エナジードレイン(前篇)

エナジードレイン(前篇)

#1

 河野順平は世間的な価値観に照らしあわせてみて「そつがない」としか言いようがない生活を送っていた。誰に公表しても恥ずかしくない大学に入り、大学院まで出ている。働いている会社も、誰でも知っている大企業だ。綺麗な奥さんと結婚し、子供がふたりいる。
 河野はよく、家族の映った写真をフェイスブックにアップロードした。長男は満面の笑みを浮かべ、カメラに向かってピースサインを送っている。その後ろで弟がはにかんでいる。脇にしゃがんでいる奥さんは、大きな鍔のついた陽除け帽を被り、やはりカメラに向かって微笑んでいる――やや恥ずかしそうに、けれどもまんざらでもなさそうな表情で――そういう写真だ。

 美和子は今年で30になる。子供を作る予定はないし、それ以前に独身だ。適当な相手も見つからないし、そもそも結婚願望そのものが薄い。三十路が近づくにつれ、ぼんやりとした焦燥感を覚えるようにはなってきたが、それすら母親に炊きつけられてやっと沸き上がる、といった程度のもので、すぐに霧散してしまう。彼女はしがないソフトウェア開発会社で、契約社員として働いている。浪費癖がないため(物欲そのものが希薄なのだ)金銭面で不自由することはないが、お世辞にも裕福とは言いがたい。
 河野順平が蒸発したという話を聞いたとき、彼女はすぐには信じられなかった。一体何が不満だったのだ? だが、それよりもっと驚いたのは、河野順平が美和子に宛てた手紙を書き残していったと、奥さんから連絡を受けたことだった。河野と彼女の接点といえば、高校までの間、同じ学校に通っていた、ということしかない。去年フェイスブックで友達申請を受け、それ以来お互いの近況報告に「いいね!」をつけるようになった程度の仲である。
 それなのに、どうして奥さんでも子供でもなく、私に手紙を書き残したのか? 実和子にはまるで理解できなかった。 
 いずれにせよ河野順平の奥さんは、彼女に手紙を取りに来るよう強く要請した。断りたかったが、そのようなことが可能な雰囲気ではなかった。奥さんの声には鬼気迫るものがあった。何を考えているかは容易に想像がつく。論理的に推論を進めていけば、誰だってその結論にしか辿り着かない。
 彼女の足取りは重かった。河野の家は、彼女の住んでいるマンションから100km以上離れていた。それなのに奥さんは「駐車場がないので車では来ないで欲しい」と言った。美和子は土曜の休日を使い、公共機関を乗り継いで河野の家を訪ねるしかなかった。どうしてこんなことになってしまったのだろう。私が何をしたというのだ――乗客で混みあう中央線の電車の中で、20分も待たないとバスがやってこないと知ったバス停の前で――彼女は何度も毒づき、神を呪った。

#2

 河野順平の家は住宅地の中にあった。周りには同じ構造、デザインの家がいくつもならんでいた。業者が土地を買い上げ、まとめて建てたのだろう。違っているのは表札だけだ。一応は一軒家の定義を満たしているようだが、本質的にはマンションに近いのでは、と美和子は思った。
 「河野」と書かれた表札のあるドアの前に立ち、インターホンを鳴らすと、すぐに奥さんが出てきた。不気味に感じるほどの反応の早さだった。あるいは玄関の前に立ったまま、美和子の到来を待ち続けていたのかもしれない。
 奥さんはきっちりと見繕っていた。夫が失踪したのだから、さぞかしやつれていることだろう――という美和子の予想は見事に裏切られた。薄いベージュのブラウスの上に、ピンク色の、フリルのついたカーディガンを羽織り、紺色の膝丈まであるスカートを履いている。衣服にはまるで乱れがない、余分な皺の一本すら入っておらず、染みひとつ見つからない。前髪は眉毛の上でぴっちりと揃えられ、後ろ髪は外に向かって上品にカールしている。メイクも申し分のない出来映えだ。
 美和子は奥さんに連れられてリビングに入った。大きなテーブルがあり、その上には子供のおもちゃが乗っている。テーブルの向こうでは白いカーテンが揺れている。カーテンの向こうには窓があり、その向こうにエアコンの室外機が見える。子供たちの姿はなかった。どこかに預けているのだろう。
 美和子がソファに座ると、奥さんは何も言わずに他の部屋に消え、階段をあがる音が聞こえた。それから永遠に思える気まずい沈黙の時間が待ち受けていた。残された美和子は、部屋の調度品を眺めたり、軽くストレッチをするなどして、なんとかその時間をやり過ごした。
 しばらくして階段を降りる音が聞こえた。とんとんという歯切れのよい、けれども不吉な意味合いを帯びた音だった。再び美和子の前に姿を現した奥さんは、静かに茶封筒をテーブルの上に置いた。封筒には殴り書きのような筆跡で「美和子へ」と書かれていた。これが河野順平が書き残したという手紙なのだろう。
「コーヒーでも入れますね」早口でそういうと、奥さんはキッチンに向かった。
「はっきりさせておきたいのですが」奥さんの背中に向けて美和子は重々しく言った。「河野さんと私の間には、関係と呼べるほどのものは何もありませんでした」
 奥さんは返事をせず無言のまま、テーブルの上にコーヒーを置いた。花柄模様のついたカップの中で黒い液体がリズミカルに揺れている。インスタントではない、きっちりとドリップされたコーヒーだ。ソーサーの上には小さな銀色のスプーンと角砂糖、コーヒーフレッシュが置かれている。
 美和子は話を続けることにした。「ですから貴方から連絡を受けたときは、正直に言ってびっくりしました。どうして私に手紙を書く必要があったのか・・・・・・まるで見当もつきません」美和子はコーヒーカップに口をつけた。
「私にも分かりません」奥さんが言った。
「河野さんとは小学校から高校までの間、同じ学校に通っていました。深い理由はありません、たまたま実家が近くにあった、というだけのことです」
 奥さんは沈黙を保っている。美和子は話を続けることにした。
「私たちの両親は仲が良く、今でもささやかな交流が続いています。そんなこともあって、小学校の頃はよく一緒に遊びました。といっても、私の遊び相手はお姉さんの方だったんだけど・・・・・・」
「その頃のことを話していただけますか。」奥さんが口を開いた。
「その頃のこと?」美和子はコーヒーカップを持ったまま少しだけ首を右に傾けた。「ええ。夫と貴方が学生だった頃のことを。どんなふうに遊んだだとか、どこへ行っただとか」
 美和子は答えに詰まった。河野順平の思い出を話して欲しい、と奥さんは言っている。あるいはその話の中から、美和子と河野順平の間に存在する<関係>を炙りだそうとしているのかもしれない。だが、そのようなものは本当に、これっぽっちも存在しないのだ。神に誓ってもいい、全くの皆無だ。その証拠に今、美和子は彼にまつわるエピソードを何も思い出せないでいる。
「難しい質問です」
「どんな些細なことでも構いません」奥さんが答えた。まるで尋問だ。
「そうですね・・・・・・そういえば、彼からドラクエを借りたことがあります」
「ドラクエ?」奥さんが美和子の顔を覗きこんだ。
「ドラゴンクエスト。たしかⅢだったと思います。勇者や戦士や魔法使いが力を合わせて、悪い魔王をやっつけるゲームです。兄がテレビゲーム好きだったせいもあって、私もちょっとの間だけ、はまっていたことがありました」奥さんは美和子の目から視線を逸らさず、じっと凝視している。
「私の家にも同じゲームがあったんですけど、兄はやらせてくれませんでした。セーブデータを消されるのが嫌だっていうんです。それで河野さんに貸してくれるよう頼んだら、快くOKしてもらえました。
 このゲームは自分が操作するキャラクターに名前をつけられるんです。ええと、キャラクターというのは、さっきも言った勇者とか戦士とか、そういうやつです・・・・・・分かってもらえるでしょうか?」
「なんとなく分かります」
「私は河野さんのセーブデータを覗いてみました。どんな名前をつけたのか、興味があったんです。その頃、自分の好きな子の名前をキャラクターにつけるのが流行っていたんです。あ、すいません誤解しないで下さい。私が河野さんに気があったとか、そういうのでは全然なくて・・・・・・単なる好奇心です、純粋に。」
「それで、どんな名前でしたの?」奥さんが聞いた。
「勇者の名前が"あ"。戦士は"ああ"。魔法使いが"あああ"。僧侶が"あああい"。それらのキャラクター達を使って、ゲームは最後までクリアされていました」
 付け加えるなら、すべてのキャラクターのレベルが99に達しており、ゴールドも獲得できる限界値まで稼がれていた。そして全員が最強の装備を身につけていた。隠しアイテムもすべて揃っていた。それを目にしたとき、美和子は河野順平のことが少し怖くなったのだった。こんな思い入れの欠片もない名前のキャラクターを操り、こうまで徹底的にプレイを続けられる人間の頭の中身はどうなっているのだろう? しかし美和子は、奥さんにそこまで伝えないことにした。ゲーム経験のない人間には理解しにくい話だし、それらの微妙なニュアンスを伝えきる自信がなかった。 
 話を聞いた奥さんは少しだけ笑った。ここは笑わなくてはいけない、ここは笑うところなんだ、と自分に言い聞かせ、意志の力でどうにか絞り出した、といった笑顔だった。それから奥さんはテーブルの上に置かれた封筒を静かに拾い上げ、美和子に差し出した。
「中身はもう読まれたんですか?」美和子は聞いた。
「いいえ」奥さんは力を込めて言った。「だって、これは貴方に向けて書かれたものだから」
 美和子は手紙を重々しく受け取り、その場で封を切ろうとしたが、すぐに奥さんに遮られた。「おうちに帰ってから読んでくださいませんか」
「でも、この中に河野さんの居場所について書かれているかもしれないですよ」
「そういうことが書いてあったら、後から教えてください。とにかく、今読まれるのは困ります」奥さんは強行に主張した。受け入れないわけにはいかないようだった。
 美和子はとりあえず目の前のコーヒーを飲みきってしまうことにした。ほかにやることもないし、これ以上話すこともない。おそらく奥さんも、これ以上美和子が長居し続けることを望んではいないだろう。それでもこのコーヒーだけは飲み干さなければならない、と彼女は感じ取った。
 一滴でも残せば、後に致命的な禍根を残すような気がしたのだ。

#3

 翌日、実和子は特に何をするでもなく休日を過ごした。テレビの電源を入れ、チャンネルをころころと変えて、興味を惹かれる番組が何もないことを確認した。それからすぐに電源を切った。
 平日のうちに溜まった洗濯物をまとめて洗った。洗濯機の中は汚れた衣服(中には大して汚れていないものもあるのだが)でいっぱいになり、ドラムから溢れ出さないかと少しだけ心配した。それでも洗濯機はその使命を何とか成し遂げてくれたようだった。彼女は洗濯物を部屋干しした。本当は外に出したいのだが、天気予報は高い確率で雨になると告げている。
 それから冷蔵庫の中の残り物で煮麺を作り、遅い昼食を食べた。ほうれん草とシーチキンが入っただけの、シンプルな煮麺だ。味は悪くないが、あまりに殺風景な出来上がり具合だった。独り暮らしが長いと、食事の用意が雑になる。賞賛する人も非難する人もいない、評価するのは自分だけ、という状況では、どうしても労力を節約する方向に気持ちが向いてしまう。
 そうこうしているうちに日が暮れた。実和子は読みかけの小説を開き、5pほど読み進んだ後、本を閉じた。おそらく、この本が再び開かれることは二度とないだろう。面白くないわけではないが、そこに読む必然性みたいなものがまるで感じられなかった。彼女が求めているのは、生きた知恵の凝縮された言葉のつらなりだけだ。実和子はそういうところから生き残る方法を学び取ってきた。それはどこからどうみても平凡としか言いようがない彼女にとって、数少ない強みのひとつだった。
 河野順平の手紙は、封筒の中に入れられたままダイニングテーブルの上に置かれている。中身を見る気にはどうしてもなれなかった。また後で・・・・・・と考えているうちに、一日が過ぎた。


 翌日会社に着くと、実和子はすぐに呼び出しを受けた。「お話があります」内線越しに、事務の女性がこわばった声で言った。彼女はその<こわばり>の意味をすぐに理解した。二度目の解雇通告だ。
 彼女の勤める会社では、突然の解雇は日常茶飯事だった。文句は言えない。会社のやっていることは法律的にはまるで問題がない。働き始める前に、隅々まで気が配られ、幾重にも防御策の重ねられた契約書にサインさせられている。仮に裁判を起こしたところで勝ち目はない。
 実和子はソフトウェアのテスターだった。重箱の隅をつつき、プログラマにバグ報告を叩きつけるのが彼女の仕事だ。IT産業の構造は鉱山の仕事によく似ている。「大規模プロジェクト」という名の金鉱脈が発見されるや否や、膨大な数の人員が必要となる。経営者はスポンサーたちの要求に応えるため、方々を駆けずりまわって人を集める。まるでゴールドラッシュだ。ところがそうして集められた人々は、プロジェクトが収束すると無用の長物となる。そうなれば経営者たちは、手のひらを返したように冷たくなり、彼らの首をはねるための、体の良い理屈を探し始めるようになる。
 実和子はそれほど驚いた様子を見せなかった。この日が近づいていることを随分と前から予測していたからだ。蓄えは十分にある。失業保険と合わせれば、半年はのんびりと暮らせるだろう。その間に次の仕事を探せばいい。テスターの仕事に未練はまるでなかった。定年退職の日が来るときまで、バグを探し回る人生はさすがにごめんだ。考えようによっては、いい機会といえるかもしれない。

 オフィスに戻った実和子はデスクの片付けを始めた。思えばこの机とは、数年の月日を共にしてきた。ややオーバーな言い回しになるが「戦友」といえなくもない。机の表面に小さなコーヒーの染みを見つけると、彼女は給湯室で雑巾を濡らしてきて丁寧にぬぐい取った。
 彼女は事務用のPCにリカバリをかけた。大したものは入っていないが、情報漏洩は何があっても許されない、ということになっている。あらゆるデータは完全に消去されなければばらない。全てのメール、画像、ブックマークが漏洩の対象になるんです、と管理者クラスの正規社員に、くどくどと説教されたことを思い出す。あまり良い思い出とはいえないが、時が過ぎればこれも笑い話になるのかもしれない。
 事務所から段ボール箱を貰ってきた。マグカップを洗い、布巾で拭いて、箱の中にしまった。机の中にある私物と思われるものはすべてその箱の中に入れた。セロハンテープ、はさみ、いくつかのクリップ、ホッチキス。色とりどりのポストイット、購入したまま結局ほとんど読まなかった資格試験の教科書――それらのものを箱の中に詰め込むと、机は空になった。運び出すには車が必要になるだろう。箱は一旦事務所に預けることにした。
 片づけべきものを片づけてしまうと、やることがなくなった。終業時刻まではまだ時間があるが、年休を使うことにした。契約上、今月末までは一応会社に籍を置くことになる。とはいえ仕事はないのだから、会社にいても仕方ない。溜まりに溜まった年休を消化するよい機会だ。有給休暇はこんな時くらいしか役に立たない。
 事務の女性から送別会を持ちかけられたが、丁寧に断った。そんな気分にはなれなかった。会社に未練があるわけではないが、解雇されたことに納得しているわけではない。自分の仕事に落ち度はなかったと思う。
 あるいは再び会社に来てくれという誘いを受けるかもしれない。前回もそうだった。解雇されてから8ヶ月後に、もう一度働いてほしいという電話がかかってきた。しかし恐らく次はないだろう。いつまでもこんな所に残り続けるわけにはいかない。都合のよいときに呼び出され、用がなくなれば首を切られる。そんなこといつまでも繰り返している訳にはいかないのだ。

 美和子は同僚たちに別れの挨拶をし、会社を後にした。

#4

 実和子は鏡の前に立ち、口をまっすぐ閉じて自分の姿を眺める。彼女は灰色のタンクトップを着ている。乳房は大きくなく、かといって小さくもない。黒い髪は丁寧に後ろでまとめられ、つむじの辺りで留めている。だから形の良い、頭の丸いラインをくっきりと確かめることができる。首は長い方だ。鎖骨はやや太く、丈夫そうだ。そのことを少し気にかけているが、チャームポイントと言い張ってしまえば、そう見えなくもない。
 夜更けの野良猫のように目を見開き、自分の顔と対峙する。そんなに悪くない。でもちょっと鼻が低いのがたまに傷だ。それさえなければ、なかなかイケてるかもしれない。実際男に言い寄られることも少なくなかった。しかし彼女は、どうしてもそういう気分にはなれなかった。「恋愛」と呼べるような感情を認識したのは、中学二年のときに通っていた学習塾の先生に対してだけで、それ以来音沙汰がない。
 首を左右に傾け、軽くストレッチをする。それから何となく歯を磨いた。あまりに色々なことが起こった。客観的に見れば、それらは「災厄」と称される部類のものに違いない。しかし彼女はそのことを気に病んではいない。むしろ心は軽かった。目の前を覆っていた濃い霧が晴れ、分厚い雲の谷間から一筋の光が射し込んだ気がした。私は一歩前進したのだ。いずれにせよ、今までのような生活を、いつまでも続けるわけにはいかなかったのだから。
 何かをしようと彼女は思った。自宅と会社を往復するだけの日々から解放された今、可能性は無限に広がっている。今ならなんだって出来るような気がする。この機会を逃してはならない。このようなチャンスは二度と巡ってこないかもしれないのだ。
 手始めに部屋の大掃除をすることにした。テーブルを部屋の脇によけ、掃除機をかけはじめた。掃除機の調子は優れなかった。確認してみると、中の紙パックがゴミで一杯になっていた。交換しようにもパックの予備がない。美和子は掃除機の型番を控え、電器店に紙パックを買いにいくことにした。
 紙パックはどこにも売っていなかった。5軒の電器店と2カ所のホームセンターを訪ねたが、いずれもそんな古い機体に対応した紙パックは置いていないと冷たくあしらわれた。美和子の掃除機は独り暮らしを始めたばかりの時に購入したもので、もう10年以上は使い続けている年代物だ。
 この際新しい掃除機を購入しようとも考えた。しかし彼女の目にかなう掃除機はひとつとして無かった。どれもこれも中途半端に大きかったり、あるいは小さすぎたりした。色も形も気に食わなかった。機能面にもいくつかの不満が見つかった。吸引力に難があるか、パワーは申し分ないがひどい騒音を発するような掃除機しか売っていなかった。結局のところ、今の掃除機をだましだまし使い続けるより他に方法はなさそうだった。
 インターネットで検索すると、紙パックの予備はすぐに見つかった。やはりウェブは偉大だ。けれどもパックが届くのは注文日から3、4日以降になるようで、今日中に掃除機をかけることは不可能になってしまった。
 仕方がないので風呂場を洗うことにした。防カビスプレーを風呂中に散布し、しばらく寝かせた後に方々をスポンジでこすった。隙間に潜り込んだ汚れは歯ブラシや綿棒を使って落とした。古いシャンプーやリンスのボトルは捨ててしまうことにした。ずっと同じ銘柄を詰め替えて使っていたのだが、この機会に変えることにした。
 洗面所の鏡を磨き、放置していた排水溝の詰まりを解消した。洗濯機の下に定規を差し入れ(何のために購入したのかは忘れてしまたっが、1m近くある竹定規が押入にしまってあることを思い出した)中に入り込んでいた毛髪や埃を取り出した。驚いたことにスーパーボールが見つかった。そんなものを家に持ち込んだ記憶は全くない。あるいは前の住民が残していったものかもしれない。そう考えると、捨てるに捨てられなくなってしまった。その住民が現れて美和子にスーパーボールの返却を迫る可能性は、散歩中に蹴った石と靴のつま先が核融合を起こす可能性よりも低いかもしれない。だが10年以上も顔を合わせたことのない同級生が蒸発し、彼女に手紙を書き残していくご時世だ。なにが起こってもおかしくはない。
 河野順平の手紙は鞄の中にしまい込まれたままだ。内容を確認する気にはどうしてもなれなかった。そこには底知れぬ闇が潜んでいるような気がした。RPGのキャラクターに連続した母音のみの名前をつけ、プレイにまるで支障をきたさない男の頭の中に、どのような闇が潜んでいるのだろう――。

 興味がないわけではないが、覗き込む勇気は湧いてこなかった。

#5

 実和子は車に乗り込む。ミニ・クーパーの赤。人生における唯一の高い買い物といっていい。彼女はその車を心から愛していた。
 彼女にとって車の運転は、唯一の趣味であり、気晴らしであり、生き甲斐だった。彼女はその車を、子供を育てるように気遣い、手をかけた。毎週のように洗車を行い、ワックスでボディを磨いた。こまめにタイヤの空気圧を点検し、定期的にオイルを交換する――そういった作業を彼女は心から楽しんだ。
 シートベルトを引き出して装着する。キーを挿入し、エンジンをかける。サイドブレーキを解除し、ギアをドライブモードに入れる。ミニクーパーはゆっくりと地面を捉えて動き出す。悪くない滑り出しだ。整備会社を変えて正解だった。これなら世界の果てまで行くことだってできる。
 ミニクーパーは国道を走り続ける。長い旅になりそうだ。今日の宿泊地は予約してあるが、それから先はどうするか決めていない。時間はいくらでもあった。金のほうはいくらでもあるとまではいえないが、少しばかり贅沢をしても罰は当たらないくらいの蓄えはある。彼女はここ数年の間、自宅と会社を往復するだけの毎日を過ごしてきた。週末になってもどこに出かけるわけでもなく、家で本を読んでいた。会社の同僚や学生時代の友人に遊びに誘われることもあったが、やんわりと拒絶した。彼女、あるいは彼等がそれ以上深く立ち入ることはなかった。美和子と人々の間には、いつでも薄い膜のようなものが存在していた。その膜の向こう側に進入を試みる者は皆無だった。
 いや、皆無ではない。河野順平は突然彼女の人生に介入した。それはまったくの不意打ちで、想定の範囲外の出来事だった。河野と美和子との間に存在した関係(それすら存在した、と呼んでいいのかどうか怪しいのだが)はとうの昔に切れているはずなのだ。それなのに、なぜ今になって河野は接触してきたのだろう? どうしても理解できない。
 高速道路に乗った。ETCカードは車に装着されたままになっている。料金所をすり抜けると、美和子は車のスピードを上げた。エンジンがうなりをあげ、回転数が高まる。合流の瞬間はいつも緊張してしまう。これだけはどうしても慣れることができない。彼女はウィンカーを点灯させ、走行車線に入る。
 カーラジオがぷつりぷつりと断続的に途切れる。先ほどまではポップソングを紹介する音楽番組が流れていた。それは毒にも薬にもならない番組で、毒にも薬にもならない音楽を提供し続けた。ときおり交通情報の放送に切り替わる。ナレーターの無機質な声が渋滞の知らせを告げる。首都高は相変わらず混んでいるらしい。小仏トンネルでは14kmの渋滞が発生しているそうだ。うんざりするような話だが、いずれも東へ向かう彼女には関係ない。
 上り坂に差し掛かると、ラジオの音声は殆ど途絶えてしまった。時折声が聞こえるような気がするが、砂嵐にかき消されて何を言っているか判別できない。
 トンネルの中には殆ど交通量がなかった。軽トラックが実和子の車を追い越していったのを最後に、車両は見えなくなった。トンネルの中を照らし続ける、強烈なハロゲンランプの連なりが延々と続く。緩やかなカーブはあるものの、殆ど直線の道路だ。それにしても長いトンネルだ。数キロは走り続けているのに、一向に出口が見えない。
「ハロー! エブリバディ!!」ラジオの電波が突然飛び込んできた。それにしても何故こんなところで? トンネルの中に発信施設でもあるのだろうか。
「今日も元気によろしくやってるかい。俺? 俺はいつだって絶好調さ。そんな感じで今日も飛ばしていこうぜ、イッツ・エンジョイ!」男は軽薄な声で無軌道に話し続ける。
「オーケー。準備はいいかい? 何事にも準備ってやつは必要だ。身も心も準備がなくっちゃ始まらない。おっと、またまた悪い癖がでちまったようだ。年を食うと説教臭くなっていけないぜ。まあいい、おっぱじめるとしようじゃないか、イッツ・ショータイム!」最低のパーソナリティだ、と彼女は思った。クレームをつけてやろうかしら、とも思ったが連絡先がわからない。チャンネルを変えれば済むことなのだが、どうしてもハンドルから手が離れなかった。得体の知れない力が、彼女の腕や手指を支配しているようだった。
 男のかける音楽はどこまでも軽薄で独断的で、とりとめがなかった。80年代から90年代にかけて人々が耳にし、とうの昔に歴史的淘汰を受けて葬り去られたはずの曲ばかりだ。まるで有線のようだった。時の流れが完全に止まっている。
 それらの音楽を聴いているうちに、美和子は男の意識の中に取り込まれてしまうような錯覚を覚えた。もしかするとこのトンネルは、男の意識そのものなのかもしれない――そのような突拍子もない考えが頭の中に浮かんでは消えていった。トンネルはどこまでも続いている。ハロゲンランプの強烈な光が幾重にも筋を作り、穴蔵の壁に縞模様を作り出している。模様が流れていく様を見つめていると、徐々に意識のレベルが低下していくのがわかった。軽い催眠状態に移行しつつある。
 突然、背後で大きなクラクションの音がした。バックミラーを見ると、巨大なトレーラーが美和子の車に接近していた。彼女は半ば反射的に速度計を確認した。時速計は90kmを越えるか、越えないかのところを行き来している。飛ばしているとまではいえないが、煽られるほどの低速ではない。
 トレーラーは美和子の車にぴったりと張り付いてきた。アクセルを踏み込むと、トレーラーもそれに併せてスピードを上げた。減速することはできなかった。いつ接触事故を起こしてもおかしくない車間距離だ。
 スピードメーターの数値は上昇を続ける。しばらくすると警告音が鳴り始めた。しかし今はそんなものに構っている場合ではない。トレーラーは美和子のミニクーパーを今にも押し潰してしまいそうだ。ハンドルを握る掌の内に、じんわりと汗が滲みだしてくる。オフロードレースのドライバーにでもなったような気分だ。ハンドル操作を誤れば、壁に激突して死にかねない。
 美和子は全神経をハンドルに集中させる。ものすごい勢いでハロゲンランプの光がフロントグラスの前を通過していく。その連なりは一筋の光線となり、鞭のようにしなった。意識の針は一気に覚醒へと振り切れた。脳下垂体からアドレナリンが放出されるのがわかる。身体の中心を走る幹を興奮物質が駆け抜けていく。それは神経を通して全身に伝えられ、身体を隅々まで覚醒させる。恐怖感は麻痺している。腹のそこから熱いものがじわりとこみ上げてくる。

#6

 どこをどのようにして走ったのか、まるで記憶にない。襲いかかるトレーラーから逃れることに集中していたせいだろうか。まるで夢のようで、現実感の薄い体験だった。いずれにせよ、死なずに済んだようだ。
 車は停止している。エンジンはかかったままだが、ギアはパーキングに入っている。ハザードランプが明滅を繰り返している。メトロノームが揺れるような、かちかちという音だけが聞こえる。ラジオのスイッチはOFFに設定されていた。
 美和子はエンジンを切り、車の外に出た。季節はずれの冷たい風が彼女のジャケットを揺らした。陽は既に傾き始めている。
 そこはコンビニエンスストアの駐車場だった。その他に何もない。名目上は「畑」ということになっているが、食物を栽培した形跡はなく、背丈の高い雑草が延び放題となっている広大な荒れ地が店の周りを取り囲んでいる。道路を通る車はトラックばかりで、乗用車はほとんど見かけない。こんな場所に用がある人間が多くいるとは思えない。
 駐車場には美和子のミニクーパーの他に、大型トラックが一台停まっている。冷凍食品を運んでいるようだった。荷台のコンテナに元気よく飛び跳ねるカジキマグロの絵が描かれている。なかなか見事な出来映えだ。運転席では男がハンドルの前に足を投げ出して眠っていた。
 鞄からスマートフォンを取り出して時刻を確認すると、午後4時を回っていた。ホテルに連絡を入れようかとも思ったが、やめておいた。そこは純粋なビジネスホテルで、夕食は出てこない。シャワーを浴びて寝るだけの場所だ。遅くにチェックインしたからといって、問題が発生するわけでもない。
 空腹を覚えた彼女はコンビニの中に入ることにした。午前中に遅めの朝食を食べたきり、何も口にしていない。私の胃はもっと切実に、強烈に食物への欲求を訴えるべきなのだと彼女は思った。それはあまりにも控えめで、遠慮がちすぎる。空腹感だけではなく、あらゆる感覚が鈍くなっているような気がした。身体の表面に麻酔をかけられたようなピリピリとした感触がある。足の裏はしっかりと地面を捉えていない。
 入り口が開くと「いらっしゃいませ!」という威勢のよい男の声が飛び込んできた。彼女は違和感と不快感を同時に覚えた。ここは居酒屋ではないのだ。はきはきとした気持ちのよい挨拶など誰も期待していない。
 レジの前に立つ男と目があった。男は終始笑みを浮かべ、美和子を遠慮なく凝視してくる。年齢は40くらいだろう。髪は短く刈り揃えている。背は低く、美和子よりも頭ひとつぶん小さい。体格はがっしりしていて、レジの前にある台にどっしりと掌を降ろし、時折何かに納得したように頷くような仕草を見せる。
 店内には独特の不潔さが漂っていた。欠点をはっきりと指摘するのは難しいが、何となく薄汚れた雰囲気がある。<忙しい>という名目で様々なことがなおざりにされている。それでも言い訳だけは極めて周到に用意されており、他者のあらゆる干渉を拒んでいる。人手は慢性的に不足しているようだった。無理もない話だ。こんなところで働きたいと思う人間はまずいない。
 彼女はカロリーメイトとペットボトル入りのミネラルウォーターを手に取った。本当はもう少し食事的なものが欲しかったのだが、コーナーにあったのはコロッケ入りのロールパンだけだった。皺くちゃのサランラップで包装されており、バーコードの記載されたシールが貼ってある。ところどころに指の後のようなものもあった。手を出す勇気はとても湧かない。
「ありがとうございます、416万両になります!」商品をレジに持っていくと、男が店中に響きわたるような大声で言った。絶叫と呼んでも差し支えのない音量だった。どうしてそんなふうに声を張り上げなければいけないのか、美和子には全く理解できなかった。彼女は黙って男に500円玉を差し出した。
「はい500万両のお預かり。お釣りは84万両になります!」男はあくまで通貨の単位を「万両」としたいようだった。たぶんこの男が店長なのだろう。単なる従業員がこのような態度をとっていれば、何かしらの問題が持ち上がるに違いない。美和子は黙って釣りを受け取った。できることならかかわり合いになりたくない相手だ。
「お客さん、珍しいですね。どこから来たの?」男が話しかけてきた。
「珍しいとはどういうことでしょうか?」男の手には袋に詰められたカロリーメイトとミネラルウォーターがしっかりと握られている。何か答えない限り、それが美和子の手に渡ることはないだろう。
「ここは死んだ土地です。流刑地、と言った方が正確かもしれません」男はやや間を置き、袋を持っていないほうの手で右の頬を掻いた。「目的もなく、ぶらりと立ち寄る場所じゃあありません。貴方のような美人さんとあらばなおさらだ。ここに住んでる連中は多かれ少なかれ臑に傷のある奴ばかりです。あんたのような人が来るような所じゃない」
「私にもよく分からないんです。どうしてこんなところに来たのか」彼女はさりげなく手を出し、レジ袋を要求するサインを送ってみた。男は顔をしかめて天井を眺め、頬に皺を寄せるばかりで袋を渡そうとしない。
「悪いことは言わない。早く帰んなさい。ここにいるとろくな事が起こりません。こいつは私が保証します。これでも貴方よりも少しばかり長く生きてますからね、そういう人間の言うことには従ったほうが身のためってもんです」男が言った。
 美和子は何も言わなかった。男はやっとのことで袋を渡してくれた。ひどくもったいぶって芝居がかっており、海底の財宝でも渡すような仕草だった。
「いいですか」美和子が店を出る瞬間、男が言った。「一刻も早くここを立ち去りなさい。さもないと、わ」最後のほうは閉ざされたドアに遮られてよく聞こえなかった。それを確認するために店の中に戻る気はなかった。
 トラックはどこかに走り去ってしまっていた。駐車場にはミニクーパーだけが取り残されている。山並みを赤みのかかった弱々しい光が照らしている。空にはいくつかの星を認めることができた。この土地はどこまでも彼女を拒絶していた。こんなところに来るんじゃなかった。美和子は心から後悔した。白いライトに照らされた看板が畑の中にぽつんと建っている。どうやらモーテルの看板のようだ。「ホテル・ルシード 1.5km」とだけ書かれている。
 彼女はしばらくの間その看板を睨み付けていた。そこには確かにある種の絶望が――少なくとも絶望的な何かを象徴しているような気がした。
 車に戻ると、彼女は身体にしっかりとシートベルトを巻き付けた。車のエンジンをかけ、窓が閉まっていることを確認した。それからカロリーメイトを頬張り、できる限り味わって食べた。この土地に飲み込まれないよう、心を車につなぎ止めなければならない。今頼りになるのはミニクーパーだけだ。確かにこの土地は腐っている。
 どうしてこんなところに来てしまったのかはうまく説明できない。それでもこの土地を訪れたことには意味があるはずだ。もしかするとそれは、河野順平に関する何かかもしれない。美和子は河野の気配のようなものを感じていた。もしかするとこの土地のどこかに、河野順平が潜んでいるのかもしれない――そんな気さえするのだ。
 アクセルを踏み込むとミニクーパーが走り出した。ガラス窓の向こうでコンビニの男がゆっくりと手を振っている。彼女は男を意識から弾き出そうと努めた。

エナジードレイン(前篇)

エナジードレイン(前篇)

美和子は30歳になる独身女性。ソフトウェア開発会社に契約社員として勤めていたが、契約を打ち切られ、晴れて(?)自由の身になる。そんな折、同級生の河野順平が蒸発したことを知る。不可解なことに、ただの同級生でしかない美和子宛てに手紙を残していったというが――

  • 小説
  • 短編
  • 冒険
  • ミステリー
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-06-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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