雨、雨にて。
退去勧告が出されて、四日くらいが過ぎた。一日目、ガラスを引っ掻くような音が何時間も続いて、電子機器が全部使えなくなった。電気が止まった。二日目、時計が全部壊れていることに気がついた。三日目、街にはほとんど人が残っていなかった。四日目、水道が止まった。
今日は雨が降っていて、通りには人がまばらにしかいなかった。何人かいる人の中でも、生きているのはたぶんごく少数だった。青い消毒液が道路に流れている。暗い日だった。
僕と彼女は青い傘を差しながら通りを歩いて、コンビニに入った。酸っぱい臭いがたちこめていた。窓ガラスは一枚も割られていない。彼女は、店の奥の方にある生鮮コーナーから一つビニール袋を拾い上げた。中にはオレンジ色の液体が詰まっていて、僕と彼女は少し笑った。腐ったニンジンだった。彼女の長い髪が重そうに揺れた。
「ニンジンが硬くて食べられない子っていなかった?」「いたね」「いたよね」
会話はそれだけだった。バイト控室には全裸の女性が何人か重なって打ち捨てられていた。それぞれにしるしを刻むようなナイフの傷跡があって、どれもが両足を折られた格好だった。どれもがすでに死んでいた。
過疎過密の対策としての、移住と言えば聞こえはよく、僕たちは両手をあげて――彼女はすでに片腕がなくなっていたから、これはおかしいかもしれないが――賛成した。実際は、僕と彼女のような、どこにも行き場がなくなった”非”健常者の捨て場でしかなかった。僕たちは捨て場から捨て場へ何回も動かされて、避難勧告に間に合わない者は打ち捨てられるだけだった。僕たちは疲れきっていて、これ以上捨て場を移ることに意味を見出せなかった。僕は笑った。彼女も笑った。左目の奥がとても痛かった。彼女はあるはずの左腕を慈しむように、からっぽの袖を何度も撫でていた。
奥の方に少し残っていた水を持って、僕たちは家――とても不思議だけれど、僕たちには家が割り当てられた――に戻った。鉄の骨組みに厚いベニヤを張っただけのプレハブのような家だったけれど、そこには火があって、屋根があって、壁があって、毛布があった。変な話、僕たちは良い場所で死のうと思っていた。玄関のスライドドアの前で、誰かがうつ伏せになって倒れていた。僕はゴム手袋をはめて、彼女にもはめてやって、彼を動かして、捨てた。ひどく軽い体の持ち主だった。外見に変なところはなくて、僕は笑った。
「まともなふりをすればよかったのに」「嘘がつけない人だったのね」「じゃあいい人だったんだ」「そうね」
僕たちは彼のために少しだけ祈った。
「踏み絵って知っている?」
と僕は言った。
「知っている」「踏みたい?」「踏む足がないの」
僕は笑った。
彼女は右手だけでコンロを出して、お湯を沸かして、インスタントの何かを作った。僕は自分がもうすぐ死ぬのだということがわかった。僕は彼女に、髪を切ってあげようと言った。彼女の家にあるのは普通の黄色いはさみで、ひどく不格好になってしまったけれど、長い髪を落とした彼女はとても元気そうに見えた。
「元気そうに見える」「そう」「明日雨が上がったら先に行くといいよ」
彼女はなんとも言わなかった。そのうちに、彼女は毛布に包まって眠りに落ちた。僕は彼女の髪の毛を一束握って、自分の毛布にくるまった。雨音に混じって、誰かが必死に叫んでいた。やがてそれも無くなった。退去勧告の警報が鳴った。雨音が続く。次に雨がふるときは、彼女がいなければいいと思う。
雨、雨にて。