古書店物語

古書店物語

はじめまして、十六夜弥代(いざよい やしろ)と申します。こちらの作品は小説家になろうでも掲載していまして、今回星空文庫で掲載させていただくことになりました。
どうぞ、よろしくお願いします。なお、著作権は十六夜にあります。
舞台は古書店。第一章は過去編、第二章は現在編となっています。
過去編は舞台が古書店のみではないことをご了承下さい。
現在編は最初のみ舞台が違います。

表紙、作中の画像はwebでも使用可能のものを使用しています。
素材提供サイト 「あやえも研究所」様

それでは、彼らの世界をお楽しみくださいませ。
ようこそ!古書店の世界へ!

プロローグ

プロローグ

 ◆0:僕の永久就職先

 僕は大きな欠伸をしながら背伸びをした。まだ少し気怠い体を引きずるようにして外へ出る。マンションから愛用の自転車を漕ぎ、いつものコースを走り抜けて仕事場に向かった。
 入口のガラス戸を開けて中に入ると、チリーンと戸の上に設置された鈴が鳴る。蛍光灯を点ける。薄暗いものの明るくなった店内に置かれた本棚と溢れんばかりの本が僕の視界に映った。ここは僕の永久就職場所そのものだ。
『あの店を、引き継いでくれんね……?』
 最後に聞いた大切な人達の遺言通り、僕はここを引き継いだ。当時はとてもじゃないが考えられなかった。二人の店を僕のような赤の他人に引き継がせるなんて、普通じゃない行動だったからだ。
 今なら分かる。二人にとって僕がどれだけ大事だったのか。僕は最後の最後まで知らなかった。あの日酷く後悔したことを今でも覚えている。

 あれは、学生生活最後の夏休みだった。

第一章 僕のノスタルジア

第一章 僕のノスタルジア

 ◆1:僕のバイト先

 学生生活最後の夏休み。たくさんの蝉の鳴き声と暑さが走っている僕の身体に重くのし掛かってくる。
「あーもう、うるさいなぁ…」
 耳を塞ぎたくなる蝉の大合唱は、そんな僕の呟きを聞いても鳴き止むことはしない。夏を代表する風物詩であることには文句などないが、こうもうるさいと頭が痛くなってくる。
「あ、急がないと…!」
 左手首に着けている腕時計を見て、僕は自転車のペダルを漕(こ)いだ。スピードが上がる。
 木々の間から射し込む陽光は茶色の髪を照らし、風は髪をふわりふわりと靡(なび)かせる。
 森林公園内に設けられている遊歩道に、僕は自転車を滑(なめ)らかに走らせていた。時折来るカーブを曲がると、周囲の森林が動きに合わせて左右に揺れている。
 その後を追うように蝉の大合唱はついてくる。蝉達と追いかけっこだ。夏の間、僕は蝉達との追いかけっこを楽しむ。ちょっとした遊戯(ゆうぎ)。
 本当ならもう少し楽しんでいたいが、生憎(あいにく)時間がない。ペダルを漕ぐ足に更に力を込めた。吹き抜ける風の向こうに蝉の大合唱が遠のいていく。
 やがて森林公園を抜けた。
「はぁー、暑いな」
 涼しい楽園を抜けた途端に暑さが僕を襲った。30℃を超える猛暑日に、汗が全身の穴という穴から噴き出てくる。
やれやれ、今年も暑さは和らぎそうにない。誰だ、今年は冷夏になるとか言ったのは。
 持ってきていたタオルで軽く汗を拭い、目的地まで自転車を走らせた。


 森林公園の出入り口から左折して北へと向かう。視界の隅に道路脇に建っている一軒家の前を通り過ぎようとした時、チリリンと澄んだ音が聞こえてきた。
 急いでいた僕は思わずスピードを下げて、その一軒家を見上げる。家の二階の窓に風鈴がつけられているのが目に入った。高い所はそよ風が吹いているらしく、風鈴は風に揺れている。
 揺れる度にチリリンと澄んだ音が聞こえ、焦って乱れた僕の心を平静にしてくれそうだった。どうして風鈴の音というのは、こうにも癒されるのだろう。
 いけない。すっかり虜(とりこ)にされてしまった。ここで癒されてる場合じゃない。僕は急いでペダルを漕いで、その場を後にした。


  もうとっくにお昼時を過ぎたというのに人で溢れている賑やかな大通りを颯爽(さっそう)と走り抜け、十字路を左折しアーケード街から住宅街へ続く脇道に入る。
 多くの住宅が建ち並ぶ中、僕はある一軒家の前に自転車を停めた。腕時計で時間を確認する。何とかギリギリ予定時刻には間に合ったみたいだ。
「こんにちは」
 僕はガラスの引き戸を開ける。引き戸の上に設置された鈴がチリーンと鳴った。
喫茶店やファミレスで言えば、チャイムのような役割をしている。
「おぉ。そんなに慌てて来なくても良かったんにの」
 奥のレジにいたお爺さんが慌てて入ってきた僕を笑顔で出迎えてくれた。
「おーい、婆さんや。千里君が来たぞ」
「あらあら千里君。そんなに汗かいてから。外は暑かろうて。こっちに来てお茶でも飲みんしゃい」
 更に奥の部屋からお婆さんが出てくる。二人とも七、八十歳ぐらいで髪はすっかり白い。お婆さんはふっくらとした顔に浮かぶ笑顔はとても愛嬌があり、お爺さんは厳格そうな顔つきで怖そうだが結構優しくしてくれるいい人達だ。
 板張りの床と淡い黄色の壁。この小さな空間に置かれている幾つもの本棚には多くの本が並べられている。
 中山古書店ー。
 僕、高田 千里(たかだ ちさと)はこの古書店でアルバイトをしている大学四年生だ。
「千里君、そんな所に突っ立ってないで」
「あ、はい。その前に着替えてもいいですか」
「はい、どうぞ」
 レジの奥にある二人の住まいに上がらせてもらう。更衣室として使わせてもらっている和室に入り、新しいTシャツに着替えた。
 汗臭くないように軽くスプレーをかける。
この暑さだ。着替えを持って来ておいて外れも何もない。
 夏は多量の汗を掻くこともあり、冬に比べると洗濯物の量は多くなって困る。
 居間には木彫りの箪笥(たんす)、テーブル、座布団。おばあちゃん家の畳と同じ藁の匂いがした。なんだか凄く懐かしい。
 見渡してみるとテレビだけが真新しくて不釣り合いに感じる。
 少し前まで普通のカラーテレビだったが、アナログ放送の終了に伴い新しく買い替えたらしい。
「千里君、座りぃ」
 お爺さんー中山 寛(なかやま ひろし)さんーに促されて座ると、お婆さんー中山 千代(なかやま ちよ)さんーが麦茶とお茶菓子を持って来た。


 ◆2:僕のバイト先⑵

 今日のお茶菓子は水羊羹か。普段饅頭などの和菓子は勿論、ケーキやシュークリームなどの洋菓子も口にはしない。
 一口大に切った水羊羹の表面はツヤツヤしている。口に入れると羊羹と違ってパサパサした食感ではなく、寒天ゼリーのような食感だった。
 よく冷やしてあったのかひんやりとしていて案外美味しい。生クリームとは違って甘さが控えめなのが、甘すぎるのは苦手な僕には丁度良かった。
「ところで」
「千里君は今日も森林公園を通ってきたんね」
 お茶菓子に満足し、呑気に麦茶を口にしていた僕は千代さんの言葉にどきりとした。
「どうして分かったんですか」
「ほれ、頭に葉っぱが付いておるぞ」
 寛さんが頭に付いている葉っぱを取って見せてくれる。それは楓の葉だった。
 この楓は道路脇にもあるが森林公園に多く植えられていて、地元の人なら誰だって知っている。知らないのは僕のように都会に出てきた人達くらいだ。
 ああ、それでかと納得した僕は恥ずかしさを誤魔化すように再び麦茶を口にした。


 四年前、僕は大学進学と同時に住み慣れた土地を離れて都会へと出てきた。自然が溢れている地元とは違い、周りがビルばかりだったことに驚いたのを覚えている。
 テレビで都会がこういうものだと知ってはいたが、実際に来てみるとどこを見ても人ばかりで無性に窮屈に感じられた。
 幼い頃から自然に囲まれて生きてきた僕にとって、都会の空気はなかなかキツかった。でも一人暮らしをするからにはアルバイトをしなくてはならない。そして学費も稼がなければならない。
 一刻も早く都会に慣れるために大学の休みの合間を縫っては、色んな所に足を運んだ。
 そんな時に見つけたのがあの森林公園だ。
森林の中に設けられた遊歩道と木々の間からキラキラと射し込む陽光が作り出す森の一種の世界は、正に幻想的だった。
 一目見て気に入って以来、バイトに行く時も大学に行く時も毎日あそこを通っている。
「もう一年になるんね。千里君がここで働き始めて」
「そうですね。一年になります」
「時が経つのは早いけんね」
 僕は首を縦に振った。そう、もう一年になるのだ。思い返せば今まで様々なバイトをしてきた。引越し、ファミレス、居酒屋、夜間警備員、コンビニ店員…上げたらキリがない。
 でもどれも長続きはしなかった。次こそはと新しいバイト先を見つけても、すぐに辞めてしまう。楽しくないわけではない。どのバイトもやり甲斐があって楽しかった。
 無駄に中途半端な経験だけが積み重なっていくのに嫌になっていた三年目の夏、ふらりとこの古書店に立ち寄った。それが中山夫妻と古書店との出会いだ。
 バイトを始めてからこうやってお茶に誘っては、僕を本当の孫のように可愛がってくれている。僕自身も実の祖父母を幼い頃に亡くしているため、二人を本当の祖父母のように思っている。
 正直ここまで長続きするとは思わなかった。またどうせすぐに辞めてしまうだろう。始めた頃はそんな風に考えていたものだ。
「二人には感謝してます。書店で働くことが初めてな僕に、色んなことを教えてくれたこと」
「いいんよ。儂らは千里君が来てくれるだけで充分助かっとる」
「時給が少ないのが申し訳ないけんどね」
「いやいや。そんなことは」
 ここの時給は居酒屋と同じ高さだ。これで少ないなんて僕は微塵も思っていない。寧ろ充分すぎるくらいなのに。
 チリーンと鈴の音が店内に響く。鈴の音はお客が来たことを僕に知らせていた。
「あの、すみません」
「はい、ただいま!」
 すっかり表沙汰にしてしまった。コンビニや居酒屋などのバイトの経験上、お客さんはなるべく待たせてはいけない。
 慌てて表に出ると、レジの所に一人の女性客がいた。初めて見るお客さんだ。


 ◆3:可憐な女性客

 青色のワンピースを着た背が低めの黒髪の女性。整った目鼻に色白で華奢な体は、僕に陶器の人形を思わせた。
 こんな住宅街にある古書店よりも高級料理店が似合いそうな可憐で可愛らしい印象を受ける。
「いらっしゃいませ。お待たせしてしまって、すみません」
 申し訳なさそうに言うと彼女は小さくかぶりを振った。動きに合わせて切り揃えられ手入れの施された艶やかな髪がサラサラと揺れる。
「いえ、こちらこそ休憩中に来てしまってごめんなさい」
「あ、大丈夫です。気にしないでください」
 こっちは来て早々に仕事を放ったらかして呑気にお茶をしていたのだ。休憩も何もどちらかと言えばサボりなのだから、お客さんである女性が気にすることはない。
「じゃあ僕はここに居ますから、気軽に見て行ってください」
「はい」
 その言葉で女性は店内を見て回り始める。歩く度にヒールが床に当たって、コツコツと音を立てた。
 どうやらレジから見て左奥にある本棚へ足を運んだらしい。青色が時々チラチラと僕の視界に映った。何かあれば声を掛けてもらうように伝えてある。
 自分の行動をずっと他人に見られていたら、おちおち本を探すことすらままならないだろう。
 椅子の前脚を浮かし後方にバランスを取りながら、奥の本棚に居る女性をもう一度だけ見やった。
 開け放った窓から生温い風が店内に入ってくる。風は本を手に取っては読んでいる女性のワンピースと髪をふわりと靡かせた。
 凛とした佇まいで本を読んでいる姿は一枚の絵画のようだ。色恋沙汰と無縁な僕は大学ではもちろん、日常生活の中でこんな綺麗な異性を見る機会などなかった。
 さっさと雑用を片付けてしまおう。
 すっかり見惚れてしまっていた僕は、本日のこれまでの売り上げを換算するために引き出しから電卓を取り出した。
 ここは忙しい時は忙しいが、空いてる時間の方が殆どだ。だから出来ることはしておかないと閉店間際になってやることが増えてしまう。
 レジの机に置かれてあるノートに手を伸ばした。売り上げ帳簿だ。レジに記録されている金額に不自然な点がないことを確認しながら、帳簿へと売り上げを記載していく。
 店内にはトントンと電卓を叩く音と、時折不規則に聞こえる靴音だけが響いた。


「ふぅ……」
 小さく息をついて、伸びをしながらボキボキと首を鳴らす。暇な店番以外の他にやることがあると、つい集中してしまうのはいいとして。
 窓から入り込む陽射しは明るく、冬なら暖かそうだ。肝心の冬場は陽射しが入り込むことが少ないのだが。
 ところで、あの女性客はどこに行ったのだろうと店内を見渡していると、女性は奥の本棚から手前の本棚へと移動していた。
 気づかないうちに帰ってしまったのではないかと思った僕は、視界に青色が映って心なしか安心する。
 このまま女性を見てるわけにはいかないので、机に置いてある一冊の文庫本を手に取り、続きを読み始めることにした。


 しばらくして女性が一冊の本を手にやってきた。やるべき雑用の大半を終わらせ文庫本を読んでいた僕は、崩れていた姿勢を正して椅子に座り直す。
「これお願いします」
「はい。600円ですね。カバーはつけますか?」
「じゃあお願いします」
 女性が財布から小銭を取り出している間に本にカバーをつける。
 タイトルには【銀河鉄道の夜】と書かれていた。宮沢賢治の作品の一つだ。昔に本ではないが、映画化されたこの作品を観たことがある。


 ◆4:可憐な女性客⑵

 猫である主人公は村で行われている銀河の祭りの夜、祭りに行くと病に臥せっている母親に嘘をついて町外れの丘に向かう。
 しかし丘にいたはずなのに、気がつけば不思議な機関車に乗っていた。見えないレールの上を機関車は走っている。
 どの車体を探しても自分といつの間にか乗り合わせた友人以外の姿は見当たらない。窓の外を見ると広大な銀河がそこには広がっていた。
 初めて観た当時はこういうものがあるのかと感動したものだ。これは後になって知ったのだが、あの作品は文学ではなく実は童話だったらしい。
 思えば確かにそういう箇所が多々あったような気がする。僕が本の世界にのめり込むキッカケになったのはこの作品だったな。
「あの…」
「あ…。丁度600円お預かりします」
 自分の世界から我に返ると慌ててレシートと一緒に商品の入った袋を手渡した。
「ありがとうございます」
 商品を受け取った後も、女性は一向に去ろうとしない。依然としてレジの前で立ったままだ。
 只事ではない様子に心配になる。もしかしたら知らない間に失礼なことでもしてしまったか。
「その本……」
 視線を辿るようにして同じ方向を見てみる。女性の視線は真っ直ぐにレジの机に向いていた。そこには僕が先程まで読んでいた文庫本が置いてある。
 なるほど。これを見ていたのか。
 内心ハラハラしていたが、失礼なことをしていなくて良かったと安堵する。
「コナン=ドイル作【シャーロックホームズ 緋色の研究】ですね。昔、私も読んだことがあります。ホームズシリーズの中ではバスカビル家と赤毛連盟の次に好きなんです」
「はい、僕もその二つの話は好きです」
「ふふ。同じですね」
 女性の顔に笑顔がぱあっと花が咲き誇るように広がる。
 変わらず開け放った窓から入ってきた風が僕と女性の間を吹き抜ける。心なしか風は爽やかに感じられた。


「特に初めて二人が出会ったシーンで、モリアーティ教授にホームズが言ったセリフには感動しました」
 用意された椅子に座ってしばらくお互いに楽しそうに話していたが、突然女性はあっ、と口を片手で覆った。
「どうしたんですか」
「私ったらつい一人でペラペラと話してしまって。しかもこんなに長居を。ごめんなさい。…お仕事の邪魔ですよね」
 長々と話していることに申し訳なさを感じたらしい。肩を竦めて俯く女性は本当に可愛らしかった。男なら誰だってぐっと来るであろう仕草に、不覚にも僕はドキドキする。
「ぜ、全然邪魔だなんてことはないです!僕もホームズ好きですから!聞いてて楽しいです。ただ、話が合う人が居るのがとても嬉しくて。周りは漫画派やラノベ派ばかりで文学派の僕は肩身が狭いんです」
 落ち込んでいる姿を見て、咄嗟(とっさ)にそんな言葉が口をついて出てくる。咄嗟にとはいえ、こんなどうでもいいことまで言ってしまった。
 恥ずかしさで顔に熱が帯びていく。耳まで紅くなっているかもしれない。


 ◆5:可憐な女性客⑶

  恐る恐る顔を女性の方に向けると、向こうも僕を見ていたらしくバッチリと目が合う。
 何となく気まずくなって、無言のままお互い顔を逸らしてしまった。
 気づくと辺りはオレンジ色に染まっている。外からはカラスの鳴き声が聞こえてくる。
「すっかり話し込んでしまってごめんなさい。私、そろそろ帰りますね」
 椅子から立ち上がった女性の横顔を入り込んできた夕日が照らしている。夕日に反射して黒髪がキラキラと輝いて見えた。
「いや、謝らないでください。僕の方も話し込んでしまったのでお互い様です」
「あ、いえ、でも…そうですね」
 お互い謝りっ放しだ。今日一日を思い返して急に可笑しくなり、しばらく二人で笑っていた。


「家まで送りましょうか?日の長い夏とはいっても変出者はいますから」
 店外に出て行こうとする女性の後ろ姿に、僕は心配になって声を掛けた。
 空に少しずつ夜の帳が降りてきている。オレンジと深い紺色がグラデーションを作り出していた。まだ完全に日暮れではないため、明るいと言えば明るい。
 それでも住宅街に設置された外灯はチカチカと所々が点灯し始めていた。
「ありがとうございます。大丈夫です。すぐ近くですから」
 やんわりと断られてしまう。
 でも、と言いかけて止めた。よく考えると、今日初めて会ったばかりの男に家まで送ってもらうなんて怖い以外にない。
「すみません、僕考えが及ばなくて。出しゃばったことを」
「いいんです。気持ちは嬉しいですから」
 項垂れる僕を見て、慌てて女性は取り繕うように首を横に振りながら言った。
「その代わり、また来てもいいですか」
 思ってもみなかった言葉に反射的に首を縦に降る。つまり、ここの常連になってくれるということであり、僕に好意があるとかではないことを念頭に置いておかなければ。
 微笑みを浮かべた女性は僕に背を向けると歩き始めた。しかし数歩歩いた所で立ち止まってしまう。
「……如月 弥生(きさらぎ やよい)」
「私の名前です」
 女性ー如月 弥生さんーはくるりとこちらに向き直った。動きに合わせて揺れたワンピースは音を立てずに元に戻る。
「…高田 千里です」
 あれだけ話し込んでいたのに、今更自己紹介するのは何だか照れくさかった。
「高田さん、今日はありがとうございました。それじゃあ、おやすみなさい」
 如月さんは言い終えると、立ち止まることなく夜の帳が深くなり始めた空の下を小走りで駆けていってしまう。
 僕はその背中を今度こそ黙って見送った。


 ◆6:閉店準備と夕飯

 他の家ではもう夕飯時だろうか。
 僕はガラス戸の内鍵を掛けて閉店準備をする。帳簿と売り上げ金を確認して厳重なロックの掛かる小さな金庫に入れた。
「寛さん。これ今日の売り上げ金です」
「いつもありがとさん」
「はい」
 今度は居間の入口に置いてある掃除道具を手に取り掃除を始める。小さな店内とは言っても綺麗にしておかないと、僕もお客さんもいい気持ちにはなれない。
 箒で床を掃いてモップを掛ける。バケツの中の水は透明色からあっという間に鈍色へ変わっていった。
「よし」
 綺麗になった店内を改めて見渡す。誰も居ない店内はとても静かだ。
 カチッと蛍光灯を消すと暗闇の中、唯一開いている窓から微かに虫の声と月の光が入ってきている。
 こんなもんでいいだろう。掃除道具を直した所で千代さんから声を掛けられた。
 微かにだが、居間の方から風に乗っていい匂いが漂ってくる。いい夕食の匂いを嗅いだせいか、僕のお腹が空腹を訴えて鳴った。
「千里君、夕飯はどうするんね」
「帰りにコンビニで買って帰ろうかと……」
「あらぁ、それじゃあダメ。栄養が偏ってしまうけんね。良かったら食べていきんしゃい」
「え、でも」
 いくら何でも夕飯までご馳走になるなんて、そんな迷惑は掛けられない。遠慮しようと口を開きかけた所で、千代さんの後ろから寛さんが顔を出した。
「婆さんの言う通りぞ。そんなもんばっかり食ってたら体に悪いけん。ほらほら、こっちに来んね」


 結局断る間もなく夕飯をご馳走になることになった。テーブルには焼き魚と豆腐の味噌汁、白菜の漬け物、大きめのお皿には肉野菜炒め。とても美味しそうだ。
「千里君。ご飯」
 大きめの茶碗によそられた炊きたてのお米がホカホカと湯気を出しており、ご飯粒はツヤツヤしていて、見ているだけで食欲を掻き立てられる。
「ありがとうございます」
「たくさん食べんとね」
「はい、いただきます」
 千代さんのご飯はどれも美味しかった。僕も凝った物は作れないが、料理は人並み程度には出来る。
 それでもこんなしっかりとしたご飯を食べたのは久しぶりだ。ついレンジでチンするだけでお手軽に済ませられるコンビニ食品やレトルト食品、インスタント食品に偏ってしまう。
 いかにコンビニが便利なのかというのがよく分かる時代だ。
「千里君、昼間の子は彼女さんね?」
「ぶっ」
 食後のお茶を飲んで一息ついていた僕は、驚いて口からお茶を吹き出してしまった。
 脳裏に昼間会った黒髪の可憐な女性、如月さんが浮かんだ。確かにあんなに可憐な女性が彼女なら、どんなに嬉しいことか。
「か、彼女!?違いますよ!如月さんは今日初めて会った人で、別に彼女とかじゃ……」
「なんね、彼女さんと違うんね」
「はい、残念ながら」


 ◆7:月明かりの帰り道

 もう二十二だと言うのに、今だに彼女のかの字も出来ないとは。将来が少し不安になってしまう。
「如月……近所に住んでいる弥生ちゃんか。偉い別嬪(べっぴん)さんになってからに」
「知ってるんですか」
 あまりにも寛さんが懐かしそうに言うので、不思議に思って聞いてみた。
「あの子は昔から可愛くて優しくて、根はしっかりとしたいい子だけんね。弥生ちゃんなら、千里君の彼女さんにピッタリやろうて」
 まるで本当の孫娘の成長を素直に喜んでいる口ぶりだ。最早二人にとって僕と如月さんは、孫も同然なのだろう。
「いえいえ。僕には絶対勿体無い子ですよ、如月さんは」
「そんなこと言ってる内は彼女は出来んぞ。尻込みしてたら、あっという間にチャンスを逃してしまうからの」
「お爺さん、急かしたらダメよて。大事なことやけんね」
 尻込みか。あながち間違ってはいない。ズバリと言い当てられた僕は誤魔化すようにははは、と苦笑いを浮かべる。
 その時、ボーンと時計の鐘が鳴った。
「あ、そろそろ帰らないと」
 気づけばもう夜の闇が深い時間帯。これ以上長居するわけにも行かない。いそいそと立ち上がる。
「気をつけて帰んなさい」
「はい。夕飯ご馳走でした」
 スニーカーの紐をしっかりと結ぶ。二人にもう一度お礼を言った後、僕はバイト先からいつもより遅い家路に着いた。


 決して規則的にとは言えないが、所々点いている外灯の下を僕は走り抜ける。
 光に誘われたのか、外灯の周りには虫が群がっているのが見えた。自転車のチェーンがカチャカチャと音を立て響く。
 辺りは暗くて、頼りになるのは自転車のライトと外灯の灯りのみ。夜の住宅街は静かで既に早い眠りについているようだ。
 アーケード街から大通りへ行くにつれて次第に明るくなってくる。大通りは夜でも明るい。自転車を漕ぐ僕の姿を車のライトが照らしながら、何台か通り過ぎていった。
 やがて来た道と同じく森林公園へ入る。月明かりが木々の間から射し込んでいた。道を淡く照らし出している。
 月夜に照らされた木々の緑の上に淡くぼかされた銀色が、ハイライトとして映る。元気一杯な陽光が降り注ぐ日中。澄んだ月明かりが降り注ぐ夜。
 どちらも幻想的で僕は見惚れてしまう。ビルばかりで息が詰まりそうな都会にも、自然に溢れた所はやはり欲しいのかもしれない。
 森林公園の中は虫の大合唱で溢れていた。蝉みたいな暑さを感じさせる鳴き声よりも、いくらか涼しさを感じる。
 しかし風が止んだ分、じっとりとした暑さは僕の額に仄かに汗を浮かばせていた。熱帯夜もいつかは和らぐのだろうか。
 森林公園を抜けて自宅マンションに続く長い坂道を登る。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
 坂道を登る度に息が切れて、更に一際大粒の汗が浮かんでは顎を伝って滴り落ちた。


 ◆8:雨の匂い香る夜

 五、六階建てのマンションのエントランスを通る。エレベーターを待っている間に郵便受けを確認したが、何も入っていないようだ。
 案外すぐに来て乗り込んだ僕は四階のボタンを押して、体を壁に預けた。背もたれがあると、つい体を預けてしまうのは誰でもあることだ。
 独特な浮遊感の後、機械音を響かせながら箱は上昇していく。
 僕が降りると、無人になったエレベーターはドアが閉まった。役目は終わったとばかりにゆっくりと下に降りていく。
「ただいま」
 一人暮らしなので返事は返ってこない。逆にこれで返ってきたりなんかしたら恐ろしい。良くないことを想像して、ぶるりと身を震わせる。
 部屋の中は真っ暗だった。当たり前だ。今帰ってきたばかりで、まだ部屋の灯りを点けていないのだから。
 手探りでスイッチを見つけて灯りを点ける。LEDの蛍光灯が、少しだけ暗闇に慣れた瞳には眩しく感じた。
「疲れた」
 疲労感の上に覆い被さるかの如く、眠気が襲いかかった。幸いにも僕の視線の先にはシングルベッドがある。
 このままベッドにダイブしたい衝動に刈られたが、それよりまずシャワーを浴びようと浴室に向かう。


「ふぅ」
 冷蔵庫から冷えた牛乳を取り出す。ゴクリと喉を鳴らしながら飲むだけで、何だか一日お疲れ様と言われてるみたいに感じるのは不思議だ。
 お風呂上がりにはやはりビールよりも牛乳に限る。パックを片手に窓を開けると、網戸越しに外の空気が入ってきた。風に乗って湿った空気が流れてくる。
 湿度は結構高そうだな。ふいにアスファルトが濡れたらしく、鉄臭さに似た匂いが鼻を掠めた。耳を澄ませてみると、しとしとと降り続く雨音が聞こえる。
 帰った時には降っていなかったから、シャワーを浴びてる時に降り始めたのだろう。
 僕は雨音に耳を傾けながら、漠然と今夜はいつもよりも寝苦しそうだと思った。
 エアコンをタイマーに設定して眠りに就く。思った通り、なかなか寝付けない。ゴロゴロとベッドの上を転がったり、羊を数えてみるも無駄に終わる。
 何度目かの寝返りをうった後、ようやく僕は熟睡とまではいかないが、浅い眠りに就くことが出来た。


 ◆9:そのこころ

 茹(うだ)るような暑さが、閉め切ったカーテン越しに伝わってくる。直接陽射しが当たらないだけマシといった所か。
 チュンチュンと可愛らしい雀の鳴き声に誘われて、自然と目が醒めた。寝惚けつつカーテンを開けたら、眩しい光が視界に入ってくる。
 街が朝陽に照らされて輝いている。眩しさに顔を顰(しか)めながら見上げると、どこまでも雲一つない澄み渡る青空が広がっていた。
 全くまだ朝なのに暑いな。
 流れ出る汗をタオルで拭いつつ、バイト先の古書店に自転車を走らせる。早く涼しくなってほしい。
「おはようございます」
「ああ、千里君。おはよう」
 ガラス戸を引いて中に入ると、寛さんと千代さんが既に開店準備をしている。荷物を置いて僕は手伝うことにした。


 住宅街の中にある小さな店内にずらりと並ぶ本棚と溢れんばかりの本、板張りの床と淡い黄色の壁が特徴的な中山古書店。
「こんにちは」
 今日も奥のレジで本を読みながら店番をしていると、店内にチリーンと鈴の音が響く。ガラス戸が閉まり、黄色のワンピースに白くてツバの広い帽子を目深に被った女性が入ってきた。
 にこりと笑顔を浮かべた女性は、毎日ここを訪れてくれている常連客の一人。
「こんにちは、弥生さん。今日も暑いね」
 奥から椅子を取り出しながら僕は言った。切り揃えられた艶やかな黒髪と色白で整った顔立ちが、帽子の下から露になる。
「本当ね。私夏は好きだけど、この暑さは好きじゃない」
 帽子を手に椅子に座りながら、弥生さんは一向に和らぐことのない暑さに文句を言う。その様子を見て僕は小さく笑った。
 よく夏の陽射しは女性の肌には大敵だと言うが、正にその通りのようだ。笑ってはいけないと思いつつ、その反対で今は男でも紫外線を気にする時代なのだから、気にすることないのにと思う。
「千里君、なんか笑っていない?」
「いや、そ、そんなことないよ」
「本当に?」
「うん、本当本当」
 弥生さんとはあの日以来、すっかり同じ文学友達として打ち解けている。最初はお互いに苗字で呼び合っていたが、打ち解けていくにつれて自然と名前で呼ぶようにまでなっていた。
「ねぇ、千里君。夏目漱石の【こころ】読んだことある?」
「ああ、あのドロドロな三角関係の?」
「そう。あのドロドロな三角関係の」
 こうして僕らは毎日向かい合って文学の話をするのが日課だ。あまりにも熱中しすぎて、たまに他のお客さんが来ても気づかないことがある。程々にしようとは思っているが、なかなか難しい。


 ◆10:そのこころ⑵

「勿論、読んだことあるよ」
「やっぱり。千里君なら読んだことあると思った」
「有名だからね、あの作品は」
「そうね。私、久しぶりに寝る間も惜しんで一気に全部読んじゃった。お陰で今日は目が少し赤いの」
 ふふ、と小さく弥生さんは笑った。言われてみれば、確かに少しだけ目が赤い気がする。
「僕も同じだよ。朝まで読書をした後は、それまでの緊張が解けて、忘れていた眠気が襲い掛かってくる。更に、その日が学校だったら一日辛いし。気づいたら授業中に舟を漕いでるなんてことも。よく目の下に隈が出来るよ」
 二人であるある、と頷き合う。
「…読んでみて、どうだった」
「とても衝撃的だった」
 夏目漱石の【こころ】
 下宿に住むKとお嬢さんと主人公のドロドロな三角関係が描かれている有名な作品だ。
 Kは意中の人に自分の気持ちを話すことが出来ずに悩み続ける。
 下宿生は悩み続けている彼を励ましながらも、陰では先に彼女を自分のものにしようとあれこれ模索していて。
 Kの知らない所で二人の距離は近づいていく。結局、彼に意中の人を取られたKは深い絶望の末に自ら命を絶った。
 僕は目を閉じて、その情景を思い浮かべてみる。襖で仕切られた部屋。ある夜、眠っていた下宿生は隣の部屋の異変に気づく。
 いつもは閉まっているはずの襖が僅かに開いていた。それは隣のKの部屋で。
 辺りはランタンの灯り以外は真っ暗な闇に包まれている。
 彼はKに呼びかけた。襖が開いているぞと。しかし返事は返ってこない。
 よく見ると、ランタンに照らされた部分の襖に赤い染みがある。
 彼はランタンでKの部屋を照らし、そこで自殺しているKを見つける。
 ゆっくりと目を開けた。確かに衝撃的だ。


 静かな店内には、時計の針が時を刻む音とエアコンの風の音だけが響く。外から時折、子供の声や車の走る音が聞こえてきた。ここだけ別世界のようだ。
「はい、お茶とお茶菓子ね」
 僕らの前に、麦茶の入ったコップとお茶菓子が置かれた。誰が持ってきたのかなんて、皺だらけの手を見ればすぐに分かる。
「いつもありがとうございます」
「いいんよ。弥生ちゃんは毎日来てくれてるお礼やけんね。千里君、女の子にはちゃんとおもてなしせんとね」
 長い人生を歩んできた証でもある顔や手の皺は、誇っていいものだと僕は思う。
「はい、すみません」
「仲がいいのはいいけんどね」
 つい話に夢中になってしまって、すっかり忘れてしまっていた。こういう所もやはり男は気が効かないとか言われる由縁なんだろうか。
「千里君もこれからやけんね。じゃあ弥生ちゃん、ゆっくりしていきんしゃい」
 千代さんは優しく笑うと、奥の部屋へと消えていった。
 僕と弥生さんは麦茶を一口、口にする。冷えた麦茶は美味しかった。カランと中にある氷が音を立てる。
「私ね、こころは人間の本性と感情がよく描かれている素晴らしい作品だと思う」
 そっと瞳を伏せて、彼女は両手で持ったコップの淵を親指で優しくなぞりながら言った。
「うん。僕もそう思うよ」
「千里君はKの自殺、どう思ったの」


 ◆11:そのこころ⑶

 すぐには答えられない僕は、顎に手を添えて考え込んでみる。自殺をどう思ったのかという答えは、どれもが正しくもあり、正しくもないものが多い。
 弥生さんは包装されたお茶菓子を小さな手に乗せていた。しなやかな指でゆっくりと丁寧に包装が外されていく。
 カサリと音を立てて包装が外れ、茶色のお菓子ー最中が顔を出した。
「……僕はね、Kの自殺は下宿生に対する最大の復讐だと思ったよ」
 あれこれ思索するよりも自身が思ったことを伝えればいいと考えた僕は、やっと考えついた答えを口にする。
「…復讐?」
「うん、復讐」
 弥生さんはパクリと最中を小さな口に運んだ。可愛らしく両手で持って食べる何気ないその仕草に目がいく。
 改めてこうして間近で見ると、弥生さんは今まで見てきた異性の中でも一番可愛い。雪のような白い肌に映える黒髪と整った顔立ちは、老若男女問わず噂の的になるだろう。
 こんな異性と毎日話せるだなんて。
 柄にも無く、これからもずっとこの時間が続けばいいのにな、と思ってしまう。これが俗に言う色恋沙汰なのか。
「あのね、私思うの。自殺は、彼女に想いを伝えず踏み止まったKの自業自得じゃないかなって。だって、もっと早く想いを伝えていれば、下宿生とくっついたりなんて……千里君?」
「あ、ああ。ごめん、何でもないよ」
 つい考え耽ってしまっていたらしい。澄んだ綺麗な黒い瞳で見つめられる。
 心の中まで見透かされている気がして何だか恥ずかしくなった僕は、視線を逸らすように最中を手に取った。
 包装を破って、乱雑に口の中に放り込む。咀嚼すると餡子の味が広がった。
 少し甘すぎる気がするが、なかなか美味しい。皮が口の中で引っ付いて気持ち悪かったたが、麦茶で流し込んだ。


 しばらくして陽射しが傾いたのか、店内の影が僅かに濃くなった。特に入口よりも奥の方が日陰になりやすいここは、若干暗めだ。
 下手に明るすぎるよりも、僕としてはこっちの方がいい。読書をするには最適と言ってはあれだが、適度な暗さではある。
「えっと、どこまで話したんだっけ。ああ、そうだ。確か僕がKの自殺は下宿生に対する復讐だ、って言った所までだよね」
 長時間も同じ姿勢で座り続けるのは結構疲れる。いい加減お尻が痛くなってきたので座り直すと、重みで板張りの床がギギッと軋んだ。
「もう千里君。私の話聞いてなかったの」
 弥生さんは頬を膨らませる。どうやら機嫌を損ねてしまったようだ。
「ちゃ、ちゃんと聞いてたよ」
「本当?」
「う、うん。本当だよ」
 これ以上機嫌を悪くしてはいけない。大人しい子ほど、怒らせると怖いと言う。
「あの…ほら、そう!Kの自殺は自業自得だって」
 慌てて記憶の糸を手繰り寄せた。ほぼ、と言っていいくらいに弥生さんの話を流していただけに、糸を手繰り寄せるのは大変だ。
 もしも違う答えを言ったら、弥生さんをますます怒らせることは目に見えている。折角毎日来てくれている数少ない常連客だ。
 数ある古書店からここを選んでくれたのだから。


 ◆12:そのこころ⑷

「何だ。ちゃんと聞いてるじゃない」
 僕はなるべく聞こえてしまわないように小さく溜息をつく。横目で見ると、弥生さんはすっかり機嫌を良くしたのか膨らませた頬を元に戻していた。
「ところでさっきの話、どうして復讐だと思ったの?」
 聞いてきた弥生さんはいつもと同じように穏やかな表情をしているものの、やけに僕を見つめてくる。弥生さんの瞳は好奇心に満ち、光り輝いていた。
「Kが、思い詰めてしまうくらいにお嬢さんが好きだったのを、下宿生は知っていた。なのに、知ってて彼は取られまいと抜け駆けをした。きっとKは思ったんじゃないかな。自分の方が好きだったのに、他の男に取られたって。だから僕は復讐じゃないかなと思ったんだ」
 もしかしたら、弥生さんが求めるような答えではないかもしれない。そう思うと自信が無くなってきて、最後の方は自然と声が小さくなったのが分かった。
 彼女には僕の答えはどう聞こえたのだろうか。
「……千里君の考え、よく分かる気がする。私とは反対だけど。当たり前だよね。女の私と男の千里君とじゃ、価値観や考えてること、思ってることが違っても何ら不思議じゃないもの」
「うん、そうだね。僕らは同じ文学好きという共通点はあるけれど、作品の捉え方や物事の考え方、価値観は違う」
「そうね。かの有名な金子みすゞの詩のよう」
 ーー皆違って、皆いい。


 小さな店内には、ずっとエアコンの緩やかな風が吹いている。涼しい風が僕らに直接届くことはなく、床に溜まっているようだ。
 足元からじわじわと涼しさを感じる。冷房の寒さに凍えるようなことはない。湿度も昨夜と比べると、だいぶ下がっているのだろう。
 お互いの間に沈黙が流れた。しかしその沈黙には嫌な感じはなく、何だかとても心地良い。
 気づくとコップの氷はすっかり溶けきっている。この暑さでは氷なんてすぐ溶けてしまう。底の方に温い水となって溜まっていた。
「あ、麦茶新しいの持ってくるね」
 僕は奥の部屋へと消える。千代さんから台所を借りて、弥生さんと自分のコップを軽く濯いだ。氷を入れて麦茶を注ぐ。
 表面は結露が起こっていた。コトリと弥生さんの前にコップを置く。
「ありがとう」
 僕も自分のコップを置くと椅子に座った。
 弥生さんは麦茶を口にすると、再びコップの淵を優しく指でなぞる。
「でもね…千里君。私、好きな人を取られたくないっていう気持ちは、分かる」
 その時ガラス戸が開き、次いでチリーンと鈴の音が聞こえた。
「こんにちはー!」
 大きくて道の端から端まで届くだろう、よく通る声。入口の方から少しぽっちゃりとした中年女性がこちらに近寄ってきた。


 ◆13:そのこころ⑸

 白髪交じりの茶髪にぽっちゃりな体格、半袖のワンピースにサンダルを履いている。
 板張りの床を歩く度に、サンダルがカラコロと音を立てた。手にエコバッグが提げられている所を見ると、近くのスーパーで夕飯の買い出しに行った帰りらしい。
「おばさん、こんにちは」
「こんにちは、濱田さん」
「あら、弥生ちゃんも千君(ちーくん)もこんにちは」
 濱田さんはふっくらとした頬を緩ませて笑う。見れば見るほどに、下町のお母さんだ。
「今日はどうしたんですか」
「中山のお婆ちゃんに用事があってねぇ。今奥にいる?」
「はい。奥にいますよ」
「じゃあ、ちょっと上がらせてもらうよ」
 近所に住む濱田さんは持ち前の気前の良さで、僕もバイトを始めた頃から良くしてもらっている。
 ちなみに僕を愛称で千君と呼ぶのは、知る限り濱田さんだけ。また事あるごとに僕を弄って遊ぶのも、濱田さんくらいだろう。
 彼女もここの常連客の一人であり、僕はバイトの身。強いことは言えずに、結局為すがままなのもどうかと思うが。
 でも決して悪い気分ではないので、今はこれも一つの楽しみとしている。
「千君も隅に置けないねぇ。昼間からデート?」
「デート?!違いますよ!」
「あっはっは!照れない照れない」
 豪快な笑い声は、夏の茹だるような暑ささえも吹き飛ばしてしまいそうだ。
「夏休みだからねぇ。千君もデートの一つや二つはしておかないと、男としての魅力が駄々下がりよ。まぁ、古書店っていうのがあれだけど」
「だから違いますってば!」
 恥ずかしさのあまりに顔を真っ赤にして否定する僕を、濱田さんはどこ吹く風の如くさらりと聞き流す。
「本当、青春を謳歌してるって感じ」
 うふふふ、と含み笑いをしながら、濱田さんは僕と弥生さんを見比べた。
「貴方達、結構お似合いなのに」
 呆然とする僕らを見てあっはっは、と豪快に笑う濱田さん。
「これからが楽しみねぇ」
 一言そう言い残すと僕らの横を通りすぎて、奥へと入っていってしまった。

第一章 僕のノスタルジア2

第一章 僕のノスタルジア2

 ◆14:その日は突然に

 夏休みも中盤に差し掛かったその日の天気は、朝から雨だった。朝早くに蒸し暑さを感じた僕がカーテンを開けて、げんなりとしたのは気のせいではない。
 盛大なまでに寝癖がついているボサボサの頭をポリポリ掻きながら、今日最初の溜息をついた。


「こうもジメジメしてたら嫌だな」
 雨の中、レインコートをしっかり着込んだ僕は自転車を走らせた。
 湿度が高いせいか、レインコートの中が蒸れているようだ。
 マンション近くの坂道を一気に下っていく。自転車が通る度に、ピシャッと水溜りの水が撥ねたが気にしない。
 幸い雨足は弱く風も無いため、びしょ濡れになるという大惨事だけは逃れることが出来た。
 やがていつも通りに森林公園へ入る。今日に限って蝉の大合唱は疎か、虫の鳴き声すら聞こえない。
 どこかで雨宿りでもしているのだろうか。
「よっ…と」
 大通りからアーケード街へ。次に住宅街へと滑らかに走らせて、時間的に余裕がある状態でバイト先に着いた。
 濡れないように軒下に自転車を停めて、早く中に入ろうとガラス戸を引く。
「あれ?」
 いくら引いてもガラス戸はびくともしなかった。鍵が開いてないようだ。
「珍しいな」
 腕時計を確認する。いつもならもうとっくに開店している時間だ。
 もしかして休みだろうか。
 そう考えて改めてガラス戸を見たが、休みを知らせる貼り紙はない。携帯も確認するが、何の連絡も入っていない。
 ガラス戸の向こう、閉め切られたカーテンの僅かな隙間から中の様子を窺う。
 暗くてよく見えない。電気も点いていなければ、人の気配も感じられなかった。
 どこに行ったんだろう。
 その時、ポケットに入れていた携帯が振動していることに気がついた。
「もしもし」
『もしもし、千里君ね』
 のんびりとした間延びのある聞き慣れた声が、電話口から聞こえる。電話の相手は千代さんだった。
「千代さんですか。ああ、良かった。連絡ないですし、戸に休みの貼り紙もしてなかったのでどうしたのかなと思ってたんです」
『心配かけてごめんね』
「いえいえ。無事ならいいんです、全然。あの僕今、書店の前に居て。もしかして帰りは遅くなりそうですか?良かったら鍵開けときましょうか。こんな天気だけどお客さんはー」
『あのね、千里君』
『……今日は休みになったんよ』


 ◆15:その日は突然に⑵

 雨の中、僕は猛スピードで自転車を走らせていた。古書店と住宅街からアーケード街、大通りまでを一気に走り抜けていく。
 地面にある水溜まりが撥ねて、泥がズボンの裾やスニーカーに茶色の染みを点々と付けていった。
 雨粒は自転車のスピードが上がる度に顔に当たって、冷たさとヒリヒリと刺すような痛みが感じられたが、いちいち拭ってなどいられない。
 アーケード街や大通りまで来ると人通りも車通りも多く、僕は自然とスピードを下げる。急いでいる時にこそ、人や車とぶつかったり何かしら事故が多くなるものだ。
 中には歩道から炙れて車道を歩いている人もいる。後ろをノロノロと走ることは普段の僕ならともかく、生憎今の僕には我慢が出来ない。チリンチリンとベルを鳴らす。
 通り抜ける際に車道を走るな、こんな所に自転車で来るな、邪魔、とか相合い傘をした若いカップルの非難の声が耳に入った気がしたが、そんな言葉に耳を傾ける程の余裕はない。
 脳裏に電話での千代さんの話が浮かんだ。
『休みって。どういうことですか、千代さん』
『千里君、落ち着いて聞きんしゃい』
『はい』
『実はお爺さんがね、昨日の夜に倒れて危篤状態なんよ』
『危篤って……そんな。今、どこの病院にいるんですか!』


 ギリリッと歯を噛み締める。
「寛さんっ……!」
 大通りの十字路を迷わずに左折する。道なりに真っ直ぐ走って行くと、総合病院と書かれた看板が目に入った。
 やがて目の前に病院の白い建物が見えてくる。千代さんから連絡を貰った、寛さんが入院している病院。
「はぁ、着いた」
 駐車スペースに自転車を止めて、休む間も無く中に駆け込んだ。息をきらし額から溢れんばかりの汗。全力で漕ぎすぎたせいで足がパンパンになり、足取りは若干フラフラしている。
「す、すみませんっ……あ!」
 血相を変えて受付に飛びついたものの、僕は膝から崩れ落ちた。足はガクガクと震えて力が入らない。受付係の女性が驚いてカウンターから表へと出てくる。
「大丈夫ですか?」
「は、はい、大丈夫です。ちょっと、足が疲れただけなので」
 足に力が入らない僕を親切にも女性は長椅子へ座らせてくれた。
「すみません、お手間を取らせてしまって。ありがとうございます。あの、中山 寛さんの病室は何階ですか?」
「お見舞いですね。少々お待ち下さい」
 受付で寛さんの病室を調べてもらっている間、僕は力の入らない足をさすったり揉んだりしていた。


 ◆16:その日は突然に⑶

 きらしていた息もだいぶ落ち着いてきて、僕は鞄からタオルを取り出して汗を拭った。汗で失った水分を補いたいと、喉が渇きを訴える。
 目と鼻の先に自販機が置いてあることに気がついた僕は、チラリと受付を窺った。まだ時間がかかりそうだ。
 そろりと立ち上がり、自販機へ向かう。財布から小銭を取り出して、水分と塩分補給が手軽に出来るスポーツ飲料を買った。
 元の位置に戻り長椅子に浅く座り、ボトルのキャップを開けて飲んだ。水分もそうだが失った塩分も相当だったらしく、一気に飲み下してしまう。
 中身が半分近く減ったところで、受付のカウンターから先程の女性が出てきて、こちらに歩み寄ってきた。
「お待たせしました。中山 寛さんは現在二階の集中治療室(ICU)にいらっしゃいます。こちらの方から面会希望の旨をご連絡しますので、お名前よろしいですか?」
「高田 千里です」
「高田さんですね。分かりました。左手奥にエレベーターがございますので、そちらから二階へどうぞ」
「ありがとうございます」
 僕は荷物を持つと席を立った。集中治療室か。千代さんから危篤だと聞いた時から、普通の病棟ではないだろうと思っていたが。
 二階は一階とは違い静まり返っていた。無機質な色をした廊下と壁。辺りが蛍光灯で明るいはずなのに薄暗く感じるのは、外の天気が雨だからだろう。
「えっと、集中治療室は……」
 辺りを見渡してみながら奥に進んでいくと、白いプレートの中に一つだけ赤いプレートがあるのに気づいた。赤に白字で手術中と書かれている。手術室だ。ありありと顔に嫌悪の表情が浮かぶ。
「千里君」
 呼ばれて振り返ると、千代さんが一つの磨りガラスのドアを開けて、こちらを見ていた。
「千代さん!」
「こんな天気の中、わざわざ来てくれてありがとうね。お爺さんも喜ぶやろうて」
 顔には微笑みが浮かんでいるものの、千代さんは少し疲れた顔をしている。よく見ると顔色も良くなさそうだった。無理をしないで休んでもらいたいが、千代さんのことだ。簡単には首を縦に振ってくれないことくらい、僕にも分かる。
「寛さんは……」
 僕がそう言うと、千代さんは黙ってドアの向こうに視線を向けた。磨りガラスの向こうが集中治療室らしい。開いているドアの隙間から、白衣に身を包んだ看護師や医師が動き回っているのが見えた。


 集中治療室の中は本当に別世界だった。ベッドの上に寝かされた患者さんに、酸素マスクや心電図、点滴などといった機械がついている。心電図の電子音が、生きていることを生々しく伝えているように聞こえた。
「お爺さん、千里君が来てくれたんよ」
 治療室の一番奥に寛さんは居た。他の患者さんと同じくたくさんの機械をつけられて、静かに寝ている。元気だった姿を知っている僕にとって、それは辛く目を背けたくなるような現実だった。
「早よ治って、起きられるようにならんとね」
 優しく寛さんの手を握って声を掛けている千代さんを見て、涙ぐんでしまう。ここで泣くまいと我慢すると鼻の奥がツンとして痛かった。


 ◆17:その日は突然に⑷

「手、握ってやってくれんね?」
「はい」
 寛さんから目を離さずに千代さんは言った。僕はそっとベッドの反対側に近付き、恐る恐る手を握る。
 繋がっている点滴からしか栄養が行ってないため、その手は少し細かったが皺だらけでほんのりと暖かかった。
「寛さん、分かりますか?僕です、千里です」
 声を掛けてみるも、寛さんの手はピクリとも動かない。瞼は深く閉じられていて顔色も蒼白だ。
 長い間無言で手を握っていたが面会終了時間が近づいてきたため、心配で何度も振り返りながらも千代さんと集中治療室を後にした。


 帰りにアーケード街に寄ろうということになった。だが、自転車の後ろにお年寄りを乗せるのは危ない。落ちたりしたら大変だからだ。
 考えた結果千代さんはタクシーで、僕は自転車でアーケード街に向かうことになった。雨はいつの間にか止んでいて、鈍色の厚い雲の間から微かにオレンジ色の光が見え隠れしている。
 そもそも喫茶店に寄ることになったのは、千代さんから寛さんの病気について話を聞くことになったからだ。
 アーケード街で合流し、他より混雑していない喫茶店を選んで中に入る。ピークは迎えたらしく疎らにお客さんがいるくらいだ。
「いらっしゃいませ。空いているお好きな席へどうぞ」
 僕と千代さんは入口から離れた奥の席に座る。ここなら周りに聞かれることもない。
「千代さんは何にしますか?」
 メニューを広げながら僕は聞いた。豊富なドリンクの品揃えにどれにしようか迷ってしまう。
「それじゃあ、アイスコーヒーにしようかね」
 ベルでウェイトレスを呼び出し、迷った挙句にアイスコーヒーを二つ注文する。
「お爺さんは若い頃から腎臓を患っててんね。一回手術をして片方取り除いたこともあったんよ。それからはずっと定期的に病院に行って治療して、薬も飲みよったけんね」
 そこで聞かされた寛さんの病気は、僕が思っていたのよりもだいぶ悪かった。
「知らなかったです。腎臓病だったなんて」
「ごめんね、突然で驚いたやろうに」
「いえ、僕に心配掛けたくなくて黙っていたんですよね。それを責めることなんて出来ませんよ」
 申し訳なさそうにする千代さんに僕は優しく微笑む。丁度アイスコーヒーが運ばれてきて、渇いた喉を潤した。
 寛さんが今回倒れたのは残った腎臓が悪くなったからだ。肝腎要という言葉をテレビでよく耳にするが、本当にそうらしい。
 特に腎臓を患っていたのだから、普通の人より悪化するリスクは高かっただろう。
「早く、良くなるといいですね」
 目の前の千代さんを少しでも元気づけるために掛けた言葉は、気休め程度にしかならない。それでも掛けずにはいられなかったのだ。


 ◆18:その日は突然に⑸

 寛さんが入院してからというもの、千代さんはみるみるうちに元気がなくなっていった。介抱疲れが全面的に出始め、ついには体調を崩すようにまで。
 それでも午前は家事をこなし、午後は僕に店を任せて病院へと足を運んでいる。
僕はというと気の利いた言葉も言えず、気遣いもろくに出来ず。
 ただ出来ることは、千代さんと一緒に古書店を支えることくらいだった。
 寛さんの入院から変わったことが一つだけある。古書店でバイトをしている僕のところに、弥生さんが毎日やってきては手伝ってくれるのだ。
 チリーンと鈴の音が鳴る。ガラス戸の向こうからピンク色のワンピースに身を包んだ弥生さんが顔を出した。
「こんにちは、千里君」
「あぁ、弥生さん。こんにちは」
 とりあえず笑顔で挨拶はするが、お互いぎこちないし何より笑えていない。とにかく立ったままではいられないので隣にもう一脚、奥から椅子を取り出して置く。
「千里君、おじいちゃんの容態はどう?」
 ワンピースに変な癖がつかないように椅子に座りながら、弥生さんは心配そうに聞いてきた。
「全然。あれから変わりないよ」
「そっか……」
 弥生さんが千代さんと寛さんのことを幼い頃から、親しみを込めておばあちゃんおじいちゃんと呼んでいることを最近知ったばかりだ。
「良くなるといいね」
「うん」
 あれから寛さんの容態は一向に良くならないまま、四日が経っている。医師が出来る限りの治療は施し危機的状況からは脱したが、本人の意識は戻らず。
 僕らは回復を待つばかりでいた。


 入院から六日目は、いつもよりお客さんが来ないことと、午後になっても弥生さんが来ないのが気になって仕方なかった。
 外は見事なまでに晴れて、雨は降りそうにない。陽射しも厳しく、暑さが一層身に染みそうだった。そんな時だ。店内の電話が突然鳴り出したのは。
「はい、中山古書店です」
『千里君……私、弥生』
 弥生さんからの電話だった。
「良かった。今日は来ないから心配してたんだよ」
『う、ん』
「どうかしたの?」
『あのねっ。今連絡があって。おじいちゃんが、亡くなったのっ』
「え?」
 頭の中が一瞬フリーズした。電話の向こうからやっとの思いで言い終えて抑えきれなくなったのか、弥生さんの嗚咽が聞こえてくる。
 話によると、危機的状況から脱した寛さんの容態が五日目の夜、急変。異変にすぐに気づいた夜勤の看護師が駆けつけた時には、既に呼吸は止まっていたそうだ。医師や看護師による賢明な蘇生にも関わらず、寛さんは朝方に息を引き取った。
 それは本当に突然だったらしい。あっという間に悪くなって、あっという間に息を引き取った。


 ◆19:悲しい別れ方

 手続き等の関係で、三日後葬儀が行われることになった。千代さんはかなり精神的にも肉体的にも参っているのが分かる。
 一人で古書店を経営していくこと、寛さんが倒れてつきっきりの介抱をしていた千代さんの体には、疲労が蓄積していた。
 食欲も低下。ご飯を食べることすらしない日もあった。僕は近くのコンビニやスーパーから買ってきたり手作りしたりしていたが、一口二口食べて終わることが多かった。今は少しずつだが、食べてくれるようになっている。
 とにかく喪主がこんな感じでは葬儀は行えないので、補佐を濱田さんが急遽することになったらしい。
 聞くところによると、寛さんと千代さんは若い頃に一人娘と疎遠になって以来、連絡を取っていなかったのだとか。
 中には関わりの深い僕が、補佐を務めればいいのではないかという意見もあったそうだ。
 しかし濱田さんは、僕に葬儀の補佐を任せるのはあまりにも酷すぎるとのことで、代わりに引き受けてくれた。
 葬儀の手配はもちろん、段取りや火葬の手続きまで全部してくれたらしい。僕も手伝いを申し出たが、大丈夫だからと言われて渋々引き下がるしかなかった。


 葬儀当日。森林公園の近くにある会館で、夕方葬儀が行われるそうだ。
 外は雲一つなく晴れていて、送り出すにはいい日であることに違いはなかった。
 寛さんが亡くなった翌日に母に事情を説明して、速達で送ってもらった喪服に袖を通す。
 最後に葬儀に出たのは中学の時、父方の叔母が亡くなった時だった。それ以来喪服に袖を通すという機会はなかったため、感傷深くなる。
 洗面台の鏡を見ながら、ネクタイを結ぶ。キュッとネクタイを締めると、自然と顔も引き締まった気がした。
 マンション近くの坂の下で、弥生さんを乗せた軽車が停まっている。僕は駆け足で走り寄った。
 元から車の免許は持っているが、ガソリン代は一人暮らしの学生にとって手痛いものでもある。
 そのため自転車で通える範囲は自転車で通い、無理な範囲は地下鉄やバスなどといった交通機関を使うようにしてきた。
 正直、会館まで汗をかいて自転車で行くことは出来ない。タクシーを使えば余計にお金が掛かる。
 どうやって行こうかと考えていた時、弥生さんと弥生さんの両親が乗っている軽車に乗せてもらうことになったのだ。
「お待たせしました」
 落ち着いた深緑色の車に乗り込みながら言うと、弥生さんはふるふるとかぶりを振った。
「ううん、私が早かっただけだから。気にしないで」
 弥生さんも僕と同様、喪服に身を包んでいた。明るい色の服を着ている姿に目が慣れてしまったせいか、妙に新鮮に思える。
「はじめまして、高田 千里です。本当にすみません。僕まで送ってもらって」
「はじめまして、弥生の母です。弥生から高田君のことは聞いてるわ。いいのよ、いつも弥生がお世話になってるみたいで。あの子、迷惑かけてないかしら」
 助手席に座っている弥生さんのお母さんが、微笑みを浮かべながらこちらを振り返って言った。顔立ちや鼻の形、目元が弥生さんそっくりだ。
「いえ、迷惑なんてそんな。僕の方こそ、弥生さんにはいつもお店に来ていただいて助かってます」
「もう!お母さんったら!余計なこと言わないでよ!」


 ◆20:悲しい別れ方⑵

「はいはい」
 抗議する弥生さんの言葉を慣れたようにさらりと流してしまう所は、どことなく濱田さんに似ているような気がした。でも弥生さんのお母さんと濱田さんとじゃ、似ても似つかないか。
「二人とも、高田君の前だよ。やめないかい」
 運転席に座っている弥生さんのお父さんが二人を宥める。後部座席からだと直接顔は見えないが、バックミラー越しにその顔を見ることは出来た。
 緩やかなカーブを描く眉毛に、少し大きめの瞳の目尻が垂れている。穏やかで優しそうな印象。好青年と言われても違和感を感じないくらいだ。
「ごめんね、高田君。弥生はいつもこんな感じだから。中山さんの所で騒がしくしてないかい?」
「お父さん!」
「そんなことないですよ。弥生さんはいつも明るく接してくれますし、騒がしいとか全くないです。僕と文学の話で大いに盛り上がるくらいで」
「千里君まで!もうっ、恥ずかしいじゃない……」
 すっかり拗ねた弥生さんは完全にそっぽを向いてしまい、窓の向こうを見つめている。その横顔が赤い気がしたが、横に座っている僕の位置からはよく見えなかった。
「そうかい。それは良かったよ」
 弥生さんのお父さんが優しく微笑んだ後、車内に沈黙が訪れる。会館へと向かう道中での初めての沈黙。
 暗く悲しい雰囲気は、僕には重く辛く感じた。
 そう思ったのは僕だけではない。弥生さんも弥生さんの両親も同じなのだろう。皆が出発してから絶えず話していたのは、そんな雰囲気に押し潰されないようにするためだ。
 森林公園の外側を、大通りやアーケード街方面へぐるりと迂回。周囲の景色が人混みや建物ばかりから、緑が生い茂る木々へと変わる。目と鼻の先に会館が見えた。
 もうすぐで会館に着く。寛さんが送り出される会館に。
「もうすぐ着くから、降りる準備しておくんだよ」
「分かった……」
「はい」


 木々で囲まれた会館は、結構な大きさだった。広さも相当なものだろう。二階建てだ。
寛さんの葬儀の会場は二階の一番手前の大部屋だった。
「南無阿弥陀仏」
 お坊さんのお経を聞きながら、僕は視線だけを動かして部屋を見渡した。畳の敷かれた和室に、一つだけ棺が置かれている。
 寛さんの遺影の周りには、色鮮やかな花が飾られていた。鮮やかな花に囲まれた中心で、遺影の中の寛さんは笑っている。見たことのない、笑顔で。
 親族席には千代さんと補佐の濱田さん夫婦が座っている。肩を震わせている千代さんの後ろ姿は、僕がいつも見ているより更に小さく見えた。
 葬儀は無事に終わりを告げ、長い正座から解放された僕は、膝を曲げたり伸ばしたりして固まった膝を柔らかくする。結局葬儀の間、千代さんと寛さんの娘さんが姿を現すことはなかった。
 千代さんの空いている隣を見る。そこは変わらず空席のまま。会える最後のチャンスなのに、どうして来ないのか。
 僕は会場の外へと出た。
「はぁ……」
 廊下の椅子に座り、深く溜息をつく。いくら疎遠とはいえ、葬式にくらい顔を出してもいいだろうに。これじゃあ寛さんも千代さんも可哀想だ。
「千里君。どうしたの?」
「弥生さん」
 声を掛けてきた弥生さんの目は兎のように真っ赤だ。一方の僕はまだ実感が沸かず、泣けないままでいる。
「どうして、寛さんと千代さんの娘さんは来ないのかなって思って」
「きっと、来づらいんだと思う。疎遠になった親に会いに行くのって、結構勇気のいることなんじゃないかな」
「そうだと、いいね」


 ◆21:悲しい別れ方⑶

 多くの人が悲しんだ。中山古書店を知っている人、近所の人、常連客。会場の中は色んな人でごった返していた。辺りは人だらけだ。
 会館の中、葬儀の会場である畳の和室に到底入りきれないなんてことはない人数ではあるが。
 僕は、その中でただ突っ立っている。やっと寛さんの葬儀から、悲しみを受け入れることが出来てきたというのに。
 なのに。もしも神様がいるのなら。神様、これはあんまりだ。あんまりすぎる。
 目の前には、千代さんの遺影が飾られている。生きていた頃と同じ、愛嬌のある笑顔が。黒縁の額に入れられて。たくさんの花に囲まれている。
 寛さんの葬儀から千代さんは、一気に体調を崩していった。何度も入退院を繰り返し、体力も精神力もとうに限界を越えていただろう。
 夏休みも終盤に差し掛かったよく晴れた朝。急変の報せを聞き駆けつけた僕や弥生さんに看取られながら、穏やかな顔で息を引き取った。
 親族席には僕と弥生さんと弥生さんの両親、濱田さん夫婦が座っている。
 心ここにあらずの状態の僕。弥生さんは、隣でポロポロと涙を流している。お経を唱えていなければ、今にも大声を上げて泣き崩れてしまいそうだ。
 こんな風に泣くことが出来たら、どれだけ楽なのだろうか。もしかしたら、この心の中の靄が晴れるかもしれないのに。


 長いお経が終わった時、一人の女性が入ってきた。青白い顔をして、ふらつく足取りでこちらに向かってくる。
 その風貌に多くの人が道を開ける中、僕だけは女性をよく知っていた。見間違えることなんてない。
「母さん?」
 女性は僕の母だった。どうしてこんなところにいるのだろうか。少なくとも、母は千代さんと寛さんと知り合いではないはずだ。
「千里……?」
 人混みの向こうに僕の姿を見つけた母は、ショックを隠せない顔と震える声で聞いてくる。
「ねぇ、ばあちゃんは?ばあちゃんはどこ?」
「千代さんなら、そこだよ」
「ああっ、ばあちゃん。ごめんね、ごめんね!」
 棺に入れられた千代さんを見て、母は何度も謝りながら泣き崩れる。まるでハイハイをする赤ん坊のように棺に近づくと、母は必死に縋り付いた。
「ずっと連絡取らなくて……!あの時酷いことを言って、自分勝手で!ちっともばあちゃんやじいちゃんの言うこと聞かなくて!」
 涙で掠れた声を大きく張り上げる姿は、息子である僕も見たことがない母の弱い面。
 その一言で、母がどういう事情を抱えていたのか分かってしまった。疎遠の娘が僕の母だということ。僕が二人の本当の孫だということ。
 その事実は大きなショックだった。
「母さん。どうして、教えてくれなかったんだよ!」
 本当のことを知っていたら、二人のことを名前で呼ばずに済んだのに。
「僕は、最後におばあちゃんおじいちゃんって、呼んであげたかった!」
 泣き崩れている母を責める。止めようと思ってもやめられない。母に対する怒りと、気づけなかった僕の愚かさへの怒り。
 どちらにも耐えきれず、会場を飛び出した。


 会場を飛び出した僕の勢いは止まることはなく、そのまま会館の外、お気に入りの森林公園の出入口にあるベンチに力なく座る。
 初めて、母に対して声を荒げた。今までだって、一度でもあんなに声を荒げたことなんてない。責めるだけ責めて逃げ出した。
「僕は、最低な息子だよ」
 座ったまま空を仰ぐ。周りは変わらず緑が生い茂り、蝉が鳴いている。キラキラと木々の間から射し込む陽光も、一つも変わることのない風景が視界に広がっていた。
「千里君!」
 弥生さんが後を追いかけてきたらしい。ベンチに座っている僕を見て駆け寄ってきた。
 側に来た弥生さんは黙って隣に座る。森林公園の穏やかで静かな雰囲気に似合わない喪服姿の僕らは、遠目で見ても目立つだろう。


 ◆22:悲しい別れ方⑷

 ぽかん、と口を開けて空を仰いだまま僕は、弥生さんを見ることなく呟いた。
「母さんが、二人の娘だったなんて。知らなかったよ」
 悲しみと怒りが、僕の心の中で波のようにせめぎ合っている。喉の奥から絞り出した声は、ひどく掠れていた。
「僕は。今まで二人に、赤の他人同然で関わってきた。僕は本当の孫じゃない、他人なんだって。そう言い聞かせて」
 弥生さんは何も言わず、静かに聞いてくれている。ベンチにもたれ掛かって座っていた僕は、頭を起こした。青空だけ広がっていた視界が、森林の色鮮やかな緑に切り替わる。
 風が、隣に座っている弥生さんの黒髪を靡(なび)かせた。視界の端に黒が見え隠れする。
「最後に、ちゃんと呼んであげたかった……」
 葬儀会場で叫んだ言葉を、再び口に出した。これは僕の本音だ。
「もし、途中で気づけたのなら、どれだけ良かったんだろう。赤の他人としての僕ではなく、孫としての僕で、関わることが出来たかもしれないのに」
 そこまで言って、口を噤(つぐ)んだ。だんだんと押し上げてくるものを誤魔化すように、僕は瞼を閉じる。
 閉じた瞼の裏は涙でしっとりとしていて、水の中を錯覚させた。本当はもっと言いたいことがあるのに。
 今の僕には、押し上げてくるものを抑えるのでいっぱいいっぱいだ。
「もしも」
 弥生さんは、普段よりトーンを下げた声で話を切り出した。
「もしも。千里君が、途中で自分が本当の孫だと気づいたとして。今までと変わらずに、接するなんてこと出来たの?」
「そ、それは」
 思わぬ言葉に翻弄(ほんろう)される僕に構うことなく、弥生さんは続ける。
「出来る自信なんて、ないでしょ?私だって、自信があるかと聞かれたら、ないけど」
 黒く大きな瞳と瞼は赤く腫れている。見ていて、痛々しい。弥生さんは瞼を伏せた。睫毛により光が遮(さえぎ)られた瞳は、影が増す。
「二人はきっと、最初から気づいていたんだと思う。千里君が、本当の孫だって。でも、気づいてて言えなかった。伝えてしまったら、赤の他人として関わってきてくれていた千里君と、今までみたいに接することが出来なくなるかもしれない。辛かったんじゃないかな。今の千里君と、同じように」
 話すにつれて、弥生さんの声は小さくなり、か細くなっていた。周りの蝉の声の方が大きく、聞き取りづらい。
「……辛いよね?千里君、泣いてないんだもの。声をあげて泣くことが出来たら、どれだけ、楽になるんだろうね」
 涙に湿った声が震えている。弥生さんが、いつの間にか俯かせていた顔を上げたため、お互いの目がやっと合った。
「千里君。泣いて、いいよ?我慢するのって、すごく……辛いからっ」
 弥生さんの瞳からは、大粒の涙が零れ落ちる。頬を伝った綺麗な雫は、白い肌に落ちては弾けた。
 透明の雫を見た僕も、つられて涙が頬を伝う。我慢していたこともあり、次々と溢れて止まらない。
 それは涙をせき止めていたダムが、臨界点を超えて決壊したようだった。
 嗚咽が漏れる。弥生さんは、子供のように泣きじゃくる僕を、優しく抱き締めてくれた。
「やっと……泣いたねっ」


 どのくらい経ったのだろうか。心ゆくまで大泣きした僕は、柔らかく暖かい温もりに身を任せていた。
 お互いに枯れるくらいに泣いた後、涙で濡れた顔を合わせるのが恥ずかしくて、抱き締めあったままでいる。
 弥生さんの艶やかな黒髪から漂ってきたのは仄かに甘い匂い。抱き締められた僕の心を、その匂いは落ち着かせてくれた。
 風に吹かれた木々がざわめき、いつもうるさく感じる蝉の鳴き声も、今だけはどこか遠くに聞こえる。
 周りに人がいないのは幸いだった。大の男が、女性に抱き締められて泣いている姿なんて、恥ずかしい構図には違いない。
「落ち着いた?」
 恐る恐る弥生さんに聞いてみる。
「うん、私は落ち着いたよ。千里君は?」
「僕も、落ち着いたよ」
「良かった」
 くぐもった声が耳元で聞こえた。耳に弥生さんの息がかかる。何だかこそばゆい。
 やがて、弥生さんは顔を俯かせたまま、ゆっくりと僕の背中に回していた腕を解いた。


 ◆23:悲しい別れ方⑸

「千里君、戻ろう」
「そうだね。急に飛び出してきたから、皆心配してるかもしれない」
 並んで会場に戻ると、補佐の濱田さんが畳の上を大きな足音を立てながら近寄ってくる。
 畳が軋むどころか凹まないかどうかハラハラしているのは、恐らく僕だけではないかもしれない。
 完全にタックルに近い勢いで近寄ってきた濱田さんから抱き締められて、苦笑いをした。
 濱田さんや他の人達に謝っている間、僕は視線を動かして母を探した。
 人が疎らにいる会場では、母の姿は簡単に見つけられるだろう。
 しかし、見つからない。たいして背丈としては大きいわけでもないのに、小さな母の姿はどこにも見当たらない。
「あの、濱田さん……僕の母、どこにいるか知りませんか?」
「千君のお母さん?ああ、それがね」
 濱田さんの話によると、僕が会館を飛び出した後、母は迎えにきた父に連れられて帰ったそうだ。
 父までもが、ここに来ていたことには驚いた。帰る際、二人は焼香を上げて帰ったとのこと。母はひどく狼狽えていたらしい。
 息子が初めて自分に対して声を荒げたからか。そこの所は、息子である僕でも分からない。
 ただ分かるのは、謝り損ねたことくらいだろう。
「高田君、大丈夫?落ち着いたかしら」
 弥生さんのお母さんが心配そうに、僕に声を掛けてくれた。
「はい。お騒がせして、すみませんでした」
 正直あんなことを言って飛び出した僕は、気まずくて仕方ない。怒られるかもしれないと身構えてはいたが、案外心配してくれる人が多かった。
「二人とも、火葬はどうする?辛かったら、無理しなくてもいいから」
 僕らの精神的負担を考えてくれていることが、よく分かる。どちらともなく目を合わせた。
 長い煙突から、白い煙が天に向かって昇っていく。僕はその煙の行方を、いつまでも目で追っていた。
 飛行機雲とは違って、風に揺られる煙は緩やかに波打っている。
 まだ悲しみもあり受け止めていくには時間が掛かるが、無事に寛さんの元に辿り着けることを願いたい。


 葬儀と火葬が終わったその足で、僕は古書店へ向かうことにした。弥生さんも寄りたいとのことで、古書店の前で一緒に降ろしてもらう。
 植木鉢の下に置いてある鍵でガラス戸を開けた。少しだけ埃っぽい。
 ここに来たのは、千代さんが入院する前に言った言葉が気になったからだ。
 あれは、寛さんの葬儀が済んで数日経った頃だった。変わらずバイトをしていた僕に、千代さんが言ったのだ。
『千里君』
『はい』
『もしも私に何かあった時は、そこの茶箪笥の一番上の引き出しを開けんしゃい。千里君にとって、必要なものが入ってるけんね』
 茶箪笥の一番上の引き出し。確かに千代さんは、あの時そう言った。何が入っているのだろうか。
 小さな店内の奥にあるレジを横切り、更に奥の部屋へと入った。板張りの床も、淡い黄色の壁も変わらず健在している。
 奥にある襖を開けて、居間へと上がり込む。閉め切っていたせいもあり、畳の匂いが濃い。
「茶箪笥……」
 居間の隅に置かれている木彫りの箪笥の、一番上の引き出しを開けた。
「これって、手紙?」
 隣にいた弥生さんが、引き出しの中を覗き込んで不思議そうに首を傾げる。
「そう、みたいだね」
 引き出しの中には、白い封筒が一つあった。封筒には宛名が書いてある。


 ◆24:祖母からの手紙

 僕宛てのようだ。封筒の口を破いて、中から便箋を取り出した。三枚組の便箋。中にはどんなことが書かれているのだろうか。
 内容は気になるが、見るのが怖い。手が震える。はやる気持ちと怖い気持ちを落ち着かせるために、二度深呼吸をした。
 便箋をゆっくりと震える手で開くと、千代さんが書いたと思われる丁寧な文章が目に入る。
『千里君へ
いきなりの手紙で驚いたと思います』
本当だ。色々なことが一度にありすぎて、驚くどころの騒ぎではなかった。今更手紙で驚けない。
『今、この手紙を読んでいるということは、私もお爺さんももういないということでしょう。
優しい千里君のことだから、悲しんでいることと思います。
そして、千里君はお母さんをさぞ、憎んでいることでしょう』
 意を突かれた僕は思わず顔を顰めつつも、再び続きを読み出した。
『あの子は何も悪くないのです。お母さんが若い頃、貴方のお父さんとの結婚を、お爺さんと私は猛反対しました。
まだ二十歳という若さです。結婚するのは早い。
ですが、あの子は聞きませんでした。当時、あの子のお腹にはすでに、貴方のお父さんとの子供がいたのです。
その子が千里君、貴方。そのことに激怒したお爺さんはあの子と親子の縁を切り、あの子は貴方のお父さんと家を出て行きました。
当時は、結婚の反対こそがあの子のためだと思っていたのです。
あれから、二十二年。あの子からの連絡は一切なく、去年の夏、千里君がここに来ました。
すぐに分かりました。若い頃のあの子にそっくりだったからです。
結婚を反対していた私達は、後悔しました。あの子は今、とても幸せなのだと。
その幸せを奪おうとした私達が、悪かったのです。
貴方には、私達が本当の祖父母であることを隠して関わっていたこと、申し訳なく思っています。
祖父母がいないということで、寂しい思いもさせてしまったことでしょう。
ですが、そのことについてお母さんを責め立てないであげてください。
どうか、お母さんを許してあげてください。そしてこれからは、お母さんとお父さんと仲良くね。
古書店の経営委託書は同封しておきます。もしも引き継ぐ時は、これを市役所に出してください。
それから、二枚目の手紙はお母さんに渡してください。
貴方の祖母 千代より』
 読み終えた僕の瞳から、涙が零れ落ちる。その雫は便箋の上に落ちて、小さなシミを作った。
 千代さんも寛さんも、僕だけではない。母のことも心から愛してくれて、心から心配してくれていた。見守ってくれていたのだ。
 自分達が本当の祖父母だということを、どれだけ伝えたかったことだろう。
 孫に本当のことを言えず、赤の他人として関わらなければならないこと、どれだけ辛かったことだろう。
「千里君?」
 肩を震わせながら静かに泣いている僕を、心配そうに弥生さんが覗き込む。僕は何も言わずに、手紙を弥生さんに差し出した。
「読んで、いいの?」
 顔を俯かせて頷いた僕と手紙を交互に見た後、弥生さんはおずおずと手紙を手に取り読み始める。
 全てを読み終えるまでが、とても長く感じた。


「千里君」
 手紙を読み終えた弥生さんが、両手で僕の顔を持ち上げる。僕の涙に濡れた瞳と、弥生さんの瞳が合った。
「お母さんに、手紙を渡して?そして、ちゃんと仲直りして」
「無理だよ。手紙を渡したいし、謝りもしたいけど、母さん達がどこにいるのか聞いていない」
「お父さんにお母さんに渡したいものがあるからって、居場所を聞けばいいじゃない。それに」
 どこか言葉を選びながら、弥生さんは幼子を諭すように続ける。
「いつか失ってからじゃ、きっと千里君は後悔すると思う。だったら、後悔はしたくないじゃない。そうでしょ?」
 大丈夫だと言わんばかりに、弥生さんは優しく微笑んだ。
「分かった。聞いてみるよ」
 その微笑みに背中を押され、僕は携帯を取り出す。父は電話にすぐ出てくれて、僕が気まずそうに母の居場所を聞くと、寛さんのお墓があるお寺に行くと言っていたそうだ。
「父さん、ありがとう」
『いや、いいんだ。父さんも知ってて、お前に本当のことを黙っていた。辛い思いをさせて悪かったな、千里』
「もういいよ。父さんだって、母さんだって辛かったんだから」
『優しいな、お前は。母さんのこと、頼んだぞ』


 ◆25:祖母からの手紙⑵

 父との電話を切った。三枚目は、僕宛ての手紙に書かれていた通り、古書店の経営委託書。
 二枚目の母宛ての手紙を手に取った。中に書かれている内容は知らないが。
「行くのね」
 立ち上がると、座っている弥生さんは僕を見上げた。
「うん、母さんの所に。だから、その」
 革靴を履きながら、居間にいる弥生さんを振り返る。戸締まりをお願いしたいと言えばいいだけなのに。
 何故か言い出せないでいた。
「分かってる。戸締まりはしておくね」
「ごめん」
「謝らなくていいから!」
 行った行ったと言わんばかりに、手で払うような仕草をする。
「い、行ってきます」
「うん、いってらっしゃい」
 花が咲いたような満面の笑みで見送られて、古書店を後にした。


 母のいるお寺は、覚えている限りこの近くだったはずだが。
 周囲は家、家、家。多くの家が建ち並ぶ中から探すのは、だいぶ骨が折れそうだ。住宅街の奥へ奥へと足を運ぶ。
 変わらぬ家ばかりの風景。ゆったりと遅く流れていく家ばかりだった風景の中に、違うものが映り込んだ気がして足を止めた。
 遠目ではよく見えないが、家と家の間からお寺の大きな門が僅かに見える。完全に見える位置まで近づいてみて、確信した。
 間違いない、お寺だ。石階段の上に瓦屋根の立派な山門。広めの境内に入ると、少し日焼けした土と本堂に続く石道がある。
 その石道の先には、昔ながらの木造建築の本堂が建っていた。屋根は大きく広がり、柱は細い。天井は低めに作られているようだ。
 本堂の横には更に奥に続く道。裏庭に続くのだろうか。辺りを見渡していると、墓地と人影が遠くに見えた。
 もしかして、と思って近づいてみる。寛さんと千代さんの墓石の前で佇んでいた後ろ姿は、やはり母だった。
 僕が近づいてきていることには、気がついていないようだ。
「母さん」
 なるべく驚かせないように声を掛けたつもりだったが、母は後ろから声を掛けられたことに心底驚いたらしく、肩をびくりと震わせた。
「千里」
 振り返った先にいたのが、息子であることに安堵したらしい。しかしすぐにその顔は、悲しみを抑えた苦いものへと変わる。
「どうしたの?こんな所に来て」
「探してたんだ。千代さ……おばあちゃんからの手紙、渡そうと思って」
「ばあちゃんからの、手紙?」
 僕が上着の内側のポケットから白い便箋を取り出すと、母がはっと息を呑むのが分かった。
「受け取ってあげてよ。ばあちゃんが、母さんに残した最初で最後の手紙」
 手紙を差し出す僕を無言で見た後、母は恐る恐る手紙を受け取った。中を見るのが怖いのか、不安げな顔をしている。
 しばらく手元にある便箋を見ていたが、母はやっと決心がついたらしく、三つ折りにされた便箋を開いて読み始めた。


 手紙を読んでいる途中で、鼻を啜る音や嗚咽が聞こえてくる。やがて手紙を読み終えた母は、壊れ物を扱うような手つきで便箋を折り畳んだ。
 その瞳にはまだ涙が浮かんでいるものの、どこかスッキリとした顔をしている。
「ばあちゃんも、じいちゃんも。とっくに許してくれてたんだね、母さん達のこと」
「そうみたいだね」
「ありがとう、千里。ばあちゃんからの手紙、届けてくれて。もし、この手紙が手元になかったら。母さんは、今でもばあちゃん達の気持ちなんて理解出来ないままだった」
「ううん、母さんは悪くないよ。僕の方こそ、今日はひどいこと言ってごめん」
 僕が頭を下げて謝ると、母は涙を拭って微笑んでくれた。
「母さんの方こそ、千里に本当のことを隠してた。だから、千里は謝る必要はないよ。お互い様。ほら、仲直り」
 そう言って、優しく僕を抱き締めてくれる。弥生さんとは違う母の温もりは、小さな頃を思い出させてくれて、どこか懐かしかった。


 翌日、母と父は田舎へ帰っていった。弥生さんと駅に見送りに行った際、終始彼女と勘違いされてしまったのは言うまでもない。
 ホームから遠ざかっていく電車の姿が見えなくなるまで、僕らは見送った。
「いいお母さんとお父さんだね」
 駅からの帰り道。電車に乗る時の、母の長年の靄が晴れた顔を思い浮かべていると、隣で歩いていた弥生さんが言った。
「そうかな」
「うん、そうだよ」
「弥生さんの両親には敵わないけどね」
「え?ふふっ、そんなことないよ」
「いやいや。そんなことあるよ」
 大通りの十字路の歩道を歩きながら、僕らは他愛のない話をした。
 夏休みも終わるというのに、大通りやアーケード街は相変わらず人が多い。
「夏休み、終わっちゃうね」
「うん」
「なかなか会えなくなるね」
 弥生さんは、寂しそうな顔をしている。僕も会えなくなるのは寂しいが、口に出す程の勇気はなく言葉を呑み込んだ。
「千里君は、これから就活とかあるでしょ。どうするの?」
「僕は……」
 言い悩んだ僕の脳裏に、祖母の最後の言葉が浮かぶ。
『あの店を、引き継いでくれんね……?』
 言い悩む必要なんてなかった。答えは、もう出ているではないか。
「僕は……古書店を引き継ぐよ」
 夏休みが終わりに近づいたその日。僕は、祖父母が残してくれた古書店を引き継ぐことを決めた。


 僕のノスタルジア 【完】

古書店物語

古書店物語

学生最後の夏休み。愛用している自転車に跨り、僕は今日もアルバイトをしている古書店へ向かう。 孫のように可愛がってくれる老夫妻に可憐な女性客、少し世話焼きだけど根は良い近所の人達。 のんびりゆったりとした時間が流れるここは、時に静かに時に騒がしくありながらもたくさんの人達を引き寄せる。 優しい一時は平穏な日々そのもの。変わらない毎日だけれども、キラキラしていて宝石みたいだ。 それは大事な事を僕に教えてくれていたー 住宅街にある古書店で繰り広げられる、切ない物語。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-20

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND
  1. プロローグ
  2. 第一章 僕のノスタルジア
  3. 第一章 僕のノスタルジア2