”アミィ”に捧ぐDuet

言葉とはいったい、なんなんだろうか―――。それを一回考えてしまった。俺のこの口から出る言葉は、本当に言葉通りの意味を含んでいるのだろうか? たとえば、感謝をしてないのに返事のように「ありがとう」とか……。ちょっとしたことでも、俺らの周りには嘘の言葉がはびこっている。俺はいったい、何を信じればいいのか。

 生田の中に根付いているのは、「模倣」と「反復」であった。これは、今は落ちぶれた生田が幼きころから学ばされていた学習塾で、生き残るための知恵、すなわち武器であった。
 生田はモラトリアムに閉じ込められている、大学三年生である。一年、二年と単位はあらかたとってしまったので、ゆったりとした生活を送っている。資格もとり始め、二ヶ月前に久しぶりに彼女も出来た。

 そんな彼は、求人誌を見てしめた、と思った。

―――クレーム対応のバイトです。資格等は問いません―――

 時給が高い、場所もあらかた近い。生田は早速面接に行った。受かる気でいた。資格もあれば、大学こそ三流だが、高校までならいいところに行っていた。つけたせば、いつでも入れる人材、という利点が生田にはあった。
 即日で生田は採用された。生田より彼女のほうが喜んでいた。
 彼女のほうから告白された生田。生田は、自分より背が小さければそこまで容姿にうるさくなかったつもりだったし、何より、その一生懸命な姿が好印象だった。初めて会ったのに、「いいよ」と返事をしてしまった。
「やったー!」
 はねるように喜ぶ彼女を見て、生田は久しぶりに心の奥がむずかゆくなったのだった。


「タケちゃんは単位に困らなくていいよね」
 大学の食堂で、生田の彼女、蓮池がコーヒーのにおいとともにため息を吐いた。
「自業自得だろ」
 生田はもうその話を何回も聞いていたが、蓮池は生田の機嫌を過度に気にする性格ということを把握していたので、やさしくたしなめるように心がけて言った。
「そうだけどぉー。ねぇ、そうだ。レポート手伝ってよ」
 そう言って蓮池はカバンから作文用紙を出してきた。
「なんのレポート?」
「成瀬教授のやつ」
「俺それ去年すでに取ったな。評定『優』でさ」
「ひどーい、あてつけー?」
 生田は、付き合ってから蓮池という女を、付き合えば付き合うほど面白い女だと分かり始めた。ひとつ、いじられなれているのかからかい易いこと。ふたつ、何も考えていないようで、実は考えていること。みっつ、生田と違って、感情が豊かなこと。その他もろもろ。
 とにかく、生田は蓮池という女を、女じゃなく、『隣を歩む者』として分かり合えればいいと思い始めていた。それから生田は、幸せと思える時間があることに気づいたのだった。


 果たして俺はは、今幸せなのだろうか。
 五体満足、平和に日々を過ごしている。ただただ今日を昨日にして、明日が今日を塗りつぶす。この日々を俺は、納得出来ているだろうか……?
「―――はい、はい。申し訳ございませんでした。はい、それでは失礼いたします」
 俺は電話を切った。タバコに火をつける。一気に吸う。火種がじりじりと、音を立てて葉を煙に昇華させる。
 こんな日々でも、俺は満足したい。そのために俺は今、このバイトをやっている。


 登校後、必ず一服することにしている生田は、今日もまず喫煙所へ向かう。
「タケヤ」
 喫煙所には友人たち。指にタバコを挟んで、煙とともに談笑しあっている。
「おう、ケイタ。明日の課題、ちゃんとやったか?」
「もちろんやってねーっす」
「お前……。こんなところでタバコ吸ってる場合かよ」
「困ったときにはタケヤ様を呼べって、お母さん昔言ってたわ」
「言ってるわけねーだろタコ」
 お調子者のケイタは、へらへら笑ってタケヤに絡む。その顔からは全く焦りとか、後悔という感情は見受けられない。ただ、生田はケイタのことを嫌いではないし、むしろいつでもお調子者でいられるところが気に入っていた。
「だいたい、二千字のレポートとか……。書けるわけねーじゃん!」
「とても大学三年生が言う台詞とは思えねーな」
 もし本気だったら救えない。生田はケイタの将来が心配になった。ここで自分が救ってあげないと、ケイタの単位が危ないことを直感した生田は、致し方なくカバンから原稿用紙五枚を取り出した。
「とっとと写せよ? あ、丸写しは駄目だからな。ところどころ違うことを書いておけよ」
「さすがー。持つべきもんはタケヤだなぁ」
「はいはい」
 空返事でケイタを煙に巻いてタケヤは時計を確認する。そろそろ講義が始まる時間だ。
「んじゃ俺行くわ」
「あいよー。明日の講義ん時返すわー」
 ケイタの声を後ろに、生田は面白みもないただの単位稼ぎのための講義に足を運んだ。


 生田の持っている単位は、すでに卒業規定の八割以上だった。だから、ケイタのように単位取得に今更あくせくしなくていい。卒業まで必要な講義を受け、論文を書けばいいだけ。だから生田は簡単に受かる資格を手当たりしだい取っていこうと考えていた。持っていて困らないだろうという、安易な考えだが、暇つぶしにはなるだろう。
 夢、目標……。生田にはそういった将来への明確な指標を見つけることがなかった。志そうと焦ったこともない。別になくとも生きるのに困らないと知ってからは、当たり障りなく自分に出来ることを消費していくことを覚えた。友人にそれはむなしいと言われたが、生田にはそのむなしさというのがあんまり理解できなかった。
 友人、恋人……。自分のことを理解してくれる人がいるだけで、平和に過ごせるだけでいい。生田は自分でも事なかれ主義だと思っている。友人に振り回され、恋人のわがままに付き合っている生活が楽しい。
 ただ―――。ただ、不安? 疑問? 恐怖? そのどれともつかない言いようのない、生田のつま先から侵食してくる寒気さが、自分の心の混沌に静かに佇んでいる気がしていた。気がしているだけで、それは勘違いだと生田は気にしないようにした。
 トゥルル、トゥルルル……。
 携帯が鳴った。さあ、バイトだ。


 蓮池が帰ってきた。電話中の生田を見て、声を発さず口のみで「ただいま」と言う。幾多は目線を蓮池に向けずに、かわりに手をひらひらと振った。
「―――はい、そのような事例はなかなかございませんで、対応が遅れてしまって誠に申し訳ございませんでした。はい、そのようにさせていただきます。貴重なご意見ありがとうございました」
 携帯の通話を切ったのを確認してから、生田はため息を吐いた。吐ききった。
タバコに火をつけようとすると、蓮池が生田の頭を軽く小突いた。
「タバコダメ」
 生田は蓮池のこのしぐさが大好きだった。じゃれてくる子犬のような、そんなスキンシップを見るためだけに、分かってやってみたりするときがあるくらい好き。
「今日もずいぶんといろいろ言われたんだね」
「それがお仕事ですから」
 ソファに身を預けながら、生田は書類に目を落とした。
 生田の働くクレームセンターは、少し特殊だった。様々な会社の様々なクレームを、本部で一回受信、コンピューターで処理してアルバイトメンバーに転送される。もちろん、メンバーにはシフトが存在していて、その間に不定期にかかってくるようになっている。家に居ながらバイトが出来る、利のいい内職みたいなものだ。このバイトにしてから、蓮池の料理を生田は毎晩食べられる。
「このマニュアル、全部覚えたの?」
 テーブルに置いてあるかさばった書類を指差す蓮池。まるでおぞましいものでも見るかのような言い方に、生田は噴き出してしまった。
「ふふっ、そんな引かなくてもいいじゃん。全部、家電量販店のマニュアルだからさ、たいていどこも同じだし。すぐ覚えられるよ」
「この間はコンビニだったよね?」
「そうだったような気もするね」
 覚えるという作業は、生田にとって苦痛ではなかった。幼いころから勉強する空間に慣れ親しみ、覚える方法というものを、必然的に身に着けていた生田にとって、かさばるマニュアルの共通点と要点をおさえることなど、造作もなかった。
「とりあえず低姿勢、それで、弱く出て、敬語で喋ってればいいのさ」
 この言葉を吐いた瞬間、生田の志向が一瞬凍った。自分の中で佇む存在の触手のようなものが、心臓にぬるりと絡み付いてきたのだ。そのときだけ、その存在は輪郭をくっきりとさせた。
「もうっ、プライドないんだから」
 茶化してくる蓮池の声は生田には届いていない。だが、思考の凍結は生田の深層にまで及んでいた。
「あ、ああ……。そうだな。給料がいいからね。そこは我慢だ」
 我に返る生田。何かにいてつく心を奮い立たせていつものように振舞う。
 これまでにない不安、言い知れぬ恐怖に、心がまだ凍えているのであった。


 次の日、いつもの喫煙所で生田はケイタを待っていた。昨日言っていた、課題を出すための授業を一緒に行くために待っているのだ。生田は長く待っているわけではないのだが、足を小刻みに揺らして苛立っている。
(俺がいつでも待っていると思ったら大間違いだ)
(なんだかんだ言って俺が便利なだけなんだろ)
(ルーズなのもいいかんげんにしろよな、ほんと。こっちの身にもなってみろ)
 なぜ、自分がこんなにもイライラしているのか、自他共に温厚と認める生田には分からなかった。分かってさえいれば、これほどまでに苛立たなくてすんだろう。
「いやー、ごめん遅くなってさぁ」
「遅いよ、いいから早く行くぞ」
「おうおう」
 こうなってしまうと、いつもは好印象のお調子も、生田の頭に余計に血を上らせることになる。
 教室ではすでに講義は始まっていた。話の内容を聞くと、前回の復習をしているようだ。まだ始まったばかりだと、生田は安堵する。
 教授は、教室にいる生徒らに長々と講義と題した自らの思想をのたまう。ある生徒はうつむき、ある生徒はゲームを机の下で隠れてプレイし、またある生徒―――例えば生田の隣の、ケイタのように今にも寝そうな生徒がいる。教授は今まさに大きい独り言をしているのだ。生田は自分を棚に上げていることは重々知っていたが、それでも、どうしようもなくふつふつを疑問が沸いてきてしまうのだ。いったい、誰がこの独り言を聞いているのだ。否、生徒たちが独り言にしてしまっているのか。
 会話というものは、相手に伝わり、自分にも伝わってこそ初めて意味を成すはずだ。ただ垂れ流される教授の講義内容が、隣の友人とぺらぺら喋ってる女や、寝ているケイタによって零され、落ちていく。荒廃する要素すら、寒気がするほどなにもない。そんな光景を、生田は今までずっと見てきたし、疑念も、恐怖も感じ取ったことすらなかったはずだ。なにをいまさらと生田は鼻で笑いたかったが、それよりもやはり、疑念や、言い知れぬ恐怖が先行するのだ。
 本来の講義の意義を、生田は無視して考えた。悶々と自らに問いても、答えは明確にはならない。幾度となく繰り返した。まるで、自らの答えを拒否しているようだ。疑念を生み出しては消費せず、ただいたずらに生み出し、他人の心に恐怖を覚えているのだ。そこまでは分かる。誰だって他人の心を覗けないから恐怖するのだ。その恐怖は生きていれば至極当然。生田は分かっていたつもりだったが、やはり、負の連鎖は収まらない。残ったのは、隣で平然と寝こけているケイタと、自分は同じ、ということだ。
 講義も終わりに近づきつつある頃、教授が課題の回収を始めた。
「おいケイタ、課題返してよ。集めはじめたから」
 ケイタは眠気にさいなまれながら、カバンの中をあさる。中から出てきたのはくしゃくしゃになっている原稿用紙五枚。しかし、まだあさる。結果、何もカバンから出さずに、ケイタの口からはおなじみのお調子が飛び出した。
「ごめーん、タケヤの分家に置いてきちゃったわー」
 救われないな、と生田は思った。自分のことを思ったのではない。ケイタのことだ。怒号を飛ばすより先に、呆れ果ててしまった。「いやー、ごめんごめん。ついてっきりね。机の上においておいたんだけど」と続けたケイタ。反省の色、というのを、この男は知っているのだろうか。謝罪とは、誠意が伝わってこそだ。生田は落胆するしかなかった。
「ごめんついでなんだけどさ、ノート写させてくれないかなぁ?」
(結局、こいつは、俺を利用できる、便利なだけなんだ)
 生田はただただ、脱力した。あるいは自分に絶望した。だから、生田は無言で教室を出た。二度とケイタの顔など見たくもない。


「ええ、なるほど、かしこまりました。そのようにお伝えします。はい。またご利用ください。ありがとうございました」
 気づいてはいけないことに、生田はついに気づいてしまったのだ。
 いや。それは違う。
 ついに追い詰められた、といったほうが正しい。
 ごめんなさい、すいません、申し訳ございません、ありがとうございましたエトセトラ。
この言葉たちは、世界に空気のように存在していて、もはや飽和しているくらいだ。しかし、そこにある意味とは、すなわち空虚。殻だけの胡桃、包装しかない贈り物。生田もまた、包装のみの言葉で会話するから嫌というほどくっきり見える。拒絶しても強制的に知らしめられる。仕事にしても、日常にしても、生田は幾度となく言葉に空気をつめて綺麗に包装してきた。それが己のうちに眠る空虚を呼び起こしてしまうことに気づかぬまま。
(俺が思っていることなんて、皆思っているんだから、ショックに思うことはない)
 皆、この空虚に気づいていないから平気でいられる。だが、生田は悟ってしまった。分かっていたって思っていたって、理解は出来ていない。出来ていたら平気でいられるはずがないのだから。
 悟ってしまえば北風に服を吹き飛ばされた旅人と同じだ。あとは凍え死ぬのを迎えるだけ。奈落の底を待望するだけ。
 ケイタの謝罪に意味なんてない。生田の原稿用紙をなくして謝ったのではない。謝っておくことで、便利の友人を手放したくなかっただけだ。クソの役にも立たない、ただの自分へのお膳立て。よくよく気をめぐらせれば、いろんなところから、そんなクソの臭いが漂ってくるようだ。もはや、生田の思考は奈落に落ちていくだけだった。音も立てず、落ちているのかも分からない。そんな暗闇へ、寒気さへ。
「はい、はい、すみませんでした。失礼します」

 この俺の言葉からでさえ、鼻の曲がる、いやしい臭いがするんだ……。


 生田はもう今までの生田として生きていくのが困難になった。寒さに身を震わせながら必死で泰然を作り上げる、そんな毎日だ。結局、生田はケイタにノートを見せお調子に付き合い、バイトも今まで通り謝罪の反復応用。毎日を平凡で埋め尽くしてしまえば、忘却を刷り込んでしまえば、寒さなどいずれ消えてしまうだろうと生田は半ば諦めて、割り切った。
「おう、ケイタ」
「タケヤ頭いいなー」
「その服かわいいな、りえ」
「そう? ありがとー」
「すいません」
「申し訳ございません」
「ありがとうございました」
「ねぇ、タケちゃん……。大好き」
「うん。……俺も」
「えへへ……」
「起きてー!」
「おはよう、りえ」
「もう……、何回も起こしたんだよ?」
「うん」
「朝ごはん出来てるから食べてね」
「うん」
「じゃ、私先に行くから」
「うん」
「………」
「……あ」
「うん……」
「ああ……、あ」
 そして、ついに。
「………」

「日常に、身を投げ出すのは、やっぱり」

「ケイタに、あわせて笑っても、バイトを、たくさんやっても、りえを、どれだけ抱いても―――」

「いいレポートって言われてもどんなに給料上がってもたくさん好きって言われても」

「………。ない」
「ないんだ、なんにも。からっぽだ……」

 空虚……、すべてが。空虚が俺の隣で寝ている。この部屋は透明の絵の具で塗りたくられている。俺の声のみ本物で、それだけが俺の生。声は聞こえ、言葉は飲み込めるけど、味がしない。布団のぬくもりで死と溶け合う。俺も透明になってしまいそうだ。

 奈落に落ちた生田の言葉を、生田自身が疑い、否定し、拒絶する。誰かを褒めたりするたびに、打算が混入していないか常に検閲していないといけない。厳密にふるいをかけたって、不安はどうしても残る。その残滓は、誰かが褒めてくれれば、企みや思惑に歪ませる。悪意や嫌悪は姿を変えないから、検閲しなくても、疑わなくてもいい。そう、悪意や嫌悪が今の生田の心の安らぎだった。だが皆は生田には与えなかった。それどころか、昨日の夜、蓮池に抱きしめられながら愛の言葉をささやかれたが、生田にとっては温かかったのは表面だけだった。体の芯から隅々まで伝染する凍えを溶かすに至らない。
「ただいまー」
 奈落に漂っていた生田の志向は、蓮池の声で現実に引き戻された。すでに日は傾いている。
「今日学校に行かなかったでしょ」
 生田は返事をしない。目は、開いている。体はだらん、とベットに横たえている。
「タケちゃん?」
 声は聞こえ、飲み込めはする。
「タケちゃん具合悪いの?」
 が、味がしないのだ。もうおいしくない。食べたくない。
「タケちゃん!」
 ついに体を揺さぶられた。とろとろと、奈落の闇が口から漏れた。
「うんだいじょうぶだからしんぱいしないででていってひとりにしてうるさいよ」
 蓮池の顔が、涙でくしゃくしゃになっていくのを、生田は気づきもしない。
「何で……? どうしたのタケちゃん。最近何やってもつまらなそうだし、友達とも離れて過ごしてるらしいじゃん! あのバイトし始めたときからそうだよ……。何かあったんでしょ? 私に言ってよ!」
 涙と鼻水を垂れ流し、感情をむき出しにする蓮池。訴えかけてくる蓮池に、生田は死んだ目を向けた。目にすら奈落を湛え、奈落そのものたりえる生田の目は、蓮池にはどの凶刃よりも冷たく、鋭く見えた。
(りえ……)
 生田から、蓮池の意味と特異性がどんどん剥げ落ちていく。残ったのは蓮池という女。
「うんだいじょうぶだからいいからはやくでていっていいからはやく」
「もう……、知らないっ!」
 出て行く蓮池。すっかり生けた屍と成り下がった生田にはけたたましく映った。闇に侵食されたはずの心が、膿んだかのようにずくずくと痛むのだった。


 お腹がすいた。
 ここまでお腹が空いたのは初めてだった。トイレくらいでしか、生田はベットから立たなかった。最近ではトイレに行くことすらなくなった。ご飯は作らない、米も炊かない、買ってくることもない……。何かを食べるという行為自体、おっくうなのだ。咀嚼し、飲み込む。考えただけで吐きそうだ。
 餓死でも何でもいいから、苦しまずに死なせろ。
 日が沈んで月が昇る。生田は月光に照らされて意識の波が押し寄せてくる。意識の波、それは生の証。月の光を受けてようやく人間として生きていられた。
 ―――ただ、人間が月光だけ吸い取って生きていられるはずがない。

 次に生田が目を覚ましてしまったのは、病院だった。残念だと思った。やっと神様の存在を信じられたと思ったのに。生物はみな、細胞レベルで生への執着が刻み込まれている。抗えるのは選ばれた人だけ。自殺できる人間の、なんと勇敢なことか。
「よかったぁ……、よかった!」
 傍らで泣き続ける声。蓮池のものだった。
「ま、極度の栄養失調だからな。そんなに心配しなくていいだろ」
 もう一人、蓮池をなだめているのはケイタだ。
「あ……」
 自分の言葉が、遠く聞こえる。まだ声が出せる。
「なんで、いんの?」
 二人だけじゃない。見覚えのある顔が、そろいもそろって心配そうに生田を見つめている。蓮池は生田の肩を激しく揺らして叫んだ。
「大事に思ってるからでしょ!」
「お、おいやめな……」
 蓮池をたしなめた啓太が、今まで見たことのないような真面目な調子で話し始めた。
「お前部屋でぶっ倒れてたんだよ。一週間もメシ食わず、水も飲まずでさぁ。何してたんだよ……」
(そんなことは知ってんだよ)
 何も食べたくなかったのは、生田の願いだった。生田が訊きたいのは、そういうことではない。心配していないのにその面をさげてここにいるのか。
「なんで、みんな、いんの……?」
「タケちゃん……」
 生田の胸に泣き崩れ顔をうずめる蓮池や、周りにいる友人たちに、生田にはどういっていいのか頭が回らない。皆、蓮池の様子を見てい居づらくなり、「俺たち外にいるから」とケイタが言い残して病室を出て行った。病室には生きた屍の生田と、その胸でさめざめとなく蓮池のみ。

(この女は、俺の女。愛情の対象)
 
 無機質に、成分分析でもするかのように、こそげ落ちた蓮池の要素を一つ一つ拾いあげていく。

(俺に何度も何度も愛情を向けてきた。特別な存在。想い人。付き合い。手を繋ぎ、ふれあい)

 拾い上げれば拾い上げるほど、蓮池との歴史がフラッシュバックしてくる。

(ああ、そうだ。そんなことも、あって―――。イラっときたり、可愛いなとか思ったりして)

(………。でも、それがニセモノなら?)

 這い上がってくる黒き闇が生田の身を襲い、身震いさせる。奈落から伸びる手が、喉笛をいつでも引き裂けるぞと首筋をなぞってくる。抗いようもなく、呪われているのだ。
「タケちゃん」
 泣き疲れているのか、まどろみの中に居てもなお、心を痛めている声を聞いた。彼女は本当に『彼女』だからここに居るんだろう。想い、想われているとかたくなに信じている。しかし、想われていないかもしれないという恐怖が、蓮池の心を痛めつけている。その原因は自分だと分かっていても、生田は応えられない。
(俺の気持ちが『ニセモノ』だから―――)
 すべてはそこに行き着く。
「りえ、俺を、俺に、『愛している』と、言ってくれ」
「えっ……?」
 蓮池は驚いたが、何の躊躇もなく言い放つ。
「愛してる」
 やっぱり飲み込めない。以前あれほどときめいたはずの言葉でさえ、形を、意味を思い出せない。反芻する自問自答に追い詰められてきゅっ、っと首をひねられたように、コロリと言葉が出た。
「ごめん」
 こんな言葉は言いたくないんだ。こんな、こんな安っぽい言葉なんか!
 生田は口を引き裂いてでも、疑い、拒み、消し去ってしまいたいとさえ思った言葉を取り消したくて仕方がなかった。心の底から思ってもないくせに、誠意ではなく保身の謝罪をしたことで、自己嫌悪は加速していく。
「タケちゃん?」
 生田を確かめるように、続けて言う。
「タケちゃん!」
「分からない……」
「分からないんだ。俺はりえのことも、俺のことも、皆のことも……。何を疑い、何を信じて、何を認めて何を許して……。そう、なんもかも分からない」
「俺は何を言っている? 何が言いたい? 言いたいことも持っていないくせに、どうして喋っている? 何もないくせに」
 こんなものは吐出物だ。蛆が沸くような、見るも無残に傷んで鼻がもげ落ちてしまいそうな臭いまでしそうだ。
「そうやって、今まで苦しんでいたの?」
 苦しんでいた? 果たしてそれが適当なのかどうか分からないけれど、生田の首は縦に動いた。
「そんな、そんなのって―――。そんな苦しんでるなら私に言ってよ! 私……、相談に乗るよ」
 泣き喚く蓮池。その必死の呼びかけにさえ、生田はただただおびえるばかり。
「ねぇ、私ってそこまで頼りにならない? 力になりたいのに……」
 賢明過ぎる蓮池のまなざしが、ようやく生田のおびえを解き始める。
 久しぶりにちゃんと見た蓮池の瞳は、いつだって生田を見ていた。目を赤くして腫らしてまでも心配してくれている。徐々に取り戻しつつある自意識を振り絞って口を開く。
「ある日からずっと……、気づいた時から寒気は音もなく忍び寄って俺の体を凍えさせるんだ。普段言っている言葉が本当に『本当』なのか分からなくなってから……。言葉にあるはずの意味ってなんなんだ―――、って。そうだ、例えば……、りえに愛していると言ったとして、そこに本当の意味がないかもしれない。そう考えただけで、俺の言葉を信じる事が出来なくなったんだ……。ケイタにごめんな、って言われても、本当に謝ってなんかいないと思い込んだ」
 燃え盛る凍える自己嫌悪の炎。その身が灰になってしまいそうな罪の意識に言葉がぼろぼろと口からこぼれ出る。
「俺の思っていることなんて、皆だって思っていることだって分かってる。言葉が嘘だらけでも、意味なんかなくても、皆気づかないフリをして器用に生きているんだ。それが当然なんだ。ところが気づいてしまった俺はどうだ? ……もう他人の言葉を、何より自分の言葉を信じることが出来なくなったよ」
 それは今までの懺悔のようにも聞こえたし、呪詛のようにも聞こえる。
「どうせ嘘なんだろ? 俺を褒めたって、好いていると言ったって、所詮打算で繕った言葉だろう? 他人の言葉を試していくうちに、平然と疑う自分がいて、ますます自分が信じられなくなった。そうなれば他人も疑わざるを得なくなる。俺は他人の言葉に潜む嘘を否定するくせに、俺は俺できっちり嘘をついているんだ。もう、いっそ言葉なんてなくなってしまえばいいんだと本気で思った」
 言葉のパラドックスに呪われた生田は、言葉で自らのうちでうごめく思いをぶちまける。
「なぁ、俺はどうすればまた同じように話せる? ―――無理だ。これは、もう染み付いてしまった呪い。他人を疑い、何より自分を信じられない。気づかなければよかったよ、こんなこと」
 次から次へと、息を忘れて出し切って話せることに生田は心底驚いた。思ってもいないことをべらべらたらたら……。
 いや、拒み続けていた、生田に息づく怖れの正体が、今生田の口からまぎれもなく姿を現したのだ。
 蓮池は生田のどす黒い濁流を受け止め、涙を拭い、止めた。強く生田を見つめる。温かいやさしさを瞳に湛えて、生田をつつみこんで囁く。
「ねぇ、タケちゃん。愛してるって言って?」
「りえ、俺は言葉に意味がないって知ってしまったんだ。どんな言葉でも本当の意味を伝えられないんだ」
「いいから……」
「ダメだ。俺は空っぽなんだ! 何もない! まして愛しているだなんて―――」
「いいからっ!」
 生田は赤子のように二三回口をぱくぱく開ける。言うのをためらってしまうのだ。愛していないからではない。言う術を無くしてしまったからだ。
「あ、いし、てる」
 幻のようにつかみどころない言葉。生田はやっと言えた開放感でぐったりしてしまう。それを蓮池は細い腕でしっかり抱きとめる。
「聞いて、この音。タケちゃんの言葉でこんなになるんだよ」
 とくん、とくん。生田の耳にはしっかり届いている。それは生命の音。言葉よりもずっと昔からあった音。鼓動に意味はなくとも、拍動する鼓動の音が早くなっていくことだけで、蓮池の気持ちに触れられる。
「タケちゃんは真面目なんだね。全部の言葉に意味があったりする必要なんて、ないんだから。そりゃ言葉で伝えられる意味なんて、ほんの少しだけど、それでも私たちは言葉で伝えあわないといけない。残念だけど、それ以外に手段はないもの」
 子供を諭すように生田に語りかける蓮池の一言一言は、生田の奈落に差すかすかな光明。触れれば凍てついた指が温かい。
「だったら俺は、言葉なんて要らない! 二度と誰とも喋りたくない!」
「それは甘えだよ? どんなに意味がなくなって、嘘にまみれていたって、その言葉を受け止めるしか出来ないの。タケちゃんは分かってるよね。分かりすぎてるから怖いんだよね。でもね、怖くったってそれでも皆自分の思ってること伝えたくて、他人の思ってること知りたくて、繋がりたくて言葉を使ってるの」
「だからね、こんなにドキドキするし、寂しくなるの」
 きゅっ、と蓮池は生田を抱きしめる。消えてしまわないように、ここにとどめておくために。
「こんな、こんな俺の言葉でも……、りえに伝わったのか?」
「ここにある音を聞いて」
「本当に愛しているか、俺自身が信じていなくてもか?」
「しつこいなぁ、私が信じられないの?」
 生田はそれでも信じられない。蓮池の想いも、自分自身の想いも、すべてが信じがたい。けど、信じられないわけではない。
「信じたい」
 弱弱しく、生田はあえぎながらこぼした。
「信じたいんだ。りえのことも、自分のことも」
 言葉を疑い、拒み、否定することでは言葉の意味なんて探れない。受け止めないことには、始まらない。蓮池が言ったことを、生田はようやく噛み砕いて飲み込んでいく。欺瞞、猜疑、拒絶……。はびこりあまねく言葉の裏さえ受け止める。それでも信じてあげないといけない。
―――なんと怖ろしいことか―――
 それは、ひどく傷つく茨の道。他人のことなんて、信じないほうがいいに決まっている。言葉なんか、まともに受け取っていたらずっと損してばっかりじゃないか。ただのコミュニケーションの道具として使う方がいい。ホモサピエンスのコミュケーションのフォーマットだ。犬がワン、と鳴くのと同じ。言葉の意味など枯れてしまえばいい。
「手を、握って」
 温もりをもっと強く感じたい。またいつ冷たい炎が身を冒すか知れない。
「うん……」
 疑いの火種はあっというまに広がり、己自身を焦がしつくす業火のようだ。いっそのこと氷室の煉獄に灰になるまで閉じ込められれば、こんなに苦しまずにすんだ。いつだって生田は出来たはずだ。
 結局、俺は求めていたんだ。言葉に意味があることを。この奈落から、冒し続ける凍てつく蒼白の炎から助けてほしかったんだ。心の奈落に差し伸べられた手を強く握って、ようやく震えが止まった。

”アミィ”に捧ぐDuet

どうもHaswOです。

文を作るうえでは蓮男ですけれど、普段はこっちでーす。

この小説は半年前くらいに書いたんですが、今思い至って投稿しました。


さてと、あとがきといわれても、僕はここで作品にふれるようなことはいいません。
あ、でも強いていうならば、タイトルのアミィですが、アミィとは懐疑や疑惑の悪魔です。その悪魔は炎を使う悪魔なんです。そういうところを念頭にいれて読むと面白いと思います。


んー、ほかにいうところはないんで、これで。

”アミィ”に捧ぐDuet

暇でしたら読んでくださいー。 そういえば、どの要素にも属さない気がしたんで、適当に青春とか恋愛とか言ってますが、普通のストーリーです。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-12-27

CC BY-NC
原著作者の表示・非営利の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC