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それを許す環境に依存しているからだ

 橙色をした長方形はプラスチック製、掌に収まる寸法の変哲もない薄い板。下部に空いた孔を潜った水色の朽ちかけたヘアゴム。先には細かな瑕のついた銀色の鍵が下がっている。
 錆びこそ浮いてはいないが申し訳程度の溝に鍵山、先端も削れているのだろうか丸く、防犯意識を微塵も感じさせない旧世代の代物。
 私が所持しているのは銭湯の鍵、正確に云えば脱衣所のロッカーの鍵である。補足をすれば今どきのスーパー銭湯や、一般的な温浴施設に倣った金属製のロッカーではなく『錠の付いた戸棚』と云う名が相応しい、木戸を開けることの出来る鍵だ。
 錠へねじ回しを差し込み、力を入れ回せば、強固なようで実は脆い。カルシウムの寄せ集めである牡蠣の殻の如く、呆気なく口を「パカ」と開けるだろう。
 なぜその状態が改善されず保たれたままなのか。それはそれを許す環境に依存しているのからだと私は考える。粗末で貧弱に感じられる錠や鍵は、外敵の居ない閉鎖された汽水の湖で、棘が退化したクラゲの話を思い出させた。
 銭湯には番台があり番台には人間が座っている、座っている人間には目があり耳がある。不審な行動をしようものならどうなろうか。番人の目や耳が節穴なら別だが、おおよそ健全な精神と良識を兼ね備えている者ならば分かるだろう。
 私は似たような例でこうも考える。小学生が図工の時間、教師から課題を与えられ『各々の頭の中で泳ぐ魚』を画用紙へ泳がせる。
 円の中に円、雑に黒で塗りつぶされた魚眼。そのような目の玉をした脊椎動物は存在しない。鱗も“莫迦になったバネ”がちょん切られた様なものがただ列を成しているだけ。
 画用紙に放流された魚は矮小なイメージが紙媒体へ出力された、只の記号に過ぎない。
 しかし、小学校という環境では小学生相応の能力しか求められておらずそれで通るのだ。寧ろその形を求められるのがあるべき姿、それ以上は必要がないし要求もされない。要求をされなければそれに答える義務も責任もそこには無いのだ。学校教育の枠組みの中、1つの方針とも取れる。
 さてどうしたものか、私の手にある24と印字された橙のは。私は引っ越しの作業を止め、眺めていた。今更ながら返しに行くはどうも気が引ける。待てよ、数あるロッカーだ気付かれる筈はない、いや違う。
 私にとってロッカーは数あるが、その空間でそれしか注視していない人間は把握をしているのだ。なにより気持ちが悪い行為は、他人に気付かれているが自身は気付かれていないと思い継続し、続ける行為だろう。当の本人はその行為をいずれ忘れるが、相手側は忘れることは無く非常に難儀だ。
 恥ずべき行為に気付いた私だが。罪悪感はもとより、望み通りに事を運べるだろうか。という自分勝手で些末な考えが、頭の中で記号となって泳ぎ回っている。難しく考える必要は無いのに、今も鍵は返せていないのだ。

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1200文字

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-13

Copyrighted
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