幽玄館殺人事件 第1章 鬼島への招待

駄文ですが読んでいただければ幸いです。初めての方は「登場人物一覧・プロローグ」を先にご覧ください。

第一章 鬼島への招待

2000年7月27日(月) K大学旧部室棟

午前のゼミを終え、俺、遊馬夕貴はいつものように旧部室棟にあるミステリ研究会の部室で午後のひと時を満喫していた。
最近、部費で購入したばかりのコーヒーメーカで淹れた熱い珈琲を飲み、読みかけの文庫本を開きながら年季の入ったソファに腰かける。これでこの部屋が禁煙でなければ文句は無いのだが、まあ、しかたがない。
このK大学は、S県某市にほぼ全学部が一緒に入る広大なキャンパスを持つ俗にいう名門私立大学である。その歴史は古く、比較的古い建物が多い理系区画はそれなりに重厚な雰囲気を放っていた。その理系区画のさらに奥、ほぼグラウンドとキャンパス街の境界線上に位置するこの旧部室棟は特に年代物で、古い建物が放つ独特な臭いとゆっくりと流れるような時間が非常に心地よい。しかし、その老朽化は著しく、耐震上の問題で取り壊されるかもしれないと以前から噂が立つほどであった(ただ、その噂は俺が入学した当初から有って、未だに着工される兆しが無いところから思うに、ただの噂か、本格的に大学側から忘れ去られた施設かだと俺は思っている。ちなみに夜、各大学施設を巡回する警備員達はこの旧部室棟を見て見ぬふりをする)。
俺は常々、このような何でもない穏やかな時間が、長い人生において何よりも大切なものだと思っている。人前でこんな事を言うと爺くさい奴だと馬鹿にされるのであまり言わないが、心の底からそう考えていた。だが、この穏やかで平和な時間は今まさに崩されようとしていた。しかも、その切欠を作るのが、まさに自分なのだからやりきれない。  
俺は今から、この大学一面倒な奴に、知り合いから頼まれたある「頼みごと」を話さなければならなかったのだ。ため息が漏れそうになるのを堪え、俺は文庫本越しにその相手の様子を伺った。
面倒な奴、もとい、我がミステリ研究会会長の御巫由梨絵は窓際にある立派な会長用机に陣取り、俺の存在などにはまるで気が付いてない様子で、いつもの様に分厚い海外の推理小説傑作選を読みふけていた。
俺と由梨絵は同郷の幼馴染で、小学校の頃からの腐れ縁である。由梨絵の家は地元では有名な旧家で彼女の父は国会議員を務めている。また、親戚筋もみな様々な商売を成功させていて御巫家はかなりの資産家だ。由梨絵はそんな家で昔から跡取り娘として育てられてきた生粋のお嬢様であった。
月曜の午後に暇な部員と言えば俺と由梨絵だけなので、この状態(部室で集中した由梨絵と二人きり)には慣れてはいたが、いくらミステリに集中しているとしても、長年つるんできた幼馴染に対してあまりにも冷たい態度だと思う(しかし、彼女は誰に対してもこんな感じなので、長く付き合っていくにはある程度の我慢が必要なのだが)。
俺はしばらくの間、本を読むふりをしながら、時より由梨絵の様子を伺い、「頼みごと」をどのように彼女に伝えるか大いに頭を悩ませた。
そんな感じでしばらくの間、途方に暮れていると、部室に備え付けられた古時計が重厚な低音で午後二時を告げる鐘の音を鳴らした。すると、由梨絵は本を机の上に置き、長い髪を揺らしつつ、座りながらその場で背伸びをした。首を左右に傾け、ポキポキと軽い音を鳴らしながら大きな欠伸を浮かべた由梨絵はまるで、寝起きの子供の様だ。
由梨絵は目をこすりながら真っ直ぐと俺の方を見つめ、その姿を確認するとさも当然の様に言い放った。
「パンとプリンを買ってきて、何時ものやつ。お金は後で渡すから」
クーラーの効いている部室と違い、外は茹だる様な暑さだった。俺に限らず、誰もが外になど出たくは無いだろう。それも、他人の飯を買うためだけにのこのこと出ていくなどはまったくもって論外だ。
「いやだね。誰がこんな暑い中、外になんで出るものか」
俺は文庫本をテーブルの上に置き、わざとらしくワイシャツの襟をバタつかせると、ソファに深々と腰を沈めた。その様子を見て由梨絵はあきれた声色で言った。
「だから頼んでいるの。こんな炎天下の日に私を外に放り出すつもり?」
相変わらずのお嬢様発言だ。俺は思っている事をそのままに皮肉を返した。
「これはすみませんでした。由梨絵お嬢様。でも、世間一般的には自分の食事くらいは自分で用意するのが常識ですよ」
言うまでもなくお嬢様とわざとらしく強調してやった。すると、由梨絵は頬を少しだけ膨らませながら言った。
「そんな常識くらいは心得ている。でも、いつもは夕が買って来てくれるじゃない。どうして今日に限って嫌なの?」
俺の皮肉は軽く受け流され、買い出しを断ったことに対する明確な理由を求められた。
確かに、恥ずかしい話ではあるが、普段ならば俺は文句を言いつつ買い出しに向かっていただろう。なぜなら、俺も昼飯はこの時間までとらないので、ついでに自分の分を買いに行くからだ。しかし、今日はすでに昼飯を済ましていたので、完全に由梨絵のパシリ状態になってしまう。そんな状況は嫌だった。
「だから言っただろ、暑いからだよ。今日は特にね。何でこんな日に由梨絵の為だけに買い出しになんて行かなきゃいけないんだ」
ちなみに、食事をすでに済ました事は彼女には話したくなかった。「頼みごと」に起因する内容で、あまり由梨絵からは探られたくなかったからだ。しかし、俺は発言してからすぐにミスがあったことに気が付きひどく後悔した。
由梨絵は今時の日本人にしては珍しい、黒々としたお姫様カットの長髪を肩の辺りで弄りながら俺の話に耳を傾けていたが(肩口で髪を弄るのは彼女が考え事をする時の癖だ)、しばらくの沈黙の後、面白い玩具を見つけた子供のような微笑を浮かべた。
「別に私の分だけじゃなくて、いつもみたいに貴方の分も買ってくればいいんじゃない。それとも、もうどこかで済ましてからここに来たの?」
由梨絵は暑い云々というどうでもよい事柄にはいっさい言及せず、的確に核心に迫る質問を返してくる。
「……ああ。たまには気分を変えようと思ってね、ゼミの後、学食で食べて来たんだ」
「そう……。私と同じで人ごみが極端に嫌いな貴方が、気分転換のためにお昼時には人だかりで前が見えなくなると評判の学食に行ったの。なるほど、それでお腹が膨れていて、わざわざ私の為だけに買い出しになんか行きたく無いわけね」
「そ、そうなんだ。やはり気分転換にはさほど成らなかったけど、腹は十分に膨れたんだ。そんなわけで、悪いけど買い物は自分で済ましてきてくれ……」
俺は滲み出てくる脂汗を軽く腕で拭うと、自分でも分かるくらいに狼狽しながら、文庫本を手に取り、読みふける演技をした。
正直、ここまで追及されては、由梨絵に嘘をつくことなどほとんど無意味だ。彼女は一端興味を抱いた事には、その不屈の好奇心を惜しみなく注いでくる。俺が嘘をつこうものなら、その裏を必ず取りにいき、真実を突き付けて屈服させてくるのだ。つまり、俺に残された唯一の防衛手段はなるべく自然な受け答えをして、由梨絵に核心的な質問をさせずこの場をやり過ごすことしかない。ああ、こんな事ならば素直に買い出しへ向かうべきだったと俺は心底後悔した。
「……学食には一人で行ったの?」
俺は文庫本を再び机の上に置き、天を仰いだ。天井に浮かぶ幾何学模様の中心点をしばらくの間見つめた後、ゆっくりと目線を下げ、無邪気な笑顔を浮かべる由梨絵の顔を見た。
(悪魔だ)
美しいものがみな無害で、ただひたすらに純粋であるとはかぎらない。むしろ、俺の経験則からするに美しいものは人でも物でも、その美しさと共に何らかの有害性を併せ持っている。事実、目の前で女神のような美しさを放っている彼女は、知識欲という名の悪魔に自らの魂を売り払ってしまっているようだ。数秒の間、俺は由梨絵と無言のまま向かい合い、そんな事を考えていた。そうしてようやく覚悟を決めた。
「いや……。同じゼミの西岡歩美という子と一緒だった」
「西岡歩美……。聞いたことの無い名前だな。何でその西岡さんと学食に行ったの? 私が聞いた事無いのだから、普段、夕とはあまり交流が無いのでしょその西岡さんは」
なぜか、由梨絵の口調は西岡歩美の名前を出した途端に強くなった。相変わらずその顔には笑顔が浮かんでいるのだが、先ほどまでの自然なものとは違い、人工的に張り付けたようなものに変わってしまっている。
「ゼミの後、頼みたいことがあるから、話を聞いてほしいと西岡さんに言われたんだ。それでちょうどお昼時だったから、食事をしながら聞く流れになって学食に行ったわけ」
「そう、それでどんな頼みごとだったの」
由梨絵は少しつっけんどんに早口で喋った。
「それが……西岡さんは君に頼みごとがあるのだけれども、面識のない自分がいきなり頼むにはちょっと込み入った内容だから、俺の口から代わりに概要を伝えて欲しいて言われたんだよ。まあ、要するに君への伝言を頼まれたわけだ」
「……私に頼みごと?」
由梨絵はきょとんとした顔をしながら聞き返した。俺は頷きながら続ける。
「西岡さんは映画研究会に所属しているのだけど、その映画研で秋の文化祭用にドキュメンタリ映画を作成する事になったらしいんだ」
「ドキュメンタリ映画……」
「そう、でね、今から七年前、千葉県の沖合にある孤島、鬼島で起こった未解決の殺人事件を題材にすることになったらしい。……鬼島で起きた事件についてはその道では有名な事件だから君は詳しいだろ?」
「……ええ、鬼島の幽玄館という洋館で起きた密室大量殺人事件よね。面白そうな事件だったから私も色々と調べた事があるわ。でも、あの事件は詳細な情報がまったく公表されていないから、あまり詳しい事はわからなかった」
由梨絵は推理小説好きが高じてなのか、現実にあった有名な事件を粗方調べている。特に、未解決事件に関する自分なりの考察を考えるのが好きならしく、俺は中学生くらいの頃からその手の話をよく聞かされていた。平均的な女学生の趣味としては明らかに異質なので、今も昔もそして、おそらくこの先も彼女の話を抵抗なく真面目に聞けるのは、馴れている自分くらいしかいないのではないだろうか。そういえば、鬼島事件についても一度、由梨絵から話を聞かされた気がする。
「でね、西岡さんは君をその映画に出演させたいらしいんだ。その道の専門家として鬼島での取材に同行し、事件の真相を推理してもらいたいんだってさ」
由梨絵は水晶玉の様に澄んだ大きな瞳を見開き、しばらくの間フリーズした。さすがの彼女にもこの展開は予想できなかった様だ。俺は由梨絵が再起動するのを待っている間に、カップに残っていた冷めて生ぬるい液体を一気に流し込んだ。
「あまりにも意外な展開に固まってしまった」
「まあ、無理もないね。でも、こんなことを頼まれるのは初めてじゃないだろ? 君は我が大学きっての名探偵なのだから」
もう、二年近く前のことになるが、由梨絵(と俺)は学内で起きたある殺人事件を解決した。大学という狭い世界でこの噂は瞬く間に広がり、いつしか御巫由梨絵に頼めばどんな事でも解決してくれるという根も葉もない情報に昇格してしまった。おかげで事件解決後、しばらくの間は大小様々な事件の依頼が由梨絵のもとに殺到したのだった。しかし、そうした依頼を変わり者の由梨絵が素直に受けるはずもなく、自身が興味を持った物だけに取り組んできた結果、今では彼女の趣味に合わない依頼は少なくなった(ただ、その分、今回のように由梨絵の興味に合う事柄かどうか、まず俺に相談する奴が増えた。俺は由梨絵の秘書か何かだと思われているらしい)。
「それでも映画の出演を頼まれたのは初めて。それにしても、鬼島に取材か……。もちろん、何らかの方法で事件の起きた幽玄館の中には入る予定なのよね」
「ああ、なんでも映画研メンバーの中に事件関係者の知り合いがいて、幽玄館への期限付きの宿泊が認められているらしい。そもそも、この事が今回のドキュメンタリー映画で鬼島事件を扱うきっかけになったみたいだ。当然、そんなつてがあるのだから新聞報道されていない情報もかなり手に入れているみたいだね」
「……素晴らしい。それだけ舞台が整っているのなら、私が現場に行けば事件は解決したようなものね。もっと詳しい話が聞きたいから、その西岡さんをすぐに呼んできて」
相変わらず、すごい自信家だ。七年間もの長い間、謎に包まれてきた事件をまるでクイズでも解くかのよう考えているようだ。将来、由梨絵が警察に入る事があれば日本の未解決事件はおそらく半年余りですべて解決されてしまうだろう。それくらいの自信を由梨絵から感じた。
まあ、何はともあれ由梨絵が興味を持ってくれて良かった。別に普段であれば由梨絵への依頼が断られてもどうということは無いのだが、今回ばかりは少し事情が違っている。由梨絵にうまく話を繋ぐことができれば、九月の中頃に行われるゼミ合宿の幹事を西岡さんに代わってもらえる事になっているのだ。普段から面倒な事が嫌いで、そうゆうものから逃げ続けてきた俺に、そんな大役は死んでも無理だ。もちろん自分から志願したりはしていない。しかし、今日のゼミで幹事役を教授に逆指名されてしまい(教授の席に近かったため)、俺は絶望の淵に立たされた。そんな中での西岡さんの依頼はまさに渡りに船だった。西岡さんは非常に社交的な性格で、幹事役に申し分ない。彼女は俺の交換条件をあっさり飲んでくれたのだった。
俺はソファから立ち上がると、先ほど由梨絵がした様に軽く背伸びをした。
「了解。西岡さん今日は午後からずっと部室に居るって言っていたからちょっと呼んでくるよ。携帯で呼んでもいいけど、向こうの新部室棟と違ってこっちの旧部室棟は少し複雑だからね、迷うと面倒だし」
映画研の部室がある新部室棟はこの旧部室棟から東に百メートルほど離れた場所にある。新部室棟と言っても旧部室棟よりも数十年後に建てられただけの建物で、特別新しい建物ではない。
「ちょっとまって」
入り口の扉に手をかけて出て行こうとした瞬間、いきなり呼び止められた。なんだろうと思って振り返ると、不自然なほどニコニコしながら由梨絵は言った。
「外に出るのだから、ついでにパンとプリンを買って来て。もちろん奢りよね」
「……了解」
一瞬、奢ることに関して反論しようと思ったが、彼女の笑顔はもしかしたらすべてを理解したものかも知れないと思うと、そんな気はまったく無くなってしまった。俺は馬鹿丁寧に扉を閉めると背中にゾッとした感覚を覚えながら足早に外へと向かっていった。

「はじめまして、経済学部三年の西岡歩美です」
西岡さんは茶色かかったショートカットの髪を揺らしながら、頭を下げた。まだ幼さの残る顔立ちだがきれいに整っていて、白い長めのスカートと薄い青色のカーディガンを合わせた格好から清楚なイメージを受ける。
「はじめまして、西岡さん。私は文学部三年の御巫由梨絵です。御岳の御に巫女の巫でミカナギと読みます。よろしく」
「よろしくお願いします。急なお話で面倒だとは思いますが、協力してもらえると助かります」
西岡さんはもう一度頭を下げた。
「本当に面倒なだけのお話なら、わざわざ聞きたいとも思いません。まだ遊馬から簡単に話を聞いただけですが、非常に興味深いお話でした。さっそく、詳しい事をお聞きしたいのでどうぞお掛けになって下さい」
由梨絵は外交用の上品なお嬢様口調で喋った。彼女は一部の知人以外にはこんな風にお嬢様口調になる。実際、この喋り方の方が彼女の雰囲気とも合っていて、他人受けは良いのだが、普段の彼女を知っていると少し変な感じだ。
由梨絵は入り口側から見て縦に二列、対面式で並べられたソファの内、左側のソファに腰かけながら西岡さんに着席を勧めた。西岡さんは由梨絵の正面に座ったが、由梨絵の雰囲気に呑まれてしまったのか、緊張していて落ち着きがない様子だ。
「西岡さん、珈琲を入れるけど味はどうする」
「ありがとう遊馬君。私はブラックでお願い」
「夕、私は何時もどおりでね」
「わかってるよ」
俺はすでに準備していたコーヒーメーカで三人分の珈琲を淹れると、それをテーブルまで運び配膳した。その間に自分の席をどこにするか少し考えたが、西岡さんから話を聞く側なのだから対面に座るのが自然だろうと思い、由梨絵の隣に腰かけた。
そうして三人でひとまず淹れたての珈琲を味わった。西岡さんがブラック派だったのは彼女のイメージにピッタリと合っていて、自分と同じ趣向を持っていた彼女に自然と親近感が湧いた。俺は珈琲に砂糖やミルクなどの不純物を加えるのは邪道だと思っている。ただ、その事を他人に強制することは決してしない。人は些細な事でもそれぞれの主義、主張を持っていて、その事を論破するにはとてつもなく労力がいるし、無意味だからだ。
「やっぱり、これくらいの甘さがちょうどいいわね」
だから、ミルクを並々と注ぎ、角砂糖を三つ分も溶かした液体を旨そうに飲む由梨絵を見ても何も思わないし、感じない。いや、哀れには感じている。おそらく彼女は一生、本物の珈琲を味わう事は無いのだから。
珈琲のおかげで多少緊張が解れたのか、西岡さんは少し落ち着き、ゆっくりと話し始めた。
「遊馬君からすでに聞いていると思いますが、私の所属する映画研究会で、秋の文化祭に向けて鬼島事件に関するドキュメンタリ映画を製作する事になりました。そこで、御巫さんには私たちが集めた情報と、鬼島での現地取材を踏まえて事件の骨格を推理してもらいたいのです」
「現場取材は良いとして、事件に関する情報はどの程度集められているのですか? 鬼島事件は警察による情報規制が厳しくて、開示されている以上の事は何もわからないはずですよね」
由梨絵は間髪入れずに聞き返した。
「はい、確かにそうです。事件の被害者であった竹岡家は貿易関係の仕事で莫大な富を築きあげ、日本屈指の優良企業を何社も抱える竹岡グループの創始者一家でした。当然、各方面に対して相当な権力を持っていたようで、この事件に関する情報には厳しい規制が今でも掛けられています。ですからあの日どんな経緯で事件が起きたのか、その詳細については知りようがありませんでした。私達が知っていた…… いや、知らされていたことは、竹岡家の人間が一晩のうちに当時まだ一三歳だった長男の竹岡時雄君を残して、何者かに殺害されてしまったという事と、その何れの犯行も不可解な状態で行われていて、七年経った今でも解決に至っていないという事実だけです」
「そうですね、私が以前調べた時もそのくらいの事しか分かりませんでした。もちろん、それだけの情報では考察は不可能です」
「確かに」
俺は由梨絵の意見に頷いた。
「ええ、私もはじめて監督から企画を聞かされたときは、正直無理だと思いました。分かっている事が少なすぎるし、それ以上に調べようがない。仮に何かしらの新事実が埋もれていたとしても、事件から七年近く経っている今、その事実を正確に掘り起こす事は困難ですから。でも、話を詳しく聞いてみると、監督がこの事件を取り上げたがる理由が分かりました。実は二年生の森田和弘という部員が、この事件に関する詳細な事実を誰よりも知っているある人物と知り合いで、その人物に取材することができそうだというのです」
「もしかして……」
どうやら由梨絵はすぐにその人物の検討が瞬時についたらしい。俺は腕を組みながらしばらく考えて、ようやく由梨絵の思考に追いついた。しかし、そんな偶然あり得るのだろうか、確かに七年前に起きた事件なのだから年齢的には俺たちと同じくらいだが……。
「もう分かったみたいですね。流石です。そう、その人物とは竹岡家唯一の生き残りである竹岡時雄君その人です」
「そう……。面白くなってきましたね」
由梨絵は満面の笑みを浮かべた。

「森田君は私と同じ経済学部の学生で、お父さんの森田隆文氏は事件の被害者あり当時竹岡グループを率いていた竹岡雄二氏が最も信頼を置いていた側近でした。隆文氏は事件の後、経営が傾いてしまった竹岡グループをまとめ上げ、現在もグループ親会社の社長として第一線で活躍されています」
由梨絵は珈琲を上品に飲みながら西岡さんの話に耳を傾けていた。カップに絡みつく彼女の白くて細い指、その一つひとつがリズムをとる様に優雅に動いている。
「……なるほど、その隆文氏に頼んで鬼島への上陸が叶ったのですね」
「はい。現在、鬼島を管理しているのは隆文氏ですから、息子である森田君が頼み込んで、何とか上陸の許可がもらえたそうです。もちろん、幾つか条件はありましたが」
「条件?」
俺は聞き返した。
「いえ、条件と言ってもたいした物ではありません。島での滞在は長くても一週間以内にすることとか、島に滞在できる人数は多くても十人以内とか、事務的な物ばかりでした。ただ、完成した映画を上映する前に必ず隆文氏に見せるという条件には不安がありますね。せっかく苦労して作った映画に検閲が入るわけですから。まあ、仕方ないですけど……」
西岡さんは少しだけ困ったような表情を浮かべ、ため息を漏らした。彼女は俺が思っていた以上に映画作りに情熱を傾けているようだ。
「映画が上映されれば、多少なりとも会社にとってマイナスのイメージになるかもしれません。そのくらいの条件は仕方ないですね。……それ以前に、私が隆文氏の立場なら絶対にそんな頼みは受けません。隆文氏はよほど息子さんを溺愛されているのですね」
由梨絵が言った。
「それもあるとは思いますが。……やはり、時雄君の意向が大きかったのだと思います」
竹岡時雄、鬼島事件で唯一生き残った竹岡家の跡取り。彼は当時一三歳だったはずだから、今は二十歳くらいのはずだ。将来的には竹岡グループを受け継ぐのだろうか、もしかするとすでに会社経営に関わっているのかもしれない。
「時雄君は今どうしているんだ。やはり、俺たちの様に大学に通っているのか」
西岡さんは首を横に振り、悲しそうな表情を浮かべながら言った。
「時雄君は事件で大きな精神的ショックを受けてしまい、七年経った今でもまだ、都内の精神科病棟に入院しているの。ただ、今はかなり落ち着いていて、森田君と私が取材に行った時にはきちんと受け答えしてくれたわ」
「なるほど、つまりはその時雄君が映画製作への協力を強く望んだのですね。隆文氏は実質的には竹岡グループを掌握しているけれど、名目上は時雄君が正式な後継者になっているのではないですか? だから、隆文氏も時雄君の意向を無視できなかった」
「ええ、その通りです。その事を見越してか森田君もお父さんに話す前に、時雄君に書面で協力を要請しました」
森田和弘、単に父親の扱いに慣れているだけかもしれないが、根回しの手際は見事だ。しかし、なぜそこまでして鬼島事件のドキュメンタリ映画製作に協力するのだろうか。部員だからと言えばそれまでだが、西岡さんの話を聞く限りでは、彼の個人的感情が働いているようにも思える。
「さっき監督が企画を持ってきたみたいな事を言っていたけど、そもそも、鬼島事件をテーマにすることを決めたのは誰なんだい」
由梨絵は俺の質問を聞くと、器用に片目を閉じながら満足そうな表情を浮かべた。これも彼女の癖の一つで、自分がしようとしていた質問を他人(主に俺が)が代わりにすると、こんな感じのリアクションをする。何でも、自分がわざわざ喋らずに済むのならそれに越した事は無いから嬉しいのだそうだ。しかし、本当に見ていて飽きない奴だと思う。
「最終的にテーマを決めたのは会長兼監督の水谷君ですが、構想を持ち込んだのは森田君みたいです。森田君は前々から鬼島事件について興味があったらしく、水谷君が企画を悩んでいる時に今回の話を持ちかけたそうです。ただ、私も噂で聞いた程度なので、実際のところは本人に聞いてみないと何ともいえませんが」
「なるほど。しかし、森田君はなぜ鬼島事件に興味を持ったのだろう。たしかに、自分の親が多少なりとも関わっている未解決事件なら興味を示しそうなものだけど、何ていうかそれ以上に……」
「さあ、私には分かりません」
西岡さんは俺の話を遮るようにピシャリと言った。しばらくの間、なんとも言えない沈黙が続く。静かになると外から微かに聞こえてくる蝉の鳴き声が、妙に耳に付き、今が夏だということを改めて認識させられた。彼らは短い成虫の期間に自分たちの生きた証を残すため、懸命に鳴き続けやがて力尽きのだ。俺には彼らの生き方が少しだけうらやましく思える。
「……ところで、時雄君にした取材でどのような事が分かったのですか?」
由梨絵が話題を変えた。森田がなぜ鬼島事件にそれほど興味を持っていたのか気にはなっただろうが、これ以上西岡さんに聞いても仕方無いと判断したのだろう。
「とても多くの事がわかりました。それらの情報をまとめて整理することで、今まで謎に包まれてきた鬼島事件の内容を知ることができたのです。ただ、その内容がすべて事実だとすると、やはり鬼島事件は不可思議なものでした」
「不可思議ですか……」
由梨絵の顔が僅かに歪む。意識して視ていないと分からないような僅かな変化だったが、俺にはそれがしっかりと見て取れた。
「はい、とても…… 話を聞いてもらえれば分かりますが、事件の内容から考えるに内部の人間に犯行は不可能ですし、だからと言って外部犯だと考えると腑に落ちない点がいくつかあります。なんでも、警察は外部犯に焦点を絞り、今も捜査を展開しているそうですが、私には何か大きな勘違いをしているような気がしてなりません。」
「外部にも内部にも犯人がいないか。それが本当なら、犯人はこの世の物では無いのかもな。幽霊か妖怪か……、もしかしたら宇宙人が犯人だったりしてな」
俺は少しおどけた調子で言った。
「そうね。本当に人間に不可能ならね」
由梨絵は涼しい顔でまた珈琲を一口含む。
「私たちも色々と検討はしてみたのですが、どうしても納得できる説が見当たらなくて……。それで御巫さんに事件の推理を依頼することになったわけです」
西岡さんは持っていた薄いピンク色のショルダーバックの中から一冊のノートと平面図を取り出した。ノートはA4サイズの物で表紙には「鬼島事件取材」と走り書きで書かれていた。かなり読みにくいが、森田和弘という名前も書いてある。
「これらは時雄君への取材内容を森田君が整理したものです。平面図は幽玄館と別館の見取り図で、ノートには七年前の事件について時雄君が語ったその詳細が記されています。それを今からお話しします」
そう言うと西岡さんは平面図の方を由梨絵に手渡し、一層真剣な面持ちになった。
七年もの間、ひた隠しにされてきた鬼島事件の内容が今まさに語られようとしていた。こういった類の事件にさほど興味の無い俺でさえ、今は緊張していて、形容し難い高揚感を感じているのだから、ミステリマニアである由梨絵の心中はいま如何なっているのだろうか。想像は難しい。
「最高の気分よ」
いきなり由梨絵は呟いた。
俺が驚いて彼女の方に向き直ると、由梨絵は片目でウインクを飛ばしてきた。確かに最高に機嫌が良いみたいだ。
「はじめに確認しておきますが、これからお話する内容は基本的に時雄君の証言にしたがっていますので、事実とは異なる点もあるかもしれません。注意してください」
俺たちはほぼ同時にうなずいて、無言でその先を促した。
「それではお話します……」
西岡さんはノートを開き、ゆっくりと語りだした。由梨絵はすでに自らの髪を弄り始めていた。

「鬼島は房総半島の最南端から五㎞ほど南下した位置にある、全周三㎞ほどの小さな島です。二〇世紀初頭までは漁民を中心とした人々が住んでいたらしいのですが、戦争など様々な理由から無人島となっていました。竹岡家がこの島に移り住んだのが一九七〇年頃で、貿易会社を起こし、竹岡家をわずか一代で大富豪にした竹岡紀一郎氏が島を丸ごと買い取り、島に幽玄館と呼ばれる豪邸を建てました。紀一郎はこの屋敷に移り住んでからはほとんど島の外には出ず、会社など外との連絡は電話や息子の竹岡雄二氏を介して行われていたようです」
「島から本土まではどのくらいの時間で行き来できるんだ」
俺は質問した。
「普通の船舶ならば三〇分以上かかるとそうですが、竹岡家は自家用の高速船を持っていたので片道十分位で行けたそうです」
西岡さんはノートなどで確認せずに即答した。どうやら、この辺についてはすでに調べてきたようだ。
「事件の起きた一九九三年の話に移ります。当時、鬼島には隠居した竹岡紀一郎、その息子で二代目の竹岡雄一、雄一の妻である竹岡和江、雄一の長男である竹岡時雄と使用人の高島宗平、その妻である高島由美、雄一の秘書の鈴木晴信の七名が住んでいました。また、事件が起きたとされる八月七日にはこれらの人々に加えて、夏休みで帰省していた雄一の長女竹岡加奈子と紀一郎の定期診察に訪れていた町医者である加藤幸彦の二名が島に居たので、島には計九名の人間が居たとされています」
「その人たちの詳しい情報は分かりますか?」
由梨絵が質問した。彼女の瞳は真っ直ぐに西岡さんに向けられている。
西岡さんは、はいと呟くと、ノートを数ページめくり目で文字を追いながら答えた。
「まず、竹岡紀一郎氏はこの当時七十歳と高齢で、あまり自室から出ずに一日中過ごしていたようです。家族や古くから仕えている高島夫妻以外と会うことも殆どありませんでしたが、例外的に主治医で紀一郎の数少ない友人であった加藤幸彦氏とは交流を持っていたようです。加藤幸彦は紀一郎と同様七十歳近い高齢ではありましたが、まだまだしっかりとしていて、自らの病院の経営を息子に任せ、自身は紀一郎のような友人の元に問診と称して遊びに行く生活を送っていました。
紀一郎の後を継いだ竹岡雄一氏は鬼島に住んではいましたが、平日は秘書の鈴木晴信と共に会社に泊まることが多く、帰島するのは休みの日だけという生活を送っていた様です。彼が留守の間は妻の竹岡和江氏が島の一切を取り仕切っていました。雄一氏は当時四十三歳でしたが、妻の和江さんはまだ三十三歳と若く、とても美人だったそうです。また、雄二氏の秘書である鈴木晴信は和江の弟で、和江の紹介で雄一の秘書となりました。ただ、コネだけで大企業の社長秘書となった訳では無く、それまでも多くの経験を積んでいて、若いながら非常に優秀な人物だったそうです。
雄二氏には子供が二人いました。それが長女の加奈子ちゃんと長男の時雄君です。当時、加奈子ちゃんは中学校二年生で都内の全寮制学校に、時雄君は中学校一年生で鬼島近くの地元中学校に毎日船で通学していました。ちなみに船の操縦は使用人の高島宗平氏が行っていたようです。彼と妻の由美さんは紀一郎が鬼島へ移り住んだ当初から働いて、紀一郎から強い信頼を受けていました。当時二人とも四十八歳と、けして若くはありませんでしたが、年齢を感じさせないほどに元気だったそうです」
「船を操縦できたのはその高島宗平氏だけなのですか」
由梨絵が聞いた。
「いいえ、鈴木晴信さんも操縦ができたそうです。雄一氏が島を行き来する際は晴信さんが雄一氏専用の小型船を操縦していました。ですから、島には二隻の高速船がありました」
船が二隻あった。この事実はもしかしたら重要かもしれない。俺はその事を記憶した。
「それと、高島夫妻は今でも鬼島に住んでいます。事件の後、隆文氏の意向で幽玄館は一端取り壊しの方向に向かったのですが、時雄君がそれに反対し、協議の結果残すことになったそうです。時雄君にとって幽玄館はつらい思い出のある場所ですが、同時に楽しかった思い出も残る場所なのでしょうね。そうして、幽玄館の管理は高島夫妻に委託されることになりました。高島夫妻も悲惨な事件があったとはいえ、住み慣れた幽玄館から離れたくは無かったらしく、この依頼を快諾しました」
西岡さんは淡々と話を進めた。彼女の視線は確かにノートの文字を追っているのだが、時折、何か別の物を見ているような遠い目をするのが気になった。
「それじゃあ、現地取材に行ったときに高島夫妻には話を聞けるわけか」
「そうですね。時雄君の話の裏を取ることもできると思います」
西岡さんは目線を上げ、俺を見ながらにっこりと笑った。なかなか魅力的な笑顔だ。このまま彼女を見つめていると何か変な気分になりそうだったので、俺は目を逸らし、由梨絵の横顔を見た。
「頼もしいですね……」
由梨絵は難しい顔をしながら西岡さんを見つめていた。左手にカップを持ち、右手で髪を弄っている。何か気になる事でもある様子だ。俺は西岡さんの方に再び向き直った。彼女は視線をノートに戻し話を続けていた。
「事件のあった一九九三年八月七日、土曜日。竹岡家の面々は何時もの様に午後七時に本館の一階にある食堂で夕食をとりました。幽玄館は竹岡家の住む本館と来賓用の別館に分かれています。本館は二階建ての邸宅で、一階には食堂やパーティーが開けるような大きな大広間があり、子供たちの部屋もこの一階にありました。二階には紀一郎や雄一、和江らの部屋があります。紀一郎氏はその日あまり体調が優れなかったということで、高島宗平氏と共に二階の自室で食事をしたようですが、それ以外の人はすべて食堂で食事をしたそうです。ちなみに夕飯をいつも用意していたのは高島夫妻で、この日も夫妻が用意しました。彼らは二人とも元有名ホテルのコックだったらしく、料理の腕前は一級品だったそうです。
食事を終えると、竹岡家の人々は思い思いの時間を過ごし、自室で就寝しました。初めに部屋に引き上げたのは時雄くんと加奈子ちゃんで、午後九時頃には一階の部屋に入ったそうです。その後、和江さん、雄二氏と二階の部屋に引き上げていき全員が自室に入ったのが午後十一時過ぎくらいでした」
「ちょっと待ってくれ、どうして時雄君はそんな事まで知っているんだい」
この記録は時雄君の証言をもとにまとめられているはずだ、それなのになぜ、時雄君は自身が部屋に戻った後の事も知っているのだろう。
「事件の後、高島夫妻が警察に証言した事を時雄君が覚えていたんです。高島夫妻は毎晩竹岡家の人々が自室に引き上げてから、屋敷全体の戸締りを確認し、幽玄館の離れにある別館にて就寝しています。この日も戸締りを確認してから十一時半頃に別館に引き上げました。その際、幽玄館の表玄関は宗平氏の持つ鍵でしっかりと施錠されました。この玄関の鍵は、宗平氏の持つ鍵の他にはありません。そもそも、離島の一軒屋ですから、鍵をかける必要性も普段あまり無かったそうで、日中、玄関はほとんど空きっぱなしだったそうですが」
そういうことか、俺は一応納得したが、当時、中学一年生であった時雄君が事件の後、混乱している状態でよくそんな事を記憶していた物だと、少し違和感を覚えた。
「高島夫妻が住み込んでいた別館はゲスト用の宿泊施設で、その日は夫妻の他に鈴木晴信と加藤幸彦の二名が泊まっていました。鈴木晴信は普段からこの別館に部屋を持っていましたが、先ほどお話したとおり、平日は雄二と共に会社に泊まる事が多く、帰って来るのは休日くらいでした。この二人は相当な酒豪で、この日、本館で食事を終えたのち、すぐに二人で別館に帰り飲みだしました。高島夫妻が別館に帰った時には二人共まだ一階のラウンジで飲んでいたらしく、妻の由美さんはすぐに二階の自室で床に就きましたが、宗平さんは二人に加わり、事件が発覚するまで飲み明かしていました。
宗平さん達が別館で飲み始めてから二時間半ほどたった深夜二時頃、本館一階の自室で寝ていた時雄君は誰かに見られているような視線を感じ目覚めました。彼の部屋に限らず本館のすべての個室は内側から鍵を掛けられるようになっていて、自身が持つ鍵以外では高島夫妻が管理しているマスターキーを使わない限り開けることは出来ません。時雄君は普段、自室に居る際には部屋の鍵を掛けるのを習慣にしていたので、当然、その日も鍵を掛けて寝ていました。ですから最初、時雄君は高島夫妻のどちらかが入ってきたのだろうと思ったそうです。しかし、部屋の中に居たのは高島夫妻ではありませんでした。時雄君がベッドから起き上がり、手元にあったスタンドライトを点けると、うっすらとした明かりに照らされた部屋の隅に、異様に大きな男のシルエットが浮かび上がったそうです。時雄君は驚き大声をあげました。すると、その大男はベッドの方に近づいてきて、手を大きく掲げて時雄君目掛けて何かを勢いよく振り落してきました。時雄君は反射的に体を捻り、それを躱しました。
はじめ、薄明りに照らされたそれが何なのか時雄君にはうまく理解ができなかったそうです。しかし、それが大きな包丁であると理解した時、時雄君は自分でも驚くくらいに素早い動きでベッドから這い出て、部屋から出ました。この時、部屋の鍵は掛かっていたそうです。鍵を開けて部屋を出る時、中にいた大男が何かを叫んでいたのが聞こえましたが、時雄君はそんな事は気にも留めず、ただ必死に玄関から外に出て、別館に駆け込みました」
「玄関の鍵も閉まっていたのですか」
由梨絵が聞いた。
「ええ、そうみたいです」
「つまり、犯人は屋敷や部屋に侵入し、わざわざ開けた鍵をまた掛けたってことか? 何でだ? 普通、何かあった時に逃げやすくする為、開けっぱなしにしておいた方が良いと思うけど」
「たしかに変な話ですね。どうしてでしょうか……」
西岡さんは眉間に皺を寄せて、考え込んでしまった。どうやら、今までこの事には気が付かなかった様だ。
「部屋のマスターキーや玄関の鍵は、やはり別館に居た高島夫妻のどちらかが持っていたのですか」
由梨絵が次の質問をした。何時もながら切り替えが速い。
「ええ、そうです。部屋のマスターキーと玄関の鍵は共に高島宗平氏が持っていました。時雄君が別館に駆け込んだ時、宗平氏をはじめとした3人はまだダイニングルームで飲んでいましたから、当然、鍵もそこにあったのだと思います」
「念のために。時雄君の部屋にスペアキーは存在していましたか」
「いいえ、詳しくは分かりませんが、時雄君が言うには無かったらしいです」
西岡さんは頭を横に振りながら答えた。
「……変な話になってきたな」
俺はコーヒーを一口飲んだ。苦い。
「そうね……」
由梨絵も珈琲を一口飲んだ。きっと、彼女のコーヒーは気持ち悪いほどに甘いのだろう。想像するだけで背筋に悪寒が奔った。
「時雄君の話を聞いた宗平氏はすぐに二階で寝ていた由美さんを起こし、五人で本館に向かいました。最初は由美さんと時雄君を別館に残し、晴信氏、幸彦氏と共に三人で本館に向かおうとしたらしいのですが、時雄君が姉や両親が心配だから自分も行きたいと強く望んだため、結局全員で向かうことになったそうです。
一同が本館の玄関に着いた時、玄関の鍵は閉まっていました。時雄君が逃げる際に内側から鍵を開けたはずですから、それが施錠されているということは、外から誰かが施錠したのでは無いと考えると、必然的に内側から掛けられた事になります。宗平氏は持っていたマスターキーで玄関を開け、いつ犯人に襲われても良いように身構えながら慎重に中に入りました。その後ろから、晴信氏、幸彦氏、時雄君、由美さんの順序で続き、宗平氏が玄関ホールの電気を点けるまで四人は固まっていたそうです。明かりが点くと一同は時雄君と加奈子ちゃんの部屋の方に向かいました。時雄君達の部屋は一階の右側の廊下を進んだ先にあり、時雄君の部屋の奥に加奈子ちゃんの部屋が並んであります。部屋の前に着くと時雄君は姉を心配してすぐに加奈子ちゃんの部屋を開けようとしましたが、鍵が掛かっていて開きません。宗平氏は数回ノックをして返事が無いことを確認するとマスターキーで鍵を開けました。
部屋の中は暗く、何も見えませんでした。先に宗平氏がひとり部屋の中に入り、感覚だけを頼りに、壁のスイッチを押し照明を点けました。すると、目の前のベッドの上にうつ伏せで横たわり、背中にナイフが刺さっている状態の加奈子ちゃんを見つけました。宗平氏はすぐに廊下で待機していた幸彦氏を呼びましが、すでに加奈子ちゃんの息は無く、幸彦氏には苦痛で見開かれていた加奈子ちゃんの目を閉じてあげる事しかできませんでした。しばらくの間、一同はその場に立ちつくし、呆然としていましたが、時雄君は姉の死を悲しみながらも両親の事を心配し、ひとり二階へと走り出したそうです。しばらく間をおいて、宗平氏らも時雄君の後を追い、玄関ホールから二階へと上がりました。
まず、宗平氏らは玄関ホールの階段から登って右側にある雄一氏の部屋に向かいました。時雄君はこの時、先に母である和江さんの部屋に向かったそうです。和江さんの部屋は階段を登って左側にあります。時雄君が部屋の前に着いたとき、和江さんの部屋は加奈子ちゃんの部屋と同様に施錠されていて開きませんでした。時雄君は何回も激しくドアを叩いたそうですが、中から返事はありません。時雄君が途方に暮れ、鍵を持っている宗平氏を呼びに行こうとした時、雄一氏の部屋の方角から由美さんの悲鳴が聞こえてきました。
雄一氏の部屋も鍵が施錠されていて、宗平氏のノックに反応する様子はありませんでした。宗平氏は止む無く鍵を開け、中へと入りました。雄二氏の寝室は二十畳ほどの大きな洋室で入り口側から見て左手奥にベッド、正面にテレビやソファなどが置かれていました。部屋の明かりは点いていて、宗平氏は反射的にベッドの方に向かいましたが、そこに雄一氏の姿は在りませんでした。しかし、ほっとしたのも束の間で、宗平氏に続いて部屋に入った由美さんが後ろで大きな悲鳴を上げました。驚いた宗平氏が振り返り、由美さんの元に駆け寄ると、由美さんは泣きながらソファの上を指さしたそうです。そのソファの上には雄一氏が寝ころがる様な体制で絶命していました。雄一氏は腹部から背中に掛けて、めった刺しにされていて、全身血まみれの状態でした。
時雄君が雄一氏の部屋に入ったとき、由美さんは床に跪きながら両手で顔を覆って泣き崩れていました。時雄君は父親の死体を見つけると直ぐに和江さんの部屋も鍵が掛かっていて中から返事が無い事を伝えました。宗平氏は晴信氏に由美さんを任せると、時雄君、幸彦氏と共に急いで和江さんの部屋に向かいましたが……」
「和江さんも殺されていたのね」
由梨絵は少しだけ目を細めながら言った。
「ええ、そうです。和江さんも刺殺されていました。雄一さんと同様ひどい状態だったそうです。時雄君はこの時点で気を失ってしまいました」
西岡さんは頷いた。
「宗平氏は時雄君を幸彦氏に任せ、動揺しながらも事件の発生を紀一郎氏に伝えに向かいました。しかし、紀一郎氏の部屋にも鍵が掛かっていて、いくらノックをしても返事は有りません。宗平氏はまさかと思いながら鍵を開けたそうです。紀一郎氏の部屋は図面にもある様に、居間と寝室、そして書庫から構成されています。扉を開けた先の居間には紀一郎氏はいませんでした。そこで、宗平氏は寝室へと向かいました。寝室には元々鍵が無いので手を掛けただけでノブが回ります。そこには案の定、刺殺され全身血まみれの紀一郎氏の死体がベッドの上にありました。その死体を発見した時、さすがに宗平氏も冷静さを保つことができず、大きな叫び声をあげてしまったそうです。
こうして、時雄君以外の竹岡家の人々は密室状態の部屋の中で死体となって発見されました。これで大まかな話はおしまいです。何か質問はありますか?」
西岡さんは少し冷めてぬるくなったであろう珈琲を一口含んだ。俺はその様子を眺めながら無性に煙草が喫いたくなったが、由梨絵がそれを許すはずがないので口には出さなかった。彼女は極端な禁煙家で煙草の臭いを嗅ぐだけでへそを曲げてしまう。おかげで喫煙家である俺は昔から苦労している。
「各部屋の鍵はどこにあったのですか?」
由梨絵が聞いた。部屋の鍵? そうか、宗平氏が持っていたマスターキー以外にも各部屋には鍵が一つずつ存在するのだった。その鍵が部屋の外に有ったのなら部屋は密室状態とは言えないだろう。
「加奈子ちゃんと和江さんの部屋の鍵はベッドサイドに、雄一氏と紀一郎氏の部屋の鍵は机の上に置いてありました。警察の調べではいずれの鍵にも被害者以外が触れた形跡はなく、不審な点は一切なかったそうです。ですから、外からの施錠は宗平氏が持っていたマスターキー以外には不可能というわけです」
西岡さんははっきりと言った。考えてみれば、初めに密室状態と言い切っているのだから当たり前か。
「では、各部屋には何かドア以外の出入り口はありませんでしたか?」
由梨絵は口調を変えずに淡々と質問した。
「実際に部屋を見たわけでは無いですから詳しい事は分かりませんが、時雄君から聞いた話ではドアと窓以外に抜け道のようなものはどの部屋にも無かったそうです」
「その窓はどのような物だったか聞いていますか」
「はい、一階の加奈子ちゃんと時雄君の部屋、二階の紀一郎氏の部屋にある窓はすべて嵌め殺しになっていて開閉ができないそうですが、二階の雄一氏と和江さんの部屋にあるフランス窓は開閉できるようになっていて、その外にバルコニーが付いているそうです。当然、事件の発覚時、窓は閉まっていましたが」
由梨絵は二階の部屋にバルコニーがあるという事に少しだけ反応したが、すぐに次の質問をした。
「四人の死亡推定時刻はわかりますか?」
由梨絵が聞く。
「事件が発覚してからすぐに宗平氏らは警察に連絡し、一時間も経たないうちに鑑識の人間を含めた県警の第一陣が島に到着しました。その際の調査で、四人の死亡推定時刻は多少の差異はあるものの、午後十一時から午前二時までの間だということが分かりました。ただ、医者であり事件直後に検死した幸彦氏は、発見時、四人の死体にはまだ首や顎部などに死後硬直が見られず、損傷が少なかった加奈子ちゃんの死体からは、温かみが感じられたという事から死後一時間以内だったのではないかと言っていたそうです。これは時雄君からではなく幸彦氏の長男で、現在、加藤病院の医院長を務めている加藤隆氏から聞いた話です。残念ながら幸彦氏本人は二年前に他界していましたが、生前、幸彦氏がよく隆氏にこのことを話していたそうです。つまり……」
「その推定時刻が仮に合っていると考えると、高島夫妻が犯人である可能性はないわけですね」
由梨絵は少し微笑んだ。
「え、何で急に高島夫妻が犯人だと疑われるわけ」
俺は由梨絵に聞いた。何でいきなりそんな話になるのだろうか。
「犯人が夕の言うような超常的な存在でないとするなら、一番怪しいのは高島夫妻よ。高島夫妻は一組しかないはずのマスターキーを持っていたし、本館を最後に出て行ったのも彼ら。つまり、高島夫妻が各部屋で殺人を行ってからマスターキーで部屋を施錠し、何食わぬ顔で別館に戻った。このストーリーが一番自然な流れだわ」
由梨絵は髪を弄りながら即答した。
「流石ですね御巫さん。私たちが何日も話し合って出た説の中で、一番現実味がありそうな説がその高島夫妻犯人説でした。でも、幸彦氏の検死が正しいとするのなら犯行時には高島夫妻は別館に居たことが証明されています。また、幸彦氏の検死が間違っていたとしても、夫妻が十一時ギリギリに犯行を行ったとすると、時間的に四人を殺害し、証拠の隠滅を図ることはいくら二人でも物理的に不可能です。十一時半少し過ぎには別館に戻っているのですから」
「幸彦氏や晴信氏は相当な量の酒を飲んでいたんだよね、なら、酒に酔っていて高島夫妻が別館に帰ってきた時刻を正確には覚えていなかった可能性は有るんじゃないのか」
俺は西岡さんに聞いてみた。
「確かに、幸彦氏と晴信氏は相当な量のお酒を飲んでいましたが、二人ともザル並みにお酒には強く、意識もしっかりとしていたそうです。警察が二人に事情聴取をした際、刑事も本人達が言うまで全く気が付かなかった程だそうです」
「……それに、あくまで何かしらの方法でこの時間の矛盾を解決できたとしても、時雄君が午前2時頃に襲われたという問題が残るわね」
なるほど、確かに由梨絵の言うとおりだ。仮に高島夫妻が十一時半までに犯行を終え、別館に戻ったとしても、二時頃に時雄君を襲うことは不可能なはずじゃないか。では犯人はどのようにして密室を作り殺人を行ったのだろうか。
「ここがこの事件の一番大きな謎です。警察は詳しい捜査の結果、高島夫妻は白だと判断し、高島夫妻以外の人間にも状況的に犯行は不可能だとして犯人を内部犯から外部犯に切り替えました。玄関や部屋の施錠についての疑問は外部犯が予めマスターキーの型を何かしらの方法で手に入れて、それを基にスペア―キーを作ったか、何らかのトリックで外か施錠したと考えれば、少し無理やりですが解決しますから」
西岡さんは苦笑しながら言った。どうやらこの警察の方針には納得していないようだ。俺も何とも言えない違和感を覚える。きっと由梨絵もそうだろう。
「とにかく、現場を実際に見てみないと聞いた話だけでは推理にも限界があるかと思います。鬼島への現地取材はまだ正式に決まってはいませんが、夏休みに入ってからですから八月の終り頃に二、三日程度の日程で向かう形になるかと思います。その間までこの取材ノートと平面図はお貸ししますので、役立ててください。その他、何か分からないことがありましたら私の携帯に連絡を下さい。番号とアドレスはノートの最期のページに書いてありますから」
西岡さんは持っていたノートを由梨絵に手渡した。
「ありがとうございます。夏休みに入れば私も暇になりますから日程はいつでも大丈夫です」
嘘だ。由梨絵は夏休みで有ろうが無かろうがいつでも暇なはずだ。文学部の必修授業がある時間帯でさえ彼女は部室に居る。本当は今すぐにでも島に行きたいのだろうが、石岡さんの手前その好奇心を抑え込んでいるのだ。
「ただ、私が同行するにあたり、一つだけ条件があります」
由梨絵は上品な笑みを浮かべながら優雅に言った。しかし、その笑みを見ていると何かとてつもなく嫌な予感がする。
「なんですか。可能な限り希望にはそえるようにします」
西岡さんは自然に返す。彼女には由梨絵の細やかな変化が分からないようだ。
「先ほど、鬼島に滞在できるスタッフは十人以内と仰っていましたが、私だけでなく遊馬も連れて行きたいのですけど、問題はないですか」
由梨絵は俺を一瞥すると、さも当然というように俺を連れて行く事を要求した。やはりか。俺はある程度覚悟していたが、それでも文句を一言、言いたかった。
「なんで俺まで行かなきゃいけないんだよ、俺にだって夏休みに用事くらい有るんだからな」
嘘だ。予定なんかない。せいぜい溜まっていた文庫本を片すくらいだ。
「心配しなくても文庫本くらいならどこでも読めるから大丈夫よ」
由梨絵は西岡さんに聞こえない程度に囁いた。ダメだ。俺の心理くらい由梨絵にはすべてお見通しの様だ。
「遊馬は私の助手。つまりはワトスンみたいなものですから、考察には必要不可欠な存在なのです」
しれと心にもないことを満面の笑みで言う。彼女にとって俺はワトスンなどではなく、ただの執事みたいなものだろう。
「ええ、そういうことでしたら大丈夫ですよ。幸いスタッフの数は遊間君を入れてもちょうど十人ですから」
西岡さんは笑顔で頷いた。

それからしばらく、俺たちはどうでも良い雑談をしながら時間を過ごした。由利絵はゼミにおける俺の立場ばかりを執拗に西岡さんに質問し、西岡さんは笑いながらそれに答えていた。おかわりに煎れた2杯目の珈琲を皆が飲み終えた頃、西岡さんは腕時計を一瞥すると、そろそろ御暇しますねと言い、立ち上がった。
「映画研の部室まで送ろうか」
俺も立ち上がり、西岡さんの後に続いた。
「ありがとう、遊馬君。でもこのまま家に帰るから見送りは大丈夫よ」
彼女はすでにドアを引いていて、ショルダーバックを肩にかけていた。
「それでは失礼します。御巫さん今日はありがとうございました」
由梨絵の雰囲気に少し慣れたのか、彼女は来た時よりも浅めにお辞儀をした。
「ええ、またよろしくお願いします」
由梨絵はソファに座ったまま背筋を伸ばし、その場で手を振りながら西岡さんを見送った。

「どうだった。名探偵さん」
俺は先ほどまで西岡さんが座っていた廊下側のソファに腰掛けた。
時計を見ると時刻はもう午後五時になろうかとしていた。西岡さんが来たのが三時頃だから、かれこれ二時間近く話していたことになる。由梨絵は西岡さんから借りたノートを斜め読みしながら、飲み干してしまった珈琲のカップをテーブルの上で俺の方にスライドさせながら言った。
「珈琲おかわり、甘々で」
そこには何時もの由梨絵がいた。やはり、この由梨絵に慣れてしまうと、先ほどまでの由梨絵も悪くは無いのだがどうもダメだ。ちなみに甘々とは先ほどの砂糖たっぷりコーヒーを基準の「甘」として、その甘さを二倍に濃縮した代物だ。作っている俺自身、創造のつかない味だが、以前、由梨絵に味を聞いたときガムシロップの原液に近いものだと教わった。もはや珈琲である必然性が無い。
「了解。淹れてくるよ」
俺は立ち上がりコーヒーメーカの方に向かった。珈琲を淹れている間、由梨絵の姿を何となく眺めていたが、彼女はノートを見ながら髪を弄るだけでその表情はまったく変化しなかった。ああ、煙草が喫いたい。
「お待たせ」
俺は淹れたてのコーヒーを由梨絵の前に置き、ソファに再び座った。
由梨絵はしばらくの間、気が付かない様子だったが、いきなりノートを畳むと机の上に置き、代わりにカップを掴み一口飲んだ。
「いい、甘さだわ。パンチが効いている」
由梨絵の表情に笑みが浮かんだ。この笑顔は彼女が何か難問を打ち破った時に浮かべる物だ。俺には分かる。何の添加物もない無色透明な笑顔。この笑顔が一日に何回も見られるのならば、俺は喜んで由梨絵の世話係を一生引き受けるだろう。だが、現実は由梨絵のコーヒーの様に甘くは無い。こんな笑顔が拝めるのは多くても半年に二、三回あるかどうかだ。
「何か分かったのか? まさか…… もう犯人が分かったのか!」
俺は少し興奮した。由梨絵が浮かべた笑顔の価値を考えると、その可能性も十分にあったからだ。
由梨絵は満足げに頷きながら言った。
「まだ確定的な考察じゃないわ。でも、私の仮説が正しければ犯人は限定できる。もちろん、内部の人間でね。ただ……」
そこまで言うと急に由梨絵は元気がなくなっていった。そして、また髪を肩口で弄り始めてしまったのだ。
「どうした。仮説に穴でもあったのか」
俺は尋ねた。すると、由梨絵は頭を小刻みに動かして否定した。
「そうじゃない。そうじゃ無いの……。仮説は問題ない。たぶん、現場で確認できるはず。でも密室を作った意味が分からない。何で密室なんて作ったのかしら……。それにまだ分からないこともいくつかある。どちらが……。ああ、気持ちが悪い。嫌な事件……」
どうやら由梨絵の仮説ではまだ説明できない事項が多々あるようだ、俺は彼女が呟いた密室を作った理由について思考を巡らせてみた。
密室を作った理由か。確かに犯人が内部の人間ならば窓を開けておいて、外部犯に見せかければいいし、逆に外部犯でも部屋のドアや玄関を開けておいて内部犯に見せかければいい。犯人はなぜ密室を作ったのか。もしかしたらこの事が今回の事件で一番の謎なのかもしれない。俺は由梨絵が思いついたという密室トリックの仮説とその場合の犯人について聞きたかったが、彼女が推理小説に出てくる探偵張りに完璧主義者で、絶対に正しいという確信が持てるまで自らの考察を話したがらないことを知っていたので、諦めて読みかけの文庫本を開いた。
それから約一時間、由梨絵は頭をフル回転させてこの難題に挑んだ様子だったが、結局何も思い浮かばなかったようだ。俺は放っておくと何時までもそこに座っていそうな由梨絵を無理やり引っ張り、彼女の家まで送っていった。由梨絵の借りている高層マンションは家賃が俺のアパートの四倍近くする高級物件だ。駅からも大学からも近い好立地で、オートロックも付いている。
「よし、ここまで来れば大丈夫だな。オイ、由梨絵。お前自分の部屋くらいわかるな」
マンションの玄関前で俺は少し小馬鹿にした口調で由梨絵に言った。
「馬鹿にするなよ。当たり前だ」
由梨絵はまだボーっとしていたが、俺に小馬鹿にされたことを感じ取ったためか何時もの調子に戻った。
「そうか、なら安心だ。じゃあな」
俺は踵を返し、自分のアパートのある駅とは反対方向に歩き出した。
「……ありがとう」
由梨絵が小さな声で礼を言ったのを俺は背中でしっかりと聞いたが、わざと聞こえない振りをして歩幅を早めた。二つ目の十字路を右に曲がり、すぐに有る公園の喫煙スペースまで来ると、俺は懐に忍ばせていた煙草に火を点け、一息ついた。
(八月の末頃か。今月と来月は結構厳しいんだよな……)
厳しいとは金銭的な意味である。どう見積もっても孤島に二,三泊するのなら準備やなんやらで一、二万は飛ぶだろう。今、それだけの余裕はない。しかし、成り行きとはいえ断らなかったのだから何とか用意しなければならない。ああ、頭が痛い。
俺は根元近くまで消費した煙草の火を消し、灰皿に捨てると、とりあえず家路を急いだ。途中で空を見上げた時、薄暗くなり始めた夏の空に北極星が輝いていた。

幽玄館殺人事件 第1章 鬼島への招待

幽玄館殺人事件 第1章 鬼島への招待

7年前、房総半島沖の孤島「鬼島」で起きた資産家一族の大量殺人事件。未解決であるこの事件を題材にk大学映画研究会はドキュメンタリー映画の作成を行う事になった。そして、事件の骨格を推理するためk大学ミステリ研究会会長にしてk大学一の変人である御巫由利絵とその助手、遊馬夕貴の二人が同行する。そこで彼らは新たな殺人事件に巻き込まれていく・・・。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-08-16

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