山本ホイホイ

山本ホイホイ

 面白半分で「山本ホイホイ」というのを買って流しの脇に置いておいたら、入るわ、入るわ、今日になって見ると、五人もの山本が捕獲されていた。由々しき事態である。一人見ると、三十人もの山本が家に潜伏しているというが、まさかこんなにたくさんの山本がこの狭いアパートにも潜んでいたとは。こわいもの見たさで中を覗き込んで見ると、なんのことはない、全員が知っている顔である。
 右の手前にいる山本は、県道を挟んで斜向かいに建つ山本酒店の亭主の山本であり、その奥にいるのは三丁目で中華料理店を夫婦で営む山本夫妻。夫婦共にパチンコが趣味で、二人で出かけるところをよく見るが、旦那の酒癖が悪く、喧嘩が絶えない。このところ店を閉め、奥さんの姿を見かけないので、別れたんじゃないかという噂が近所で流れていたが夫妻でホイホイに捕獲されているのだから、きっとまだ一緒にいるのだ。奥の暗いところには幼なじみの山本啓吾くんもいる。五年生のころつぶれた銀行の駐車場でフットベースボールをよくやっていた。私は大きく空振りしてボールを踏み、アスファルトに転げて前歯を欠いてしまった。
 また手前で左足と左手を粘着液に絡めとられたまま小刻みに動いている山本。同じ会社の別の課の山本である。顔見知り程度であまり喋ったことはない男だが、彼はこの状況下において懇願するような目で何かを訴えるようにわたしを見ている。バツが悪くなってわたしは「よう」とよそよそしい挨拶をし、そのあとゆっくりと彼の左手を持ってホイホイから引っ張り出してやった。粘着質な液はニューッと伸びてきて台所の床を汚した。山本は「なんかすいませんねえ」といって申し訳なさそうにし、ズボンをはたくとそのあと脱いだ靴下を丸め、床をささっ拭いて、「今度メシでも食いましょう」と言って帰った。
 また、左手奥の方で粘着液に絡まっているのは、高校時代の恩師である。「山本先生じゃないですか!」私は思わず声をあげた。「おう」と先生はそこに横たわったまま、左手をポケットから出して軽く上げた。「大丈夫ですか」「ああ」と言って山本先生は体を持ち上げようとした。粘着液が伸びて先生の腰を捕らえる。私は自分自身に液がつかないように週刊誌と新聞で橋を渡してその上を踏み、山本先生の所まで行くと、抱きかかえて起こした。卒業後、二十年近く経つが先生の髪はまだ黒々と若々しかった。瞼の裏に、浅黒く焼けた肌で弓道部の生徒たちを熱烈に指導していた、かつての印象が蘇る。「すまんね」。顔をくしゃくしゃにして山本先生は体を上げると、べたべたする革靴を足からはずし「脱いだほうがいいな」と言った。「すいません、後で洗って返しますんで」「いいよ、底もすり減ってたしちょうど捨てようと思ってたんだ」「そうですか…すいませんね」「いいよ、いいよ。それより、斎田ずいぶん久しぶりじゃないか」「ああ、ハハ」とわたしはこの奇妙な再会に、曖昧な愛想笑いを浮かべ「いやあ、何度か誠道館のほうに挨拶に伺おうと思ったんですけどね」「あいつ、このあいだ来たよ。河本のコーちゃん」「河本! 弟のほうですか」「いや、兄貴のほうだな」「あいつ元気なんですか」「小さい子どもを連れてな、急に弓が引きたくなったから、引かせてくれって」「子どもにいいところ見せたかったんじゃないですか。コーさん昔からそういうところあるから。大会になると、ぜったい彼女見に来てたし」「物置にしまっていた弓具を子どもが見つけたらしいんだよ。それでせがまれたそうなんだが」「パパはすごかったんだぞ、とか言っちゃったんですかね」「久しぶりに弓を引くと重いですね、なんて言っとったよ。それでもちゃんと当ててたけどな」「ぼくなんかもう体が忘れちゃってるかも」「弓を引く筋肉は日常使わないからな。どうしても肩が上がるんだよ」「久しぶりにお会いしましたが、先生はまだまだお若いですね」「そうかな。いや、」と言って山本先生は不意に目を逸らした。「まだ結構引いてるんですか?」わたしの脳裏に、驚異的な体力で週に300射以上を引く山本先生の姿が呼びさまされた。「昔のようにはいかんが、そうだな、それでもさぼっている部員よりは引いているぞ」と言って先生は快活に笑った。そして「ただ、もう張り切り過ぎると、次の日肩と腕が上がらんのだ」と付け加えた。「それはそうと斎田」「はい」「ここから出してくれ」。
 ゆっくりと立ち上がり、先生は山本ホイホイの出口へ歩を進める。先導するわたしの後ろで「これはいったいどこで買ったのだね」とちいさく呟いたので、振り返って滑舌よく「マツキヨです」と言ったとき、ビリッという音がして山本先生の体が大きく揺らいだ。足元の雑誌の表紙が破れ、水着を着た巻頭グラビアの女が笑っているのが見えた。勢いよく足を滑らせた先生は、受け身を取る間もなく頭から粘着液に落下した。
 うーん、うーんと、そこら中でうなり声が聞こえる。うなっているのは、全員山本である。どの山本も突然身動きが取れなくなった理不尽さに打ちひしがれ、また少なからずそのことを不満に思い、うなっているのだ。わたしは「うならないでください。山本さんたち、ちょっと待っててくださーい」と薄暗いホイホイの奥に向かって叫んだ。何人かの山本から罵声のような声がわたしに浴びせられた。熱湯持ってこいという声も聞こえた。わたしは激高してそもそもお前たちがおれのアパートに潜んでいるから悪いのだ。こそこそと夜中に流しの辺りでなにをやってやがったんだ変態野郎。と言った。ほの暗いホイホイの中は水を打ったようにシーンと静まった。せいぜいやましさを感じて己自身を省みているところだろう。一方、山本先生は、粘着液の中でぬちゃぬちゃと蠢いていた。引きはがそうとするが、顔と髪の毛に強く液がついてなかなかはがれない。にゅーっと伸びる黄色い液のなかで先生の顔は歪んだ。私は先生の後ろから両肩も手を回して抱えると「いいですか、強く引っ張りますよ」と言った。そして思い切って後ろに体重をかけて強く引くと、べりべりっ、という音とともに先生が剥がれ、反動で大きく私と先生の体は傾いだ。幸い、背面はホイホイの壁であり、わたしはとっさにそこに手をついて共々粘着液の中に飛び込む最悪の事態を逃れた。「大丈夫ですか?」先生は額を手で押さえてうずくまっている。妙なかんじがした。頭皮は赤く、その露出している部分に違和感がある。まるで人相が変わったように見える。次にわたしは、粘着液の中に先生の「頭部だけ」が残されているのに気づいた。わたしは瞬間的に先生の皮膚がはがれてしまったのだと思った。そして、それがカツラだとわかるのに、少し時間がかかった。気がついたとき「あれ」と素っ頓狂な声を上げていた。
「イタタタタ……イタタタタ……」。先生は額を押さえながらしゃがみこんだままだ。その手のすき間から、まだらに飛び出す細い毛束が見えた。腫れたように真っ赤な頭皮に、わずかな毛が汗で貼りついている。わたしは、流しに捨てられた即席ラーメンを連想した。「大丈夫ですか、つかまってください」といってわたしも腰をかがめて肩を貸した。先生はうつむいたまま、しばらくじっとしていたが、「悪いね」と言ってわたしの肩口から手を前へ回し、腰に体重を乗せた。意外と軽いな、と思った。「じゃあ、立ちますよ」わたしはすっくと立ち上がり、ゆっくりと週刊誌と新聞の飛び石を渡ってホイホイから脱出した。
 台所の天井では、切れかけた白熱灯が一定のリズムでチカチカ、チカチカと点滅を繰り返しており、ああ、買ってこなくちゃなと思った。数日前から、気になってはいるのだが、外へ出るとつい忘れてしまうのだ。「先生あの——」と言ってわたしは次の言葉が出せなかった。舌が咽の奥にへばりついたようになって、吃りながら必死で「き、き、きょうはどうもすいませんでした」と言った。先生は何も言わず小さくうなづいた。わたしから不自然に顔をそらし、首を斜めに傾げて目が合わないように俯いていた。その頭上にはエアコンから送られた風が巡り、先生のわずかな頭髪をカツオブシのように揺らした。わたしは、それを直視することができなかった。「面白半分で、なんか」「いいんだよ斎田」押し出すように先生が言った。「僕、まさか先生が捕れると思ってなかったから」わたしは消え入りそうな声で弁明した。「先生もな、悪かったと思っている」「ええ。すごい、不幸な事故で」と言いかけて、わたしは口をつぐんだ。相手が非を認めたのに便乗して、自分が不可抗力的な、抗い難い自然災害のように出来事を位置づけることで責任転嫁を目論んだことをあさましく思ったのだ。「あんな簡単な仕掛けに気づかないなんて! 先生が、ドジだったんだよ」とつぜん明るい口調で、陽気さを装って山本先生が声を上げた。その心づかいに思わず胸が熱くなり「先生! すいませんでした、すいませんでした」わたしは涙ながらに謝り、先生の胸に飛び込んだ。先生はぐらっと揺れて「おいおい、また転んじゃうよ」と笑いながら言った。そして、取りましょうかという私を制して、粘着液にまみれた自らの頭部に手を伸ばし、血管の浮き出た手でしっかりと掴み取ると、目にも留まらぬ早さで小さく畳んで尻ポケットに突っ込んだ。こんもりと膨れた臀部から、ねばねばした汚い毛束が飛び出していた。
「格好悪いとこ、見られちゃったな」「ちょっと驚きましたけど」わたしはいたたまれなくなって、ニヒルに笑ってみせた。この場から逃げ出したいような気持ちだった。「あの、僕、先生をこんな目に合わせようなんて気は、毛頭なかったんです」言った途端、落雷に打たれたようなショックを覚えた。自分の舌を噛みきってしんでしまいたいと思った。「毛頭ない」などとは、いま、いちばん言ってはいけないことを、気が動転していたとはいえ、口に出してしまった。これではまったくの皮肉めいた駄洒落である。「オヤジギャグ」である。案の定、さっきまでのやさしい表情は消え、シャークのような顔つきになった先生が真っ赤な口を開けてわたしを飲み込もうとしている。しかし、それも刹那の出来事で、次の瞬間には先生は穏やかな表情に戻っていた。
「夏場はつい、人の家に忍び込みたくなる」。
遠い目をして先生は呟いた。そして「山本というのは、そういう特性があるのかもしれんな」と続けた。「そういう特性というと?」「冷蔵庫や流し台の裏に潜み、夜になるとコーナーをつたい、へりに沿って動き回る特性だよ」「それは山本全般に言えることなんですかね」「まあ実際、他人のことはよく分からんが、私は人の寝た後の台所。そこがたまらなく大好きだ」「それでだ! おとついの夜に台所でものすごい音がして目が覚めたんですよ」「それはわたしだ。斎田、お前冷蔵庫の上にカステラを置いてただろう」「あっ、確かに! 置いてました」「しかも、文明堂のやつだっただろう」「そうです、そうです。会社にきた中元をもらったんですよ」「先生、文明堂のカステラに目がないって知ってるよな」「新入部員が入ると体育館の前に並ばせ、頭に乗せたカステラを次々に射抜いていた先生のご勇姿、忘れてませんとも」「一度だけ、失敗したことがあった」「ええ、そうですね河本の弟が入部した ばかりの時に——」「考え事をしていて、そうだ。兄ちゃんと目元が似ているな、などとふと、思ってしまって……。その時、腕に余計な力が入ったんだ。本当に悪いことをしたと思っている」「左目を射ぬかれて、病院に運ばれたときはどうなることかと。もう部は終わりなんじゃないかで眠れませんでした」「あいつ今どうしてるんだっけ」「海賊になったと聞きました」「夢、かなったじゃん。今ごろ舳先でいい風浴びてるんだろうなあ」「眼帯をして再び部に戻りたいと言いだしたときはびっくりしましたけどね。普通は親が止めるだろう、止めなきゃあおかしいだろう、と思いました」「私が親でもそうするな。その前に裁判に持ち込むだろう」「だけど、失明した河本に『お前、眼帯似合うから海賊になればいいじゃん』とおっしゃった先生のプラス思考」「そう。ポジティブシンキング。弓の世界では一番大事なことだぞー」「失敗しても挫けない思いこそ、大切なんだと」「失敗したっていうか、俺が加害者なんだけどね」「それ以来、カステラは口にしていないと聞いていましたが」「そうなんだ。もう何十年になるだろう。カステラを食べないことが、そう、カステラを食べないことだけが、わたしに出来る唯一のつぐないだと思っていたからね」「もう、充分じゃあありませんか」「いや、まだまだ私には弱いところがある。実際お前の家に入って、カステラを見たとき——そう、あの時わたしは頭が真っ白になって、カステラに飛びつこうとしてしまった。人の家に遊びにきているという状況が、自戒の念をどこか緩くさせたのかもしれない」「遊びにきたんじゃなくて忍び込んだんでしょう」「そうだ。あわよくば金品を盗むつもりだった」「ウチに金目のものはありませんよ」「しかし、その日はとにかく腹が減っていたからな。カステラにありつけるなんて最高だと思った。だけど、その前に天ぷらをいただいていたことを忘れていたのだ。私はぬっとりとサラダ油のついた足のまま、いつものように冷蔵庫の側面を駆け上がろうとした。そして——滑り落ちた」「あの音! 地球の底が抜けたのかと思いましたよ」「よく布団から起きてこなかったな」「実は強盗かも知れないと思って、刺激したらマズイと思って息を殺していたんです」「あれは私自身驚いた。いや、衰えたなと思ったよ」「体は、大丈夫だったんですか」「腰。そして背中をしたたか打ちつけた。息ができなくなって、しばらくはうずくまっていたよ。これがホントの虫の息、というわけだハハハハ」わたしはなにが面白いのか、まったく分からなかった。ただ、先生が笑っているのだから、取り合えず笑っておいたほうが無難であるという打算的な心理で、自分の顔に笑みを貼り付けた。
「僕、山本ホイホイがこんなに粘るとは思わなかったんです正直」「ああ、粘着力は相当なものだった。私でさえ、簡単に抜け出せないのだから、一年生じゃあまず無理だ。三年生だって、稽古をさぼっているやつじゃあ無理だ。それほどなのだから、この商品は良くできているよ」「389円なんです」「お買い得じゃないか、おい!」「正直、400円だったら買わなかった思います。もっとケチれば良かったと、今では思います。いや、そもそも山本ホイホイではなく、中島ホイホイにしていれば、山本先生は捕獲されなかった」「人をゴキブリみたいに言うなよ」「えっ?」「人をゴキブリみたいに言うなって」先生はぎょろりと私を睨みつけた。「すいません!」「で、どこで買ったんだっけ?」「マツキヨです」わたしははっきりとした口調でそう答えた。「北口?」「はい」「北口だと、俺はコクミン派だけどな」「コクミンは、濡れティッシュを買う時だけ使います」「濡れティッシュが安いのかね」「いえ、ただなんとなく……」「お前はよく濡れティッシュを学校に持ってきて、停学になってたものな!」「エヘッ! 先生それは言わない約束じゃーん」と、わたしは蛸のようにくねくねとおどけた。弾けたように笑い出した先生の目尻の皴は、あの日より大きく深く刻まれていた。


 玄関を出て路地に立った山本先生は巨大な夕陽に包まれた。その影は細く長く石畳に伸び、わたしはその時はじめて、二十年という月日の長さを感じ取った。じゃ、またなと小さく手を上げる背中を見送り、「老けたなあ」と小さく呟いたとき、木立の間から風のように一本の矢が放たれ、先生の背中を射抜いた。夕陽に赤のインクが飛び散り、先生は路地に突っ伏した。コーチャン、ヤッタジャンという声が聞こえた方向を振り返ったわたしの額に、次の矢がさくり、と刺さった。

山本ホイホイ

山本ホイホイ

面白半分で「山本ホイホイ」というのを買って流しの脇に置いておいたら、入るわ、入るわ、今日になって見ると、五人もの山本が捕獲されていた。由々しき事態である。こわいもの見たさで中を覗き込んで見ると、なんのことはない、全員が知っている顔である。

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-12-22

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