*星空文庫

旅の終わり

takemoana 作

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旅モノ(?)です。シリアスだけど、ハッピーエンド。デンキノベル様(http://denkinovel.com/stories/659/pages/1)でも公開させていただいていますので、そちらも是非。(小説家になろう様でも投稿していますが、そちらとはほとんど違いません)

 彼女にその逃避行を持ちかけられたのは、高校に入って三度目の五月が終わろうとしているころだった。
 放課後の教室。窓から差し込むけだるい西日。埃っぽい中で静止する机と椅子。そして机の上に座る彼女。彼女の脚は組まれていて、その太ももの上にはテーブルクロスみたいにタータンチェックのプリーツスカートが乗っかっていて、ヤスリをかけたみたいにつるつるな膝頭はあたしの目の前にあった。
 それは、エンゼルクリームのドーナツとカスタードクリームのドーナツのどちらが美味しいか、という議論から、平和の対義語が戦争であるのはおかしい、という議論にまで発展して、結局それに結論は出ずに幕を閉じた直後のこと。
「逃げたい」彼女はいつもの調子であたしに言った。
「逃げたいって、なにから?」
「全部」
「全部かー……」
 あたしは机の上でパンクしたタイヤになっていた。指で彼女の膝頭をなでながら、あくびを噛み殺す。
「逃げ出してやろうよ、わたしと君の二人で。どう?」
「どう、って言われましても」
「逃げたくない?」
「うーん……」
 あたしがなにかから逃げたいと思っているか、という問なら、イエスと答えることはできる。あたしは確かに、あたしをがんじがらめにする全てのしがらみをライターで燃やして、飛行機を取って南の島にでもバカンスに行けたら最高だと思っている。でも、それは思うだけ。実行には移さない。なぜなら、そんなことは机上論だって知っていたから。そう、まさに机上の空論。今のあたしと彼女とでしているのがそれ。机の上で空論を交わしているのだ。
 もうお分かりの通り、あたしと彼女は自分で言うのもなんだがヘンテコなヤツだった。いっつも放課後暗くなるまで教室に残って、こういう観念的で抽象的な頭の緩い議論を交わしている。二人とも、他に友達はいない。でも、クラスからハブられているわけでもなく、微妙な立ち位置だった。あたしはともかくとして、微笑み一つで国を傾けられるような彼女ならいくらでも友達は出来そうだったけど、彼女はそうしなかった。その理由を、あたしは知っている。要するに、あたしと同類項の人間だってこと。ベン図の中で集合の外を漂う存在。どのサークルにも属すことのできなかったドット。それでもアウトローになりきれなかった宙ぶらりんなヤツら。それがあたしと彼女。
「ねえ、逃げちゃおうよ、二人で」
 その話はまだ続いていた。いつもなら、あたしが軽くあしらった時点で終わりなのに。あたしは膝を指先でなぞるのをやめて、彼女の顔を上目遣いでうかがってみる。すると案の定、その瞳は下からライトを当てたガラス細工みたいな光をはらんでいた。つまり彼女の言葉は冗談なんかじゃないってことだ。あたしは内心で毒づく。彼女はときどき、机の上のおとぎ話を地上まで持ち帰ってくることがある。それが、悪いクセの一つ。ようは、彼女はあたしに、一グラムの疑いも抱かずにその曖昧模糊な逃避行をもちかけてきているのだ。
「でもさ、実際に逃げるとなると対象が必要だよ。〝全て〟なんて抽象的なものじゃなくて、もっと具体的な……明確な敵を設定しなくちゃだめだ」
 彼女はすぐに答えた。
「明確な敵ならいるよ」
 彼女の脚が不満げにうごめいた。どうやらなぞられ足りないようだ、とあたしは解釈して、彼女の膝頭に円を描く作業を再開する。
「へえ、どんな敵さ」
「わたしの、家」
 あたしは黙って、しばらく考えた。
 彼女の家。それが一体どんな敵で、彼女にどんな害を及ぼすのか、あたしは知らなかった。あたしたちは、お互いプライベートなことについては不可侵だったのだ。特に〝家庭の事情〟などと称されるもののような、個人の力ではどうすることもできないようなファクターについては。でも、あたしと彼女はドライだけど柔軟剤仕上げのシャツみたいに心地よい関係だった。だって、あたしたちは相手の表面(カラダ)内面(ココロ)しか見なかったし、その背景には興味も示さなかったのだから。あたしは彼女がエンゼルクリームが好きだって知っているし、彼女はあたしがカスタードクリームが好きだって知っている。それだけでじゅうぶん。それ以上はよけい。
 だから、彼女が家の話を持ち出してきたときも、あたしは反射的にバリアを張ろうとしていた。けれど、あたしの指が止まったことからそれを察知した彼女は、突然あたしの腕を掴んで引き上げて、まるで合気道の技を極められたみたいになったあたしの耳の穴に唇を寄せた。
「三日後、午後七時に、駅の南口。足は既に用意してある、クリーム色のオシャレなベスパだよ」
 息を吸う音、
「ルートは決めてあるんだ。ベスパで南に逃げる。たぶん衣前に着く頃にはわたしが逃げたってことは気付かれてるから、ベスパは乗り捨ててそこから電車移動。ひたすら下って糸沙羅まで行く。なんらかのアクシデントがあれば途中で降りて、また別の足を用意する。だいじょうぶ、お金ならあるから。一度、糸沙羅の温泉街で休息を取ろう。いい宿があるんだ、わたしが前に泊まったとこ。そこで一泊したらこんどは西に、とりあえず木礁まで逃げて、」
 そこまで一気にまくしたてて、彼女は思いっきり咳き込んだ。あたしは思わず首を引っ込める。彼女のつばが耳に入ったからだ。
「いっしょににげよう」
 彼女は、相変わらずガラス細工みたいな目であたしを見てきた。止めるのは無駄だと悟る。こうなると、あたしに残された選択肢は二つ。一つはここで首を横に振って、「あんた一人で行けば」って冷たくあしらうこと。メリットは彼女の酔狂に付き合わされることがなくなる、ってことだけど、その代わりに唯一の友達を永遠に失うリスクがある。もう一つは、首を振る方向を、さっきのから九十度変えることだ。
「分かったよ」
 あたしはうなずいた。そもそも迷いすらしなかった。あたしの天秤はもうずっと前から壊れていて、どんなものを乗せても必ず彼女の方へ傾くんだ。それに、やっぱり心のどこかには、どうせすぐに飽きるだろう、っていう甘い考えがあったんだと思う。彼女はあたしの手を離して、あたしは机の上で再びパンクしたタイヤになった。
「もう一つ、君には持ってきてほしいものがあるんだけど」
 なにさ、とあたしはきいた。

 ❦

 あたしは電車の中で目を覚ました。懐かしい夢を見ていたような気がする。二年前の春の終わりの夢。彼女の吐息の名残が、あたしの耳元辺りにまだわだかまっているようで、あたしはしばらくその感触を楽しんだ。それから、車内案内のディスプレイを見て、目的の場所まであと数分ということを知る。あたしが乗っているのは帝都から下る電車だ。行き先はあの町。あたしが高校時代を過ごした地方都市。大学の入学式があってからは一度も行っていなかったから、そこへ行くのは丸々一年ぶりだった。
 きっかけは三日前に届いた一本のメールだ。そのメールはあたしが夕飯のビーフシチューをルームメイトと一緒に作ってるときに届いた。短くてシンプルで、最初は雑なスパムかとも思ったけど、文中に彼女の名前があったから、あたしはいちおう本文に目を通しておいた。内容は、あたしをあの町のあの駅へと呼び出すもの。差出人は、彼女の妹。あたしはそのメールを慎重に別のフォルダに移した。誤って消してしまうことのないように。それから、しばらくやり取りをして、行ってみてもいいかもしれない、と思ったあたしは、土日を利用してこの町へ戻ることにした。
 あの駅に電車が停まった。ドアが自動で開いて、あたしはそこから車両を降りる。駅のホームは閑散としていて、そこをアメンボみたいにふらふらと歩いた。体が勝手に懐かしんでいるのかもしれない。階段を上って改札を出ると、南口の風景はあの日のままだった。午後七時の空はすでに暗く、駅の前にはいくつかベンチが並んでいて、学校のプリントみたいに白い街灯の光がベージュのブロックが敷き詰められた地面に陰影を作っている。駅の建物を一歩出ると、春の終わりの涼しい風が、大学に入ってから伸ばし始めたあたしの髪をあおる。
 そして、あたしは、見た。
 そこには彼女がいた。

 ❦

 そこには彼女がいた。彼女はベスパに寄りかかっていて、けれど夜闇の中では、そのベスパが本当にベージュ色なのかはあたしには判別できなかった。あたしは学校が終わってから一度家に帰って、カーゴパンツとケーブルニットのセーターに着替えてきていたけど、彼女は制服のままだった。あたしは彼女に接近しながら、彼女が大した量の荷物を持っていないことに気が付く。学校指定の紺色のボストンバッグが、彼女の足元で試合に負けたボクサーみたいに潰れているだけ。荷物の量については、トンネルの入り口みたいな形をした子供っぽいリュックを背負ってるだけのあたしも大概だけど。でも、彼女は立案者なのだ。教科書とペンケースと体操着だけでは、県境を越えるのもままならないと思う。
「荷物少なくない?」
 あたしは結局そのことに言及することにした。すると彼女はばつの悪そうな顔で、
「家族にバレないようにするには、こうするしかなかった」
 なるほど。あたしはだんだん分かってきた。なにがって、彼女の家庭状況についてだ。彼女と二年以上を共にしてきたあたしは、彼女の動作からにじみ出る次元の違うお行儀のよさ、身もふたもない言い方をすれば〝華族的雰囲気〟みたいなのを、この鼻でしっかり嗅ぎ付けていた。そこに投入されたのが今の発言だ。それらのことから推理すると、彼女の出自(バックグラウンド)がうっすらと見えてくる。立ち振る舞いはお上品で、ちょっとでも荷物を多く持つとすぐに心配してくるような家の娘。つまり、箱入りのお嬢様ってこと。もしかすると本当に華族なのかもしれない。最近では華族も庶民化が進んでいるから、あたしみたいなうだつの上がらない軍人の娘が通うような高校に華族の娘が通っていたとしても、なんらおかしいことはない。そこまで考えて、その先を考えるのはやめた。互いのそういうところには不可侵であるべきなんだ、あたしたちは。そうしなかったら、この関係は簡単に壊れてしまう。
 彼女はベスパのシートを持ち上げると、そこに現れた収納スペースに潰れかけたスクールバッグを突っ込んだ。それから蜘蛛の巣みたいな模様のついた赤っぽいオープンフェイスのヘルメットを被ると、似たようなデザインの色違いをあたしに投げて寄越した。あたしのは青っぽい。
「乗って」
 彼女はベスパにまたがって言った。あたしはその言葉にうなずいて、彼女のうしろにお尻を乗せる。それから思い出したように彼女は言った。
「例のもの、持ってきてくれた?」
「うん。でも、なんでこんなものを?」
 彼女は答えない。
 エンジンがかかった。フロントライトの白い光が夜を貫く。アクセルをふかす音。あたしは彼女の腰に腕を回して、体全体を密着させるように抱きついた。ベスパが発進する。夜の冷たい風が二人を包み込んで、周りの景色はだんだん線になっていって、まるで世界中の時間が止まってあたしと彼女だけが動き続けているかのような錯覚に陥る。あたしは彼女に回した腕に力を込めた。あたしが置いていかれないように。
 彼女の背中が小刻みに震えた。
「どうしたの?」あたしはきいた。もしかすると泣いているのかもしれない、と思ったからだ。
「腕の力、強いね」彼女の声が切れ切れに聞こえた。そしてどうやら、笑っているらしい。
「ごめん」
 あたしは腕の力を緩める。途端に慣性が強く意識された。
「いいよ、もっと強くしても」
 お言葉に甘えた。それからあたしは彼女の背中に顔を押し付けて、目をつぶった。風が耳元で不機嫌な獣みたいにうめく。どこか遠くを救急車か消防車が走っている。ときどき車のタイヤがアスファルトをこする音が後ろから近付いてきて、水に落としたインクみたいにすっと消えていく。
 ベスパはしばらく山間の道を走った。ところどころに防空壕の入り口があって、なんだか覗いたら吸い込まれそうだったからあたしは極力無視した。
 やがて視界が開け、周囲が多少明るくなり、市街地へ入ったことにあたしは気付く。なんという町なのだろう。街灯の灯りはこうこうと辺りを照らしているけど、道に並ぶ建物からはほとんど人の気配がうかがえない。まだそんなに遅い時間ではないはず。今、何時くらいなんだろう。腕時計は見えないけど、ケータイを開くわけにもいかない。お腹が冷えたからか、少しおしっこに行きたい。
「この辺は、けっこう見捨てられちゃったのかなぁ」
 彼女の声が聞こえてきた。あたしはヘルメットの後頭部を見つめる。
「この辺って? 今、どこ?」
「衣前だよ。そろそろわたしの行動が勘付かれるだろうから、ここからは電車移動。ベスパのままだと、ナンバーで探されるかもしれないからね」
「ベスパ、どうするのさ」
「捨ててく」
 ベスパはゆっくりと徐行していく。完全に停止すると、彼女はあたしに先に降りるよう促した。あたしは慌てて降りて、彼女に断ってから近くにあるコンビニのトイレへ駆け込んだ。お花を摘み終わって戻ってみると、ベスパは既になく、あたしはもの問いたげな視線を彼女に向ける。
「木を隠すなら森の中、だよ」
 彼女は得意げに言って、親指で近くにある放置自転車の列を指した。
 そこから五分くらい歩いたところに衣前駅はあった。小さな駅だ。路線は一本だけ。駅舎の中に人気はない。
 改札の前でポケットからICカードを取り出そうとすると、彼女はあたしの手を掴んで首を振る。
「そんなの使ったら足がついちゃうよ」
 その徹底ぶりに呆れるあたしを前に、彼女は券売機で糸沙羅までの切符を二枚買った。財布を取り出すあたしを制して、
「お金はいいよ。あたしが付き合わせちゃってるんだから」
 改札を抜けて、ホームへ降りて、二人で雪だるまみたいに電車を待った。駅の電光掲示板は現在時刻が午後九時七分であることを控えめに表示している。反対側のホームではバイト帰りと思しき大学生が、よれたTシャツみたいにベンチに引っかかって眠りこけていて、他に人の姿はなかった。ふと隣を見ると、彼女の姿が忽然と消えている。慌てて振り返ると彼女はベンチに座っていて、あたしはほっとしながら近寄った。彼女は上目遣いであたしを見る。
「ねえ、この服だと、家出した高校生みたいに見えるかな?」
 彼女があんまりにも不安そうにきくものだから、あたしは思わず噴き出してしまった。
「見える見えないじゃなくて、あんたは実際家出した女子高生でしょ」
「そうだけどー……、いや、違うよっ。これは家出じゃなくて、もっと切実な逃避行です」
「はいはい」
「着替えてくればよかったかなぁ」
 あたしはそのときになってようやく、彼女がなにを不安に思っているのか分かった。制服のまま逃げるのは、それだけで十分〝足跡〟になる。制服は一種の身分証だからだ。
「なんで一度家に帰って着替えてこなかったのさ」
「だって、怪しまれるし。親とかに」
「別の服は? 持ってきてないの?」
「出先で買うつもりだったから……」
 あたしは確信した。この娘は思った以上に抜けている。
「ったく、しょうがないなぁ」
 あたしは背負っていたリュックを下ろすと、虫の鳴き声みたいな音を立ててファスナーを開けた。取り出したのは、水色のワンピース。彼女に立つよう促すと、肩のところを持って広げてその体にあてがった。サイズはぴったり、だと思う。身長はあたしの方が少し上だけど、横幅はそんなに変わらないし、たぶん大丈夫。
「これ、貸してくれるの?」彼女はあたしに手渡されたワンピースをまじまじと見つめながらきいた。
「うん」
「ありがと」
 彼女の礼の言葉をかき消すように、まもなく電車がくるから黄色い線より後ろに下がれ、といった意味のアナウンスが流れて、電光掲示板には〝電車が参ります〟の文字が点滅し始める。こうなると、もう着替える時間はないだろう。とりあえず電車に乗る準備をするからワンピースを返して、と言おうと思って彼女の方を向くと、インパクトのある肌色がもぞもぞとプリーツスカートを脱いでいた。
「え」
 あたしは思わず一歩引く。彼女は平然と、まるで羞恥心なんて昨日の残飯と一緒に捨てたと言わんばかりに堂々と、下着姿を衆目に晒していた。衆目、といっても反対側のホームにいる推定大学生の青年は眠りこけているはずだから、彼女のその姿を見ているのはあたしだけだけど、それにしたって、
「なに?」
 彼女は不審そうにあたしの瞳を覗き込む。そうしているうちにも驚くべき手際でワンピースのボタンは留められていき、家出女子高生はものの十秒程度で所属不明の少女に変身していた。あたしの見立て通りサイズはぴったり。学校用ローファーと白のハイソックスはそのままだけど、彼女が着ているとそれも一つのファッションであるような気がしてくる。これなら怪しまれることはないだろう、きっと。突然脱いだことには驚いたけど、まあ結果オーライだ。
「ううん、なんでもない」
 電車がホームに進入し、大きく息を吐いて停まった。

 ❦

「ご足労ありがとうございます」
 二年前の記憶を追体験していたあたしは、その一言によって現在へ引き戻された。あたしは目の前に立つ、あたしよりも一回り小さい少女の姿を見下ろす。少女はあたしが通っていた高校の制服姿で、おそらくは現役の高校生なのだろう。確かに彼女に似ていたけど、近くで見れば違う点ははっきりと目についた。まず、二年前のあの日の時点の彼女は、ヘルメットからはみ出すくらいの長さの髪を持っていたはずだ。それに対して目の前の少女は、二年前のあたしと同じくらい短い髪型。顔立ちだって違う。目元や鼻の形は彼女そっくりだけど、目の前の少女のほうが唇は薄いし、第一この少女には右目の下に彼女にはなかったほくろがある。だから、この少女は彼女ではない。あたしはその事実を認識してから二回深呼吸をした。それにしても、似ている、と思う。少し化粧でごまかせば、彼女が再びあたしの前に現れた、と言われても信じるだろう。
「妹さん?」
 少女はうなずいた。
「あなたは……高校時代の姉の、一番の親友?」
 あたしはちょっとためらいながらうなずいた。親友、ときかれると、微妙なところがある。だって、あたしたちは互いの家がどこにあるかも知らなかったし、休日に約束して遊んだこともなかった。学校を離れれば会うことはない。あたしと彼女はそんなマジックテープみたいな関係で、彼女と一緒にお出かけをしたのはあの家出もとい逃避行が最初で最後だ。
「いきなりお呼びたてしてごめんなさい」
 少女が頭を下げる。
「それじゃ、行きましょうか」
 少女の足元には、潰れたスクールバッグの代わりに丈夫そうなリュックがあった。はち切れんばかりに膨らんでいて、これから旅行でもするかのようだ。いや、まさしくその通り。これからこの少女はちょっとした旅行をするのだ、あたしと一緒に。彼女とあたしが二年前に通ったあの道を、あたしたちはフェロモンを追うアリみたいにトレースする。
 今回の同行者は、どうやら家出のつもりも逃避行のつもりもなかったらしい。制服を着ていた理由も、その方が待ち合わせをしやすくなるから、というだけだった。あたしは少女に道路の端に停められたベスパのところまで案内された。彼女が運転していたベスパと、おそらくは同じものだ。森の中に隠した木は誰かが見つけてくれたのだろう。あたしは受け取ったヘルメットを被る。二年前と違うことが、ここにも一つ。運転席に座るのは、彼女ではなくあたしだってこと。
 ベスパは町を抜けると、山間の道を一時間半ほど走って衣前の市街地へ入る。この二年の間で衣前はすっかり様変わりしていて、見捨てられた町の様相はすでになく、道に並ぶ建物にも人の気配が満ちていた。大戦が完全に終結したのは二年前の一月だから、あれから疎開中の人々が少しずつ戻ってきたのだろう。目的地に近付いたため速度を落とすと、あたしのお腹に巻き付いている腕に意識がいった。
「寒くなかった?」
「ここはどこですか?」少女がきいた。
「衣前。そろそろ駅に着くから、そこで電車に乗り換える」
 衣前駅に着いた。あの日のままの小さな駅。あたしはベスパを放置自転車の中には隠さずに、駅に併設された有料駐輪場に停めた。今度は二人とも、ICカードを使った。

 ❦

 二時間に及ぶ電車移動の中で、愚かしくも暇つぶしの道具を忘れたあたしは、人形みたいに眠りこける彼女の隣でずっとそぞろに考え事をしていた。今朝一瞬だけ降った雨のこととか、購買のラインナップに新しく入ったパンの味とか、そんなことを。そして、それらの思考はまるで磁石に吸い付けられる公園の砂みたいに、今回の旅路についての思案へと収束した。今回の旅路。彼女に言わせれば逃避行。普段は針山に刺さった縫い針並にインドア派の彼女が、一体どんなストレスによってそんな奇行に走らされたのか。あたしにはそれを知る権利がある、と思う。いい加減、あたしは踏み込むべきなのかな、彼女のカラダとココロの後ろにあるものに。
 糸沙羅の温泉街に着いたのは十一時を回ったころだった。リュックをしょって彼女と一緒に改札を出て、ほとんど明かりの消えた温泉街を前にしてからようやくあたしはその問題に気が付いた。
「今夜の宿、どうすんの」
 彼女はあくびを噛み殺しながらスクールバッグを下ろすと、おぼつかない手つきでクリアファイルを取り出した。中には、プリントアウトされたメール画面。タイトルに『予約確認メール』とある。あたしはしぼんだ風船みたいな気分になった。なにが逃避行だ、これじゃ小旅行じゃないか。
「だいじょうぶ、偽名で登録したよ」
 なにが大丈夫なのかさっぱりだったけど、彼女は自信ありげな歩調で石畳の道を進んでいった。そこは温泉街の中で一番メインの道らしい。面する建物の多くは和風の木造建築で、江戸時代の城下町みたいな感じ。
 目的のホテルへ入る。七階建で、普通に洋風の建物だった。入ってすぐにロビー。奥に化け猫みたいなおばあちゃんがほおづえをついているカウンターがあった。彼女はそのおばあちゃんに例のプリントアウトを見せて、にっこり笑う。おばあちゃんは真ん丸の小さな目であたしと彼女を見比べると、なにやら彼女に言ってからキーを渡してくれた。部屋番号は五階のものだった。
「姉妹なの、似てないねって」
 上昇するエレベーターの中で彼女が言った。
「なにが?」
「さっきのおばあちゃんに言われた」
「姉妹って?」
「なにいってんの、わたしたち姉妹でしょ?」
 彼女のいたずらっぽい笑顔を見てあたしは納得した。偽名ってそういうこと。
 彼女の取った部屋は完全な和室で、すでに二つの布団が並べられていた。あたしたちは旅行にしては少なすぎる荷物を降ろして、とりあえず脳味噌を空っぽにして布団に背面で飛び込んだ。布団の海で背泳ぎ、体を反転させて、クロール。大して歩いてもいないのに、大量の洗濯物みたいな疲れがどっと覆い被さってきて、あたしはうつぶせのまま電池が切れそうになった。すぐ横で、彼女が立ち上がる気配。
「いこ、温泉」
 深夜の温泉には人がおらず、あたしたちだけの貸し切り状態だった。あたしは脱衣所の壁に寄りかかりながら、あたしの貸した水色のワンピースを脱ぐ彼女の背中を眺めている。こうやって彼女の裸の背中を見るのは、去年の夏のプールの授業以来だ。あのときよりも、少し白いかもしれない。彼女は全部脱ぎ終わると、あたしの腕を取って浴場の扉を開けた。広々とした浴場には湯気がひしめきあっていて、奥に大きな湯船、壁際には洗い場が並んでいた。あたしと彼女は軽く体をすすいでから、頭の上にタオルを乗せて、あつあつの湯船に恐る恐るつかる。
「窓が汗かいてる」
 あたしは湯船のすぐ後ろにある巨大な窓に触れてみた。触れたところの水滴が取れて、外の景色が目に入る。外にはひのきの露天風呂があった。
「露天風呂行く?」
「うん」
 彼女は頭の上にタオルを乗せたまま、それを落とさないようにバランスを取りつつ湯船を上がった。あたしは羞恥心がわずかに勝り、隠しているんだかそうでないんだか自分でも分からないような微妙な感じにタオルを体の前に垂らす。大きなガラス製の扉を二人で開けて、空まで広がる夜に足を踏み込んだ。体に付着した水滴を外の空気が冷やして少し寒い。湯船のお湯は表面が冷却されていたから、体をすんなりと入れることができた。
「きもちいねー」
 彼女は石の湯船に背中を預けるかっこうで天に向かって伸びをしていた。あたしはその隣に腰を下ろす。周りが高い木製の壁に囲まれていたから辺りの風景は見られなかったけど、あたしには空だけでじゅうぶんだった。夜空ではいくつもの瞳がまばたきしていて、あたしと彼女の旅路を見守っているんだ。もしあのベスパが空を飛べたのなら、あたしは迷わず空に逃げることを提案しただろう。空には、なんのしがらみもない、人がカラダとココロだけで生きられる世界が広がっている、そう思う。サブカルをこじらせた女子中学生みたいな発想だけど、今はそんなものが湯の中をたゆたうように心地よかった。
 となりで彼女がもぞりと動く。湯に波紋が広がって、あたしの体にぶつかって砕けた。
「ねえ」彼女の肩が触れる。「見て」
 あたしは目を上げる。彼女は左足を水面より上に掲げていた。薄い水の膜をまとったふくらはぎは露天風呂の控えめな照明を反射していて、かかとからはしずくがいくつも落ちていた。それらがなんだか色っぽかったから、あたしの心臓は無駄にドキドキする。視線をさらに先端へ動かす。白い足の甲には細い血管が浮いている。そしてつま先には、
 小指がなかった。
「ここにね、悪い虫がいたんだ。一分間に、わたしの位置情報を三十回も衛星に向けて発信する虫」
 彼女は体を針金みたいに器用に曲げて、小指があったはずの場所をあたしに向けてきた。切断面は、てらてらとした光沢のある新しい皮膚に覆われている。
「自分で切ったの……?」
 あたしが問うと、彼女は軽い調子で答えた。
「まさか、知り合いのちょっとわるいお医者さんに切ってもらったんだ。麻酔してたから、あまり痛くなかったよ。家族に気付かれないように生活するのは大変だったけど」
「どうしてそこまで、」
「ね、知ってる? 人間が歩くときにバランスを取っているのって、主に足の親指らしいよ。一番要らないのが小指」
「……だから切ったの?」
 彼女は答えなかった。水面から顔を出していた足はお湯の中に潜り、ずっとあたしの二の腕あたりに触れていた肩も離れる。
「のぼせちゃった」
 彼女は湯船を波立たせながら立ち上がった。あたしもそれに続く。

 ❦

 二年前と同じ路線の電車に乗って、同じ駅で降りて、同じホテルの同じ部屋に泊まる。ホテルに着いたときにはもう十一時を回っていたけど、あたしと彼女の妹は一風呂浴びることにした。脱衣所で制服を脱ぐ少女の白い背中を眺めて、あたしは彼女にはなかったほくろを見つける。そうやって、ひとつひとつ、あたしはこの少女が彼女じゃない証拠を探している。彼女が戻ってきたわけじゃない、ってことを、あたしのココロに教え込ませるために。
 一緒に露天風呂につかった。少女がのぼせるまで。ゆでだこになってふらふらの少女を抱きかかえながら部屋に戻って、布団に仰向けに横たえた。少女はすぐに寝息を立て始める。あたしはホテルの廊下にある自販機でビールを買ってきて、規則的に上下する少女の胸を眺めながらそれを飲んでいた。それから、あたしは少女のお腹から下にかけてあった布団をめくり、左足を見た。小指はきちんとそこにあったけど、彼女の言っていた〝虫〟らしきものは、あたしには見つけられなかった。

 ❦

 翌朝は七時頃に起きた。朝食をとったあと、目覚めたばかりの温泉街を一時間くらい回って、外国人観光客みたいに紛れ込んでいたファストファッションショップで二人分の服を買った。不機嫌そうなネコの顔がプリントされたパーカーを二つ。あたしは紺で、彼女は白いのを。それから、彼女のために黒いミニスカートと大きめのトートを買う。あたしたちはホテルの部屋でそれに着替えた。これでちょっとは姉妹っぽくなったかもしれない。トートは彼女のスクールバッグを隠すためだった。ホテルは八時半にチェックアウトし、糸沙羅の駅で木礁までの切符を買った。しばらく電車に揺られる。
 彼女がそのことに気が付いたのは、糸沙羅から五つ目の駅に停車したときだった。
「追っ手がいる」彼女は前を向いたまま小声で言った。「あまり動かないで、自然にしてて」
 あたしは目だけで車内を見回した。田舎ながらも通勤ラッシュ帯だけあってけっこう混んでいる。あたしたちは運良く座っているけど、立っている人もそこそこいる。
「どれ、今乗ってきたサラリーマン?」
「違う」
「え、じゃあ、」
「それも違う。この車両にいるひとじゃない」
 この車両じゃない。つまり、隣の車両か車外(ホーム)
「外?」あたしは当てずっぽうできいた。
 彼女は頷いた。ビンゴ。しかし、あたしたちの席はホームがある方向を背にしている。これでは様子が確認できない。
「振り返っちゃだめ」
 彼女はケータイを取り出して、その画面をあたしに見せてきた。彼女とあたしの顔が半分ずつ映っていたから、インカメを使ったミラー機能だ、と気付く。彼女は画面のある一点を指した。紺色で無地のスーツを着た男性が、耳に手を当てて歩いている。おそらく手の下にはスパイ映画で見るような透明なイヤホンがあるのだろう。
「たぶん、まだバレてない。あいつらは、あたしたちがこの辺りにいるってことしか分かってないんだと思う」
「でも、なんで? だって……」発信器は小指と一緒に切り落したんじゃなかったの。
「きっとうちのパソコンからホテルの予約情報を見つけたんだと思う。うかつだった。ああ、壊しとけばよかったな」
 彼女はしばらく無言で考えていた。それから意を決したように切符を握りしめて、
「次で降りよう」
「分かった」
 うなずきながらも、この旅もそろそろ終わりかな、とあたしは考え始めていた。事情はよく分からないけど、どうやら彼女は脱獄した凶悪殺人鬼並の重要人物らしい。そのくらいの必死さで、彼女は追いかけられているように思える。大人が本気を出せば、子供のあたしたちに勝ち目はない。でも彼女は、そんなのお構いなしに逃げるつもりだろう。だったら、潮時を見極めなくちゃならないのは、あたしだ。
 あたしたちは次の駅で降りた。かなり小さな駅で、改札機の上にはぼろ布みたいなトタンの屋根があった。駅前の商店街では、ほとんどの店舗でシャッターが下りている。彼女は素早く左右を見ると、あたしの手を引いて右へ進んだ。目的地があるようには思えない。でも、ヤケになっているわけではないみたい。あたしはなにも言わずについていった。しばらく一車線くらいしかない車道の端っこを歩いた。ずっと似たような廃屋と枯れた畑があって、もしかするとこの道は少しずつ曲がっていて、空から見下ろしたら大きな円になっていて、あたしたちは気付かないうちにさっきと同じ道を歩いているんじゃないか、っていう妄想が頭の中で泡みたいに生まれて弾けた。お腹が空くくらいまで歩いたあたしはふと思いつき、立ち止まってリュックの中を探る。確か保存食が、
 手がなにか硬いものにぶつかった。
 あたしはリュックの中をのぞきこむ。そして思い出した。彼女に言われて持ってきたものの存在を。あたしは彼女の背中に目をやった。彼女はあたしの少し前で、立ち止まって快晴の空をあおいでいた。鳥か飛行機か、たぶん彼女の興味を引くようなものがあったのだろう。あたしは立ち上がって、彼女に声をかけてから再びどこに続くかも分からない道に足を踏み出した。歩きながらあたしは考える。この逃避行が、どこに行き着くのかについて。

 ❦

 あたしたちは二年前と同じ道を歩いた。二年前と違う点は、今日のあたしは地図を持っている、ってこと。地図を見て、この道について分かったことが一つ。もちろん、本当に道がゆっくりと弧を描いていて、あたしたちはそうやってできた輪っかをひたすらループしていたのでした、なんてオチではない。その道は実は廃れた国道で、あたしたちはひたすら帝都と反対方面に歩いていたのだった。彼女の方向感覚のよさに、あたしは今さらのように驚く。もしかしたら鼻の中に磁石でも入っていたのかもしれない。
「疲れてない?」
 あたしはたまに、数歩後ろについてくる少女をそうやって気づかってあげていた。それ以外はほとんど無言。あたしも彼女の妹も、ずっとろくろを回すように考え事をしていた。あたしが考えていたのは、二年前のことの顛末。少女はきっと、この道に彼女の痕跡を見つけようと必死だったのだろう。
 数キロ歩いたところに砂漠の真ん中のオアシスみたいにファミレスが建っていて、あたしたちはそこで昼食をとることになった。店内の時計の針は十四時を少し過ぎたところを指している。そろそろ、二年前のあたしと彼女も到着する頃だろう。そしてあたしはシーフードのドリアを頼む。彼女はカレーライス。今のあたしたちも、注文を取りに来たウェイトレスに同じものを頼んだ。それから、あたしは席を立って、一度お手洗いへ向かった。そう、二年前も、同じトイレに入ったんだ。そして、彼女に黙ってケータイを出して、あたしは彼女の家に電話をした。家の番号は連絡網のプリントから知っていた。もちろん、一度もかけたことはなかったけど。
 そこであたしは、幼い声で彼女の苗字を名乗る女の子に、今あたしたちがいるレストランの店舗名と、これから逃げる方向を伝えた。今思えば、その女の子が彼女の妹だったのだろう。あたしはそうやって消極的でズルい方法で、あの逃避行に終止符を打とうとしていたんだ。最後にあたしが伝えたことは黙っておくように口添えして、電話を切った。あたしは何食わぬ顔で席に戻って、そして彼女にこう言った。そろそろ、逃げるのをやめにしない、って。
「旅路はここで終わり」
 ファミレスの席で彫刻みたいに座っていた少女は、意味が分からない、と言うような視線をあたしに向けた。このファミレスで終わりなわけがない、そう言いたいんだろう。
「もちろん、ここで終わりってわけじゃないさ。だけど、ここから先の経路はあたしも知らない。それを知ってる人がいたら、それは彼女だけだよ」
「でも、姉は……」
「そう」あたしは少女の言葉を遮るようにうなずいた。「だからここから先は、あたしが経験したことだけを教えておく」
 あたしはいつの間にかテーブルに置かれていたお冷やに口を付けた。
「このファミレスに着いてから、あたしは彼女の家に電話をした。そのときに出たのは、君だったね?」
「はい、たしかに」
「その後、あたしは彼女に逃避行の終了を持ちかけたんだ。すると彼女は、全部諦めたみたいな顔でうなずいた。そうだね、もう終わりにしよう、って。だからあたしはそこで彼女が逃げるのを諦めたんだと思ったんだ。だけどそれは違った。その瞬間からしばらくの記憶が、あたしにはない」
「記憶が?」
「そう。薬を盛られたんだ。気付いたら彼女はどこにもいなくて、あたしは駅のホームにいたようなスーツ姿の四人組の男たちに囲まれていた。すごくびっくりしたよ。でもその場所はこのファミレスのままだったから、あたしは少し安心した。男たちにどこかへ連れ込まれたわけじゃない、って分かったから。男たちはあたしに教えてくれた。あたしからの連絡があって来てみれば、そこにはすでに彼女はおらず、代わりにファミレスのテーブルには突っ伏して眠りこけている迷惑な客がいた、ってね」
「姉は一人で逃げたんですか」
「そういうこと。たぶん、あたしにもう逃避行についていく気がないってことに、彼女は気付いてたんだ。もしかすると、ここから先の旅に、あたしを巻き込みたくなかったのかも。あたしは彼女がもう行ってしまったことに気付いてから、急にいやな予感がして、慌ててリュックの中身を探った。予感は的中。彼女があたしに頼んだ例のものが、そっくり抜き取られていた」
「例のもの」少女は透明なインクで書かれた文句を読むような調子で言った。「それは、拳銃?」
 あたしは答えない。
「男たちは彼女がいないことを確認すると、店から出て行った。あたしは慌てて追いかけて、そいつらのうち一人を捕まえて、彼女を捜索するならあたしも一緒に連れて行け、ってねだったんだ。すると男たちは意外とあっさり承諾してくれた。もしかしたら、あたしなら彼女を説得できると思っていたのかも。あたしは男たちが乗ってきた白いバンに乗せられた。バンの中にはモニターが沢山並んでいて、その中の一つはあたしたちの住む町の地図を表示していた。赤い点が、なにかの居場所を示すみたいにあたしたちの通っていた高校にプロットされていて、あたしはすぐに、それが彼女の左足の小指がある場所だって勘付いた」
 あたしはそこで一息ついた。ウェイトレスが注文の品を運んできたからだ。あたしはドリアにスプーンを突き刺して一口食べてから、再び口を開く。
「男たちはどこかと連絡を取り合いながら車を運転していた。どうやらだいぶ目星がついてきていたみたいで、車は迷いなく西の方向へ進んでいた。あたしは薬の影響でか分からないけど酷く酔っていたから、ずっと一番後ろの席で横になってたんだけど、あいつらが言ってた言葉は途切れ途切れに聞こえていた。盗難車がどうのとか、車のナンバーっぽい数字とか、地名とか、そんなことだったと思う。やがてあたしは眠りに落ちて、次に目が覚めたときには空はオレンジ色で、あたしは近くにいた男に何時か聞いた。男は十八時だって答えた。助手席に座っていたやつがあたしの方を振り返って、すごいいびきだったな、って笑ったから、あたしは思いっきり睨んでやったけど、すぐに運転席の男がそいつの頭をはたいた。けっこう話の分かりそうな連中だったから、あたしは安心していた。そして、それからしばらく走って、急にバンは停まって、男たちはなにやら小声で話し合ってから、助手席にいたやつとあたしの近くにいたやつの二人が下りていった。あたしは身を起こして窓から外を覗いた。すぐ近くにボロい軽トラが停まっていて、そして、」

 ❦

 そこには彼女がいた。あたしは窓から顔を半分だけのぞかせて、男二人と会話をする彼女の様子を眺めていた。そこは崖の上で、ガードレールの向こうには、白い絵の具で塗りたくったように夕日を乱反射する海が見えた。彼女が運転してきたものと思われる軽トラは、道から少し外れたところに停車してあったから、きっと彼女はそこで休憩していたのだろう。男二人と彼女はしばらく会話をして、やがて男の片方がバンに戻ってきた。
「なあ、君」そいつがあたしに呼びかける。「お嬢様が君と話したいことがあるそうだ。二人きりで」
「ちょっと待て、せっかく捕まえたのにまた逃げられたらどうする?」運転席の男が言った。
「なあに、大丈夫さ。あのトラックのメーターを確認したがね、もうオイルは残ってないんだ。お嬢様も、もう観念したとおっしゃっている」
 運転席の男はしばらくコンピュータみたいに唸っていたが、やがて重々しく頷くと、あたしに外へ出るよう促した。あたしは彼女の側に残っていたもう一人の男と入れ違いで、彼女の前に降り立つ。
「五分だけです!」運転席から男が叫んだ。「五分経ったら戻ってきます。それ以上のわがままは聞けません」
 彼女はハエでも払うみたいに片手を振って、バンを追い払った。アクセルの音がだんだん遠ざかっていく。ついに、あたしと彼女だけが潮風の中に取り残された。
「ごめんね」まずは彼女が謝った。「お水に睡眠薬混ぜちゃった。ちょっと苦かったでしょ」
 正直味なんて覚えていなかったけど、あたしはうなずいておく。
「あたしも、ごめん。あいつらに連絡したの、あたしなんだ」
「うん、知ってる。でも、どっちにしてもそろそろ潮時だったんだろうね。君のおかげで、わたしの決心も固まったよ」
 海面からの光が眩しい。彼女の顔が、逆光でよく見えない。
「そうだ、あれ、返してよ。あんな物騒なもの、あんたにはふさわしくない。お嬢様なんでしょ?」
 あたしは少し焦りながら言った。煙の出ている部屋を見つけたときみたいな嫌な予感がしたんだ。あたしは右手を突き出しながら、彼女に一歩近付いた。
「ね、お嬢様、って呼ばないで」
 あたしが差し出した手を回り込むように動いて、彼女はあたしの右側に立った。くちびるを近づけて、吐息を耳に添える。
「わたしはわたし。カラダとココロだけを見て。他のものなんかぜんぶ付属物だよ」
 あたしは動かない。彼女はあたしの肩に指を這わせて、二の腕、ひじ、前腕、手首、掌と筋肉の形を確かめるようになぞる。やがて、彼女の指はあたしの指に到達し、それからどんな手品を使ったのか、次の瞬間にあたしの右手は拳銃を握っていた。9mmのパラベラムを発射する、あたしが親父の部屋から持ち出した自動拳銃(オートマチック)
「考えたんだ、あたし」あたしは手元の拳銃を見下ろして、「普通の家にはこんなものは置いてない。でもあんたは、なんの迷いもなくあたしに拳銃を持ってくるよう頼んできた。……あたしの家について調べたんだね」
 あたしの親父は軍人だ。兄も士官学校に通っている。あたしも趣味で銃器を分解したりするから、それらは簡単に手の届くところにある。
「うん、ごめんね。調べた、っていうか、前から知ってたんだけど、そのことを利用したのは謝るよ」
 彼女の指が、あたしの左手の指にからみつく。そのまま、あたしを引っ張りながら後退して、彼女はガードレールに腰掛けた。少しでもバランスを崩せば頭から海に落ちてしまう、そういう座り方だ。
「これでなにをするつもりだった?」
 あたしは核心に踏み込んだ。時計の針は止まってくれない。そろそろ二分が過ぎる。もう、話せる時間は少ししか残っていない。この時間が終わってしまえば……
 終わってしまえば、なんなのだろう。
「ねえ、あんたは、結局なにから逃げていたの?」
 彼女は答えなかった。代わりにその手はあたしの右手が持つ銃の銃身を掴み、そして銃口を自分の口へ。
「引金は、君に託すよ」
 あたしの体は動かない。右手の人差し指は、引金を外れて他の指と一緒にグリップを握っている。
「どうして、そんなにあいつらに捕まるのがいや? 元の日常が、また戻ってくるだけなのに?」
 彼女は首を振った。
「ううん、違う。日常なんて戻ってこないよ、永遠に」
「どういうこと?」
「もう、放課後に、君と一緒にお話をしたりできない、ってこと」
「どうして……」
「わたしのカラダとココロはね」彼女は歌い上げるように言った。「全部、十八歳になったら家のものになるの。そういう決まりなの」
「決まり……」
 しきたり。風習。習わし。子供が逆らっちゃいけない家のルール。彼女が〝敵〟と定義したもの。
「分家の娘は十八歳の誕生日と同時に、宗家のおぼっちゃまに嫁がなくちゃいけない。それが決まり。そして、わたしがその分家の娘」
「そんな、前時代的な、」
 いや、違う。それはあたしがモダニズム的な傾向の強い家に生まれたからこその評価だ。この国が近代を自称してから百年以上が経過した今であっても、そのような風習の残る旧家はいくらでも存在する。
「わたしは今朝の四時に十八歳になった。ね、信じられる? 十八歳になったら、学校もやめなくちゃだめなんだよ。嫁入り道具を持って、たった一人で帝都に行かなきゃならないの。そうなれば、そこから先はずっと牢獄。カラダとココロを奪われて、家のイルミネーションの一つに成り下がるの。もちろん君とも滅多に会えなくなるし、きっとそうなったら、君はわたしのことを忘れてしまうと思う」
 否定の言葉を放つ意志の強さは、あたしにはなかった。
「それなら、死んだ方がマシ」
 残り時間が一分を切るころだった。相変わらずあたしの持つ拳銃の銃口は彼女の口の中を向いている。銃口をその口に突っ込んで少し上を向けて引金を引けば、弾丸は脳幹をクルミみたいに潰して後ろに抜けるのだろう。こめかみを撃ち抜くよりも、きっと簡単で確実な方法。 
「最後に一つだけ聞かせて。どうしてあたしを一緒に?」
 彼女は答える。
「友達が、君しかいなかったから」
 あたしはうなずいた。
 それから、人差し指を引金にかける。
 あたしの天秤はもうずっと前から壊れていて、どんなものを乗せても必ず彼女の方へ傾くんだ。
 だから、彼女がほんとうに望むことを知ったとき、あたしから迷いは消える。
 もう、終わらせよう。
 放課後の議論に幕を引くような気軽さで。
「じゃあ」
「うん」
 彼女は銃口をくわえる。

 銃声が耳を射抜いて、
 それから彼女が海に落ちる音がした。

 ❦

 あのあとあたしは拳銃を海に投げ捨てて、駆けつけてきた男たちに、彼女は自殺した、と嘘をついた。男たちはすんなり信じた。そいつらは帰りの車で、ずいぶん前から彼女にはその傾向があった、って話をしていた。それから、彼女の遺体はあとで回収するだろう、とも。あたしはなんのお咎めもなく秒針の欠けた時計みたいな日常に戻された。彼女の死は教室を一週間ほど賑わせたけど、卒業式のころにはほとんどの生徒が秒針の存在を忘れていて、あたしもそんな生活に適応していた。
 あたしはそれらのことを、多少のブラフを挟みつつ少女に話した。あたしが語るストーリーの中の彼女は、最後の瞬間にあたしから拳銃を奪って自分で引金を引いて自分で海に落ちた。ずる賢い保身だ。でも、彼女と似ているこの少女に、あたしは嫌われたくなかったんだ。
「ありがとうございます。これですっきりしました」少女は座りながら頭を下げた。「ここの料金は、わたしが払います」
 少女はテーブルにスプーンを置いた。伝票を取って立ち上がる。あたしはレジの方を向きかけた少女の腕を掴んで引き止めた。
「待って。一つだけききたい」
「なんですか?」
「君、いま何歳?」
「十八です。今日、十八になりました。姉と一緒です」
 あたしは少女の瞳をじっと見つめた。
「だいじょうぶですよ」少女は肩をすくめる。「このあとは、普通に家に帰ります」
「君は……死にたいって思わなかったの?」あたしはきいた。
「思いましたよ」今朝の天気を答えるような口調だ。
「だったら、」
「でも、普通そういうのって思うだけじゃないですか。どんなに健全な人だって、普通に生活してれば二ヶ月に一回くらいは死にたい、って思うことがあるでしょう? でも、ほんとうに死ぬ人は少ない。そんな日常的で些細なタナトスは、もうみんなそういうもの、って割り切って生きている。だけど姉は違った。割り切れなかった。たかが嫁に行くだけですよ? たしかに自由はなくなると思うけど、狭くて息苦しい世界かもしれないけど、でも死ぬほどのことじゃない、とわたしは思う。だから、姉が逃避行の果てに死を選んだことについて、どうしても腑に落ちなくて、わたしはここのところずっと、生きていたころの姉をなぞるように生活していました。そうやって、姉の考えていたことをトレースしようとしていたんです。でもやっぱり分からなかった。きっと姉とわたしでは、どこかが決定的に違っているんだろう、って思いました」
「それの最後の仕上げとして、あたしを呼んだの?」
「そうです」
 この質問は、しておくべきだと思った。
「旅路をなぞってみて、君は答えを見つけた?」
「それは……」少女はほほえんだ。「学校の先生みたいな質問ですね」
 答える気はないのだ、とあたしは解釈した。ずっと掴んでいた少女の腕を放す。これで、追憶の旅は終わり。あたしはこのお嬢様をあの町まで送り返して、帝都の大学寮に戻ってルームメイトと一緒に夕飯を食べて、それから寝る。そして次の日にはなんの変哲もない日常が、あたしのカレンダーには居座っているんだろう。
「あなたですよ」
 レジへ向かったと思った少女は、いつの間にかあたしの傍らに立っていた。
「え?」
「姉にはあなたがいた。わたしにはあなたがいなかった。それが違いです」
「それは、」
「友達、って意味じゃありません。友達ならあたしにだって沢山います。こう言うのは悪いけど、無愛想な姉よりもよっぽど社交的ですよ、わたしは」
「じゃあどういう、」
「きっと、国民みたいなもの」
「は?」
 少女はここにないなにかを見るような目で、
「姉は自分の周りに国境を引いていたんです。姉の国土には何人たりとも踏み込むことはできなくて、その国境を一歩出れば、そこにいる人たちは敵国か友邦の民。だけどあなただけは違った。あなただけは、姉の国の国民になれたんです」
 わたしですらなれなかったのに。
 少女はかすれた声でそう言った。
「姉はたまに、あたしに学校の話をしてくれました。その日に起こったことを、モノクロ写真みたいに淡々と。それはきっと、わたしを友邦と認めてくれていた、ってことなんでしょうけど、やっぱり姉の話は近況報告以上の意味を持つことはありませんでした。けれど高校一年生のある時期から、姉の話には色が帯び始めます。わたしはすぐに気が付きました、これまで姉の世界に登場しなかった一つの影に。姉と会話をする一人の女子生徒の存在に。それがあなたです」
 あたしは想像する。彼女が嬉しそうな調子であたしのことを話す様子を。彼女らしからぬ仕草で笑いながら、妹に語りかける彼女の姿を。
「だから、あなたを連れて逃げたんです。友達があなたしかいなかったから、ではない。姉があなたに抱いていた感情は、友達へ向けるそれよりももっと切実なものだったんだと思います」
 少女は言った。
「あなたは姉の世界の半分だったんです」
 あたしの時間が止まった。
「それは……」
 それはあたしも同じだ、そう言おうとした。けれど舌はそこで止まってしまって、喉からは声帯を介さないかすれた声がもれるだけ。だって、彼女が消えてからも、あたしは普通に生きている。むしろ、薬物の依存から抜けたみたいに、彼女が世界から失われて以降のあたしはすっかり普通の女の子になってしまった。大学では友達も作ったし、ルームメイトとだって上手くいっている。ルームメイトは紛れもなくあたしの親友だ。お互い家族に会ったこともある。夕飯は毎日一緒に作っているし、仲違いしたことは幾度もあれどその度に仲直りしてきた。あたしはそんな普通な人たちに囲まれながら、普通以上の生活を送っている。それじゃあ、
 あたしにとっての彼女って、なに?
「今から言うことは、わたしの完全な妄想です。もしかすると気を悪くされるかもしれないので、聞き流してくださって結構です」
 いつの間にか少女の口調からは、灯籠の隙間から漏れる明かりみたいに悔しさがにじみ出ていた。
「姉はあなたに引金を託したと、そうおっしゃいましたよね。あなたに殺してもらおうと思ったと。でも、それはこうも解釈できると思う。姉はあなたに二つの選択肢を与えたんだ、と。……わたしが言いたいこと、本当は、もう分かってるんでしょう?」
 時間が動き出した。少女は床を踏みつけるように足を進ませると、レジに伝票と一万円札を叩き付けた。おつりももらわずに、引き止める店員の手も振り切って、夕日に変わりかけた陽光の中に制服姿が飛び出す。そのまま、振り返らずに歩き出した。春の終わりの風が少女のプリーツスカートを揺らすのを、あたしはファミレスの席からずっと見つめている。
 彼女の姿がすっかり見えなくなってから、店員からおつりを受け取った。彼女は家のしきたりで帝都へ行くはずだ。もしかすると、向こうで会うこともあるかもしれない。それからあたしはファミレスを出ると、ケータイでタクシーを呼んだ。無愛想な運転手に目的地を教える。ここから先は、最後の道だ。
 さっき、あたしが彼女の妹についた嘘は二つある。一つは、最後に引金を引いたのは彼女だ、ってこと。もう一つは、あの逃避行の終わりの地の場所を、あたしが把握していない、ってこと。そう、あたしは覚えている。彼女がこの世界から旅立った場所のことを。あの崖の近くの電信柱に貼り付けられていた看板には、『木礁 5–1』って書かれてあったんだ。つまり、あたしたちは少なくとも、初めに彼女が行くつもりだったルートは全て踏破していた、ってこと。
 タクシーは二時間くらい走って目的地に着いた。あたしはお金を払って降りた。途端に潮風があたしの髪をさらって視界を塞ぐ。あたしは苦心して、髪の毛をクジラの潮みたいにまとめて手で押さえてから、崖に向かって歩き始めた。六時前くらいだろうか。西日は右手の方向にある。ガードレールから乗り出してみると、やっぱり海面は夕日を乱反射していて、直視したあたしから視力を奪った。
 あたしはしばし、目をつぶる。そして考える。彼女の妹が去り際に置いてきた言葉について。
 彼女はあたしに二つの選択肢を与えた。
 一つは、そのまま解釈すれば、簡単に分かる。つまり、彼女はあたしに引金を引く、という選択肢を与えたんだ。そうすれば、あの逃避行を一瞬で終わりにできる。彼女は家のしきたりに縛られずにすむし、あたしは彼女の酔狂から解放される。様々なものを失いつつも、物語は一応の大団円を見せる。
 もう一つは、全く別の解釈。〝引金を託された〟ことに対する逆転の発想。
 それは、引金を引かない、という選択肢だ。
 あたしは目を開けた。風は凪いでいる。西日もほとんど顔を隠していた。諦めの悪い明るさをはらんだ藍色の空は駆け足で過ぎ去って、やがて夜が来る。
 彼女の妹の言った通りだ。あたしは彼女の、その第二の期待が存在する可能性にずっと前から気付いていた。彼女は言ってほしかったんだ、あたしに。死ぬことなんてない、たとえあんたが牢獄に囚われたとしても、あたしは絶対にあんたのことは忘れない、って。だからあの日も、あたしが来るまで自殺しようとはしなかった。ずっと拳銃を握りしめて、ガス欠になった軽トラの中で、橙に染まりつつある海を眺めながらあたしを待っていた。それはきっと、彼女にとっても最終手段的な選択肢だったんだろう。あそこで命を落とさなければ、彼女はしきたりによって帝都に嫁がされる。そうなれば、自由は永遠に失われる。なぜならそこは牢獄だ。カラダとココロを奪われて、家のイルミネーションの一つに成り下がる。
 だけど。
 だけど全く会えなくなるわけじゃない。滅多に会えなくなるかもしれないけど、一年に一回かもしれないし、五年に一回かもしれないし、十年に一回かもしれないし、二十年に一回かもしれないけど。でも、永遠に会えなくなるわけじゃないんだ。
 カラダとココロは奪われても、世界の半分は失われない。
 あたしに会うことはできる。
 それが、彼女にとっての最後の希望。
 ……だったとすれば。
 彼女がそんなふうに思ってくれていたのだとすれば。
 あたしは、すごく嬉しい。
 だって、そのことを考えると、あたしの頬は緩んでくるんだから。
 もちろん言われなくても分かっているさ。こんなのは全て仮定の話だし、その仮定だって、妄想って呼んだ方がいいような都合のいいシロモノだ。実際には、彼女は単に宗教上の理由かなにかで自殺ができなかった、ってだけかもしれない。だから、都合良くその場にいたあたしを説得して、銃を握らせたってだけかも。もし、あたしがあのとき撃たないで、白いバンが戻ってくるのを待っていたら、彼女はあたしを睨みつけ、「絶交してやる」とでも言って、あたしのココロにホチキスで付けたみたいな小さな傷を与えて、そうやって一つの友情が破綻しただけで、他にはなにも失われずに逃避行は終わったかもしれない。
 でも、妄想くらいさせてほしい。
 それはとっても優しい妄想なんだ。まるで誰かの唇みたいに、温かい吐息をあたしのカラダに吹き込んでくれる。全身がぽかぽかとあったかくなって、二人で一緒にいた時間を思い出させてくれる。例えば、湯船の中で二人並んで眺めた夜空の景色とか。
 そこから記憶の時間はどんどん巻き戻されて、あたしは高校の廊下に立っている。スクールバッグを肩に引っかけて、壁に背をもたれてぼんやりと薄暗い天井を眺めている。いつぞやの放課後の光景。あたしたちはいつもみたいにくだらない議論をして、そして例のごとく決着はつかずに帰宅することになった。廊下に出た途端に彼女はどこかへ行ってしまう。もしかしたら帰ってしまったのかもしれないけど、一応あたしは待っている。十分くらい待つ。それから、あたしは壁から背中を離す。もう彼女は帰ったんだと思って、昇降口へ足を進める。突然、冷たい感触が頬に生まれる。死ぬほどびっくりして飛びすさると、炭酸飲料の缶を片手に国を傾けそうな微笑みを浮かぶ彼女と目が合う。あたしは文句を言いながらも、彼女の差し出す缶を素直に受け取ってプルタブを開ける。二人並んで橙色の校内を昇降口まで帰る。お腹の奥の方には、湯たんぽみたいな温かさが生まれている。
 あたしにとっての彼女って、そういう存在だったんだ。
 抽象的で観念的な理解が、あたしの腰のあたりにすっと落ちた。
 なにかがこぼれそうな気がして、あたしは空をあおいだ。
 藍色の空は最後の明るさすらも手放そうとしていた。視界の端に映る道路照明灯の明かりが、どうしようもなく霞んでいる。潮風があたしの頬を冷やした。こらえきれなくなって、あたしはお腹の上の方にたまった塊を海に向かってぶちまけた。それは形容しがたい声になって喉からあふれ出すと、まぶたの端からこぼれるしずくと一緒に暗い海に飲み込まれていく。最後に彼女を飲み込んだあの海に。
 彼女が死んでから、あたしは初めて泣いた。
 やがて涙が涸れると、その海にさよならをして、ゆっくりと来た道を帰っていった。

『旅の終わり』

ありがとうございました。

『旅の終わり』 takemoana 作

二年ぶりに故郷の町に戻ってきた「あたし」は、「彼女」の妹と追憶の旅を始める。 シリアスですがちゃんとハッピーエンドです。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2014-06-27
Copyrighted

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