対談:保守とは何か

浜崎洋介、花田太平 作

今、三十代、四十代が「保守」について問いはじめているが、それは混乱の現れであるかもしれない。そこで、政治評論の根柢にある文芸批評を掘り起し、「保守とは何か」を考える。

初出:『新日本学』第三十二号(『日本文化』通巻第五十六号) 平成二十六(二〇一四)年春

今、なぜ「保守」なのか

花田:一月四日に日本文化研究所所長の遠藤浩一さんが急逝されました。そこで追悼の意を込めた対談を行おうと思ったのですが、ふさわしい人物としてすぐに思い浮かんだのが、『福田恆存 思想の〈かたち〉』を著され、最近、文藝春秋からその福田の評論選集『保守とは何か』を編まれた浜崎さんでした。私が遠藤さんと個人的にお会いしていた折も、浜崎さんの名が上がることがありました。遠藤さんとはどのようにお知り合いになったのですか。

浜崎:学生時代から『諸君』『正論』などの連載を読んで意識はしていましたし、『三島由紀夫研究』という雑誌に、遠藤さんの『福田恆存と三島由紀夫』を書評させていただいた際には、人伝に感謝の言葉をいただいたりはしていました。ただ、直接お会いしたのはずっと後で、昨年の「福田恆存生誕百年記念シンポジウム」の時でした。この時に初めて壇上にいる遠藤さんを拝見したのですが、シンポジウムの最後に、突然「会場に浜崎さんが来ています。立ってください」と紹介されたのです。また、その後縁あって去年の十二月にお会いし、楽しく飲んで「これからよろしく」といった矢先に亡くなられてしまいました。

花田:遠藤さんは表の看板としては政治評論がありましたが、根柢には常に文芸批評があり、それを支えていたのが福田恆存解釈や三島由紀夫解釈でした。この点、文芸批評家である浜崎さんとは深く共有できているのではないかと思い、この度の対談をお願いしました。遠藤さんは終生、戦後政治史を反省し、なぜ本当の意味での「保守合同」が成らなかったのかという主題を持っていました。それは結局のところ、合同のために必要な「保守とは何か」という問いが突き詰められないまま戦後七十年が経ってしまったのではないか──この問題意識が遠藤さんを他の政治学者がふれないような文芸評論の世界に誘ったのだと思います。この度、浜崎さんが『保守とは何か』を編まれましたが、見渡せば最近、三十代、四十代の中から、「保守」のこれまでの定義を見直そうという声が出はじめているようです。が、これは一方で混乱の現れとも解釈できる。では今、なぜ「保守」なのかについてお伺いしたいと思います。

浜崎:「保守合同」という言葉が出たのでそこからはじめましょう。昭和二十六年に日本はサンフランシスコ講和条約で独立しますが、その前の二十四年に大陸では中国共産党が勝ち、二十五年には朝鮮戦争が勃発しています。そんな共産勢力が勢いを増す時代の中で、なんとか独立を維持するために、保守は合同しなければならなかった。これが昭和三十年の保守合同でした。ということは、保守とは何かということが煮詰められたというわけではなく、政治的な多数派工作の中でなされた保守合同だったわけです。これはよかった面もあるのでしょうが、思想として突き詰められるということはなかった。たしかに保守派の中には政治的なインパクトを持っている政治家も何人かはいたでしょう。岸信介はそういう政治家の一人かもしれません。が、その後に池田勇人が出てくる。ここは遠藤さんも注目していた戦後の結節点ですが、この時点で、完全に〈保守=五五年体制=経済繁栄〉という性格が決定的になります。三分の一の議席は社会党に握らせておく。それで憲法改正を議題に上げないまま、しかし政権運営は自民党が担う。つまり、安全保障の責任はアメリカに預けて、大きな国家イシューを伏せたまま、口先だけでは平和を言い、自分たちは国内の経済政策にだけ集中する。これが五五年体制だろうし、六〇年安保以後のこの国の繁栄のあり方でしょう。我々はその繁栄の中で、「理想の時代」や、「夢の時代」と呼ばれる時代、あるいは八〇年代バブルの「虚構の時代」を経てきました。しかし、そんな「虚構」も冷戦の終結と共に崩れはじめる。様々な社会学者が指摘しているように、戦後の「虚構」が限界に達するのが一九九五(平成七)年頃です。私たちはその前後に思春期を迎えています。〈保守=五五年体制=経済繁栄〉という戦後体制の欺瞞もうんざりだが、だからと言って未来に向けた理念もない。だとしたら足下を見ざるを得ないでしょう。つまり、その時初めて、それでは本当に私たちの足下を支えているものとは何だろうかという問いに気がつくということです。これが今の三十代、四十代なのではないでしょうか。

花田:敗戦の経験から湧き出る国内の分断や対立と真正面から対峙することなく、それらを経済繁栄によって迂回させた。しかし、時が満ち、その矛盾の相手を若い世代は否応なくしなければならなくなったのかもしれません。中野剛志さんは『保守とは何だろうか』の中で、憲法はconstitutionであるから国民の協同や国家の秩序の表現であるはずで、本来は保守が護憲派でなければならない。が、戦後日本は保守が改憲派となり革新が護憲派となるある種のねじれ状態に陥り、その意味で言葉が混乱していると指摘していました。これは戦後日本において保守的であることの厄介な側面であり、その難しさは「語り口」それ自体の問題につながってくると思うのです。TPP参加をめぐる論争を例に挙げましょう。ここに自由、権利、個人、社会、労働、文化、国家、主権という現代社会を語る上で必須のキーワードがあります。これらは近代化の過程で西欧から輸入された翻訳語であり、社会科学の重要な用語でもありますが、日本独自の現実をうまく切り取れないという意味で言葉そのものがすでに「分断」を内包していると思うのです。翻訳語とは一面で植民地語ともいえるわけで、論争以前にすでに論争を準備している。今回、保守がTPP参加をめぐって分裂した時、「語り口」の問題は真剣にとりあげられませんでした。むしろ議論の作法や進め方そのものに問題解決の糸口が潜んでいると言えるかもしれません。

浜崎:たしかに保守はTPP問題で分裂気味ですね。誤解を恐れずに言えば、私はTPPに参加しようがしまいがどちらでもいいと思っています。先ほど、戦後の日本では憲法を守るのが革新派で、憲法を改正しようとするのが保守であるという「ねじれ」があるということでしたが、私は「ねじれ」だとは思っていません。日常の皮膚感覚や常識で不自然なものは不自然だと感じる、そういう感覚から出てくる態度が保守なのだとすると、「護憲」というのは絶対に不自然です。五五年体制の話に戻りますが、アメリカにおんぶに抱っこで、口先では平和を唱えながら、その裏で経済繁栄に興じるという欺瞞に堪えられないとういうのは人の人情でしょう。だからTPPに関しても、自然な感情から出てくる言葉が必要となる。経済学から出てくる言葉、政治学から出てくる言葉、国際政治論から出てくる言葉というのも大切なのですが、その緊張と自然な感情との折り合いから出てくる言葉こそが重要なのだと思います。私は、TPPに関してはアメリカが強行して各国がそれについて行くならば、日本も参加せざるを得ないだろうと思っています。だけれども、人情としてはもちろん参加などするべきではないと思っている。ここに二重性があります。しかし、いつか政治的な判断は下さなければなりません。TPPは、今まさに動いている状況なので、軽々な発言は避けるべきでしょうが、一時は参加せざるを得ないだろうと思っていました。

花田:他者がいる外交政治問題をおのれの信条の表現として早々に決断するというよりは、常に動いている政治と充分に付き合い、目の前の状況に対応していくということですね。

浜崎:目の前の状況と自然な心情を折り合わせていくということです。その意味でもヒステリックでない語り口が必要だと思いますが、TPP問題ではそういう語り口はほとんど見受けられません。それぞれの立場からの主張だけがあって、立場が違えばそれまでです。

花田:折り合うということが足りないということは重要な問題で、これは文学の問題にもかかわってくると思います。福田恆存や小林秀雄の時代には、折り合うということに議論を尽くしていましたが、現在はそれがなくなってしまった。

浜崎:福田や小林の時代にあって私たちの時代にないものこそ、おそらく「付き合い」なんでしょうね。目の前にいる他者に言葉がどのように届くのか、どのような距離感の中で語り合っていくのかを学ぶ機会が少なくなっている気がします。完全にわかり合えるはずのない他者に対して、どのような形で言葉を投げかけるべきなのか、これを学ばなくてはなりません。

花田:他者と長期間にわたって付き合うということ、それを可能にしているのが自他の背景に無言でたたずむ世界に対する信頼感のようなものですね。それがないと、自分は一方的に奪われているのではないかというあせりを覚え、そのあせりから攻撃的になってしまう。

浜崎:十二月半ばに神保町で遠藤さんと飲んだのですが、その時も同じようなことを話されていました。遠藤さんは「僕は別に保守でなくてもいい。僕は自然に自分のことを日本人だと思っているから、日本人を信頼している。大事なのはこの信頼感でしょう」と言うのです。「これは保守だ、あれは保守ではないと議論すること自体が、保守には似合わない」──この部分も大いに頷きました。もちろん私も「保守」でなくてもいいと思っています。ただ、他に適当な呼び方がないので「保守」と言っているだけです。自然に生きていれば人はこう生きるしかないのだろうという感覚、この信頼感をどのように肯定的に表現するかとなれば、「保守」としか言いようがない。だから、もしかすると保守論壇の「保守」とは少し違うのかもしれません。

花田:定義づけにそぐわない日常生活を支える感覚があると思っています。小林秀雄は、その感覚は女々しいもの、いわば女房の心であると言っていました。幸田文を読んでいても思うのですが、自ら積極的に何かを提示するのではなく、すでにあるものを自分の身体のかたちに合うように「継いで接いでいく」技術と言っていいのかもしれません。こういう継ぎ接ぎのようなものは実体がないので、名をつけるということは難しい。まず他人が事件として眼前に現れる、世界は彼らによって変容する、その出会い前の世界には戻れない、付き合うしかない、ではいかに付き合っていくか、どこをどうつなげば肌に合うのかという細かい判断は主義にも観念にもならない──が、近代とはそれを主義にしないとやっていけないという側面もあります。

浜崎:共同体が資本主義によって崩されていき、その中で近代的主体というものが括り出されてくるのであれば、共同体の枠組みを失っている個人というのは、どうしても不定形になりがちです。そして、その不定形性において個人の不安が現れてくる。またそこから、この不安を解消するために、こうすればああなるといった図式的なものが受け入れられていくことはよくわかります。ただ、福田恆存に言わせれば、そのような見取り図や図式はあり得ません。全体を設計すること、あるいは設計された全体というのは語義矛盾です。なぜなら設計された全体とは、それが如何に精緻であろうと、対象化されている限りで私の目の前にある部分でしかないからです。全体とはむしろ私を支えているものだから、足下を見なければならない。しかし、足下は一歩一歩しか見ることができません。その一歩を見つめながら次の一歩を踏み出す、その積み重ねが時間の手応えであり、花田さんの仰る「継ぎ接ぎ」だと思います。そのリアリティを受け止めながらでないと人は生きている実感も充実も得られません。と同時に、それは人生は見通せないということでもあります。それでも、人は人生を見通そうとしてヒステリーを起こしてしまうのですが、保守という場合、そのヒステリーを鎮めることにこそ重心があるのではないかと思います。福田のこの思想に気がついた時、何て新しい思想だと思いましたね。

小林秀雄の「伝統」

花田:T・S・エリオットに『伝統と個人の才能』というエッセイがあります。この中でエリオットは、個人の才能というのは近代の個人主義が謳うように自律したものではなく、伝統、つまりすでにあるものの中から批判的に再発見されるものであるとしている。同様に、私たちが西欧近代の保守主義を援用して「伝統」を語る際に抜け落ちるのは、日本が経験した「近代化」の複雑さであると思うのです。それは近代化がかなり露骨な形で西洋化であったということであり、この力を持った「他者としての西洋」との政治を無視して「伝統」を語りだすと嘘になってしまう。近代化で国民一人ひとりが経験したのは生活様式の急激な変容でした。着物を脱いで洋服を着ようとか、畳を捨てて洋間にしようとかいう具体的な生活上の判断の蓄積が近代化だったのです。この心身がねじれた生き方の背後にいる西洋という他者とその力の働きを隅々まで感じとることがなされないまま、近代化が短いスパンで行われたことが、明治以降の日本において文学や批評が負った役割の重さと深くかかわってくると思います。この文脈で小林秀雄は「故郷を失った文学」という言葉を使いました。この故郷喪失もしくは自己喪失が今までの生活のフォルムの喪失であれば、型の再生は単純な伝統的型への回帰という形はとらないし、とり得ない。これは当然ながらエリオットの経験していない問題で、日本人独自のことなのですが……。

浜崎:戦後はもう七十年経とうとしています。そして、明治から大東亜戦争までもほぼ七十年で同じです。小林はこの後者の七十年の最後に出てきた人物です。昭和十七年に「近代の超克」という座談会が雑誌に掲載されますが、「近代の超克」という言葉がある種の説得力を持つ少し前に、近代を徹底的に疑って出てきたのが小林だと思います。例えば、明治二十年代から三十年代に日本の近代国家としての大きな枠組みが決まりますが、以降、西洋一辺倒で近代化が進み、それは現在よりもひどかったかもしれない。そんな時代に生を受け、輸入文化であるフランス文学にのめり込みながら、関東大震災の後に出てきたのが小林です。震災後、馴染まれた畳、障子、ふすまという生活様式は後退し、同潤会に代表されるようなアパート建築が出てくる。また自動車の数も急増し、ラジオ放送もはじまったという時代です。今から見れば、小林には下町江戸っ子の気質も残っているようにも見えますが、それでも小林自身が言う「故郷を失った文学」という言葉が一定のリアリティを持つような、そんな時代を生きていたことは事実です。実際、初期の小林秀雄は「伝統」という言葉を使っていません。ランボー論、志賀論、芥川論でも出てきません。『様々なる意匠』の中で「宿命」という言葉が出てきますが、後にこの「宿命」をめぐって思考を純化させ、その過程でドストエフスキーと出会っていく。その出会いによって「社会的伝統」という言葉を少しずつ使うようになっていきます。ここが面白いと思うのですが、「自明な伝統などない」「故郷など失ったのだ」と言う小林がそれでも「社会的伝統」と言うわけです。だから、それは単なる伝統回帰とは違うはずです。回帰とは、伝統あるいは故郷から出てしまった者が、もう一度そこに帰ろうとすることです。すると論理としては、伝統の外から伝統を対象化して、そこに向けて回帰するという話になる。それが伝統回帰であり故郷奪還です。しかし、「伝統」は対象ではありません。小林が言うところの伝統とは、失っても、失っても、気がつくといつも足下で私を支えているもののことなのです。だから、これは実は「伝統」が一度も失われたことがないということでもあります。つまり「回帰」ではなく「気づき」と言った方が正しい。どんなに「伝統」や「故郷」を失ったと言っても、それを語っている言葉は日本語です。この日本語の伝統と手触りがなければ、自らの思考も言葉も存在し得ない。疑いさえもここからしか出てこないと気づいた時、小林に古典への視点が出てきたのだと思います。

花田:日本語のリアリティの問題は、あれほど才能がある小林秀雄が、なぜ小説などの創作に直接向かわずに、他者の言葉を論ずる批評へ向かったのかに関係してきますね。

浜崎:そうですね。明治三十年代後半から四十年代にかけて、自然主義小説が出てきます。自然主義が行ったことは、私の内面を発見するということでした。国民国家の枠組みから逸脱した私一人の内面に初めて形を与えた。ただ、ここには矛盾もあった。社会は交換価値から成り立っていますが、その交換価値からこぼれ落ちてしまった私を表現し、それを誰かが読むということは、すなわち私の「内面」が交換価値として流通しはじめてしまうということでもあります。すると、「内面」と言いながらも、そこには必ずある種の「外面」性が伴うことになる。そういう欺瞞が近代文学の「内面」には付き纏っています。したがってそれを制度だと言ってもいい。二葉亭四迷はそのことで小説が書けず苦しみました。そこで一度筆を折って政治に向いますが、またもう一度社会からこぼれ落ちてゆくものを感じて文学に戻ってくる。だがやっぱり書けない。書いてしまうと、それはまた交換価値や政治の問題になってしまう。そこで、また政治に向かうと。二葉亭は、この分裂と緊張を生き続けました。これは夏目漱石や森鷗外の文学にも言えることでしょう。その中で彼らは苦闘したのです。大正期にはそれらの矛盾が忘れ去られて、緊張感も薄れていきます。日露戦争後に日本の近代化が完成されてくるということもありますが、それよりは、第一次世界大戦が決定的に大きい。大戦が勃発すると、日本は輸出によって一種のバブル景気を経験し、しかも戦わずして戦勝国となります。そこに成立したのが菊池寛を中心とした「文壇」であり、そこでようやく作家が食えるようになった。そうなると、彼らは自分の「内面」を表象することがあかたも価値であるかのような錯覚に陥りはじめます。明治期には社会からこぼれ落ちてしまったがゆえに、その「内面」を表現する場所を求めていたのですが、逆に、その「内面」を表現すること自体が価値になってしまうという逆転現象が起こるのです。しかし、そんな「内面」への信憑も関東大震災を機に疑われだし、その後に激動の昭和が訪れる。そんな時代に登場したのが小林秀雄でした。小林は「もう内面なんてものは信じられない。確固たる自我、私などは紛失してしまった。あるのは自意識だけだ」と言います。自意識は、私を疑い、私を疑い、疑っている私をも疑っていきます。しかし小林は、その懐疑の果てに「はじめて他人というものが自分を映してくれる唯一の歪んでいない鏡だと合点する」と言うのです。確固たる実体としての私などない。そうである限り私を私として語ることは不可能です。しかし、そんな私が彷徨しながらある作品に出合い、なぜかわからないが感動する。感動しているということは、向こうに感動させている何か(他者)があり、こちら側にそれに感動している自分がいるということです。すると、私を語ろうと思えば他者を語る他なく、他者を語ろうとすれば私を語る他ないということにもなります。これが小林秀雄における「批評」の誕生と言われるものであり、一度死んだ自分が、他者を通して甦るということでもあります。だから「批評」を発見するのは、実は「私」を失った者だけなのです。近代が危機を迎えなければ「私」への徹底した問いは浮かび上がらない。危機に際して、ようやく何によって私は支えられているのか、何が私の感動を可能にしているのかという足下の条件の問いの方に目がいくようになる。それが、昭和という危機の時代に初めて「批評文学」が立ち上がったことの意味だと思います。

花田:関東大震災や空襲がキーワードになってくると思うのですが、これらによって今までの生活の型が大きく変えられてしまいます。鷗外や漱石あたりまでは人びとによって生きられた風俗が感じられるのですが、それ以後はない。物語の場所としての生活様式、風俗ですね。例えば、西洋ならばお昼時に教会の鐘が聞こえてくる、それを鳴らすことについて住民が黙して合意している感覚、安心感といっていい。小林を読んでいると、生活様式がなくなっていく不安、それがないと小説が成り立たないという不安を感じ、その根にあるのが近代化の最中での関東大震災や空襲の経験だと思いました。これは戦後日本において創作とは何か、文学とは何かという根本問題にもつながってきますが、小説の可能性、不可能性も含めてお伺いします。

浜崎:なぜ小林秀雄に興味を持つのか。なぜ戦後七十年と明治から戦争までの七十年を比較するのか。それは、現在が、小林が生きていた時代と非常に似ていると思うからです。戦後文学を振り返った時、そこにはある種共有されたリアリティがあったような気がします。例えば、大江健三郎の『万延元年のフットボール』。物語は主人公の根所蜜三郎が六〇年安保に挫折するところからはじまります。時代性が圧倒的に寄与している。主人公がどう動き、世界がどう書き換えられるのかという関心の中に、大江の一歩が我々の一歩かもしれないというリアリティが、錯覚かもしれないがありました。また、江藤淳は『成熟と喪失』の中で小島信夫の『抱擁家族』について論じていますね。高度成長期に入って大きな政治的マターが後退し、三種の神器と言われる冷蔵庫、テレビ、洗濯機がそろったアメリカン・スタイルの夢の生活が、現実のものとなりつつあった。そんな時代に、アメリカ的=先進的な家族の崩壊を描くことは一つの事件たり得た。それが『抱擁家族』という小説のリアリティです。あるいは、村上春樹でさえ、時代のリアリティによって支えられています。政治の季節も終わり、高度経済成長も終わった時代の中で、私たちにはあと何が残されているのかといった時に、ピンボールで遊ぶこと、あえてピンボールで戯れてみることに時代への応答、あるいはスタイルを見出した。これが『1973年のピンボール』という小説が持つ時代感覚です。そこにはまだ、彼は私で、私は彼だったかもしれないという感覚がありました。しかし、果たして現在にその感覚はあるのか。平成七年に阪神大震災が発生し、オウム真理教事件が起こりました。平成十三年には小泉構造改革があり、現実の方が加速度的に解体していきます。その中でリアリティそのものがすり減っていく。つまり、あなたの問題はあなたの問題でしかなく、私の問題は私の問題でしかない。つまり私とあなたは違う、この感覚が広がっていく。そんな断片化した時代の中で、小説的な言葉、虚構の物語をどれほどまでに我々はリアルに考えることができるのか。ここで、小林の登場した時代を振り返ると、プロレタリア文学があり、新感覚派があり、私小説があるというように、実はすでにバラバラなんですね。今読んでも面白いのものもありますが、ほとんどの小説は読むに堪えない。小林も当時の小説はほとんど読んでいなかったはずです。そういう意味では現在と非常に似ていると思います。漱石を読むことに時代を託すことができたという時代もあったかもしれませんが、小林の時代にはそれはなかった。だから小林は、創作ではなく批評という方法を採らざるを得なかったのではないでしょうか。

花田:日本の近代化の歴史を俯瞰するとわかることは、それまでの文化的型が別の新たなるフォルムにとって代わったというよりは、機能性や効率性といった世俗的概念の中でフォルムそのものが溶解していくのですね。その過程で顕在化したのが個人の自我の問題でした。漱石はその最たる者だと思いますが、近代文学の大きな主題には自我の問題、つまり人間のエゴイズムをいかにするかという課題がありました。なぜか。生活の型があった時代は、生活のフォルムによって自我が否定あるいは浄化されていた。ゆえに他者と清潔につながり合えた。その崩壊を描いた後は、自我というものが垂れ流しになってしまい、文学が成り立たなくなってしまった──そういう状況だと思います。生活の型に関して、浜崎さんは以前「郊外論/故郷論」を書いていましたね。たしかに敗戦は日本人の故郷喪失を決定的にしました。そこで敗戦を白く塗りたくる新たな生活のコンセプトとしてニュータウンが現れる。ですが、戦後生まれの両親を持つ私たちの生まれた場所は郊外でありニュータウンであり、そこしかない。今の三十代、四十代にとっては、逆説的な言い方ですが、ニュータウンそのものが古びてきている。そこで私たちは生きなければならない。そういった時に、生活のフォルムはあり得るのだろうか。新たな風俗というものは生まれてくるのでしょうか。浜崎 ニュータウンについて書いている時に、ニュータウンで人々が死にはじめると変わってくるのではないかと思ったことがあります。例えば、「何々は歴史になった」という時、私たちはそこに人が死んでいるという感覚を持ちます。小林は「歴史と文学」というエッセイの中で、「歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている」と言っていますが、確かにそれは「子供に死なれた母親」の哀惜の感情に似ている。つまり、取り換えのきかないものを失ってしまったという感覚です。そして、その一回切りの出来事は場所と密着していて、その場所抜きでは思い出すこともできない。それが土地の歴史性です。だから、ニュータウンが取り換えのきくものと扱われている限り、どうしても人工的な虚構性は払拭できません。しかし、その場所にも人の人生があります。とすれば、その場所で自分の親なり家族なりが死んでいった時に、ようやくニュータウンは掛け替えのない場所として現れ、それとの付き合いの中に歴史が育まれていくのかもしれないと思ったのです。

花田:時間を信じるということは、現在に足りないことだと思います。東日本大震災からの復興でも、あまり時間の力というものを信じようとしていない。人間の才覚だけで何とかなると思っている。被災者の心の問題にしても街をつくるという問題にしても、時間を信じていない。準備を完成させるものは、「待つ」という精神の行為です。人工的に解決できる部分と時間が解決できる部分を分けないところに、すれ違いが生じています。

浜崎:だからヒステリックになるのだと思います。すべてを自分の手でどうにかすることはできない。時間にしか任せることができないこともある。悲しみが癒えるとか、喜びが戻ってくるということは、時間にしか頼ることができません。それなのに、それさえも何とか操作できると思っている。これは今度の東日本大震災でもそうでした。「傷ついた心のケア」を人の力で全てどうにかできると思っている。しかし、そんなことはできないということは常識でわかるはずです。福田の言葉を借りて言えば、九十九匹には限界があるということです。むろん、その限界に腹をくくった上でなら、政治が為すべき仕事は多い。しかし最終的に一匹の問題は「全体」にしか解けません。そして「全体」は、政治的解決を図る九十九匹の問題ではありません。それは時間や言葉や文化の積み重ねの手応えの中にしか甦らないものです。そこには人工的な操作性が入り込む余地はないのです。

一匹と九十九匹と

花田:「一匹と九十九匹と」は印象的ですが、震災はその問題を浮き彫りにしたと思います。経済的繁栄や文明の影、つまり九十九匹の影に忘れていた一匹の問題が震災によって顔をのぞかせたのです。いわば、復興を通して日本の政治が被災者の心の問題、一匹の問題に触れざるを得なくなった。住居移転にしろ防波堤建設にしろ、生活のみならず、失った死者とのつながり方にかかわってくる問題で、それをいかに合意していくのかという、かなりシビアな問題があり、そのために復興が遅れているという側面があります。そこで決定的に足りないのは、合意形成のための語り口の吟味です。それは個人と社会をいかに折り合わせていくかということですが、残念ながら現状では語彙が決定的に足りない。これを経済政策のみで解決することはできません。ここでも、福田恆存が目指していたものはこれから見直されていくだろうし、見直されるべきであると思います。こでせっかくなので、一匹の問題の語彙を増やすために文学の話をしたいと思います。小林秀雄は最後には『本居宣長』を書くのですが、最初はランボーから入り、ドストエフスキーにいき、ベルクソンで失敗して、本居宣長を見つけました。浜崎さんにとっても他者としての西洋という問題があると思うのですが、どのようなきっかけで文学に入ったのでしょうか。

浜崎:私が本を読むようになったのは、思春期の一時期にいじめを受けたのがきっかけです。それは端的に言えば、初めて味わう一匹性の問題です。小学生の時まで無邪気に遊んでいた少年が、中学生になると急に偏差値競争を強いられ、丸坊主などの校則にも縛られるようになる。さらに、そこでいじめを受けた私は、一年で部活をやめてしまうことになります。すると、友達は皆部活に入っているので放課後は一人きりになってしまう。部活に入っていない男子生徒など私一人ですから必然的に目立ちますし、次第に居場所を失くしていきます。その時、私を支えるものは言葉と芸術しかありませんでした。芸術、文化とは一匹の問題を抱えている限り、どうしようもなく悲しいもの、暴力の一歩手前にあるようなもの、突き放すようなものを必ず含んでいる。単に包むだけならば茶道や華道といったいわゆる「文化遺産」でいいのかもしれませんが、文学とは突き放すようなものを孕みながら、なお、その狂気をギリギリの場所で癒すような力を持っています。ところで、ある日このように追い込まれた人間の苦悩を描いているものは何だろうかと考えた時、最初に思い浮かんだのが聖書でした。イエス・キリストこそ一匹の代表者に見えたのでしょう。そこで本屋で聖書を買い求め、聖書を読むその横で、次第に西欧文学を手に取りはじめたのです。例えばヘルマン・ヘッセの『デミアン』。あるいはドストエフスキーの『地下室の手記』。カミュの『異邦人』なんかですね。中でも、第一次世界大戦の渦中で書かれた『デミアン』はインパクトがありました。ヘッセは、第一次世界大戦で混乱した時代を背景に「善」だけでなく「悪」をも含んだ世界を肯定しなければならぬと言うのですが、その影響もあって次第に「善悪の彼岸」を言うニーチェに傾倒していきました。これが私の最初の文学体験です。

花田:小林のように近代フランスの詩人に出会い、そこから文学に入っていくという過程はあり得ると思うのですが、聖書に直接にふれ、そこに宗教ではなく文学を見るというのがとても面白いと思いました。私は大学院でジョン・ミルトンという英国の詩人を研究していたのですが、日本と西洋の文学観の大きな違いは宗教との関係性にあると思います。ミルトンはアダムとイヴのことを延々と書き、それが文学になってしまう。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』でも「大審問官」においてイエスと政治の問題を語らせています。一方、日本では文学と宗教とのつながり方が西洋とは違っています。古代ギリシャ古典を例外として、西洋における近代文学の起源は聖書ですが、日本の近代文学においてはそのつながりが見え難くなっている。ロレンスは晩年に『黙示録論』を書き、一匹と九十九匹、つまり個人と社会の関係性を問題にしました。福田恆存はそこに衝撃を受けて、「僕を決定的に変えた本が一冊あるとしたら、それはロレンスの『黙示録論』だ」と言っています。『古事記』ではない。そういう意味で、近代日本人は西洋文学から影響を受けて、それに親しみ、わがことのように考えたと言えます。最近はこの親近感が失われてきたように感じられます。浜崎さんが編まれた『保守とは何か』でも、普段は入らないような福田の初期作品である「ロレンス」や「近代の宿命」などを入れていますね。

浜崎:福田が一匹の問題にかかわったのは、彼が徹底して文学を通過したからです。例えば福田が読み込んだ夏目漱石も一匹の問題を扱っている。社会がどんどん近代化し、西洋化していく時、その文明開化の物差しからこぼれ落ちていくものがあった。その孤独を描いたのが『それから』や『こころ』という小説でしょう。漱石は、この孤独をどう処理するのかまでは答えていませんが、しかし、その問いは未だにリアルで深いものです。また福田は、初期の作家論で一番好きなのは、自分の芥川論だと言っています。今読むと文章が硬いのですが、それでも一番愛着があると言っている。芥川龍之介は、文体においては森鷗外ですが、精神性においては漱石を一番引き継いでいる。例えば芥川が最後に書いたエッセイに『西方の人』というのがありますが、「西方の人」とは、イエス=キリストのことです。つまりこのエッセイ自体がキリスト教文化論なのです。その中で彼は、永遠に超えんとするもの=精霊、永遠に守らんとするもの=マリアという対比を提示する。そして、イエスは度し難いロマン主義者だと言うのです。永遠に守らんとするものであるマリアを中心として土着的な家族共同体が営まれているのですが、永遠に超えんとする者であるイエスはそこから抜け出て、神の声、天国のラッパの音を聞こうとする。例えば、婚礼の式典で葡萄酒がなくなったと言い寄るマリアに対して、イエスは「をんなよ、我と汝となにの関係あらんや」と冷たく言い放ちます。つまり、永遠に守らんとするものを振り切るイエスが描かれるのです。芥川もまたイエスに我が身を重ね、現世から飛翔する己の精霊に殉じようとした。しかし、イカロスがそうだったように、いくら太陽に向かって飛翔しても、太陽に近づいた瞬間羽を焼かれて落ちていく。ただ西洋であれば、その永遠に超えんとする者を見守り、それを救う神が用意されていたし、その神を媒介にして、一匹を一匹として承認する場所も用意されていた。けれども、日本にその条件はない。すると、超えんとする精霊は単なる空虚に行きついてしまうことになる。

花田:福田は「近代の宿命」で、中世も今も、結局はイエスによる偉大な放言の尻ぬぐいをさせられていると言っていますね。また西洋においては精神や内面は「神に直属する自己を抽象」化したものであるとも指摘しています。神に直属する意識ですが……。

浜崎:日本でそれは不可能だと思います。ただし、私たちも一匹性を持っているわけですから、その一匹性をどこで支えるのかという問いはあります。そして、その答えについては小林や福田に学ぶことが多々あると思います。しかし「一匹と九十九匹と」で言えば、九十九匹が政治なら、そこからこぼれてしまった一匹を擁護する福田は個人主義者なのだと誤解する人や、あるいは一匹を救うのが全体なら、その全体こそが国家なのだと勘違いする人がいます。けれども福田は、個人主義や全体主義のように主義化できるものを価値としたことはありません。一匹を救うのは、この私を後ろから押してくる力、つまり文化です。文化と国家は違うのです。

花田:西洋であれば、九十九匹からこぼれ落ちる一匹は宗教とキリストの問題になるのですが、日本の近代文学史はある意味、そのキリストからもこぼれ落ちていくわが心を、聖書やドストエフスキーを批判的に読みながら確認してゆく作業であったと思います。小林の問題意識もそこにあり、あれだけ入れ込んだドストエフスキーを未完成のまま止めている。つまりは、付き合いを重ねた上で、肌に合わないということを最後に見つけたのだと思います。

浜崎:小林は、戦後も含めて四十年近くドストエフスキーを読み続けました。だから軽々しく「日本回帰」したなどとは言えない。しかし、その四十年つきあった小林が、ドストエフスキーはついにわからなかったと言う。そしてその理由に、ドストエフスキーの「神」のわかり難さを挙げるのです。この迫力と緊張と説得力。一匹性の問題が凝縮されているので、ドストエフスキーは確かに面白い。しかしそれでも、それが小林一人の手に負えなかったという事実を無視するわけにはいきません。

花田:小林以後の私たちはキリスト教の問題、西洋の問題を素通りしてもいいのか、やはりそれではいけないのだと思います。一人ひとりがそれぞれの形でかかわらなければならない大きな問題です。それは西洋精神の進歩の果てであるアメリカとこれからの日本がいかに関係してゆくかという問題にも、底辺ではつながっていることです。ミルトンは、ロシアでもよく読まれていたそうです。ある説によると、ドストエフスキーの大審問官においては、ミルトンの『復楽園』、つまり悪魔が荒野においてキリストを誘惑する描写に影響を受けているとされています。大審問官の問いを端的に言うと、イエスという一匹を九十九匹に還元させている。つまりは「パン」の問題にです。民衆はパンで食わせておけばよくて、パンを食わせるという意味において大審問官はキリストよりも人を救っているのだと主張する。政治家や経済学者は基本的にこの大審問官としてふるまうし、ふるまわざるをえないでしょう。『復楽園』においてミルトンは、キリストと悪魔の対話を主題とします。具体的には悪魔がキリストに数々の誘惑をするのですが、例えば「この石をパンに変えよ」とか「汝に帝国を与えよう」とか言う。悪魔の誘惑はある種の物質主義に基づいている。キリストは誘惑を一つ一つ論破してゆくのですが、結局はその提案が他ならぬ悪魔の口から出ていること、つまり悪魔の「語り口」が気に入らないのだということに極まるのですね。ここで言葉が「口から出る」という表現はとても重要になります。新約聖書において生命の根源は神の言葉であるとされており、旧約聖書では神の言葉とともにマナと呼ばれる食物が与えられ、四十年もの間イスラエルの民の腹を満たし続けたとされています。だから、提案の内容もさることながら、その言葉が誰の口から出ているかが重要なのです。ミルトンは自らのアダムに、会話はFood of the mind、精神の糧であると言わせています。この何を糧にして人は生きるのか、パンか言葉か、という問いは、先ほどからの一匹と九十九匹の問題にかかわってくるのですが、雄弁なミルトンのイエスとは反対にドストエフスキーのイエスは自説をロマンティックな語気で展開する大審問官に対して無言のキスをもって応じます。恐らくそれは大審問官の孤独、彼をそうさせた悲劇的な原体験を浄化するための愛のジェスチャーでしょう。その後大審問官がどのようにふるまったのかは語られません。

浜崎:なるほど、大審問官が九十九匹の問題を、イエスが一匹の魂の問題を担っているという訳ですね。そういえば、ロレンスは『黙示録論』を書く前に大審問官の話を読み返して度肝を抜かれたと言います。ロレンスは、若い時に『罪と罰』を読んで、ドストエフスキーにハムレットばりの近代的個人主義、自問自答する人間の内面性を読みこんでいたのですが、あるきっかけで『カラマーゾフの兄弟』を読み返した時、かつてとはまったく違うように読めた。それが大審問官の部分です。そして、その後に書いたのが『黙示録論』であり、そこで提示されたのが、福田の「一匹と九十九匹と」にも影響を与えた、個人的自我と集団的自我というコンセプトでした。個人的自我と集団的自我、この関係をどう処理するのかという問題はロレンス自身もずっと問い続けたようです。九十九匹からこぼれてしまった一匹を、もう一度九十九匹の中に返すわけにはいかない。その時にロレンスは、古代ギリシャ思想に依拠して、この一匹を救うものを日輪とか、宇宙(コスモス)とか、大地の有機的な連関だとかいった形で表現しました。それをもう少し具体的に言えば、例えば晩年のロレンスが、『チャタレイ夫人の恋人』の後に書いた『死んだ男』という中編小説が分かりやすい。この小説は、イエス・キリストが死んだ後に生き返って動き出すという物語です。しかも驚くべきことに、生き返ったイエスはエジプトに向かい、そこでイシス神の神殿に仕えている女官との間に子供をもうけるのです。そしてイエスを捕らえるための軍隊がローマからやってくると、イエスはまた旅立っていく。先ほどの芥川の言葉を借りれば、ロレンスは「永遠に超えんとするもの」を死につかせ、大地に戻し、「永遠に守らんとするもの」である女との交わりを通じて新たな生命を生み出すという話を書いたのだと言えます。これが自然に従うということであり、世代を超えるということであり、生命を営み、生活をするということであります。ロレンスは、この男女という小さな単位の身体的繫がりにおいて、第一次大戦で傷ついたヨーロッパ精神の再生を祈っていたと言えるかもしれません。

花田:つまり、神という普遍的なものが一個の具体的な肉体に再び宿り、ごく普通の生活をして、ごく普通に子を生むということですね。

浜崎:仰る通りです。精神が自らの条件である肉体を受容していくということですね。九十九匹からこぼれ落ちた一匹、その人間の一匹性を最後に支えるのは、結局最後は自然と繫がっているこの身体であるという話です。この身体性に基づくエステティックな感覚、つまりここにある生活感覚や共通感覚、そのようなものの中に喜びを見出していくということです。

美的判断の可能性の中心

花田:『表現者』で、ハンナ・アーレントと福田恆存について浜崎さんが書いているものを読ませていただいたので、次はアーレントについてお聞きしたいと思います。

浜崎:花田さんも『新日本学三十一号』でアーレント論を書いていましたね。花田さんから勧められたので、アーレントの映画も見に行きました。映画そのものが特に素晴らしいというわけではないのですが、アーレントという一人の女性思想家を興味深く描いているのは確かで、改めて学ぶことも多くありました。私たちがアーレントの『人間の条件』や『革命について』、『全体主義の起原』といった本から受けるアーレント像というのは、強そうなインテリ女性、ちょっと近寄りがたい女性というイメージです(笑)。それが映画だと可愛いところがありますよね。夫は高校中退ながら後に独学をして左翼活動に入り、その挫折の中でアメリカに渡り大学で哲学なんかを教えている。アーレントはそんな夫に甘えたりしていて、身体的でチャーミングな女性として描かれている。全体主義の非身体性、あるいはシオニズムのある種の理念性に嫌気がさすという感覚は、彼女のあの身体性から出ていたのではないかと映画を見て感じましたね。

花田:はい、映画では女性であることに焦点を当てていますね。女性であるということは、それはバーゲンに行って良い服を選んだり、スーパーでサンマはどれが新鮮かしらと選んだりすること、つまり生活の中で美的判断を自然にできる存在だということです。そして、それは男性には決定的に欠けている。何が良いとか、何が美しいとか、そういう判断が生々しく生きることにつながっている。極端に言えば、そのように生きている人間は常識が働き、大きくは間違わない。が、男性は時に大きく間違ってしまうことがある(笑)。観念に走って美と生活を切り離し、美術館には通うけれども日常の美はない、これは大きな問題です。何か美しいと思うことが全体主義に抗す起点となるということが、アーレントの大きな主題になっています。最後の本となるはずだった「判断力」を書かずに亡くなってしまいましたが、もし書いていたらどんなものになるかを想像できる断片は数多くあります。それをつなぎ合わせていくと、今のような話になるのではないでしょうか。何か美しいと思うことの内部に他者の存在を感じとるということが、共同体やコミュニティの問題にかかわってくる。

浜崎:彼女は晩年に『精神の生活』を書きました。この本は二巻まで刊行されていて、一巻目が「思考」、二巻目が「意志」、そして三巻目として「判断力」が予定されていたのですが、アーレントの死により三巻目は刊行されなかった。代わりに、そのエスキースとして『カント政治哲学の講義』が残されました。この構成はカントへのオマージュになっていて、『純粋理性批判』が一巻の「思考」、『実践理性批判』が二巻の「意志」、そして『判断力批判』が三巻目として予定されていた「判断力」に対応している。だからこれは、カントの三批判書を彼女なりに編み直していると考えることもできます。ところで、カントが三批判書を書いた時のことを調べて見ると、『純粋理性批判』と『実践理性批判』はもともとセットで計画されており、実に整合的に書かれています。『純粋理性批判』は感性、悟性に焦点を当て、それらがどのように働き、どのように私たちの認識を成り立たせるかということを徹底して書いています。もちろん、「世界は神によって創られた」などと独断を下す理性についても論じられていますが、やはりメインは経験的認識能力の境界確定の試みです。しかし倫理は、むしろこの独断的な決断によって成り立っているということで、『実践理性批判』では理性に焦点が当てられていく。しかし、この二つの批判書はどちらも個人を中心として議論を進めている。つまり、個人の世界認識はどのような枠組みに基づいているのか、個人の倫理はどのように構成されているのかということです。実際『実践理性批判』でも、自らの理性が掲げた定言命法に私自身が従うというオートノミー(自律性)の可能性が論じられています。しかし、ここで一つ問題がでてくる。では、どうやって感性・悟性と理性とを結ぶのか、つまり、どうやって経験的認識と超越的理念のバランスを生きるのかという問いに突き当たり、その延長線上で「想像力」あるいは「判断力」の主題が出てくる。そして、そこで初めて、他者と共にある「共通感覚」が問題となり、カントは『判断力批判』を書かざるを得なかった。

花田:しかもその計画をしていなかった『判断力批判』が、ある意味最も刺激的な作品となったというのは面白い。

浜崎:「美」の問題、「判断力」の問題が「想像力」の問題とかかわってくるのですが、カントは「趣味判断は、それが主観的であるにもかかわらず、万人に普遍的に妥当することを要求する」といいます。これは「私が他者に開かれている」ことの証拠ではないでしょうか。ただ、この「共通感覚」はカントにおいては根拠が示されていません。根拠はないけれども、なぜか私はあなたに開かれている。私が花を見て美しいと思えば、花田さんも美しいと思うだろうということです。これは、ごく自然に通じ合っているということなのですが、敢えて理屈を立てようと思えば、私と花田さんの主観が別々に「美」を感じているというのではなく、「美」の中から私と花田さんの主観が生み出されてくるというしかない。すると、一応「美」の普遍妥当性の謎も説明がつきます。ここで「美」を言い換えてみましょう。福田恆存はこれを「全体」とか「言葉」とか「伝統」と呼んだのではないでしょうか。「全体」や「言葉」や「伝統」の中に私たちが存在しているがゆえに、一つの物をばらばらな二人が見ても同じ感覚を共有できる。こう考える以外に、「美」の理屈は立たない。実はこれは近代的な考え方とは逆です。近代的思考は必ず私から議論をはじめます。私の議論にはじまり、私の外にある何かに辿り着く。しかし「美」の議論は、「全体」があるから私とあなたがいるという順序をとります。論理が逆転するのです。ただしここで注意したいのは、この「全体」を対象化して語った瞬間、その語りが全体主義的性格を帯びてしまうという点です。対象化できないままに生きられ、感じられている「全体」、その美感においてしか甦らないというのが伝統的「全体」です。アーレントのカント論が重要なのは、それを知っていて、この「全体主義」の全体と、「美」の全体性を、totalとwholeの違いとして論じていることです。

花田:お聞きして感じたのですが、アーレントの全体主義批判を優れたものにしている中心にそのtotalとwholeの緊張関係があるのかもしれませんね。が、第二次世界大戦以後、一般的な議論からその緊張感がなくなってしまったように思います。危険な思想はすべて捨てようということとなり、一緒に美的なものまで捨ててしまって、今は干涸びた個人主義と自由主義だけになってしまい、私たちの社会生活はその報いを受けている。その上でアーレントが「判断力」をアメリカで書ききれなかった心情もわからないではない。それはナチズム問題の本質に肉薄してくるからです。ユダヤ人批判、自己批判にもかかわる厄介でデリケートな問題です。アーレントが最も美を共有したのはハイデガー以外には考えられないでしょう。だから「判断力」を書けなかったということは、彼女の内なるハイデガー問題につながってくると思います。

浜崎:なるほど。それで思い出しましたが、ベンヤミンが「政治の美学化」という言い方でファシズムを定義していましたね。そして、その美学をひっくり返してもう一度政治化しなければならないと言います。しかし政治が九十九匹の問題であり、一匹を支えているのが美の問題だとすれば、政治を美学化しても、美学を政治化してもたいした違いはありません。全体があるから私がいるという実感はありますが、それをいざ対象化して語ってしまうと、全体主義を出現させてしてしまうという矛盾、今は、この矛盾に緊張していない人たちがあまりにも多い。福田の「一匹と九十九匹と」を何度も読み返す必要があるのは、この問題があるからです。

花田:集団的自我と個人的自我の問題をつきつめると、個人は愛し得るかという大変具体的な問題になってくる。結局、政治の問題とは個人と個人が愛し合えるかという問題──つまり生活の問題──にまで深くかかわり合っています。文学と政治をいずれか一方に還元させず、文学の政治的側面、政治の文学的側面に同時に目を向けるべきだとしたのは福田の慧眼で、これからの若い世代が学ばなければならないところだと思います。自戒を込めて言うのですが、現在の若い層は自分の暗い面に対して忍耐力がない、そこをもっと大事にしてほしいと思います。そこから九十九匹の問題を文学的な緊張感の中で再発見してほしい。が、そうそうに猛烈受験生になって自分の暗さを解消しようとしてしまう。そこにこそ本当の個性の芽があるのに、なぜそれを大切にして、ありのままの自己の心身と付き合おうとしないのかと思うのです。

浜崎:その通りですね。若者にはまず孤独を恐れるなといいたい。こうすればああなる式の話に飛びつかないことです。また、私は、「なんとかに刃物」ならぬ「学生にツイッター」とよく言っているのですが(笑)、今の若者は、何かあるといちいちツイッターで呟く。孤独を抱え持つことに耐えられず、すぐにそれを人と共有しようとする。しかし、そんな非身体的な共有は幻想の共有です。人が本当に開かれるということは、一度徹底的に閉じなければならないということを知らなければなりません。閉じて、閉じて、閉じて、自己喪失するまで閉じて、それでも立っているというその場所に気づき、その場所を深めるということが必要です。そうでなければ自信など持てるわけがない。そして、そんな風にして摑まれた自信からしか、本当に人に開かれるということもない。人と比較した優越意識なら、その辺にいくらでも転がっていますが、そんな優越を自信だと勘違いしている人間に限って、いざという時にその場の空気に弱い。情報技術がそれをますます加速させているような気もします。ただ一方で、時間をかけて付き合っている学生の成長を見ると、それでもまだ、私の中に若い日本人を信じる気持ちが残っていることにも気がつきます。

花田:彼らの自意識ではなく、生活しようとする力を信じるということですね。本日はありがとうございました。

対談:保守とは何か

対談:保守とは何か

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-24

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  1. 今、なぜ「保守」なのか
  2. 小林秀雄の「伝統」
  3. 一匹と九十九匹と
  4. 美的判断の可能性の中心