早稲田大学百号館-2

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また、僕の番です

第二十五話

第二十五話

 一巡りしましたね。いやあ、皆さんのお話、怖かったなあ。こんなのが百も続いたら僕、耐えられるかなあ・・・自信ないですよ、ほんと。それに暗くて狭い所で、こうやってくっ付いて朝まで正座してるなんて、並みの体力では持たないよね。
 僕の友人なんて軟弱な奴らばっかりで、先ほど話した佐々木なんて奴は、女子をナンパするのは得意だけど、一時間とは正座していられない奴でした。

 そんな僕らの仲間の中でただ一人、ラグビーをやっていた屈強な男がいましてね、加藤という奴でしたが、こいつは体力がありました。試験前の徹夜なんか、何日続いても平気な顔をしていましたね。
 この加藤は親が金持ちでしたから、僕らのように学生専門のアパートじゃなくて、街中のマンションに住んでいました。ところが、このマンションで、ある時、殺人事件が起きましてね、えらい騒ぎになった事があるんです。

 加藤はそのマンションに引っ越した日に、お隣に挨拶に行きました。いいとこのおぼっちゃまだけあって、こんな礼儀正しい所があったんです。皆さんも、お隣には挨拶してくださいよ。
 加藤の隣には感じのいい若夫婦が住んでいました。人当たりのいい温厚なご主人と、若くて美人の奥さん、そして二人の間には、目のクリクリした可愛い四歳くらいの女の子がいました。エミリちゃんと言いました。
 その子はとても人懐っこい子で、加藤が夕方に公園なんか通りかかると、駆け寄って来て
「おにいちゃん! 一緒にかえろ!」
 と、腕にぶら下がってくるのです。二人が手をつないでマンションへもどると、ドアの前にいつも奥さんが待っていて、
「エミリがいつもすみません」
 なんてにっこりするわけです。加藤は純情な奴でしたから、若い人妻からにっこり笑いかけられる度に、甘くせつない思いにとらわれてしまうのも無理ありません。なんせ、僕らの大学は七割が女子だというのに、どいつもこいつもがさつで、横柄で、わがままな奴ばかりで、まともな女子は一人もいません・・・おや? 男子学生さん達、笑いましたね。ここもそうなんですか。
 加藤が講義のない日でも毎日朝早くから学内にいるので、不思議に思った僕が尋ねると、隣の旦那が出勤する時間に合わせて家を出ると、彼女がいつまでも手を振って見送ってくれるのだと言うんです。
「それはおまえ、旦那に手を振ってるんだろ。おまえにじゃないよ」
 と、僕は言いました。加藤はそれでも一日幸せな気分になれるらしいんです。

 しかし、世の中外見だけではわからないものですね。何のかげりもない、絵にかいたような幸せそうなこの家族も、実はドロドロした愛憎の底なし沼に、まさに沈みかけていたのです。
 そのことに気付いたのは、加藤が、近づきつつある前期末試験のため、夜、机に向かうようになってからでした。
 加藤というのは妙な癖があって、勉強する時はラジオもCDもかけない。シン、と静まり返った場所でないと集中できないのです。僕らは大抵、CDをガンガン鳴らしたり、ラジオから流れるボソボソ言うくだらないDJの声をバックに勉強したものですけど・・・皆さんもそうでしょ?
 加藤はそうじゃなかったんです。やはり育ちの良さですかね。
 試験準備を始めた日、それまで気付かなかった隣の話声が意外にはっきりと聞こえてくるのがわかったんです。 加藤が机を置いた位置が、なんと隣の寝室に面していたんですな。寝室での夫婦の会話となると、そりゃあ、あなた、若い加藤じゃなくても、誰だってドキドキしますよ。加藤も無関心ではいられません。ついつい耳をそばだててしまいました。
 そして、そこで語られていたのは、愛の言葉ではなくて、憎しみのこもった罵り合いだったのです。
 最初は些細な夫婦喧嘩だろうと思っていました。
 ところが次の日も、その次の日も言い争いは深夜まで続きました。
 話の内容も次第にエスカレートして行き、殺してやるとか死んでやるとか、物騒な言葉まで出てくるようになったのです。加藤は、この夫婦はもうダメだ、近いうちに離婚だな、と思うようになりました。
 それでも、昼間見る時は、依然と全然変わらずに幸せ一家を演じているんです。
 夜中の会話を毎日聞いている加藤ですから、昼間に、にこにこと挨拶されても、以前のようにいい気持にはなれません。それどころか、なんだか白けてしまって、この夫婦が大嫌いになってしまったんです。無理もありませんよね。
 試験もいよいよ近づいて来て、加藤は耳栓を買ってきました。隣の話し声が煩わしくて勉強に身が入らないんです。
 ところが、その日はいつもとちょっと様子が違います。妙にこそこそと声が小さいのです。よせばいいのに加藤は耳栓を止めて聞き入ってしまったんです。
 しばらくこそこそ話は続きました。それからバタンとドアの音。どちらかが部屋を出て行った様子です。こんな事は今までなかった事です。子どもが起き出してきたのか、それともどちらかが家出するのか・・・加藤の想像力はフル回転します。
 一二分すると、また、ドアの音がして、誰か部屋に入って来ました。なんだ、家出じゃなかったのか、と加藤が思った瞬間、突然大声で、
「なによそれ! なんのまね?」と、女が叫びました。
「もうたくさんだ、終わりにしてやるよ」と、これは男です。
「フン、やれるもんならやってみなさいよ! そんな勇気もないくせに・・・できたら褒めてあげるわよ!」
 男は早口で何か二言三言、言いました。そして、バタンと壁にぶつかる音、「ぐう~・・・」といううめき声、「はあはあ」と荒い息遣い。加藤は息を詰めました。
 それまではね、口ではかなり激しく言い合っていましたけど、物のぶつかり合う音などは聞いた事はなかったんです。
 何か起こってる! 加藤は直感しました。
 何かとんでもない事が始まったに違いありません。もう、勉強どころではありません。加藤は、壁にぴたりと耳をくっ付けて隣の様子をうかがいました。
 話し声はそれっきり聞こえてきません。そのかわり、ドアを何度も出入りする音、ずるずると何か重い物を引きずるような音、ムッ、ムッ、とりきむ音、クローゼットの開閉、ゴトゴト転がる音、
 加藤の頭にはある恐ろしい情景が広がっていました。・・・男が女の首を絞めて殺してしまう、あるいは包丁を持ち出して刺したのかもしれません。そして、死体をクローゼットに隠す・・・まさか、そんな事・・・心の中で何度も打ち消すのですが、聞いた音は加藤の恐ろしい想像とぴったり符合するのです。
 結局加藤は一睡もできず、試験は散々な結果でした。

 しかも、その日を境に、隣の奥さんはぴたりと姿を見せなくなってしまったのです。
 警察へ届けようか、と加藤は本気で考えていましたが、もし、自分の勘違いだったら、お隣にえらい迷惑をかけてしまうし、第一、夜中に隣の声を盗み聞きしていたなんて、とんでもなく恥ずかしい事でしょ?
 それでどうしようか迷っている時に、ある日、ドアの前で隣の旦那と鉢合わせになりました。加藤は思い切って聞いてみました。
「最近、奥さんの姿が見えないけど、どうかしたんですか?」
「ちょっと、具合が悪くて、実家に帰っています」
「具合が? 病気なんですか」
「どうも、胆石らしいです。この間、急に苦しみ出しましてね。夜中にドタバタえらい騒ぎでした。うるさくなかったですか?」
 旦那はそう言うと照れたように笑って、
「いやあ、まいりますよ。急に女手がなくなって、家の中が片付きません」
 明るく話すその顔は別にうそをついているようにも見えません。もちろん、加藤は、ちょっとでも動揺している様子はないか、顔色が変わりはしないかと、そりゃあもう真剣に観察していましたが、どこにも変な所はありません。それに、胆石の発作というのは、とても痛くて大の大人でも七転八倒すると聞きます。あの夜の音はそれだったかも知れません。
 加藤は納得しました。自分は世間の事を何も知らないから、まして夫婦の事など自分には解らない事があるに違いない。勉強で寝不足していたので、あらぬ想像をしてしまったのかもしれません。
 そう思うと、なんだか自分が恥ずかしくなって、加藤はもうそのことは忘れる事にしてしまいました。
 というのもね、試験が終わって、ラグビーの練習が本格的に始まったからなんです。試合の予定も入ってきました。加藤は練習に明け暮れて、お隣の様子をかまっている暇はなくなりました。

 その日、加藤は練習で遅くなってから帰宅し、夜食を買いにコンビニへ出かけました。お隣のドアの前を通った時、ふいに異様な臭いがしてきました。魚の腐ったような、胸をえぐられるような臭いです。よく見ると、お隣のドアがわずかに開いていて灯りがもれています。臭いはそのドアから漏れてきているようです。加藤は、何気なくドアを覗き込みました。
 すると、中から旦那が急いで出てきて、加藤をジロリとにらむと、挨拶もなしにドアをバタンと閉めてしまいました。
 その旦那がね、今のはいったい誰だろうと、一瞬疑うほどおもやつれしていたんです。
 温和だった表情は消え去り、頬がげっそりとこけ、目だけ異様な光を放っていました。
 加藤は二三歩後ろに飛び去ってしまうほどびっくりしました。・・・なんだ・・・あの目は・・・普通じゃないぞ・・・狂人の目だ・・・コンビニへ向かいながら、加藤の脳裏に、あの日の物音がよみがえってきました。
 やっぱり、あの夜、何かあったに違いありません。
 あの臭い!あれは死臭です。もう間違いはありません。
 奥さんは殺されて、死体となって、あの家の中にあるのです。
 加藤は今度こそ決心しました。今すぐ警察へいこう。
 一人では部屋に帰れません。だってそうでしょ?加藤に気付かれたと知った旦那が、彼になにかしようと待ち構えているかもしれないんです。
 警察はなかなか彼の話しを理解してくれませんでしたが、加藤が酔っぱらっているようでもないし、あまりに真剣なので、とにかく一度、その旦那の話しを聞こうと、二人の警官が一緒に付いてきてくれました。
 玄関に入るなり、警官の顔色が変わったのは言うまでもありません。それはやはり、明らかに死臭だったのです。
 家の中から最初に出てきたのはエミリちゃんです。ああ、それはもうかわいそうな有様でした。長い巻き毛はゴワゴワにもつれ、顔はうす汚れて、見覚えのある、あのかわいらしかった服もボロボロに汚れています。旦那は自分の子を長いことほったらかしにしていたに違いありません。
 ここへきて、警官もやっと事の重大さに気づいたようでした。一人が無線で、本部に応援を頼んでいる間、もう一人の警官が奥の部屋で酔いつぶれて寝ている旦那を発見しました。
警官はエミリちゃんにお母さんはどうしたのか尋ねました。
「ママ?」
 エミリちゃんは昔と変わらない大きな目をクリクリと動かしながら、無邪気に答えました。
「ママは、いつもパパと一緒にいるの。あのね、ずっとパパにおんぶしているんだよ!」
 
 

 
 
 

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  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-27

CC BY-ND
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