蝉を売る少女の話
少女は蝉を売った。
少女はうるさいものがとにかくなんでも嫌いだった。ところかまわず泣き喚く妹も、それを叱る母親も嫌いだった。自分勝手に通知を鳴らすスマートフォンも疲れていたし、電子レンジの音も嫌だった。テレビをつけると流れるくだらない歌謡曲も憎んでいた。自動車の排気音を軽蔑し、電車の騒音を嫌悪していた。大声でつまらない冗談をいう級友もバカにしていた。とにかく少女はうるさいものを遠ざけたかった。少女は自分の声までも嫌いだった。唯一、風鈴の音だけを好んでいた。
少女は夏が嫌いだった。風鈴が鳴るのは好ましかったが、それ以外の全てがうるさすぎた。夕立、蝉、風。日差しすら彼女にとってはうるさく感じられる。
彼女は「とにかくアイスを買わなくっちゃ暑すぎる」と言って、外に出た。蝉がうるさい日で、彼女はわざわざ耳栓をしていた。
コンビニの前で、風変わりな人が立っていた。異様に暑いさなか、その人物は濃いグレーの背広を着て、ネイビーのネクタイを締めていた。顔の皺をみて、彼女は「大体五十くらいだろう」と思った。
「ちょっと、お嬢さん」
彼女は自分が話しかけられたことに気が付き、耳栓を外す。
「はい?」
「お嬢さん、何か売ってくれない?」
少女は真っ先に「このおじさんはたぶん女子中学生の下着とかを売る商売だろう」と思った。真面目に取り合うつもりも元より無く、とにかく今はアイスが欲しかったので、彼女は適当に答える。
「――そうですね、じゃあ、この街の蝉とか」
彼は少し驚いた顔をして、なるほど、と呟いて、ポケットから紙を取り出すと手早くレシートを書いた。彼女はレシートを受け取って、少し笑った。夏休みが開けたら学校に変質者情報を出しておこうと思う。
「では」
彼女は男を見送った。蝉の鳴き声が全部綺麗さっぱりまるごと跡形もなくなくなっている。彼女は色々思案した挙句、「きゃっほー!」と奇声をあげて家に走って帰った。アイスは買っていない。
「蝉の声が消えた! 蝉が消えた! 忌々しい蝉が! 見たことか! ――『空っぽの器ほど泣きわめく』! まさに蝉! この世に無駄の多く、それが消えた時の清々しさ!」
少女は誰も居ない家に帰ってひと通りそう芝居を打って、畳に転がった。蝉の声は聞こえない。彼女はニタニタ笑う。風鈴の音が彼女の耳に届く。彼女は一時間位ずっと風鈴を聞いていた。蝉の声のない風鈴は、泥水を綺麗に濾したみたいだと彼女は考えてまたニヤニヤ笑った。
風鈴が響く。その間はほとんど音がしない。極稀に車が通ったりするが、彼女の家は田んぼと木に囲まれていて、その音も遮断される。彼女は仰向けになって、両腕を天井につきだした。風鈴が鳴く。
「蝉のいないことの、なんと素晴らしいことか……」
彼女はそう言う。澄んだ音が響く。その間には何もない。風が吹き抜ける。嫌に静かな夏の日だ。
「蝉がいないことの……」
日焼けもしていない白い腕を彼女は眺める。スイカには塩をかけて食うもんだ、彼女は祖父がそう言っていたのを思い出した。
腕をぱたりと倒した。ポケットを探ると、まだレシートは残っていた。彼女は体を起こして、仕方ねぇ、とつぶやくと外に向かった。
蝉を売る少女の話