派遣先に行くか、それともそれっきり仕事に溢れてしまうかだ。
 派遣社員と言う制度は最初の頃は普通のフリーターよりずっと条件が良いとかで人気があったけど、今は社会的弱者の代名詞みたいになっている。
 私の様な正社員なら、労働組合だってあるし、ちょっとやそっとのことで頸になる心配は無いけれど、派遣の人は気の毒だと思う。
 いつも課長から嫌味を言われたり、お説教されてもひたすらへりくだって聞いている姿を見ると、本当に可哀相になってしまう。

「倉田さん、雨降って来たけど傘持ってるの?」
「はい、いえ今日は……」
 その牧課長が、私が隆夫と別れてから露骨に優しくして来る様になったのには困ってしまう。牧課長は結婚していて子供もいるくせに。
「俺これからタクシーで本社に寄るからさ、駅まで送って行こうか」
「いえ、大丈夫ですので、コンビニで傘買って行きますから」
 亜希子としては牧課長を嫌っている同僚たちから疎まれるのも嫌だし、かといって余り邪険に拒絶しても、逆ギレされて意地悪されたり、果ては何か理由を付けてリストラされたりしたのでは堪った物ではない。だから波風の立たない様にやんわりとかわさなければならない。
 そんな苦労も、隆夫との交際が続いていれば、あり得ないことだったのに。

昼食は男性社員の殆どは外へ食べに行くが、女子は大体近くのコンビニやお弁当屋で買って来て、空いている会議室で食べる。
 亜希子は毎朝自分で作ったお弁当を持って来ている。粗末だけれど、コレが一番安上がりなのだ。
「倉田さんハイ、お味噌汁お湯入れて来ましたよ」
 外の弁当屋に買いに行くと言う派遣社員の安高君が、頼んでおいたお味噌汁を買って来てくれた。
 小さなワカメが少し入っているだけで、殆どはお汁だけだけど、お弁当のご飯は冷たいので、温かいのが嬉しい。
この会社に来てまだ半年くらいの安高君は、さっき牧課長に怒られていた同じ派遣の木村由さんのことが好きで、一度帰りに居酒屋で相談されたことがある。
「すみません、出来たらちょっと相談に乗って欲しいことがあるんですけど」
 安高君みたいな若い男の子に誘われて嫌な気はしなかった。私は隆夫と別れたばっかりだったし、安高君は私と付き合い始めた頃の隆夫と同じ27歳だった。
 嬉しい気持ちを隠しながら、一体何の相談だろうと思って付いて行ったけど、それは一緒に仕事している木村由さんに対する恋愛の相談だった。
まぁそうだよな……隆夫と付き合っていた時も、私には5歳年下の彼氏がいる、ってことがちょっと自慢だったけど、安高君は隆夫よりさらに5つも若い10歳も年下なのだ。 そりゃタレントみたいによっぽど良い女でもない限り、私なんかじゃ無理だよな……と思いつつ、彼の話を聞いてあげる。
 安高君としては木村さんに何度も自分の好意を意思表示して来たつもりなのだが、木村さんの方からそれとなく言われた話では、どうも安高君が派遣社員であることが問題の様で、木村さんももう20代の後半だから、これから恋愛をするとしたら結婚の対象として考えられるかが大きな基準であり、少なくとも何処かの正社員であることが絶対条件だから、と言われたのだと言う。
安高君も正社員として就職出来る会社を探して来なかった訳ではないのだが、探しても中々見つからないのだ。
 可哀相に……と思いながら亜希子には「希望は捨てちゃダメだよ」等と無責任に励ますことしか出来なかった。

 午後5時半の終業時間になると、残業でもない限りサッサと制服を着替えて会社を出る。
 隆夫がいた頃は、どちらかが残業に引っ掛かっていたりすると待っていたり、お互いに出来ることがあれば手伝ったりして、出来るだけいつも一緒に帰っていた。
 隆夫はこれから社内で有力な地位になって行く大事な時期なので、仕事に一生懸命だった。私もそんな隆夫の力になれる様に、二人の付き合いよりも隆夫の仕事を優先する様に心掛けていた。
 それでも時間がある時は新しく出来たレストランへ行ったり、話題になっている映画があると観に行ったりしていた。
 でもひとりになってしまった今では「無駄なお金は一切使わない」がモットーになってしまい、会社を出ると一目散に最寄の日本橋駅へと向う。
 そして地元の経堂駅へ着くと、いつもの安い店を回って買い物をして帰るのが常になっている。
 無駄なお金は一切使わない……そう、もうこれからはずっと一人で生きて行かなきゃならないかもしれないんだから、お金が無いと大変なことになる。
"大根踊り" で有名な、小田急線の経堂駅の南口から続く農大通り商店街で買い物をする。
 経堂に住む様になってもう7年くらいが過ぎたろうか。野菜が安いのはここ、お肉が安いのはこのお店……。
 商店街には同じ様な物を売っている中規模のスーパーが多いけど、あちこちに通った経験で大体何系の物はどの店で買えば安い、というのを把握している。
本当はもう隆夫との思い出が沁み込んだこの街からは引越したいという気持ちもあるけれど、引っ越せばまたお金が掛かってしまうから。それに、まだ隆夫は私の部屋の合鍵を持っている。もしかしたらある日突然フラリと訪ねて来たりしないだろうか、と言う淡い期待を持っている自分もいる。
 駒込の実家から通っていた隆夫は、週に二~三度は仕事が遅くなったのでビジネスホテルに泊まると実家に連絡して、亜希子のアパートに泊まっていた。

 昨夜もほぼ同じルートを辿ってメモしてあった食料品や飲料水を買い、初老のご夫婦がやっているお総菜屋さんへ寄った。その時間には売れ残った揚げ物や餃子が安くなっているのだ。
「いつも買ってくれるから、ひとつオマケしてあげるわよ」
 早い時間なら倍の値段で売っているイカフライとメンチカツのどちらを買おうかと迷っていたら、店のおばさんがオマケしてくれて、ふたつでひとつの値段にしてくれた。
「本当? ありがとう~凄い嬉しい!」
 と言って微笑んだ時涙が出てしまった。こんなことくらいでホロリとしてしまうなんて、私ってどれだけ人の温もりに飢えているんだろう。と可笑しくなってしまう。
 
 次に見えて来たのは朝の駅で電車を待っている風景だった。いつもの様に通勤客たちの中でホームに立っている。
 あ、コレは経堂駅じゃないな……と思ったら、そこは府中駅だった。まだ府中市に住んでいて、京王線で通っていた頃のことだ。
 それは10年以上も前の出来事だった。ホームに新宿行きの通勤快速が滑り込んで来た時、亜希子は突然顔を歪めると下腹部を押さえてしゃがみ込んだ。
 異変に気付いた周りの通勤客たちが亜希子に声を掛けて様子を伺ったり、駅員に知らせようとキョロキョロしたりしている。辺りが大騒ぎになってしまい、とても恥かしかった。
亜希子は駅員に抱き抱えられて事務室へ行き、自分の身体に起きていることが理解出来ないまま救急車に乗せられ、救急病院へと運ばれた。
 それまで自覚症状が無かった為に気付かなかったけれど、卵巣に出来た腫瘍が破裂していたのだ。
 後から考えれば、それらしき兆候はあったのかもしれないけど、私は中学校ではテニス部、高校ではソフトボールをやっていたし、健康と体力には自信がある方だなんて自負していたから、そんな油断もあったのかもしれない。
 最初に運ばれた救急病院からさらに搬送された八王子の大学病院で手術を受け、腫瘍の出来ていた片方の卵巣と、転移していた子宮を摘出した。
 退院した後も何ヶ月か置きに病院へ通い、血液検査やエコー診断等の検査を受けていた。そうして5年の月日が過ぎた時、担当していた先生から「もう大丈夫ですよ」と病気が完治したと言う診断を受けた。
 あの頃は病院へ行く度に、癌が何処かに転移していたらどうしよう、と不安に苛まれる日々を過ごしていたけれど。そんなことも今では懐かしく思い出す様になっている。

 あの時子宮を失って、子供の産めない身体になってしまった。でも結婚を前提に付き合っている彼氏がいる訳でもないし、将来自分が結婚して子供を産むなんてことも現実的に考えたことは無かったから、それ程のショックは感じていなかった。
 何より癌という病名に命の危険を感じてたから、それどころではなかったのかもしれない。
厳密に言えば残された片方の卵巣から卵子を取り出して、相手の精子と体外受精させて代理母の子宮に埋め込めば、自分の子供を産んで貰うことは出来る。けどそんなことは大金持ちのタレントでもない限り出来そうもない。少なくとも自分には全く現実性のないことだと思う。
 私がそんな身体になってしまったことをお母さんは泣いたけど、私はお母さんに心配をかけまいとする意思も働いてか、努めてケロッとしていた。本当にそれ程実感は無かったのだ。
 でも手術の後5年間検査を受けて、先生から病気が完治したと言われてから何週間か、何ヶ月か経った頃、何がきっかけだったか忘れたけど、急に込み上げて来る物があって、部屋で一人で号泣したことがあった。
 悲しくて泣いたのはその時だけだった。それ程重要なことじゃなかったのだ。それ程には……だって今まで忘れていたくらいなんだから。
 
 脳裏に浮かんで来るいろいろな光景を見るともなく眺めながら、亜希子は硬直して横たわったまま、いつしか眠りに落ちている。というより、疲労の為に気を失ったと言う方が正しいのか。
 そしてまた、時おり身体を撫でる微かな空気の動きに呼び起こされて、浅い眠りから呼び醒まされる。
 恐い夢でも見てたんだろうか……と思う間も無く、目を開けても何も見えない。手足がガッチリ固定されて動かすことが出来ない。口を大きく開けたままタオルを噛まされている苦しい感覚が蘇って、全てが現実であることを思い知らされる。
 やっぱり本当なんだ……ああ、今何時なんだろう。あの人はまだいるの? もしかしたらいなくなってはいないだろうか、もう私を置いて逃げてくれてたらいいのに……。
 いるのか、いないのか、耳を澄ましてみても寝息を聞き取ることは出来ない。
 さっき足で微かに触れた部分に注意しながら、そうっと身体を転がしてみる……長さにして10センチくらい……太ももの横にその人の身体が触れる。
 まだいる……横で寝てるんだ……隆夫……お願い、助けて!
 再び絶望に襲われて、何もどうしようもないという気持ちが押し寄せて来る。
 ああ……こんなことになるなんて、昨夜はお風呂にも入れなかった。冷水シャワーと熱い湯船を交互に繰り返して入って、血行を良くする健康法をやろうと思ってたのに。
 風呂上りにはテレビの健康番組でやっていたストレッチをやって、それから雑誌を見ながら苦労して作った、肌を若返らせる為の "豆乳ローション" を付けて、顔面マッサージをして、寝る前にはシミを消す効果があるビタミン剤を飲んで寝るはずだったのに。
 でも考えてみると、今更そんなことをしたって、何になるっていうんだろう……。
 隆夫と別れて始めて、自分がもう40歳を目前にしていることに気が付いた。隆夫との5年間が楽し過ぎて、自分が年齢を重ねていることにも気付かずにいた。
 今更私のしている努力なんて、無駄なことなんじゃないだろうか。そりゃ私くらいの歳の女なら肌のケアをしたり、身体の老化を防ぐ為の努力は少なからずしているだろう。でももう二度と私が隆夫みたいな若くてカッコイイ男性と付き合えるとは思えない。
 それでなくてももうこんな歳じゃ新しい彼氏なんて出来ないんじゃないだろうか、そもそも隆夫と別れてからは、また誰かと恋愛したいという欲求すら無くなってしまっている。
 38歳の今になって気が付くと、亜希子に残された生き甲斐は隆夫の存在だけだった。隆夫は何も無かった亜希子の人生にとって、大切な意味になっていたのだ。
 こんな今の私にとって、若さを保って出来るだけ綺麗でいる必要なんてあるんだろうか。
 あれこれ考えているうちに可笑しくなった。そうだ、もうそんなこといろいろ考えることも意味が無いんだ。だって今こんな状況になって、それこそ全てが終わろうとしているんじゃないか。綺麗でいる必要も隆夫のことも何も、人生が終わってしまえばもう何も関係ないんだから……。

 昨夜買い物して来た荷物はあのまま台所に放り出されたままなんだろうか、惣菜屋のおばさんがオマケしてくれたイカフライとメンチカツはこの人が食べてしまったんだろうか。
 ここ数ヶ月の間すっかり決まっていた亜希子の生活パターンが、こんな形で途切れてしまうなんて。
 結局私はこのまま殺されてしまうんだろうか。明日も6時半に起きてお弁当を作らなくちゃならないのに……。
 いつも7時半頃に家を出る。明日は燃えるゴミの日だから、家を出ながら一緒にゴミをまとめて出さなくちゃ。
 朝アパートを出て、広い道に出た時いつもすれ違う可愛らしい高校生の少年。自転車に乗って、制服を着ていつも整った身なりの、髪を染めたりピアスをしたりしていない、とても育ちの良さそうな、でもちょっと俯き加減で繊細な表情をした男の子。何の気なしにすれ違いながら、いつもその顔をチラリと見てた。あの子の顔ももう見られないんだろうか。
 商店街に入る手前ですれ違う、いつもタバコを吸いながら歩いて来る背広を着たおじさん。近所にある農業大学の職員か何かなのかな。きっと教授とかでは無いと思う。どちらかと言うと冴えないサラリーマン風だもの。
 商店街に入ったところで反対側から小さな子供を自転車の前に乗せて走って来る、私と同世代位のお母さんは、きっと子供を保育園に預けに行くのだろう。
 商店街を抜けると駅の階段を降りて改札口を抜け、ホームへと向う。そしていつもの乗車位置に行くと、長身でメガネをかけたカッコ良いキャリアウーマンっぽい女の人が電車を待っている。
 電車に乗ると凄い混雑で、気を付けないとバックの中でお弁当が引っくり返っちゃう……。それでも苦労してバックから図書館で借りた文庫本を出して読む……。
 そのうちに外でチヨチヨと鳥の鳴く声が聞こえて来た。きっともう朝なんだ……。


第一章 2


 いつも6時半にセットしている目覚まし時計は鳴らないだろう。
 プルルルルル……。
 しんとした部屋に大きな音が鳴り響く。
 家の固定電話が鳴っているのだ。
 その人が身をよじる気配がする。電話はすぐに留守番電話に切り替わり、応答用の亜希子の音声が流れる。
「はい、倉田です。ただ今留守にしております。発信音の後にメッセージをお入れ下さい」
 ピーッ……。
「……」
 相手は何も言わず、ブツッと切れる音がしてプーップーッと不通音に切り替わる。  
「午前9時30分です……」
 着信時間を告げる電子音声がして沈黙する。
 午前9時30分……きっと会社からだ。めったに遅刻したことの無い私が始業時間を30分も過ぎても来ないので、心配した誰かが電話を掛けて来たんだ。
 その音で目覚めたその人はガサゴソと起き出して、台所に行ったり、部屋のカーテンを捲ったりしている音が聞こえる。外の様子を伺ってるんだろうか。
 ジョロジョロとおしっこをする音が響いて来る。トイレのドアを開けっ放しで、立ったまましている。隆夫が来ていた頃によく聞いていた音だ。私がドアを閉めてしてよ、と言ってもちっとも聞いてくれなかった。今にして思えば懐かしい音だなと思いつつ、やっぱりこの人は男の人なんだなと思う。続いてバシャーと水を流す音。
 ああ、今日は会社を無断欠勤することになってしまう……。
 隆夫と別れて以来、会社での周囲の目線が嫌だったけど、生活の為には仕事を辞める訳にも行かなくて、気にしない振りをして頑張って来たのに。牧課長のセクハラもやんわりとかわして、周りにも気を遣って勤めて来たというのに。
 もしこのまま何日も無断欠勤を続けることになれば、きっとおかしいと思って誰か自宅まで様子を見に来るかもしれない。
 でもそうなったらきっと、直接私の家を見に来る前に、八王子の実家の方に連絡が行くんじゃないだろうか、もしそうなったら、多分様子を見に来るのはお母さんだ。
 もしそんなことになったらこの人はどうするだろう。その前にこの部屋から出て行ってくれればいいけど、もしお母さんが訪ねて来た時に、ここで包丁を持ったこの人と出くわしたら……。
 プルルル……再び電話のベルが鳴る。
 留守電の応答メッセージに切り替わり、再び亜希子が吹き込んだ音声が流れる。
「はい、倉田です。ただ今留守にしております。発信音の後にメッセージをお入れ下さい」
 ピーッ……。
「もしもし……倉田さん? お早う~小石です。今日はどうしましたか?……もしいたら連絡下さい~」
 それだけ言ってプツッと切れ、後にプーッ、プーッと不通音が響く。
「午前9時、46分です……」
 そして沈黙する。
「おい……」
 男だか女だか分からないその人の声が聞こえたと同時に、ボカッと亜希子のお腹の辺りに蹴られたか叩かれたかした衝撃が響く。多分つま先で蹴ったのだろう。
「会社に電話して風邪で休むって言えよ」
 この状態でどうやってやれっていうのか。
 そう思った時いきなり腕と腿の辺りをつかまれて、乱暴にうつ伏せにひっくり返される。痛い! そして口に噛まされたタオルが後で無雑作に解かれる。一晩中口に噛まされていたタオルが取られ、顎がカクカクする。
「余計なことしゃべったら殺すからな」
 亜希子の頬にペタペタと当てられる金属質の冷たい感触がする。ヒッ、とする。あの血の付いた包丁だ……恐い、刃先はどっちを向いてるんだろうか。
 亜希子は頭を動かしてウンウンと頷く。
 その人はノートパソコンやCDを並べてあるラックの上から家の固定電話を引っ張って来て、側に置いているらしい。
「会社の電話番号を言えよ、かけてやるから、繋がったら今日は風邪で休みますって言えよ、分かったか」
 夢中でウンウンと頷く。
 震える声で間違えない様に自分の部署に直通の電話番号を言う。
 その通りにプッ、プッとプッシュボタンを押す音が響く。
 耳に受話器が当てられる。きっとこのまま喋れば良い位置にあてがわれているのだろう。
 プルルル……相手の呼び出し音がして、すぐに相手が出る。
『はい、北田建材住宅資材部でございます』
 さっき電話をくれた小石さんの声だ。
「……あのう、倉田です……」
『ああ、倉田さん、どうしたの?』
「すいません。風邪を引いたらしくって」
『あらそう、大丈夫?』
「はい……」
 オフィスで電話を取っている小石さんの姿が目に浮かぶ。本当は私も今あそこで制服を着てパソコンの前に座っているはずなのに。それがまるで違う世界に飛ばされてしまっている。あそこにあった私の日常……毎日詰まらないけれど、私はまたあの世界に戻ることが出来るんだろうか……。
「今日はお休みしますので、連絡が遅れてすいません」
 そろそろ月末が迫って忙しくなってくる時期だから、休んだら迷惑が掛かってしまうけど、この状態ではどうすることも出来ない。
『そう、分かったわ』
「御迷惑おかけしてすみません。なるべく早く体調を直して行きますので……」
『大分悪いの?』
「いえ、それ程でもありませんので……」
 小石さんのお喋りが始まると長くなるから、上手く切り上げなくちゃ……。
『分かったわ、それじゃ課長に伝えとくから、お大事にね』
「はい……ありがとうございます」
 それだけ言った時、その人がガチャッと受話器を置いてしまう。
 上手く喋れただろうか、不審に思われなかっただろうか、ほんの一言二言の会話だったけど。普段から小石さんとはそんなに打ち解けて話してる訳でも無いから、きっと大丈夫だろうとは思う。
 今の電話を不審に思って小石さんが誰かをここに寄越して来たりするのは避けたい。だってこの状況で誰かが訪ねて来たりしたら、この人がパニックを起こして何をするか分からないもの。
その人は電話機を何処かに置いた後、また口にタオルを噛ませようとして来る。
「あのう……」
 恐る恐る言ってみる。
 タオルを噛ませようとする手が止まる。
「すいません、おしっこがしたいんですけど」
 また漏らしてしまうのは嫌だった。昨夜漏らした時は拭いてくれたのだから、少しは融通を効かせてくれるのではないかという希望があった。
「……」
 その人は黙っている。
「また……漏らしちゃったら、嫌だから」
「しょうがねえなぁ」
「絶対余計なことはしませんから、お願いします」
「それじゃ足だけ解いてやるからな、逃げようとしたら殺すからな」
「はいっ」
 その人は足首と膝の辺りを縛っていた布を解こうとするが、メチャメチャに縛っていたので中々解くことが出来ない。
 それでも何とか両方解いてくれて、再び私を仰向けに引っくり返す。
 解かれた足を伸ばすとやっと血が通い始める。
「じゃあ立てよ」
 と私の両肩を引っ張って上体を起こさせ、後手に縛られたままの腕をつかんで立ち上がらせようとするのだが、腕をつかまれた瞬間物凄い痛みが走る。
「痛い!」
「えっ」
 と言ってその人は手を離す。
 ギュウギュウに固められて痛みも麻痺していた腕を急に動かされたので、折れてしまったかと思うくらい軋んで痛かった。
「じゃ、どうすればいいんだよ」
「あの、ゆっくりで……」
「後からなら大丈夫か」
 そう言って後ろに回ると、両手で私の上半身を抱え込む様にして身体を持ち上げようとする。だが私の身体が重いので中々立ち上がることが出来ない。 
 解かれた両方の膝を曲げ、上体を引き付ける様にして体重を前に移動し、後ろから持ち上げてくれるタイミングに合わせて足に体重を乗せる。やっとしゃがんだ状態まで身体を持ち上げることが出来た。
 よろけながら立ち上がる私の身体をその人は転ばない様に支えてくれる。
 目隠しをされたままの私は何も見えないので、トイレの方まで連れて行ってくれた。
 部屋の間取りも、トイレの前にある段差も分かっているので、それ程造作なくトイレの中に入ることが出来る。そして足探りでそこにあるはずのスリッパを見つけ、両方の足に履く。
 でも、後手に縛られたままではどうやってパンツを下ろせばいいんだろう……。
 トイレに入って、ドアを閉める段になってもう一度頼んでみる。
「あのう、もうひとつお願いがあるんですけど」
「……なんだよ」
「手を、後ろで縛ってるのを、前にして貰えないでしょうか、そうすれば自分で下着を下ろすことが出来るので……」
「それじゃ後向けよ」
 後を向くとその人は縛った手首を解きに掛かる。だが腕もビニール紐でメチャメチャに結んであるのでなかなか解くことが出来ない。
 少し緩んで来た紐の間に包丁を入れてゴシゴシと切っているらしく、それが手に当たったらと思うと恐い。
 やがて両手が解かれて自由になる。さっきは折れたかと思うくらい痛かった肩が動かせる様になったけど、まだ急に動かすと痛みが走る様で、そ~っと動かして両手を身体の前で縛りやすい様に組み合わせる。
 その人は私が前に回した両手を、後手に縛るのに使っていたビニール紐で縛り直しにかかる。適当に包丁で切ったので短くなってしまっているはずだから、切れ端を繋ぎ合わせて長くしているらしい。
 今この人は両手を使って私の腕を縛っている。だから包丁は何処かに置いて、持ってないはずだ。でも私は目隠しをされたままなので何も見えない。この状態で飛び掛ろう等という考えは微塵も起きない。そんなことをしたらすぐに近くにある包丁で刺されてしまうに違いないもの。
 何度も念入りに力を入れて、前で組み合わせた亜希子の腕を縛る。
 良かった。これでパンツを下ろしてトイレをすることが出来る。
「ありがとう……」
 場違いかもしれないけれど、思わず漏れた言葉だった。
 その人は何も言わずにトイレのドアを閉める。
 縛られたままの両手で苦労しながらスカートの中をゴソゴソとパンツを下まで降ろす。昨夜失禁したのでまだ湿っている。
 足を揺らしてパンツを床まで降ろしてしまい、片足で便座の影の見えないところへ蹴ったつもりだったけど、ちゃんと便座の後に隠れたかどうかは分からない。
ようやく便座に座ろうとしてアッと声を上げた。便座が上がっているのだ。目隠しをされているので見えなかった。さっきあの人が小便をした時に上げたのだ。お尻がベンキにはまり込みそうになってしまう。
「どうした」
 その人の声がする。
「何でもありません、大丈夫ですから」
 隆夫が来なくなってからは、このトイレを男性が使うことなんて無かったから、思いつかなかったのも無理もないや。
 あの人は間違いなく男なんだ。いつもは気にせずにしているところを、音を聞かれるのは嫌だと思い、縛られた両手で水を流して、それから便座に座る。
 無事におしっこは出来たけど、便座の裏へ隠したつもりのパンツをまた履く気にはなれない。でもどうしよう……そんなこと構っている場合ではないのかもしれないけど、このままノーパンでいて、何かの拍子であの人にスカートの中が見えてしまうのはとても嫌だ。
「おい、終わったら早く出て来いよ」
 ドアをそっと開けて言う「あのう……すいません。またお願いなんですけど」
「今度は何だよ」
「そこのタンスから、私の下着を渡して貰えないでしょうか、昨日汚してしまったから、履き替えないと、気持ち悪いので」
 そこまでの頼みは聞いて貰えないかと思ったが。その人がタンスの所へ行って引き出しを開ける音が聞こえる。そして足音が側へ来て、ドアの間から出した両手の上に下着を持たせてくれた。フワリとした感触がある。
「あ、ありがとうございます」
考えてみれば、自分の下着を持って来て貰うなんて、こんなに恥かしいことも無いけれど、目が見えない状態だから恥かしさもそんなに感じなかったのかもしれない。
その人が渡してくれたパンツの向きを履き易い様に確かめる。縁に付いているフリルの感触で、それがどのパンツなのか分かる。見えないけれど色柄も分かる。
 見えない上に縛られたままの両手で苦労してパンツを履く。

 トイレを出ると目が見えずに手探りの亜希子の手をその人はつかんで、六畳間のカーペットの上に座らせる。
 その人は亜希子の足を縛り直すこともせず、テレビを点けて見始める。
 リモコンでパチパチとチャンネルを回しているらしく、音声が度々切り替わる。
 ワイドショーらしい音声が聞こえて来る。よく耳にしている司会者の声が流れる。
「え~また悲惨な事件が起きてしまいました。昨日世田谷区で、高校生の少年が母親を刺して逃げるという事件が起きました……」
 またチャンネルが変えられて声が途絶え、別の番組に切り換えられる。
「……北海道の函館市で観光バスが衝突事故を起こして横転し、乗っていた観光客のうち3名が頭を打つなどして、怪我をした模様です……」
 またチャンネルが切り換えられ、別の番組の音が聞こえて来る。
 と思うと急にテレビのボリュームが下げられて、聞き取れないくらい小さな音になった。
 どうしたのだろう。最初はどういう訳なのか分からなかったけれど、思いついた。もしかしたらこの人が関係している事件の報道が流れていて、それを私には聞かれたくないから、自分だけテレビに耳を近付けて聞いているのではないだろうか……。
 それから暫らくテレビの音が小さくゴニョゴニョしていたかと思うと、急に肩を叩かれる。
「おい」
 いつの間にか近くに来ていた声に驚いて身を硬くする。
「はい」
「腹減ったんだよ、冷蔵庫の他に何か食べる物ないのかよ」
「あの、あそこの戸棚の中に」
「お菓子とかしかないじゃんかよ」
「ラーメンとかスパゲッティとかも買ってありますけど」
「そんなの作るの面倒臭いだろ」
「……」
 冷蔵庫の中にはタッパーに入れたご飯やリンゴやバナナもあったはずなのに、それ等もみんな食べてしまったんだろうか。
「あの、良かったら私、何でも作りますけど」
「何作るんだよ」
「スパゲティでもラーメンでも、お米があるからご飯だって焚けるし、レトルトのカレーとかもありますから」
「そんなこと言ってどうやって作るんだよ、縛られたままで作れるのかよ」
「あの……信じて下さい、私ヘンなことは絶対しませんから」
「解いたら逃げるつもりなんだろ」
「心配だったら、身体に何か巻きつけて逃げられない様にしといたらどうですか、そんなことしなくても私絶対逃げませんけど、そうだ、身体に紐を結んで、その紐を貴方が持っていればいいじゃないですか」
 あまり調子に乗って喋っていると、うるせえ! とか言って逆上されるのではないかと思ったけれど、黙って聞いてくれる様なので、出来るだけその人に従順に従いますという意志表示をしようと一生懸命に話す。
「私いろいろ買い置きしてありますから、何でも作りますから」  
「でも目隠ししたままじゃ作れないだろ、目隠し取ったら俺の顔が見えちゃうだろ」
「あの、そっちは見ない様にしますから、私は台所にいて、こっちの方は絶対見ませんから、貴方はこの部屋にいて、私の身体に結んだ紐の端を持って待っててくれればいいですから、お願いします。何か食事になる物作りますから……」
「……」
 考えている様だった。
「……分かったよ、もし俺の顔見たら殺すからな」
「はい」
 その人は亜希子の腰に新しいビニールの紐を結び始める。
 メタボリック、と言う程ではないけれど、30代も後半になって、気を付けているつもりでもだんだんお腹にお肉が付いて来るのをどうしようもなくて、こんな状況でもお腹を触られるのが恥かしい。
 お腹を膨らませた状態で縛って貰えたら、後で苦しくなくて良いと思うのだけれど、その人は何重にも巻き付けて力を入れて縛るので少し息が苦しくなってしまう。
 手で引き千切るのは無理だろうけど、ビニールの紐なんて、ハサミひとつあれば簡単にチョキンと切ってしまえる。ハサミは台所の流しの引き出しに入っている。隙があったら切って逃げることが出来るかもしれない。
 その人は私の腰に固く紐を結んでしまうと、今度は両手に巻きつけている紐を解きにかかる。
「腕の間を出来るだけ広げて、そのままにしとけよ、包丁で切るからな」
 少し緩んだ両手を左右に力を入れて引っ張っていると、その間でゴシゴシと揺れる様な感触があって、やがてバッと両腕が離れる。後は目隠しだけだった。
「じゃあ立てよ」
 手を取られてよろけながら立ち上がる。腰に結ばれたビニール紐がワサワサと音を立てる。
「こっちに来い」
 どうやら台所の縁に立たされた。
「目隠し取るからな、絶対こっち見るなよ、包丁持ってるからいつでも刺せるんだからな」
「はい」
 ガサゴソと目隠しが解かれる。取られてみるとそれは冬用のトレーナーだった。タンスの奥にしまってあった物だ。
 ずっと暗闇の中にいたので、視界が歪んで見える。でもだんだん良くなって来る。
 見慣れた台所がある。私は警察官にしょっ引かれる犯人の様に紐で腰を繋がれて、その端をその人が持って弛まない様に引っ張っている。少し歩き難い。
 あーやっぱり買い物袋は昨日ここに置いたままになってる……。
 一番心配だったアイスクリームは……どうしても止められないジャイアンツコーンとチョコモナカを買ったと思うけど、入ってない、あの人が食べたのか、見るとゴミ箱の脇に破いた包み紙が落ちている。
 お弁当用の冷凍食品のコーンコロッケとミニハンバーグは溶けて柔らかくなってしまっているけど、また冷凍すれば問題無いかな……それ等の包みを冷凍庫に入れる。絶対に後は見ない様にして。
 総菜屋さんのおばさんがオマケしてくれたイカフライとメンチカツはやっぱり食べちゃったんだ……半分ずつにして昨夜のオカズと今日のお弁当にしようと思ってたのに、どうせ両方とも必要無くなったからいいか……。
 投げ出されて中を物色されたバックには、空のお弁当箱がそのまま入っている。手帳や携帯電話はあの人が出してしまったらしい。
弁当箱の蓋を開けて流しに入れる。
 台所と六畳間の境に立っているその人の方は絶対向かない様にして、買い物袋に残ったその他のレトルト食品や長ネギを出す。
 長ネギを入れる為に冷蔵庫を開ける。毎日小出しにしながらお弁当にしているタッパーに入ったご飯がそのまま残っていた。
「あのう、良かったらチャーハン作りましょうか、お冷ご飯が沢山あるから」
「何でもいいから早く作れよ」
「はい……」
 チャーハンで良しとみて、まず冷凍庫に入っているウィンナーをレンジにセットして解凍し、長ネギを刻む為に引き出しから包丁を出す。コレで紐を切って……と思うけど、その人はあまりにも近くで包丁を握ったまま私のすることを見つめている。紐を切るよりも早くブスリと刺されてしまうのは目に見えてる。
そんなことを一瞬でも考えたことをおくびにも出さない様にして長ネギを刻み、生卵を解く。
 スープもあった方がいいだろうと思い、ヤカンを火にかけて、ふたつのマグカップにインスタントスープの粉末を入れる。
 きっと沢山食べるかもしれないと思い、お冷ご飯をタッパーごとレンジにかけて、固くなっているのが少し解れるくらいに温める。
 フライパンを熱し、サラダ油をひいて、先にスライスしたウィンナーを溶き卵と一緒に炒める。
 途端にジュワージュワーと音がして香ばしい香りが沸き立って来る。換気扇を回す。
 そこへレンジで解したご飯を入れて、刻んだ長ネギと和える。塩とコショーを振りながらしゃもじでご飯を解しながら炒める。
 そこへ仕上げの「チャーハンの素」を振りかけて混ぜ合わせる。
 ひとりの時はこんなにいっぱい作ることはない、重いフライパンを苦労して揺すりながらしゃもじでご飯を混ぜ合わせる。こんなに沢山一度に作るのは、隆夫がいた頃以来だ。
 それにしても、こんな状況でよく落ち着いて出来る物だと自分で感心するくらい、手際良く出来た。
 ……だってやるしかないんだもの、他にどうすればいいって言うの……。
 だが台所と言っても三畳程の広さしかない狭い空間だ。フライパンを振ったり戸棚を開いたり、キョロキョロするうちにどうしても眼線の脇がチラッと六畳間の方を過ぎってしまう。
 亜希子の腰に結び付けたビニール紐の端を持って立っているその人の姿が、瞬間的にだけど視界の端に映ってしまう。
 チラッ……チラッ……私の目に一瞬でも写ってしまったことがその人には分からないのだろうか、見まいと思いながらも、瞬間的に眼線が過ぎってしまう度に、見たなこの野郎! と怒り出すのではないかと思い、ビクビクしている。
時折チラッと過ぎる範囲なので、しっかりと見ることは出来ないけど、思ったよりも背は高くない様だ。やはり男性の様だけど、身体付きも決して逞しい感じじゃない、私の腰に結び付けた紐の端を持っている手も細い感じだ。でももう一方の手に持ってこちらに向けられている包丁の刃が異常に大きく見えて恐い……服装は、上は半袖の白いシャツに下は紺色のズボンを履いている。
 白いシャツには全体に迷彩服の様な模様が描いてあるのかと思ったが、それには少し違和感がある。元々真っ白なシャツだったのが酷く汚れた様な……それが人の血の跡だと分かると足がブルブル震え始める。
 しっかりしなきゃ、動揺してるのを悟られない様に、出来るだけ普通に振舞わなくちゃ……。
 時々視界の隅を過ぎってしまうことを隠しながら調理を続け、チャーハンが出来上がる。お湯が沸いたのでガスを止め、スープのカップにお湯を注ぎ、スプーンでかき混ぜる。
 フライパンから皿にしゃもじでチャーハンを盛っていた時、誤ってこぼしそうになり、アッと思って受け止めた瞬間に、弾みでその人の方へ顔が向いてしまった。
 一瞬眼があったけど慌てて背け、見なかった様に振舞ったけど、きっとその人にも分かってしまったに違いない。
「あの……私貴方のことは知りませんから、例え見えちゃったとしても誰だか全然分かりませんから……」
 慌てて言い訳している。見たなこの野郎、と怒り出すかもしれないと思い、取り繕った様な感じになってしまう。
「今見ただろう」
 とその人は言う。
「いえ、あの、見ていませんから」
「嘘つけよ」
 恐怖が走るが、黙ってチャーハンを皿に移す作業を続ける。しゃもじを持つ手がブルブル震えている。私の分は少しにして、その人には沢山食べて貰おうと山盛りにする。
 でも本当は今見てしまった姿はハッキリ脳裏に焼き付いている。白かったはずのワイシャツに引っかぶった様な血の模様が、茶色く変色して乾いた様な感じだった。顔はそれまで想像も出来なかったけど、まるで子供みたいに若くて、男か女か分からない様な中性的な顔立ちをしていた。
「見ただろう!」
 これ以上嘘を付くのは逆効果かもしれないと思う。
「はい……すみません。でも私、貴方のことは知らないし、後で誰かに聞かれても絶対見なかったと言ってごまかしますから……」
 そんな言葉を信じて貰えるとは思えないけれど、言わずにはいられない。
「早く出来たら持って来いよ」
 慌てて脇にスプーンを刺した山盛りのチャーハンの皿と、スープの入ったマグカップをお盆に乗せて、その人に渡す。その時も出来るだけ見ない様に顔を背けながら。
 その人は受け取って六畳間にある小さな低いテーブルに乗せる。
 亜希子は後を向いたまま台所で流し台の上に置いて食べようとするが、そこまでは結ばれた紐の長さが足りなくて、その人が六畳間で座ってテーブルに付くと、亜希子は台所の入り口まで引っ張られてしまう。
「もういいよ、どうせ今見たんだろ。ここに来て食べろよ!」
 と紐の端をグイと引っ張る。
 仕方なくチャーハンの皿とスープのカップを持って六畳間に持って来る。それでも出来るだけその人の顔は見ない様にしながら。
 その人はムシャムシャと夢中でチャーハンを食べ始める。
 俯き加減で亜希子も食べたが、今度は小さなテーブルを挟んで正面にその人が座っているので、俯いていても、どうしても相手の顔が眼に入ってしまう。
 それが分かっているはずなのに何も言わない、この人はもう見られても仕方が無いと思っているのか。
 まだ10代かと思われるくらい若い男、というより少年だった……しかも私は何処かでこの人を見たことがある。ちょっと考えてすぐに思い当たったのは、あの可愛らしい顔をした高校生のことだった。
 いつも朝出勤する時、アパートを出た所で出くわしていた。きちんと制服を着て自転車に乗った高校生……そうだ。この少年が着ているのはあの制服のワイシャツとズボンなんだ。
 勿論声を聞いたことも無いし、まさかこんな風に乱暴な言葉で声を荒げている様子なんて、あの儚げで物静かな感じからは想像も出来なかった。
 この人がこんなことをするなんて、全く信じられない、私はこんな華奢で可愛いらしい顔をした人に、命を危険に晒されて、昨夜から翻弄されていたというの……。
 この人なら、その気になれば、つかみ合いになっても負けないのではないか……黙々とチャーハンを食べながらそんな考えが頭を過ぎる。だがこの人の側らにはあの血の付いた包丁がいつでも持てる様に置いてあるのだ。その血塗られた刃を見ると、やはり恐ろしさに身体が縮み上がってしまう。
 この人は毎朝すれ違っていた私のことを覚えていないんだろうか。
 それとも私の家に来たのは私のことを知っていたから? いや今までの様子からしてそんなことはないと思う。
 だけどこの人はどうしてこんなことをしているんだろう……。
 そう思った時、やはり浮かんだのは昨夜帰り道に近所で出くわしたパトカーの赤色灯の群れだった。そしてさっきチラリと聞こえたワイドショーの司会者の声『……昨日世田谷区で、高校生の少年が母親を刺して逃げるという事件が起きました……』。
 世田谷区で……高校生……この子のことなんじゃないだろうか、母親を刺して……この血糊が付いた包丁……返り血? を浴びたワイシャツ。
 亜希子は意識して何食わぬ顔を装っているが、身体中をゾワゾワと鳥肌が包み込んで行くのを感じている。
 人間という物はここ一大事という時には、不思議と自分でも思ってもみなかった程落ち着いた対応が出来てしまうことがあるという。
 なるべく平静を装ってチャーハンを食べながら、内面では驚愕の思いに駆られている亜希子の口から出た言葉は、まるで拍子抜けする程呑気で、間が抜けて聞こえる程だった。
「……美味しい?」
「うん」
「ちょと味薄くないかな? ご飯入れすぎたかな」
「ううん。大丈夫……」
 少年は美味しそうにムシャムシャと食べて、山盛りだったチャーハンをあっという間に平らげてしまった。
 その時外で不意に足音がして、ガチャガチャと扉の鍵を開ける音が響いて来る。
 少年はビクリとして包丁を取り、ドアの方を見る。
 隣りの住人が帰って来たのだろう。普段から夜に出かけて行ったりするので、夜中の仕事をしているらしいとは思っていた。今仕事を終えて帰宅して来たのかもしれない。
「大丈夫だよ、きっと隣りの人が帰って来ただけだから」
 驚いて立ち上がった少年を安心させようと思った。
 少年はカーテンを捲って外の様子を伺う。見ると窓の鍵の近くが割れていて、穴が空いている。きっと昨日そこから手を入れて鍵を開けて入って来たに違いない。風でカーテンが揺れていたのはそのせいだったんだ。
 少年は隣りの部屋からのガサゴソという物音に聞き耳をたてている。
「声出したら殺すからな」
 と包丁を突きつける。亜希子は頷きつつ、チャーハンを食べる。
 何事も無いことが分かると、少年は落ち着いて座った。


 亜希子もチャーハンを食べ終わると、静かに食器を片付けて台所に運ぶ。紐の長さが流しまで足りなくなると、少年も立ち上がって紐が届くところまで来てくれる。
 流しに食器を置いて、湯沸し器を点け、スポンジに洗剤を付けて洗う。
 少年はまた台所と六畳間の境に立って見ている。亜希子は手を動かしながら言う。
「あの……」
「えっ」
「良かったら、服を着替えたら……少しだけど男の人の着る物もあるから……その服、汚れてるから……」
「うん」
 亜希子は食器を洗い終えると手を拭いて六畳間へ戻り、洋服タンスから隆夫が泊まる時によく着ていたブルーのTシャツと、黄色いスウェットのパンツを出してあげる。
 少年に「こ、こんなのどうかな」と言うと「いいよ」と答える。
「着替えるからそっちに行ってろよ」
 と包丁の先を振って台所に入っていろと指図する。
 亜希子は台所に入り、少年に背を向けて立っている。
 ガサゴソと着替える音がする。
「なぁ、ビニール袋ある? なるべく大きいヤツがいいんだけど」
 脱いだ服を入れるのだろうと思い、冷蔵庫の横に沢山ぶら下げてある買い物袋から大きめのを選んで出す。
 隆夫も細い体をしていたけれど、この少年は身長が低いのと、上背も無いせいで、隆夫のTシャツを着てスウェットを履くと、その姿は一層華奢な印象になった。
 また幼さが残る整った顔立ちをしているので、まるでほんの子供の様に見える。ただ片手に持った血だらけの包丁を除けば……。
「コレをその中に入れろよ」
 と脱いだワイシャツとズボンを蹴る。
 それ等を拾ってビニール袋に入れる。触れるのも嫌なくらい恐ろしくて気持ち悪いけど、努めて平静を装う。口を縛って隅に置くと、六畳間に戻る。
 亜希子も着替えたい。昨夜仕事から帰って来てからそのままなのだ。それに漏らしてしまった小便がスカートに幾らか沁み込んでいる。でもあまり贅沢を言ってはならないと思い。我慢する。
 とにかく今はこの少年に気に入られる様にしなくちゃ、何を言っても絶対に私が逆らったり逃げたりはしないということを信じて貰わなければ。今はそれしか自分の身を守る方法は無いのだから。
「ねえ、割れてるガラスのところに何か貼り付けておこうよ」
 と提案してみる。
「ガラスに?」
「うん、風が入るし、雨とか降って来たら降り込んできちゃうでしょう」
「うん」
 五月も終わりに近づいて気候は暑くもなく寒くもないけれど、寒がりな亜希子にはまだ窓を閉めてストーブを点ける日もあるくらいなので、また夜になって寒くなったら嫌だと思う。
 押入れを開けて、上の段にしまってあったDVDプレーヤーの空き箱を取り出した。もう必要無いと思いながらも、いつか引越しをする時が来たら便利だと思うと捨てられないのが亜希子の性分だった。
 中の発泡スチロールを取り出して、ガムテープを張ってある底を開くと四角い筒状になった。その一角を切り離すと結構大きなダンボール紙になる。
 割られた窓の内側にこぼれたままになっているガラスの破片を、注意しながら摘み上げてゴミ箱へ捨てる。
 窓を開いてベランダに出る。見ると少年が履いて来たらしいスニーカーが窓の脇に揃えて脱いである。空き巣等が部屋に侵入する時は土足で入るんじゃないかと思うけど、やはりこの少年は育ちが良いのだろうかと思う。
 このアパートは車の通れる道からは狭い路地を入って、敷地の四方をそれぞれ大きな一戸建ての家に囲まれて奥まったところにある。なのでベランダに出ても前を大きな壁に阻まれており、陽も当たらない代わりに通行人から目に付くこともない。
 だからきっとこの少年もここを選んで逃げ込んで来たのではないかと思う。
 しかし目の前を覆っている壁の中には人が住んでいるんだから、ここから大声で叫んで助けを求めれば聞こえるのではないか、という考えが閃いたが、やはりそんな不確実なことは出来ないと思う。そんな考えが浮かんだだけで足が小刻みに震えている。
 亜希子がガラス窓に当てたダンボールの四隅に苦労してガムテープを貼り付けて行くのを、少年は部屋の中から見ている。
 作業を無事に終えると少年は部屋の隅に座り込んだ。右手に包丁を持って、左手には亜希子の腰に結びつけたビニール紐を巻き付けている。
 隙を見て玄関の方へ走っても、きっとビニール紐を引っ張られて、ドアに辿り着く前に包丁で切り付けられてしまうだろう。
 もし逃げようとしたら、この少年は本当に包丁を刺して来るだろうか、黙っている表情からは何も読み取ることは出来ない。でも、現にこの人はここに来る前に人を刺して来ているんだから。しかも、もしかしたら自分のお母さんを……。
 少年はずっと黙っている。何を考えているのだろうか、表情が読めないだけに黙っていられるのが恐い。
 何の前触れもなくワァーと叫んで突進して来て包丁を刺されるのではないか……という恐怖から片時も逃れることは出来ない。
「ねぇ、テレビでも見ようか」
 黙っていると居た堪れなくなるので、言葉をかけてしまった。
 少年はただ「いい」と言って黙ってしまう。
 一体何を考えているんだろう……もしかしたら昨夜ここへ逃げ込んで来る前に自分のして来たことを思い出しているんだろうか『高校生が母親を刺して……』ワイドショーで司会者が言っていた言葉……。
 母親……自分のお母さんを刺したの? 果たしてそのお母さんは助かったのだろうか、その包丁に付いた血の跡やあのワイシャツからすると、かなり深いところまで刺さって血がいっぱい出たんじゃないかと思う。
 だとしたらお母さんの安否が気にならないのだろうか。そもそもどうしてそんな恐ろしいことをしてしまったというの。
 黙っているので全く心の内を窺い知ることが出来ない。私に人の心を読む超能力でも備わっていれば良かったのに……等と取りとめもないことさえ思ってしまう。
 隆夫……今私がこんな状況になっていることを知ったら、隆夫は助けに来てくれる?。 もしかしたら、風邪で会社を休んでいることが何かの拍子に、隆夫が業務連絡をして来た時に、お喋りな小石さんから伝わるかもしれない……そしたら隆夫はお見舞いに来てくれるだろうか。この部屋をノックしても何の応答も無かったら、私が起きられない程具合が悪いのかと思って、合鍵を使って入って来てくれるだろうか。
 でも、もしそんなことになったら、この少年が何をするか分からない……ああ、隆夫、来ちゃダメ、来ちゃダメだよ。
 嫌、来ないだろう。そんなこと心配する必要なんて無い。隆夫はきっと来ない、でももし来てしまったら、隆夫は自分の危険も省見ずに私を助けてくれる?。
 嫌来てはダメよ、若い彼女と上手く行っているのなら、将来のある貴方の身にもしものことがあったら……私はそれこそ生きて行けなくなっちゃうもの。私はこれ以上惨めになりたくない。いや、大丈夫だろう。そんな心配する必要なんて全く無いのに、ハハ……私ったらバカみたい、何を考えてるんだろう。隆夫が来てくれる訳なんかないのに……。

 少年と亜希子は黙ったまま向かい合って座っている。
 こんな状態で、一体この先どうしようと思っているんだろう……少年は呆けた様に黙っている。表情は全く無いけれど、スベスベして澄んだ肌、まつ毛が長くパッチリとした瞳、ツンとした鼻と小さな唇。澄ましていると女の子の様な綺麗な顔立ちをしている。
 少年もきっとこれからどうしたら良いのか分からなくて、この事態の収集がつかないでいるんじゃないだろうか。今は落ち着いて見えるけど、とてつもない不安の重圧に押さえ付けられて、それから逃れる為には何も考えないことしかない……という状態にいるんじゃないだろうか。
 少年がその重い不安の重圧に耐えかねて自暴自棄な行動にでも出られたら、と思うと震え上がってしまう。
 このまま沈黙していることは耐え難かった。
「それじゃDVDでも見る? 映画とかもあるけど」
「何があるの?」
 亜希子の持っている映画のDVDは安売りで買った「ローマの休日」と人から貰ったチャップリンの「街の灯」しかない。
 映画は好きでよく観ているけど、好きな映画でもそんなに何度も観ることはないので、ビデオやDVDは買わずに専らレンタルだった。DVDプレーヤーも最近やっと安売りで買ったばかりだった。
 音楽のDVDはどうしても欲しくて買った小田和正のライブがあった。それ等を戸棚から出して少年の前に並べてみる。
 隆夫が友達に貰ったけど自分の家には置いておけないからと言って、無理矢理置いていったアダルト物もあるけれど、まさかそれを見せる訳には行かない。
「もっと最近のアクション映画とか無いの? ロード・オブ・ザ・リングとかスパイダーマンとか」
「ごめん、それは無いんだけど、今度レンタルで借りて来てあげるから……」
 何を言ってるんだろう……今度借りて来てあげるって、一体何時のこと?。
 少年が見たい様なDVDは無かったので、あまりソフトは無いけどプレイステーションがあるよ、と言ってみる。
「うんやる」
 と言うので戸棚で埃を被っていたのを引っ張り出してテレビにセットする。
 隆夫が来ていた頃は時々遊んでいたけれど、近頃は全然使わなくなってしまっていた。こんなことでも無い限りずっと思い出しもしなかったかもしれない。
 やれば結構面白いのは分かっていても、一人でやっていても虚しさを感じてしまうのだ。
 ゲームのソフトは初期のドラゴン・クエストと戦争物のシューティングゲームしか無い。敵の陣地に乗り込んで行って、出て来る敵のキャラクターを撃ってやっつけて行くというものだ。少年は今までテレビゲームをやったことが無いという。
 シューティングゲームの方がルールが簡単ですぐに出来ると思い、本体にセットする。
 最初は後で見ている少年の前で亜希子がコントローラーを持ってやってみせる。
 ヘタクソだけど次々に出て来る敵をバキュンバキュンと撃ち倒して行く画面を少年は珍しそうに見ている様子だった。
 このぐらいの年頃の男の子なら、誰でもテレビゲームには夢中になっていると思い込んでいたので、一度もやったことが無いというのは意外だった。
「やってみる? 簡単だよ」
 と言ってコントローラーを渡そうとしたけれど、少年は両手に包丁と紐の先を持っているので、どうしよう……と戸惑っている。
「私のこと動けない様に縛ってからやってもいいよ」
 と飽くまで卑屈になって言う。
「じゃ、何かしたら見える様に、そこのテレビの横に気を付けして立ってろよ」
 と言うのでゲームをしていても動けばすぐに分かる様に、亜希子はテレビの横に軍隊の見張り番の様に気を付けをして立つ。
 少年は脇に包丁を置いてコントローラーを手にしたけど、持ち方も分からない。
 ゲームの始め方からコントローラーの使い方までやり方を説明してあげなければならなかった。
「分かったよ、うるせえな!」
 分かりやすく教えて上げているつもりだったけど、それがくどいと感じたのか、言葉を荒げて言い返した。ビクッとして慌てて「すみません」と謝る。
 やり方が分かって来ると、夢中になってやり始めた。意識が画面に集中しているのが分かる。
 テレビの横に直立不動で立ち、少年が夢中でゲームをしているのを見ながら、一体警察は何をしているんだろう……と思う。
 あんなに近くで事件が起きて、犯人は行方不明になっているのだから、付近を捜査したり聞き込みに来たりしないのだろうか、どうでもいいから早く私のことを助けて欲しい。
 でもいざここへ警察が捜査に来た時、少年が逆上して私を殺して自分も死のうなんて考えを起こされたら……と思うと恐い気持ちも起きてしまう。
 そのまま少年は何時間も繰り返しゲームを続けた。こんな古いゲームがそんなに珍しいのかと思うけど、ゲームをしているうちは安全なのだと思い、黙って立っている。
 でもそのうちに足が痺れて来て、またトイレにも行きたくなる。仕方なく一度少年に頼んでトイレに行かせて貰い、その時ゆっくり便座に腰を下ろして、少しでも足の疲れを取っておこうと思った。
 そのうちにまた陽も暮れ出して夕方になると、夕食のことを考えなくちゃならない。
 少年に頼んで腰を結んでいる紐を長くして貰い、少年が六畳間でゲームをしていても亜希子が台所で自由に料理が出来る様にして貰おうと、少年に説明する。
「私が台所で何をしてるかは音がするから良く分かるでしょう? それに何かしようとしたらその紐を引っ張れば逃げられないし、大丈夫でしょ? 夜はスパゲティを作りますから、ソースはレトルトだけどミートソースとかクリームソースとかいろいろあるし、結構美味しいんだよ」
 と言うと「分かったよ」と言ってビニール紐を継ぎ足して長くしてくれた。
「それじゃ早く作れよ」と素っ気無く言ってまたコントローラーを操作する。
 チャンスだ! 少年がゲームに夢中になっている間に、流しの引き出しに入っているハサミで紐を切って、こっそりと玄関のドアから出て行けばいい。
 スパゲティを茹でるのとレトルトのソースを温める為に二つの鍋に水を入れ火に掛ける。やがて沸騰してゴボゴボと音を立て始める。
 先に二人分のスパゲティを鍋に入れる。煮始めると音が一層大きくなった。
 そっと見ると少年は夢中になってゲームの画面に見入っている。
 音がしない様にそ~っと流しの引き出しを開ける。ハサミを取って腰に結び付けられたビニール紐を片手に持ち、挟む。
「ねぇ」
 ギクリとしてハサミを元に戻す。
「え、何?」
 振り向くと台所と六畳間の境に立った少年が、コントローラーを手にしたまま、亜紀子を見ている。
「ソースは何があるの?」
「え、今あるのはカルボナーラとアサリのトマトとナスのミート……」
 声が震えてしまう。
「俺じゃあそのナスのにして」
「はい……」
 少年はそのまま部屋に戻ってゲームを続ける。
 脚が震えている。逃げるタイミングを削がれてしまった。また次の機会を伺うしかない。

 また小さなテーブルに向かい合って。スパゲティを食べる。亜希子はバジルのトマトソースというのをかけた。少年には山盛りのスパゲティにナスのミートソースをかけてあげる。
 二人で食べていると隣の部屋でドアの開く音がする。隣りの住人が何処かへ出掛けて行くらしい。
 少年は食べていた手を止めたけど、私が「大丈夫だよ、夜中の仕事してるから、きっとこれから出掛けて行くんだよ」と言うと安心した様子だった。
 この事態に陥って、昨日の夜からまる一日が過ぎようとしている。何という一日だったのだろう。早く終わって欲しい、早く終わって欲しい……と思う一方で、なるべく従順にこの少年の機嫌を損なわない様に、目一杯の気を遣って振舞う様にしなければ、と思う。そのパターンに、少し馴れて来てもいる。
 食事の後、少年はまたゲームをして、飽きもせず12時になるまでそれを続けた。
 亜希子は大分信用されたのか、もうテレビの横で直立不動はしなくてもいいと許されて、ゲームをする少年の横で座布団の上に座っている。
 途中少年がトイレに行きたいと言うので、亜希子は「紐は結んだままで、私はトイレのドアのすぐ前に立っているから、安心して」といった。
 きっと大便をするのだろう。この機会を逃してはならないと思い、縛られた位置から伸ばせる様にそっと紐を握り、身体に引き付けておく。
 少年が紐を引っ張りながらドアを閉めると、緩まない様に気を付けてその分を伸ばして流しへ行き、引き出しからハサミを出す。
「ねぇ……」とトイレの中から話し掛けて来た。
「は、はい」
「タイルにカビが生えてるから、掃除した方がいいよ」
「あ、はい……」
 私が何かしてるのではないかと伺ってるんだ。
 そっとしゃがんで、六畳間のカーペットの上にハサミを滑らせる。
ハサミは上手い具合にテレビの前に散らばったゲームソフトのパッケージの下に滑り込んだ。
 今逃げようとすれば追い掛けられてしまうので、夜中に少年が寝ている間を狙おうと思う。

 トイレを出ると少年も大分疲れた様子なので寝ようということになった。
 今夜はちゃんと押入れから布団を出して敷いて寝たかったけど、布団は一組しかない。
 当然の様に布団には少年に寝て貰い、亜希子はその横に座布団を二枚並べて、毛布を掛けて寝ますといった。
 寝る前にまた身体中を縛られたらどうしようと思ったけれど、縛ろうとはしなかった。
 それでも眠っている間に逃げようとするのではないかと疑われてはいけないと思い、自分の足首と少年の足首とを紐を短くして結び、私が動けばすぐ分かる様にしておきましょう。と自分から言って少年を安心させる。
 この位置で寝れば、ハサミは私の手の届くところにある……。
 少年が眠ったらそっと紐を切って外に逃げよう。あの路地まで行けば、集まっていたパトカーがまだいるかもしれない、もしそれがいなくても、商店街を抜けて駅前の交番まで辿り着ければ助かる。でもそこへ着くまでに少年が気付いて追い掛けて来たらどうしよう……とも思うけど、逃げなければこの状態が明日も明後日も続くのかと思うと、頭がおかしくなってしまいそうだもの。

 二人の足首を結ぶと少年は布団に横になった。包丁は亜希子とは反対側の、少年の手のすぐ側に置かれている。
 蛍光灯のスイッチを引いて、小さなオレンジ色の常夜灯だけを残す。紐で結ばれた右足を少年の左足と並べて、座布団の上に仰向けになる。
 自分が先に眠ってしまったらどうしようと思ったけど、その心配はなかった。眠れるはずなんかない……。
 少年と並んで横になり、じっとリラックスしているフリをして、静かに深呼吸を繰り返す。
 何十分も経ったけど、少年は静かで、眠っているのかどうか分からない。亜希子はじっと我慢して待っている。少年が熟睡していると確信が持てるまでは、動くことは出来ない。
 どうやら少年が寝息らしい音を立て初めて、それからさらに2時間近くが経った。テレビの横にあるデジタル時計が午前2時23分を表示している。
 少年は静かに規則正しく呼吸を繰り返しており、その呼吸の音に合わせて胸が上下しているのが分かる。眠っているとしか思えない。
 亜希子は上半身だけをそっと起こして、テレビの方へ手を伸ばす。
 さっきゲームソフトのパッケージの下に隠しておいたハサミを手にする。
 少年にも聞こえやしないかと心配になるくらい、心臓の鼓動がドキドキと胸の中を響き渡っている。手を伸ばしてそっと足首に結ばれた紐を持ち、もう片方の手に持ったハサミを開いて挟む。
「ごめんなさい……」
 ハッとしてハサミを座布団の下に隠し、慌てて横になる。
「……」
 その一言を発したまま少年は沈黙している。
 えっ? 私に謝ってるの? まさか……。
 横になったまま暫らく様子を伺っていたが、少年は目を閉じたまま寝息を立てている。
 どうやら単なる寝言だったのか、と思い、もう一度ハサミを取ろうとした時、また喋った。
「ごめんなさい……次は……次はきっと頑張るから……」
 やはり亜希子に謝っているのではないらしい。
「許して下さい、あっ、痛い……痛いよう、嫌だようもう許してよう……」
 魘される様にして身をよじる。
「ごめんなさい! ごめんなさい今度は頑張るから本当にこの次は頑張るから……」
 喋り続けているが目は瞑ったままだ。
 それが暫らく続いたかと思うとまた静かになる。そして何事も無かったかの様に静かな寝息が続く。
 もう一度少年が寝ているのを確認すると、そうっとまたハサミを取る。さっきの寝言の間もずっと眠っていたんだから、きっと大丈夫だろう……。
「痛い、痛いよう止めてようお願いだから」
 ハッとしてまた手を引っ込める。
 少年は魘されながら誰かから顔や頭を庇う様に両手を振り翳し始める。
「やめて、やめて下さい痛いよ、ごめんなさい、許して、お願いします……」
 そしてまた一瞬静かになったと思ったその時だった。
「チクショウこの野郎ぶっ殺すぞ!」
 ビクリとして亜希子は息を飲む。
「お前が悪いんだぞ! お前が悪いんだぞ! ちくしょうちくしょうお前のせいだ! このやろう、殺してやる、殺してやるー……」
 錯乱し始めた。今にも側に置いた包丁を取って振り回すのではないかと思い、震え上がる。少年は何かを抗う様に両手を激しく振っている。
 堪らず亜希子は声を掛ける。
「……ねぇ、大丈夫、ねぇ大丈夫だよ誰も何もしないよ、大丈夫だよ、私しかいないよ誰も何もしないから」
 少年は側に置かれた包丁をつかむと宙に向って振り回し始めた。
「きゃあーっ!」
 メチャクチャに振り回される包丁が亜希子の身体をビュンビュンとかすめる。
 側から離れなければと這って逃げようとするが、足に結び付けられた紐がビンと張って少年の足を引っ張る。
 その途端目を開けた少年は手を止め、茫然とした様に辺りを見回す。
 そして驚愕の目で自分を見つめている亜希子を見た。
「……」
 荒く息をしている少年に亜希子は宥める様に声を掛ける。
「ど、どうしたの、何もしないよ、大丈夫だよ、ここには誰もいないし、安全なんだよ……」
 とにかく落ち着いて貰わなければと思い、必死に宥める。
 ハァハァと少年は暫らく息を弾ませながら辺りをキョロキョロしていたが、自分の今の状況を思い出したらしく、落ち着きを取り戻し始め、亜希子の顔をじっと見つめる。
「……」
「どうしたの? 恐い夢見たの? 大丈夫だよ、ここには私しかいないんだから、私は何もしないから、安心していいんだよ」
 気持ちを静めてやらなければと思う。
「此処どこ?」
「私の家」
「……僕、どうなってたの?」
「何か恐い夢を見てるみたいだったよ。魘されて、苦しそうだったよ……」
「そう……」
 といって少年は手にした包丁を見つめる。
 亜希子は落ち着いている風を装って、少年の隣りに座り直す。
 少年は亜希子の言葉で我に返り、少し安心した様子だった。包丁を脇に置くと、布団に横になる。
 そのまま上を向いて黙っているので、亜希子も元の様に座布団に横になる。
 少年が口を開いた。
「ねぇ」
「はい……」
「おばさん、名前はなんて言うの」
 おばさん……。
「私、亜希子だよ」
「アキコ?」
「うん」
 少年は亜希子の顔を見つめている。
「キミは?」
 まさか素直に答えてくれるとも思えなかったけど。
「シュンイチ」
「シュンイチ君?」
「うん。ねぇ」
「うん?」
「アキコは起きててよ、それで僕が寝て、また魘されてたら起こしてよ」
「……うん」
「約束だからね、ずっと僕の顔を見て、恐い夢見てるみたいだったら、また今みたいに大丈夫だって言って起こすんだよ」
「分かった」
「いいな、約束だからな」
「うん」
 亜希子がそう答えると、安心した様に目を閉じる。
 亜希子はそのまま肩肘を立てて、シュンイチの寝顔を見ている。そういえばこんなふうに、隆夫の寝顔を見つめていたこともあったっけ。
 あどけない……この少年が、ニュースで言っていた母親を刺して逃げている高校生なのだとしたら、まだ16歳か17歳くらいなんだろうか。
 5歳年下だった隆夫の顔も亜希子から見ると可愛い感じがしたけれど、この少年はまだ10代で私とは20年も歳が違うんだ。見ているとまだほんの子供の様に思える。何があったのかは知らないけど、ふと可哀相だという思いが過ぎってしまう。
 けれど、私がそんなこと思っている場合じゃないじゃないか、何しろ私は生命の危険に晒されているのだから。
 と思っていると、少年が不意に目を開いた。亜希子が約束した通りに自分のことを見ているかどうか確かめているのだ。
 亜希子がちゃんと見ていることを知って、安心した様にまた目を閉じる。
 ……こうなるとまたいつ目を開けるか分からなくなってしまった。そしていつまた魘されて、さっきの様な錯乱を起こすかもしれない。
 亜希子は再びハサミを取る勇気を削がれてしまった。
 そしてそのままシュンイチの寝顔を見つめている。だが、やがて睡魔に襲われて、肩肘を立てたまま船を漕ぎ始め、やがて眠りに落ちてしまった。
  

第一章 3


「お早う、ねぇお早うってば……」
 翌朝亜希子はシュンイチに肩を揺すられて目を覚ました。
 また魘されてたら自分を起こせと言うシュンイチの寝顔を見つめながら、ついウトウトと寝に入ってしまったのだ。
 カーテンの外はすっかり明るくなっている。
「あ、おはよう……」
 寝てしまったことを責められるのではないかと思ったけど、シュンイチはもう昨夜のことなど頭に無い様だった。
 ボサボサになった頭を気にしながら、亜希子も起きる。
「ねぇ、おしっこしたいんだから、早くこっちに来いよ」
 とシュンイチは二人の足首を結んでいる紐をピンと張らせて、亜希子の足を引っ張る。右手には包丁を持っている。
「あ、はい」
 見るとシュンイチの履いているスウェットの股間の辺りに、ひとつピンと内側から突き出している部分があるのが分かる。
 ふと目のやり場に困りながら亜希子は立ち上がって、シュンイチに引かれるままにトイレの前まで行き、小便をしている間ドアの前で待っている。
 そのまま入れ替わりに亜希子が入り、シュンイチはビニール紐を挟んだドアの向こうに立って、亜希子が用を足すのを待っている。
「なぁ、お腹空いたよ、何か作れよ」
「うん分かった。でも、その前にお願い、私洋服を着替えたいんだけど」
「分かったよ」
 着替えを持ってトイレの中で着替える。足の紐は外して貰ったが、シュンイチはドアの外で包丁を手にしたまま亜希子に不審な様子がないか伺っている。
 着替える服を考えた時、逃げ出すことを考えてジーパンに上は長袖のシャツの様な、そのまま外に出られる物を選ぼうかと思ったが、そんな服を着て逃げるつもりではないかと勘ぐられてはいけないと思い、逆にいかにも部屋着と言う感じの、そのままパジャマ代わりになりそうなトレーナーに下はタオル地のスウェットを選ぶ。
 着替え終わると着ていた物を丸めて洗濯籠に押し込み、また身体を結んでおいて、とシュンイチにいう。
「分かった」
 と言うとシュンイチは亜希子の腰にビニール紐を何重にも回して結び、その紐の端を自分の左手に結び付ける。
 朝食を用意しようと思ったが、その前にしなければならないことがある。
「ねぇ、今日も会社にお休みするって電話しといた方が良いと思うんだけど」
 と自分から言う。
「分かった。じゃ早くしろよ」
 電話のところに行って受話器を取り、会社の番号をダイヤルする。
 こうして少しでも自分のペースで事が決められる様になることは、とても良い兆しの様に思える。
 だがシュンイチはすぐ側へ来て受話器を持つ亜希子の喉元に包丁を突き付ける。
「何か余計なこと言ったら殺すからな」
「はい……」
 やっぱりまだ信用されてる訳じゃないんだ……。
 数回の呼び出し音の後、相手が受話器を取る音がして『もしもし』と昨日と同じ小石さんの声がする。
 亜希子は努めて平静を装いながら話す。
「あのう、倉田ですけど、すみません。まだ熱が下がり切らない様ですので……」
『あらそう、そりゃ変にこじらせちゃったら大変だから~いいわよ仕事の方はなんとかなってるから、ゆっくり休んでいらっしゃいよ』
「はぁ、ありがとうございます」
 今までこんな風に仮病を使って何かをサボった経験は無かった。喋り方で嘘がばれるのではないかと思い、ドキドキする。
『何か困ったことは無いの?』
「はい、大丈夫です」
『お医者には行ったの?』
「あ、はい、今日行く予定でいますので」
 病弱な感じを出す為に出来るだけ元気の無い話し方をしているつもりだったが、上手く出来ているかは分からない。
『そう、大事にしてね、何か困ったことがあったらすぐ電話して来なさいよ』
「はぁ、ありがとうございます」
 あんまり話すと余計なことを口走ってしまいそうで恐い。
「それじゃどうも、失礼します」
 まだ何か言いたそうな小石さんを遮る様にして会話を終わらせる。
 受話器を置くとシュンイチは喉元に突き付けた包丁を退けてくれたのでホッとする。
 台所に行って食事の用意に取り掛かる。
直ぐに食べられるパン等の買い置きは無かったし、朝からまたスパゲティやラーメンというのもどうかと思ったので、多少時間は掛かってしまうけど、お米を研いでごはんを炊くことにする。
 シュンイチはまた身体を結ぶ紐を長くして、台所で自由に調理が出来る様にしてくれた。
 食事の用意をしている間、シュンイチは六畳間でテレビを点け、パチパチとリモコンでチャンネルを変えながら見ている。
 やっぱりテレビの報道が気になるんだろうか……亜希子にはまだ昨日のワイドショーで司会者が言っていた『高校生が母親を刺して逃亡……』という言葉が引っ掛かっている。
 本当にこの子は母親を刺して逃げているんだろうか、だとしたら、やっぱり自分の刺した母親の安否が気になるんだろうか、それでテレビを見ているんだろうか。

 ご飯が炊き上がった。インスタントの味噌汁に刻んだ長ネギと乾燥ワカメを入れて、お湯を注ぐ。
 オカズはパックのキムチと納豆くらいしか無い。納豆は苦手な人もいるので、聞いてみると大丈夫だということだった。
 六畳間のテーブルに二人分の朝食を運ぶ。
 朝の報道番組が続いているが、朝食の用意が出来るとシュンイチはテレビを消してしまう。
「いただきます」
 また二人向かい合って食べる。静かな部屋にカチャカチャと箸の音だけが響く。
 食事が終わると亜希子は食器を片付けて台所へ運び、流しに入れて洗う。
「ねぇ、お茶飲む?」と台所から呼び掛ける。
「うん」
「待ってね、今洗い物が終わったら入れるから…た…」
 隆夫……と言いそうになった。今6畳間にいるあの後姿が隆夫だったら……休みの日に隆夫が来ていた時の光景がダブって見えた。
 シュンイチはまたテレビを見ているが、ボリュームを小さくしているのと、食器を洗う音とで内容を聞き取ることは出来ない。
 食器を洗い終わり、二つのマグカップにお茶を入れて六畳間に入って行くと、シュンイチはテレビを消してしまう。
「はい」
 とマグカップを差し出しながら、シュンイチの顔を見て驚いた。その表情が酷く変わっている。
 落ち込んでいるというか、何か酷く精神的なショックを受けた様な感じだった。テレビで報道された内容に何か関係あるんだろうか……と思ったが、聞いてみることは出来ない。
「ねぇ、今日洗濯してもいいかなぁ、天気も良いから」
「ああ」
 シュンイチはそっぽを向いたまま気の無い返事をする。その返事をよしと見て溜まった洗濯籠を持ってベランダへ出る。
 ふとビニール袋にまとめた血だらけの制服のことも考えたけど、やはり恐ろしくて手を触れる気にはならない。
 だけどシュンイチの様子の変わり様は尋常ではない。テレビで何を見たというのか、それが何なのかは分からない。嫌それだけじゃない、亜希子にはシュンイチのことは何ひとつ分からない。
 ベランダの隅にある洗濯機のスイッチを入れると、シュンイチが来て窓の縁に座った。
 考えてみれば、シュンイチはこの部屋に侵入する時、ベランダの欄干を乗り越えて入って来たのだから、逆に亜希子がここから欄干を乗り越えて逃げるということも考えられる。
 亜希子は努めていつもしている様に、普通に洗濯機の電源を入れて、スタートボタンを押す。ジャーと音をたてて水が迸り始める。分量を量って粉末の洗剤を入れる。
 洗濯機を回して部屋に戻ると、シュンイチはまたプレイステーションを繋いで、昨日と同じシューティングゲームを始める。
 亜希子は近くに座って、ゲームの画面を見ながら時おり「惜しい!」とか「あっ上手い上手い!」等と応援して、出来るだけ和やかな時間が過ぎる様に努める。だがシュンイチは全く反応を見せず、無表情にコントローラーを操作している。
 やがてベランダで洗濯の終わるアラームが鳴り、亜希子は外へ出て洗濯機から衣類を取り出して籠に入れると、一枚ずつ広げて物干しの洗濯バサミに挟んで行く。
 シュンイチは部屋に残ったままゲームを続けている。窓の脇からそっと見ると、相変わらず無表情で放心した様に、激しくコントローラーを操作している。
 洗濯物を干し終えると部屋に戻り、今度は昨日シュンイチもカビが生えているといっていたお風呂を掃除してもいいかと尋ねる。
「そんなの勝手にすりゃいいだろ!」
 突然怒った様にいう。
「あ、はい、すいません」
 慌てて謝って、風呂場の掃除に取り掛かった。何を怒ってるんだろう……。きっと私のせいじゃない、何かテレビで見たんだ。きっと自分がしてきた事件のことで……。
 浴室に入るとシャワーで床を濡らし、洗剤を撒いてスポンジで擦る。
 とにかく何かしていないと不安で堪らない。出来るだけ二人で沈黙している時間を作りたくない。

 風呂の掃除を終えると今度は台所の掃除をしようと思ったが、許しを得ようとして聞けば、またさっきみたいに怒鳴られるのではないかと思い、黙って押入れから掃除機を出し、床に掃除機をかけて、雑巾掛けをする。
 六畳間からはゲームの音が絶え間なく続いている。
 亜希子は掃除を終えると昼食の用意に取り掛かる。
 シュンイチを刺激しない様に、努めて平静を装って振舞って来たが、精神的にかなり追い詰められていることが自分でも分かる。
 昼は買い置きのインスタントラーメンを茹でて、朝味噌汁に入れた残りの長ネギを切ったのと、生タマゴを入れて食べることにする。
 鍋に水を入れて、ガス台に乗せて火を点ける……いつまでこんなことが続くんだろう……考えても仕方が無いと思い、スルーする。
 いつまでもこんなことが続けていられる訳はない、そのうち、いやそれはきっと近いうちに、何等かの破綻が来るだろう。
 私だってそう何日も会社をズル休みしていられる訳はないのだから。職場の人たちだってそのうちおかしいと思うに違いない。
 不意に誰かが訪ねて来て、シュンイチがここにいることが外の人にバレてしまうかもしれない。そうなれば一気に警察が来て、このアパートを取り囲んでしまうかもしれない。
 そんなことになるのが一番嫌だ。だってもしそうなったら、シュンイチ君が自棄を起こして、道連れにされてしまうかもしれないもの。
 だから今は我慢して、出来るだけフレンドリーに振舞って、私のことを仲間だとさえ思ってくれる様にしておかなくちゃ、それ以外に助かる方法は無いんだから。
 思い直して自分に言い聞かせ、おかしくなりそうな感情を必死に宥める。

 昼食のラーメンを食べ終えて、食器の片付けも終わるといよいよすることが無くなって来る。
 朝干した洗濯物を取り込もうかと思ったが、さすがにまだ早すぎるだろう。外は晴れて良い天気だけれど、この部屋のベランダには直接日光が当たらないから、まだ乾いている筈もない。
 シュンイチは隅のマガジンラックから亜希子の買っているテレビガイドを見つけて、暫らく番組表を見ていたが、何か確認するとテレビを点けた。テレビでは昼間放映している映画をやっている。
 見たことのないアメリカの刑事映画だった。ロッキーのシルベスタ・スタローンが出ている。
 凶悪なテロリストをスタローン扮する刑事が追いかけて行くという内容で、シュンイチは黙って観始めたが、その無表情からは本当に集中して見ているのかどうかを読み取ることが出来ない。
 他にやることもないので、亜希子も一緒に見ているしかない。
 一見二人して映画に集中している様な格好になった。休日に隆夫とこうしていたことが思い出される。あの時DVDをレンタルして観た映画は何だったろう……。
 映画も終りに近付いてきた。逃亡したテロリストが狙っていた女性の後からそっと近付き、殺そうとする。ハラハラするシーンだった。その時、女性がバッと振り返ると、それはカツラを付けて女装したスタローン刑事だった。それを見て二人そろってアハハハハ……と笑い声を上げる。
 思いがけず顔を見合わせて笑った。それは一瞬の表情だったけれど、普通の高校生の男の子だった。
 こうして映画を観ていれば間が持つのだと思い、亜希子は持っているチャップリンの「街の灯」のDVDを面白いから観ようよ、と言って勧める。
 DVDプレーヤーにセットして、また二人で観る。人を刺して逃げている高校生と、命の危険にさらされながら一緒に観ている自分、という状況がおかしいなと思いつつ、何回目かの大好きな映画を観る。
 シュンイチはさっきと同じ様な表情で画面を見ている。今度はこれが夢中になって観ている様子なのだということが分かる。
 シュンイチはチャップリンという名前も知らなかったという。きっと古い白黒の無声映画が珍しいと思って観ているのだろう。
 亜希子は何回も観ているので、可笑しいシーンも胸にジンと来るシーンも、次にどんなシーンになるのかも分かっている。
 笑えるシーンでは努めて声を上げて笑う様にして、ウルウルするシーンではわざと鼻を啜ってみたりして、一緒にシュンイチの感情を呼び覚ませれば、と思った。
 こうして和やかなムードを盛り上げて、一緒に笑い、一緒に感動して、もっともっとフレンドリーな雰囲気に持って行きたいと思う。
 映画は終盤に近付き、目が見えなかったヒロインがチャップリンの必死の活躍で手術に成功し、目が見える様になって、感動の再会を果たすシーンで終わった。
 シュンイチは何も言わないけれど、その表情を見れば分かる。きっと私が始めてこの映画を観た時と同じ様に、暖かくて優しい気持ちになっているんじゃないだろうか。
 亜希子はシュンイチが人間的な表情を見せてくれたことに凄くホッとした気持ちになれた。きっとチャップリンのヒューマニズムがこの少年を救ってくれるかもしれない……なんてロマンチックなことを考えてみる。
 何とか今日も無事夕方を迎えることが出来た。けどまた夜の食事のことを考えなければならない。
 買い置きの材料で作れる料理もネタが尽きて来たので、亜希子は隆夫が来ていた時によく取っていたデリバリーのパンフレットをシュンイチに見せてみる。
 ピザやお寿司や中華料理等、いろんな種類のデリバリーの広告が毎日の様に郵便受けに入れられている。
「ねぇ、夜はちょっと贅沢しようか、中華料理とかも取れるんだよ」
「へぇ~僕の家はこうゆうの取ってくれたことなかったから、食べたことないや」
 と言って珍しそうに料理の写真がいっぱい載ったパンフレットを見る。
 だがデリバリーを取るということは、それを持って来る配達員が来た時にドアを開けてお金を払わなければならない。
 シュンイチはいろんな種類のメニューを美味しそうだと言って見ているけど、考えていることは分かる。
「私絶対何も言わないでお金だけ払って受け取るから、約束するから、ねぇ、私が何か余計なこといったりしたら脇に隠れてて包丁で刺せばいいじゃない」
 そう言った時、シュンイチは亜希子の顔をギロッと見た。凄く恐い目だったけど「いいよ、じゃ注文しろよ」と言う。
「何がいい?」と訪ねると。
「そうだな、ピザかお寿司が良いけど……」
「それじゃ、両方取っちゃおうか?」
「えっ?」
「シュンイチ君いっぱい食べるでしょ? 私ひとりじゃ食べきれないけど」
「いいの?」
「うん、いいよ」
 出来る限りの笑顔を作って微笑みかけたつもりだった。
 努めていつもと同じ調子で電話を掛けて、ピザのMサイズと握り寿司2人前をそれぞれの店に注文する。
 近頃は倹約しているので、普通ならそんな贅沢は考えられないけど、今は非常事態なのだ。少しでもシュンイチ君に喜んで貰わなくちゃ……。
 注文の電話をしてから暫らくして、外にバイクの止まる音がして先にピザが、後からお寿司が届いた。
 配達の人がドアをノックして、私が開いて品物を受け取り、お金を払う間シュンイチは包丁を手に台所の陰に隠れていたけれど、私はごく自然にいつもの様にお金を払い「ごくろうさまです」と言って配達員を帰すことが出来た。
 これでまた一層シュンイチ君の信頼を得ることが出来たかもしれない。
 Mサイズのピザと2人前のお寿司を乗せると、小さなテーブルは一杯になった。
「わー美味そう、食べきれない程あるねぇ」
 シュンイチは始めて本当に屈託のない笑顔を見せた。それはドキリとする様な可愛らしい笑顔だった。
 その笑顔を見た時、遠い昔隆夫の見せた初めての笑顔が思い出された。
 隆夫は5年前に亜紀子のいる住宅建築資材部に配属されて来た。最初は見ているとイライラするくらい煮え切らない感じの男……というより男の子だった。
 慣れない職場なのに一生懸命な思いが空回りするだけで、可哀相なくらい頼りない。
 それは隆夫がそれまで一から十まで親の言いなりになって育って来た結果なのかもしれない、と思った。隆夫は両親と姉の4人家族で、中堅サラリーマンの父親と母親はとても教育熱心で、子供の頃は勉強ばかりしていたという。
 私はそんな、何かに付けて困っている隆夫のことを見かねて手伝い、面倒を診てあげた。その度に「すいません」と照れた様に笑う顔にキュンと来る物があって、それから意識しなくてもいつも気になる存在になっていた。
 亜希子は学生時代から奥手で大人しい性格だったこともあって、それまで彼氏と言う物と本気で付き合ったことがあまり無かった。
 20代に入って社会へ出ても、何人か軽い付き合いをした男性はいたけれど、まだこれからきっと特別な人との出会いがあるに違いない……等とありもしない願望を抱いているうちに過ぎてしまい、26歳の時に駅で突然の激痛に襲われ、片方の卵巣と子宮を失ってしまった。
 そして一生を共にしたいという様な深い交際の経験も無いままに、結婚を諦めた。
 そんな時知り合った隆夫は5歳も年下であり、交際するとかそんな意識も全く無いままに、気が付くと親密な関係になっていた。
 それは結婚を前提とした付き合いを私が諦めていたから、逆に余裕を持って隆夫に接することが出来たからではないかと思う。そうだ、隆夫はきっとそんな私にとって、あるべくしてあった恋人だったのだ。
 ある日窓を開けると吹いて来た春の風みたいに、隆夫は私の中へ舞い込んで来た。それが当然の流れの様に仲良しになった。今でもあの頃のひとつひとつを思い出すと顔が笑ってしまうくらい、楽しかった。
 シュンイチ君はガラス窓を割って、この部屋へ侵入して来た。シュンイチ君との出会いも、こんな異常な状況のものでは無かったら、どんなにか素晴らしかったかもしれないのに。

 ピザと一緒に頼んだコーラで乾杯して、久し振りの御馳走を夢中になって食べる。
 シュンイチ君は「配達のピザなんか食べるの始めてだよ」と美味しそうにパクパク食べている。
 親戚の男の子が遊びに来たりするのはこんな感じなのかな、と思う。
 亜希子には三つ違いの真由美という姉がいる。姉の娘の由香里ちゃんが今高校一年で16歳だから、由香里がもし男の子だったら、きっとこんな感じなのかもしれない。
 今夜は亜希子が欠かさず見ているダウンタウンのお笑い番組がある日だった。
 面白いから見ようと言って、お腹一杯になった後、ピザやお寿司の残骸を食べ散らかしたまま寝転んでテレビを点ける。
 亜希子は冷蔵庫に残っていた発泡酒を開けて飲む。一応シュンイチにも飲むかと訪ねてみたけれど、いらないと言う。
「フフッ、ハハッ……アッハハハハハ……」
 見ている間何度も同時に笑い声を挙げた。この部屋にまた男の人の笑い声がするなんて、ここ数ヶ月夢にも思わなかったことだ。
 笑いながら亜希子は涙を流している。それはテレビの内容が可笑しくて、笑い過ぎてというだけではなく、突然こんな状況に貶められて、死ぬ程の恐怖を味あわされていながらも、今この少年と一緒にテレビを見て笑っている。こんなに和やかな雰囲気になれている。それが本当に良かったと思う涙だった。発泡酒の酔いも手伝っていたかもしれないけど、半分はそんな涙だった。

 今夜もまた布団を敷いて、亜希子はその横に座布団を並べて寝ることにする。
 シュンイチはもう忘れているのか、それとも亜希子が自分を裏切らないと信じてくれているのか、足を紐で結ぼうともしない。
 そしてまた「僕が夢見て魘されてたら、そうっと起こすんだぞ」と言う。亜希子は当然の様に「うん分かった」と答える。
 もし昨夜みたいに魘されることなくシュンイチが熟睡していてくれれば、今夜こそ逃げられるかもしれない。何しろ足も結ばれていないのだから。
 だが、二人並んで横になり、電気を消すと暫らくして、シュンイチは亜希子の手を握って来た。
 戸惑ったが、仕方なく亜希子もそっと力を入れて握り返す。
 暫らくして、スースーと規則的な寝息が聞こえて来る。そっと見ると、シュンイチは安らかな顔をして眠っている。
 だが亜希子の手は握られたままだ。これじゃまた今夜も逃げられないな、と思う一方でシュンイチに、今日は魘されずにゆっくり眠れればいいね。という気持ちも起きる。
 見れば見る程あどけないと思う、女の子の様に綺麗な顔をしている。見つめていると胸の奥がキュンとなる。
 隆夫……と胸の内で呼びかける声が聞こえたけれど、この部屋で寝ていた隆夫の顔が浮かんで来ることはなかった。
 寝ているシュンイチの向こう側、すぐ手の届くところには、今も鈍い光を反射させて包丁が置かれている。
 この少年の胸の内にはどんな思いが渦巻いているというのか。亜希子には何も分からない。
 このことは何時まで続くんだろう……私はまた元の生活に戻ることが出来るんだろうか、あの会社に通うだけの日々に。それまで私の精神は持つんだろうか。
 会社で自分の持ち物にキンキキッズの堂本光一の写真を貼っている淵松絵美子さんのことを思い出す。絵美子さんに言ってみたくなった「うちにはこんな綺麗な顔をした男の子がいるのよ」と。そんなことを思ってる自分をバカだなと思う。
 そして、この子が私といることにここまで安心してくれる様になれば、もう私に危害を加えることは無いのではないか……という希望的観測も起きてくる。勿論まだ油断は出来ないけれど。
 とはいえ、ずっとこのままでいられる訳は無いのだから。どうにかしなくちゃ……どうにか……。


第一章 4


 木曜日の朝になった。目が醒めるとテレビの横にあるデジタル時計は6時14分を表示している。きっと昨夜は早い時間に寝たので、それだけ早く目が覚めたのだろう。
 片手に温もりを感じる。亜希子の手はまだしっかりとシュンイチの手と重ね合わされている。
 見るとシュンイチも同時に目を覚ましたのか、瞼をパチパチしながら亜希子の顔を見ている。
「おはよう」と声を掛ける。
「おはよう」
「ねぇ……」
「うん?」
「相談があるんだけど……」
「なぁに?」
「あのね、私あんまり何日も仕事を休んでると、会社の人がおかしいと思って様子を見に来ちゃうかもしれないのよ」
「……」
「そうしたら、シュンイチ君のことが見つかっちゃうでしょう。だからさぁ、私、今日は普通に会社に行って帰って来るから、シュンイチ君がここにいるってことは絶対誰にも言わないで帰って来るから、今日は会社に行かせてよ」
 朝になったらそう言おうと考えていた訳ではなかった。目が覚めて少し寝ぼけた目でシュンイチを見ていたら、口から自然に言葉が出て来た様な感じだった。
「だって私仕事に行かないとクビになっちゃうし、そうしたらお金が無くなって暮らして行けなくなっちゃうよ」
 シュンイチは困った様な顔をして考えている。
「そのかわり私を仕事に行かせてくれたら、ず~っとここにいてもいいから」
「本当?」
「うん」
「本当にずっとここにいてもいいの?」
「うん」
「僕がここにいるってことは絶対誰にも秘密だよ?」
「うん勿論」
 亜希子の言葉を信じたかに見えた。亜希子が絶対誰にも言わないと約束すると「うん、分かったよ」と答える。
 シュンイチは亜希子が会社に行って来てもいいと言うのだ。

 そうと決まればまずシャワーを浴びる。月曜日から3日も風呂に入っていない。髪も洗いたかったけど、乾かしている時間は無いと思い、諦める。
 風呂場のドアは台所の脇にある。六畳と台所の仕切りの戸は磨りガラスなので、閉めておけば裸のまま出てもシュンイチに見られることは無いと思うけど。でもいつガラス戸を開けられるかもしれないと思い、バスタオルで身体を覆って風呂場を出ると、慌てて用意してあった衣服を着る。
 顔には殴られた痕は無かったけど、手首や足首が長い間縛られていた為にまだ痣になっている。それを隠す為に手首まで隠れる長袖のブラウスを着て、足には季節にそぐわないけれど長めの靴下を履く。
 簡単にお化粧をして外出用の服を着てしまうと、シュンイチの気が変わってはいけないと思い、そそくさと出掛ける支度をする。
 いつもならお弁当を作って行くのだけど、会社には風邪を引いて休むと説明してあるので、今日はまだ作れなかったという方が自然だろう。それに炊飯器のセットもしていないので、お弁当にするご飯も無い。
 昨夜食べきれずに残っていたふた切れのピザをレンジで温めて、シュンイチと一つずつ分けて食べる。
「冷凍食品のハンバーグとかあるから、面倒臭いかもしれないけど、お昼とかお腹が空いたらレンジで温めて食べといてね、夜は買い物して帰って来るから、何か作ってあげるからね」
 忙しく温めたピザの切れ端を食べる亜希子を、シュンイチは不安そうに見つめている。
「本当にちゃんと帰って来てくれる?」
「うん、大丈夫だよ」
「本当に帰って来てよ、約束だよ」
「うん……」
 亜希子の言葉を本当に信じて良いのかどうか、迷っている様子だった。
「もし誰かドアをノックする人がいても、知らんぷりしてればいいんだからね」
 出来るだけシュンイチに喋る間を与えない様に、あれこれ自分で喋りながら、身支度を整えると靴を履きにかかる。
「待ってるからね。早く帰って来てね」
 ドアを開け、すぐそこにある開放された空気に引かれる思いを感じながら、もう一度振り返ると、シュンイチはまるで捨てられるのが分かっている犬みたいな顔をしている。
「僕待ってるから……」
「……うん。大丈夫だよ。それじゃ、行って来るからね」
 最後まで精一杯に普通を装って、部屋の外へ出る。パタンとドアを閉めると、震える手を押さえながら鍵を掛けて歩き出す。
 ブロック塀の囲みを抜けて、アパートの敷地を出る。
 外を歩くのは2日振りだった。まだシュンイチに殴られたり蹴られたりしたところが痛くって、よろけて歩き方が不自然になってしまうけど、亜希子はちゃんと自分の足で歩いている。
 見ると眩しい程の青空に白い雲が幾つも浮かんでいる。5月の終りの清々しい空気を胸一杯に吸い込む。

「ああ、やっと外へ出られた!」

 少しフラフラしながらも駅への道を歩き出す。一体この3日間は何だったのかと思う。
 路地から広い道へと出る角を曲がる。途端にいつもの日常が戻って来る。
 もう戻れないかもしれないと思っていた日常に、瞬時にして戻っていることが不思議でならない。全てが夢だったんだろうか。
 とにかく隆夫に電話しなくちゃ。と思い、バックから携帯電話を出して登録ダイヤルから隆夫のナンバーへ発信する。
 別れて以来一度も電話したことなんか無かったけれど、こんな緊急事態なのだから、隆夫もきっと電話するのも仕方がないと思ってくれるだろう。
 呼び出し音が続いているが、相手が出る気配は無い、留守電にも切り替わらない。
 ふと通り過ぎる角の奥に止まっているパトカーが見える。
 携帯を切って駅へ向う方向を変え、角を曲がってパトカーが止まっている方へと近付く。
 月曜の夜帰って来た時に沢山のパトカーが止まっていた場所だ。やっぱりここで何かあったんだ……。
 パトカーには誰も乗っていない様だった。辺りを見たが、警察官の姿は無い。
 ふと気が付くと、元の通りをいつもこの辺ですれ違う疲れたサラリーマン風のおじさんが、タバコを吹かしながら通って行く。
 なんだか懐かしい……あのおじさんも、元気で頑張っていたのかな。
 元の道へ戻り、少しフラフラしながらも、また駅へ向って歩いて行く。
 この3日間の疲労が亜希子の意識を半ば朦朧とさせている。シュンイチとの約束は助かりたい一心で無意識に言ったことなのか、自分では嘘を付いたつもりもない。ただ、いつもの様に会社に行かなければならないと思っている。
 信号機のある車道を渡り、農大通り商店街に入る。
 いつもならこの辺で自転車に乗った……あ、来た来た。思わず微笑んでしまう。言葉を交わしたことは無いけれど、きっとお互い面識のあることは分かっている。前に取り付けた子供用の椅子に男の子を乗せて自転車を漕いで行くお母さん。
 一瞬だがチラリと合った目が亜希子に向って『あら、ここ2日ばかり見なかったけど、久し振りね』と言っている「どうも、ちょっと信じられないことがありまして……」と心の中で答える。
 まるで今朝までのことも、そしてこの瞬間も、まだ夢の中にいる様な気がする。駅へと向う通勤者たちの流れが徐々に増えて来る。
 いつもの様にいつもの駅へ歩いてる。シュンイチ君が私のことを信じてくれたお陰で。いつもの様に電車に乗っていつもの様に会社へ行って、いつもの一日が始まるんだ……。
 商店街も終りに近付き、更に通勤者たちの数も増えて来ると、自然と亜希子の足も流れに乗り遅れまいと早足になる。
 駅へと続く階段を雪崩れ落ちて行く人の群れに、押し流される様に亜希子も急ぐ。
 隆夫が家に泊まった次の日は、同伴出勤して、人ごみの中で離れない様に手を繋いで階段を降りたっけ……。
 入り口の脇にある交番を通り過ぎ、改札へ向う階段を亜希子も早足に降り初めている。
 亜希子の足はスタスタと改札を抜けて、人の群れに揉まれてホームへと上って行く。
 経堂の駅は高架になっており、ホームから街並を見るとまるで高台から見下ろしている様な感覚だった。仕事を休んだのはたったの2日だったけど、この景色を見るのはずい分久し振りの様な気がする。
 ホームのいつもの場所に並ぶと、いつも先に来て待っている長身のカッコ良いキャリアOL風のお姉さんがいる。7時51分発の新宿行き、いつもの時間。
 いつもの混雑した電車がホームに滑り込んで来る。そこへさらにホーム一杯の人が押入って電車の中がギュウギュウになる。いつもと同じ。
 でも今日は鞄にお弁当が入って無いから、気にしなくていいから楽だ。バックの中から3日前に中断していた読みかけの文庫本を出し、読もうとする。
 ギュウギュウの通勤客たちの隙間から、窓の外を電車の揺れと共に街が流れて行くのが見える。

 僕待ってるから……

 不安そうに亜希子を見送ったシュンイチの顔が浮かんで来る。
 本当にシュンイチ君は母親を刺すだなんて恐ろしいことをしたんだろうか、でもそれにはきっと何かどうしようも無い理由があったのではないだろうか。
 毎日の様にテレビで報道される似たような高校生の起こした事件を見ると、どれも少年を取り巻く環境にそこまで少年を追い込む悪い原因があったことが報じられている。
 シュンイチ君には何があったのか、亜希子はまだあの少年がしたことの内容をまるで知らない。
 会社へ行ってインターネットで調べれば、何か事件についての情報が出ているかもしれない。
 いつもの様に代々木上原駅で反対側のホームに待っている千代田線に乗り換える。そして更に表参道駅で銀座線に乗り換える。
 隆夫と一緒に会社へ行った時は、乗り換えに歩く時も手を繋いで、周りの人に仲の良い同伴出勤を見せ付けてるみたいな気がしてた。
 通勤ラッシュも好きな人と一緒だとあんなに楽しかったのに、一人でいるとこんなにも苦痛だなんて。
 
 無言のままゾロゾロと急ぎ足に歩く牛の群れの様な群集に紛れながら、いつもの煩わしい乗り換えを繰り返す。そうしていると自分の存在の気薄さが一層感じられて、惨めになって来る。
 日本橋駅に着いて8時31分。いつもと数分の誤差もなく、いつも通りの出口を出て、ビルの建ち並ぶオフィス街を歩き、会社へ向う。
 亜希子の勤める会社は北田建築資材販売株式会社と言い、日本で有数の大手商社である北田商事の系列会社であり、主に鉄鋼系の建築資材や特種建材を扱っている。
 その中で亜希子の勤めている部署は住宅建築資材部、略して住健部と言って、文字通り個人住宅用の建築資材を扱っている部署だ。
 自分のオフィスのあるビルへと向いながら、ふと角の向こうにある別のオフィスビルを見上げる。そのビルには大規模建築資材部(大建部)があって、隆夫がそこに勤めている。
 住建部の入っているビルはもうかなり古い建物だが、大建部のあるそのビルは、まだピカピカで新しく、ずっと大きい。亜希子のいるビルとはほんの数十メートルしか離れていないのに、この距離が隆夫との間を隔てるきっかけになってしまった。
 去年の秋に隆夫は社の花形部門である大建部へ異動になった。
 大建部は住建部が扱う個人住宅とは比較にならない規模の大きな、体育館とか公会堂の様な、国からの受注を受けて建設する巨大な建築物の事業に携わっている。北田建築資材販売株式会社の主軸を成す部署だ。
 そこに異動になったということは、今後の出世を約束されたということであり、教育熱心だった隆夫の両親にしてみれば、きっと息子の優秀さが認められたと喜んでいるだろう。
 だけど、会社人間としての隆夫をここまで育てたのは私なのよ。と亜希子は言いたい。
 隆夫が住建部にいた間に、社内での裏の人間関係から取り引き業者たちとの利権が絡む本音と建て前まで、あれこれ教えてあげたのは私なのだ。隆夫は仕事のことから私生活に至るまで私に甘えて、頼りにしていた。
 そして真面目だけが取柄と言う感じで大人しい性格だったのが、私と付き合う様になってから、徐々に自信を持つ様になった。
 異動してからの隆夫は更にエリート意識に目覚めて、年上で常にリードしているつもりだった亜希子への態度も偉そうなことを言う様になった。でもそれは隆夫が逞しく成長しているということなので、亜希子にしてみれば嬉しく、また頼もしく眺めていた。
 花形部門でバリバリ仕事をこなせる様になれば、隆夫はもっと成長して行くだろう。課長、部長と出世して行く隆夫を、亜希子は見たいと思う。
 だが実は今回の異動は隆夫の能力が評価されたと言うよりは、大建部の川原部長が、自分と同じ大学の後輩である隆夫を加えることで、自分の派閥を広げるのが目的だったのだろう。というのが社内の風評だった。
 勤勉で真面目な隆夫は決して上司に逆らったりしないから、川原部長としては派閥に加えるのに適していると考えたのだろう。
 でもそんな噂なんてどうだって良い。これから隆夫が頑張って、誰からも文句なく認められる様な結果を出して行けば良いのだから。頑張って欲しい……。
 そんなことを思いながら、亜希子は隆夫の勤めるビルに向かって歩いて行く社員たちの姿を見ている。
 ここで出社して来る隆夫に会えないだろうか……バックからもう一度携帯を出して隆夫のナンバーへ発信する。
 この月曜からの三日間の出来事を、隆夫に聞いて欲しい。シュンイチ君には誰にも言わないって言ったけど、どうしても隆夫にだけは聞いて欲しい。私がどんな目にあったのか、どんなに恐かったのか……。そして、相談に乗って欲しい。これから私はどうしたらいいのかを。
 呼び出し音が続いているけれど繋がらない。ああ、どうして出てくれないんだろう。
 隆夫の姿も見つからない。似ている体格の人を見つける度にアッと思うけど、よく見るとどの人も違う。
「あら倉田さん、お早う~今日は大丈夫なの?」
 後ろから声を掛けられてビクッとして振り返ると、出社して来た小石さんだった。
「あ、どうも、お早うございます。どうもすみませんでした。ご迷惑お掛けしちゃって」
 と言いながら携帯を切ってバックに戻し、さり気なく住建部のあるビルの方へ歩き出す。
「心配したわよ、倉田さんが風邪で2日も休むなんてこと一度も無かったからね、何か大事にならなきゃ良いって皆で言ってたのよ」
「はぁ、どうも、すいませんでした。月末なのに休んでしまって」
 私がここで立ち止まって何をしてたのか突っ込まれたらどうしようと思ったけど、小石さんは何も言わない。でも内心では私が隆夫を探してたことを察しているのかもしれない。
 適当に会話を交わしながら、住建部のあるオフィスビルの入り口へと向かう。

 住建部はそのビルの6階にある。社員は全部で31人。今ではそのうちの半数が若い派遣社員で占められている。派遣社員なんて制度の無かった頃は年配の男性社員が殆どだったのに、リストラと言う言葉が流行り始めてから、正社員の数はどんどん減って行った。
 亜希子もそのうち辞めさせられるのではないかと恐れを抱いていたけれど、年功と共に給料が上がって行く男性社員とは違い、いつまでも低賃金で小間使いの様な仕事をする女子社員は、リストラの相手にすらされていないらしかった。
 亜希子は入社17年目のベテランだけど、ベテランと言ってもしている仕事は殆ど一日中パソコンの画面に向ってキーを打つだけ。
 注文書の打ち込み~発送の手配~伝票起こし~請求書の発行~という、言わば画面上の流れ作業をしているだけだ。
 男性の正社員は建築家の設計プランから関わって家を建てる為の資材を選択し、工事現場にも立ち合って、完成まで見届ける。
 女子の仕事はパソコン上の流通を担うだけなので、商品の流れは分かっていても、現物を目にすることは無いので具体的な仕事をしている実感は無い。
 サイディング(外装資材)床板・壁・天井板。それにシステムバスやキッチン等の設備も扱っているが、変わった名前の付いた鉄のパイプやボルト等、画面上で品名を知ってはいても、何に使っているのかも分からない物もある。
 支払いや請求の締め日が迫る月末は忙しいけれど、あとは大体同じ様な一日が過ぎる。
 亜希子がやっている様な仕事は、若い派遣社員でも要領を覚えれば容易にこなせるだろう。
 むしろ若い人の方がずっと迅速に処理出来るのではないか。会社がそんな考えになれば自分も辞めさせられるのではないかと思い、亜希子は事務的な仕事以外にも、お茶汲みから雑用までどんなことでも文句を言わずにこなした。そうして少しでも会社にとって自分は必要な人材なのだということをアピールする様に心がけている。
 職場での亜希子には静かで物分りのいい人……というイメージが定着している。若い人みたいに希望とか野心を抱いても、もう何も無いのだから、これからは大人しく、ただ安定した生活の為に、嫌なことがあっても我慢して、目立たぬ様に、でも与えられた仕事はちゃんとこなせる人として、ここにいさせて貰うようにしよう。
 それより他に生きて行く方法は無いのだから、と自分なりに割り切ってやって来た結果が、亜希子に対して周りが感じているそうした印象なのだろうと思う。
 コレが私の人生なんだ……小さい頃夢見ていた。コレが私の将来なんだ。特に何になりたいとか具体的な夢を抱いていた訳ではない、だからいけなかったのかもしれないけど。けどきっと将来には何か待っている様な気がしてた、何の根拠もなく期待していた。
 そして今では何の資格も特技も無い、パソコンを叩く以外何も出来ないただのオバサンになってしまった。
ある日私がいなくなったとしても、代わりの人は幾らでもいる。この会社にいる限り生活は安定していても、これ以上出世することも給料が上がることも無い。

 エレベーターで6階のフロアーへ到着するとロッカールームへ入り、制服に着替える為に自分のロッカーを開く。小石さんのロッカーは奥の方にある。
「本当にどうもすいませんでした。月末なのに休んでしまって」
「いいのよそんなことは、それよりもうすっかり大丈夫なの?」
「はい、お蔭さまで、只の風邪でしたので」
「今日は大事にしてなさいよ、もし具合が悪くなったらすぐ言ってね」
「はい、ありがとうございます」
 小石さんは私のことを思い遣ってくれている様だけど、本当は普段あまり会話の弾まない私が愛想良く言葉を返すことが嬉しいのか、ちょっと楽しそうな感じがする。
 私としては忙しい時期に二日も休んでしまった後ろめたさもあったし、また仮病がバレてはいけないと思ったので、あまり媚び過ぎない様にと気を付けながらも、なるべく愛想良くしていなくちゃと思う。
「あら? あれっ、何よそれ! どうしたの?」
 スカートを脱いだ私を見て、急に小石さんが大きな声を上げる。
何だろうと思って自分の身体を見ると、ブラウスとパンツの間から覗いた腰の脇に、大きく紫色の痣が出来ている。俊一に蹴られた時のものだ。アッと思って慌てて隠す。
「あ、コレ家でちょっと、転んじゃって、フラフラしてたもんだから」
「本当? ぶつけたの? まぁ~酷いじゃないのそれ、誰かに殴られたみたいじゃないの」
 ドキリとする。
「あの、大丈夫ですから」
「ダメよこれ、湿布でもしとかなきゃ、ちょっと救急箱持ってくるわよ」
「あの、ホントに、大丈夫ですから、もうホントに……」
 と小石さんの手を振り退けて、そそくさと着替えを終えてロッカールームを出る。
 
タイムカードを押してオフィスへ入る。
「お早うございます~」と努めて明るい調子で言いながら、自分のデスクに向かう。
 隣の席の淵松絵美子さんが、朝食の菓子パンをコンビニの袋から出して食べているところだった。
「あら倉田さん大丈夫~?」と口をモグモグさせながら言う。
「はい、すいませんでした。今日は大丈夫ですので……」
 と答えながら自分のデスクに置かれているメモや届けられている書類を確認する。
 その中に宛名も差出人も書かれていない封筒が混じっているのに気が付いた。中に何か入っているのか、少し膨らんでいる。
 蓋も貼られていないので中を見ると、鍵が一本入っている。
 ハッと思って絵美子さんに見られない様に気を付けながら、そっと掌に出してみる。
 それは亜希子のアパートの合鍵だった。隆夫が持っていた筈の……。
 私が休んでいたこの二日間のうちのどちらかに隆夫が訪ねて来て、ここの誰かに言付けて行ったんだろうか。
 でもこれを渡された人は私と隆夫との事情を知っているから、気を遣ってさり気無く他の郵便物と一緒にしておいてくれたのだろうか。
 ショックを感じながら鍵をポケットに入れると、何も気にしていない様にパソコンを立ち上げる。
 休んでいた間に来たメールと、建設会社や工務店からの注文をチェックするのだが、気持ちが動揺してるせいで、なかなか頭に入って来ない。
 隆夫が来たのなら、私が風邪で休んでいることも伝わっていたのではないか……。
「倉田さん、お早うございます」
 振り向くと課長の牧が間近に立っている。
「大丈夫? 心配したけど、ああ、顔色良さそうだね」
 と顔を近づけて来るのを我慢しながら「はい、もう大丈夫ですので」と引きつる微笑みを浮かべて答える。
 牧は何気なく亜希子の座っている椅子に手を掛けながらパソコンを見る。椅子に置かれた牧の手に身体が触れるのが嫌だ。
「注文見といたけど急ぎの納期の物は無かったから、まぁボチボチやってよ、良かったら何か栄養のある物でも御馳走するからね」
「はぁ……」結構です! と言いたいけど口には出さない。
 仕事を始めると他の社員たちもザワザワし始めて、以前と同じオフィスの日常が戻って来る。そう、これが私の日常なんだ。まるで何事も無かった様だ。
 それはそうだ。何かあったのは私だけで、ここでは何事も無かったのだから。ほんの2日間私が風邪で休んだことなんて、会社からみればほんの一粒のチリが落ちたくらいのことでしかない。
 モニターを見て溜まった受注を処理しているフリをしながら、密かにインターネットに接続して新聞社の報道サイトを立ち上げて見る。
 幾つか掲示されている事件の中からすぐにその見出しが目に飛び込んで来る。
 
『世田谷区で起きた高校生の母親刺殺事件』

 ……刺殺!
 記事の内容を読む……

『世田谷区で高校二年生の少年が母親を包丁で刺して逃亡するという事件が起きた。少年の行方は未だに分かっておらず、警察による捜索が続いている。事件は26日の夜父親が帰宅したところ、妻が室内で血を流して倒れているのを発見。直ちに通報し、病院へ運ばれたが、母親は昨日病院で死亡が確認された……』

 26日の夜……やっぱり月曜日だ。その画面には記事と一緒に事件のあった家の写真が載せられている。詳しい住所は伏せられているけれど、その家は亜希子のアパートの近くの、今朝もパトカーが止まっていたあの家に間違いない。
両脚から小刻みに震えが上がってくる。殺人……母親を刺殺……サイトに踊る文字が改めて恐ろしい事実を突き付けて来る。
 そうだ。あの子は人殺しなんだ。あんな可愛い顔をしていても、あの子が人を殺したということは事実なんだ。しかも自分の母親を。私だって約束を守って帰らないと、裏切られたと思って恨んで殺そうとするんじゃないだろうか……。
 最初の夜、正体の分からなかったシュンイチに縛られて、殴られたり蹴られたりした時の恐怖が蘇ってくる。
 自分のお母さんを殺すなんて、一体何があったというんだろう。警察は父親から詳しい事情を聞いているという……。
 事件に関する記載はそれだけだった。事件が起きた時に実際にどんなことがあったのかまでは書かれていない。
 被害者は意識が戻らないまま亡くなってしまったし、目撃者もいないので、事件が起きた時の状況は誰にも分からないということなのだろう。逃亡中である少年が見つからない限り……。
 刺されたお母さんは昨日病院で亡くなったと書いてある。昨日亡くなったということは、昨日までは生きていたということなんだろうか。昨日シュンイチがテレビで何かの報道を見て暗く落ち込んだ表情になっていたことが思い出される。アレはきっとお母さんが息を引き取ったことを知って、ショックを受けていたんじゃないだろうか。

 昼休みになった。今日はお弁当が無いので外に買いに出る。コンビニでふたつ入りのオニギリと、カップにお湯を注ぐだけの味噌汁を買って来る。
会議室に行くと、他の社員たちがそれぞれ自前の弁当や買って来た物を食べている。いつも通りの風景を見ていると、月曜の夜からの出来事が本当に夢だったのではないかという気がしてくる。
 今日家へ帰ったら、シュンイチ君はいなくて、割れたガラスも元に戻っているかもしれない。そもそも何も無かったのだと言われても、ああやっぱり夢だったのかと納得出来そうな気がする。
何処に座って食べようかと見回すと、他の人たちとは少し離れて、例の派遣の安高君と木村由さんが仲良く一緒に食べている。
 ……なんだ。安高君ったら『僕が正社員じゃないせいで相手にされない』なんて言ってた癖に、結局は上手く行ってるのかな……。
 等と思いながら見ていると、後から入って来た小石さんが私を見て、近くに来たそうな感じだったので、そそくさと奥の窓際に行って、角の椅子に座る。
 誰にも話しかけられたくない。仲好さそうに食べている安高君と木村さんを少しやっかむ様な気分になりながら、そ知らぬ顔をしてオニギリを食べる。
 さっき買い物に出た時、もう一度隆夫に電話してみようと思っていたのだけれど、結局電話しなかった。封筒に入っていた鍵のことが気になっている……。
 宛名も差出人も、何も書かれていなかった封筒。ただ鍵だけが入っていて、メモも付箋も貼られていなかった……。
 近くの席で絵美子さんが、既に食べ終わったコンビニ弁当の残骸をテーブルに並べたまま、食後の肉マンを頬張って週刊誌のグラビアを見ている。
「倉田さん、昨日行って来たのよ東京ドームのコンサート、やっぱり光一最高だったわ、私デビューした時からずっと目を付けてたのよ、この子はきっと大きくなるってね」
「そうですか、凄いですね」
 気を付けたつもりだったけど、ちょっと突き放す様な口調になってしまった。
 絵美子さんはちょっと私の顔を見ると、また週刊誌に目を落として、話し掛けて来なくなった。
 よく「女の腐ったの」って言い方をする。私は腐るもんか、って思うけど。どんな果物でも食べずに時が経てばやがて熟れ過ぎて、腐ってしまう様に、女だって生ものだから、何処かで腐って行くのかもしれない。
 隆夫は今33歳。男の33歳はまだこれから頑張って社会的地位を築いて行く歳だけど、独身で社会的地位もない女の38歳は厳しい状況に追い込まれてる。
 でも私は捨てられたのだとしても、隆夫を恨む気持なんかない。だって本当に貴方を愛していたんだもの。私を踏み付けにするなら喜んで踏み台になる、あの気の弱かった隆夫が強くなって、花形部門でバリバリ活躍して行くことの方が私にはずっと嬉しい。そして自分に悔いの無い人生を過ごして行って欲しいと思う。 
 そんなこと口に出して言えば、きっと負け惜しみに聞こえるだろうから言わないけど。私は本当にそう思ってる。そうとでも思わなければ自分が救われないからかもしれないけど、私はそんなことはないと信じてる。
 だってそれが本当の私なんだもの、きっと……。
 ふと窓の外を見ると、連なるビルに挟まれた大通りを自動車や人々が絶え間なく行き交っている。遠く車道に交差した線路の上を電車が走ってる。あれにも大勢の人が乗っていて、それぞれに抱えた問題とか、恋愛とか、いろんなことを思っているんだろうな……。
 見るともなく見ているうちに気が付くと、隆夫のいる大建部のあるピカピカのビルに目を止めている。
 思えばお母さんも、酔っ払って荒れたり、会社で嫌なことがあるとウジウジいじけてたりするお父さんのことを、いつも支えて上げて、頑張るべき時には叱咤してお尻を叩いてあげていた。だから家ではあんなに頼りなかったお父さんでも、立派に地方銀行の副支店長と言う役職を務めることが出来たんだ。そんなお母さんのDNAが、私にも受け継がれてるんだきっと。
 そんなことをとりとめも無く考えているうちに、お昼の時間が終り、皆が仕事に戻り始める。
 亜希子もゴミを片付けて席を立とうとしていると、タイミングを見計らった様に小石さんが側へ寄って来る。
「ねぇ倉田さん」
「はい」
「具合はどう?」
「はい、大丈夫ですので、ありがとうございます」
 良い人なのだけれど、何かと訳知り顔で近付いて来ようとするところに、少しイラッとした感情を抱いてしまう。
「あ、そうそう昨日浜下君が大建部から来てね、倉田さんにって言付かった封筒置いといたんだけど」
「はい、受け取りました」
「そう」
「どうもすいませんでした」
 まだ何か言いたそうに見ている小石さんを振り切って行こうとするが、ふと亜希子は振り返る。
「あの、小石さん」
「えっ? なあに?」
「あの、浜下君は、いきなり訪ねて来て封筒を渡して行ったんですか?」
「えっ? ああ……」
 小石さんはちょと考える表情を浮かべる。
「いぇね、最初に電話があってね、それは業務連絡だったんだけど、その時貴方が珍しく風邪で休んでるって話をしたのよ、そしたら、その後しばらくしてから来て、あの封筒を倉田さんに渡して下さいって預けて行ったの」
「そうですか、ありがとうございました」
 小石さんを残して会議室を出る。
 隆夫は私が風邪で会社を休んでいることを知っていて、鍵を返しに来たんだ。
 隆夫は見舞いに来てくれなかったし、電話もしてくれなかった……。
 でもそんなこと当たり前じゃないか。別れた男に私は何を望んでいるというのだろう。
 そうだ、隆夫には若いフィアンセがいるんだから、風邪を引いて休んでるからといって、前に付き合ってた女に連絡を取るなんてことをする訳が無い。
 隆夫ったら私と付き合ってた頃はあんなに頼りなかったのに、栄転して少しは大人のルールもわきまえられる様になったのね……。

 午後になった。溜まっていた受注品の発注と、業者へ発送する請求書の準備も大方追いついて、少し落ち着いてお茶を飲む余裕も出来た。
 まるで何事も無かった様に以前と変わらない一日が過ぎて行く。それに連れて亜希子の頭の中も冷静に考えることが出来る様になって来ている。
 誰にも言わないと約束したからシュンイチ君は私を会社へ行かせてくれた。
 でも、隆夫にだけは話そうと思った……。どうしたらいい? 私が警察に連絡すれば、家に来てシュンイチ君を逮捕してくれるだろう。
 シュンイチは本当に私が誰にも言わずに帰って来るなんて信じているんだろうか。もう今頃はアパートを出て何処かへ逃げて行ってしまっているのかもしれない。
 でも……もし本当に待っていたら、もし本当に約束通りシュンイチ君が私の帰りを待っていて、そこへ警察官を連れた私が帰って来たりしたら、シュンイチは私に何て言うだろう。
「信じて待ってたのに! 裏切ったな、裏切り者!」
警察官たちが私の部屋に土足のまま雪崩れ込んで、泣き喚くシュンイチを羽交い絞めにして引き摺り出して行くんだろうか。
「信じてたのに! 信じてたのに!」
 お母さんを刺してしまうなんて、何か余程の事情があったのかもしれない、誰にも相談出来ずに悩んでいたのかもしれない、それが私のことをうっかり信じてしまったばっかりに、捕まることになってしまったら、裏切られたと思ったら……私のことを恨んで、それこそもう誰のことも信じることが出来ない人間になってしまうのではないだろうか。
未成年の犯した犯罪というのは、例え殺人であっても普通の刑務所には入らずに、少年院と言うところに入れられる筈だ。
 少年院では刑務所の様にただ閉じ込めて労働させるというのではなく、社会に更生出来る様に専属の教官がついて教育するのだと聞いたことがある。
 後から恨まれたらと思うと恐いけど、でもあの子をこのまま私の家にいさせてあげたとしても、私なんかに何がしてやれるっていうんだ。そうだ、警察の人に頼んで少年院に入れて貰って、社会に更生出来る様にして貰った方がずっと本人の為になるに違いない。
でも……もし本当に私のことを信じて待っているのだとしたら。あの部屋に警官が駆け込んで来て、泣き喚くシュンイチを乱暴に引き連れて行く様を見るのは嫌な気がする。
 そりゃ身動きも出来ない程ギュウギュに縛られて、あんなに酷く殴られて、痣になる程蹴飛ばされたりもしたけれど、亜希子の手を握ったまま『魘されてたら起こしてよ……』と言って目を閉じたシュンイチの顔が思い出される。

 5時になり、周りもそわそわし始めて、仕事を切り上げて帰る算段をし始める。亜希子はパソコンでもう一度事件について報じられているサイトを開いて見る。
 事件の続報が入っている。それは殺された母親の夫、つまりシュンイチの父親の証言だった。

『……殺された母親は普段から少年の教育に厳し過ぎる程熱心に当たっており。少しでも成績が落ちると酷い折檻をしていたという。
 事件の起きた日は少年の通う高校で父母会があり、一学期の中間テストの成績表が父母たちに渡された。父親は母親が学校から渡されたテストの成績について、帰宅してから少年との間で諍いがあったのではないかと証言している。父親は大学病院に勤める内科医であり、母親も元は同病院に勤める医師であった……』

教育熱心が高じて? シュンイチ君のお母さんは自分を殺す程に子供に憎しみを抱かせてしまったというのだろうか……何という悲劇だろう。
「倉田さん。どう調子は?」
 ハッとして画面を切り換える。牧課長が笑顔を向けて後から話し掛けている。
「はい、大丈夫です」
「そう……」
 牧はちょっと周りを気にする様に見回してから、小さな声で話しかける。
「それじゃどう、病み上がりになにか栄養付けて、元気になる為だったら俺喜んで御馳走するからさ」
「はぁ」
「元々完全に健康な身体じゃないだろう。少し精付けた方が良いと思うよ」
「すいません。でも今日は、やっぱり真っ直ぐ帰って、大人しくしてた方が良いと思いますので……」
 と言い、なるべく屈託の無いように笑顔を浮かべる。
「そう、それじゃもう少し様子を見てからだね、どっちにしても身体を一番に大切にしなきゃね」
 聞いてるこっちが恥かしくなる様な優しい言葉を振り撒いて、今日は諦めたのか離れて行った。
 牧の言葉が引っ掛かっている「完全に健康な身体じゃないだろう……」。
 12年前に府中駅で倒れた時の件で、私が子供の出来ない身体になっていることを牧課長は知っている。
 さり気無く私の身体を気遣ったつもりなのだろうけど、その一言で自分でも気にしていなかったことを穿り返されて、どれだけ感情を乱されているのかを、あの人には分かる筈も無いのだろう。
 定時の5分前になったので、パソコンを切り、デスクの上を片付けて、帰りの支度をする。
 5時半にチャイムが鳴るとロッカールームへと急ぐ。
 制服のポケットに入れたままになっていた合鍵を出して、バックへ入れる。
 私が風邪で休んでいることを知って、それから鍵を返しに来た。私と顔を合わせずに、鍵を返せる良い機会だったから……。
 隆夫が亜希子に別れ話を持ち出して来た時、隆夫はポロポロ涙を流して泣いた。
「ごめんね、でも僕、あの子のことが凄く好きになっちゃったんだよ」それでも32歳の男か! と思ってしまったけど、それが隆夫なのだった。
 隆夫の涙はきっと、私に対して悪いと言うよりは、そんな悲劇の状況に陥ってしまった自分に酔っている様に見えた。
「あの子は弱いから、僕が守ってやらなくちゃダメなんだよ」その言葉「守ってあげたい」は私が付き合い始めた頃隆夫に対して持っていた感情だった。
 あの頼りなくて可愛かった隆夫が年下の女と付き合うことが出来るなんて思えない。しかも7歳も年下だなんて。私が面倒を看てあげなきゃ何も出来なかった癖に……。
 ひとしきり涙の別れ話を快く? 受け入れてあげた後、私は何の気なしのフリをして聞いてみた「何で私じゃダメだったんだろうねぇ~」って、そうしたら隆夫はこう言った「亜希子は何を言っても優しいだけで、張り合いが無いんだよ」って。私にその優しさを求めたのは貴方じゃなかったのか!。
 そっちにとっては他に好きな人が出来たから終わらせれば良いということなのかもしれないけど、私にはまた他に好きな人を探せば良いという程余裕は無い。何も考えずにそんな言葉を口にする隆夫が許せなかった。
 あの時惨めに「捨てないで」と形振り構わず縋り付いていれば……と思わないこともないけれど、そうなればもっと悲惨な別れ方をして傷ついたと思う。けどあれで本当に良かったのか、私はプライドを捨てることが出来なかったのか……。

いつもの様にそそくさとビルを出て、いつもの様に夕暮れの中を、帰宅を急ぐ他の会社員たちと共に駅へ向う。
 日本橋駅から地下鉄銀座線に乗り、表参道駅で千代田線に乗り換える。そして代々木上原駅からは地上へ出て、小田急線で経堂へ向う。
 電車の窓の闇の中に家の灯りがぽつぽつと浮かぶのを見つめていたら、ふとそこに他の乗客に紛れて自分の顔が映っているのに気が付いた。
 近頃は鏡を見ると愕然としてしまう。もう一生取れない染みや皺がどんどん増えて行く、顔全体が徐々にだけれど確実に枯れて萎びて行っているのが分かる。もうここから若返ることは無いんだ。コレがもっと進行して行くだけなんだ。40歳を前にした女にはもう後が無い。隆夫にはこんな私の心を思いやる余裕はきっと微塵も無いのだろうと思う。

 いつもの様に帰って来た。まるで何事も無かった様に……。
 これで家に帰った時、誰もいなくなっていれば、もう本当に何の変哲もない、いつもの日常だ。もしかして割れたガラスも元通りになってたりして……。
 そしたら私は思うだろう。あの出来事は幻だったのだろうって、そして何の問題もなく、また寸分違わぬ生活に戻るのだ。ひとりぼっちの詰まらない、取るに足りない人生に。
つらつらと思いながら、駅を出た亜希子はいつもの様に商店街を回って買い物をする。
えっと、今日はカレーを作るから、ニンジンと、ジャガイモと……お肉は奮発して牛肉にするかな、あの子はいっぱい食べるから300グラムくらい買っていこうかな。
 一緒に食べるサラダのことも考えて、レタスやトマトまで買ったので、いつになく両手に提げた買い物袋が膨らんで重くなる。
商店街を抜けて信号を渡り、アパートへと続く住宅街を歩く……。
 駅前にある交番はまるで存在しなかったかの様に、亜希子の視界に入らなかった。
 一体何をしてるんだろう。あの子との約束を守って、二人分のカレーの材料を買って帰ろうとしている。
本当にあの子の為を思うなら、警察に捕まって少年院に入り、犯してしまった罪を反省して、更生出来る様に指導して貰う方が良いに決まってるじゃないか。
 ……だけど、その為に私があの子に恨まれてしまったらと思うと恐い。いや私の気持ちはそれだけではないという気もする。
 出来ることなら私に話して欲しい。どうしてお母さんを刺してしまったのかを。
 教育熱心だったというお母さんは、本当にそんなに酷いお母さんだったのだろうか。シュンイチ君は本当はどんな気持ちでいたのか。刺してしまったお母さんのことを今はどう思ってるのか、私を信じてくれたのなら、本当のことを話して欲しい。
 そして私はこれからの彼の為に、自分から罪を反省して警察に出頭して行ける様に諭して、勇気付けてあげたい。そしたら私は一緒に警察署まで付き添って行ってあげる。

建ち並ぶ高級住宅地の中を歩いて、もうすぐアパートに着いてしまう。
 でもきっと、もうあの少年はいないかもしれない。幾らなんでも、あんなに酷いことをされた私が、本当に約束を守って誰にも言わずに帰って来るなんて、本気で信じているとは思えない。いくら17歳の高校生といったって、そこまでバカじゃないんじゃないだろうか。
 もし本当に部屋からいなくなっていたら、それならそれで、私は約束を破らなかったし、また普通に元の生活に戻れるだけなんだ。
 いよいよアパートに続く路地に近付くと、まだ同じ場所にパトカーが止まっている。
 もしかしたらシュンイチ君はもう捕まって連行されてしまってるんじゃないか……。
心配になって自然と急ぎ足になり、狭い路地を抜けて、ブロック塀に囲まれたアパートの敷地に入る。
 部屋の電気は点いてない。誰か訪ねて来た時の用心に消してるんだろうか、ノブをひねると鍵は掛かったままだ。
鍵を開けて中へ入る「ただいま」と声をかけてみる。暗い六畳間から返事は返って来ない。
 台所の床に買い物袋を置いて、六畳間に入って電気を点ける。
 パチパチッと明滅して部屋が明るくなる。
 部屋の隅に敷かれた座布団の上で、蹲る様にして寝ているシュンイチがいる。
 本当に待ってた……。
気がついたシュンイチは眩しそうに目を開ける。
「もう~遅かったじゃんかよ、お腹空いて死にそうだったんだからな」
「ごめんごめん、今急いで作るから」
 手を洗って部屋着に着替えた亜希子は、急いで夕食の準備に取り掛かった。


第二章 1


 ニンジンとジャガイモの皮を剥いて、一口サイズに切ってフライパンで炒める。牛肉も炒めて一緒に鍋に入れ、水の量を測って茹でる。亜希子は玉ねぎがあまり好きじゃないので入れないことにする。
 カレーを作っている間、シュンイチは六畳間でテレビを見て待っている。
肉と野菜が茹で上がって、カレールウを溶かして煮込み始めると、カレーの臭いが辺りに充満して行く。
「わー美味そうだなぁ~、ねぇ早く喰いたいよ~もう出来てるんでしょ」
「待ってね、よーく煮込んだ方が美味しくなるんだから」
「うう~俺もう飢えて死んじゃいそうだよ」
 カレーを溶かした鍋をお玉でかき回していると、ふとシュンイチのお母さんもこんな風にシュンイチ君にカレーを作って上げたことがあったんだろうか、と思う。
 もし自分にもこんな子供がいたとしたら、きっといろんな料理の作り方を勉強して、毎日でも作って上げるんじゃないかと思う。
亜希子の同級生たちはもう殆どが結婚して子供もいる。皆きっとこんな生活を送っているんだろうな、夫がいて、子供がいて、せっせと作る晩御飯……。
 そんな人生が亜希子にもあったろうか、あったのかもしれない、でも自分でそれ程強くそうなりたいとも思わなかったから、ならなかったのかもしれない。かと言って今の生活がそれ程嫌だという訳でもないけれど。
 今更ながら家庭に入る暮らしってのもそんなに悪く無いのかな……と思う。
 でももう、少なくとも亜希子には子供がいるという暮らしは殆ど不可能なのだけれど。

美味い美味いと言いながらシュンイチは夢中で食べている。
 本当に私が自分のことを誰にも話さずに帰って来たと信じてるんだろうか。まぁ実際そうなんだけれど……。
 それにしてもこんな華奢な身体つきをしているのに、この食べっぷりはどうだ。若いということを思い知らされる。
 私の作ったカレーの味はどうだったんだろう。お母さんの作ってくれたのとは違うのかな……聞いてみたいけど、聞いてみることは出来ない。
 シュンイチは呆れて見ている亜希子を尻目に3杯もお代わりして、4号炊いたジャーのご飯を全部平らげてしまった。
 食べ終わった頃不意に、外で複数の足音が響いたかと思うと、ドアをノックする音が聞こえる。
 ドアを開く音がして、人の声が聞こえて来る。
「夜分にすみません。北沢署の者ですが、ちょっとお伺いしたいことがありまして……」
 ドキリとしてシュンイチと顔を見合わせる。
 その音は隣りの部屋を挟んだもう一つ向こうの部屋から聞こえて来る様だった。
「実は最近この近所で事件がありまして、この少年を探しているんですが、お心当たりはないでしょうか……」
 真青な顔をして亜希子の顔を見ていたシュンイチは、咄嗟に近くに置いてあった包丁を手にする。
 亜希子は押入れを開けて慌ただしく布団を引っ張り出すとシュンイチに言う。
「早く、中に入って」
 シュンイチは窓の方を見ながら逃げようかと迷っていたが、亜希子に従って包丁を手にしたまま押入れの中へ潜り込む。
 押入れの襖をパタンと閉めて、テーブルに乗った二つの皿をどうしようかとオロオロしていると、隣の部屋をノックして「ごめんください」と呼びかけている声が聞こえてくる。
 隣はきっといないだろうから、すぐにこの部屋へ来てしまうだろう。
 二つの皿を流しに運べば玄関から見えてしまうかと思い、テーブルの下に置く。
 その時コンコンとこの部屋のドアをノックする音が響いた。
「こんばんは、夜分にすみません」
「はい……」
 六畳間と台所を隔てるガラス戸を閉めて、玄関のドアを開く。
 二人の男が立っている。少しくたびれた感じだが、二人ともきちんと背広を着た中年で、片手に警察バッチの付いた身分証を呈示している。
「北沢署の者ですが、ちょっとお伺いしたいことがありまして」
「はぁ、な、何でしょうか……」
「実はこの近所で事件がありまして、行方不明になっているこの少年を探しているんですが」
 と亜希子に見せたのは、パスポートや免許証に貼る様な、人物が無表情に正面を向いた証明写真で、そこに写っているのは紛れも無く高校の制服を着たシュンイチの顔だった。
 未成年の犯罪はそれが殺人であったとしても、本人の顔写真がマスコミに流れることはない。でもこうした警察の聞き込みの場合には、やはり本人の写真を持って目撃者を探すのだろう。
亜希子は平静を装っているが、足のふくらはぎの後が両脚ともブルブルと震えている。
「さぁ……見たこと、無いですけど……」
 ぎこちない棒読みの返事だった。顔に血が登るのが分かる。
 刑事さんというのは人の表情や嘘を見抜くプロなのだ。きっと私の不自然な喋り方は嘘を言っていることが見え見えに違いない。 
 表情ひとつ変えずにじっと亜希子を見つめている刑事の目が、全てを察知したと言っている様に見える。
「そうですか? このすぐ近くに住んでいたんですけどね、一度も見たことありませんか」
「は、はい……」
 私は嘘を付いている。でも、今ならまだ、その少年に包丁で脅されていたので、恐ろしくて本当のことが言えませんでした。と言い訳が出来るかもしれない。
「そうですか、それじゃ今度、この少年に似てる人を見かけたらすぐにこちらへ連絡して下さい」
 と言って後にいた方の男が名刺を差し出した。名刺の肩書きには警視庁北沢署捜査一課刑事……と書かれている。
「それではご協力お願いします」
二人は帰って行った。ドアを閉めてもまだ足が震えている。
あの二人は分かってたんじゃないだろうか、私が本当のことを言えないのは、きっと中にいる犯人の少年に脅されていたからだと、そこまで見抜いて帰って行ったんじゃないだろうか、だって私の声が震えてたのが自分でも分かるもの。
 耳を澄ませ、二人の足音が完全に聞こえなくなるまで待つ。
 聞こえなくなっても暫らくドアの前でじっとしている。覗き穴から外を見てみる。誰もいない。
 六畳間に戻り、押入れに向かって「大丈夫だよ」と声を掛ける。返事が無いので襖を開く。
 真青な顔をしたシュンイチが包丁を持ったまま座っている。
「もう行っちゃったから大丈夫だよ」と無理に笑顔を作って言うと、シュンイチは包丁を手放して、そのまま亜希子の方に両手を伸ばし、抱っこをせがむ子供の様にすがり付いて来た。
 腕の力が強過ぎて息が苦しい。亜希子はシュンイチの肩越しに、放り出された包丁の鈍い光を見ている。

ザッパーン……ザザー……シュンイチが風呂に入っている音を聞きながら、亜希子は台所を片付け、明日持って行くお弁当の下ごしらえをする。
 下ごしらえと言っても冷凍保存してあるレトルトのハンバーグを解凍したり、付け合せにする野菜を刻んだりするくらいなのだが。
 この部屋の風呂に他人が入っている。隆夫がいた時を思い出して少しドキドキしている。
 シュンイチが風呂に入ると言った時、目の前で裸になられたらどうしようと思ったけど、シュンイチは下着を着たまま風呂場へ入り、細く開けたドアの隙間から脱いだ下着を放り投げて、パタンとドアを閉めた。
 シュンイチはゆっくりと入浴している。もう自分が風呂に入っている間に亜希子が外へ逃げてしまうという様なことは考えていないのだ。
さっき訪ねて来た二人の刑事がまた戻って来る気配も無い。あの刑事たちは私の言ったことを信用したのだろうか。自分ではあんなにオドオドして、嘘を言っているのがモロ分かりだと思っていたけど、聞いている側からはそれ程怪しい言動には見えなかったのだろうか。何の縁も無い私がシュンイチのことを匿っているとは思わなかったのかもしれない。
 匿う……そうだ。私は警察に嘘を付いて、犯罪者を匿った……。私にはまだシュンイチに包丁で脅されていたので仕方無く嘘を付いたという言い訳が残されているだろうか。
 それは出来るかもしれない。もしシュンイチを引き渡したら後から恨まれて仕返しされるのではないかと思って、恐かったって言えば、言い逃れをすることが出来るかもしれない。
 でも私には分かっている。私は自分の意思で刑事さんに嘘を付いた。殺人事件を起こした犯人を、自分の母親を刺して逃げている犯人を、自分の意思で匿ったんだ。

「ねぇ、出るからタオルちょうだいよ」
 と言う声に我に返り、ドアの隙間からバスタオルを渡し、ワゴンの上にTシャツと短パンを用意してあげて、六畳間に入ると仕切りの戸を閉める。
 出て来たシュンイチと入れ替わりに、亜希子は何日振りかの湯船にゆったりと浸かった。
 シュンイチ君……私のことを本当に信じてくれたのなら、本当のことを、自分の犯した事件のことを包み隠さず話して欲しい……。

 風呂から出ると、シュンイチはすっかりリラックスした様子で寝転んでテレビを見ている。刑事が自分を捜しに来たというのに、私が嘘をついてまで庇い、追い帰してくれたということで、ここにいる限り自分は安全なのだと安心しきっているのか。
 明日からはちゃんとお弁当を作って会社へ行くので、もう寝なければならないと言うと、シュンイチはテレビを消して押入れから布団を出して敷いてくれる。
 一組しかない布団を部屋の真ん中に敷く。そして昨夜までの様に隣に座布団を並べようとはしない。
 どうするのだろうと見ていると、シュンイチは敷いた布団の中に入り、少し横へずれて、私にここへ来て一緒に寝ようと言う。
 躊躇した……私は38歳。シュンイチ君は17歳。
「早く、電気消してこっちに来いよ」
「まさか一緒に寝ないと殺すって言うんじゃないでしょうね?」
 と言って笑いながら、電気を消して布団に入る。シュンイチはまるで子供みたいに亜希子の身体に手を回してすがり付いて来る。
 そうだ……子供なんだ。そう、まるで親戚の子供、私は親戚の叔母さんなんだきっと。
 シュンイチはきっと私のことをそんな風に思っているのだろう。そして今は自分を匿ってくれる唯一の味方。
とはいえ、子供と言うにはやはり身体が大きい。年齢よりも子供っぽく見えるといっても、シュンイチは高校生なのだ。もう身体だって立派に機能が発達しているに違いない。
 亜希子の身体にピッタリと寄り添うシュンイチの両脚の間に意識が行った。ちょっと盛り上がっていて、フニャッとした感じがする。気のせいか、そこだけ温かく汗ばんでいる様な感触がある。それは隆夫と別れて以来、何ヶ月か振りに感じる異性の温もりだった。
 隆夫と付き合っていた時は、今まで生きて来た中であれ程セックスに貪欲だったことはなかった。その暖かさも、激しさも、好きな男性と一体になる幸せも始めて味わった。
 亜希子にとって隆夫が始めての男性だったという訳ではないけれど、あんなに一人の相手と集中して身体を求め合ったことはなかった。
 シュンイチの感触にふと自分の身体が反応しかかっているのを感じて、はしたないと思い、そんな自分を振り払う。
シュンイチはただ亜希子の胸に顔を埋めて目を瞑っている。以前アパートの入り口で朝よく見かけていた、制服を着たシュンイチの姿が浮かんで来る。
 名門の高校に通って、真面目に勉強して。女の子のこととか、エッチなことにはまるで興味がないのだろうか。
 嫌、17歳の健康な男の子ならそんなことは無いと思う。シュンイチ君は教育熱心なお母さんの為にそんなことは我慢して、学校の勉強だけに専念する様に仕向けられていたのかもしれない。
 隆夫の家も、両親が揃って教育熱心で、隆夫は高校を出るまでデートはおろか、女の子の友達さえ一人もいなかったと言っていた。
 この子の母親は教育熱心が過ぎて、息子に自分に対する憎しみを抱かせてしまい、遂には殺されることにまでなってしまった。隆夫の両親の場合はどんなだったんだろう。
 隆夫は自分の親は大事にしていると言っていたけれど、私から見るとどこか遠慮しているというか、恐れている様なところがあった。
 交際していた5年間に、亜希子は一度も隆夫の両親と顔を会わせたことはなかった。結婚の挨拶ということにでもならない限り、会う機会も無いだろうとは思っていたけれど。結局一度も顔を会わせることなく終わってしまった。
「結婚」ということをもっと早くに考えていれば……と思わないこともないけれど、今となっては遅すぎる。
 付き合い始めた当初から、二人とも結婚は全く意識していなかった。というか私は子供が出来ない身体だということもあったので、半ば諦めてもいた。
 だから隆夫に結婚を迫ろうという気も無かったし、隆夫とも結婚について敢て話そうとはしない様にしていた。
 まだ私も30代に入ったばかりで、気楽な20代の延長の様な気持ちでいた。それに隆夫がいることで、何はなくとも余裕をこいてしまっていたのだ。
 27歳だった隆夫も、結婚はまだ先のことだと考えている様だった。
 けど心の何処かでは、いつかはきっと隆夫が結婚してくれるものと高をくくっていたのかもしれない。お互いに暗黙の絆の様な物が出来ているに違いないなんて、私だけが勝手に思い込んでいたのだ。
 隆夫は異動して間もなく川原部長の取り持ちにより、大規模建築資材部の受付け嬢で、大手の取引先の娘でもある25歳の女と交際を始めた。そして結婚したいので別れて欲しいと亜希子に言って来た。
 その入社三年目の遠藤由利子という女の顔を、以前に見かけたことがあるかもしれないけど、名前を聞いても思い出せなかった。敢て見ようとは思わなかった。だって見たってしょうがないと思うし。
 5年が過ぎて、隆夫も30歳を過ぎたのと、社の花形部署である大規模建築資材部へ異動して仕事が充実し始めて、結婚して家庭を持つということを考え始めたのかもしれない。
 隆夫にとって私は、それまでの間繋ぎだったのだ。やっぱり隆夫は子供の出来ない私とは結婚する気は無かったのだと思う。
 隆夫は私にとって自分は数ある恋愛経験のうちのひとり、くらいの位置付けだと思っていたのかもしれない。
 自分と別れたとしても、また新しい彼氏を作って新しい恋愛をして行くのだろう。くらいに思っていたのかもしれない。
 シュンイチの寝顔を見つめながら、つらつらとそんなことを思っている。


第二章 2


「それじゃ、行って来るね」
「行ってらっしゃい」
 近所に聞こえない様に小声で言って、出来るだけ細く開けたドアからサッと外へ出ると、鍵を掛けてアパートを出る。そしていつもの様に会社へと向う。
 いつもここで制服姿のシュンイチを垣間見ていた。そしてタバコを吸って歩くくたびれたおじさんに会い、商店街では子供を乗せたお母さんの自転車とすれ違い、駅のホームにはカッコいいキャリアOLのお姉さんがいる。
 前と違うのは、ただ私の部屋にあの可愛い高校生がいるということ。そこから一歩も外へ出られずに、私の帰りを待っている。

「お早うございます」
 制服に着替えるとタイムカードを押して、いつもの様にデスクに座り、パソコンを立ち上げて業務に取り掛かる。
 他の社員たちもそれぞれの仕事に就く。亜希子は誰にも見られていない隙を伺って、また事件報道の画面を開く。
 事件に関する報道は昨日とあまり変わっていないが、少年を取り巻く家庭環境の事が少し詳しく書かれている。

『……父親によれば殺された少年の母親は以前父親と同じ都内の大学病院の勤務医であったが、愛知県にある妻の実家は総合病院を経営するエリートの家族であり、妻はひとり息子である少年を国立大学に入れる為に厳し過ぎるくらい熱心に教育に当たっていたのだという……』

 あの夜、夢に魘されていたシュンイチの言葉が思い出される『……ごめんなさい、次はきっと頑張るから……痛い……痛いよう……』。
 シュンイチは痛い痛いと言って、誰かから殴られている様に自分の顔や頭を庇っていた。あれは、お母さんに叩かれていたんだろうか。幾ら教育熱心だからといって、テストの成績が落ちたことを理由に自分の子供をそんなに酷く殴ったり出来るものなんだろうか。
『……やめて、やめて下さい痛いよ、ごめんなさい、許して、お願いします……』
そしてその後豹変した。
『チクショウこの野郎ぶっ殺すぞ! お前が悪いんだぞ! ちくしょうお前のせいだ! このやろう、殺してやる、殺してやるー……』
テストの成績が落ちたことに対する母親の仕打ちが余りに酷いので、遂に頭に来て切れてしまったということなんだろうか。
 私に本当の胸の内を話して欲しい。もう少し時間がかかるとしても、シュンイチの苦しみを分かってあげたいから。辛い気持ちを話してくれなければ、力になって上げることが出来ないもの。

 その夜。アパートに帰宅してご飯を食べた後、亜希子はシューティングゲームをしようとシュンイチを誘い、出来るだけ楽しく盛り上がる様にしておきながら、それとなくタイミングを窺って切り出してみた。
「ねえシュン君」
「えっ?」
「覚えてる? 最初にここに来た日のこと」
「えっ? 何?」
 忙しくコントローラーを操作しながら、シュンイチは画面に顔を向けたまま答える。
「私会社に行ってるから分かるんだけど、外では凄い騒ぎになってるのよ」
「何が?」
「この近所で起きた事件のことで」
「えっ……」
一瞬シュンイチの手が止まり、画面では敵の攻撃を受けてやられてしまった。
 きょとんとして亜希子の顔を見ている。
「勿論ここにいれば絶対安全なんだけど、でも外では大騒ぎになってるのよ」
「えっ……」
「私はここにシュン君がいるってことは絶対誰にも言わないけど」
「……」
「でも、覚えてるでしょう? ここに来る前に、シュン君が自分の家でしてしまったこと」
「……」
「ねぇ……」
 シュンイチのコントローラーを操る手が止まっている。亜希子が急に言い出したことが理解出来ないという様に、亜希子の顔を半ば呆然として見ている。
 と思うとコントローラーを投げ付けた。
「うるせえなぁ……分かってんだよそんなことは!」
 急に怒り出したのでビクッとして亜希子は硬直してしまい、シュンイチの顔を見る。
「アキコも知ってんだろう! 白々しいこと言ってんじゃねえよ!」
「シュン君……」
「俺がやったんだよ、そうだよ俺が殺したんだよ、母親をよぉ、俺だよ、何か文句あんのかよ!」
 大声を出して立ち上がる。
「……でも、何で」
「あのババァがよ、笑ったからだよ」
「えっ? 笑ったって? どういうこと?」
「俺の成績が落ちたからってなぁ、笑いやがったんだよ!」
「えっ……なんで?」
「グズでノロマな女だったんだよー」
「恐かったんじゃないの?」
シュンイチの変貌振りに驚きながらも、亜希子は疑問に感じたことを聞き返す。
「お前だってもう知ってんだろう、ぶっ殺してやってスッキリしたよ!」
 ……報道では教育熱心な母親がシュンイチに対して異常に厳しく当たっていたと書いてあった。シュンイチの言う「グズでノロマな女」というのとは大分イメージが違う気がする。
「その包丁でブッ刺してやったら俺を捕まえようとして抱き付いてきた来たからよう、思いっきり刺しまくってやったんだよ。ブスッ、ブスッ、ブスーッて、あっはははははは……そしたら血だらけになって遂に手を離したから逃げて来たんだよぅ!」
 このシュンイチは本当のシュンイチではない。亜希子は知っている。シュンイチは本当は大人しくて気の優しい男の子なんだ。亜希子の身体にしがみ付いて眠る顔を見ていれば分かる。シュンイチは理不尽な力に押し潰されそうになって、力尽くで歪められてしまっているんだ。
「何か文句あんのかよこの野郎っ!」
 シュンイチの顔を見つめたまま、目からボロボロと涙が零れ落ちて来た。
 驚いてシュンイチは大きな声を出すのを止める。
 戸惑って側へ来ると、亜希子の肩に手を置いて声をかける。
「アキコ……」
 拭っても拭っても流れ出る涙を滴らせながら、シクシクと亜希子は泣き続ける。
「ごめんねアキコ、もう泣かないでよ、僕はアキコのことは絶対殺したりなんかしないから、大丈夫だよ、ねぇ安心してよ」
亜希子はいつまでもしゃくり上げるだけで、まともな言葉を口にすることも出来ない。
 そんな亜希子にシュンイチはどうしていいか分からなくなり、まるでコロコロと態度の変わる子供の様に優しくなって、亜希子の肩を抱いてくれる。
「ねぇどうしたの? 大丈夫だよ、もう泣かないでよ、ねぇってば、お願いだから……」
 亜希子はシュンイチをギュッと抱きしめる。
「アキコ……」
 戸惑って囁くシュンイチを抱きしめた亜希子は、シュンイチの唇を自分の唇で包む。
 驚いたシュンイチは身をよじろうとするが、亜希子がシュンイチの唇をいつまでも包んでいると、力が抜けて亜希子にされるがままになる。
 亜希子の涙がシュンイチの頬に伝って行く。テレビにはゲームの画面が点けっ放しになったまま、部屋はしんと静まっている。


第二章 3


 土曜日になった。月曜の夜この部屋にシュンイチが来てから、今日で6日目になる。
 昨夜はシュンイチに事件のことについて聞いてみようと思ったのに、あんなことになってしまい、失敗してしまった。
 もう少し時間を置いた方が良いのだろうか。もう少し気持ちが通じるまで、でもきっと何とかしてあげなきゃ、何とか。

 今日は休みだし、折角の良い天気なので、何処かへ出掛けてみたいところだけど、シュンイチは外へは出られない。なのでシュンイチの観たい映画のDVDをレンタルショップで借りて来て、家で観ようということになった。
 一人で外へ出ると、シュンイチの家の前に止まっていたパトカーの姿が無くなっている。
 それとなく近付いて、その家の表札を見ようとしたが、取り外されてしまったのか、表札が掛かっていたらしい跡だけが壁に残っている。
 閉まっている門には『立ち入り禁止』の黄色いテープが貼り付けてある。
 その上から覗き込む様にして壁の中を見ると、外された郵便受けが地面に置いてある。
 人影が無いのを確かめて、そっと門を開くと身を屈めてテープを潜り、中に入って郵便受けに表示された名前を見る。
 文字は薄くなっているけれど、確かに「越川康弘・詩織・俊一」と書かれている。
 やっぱりこの家だったんだ……名前も本当にシュンイチだった。その家は二階建ての小じんまりした一軒家で、窓を覗いてみたが中は真っ暗で、ひっそりとしている。

 商店街に入ると、駅までの何箇所かで警察官が通行人やお店の人等と話しているのを見かけた。やはり警察の捜査は続いているんだ……。
 気になりつつも素知らぬ顔をして通り過ぎ、駅前にあるレンタルショップへ入る。
 俊一が観たいと言った作品を探す「スパイダーマン」か「ロード・オブ・ザ・リング」のどちらか三部作の揃っている方。
 まだ新しいせいか「スパイダーマン」の第三作は棚にズラリと並んでいるケースのどれもが借りられていて、空箱ばかりだった。
 なので三部作が全て揃う「ロード・オブ・ザ・リング」の方を三枚借りて、観ながら食べるお菓子や飲み物と、それに夕御飯の材料も買って帰る。

 帰って来てドアを開いて驚いた。中から「アハンアハン……」と言う女性がエッチしている声が聞こえて来る。アッと思って中へ入ると、俊一が戸棚に隠してあったアダルトDVDを出して見ている。隆夫が無理矢理置いていった物だ。
「コラッ、もう~何見てるのよ~」と言って慌ててプレーヤーのスイッチを切って取り出す。
「はは、エッチだなーアキコはこんなの見てんの?」と言いながら笑っている俊一の股間が膨らんでいるのを見つけてドキッとする。
「もう~子供がこんなの見てちゃダメでしょ」と誤魔化して片付ける。
「さ、早くコレ見ないと長いんだから、三本全部今日中に見られなくなっちゃうよ」
 と言って借りてきた「ロード・オブ・ザ・リング」の第一作をプレーヤーに掛ける。
始まると俊一は夢中になって見ている様子だった。
 評判の映画だったらしいけど、亜希子には感性がズレてしまっているのか、登場するキャラクターの誰にも共感して見ることが出来ない。それにストーリーがややこしくて分かり難いので、退屈してしまう。

それぞれが二時間を越える長い作品が三部作もあるので、二本目が終わる頃にはもう夕方になってしまった。
 あまり面白いとも思えないので亜希子は夕飯の支度に取り掛かることにする。
 始めてだけれど、ビーフシチューを作ってみようと思う。それに豪華なサラダも付けて。
用意が出来た時映画はまだ第三作の途中だったけど、俊一はお腹が空いたので食べたいと言うので、映画は中断して御飯を食べることにする。
 始めてだったので煮込み加減とかどうかと思ったけど、どうやら美味しく出来たので良かったと思う。俊一も美味しそうに食べてくれる。
楽しそうに食べながら俊一が「ねぇねぇ」と言ってきたので「なぁに?」と聞き返すと「アキコって彼氏はいないの~?」という質問。
「へへーんだ、どうせいないわよ~」とふて腐れた様に答える。
「へぇ~でもあのDVDみたいにエッチはしたいんでしょ」と言われ、顔を赤らめて思わず「そんなこと大人に言うもんじゃないわよ!」と語気を強めてしまった。
 驚いたのか俊一は「ごめんなさい」と言ってシュンとしてしまう。意外な反応に思わず可愛いと思ってしまうけど、初めて俊一に対して大人の立場を確立出来た気がして、直ぐには許してあげず、そのまま怒ったフリをしている。
シチューを食べ続けながら亜希子はむっつりして、取り繕う様に俊一が話しかけようとしても「そう」とか「そうだね」と素っ気無く答えるだけにしている。
 食事が終わると黙って食器を片付けて、流しで黙々と洗い始める。
 わざとガシャンガシャンと音を立てて、怒っている感情をアピールする。すると、いつの間に来たのか、後に立っていた俊一が腕を回して抱き付いて来る「ああ~もう何するのよ!」と振り払おうとするのを、尚も力を入れて縋り付いて来る。
「ねぇ、アキコ……」
「何よ!」
 と語気を強めて言う。
「僕のこと好き?」
「……何よ、どうしたのよ」
 素知らぬ顔をして答えながら、手を止め、振り向いて俊一を見る。
「だって、怒ってるし……」
「もう怒ってないよ」
「本当?」
 少し可哀想になってしまう。
「本当だよ、大丈夫だから」
 と言って再び洗い物を続けようとする。
「それなら、またこの前みたいにキスしてよ」
「えっ!」
「早くぅ」
「……」
 仕方なく湯沸かし器を止めて手を振るい、顔だけを俊一に向けてチュッと軽くキスしてやる。
「そんなんじゃ嫌だ、もっといっぱいして」と服を引っ張るので、濡れた手を気にしつつ、もう一度キスしてやる。今度はちょっと長めに。
 それでも俊一は「もっと、もっと……」と言って亜希子の顔に顔を押し付けて来る。
 そんな俊一に少し気持ちが高ぶってしまい、俊一に身体を向けると、亜希子も反応し始めてしまう。
 柔らかい唇が擦れ合い、赤ちゃんみたいな臭いがする。ムンとした自分のでない甘い温もりと共に、俊一の性が亜希子に伝わって来る。
俊一の熱い息がかかる。二人の唇がお互いを求め合ってる。口の中で俊一の舌と亜希子の舌が握手する。お互いの気持ちを確かめ合う様に固く握手し合う。
 俊一を抱きしめて、優しく愛しむ様に顔を左右に振る。このまま一緒に溶け合いたい様な気持ちになってくる。
 亜希子の腰に硬いモノが当たってる。俊一の脚の間で、それはもう明確に自己主張して熱を発してるのが分かる。
濡れた手も気にせず俊一を抱きながら、六畳間の方へ歩かせる。そのままカーペットの上に倒れ込んで、勢いで俊一の上に覆い被さる。
 貪る様に唇の感触を確かめ合いながら、片手で俊一の腰を撫ぜる。そのまま脚を撫ぜて、そっと手をずらして……。
 温かい……指でなぞると履いているスウェットの上からでも形が分かる。ビクッと俊一の身体が反応する。
「見てもいい?……」
 目を開けた俊一はまるで病気の子供みたいに大人しく「うん」と答える。
 俊一の腰に手を回してスウェットをずり提げると、下に履いている短パンの脇から、俊一のセックスがピョンと飛び出した。
あっ……と思った。まるで可愛らしい俊一には不釣合いで、大人の男性とまるで変わらない。でもやっぱり色が薄いと言うか、まだ誰にも触れられていない様な幼さがある。
 短パンも脱がせてあげようとして手を回すと、俊一が腰を浮かせる。
 自分の身体も汗ばんで来た気がして、亜希子もトレーナーを脱いで、下に着ていたTシャツも脱ぐ。
上半身はブラジャーだけになると、力強く立っている俊一のセックスを両手で包む。優しく撫ぜたり擦ったりして、気持ち良くさせてあげたいと思う。
 俊一は「ううん……ああ……」と小さな声を出して、亜希子にされるがままになっている。まだ陰毛も薄くて、申し訳程度にしか生えていない。
 まさか高校生だし、そんなことは無いと思うけど、まだ一度も、自分でしたことも無いんじゃないだろうか。
 硬直している俊一のセックスに頬を寄せて、最初は愛おしむ様に優しくキスする。それから口に包んで、俊一を愛する。
 俊一は「ううん、ああっ……」と声を出して、亜希子の頭をつかんだり髪を撫ぜたりしている。切なそうに目を閉じて身体をよじったりする。今にも達してしまうのではないかと思うくらいのけ反る。
 それでも、亜希子が続けてあげても、そこまではなかなか辿り着くことが出来ないみたいだった。
 やっぱり初めてだから、身体が戸惑ってるんだろうか、私が優しくしてあげるから、いっぱい感じて、私が良い所へと連れて行ってあげたい……。
 亜希子は一生懸命にいつまでもしてあげようと思う。
 そして「良い子だね、俊君、好きだよ……大好きだよ……」と囁きかけてみた時だった。登りつめて来る物があるのか、俊一はブリッジするみたいに身体を曲げて、上に腰を突き上げて「アッ……」と声を上げる。
 そのまま硬直する様に身体を反らしたかと思うと、ビクビクと激しく痙攣する。
 持っていた手が弾かれるくらい振動して、瞬く間に熱く光る命が俊一と亜希子の身体に降りかかって来る。

目を閉じてぐったりしている俊一のセックスは、まだ大きくて上を向いている。倒そうとして指で押し付けても、離すとまたピョンと起き上がってしまう。
 あんなにいっぱい命を放出して、大丈夫なのかと思ったくらいなのに、若いということはこんなにも凄いんだと、驚いてしまう。
「ねぇアキコ」
「うん?」
「セックスして」
「えっ」
 と言って笑ってみる。自分でも白々しい笑いだとは思うけど、あんまり露骨に言うもんだから、恥かしくって笑うしか無い。
「だって、男と女はセックスして結ばれるんでしょう」
「私と結ばれたいの?」
「うん」
もうアレコレと考えている状況じゃなかった。俊一の一言で亜希子の身体もすっかり反応してしまっている。
 今日は失禁した訳でもないのに、パンツを脱ぐと滴り落ちてしまうくらい凄いことになってる。片手で胸を隠しながら、そっとブラジャーも取る。
 仰向けに寝ている俊一の身体を跨いで、上を向いている俊一のセックスが亜希子の中心に来る様に、恥かしいけどガニ股みたいになって、そうっと身体を下ろして行く。俊一はじっと亜希子の顔を見てる。
 俊一の先端が亜希子の中心に触れた時、ビクッと電気が走ったみたいに震えが来て、「あっ……」と思わず声を出してしまう。
 そのまま腰を落として行く……ゆっくりと亜希子の中をかき分けて俊一が入って来る。 もう二度とこんな風に男性と一体になる感覚を味わうことは無いと思ってたのに。こんなことがまたあるなんて。
「俊君……」
 俊一はギュッと目を瞑ってる。
 亜希子の身体の中が一杯になって、そのまま俊一の上に腰を下ろす様に体重を預ける。
 亜希子の中に俊一の全てが入ってる。俊一は目を閉じたまま亜希子の下で気を付けをする様に横たわってる。
「どうしたの俊君……痛いの?」
「ううん、痛くない、あったかい……」
 俊一の感触を確かめながら、俊一の両肩の上に左右の手をついて、そのまま足を踏ん張って身体を上げる。
 俊一が亜希子の中から抜き出て来る。
「ああっ……あああああっ……」
 ギュッと目を閉じた俊一が亜希子に引かれるままに腰を上げて、背中を反らして身体を浮き上がらせる。
 俊一が亜希子の中から抜け落ちそうになる寸前で、また腰を下ろして行く……。
 亜希子の愛に塗れた俊一が、また亜希子の中に埋もれて来る……。
「ああああっ……」
 この子と私が繋がってる……俊一君……もっと一体になりたいと思う。このまま溶け合ってしまうみたいに……嬉しいのと一緒に切なさが襲って来る。
 言い知れぬ思いが激しさを呼び起こすのか。そうすることだけが切なさから逃げる方法だと感じているのか、自分でも思いがけないくらい激しく身体が動いてしまう。
 二人が振動していくに連れて、辺りが無重力状態になって行くみたいだ。身体が宙に浮いている様な感じがして来る。
 二人の中心から眩い光が身体中に広がって、全身を包み込んで行く。
 俊一は目をギュッと閉じたまま亜希子に合わせて身をよじらせる。
 俊一君も、きっと私と同じなんだ。
「俊一君……俊一君……私……俊一のこと、好きだよっ……」
「ああっ……あっ……あっ……アキコ……アキコっ……」
「俊一っ! 俊一っ! ああっ! ああっ、ああっ、ああっ……」
 乳房が凄い勢いで上下に揺れる。恥かしいとかあられもないという気持ちは何処かへ吹き飛んでる。
 それでも完全に溶け合うことが出来ないもどかしさに、夢中で俊一の身体に自分をぶつけている。訳が分からなくなる。
「ああっああっああっああああーーー!」 
 ビクンと痙攣を起こす様に背を曲げたかと思うと、下から俊一が亜希子の身体を跳ね上がらせる。亜希子の中に俊一の命がショットガンの様に何度も打ち込まれて来る。その衝撃が脳天を貫く。

 俊一はそのまま首を仰け反らせてグッタリと脱力し、気を失ってしまった。
 息を弾ませながら亜希子は俊一の身体から降りる。今度は力を出し尽くしたのか、俊一のセックスは小ちゃくなってしまっている。
 亜希子は顔を近づける。そのまま食べてしまいたいと思う。口を開けてそっと包む……何て愛しいんだろう。本当にこのまま食べてしまいたい。
「う、うううう~~ん」
 目を閉じたまま俊一が顔を歪める様にして、亜希子の髪をつかんでくる。
「俊ちゃん……」
「ううん、あははははは……やだ、アキコ、くすぐったいよぅ」
 と笑って目を開く。たまらなくなって俊一の頬に手を当て、キスする。舌と舌が絡み合って、どっちがどっちだか分からないくらい。溶けてしまうくらい。
 いつまでもこうしていたいと思う。そしてこのまま二人が本当に溶け合ってしまえればいいのにと思う。

 どんなにセックスをしても亜希子は妊娠しない。
 もし私が普通の身体だったなら、きっと若い俊一の命を受けて当然の様に妊娠するだろう。
 子宮の無い私の身体では、凄い勢いで打ち込まれた俊の命は、みんな死んでしまうんだ。でももし奇跡が起きて妊娠することが出来たなら、私は生まれて来る子供の為に命を捧げてもいい。 
 そしてまた考えてみる。俊君がもし自分の子供だったとしたら……私が38歳だから、俊君が17歳として、21歳の時に産んでいれば、このくらいの子がいてもおかしくはないんだ。
 12年前に片方の卵巣と子宮を失ってから、私にはもう母性というものはあまり残っていないのではないかと思ってた。
 でも今俊一に対するこの愛しさは、きっと母性という物ではないかと思う。そうだ、コレは母性に違いない。私にもまだしっかりあったんだ……。


第二章 4


 翌日の日曜日。俊と私は裸で縺れ合ったまま、朝の10時過ぎまで眠っていた。
 目を開けると自分の鼻先に俊の温もりと、顔にかかる息を感じる。
 まだ目を閉じたままの俊の顔にそっと近付いて、薄桃色をした可愛らしい唇にそっとキスする。
 薄っすらと目を開けた俊がふふっ……と子供みたいに微笑む。
 その日は一日中布団を敷いたままで、二人とも裸のまま過ごした。
 昨夜三作目の途中でやめてしまった「ロード・オブ・ザ・リング」の続きを見て、観終わるとカップラーメンを食べ、昼過ぎにまた愛し合った。その後ゲームをして、お腹が空くとお菓子を食べて、また求め合った。
 気が付くともう外は夕暮れになっている。お風呂に入って、夕食はデリバリーでケンタッキーのフライドチキンを取り、二人で手や顔を油まみれにしながらムシャムシャ食べる。そしてまた求め合う。
 俊の体力は呆れるくらい回復が早く、求め合う度にすぐ始めての時と同じくらい熱くなる。
 その瞬間だけは、俊一も全てを忘れられるのかもしれない。終わると思い出すので、また求める……。

 夜が明けて月曜日になった。週末が終わった月曜日の朝というのは、目覚ましが鳴って目を開けると憂鬱な気持ちになってしまうものだけど、今は目を開けると一人ではない温もりがあって、一緒に目を覚ました俊がお早うのキスを求めて来る。
 名残惜しいけれど仕事に行かなければならない。俊を残して布団を出ると、洗面と歯磨きを済ませ、お弁当を作りにかかる。
 昨夜タイマーを掛けておいた炊飯器を開けて、炊きたてのご飯を弁当箱に詰める。おかずはレンジで暖めるだけの冷凍コロッケに付け合せはレタス。
 朝食代わりのバナナを俊も食べると言うので冷蔵庫から2本持って6畳間へ戻る。
 テレビを点けて朝のワイドショーを見ながら、二人でモグモグとバナナを食べる。
 リモコンでパチパチとチャンネルを変えて見るが、どの局も週末に起きた各地の殺人事件や酷い交通事故、それに芸能人のスキャンダル等が目白押しで、俊の事件についての報道は無い。
 世間では次々に恐ろしい事件が起きて、俊の起こした事件のことはもう古い話題になっているのかもしれない。
 このまま誰からも忘れ去られてしまえば良いのに……と思う。そうなれば俊はずっとここに閉じ篭っていなくても、外へ出て一緒に街を歩くことだって出来る。
 等と思っているうちに時間も無くなるので弁当箱をバッグに入れ、簡単にお化粧して身支度を整えると家を出る。
「行ってきます……」
「行ってらっしゃい、早く帰って来てね……」
 その顔にはもう俊を残して始めて会社へ出掛けた日の様な不安の色は無い。もう私が裏切ったり、帰って来なくなってしまうのではないかという不安はないのだ。
 パタンとドアを閉めて、外から鍵をかけ、アパートの敷地を出る。

 6月に入って梅雨に近づいて来ているせいか、空はどんよりと曇って、空気が生暖かい。
 いつもならこれから金曜日までの仕事を思って暗鬱な気持ちに耽ってしまうのに、今日はこの空模様の下を歩いていても、まるで広い大海原へ漕ぎ出して行く様な感じがする。
 ワクワクするというのとは違うだろうか、半分は空恐ろしい。来たことのない未知の世界を開拓して行く様な感じだろうか。
 駅へと続くいつもの道も、いつもの様にすれ違うくたびれたおじさんも、子供を乗せた自転車のお母さんも、全てが違って見える。
 まるで世界が変わってしまったかの様に。いや、世界が変わったのではなく、変わったのは私の方なのだ。私は今、歩いたことのない新しい道へと踏み出したんだ。
 一体この道の先はどうなっているんだろう。恐い気もする。私は小さな船で岸辺を離れ、大海原へと漕ぎ出してしまった。俊一という少年を乗せて。
 でも一方では清清しい気持ちが身体中に湧き上がって来るのも感じる。この曇った空の下で、私にだけは遥かに広がる大きな大海原が見えている様な気もする。
 いつもの様に経堂駅から電車に乗って、代々木上原~表参道と地下鉄を乗り継いで、日本橋駅に着いて地上に出る。立ち並ぶビル群の間を歩いてオフィスへと向かう。
 いつもはこの辺りを過ぎる度に、スーツ姿の男たちの中に隆夫を探していたのだけれど、そんな自分はもういない。
 ビルの玄関を入り、他の社員たちと一緒にエレベーターに乗る。
 いつもの様にロッカールームで着替え、タイムレコーダーを押してデスクへ向かう。
 いつもと同じいつもの職場。でも全てが違っている。例えれば両足が床から2センチくらい浮いているという様な。
「お早うございま~すぅ」
 時間ギリギリになって淵松絵美子さんが駆け込んで来る。隣のデスクの椅子にドカッと座り、パソコンのスイッチを入れる。
 モニターの背景いっぱいに堂本剛君の爽やかな笑顔が浮かび上がって来る。
「ツヨシお早う~あ~今日もしっかり仕事しなくっちゃねぇ」
 パソコンが立ち上がる間に絵美子さんは持っていた袋からおもむろに菓子パンを出してムシャムシャと食べ始める。
 亜希子は思う……ああ~絵美子さんに言ってみたい。私の家には17歳の美少年がいて、私の帰りを待っているのよ、って。私の秘密の恋人なのよ、って。
 そんなことを考えて絵美子さんの横顔を見ていたら「えっ? 何倉田さん」と声を掛けられてしまった。
「あ、いえ、何でもないです……」
 慌てて自分のパソコンに向き直り、先週からやりかけの伝票を表示する。

 就業時間になるとそそくさとオフィスを出て、電車の乗り継ぎももどかしく早足に歩く。
 経堂駅に着くと買い物もせず商店街をスタスタと過ぎ、アパートを目指す。
 私の留守中に誰かが訪ねて来てしまうといけないので、部屋の中は電気も点けずに真っ暗なままだ。それは一週間前までの、私が一人暮らしをしていた時と同じ。
 鍵を開けて真っ暗な中へ入り、ドアを閉める。
 電気を点けると6畳間で待っていた俊が「お帰りなさい」と立ち上がって来る。バックを片手に提げたまま、抱きついて来た俊の身体を受け止めてキスする。
 外出着も脱がず、そのまま縺れる様に倒れ込み、お互いの身体を確かめる様に愛し合う。

 その晩一度目の行為が終わると、さすがにお腹が空いてきて、何か食べなきゃ、ということになった。
 でも台所に行こうとする亜希子の手を、俊一がつかんで離さない。
「ちょっと俊、御飯作って食べなきゃでしょ」
「何か出前取って、来るまで寝たまま待ってればいいじゃんか~」
「ダメだよそんな、毎日贅沢してちゃ」と振り切って台所に立つ。
 スパゲティの麺を茹でて、夕食の準備をしている間も、俊は側に来て亜希子の髪を触ったり腰に手を回してきたりする。
「もう、危ないでしょ」
 と言ってるのに尚も脇の下を突ついたり項を撫ぜて来たりする。
 キャッキャとはしゃぎながらどうにか二人分のスパゲティを作り、六畳間に運ぶ。
 この狭い部屋の中で二人きりなのに、片時もお互いの身体から離れているのは嫌だという様に、ちょっかいを出してはふざけている。
 この数日の間にどれだけ俊と身体を重ねただろうか。それでもその度ごとに激しさを増して行く様だった。

 次の日の帰りに、俊一の着替えを買ってあげようと思い、経堂に着くと商店街にあるジーンズショップに入った。
 その店があることは知っていたけれど、ジーパンや若者向けのファッションが中心の店だったので、入るのは始めてだった。
 俊一は着の身着のままで亜希子の部屋に逃げ込んで来て、その服は処分してしまったので、着替える物がない。
 まずは下着を買おうと思う。俊一が最初に履いていたパンツは白のブリーフだったけれど、柄の付いた明るい色のトランクスを選んでみる。俊はこんなの履いたこと無いんだろうか……と思いつつ買う。
 それから部屋着用の上下のトレーナーとパジャマ。俊は外へ出られないから部屋着しか買う必要は無い。でも店内の見本用にマネキンが着ている若者向けのジーパンやニットのシャツの組み合わせを見ていると、俊が着ればきっと似合うだろうなと思う。
 一度で良いから俊に私の選んだ服を着せて、一緒に街を歩いてみたい。
 アパートへ帰って来て、ドアを開けて真っ暗な部屋へ入って電気を点ける。
 買い物袋を置く間もなく飛びついて来た俊に抱きすくめられると、気が遠くなってしまう。

 次の日亜希子が帰って電気を点けて驚いた。部屋の中が引っくり返した様に散らかっている。
 見ると俊が退屈だったのか、押入れを開けて中を漁っていたらしく、長年入れっぱなしになっていたダンボール箱を引っ張り出して、中から水彩画の画材やキャンバスを出している。
 すっかり忘れていたけれど、20代の頃、何か高尚な趣味でも持って教養を付けたいと思い、水彩画教室に通っていたことがあった。それは亜希子がその時の写生会で描きかけてやめてしまった絵だった。
 見ると一緒に入っていた筆と絵の具やパレットを使って、俊は描きかけだった絵に色を塗り、完成させてしまっている。 


 当時他の生徒さんたちと一緒に高尾山に写生に行って描いた物で、山の上から眼下に広がる町並みを描いた風景画だった。
 水彩画教室には2ヶ月近く通っていたけれど、亜希子はセンスが無いのかちっとも上達しなかった。他の生徒さんみたいに上手に描くことが出来なくて、やる気も薄れてしまい、やめてしまったのだった。
 俊一はその画を鮮やかに完成させつつ、その背景に、手を繋いで空を飛んでいる二人の男女の姿を描き込んでいる。
 遥かな空へ向かって飛び立っているその男と女は、俊と亜希子の姿なのだと言う。
 思わず笑ってしまったけれど。ずっと忘れていた失くし物を俊が見つけてくれた様な気がした。
 途中で投げ出してしまっていた亜希子の絵は、空と街の一部には着色していたけれど、後は殆どデッサンのままだったのに、まるであの風景が目前に広がっているかの様に、見事に仕上げてしまっている。
「ごめんね、思ったより綺麗に出来なかったんだけど」
 と言うので「何言ってるの凄いじゃない、本当、凄い、ビックリしちゃったよ」
「イラストとか描くの昔から好きだったんだけど、もうずっと描いてなかったから」
 そんな俊の趣味も才能も、俊の親たちは伸ばしてやることをせず、ひたすら国立大学に入る為に勉強することだけを強いて来たのだろうか。
「俊はイラストレーターとかになりたかったの?」
 と聞いてみる。
「ううん。僕ね、医者になりたかったんだよ」
「えっ?」
「お父さんみたいな」
「お父さんみたいな?」
「うん。僕の父さんはね、凄い医者なんだよ。他の人みたいにお金儲けとかが目的じゃなくて、本当に患者さんのことを心から思ってあげて診察してあげるんだ。僕も将来お父さんみたいな医者になれたらいいな、って思ってた」
 そうなんだ……俊は必ずしも嫌々勉強させられていた訳ではないんだ。自分でも医者になりたいという夢を持っていたんだ……。
「父さんの患者さんだった人が元気になって退院してからね、わざわざお礼を言いに家まで来たこともあったんだよ」
 それじゃあ何故……という言葉が出掛かったけど、今はまだ黙っていよう。それは俊が自分から語ってくれるのを待っていた方が良いと思う。

 木曜日になった。会社で仕事をしていても、早く帰って俊の顔を見たい、という思いが募って来る。でも家の食糧が少なくなってるし、今日は買い物をしなければならない。
 商店街で手早く買い物を済ませ、両手いっぱいに買い物袋を提げて帰って来る。
 いつもの様に真っ暗な部屋へ入りながら亜希子は「ただいまぁ~俊。今日は買い物して荷物がいっぱいだからねー、置くまでちょっと待っててよお願いだから」
 と言いつつ荷物を置いて電気を点けると、いつもの様に立ち上がって来る俊の姿が無い。
 あれ? と思って見回すと、部屋の隅に座った俊が「お帰りなさい」と元気の無い返事をする。
「どうしたの?」と聞くと、今日の昼間また刑事たちが聞き込みに来たのだと言う。この部屋へは来なかったけれど、隣の部屋を訪ねて来て、住人が刑事たちの質問に答えるのが聞こえたのだと言う。
 きっとあの日聞き込みに来た時は隣の住人が仕事に行って留守だったので、今度は時間帯を変えて聞き込みに来たということだろう。
 隣の男の人はやはり俊の顔写真を見せられている様子で、この少年を知らないか、等と聞かれていたが、知らないと答えていたと言う。
 心配そうな俊に「大丈夫だよ、心配いらないから」と言ってあげたけど、俊の浮かない顔を見ていると、亜希子の気持ちも沈んで来てしまう。
 俊の横に座り、肩を抱いてあげる。俊の顔を両手に包んで自分の方へ向かせ、安心させてあげようとキスする。

 金曜日の朝になった。今日一日頑張れば、ずっと俊と一緒に過ごせる週末が来る。
 いつもの様に「行って来るね……」「行ってらっしゃい……」と小声を交わしながらドアを出た時だった。思いがけず隣の住人が外の道からアパートの敷地へ入って来た。
 ドキッとする。顔を合わせるのは何ヶ月か振りだった。今の俊との小声の遣り取りを見られてしまっただろうか。
 なんでこんな時間にこの人が……と思うけど、休みで何処かへ遊びに行った帰りか、夜中の仕事が早く終わったので、帰って来たところなのかもしれない。
「こ、こんにちは」とぎこちなく会釈を交わして擦れ違った時、その男はチラッと流し目をくれながらニヤリと笑った。
 ドキリとして、思わず振り返る。男は素知らぬ顔で自分の部屋の鍵を開けている。
 その瞬間思った、この人は私の部屋に俊がいることを知っている……。
 それが近所で母親を刺して逃げている高校生だということまでは気付いてないとしても、隆夫と別れて以来ひとりだった私が新しい男を作って部屋に連れ込んでいる。くらいに思っているのかもしれない。私と俊との話し声とか、それと……夜の声が聞こえたんじゃないだろうか。
 隣の男がドアを開けて出かけて行く音を毎晩確認していた訳ではないから。いつもいないものと思って気にせずに声を出していたけれど、考えてみればあの男にだって休みの日はある筈だ。
 隣の住人がいるとも知らずに、声も気にせず俊とお喋りして、いつもの行為を繰り広げていた時に、あの男が壁の向こうで聞き耳を立てていたとしたら……。
 商店街を歩きながら、顔に血が上って真っ赤になって行くのを感じる。
 それに、あの男も昼間聞き込みに来た刑事に俊の顔写真を見せられているのだ。まさか私の部屋にいるのが行方を捜査されている少年だとまでは考えが及ばないとしても、何かの弾みで俊の顔を見られでもしたら……。
 ホームで電車を待ちながらゾッとしている。今夜からは隣の男がいるのかいないのか、こちらも聞き耳を立てて確認する様にしなくちゃ……。

 待ちに待った週末が来た。今日と明日の二日間はずっと俊と一緒に過ごすことが出来る。
 昨夜は隣の男が出掛けて行く音が聞こえたので、夜中まで気にせずに激しく愛し合っていた。
 目が覚めてもまだ昨夜の余韻の中を漂っている様で、二人は裸のままお昼頃まで布団の中でまどろんでいる。
 いい加減に眠気も覚めて来たので、そっと首に巻き付いた俊の腕を離して布団を出る。台所に立って、買っておいたインスタントラーメンを作ろうと思う。
 お鍋にお湯を沸かし、冷蔵庫から長ネギを出して刻む。
 ラーメンが出来る頃、匂いを嗅ぎつけた俊がノソノソと起き出して来る。
 小さなテーブルにどんぶりを並べて、テレビを見ながら二人で啜っている時だった。
 コンコン……最初は風で何かが揺れた音がしているのかと思った。だが、しばらくしてまた、コンコン……。
 テレビのボリュームを下げて、俊に静かにする様に口に人差し指を立ててみせる。
 コンコン……耳を澄ましているとまた音がする。隣の部屋かと思ったが、それは紛れも無くこの部屋のドアをノックしている。
 俊を手で制して、足音を忍ばせてそっと台所に行く。
 と思うと台所のガラス窓にヌーッと中を伺っている何者かの影が映った。
 ドキリとする。でも台所の窓は磨りガラスなので、中を見ることは出来ないだろう。
 もし電気が点いていたら不審に思われたかもしれないけど。昼間なので電気を点けていなくて良かった。
 音がしない様にゆっくりと近付いて、そ~っとドアの覗き穴から外を伺う。
 誰かいる……コンコン……またノックする。確かにこのドアをノックしている。
 広角レンズで湾曲して見える覗き穴の下の方で、人影が何かもぞもぞと動いている。年配の女の人の様だ……と思うと屈みこんでいたその人が起き上がった。
 お母さん!
 顔を上げたのは八王子の実家に住んでいる亜希子の母だった。
 思わず息が止まる。何故お母さんが……ドア一枚を隔てて母親がいる。でもまさかドアを開ける訳には行かない。
 息を詰めて見ていると、何か紙袋に沢山持っている様子だ。
 何をしに来たんだろう。今までこんな風に、突然訪ねて来ることなんて無かった。
 母は少しウロウロした後、留守だと思って諦めたのか、帰ろうとして、また思い止まった様に振り返り、手にしていた紙袋をドアノブに下げる。
 今年で62歳になるんだろうか、すっかり老け込んで、白髪と皺だらけになった母の顔を、小さな覗き穴から湾曲した視界の中で、息を詰めながら見ている。
 母はハンドバックから手帳を取り出すとペンで何か書き込んでそのページを破り、ノブに吊り下げた紙袋に入れている。
 そして帰って行く。丸まった小さな背中を見送る。これから八王子まで帰るんだろうか、電車があまり混まないで座って行けると良いけど……。
 わざわざ遠くから訪ねて来たというのに、居留守を使って帰してしまった。何て酷い娘なんだろう……後ろめたい気持ちが湧き上がって来る。
 そのまま暫く待って、本当に行ってしまったことを確認する。
 振り返ると、俊が心配そうに見ている。
「誰だったの?」
「お母さん」
「お母さん? アキコの?」
「うん」
「大丈夫なの?」
「うん、もう帰っちゃったから」
「そう……」
 母がドアノブに掛けて行った紙袋は、用心の為に夕方までそのままにしておこうと思う。それに今日は念の為、外に買い物に行くのもやめておこう。
 外が暗くなって、電気を点けないと不自然な時間になってから、そっとドアを開け、ノブに掛かっている紙袋を取る。
 中には大きな乾燥ワカメが入っている。それにビニールに入った玄米と大きな夏蜜柑が二つ。
 ワカメはきっと横須賀に住んでる叔母さんから送って来た物だろう。玄米は前に実家に行った時、ご飯を炊く時に少し混ぜると良いって言ってたから、私にもやれということなのだろう。それから二つの大きな夏蜜柑。こんなの近所の八百屋に行けばいつでも買えるのに。
 それからさっき何か書いていたメモが入っている。走り書きで震えた字だった。
『亜希ちゃん。たまたま用事があって近くまで来たので寄りました。身体に気を付けてね、また連絡します』
 フォローしておいた方が良いと思い、実家に電話を入れる。
 電話に出た母に今日は朝から会社の友人と遊びに行っていたので留守だったと嘘をつく。
 そして、今度から来る時は必ず前もって連絡してから来る様にと念を押す。
 それから最後に、本当はそんなに嬉しくも無かったけど「ワカメとかありがとう」と言って電話を切る。
 母と電話で言葉を交わしている間、俊は音声を消してテレビゲームをしている。

 亜希子は思う。このアパートにいてはまた母は来るかもしれない。警察もまた聞き込みに来るかもしれない。それにあの隣りの男が私たちの話声を聞きつけて怪しむかもしれない。突然訪ねて来る友達等は思い当たらないけど、その可能性だって無いとは言い切れない。
 この生活を、俊との暮らしを誰にも邪魔されたくない。何処か誰にも見つからないところへ行って、俊と二人で暮らせたら良いのにと思う。それにはやはり、何処かへ引越すしかない。
 何よりも事件が起きた俊の家からは遠く離れた方が良いに決まっている。
 そして、母が訪ねて来るには日帰りでは来られないくらい離れたところが良い。
 それには仕事に通うのが大変になったとしても、少し都心から離れなければならないだろう。
 マンションを買う程のお金はないから、賃貸で、そしてこのアパートの様に隣の音が聞こえる様な部屋ではなく、防音がしっかりしている建物が良い。そして出来れば外からは部屋の中が見え難い様なところが良い。
「ねぇ俊。私たち、いつまでもここに住んでると、そのうち誰かに見つかっちゃうと思うのよ」
 と話を切り出すと、俊は「えっ」と心配そうに顔を向ける。
「それでね、私考えたんだけど、何処かに引っ越しちゃえば良いと思うの」
「えっ、引っ越すの? 僕も一緒に?」
「勿論よ」
 そう言うと俊は少しホッとした顔をする。
「それでね、引っ越す場所は何処が良いかって考えてるんだけど」
「うん」
「俊はどの辺が良いと思う?」
「うん……そうだね、どうせならどっか凄く遠いところで、誰にも見つけられない様なところが良いけど」
「でも私は仕事に行かなきゃならないから、ギリギリでも日本橋までは1時間半くらいで行ける所じゃないと困るのよ」
「僕はアキコと一緒なら何処でも良いけど、でも出来たら、窓から良い景色とかが見えるところがいいな」
「良い景色が見えるところ?」
 そうだ、例え何処に住もうとも、俊は家から一歩も出られないのだから、何処にあろうと関係ない。でも、せめて窓から外の開放的な世界が見られるのなら、ずっと家に篭りきりでも気持ち的に大分楽なのかもしれない。
 ラックから最近あまり使っていなかったノートパソコンを出して来て、電源を入れ、電話回線に接続してインターネットに繋げる。そして東京近郊の地図を検索して見る。
 第一の条件は、家族や知人が訪ねて来るには遠いところ。そして会社にはギリギリ通える範囲であること。
 実家のある八王子方面に隣接する埼玉県や神奈川県は除外して、考えられるのは千葉県や茨城県辺りだろうか。
 俊は窓からの景色が良いところがいいと言う。山の自然等の景観が良いところとなれば、それこそ栃木や群馬まで行かなければならないだろう。でもそこまで行くと通勤時間が掛かり過ぎてしまう。そう思うと手頃なのは千葉県かと思う。地図を見ると東京湾をぐるりと囲む様に、電車の路線が海の沿線を走っている。
 窓からの景色が良いところ……それがもし山ではなくて海だとしたら、もっと良いのではないか。
 千葉の東京湾沿岸なら、もしかしたら窓から海が見える賃貸マンションもあるかもしれない。
 俊は千葉の東京湾沿岸という考えに「それ良いよ、窓から海とか見えたら最高じゃん」と嬉しそうに笑う。
 不動産の物件を探す為に東京湾沿岸を走る電車の駅を探す。
 一番海沿いを走っているのは東京駅から出ているJRの京葉線だった。
 ディズニーランドのある舞浜駅や野球場のある海浜幕張駅等は、観光地なのであまり賃貸マンションはないのではないかと思う。
 もう少し先の駅ならどうだろう。幕張駅の先には検見川浜や稲毛海岸という駅名がある。
 不動産情報のサイトを検索して、京葉線沿線の物件を調べてみる。
 条件としては、なるべく海に近くて、今とそれ程変わらない家賃で借りられるしっかりしたマンション。
 しかしマンションともなれば、このアパートと同じくらいの家賃という訳には行かないかもしれない。
 そう思ったけど、調べてみると都心から離れているせいか、今の家賃に少し上乗せするくらいで住める物件が幾つかあった。
 でも、窓から海が見えるということは、他の建物よりも一番海沿いに建っているマンションでなければならない。
 掲載されている物件の地図を探しても、海が見えそうな場所に建っているマンションは見つからなかった。
 やはり見晴らしの良い物件は人気があって、空きが出てもすぐに入居されてしまうのかもしれない。
 窓から海は見えないかもしれないけど、なるべく海に近いところ、という範囲に広げて、掲載されている物件を検討する。
 そして、幾つかの物件に目星を付けて、明日にでもその物件を扱う不動産屋へ行ってみようということになった。
 折角の日曜日だったけど、早くした方が良いからと俊にも納得させて、明日は一人で千葉まで出掛けて行くことにする。

 日曜の朝、「頑張ってね」と少し寂しげに見送る俊を残して家を出る。
 会社へ行く時と同じ様に小田急線で代々木上原から千代田線に乗り換える。そして日比谷駅で地下鉄日比谷線に乗り換えて八丁堀まで行き、そこから幕張方面へ向かうJR京葉線に乗る。
 日曜日なので京葉線はディズニーランドへ向かう家族連れやカップルで満員だった。
 そんな中でひとり吊り革につかまって窓の外を眺めている。電車は大きな川を何度も渡り、次第に東京湾が見え始める。
 俊と一緒に来られたらいいのに……と考えていると、あの日俊がポツリと語った『お父さんみたいな医者になりたかった』という言葉が浮かんで来る。
 俊はお母さんに無理やり勉強させられていたのではなく、自分も医者になりたいと思っていたんだ……それならどうして?……その疑問が頭の中に渦巻いて来る。
 私を信じてくれているのなら俊はきっと話してくれるだろう。その時が来たら、そこからまた先のことを考えれば良い。
 ディズニーランドがある舞浜駅で殆どの乗客が降りてしまい、途端に電車の中はがらんとしてしまう。
 目的地である検見川浜駅はここからさらに7駅も先にある。次第に大きく車窓に迫って来る東京湾を眺めながら、通り過ぎて行く駅を数えて、やがて検見川浜駅に着いた。
 改札を出ると、そこは想像していた田舎じみたイメージとは違い、美しく整備された新興住宅地だった。駅前のロータリーも広々として開放感がある。むしろそれが寂しい感じもする。
 ネットで見つけた不動産屋は、駅前の繁華街にあった。
 あらかじめアポイントは取っていなかったけれど、訪ねると背広を着た温厚そうなおじさんが応対してくれた。
 目星をつけておいた物件を説明すると、案内してくれると言うので、おじさんの運転する車に乗って出発する。
 走る窓から見ていると、この辺りはまっさらな状態から区画整備して建てられた住宅地だということが分かる。整然と立ち並ぶ団地やマンション群が、駅を囲んでどこまでも続いている。
 そんな中を走り抜けて最初に連れてこられたのは、駅を挟んで海とは反対側にある、ズラリと並ぶマンション群のひとつだった。
 こんなに同じ建物が並んでいれば、誰かに俊と私がこの辺りに住んでいることが分かっても、詳しい番地を知られさえしなければ、探し出すことは出来ないだろうと思う。
 その部屋は4階で日当たりも良さそうだけど、ベランダに出ると向かいに建っている棟の同じ階の窓が良く見える。
 こちらから見えるということは、あちらからも見えるということだ。
 窓には常にカーテンを張っておくとしても、昼間ずっと家にいる俊が何かの拍子に向かいの住人から見られてしまうかもしれない。
「なかなか良いところですね、でも他の部屋も見てみたいです」
 と言って二つ目の物件へ連れて行って貰う。
 ふたつ目は更に駅から離れたところにあり、やはり鉄筋のマンションの3階で、ズラリと並んだ棟の一番外れにあった。隣の棟とはかなり角度が付いて建っているので、同じ階からでも中を覗かれる心配はなさそうだった。
 だが、ここからでは検見川浜駅を挟んで海からは大分離れてしまう。ここまで来てしまうと、京葉線の沿線というよりは少し離れたところを平行して走っている総武線の検見川駅の方が近い。
 私が難色を示すと「それじゃ次のところへ行きましょう」と三箇所目の物件へと向かう。
 検索して目星を付けておいた物件は4件ある。最低でもそれを全て見て来たいと思う。
 三件目の物件は今までの中で一番駅に近く、つまり海にも近いところにあった。近いと言っても海へ出るまでには歩いて10~20分くらいかかってしまいそうだけど。
 マンション群からは少し離れた住宅地にあり、二階建ての各階に5世帯ずつのアパートだった。
 空いていた2階のその部屋へ入って見ると、2部屋あって、今住んでいる世田谷のアパートに6畳間がもうひとつ増えた様な感じだった。
 アパートの向かいは普通の一軒家で、境には木が茂っているので、窓から見える心配は無さそうだ。ただやはり、こうしたアパートだと隣の部屋との防音が気になる。
 今までに回った3箇所の物件を思い出して考えながら、4件目の物件に向かう。
 出来れば今日中に決めて、来週の週末には引越してしまいたい。

 誰にも手の届かないところで、俊と二人で秘密に暮らしたい。
 でも考えてみれば、いくら実家から日帰りで来るには遠い場所へ引っ越したとしても、引越し先の住所を内緒にしておく訳には行かないだろう。それに会社にも。
 でもここまで引っ越して来てしまえば、母が連絡無しに突然訪ねて来ることは無いだろうと思う。職場の人間が訪ねて来ることはまず無いし、他に家を訪ねて来る様な友達もいない。
 会社にも実家にも嘘の住所を教えてしまおうか、とも考えたけど、それではむしろ後で分かってしまった時に言い訳するのが苦しくなる。
 あれこれ考えているうちに車は最後の物件に着いた。
 そこは距離的にはまた駅から離れてしまうけど、海からの距離は3件目とそれ程変わらない、5階建てのマンションの最上階だった。
 間取りは2DKで、四畳半程度のダイニングキッチンと六畳の和室、それにもう一部屋は四畳半の板の間で、その部屋は納戸の様に窓が無い。
 この部屋なら俊が隠れているのに丁度良いかもしれない。
 ダイニングと和室に面したベランダに出て見ると、向かいのマンションとの間には公園があって大分距離がある。向こうからこちらの窓を覗くとしても、望遠鏡でも無い限り人の顔も判別出来ないだろう。
 それにこの部屋を気に入った理由はもうひとつある。ベランダから見える無数のマンション群の合間から、ほんのちょっとだけれど、どうやら海の切れ端が確認出来るのだ。
「ここに決めます」
 と言うと不動産屋へ戻り、駅前にあるATMで現金を引き出す。
 家賃が七万円で契約時には一か月分の前家賃と、それぞれ2ヶ月分の敷金礼金の合計を支払わなければならないので、全部で三十五万円プラス手数料と税金が掛かる。
 来月からの契約では来週引っ越して来ることが出来ないので、家賃を日割りにして貰い、土曜日から住める様にして欲しいとお願いする。
 気の良いおじさんはこちらの希望を聞いて、その通りに契約書を作ってくれた。

 俊との新しい住まいが決まった。少し興奮しながら不動産屋を出ると、家で待っている俊に携帯で電話をかける。
 自宅の電話番号を押して発信ボタンを押す。3回目のコール音の後に留守電に切り替わり、亜希子の吹き込んだ応答メッセージが聞こえてくる。
『はい、倉田です。ただ今留守にしております。発信音の後にメッセージをお入れ下さい』
 ピー音の後に亜希子は語りかける。
「もしもし、俊、私、亜希子だよ」
 すぐにガチャッと受話器を取る音。
『もしもし……』
 と俊の声が答える。
「大丈夫? 変わったことない?」
『うん』
「今部屋決めて来たからね」
『良いところ見つかった?』
「うん、昨日見てた中のひとつだよ」
『そう、今何処から掛けてるの?』
「不動産屋のお店を出たところ」
『すぐ帰って来る?』
「うん……」
 契約が終わったらすぐに帰ろうと思っていたけれど、折角ここまで来たのだし、これから俊と住む街を少し歩いて散策して、東京湾もどんなだか見てみたいと思った。
「少し街の様子とか見て回ってから帰るから、心配しないで、待っててくれる?」
『うん、でもなるべく早くね』
「うん分かった、じゃね」

 携帯を切るとパソコンから打ち出しておいた地図を見て、海の方へ向かって大きな通りを歩く。
 季節は梅雨に入ってるんだろうか、相変わらず空は灰色の雲が覆っているけれど、まだ本格的な雨は降り出していなかった。
 車道は広く、走っている車の数も少ない。地図によると海岸沿いには緑に包まれた広い公園がある。
 歩いて行く先に、生い茂る森の様な一帯が見えて来る。あれがきっと公園なんだ。
 公園に入ると、広々とした駐車場が広がっている。でも止まっている車は一台も無い。
 森の中を縫って続く道を歩いて行く。他に人影は無い。あんまり寂しいのでもしかしたら工事か何かをやっていて、立入り禁止なのを気付かずに入って来てしまったのかな、とまで思ってしまう。
 歩いて行くと広場へ出た。滑り台やトンネル等が付いた大きな遊具の上で、小さな女の子を遊ばせている若いお母さんがいた。
 あ、やっと人がいた……と思ってホッとする。でもこんな寂しい公園で一人子供を遊ばせているその女性の姿が、何か物悲しい感じがする。今日は日曜日なのに、お父さんはいないのかな……。
 等と思いながら通り過ぎて、再び森の中の道へ入り、海の気配がする方へと歩く。風に潮の匂いが混じって来た気がする。
 やがて道に沿って左右に開けた森の間から、海の一角が青く顔を覗かせた。波の音もしてくる。
 森を抜けると海辺に沿って草の生えた堤防がある。上へ登るとその先は砂浜になっており、視界いっぱいの海だった。
 見渡す限り誰もいない……風の音だけがする。東京駅から電車で30分足らずで、こんなところがあるなんて。
 この辺りはU時型に湾曲した東京湾の一番奥まった部分なのだろう。右側には遥かに延びた陸地の上に品川辺りのビル群が見える。そして左側に延びる陸地の先には遠く石油コンビナートが建ち並ぶ工業地帯が見える。
 左右に湾曲した陸地に囲まれた先には遥かな海が広がっていて、遠く船が行き交っているのが見える。
 埋め立ての人工海岸なのだろうか、あとひと月もして夏になれば、きっと海水浴客たちで賑わうのだろうけど、シーズンオフの海というのはこんなにも寂しいものなのか。
 ここならば、俊と一緒に来られるかもしれない……。

 夕暮れが近くなって、帰りの電車に揺られながら、引越しのことを考えている。明日からは会社から帰ったら荷造りを始めなくちゃ。
 引越し屋さんはよくチラシが入っている安い業者で、軽トラック1台と運転手さん一人だけのパックを頼もう。
 だけど……私が業者さんを呼んで引越しをしている間、俊をどうしよう。


第三章 1


 翌日の月曜日。亜希子は家に帰ると俊と愛し合いたい気持ちを抑えて、俊に手伝って貰いながら荷造りを始めた。
 荷物を詰めるダンボールは、府中からここへ引っ越して来た時に取ってあったのが役に立った。
 荷物は殆ど亜希子一人の物だけなので、大した量ではない。
 毎日荷造りを進めながら、大家さんに契約解除の連絡をして、郵便物の転送の手続きや電話とインターネットの移転、それに住民票の移動等、やらなければならないことは山ほどあって、その週は目が回る忙しさだった。
 俊がこの部屋に侵入する時に割ったガラス窓は、引越しの準備をしていて割ってしまったことにしようと思う。その分は敷金から引かれてしまうだろうけど。
 それから、まだどうするか考えあぐねている、俊を連れて行く方法。
 大きな衣装箱か何かに入れて、そのまま荷物として運ぶ……なんてことも考えたけど、きっと重過ぎて引越屋さん一人では運べないだろう、私が手伝うとしても、落としたりして中に隠れていることがバレてしまうかもしれない。その方法では上手く行かない気がする。
 となるとやはり別行動にして、引越屋さんが来る前に俊を家から出しておくのが良いと思う。
 そして私が引越屋さんと二人で引越しを済ませた後で、誰にも見つからない様に俊をあのマンションの部屋に入れる……。
 でもその為には朝このアパートを出てから検見川浜のマンションで引越が終わるまで、俊は誰にも見つからずに何処かに隠れていなければならない。
 そんな場所があるだろうか。相談すると俊はとても不安そうな顔をする。でも他に良い考えは無いのだから、なんとかやるしか無い。
 私が考えたのは、朝まだ暗いうちから家を出て、経堂から始発の電車に乗って新宿に行く。そして暫くは山手線に乗ってグルグル回り続ける。そして映画の上映が始まる時間になったら映画館に行って、そのまま最終回までずっと場内にいる。
 映画館ならば、上映中は暗いので人から顔を見られることは無い。休憩時間に明かりが点いている間は、キャップを深く被って、本を読んでいるか寝ている振りをして俯き加減でいれば良い。
 ただ、このままの姿では知人にでも会えば分かってしまうだろうから、変装した方が良いと思う。
 まずイメージをがらりと変える為に髪の毛を染めて茶髪にする。耳にピアスとかするのも良いと思うけど、自分でやるのは怖くて出来そうにないのでやめる。
 それに服装も、真面目に勉強ばかりしていた俊なら絶対着そうにない様な、柄のついた派手なシャツや、だぶついてわざと腰を下げて履くジーパン等も良いかもしれない。
 会社の帰りに小田急線の下北沢で降りて、何件か若者向けのショップや古着屋を回り、それらしいシャツやジーパン。それにスニーカーとキャップを買って回る。俊に着せると思うと買い物は楽しい。
 そして、上手く出来るかどうか自信が無かったけれど、ヘアーマニキュアを買って、やり方を出来るだけ詳しく店員に教えて貰う。
 家に帰ると俊に買って来た服を着せてみせて、また悪戦しながら髪の毛を茶髪に染める。
 俊の髪は綺麗な栗毛色になった。ストレートでサラサラしているので、ふと俯き加減の横顔を見ると女の子の様に見える。

 金曜日までの5日間で何とか荷造りも済ませると、明日はいよいよ引越しの日になった。俊は朝の5時に家を出なければならないので早く寝ることにする。
 部屋の中は積まれたダンボール箱や荷物でいっぱいになっている。その間に狭く布団を敷いて、俊と抱き合って眠る。どうか引越しが上手く行きます様に。
  
 土曜の朝4時半に起きて、俊をまだ夜が明け切らない外へ送り出す。
 部屋の電気を消したままそっとドアを開けて、辺りの様子を伺う。
 隣の部屋の住人は仕事に行っているし、その向こうの部屋の窓は真っ暗で寝静まっている。
「大丈夫」
 俊はジーパンに明るい色のTシャツとニットのトレーナーを着て、茶髪に染めた頭にはつばの広いキャップを被る。そして口にはマスクをして。肩にはディパック。
 これならきっと俊のことを知っている人に出会っても、言葉を交わさない限り分からないだろうと思う。
 肩に提げたディパックには、今日一日分の食料が入っている。
 それから、もし何かあった時はすぐ連絡が取れる様に、新しく契約した携帯電話を持たせた。
「じゃあね」
「うん。気を付けてね」
「アキコも引越し頑張ってね」
 無事に検見川浜のマンションで一緒に暮らせます様に……と願いながら俊の後姿を見送って、部屋に戻る。まださすがに早いのでもう少し寝ていようと思う。引越屋さんと約束した8時までにはまだ3時間もある。
 ダンボール箱に囲まれた布団に横になる。7年暮らしたこの部屋とも、お別れなんだなと思う。
 過ぎてしまえばアッと言う間だったけど、思えばいろんなことがあった。
 何よりこの部屋に住んでいた殆どの間、私には隆夫がいた。でもそのことを思っても、今の亜希子には未練の様な物は感じられない。

 7時30分にセットしておいたアラームが鳴って目を覚ます。俊は予定通り山手線の中にいるだろうか。携帯のメールを確認する。
『今無事に山手線に乗ってるよ。最初は空いてたけど段々混んで来た。ずーっと寝たフリしてるよ』
 どうやら無事に電車の中にいる様だ。それでも少し心配な気持ちに駆られながら、歯を磨き、朝食に買っておいたサンドイッチを食べる。
 やがて表に軽トラックが止まる音がして、ノックと共に「ごめんくださーい、引越のスガイです」と元気な声が呼び掛けて来た。
「はぁい」
 とドアを開けると、派遣されて来た引越屋さんは似合わない明るい色のユニフォームを着た50歳くらいのおじさんだった。
「今日は宜しくお願いします」と帽子を取って頭を下げるおじさんに「はい、こちらこそ」と挨拶を交わすと、おじさんは慣れた手つきで荷物を運び出し始める。
 荷物は洋服や様々な小物や書籍、それに食器類等が入った6個のダンボール箱と、4個あるポリエチレンの収納ケース。
 大きな物は一人用の洋服ダンスと食器棚、それに運び易い様に分解しておいた組み立て式のラック。
電化製品は21インチのテレビとミニコンポのセット。電気炊飯器と電子レンジ。それに冷蔵庫と洗濯機。
 重い物は二人で担ぎながら、せっせとホロが付いた軽トラックの荷台に運んで行く。
 1時間も掛からずに全部運び込んでしまい、今から出発すればお昼頃には向こうへ到着することが出来そうだった。
 荷物の無くなった部屋の中を見ると、こんなにもちっぽけだったのかと思う。ここにあった7年間の暮らしは、瞬く間に霞の様に消えてしまった。
 しばし佇んでから、部屋を出て軽トラックの助手席に乗る。
「それじゃ、行きましょうか」とおじさんはエンジンを掛けてトラックを発進させる。
 そっと携帯を開いてメールを見る。
『映画館に入ったよーお客さん僕入れて5人くらいしかいないよー朝だからかな』
 予定通り映画館にいる。あんまり観客が少ないというのは心配だけれど。次の回になればきっと人も増えるだろう。
『なるべく目立たない様に気を付けてね。こっちも順調だから、辛抱強くしてるんだよ』
 と返信する。大丈夫、きっと上手く行く。と悲観的な想像はしない様にして携帯を閉じる。
 軽トラックは世田谷通りを左折して、三軒茶屋から首都高速に乗る。一ノ橋ジャンクションと浜崎橋ジャンクションを経由して、レインボーブリッジを渡り、湾岸線を走って行く。
過ぎて行く海を眺めていると、自分がしていることは何だろう……という思いが沸き上がってくる。まるで止めることが出来ない滑り台を降り始めてしまった様な感じだ。
 でもこの先に待っている物が何なのかということに恐れを抱いてはいなかった。自棄になっているつもりもない。行くところまで行ってやれという開き直りとも違う。
 自分にも説明することは出来ないけれど、止めることは出来ないと思う。
一方で僅かに残っている冷静な亜希子は思う。せめて俊のお父さんにだけは、俊が無事に生きていることを伝えておいた方が良いのではないか。まだ俊がいる場所や私のことは秘密にしておくとしても……。

 やがて高速道路は京葉線の線路と平行して走り出し、葛西臨海公園とディズニーランドを横目に過ぎて、習志野インターチェンジを降りる。
 そして新興住宅地の建ち並ぶマンションの中を走り始める。
 広い車道を快調に走り、検見川浜駅から程近いそのマンションへ着いた。
 おじさんは手際よく荷物を台車に乗せてはエレベーターで5階まで上がり、部屋に荷物を運び込んで行く。
 冷蔵庫や食器棚等は間取り図で決めておいた場所に置いて貰う。
 亜希子も手伝って、1時間くらいで全ての荷物を運び込んでしまう。
 伝票にサインして料金を支払うと「それじゃ、ありがとうございました」と頭を下げておじさんは帰って行った。
 時間はまだ1時半だった。こんなに早く終わるなんて。
 携帯電話を出して見ると、俊からの新しいメールが入っている。
『一回目が終わったら沢山人が入って来たよ。今から2回目たけど、面白かったからもう一度観ても退屈しないかも、良かった♪』
 ホッと笑顔になって返信を打つ。
『私も無事に着いたよ、荷物を運び入れて、ひとりで整理してるところだよ』

 あとは俊が誰にも見られずにこの部屋に入ることが出来れば成功だ。
 俊には最終回が終わるまで映画館の中にいて、検見川浜駅に着くのは終電近くになる様にと言ってある。
 早く俊の顔を見たいのはやまやまだけれど、ここで焦って計画が失敗してしまっては元も子もない。
 逸る気持ちを抑えながら、運び込んだダンボールを開梱して、家財道具を出して片付けていく。細々とした食器や調味料等を食器棚や冷蔵庫に入れて行く。
 六畳間には造り付けの押入れがあるので、上の段に布団を仕舞い、下の段には衣装ケースを入れる。
 この前俊が引っ張り出した画材等が入っているダンボールは、経堂の部屋でも殆ど押し入れに入れっぱなしだったので、そのまま押入れに入れる。
 窓の無い四畳半の板の間は、昼間俊が一人でいる部屋にするつもりなので、小さなテーブルや椅子等を買ってあげようと思う。
 そういえばお昼を食べていないと思い、何か買いに行こうと家を出る。
 ドアを閉めて鍵を掛け、外に面した廊下を歩き始めると、ちょうどエレベーターから降りた買い物袋を提げたおばさんが、こちらへ歩いて来るところだった。
「こんにちは」と声を掛けられて亜希子はぎこちなく「どうも……」と返事をして会釈する。
 通り過ぎた後、暫くしてそっと振り返って見ると、そのおばさんは亜希子の部屋の3つ向こうのドアを開けて入るところだった。
 昔は引越しをすれば両隣やご近所に菓子折り等を持って挨拶に回ったものだけど、今はそういうご近所付き合いは一般的にもあまりしないで済ます人が増えているという。
 亜希子はこのマンションで一人暮らしという体裁なのだから、下手に親しくなって家を訪ねられたりしたらまずいことになる。
 近所付き合いはなるべくしない方が良い。その為には孤独を愛する女でも演じていればいいのだ。

 マンションの敷地から広い道に出ると、遠くに京葉線の高架が見える。
 その方向へ7~8分歩くと駅だった。駅までの時間は経堂にいた頃とそう変わらない。
 土曜のせいか駅前に来ると結構人が出ている。子供を連れた家族連れやカップル、若い人たちもいる。
 殆どの人はきっとこの辺りに住んでいる人なのだろう「……これから私も、この街に住むことになりました。宜しくお願いしま~す……」と心の中で言ってみる。
 スーパーに入り、簡単なオニギリと唐揚げの入ったパックと、ペットボトルのウーロン茶を買う。
 マンションへブラブラ歩いて戻りながら、あの人たちの中で、私の姿はどんな風に映ったのだろう……と考えてみる。
 きっと主婦には見えないだろうし、カッコ良いキャリアOLという訳にもいかないだろう。一人暮らしの寂しいOL? 単なる売れ残り? 行かず後家? 今はそんな言い方はしないのかな、寂しい女? というより、そもそも私のことなんか誰も見ちゃいないだろう。でもその方が良いんだ。何しろ目立たない方が良いのだから。

 大方部屋の片付けも一段落して、外はもうすっかり暗くなっている。
 携帯を見ると俊からのメールが届いている。
『ヤッホー! また同じ映画観るの嫌だから~今二つ目の映画館にいるよ。チケット売り場はガラスで仕切られてたから、顔もそんなに見られなかったから大丈夫だよ。コレの二回目が終わったら映画館から脱出するよ』
 映画館を移ったって? もう、危ないことするんだから……。でも一日中同じ映画を4回も観てちゃ嫌にもなるか、無事だったのなら良いか。と思い直して返信する。
『こっちも順調だよ! 俊の部屋とか早く見せたいよ。検見川浜駅に着いたらメールしてね』
 俊からのメールが来ていたのは7時23分だった。映画の最終回が始まる前の休憩時間だったのだろう。
 映画が2時間くらいなら終わるのは9時半頃だ。それから新宿で中央線に乗り、東京駅で京葉線に乗り継いでここまで来るのに1時間半くらいはかかるだろう。だとすれば検見川浜に着くのは11時半くらいだろうか。
 俊がこの部屋に入るところを誰にも見られてはならない。本当はもっと遅い時間、それこそ深夜の3時や4時頃の方が確実ではないかと思うけど、電車も走っていないそんな時間まで俊が待っていられる場所は無い。
 もう引越し屋さんもいないし、誰にも見られる心配はないので、メールが着たら着信音が鳴る様に携帯を設定する。
 テレビを点けて、チャンネルをパチパチと変えながらニュース番組等を見てみるが、俊の事件についての報道は無い。
 いよいよ俊を迎える時間が近くなって、そわそわし始めると、ピピッ……とメールの着信音が鳴った。画面を開く。
『今新宿駅で電車に乗るところだよ、東京駅で乗り換える時またメールするね』
 あと1時間半くらいで俊が来る。
 
 それから1時間が過ぎると、家を出て駅へと向かう。
 駅前のコンビニに入って週刊誌を立ち読みしながら連絡を待つ。
 まだかまだかとそわそわしていると、11時20分になって携帯がメールの着信を告げるバイブレーションを起こした。
 サッと出して見る『今駅に着いたよ』。
 読みかけの週刊誌をレジに持って行き、お金を払うと外へ出る。何も買わずに出たのでは、立ち読みばかりして買わない人、と言う印象が残ってしまうかもしれないから。とにかく誰の印象にも残りたくない。
 コンビニを出て小走りに駅へ向かう。京葉線の駅は高架になっており、改札はホームから階段を降りたところに広く作られている。
 ホームに電車が入って来た音がする。
 俊の携帯番号をプッシュする。ここまで来ればメールではなく、話をした方が早い。
「もしもし、俊? 何処にいるの? 私も駅に来てるよ、今改札の前」
『はいはい、僕も今ホームから階段を降りてるところだよ……』
 改札の側へ来て俊の姿を探す。階段から降りてくるまばらな人影の中に、こちらに向かって手を振っているキャップを被った今時の若者然とした姿があった。
 俊……間違いない、今朝経堂のアパートから、まだ夜が明けきらない暗い街の中へ、手を振って歩いて行った俊が、今ここに来た。無事に来た。
 自動改札機に切符を入れて出てきた俊と並んで歩く。こんな風に外を並んで歩くのは始めてだった。嬉しい様な、照れてしまう様な感じがする。歩いていても水の中でつかむところもなく浮遊している様な、心元ない感じがする。
 俊はキャップは被っているけれど、マスクはしていない。交番は駅の向こう側にしかないので、警察官に出くわすことはないかもしれないけど、ちょっと心配になって辺りを警戒しながら俊の少し前を歩く。
「大丈夫だよ、新宿にいても映画館の中も誰も僕の顔見る人なんていなかったよ」
 今日一日無事に過ごして来たことで自信を持ったのか、私が警戒しすぎるという様に、余裕のあることを言う。
「何言ってんのよ、どれだけ心配したと思ってるのよ」 
 辺りをはばかって小声で、でも厳しい顔をして言うと。
「うん、ごめん」
 と黙ってしまう。まだ安心なんてしてられない。私はここで一人暮らしを始めるという体裁なのだから、男の子と一緒に歩いているところを思わぬ知人にでも見られたら大変だ。
 知った人に見つからずにマンションまで歩いて行って。そこから5階の部屋までは、他の住人にも見られずに俊を部屋の中に入れなければならない。
 駅から離れると途端に暗い道になり、歩いている人も少なくなる。
 マンションに着くと、エレベーターを使うのは危険だと思ったので、脇に付いている外階段から5階まで登ろうと思う。
 まず亜希子が登って、階段や廊下に誰も人がいないことを確認したら上から合図する。そうしたら登って来るようにと打ち合わせする。
 時間は11時40分。さすがにまだ窓に明かりの点いている家が多いけど、エレベーターホールや各階の廊下はひっそりとして人影は無い。
 亜希子はゆっくりと足音を忍ばせて5階まで登ると、息を弾ませながら踊り場の縁から身を乗り出して、下から見上げている俊に手を振って合図する。
 すると俊の姿が中へ消える。階段を登り始めたのだろう。
 亜希子は俊がここまで登ってくる間、誰にも見つかりません様にと願いながら、階段や廊下の物音に耳を澄ませている。
 無事に俊が登って来た。まずは一息つく。今度はまっすぐな廊下を歩いて、部屋の前まで辿り着き、ドアの中へ入ってしまわなければならない。
 亜希子が先に行き、ドアを開けたらそのままの状態で待っている。そこへ俊が後から足音を忍ばせて向かうことにする。
 部屋は外階段のある一番端から数えて6番目のドアだ。先に亜希子がそっと廊下を歩いて部屋へと向かう。
 ドアの前まで来ると鍵穴にそ~っと鍵を差し込んで、ゆっくりと回す。カチャッと小さく音がしてロックが解ける。ノブを回してドアを開く。少しだけキーッと軋む音が響く。
 向こうの端まで見渡せる廊下に人影は無い。ドアを開いたまま俊が待っている外階段の方へ手を振って合図する。
 背中を屈めて忍者の様な格好でスタスタと俊が足早にやって来る。
 思わず吹き出しそうになりながら、それでも真剣な俊の顔を見て笑いを堪える。
 開いたドアの中に俊を入れて、そのまま自分も入ってドアを閉める。
 鍵を閉めて、その上チェーンロックまでガチャリと掛ける。
 玄関脇のスイッチを入れて電気を点けると、部屋の中に立った俊が亜希子を見ている。
「成功?」
「うん、俊は? 本当に誰にもヘンな目で見られたりしなかった?」
「うん」
「そう……上手く行ったね」
「うん」
 と言うと俊は顔を崩して嬉しそうに笑った。その途端緊張が解けて亜希子も笑顔になる。
 もう大丈夫だ。あまり大きな声を立ててはならないと思いつつ、目尻から涙を流して、二人してヒーヒーと笑う。
「良かったね、俊、上手く行った上手く行った……」
 小声で囁きながら抱き締めて、今日から暮らす新居で始めてのキスをする。
 まだ荷物も片付け終わっていない畳の上で、布団を出すのももどかしく、そのまま縺れ合った。


第三章 2


 新居へ来て一週間が過ぎて、荷物もあらかた片付いてきた。
 俊には四畳半の部屋でも見られる様に小さなテレビを買って上げて、ノートパソコンも繋いであげた。亜希子が会社に行っている間ずっとそこにいてインターネットを見たり、テレビやDVDを見たりしている。
 その部屋には窓が無いので、外から覗かれる心配は無い。
 引越先を何処にしようかと相談した時、俊は「窓から海とか見えたら最高じゃん」と言ったけど、ここからは遠く建物の合間から海の欠片が覗けるだけだった。
 まぁそれは仕方ないだろう。それでも引越し費用に40万円以上のお金が掛かってしまったのだから。そう贅沢を言っている訳にも行かない。
 ダイニングキッチンと六畳に面したガラス窓を開けるとベランダに出ることが出来る。
 六畳間の窓には経堂で使っていたカーテンを掛けたけど、サイズが少し小さいし、生地が薄いので夜は外から人影が動いているのが分かってしまうだろう。
 なのでダイニングの分も一緒にサイズを測り、デパートで厚手のカーテンを探して買って来ることにする。
 会社には明日にでも転居の旨を報告しておかなければならない。

 翌日のお昼休み、皆で会議室で昼食を済ませた頃、総務の小石さんが一人でいるところにそれとなく近づいて、そっとその旨を伝え、新しい住所を書いたメモを渡す。
「あらそう? どうしたの急に? もしかして誰か同居人が増えてたりして」
 と笑顔で言われてドキリとする。
「同居人なんている訳ないじゃないですか~ちょっとした気分転換ですよ~」
 と誤魔化したが、少し慌てた感じになってしまった。
 引っ越したことは実家にも知らせなければならない。それは今度母が電話を掛けて来た時にでもしよう。
 ただ気分転換がしたかった。とさり気なく伝えようと思う。家の電話番号は変わってしまったけど、繋がらなければ携帯の方に掛けて来るだろう。
 通勤はまだ乗り換えに慣れず、遅刻しない様に時間に余裕を持って出ることにしたので、最初の2日間はかえって早く着き過ぎてしまった。
 検見川浜駅から日本橋まで行くのに八丁堀と茅場町で2回乗り換えなければならない。けど時間的には経堂から通ってた時と10分くらいしか変わらなかった。
 ただ、ここには経堂の様な商店街が無いので、買い物は全て駅にあるスーパーで済ませなければならない。商店街のいろいろな店を回って、安い物を探して歩くという楽しみが無くなったのは寂しかった。
 整然とマンションが建ち並ぶ街は広々として、車道も広く、吹き抜ける風は海が近いことを感じさせる。
 世田谷の街とのギャップを感じれば感じる程、新しい生活が始まったのだと言う実感が沸く。ただこの街も、俊と一緒に歩くことは出来ないのだと思うと寂しいけれど。
 でも、ここならば俊の顔を知っている人と出会う可能性はかなり低いんじゃないだろうか。俊は知人でこの辺りに住んでいる人は親戚にも友達にも聞いたことがないと言っているし。
 俊のことを知っている人にさえ会わなければ、誰にも俊が母親を殺した少年だとは分からないだろう。顔写真が公開されている訳でも無いのだから。
 でもやはり用心に越したことは無いと思う。何か不審を抱かれることや、俊を見た人が顔を覚えてしまう様な印象を残してしまったら、もしかしたら1ヶ月前に報道された世田谷の事件と俊とを結び付けて考える人がいないとも限らない。

 デパートから届いた厚いカーテンを六畳間とダイニングの窓に吊り下げる。
 これなら夜でも光が漏れないので、中で人が動いても外から見えることはないだろう。
「ねぇ、少しだけ海が見えるって言ってたじゃない、それって何処?」
 と俊に聞かれて、朝お弁当を作って会社に行く前に、ダイニングキッチンのカーテンの脇からそっと外を見て、俊にその場所を教えてあげる。
 折り重なる様に建ち並ぶマンション群の間の先の方、ほんの少しだけマンションとマンションの間に青い欠片が覗いている。
「ほら、あそこ、見える? レンガ色っぽいマンションとマンションの間」
「え? 何処、あ、あれか? ホントだ、あれが海なんだ、ふ~ん、近いじゃん……」
 そう、海は近い。折角こんなところへ引っ越して来られたというのに、俊にはあんな小さな切れ端でしか海を見ることが出来ない。
 この部屋を探しに来た時に一人で歩いた。あのひっそりと広がる東京湾の砂浜を、俊と一緒に歩いてみたい。

 検見川浜駅7時39分発の快速東京行きに乗って、ギュウギュウのラッシュに揺られながら、亜希子は思っている。
 昼間は人目に付くからダメだけれど、例えば引越しの時みたいに、まだ夜が明けきらないうちに家を出て、海岸に着いてから夜が明けるのを待てば、誰にも見られずに海岸を歩くことが出来るのではないか。
 この前来た時は午後の時間だったけど、全く人がいなかった。夜明けの時間なら尚更誰もいないんじゃないだろうか。
 それに万が一誰かに見られたとしても、私が倉田亜希子であることも、一緒にいる少年が越川俊一であることも、誰にも分かりはしないのだから。
 
 駅近くのショッピングセンターで自転車を買おうと思った。歩いて行くよりも俊を乗せて自転車で行った方が早いし、通行人に顔を見られる心配も少ない。
 なるべく二人乗りがし易そうな、所謂ママチャリを選んで買おうと思う。

 その朝、俊と亜希子は朝の4時半に起きた。
亜希子が先にドアを出て、ドアの脇に置いてあるピカピカの自転車を押してエレベーターで一階に下ろす。
 エントランスを出ると、マンション全体の外廊下と階段が見える位置に来て、誰も人がいないのを確認して俊に手を振る。
 目深にキャップを被った俊がサッとドアを出て、例の忍者走りでスタスタと廊下を走って行く。
 やがてエレベーターが一階に着いて、走り出て来た俊は自転車の後ろにサッと跨り、亜希子はうんしょとペダルを踏み込む。
「大丈夫? 変わろうか?」
「いいから、ちゃんと顔伏せて私の背中にもたれてるのよ」
「誰も人なんかいないよ」
「いいから」
 うんしょうんしょと重いペダルを漕ぐ足がもどかしく、時々フラフラとよろめきながら広い車道の脇を走る。
 車も殆ど走っていないので、信号を守る必要も無いくらいだ。海岸線に広がる森の様な公園を目指して漕いで行く。
 やっと公園の入り口に入る。ここまで誰にも擦れ違うこともなく、途中2~3台の車が行き交ったけど、亜希子たちに関心を向ける様子はなかった。
 広場を横切り、海岸線と平行している森に囲まれた道を走って、海岸へ出る横道があるところを探す。
 どうやら海への入り口らしい道の脇に自転車を止め、コンクリで作られた階段を俊と二人登って行く。
「もうこの先が海だよ」
「うん」
 ザザーとさざ波の音が聞こえて来る。辺りは真っ暗だ。堤防の様に盛り上がった草地を乗り越えて行くと、そこはもう砂浜で、すぐそこに打ち寄せる波が迫っている。まだ夜が明けないので、海と夜空との境目が無く、ただ真っ暗が視界いっぱいに広がっている。
「何も見えないね」
「うん、気を付けて、大丈夫?」
 声を掛け合って歩き、草地と砂浜の境辺りに二人で腰を下ろす。
 今日はそんなに天気が悪い訳ではないと思うけど、やはり東京の空は汚れているのか、星は微かに数える程しか見えない。
「あとどれくらいで夜が明けるのかなぁ」
「分かんない、でもほらあの遠くの方が少し白くなり始めてるから、きっともうすぐだよ」
「そうかな」
 言っているうちに空はどんどん明るさを増して行く様だった。空全体が白っぽく透けて来て、バックの空と雲の区別が付き始めると、砂浜も隣にいる俊の顔も見えてくる。
 海もどんどん青くなって、遠く水平線が現れて来る。見渡す限りに人影は無く、広がる海岸線の真ん中で、二人きりだった。
 俊が立ち上がって波打ち際の方へ歩いて行く。亜希子も立って俊に続く。砂浜に出ると途端にボコボコして歩き難くなった。
 遠く右手を迂回して遥かに見える陸地には品川港と、もっと先に建ち並ぶビル群の影が見える。反対側の左手に伸びる海岸線は、遠く湾曲した先に赤い光が幾つも点滅して、建ち並ぶ工業地帯のコンビナートや煙突等が見えている。
 風を受けながら海の先を見つめる俊の横に亜希子も佇む。
 左右の海岸線に囲まれた先に水平線がある。あの赤くなって行く雲の向こうから太陽が登って来るのだろう。
「綺麗だね……」
 月並みだけれど、他に言う言葉も思いつかない。黙ってこちらを向いた俊と、抱き合ってキスする。朝靄の中、果てしなく広がる海の前で、ギューっと抱き締めた俊と自分の温もりがある。
 亜希子は、今この時が二人の永遠であると思う。

 経堂の時とは反対の方角から通うことになった会社へは、八丁堀と茅場町で乗り換えなければならないのだが、八丁堀で降りて歩いてもそう変わらないことが分かった。
 駅から歩く距離は長くなってしまうけど、その分電車に乗っている時間は短い。
 すっかり梅雨に入って傘を差して歩く日が多いけど、それでも地下鉄の乗換を2回繰り返すよりは良いと思った。
 おそらくお喋り好きな小石さんから聞いたのだろう。隣の淵松絵美子さんが「倉田さん引っ越したんだってぇ?」とニヤニヤしながら話しかけて来た。
「はい、ちょっと気分を変えようと思って」
 変にうろたえてはならないと思い、落ち着いた風を装って言葉を返す。
「それってひょっとして誰かと一緒に住んでたりして?」
 と絵美子さんは食い下がって来る。
「アハハハ、何言ってんですか」と笑ってごまかす。
「本当~? そんなこと言っちゃって、そういえばなんだか最近やけに活き活きしてるなぁとは思ってたんだよねぇ~う~ん怪しい怪しい……」
 とニヤニヤしながら疑惑の視線を投げ付けて来る。……一人暮らしの女が引越すとどうして皆そんな想像ばかりしたがるんだろう……実際そうなんだけど……と心の中で舌を出す。
 近頃の私はそんなに活き活きして見えたんだろうか、自分では以前と変わらず淡々と仕事をしているつもりだったのに。
 無意識のうちに態度が変わってしまってたのかもしれない。傍から見れば変に浮かれてるというか、ハイテンションになっているという様な、どんな風に見られていたのかと思うと、ちょっと恥ずかしくなってしまう。
 というよりも、それ以前が余りに暗く沈み過ぎていたせいじゃないかとも思う。これからは気を付けなくちゃ……。

 肉体関係を持ち始めた頃の俊は全く受身の態勢で、自分から働きかけて来たりはしなかったのだけれど、近頃は慣れて来たのか、自分の方から積極的に責めて来る様になった。
 もう私に主導権は無く、飢えた野獣みたいにガンガン掛かって来る俊の情熱に、自分では分からないのだけれど、私はあらぬ声を上げる様になっているらしい。
 後で俊に「ねぇねぇ、アキコってさぁ、時々壊れちゃう~とか死んじゃう~とか言ってるけど、あの時ってホントに凄く苦しくなったりするの?」
 と真顔で聞かれた時には、顔が真っ赤になってしまうのが分かった。
 俊にそんなことを言われても腹は立たないけど、ホントに私はそんな言葉を口走っているんだろうか、隆夫が経堂のアパートに置いて行ったアダルトDVDの女たちの様に、自分もなっているのだろうか。
 でも確かにその瞬間、ただ夢中で俊の首にすがり付いて頭の中が真っ白になり、全てが光に包まれて分からなくなる。
 今の私はただその瞬間の為だけに生きていると言ってもいいかもしれない。その瞬間さえあればどんなことがあっても生きて行けるという様な。
 私はもう、俊無しには生きられない、そして俊もきっと。嫌、そのことを抜きにしても、俊は殺人を犯した逃亡者なのだから、私無しには生きられない。

「なぁ、お腹空いたよ、御飯作れよ」
「うん」
 俊はだんだん横柄に振舞う様になってきた。大人の女を征服したことで、いっぱしの男にでもなったつもりなんだろうか。
 俊が乱暴な口をきいてアレをしろコレをしろと命令しても、私は従順に聞いてあげる。
 偉そうに命令しても、その顔はやっぱり17歳の少年で可愛らしい。横柄な物言いも子供の我侭みたいに思えて、愛しいと思える。
 亜希子が仕事に行っている間、俊は四畳半で亜希子が借りて来た映画のDVDを見たり、買って来たゲームをしたりしている。
 DVDは俊と同じ年頃の高校生が観る様なハリウッドの大作映画やディズニーのアニメ映画、テレビドラマ等を借りて来て欲しいとせがんだ。
 俊は子供の頃から母親に勉強ばかりさせられて、テレビ番組等は見せて貰えなかったのだという。
 また亜希子のノートパソコンを使ってインターネットも見ている。何を見ているのかは聞いたりしないけど、新しい映画のことや、同年代の高校生が集まる掲示板等を見ているらしかった。
 自分の起こした事件のことも調べているのだろうか……と思うけど、敢えて聞いてみることはしない。
 けれど、帰って来て俊が使った後電源の落ちていたパソコンを立ち上げて、インターネットの検索履歴を表示してみると、そこには「世田谷区の殺人事件」とか「少年事件」等のキーワードが残されている。

 また俊はインターネットで見つけた「ガンダム」や「スターウォーズ」のフィギアやグッズを買って来て欲しいとせがんだ。私が間違えて買って来ない様に、商品名や型番を詳しくメモに書いてくれる。
 俊の書いてくれたメモを頼りにデパートへ買いに行くのだが、ガンダムのプラモデルの売り場へ辿り着いてみると、店の一角に山と積まれた種類の多さに驚いてしまった。
 亜希子の目にはどれも同じ様に見えるのだが、俊のメモに書いてある型番と同じロボットはなかなか見つからない。遂には眩暈がして来てしまい、親戚の子供に頼まれたのだと言って店員に助けて貰うしかなかった。
 俊が子供の頃お小遣いを貯めてやっと買って来た変身ヒーローの人形等を、母親は勉強の邪魔になると言って取り上げてしまったり、知らぬ間に捨ててしまったりしたのだという。
 だから俊は小さい頃に観れなかったアニメやヒーロー物のDVDを夢中になって見て、それらのフィギアやプラモデルを欲しがる。
 そしてまた一方で、俊の教養や知識の豊富さには驚かされた。
 一緒にテレビのクイズ番組を見ていると、一般の教養を試す様な番組では殆ど全ての問題を正解してしまう。
 歴史や地理、化学や物理に至るまで、大学の試験科目になっている教科の知識は特に凄く、クイズ番組に出場している知識人も敵わないのではないかと思えるくらいだった。

 経堂のアパートであの夜激昂して亜希子を泣かせてしまって以来、俊は事件については何も語ろうとしない。亜希子も聞かない。お互いがもう無かったことにでもしているかの様に、全く触れもしない。
 俊は毎日亜希子の帰りを待ちかねて、帰って来ると抱きついて来て、甘える様に食事や欲しい物をねだる。
 亜希子は何でも俊の言うことを聞いてあげる。今はただ俊の我侭を聞いてあげるのが幸せだった。


第三章 3


 このマンションに越して来て1ヶ月が過ぎた。7月も中旬に近づいて、日に日に陽射しが強くなって行くのが分かる。季節は既に夏真っ盛りと言う感じだった。
 世間では次々と新たな凶悪事件や凄惨な殺人事件が続発していて、ワイドショーは慌しく報道を重ねている。俊一の事件はもう古い記憶として忘れ去られているみたいだ。
 近頃俊は太ってきた。そりゃ一日中家に篭もって食べてばかりいるので当然といえば当然だけれど、プヨプヨしてきた。
 面白がって俊のふっくらした頬を指で突付いてみる。柔らかい。
 これからは栄養のバランスも考えてあげなくちゃ……。
 俊は自堕落な生活を続けている。外に出られないので仕方がないということもあるけれど、近頃は昼間ずっと寝ているらしく、夜は亜希子が寝てからもずっと板張りの部屋に篭もって起きているらしい。朝になって亜希子が起きるとまだ部屋でパソコンをしていたりする。
 亜希子が会社に行くのを玄関口で送ってくれることもなくなってきた。板の間のドア越しに「それじゃ、行ってくるね」と声を掛けると「うん、行ってらっしゃい」と返事はしてくれるけど。
 そして亜希子が仕事を終えて帰って来ると、俊は六畳間に敷かれた布団で寝ている。暑いからエアコンを一日中点けっ放しなのは仕方が無いけれど、電気代が一人暮らししていた時の二倍以上になってしまった。
 この頃から些細なことで口喧嘩もする様になった。亜希子は一日会社で仕事をして、帰りに駅前で買い物をし、帰って来ては部屋の掃除や食事の用意等、家事一切をしなければならない。
 俊は一日中涼しい家にいてすることも無いクセに、何も手伝ってくれない。
 スナック菓子やジュースの空き缶は食べた場所に放りっぱなしで、きちんとゴミ箱へ入れることもしない。
 ただでさえ仕事のストレスを溜めて帰って来たところへ、部屋の散らかし放題な有様を見るとついイライラが募ってしまうのだ。
 溜まりかねて「少しくらい協力してくれたっていいでしょう」と言うと「僕だって手伝いたいけど、外へ行けないから買い物は出来ないし、ゴミ出しだって出来ない。アキコがベランダに出ちゃダメだって言うから洗濯だって出来ないじゃないか」と言い返されてしまう。
「それでも部屋の掃除とか、お風呂の掃除だって出来るじゃない!」と言うと、プイとふて腐れた様に板張りの部屋へ入ってしまう。
 亜希子には「少しは私の身にもなってよ」という気持ちがあって、ついつい当たってしまうのだ。
 それでもその後部屋から出てきた俊と夕ご飯を食べ、二言三言言葉を交わすうちに喧嘩のことは無かったことにして、時にはその後愛し合うことでチャラになった。
 そんなことが繰り返されて、亜希子と俊の日々は過ぎて行った。

 ちょっと喧嘩してもすぐ仲直りして……そんなことの繰り返しにも慣れて来てしまうと、もう喧嘩をした後白々しく仲直りすることにも嫌気が差して来たのか、俊は亜希子が仲直りしようとしても、浮かない顔をそのままにして、部屋へ入ってしまう様になった。
 どんな男女にだって付き合っていれば、いや結婚したとしても、倦怠期という物はある。結婚していないカップルの場合はそれでダメになってしまったり、結婚している夫婦だって離婚してしまったりすることもあるけれど、そうした危機を乗り越えてこそ、本当の夫婦の絆が出来て来るという物じゃないか。
 夫婦……無意識のうちに自分と俊とのことをその概念で考えていることに気付いて驚いた。
 そうだ。夫婦なんだ。お互いに相手がいないと暮らして行けない俊と私とは最早夫婦も同然なのだから。このくらいの倦怠期なんて当たり前のことだし、頑張って乗り切って行かなくちゃ。
 俊は家事にも掃除にも協力してくれないけれど、もう文句を言うのはやめよう。亜希子は黙って俊に尽くすことだけを心掛けようと思う。
 でも、更に月日が経つと俊はずっと不機嫌に黙ったままになってしまい、ろくに口も開いてくれなくなってしまった。なので喧嘩にさえもなりようがない。
 当然ながらセックスもしない。仕事が終わって帰って来た時、俊がまだ六畳間で寝ているので、そっと板張りの部屋に入ってパソコンを開いて見ると、ブックマークに沢山のアダルトサイトが登録されている。
 それにヘンな出会い系サイトや登録制の裏ビデオサイト等にもアクセスしているらしかった。
 心配になって電子メールを開いて見ると、ヤフー等のサイトを通して登録するフリーメールアドレスを取得して、出会い系サイトで知り合った何処の誰とも分からない相手とメールのやり取りをしている。
 そのアドレスで登録したアダルトサイトから、閲覧した料金の請求メールも沢山来ている。そんなのは無視しても大丈夫だと思うけど、凄く不快な感情に襲われてしまう。嫉妬とは少し違う気がする。それよりは酷く情けない様な感情だった。
 部屋に置かれたゴミ箱には沢山のティッシュの固まりが放り込まれている。
 そのひとつを摘み上げて顔の近くに寄せてみると、やっぱり俊の匂いがする……。
 パソコンを取り上げてしまおうか、とも考えたけど、思えば一日中一歩も外へ出られない俊にとって、インターネットだけが世間と繋がる唯一の窓口なのだから、それは出来ないと思う。
 どんなに夢中になったって、インターネットなんて所詮バーチャルなのだから。例え相手が女であれ、見知らぬ者同士が何を語ろうとそれがリアルに展開することはない。
 もし自分は母親を殺して逃亡中の高校生だなんてことをメールに書いたり掲示板に書き込んだりでもすれば、この場所が特定されてしまうことは前にしっかり言い含めておいたから、大丈夫だろうと思う。
     
 その日も仕事で遅くなって疲れて帰って来て、電気を点けるとまだ俊が寝ており、部屋の中は食べ散らかしたお菓子の包みや食べかけのカップヌードルで散乱した状態だった。
「お母さん……」
 ビクッとして見ると、俊が眠ったまま呟いている。
「お母さん……お母さん……」
 あの夜経堂のアパートで魘されていた俊が暴れ出したことを思い出して、そっと近付いて声をかける。
「ただいま……俊。私だよ……」
 薄く目を開けて亜希子を見た俊は、顔をしかめて起き上がると、何も言わずにトイレへ入って行く。
 仕方なく部屋を片付けていると、戻って来た俊が折角畳んだ布団にまたドテッと倒れ掛かる。
「まだ寝るの? どうせずっと昼間寝てたんでしょ」と言うと「う~ん、寝過ぎで眠いんだよ……」と言う返事「もう、いい加減にしてよ」と俊の下から布団を引っ張り出すと「うるせんだよババア!」と俊が怒鳴った。
 そのままドタドタと板張りの部屋へ入ってしまう。
 散乱した部屋に残された亜希子は呆然としてしまい、その場にへたり込んでしまう。
 俊の生活は荒んでいる。私は毎日仕事に行かなきゃならないから、規則正しい生活を送っているけれど、俊にはそれが無いから……毎日暇すぎる時間を持て余して、自堕落にも飽きて、一方ではまだお母さんのことにも意識を苛まれて、精神的におかしくなっているんじゃないだろうか。
 この生活がこのまま何十年も続けられるとはとても思えなくなってしまった。日本人の平均寿命が80歳として、17歳の俊の人生はまだこの先60年もある。一生こんな生活を送って行ける訳はない……。
 俊にはまだ将来があるのだ。このまま私と暮らしていたのでは、それをダメにしてしまう。
 もしこのままの生活を続けて行って、時効というものが成立すれば、殺人の罪を問われることはなくなるだろう。以前は殺人事件の時効は15年だったけど、最近法律が変わって25年になったんだろうか。未成年の犯した罪でも時効の期間に変わりがないとしたら、25年の時効が成立した時には俊は42歳になっている。
 もしその時まで隠れていることが出来たとしても、母親を殺した殺人者という事実からは逃れられない。そんな俊のことを、世間が受け入れてくれる訳もない。  
 そもそもそんな年齢になってしまったら、人生をやり直すことは出来ないだろう。
 それでなくても俊はずっとお母さんを殺した罪の意識から、潜在的に逃れることは出来ないのではないかと思う。自分では気付いていなくても、寝ている時に夢を見て魘される日々が一生続いて行くに違いない。

 男の人生。それはこんな狭い部屋に閉じ篭もってないで、世間へ出て自分の実力を、存在を認められること、将来お父さんの様な医者になりたかったと言っていた。今ならまだその夢を叶えさせてあげることが出来るんじゃないだろうか。
隆夫のことだって、私は辛い思いをしたけれど、私を踏み台にして将来会社を背負って立つエリートとして活躍する様になった。それで私は隆夫にとって立派に役割を果たしてあげたと思ってる。
 一緒にいたいという私のエゴの為に、俊をこんな狭い部屋に閉じ込めておいて良い訳はない。
 私が甘やかしている為に、太って毎日ゴロゴロと引き篭もっているけれど、俊は一生懸命勉強して来ただけあって、物凄い知識を持っている。優秀な能力を持った人間に違いないんだ。
 こんなこと考えたくは無かったけど、頭の中でいろいろに巡らせた考えは、もう逃れられない結論に向かって収束してしまっている。
 それは心の中では最初から分かっていたことかもしれなかった。でも、私はそれを見ずにいた。楽しかったから、俊を求めていたから、ずっと一緒にいたいと願ってたから、私はそこから目を逸らしていたんだ。
 やはり警察に出頭して罪を償わせて、社会復帰が出来る様にしてあげなければならない。
 でももう少し……いやもうそんな悠長なことは言ってられないんだ。だって俊はもうダメになりかけているんだから。こうしているうちにも益々この生活に嵌まり込んで、抜け出すことが出来なくなってしまう。どんどん歳を取って、そのまま取り返しが付かなくなる。
 俊はますます四畳半に閉じ篭もる様になった。自分の部屋にベッドが欲しいと言ったけど、そこまでするともう本当に別々の生活になってしまうから、それだけは嫌だと言って買ってあげなかった。
 俊の頼みにノーと言ったのは殆ど初めてだった。俊は自分の思い通りに行かないことが理不尽で納得出来ないという様に、亜希子を罵った。また殴られたり蹴られたりするのかと思ったけど、そこまではしなかった。
 私がいないと生きて行けないという引け目があるから、暴力を振るうのは止めてくれたのかもしれない。そう思うと余計に寂しさが募る。

 土曜日に亜希子は仕事があるからと言って家を出て、暑い中汗を拭きながら電車に乗り、日比谷にある都立の大きな図書館を訪れた。
 俊が警察に出頭したら、その後どうなるのかと思い、過去の未成年が起こした殺人事件について、裁判の判例等を調べてみようと思った。
 最初は要領を得なくてウロウロしてしまったけど、係りの人に聞いたり備え付けのパソコンで検索したりして、法律の本や事件の記録等、午後までかかっていろいろな本を読んだ。
 未成年が事件を起こして警察に逮捕された場合、それはどんなに凶悪な犯罪であっても最初は家庭裁判所へ送られる。
 でもそれが殺人事件の様な凶悪犯罪であった場合、そこから大人の刑事事件と同じ様に検事局へ送検されて、大人の事件と同じ様に裁判を受ける。
 そしてその結果如何によって少年院に送られるか、刑務所に送られるのかが決められる。
 刑務所の場合には少年刑務所と言って、大人の囚人とは区別され、少年専用の部屋に入れられるらしい。
 過去の判例からすると、余程極悪な犯行で、情状酌量の余地の無い犯行でも無い限り、少年院に送られて長くても1年くらいの入院期間で退院出来る。少年刑務所に送られたとしても成人よりは短い服役期間で釈放される。

 でももし……と亜希子は思う。もし俊が説得を聞き入れて、警察に出頭して、何年かの罪の償いをして、晴れて出所して来たとしたら。もう私の元には戻って来ないだろう……私のことなんて思い出しもしないのではないか……。
 俊が私を頼りにしてくれるのは、飽くまでも今は自分が逃亡者だから、私がいないと生きて行けないからだ。
 俊が出所してくる頃には、きっと40歳を過ぎている私のことなんて、相手にしてくれるはずがない。
 世間へ出れば若くて綺麗な女の子なんて沢山いる。そんなことを考えていると、また隆夫のことが脳裏を過ぎる。
 でも、私には俊の人生を束縛してしまう権利なんか無いのだから……。やっと普通の考えが戻って来た。一体私は今まで、何を夢見ていたんだろう。
 そして、そうなれば私だってもう罪から免れられない。私も一緒に出頭して、犯人隠匿の罪に問われるんだ。
 私も逮捕されて刑務所に入らなければならないだろうか。週刊誌やワイドショーの格好のネタになるだろう。
 そうなればお父さんやお母さんも、お姉ちゃんも世間の笑い者にされてしまう。私がしたことの責任はそれ程重大だったんだ。勿論会社も辞めなければならないだろう。
 お父さんとお母さんはどんなに悲しむだろう……ちょうどバブルが弾けた後で、最悪の就職難だった頃に私は父親のコネがあったとはいえ、10倍以上の倍率を潜り抜けて今の会社に採用された。お父さんはそれを凄く喜んでくれた。
 お母さんは私がいつまでも結婚しないのを心配して、顔を合わせる度に「誰かお付き合いしてる人はいないのかい」って言うけれど、でも、そんなことも全て消し飛んでしまうくらいの事態に、私は落ち込んでいるんだ。
 そうする覚悟が私にはあるんだろうか。でも、何よりも俊にとって一番良いことを考えてあげなければならないのだから。
 俊は隆夫を失って抜け殻の様になっていた私の人生に、また意味を与えてくれた天使なんだから、私のことなんてどうなったって……。
 他に選択の余地は無い。だけど、今更警察に引き渡すくらいなら、何故私はあの時俊を匿ったりしたの? 嫌、後悔することはよそう。だってあんなに楽しかったじゃないか。ほんのひと時だったけど、後悔する事なんかない。

 警察に出頭する。それを俊に話すことは、別れ話を切り出すのと同じだ。
 でもその前に、俊との最後の思い出が欲しい。出来ればそれだけで一生生きて行ける様な。胸の内にずっと入れておくことの出来る様な思い出が。
 何をすれば、何処へ行けば一番の思い出になるだろう……。
 いろいろ考えてみたけれど、旅行に行きたいと思った。そんなに遠くでなくても良い、近場の温泉に一泊でも良い、出来れば貸切のお風呂があるところで、二人で広い湯船に浸かってみたい。

「ねぇ俊。たまには外へ出て旅行でもしてみたくない?」
 夕食を食べながら、テレビを見ている俊にさり気なく話しかけてみる。
「え~そんなのいいよ、誰かに見つかったらヤバイもん」
「また引っ越した時みたいに変装してさ、電車に乗る時は寝た振りとかしてればいいじゃない」
「う~ん。でも……」
「温泉とか行かない? 私とは親戚だってことにすればさ、誰にも疑われないし大丈夫だから」
「だけどいいよ、そんなリスク背負ってまで行くことないよ」
「そう……」
 危険だからやめておこうというよりは、私と旅行することには興味が無いという感じだった。
 食事を終えるとさっさと板張りの部屋へ入ってしまう。
 仕方なく台所でひとり後片付けをしていると、溜まらない寂しさに襲われてしまい、気が付くと俊の部屋のドアを叩いている。
「ねぇ俊。話があるんだけど、ねぇ、俊、開けるよ」
 返事が無いのでガラガラと引き戸のドアを開けると、俊はヘッドホンをしてテレビに向かったまま、こちらを見ようともしない。
 近づいてヘッドホンを取ると、驚いて亜希子の方を振り返り「え? 何?」と素っ頓狂な声を出す。外れたヘッドホンからは大音量でゲームの音が流れている。
「話があるんだけど、ちょっといい?」
 亜希子がいつになく真剣な表情をしているので「何だよもう」と言いながら亜希子の方へ向き直る。
「何?」
「うん。俊さ、ここへ来てからもう1ヶ月以上経つけど、部屋から出たのは明け方に一度海を見に行った時だけだよね、後はずっとこの部屋に閉じ篭もって。最近は私がいる時もご飯の時以外は出て来ないし、私ともあんまり話もしないじゃない」
「……」
「このままずーっと部屋の中に閉じ篭もってるだけってのも嫌じゃない?」
「ううん、どうして?」
「外に出てみたいと思わない?」
「思わない」
「どうして? 外の人たちと顔を合わせるのが怖いから?」
「そりゃだって、誰かに見つかったらヤバイもん……」
「でも、引越しの時は一日中新宿にいても全然平気だったって言ってたじゃない」
「そうだけど……」
「やっぱり誰かに見つかって、警察に捕まって刑務所に入れられるのは嫌?」
「……うん」
「でもねぇ俊。私思うのよ、俊はこのままではいけないって」
「えっ? それってどういうこと?」
「このままずっと、こんな閉じ篭もってるだけの人生を過ごしてはいけないと思うの」
「えっ?」
「それにこのままじゃ私ももう、俊とは暮らして行けないよ」
「嘘、何でそんなこと言うの」
 途端に俊は表情を変えて、亜希子を咎める様な目をして来る。
「そんなこと言わないでよ、僕がどうなってもいいって言うの」
「私ね、図書館に行っていろいろ勉強して来たのよ。殺人事件を起こした場合はどんな理由があっても10年から20年くらいの懲役刑になるんだけど、俊はまだ未成年でしょう。だから少年院に入るか、もし刑務所に入ったとしても少年専用のところへ入れられてね、服役するっていうより更生して社会復帰出来る様に教育して貰うのが目的なのよ。俊がお母さんを刺してしまったことをちゃんと反省して、罪を償うっていう態度を見せれば、きっと少年院に入って、早ければ1年くらいで出て来れるんじゃないかと思うのよ。ねぇ、たった1年なんだよ。1年間我慢すれば、外へも自由に出られるし、私とも好きなところへ行ける様になるんだよ」
 一生懸命に話す亜希子の言葉を、神妙な顔をして聞いている。
「そりゃ1年も俊と会えなくなるのは寂しいけど、でもそうすればお父さんみたいな医者になるっていう夢も諦めずに済むんだよ。俊は若いんだから、少年院や刑務所を出てからでも、頑張れば絶対実現出来ると思うのよ。ねぇ俊。私も一緒に行ってあげるから、ねっ、よく考えてよ」
「そんなの嫌だ……」
「だけどね俊……」
「ずっとアキコが匿ってくれるって約束したじゃないか!」
 顔を真っ赤にして、目に涙を浮かべて訴える。
「アキコが守ってくれるって約束したじゃないか! いやだよ、行きたくないよ俺、そんなこと言わないでよ、ねぇ俺のこと追い出すなんて言わないでようお願いだから~」
 亜希子の身体に縋り付くと声を上げて泣き出してしまう。
「追い出すなんて言わないでよう。追い出さないでよう……うう……」
「追い出すなんて、違うよ、そうじゃないのよ、ねぇ俊……」
 まだ無理なんだろうか。もう少し時間を掛けなければダメなんだろうか。でももうそんなことを言っていたら……。
 亜希子はただ俊を抱き、心配無いという様に頭を撫ぜてやることしか出来なかった。


第三章 4


 7月も終わりに近付いて来た。今朝も亜希子は暑い陽射しの中を駅まで歩いて行く。
 ホームに溢れんばかりの通勤客たちに揉まれながら、バックのお弁当箱が横にならない様に気を付けて電車へ乗り込む。
 俊は相変わらずの引き篭もり生活を送っている。そして何日かに一度、亜希子が帰って来た時や明け方に、眠っている俊が魘されて「お母さん……」と寝言を言っていることがある。
 この生活が永遠に続いて行けば良い、なんて思ったこともあったけど、その頃の楽しさは無くなってしまった。
 電車に揺られてぼ~っとしながら見るともなく天井から吊るされた広告を眺めていると、その見出しが飛び込んで来る。

『母親を刺殺して逃亡中の高校生は今何処に? 明らかにされる少年の苛烈な家庭環境。鬼母の実態。母親は地元で大病院を経営する名門一族の娘だった……』

 それは今日発売の週刊誌の広告だった。俊の事件を取材したルポライターの記事が掲載されているらしい。
 八丁堀の駅を出てから急ぎ足に歩いて、最初のコンビニに飛び込み、雑誌売り場のラックの中に、その雑誌を見つけ、買って出る。
すぐにでも読みたいけれど、時間が無いのでバックの中へ詰め込んで歩く。
 昼休み、いつもの様に会議室でみんなと一緒にお弁当を食べた後、逸る気持ちを抑えつつ、さり気なくその週刊誌を開いて読む。
 電車の中刷り広告に宣伝されていたその記事は、最初のグラビアページの次の読み物ルポとして大きく扱われていた。
『母親を刺殺して逃亡中の高校生は今何処に?』
 それは少年の父親に取材したというライターのルポで、これまでいかに少年がエリート意識の強い母親からガリ勉生活を強いられて、小学校から中学、高校と厳しい受験を経て来たかということが書かれており、妻を亡くして息子の行方を案ずる父親に同情する内容になっている。
『殺された母親は少年にとって鬼婆の様な存在であったようだ』という小見出しに始まる父親のインタビューは、次の様に語られている。
『……私は医者と言っても二流の私立大学の出身なものですから、これ以上の出世は望むべくもありません。このまま大学病院の一勤務医として生涯を終える他はないのです。妻の実家は地方で総合病院を経営しているものですから、私の不甲斐なさをいつも詰っていました。ですから息子のことは、私の様にはしたくないとの思いから、しっかり勉強させて国立大学に入れてやろうと躍起になっていた様です。全ては情けない私の責任なんです……』
 そして少年の行方については、親戚や思いつく限りの友人に聞いてみても、目撃証言は愚か全く何の手掛かりもつかめていない状況であり、目下警察で捜索を続行していると書かれている。
 その記事を読んでいて、亜希子には今も心に引っ掛かるものがある。あの時、経堂のアパートで俊が逆上した時に口走った『……グズでノロマな女だったんだよー……ぶっ殺してやってスッキリしたよ!』と言った言葉と、この週刊誌の父親の言葉『……妻は私の学歴が無いことに酷くコンプレックスを抱いていて、その気持ちを息子に対する厳しい教育で晴らしていたのです。鬼の様に厳しく息子に当たっていました……』と言う証言とが食い違っている気がする。
 それにあの時俊は、自分が母親を刺したのは、母親が自分の成績が下がったことを笑ったからだ、とも言っていた。
 教育熱心で息子の成績を上げようとしていた親が、成績が下がったからといって笑うだろうか。
 俊と母親との関係には、何か他に隠されていることがあるのではないか……でもそれは俊に聞いても答えてはくれないだろう。
 俊のお父さんに会うことが出来れば……と思うけど、もし父親と連絡を取るとしたら、私が俊を匿っていることを隠しておくことは出来ない。
 お父さんはさぞ俊のことを心配しているに違いない。俊はお父さんのことは尊敬していると言っていた。俊はそんなお父さんのことをどう考えているんだろう……。

 帰りの電車の中で吊革につかまり、暗い窓に映っている疲れた自分の顔を見つめながら、私に出来ることは何だろう……と考える。
 俊を立ち直らせてあげなければならない『お父さんみたいな医者になりたい』という夢に向かってもう一度頑張って行ける様にしてあげなくてはならない。
 俊が自分から警察に出頭して行くことが出来ないのだとしたら、お父さんに連絡を取って、事情を話して……そこで亜希子の考えは停止してしまう。
 事情を話して……これまでの、あの経堂のアパートで俊に縛られてからの、全ての出来事を私は話せるのか……。
 私は何故警察に通報しなかったのか、あの日、俊が仕事に行かせてくれた日に、何故約束通り誰にも言わずに買い物をして帰って来てしまったのか……。
 そんなことまで話さなければならないとしたら……でも、そんなこと言っている場合じゃないじゃないか、私のことよりも俊のことを考えてあげなくちゃならないのだから。

 普段の俊を見ていると、もう自分がやった事件のこと等は他所の世界の出来事で、まるで関係無いことにして忘れようとしている様に見える。
 そこから俊を連れ戻さなくては。俊、貴方が殺したのは自分のお母さんなんだよ。
 亜希子の脳裏にあの時、何度もノックするのを無視して、居留守を使ってそのまま帰らせてしまった母の丸い背中が思い出される。
 顔を合わす度にお嫁に行かないのかって煩いけど、もしお母さんに何かあったりしたら、私は耐えられないと思う。
 俊の悲劇は、そんなお母さんの愛情を感じることが出来ずに、殺意までも抱いてしまったことだ。
 きっとお母さんだって、俊のことを思う気持ちがあってのことだったのではないのか、決して憎くてしていたのではなく、立派な人生を送らせてあげたいと思う気持ちから、していたことではないかと思う。
 どうしたら俊にそのことを分からせてあげることが出来るのだろう。
 俊の家の郵便受けに書いてあったお母さんの名前は、確か越川詩織さんだった。綺麗な名前だと思う。如何にもお上品な家柄で、清楚で麗しい印象を受ける。
 詩織さん……あんなに可愛い俊君のことを、貴方はどうしてそこまで追いつめてしまったの? そんなに学歴が大事だったのですか? その為に自分が殺されてしまっては元も子も無いじゃないですか。本当にそんなに恐い鬼の様な人だったんですか?。
 そんなことを考えているうちに電車は検見川浜駅へ到着する。まだ暑い夕暮れの街を物思いに耽りながら、通勤帰りの人波と共にマンションへ歩いて行く。

 8月になって最初の昼休みだった。いつもの様に会議室で食事を終えた後、なんとなく携帯電話を開いて見ると、着信アリの表示が出ている。相手先を表示してみると「クリーニング」の文字。それは経堂にいた時に使っていたクリーニング屋さんの電話番号だった。
 電話してみると、2ヶ月以上も前に出していた礼服が預けっ放しになっていると言う。
『訪ねてみたけどお引越しなさっている様でしたので……』
 親切なクリーニング屋のおばさんの顔が浮かぶ。すっかり忘れていた。

 仕事が終わると日本橋駅から銀座線に乗った。表参道から千代田線、代々木上原から小田急線と乗り継いで、以前通っていたルートを辿って経堂へ向かう。
 帰りが遅くなると俊に連絡しようとしたけれど、俊はまだ寝ているのか、留守電に呼び掛けても出ないので、仕方なくその旨のメッセージを残しておく。
 夕暮れの経堂駅へ降りる。引っ越してからまだ1ヶ月半くらいしか経っていないけど、検見川浜とは街並みがあまりにも違うせいか、懐かしい感じがする。
 商店街に入って、よく買い物をしていたお店の前を歩く。時々オマケしてくれたお惣菜屋のおばさんにご挨拶したいけど、引越しのこと等を話さなければならなくなるといけないので、反対側をそそくさと歩いてやり過ごす。
 そして商店街の外れ近くにあるクリーニング屋さんへ入る。
「ごめんください」と入って行くと「あら、どうも」とおばさんが出て来る。
「すいません、すっかり忘れてしまっていて、近頃引っ越したものですから」
 わざわざ亜希子の住んでいたアパートまで訪ねてくれたお礼を言って、預けっ放しになっていた礼服の代金を払う。
「やっぱりあそこで事件があったので引越しなさったのかとは思ってたんですけどねぇ」
 ちょっと戸惑ったけど「はい?」と少しとぼける。
「凄い騒ぎでしたわよねぇ、ビックリしましたよ、うちにも警察の方が聞きにいらして」
「そうでしたか……」
「亡くなられた奥さんはよくいらしてたもんですからね」
「えっ?」とその言葉に思わず食い付いてしまう。
「あの、よくここにいらしてたんですか?」
「ええ、もうずい分古いお客さんでしたよ、息子さんが小さい頃は一緒に来てたこともあったんですけどね」
「そうですか、本当に、お気の毒な事件でしたよね。それにしても、その奥様って、本当にそんな恐い感じの方だったんですかね?」
 なるべく世間話の範疇を出ない様に気を付けながら聞いてみる。
 おばさんはちょっと亜希子の顔を見ると、事件について報道されている事と照らしてのことだろうと察したのか、言葉を繋げる。
「いや、私が見た感じでは、物静かで育ちの良さそうな奥さんでしたけどねぇ……」
「そうですか、意外ですよね、そんな人が自分の子供さんにそんなに厳しくしていたなんて」
 まだ何か喋ってくれないだろうかと思い、暫しおばさんを見つめながら次の言葉を待ってみる。
「もともとは名古屋の方にいらしてね、大阪の大学を出てからこちらへ来て、お子さんが出来るまではホラ、あそこの世田谷通りにある大学病院でお仕事なさっていたそうですよ、ご主人も同じ病院の先生だったらしいですけどねぇ」
「そうだったんですか、本当にとんだことでしたね。でも私が引っ越したのは、その事件のせいじゃなかったんですけどね」
 と一応言い訳しておく。話好きなおばさんに、それじゃあどうして? と聞かれたらまた話が長くなってしまうので、礼服を入れた袋を受け取り、丁寧にお礼を言って店を出る。
 そのまま駅へ戻ろうとしたけれど、ふと気になってもう一度店の方へ戻り、そのまま通り過ぎて商店街を抜けて行く。
 信号を渡り、住宅地に入って、この前まで住んでいたアパートの方へ向かう。
 俊の住んでいた家のある角まで来る。もうパトカーは止まっていない。
 辺りに人影の無いことを確認してそっと側まで来た。
 ハッと驚いた。そこにはもう家は無かった。取り壊されて瓦礫の山になっている。メチャメチャに壊された残骸の中に、大きな鎌首をもたげたクレーン車が少し斜めになったまま停められている。
 表札が着いていた跡のある、敷地と外とを隔てる壁だけが残り、中は真っ暗で瓦礫の山になっている。その光景はとても恐ろしかった。

 会社を出てから経堂まで来て、そこからまた引き返したので、マンションに帰り着くのはいつもより3時間も遅くなってしまった。
 いつもなら私が帰って来てもまだ寝ていたり、起きていても自分の部屋に入ったままの俊が、今日はさすがにお腹が空いたのか「遅かったなぁ、もう腹ペコで死にそうだよ、何やってたんだよー」と部屋の中からドアをバンバン叩いてくる。
「ごめんね、急に残業になったから抜けられなくて、でも電話したんだよ、留守電にメッセージしたんだけど」
「知らねえよそんなもん」
 バックを置いて急いで晩御飯の用意に取り掛かる。


第三章 5


 次の土曜日。俊はまた明け方まで板張りの部屋に篭もっていたらしく、亜希子が起きて出掛ける用意をしていてもまったく目を覚ます様子は無い。
 亜希子はいつもの様に会社へ行く時間に家を出る。昨夜俊には明日は仕事があるからと言っておいた。
近頃は休日に亜希子が何処へ出掛けて行こうと全く気にもしない。食べ物がありさえすれば良いと言う感じだった。
クリーニング屋のおばさんによれば、俊の両親は世田谷通りにある大学病院で共に医師をしていたのだと言う。
 世田谷通り沿いにある大きな病院と言えば、豊橋大学病院しかない。今日はそこを訪ねてみようと思った。
 経堂駅で降りて、農大通り商店街を住宅街に向かって歩く。8月に入ったばかりの陽射しは圧迫感があって、少し歩くとすぐに身体が汗ばんでくる。
 蝉の声に包まれながらアパートに繋がる狭い路地を通り過ぎて、そのまま世田谷通りに出る。東京農業大学のバス停から成城学園駅行きのバスに乗り、世田谷通りを走って幾つ目かの豊橋大学病院前のバス停で降りる。
 門を通って広い敷地を横切り、建物へ入ると長椅子が並んだ待合所になっている。
 まだ10時前なのに、大勢のお年寄りが座っており、据付けられたテレビを観ている。
 外来の受付へ行って保険証を出し、風邪で具合が悪いのですが、と告げる。
「お名前をお呼びするまでお待ちください」と言われ、空いている長椅子の端に腰を降ろす。
 私の前にこれだけの先客がいるということは、どれくらい待たされるのだろう。でもここまで来たのだからしょうがないと思い、バックから文庫本を出して読みながら気長に待つことにする。
 待ち始めて1時間くらいが経過しただろうか、「倉田さ~ん」と呼ぶ声に気付き「はい」と返事をすると椅子を立って診察室へ向かう。
 内科の外来を担当する医師は初老で感じの良い男性だった。少し咳が出て頭がだるいという私の訴えに聴診器を当てながら「その他に目立った症状はありませんか」と聞かれたので「はい」と答える。
 何処で切り出そうかとそわそわしていると、先生は早くもカルテにサラサラとボールペンを走らせて、これで診察を終わらせてしまいそうな気配だった。
「あ、あの、越川先生って……」黙っていては機会を逃してしまうと思い、思い切って口に出す。
「はい?」
「あの、以前に、お世話になったものですから、越川先生は、どうされてるかと思いまして」
 初老の先生はジロッと亜希子の顔を見ると「ああ、退職されましたよ」と抑揚をつけずに言う。
「そうですか……、今はどちらにいらっしゃるかご存知ないでしょうか?」
 今度は明らかに不審気な顔をして亜希子を見る「私はちょっと分かりませんね、次の患者の方がお待ちですので、どうぞ」と出口へ促されてしまう。
 きっと知ってはいても事情が事情だけに教えては貰えないのかもしれない。
 仕方なく診察室を出て「大した症状ではないですが一応出しておきましょう」と言って書いてくれた薬の処方箋を受け取る為に、また待合所の椅子に座る。
 そこへ見知らぬお婆さんが近づいて来て、亜希子の隣に座ると声を掛けて来た。
「越川先生のお知り合いですか?」
 さっきの話を聞いていたのだろうと思い、咄嗟に「は、はい、以前お世話になったものですから……」と内科の医師に言ったのと同じ言葉を繰り返し「どうしておられるのかと思いまして……」と言ってみる。
 するとそのお婆さんは私が事件のことを知っていると合点したのか、顔を寄せて来て、声を潜める様にして言う。
「あの事件があったでしょう? 息子さんはまだ行方が分からなくて」
「……はぁ」
「この病院にいられなくなってね、どこか地方へ行かれたみたいですよ。奥さんの御遺体は御実家の方が来て引き取ったらしいですけどね」
「そうだったんですか」
「ヨイ先生もあんなことになってしまってねぇ」
「はい?」
「ああ、ヨイ先生って言うのは亡くなられた奥さんのことなんですよ。昔ここに勤めていらした頃はまだ旧姓の予伊野と言うお名前でしたからね、もう20年くらい前ですかね、私たちはヨイ先生ヨイ先生って言ってね、綺麗な方だったんですよ」
 すると不意に前の椅子に座っていたお爺さんが振り返り「ええ、そうでしたねぇ」と言って相槌を打つ。
 予伊野と言う名前だったからヨイ先生……。
きっとこのお爺さんやお婆さんは、身体の調子を診て貰いにこの病院へ通いながら、ここで話し相手を見つけては世間話をして暇を潰しているのだろう。
 それから暫くその二人がかつてここに勤めていたヨイ先生と越川先生のことをいろいろ話してくれた。それは二人が患者に対してどんなに思い遣りのある先生だったか、ということだった。
 亜希子の目的は俊の父親である越川医師の居所を知ることだったのだけれど、それを知ることは出来なかった。そのかわりに俊の母親、詩織さんの旧姓を知ることが出来た。
 遺体は実家の両親が引き取って行ったのだという。クリーニング屋のおばさんは詩織さんの地元は名古屋だと言っていた。
 週刊誌には詩織さんの実家は大病院を経営していると書いてあった。
 名古屋にある大きな病院で経営者の名前は予伊野。それだけの手掛かりがあれば詩織さんの実家の場所を調べることが出来るかもしれない。

 病院を出て、来た時とは反対方向のバスに乗って成城学園駅まで行き、小田急線の急行に乗って新宿まで行く。
 新宿に着くと繁華街へと向かい、今まで一度も入ったことのなかった「ネットカフェ」という物を探してみようと思う。
 インターネットで詩織さんの実家の病院のことを検索してみようと思った。
 家にあるノートパソコンは近頃すっかり俊に占有されてしまっているし、それにもし詩織さんのことを調べていることが俊に分かれば、また逆上されてしまうかもしれないから。そう思ってネットカフェで調べてみようと思ったのだ。
どうやらそれらしき大きな看板を見つける。入り口は狭い階段で、店は2階に上がったところにあるようだ。
 こういうところは若い人が利用するところで、私の様な年配の女が一人で入るのは気が引けるけれど、しょうがないと思って中へ入る。
 受付で料金を払うと、板で仕切った小部屋が並んでいる廊下を案内され、その中のひとつに入る。中はパソコンが設置されたテーブルと椅子しかない狭い空間だった。
 パソコンのスイッチを入れてインターネットに接続する。
 名古屋市にある総合病院で経営者の名前は予伊野……検索キーワードの枠に「名古屋市内」と「病院」と「予伊野」という言葉を書き入れて検索ボタンをクリックする……11件の情報がヒットした。
 だがどれも名古屋市内にある病院に関するウェブページではあっても、名前に・予・伊・野・の三文字の漢字どれかが含まれているというだけで、それらしき病院の情報は出ていなかった。
 そう簡単にはいかないかと思い、今度は名古屋市内という項目を抜いて「病院」と「予伊野」という言葉だけを書き入れてクリックする。
 今度は600件以上のウェブページが表示された。 
 根気良く上から順に見ていくが、なかなか詩織さんの実家と思われる病院は見つからない。そのうちに目が痛くなり、肩も凝って来るし、時間も掛かるしで諦めかけた時に、愛知県日進市の予伊野総合病院。と言う項目のあるページを見つけた。
 クリーニング屋のおばさんは名古屋にある病院だと言っていたけれど、正確には同じ愛知県内でも名古屋市の近隣にある日進市にある病院だったのだ。
 予伊野なんて名前は珍しいし。愛知県内で予伊野と名のつく病院はこの一軒しかないみたいだから、間違いないのではないかと思う。
手帳にその病院の住所と電話番号を書き写す。母親の詩織さんの実家を訪ねて、もし御両親や親族と話をすることが出来れば、父親の越川さんの行方も分かるかもしれない。
 それにまだそこまでは考えていなかったけれど、いざとなれば俊のことを詩織さんの御両親に相談するということも出来る……。
 名古屋へは東京から新幹線で2時間くらいだし、その近くならそう時間も掛からずに行けるだろうと思う。
 来週の土曜日は詩織さんの実家を訪ねてみようと思う。でも最初はまだ、自分の素性は隠しておいた方が良いだろう。出来ればこちらの素性は知られずに越川さんの居場所だけを知ることが出来ればと思う……。

 俊は詩織さんの実家に行ったことがあるんだろうか、詩織さんの両親が健在だとすれば、それは俊にはお祖父ちゃんとお祖母ちゃんなのだ。
 家に帰って夕食を食べている時に、それとなく訪ねてみる。
「ねぇ俊」
 話し掛けても俊はテレビの方を向いたまま返事もしてくれない。構わずに続ける。
「俊のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんたちってさ、まだ元気でいるの?」
「え、何で?」
「うん。ちょっと気になったから」
「どうでもいいじゃんそんなこと」
「そうだけど、これからずっと一緒に暮らして行くのなら、俊のことは何でも知っておきたいからさ」
 そう言うと俊は少し態度を変えてこう答える。
「父さんの実家は青森らしいけど一度も行ったことないよ。母親の方は小さい頃何度かお祖母ちゃんが来たことあったけど、家には行ったことないし、顔もあんまり覚えてない」
「ふーん。そうなんだ」
それっきり俊は何も喋りたくないという様に黙ってしまう。
 俊の言葉の通りだとすれば、俊は父方とも母方とも祖父母たちとは疎遠だったんだろうか。

 次の土曜日。亜希子は俊に「毎週土曜が仕事で潰れてやんなっちゃうよ」等と言っておいて、いつもの出勤時間に家を出て東京駅から新幹線で名古屋へと向かった。
 新幹線の窓を高速で景色が流れて行く。ぼんやり見ていると自分の中からまた「私は一体何をやってるんだろう……」という問いが沸き上がって来る。
 こんなにまでして貴方のことを考えているのに、俊はもう私の存在すら見えない様に無頓着になってしまった。私は一体、誰の為に何をしようとしているのか……。
 その一方で、コレはきっと自分の為にしているんだ。という思いもある。亜希子の中には、とにかく俊一をなんとかしてあげなければならない、という使命感の様な物がある。

 新幹線で名古屋まで行き、そこから支線に乗り換えて予伊野総合病院に最寄の駅まで行く。名古屋から40分くらいかかった。
 電車を降りると駅前のロータリーに並んでいたタクシーに乗り、運転手さんに「予伊野総合病院へ行って下さい」と言うと「はい分かりました」と言って車を走らせた。駅前の繁華街から郊外に出て、閑静な住宅地を10分くらい走ったところにその病院はあった。
 表門の脇に「予伊野総合病院」と書かれたプレートが掛かっている。敷地に入ると4階建ての病棟があり、入り口の前は車寄せのロータリーになっている。
 タクシーを降りて玄関を入ると世田谷の豊橋大学病院に比べて半分くらいの広さの待合所があって、外来の患者さんたちが座っている。
受付のカウンターに行って、そこにいた女性に声を掛ける。
「あのうすみません。こちらの院長先生にご挨拶することは出来ないでしょうか」
 と言うと「どういった御用件でしょうか」と聞き返して来た。
「実は、世田谷の病院で生前詩織先生にお世話になったものですから、出来たらお線香を上げさせて頂けないかと思いまして」と用意しておいた言葉を繋げる。
 受付の女性はふと考える様な顔をしてから「何処か出版社の方とか、マスコミの取材の方ではありませんか?」と聞いて来た。
「いえ、違います」と答えると「少々お待ち下さい」と言って奥へ行き、受話器を取り上げてオートダイヤルのボタンを押す。きっと院長先生に取り次いでくれているのだろう。
 電話の相手に事情を説明した後、電話を切ってこちらへ戻って来ると「院長先生はお会いにはなれないそうなので、奥様が応対して下さるそうです」と言って亜希子を促すと表へ出て、病院の裏手にある院長宅への行き方を教えてくれた。
 女性にお礼を言って、病棟の周りに整備されている芝生を横切って裏側へ回る。
 院長の自宅は病院の敷地に隣接しており、それは病院と同じくらいの広さの土地に建つ日本風のお屋敷だった。
 立派な鉄門を開いて中へ進む。庭園の中の石畳を歩いて玄関へ着くと、扉の脇にあるインターホンを押す。
「どちら様ですか」老婦人という感じの声だった。マイクに口を寄せてなるべく丁寧に答える。
「突然すみません。私以前世田谷の豊橋大学病院で詩織先生にお世話になっていた者なのですが、今日たまたま仕事の都合でこちらに来たものですから、ご迷惑でなかったら御参りさせて頂けないかと思いまして」
 中で足音がして、扉が開かれる。現れたのは和服を着た上品そうなお婆さんだった。きっとこの人が詩織さんのお母さん。つまり俊のお祖母さんなのだろう。
「こんにちは、小石と申します……」
 咄嗟に小石さんの名前を口にしていた。本当の名前は言わないでおこうと決めていたのだけれど、ここに来るまで適当な偽名が思いつかなくて、どうしようかと思っていた。
「突然お邪魔してしまってすみません」
「わざわざありがとうございます。それで詩織とはどういったご関係で……」
「はい、個人的なお付き合いではなかったのですけれど、私小さい頃から身体が弱かったものですから、よく病院で、ヨイ先生に、あ、予伊野先生に、診て貰っていたものですから……」
 詩織さんが病院で患者の人たちからヨイ先生と呼ばれていたことを知っていらしたかは分からないけれど、詩織さんを慕っていた患者の一人だということを自分なりに設定して言ってみた。
「そうでしたか、それはどうも、遠いところをありがとうございます。詩織の母でございます」と頭を下げる。細く小さな身体が一層小さく見える。
「テレビでニュースを見て、もしかしたらと思いまして、病院に問い合わせてみたところ、やはり詩織先生だったと知りまして。今回仕事の出張で名古屋へ来る機会があったものですから」
 スラスラと嘘を並べている自分に呆れている。名古屋へ出張だなんて、一体何の出張だというのか、そもそも亜希子は仕事で出張なんてしたことはない。
その時、奥へ延びている廊下の脇のドアが開いて、厳しい感じの老人がゴホンと咳をしながら出て来た。玄関に立っている亜希子をジロリと一瞥すると、無言のまま奥へ歩いて行く。
 あの人がお父さんなんだろうか、つまり俊のお祖父ちゃん……。
お婆さんはそのことに気を止める風もなく、亜希子に少し待つ様に言って、中へ戻ると外出用の服を着て出て来た。
「詩織のお墓はここからすぐ近くのところにあるんですよ、私がご一緒いたしますので……」
「そんな、教えて頂ければ一人で行きますので」
「いえいえ、いいんですよ。わざわざ遠くから来て頂いたんですから、詩織もきっと喜ぶと思いますので」
ガレージに停めてある高級車をお婆さんが運転して行くのかと思ったが、お婆さんは屋敷の脇へ続いている小道を伝い、そのまま裏口を出ると亜希子を連れて車道の脇を歩き始める。
「もうすぐそこですから、いつでも御参りに行けますので」
 と後から付いて来る亜希子を気遣ってくれながら歩いて行く。
暫く行くと車道の先に少し高台になった場所があり、そこに墓石や卒塔婆らしき物が立ち並んでいるのが見える。
 霊園の門を入ると広い車寄せがあって、その脇に売店がある。
 お婆さんと中へ入る。亜希子が店員に声を掛けてお線香とお花を買おうとしていると、お婆さんは慣れた様子で色とりどりの花の中から数本のイエローの薔薇を選んで買おうとしている。
「あ、私が買いますので」と言うのを「いえいえ、いいんですいいんです」と言ってお金を払ってしまう。
 仕方なく亜希子はお線香だけを買い、お婆さんは店を出ると高台に広がる墓石の中を迷わずに道順を追って歩いて行く。
 辿り着いたお墓は辺りでも一際大きな区画に建っており、立派な墓石には「予伊野家先祖代々之墓」と刻まれている。
 綺麗な花束が活けられており、僅かに残ったお線香がゆらゆらと煙をたなびかせている。
 お婆さんが墓石の前へ屈み込んで手を合わせる。
「詩織ちゃん。今日はね、東京からわざわざ患者さんだったって人が訪ねて来て下さったのでね、もう一度来ましたよ」と言う。
 そして亜希子を振り返り「よくいらして下さいました。どうぞ御参りしてやって下さい」とイエローの薔薇の花束を差し出す。
「すみません。自分で買わなければならないところを」と言いながら花を受け取り、束を解くとふたつに分けて、墓石の両側にある花にそれぞれ足して活ける。
「ああ、黄色が入って鮮やかになった」と言うお婆さんの声を聞きながら、腰を降ろして合掌する。
 見ず知らずの、生前一度も会ったことのない人のお墓に御参りするのは初めてだった。 ここで眠っているのは俊のお母さんなんだ……ということに感慨を持って冥福を祈る。
「まだ詩織が病院の方へ勤めていた頃といいますと、もう随分前のことになりますかね」
 この前の週刊誌の記事によれば、詩織さんは職場結婚して、息子が産まれると同時に病院を辞めているということだった。
 詩織さんが勤めていた頃に診察に掛かっていたとすれば、俊が17歳なのだから、少なくとも今から17年以上も前ということになる。
 亜希子は今38歳なので17年前と言うと21歳である。詩織さんは44歳で亡くなったので、単純に計算すれば当時は27歳くらいだったはずだ。
 言葉を返さなければと思い、こんな会話になった時の為に用意しておいたことを話す。
「うちは豊橋大学病院が一番近かったものですから。小さい頃から怪我をしたり、風邪を引いて熱を出したりした時はよく行っていたんです」
「そうですか、それじゃ詩織は貴方の担当医みたいになっていたんですね。もう一度お名前を教えて頂けますか?」
「あ、はい……私、小石と言います。東京で、建築関係の会社でOLをしています」
 本当は職業も嘘を言おうかと思っていたのだけれど、後ろめたい気がして、思わず本当のことを言ってしまう。
これ以上生前の詩織さんのことについて質問されたらボロが出てしまうかもしれない。でもお婆さんはそれ以上のことは訊ねて来なかった。
 さっきお屋敷にいた、おそらく詩織さんのお父さんの、一瞬亜希子をジロッと睨んだ顔が浮かぶ。
 病院の受付の人は私がマスコミ関係の人間ではないかと問い質して来た。きっとお父さんは以前に事件のことを取材に来たマスコミの人間に不快な思いをさせられたのではないかと思う。それはあの週刊誌のルポを書いた記者だったのかもしれない。
「私はヨイ先生が結婚されて病院をお辞めになった後も、ご主人の越川先生には、お世話になっていたんです……」
 その時フッとお婆さんの様子が変わった様に見えた。
「……」
お婆さんは何も言わずに黙っているので言葉を繋げてみる。
「越川先生も立派な先生でしたのに、あのご夫婦がこんなことになってしまうなんて、本当に……」
「何が立派なもんですかね。こんなことになっても未だに私たちに何の連絡もして来ないんですよ。詩織を引き取りに行った時だって挨拶にも出て来やしなかったんですから……」
それまでの物悲しそうな雰囲気からはガラリと変わった、厳しい口調だった。
「あの、でも越川先生と詩織さんとは……」
「そりゃこちらからも連絡を絶ってたということもありますけどね、幾らなんでも酷いじゃありませんか」
「……」
 どういうことなんだろう……と思ったけれど、聞いてみることは出来ない雰囲気だった。
お参りを済ませ、霊園を出ると元来た道の方へ歩きかける。このまま何も聞き出すことが出来ずに帰ることになってしまうのかと思っていると、屋敷の側まで来てお婆さんが振り向いた。
「もしお時間が御座いましたら、家でお茶でも召し上がりませんこと?」
「はい、ありがとうございます。時間は大丈夫ですので、それじゃお言葉に甘えて少しお邪魔させて頂きます」
 と返事をして、木戸を開けて入って行くお婆さんに付いて行く。
 屋敷の中へ入ると、中はしんとしていて、さっき顔を見せたお爺さんのいる気配はない。
 玄関から廊下を歩いて大きな居間へと通される。
 10畳くらいはありそうな座敷に高級そうな絨毯が敷かれ、その上にソファとテーブルが置かれている。
 見ると隣に襖の開いた和室があり、そこに設えられた仏壇に遺影と供物が添えられている様だった。
座っているとお婆さんが紅茶とクッキーを載せたお盆を持って来る。
「すみません。ありがとう御座います」
 と言って紅茶に砂糖を入れ、そっとスプーンで混ぜる。
「あの、院長先生は、今日は……」
「さぁ、ごめんなさいね、さっきは失礼な態度を取ってしまいまして」
「いえ、そんな。あの……こちらの仏壇にも、御参りさせて頂いて宜しいでしょうか」
 と隣の和室を見て言う。
「ああ、どうぞどうぞ、ありがとう御座います」
 ソファから立って和室に入り、仏壇の前に正座する。線香を一本取り、火を灯して立て、リンを鳴らして合掌する。
 目を開けて、正面にある遺影を見る。それは初めて目にする詩織さんの姿だった。
 優しそうな、可憐な感じのするお嬢様の様な印象だった。目元が俊に似ていると思う。
 ……貴方が詩織さんですか? 始めまして、私は亜希子といいます。貴方の息子さんを、どうにかして助けてあげたいと思って、今日ここへ来ました。貴方のお母さんに本当のことを言わないで申し訳ないと思うけど、きっと悪い様にはしませんから。だから見てて下さい……お願いします。と心の中で語り掛ける。
居間へ戻ると、詩織さんの遺影に御参りしたことで少し勇気も出てきたのか、思い切ってまた越川医師のことを口にしてみる。
「病院でヨイ先生が越川先生とご結婚なさると聞いた時には、きっとヨイ先生は幸せになられるのだと思っていましたのに」
「うちの主人は、あの男が詩織と結婚したのは、うちの病院が目的だったと思っているんですよ」
「はい?」
 意外な返事が返って来たので驚いてお婆さんの顔を見る。
「私も今思えば、本当にそのとおりだったんだと思いますよ。あの男の何とも慇懃にへりくだった態度には不快な物を感じていましたから。それを詩織は、自分への愛情だと勘違いして、主人はきっとそのことを見抜いていたんだと思います。詩織はそれまで満足に男性とお付き合いした経験も無かったので、信じてしまったのだと思います。今となっては私どもが詩織のことを厳しく育て過ぎていたことが、いけなかったのかもしれないと後悔しておりますが」
「そんな、あの越川先生が? 本当にそうなんでしょうか」
 亜希子はまた一度も会ったことのない越川医師のことを知っている様な嘘をついた。でももしこの方向で話が進んでくれれば、現在の越川について何か情報が得られるかもしれない。
「詩織はあの男に殺された様なものなんですよ」
「はい?」
「そりゃ私たちがあの男のことを認めなかったばっかりに、詩織は俊一を国立大学に入れようと無理をしたのかもしれませんけれど。でももしあの男とさえ一緒になっていなかったら、こんなことにもならなかったと思うんですよ」
 ……週刊誌のルポによれば、詩織さんは俊一を学歴が低かった為に出世の出来ない越川医師の様にはしない為に、俊に対して厳しい態度で勉強させていたのだと書いてあった。
 でも本当の目的は、俊を一流の大学に入れることで両親に越川との結婚を認めて貰うことだったというのか。
 だとすれば、もし詩織さんの御両親が越川医師の学歴とか出身についてとやかく気にしていなかったとしたら、詩織さんもそんなに一生懸命に俊の教育に当たる必要も無かったということではないのだろうか。
「そうだったんですか……そんなことは全然知りませんでしたけど。でもヨイ先生は越川先生と暮らして、幸せじゃなかったんでしょうか。ヨイ先生にとっては越川先生はいいご主人だったのではないんでしょうか」
「あの男は、身の程を知らない人ですよ」とお婆さんは吐き捨てる様に言う。
「詩織はねぇ、そんな子供を叩いたり出来る様な子じゃなかったんですよ。小さな頃から大人しくてね、物静かで優しい子だったんですよ。詩織がテレビや新聞で言っている様な酷いことを我が子にしていたなんて私にはとても信じられないんですよ。私はね、もっと早くに詩織のそんな状況を分かってあげることが出来ていたらと思うと、悔やまれてね。主人があの男との結婚を認めなかったものですから、私もおいそれとは詩織に会いに行くことも出来なくてね。それで詩織の方も意固地になってしまいましてね、ずっと断絶した様な形になっていたんですよ。ああ~せめて私にだけは何か相談してくれてたらねぇ。こんなことにはならなかったかもしれませんのにねぇ。そんな風に思うと悔やんでも悔やみきれないんですよ……」
 と着物の袖口からハンカチを出して目元を拭う。
「はぁ……本当にあの男を信じてしまったばっかりにねぇ……」
 そうだろうか……という言葉が浮かんで来る。お婆さんのことが不憫でならないという気持ちに変わりはないけれど。
「それに、何処にいるのかも分からなくなってるお孫さんのことも心配ですよね」
「……私どもにはもう、孫も亡くなっていないものだと思っております」
「!」
「まだ俊一が小さい頃は、私は主人に隠れてこっそり会いに行ったりもしていたんですよ。その頃はねぇ、主人と娘夫婦が上手くいっていないとはいえ、孫でしたから、それはもう可愛いと思う気持ちが強かったですけど、こんなことになってしまってはねぇ……もう孫というよりは、一人娘を殺されて、その犯人ですから……」
「!……」
 亜希子は絶句して何も答えられなくなってしまう。  
越川医師を見つけることが出来なかった場合には、詩織さんの御両親である俊のお祖父さんとお祖母さんに相談するという選択肢も持っていたのに、それは叶わなくなってしまった。
 このお屋敷を見て、俊がもしこんなお金持ちの家に引き取られれば、勉強して医者になる夢に向かって頑張れるかもしれない……と思ってたのに。
 でもそのことを抜きにしても亜希子には、この老夫婦には俊のことを任せる気にはなれないと感じている。
紅茶も無くなり、もうこれ以上話を聞きだすことは出来ないかなと思いつつ、最後にもう一度聞いてみる。
「そう言えば越川先生も豊橋病院はお辞めになられたみたいですけど、どうされているんでしょうね……」
「さぁねぇ、千葉の方の診療所にいるって先日来た週刊誌の方が言っていましたけど、私たちにはもう関係のないことですから」
 千葉!……越川医師は私と俊が暮らしているのと同じ千葉県内の診療所にいる!?。
 でも千葉県といっても広いから、それだけで居所を突き止めるのは難しいと思うけど、何か運命的なことを感じてしまう。 
「そ、そうなんですか……」
 と言葉を濁し「今日はありがとう御座いました」と言って立ち上がる。それからもう一度御参りさせて下さいと言って詩織さんの仏前に向かい、リンを鳴らして手を合わせる。
最後まで挨拶に出て来なかった院長のことを詫びるお婆さんに丁寧にお礼を言って、屋敷を出ると病院の方へ戻り、タクシーで元来た支線の駅へと向かう。

 猛スピードで車窓を風景が飛び過ぎて行く。名古屋から新幹線のぞみに乗った。夕方5時前には東京に着く。
車窓の風景と重なって、あの可憐で儚げな微笑みを浮かべていた詩織さんの遺影が浮かんでいる。
 あんなに優しそうな顔をした人が、俊の成績を上げる為だからって、本当に殴ったり蹴ったりしたんだろうか……。
 お母さんによれば、詩織さんは物静かで大人しい性格で、人を怒ったり叩いたり出来る子ではなかったという。
 両親の反対を押し切って越川医師と結婚した詩織さんは、その後両親の思っていた性格とは違う本性を現したのだろうか。 


 そしてもうひとつ驚いたのは、詩織さんの御両親が越川医師を憎んでいるということだった。
 いや、憎んでいるというよりは蔑んでいるという方が正しいだろうか。お母さんの越川医師に対する言動は、酷い偏見の様にも感じられた。上流階級の優越意識とでもいうものだろうか。

あれこれと考えているうちに東京駅に着いた。外はまだ夕暮れが始まる一歩手前という感じだった。
 すぐには京葉線には乗り換えず、八重洲口を出て飲食店がある通りへ入り、またネットカフェを探して入る。
 今回の検索キーワードは「千葉県」「診療所」そして「越川康弘」しかし検索すると千葉県内にある診療所は何百とあって、その中から越川医師が勤務している診療所を見つけ出すことは出来そうにもない。せめて診療所のある市の名前だけでも分かれば……。
インターネットで見つけることが出来ないとしたら。他にどんな手があるだろう……よく雑誌等に広告が載っている興信所という物に依頼すれば、と思うけど、それにはきっとこちらの身元を知られることになってしまうから、やめた方が良いと思う。
 そうだ、雑誌といえばあの週刊誌の越川医師のインタビューを書いた記者ならば、越川医師に直接会って話を聞いたのだろうから、今の居場所も知っているかもしれない。
 あの週刊誌を出版している雑誌社に問い合わせてみれば……いやそれだってこちらの名前とか仕事を教えなければならないだろうし、どうしても越川医師の居場所を探さなければならない納得のいく事情がなければ教えて貰えないだろう。そもそも雑誌の記者に接触するなんてとても危険なことだ。
どうしたら良いのだろう。もしかしたら事件のことをテーマに取り上げている匿名の掲示板等を検索すれば、何か情報が得られるかもしれない。
 と思い今度はキーワードの枠に「世田谷区」「母親を殺害」「高校生」「掲示板」と入れてみる。
 すると過去に起きた今回の様な事件の記録やルポの他に、少年犯罪や凶悪事件に関する掲示板の案内も多数表示された。
 その中から今世間で話題になっている「スクープ広場」という掲示板の名前をクリックしてみる。
 その掲示板はジャンル別にいろいろなカテゴリーに分かれており、そこから更にそれぞれの専門分野や特定の社会問題についてテーマが分かれている。それぞれについて感心のあるユーザーたちが匿名で書き込める様になっている。
数あるカテゴリーの中から「少年犯罪」という項目を選び、表示してみると様々な事件の名前が並んでいる。
 数ある表題を目を凝らして見ていくと、「世田谷区で起きた高校生の母親殺し」という表題があった。
 クリックしてみると、それはやはり5月に俊の犯した事件についての掲示板だった。投稿者たちは様々に自分の意見や考え等を書き込んでいる。
 その何百と言う書き込みの数に驚いた。今ではそれ程世間の話題にはなっていないと思ってたのに、ここではこんなにも反応が多く、それぞれにこの事件に対して何らかの思いを抱いている人がいる。
 中には『母親を殺すなんて言語道断だ、死刑にしろ』なんて恐ろしい書き込みもあるけれど、見たところ大方の意見は俊に同情的で『子供は親の欲を満たす道具ではない』とか『自分のやりたいことも出来なかった彼が可哀想だ』等の同情的な意見が多い。
見ていくと、俊の名前や父親の勤めていた病院の名前等は少年事件なので伏せられているはずなのに、中には『この少年の実名を知ってる』とか『少年の写真を入手しました。アップします』等のドキリとする書き込みがある。そのリンクを開いてみると、既に掲示板の管理者によって削除されているのか、写真が出て来ることは無かった。
 けれど、投稿者がアップしたばかりの頃はここに俊の写真が掲載されていたのかと思うと怖くなった。
 マスコミの報道では事件の詳細や個人名は伏せられているけれど、当事者たちの近親者や知り合いだった人は知っている訳だから、中には『俺は知ってるぞ』とか『私は同級生でした』等と情報を暴露している書き込みもある。
 俊のことをそのまま苗字と名前を書かずに『越〇俊〇』という様な形で書いているいやらしい書き込みもある。
 報道からは当事者たちを知ることが出来ない一般の閲覧者たちは、関係者だけが知っている情報にひどく興味を惹かれるのか『誰か知ってる人教えて』とか『写真持ってる人いたらアップしてくれ』等と煽っている書き込みもある。
 それに呼応して当人たちのことを知っている人が競い合って情報を暴露している様なところがあった。
恐いと思いつつ、何か越川医師に関する情報はないかと、延々と続く書き込みをスクロールしながら目を凝らして見て行く。
そして、その中にこんな書き込みを見つけた。
『この少年の父親は地元でも昔からダメ医者で有名、学歴も低く大学病院のお荷物的存在だった越〇さん。今は追放されて某県の僻地にある〇辺〇村の診療所で隠密生活を送ってるんだとさ……』
某県の僻地にある〇辺〇村……これが本当なのかは分からない。でももし千葉県内に「〇辺〇」に当てはまる名前の村があるとしたら……。
再び検索キーワードに戻り、今度は「千葉県内の村」と書き込んで検索してみる。
 ズラリと並んだ村の名前の中に「〇辺〇村」という文字列に適応する村の名前がひとつだけあった「芳辺谷村」更に検索を進めてみるとその村にある診療所はひとつだけ「芳辺谷村会沢診療所」。
住所も掲載されている。それは会沢さんという医師が個人で経営している診療所らしかった。
 だが、そこに勤務している医師の名前までは記載されていない。越川医師はここに勤務しているんだろうか。手帳を出してその診療所の住所と電話番号をメモする。
 時計を見ると7時になってしまった。そろそろ帰らなければ、また俊がお腹を空かせて怒っていることだろう。


第三章 6


 東京駅から京葉線に乗って、検見川浜へ着いた時には夜の8時を回っていた。
 マンションへ帰ると、俊は居間で寝転んでテレビを見ながらスナック菓子を食べている。
「ただいま」と声を掛けても返事は無い。
 亜希子は黙って手を洗い、洋服を着替えて俊の散らかした部屋の中を片付ける。
 ひととおり部屋を片づけて、二つのカップにお茶を入れて居間のテーブルに置く。
 俊はお茶には見向きもせず、テレビを消して板張りの部屋へ行こうとするので、声を掛ける。
「ねぇ俊。私今日ね、仕事があるって言ってたけど、本当は新幹線に乗って、愛知県の日進市にある詩織さんの実家まで行って来たんだよ」
「えっ?」
「俊のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんに会ってね、詩織さんのお墓参りをして来たの」
俊はビックリした顔をして亜希子を見る。
「ええっ、何で?」
 自分の身に関係のあることには敏感に反応するのだ。
「大丈夫だよ、俊がここにいるってことは秘密にしておいたから」
「何でそんなことしたの? アキコは何て言って行ったの?」
「以前に詩織さんにお世話になっていましたって、患者さんだったことにして、御墓参りさせて下さいって言っただけだよ」
「何で?」
「お父さんのことが知りたかったから。詩織さんの実家へ行けばきっと何か分かると思ったから」
「何でそんな余計なことするんだよ!」
「余計なことじゃないよ、ねぇ俊。お父さんと連絡が取れるかもしれないんだよ」
「えっ! そんなのダメだよ」
「こんな暮らしが一生続けて行けるなんて俊も思ってないでしょう?」
「何でだよ、大丈夫だよそんなの」
「だって俊はまだ17歳なんだよ、これからまだ何十年も人生があるんだよ」
「そんなの分かってるよ」
「分かってないよ。こんな狭い部屋に閉じ篭もって時間を無駄にしてばっかりいていい訳ないよ、これからだって医者になる夢を叶えることが出来るんだから」
「そんなの出来る訳ないじゃないかよ」
「なんでよ、大丈夫だよ! 俊はまだ若いんだから、少年院に入ったって、その後でまだ時間は幾らでもあるんだから、ねえ俊!」
 いつにない亜希子の剣幕に気圧されたのか、俊は黙ってそっぽを向いてしまう。
 何とか勇気付ける言葉を掛けてあげたいと思うけど、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが俊のことを心配していたよ……とは言えない。
「……ねぇ俊、私びっくりしたんだけど、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんはね、俊のお父さんのことを、お母さんをたぶらかして結婚した悪い人だって言ってたんだよ」
「えっ、違うよ、そんなことない……」
「俊はそう思う?」
「……」
「ねぇ俊、お母さんは本当に俊にそんなに無理矢理勉強させてたの?」
「……」
「週刊誌や新聞に出ていたことは、本当なの?」
「……うん」
 その話を持ち出されるのは俊にとって触れて欲しくないことだとは思うけど、どうしてもそこから逃れることは出来ないのだから、今こそしっかり問い質しておかなくてはならない。
「お父さんはそんな厳し過ぎるお母さんのこと、注意してくれなかったの?」
「……」
「俊はお母さんは嫌いだったんでしょ、でもそんなお母さんのことを止めてくれなかったお父さんのことはどう思ってるの?」
 黙りこくっていた俊は、亜希子がいつまでも目を逸らさずに見ていると、観念したようにボソボソと話し始める。
「お父さんは……凄い人なんだよ。とても努力して人の為に一生懸命医療活動してる、立派なお医者さんなんだよ……だから僕も勉強して、お父さんみたいなお医者さんになりたかったんだよ……」
「俊は、お父さんのことは尊敬してるんだね」
「父さんは、出たのが私立の低い大学だったから、病院に入ってからも凄く苦労して、出世も出来なくて、でも周りの人たちから信頼されて、大変だからって他の人が引き受けなかった小児科の担当もして、毎日夜中まで仕事して、どんなに疲れてても休まないで、自分に厳しくて、僕もそんなお父さんみたいになりたいと思ってたんだ……でもダメだったけど……」
「そんなことないよ」
こんなに素直に話をしてくれるのは久しぶりだった。亜希子は思う。俊はお父さんは立派な人だと思っているのだ。だから俊だって、詩織さんが無理矢理にでも入学させようとしていた国立大学になんか行かなくたって、お父さんの様に努力して、権威なんか無くっても誠実な医者になって生きて行きたいと思ってたのに、詩織さんは俊を一流大学に入れることでしか両親に自分の結婚を認めさせることが出来ないと考えて、俊に厳しく当たっていたのだ。その為に俊は犠牲にされてしまった。
「ねぇ俊、本当にお父さんと連絡が取れるかもしれないんだよ」
「やめてよそんなこと」
「どうしてよ」
「ダメだよ絶対に! ねぇやめてよお願いだから!」
「だからどうしてよ」
「だって……僕、あんなことして」
「大丈夫だよ、お父さんならきっと俊の力になってくれるよ」
「ダメだってば!」
 隣の住人に聞こえてしまうのではないかと思うくらい大きな声だった。
「どうして? 俊、お父さんは立派な人なんでしょう、それならきっと……」
「お父さんに会わせる顔なんかないもん……だって、僕は取り返しのつかないことして、父さんの人生をメチャメチャにしちゃったんだよ。父さんに許してくれなんて言える訳ないじゃないか」
 俊一が警察に出頭出来ない一番の理由は、父親に対する罪の意識なんだろうか。
 母親を殺したことで俊が唯一罪の意識を感じているのは、父親に対してだったのかもしれない。それ程俊はお父さんに申し訳ない気持ちで一杯だったのだ。
 いずれにしても愛知県にいる祖父母が俊を助けてくれる可能性はない以上、力になって貰えそうな人はもう父親以外にはいない。
 俊がどう思おうとも、どうしても一度越川康弘という人と連絡を取ってみなければならないと思う。

第四章 1


 亜希子は東京駅のネットカフェで調べた千葉県の芳辺谷村にある会沢診療所へ送る手紙を書いた。
調べた住所を検索して地図に表示してみると、その村は亜希子たちが住んでいるのと同じ千葉県とは言っても、東京湾のずっと先の房総半島の突端近くで、山間部の中にあった。
 宛名は『会沢診療所御中越川康弘様』とした。まずは相手の出方を見なければならないと思い、差出人の名前は書かず、この手紙が越川医師に届けば連絡が貰える様に、俊がパソコンで使っていた、正規のアドレスを知られることなくメールのやり取りが出来るフリーメールを登録して使おうと思う。
越川医師に送る手紙に携帯から登録したフリーメールのアドレスを添えて、次の様に書く。
『私は貴方の息子さんの俊一君の居場所を知っています。この手紙を読んで頂けたのなら、誰にも知らせずにこのアドレスへご連絡ください』
 越川医師がその診療所に勤務しているのであれば、きっとメールを送って来るだろう。

その手紙を出した翌日から、会社は5日間のお盆休みに入った。
 旅行に行く予定もないし、一日くらいは八王子の実家にも顔を出さなければと思い、姉の真由美と連絡を取って、二日目の朝から行くことにしている。
 一日目の今日は家にいても俊と話すことは殆どないし、普段出来なかった片付け物やベランダの掃除等をしたけれど、それも一通り済ませてしまうとやることもなく、度々携帯を開いては越川医師からのメールが来ていないかと気になっている。
次の日は朝から家を出て、電車を乗り継いで新宿から京王線に乗る。実家に近い北野駅に着くと検見川浜から2時間半くらいだった。遥か彼方へ引っ越したつもりでいたのに。思ったよりも時間が掛からなかったので驚いてしまう。
玄関を開けて「おう、お帰り」と出迎えてくれたのはお父さんだった。
 私が家にいた頃は何処となく頼りなくて、いつもお母さんにお尻を叩かれるみたいにして仕事に通ったいたお父さんは、まるで気の小さい恐妻家だなと思っていた。
 けれど銀行を定年退職してからは、逆に威厳が出て来たと言うか、ふと黙って座っているのを見ると、父親の大きさみたいな物を感じる様になった。本当はただ暇を持て余してぼーっとしてるだけなのかもしれないけど。
「ただいま、お久しぶりです」
 とつい他人行儀な挨拶をして家に上がると、姉の真由美とご主人の吉村さん、それに姪の由香里ちゃんも来ている。
 姉と会うのも久しぶりだった。3つ違いだから41歳になっている姉さんは、サラリーマンの夫と高校生の娘のいる家庭の、典型的な奥さんと言う雰囲気になっている。
 あの頃会社勤めを始めて4年目だった姉さんが、会社の上司から紹介された吉村さんとの結婚を決めて、アッサリ仕事を辞めてしまった時には、吉村さんには失礼だけれど、こんな平凡な人との人生を手堅く決めてしまっていいのかなぁ、と思ったりした。
 けれど、すっかり大きくなった由香里ちゃんと旦那さんと三人で並んでいる姿を見ると、ああ本当は女の人生はこれが正解だったのかもしれないなぁ、とも思う。私もこうなりたかったとは思わないけれど、私は姉の様に手堅く生きて来ることは出来なかった。
「亜希子も早く良い人を連れて来てちょうだいよ~」と言う母さんに「仕事に生きる女ってのも近頃は流行ってるんだから」と適当に交わすと父さんが「結婚しないのなら家に戻って来なさい」とぶっきら棒に言う。
 ちょっと場が白けそうになったところを「あら、結婚だけが人生じゃないわよねぇ~」と姉が助け舟を出してくれたので、どうにか誤魔化して楽し気に過ごす。
 そんな会話のどさくさに紛れて皆に検見川浜に引越したことを告げたのだけれど、両親や姉さん、それに由香里ちゃんにまで、誰か良い相手でも出来たんじゃないかと追求されてしまった。
 最初は笑って誤魔化していたけれど、あんまりしつこいので顔も引きつって来てしまい、いい加減にしてよという感じだった。
今夜は泊まっていけと言う両親を、明日は用事があるからと言って振り切って、夜遅くなって帰って来る。
 電車の中で携帯を開いてみるが、越川医師からのメールは来ていない。俊には今日は遅くなるからと言っておいたので、怒ってはいないと思う。
 
 翌日になって、遂に越川医師からのメールが来た。

『貴方はどなたでしょうか? 悪質な悪戯だとしたら直ちに警察へ通報します』

 と書かれている。こちらの言うことを全く信じていない様子だ。
 考えて、俊の寝顔をこっそり携帯の写真機能を使って撮影し、その画像をメールに添えて、次の様な文章を打ち込む。
『私はひょんなことから俊一君を匿ってしまった者です。俊一君は勉強して将来はお父さんの様な医者になりたいと言っています。でも俊一君には警察に出頭する勇気がありません。今からでも遅くはないと思います。私は俊一君が立ち直ってその夢を実現させる為に、力を尽くしてあげたいと思っています。真剣にそう考えています。貴方に連絡を取ったことを俊一君には秘密にしています。俊一君を立ち直らせてあげることが出来るのはお父さんだけだと思い、居場所を探していました。是非とも貴方の力が必要なのです』
 そのメールを送信すると5分も経たないうちに返信が来た。
『私は打ち震えています。どなたか存じませんが、何とお礼を言ってよいのか分かりません。無事でいるのかどうか心配で夜も眠れない日々を過ごしておりました。息子が生きていると分かってこんな喜びは御座いません。貴方様には大変な御迷惑をお掛けいたしました。すぐにも引き取って然るべく罪の償いをさせてやりたいと思います。俊一が事件を起こしてしまったのは全て私の至らなさによるものと思い、悔やんでも悔やみきれない気持ちでおります。またこの件につきましては貴方様にはきっとご迷惑の掛からない様にしたいと思っておりますので、何卒宜しくお願い申し上げます』
 こちらが素性を隠しているにも関わらず、実に誠実な言い回しだった。
 亜希子は俊を匿うことになった経緯については何も書かなかった。というより書くことが出来なかった。
 それを察してなのか、越川の方もこちらに必要以上の質問はせず、亜希子が何処の何者なのかということも、職業も何も聞いては来ない。ただ感謝の言葉だけで返事を書いている。そんな態度に気の毒な印象さえ持った。
それから何回か、俊には内緒にしたまま越川医師とメールのやり取りをした。
越川医師からのメールには、事件を起こしてからの俊一の様子について、出来るだけ教えて欲しいということが書いてあった。
 亜希子は俊が亜希子の借りて来る映画やアニメのDVDを夢中になって観ていたことや、頭が良くてクイズ番組等は出演者たちが敵わないくらいの回答率だったこと、旺盛な食欲に驚かされたことや、寝ている時に母親の夢を見ているらしく魘されることがあったこと等を書いた。
 それから絵が上手くて、亜希子が昔描きかけだった水彩画を見事に仕上げてしまったことも。
 俊の寝顔の写真を見せられたとはいえ、越川はまだ亜希子が俊を匿っているということに半信半疑なところがあるのではないかと思う。だからこうして誠実に感謝している態度を見せながらも、いろいろと俊のことを訊ねて、様子を窺っているのではないかと思った。
そんなやり取りが何日か続いた頃、越川はメールではなく電話で話すことは出来ないかと書いて来た。自分の携帯の番号を教えるので、非通知でも良いのでかけて来て欲しいと言う。
 俊のいるところで電話をする訳にはいかないので、仕事の帰り道、駅からの道を少し逸れたところにある公園で電話を掛けようと思った。
 電話するのはその時間でどうかと打診してみると、大丈夫だと言うので、明日電話を掛けることを約束する。

 次の日、陽の暮れかかった公園のベンチに座って携帯を出し、非通知の設定にして越川からのメールに書かれた番号にかける。
『はい、越川ですが……』
 それは別段何の変哲もない何処にでもいる中年男性の声だった。
「もしもし、あの、私です」
『はい、分かっております』
「はい……」
『始めまして、越川康弘と申します。この度は息子がとんだご迷惑をお掛けいたしまして、全く何とお礼を言って良いやら分からない次第で御座います……』
 恐縮しきった様子で、いつもメールに書いてあったのと同じ様な文句を述べる。
「はい、もうそんなことはいいんです。それより今からの俊一君のことを相談させて頂きたいんです」
『はい、勿論で御座います。それから貴方様への御礼のことも重々考慮しておりますので……』
「いえお礼なんかいいですから、お父さんみたいな医者になりたいっていう俊君の夢を、どうしたら叶えさせてあげることが出来るかということをお話ししたいんです」
『はいっ、私に出来ることは何でもする所存でおります。俊一にあんなことをさせてしまったのは全て私の責任だと痛感しておりますので、もし私の命と引き換えに俊一が立ち直ることが出来るというのなら、喜んで命を捨てる覚悟も出来ております』
少し戸惑う……俊一に済まないことをした、親としての責任を果たせなかったという悔恨の念に囚われてのことなのだろうけど、それにしても言動に違和感の様な物を感じてしまう。
「俊一君はもう自分はダメだと思って、自暴自棄になって自堕落な生活に浸りきっているんです。救って上げることが出来るのはお父さんだけなんです」
『しかし、私にまだ俊一の父親としての資格があるのでしょうか』
「俊一君は何よりもお父さんに悪いことをしてしまったと、深く反省しているんです」
『はい……』
 その後沈黙した。微かに聞こえる息遣いに、越川が嗚咽を堪えているのではないかと思う。
『……すいません。俊一には、妻のことはもういいから、早く出て来て私と一緒にやり直して欲しいと、伝えて下さい……人生を』
「はい」
『それで、俊一は今どちらにいるのでしょうか』
 躊躇した。まだ居場所を教えることまではやめておこうと思う。俊一がここにいることを告げた途端に越川が警察に通報してしまうのではないかという恐れがある。
 もう越川に対する信頼感は大分出来ているけれど、何故かまだ信ずるに足る確信が持てないというか、躊躇いがある。
 まだ俊に隠しているということもあるけれど、俊に引き合わせる前に一度直接会って話をしてみたいと思う。
越川にその旨を伝えたところ、まだ診療所に勤務させて頂く様になったばかりだし、自分の都合で休みを取らせて頂く訳にはいかないのだという。
 なので越川は恐縮したが、亜希子の方から診療所を訪ねて行くことにする。
 だが訪ねて来た亜希子と越川との関係を他の人たちに訝しく思われてもいけないので、亜希子はたまたま近くに来ていたところ、急に具合が悪くなり、診療所を訪ねたという体裁にしようと相談する。
越川に都内から診療所までの交通の便を教えて貰い、期日については追ってメールで連絡することにした。
 通話を切ってベンチを立つと、すっかり夜も更けてきており、広い公園にいるのは亜希子一人だった。


第四章 2


次の土曜日。亜希子は越川医師の勤める診療所へと向かう。
 俊にはまた土曜出勤だからと言っておいた。以前にも何度か本当に仕事で出勤したこともあるので、俊は言葉通りに受け止めているみたいだった。
 検見川浜駅から会社へ行くのとは反対方向の蘇我行きの電車に乗り、蘇我からは内房線の安房鴨川方面へと向かう電車に乗り換える。
 幾つかの駅を通り過ぎた辺りで、進行方向の右側に大きな煙突やコンビナートが建ち並ぶ工業地帯が見えて来る。
 ああ、この辺りはあの朝俊と浜辺へ来た時、幾つもの赤く点滅してる光が見えた辺りなのだなぁと思う。
 そこを過ぎるとやがて海が見えて来る。電車は房総半島の海沿いをいつまでも走る。海が間近に迫って来て、背後には緑の山々がある。
 この辺りに住めばきっと俊が望んでた様な、窓から海が見渡せる部屋もあるかもしれない。けどさすがにここからでは会社へ通うのが大変だろう。
 そんなことを考えるともなくぼ~っと景色を眺めている時だった。少しお腹が痛いと思っていると、それがどんどん酷くなって、座席に座ったまま前屈みになってしまう。
 それまでにもお腹の辺りに何か違和感があると感じたことはあったのだが、それが急にハッキリした感覚になって、キリッと刺す様な痛みが走る。
 お腹を壊したり食べ物に当たったりした痛みとは違う。どちらかというとおへその辺りよりは上の方で、みぞおちに近い様な感じがする。便意はなくて、何処かは分からないけれど内臓その物が痛んでいる様な感じだ。
 なんだろう……と思ってじっとしていると、次第に痛みは治まって、なんでもなくなってくる。だが、少し身体を動かすと今度は腰の後ろにぎゅっと絞られる様な痛みが走る。
「あいたた……」
 思わず声が出てしまい、片手で腰を押さえる。近頃は神経をすり減らす様なことばかりしていたから、きっと身体の中に無理が来ていたのかもしれない。
 もっと痛みが酷くなって来たらどうしようと思い、呼吸を整えてじっと動かずにいる。
 痛みは治まってきたけれど、動くとまた痛いんじゃないかと思い、暫くそのままでいる。大分時間が経ってからそうっと腰を回してみると、大丈夫だった。

そのまま海岸線を走る電車に揺られ、蘇我駅から約2時間も掛かって、房総半島の突端に近い九重という駅で降りる。
 そこは無人駅で、ホームからの出入り口の両側に切符を入れるボックスと、カードをタッチさせるパネルの付いたポールが立っている。
 内房線への乗り越し分も含めて検見川浜駅で買った切符をボックスの差込口に入れる。
 ホームの他はガラス張りのこじんまりした待合室とトイレがあるだけの小さな駅だった。
 電車から降りたのは亜希子の他に1人だけで、その人は待合室を通過するとスタスタと何処かへ歩いて行ってしまう。
 バス停の時刻表を見て、越川医師に教わった1時間に1本しかない路線バスが来るのを待つ。
 辺りは他に人影は無いけれど、駅前を通る車道を時々車が走って行く。
 やがて来た路線バスに乗る。運転手の他に乗客は4人くらいで、どの人も地元の人らしい。
 走り出したバスは暫く田園風景の中を走り、山の間の曲りくねった道を縫う様にして登って行く。乗ってから40分程行ったところにあるバス停で降りる。
 辺りは木々が生い茂り、森に囲まれた中に田んぼや畑がある。地図を見ながらその脇を通る畦道を入って行く。
芳辺谷村は房総半島の突端近くの山間部にあった。越川医師によれば、診療所まではバスを降りてから歩いて20分くらいはかかるということだった。
 ネットカフェのパソコンでプリントアウトしておいた地図を見ながら歩いていても、特に目印もない山の中なので距離感や方向がつかみ難い、歩いているうちにこの道で合っているのかと不安になって来る。
途中地元の農家の人らしいお爺さんに出くわしたので、診療所のことを訪ねてみると、親切に教えてくれた。
 教えられた道を15分ほど歩いたところで家の前にいたお婆さんに再び訪ねると「ああ、診療所だね、近頃新しい先生が来て下さって皆感謝してるんですよ」と気さくに教えてくれる。
ようやく辿り着いて見ると、それは診療所というよりは普通に民家だった。玄関脇の表札を見なければ、そこが診療所だとは誰にも分からないだろう。
 玄関の扉をノックして「ごめんください~」と声を掛ける。
「はい、どうぞお入り下さい」と中から男性の声がする。これが越川医師の声なのだろうか、それにしては電話の時と違って少し老人の様な感じだな、と思いつつ扉を開けて入る。
 家の中も普通の民家の様に上がりかまちがあって、靴を脱いでスリッパに履き替える様になっている。
 玄関から続いている板張りの廊下の奥に「診察室」と表示されたドアがある。「こんにちは」と言いながら開いて入る。
 診察室は8畳程の広さで、脇にベッドがあり、窓際に書類の並んでいる机と医療器具等の入ったガラス張りのケースがあり、簡素だけれど清潔な感じがする。
 待っていると奥の部屋から先ほどの声の人だと思われる白衣を着た老人の男性が現れた。
 ちょっとドキドキしたけれど、越川医師は50歳前後だと思っていたので、この老人は越川医師ではなく、所長の会沢医師の方だと思う。見たところ70歳くらいだろうか。
 亜希子の顔を見て『アレ、見ない顔だな』と言う表情をする。
「どうなさいましたか」と言われるので「すみません。仕事でたまたまこの近くに来ていたんですが、急に具合が悪くなってしまいまして、こちらに診療所があるとお聞きしたものですから」と越川と打ち合わせした通りに話す。
 さっき電車の中でお腹に違和感を感じたことを思い出したけど、あの痛みが何らかの病気の兆候だとしたら、本格的な診察等を始められてはいけないと思い、考えていた通りに貧血を起こして倒れそうになったということにする。
医師は血圧を測りながら「前にもこういうことはあったんですか?」と聞くので「はい、本当にたまになんですけど」と適当に答える。
 医師は意外にも「ああ、確かに低いですね」と言い「ちょっとこちらに横になって下さい」とベットへ促し、点滴を打って貰うことになった。
今日訪ねると約束しておいたのに、越川医師はどうしたんだろう……と思いながら横になって点滴を受ける。
「前は私しかいなかったものですからね、往診に出てる時はここは誰もいなかったんですけど、最近新しい先生が来て下さってるので、外来の方が来ても診られる様になって良かったんですよ」
 その新しく来た先生と言うのが越川のことなんだろうか。とすれば今は往診に出ているのだろうか。点滴が終わるまでに帰って来てくれると良いけど。
「こちらでは応急の処置しか出来ませんので、もし頻繁に貧血が出る様でしたら一度大きな病院へ行って検査を受けられた方が良いと思いますよ」
 と亜希子の提示した保険証のデータを書きながら、少しおっとりした口振りで言う。
「20分くらいで終わりますからね」
 と言って会沢所長が奥の部屋へ入って行くと一人きりになる。
 暫くして外に自転車の止まる音がしたかと思うと玄関の開く音がして「ただ今帰りました」と言う声がする。所長の入って行った奥の部屋へこの診察室を通らずに入ることが出来るらしく、ドアを開く音と足音が続く。
「お帰りなさい」と所長の声がする。
「篠田さんのお爺ちゃん大分良くなりましたよ。河野さんには明日また伺いますと言っておきましたので」
「そうですか、ご苦労様」
「どなたか外来ですか?」
「うん、貧血を起こしたそうなのでね、今点滴打ってるから」
「そうですか」
 診察室のドアを開けてその医師が入って来た。男性としては小柄な方で、会沢医師よりはずっと若く、50代くらいに見える。
 ベッドで横になっている亜希子の顔を見た途端に硬直した様に凝視する。亜希子もその医師の顔をじっと見つめたまま、大きく顔を揺らして頷いて見せる。
「今日はどちらの方からですか?」と強張った表情とは裏腹に気さくな感じで言葉を掛けてくる。
「はい、都内からなんですけど、歩いていたら急にフラフラしてしまって、近頃あんまり長く歩いたことがなかったものですから」 
 と調子を合わせて気軽な感じで答える。
「そうですか、急に運動するとそうなることがありますから、普段からなるべく歩く習慣を付けた方が良いかもしれませんね」
 と言いながらデスクに座ると何気なく書類を見たりしている。
 この人が俊の父親なんだろうか、医者というより平凡で何処にでもいるお父さんという感じだ。優しげで、とても慎ましい感じがする。
 そうこう思っているうちに点滴も終わり、ベットを降りて礼を述べながら診察の代金を支払う。
 すぐにでも話を切り出したいところだけれど、越川は奥にいる所長に聞こえるとまずいと思っているのか、亜希子のことは知らないという態度を通すつもりの様だった。
「それじゃ、お大事になさって下さい」と言いながら亜希子の手に小さな紙片を握らせる。
 きっと何か書いてあるのだろうと思い、素知らぬ顔をしてポケットに入れる。
「ありがとうございました」と言って外へ出る。
 玄関を出て少し歩き、診療所が見えなくなる所まで来て、そっとポケットから紙片を出して開いてみる。
『外で待っていてください』とだけ走り書きしてある。
 木の陰から診療所の建物が見える所まで戻り、見ているとやがて中から出てきた越川が自転車に乗って走って来る。
 診療所の前から続く道がTの字に分かれるところで立ち止まり、ここに立っている亜希子を見つけると、こちらへ向けて走って来る。
 側まで来ると自転車を降り「少し一緒に歩いて頂けますか」と言って自転車を押して行く。
 亜希子も並んで歩き出すと、越川は前を向いたまま語り始める。
「今日はどうも、ありがとうございます。こんな山の中まで来て頂いて」
「いえ……」
「……世田谷の病院を辞職しましたところへ、お世話になっていた上司からこちらの診療所を御紹介頂きまして、ここなら都心からそう遠くもないですし、もし俊一が見つかった時にも、すぐに駆けつけることが出来ると思いまして」
「そうだったんですか」
「はい、実は会沢先生は私の事情もご存知なんですが、先生も良いお歳なので、後任の医師が来てくれないと無医村になってしまうということで、私が来たことを喜んで下さっているんです」
「そうですか」
「それに村の方たちも、私の事情をご存知ないとはいえ、とても歓迎して下さいましてね、私の様な者を、本当に……」
と言葉を詰まらせて、少し沈黙してからまた続ける。
「私の様な者が、まだお役に立てる場所があるんだと思いましてね」
「……」
 越川の口調は淡々としているが、見ると幾筋もの涙が頬を伝っている。
「俊一は元気にしているんでしょうか」
「……はい、大丈夫です」
「ありがとうございます。貴方には、何とお礼を言っていいか」
「……」
 ここに来るまで、もしかしたら越川は、私が俊を警察に引き渡すこともせずに匿っていたことを責めるのではないかと思っていた。
 だが、物腰の柔らかな越川の言葉に接していると、既に俊の心までもが救われている様な気がしてくる。
 二人で暫く歩いていると、道を囲んでいた森が途切れ、波の音がしたかと思うと視界が開けた。そこには青く東京湾が広がっている。
その先は切り立った断崖で、縁から見ると遥か下の岩場に波が当たって砕けている。
 下から吹いて来る潮風が頬を撫ぜる。彼方まで遠い遠い海に青空が広がっている。思わず胸が一杯になってしまう。心が洗われる様な美しい所だと思う。
 この海は、あの朝俊といた砂浜に繋がっているんだ。もし俊がここへ来て、お父さんと一緒に暮らすことが出来たなら、俊はきっと立ち直ることが出来るのではないかと思う。
 海を見つめている亜希子の顔を、気が付くと不安そうに越川が見つめている。亜希子は声を掛ける。
「越川さん」
「はい」
「俊一君は、あの事件を起こしてしまったことを、誰よりもお父さんに悪いことをしたと思って、後悔しているんです」
「そんな」
「私が思うに、俊一君が今も私のところに隠れて、警察に出頭することが出来ないでいるのは、貴方に対して悪いことをしたという罪の気持ちが強いからだと思うんです」
「そんなことを言っているんですか、俊一は……」
「はい」
「そんな……悪いのは私なんです。私が不甲斐ないばかりに俊一にあんな事件を起こさせてしまったんですから。私の方こそ、俊一に謝らなければならないんです」
 ああ、来て良かった……どうにか俊を助けてあげたいと思い、世田谷の病院を訪ねるところから始まって、一人で奔走していた苦労が、今やっと報われた気がする。
岸壁に立って遠くを見つめる越川の目にも、きっと希望の兆しが見えているのではないかと思う。
「大学病院にいた頃は、患者さんのことなんて本当に考えている医師はひとりもおりませんでした。皆診療費のノルマや自分の出世のことばかりに気を取られていて、私が医者になったのはこんなことが目的では無かったと、落胆していたんです。でもまさか、将来自分がこんなことになって、ここへ来るとは思ってもみませんでしたけれど、私はここへ来て、本来の自分の目指していた医師としての仕事が見つかった様な気がして、皮肉なことなのですが、私はここの暮らしに生き甲斐を感じているんです」
「俊一君は、そんなお父さんのことをずっと尊敬していて、将来お父さんの様な医者になりたかったって、言ってましたよ」
「……」
 亜希子の言葉を聞いた越川は、暫しブルブルと振るえながら、込み上げて来る激情に耐えている様だった。
「私は……情けないことに、妻が怖くて逆らえませんでした。詩織は思う様に俊一の成績が上がらないと、俊一に殴る蹴るの暴力まで振るって、とても厳しく当たっていました。私は、可哀想に思いながらも、どうにもしてやれなくて、私は、私は自分の不甲斐なさを思うと……」
不意に亜希子の手を取って力強く握り締める。
「ありがとうございました……私は、貴方のお陰で希望を取り戻すことが出来ました。でも、私にまたやり直す資格なんてあるんでしょうか。私は、俊一に本当に済まないことをしてしまった。許される筈はないんだ」
「いいえ、俊一君は、今の越川さんの言葉を自分に掛けてくれるのを待っているんです。本当です」
「……」
「越川さん。俊一君と電話で話してあげて下さい。そして、今の言葉を掛けてあげて下さい。お願いします」
「……はい」
「私、今日これから家に帰って、俊一君が出られそうならすぐにでもお電話しますので、俊一君に、何も心配することないって、言ってあげて下さい」
「はっ、はい……」
 その後は言葉にならず、越川は涙を流し続けている。
 そんな二人を包み込む様に、東京湾の潮騒が、静かに絶え間なく響いている。

 越川と分かれてバスに乗ると九重駅まで戻り、また内房線で2時間掛かって蘇我駅まで行き、京葉線に乗り継いで帰る。
 検見川浜に着くと夕方だった。スーパーで夕食の買い物をして、マンションへ帰って来る。
 俊一は自分の部屋にいる様で、「ただいま~」と声を掛けても出て来る気配もない。
 居間に入ると寝散らかしたままの布団が散乱している。亜希子は着替えると布団を押入れにしまい、夕食の準備に掛かる。

 食事の準備が出来たと声を掛けると、俊一は黙って出てきて、テレビを着けると亜希子には見向きもせずに食事を始める。
 亜希子も黙って食べ、俊一が食べ終わる頃を見計らってテーブルの下に置いておいた携帯電話を取り、越川の番号へ発信して耳に当てる。
 亜希子が電話を掛けているのに気付いた俊一がチラッとこちらを見るが、また無関心にテレビの方へ視線を戻す。
 亜希子はもう片方の手でテレビのリモコンを取ると消してしまう。
「おい」
 と俊一が文句を言いそうになったところで電話が繋がる。
「もしもし、はい、今俊一君は隣にいます」
 それを聞いて俊一が驚く。
「はい、今代わりますので」
 と言って俊一に携帯電話を突き出す。
「何だよ」
「出て」
「えっ?」
「早く、いいから!」
 勢いで亜希子に持たされ、耳に当てる。
「……えっ……」
俊一は相手の声を聞いて驚きの表情を浮かべたかと思うと、顔が赤く充血して行く。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい……」
 とんでもない悪戯を見つかった子供の様に何度も繰り返す。
「だけど、でも、お父さん。僕は……」
 涙を浮かべたかと思うとボロボロと零し始める。
 越川が思いつく限りの優しい言葉を俊一に掛けているのだろう。そして俊一を許すと言い、自分が悪かったという旨を伝えているのだ。
「本当? 本当なの? ねぇお父さん、本当に僕を許してくれるの? 本当に……うっ、うう……」
 俊一の肩が強張ってブルブルと震えている。子供の様にしゃくり上げながら言葉を繋ごうとするのだが、言葉にならず嗚咽を漏らしてしまう。亜希子は俊の背中を優しく摩ってあげる。
「うん……うん分かったよ、分かったよ、そうするよう、約束するから……僕約束するから……」
 泣いてブルブルと震え続ける肩を抱きながら、俊の手から携帯を取る。
「もしもし、越川さん」
 電話の向こうで越川も泣いている。
『ううう……ありがとうございました。いま俊一と話しまして、今度亜希子さんに連れて来て貰って、私とこれからのことを相談しようねと、約束することが出来ました』
「分かりました。こちらも俊一君が落ち着いてから、お父様にお会いする日取りを決めて伺いたいと思いますので、宜しくお願いします」
『こちらこそ、本当にどうも、ありがとうございました。ありがとうございました……』
「それでは、また御連絡しますので」
 と言って電話を切る。俊はまだ涙が止まらずに泣き続けている。
「うう……信じられないよう……お父さんが、父さんが許してくれるって、ボクのこと許してくれるって言ってくれた……」
 腰にすがり付いて来る俊の頭や肩をいつまでも擦って上げる。俊は時々しゃくり上げながら、いつまでも泣きじゃくっている。
手を延ばしてティッシュを取り、涙が伝う俊の頬をそっと拭ってあげる。
「良かったね、俊」
「うん……」
 何故勝手にお父さんと連絡を取ったりしたのかと、責められるのではないかとも思っていたのだが、そんな心配は全くなかった。
その時から俊は、まるで別人の様に神妙になって、亜希子が何を言ってもウンと頷いて、言うことを聞く様になった。
 それは俊を匿い始めた頃の様で、今更ながら俊に対する愛おしさが込み上げて来る。でももう近いうちにお父さんの元へ返さなければならないんだ……と思うと寂しい気持ちも起きてしまう。
 嫌、もうそんなことを考えていてはいけないんだ。と自分の気持ちは無視する様にしようと思う。
 その夜は何週間振りかに俊と抱き合って眠った。


第四章 3


二度目の痛みが襲ったのは、その翌日会社に向かう電車の中だった。
 人ごみの中で揉まれながら、あの時と同じみぞおちの辺りで、何か異物が転がっている様な感覚がある。
 アッと思う間もなくそれは痛みに変わって、キリキリとした痛みが身体を突き抜けて腰の裏側へと広がって行く。
「うっ……」と声が漏れてしまいそうになりながら前屈みになって腰を押さえる。
 12年前の府中駅での様に、蹲ってしまうくらい痛くなったらどうしようと思い、じっと耐えていると、少しして波が引いていく様に治まって来る。
 ホッとしてそのまま会社へ向かったが、こうなっては一度病院へ行って診て貰わなければならないと思う。
仕事が終わってから、夜遅くまでやっている近くのクリニックを訪ねる。
 医師に症状を告げると、お腹のレントゲン写真を撮ってみることになった。
 レントゲンの部屋へ入り、衣服を脱いで上半身ブラジャーだけになり、撮影台に乗ると左右に付いている手すりを持ってアクリル板に向かう。
 隣の部屋から医師の声がする「はい、息を吸って……止めて下さい」カシャッと音がして「はい結構です」。
 服を着て待合室で待っていると暫くして名前を呼ばれる。
 医師は大きな白黒のレントゲン写真を手に亜希子に説明する。
「見たところ特にはっきりした異常を確認することは出来ないんですが」
と言って医師は亜希子のお腹に手を当てて押してみたり摩ってみたりするのだが、特にしこりがあると感じることは出来ない様だった。
「それと、倉田さんは以前に子宮の摘出手術を受けていますか」
「はい」
「それはどんなご病気で?」
「卵巣に腫瘍が出来て、悪性だったものですから、手術して子宮と片方の卵巣を取りました」
「そうですか、腹部の場合は何か新しい腫瘍が出来ているとしても、レントゲン写真だけでは正確に判断することは難しいんですよ。でもそう言う事情でしたら早急に設備の整った病院で検査をされることをお勧めします。私の方から紹介状を出しますので、明日にでも伺ってみた方が良いと思いますよ」
 と言って国立病院への紹介状を書いてくれた。
12年前……府中駅のホームで倒れて、救急車で搬送されて、八王子の大学病院で片方の卵巣と子宮の摘出手術を受けた。
あの腫瘍が再発したんだろうか。紹介された病院に行って検査を受ければ、そのまま入院ということになってしまうかもしれない。
 そんなことになれば、マンションから一歩も外へ出られず、食べ物を買いに行くことも出来ない俊一は生活出来なくなってしまう。
俊をお父さんの元へ引き渡すまでは、入院なんてしてられない。急がなくちゃ……。

 いつもの公園で越川に電話を掛け、俊一を引き合わせる日時と場所を相談する。越川はまだ最初は誰にも見られない所で、三人だけで会う様にした方が良いと言い、亜希子もその方が良いと思う。
 日時は3日後の木曜日に診療所での勤務が終わってから、場所は越川が適当な所を探して連絡するということになった。
 亜希子が帰って来ると、俊一は部屋の中を綺麗に掃除している。今まで散乱していた板の間の部屋も、綺麗に整頓されている。
「綺麗になったね」と言うと「うん……」と言ったまま俯いて黙ってしまうので「どうしたの?」と聞くと、俯いたまま消え入りそうな声で「今まで……どうもありがとうね」と言う。
 黙って俊の身体を抱いて、腕にギュッと力を入れると、俊は亜希子の胸に顔を埋める。

 水曜日になって越川から連絡が来た。明日は亜希子が診療所を訪ねた時に降りたのと同じ、内房線の九重駅まで、俊を連れて夜の8時に来て欲しいと言う。
夜8時に九重駅へ着くとすると、会社が終わってからでは間に合わない。木曜日亜希子は身体の調子が悪いので病院へ行くと言って、午後は早退して帰って来た。
 そしてここへ引越して来た時の様に俊に変装させる。
 越川のところへ行くまでに発見されるという心配はそれ程ないとは思うけど、誰にも邪魔されずに越川と会うことが出来るまでは、責任を持って俊の安全を守らなければならない。
九重駅までは2時間半くらい掛かってしまうので、約束の8時から逆算して、夕方の5時にマンションを出ることにする。
 俊を連れてエレベーターのある中央までの通路を歩く。誰にも見られなかった。下から上がって来たエレベーターが扉を開く、誰も乗っていない。
 エレベーターに乗って1階へ降り、道路へ出たところで帰って来た男の人とすれ違ったけれど、特に亜希子たちの方を気にする様子はなかった。
 駅へ近付くと人の数も増えて、そのまま紛れる様にして切符を買うと、京葉線の蘇我方面行きの電車に乗る。まだ通勤ラッシュの時間には早いのか、電車はそれ程混んでもいない。
 蘇我駅に着くと、外はもう暗かった。内房線に乗り換える。電車はガラガラでまばらにしか乗客はいない。
 俊は黙りこくったまま俯いて座っている。少女の様な横顔を見ながら亜希子は思っている。もうこれで、きっと俊とはお別れなのだろう。でも、これで良いんだ。
 俯いていた俊が亜希子の顔を見て言う。
「ねぇアキコ、僕、やっぱり行かなきゃダメかな?」
「……何言うのよ」
「ダメだよね、お父さんが待ってるんだから」
「そうだよ、これからは私じゃなくてお父さんがいるんだから、お父さんが力になってくれるんだから、元気出して一緒に頑張るんだよ」
「……」
「ねぇ俊、まだこれから辛いこととか大変なこともあるかもしれないけど、俊はとても優秀なんだから、これから頑張って絶対お父さんみたいなお医者さんになるんだよ」
「……うん」
「きっとだよ、それだけは約束して欲しい」
「うん」
「いつも心の中で俊のこと応援してるからね……これで何年も会えなくなるかもしれないけど、出来たら私のことも忘れないでいてね」
「うん……」
 でも、俊はこれから越川に引き取られて警察に出頭し、罪を償い、自分の夢に向かって頑張って行くうちに、きっと亜希子のことは忘れてしまうだろうと思う。それでも仕方無いと思う。
 俊は俯いてポケットからハンカチを出すと目を拭う。そして「今までどうもありがとうね」と言う。
 肩を抱いて頭を撫ぜていると亜希子の方に顔を上げる。涙で濡れた瞳を見つめながら、亜希子は顔を寄せてそっとキスする。
 俊の身体が小刻みに震えているのが分かる。
「大丈夫だよ、俊。心配ないよ、頑張ればきっと俊だって、お父さんみたいに立派なお医者さんになれるんだから、ね」
「うん……」

 海が近くなると窓の外は真っ暗になった。ガタンガタンと線路の音だけが響く。
 蘇我駅から2時間掛かって電車は九重駅へ着いた。時間は8時5分だった。
 駅を降りると辺りは真っ暗で、ただでさえ無人駅なところへ降り立ったのは亜希子と俊の二人だけだった。電車が走り去ってしまうと辺りは静寂に包まれる。
 こんな遅い時間にこんなところまで来てしまって、帰れるだろうかと思うけど、時刻表で10時前の最終電車に間に合えば、検見川浜まで帰れることを確認してある。
 駅前の車道を横切る車も殆ど無い。二人きりで暗い駅前の広場に立つ。何処から越川が現れるのだろうと辺りを見回していると、亜希子の携帯が鳴る。『越川康弘』と言う発信者名を確認して耳に当てる。
『駅へ着きましたか?』
「はい」
『では駅前の道を左にまっすぐ進んで下さい。少し行くと道が線路に近づいて渡れるところがありますから、渡ったら左に曲がって下さい。そこから駅の裏側に向かって道がありますから、道なりに進んで、そのまま森沿いの細い道に入って下さい』
「分かりました」
 越川の指示に従って俊と二人歩いて行く。駅を離れると街灯も無く、一層暗くなってくる。線路を渡ると道は田圃の中を突っ切る様になり、森が近づくと虫の声が大合唱になって辺りを覆ってくる。
 携帯を耳に当てたまま歩き、越川の道案内を聞く。
『そのまま暫く行くと左側にトタン屋根の倉庫が見えてきますから、そこへ入って下さい』
 暗いあぜ道を歩いて行くと、草木に囲まれた中にそれらしい建物が見えてくる。
周りは鬱蒼とした木々が生い茂り、付近には明かりのついている家もなく、恐ろしいくらい寂しいところだった。見ると建物の前に白い乗用車が停まっている。車の中には誰もおらず、倉庫の中へ入れと言う指示なので、入り口へと向かう。
 壁にかすれた文字で「……倉庫」と書かれているのが辛うじて読める。明かりも点いていない様だ。
 凄いところだな、と思いながら入り口の扉をスライドさせて開く。中は真っ暗で何も見えない。
「越川さん?」
 と呼び掛けてみる。返事が無いので中へ入り、暗闇の中を歩いて行く。
「越川さん?」
「ここまで誰にも見られずに来られましたか?」
 急に声がしたので驚いて辺りを見回す。
「……はい、大丈夫です」
 ピカッと近くから懐中電灯の光が向けられて目が眩む。
 ズザッと近付いて来たかと思うとドカッと音がして、隣にいた俊の頭が仰け反り後ろに引っくり返る。
「何だと思ってんだこのクソガキ! テメェのやったことが分かってんのか!」
倒れた俊の顔や身体をドカドカと上から踏みつけにする。
 何が起こったのか分からなかった。
「わぁーん」
 俊が泣き声を上げる。
「ただじゃ済まねぇからなこのガキが、ぶっ殺すぞコラァ!」
「何をするんですか! 誰なんですか貴方は!」
 叫んだ亜希子には見向きもせずドカドカと俊を踏みつけにする。
「ごめんなさいごめんなさい、痛いよう、叩かないって約束したじゃないかぁ、わぁーんやめて、やめて下さい痛いようー!」
「ちょっと貴方どう言うつもりなんですか」
「煩せえぞこのクソが!」
 振り向き様に凄い勢いで越川の腕が亜希子の顔を殴打する。衝撃によろめいて横様に倒れる。
「よくも人の息子を慰み者にしてくれたな、犯罪者だから逃げられないと思って弄んでたんだろうが! テメェのしたことは犯罪なんだぞ、分かってんのか!」
 と言いながら倒れた亜希子から携帯を取り、両手で二つに引き千切る。
 何が起こっているのか理解出来ないまま、殴られたショックで意識が朦朧とする。
「もぅ、もぅぶたないって、約束したじゃないかぁーうううううう……」
 俊が子供みたいに泣きじゃくっている。
「何言ってんだテメェ、よくもやってくれたな! お前のせいで俺がどんな目にあって来たと思ってんだ! ふざけた真似しやがって、絶対に許さねぇからな!」
 俊の身体を引きずり起こし、片手を振り上げたかと思うと凄まじい勢いで殴りつける。
 バカンと音がして俊の顔が取れてしまったのではないかと思うくらい、弾かれて倒れる。
「やめて下さい~ごめんなさいごめんなさい、許してっ、許して下さい~お父さんごめんなさい……」
 転げ回って哀願する俊一のことを越川は全く容赦しない。
「やめてっ、ああっ、ひどい、ひどいそんなことしないで」
 倒れたまま亜希子も必死になって言う。
「ふざけんじゃねえぞこのクソ女が!」
 懐中電灯がこちらを向いたかと思うと、身体を起こそうとした亜希子のお腹を蹴ってくる。靴の先がめり込む。
「うぐっ……」
 身体を曲げて蹲ったまま悶絶して声も出なくなってしまう。
「欲求不満のバカ女が、よくも俊一をおもちゃにしてくれたな、散々慰み物にしといて、結局始末に困ったから俺に押し付けようとして来たんだろうが、俊一の将来の為だとか何だとか調子のいいこと言いやがって! このクソが!」
 亜希子を罵るその口調を聞いた時、思い出した。初めて俊一が亜希子のアパートに侵入した時、亜希子を縛りながら殴る蹴るの暴行を加えて来た時。俊一の口調はコレと同じだった。
 あの暴力は父親の影響だったんだ。目が覚める思いだった。そして朦朧としていく意識の中で、取り返しのつかないことをしてしまったと知った。
「もう二度と俺たちの前に姿を現すなよ、俊一は俺が警察に連れて行く。いいか、お前のしたことは犯人隠匿と言う立派な犯罪なんだからな、未成年者をたらし込んで、自分の思い通りにしてたんだろうが……」
 と倒れたままの亜希子の顔を踏みつけにする。顔が変形してしまうと思うくらいギュウギュウ踏みにじる。
「うっ、うう……」
 何か言わなくちゃ、殺されると思って「ごめんなさい」と言おうとするが、靴の裏で顔が潰されて言葉を発することが出来ない。
「もしまた俺達に関わってきたらお前も警察に突き出してやるからな、そしたらお前も捕まって刑務所行きだぞ、お前の人生もムチャクチャにしてやるからな、分かったか!」
 亜希子の顔から足を離すと倒れている俊を引きずり起こす。
 俊の口元は血だらけで鼻が曲がってしまっている。
 微塵も動くことの出来ない亜希子を残し、血みどろの俊一の胸倉をつかんで、そのまま出口の方へ引き摺って行く。
意識を失っているのか、俊の身体は死体の様になされるまま、ボロボロの人形みたいに引き摺られて行く。
そのまま外へ出て行く。やがて外で車のドアが開け閉めされる音がして、エンジンが掛かり、走り出したかと思うと遠ざかって行く。
どっちの方へ走って行ったのかも分からない。車の音がしなくなると、辺りは闇に包まれて、開け放しにされた入り口から外の明かりが仄かに入って来るだけになった。木々の間から虫の鳴く声が急に音量を上げた様に響いて来る。
 地面に突っ伏したまま顔全体がズキズキと痛む、身体が小刻みに震えている。まるでお腹がえぐれてしまったかの様に痛い、寸分も身体を動かすことが出来ない。虫ケラの様に這いつくばった亜希子には、もう何の存在感も無い。何がどうなったのかということよりも、ただひたすらに恐い。

その後どうやって帰って来たのか、定かには思い出せない。暫くして暴力を振るわれた衝撃が治まり、ようやく立ち上がると汚れた服を払い、ヨタヨタしながらも駅まで辿り着いて、調べておいた帰りの最終電車に乗ったのだろうと思う。
 電車はガラガラで、無人の駅からひとり乗って来た亜希子の顔を見る人などはいなかっただろうけど、見ればきっと目立つ程顔が傷になっていると思い、なるべく前髪を垂らして俯き加減で座っていた。
 そして蘇我駅で京葉線に乗り換えて、検見川浜に着いてからもただ呆然としながら、ヨタヨタと歩いてマンションまで辿り着いた。
 さっきの出来事が悪夢であったかの様に頭が朦朧としている。気が付くと身体が小刻みに震えている。洗面所で鏡を見ると顔の半分が擦り剥けた様に赤くなって、片目が真っ赤に充血している。
服を脱ぐと脇腹が大きく紫色に腫れあがっている。
 お風呂に入って、そっとぬるめのシャワーを浴びる。脇腹は骨が折れているのか、少しでも動かすと酷い痛みが走る。まだ訳が分からずにいる。身体の中から込み上げる物があって、肩を引きつらせながらタイルの上に嘔吐する。


第四章 4


 翌朝会社に具合が悪いから休むという電話を掛ける。
 殴られた顔が一層腫れ上がって酷い有様になってきた。今日は金曜日なので、そのまま続けて週末の3日間は休んでいることが出来る。
 頭の中はまだ何も考えられないまま、氷で顔を冷やす。脇腹には氷水で絞ったタオルを当てておくことにする。
その他は軽い擦り傷だけなので、脇腹の骨が折れてさえいなければ、病院へ行かなくても済むのではないかと思う。
 だが、心の中はもう何者にも立ち向かうことが出来ない恐怖に埋めつくされている。
 目を閉じても閉じなくても否応無しに浮かんで来るあの怒りに満ちた形相……あの温厚で誠実だった越川医師が……本当に同一人物だったんだろうか、始めは何かの罠で、誰かが越川の代わりに待ち伏せしていたのかと思った。テレビに出てくる暴力団の人かと思った。
 
翌日の土曜日になっても惚けた様にただ目を見開いて横になっている。
 しんとした部屋。綺麗に整理された俊の部屋。時間だけが流れている。昨日からカーテンが開いたままの外では陽が沈み、今朝また明るくなって、やがてまた暗くなって行く。
 日曜になっても何も食べたいとも思わない。ヨロヨロと歩くことは出来るけど、外へ出ようという気は更々起きない。布団に蹲ったまま、殆ど微動だにせずに何も見えていない目を開いている。
プルルル……不意に電話が鳴ってビクリとする。受話器を取る気力も無く、そのままでいると留守電に切り替わり、応答用の亜希子の音声が流れる。
「はい、倉田です。ただ今留守にしております。発信音の後にメッセージをお入れ下さい」
 ピーッ……。
『……』
 プツッ……相手は何も言わずに電話が切れてプーッ、プーッと不通音が続く。
「午後2時16分です……」
夜になって大分腫れも引いて来たので、傷跡をどうにかファンデーションで誤魔化せば明日は会社へ行っても大丈夫だろうと思う。けど行くことは出来ないと思う。
この近くに越川が来るなんてことは無いだろうけれど、もう一歩も外へ出ることは出来ない。人という物が恐ろしくて、身体中が萎縮してしまっている。人が映っていると思うとテレビさえ点ける気になれない。
 月曜日の朝になっても、亜希子はそのままの状態で布団に横になっている。
 プルルル……電話のベルが鳴り出す。応答用の亜希子の音声が流れる。
「はい、倉田です。ただ今留守にしております。発信音の後にメッセージをお入れ下さい」
 ピーッ……。
『もしもし? 倉田さん?』
 小石さんの声だ。
『お早うございます。まだ具合悪いのかしら、電話に出られないようだったら病欠扱いにしておくから、心配しないでね、お大事になさって下さい、連絡出来る様でしたらお電話下さい……』
 電話が切れてプーッ、プーッと不通音が続く。惚けたまま宙を見つめている。
「午前9時11分です……」
 そのままずっと、夜まで寝たままでいる。
そして夜が明けて、外が白くなり、鳥の声がして、やがて子供たちの遊ぶ声や、遠くから近づいて来て飛び去って行く飛行機の音が聞こえる。
今朝は電話が鳴らなかった。きっとまた休むだろうと予測して、小石さんは電話して来なかったのかもしれない。
 昼頃にまた一度電話が鳴ったが、相手は亜希子の応答メッセージの後、何も言わずに切ってしまった。
 やがてまた陽が傾いて、部屋の中も暗くなる……。

 経堂のアパートで俊に監禁されていた時は、三日も仕事を休んだら職場の人たちに迷惑を掛けてしまうと思って心配したけれど、今は気にもならない。というよりも今の亜希子には、何かを思うべき気力さえ無くなっている。
あの四畳半の板の間にいつも篭もっていた俊がいない、あの日から俊は影も形も無くなってしまった。
 アレは幻だったのか、経堂のアパートで起こったあの出来事も、事件のことも、しばしの日々を過ごした俊とのことも。全ては夢だったというのか。
夕方また電話が鳴る。
「はい、倉田です。ただ今留守にしております。発信音の後にメッセージをお入れ下さい」
 ピーッ……。
『もしもし? 亜希子? お母さんです、亜希子? いないんですか、会社にお電話したら先週から休んでますって言われたんだけど、大丈夫なの? もしもし、もしもし……』
 電話が切れてプーッ、プーッと不通音が続く。
「午後6時6分です……」
 お母さん……そうだ。金曜からこうしてもう5日目なんだもの、もういい加減に起きて、やることをやらなくちゃ……。
 と思って起き上がろうとした時、腹部に強烈な痛みが走って再び寝転んでしまう。
 それは越川に蹴られた傷の痛みではない、それはきっとあの、亜希子のお腹に巣食っている異物の発する痛みだった。
 もうハッキリと自覚している。あの朝府中駅で亜希子を襲ったのと同じ病魔が、また身体の中を蝕んでいるに違いないんだ。
立つことが出来ずに呻き声を上げて転がっていると、そのうちに意識を失ってしまった。

 あれからどれくらいの時間が過ぎたのだろう……意識が朦朧とする中で強烈な痛みにのたうち、苦し紛れに何度か嘔吐して呻き声を上げていたような気がする。
 その度に昼だったり夜だったりして、脳裏には血みどろになって越川に殴られている俊の姿が浮かぶ、その中で亜希子は声にならない叫びを上げている。
身体が衰弱し切ってどこにも力が入らない。このまま死んで行くんだろうか。それでもいいと思う。むしろその方が安らかになれる気がするもの……。
 夢うつつの中で、誰かがドアの鍵を開けて、ドタドタと入って来た様な気がする。隣の部屋だろうかと思ったけど「亜希子、亜希子」と呼ぶ声がして、どうやらそれがこの部屋で、入って来たのがお母さんかもしれないと思った。


第四章 5


 ピーッ、ピーッ……規則的になり続けている電子音に気が付いて目を開けると、透明な管を垂らしている点滴のバックが見える。点滴は反対側にも立っていて、それぞれから垂らされた管の先が腕の内側に刺さっている。
 身をよじろうとすると鼻の穴に管が差し込まれていて、口には酸素マスクが当てられている。人差し指が大きな洗濯バサミみたいなので挟まれて、そこからコードが繋がっている。足首にも何かの管が付けられてるみたいだ。股間にも管が差し込まれてる。これは尿管というんだろうか。
 ピーッピーッと絶え間なく響いていた音は、心拍数を示す機械のアラームだった。そこから伸びた導線が胸に貼り付けられている。
 虚ろな目でそのままボンヤリしていると、看護師が来て亜希子の顔を覗き込む。
「気が付かれましたか、そのまま安静にしていて下さいね」
 これじゃ安静にしてるより他はないと思うけど、どうなっているんだろう……マンションで意識を失ってから、一体どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
身体の痛みは無くなっているけれど、全身が脱力してしまって、何処にも力が入らない感じだ。私の身体はもう、口に当てられたマスクから空気を送って貰わなければ呼吸することも出来ないんだろうか。繋がれている無数の機械によってしか生きることが出来なくなってしまったんだろうか。
 ベッドの脇に窓がある。寝たままでは見えないけど、外は明るいみたいだ。

程なくして看護師に連れられてお母さんとお父さんが来た。
「亜希子、もう大丈夫だからね」
 心配そうに亜希子の顔を見つめる母を見て、ゆっくりと頷くと目尻から涙が滴って行く。
 亜希子が言葉を発しようとしているのを見て、看護師が口に当てられたマスクを外してくれる。
「ごめんなさい」
 そのまま声を上げて泣き伏してしまいたい衝動に駆られるけど、それも許されない程に身体の自由を奪われている。
 検見川浜のマンションから亜希子が担ぎこまれたのは、東京湾の海辺に建つ救命医療センターという大きな病院だった。
「亜希子、ビックリしたのよ。身体の調子が悪いのに自分で気付かなかったのかい?」
「うん……」
 担当した医師の話では、気を失っている間にCTスキャンを撮った結果、肝臓に腫瘍らしい影が出来ているとのことだった。
 亜希子の場合、12年前の病歴からそれが悪性である可能性が高いので、早急に手術をする必要があるのだという。
 ついては12年前に亜希子の手術を担当した菅橋医師のいる八王子の病院へ、容態の安定を待ってから転院することになっているらしい。
「菅橋先生に連絡したら、すぐにでも手術出来る様に日程を開けておいてくれるそうだからね。心配しなくても大丈夫だからね」
「うん……」
 あの日母さんは亜希子に連絡を取ろうとしていたのだが電話が繋がらず、心配になって会社へ問い合わせてみたところ、数日前から病欠だというので検見川浜のマンションを訪ねてみたのだという。ところが呼び鈴を押しても反応が無いので、止む無くマンションの管理会社に連絡を取って鍵を開けて貰ったということだった。
あの何度か掛かって来た電話は母さんだったんだ……。

「それより亜希子、お部屋を見たら、誰かと一緒に暮らしてたみたいだけど、その人はどうしてるの?」
 と言われてドキーとする。
「まぁそんな話はまた後でいいじゃないか」
 と父さんが言う。
「うん、喧嘩して、出てっちゃって、それっきりだったから。私が倒れたのはその後だったから」
 と咄嗟に取り繕って言い訳する。
「だけどお前、少し顔に傷があったけど、暴力でも振るわれてたんじゃないのかい?」
「違うよ」
「レントゲンだと肋骨にもひびが入ってたっていうじゃないか」
「それは……急に苦しくなった時、倒れて打ったからだと思う」
 こんな時でもよくスラスラと言えるものだと思いながら、普通に口にしている。
「本当にそうなのかい?」
「当たり前じゃない、暴力を振るう人なんかと付き合わないって……」
「それなら良いけど……」
「……」
「身体が疲れるといけませんので、今日のところはこの辺で、もう意識が戻りましたので、徐々に沢山お話出来る様になると思いますので」
 と看護師に促され、父と母はまた明日来るからと言って帰って行く。
 これから二人で八王子まで帰るのかと思うと、こんなに心配を掛けて、私は何て親不孝な娘なのかと、今更ながら心苦しくなってしまう。

暫く病室に一人きりで放置されていたかと思うと、夜になってまた先ほどの看護師が機械の表示をチェックしに来て、点滴の袋を取り替える。また痛み止めの注射をしてくれて、座薬を入れるので横向きになってお尻をこちらに向けて下さいと言う。恥ずかしがっている状況でもないので黙って言う通りにして、座薬を入れて貰う。
痛み止めのお陰であの痛みから解放されているのかと思うと、とてもありがたいと思う。
 看護師さんに頼んで、窓のカーテンを開けて貰い、外が見られる位置までベッドの背を起こして貰うと、窓から遠く真っ黒な海が見える。
 ここは東京湾のどの辺なんだろうか、あの日、俊と抱き合った朝のことが遠い昔の様に思い出される。
 私の身体はどうなってしまってるんだろう……また元の様に歩いたり出来る様になるんだろうか。
 担当の先生によればどうやら容態は安定しているということなので、明日八王子の大学病院の医療センターへ転院することになった。

 朝になって、脈拍や血圧や体温をチェックしに来た看護師さんに頼んで、ベッドの背を上げて貰う。少しで良いので窓を開けて下さいと頼むと快く開けてくれた。
 朝の東京湾が青く見渡せる。潮の匂いも舞い込んで来る。
 ……12年前、八王子の病院で手術を受けてから数ヶ月置きに5年間も検査に通ってた。行く度に血液を採ったり、エコー診断やCTスキャンを撮って身体の中を調べて貰っていた。
 あの頃、検査に行く度にまた恐いことが起きるんじゃないかと心配だったけど、5年目の検査が終わったところで主治医の菅橋先生から「ここまで異常がなければ心配はないでしょう。完治したと思って大丈夫ですよ」と太鼓判を押されていたのに。
 あの病院へは二度と行くことは無いと思ってたのに。忘れた頃にまた振り出しに戻ってしまう気がする。
 この街で過ごした俊との生活は幻だったんだろうか……と思うけど、窓の外に広がっているあの海は、決して幻なんかじゃない。

 欲求不満のバカ女が!

 越川の罵声が耳に残っている。
『……よくも人の息子を慰み者にしてくれたな、犯罪者だから逃げられないと思って弄んでたんだろうが! テメェのしたことは犯罪なんだぞ、分かってんのか!』
 殴られてひっくり返った時、バチが当たったと思った。私は17歳の俊君を慰み者にしていた。犯罪者を弄んで楽しんでいたんだ。
 越川の言う通り、世間から見ればそれは立派な犯罪だった。犯人隠匿ということだけではなく、未成年者に対して猥褻行為を働いたという、青少年を保護する法律にも違反するのだ。
 だけど……あれが本当に、あの優しく誠実の塊の様だった越川の言葉だったんだろうか。心から息子のことを心配して、自分が情けなかったと涙を流して反省してた。私にあんなに感謝してたのは全部嘘だったというのか。
 越川はあの時初めて俊一を殴ったんだろうか。いや、あの様子からしてそうではないと思う。あの男は俊が詩織さんを刺して逃げるよりもずっと前から、日常的に暴力を振るっていたのではないか……。
 あの夜ひなびた倉庫で越川に殴られた時、俊が『もう叩かないって約束したじゃないか!』と言ったのは、きっと電話で越川と話した時に、もう叩かないと越川が俊に約束していたからだと思う。俊が電話で号泣したのはそんな越川の優しい言葉があったからなんだ。でもそれは俊を安心させて自分の元へ来させる為の嘘だった。
 俊が怖がっていたのは警察でも世間でもない、父親のことだった……。俊は誰よりも父親に見つかることの恐怖に怯えていたんだ。俊……何故私に本当のことを言ってくれなかったの? それはきっと幼い頃から父親への恐怖に浸かって生きて来たので、他人にはそんな父親の正体を語れないくらい心身共に支配されていたからではないだろうか。
 だとしたら越川は詩織さんと一緒になって俊に暴力を振るっていたのか? 俊は両親二人ともから教育という名の虐待を受けていたというのか?。
 ずっと引っ掛かっていた俊の言葉がある。あの時経堂のアパートで詩織さんのことを『グズでノロマなババアだった』と罵ったことだ。報道されていた様に俊が詩織さんのことを鬼の様な母親として恐れていたのだとしたら、あの言葉には違和感がある。
 俊は越川と詩織さんの二人ともから暴力を受けていたのではなく、暴力を振るっていたのは越川だけだったのではないだろうか。詩織さんは日進市の実家で見た遺影の印象の通り、清楚で物静かな女性だったのではないだろうか。詩織さんのお母さんが言った通りの、子供を叩いたりするはずのない優しい人だったのではないだろうか。
 俊を殴っていたのは越川だけで、詩織さんは俊からグズでノロマなババアと罵られていた……。
 越川と詩織さんが結婚したのは純粋に恋愛を経てのことだったという。でも、詩織さんの両親に結婚させて下さいと何度も頭を下げて頼みに来た越川の本性は、詩織さんの御両親が見抜いていた通り、本当に詩織さんを愛しているというのではなく、詩織さんの実家の総合病院に惹かれていただけだったのではないだろうか。その偽りの愛に詩織さんは騙されてしまった。
 お嬢様育ちの世間知らずで、ひたすら朗らかで、無力で何も出来なかった詩織さん。患者思いでお年寄りから「ヨイ先生」と慕われていた。そんな詩織さんは、実家の総合病院が目当てだったとも知らずに、自分にここまで恋焦がれてくれるのかと思う越川の猛アタックに絆されて、親を裏切ってまで結婚してしまった。
 越川を見てそのことを見抜いていた詩織さんの両親は、強引に結婚した越川には何一つ親族の恩恵を与えなかった。言わば詩織さんを勘当した様な形にして、越川が何を申し入れて来ても一切の接触を断った。そして越川はもうどうにもならないと悟ると、詩織さんの両親に対して憎悪を抱く様になり、それは反転して俊一にエリートコースを強要する厳しい教育になった。
 亜希子が縛られて失禁してしまった時、俊一は亜希子のパンツをタオルで拭いてくれて『僕も小さい頃ね、夜中にオネショした時、よくお父さんがこうやって拭いてくれたんだよ』と言った。まだ俊一が幼年の頃までは越川も人並みの優しいお父さんだったのではないだろうか、そう……まだ詩織の実家に喰い込んで甘い汁が吸えるかもしれないと思っていた間は。
 俊一に猛勉強させて将来は大病院の院長になるなり大学病院の教授になるなりさせて、詩織の親族に負けない権威を習得させるべく厳しく当たった。それはもう教育と呼べるレベルではなく、虐待だった。越川にとって俊は詩織さんの親族に対するコンプレックスを晴らす為の道具であり、俊自身の意思などはどうでもよかったのだ。
 あの誠実そうな越川はあくまで世間へ向けての演技だった。越川に取材して『私は息子を殴る鬼の様な妻を止めることが出来ない不甲斐ない父親でした』というあの週刊誌の記事を書いた記者も、すっかり騙されていたんだ。越川は外では周りに気をつかい、全てに媚び諂ってペコペコ頭を下げて、仕事熱心で誠実な医者というイメージを作り上げていたのだ。
 でもきっとあの誠実で真面目な一面も、あの男の一部分なのではないかと思う。俊が『お父さんみたいな医者になりたい』と言ったのは、その部分だけを尊敬し受け継いで行きたいと思っていたからではないだろうか。
 外では誰に対しても誠実で職務に忠実な越川の腹の中は、実は世間に対する劣等感で煮えくり返っており。その怒りは全て家に帰った時詩織さんと俊一に浴びせられていた。
 立場の低い仕事での鬱憤、詩織さんの親族への劣等感を全て俊一を出世させることで晴らそうとしていたのだ。
 家に帰ると成績が上がらない俊一を殴る。妻の詩織さんを奴隷の様に扱う。俊一にも詩織さんを自分と同じ様に扱う様に仕向ける。
 俊が詩織さんのことを『グズでノロマなババア』と言ったのは、きっと越川が普段から詩織さんのことをそんな風に罵倒していたからではないのか。きっと俊一はそんな越川の言葉を子供の頃から聞かされていたんだろう。
 俊は四六時中そんな越川の顔色を伺っていなければならなかったに違いない。そして常に越川の言葉に同調して、越川が詩織さんのことをババアだと言えば、俊も一緒になってババアと言って越川のご機嫌を取る……。
 そして俊は越川に殴られたり理不尽な思いをさせられると、その不満を無抵抗な詩織さんに辛く当たることで晴らしていたんじゃないだろうか。それはまだ無力な子供にしてみれば無理からぬことだったのかもしれない。そうなるより仕方がなかったのだ。
 そうやって俊の人格は壊されてしまったのだろう。そこには俊一本人は全くいない。本来の俊一は存在を認められず、透明人間の様になっていた。まだ子供だった俊一にはそのことに自分で気づくことさえ出来なかった。でも亜希子は知っている。本当の俊一はあの亜希子の描きかけの絵を鮮やかに完成させてくれた、笑顔の可愛いあの俊一なのだ。
 心の奥底では子どもらしく母親に甘えたいという衝動もあったに違いない。そのことは私が身をもって感じさせられた。でも可哀相に、家庭では父親という暴君の力が絶対だった為に、俊のそんな心を抑圧し、父の恐怖によって母を蔑む様に仕向けられてしまっていたんだ。
 俊一が詩織を刺して逃亡してしまい、全てを失った越川は、詩織が鬼の様に俊一に厳しくしていたことにして、世間に言い訳した。
 越川があの辺鄙な診療所に勤務しているのは、今の状況から身を立て直す為には更に世間に媚を売って卑屈に生きて行くより他に仕方なかったからなんだ。
 周りの全ての人のご機嫌を取って。誠実に頑張っている振りをして。息子の犯した事件は自分に責任があると言いながら、悪いのは全て詩織さんのせいにしていたんだ。
 そして越川の胸の内は、自分をこんな境遇に貶めた俊に対する怒りで煮えたぎっていた。
 それがあの時爆発した。俊の身体がバラバラになってしまうかと思うくらい殴って、蹴って……ああ、どうしてあんな酷いことが出来るの……。
 その光景が蘇って亜希子は顔を覆ってしまう。
 あの怒りに満ちた越川の形相、止めようとした亜希子を振り向き様に殴りつけた衝撃が蘇ると、身体中が震え慄いてしまう。何の躊躇も手加減もなく、渾身の力を込めた大人の男の怒りが、私の顔にぶつけられた。
 あの後、越川は俊を車に乗せて何処へ連れて行ったのだろう……警察に出頭させると言っていたけれど、もしかして俊はもう死んでしまって、何処かに埋められているのではないだろうか、恐ろしい想像が湧き上がって来る。
 病室の窓の外には、ただ青い東京湾の海が広がっている。俊……貴方は無事でいるの? それさえも確かめることは出来なくなってしまった。

 病室で昼食をとった後、父さんと母さんが来た。これから看護師さんにも付き添って貰い、病院の救急車で八王子の大学病院まで搬送して貰うことになっている。
 ベッドを降りて車椅子に乗り、看護師さんに押して貰い病室を出る。
 両親に付き添われながら病院内を移動する間も、亜希子の頭は俊を巡る考えに満たされている。

 ……俊が何故詩織さんを蔑む様になってしまったのかは理解出来たけど、それでも亜希子には、俊が詩織さんを刺した時、実際の状況はどうだったのか、確かなイメージを浮かべることが出来ない。
 俊が詩織さんを刺したのは、越川に対する恐怖が大きすぎて、その歪んだ捌け口にしていた詩織さんへの八つ当たりの度が過ぎて、刺してしまったということなんだろうか? 多分そうなのだろうとは思う。
 そもそも詩織さんは何故そんな夫から逃げなかったのか、それは実家に戻ることを許されなかったということもあるだろうけど、何よりも俊の側から離れられなかったからではないだろうか。
 俊一を連れて実家に戻ることも許されなかった詩織さんには、越川に従順に従うことでしか、俊一を守ることが出来ないと考えてたんじゃないだろうか。
 それなのに、俊一は唯一の味方だった母のことを刺してしまった。俊が詩織さんを刺したのは、中間テストの結果を知った詩織さんが、笑ったからだと言っていた。
 俊は尊敬している父親の期待に応えられない自分に酷く罪悪感を感じてた。テストの結果を知れば越川に殴られることは目に見えている。そんな俊一のことを詩織さんは本当に笑ったりしたのだろうか?。

 看護師さんに押され、一階の待合室まで来る。亜希子の頭の中は事件の事が駆け巡っていて、側から見るとボンヤリしている様に見えたのか「亜希子、大丈夫かい?」と母さんが声を掛けて来る。
 我に返って「うん。ちょっと考え事してたから、大丈夫だよ」と笑って答える。
 看護師さんに、救急車の準備が出来るまで両親とここで待っている様に言われる。
「売店で何か買って行こうか、途中で喉が乾いちゃうといけないから」
 と言って父さんが売店へ走って行く。
 その時何処からか泣き喚く子供の声が聞こえて来た。
 何だろうと思って見ると、どうやら迷子になっていたらしい小さな男の子が、やっと見つけたお母さんの胸をポカポカとぶっているところだった。
 5歳くらいだろうか、小さな拳をポカポカとお母さんの胸にぶつけて泣き叫んでいる。彼の気持ちとしてはきっと『何故僕をひとりにしたんだよう! 恐かったんだぞ、何故もっと早く見つけてくれなかったんだよう!』といったところだろうか、ポカポカと叩かれている若いお母さんは「ごめんね、ごめんね」と言いながらニコニコと微笑んでいる。微笑んでいる!。
 子供の顔が俊に見えた。でもその手には包丁が握られている。グサグサと胸に包丁を刺され、血しぶきを上げながらもお母さんは笑っている。
 ……詩織さんは俊を笑ったのではない、微笑んでいたのではないだろうか!。
 テストの成績を知った時、そのことが知れれば俊一が越川から酷い目に遭わされることを知っている詩織さんは、そんな俊一のことを不憫に思って、でも自分では助けてあげることも出来なくて、ただ俊一に微笑んであげることしか出来なかったのではないだろうか。
 そんな、そんなことが……。身体中に衝撃が走り、崩れ落ちていく様だった。

 用意が出来たので行きましょうと看護師が救急車の隊員を連れて迎えに来る。
 唖然としたままストレッチャーに身体を移されると、そのまま急患用の出入り口から出て、開かれた救急車の後部扉からストレッチャーのまま乗せられて行く。
 救急車の中には心電図等のモニターや血圧計、心臓が止まった時に電気ショックを与える機械や呼吸機等、様々な設備が整えられている。
 運転席と助手席に隊員の男性が乗る。亜希子の寝ているストレッチャーの脇には跳ね上げ式の席があり、そこに看護師さんが付いてくれて、亜希子の胸に付けたラインから心拍や呼吸のチェックをしてくれる。そして後ろまで続くサイドシートには父さんと母さんが並んで座る。
 扉が閉められるとエンジンを掛け、病院の裏門を出て外の街を走り出す。
 寝ている状態では窓の上の方しか見えないけれど、海沿いの道路を走っている様だ。反対側の窓には立ち並ぶマンションの上の方が次々と過ぎって行く。
 もしかしたら俊が逃げてマンションに帰って来てはいないだろうか……と思い、八王子へ行く前にマンションに寄って欲しいと看護師さんにお願いしてみるが「何か必要な物があれば私が取って来てあげるから」と母さんが言い、願いは聞き入れられなかった。
 俊と暮らした街がみるみる流れ去って行く。
 
 俊……俊は心の中で、自分では気付いていなくても、きっと自分を認めない暴君の様な父親を憎んでいたんでしょう? でも本当に憎い相手には叶わないので、そのはけ口が弱い者へ向かって母を刺してしまった。
 それは母に助けを求める行為だったのかもしれない。母に甘える行為だったのかもしれない。父親に怒られた腹いせにどんなに辛く当たっても優しかったお母さん。
 そんな母への究極の甘えが包丁を刺すという行為になってしまった。それは『何故僕を助けてくれないんだよう』という心の叫びであったのかもしれない。
 詩織さんは包丁を持つ俊一の手を胸に受け入れた。私が守ってあげられないばかりに、ここまで追い詰めてしまったのね、ごめんね、ごめんね俊ちゃん……と思いながら。
 俊一が母を刺した時に『俺を捕まえようとして抱き付いてきた』と言ったのは、捕まえようとしたのではなく、俊一の身体を抱きしめようとしたのではないのか。包丁ごと……そして俊一はその詩織さんを振り解こうとして包丁を何度も突き出した。そんな俊一を詩織さんは包み込もうとした。俊は子供が甘えて母親の胸をポカポカと叩く様に、詩織さんを刺した……。
 でも俊、私には分かる。貴方はそんな詩織さんの心を本当は分かっていたんでしょう?。
 貴方は自分でも見ない様にしているけど、本当は詩織さんを刺してしまったことを酷く後悔しているんでしょう? だからあの時、テレビで翌日詩織さんが死亡してしまったことを知った時、ショックを受けていたんでしょう?。
 俊はあんなに頭の良い子なのだから。詩織さんだけが唯一心から自分のことを思い遣ってくれる肉親だったということを、心の奥では分かっているに違いないんだ。自覚することを避けているのかもしれないけど、きっと俊には分かっているはずだ。分かっていて目を背けてるんだ。ちゃんと見ることが恐いから。それを見る勇気が無いから。自分の弱さと、罪の深さを見ることが出来ないんだ。恐怖の為によじれてしまった自分の狂気。でもきっと頭では分かっているに違いない……。私には分かる、そうだよね? きっとそうだよね俊……。
 でもね俊、貴方はあの凶暴な越川に立ち向かって行くには幼くて弱すぎたのかもしれないけど、でも男の子はね、そんな卑怯な真似をしてはいけないのよ。

 救急車は習志野インターチェンジから高速道路に入り、東京湾を横目にグングン走って行く。
 俊とウキウキしながら探した検見川浜の街、思えばほんの3ヶ月だったけど、あのマンションで俊と暮らした日々が、もう戻らないものとして過ぎ去って行く。
 やがて荒川を過ぎるとお台場からレインボーブリッジを渡り、首都高速に入るとみるみる都心へと入って行く。
 都心を横断して中央自動車道へ入り、亜希子の生まれ育った八王子へと向かう。
 ぼ~っと窓へ目をやったまま物思いに耽っていると「苦しくないかい?」「大丈夫かい?」と亜希子の顔を心配そうに覗き込んでお母さんが声を掛けてくれる。
 お母さん。こんなに優しいお母さんなのに、私は今まで何の親孝行も出来ずに、今またこんな心配を掛けて、本当に済まないと思う。ねぇ俊、貴方のお母さんも、きっと同じお母さんだったんだよ。
「亜希子、お前の通ってた中学校が見えるよ」
 そう言われてそっと身体を起こして見ると、高速道路の下に広がる町並みの中に、小さく八王子市立第二中学校の校舎と体育館の屋根が見える。懐かしいというよりも、あのちっぽけな敷地の中で過ごした日々は、もう遠く微かな思い出としてしか残っていない。
 あの頃テニス部で一緒に頑張ってた友達は皆どうしてるんだろう。
 中学に入って私がテニス部に入りたいと言った時、父さんは許してくれなかった。それはきっとテニスをやりたい理由がアニメの「エースをねらえ」に憧れてのことだったから、その時は父さんがアニメを嫌いなせいだと思ってた。
 でも父さんは一度学内の試合を見に来てから急に応援してくれる様になったので、父さんが心配してたのはきっと、選手たちがアニメみたいにお化粧したり、ミニスカートをヒラヒラさせながらやっていると思っていたからではないかと思った。
 だからその時の私たちを見て、アニメの世界とは全然違うことが分かって安心したのだろうと思った。
 テニス部で三年間頑張っていたけれど、結局私は選手としてはあまり活躍出来なかった。でも本当に一生懸命だったし友達が沢山いたから楽しかった。
 じっと揺られている父さんの顔を見ていたら「何笑ってるんだ?」と聞かれてしまい「ううん。なんでもない」と答える。


第四章 6


 救急車は八王子ジャンクションから高速道路を下りて郊外へと進み、やがて見覚えのある森に囲まれた、レンガ色の建物が見えて来る。
 関東医科大学八王子医療センターに到着すると、ストレッチャーのまま病棟に入り、そのまま外来のロビーを抜けて奥にある処置室へと運ばれて行く。
 中で暫く待っていると、あの頃お世話になった菅橋先生が入って来る。東京湾沿いの病院から付き添ってくれた看護師さんも一緒にいる。
「こんにちは、お久しぶりですね」
 と迎えてくれた菅橋先生はさすがに白髪が増えているけれど、12年も経っていることを感じさせないくらいあの頃のままだった。
「それじゃ先生、宜しくお願いします」と言って看護師さんは菅橋先生に頭を下げてから、亜希子の側へ来ると「それじゃ、お大事に、頑張って下さいね」と声を掛けてくれる。
 父さんと母さんが丁寧にお礼を言って、看護師さんは処置室を出て行く。
「すいません。また戻って来ちゃいました」
 と舌を出して言うと菅橋先生は「千葉の医療センターから引継ぎの診断書は受け取りましたから、準備は出来てますからね、心配しなくて大丈夫ですよ」とあの頃と代わらない笑顔を見せてくれる。
 そんな先生の顔を見ていると、ああ本当に戻って来てしまったんだという感慨が込み上げて来る。あの頃私は、まだたったの26歳だった。
 手術の為に検査をしておきたいからと言って、菅橋先生は血液を採取したり、心電図をとったり、呼吸機能を計ったりと、いろいろな検査を進めて行く。
 全身の断層撮影をする前に造影剤を入れる為の点滴をして、検査台に乗せられる。それからMRIというSF映画みたいな機械の中へ入って行く。
 一通りの検査が終わると夕方だった。病室へ行くのにお父さんが押してあげるから車椅子に乗りなさいと言う。ゆっくりなら歩くことも出来るのでいいと言ったのだが、いいから乗りなさいと言うので素直に乗って押して貰う。
 病室は四人部屋で、三人の患者さんがそれぞれのベッドに寝ているところへ車椅子に押されながら入り、誰に言うでもなく「こんにちは~」と頭を下げながら指定されたベッドへ行く。
 夕食までにはまだ時間があるので、お母さんに売店で新聞や週刊誌を買って来て欲しいと頼んだ。
 もしかしたら、越川と俊一のことが何か載っているかもしれない、と思った。当初の約束どおり越川が俊を連れて警察に出頭しているとしたら、きっと記事になっているに違いない。
 だが、その日の新聞にも週刊誌にもそれらしい記事は見当たらなかった。
 もしかしたら俊が逃げて検見川浜のマンションに帰って来ていないだろうか……という希望はあるけれど、俊はドアの鍵を持っていないから、もし逃げて来たとしても部屋に入ることは出来ないだろう。

 夜になって夕食が出て、お父さんとお母さんはこれからの入院生活に必要な着替えやタオル等を家から持って来ると言って、帰って行った。
 もしかしたら上手く鍵をこじ開けて、俊がマンションに戻っていないだろうかと思い、公衆電話から電話してみる。呼び出し音の後に亜希子の留守番電話の音声が流れる。
『はい、倉田です。ただ今留守にしております。発信音の後にメッセージをお入れ下さい』
ピーッ……。
「もしもし、俊、そこにいないの? 私だよ、亜希子だよ、もしいたら電話に出て、もしもし、もしもし……」
 何度も呼びかけてみたけれど、やはり受話器を取る人はいなかった。

 翌日の朝、家から沢山の荷物を持って父さんと母さんが来た。今日も新聞を買って来て貰ったけれど、何も出ていなかった。病室のベッドに備え付けのテレビでワイドショーやニュースを観ても、やはりそれらしき報道は無い。

 父さんと母さんを交えて、菅橋先生から手術についての説明があった。
 MRIの断層撮影や血液検査等の結果、亜希子の肝臓に出来ている腫瘍は悪性である可能性が高いということで、明後日の9月30日に管橋先生の手で開腹手術を行なうことになった。
 先生は用意しておいた書面を私と両親に見せて説明して行く。
 先生が言うには、肝臓に出来ている腫瘍を取り除く手術になるのだが、この腫瘍の摘出で病気が完治出来るかどうかはその後の検査結果を診てみないと何とも言えない。それに他の臓器への転移も考えられるので楽観は出来ないということだった。
 そして手術した時に考えられる身体に与えるリスクについてもひとつひとつ説明して行く。手術の間の出血の量によっては輸血する必要があること。万が一合併症になる可能性もあること。等等……。
 一通りの文面を読み終えると、先生は書面を私達に差し出して、それらの手術に伴うリスクについて予め了承し、同意しましたという趣旨のサインをして下さいと言う。
 もし手術で何らかの不足の事態が起きたとしても、何も文句を言わないで下さい、と約束させられているみたいで不安になるけれど、どんな病気の手術でも、こうした同意書は必要な物なのだと菅橋先生は教えてくれた。

 夜になって両親も帰り、病室に一人になった。夜中にまた暫く治まっていたあの痛みに襲われて、あまりの辛さにナースコールを押してしまう。
 来てくれた看護師さんがすぐに痛み止めの注射と座薬を入れてくれる。暫く痛みを忘れていたので少しは回復しているのではないかと勝手に思っていたけれど、それはあくまでも薬の力で感じていなかっただけで、決して治っている訳では無かったのだと思い知らされる。

 いよいよ明日は手術という日、真由美姉さんがお見舞いに来てくれた。お盆に会って以来、ほんの一月半くらいの間に私がこんな風になってしまって、きっと驚いているだろうと思うけど、全くそんな素振りは見せず、私を気遣ってくれているのが分かる。
「大丈夫だから元気出して頑張んなよ~」
 といつになく明るくて、ひたすら私を元気付けようとしてくれる。
 でもそれがかえって空々しくて、何だか他人行儀な感じがする。こちらも努めて元気な様に世間話に調子を合わせているけれど。なんだか姉妹というよりも友人の様な気さえしてくる。
私の人生と姉の人生と、対抗意識がある訳ではないけれど、こんな惨めな姿を見せていることが、とても哀しくなってしまう。
明日の手術の為にいろいろと検査しなければならないことがあって、あまりゆっくり話している時間がなかったことに、むしろ救われた様な気さえしていた。
 採血室へ行って腕から血液を採り、尿も採られる。看護師さんがお腹の周りの毛を剃ってくれて、おへその穴も綺麗にして貰う。
 病室に戻るとまた例の腰から胸にかけての痛みが凄くなって来て、看護師さんに頼んで痛み止めの注射をして貰う。
手術の前は消化の良い物しか食べてはいけないということで、今朝の食事はおかゆ、昼は食パンとスープだけだった。
 夜はお風呂に入った後、下剤と睡眠剤を飲んで寝る。それでも身体が緊張しているのか、なかなか熟睡することが出来ない。
時々薄っすらと眠った様な眠らない様な状態を繰り返している。そのうちに便意をもよおして来たので、暗い廊下を歩いてトイレへ行って、またベッドに入る。
 そんなこんなでようやく眠れたかと思った途端に「お早うございまーす」と看護師さんが元気よく入って来てカーテンを開く。
 外はすっかり夜が明けて明るくなってる。いよいよ手術の日になった。
 今日は手術が終わるまで食事は無しで、その代わりに点滴を打って貰う。
 息をするとお腹の中が空っぽになった感じがする。手術の始まる午後3時まで、このまま待っていなければならない。
 午後になって父さんと母さんが来て、また週刊誌や女性雑誌を買って来てくれた。今日も俊に関する記事は出ていない。
 そうこうするうちに手術室に行く時間になったので、すぐに裸になれる様になっている手術着に着替える。パンツも脱いで下半身にはT字帯というふんどしみたいな物を着ける。
 準備が出来るとベッドに乗ったまま看護師さんたちに動かされて、そのまま病室を出ると廊下を走って手術室へと向かう。
 天井の蛍光灯の光が過ぎては来て、また過ぎて行く……自分が生きるか死ぬかの大手術を受けに行くところだというのに、父さんと母さんがこんなに心配しながらついて来ているというのに、それらは何処か他人事の様に感じていて、頭の中には俊のことが浮かんでいる……。

 俊はまだ警察に出頭していない……あの時、越川は私に二度と姿を見せるなと言った。越川は最初から俊を警察に出頭させる気なんてなかったのではないのか。
 俊はまだ生きてるんだろうか。それとも何処かに閉じ込められているんだろうか、また虐待されているのではないか……大丈夫なの? 元気でいるの? 今でも亜希子の目にはあの、経堂のアパートの側で毎朝すれ違っていた、自転車に乗った儚げな少年の姿が浮かんでくる。
あの男は、越川はまだあの会沢診療所で勤務しているんだろうか、あの男の居場所が分かっていれば、俊のことをどうしたのかと聞くことが出来るかもしれない。でも……恐ろしくて私にはそんなことは出来そうにもないけれど。

 亜希子を乗せたベッドは手術室の前へ辿り着いた。両親はここで締め出されてしまう。
 心痛そうに黙っていたお母さんは「亜希子、大丈夫だからね、頑張ってね」と言って手を握ってくれる。亜希子は「うん。大丈夫だから、頑張って来るね」と母に答える。父さんは黙って見ている。手術室へ運び込まれるとバシャンと扉が閉められて、父さんと母さんは扉の向こうに消えた。
 12年前の手術の時は苦しかったし急だったのでよく見ることが出来なかったけど、手術室の中は沢山の機械や設備が整っていて映画のシーンみたいだ。
 ああ、凄いな……と思って天井を向いていると、横に麻酔を担当する医師が来て「最初に硬膜外麻酔をしますので、横を向いて身体を丸めて下さい」と言われてその通りにする。背骨の間に針を刺して注入する麻酔なのだという。
 検見川浜のマンションから救急車で運ばれて、検査も含めて身体中に止め処なく針を刺されてきたので、もう慣れっこになったけど、背中に刺されるのは初めてだった。
 手術してくれる菅橋先生は何処にいるんだろう、と思いながら元通り仰向けになっていると、口の上に透明なマスクをかざして「それじゃ、今度は全身麻酔をかけますので、ゆっくり数字の1から順番に数えて下さいね」と言うので頭の中で「いち、にぃ、さん……」と数える間もなく意識が遠のいて行く……。

 薄っすらと目が覚めて来る。手術は終わったんだろうか……腕には両方とも点滴の管が繋がってる。胸には心電図の導線が貼られていて、モニターがピッ、ピッ、と音を立ててる。お腹にも何本も管が刺されていて、股の間には尿管が付けられてる。何だか手術する前よりも大変なことになっている気がする。
 そこは病室ではなくて、手術の後で容態が安定するまで様子を診る為のICU(集中治療室)という部屋だった。
 手術の間ずっといてくれたらしく、お父さんとお母さんが私の顔を見て「気が付いたかい?」と声を掛けてくる。
「手術は無事に終わったからね、大丈夫だからね」
 そう言う母の顔はとても疲れている様で「お母さんこそ大丈夫なの?」と私の方が心配になってしまう。
 父さんはそんな母さんの横に立って、黙って私を見下ろしている。
 ICUには窓が無いので外がまだ明るいのか暗いのかも分からない。でも父さんと母さんの服装が手術の前と同じなので、きっと日付は変わっていないのだと思う。私が目を覚ますのをどれくらい待っていたんだろうと思うと胸が痛む。
 暫くして菅橋先生も入って来た。ニッコリと笑って私の手を取ると「頑張りましたね、手術は無事に終わりましたから、後は術後の経過をよく診て行きましょう」と言う。
これで私は助かるんだろうか、まだ完全に麻酔が解けていないせいか、全てが現実のことではない様に思える。
「良かったねぇ、良かったねぇ」と繰り返す母に頷いて調子を合わせてあげながら、もう一度元気になれるものなら、一日も早く良くなって、俊の消息を探しに行きたいと思う。

 その夜は病室へは戻らずにICUの中で過ごした。
 両親が帰ってからは、無機質な機械が発するピッ、ピッ、という脈拍を示す規則的なアラームの音だけに包まれている。
 麻酔が切れ初めているのか、目が覚めた時はあまり感覚が無かった身体の質感が戻ってくるのと同時に、何か巨大な重しが圧し掛かってくる様な鈍痛が身体を包み込んで来る。
 遠くからスーッと来て、ワーッと身体を縛り込む様な感覚が絶え間なく襲って来る。
 身体中がズンと重みのある痛みに包まれている様で、とても辛い。それでも背中から注入されている痛み止めのお陰で本当はもっと痛いところを救われてるのかもしれない。それでも痛い……。
 とても眠れそうにないのでベッドについているナースコールのボタンを押す。看護師さんが来て、痛み止めの注射と座薬を入れてくれる。
 俊のことが気になる……けど、この苦しみに襲われるとそれどころではなくなってしまう。ああ、苦しいよう……私は二度と自分で立ち上がることも出来ないかもしれない。
 薬が効いて来たのか、身体が軽くなって来る。これで眠れるのかと思うと、またフワッと高いところから落ちてくみたいな感じがして目が覚め、身体の奥底から痛みがジンジンと広がって来る。
 どうして眠らせてくれないのかと思いながら、また堪らなくなってナースコールを押す。
そんなことを繰り返して、ぐっすりと眠ることが出来ないまま朝を向かえてしまう。

 今日からはICUを出てまた一般の病室へ移されることになった。
 でもまだ脈拍をチェックする導線と点滴は繋がったままだし、尿管も付けられている。それほど容態が安定していないということからか、病室はナースステーションのすぐ隣にある4人部屋だった。そこには他の患者さんたちも重症そうな方達ばかりが入っている。
 私はベッドに横になったままで、両親と一緒に菅橋先生から、手術の結果についての説明を受けた。
 先生は「これからは御家族との協力体制で、病気と戦って行かなければなりません」と言うので、やっぱり昨日の手術だけでは完治した訳ではなかったんだと思う。
 先生が言うには、手術で肝臓に出来ていた腫瘍は取り除いたのだが、周囲の部位にも転移が見られたということだった。
 今後の治療方針としては体力が回復するのを待って、今回の手術で採取した腫瘍細胞の病理組織の診断結果から判断して、放射線治療と抗癌剤治療、それにホルモン療法等を併用しながら治療に当たって行きましょうということだった。
 私の身体は癌の進行具合を示す段階でいうとステージ4といって、レベルとしては最悪の段階なのだという。
 父さんと母さんは真剣な面持ちで事実を受け止めている。私の為にこんな思いをさせていることが情けなくて堪らなくなる。
 誰も口には出して言わないけれど、もしかしたら私はもう助からないのではないかと思う。抗癌剤とか放射線とかいろんな治療方法があるっていうけれど、それで幾らかは生き延びることが出来たとしても、それも長くは続かないのではないか。そんな思いが浮かんで来てしまう。
 先生はただ「気力をしっかり持って、頑張って治療に当たって行きましょう」と言うだけで、生死の問題については触れようとしない。

 次の日になると、心電図を取っていた導線と点滴や尿管を外して貰えて、お腹から胸にかけて切り開いた手術の傷跡を自分で見ることが出来た。
 トイレに行きたくなって、お母さんに支えて貰いながらゆっくりとベッドから降りる。傷口が傷むのではないかと思ってソロソロと動く。
 手術をした後は内臓が癒着してしまうのを防ぐ為に、なるべく歩いて身体を動かした方が良いのだと看護師さんに言われている。
 やっぱり途中で傷のところが凄く痛んでしまい、立ち止まってしまうけれど、少ししてまた歩くのを繰り返しては廊下を進み、やっと洗面所まで来る。
 母さんに扉の前で待っていて貰い、個室に入って用を足すことが出来た。こんなことでも身体の機能がちゃんと働いていることにホッとする思いだった。
 個室を出て、手を洗い、そこにある鏡を見た途端にショックを受けた。それが自分だとは思いたくない。それはもうこの世の者とは思えない、ミイラだった。
 取り返しの付かない人生がそこにある。もうそんな自分を侘しく思う気力さえなくしてしまいそうだった。
 まだ少しでも若さを保っていたいとお風呂に入る時は冷水のシャワーと湯船を繰り返して入っていたことも。週刊誌を見てせっせと作った豆乳ローションを顔に付けていたことも。風呂上りにせっせとストレッチをしていたことも、全部が馬鹿みたいなことだったと思う。
それでもまだ俊のことは気になっている。今日からは毎日母さんに新聞を買って来て貰い、病室のテレビでニュースとワイドショーを欠かさず見ることにしようと思う。
 病院の一階にある図書室には患者が自由に使えるパソコンがあって、インターネットを見ることも出来ると看護師さんが教えてくれた。
 事件のことを検索すれば何か新しい情報が得られるかもしれない。と思うけど、まだ一人でそこまで行くのは無理っぽいし、母さんと一緒だと何故私がそんな事件のことを調べるのかと不審に思われてもいけないので、まだやめておこうと思う。

 日が経つに連れて徐々に歩くのが苦痛では無くなって来た。今日は母さんも家のことがあるからと言って病院へは来ないので、出来れば病室から一人で一階の図書室まで行ってみようと思う。
図書室は一階のロビーを過ぎた奥の、売店や喫茶室の並びにあると聞いた。ソロソロと気を付けながら廊下を歩いてエレベーターに乗り、一階まで来ることが出来た。でもロビーを過ぎた辺りで身体が重く疲れてきてしまう。
 少し止まって休み、売店でジュースを買って、図書室へ入るとパソコンの席に座る。
 ぐったりとしながら、少しずつジュースを飲んでいると身体が落ち着いてきたので、インターネットを繋いでキーワードに「世田谷区」「高校生」「母親を刺殺」と書き込んで検索ボタンをクリックする。
 ヒットした項目の中から以前にも見ていた新聞社の事件報道を選び、表示してみる。
画面を見て驚いた。4ヶ月前に母親を刺して逃げたまま行方が分からなくなっていた高校生が、交番に保護されたという記事が掲載されている。
 その記事がアップされたのは3日前で、亜希子が手術を受けた日だった。その日は新聞を見ることが出来なかったのだ。その記事には次の様に書かれている。

『4ヶ月前に世田谷区で母親を刺して逃亡していた男子高校生が、中央区の交番に保護された。少年は母を刺して逃げた後、親切なホームレス等の世話になりながら逃亡を続けていたが、ここ数日間悪い連中に捕まっていたところを、隙を見て逃げ出して来た。と語っている。母親とはテストの成績のことで口論となり、思わず刺してしまったが、殺そうなどとは思っていなかった。まさか死んでしまうとは思わなかったので、ニュースで母の死を知った時はとても悲しかった。と話しているという……』

良かった! 俊が無事に生きてた!
 だが、嬉しさのあまり始めは気付かなかったけれど、読み返してみるとこの記事にはいろいろとおかしな点があることに思い当たる。
 そもそも何故中央区の交番で保護されたのか? 一人で交番に保護されたということは、越川が付き添って出頭したのではない。それに俊は4ヶ月前から逃げている間、親切なホームレス等の世話になっていたことになっていて、亜希子のことは全く書かれていない……どういうことなんだろう。越川の元から逃げて来たということなんだろうか。
 ここに書いてある俊の言動についてはいろいろと不思議に思うけど、新聞社のサイトに書いてあるのだから、俊がこう語ったということは間違いないのだろう。
 とにかく無事でいてくれたことは本当に良かったと思う。
 生きていればまた会うことが出来るかもしれない。けれど私には、これから図書室を出て病室まで一人で戻れるのだろうかと、そんなことが不安になっている。
 情けないと思って泣きたくなってしまうけど、頑張って歩かなくちゃ。なるべく身体を動かす様にと言われてるんだから。そして、少しでも良くなって、また外を歩ける様にならなければ。でなきゃ俊に会いに行くことが出来ないもの。

 手術してから4日目になった。やっと流動食が食べられる様になって、朝食におかゆが出た。看護師さんが「徐々に普通の食事も出来る様になりますからね」と言ってくれる。
 リハビリから始めるのだと思ってゆっくりと食べる。おかゆの味を確かめながら。頭の中では考えを巡らせている。
 ……昨日図書室のインターネットで見た記事によれば、俊が保護されたのは9月の30日だと書いてあった。今日は10月5日だから、保護されてから5日が経っていることになる。
亜希子が思っているのは、自分のところへは警察が来ないのだろうか、ということだった。
 あの時越川は私に『……もしまた俺達に関わったら、警察に突き出してやるからな』なんて言ったけど、そもそも私は俊を越川の許へ連れて行こうと決めた時から、警察に捕まる覚悟はしていた。
 なのに、俊が保護されてから5日も経つのに私のところへは警察が来ない。ということは、俊も越川も私のことを警察には話していないということだ。
 亜希子はむしろ警察に逮捕しに来て欲しかった。何故ならそうなることは俊が亜希子のことを警察に話したということであり、警察は亜希子が俊を匿っていた事実を認め、亜希子は越川の暴力について警察に訴えることが出来る。そして越川にもそれを邪魔することは出来ない。
 そうなればきっと週刊誌やワイドショーがいっぱい押し寄せて来るんじゃないだろうか、よくテレビでスキャンダラスな事件を起こした関係者が、自宅に押し寄せた大勢のカメラマンやレポーターに揉みくちゃにされてるみたいになって。
 私はマスコミに、俊に暴力を振るっていたのは詩織さんではなく、父親の越川だったということを話して、世間に公表することが出来る。
 その為には亜希子も自分のしたことについて、犯人隠匿でも青少年に対する猥褻行為でも、罰を受ける覚悟なんてとっくに出来ている。
 でも未だに警察が来る気配がないということは、越川が俊に私のことは警察に話すなと言い含めているからではないだろうか。
 つまりあの記事に出ていた、俊が語ったという内容は、全て越川の指図通りに俊が喋っているということではないだろうか。
 母を刺してしまったことを後悔しているということも、今までホームレス等に助けられて方々を放浪しているうちに悪い人たちに捕まって、そこで暴力を受けて逃げて来たということも、そして俊が一人で中央区の交番に保護されたことも、全ては越川の差し金なのではないだろうか。
 私のことを無かったことにしているのは、警察に俊が反省しているという印象を与える為に、行きずりの女の家に匿われていたなんてことは知られたくないからだ。
 それにもし私の存在が明るみに出れば、俊に暴力を振るっていたのが自分だということが発覚してしまうかもしれないから。

 夕方になって看護師さんが運んで来てくれた夕食もおかゆだった。結局その日は三食とも薄いおかゆだけだった。それでも文句も言わず、リハビリだと思ってゆっくりと食べる。
 俊の為にも早く元気にならなくちゃ。ネットに出ていた記事の内容を考えると頭が混乱してしまうけど、とにかく今は身体のリハビリに努めなければと思う。
 
 次の日のお昼からやっと普通の食事が出来る様になった。看護師さんが運んでくれた他の人たちと同じ白いご飯とお味噌汁を見た時、ああ、これでやっと私の身体も回復して行くのかもしれない、と思って嬉しくなる。
今更ながら普通にご飯が食べられるということに感動と感謝の気持ちを覚えながら、ひと口ずつ噛み締めて食べていく。
 ……俊は警察に保護されたといっても、まだ完全に越川に支配されているんだ……俊、何故私に助けを求めてくれないの……。
 そしてある恐ろしい考えに思い当たる。もしかしたら俊は、私が裏切って越川に自分を引き渡したとでも思い込まされているのではないだろうか。
それならば、私が自分から警察に出頭して、俊との今までの経緯や、越川から暴力を受けたこと等を訴えたらどうだろう。
 でも今の様な状況になってしまっては、警察に話したとしても、私が俊を匿っていたことを信用して貰えないかもしれない。
何か俊を匿っていた証拠になる物でもあれば……ダメだ。検見川浜に引っ越す時に俊が着ていた血糊の付いた制服も、凶器の包丁も他のゴミに紛れ込ませて捨ててしまった。もうとっくに何処かのゴミ処理場に運ばれて燃やされてしまっているかもしれない。今から探して見つけ出すことなんて不可能だろう。
 越川と交わしたメールの遣り取りや俊の寝顔を写した画像が残っていた携帯は、あの時越川に引き千切られてしまったし。何か他に方法はないだろうか……。
 そうだ……もし警察に検見川浜のマンションから俊の指紋を検出して貰うことが出来れば、私の言うことが真実であることを認めてくれるに違いない。それは頑張って働きかければ出来るのではないかと思う。
 でもそうなれば、その後はどうなるだろう……私が逮捕されて、越川の俊に対する暴力を世間に公表することが出来て……。
……俊に暴力を振るっていたのが詩織さんではなく、悪いのは越川だったということを公表出来たとしても、それでもあの男が俊の父親であることに代りはない。
 俊の人格は完全に越川への恐怖と裏返しの尊敬によって支配されている。生涯あの男が俊の父親でいる限り、俊はあの男の支配から逃れることは出来ないんじゃないだろうか。

 手術をしてから7日目になって、傷口を塞ぐ為につけていた小さなホッチキスの針みたいな物を外してくれた。
「抜鈎(ばっこう)という作業なんですよ」と看護師さんが教えてくれる。
 縦に延びた傷に沿って小さな針が並んで付いていたのを、カチャカチャと手際よく外して行く。麻酔をしている訳ではないけれど、ちょっとチクッとするくらいでそれ程の痛みは無い。
 手術の傷口も塞がって、このまま身体の中も治ってくれてたらいいのに、と思う。

私が警察に出頭して、悪いのは父親の越川だということを訴えたとしても、俊は自分の口からは本当のことを言わないのではないかと思う。
 俊は3ヶ月も私と暮していながら越川の暴力については一言も口にしなかった。それはきっと越川への絶大なる恐怖が、潜在的にも俊を支配しているからだ。
 俊は「尊敬しているから」ということを言い訳にして、越川の恐ろしい部分は考えない様にしているんだ。幼い頃からそれが日常化していたから、そのことを他人に話すなんてことはあり得なかったんだ。  
 だからもし、あの時私が俊を匿わずに警察に引き渡していたとしても、俊は越川の暴力については警察に言わなかったと思う。
 抜鈎が終わった後、手術後の内臓の癒着が無いかを調べるのと、今後の治療方針について判断する為にCT撮影をするということで、菅橋先生が来て一緒に放射線検査室へ行く。

 菅橋先生から「明日は今後の治療のことについて説明したいので、御両親にも来て貰って下さい」と言われたので、次の日の午後からお父さんたちにも来て貰い、一緒に先生の話を聞いた。
「CTの結果なんですが、内臓癒着の方は大丈夫ですね、それで次に始める放射線と抗癌剤を併用する治療についてなんですが、まだ手術で摘出した腫瘍からの詳しい病理診断が上がって来ていないので、すぐに始めることは出来ないんですよ。それでですね、次の治療を始めるまでの一週間くらいの間なんですが、良ければ退院してご自宅で過ごされてはどうかと思うんですが」
 先生の口から出た「退院」という言葉に驚いた。もう生涯病院から出られることは無いのではないかと思っていた。
 先生が言うには、抗癌剤の治療を始めたら一ヶ月くらいは毎日続けなければならず、その間はずっとベッドに寝たきりで、外に出たり歩いたりすることも出来ず患者さんはとても辛いのだという。
 それならと父さんと母さんと話し合って、容態が安定していれば明日にでも一度退院しましょうということになった。

 その夜から浴室でシャワーを浴びることが許された。
 そうっと裸になって、スポンジにボディソープを付けて、ゆっくりと身体中を丁寧に洗っていく。腕も、足も、指の間も。
 身体中泡まみれになって、それからシャワーを浴びる。暖かい飛沫が身体を流れて行く。目を閉じて思わず「あ~」とため息が漏れる。
 この先に待っている闘病生活はきっと辛いだろうと思うけど、今はただ明日退院出来るということが嬉しい。
 身体を洗い終えると今度は頭からシャワーを浴びて、シャンプーを手に取り髪を洗う。髪の毛が引っ掛かってしまうのでゆっくりと手を動かしていく。
 今頃俊はどうしているだろう。ねえ俊……貴方は本当はお母さんを守ってあげる為に父親を殺すべきだった。でも弱い貴方にはそんなことは考えも及ばなかった。
 俊……貴方は強くならなければならない。でなければ例え罪を償って社会に出て来ることが出来たとしても、真相を隠したままでは一生涯本当の自分の人生を生きることは出来ないのよ……。
 目を閉じてシャンプーの泡を洗い流す。そしてまたスポンジにボディソープを付けて、始めからゆっくりと全身を洗い直していく。

 手術から9日が経った今日。先生からの許可が下りて、一時退院して家へ帰ることになった。
 病院の表玄関から両親に付き添われてタクシーに乗り、実家へと向かう。離れて行く病院の建物を見ながら、もう戻って来なくても良ければいいのに……と思う。
「良かったねぇ久しぶりに家に帰れて、一週間もあるんだからのんびりして美味しい物でも食べてればいいわよ」
 と母さんはまるで病気が治ったみたいに嬉しそうだ。
 次の治療を始めるまでの一週間というけれど、菅橋先生が一度退院させてくれたのはきっと『病院の外での最後の時間を家族で過ごして下さい』ということなのではないかと思う。この一週間を最後に、再び入院すればもう二度と出て来ることは出来ないのではないか……。
 でももう何も口に出して言うのはやめよう。一生懸命に笑顔を作っているお母さんに、どんなことになっても最後まで調子を合わせていてあげようと思う。だって私には、もう他に親孝行と呼べることは何も出来無い。
 病院を出て北野街道を走るタクシーの窓の外に、懐かしい町並みが現れて来る。
 少女時代を過ごした八王子の街。思い返せばあの頃がついこの間の様な気がする。
 こんな有様になってこの街に戻って来ることになるなんて、考えてもいなかった。人の人生なんて、なんて短くて儚い物なんだろうと思う。
 タクシーは京王線の北野駅前から八王子バイパスへ折れると住宅地へ入って行く、それから5分もしないうちに実家に到着した。


第四章 7


 2階の部屋に布団を敷いて貰い、横になる。そこは25歳の時に家を出るまで亜希子の部屋だった。
 今は来客用の部屋になっていて、亜希子が使っていた勉強机もベッドも無くなっているけれど、押入れを開けてみるとまだ小学校から短大までの卒業アルバムや懐かしい日記帳等が入ったダンボール箱がそのままになっている。
 まだ昼間だし全然眠くなんかないけれど、ミイラの様な私には布団に横になっているのが自然な姿の様な気がする。
 お母さんに9月30日からの新聞がまだ捨ててなかったら見たいと言って全部持って来て貰う。俊が警察に保護された日から今日までの記事をもう一度見てみようと思う。
だが、9月30日に中央区の交番に保護されたという記事が翌日の10月1日に載ってから後は、俊についての報道は何も無かった。
 私に出来ることは何だろうといろいろ考えて来たけれど、これだけは言えると思うのは、俊を立ち直らせるには、詩織さんは決して俊を嘲っていたのではなく、微笑みかけていたのだということを俊に自覚させなければならないということだ。
 自分はそんな母を刺し殺してしまったのだということを、目を逸らさずに直視して、その罪と向き合うこと。
 それはどんなに辛いことかもしれないけど、後悔の念に押し潰されてしまうかもしれないけど、一度メチャメチャになってしまわない限り、立ち直るということもない。
 どうしたら俊にそのことが出来る様にしてあげられるんだろう。果たして俊にそんな時が来るんだろうか。少なくともこのままでは無理だ。あの父親と一緒にいる限りは。
 例え嘘で固めた罪を償って出所して来たとしても、俊の人生は越川によって支配されて行く。生涯逃れることが出来ず、恐怖に慄きながら卑怯者の人生を送ることになる。
 俊はこのままでいいの? そこから脱出して自分の人生を取り戻したいという本能の様な物は無いの? このまま死ぬまであの父親に支配されながら過ごして行くつもりなの?。
これから先も俊は警察に本当のことは言わないだろう。越川は俊に私のことを「お前をたぶらかした悪い女だ」とでも思い込ませているのかもしれない。だから私が出頭しても俊を助けることは出来ないと思う。
 ……ああ、それよりも何よりも、こんな身体になってしまっては、もう何もすることが出来ないじゃないか。こんな身体の私でも何か出来ることはないだろうか。私は生きているうちにまた俊と会えることがあるんだろうか。
 母さんは私の着替え等を取って来てあげると言って、検見川浜のマンションの鍵を持って父さんと出掛けて行った。
 一度会社に連絡しておこうと思い、二階にある子機から掛けると、いつもの様に電話に出たのは小石さんだった。
「ご迷惑ばかりお掛けして申し訳ありません」と言うと『早く良くなって復帰出来るの楽しみにしてるからね』と言ってくれたので恐縮してしまう。
 もうあの職場へ戻ることも出来ないのだろうか。そう思うと、20年近くもあの会社で働いていたことも、何か遠い世界の事だった様な気がする。

 次の日、夜になって食事の用意が出来たと言うので下の部屋へ降りてみると、いつの間に用意したのか居間のテーブルにご馳走が並んでおり、真ん中には蝋燭を立てたケーキが用意してある。
 ケーキに乗ったチョコレートのプレートに「アキコちゃんお誕生日おめでとう」とクリームで書かれている。まるで小学生みたいだな、と笑ってしまう。
 10月11日。すっかり忘れていたけれど、今日は亜希子の39歳の誕生日だった。
 こんなに沢山の御馳走は食べきれないだろうに、どうするのかなと思っていたら「こんばんは~」と声がして真由美姉さんが吉村さんと娘の由香里ちゃんを連れて来た。
「亜希子さん誕生日おめでとう」と高校生の由香里ちゃんがプレゼントを渡してくれる。 小さい頃から会う度に私のことを「叔母さん」ではなく「亜希子さん」と呼びなさいと言い付けて来たことを守ってくれている。
 プレゼントの包みを開けてみると、小田和正の新しく出たベスト盤のCDと、お笑いコンビダウンタウンのDVDのセットだった。
「どっちにしようか迷ったんだけど、由香里が両方にしようって言うから。まだ暫くは静養してるから観る時間沢山あるんでしょ」
 と姉さんが言う。私の好きな物をちゃんと覚えていてくれるんだ。と思うと、ホロリと涙がこぼれそうになってしまう。
 ただ、皆が私の顔を見て、あまりのやつれ様に一瞬動揺した表情をしてしまうのが分かるのが辛い。

 皆で御馳走を食べながら昔話に花を咲かせていると不意に「私はね、亜希子には悪いことしたと思ってるんだよ」と母さんが言い出した。
「あの時、12年前に菅橋先生が子宮と卵巣を摘出するって言った時、どうしても片方の卵巣だけは残してあげて下さいってお願いしたから、また悪い病気が再発してしまったんだからね、あの時私があんなお願いしなかったら、こんなことにならなかったかもしれないんだからね」
「そんなことないよ母さん。私だってあの時残して欲しいってお願いしたんだから。それに腫瘍が出来たのは肝臓だよ、残した卵巣は今だってそのままなんだから、きっとあの時両方の卵巣を取ってたとしても、こうなってたんだと思うよ」
 卵巣腫瘍と一緒に子宮を全摘出すると言われた時、どうにか片方の卵巣だけでも残して欲しいとお母さんと一緒に菅橋先生に頼んだ。
 だって両方の卵巣を失ってしまったら、女性ホルモンの分泌が無くなるっていうから、女性らしさが全く失われてしまうんじゃないかと思った。
 もう自力で子供を産むことは出来ないとしても、少しでも自分が女である部分を残しておいて欲しいと思った。だってせっかく女として生まれて来たんだから。
 くよくよしている母さんを元気付けようと思って、亜希子は努めて明るい表情をして言う。
「お父さんもお母さんも、私のこと育ててくれて、今まで生きて来られたこと、ありがとうね」
「そんなまるで助からないみたいな言い方するのはやめなさいよ。大丈夫なんだから」
 と父さんが言う。
「うん。でももしものことがあったとしても、私は父さんと母さんの子に生まれて来て、幸せだったからね、何があってもそれだけは信じていてよね」
 元気付けようと思ったのが逆効果になってしまい、泣き伏してしまう母さんの背中を擦りながら、亜希子は言葉を続ける。
「だってねお母さん。私はきっと片方だけでも卵巣が残ってたから、少しは女でいられたんだと思うよ。本当だよ」
 ……そうだ。私にはまだ片方の卵巣が残されていた分だけ、女らしいところも残されていたんだきっと。
 そのお陰で隆夫との出会いや思い出も出来たんだし。そして俊とのこともこうなったのかもしれない。
 あの時もし両方の卵巣を失っていたら、女性ホルモンが出なくなって、もしかしたら男性に対する恋愛感情や優しさも失っていたのかもしれない。
 そしてあの日、俊に帰ってくると約束してアパートを出た時も、きっと真っ直ぐに交番へ駆け込んでいたのではないだろうか。
 そうだ。全ては私の意志なんだ。だから私には、今までのこと全てに後悔なんて無い。きっとこれからも。
「お母さん。私は自分の人生を歩んで来たんだよ、だから母さんが自分を責めたりするのはやめて欲しいよ、ねっ、お願いだから」
 ウンウンと頷きながらも、母さんはなかなか顔を上げてくれなかった。

 そんなこんなでパーティーは終わり、姉さんたちも帰って行った。その後、一人で二階の部屋へ戻って来た時に、痛みが襲って来る。
 胸の奥が針金で縛り付けられるみたいに痛い。それから腰も折れてしまいそうで、布団に倒れたまま身動きも出来なくなってしまう。
 退院する時に渡されたオキシコンチンと言う麻薬系の飲み薬と、ボルタレンと言う座薬の痛み止めをお昼に入れたはずなのに、もう効き目が薄れてしまうということは、それだけ症状が進行しているんだと思う。
 枕元に用意してあるペットボトルで薬を飲んで、パンツを下ろして座薬を入れる。呻き声が漏れるとまた母さんが上がって来てしまうので、必死に堪えてゴロゴロと布団の上を転がる。
 だけど今日は思いがけず誕生日で、父さんと母さんに「今までありがとう」って言えて良かった……。
 自分でも忘れていた誕生日を覚えててくれるなんて、これが家族なんだな、せめて私は一人で死んで行かなくて済むんだもの。ありがたいなと思う。
 痛みに声が漏れそうになるので枕の端に噛み付いて耐えていると、脳裏に浮かんで来たのは検見川浜のマンションで俊と暮らしていた頃のことだった。
 ……あれは夢を見ていたんだろうか、あの朝、二人で迎えた東京湾の夜明けの情景。亜希子と俊一は世界で二人きりだった。それが段々俊の心が荒んで来て、俊一を社会復帰させて、医者になる夢を実現させてあげたいと思ってしたことが、こんなことになってしまった。
 まだ私に出来ることはあるだろうか……。何かしてあげなければ、まだ私が生きているうちに。でも、こんなボロボロの私に何が出来るというのだろう。まるでもう、家の中で死ぬのを待っているだけみたいな私に。
 11日前に中央区の交番に保護されたという俊一が、今何処でどうしているのかは全く分からない。少年事件は非公開の為、刑事裁判にならない限り裁判の傍聴は勿論、いつ何処の裁判所で行われるのかも、その結果を知ることも出来ない。
 俊一の送られる道筋は、おそらく鑑別所から家庭裁判所、そこでもし検察へ送致されれば刑事裁判、そして行き着く先は少年院か少年刑務所ということになるのだろう。
 俊一は今、何処かの鑑別所へ入れられていて、裁判にかけられるんだ。居場所さえ分かれば、そこでもし面会が許されるというのなら、まだ動けるうちにせめて様子を見に行きたいと思うけど、何処へ行けば良いのかも分からない。
 裁判には越川が保護者として付き添っているに違いない。本人が反省していることや、家庭に問題があったということで、行き先が少年院に決まれば、きっと1年くらいで退院出来るのではないかと思う。
 その後はあの父親にどんな風に扱われるのか……越川はまたきっと俊一を支配して、思うがままにしようとしているんだ。
 私に出来ることは何? 私が生きているうちに……。
 苦しみうごめきながらも回転させている頭の中に、只一つ小さな石の様に確固たるものがあるのを感じる。
 その思いに至った時。苦痛にのたうっている身体に戦慄が走る。けど同時にそれが否応無く決定していることとして、自分のしなければならないこととして身体がリセットしてしまった様な感じだ。
 それは自分がもうすぐ死ぬということと同じくらいに、そこから逃れることの出来ない真実として、そこにある。
 亜希子にはずっと前からそれをしなければならないことが決まっていた様な気がする。それは俊が私のアパートに侵入した時からだろうか? それとも隆夫に捨てられた時から? いや隆夫と出会った時からか? もっと前? あの朝府中駅でお腹を押さえて蹲った時だろうか? それとももっと……もしかしたら、私がこの世に生まれて来た時から……。
 そんなことが出来るはずが無いことは分かっている。でも、まだ針で明けた穴の様に小さな光だけれど、確固たる意思を持って瞬いている光が、やがて大きくなって私の意志を支配するであろうことも分かっている。
 怖い、絶対に出来っこない、でも私はそれをしなければならない。中学の時お父さんからテニス部に入ることを反対された時も、父さんに逆らえるはずなんて無いと思っていたけれど、心の片隅に今と同じ光があることに気付いてた。
 今は不可能に思えても、きっとまたあの光が大きくなって、私を包み込んで行くんだ……。
 だけどこんなヒョロヒョロな私に出来るだろうか。私はどうなったって構わない。けど他にも考えなければならないことがある。それは父さんや母さん、それに姉さんや吉村さん、それに由香里ちゃんにも誰にも、決して迷惑が掛からない様にしなければならないということ。
 どうすればいいんだろう。どうすれば出来るんだろう。手掛かりは、私がもうそう長くは生きられないだろうということ……。
 痛みに蠢きながら、考えに耽り、殆ど眠りに付くことも出来ないまま朝を迎える。でもようやく痛みも治まって来て、朝ご飯を持って来た母さんと普通に言葉を交わすことが出来た。

 朝食を食べた後、洗濯していた母さんが父さんと一緒に買い物に出掛けたところを見計らって、寝床の中で子機を使って電話を掛ける。
 電話番号が分からなかったけれど、番号案内に掛けて大体の住所と名称を告げると、調べて貰うことが出来た。
 電話に出たのが誰でもいい様に頭の中でシュミレーションを確認し、緊張しながらダイヤルを押す。
 呼び出し音が暫く続いた後、相手が出る。
『はい、会沢診療所です』
 所長の会沢さんの声だった。
「あの、もしもし、越川先生は、いらっしゃるでしょうか?」
『ああ、回診に行ってますけど、どういったご用件でしょうか?』
「あ、分かりました。また後ほどお電話しますので、すみません」
 電話を切る。回診に行っているということは、まだあの診療所に勤務しているということだ。
 きっと私に居場所を知られていることなんて、気にしてないんだ。私には犯罪者を匿っていたということだけでなく、未成年者に猥褻行為を行なったという引け目もあるし。
 そもそもアイツは私が俊を弄んで、飽きて始末に困ったから自分に押し付けに来たのだとしか思ってないから。そんな私を殴り倒して懲らしめたことで、もう二度と近付いては来ないだろうと高をくくっているんだ。
 確かに私には、アイツの名前を思い浮かべただけで震えてしまうくらいの恐怖を植え付けられている。それは今電話機を握っているこの手の震えを見れば分かる。
恐怖とは戦うことが出来るだろう。心配なのは身体の方だ。
 痛み止めの薬を常時飲んでいるし、座薬も入れてはいるけれど、痛みの発作に襲われてしまえばその場で動けなくなってしまう。しかもその症状は日が経つに連れて悪化して来ている。
 一日でも早くしなければ、今にも力が無くなってしまいそうな気がする。だから、自分でもそんなに急にとは思うけど、明日決行しなければならないと思う。それはもう、否応もない決定事項だ。


第四章 8


 その夜。明け方の4時に寝床を出る。何かあるといけないということで、亜希子の部屋は常夜灯を点けて寝ているので、そのまま準備をすることが出来る。
 用意する物は昨夜のうちに整えておいた。ペットボトルを開けて痛み止めを飲み、座薬も入れる。検見川浜のマンションから母が取って来てくれた衣服の中から靴下を出して履く。ブラウスとスカートを選んで着替え、寒いといけないので少し厚手のコートを着て行こうと思う。
 お化粧もしたいけど、洗面所を使うと両親が起きてしまうかもしれないのでやめる。
 もう一度バックの中を点検し、必要な物が揃っているか確かめる。お財布と預金通帳もある。病院で貰ったありったけの痛み止めと座薬を忘れる訳には行かない。
 6時頃になると父さんも母さんも起きだして、庭の掃除や朝食の準備を始めてしまうので、それまでには家を出なければならない。
 洋服に着替え終わって、布団を綺麗に整え、その上に用意しておいた一枚の手紙を置く。バッグを肩に掛け、そっと襖を開けて部屋を出る。
 手紙には「今日どうしても行っておきたい所があるので行って来ます。大丈夫なので心配しないで下さい」とだけ書いておいた。
 足音を忍ばせて階段を下りる。一階の廊下をそっと歩き、両親の寝ている部屋の前を過ぎて玄関へ向かう。ふと振り返って両親の部屋を見る。
 お父さんお母さん、行って来るね……。これから私がしようとしていることは、いつかきっとお父さんもお母さんも解ってくれる日が来ると思う……。
 泣いている暇はないのでそのまま玄関に来て、そっと靴を履く。音を立てない様に物凄くゆっくりと鍵を開けて扉を開く。
 10月の夜明けの冷たい空気に身体が包まれる。身体がふらつかない様に気を付けながら扉を閉める。家の鍵は持っていないので外から鍵を掛けることは出来ないけれど、もう一時間もしないうちに両親も起きるだろうし、大丈夫だろう。
 家の門を開けて、まだ暗い街へ踏み出して行く。京王線の北野駅を目指して歩き出す。
 キャッシュカードもあるからいざとなればお金を引き出して、千葉までタクシーで行くことも出来る。
 貯金は500万円くらいある。セコセコ生活を切り詰めてして来た貯金だけれど、生涯賭けてこれっぽっちなのかと思うけど、私が自由に使う権利があるお金なんだ。 
 ふらつく身体のバランスを取りながら歩いていると、夜が明け始めて街がだんだん青く見えてくる。昔住み慣れた街。この角の向こうへ行くと通っていた小学校が見えるんだ。
 あ、この家は、中学の時一緒にテニス部だった早苗ちゃんの家だ。どうしてるのかな、久しぶりに会ってお茶でもしながらお喋りしてみたい。
 生まれた時からずっと過ごして来たこの街。この街で一緒に育って、今は大人になってバラバラになってしまった友達はみんなどうしているだろう。それぞれに家庭を持ってお母さんになったり、それとも一人身のまま仕事に頑張ったりしてるんだろうか。自分がこんなだから思うのかもしれないけれど、皆幸せに暮らしていて欲しいと思う。
 高校時代電車で通学していた頃、北野駅まで自転車で走った八王子バイパスの脇の歩道を歩いて行く。
 大通りに出ると冷たい風が吹いて寒くなってくる。空が青く明けて来て綺麗な空気に包まれてくる。チヨチヨと鳥の声が響く。
 時々ビュンビュン通り過ぎて行く自動車を横目に見ながら、フラフラする足取りでゆっくりとだけど、確かに自分の脚で歩いている。
 私がやろうとしていることを他の人が知ったら、きっと何故通りすがりの殺人者である少年の為にそこまでするのか、って不思議に思うだろう。貴方バカじゃない? って言うかもしれない。
 あの事件が起きるまで私と俊とは何の関わりも無かった。俊の起こした事件だって全く他人事のお家騒動なのだ。そもそも亜希子は巻き込まれてトバッチリを受けた被害者だったのに……何で? それなのに何で私は今こんなことになって、こんなことをしているのか……って自分の胸に問いかけてみても、亜希子にはこんな答えしか思いつかない。それはきっと、私が私だから。

 かなりの時間をかけて、ようやく京王線の北野駅まで辿り着く。家から30分くらいはかかったろうか。今にも起きて気が付いた両親が追って来て、連れ戻されてしまうんではないかと思いながら、新宿までの切符を買って自動改札を通る。
 まだ朝早いせいかエスカレーターは動いていない。仕方なく手すりに捕まりながら階段を登ってホームまで行く。
 広いホームにはまだまばらにしか人がいない。電車通学を始めた高校時代、それから短大へも、就職が決まった会社へも最初の4年間はこの駅から通っていた。
 この駅には私の人生の一部が刻まれているんだ。なんて大げさな感慨に浸っている自分が可笑しくなってしまう。死期が近くなった人間だからそんなことを考えたくなるんだろうか。
 今日も世界では戦争や災害で多くの人が亡くなっていて、こんな私一人がどうなったって些細なことなんだ……という思いもある。自虐的になっているというよりは、本当にどうでも良いことの様にも思う。
 朝早いので電車の本数も少なくて、次の電車が来るまでに15分も待たなければならない。それまでに両親が探しに来てしまうのではないかと思い、早く電車が来ないかと思う。
 そんなことを心配するくらいなら駅前のロータリーに止まっていたタクシーに乗ってしまえば良かったとも思うけど、タクシーだと運転手さんが私の顔色を見て具合が悪そうだと心配して、目的地まで連れて行って貰えないかもしれない。
 でもそんな考えとは別に、今日亜希子はどうしてもこの駅から電車に乗って行きたいと思った。
 やがてホームに通勤快速の電車が入って来る。空いているシートに腰を掛けると扉が閉まり、ホームが流れて行く。もう両親に捕まることは無いだろうと思う。
 このまま終点の新宿まで行って、中央線に乗り換えて東京駅まで行き、そこから千葉へ向かおうと思う。
 電車は多摩川を渡り、25歳の時に初めて一人暮らしをした府中駅に止まる。忘れもしないここに住んで1年くらい経った頃、あの朝発作が起きて、倒れて、私の人生が変わってしまった。その後何ヶ月か置きに八王子の病院へ検査を受けに行きながら5年間を過ごした頃も、この駅から会社へ通ってた。
 ここも私の人生の一部なんだ。あの朝倒れたのはあの辺りだったろうか。と思う間に電車は走り出し、亜希子は微笑みながら府中駅を見送る。
 電車は調布駅を過ぎて、明大前駅を過ぎる。時間はまだ7時前だ。電車が新宿に近付いて来ると、ふと亜希子は思った。少し会社の風景を見て行こうかな……でも心の奥で本当に見たいものが何であるのかは分かっている。
 隆夫の姿をもう一度見たい。声は掛けなくてもいい、遠くからチラリと姿を見るだけでもいいから。隆夫がちゃんと生きて、歩いて行くところを見たいと思う。
 そんな寄り道をしているうちに発作に襲われて倒れてしまったらどうしようとも思うけど、何をしようと私には全ての決定権があるんだから。私がそうしたいと思えば、そうするんだ。
 電車内に貼ってある路線図を見て、日本橋への乗り継ぎを考える。
 笹塚で都営新宿線に直通の電車に乗り換えて九段下まで行き、そこから東西線に乗って日本橋まで行くことにする。
 電車が新宿に近付くに連れて乗客も増えて来る。笹塚駅で乗り換えて、九段下駅で降りる。さすがに人通りも多く、足取りがふらついて、気を付けていないと早足に歩いている人にぶつかってしまいそうになる。
 身体が疲れない様になるべくゆっくりと歩きながら東西線に乗り換えて、どうにか日本橋駅へ着いたのは7時半頃だった。
 今ならまだ出社して来る人はいないだろうから、会社の人に見つかる心配も無いと思う。ゆっくり歩いて、出社して来る隆夫が見られる場所を見つけて身を潜めていようと思う。
 駅から地上へ出ると眩しい朝日が照り付けてくる。大きなビルの立ち並ぶ中をいつも通っていた道を歩いて行く。
 住宅建築資材部のあるビルの通りを過ぎて、隆夫が勤めている大規模建築資材部が入ったピカピカのビルまで来る。
 出社して来た隆夫はここからビルへ入って行くに違いない。そしてここを通る隆夫を見るには……あまり遠くだとよく見えないし、かといって近過ぎても私のことに気付かれてしまうかもしれない……。
 と考えて辺りを見回した結果、ビルの入り口から斜め前にある歩道の植木の後ろに立っていることにする。距離的には凄く近いけど、隆夫が駅から歩いて来る方向とは反対側だし、こんなところで私が隠れて見ているなんて思いもしないだろうから、見つかる心配はないと思う。
 社員たちが出社してくるまでにはまだかなり時間があるので、側のコンビニに行ってお茶を買い、そこにあるベンチに座って痛み止めの薬を飲む。
 出来れば出社時間になるまで、ここで座らせて貰っていようと思う。もう10月だけれどまだ気温はそれ程下がらないので、寒さを感じなくて良かったと思う。
 この後電車を乗り継いで房総半島まで行く段取りを復習したりしているうちに時間は過ぎて、そろそろかもしれないと思い、コンビニのベンチを離れ、ビルの入り口の斜め前にある植え込みの陰に立つ。
 やがて背広姿の男や女性社員たちが出社して来た。次々にビルの玄関を入って行く。隆夫の姿を見損なわない様に目を凝らして一人一人を確認する。
 そのうちに隆夫を大建部に引っ張って異動させた川原部長の姿が見えて来た。アッと思うとその後ろから川原部長に何か話しながら付いて来る隆夫の姿が見えた。
 ……隆夫……間違いない……川原部長に話をして、機嫌を取っているんだろうか、川原部長に追従して行くことでしか隆夫が出世して行く道は無いから、一生懸命なのかな……。
 みるみる近くへ迫って来て、亜希子のほんの数メートル先のところを他の社員たちと一緒にスーッと通り過ぎて行く。
 隆夫……頑張ってね、上司のご機嫌を取ったりいろいろ大変だと思うけど、きっと会社の中心人物になって活躍して行くこと、祈ってるからね……。
 川原部長に続いて隆夫の姿がビルの中に消えてしまうと、何かホッとした様な気持ちになって入り口を見つめている。
 その時不意にビルから隆夫が出てきてこちらを見た。ビックリして思わず木の陰に背を向けると足音が近付いて来る「亜希子? ねぇ亜希子なの?」と呼ぶ。
 こんな姿を見られたくない……俯いて身体を丸める様にしてそそくさとビルの反対側へ歩き出す。だが隆夫は後を追って来て亜希子の肩をつかむ。
「ねぇ、亜希子、亜希子でしょう? どうしたの? 心配してたんだよ」
 走り出す元気は無いけれど、そのまま止まらずに歩く。隆夫は小走りに亜希子の前へ来て、亜希子の両肩をつかんで止まらせ、俯いた顔を覗き込んで来る。
「……やめてよ」
 と振りほどいて顔を背ける。
「どうしたの? 住建部の人に聞いたら病気で暫く休んでるっていうから心配してたんだよ」
 お見舞いにも来てくれなかったくせに……。
「もう治ったの? ねぇ……すっごい顔色悪いよ、ねぇ大丈夫なの?」
「何言ってんのよ、アンタそんなことしてる場合じゃないでしょ。川原部長のことひとりで行かせちゃダメじゃないの! ホラ、早く、部長のとこに行って」
「えっ……でも」
「私のことは心配いらないんだから、隆夫はこれから頑張って出世して行かなくちゃならないのよ、これから会社のことを背負って立つエリートなんだよ、自分の立場分かってんの? 皆隆夫に期待してるんだよ」
「……」
 隆夫は急に現れた亜希子が何故そんなことを言い出すのか、理解出来ないという様にポカンと見つめている。
「いいから、頑張ってね、ホラ、早く行かないと遅刻するぞ、行って、早く! 行くの」
 元気そうに言うことが出来た。本当はカラ元気だったけど、隆夫はそんな私の剣幕に気圧されたのか「う、うん。分かったよ、でも……」と戸惑っている。
「いいから! さぁ、はやく行ってらっしゃいっ」
「う、うん。また連絡するから」と言って心配そうに振り返りながら小走りに戻って行く。
 隆夫の姿が見えなくなる。良かった……不意に込み上げて来るものがあって、慌てて側にあるビルとビルの間によろめいて入る。狭い地面があって空き缶や紙くず等が散らばっている。
 そのまま両手をついて四つん這いになり、胸から顔に込み上げて来るものに備える。
 地面に顔を擦り付けるとガクガクと震え出して、口から唸りが漏れだした。
「うっ……うっ、うっ、うっ、うううう~~~」
 くちゃくちゃに顔が引きつったまま涙が溢れ出して行く。まだ身体の中にこんなに水分が残っていたのかと思うくらい、湧き出して、流れ落ちる。
「わあああああ~ああ~あ~あ~」
 構うもんか……どんなに声を上げたって、通りすがりの人に聞こえたって、きっと仕事に行くところだし、皆自分のことで精一杯で、ビルの隙間で泣いてる女のことなんて、構っている暇なんて無いんだから。
「ああああああ~お~お~お~」
 全部出し切ってしまおう。最後の一滴まで出してしまって。さっぱりしておいた方が良いんだ。
「わぁ~ん~わぁ~~ん~~はあああ~おおおお~お~お~おおおおおーーー!」
 自分の声がまるで獣の唸り声みたいだ。かと思うとしゃくり上げて甲高く裏返る。
「はあああああーーあーあーはあああああー」
 子供みたいに時々しゃくり上げては引きつりながら、終わるまで咆えるに任せている。
 そのうちに治まるだろう。そうすればきっとまた勇気が出て、立ち上がれるに違いない。
 朝の日本橋のオフィス街で、見知らぬ女の泣き声がビルの谷間にこだましている。


第四章 9


 ビルの間から出て来ると、ふらつく足取りで地下鉄の駅へと戻る。最初の頃検見川浜から会社へ通っていた時のルートを辿って東西線で茅場町まで行き、そこから日比谷線で八丁堀へ向かい、八丁堀からは京葉線に乗って蘇我まで行き、そこから内房線に乗り換えようと思う。
 無事に二回の乗換えをクリアして京葉線に乗ると、窓から東京湾の青が見えて来る。
 検見川浜のマンションはまだそのままになっているだろうけど、もう寄り道している余裕はない。もうあそこへ戻ったって俊がいる訳もないのだし、まだ残っている荷物はお母さんたちが引き上げてくれるだろう。
 通勤快速は検見川浜を通り越して、終点の蘇我駅までガタンガタンと激しく振動しながら突っ走って行く。
 蘇我駅に着くと少し食べ物を買っておこうと思い、駅を出てコンビニに入り、オニギリのセットとサンドイッチとお茶のペットボトルを買う。
 身体は大丈夫だろうかと心配してたけど、いつもより早いペースで飲んでいる痛み止めと座薬のお陰なのか、今のところは調子良く、痛みに襲われることも無かった。後はちゃんとあの診療所まで辿り着くことが出来れば。
 
 食料を手に蘇我駅へ戻り、九重駅までの切符を買ってホームに入る。
 内房線が走り出すと、他に誰も座っていないベンチシートに座って、身体を窓の方へ斜めに傾け、ぼ~っと外を眺めている。
 こうして潮風に吹かれながら遥かに広がる海を見ていると、まるで休日をひとりで気ままに過ごしているみたいだなと思う。
 コンビニで買ったオニギリセットを膝の上に広げ、手づかみで食べる。
 蘇我から2時間程で電車は九重駅に到着する。降りたのは亜希子一人だった。
 無人駅のボックスに切符を入れて外へ出る。
 ほぼ1時間に一本しか来ない路線バスの時刻表を見ると、次のバスが来るまで20分くらいだった。
 そっとベンチに座って身体を休め、ようやく来たバスに乗り込む。亜希子の他に3人程の乗客を乗せたバスは、この前と同じ様に山の中へ入って行き、曲りくねった車道を縫う様にして登って行く。
 紅葉のシーズンには早いのか、山はまだ殆ど緑で、ところどころに少し薄くなった茶色い部分が出来ているくらいだった。
 両側を森に囲まれて、右に左によろめきながらバスは走って行く。
 窓から過ぎて行く眺めを見ていると、亜希子の心はまた時空を飛び越えて、今度は小学生の頃の遠足の光景が蘇って来る。
 ……あの遠足は何処へだっただろう? 富士山? それとも群馬県の方だったろうか、あの時帰りのバスの中で理恵ちゃんが気持ち悪くなって、ゲロ吐いちゃって……何で今更そんなこと思い出してんだか、と自分に苦笑しながら揺れ動く景色を観ている。きっと今は自分が気持ち悪くなりそうで心配だから、そんなこと思い出してるのかもしれない……。
 やがてバスは会沢診療所に最寄のバス停へ着いた。降りたのは亜希子だけで、バスが走り去ってしまうと辺りは森と畑だけで人影も無い。
 2度目だから、こないだみたいに道に迷うことはないと思う。
 少しフラフラして力が入らない様な感じだけれど、大丈夫、きっと診療所までは行けると思う。
 身体が疲れない様にゆっくりゆっくり進みながら、やっと診療所が見えるところまで来ることが出来た。
 震えだす脚を無視する様にしっかりと歩かせ、一見普通の一軒家な建物へと近づいて行く。表にはこの前越川が乗っていた自転車が止められている。
 玄関の前まで来て、ごめんくださいと言って扉を開く。
「はい、どうぞ~」
 と奥から会沢所長の声がするので、靴を脱いで上がり、廊下を歩いて診察室の扉を開く。
「あのう、その節はありがとうございました」
 と言いながら中へ入ると、机に座って書類を書いていた会沢所長が「はぁ?」と言いながらこちらを振り向いた。
「あのう、先日こちらに来ていた時に急に貧血を起こしてお世話になった者なのですが」
 と言うと、所長はちょっと思い出す様な顔をして。
「あ~あ~そうでしたかそうでしたか、今日はまたどうなさいましたか?」
「いえ、またこちらに来る予定があったものですから、一言先日のお礼をと思いまして」
「それはわざわざどうも、どうぞお座り下さい」
 と診察用の椅子を勧めてくれるので腰を下ろす。
「何かお顔の色がお悪い様ですけど」
「はい、近頃体調を崩して寝込んでおりましたものですから、でも大丈夫ですので……」
 等と話しながら、越川は何処にいるのだろうと辺りを見回す。また回診に出ているのだろうか、表に自転車はあったのに。と思っていると、窓の外で長靴に軍手をした男が何やら庭仕事をしているのが見える。
 アレがそうだろうか、と思っていると、その男は庭側の窓から奥の部屋へと入って行く。チラッと横顔が見えた……アイツだ。思わず震え出しそうな身体に力を入れる。
 足音がして診察室のドアを開けて越川が入って来た。
「先生、そろそろ河野さんのところへ伺おうと思いますので」
「あ、ハイ分かりました」
 会話の途中、チラッと亜希子の顔を見た越川の目が物凄く恐い。
 亜希子は立ち上がる。
「どうも、その節はお世話になりました。たまたま近くを通り掛かったものですから、一言先日のお礼を言いたいと思いまして」
 となるべく何気ない風を装って越川に言う。
「ああ、そうでしたか」
 と答える越川の顔が心なしか引きつっている様に見える。
「それから、あの時帰り道に見た、この先の東京湾の眺めが忘れられなくて、どうしてももう一度、あの景色が見たいと思いまして、今日来ました……」
 と自分の目玉にじっと越川から目線を逸らすことを許さずに言う。伝わっただろうか。
「ああそうでしたか、それはわざわざどうも」と言って再び亜希子の顔を睨んだ後、何もなかった様に隣の部屋へ入って行く。
 亜希子はもう一度会沢所長に丁寧に礼を言って、診療所を出る。
 表に止めてあった自転車がない。越川は何処だろうと見回しながら、森への道を歩いて行く。
 その時不意に胸の奥で痛みが起きて来て、それはみるみる腰の辺りにまで広がって来る。
 痛い……ああ痛い痛い……。
 立っていることが出来なくなってしまい、道端に手を着いてしゃがみ込んでしまう。深呼吸して身体を持ち直そうとする。
「おばちゃん?」
 と言う声に驚いて振り向くと、ランドセルを背負った小さな女の子が、心配そうな顔をして亜希子を見ている。
「どうしたの、お腹痛いの?」
 小学1年生か2年生くらいだろうか。なんて可愛らしいんだろうと思う。
「あのね、私のうちはお医者さんだからね、呼んで来てあげようか?」
そんなことをされてはまずいと思い、無理やり笑顔を作る。
「大丈夫だよ、ありがとうね、おばちゃん大丈夫だから……」
 と言ってふらつく足に力を入れて立ち上がる。
「貴方お名前は?」
「あ、い、ざ、わ、さ、お、りっ」
 会沢先生のお孫さんだろうか。
「さおりちゃんて言うの? 優しいんだね、どうもありがとう」
 と頭を撫ぜてあげる。
「でも早く帰らないとお家の人が心配するよ」
「うんっ!」
 と頷いてクルリと向きを変えると、タッタッタッと診療所の方へ走って行く。
 きっと私に最後の力を与えに来てくれた天使なんだろうと思う。
 小さな後姿を見送った後、よしと踏ん張って歩き出し、目的の場所を目指して行く。ここで頑張らなきゃ、あと少し、もう少しなんだから。
 力を振り絞り、痛みにうな垂れてしまいそうになる上半身を奮い起こして歩いて行く。時々道端の木に手をついて身体を支えながら、体勢を立て直しては歩く。
 そうこうしながらどうにか森の入り口まで来ることが出来た。辺りに人影はない。入って行くと木々の間から東京湾の青が広がって来る。絶壁の近くの木まで来て、もたれ掛かる様にして腰を下ろすと、今来た道を振り返る。
 辺りはしんと静まっており、崖下からはザザーンと岩に当たった波が砕ける音が響いて来る。
 大きな木に身体を預けながら、その音を聞くとはなしに聞いている。
 そのうち波の音に混じって自転車の音が近付いて来る。ブレーキを掛けてガシャンとスタンドを立てる。そして木々の間から姿を現した越川が、まるで落ち着き払った足取りでこちらへ向かって来る。
 ここまでは予定通りに来た。今更になって出来る訳が無いと心が動揺しそうになるのを押し留めて、絶対やるのだ。もう決めたことなのだから、ここまで来てやめることなんて出来ないんだから、と気持ちを一色にする。
「おい」
 近くまで来た越川が、木に寄り掛かっている亜希子の前に立つ。
「どういうつもりだよ。これ以上俺たちに構うなって言っただろ。まさか金でも要求しに来たんじゃないだろうな」
 亜希子は肩に下げていたバックを開き、中から用意しておいたノートを出して、越川の前に突き出して見せる。
「何だよ」
「……このノートには、今までのことが全部書いてあるのよ」
「何がだよ」
「あの日、私のアパートに逃げて来た俊一君と、私が過ごして来た4ヶ月の間のことが、全部事細かに記録してあるのよ」
「……それで?」
「貴方のことも、今まで貴方が俊一君にして来たことも、全てが書いてあるのよ。エリート教育の為に俊一君に暴力を振るっていたのは詩織さんではなくて、貴方だったことも。俊一君がお母さんを刺してしまったのは、詩織さんが俊一君を厳しく教育しようとしていたせいではなくて、俊一君に暴力を振るっていたのは全て貴方で、俊一君が詩織さんを刺してしまったのは、貴方が俊一君を追い詰めたのが原因だったということも書いてあるのよ」
「……」
「いい? これが公になれば、本当に悪いのは貴方だということが世間に公表されるのよ」
「……だからどうだっていうんだよ。そんなのは全部お前の想像したことだろ」
「貴方は詩織さんを愛してなんかいなかった。貴方が欲しかったのは、詩織さんの実家の総合病院だけなんでしょう」
「……」
 越川は半ば絶句した様に目を見開いて、亜希子のことを睨んでいる。
「貴方は誠実で優しい医者なんかじゃない、本当は学歴が低い劣等感で一杯で、世間に卑屈に媚を売ってしか生きられない卑怯者なのよ」
「……それで? 俺にそのノートを買えって言いたいのか? 悪いけど俺もこんな有様だからな、金なんかちっとも持ってないけどな」
「お金なんか要らない。私は世間や警察に貴方のして来たことを全部知って貰って、俊一君に貴方とは決別して、ちゃんと自分の人生を歩いて行って欲しいと思ってるだけ」
「それで、どうしようって言うんだよ。そんなこと誰に話したってお前の言うことなんか相手にしちゃくれないと思うけどな」
「そうですね。このノートを見せただけじゃ、私の言うことなんて誰も聞いてくれないかもしれませんね」
 亜希子はノートを持った手を思い切り断崖の方へ振り、ノートを下へ放り投げる。
 バサッと音がしてノートが崖下へ舞い落ちて行く。
 訳が分からずに見ている越川を見ながら、亜希子はよろよろと立ち上がる。
「でも……今私がここから飛び降りて、私の死体の側であのノートが発見されたとしたらどうですか……それに私が死んだ時、すぐ側には俊一君の父親である貴方がいたのだとしたら……あのノートを私が書いたことは確かだし、警察が事実関係を調べれば、ノートに書いてあることが全部事実だったということは、明白になると思いますけど」
 じっと越川を見据えながら、亜希子は一歩ずつ後ろへ下がる。
「私はね……身体の中に悪性の腫瘍が出来ていて、手術したけど他にも転移してて、もう助からないんです。どの道長くは生きられないんですよ……だから私は、自分の命を使って、世間に貴方の正体を暴いて、俊一君を助けてあげたいと思うんです」
 ここでよろければ落ちてしまうのではないかと思うくらい、亜希子の身体は崖縁に近付いて行く。
 ようやく亜希子が本気なのかもしれないと思った越川は、顔色を変える。
「ちょっと……待ちなさいよ、貴方、そんな早まったことをしてはいけないよ、貴方はどうかしてるんだよ、私たち親子なんかの為に貴方がそこまでする必要は無いじゃないか。いいですか、私の言うことを聞きなさい」
 越川は急にあの誠実で思いやりのある面に変わって、亜希子に歩み寄ろうとする。
「来ないで下さい。私はもう、いいんです。こんなことしたくなかったけど、貴方にはもう、俊君から離れていて欲しいんです、お願いします」
 そう言いながら本当は自分にはそんな勇気が無いことを、本当は恐くて、飛び降りる前に越川に止めて欲しいのだということを、完璧に演じる。でも半分は本当にそんな気持ちがあることも分かっている。
「貴方ね、どんなに悪いのか知らないけど、今は医学が進歩してるんだから、きっと生き延びる道だってあるんだから。ねっ、希望を捨ててはいけないよ。きっと私も力になりますから、ねっ、約束しますから」
 貴方が本当にその部分だけで出来ている人だったとしたら、俊も詩織さんもどんなにか幸せな人生を送ることが出来たかもしれないのに……。
「私……私……」
 吸い込まれそうに遥かな海に背を向けて、崖の縁に立ちながら、亜希子は閉じた目から涙を溢れ出し、うううう……と呻き声を漏らす。
「大丈夫だから、ね、何も心配しないで、きっと私が力になってあげますから……ね、ねっ……」
 と言いながら近付いた越川が亜希子の腕をつかんだ瞬間、亜希子は越川の身体に両腕を回す。
 抱き付いた亜希子はそのまま足を前へ踏み出して、渾身の力を込めて後ろへ引っ張る。
「わっ、バカ、何するんだ!」
 一歩……もう一歩。
「お、おい、やめろ、バカやめろ、やめろっ、おいっ……」
 ……まだか……もう一歩、あと一歩……そこに地面は無かった。後ろへ反り返る様にして、越川を抱きしめたまま倒れて行く。
「うわああああああー!」
 越川の絶叫と同時にズザッと音がして、ガガッと岩か木に身体をぶつけて跳ね上がり、ビュウゥーーと凄い風が吹き上げて来る。違う、私が落ちてるんだ。越川も落ちたろうか、落ちた……きっと落ちた……。
 ザッバーン! 衝撃と共に何もかも消えて無くなる。


エピローグ


 抜ける様な青空の下。色とりどりのチューリップやアネモネが爽やかな風に揺られている。遠く潮騒を聞く花々に囲まれて、会沢診療所は春を迎えている。あれから10年の歳月が過ぎた。
 かつてほんの短い期間だが、ここに勤務していた越川康弘医師が整備していた花畑は、今年も変わらず美しい花々を咲かせている。
 診療所には、今日も付近に住むお年寄りたちが集まっている。
 だが老人たちは診察を受けるでもなく、ガヤガヤと談笑を繰り広げている。
 そんな中で今年79歳になった会沢医師は、手持ち無沙汰を誤魔化す様に診療日誌を書いている。
「ただ今戻りました」
 元気な声に老人たちはおっと声を上げて、入り口に注目する。
 ドアを開けて入って来たのは27歳になった越川俊一だった。
「お帰りなさい若先生」「待ってたんですよ」老人たちは話すのをやめて俊一に声を掛ける。
「なんだお爺ちゃんたち、また集まっちゃってしょうがないなぁ」
「朝からこの有様なんだよ、何とかしてくれたまえよ越川君」
「困りましたねぇ」
 と言いながら俊一は、目の覚める様に晴れやかな笑顔を浮かべる。
「またそんなぁ。あたしら待ってたんだからぁ」
 老人たちの目は嬉しそうに輝いている。
「もう皆さん診察なら会沢先生に診て頂いた方が確かなんだからねっ」
「オラ嫌だこんな老いぼれに診て貰うなんて」
「そうだそうだ」
 言われ放題な言葉に温厚な会沢も思わず渋面を作る。
「オホンッ! アンタに老いぼれだなんて言われたくありませんねぇ」
「おっとこりゃ失礼、でもわし等は若先生が目当てで来てんだから」
「そうよぉ」
「それじゃ、アタシが一番だから診て貰おうかね」
 と農作業の途中で来た様な老婆が立ち上がり、嬉々として診察用の椅子に腰掛ける。
「お婆ちゃん昨日も来てどこも問題無いって言ったでしょ、そんなに毎日来なくたって元気が有り余ってるくせに」
「いやぁね、朝からちょっと立ちくらみがするもんでさ、血圧でも測って貰おうかと思ったもんだからねぇ」
「またそんなこと言ってえ」
 と言いながら老婆の腕に血圧計のベルトを巻き着ける。
「だって、若先生に診て貰わにゃあ一日だって安心して暮らせないんだもの」
「そうだそうだ」
 と他の老人達も言う。
「キヨ子婆ちゃんだってそんなにお元気なのに。きっとあと20年はピンピンしてると思いますよ」
「いゃあだわたし、若先生の顔毎日見ないと死んじゃうもの!」
 どっと笑いが起こる。去年から赴任して来た俊一の人気振りには、会沢も感心するのを通り越して半ば呆れてしまっている。仕方なくゴホンと咳払いをして、また日誌に目を落とす。
「しっかし会沢先生よぉ、本当に良かったよなぁ、もし若先生が来て下さらなかったらよぅ、この診療所も無くなってたとこだもんなぁ」
 村の人々は俊一が来てくれたことを心から喜び、俊一はお年寄りたちからアイドルの様な存在に祭り上げられているのだった。

 この診療所が無くなると芳辺谷村は無医村になってしまう。会沢は老体に鞭打って頑張って来たのだが、来年は80歳を迎える寄る年波には抗うことも出来ず、どうしたものかと思っていた。
 50歳になる会沢の息子も医者なのだが、同じ家に住んではいても長年他市にある総合病院に勤務しており、会沢の後を継いで診療所をやって行こうという気はまるで無かった。
 10年前に会沢は、都内の大学病院で医局長をしていた友人から、越川康弘という医師を紹介された。
 だが、会沢はその時越川が抱えていた特殊な事情を知り、初めは躊躇していたのだが、一度だけでも会ってやって欲しいという友人の頼みから、面談したのだった。
「私にもう一度医師を続けて行くチャンスを貰えるというのなら、私は生涯賭けて勤め上げ、ご恩返しをさせて頂こうと思います」と越川は涙を浮かべて言った。
 会沢は越川の身体中から溢れ出る誠実さを感じ、心を打たれた。また家族が悲劇に見舞われてしまった境遇にも同情して、勤務して貰うことを了承したのだった。
 だが、そうしてやっと診療所を続けて行ける後継者が見つかったと思い、越川への信頼も出来つつあった矢先に、越川は診療所の先にある断崖で、飛び降り自殺を図った女性を救おうとして巻き込まれ、転落死してしまったのだった。
 それから10年が経ち、さすがに体力の限界を感じていたところへ、昨年また思いがけず、越川の息子で医大を卒業したばかりの俊一が、父の意志を継がせて下さいと言って、研修医として勤務を希望して来てくれたのだった。

 10年前の10月13日。芳辺谷村付近の断崖の下の岩場で、越川康弘と倉田亜希子の遺体は発見された。
 警察は亜希子が所持していたキャッシュカードから身元を確認し、家族に連絡を取ったところ、亜希子は末期癌に侵されており、余命幾ばくもない身体であったことが分かった。
 また亜希子の着ていたコートのポケットからは遺書が発見された。
 警察は亜希子が病を苦にして自殺したのだろうという判断を下した。一緒に転落したと思われる越川医師については、自殺しようとしていた亜希子をたまたま見つけ、止めようとして揉み合っているうちに一緒に転落したのではないかと思われた。
 生前の越川を知る人たちは「普段から思い遣りのある素晴らしい先生だった」「如何にも優しいあの先生らしい」と、自分の命を犠牲にして亜希子を助けようとした越川の勇気に賛辞の声をあげた。
「若先生のお父さんも立派な人だったけど、さすが息子さんも素晴らしいねぇ」
 この村での俊一の人気は、そんな立派な父親の息子だということでも裏付けされているのだった。
 芳辺谷村の住人の中で、俊一が母親を刺殺して少年院に入院していたということを知っているのは会沢だけだった。
 その会沢も越川康弘は立派な医師だったと思っており、度重なる越川の悲劇に胸を痛めた。会沢が俊一のことを思う気持ちには、そんな思いも結び付いているのであった。

 亜希子の身に付けていたコートから見つかった遺書には、次の様に書かれていた。
『お父さんお母さんごめんなさい。でも私は病気を苦にして死を選んだ訳ではありません。本当です。お父さんとお母さんに育てて貰って本当に感謝しています。私の方が先に人生を終えることになってしまって申し訳ないと思うけど、信じて下さい。私は精一杯生きました。私が何故こういう道を選んだのか、いつかお父さんたちにも分かる日が来るかもしれません。私としては前向きにこの道を選んで行動したのだと思っています。今は分からないかもしれないけど、どうかお願いです。貴方たちの娘の言うことを信じて下さい』

 警察は、自殺する直前に診療所を訪れていた亜希子が、その一月ほど前にも訪ねて来たことがあるという会沢の証言から、亜希子が診療所付近の断崖から投身自殺を図ったのは、以前に来て知っていたので、その場所を選んだのではないかと判断した。
 また転落した二人とは少し離れた場所で発見された一冊のノートは、亜希子が所持していた物と思われた。
 両親によれば、それは亜希子が学生時代に使っていたノートであり、自宅の二階にある亜希子の部屋の押入れにあった物を持ち出したのだろうということだった。
 ノートには学生の頃授業で黒板を書き写したと思われるメモ的な内容だけが書かれており、自殺するに当たって何故そのノートを持ち出す必要があったのかは不明だった。

 俊一は集まっていた老人たちの診察を終え、ようやくお引取りを願った。老人たちが帰ってしまうと、診療所の中は灯が消えた様に静かになる。
「ただいまぁ!」
 俊一が夕方の回診へ向かおうとしていた時、勢いよくドアを開けてセーラー服を着た可愛らしい少女が駆け込んで来る。
「沙緒里ちゃん。帰って来るのはこっちじゃなくて母屋の方でしょ?」
 高校が終わると必ずと言っていい程沙緒里は母屋ではなく、診療所の方へ顔を出す。
「表に若先生のチャリがあったから、何かお手伝いすることないかと思って」
 弾ける様な笑顔を向けられて、俊一は眩しそうに顔を背けてしまう。
「沙緒里ちゃん。いつもまっすぐ帰って来ないで、部活とか、お友達と遊びに行ったりしないのかい?」
「へへっ、だって友達といてもつまんないんだもーん」
 と恥じらいを誤魔化す様に言う。
「ふふ……俊一君が来るまでは診療所を手伝おうなんてひとことも言ったことなかったのにな」
 と会沢も苦笑を漏らす。
「煩いよーお祖父ちゃんはもう~そんなこと言うともう手伝ってあげないからねっ」
「それじゃ沙緒里ちゃん。神山村の西本さんの風邪薬を届けに行くの、頼んでもいいかな」
「はーい」
 沙緒里はまるで宝物の様に俊一から薬の袋を受け取ると、タッタッと風の様に駆けて行く。
 俊一はふと、沙緒里を見送る会沢の横顔を見た。それは孫娘を心配している祖父の顔だった。
「……まだ高校生ですから、きっといろんなことに興味があるんでしょうね。そのうち大学へでも通う様になれば、診療所とか僕のことなんて吹っ飛んでしまうと思いますよ」
 俊一の目線に気付いた会沢は、ハッとした表情を浮かべる。
「いや、越川君。違うんだよ、そうではなくてね……」
 と慌てて取り繕う様に言う。
「大丈夫です。ちゃんと分かっていますから、何も心配しないで下さい」
「いや、本当にそうじゃないんだよ、私は……」
「では、吉山さんの回診の時間に遅れますので」
 と遮る様に言うと、回診用の鞄を持って部屋を出て行く。

 外で俊一の自転車が走って行く音を聞きながら、フゥーと溜め息をついた会沢は、ふと診察室の壁に飾られた一枚の水彩画を眺める。
『永遠』と題されたその絵には、東京湾をバックに海辺でキスしている男女のシルエットが描かれている。
 それは俊一がアパートで描いていたのを沙緒里が見つけ、俊一が嫌がるのを無理に持ち出して額に入れ、飾ったものだった。

 越川康弘の死を俊一が知ったのは10年前、家庭裁判所による審判を前に鑑別所に入っている時だった。
 担当の係官から父の死と、その時父が助けようとして共に落下した女の名前を聞かされた時、俊一の胸にはどの様な思いが去来しただろうか。
 凄まじい叫び声を上げたかと思うと放心状態になり、押し黙ったままどんな問い掛けにも応じることは無かった。
 精神に異常を来たしたのではないかと思われたが、数日後容態が落ち着いた俊一は、それまで語っていた母親殺害に至る供述を翻して、実は鬼の様に厳しく教育に当たっていたのは母ではなく、父親の康弘の方であったということを告白した。
 真実を語り始めた俊一は、まるで心理学者が客観的な精神分析に当たっているかの様に、冷静かつ明晰であり、実に淡々とした口調であったという。
 自分が母親を刺したのは、恐ろしい父親には逆らうことが出来なかった為に、優しかった母への八つ当たりであったと語った。
 母は決して鬼の様な人ではなく、いつも自分のことを思ってくれる優しい母だったとも語った。
 係官たちはその時始めて、殺された母親は厳しく教育に当たっていたのではなく、実は俊一と共に夫の康弘から日常的に暴力を振るわれていたのだということを知ったのだった。
 それ等の事を俊一が係官たちに語った日の夜。就寝後の灯りの消えた鑑別所に、単独室からすすり泣く俊一の声がいつまでも響いていたという。

 だが、俊一は母を刺して自宅を出てから、4ヵ月後に中央区の交番に保護されるまでの経緯については、ホームレスに助けられながら転々とし、やがて悪い連中に捕まったところを逃げて来たという、当初の証言を変えなかった。

 家庭裁判所は俊一が自ら真相を語り、深く反省している態度を考慮した結果、検察庁へは送致せず、中等少年院への入院という裁決を下した。
 少年院に入ると俊一は、愛知県で病院を経営している祖父母に宛てて手紙を書き、事件の前まで俊一の家庭内で起こっていたことや、事件の起きた経緯について正直に全てを告白した。そして犯してしまった罪に対する後悔と、祖父母に対する謝罪の気持ちを書いた。
 それまで俊一のことを孫ではなく、娘を殺した犯人と言う認識でしか見ることの出来なかった祖父母たちは、重ねて送られて来る俊一の手紙によって、娘の死の真相を知ることになった。
 また訪ねて来た家庭裁判所の係官から、俊一が心から自分の犯した罪を反省し、更生に努めているという報告を受けるに及んで、祖父母は少年院に出向いて俊一と面会することを決めた。
 そして面会した時「これから一生掛けて償いをしたいと思います」と言って俊一が深々と頭を下げるのを見るに及んで、祖父母は保護者として俊一の退院後の引受人になることを了承した。

 1年の入院期間を経て俊一は仮退院し、祖父母は俊一を愛知県日進市の自宅に連れて帰った。
 一緒に近くにある詩織の墓を訪れた時、俊一は墓石に縋り付き、大声を上げて泣き崩れた。
 放っておけばいつまでもそうしていたであろう俊一の姿に、詩織の父と母は初めて、心が救われるのを感じた。

 日進市で暮らすことになった俊一は、祖父たちが大丈夫かと心配になるくらいひた向きに勉強し、高卒認定試験(高等学校卒業程度認定試験)に合格した。
 そして国立の医大へ入り、6年間の課程を経て、医師国家試験にも合格した。
 だが俊一には祖父の経営する病院を継ぎたいという意志はなく、卒業するとすぐに上京し、房総半島へと会沢診療所を訪ねて行ったのだった。

 芳辺谷村の畦道を息を切らせながら沙緒里が走って行く。俊一に言付かった風邪薬を胸に抱きながら。
 沙緒里は知っている。若先生は他の人には見せない様にしているけど、老人たちから「ありがとう」と言葉を掛けられる度にふと、顔に暗い影が過ぎることを。
 それはとても辛そうで、まるで深い悲しみの中にいる様な、苦しさを感じる表情だった。
 それが何なのかは分からない。けれどいつもの晴れやかな表情とはあまりにもギャップがあって、若先生のそんな表情を見る度に、沙緒里も何か居た堪れない気持ちに襲われてしまうのだった。

 沙緒里は隣村で待っていた患者さんに薬を届けた後、診療所へ戻る途中、森の近くを通り掛ってふと立ち止まった。
 微かだけれど、森の中から人の咽ぶ声が聞こえて来る……。
 風の音に混じって響いて来るその小さな声を聞き分けることが出来るのは、この村の中で沙緒里だけだった。
 沙緒里は歩いていた道を外れると、そっと足音を忍ばせて森の中へと入って行く。
 やっぱり……木陰に身を隠しながらそっと見ると、海に向かって腰を下ろし、肩を震わせて泣いている俊一の姿がある。
 沙緒里は知っている。若先生は時折りここへ来て、人知れず声を殺して涙を流している。

 それは去年の10月のことだった。10年前に若先生のお父さんが転落死した命日に、自殺を図って一緒に転落した女の人の御両親が来て、ここで若先生と一緒に海へ向かって花束を投げているのを見た。
 三人は始めのうち悲痛な顔をしていたけれど、花束を投げた後、並んで海に向かって手を合わせると、最後には笑顔になって談笑していた。それはとても不思議な光景だった。

 亜希子の両親は、俊一が少年院を退院し、祖父母に引き取られて暮らしている時に、愛知県の日進市を訪ねて来た。
 それは娘の道連れにして父親を死なせてしまったことを、俊一に詫びる為だった。
 二人は俊一の前に並んで両手を着き、言葉を尽くして謝罪の気持を述べた。だがその時、俊一の身体がガクガクと震え出し、遂には泣き崩れてしまうのを見て、二人は唖然としてしまった。
 それまで俊一は、亜希子との関わりについては誰にも語らなかった。それはずっと以前から暗黙のうちに出来ていた、亜希子との大切な約束の様に思っていた。
 だが、亜希子の両親と相対し、謝罪を述べる二人の心痛な顔を見ているうちに耐えられなくなり、両親にだけは亜希子とのことを語ってしまった。そして両親はその時初めて、娘の遺書に書いてあったことの意味を理解したのだった。

 沙緒里が見ていることにも気付かずに、若先生はここからでも分かるくらいに激しく肩を震わせて、時々涙を拭っている。
 沙緒里は始め、若先生がここで泣いているのは、10年前にここでお父さんが死んでしまったからだろうと思っていた。
 けれど最近では、若先生が泣いているのは、そんな悲しみだけではなく、何か他に、もっと強烈な苦しみがあって、それに耐えているのではないだろうかと思っている。
 それが何なのかは分からない、でも沙緒里は思っている。いつかきっと私に胸の内を話して欲しい。先生はいつも私を子供扱いにするけれど、私だってもう身体は大人の女の人と変わらないんだから。胸だって、自分で触ってみても不思議なくらいに、こんなに大きいんだから。
 いつか若先生に、私の胸に顔を埋めて泣いて欲しい。そうしたらきっと私は、先生のことを身体中で包んであげて、どんなことでも受け止めて、先生の力になってあげる……。

 俊一は生涯自分が許されることは無いと思っている。あんなに優しかったお母さんを殺してしまった自分……。
 絶対に取り返しのつかないことをしてしまった自分には、これから死ぬまで、一瞬たりとも救われることは無いと思っている。こうして自分が生きていることを思う度に、もっと苦しまなければ、もっと償わなければという気持ちだけが起きてくる。
 自分のことをどんなに責めても、苦しめても苦しめ足りない。生涯足りるということは無い。そう自分に言い聞かせている。
 なのに、まるでそんな気持ちに抗うかの様に、胸の奥から湧き出てしまうこの勇気は何だというのか……。
 そんなことは無い、僕は生涯生きることに喜びを感じることなんてあってはならない! なのにその気持ちを押し退ける様にして次から次へと胸の奥から湧いて来てしまう勇気を、自分で止めることが出来ない。
 それが身体に納まりきれない激情になって、涙が溢れ出てしまうのだ。
「アキコ……ねえアキコ! 僕は許されて良いの? 良い訳ないよね? そうだよねアキコ、ねぇ、アキコ、ねぇ何か答えてよ……」
 止め処もなく湧き出て来る勇気と呼応するかの様に、青い青い東京湾の彼方から、いつ果てるともなくさざ波が、俊一の元へ寄せて来ている。


                                           おわり

「そこにいた女」

 最後まで読んで下さって本当にありがとうございました。
 実は某コンクールに応募したのですが落選し、こういう形でしか発表することが出来ませんでした。
落選したということは、それだけのレベルに達していないということだと思うけれど、書くのに足掛け3年も掛かった原稿を読んで貰うことが出来た方は現時点で8人しかいません。作品に掛けた自分の思いはまったく報われず怨念となって漂っています。 
 自費出版ということも考えたのですが、大変な費用が掛かるし、書店に並んだとしても無名作家の自費出版作品なんて読む人がそれ程いるとも思えません。
 パソコン画面で小説を読むということにどれだけ需要があるのか分からないけれど、近頃例のiPad(アイパッド)が発売されると同時に電子書籍は注目され始め、殆ど費用も掛けずに多くの方に読んで貰える可能性はある訳だから、やってみようと思った訳です。

 本作はずっと以前から「文庫本一冊分くらいの小説を書いてみたい」と思っていた夢がやっと実現出来た作品でした。
 最初の発想は「完全なる飼育」という映画みたいな、中年男が若い女の子を監禁して自分の性の欲望の捌け口にする話の、男女を逆にした様なのを書いてみたいというものでした。
 なので多分に官能的な内容になると思っていたのだけれど、現実に起こりそうなリアリティが無ければ詰まらないので、若い男が年上の女に監禁されるに及ぶ必然的な設定を探していたところ、英会話NOVAのイギリス人女教師が殺された事件で、荷物も持たず裸足のまま逃亡した市橋達也容疑者が2年間も捕まらないでいるのを見て、これはきっと誰かが匿っているに違いないと思いました。
 後に市橋容疑者は逮捕され、建築現場等で働きながら整形手術を繰り返していたことが判明しましたが、逃亡してから最初の11ヶ月間は何処にいたのかは未だ明らかにされていません。

また俊一の起こした母殺しの事件は、お気付きの方もいるかと思いますが、2006年に奈良で起きた16歳の少年が自宅に放火して継母と弟妹を死なせてしまった事件が大きなモチーフになっています。
 奈良事件を起こした少年の父親は、自分がそこまで息子を追い詰めてしまったことが原因であると深く反省し、息子さんと一緒に立ち直って行く為に誠心誠意努力をなさっていると聞きます。
 その件について本作がご迷惑を掛けてしまう程の影響力は無いとは思うけれど、本作に登場する康弘は全くの創造上の人物であり、奈良事件のお父さんとは一切関係ないことを明記しておきます。


   参考文献


「OL10年やりました」(唯川恵)
「負け犬の遠吠え」(酒井順子)
「大独身」(清水ちなみ)

「危ない少年ーいま、家族にできること」(町沢静夫)
「やっとお前がわかったー子どもたちへ」(朝日新聞社会部)
「仮面をかぶった子供たち」(影山任佐)
「男の勘ちがい」(斎藤学)
「家族が壊れてゆくーDV・最も身近な犯罪」(梶山寿子)
「僕はパパを殺すことに決めた」(草薙厚子)
「17歳のバタフライナイフ」(宮崎学・別役実)

「研修医 純情物語」(川渕圭一)
「知らなかった大病院」(病院研究会編)
「大学病院倒産」(米山公啓)
「〈イラスト図解〉病院のしくみ」(木村憲洋・川越満)
「先生、なまらコワイべさァ 田舎医者への峠道」(小川克也)
「日本でいちばん幸せな医療」(泰川恵吾)
「病める地域医療ー大分からの報告」(毎日新聞大分支局)
「まちの病院がなくなる!?ー地域医療の崩壊と再生ー」(伊関友伸)


その他、インターネットで現実に癌との闘病生活を戦っていらっしゃる方々のブログを読ませて頂き、後半亜希子が癌を再発してからの手術や入院生活の描写の参考にさせて頂きました。お名前も分からない方々ですが、この場を借りてお礼を申し上げます。

 そして全編に渡って医療上の描写の間違いを正し、適切なアドバイスを施してくれた中嶋賢尚医師と薬剤師の和多田明子さん。また独身女性の生活環境や仕事について取材に応じてくれた知人の女性たち。また未完成だった第一稿の読者となって励ましてくれた同級生の松井文恵さんにも心から感謝しています。

                            平成22年7月4日
                                                                                                 竹村直久

「そこにいた女」

「劇団東京たっちゃぶるS」を主催していた竹村直久です。長年の夢だった長編小説の第一作がやっと完成しました! 映画の様に主人公と一緒になって事件に巻き込まれ、冒険できる様な小説を書きたかった。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2014-08-19

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  1. 1
  2. 2