棘の無い鞭

 隣に座っている女子高生は電子辞書とノートを広げて何かを一心不乱に書き綴っていた。狩野は、受験勉強の追い込みの時期に来ているのだろう、と予想した。
 十二月も半ばになり、街はクリスマスの飾りつけで溢れている。窓から見える景色はキラキラとした輝きに満ちていて、その中を若い夫婦と小さな子供が手をつないで歩いていた。他方に目をやると、大学生ぐらいの男女が体を寄せて、笑いながら耳元で囁き合っている。
 隣の女子高生は、小奇麗ながらも安っぽいインテリアが充満しているこのコーヒーショップに狩野が入ってからずっと、つまり二時間あまりの間、その視線を小さな液晶と線の細い小さな手書きの文字に注ぎ続けている。とても真面目で努力家なのだ、と狩野は感服した。日々の勉学をこなすだけでなく、将来の目標もはっきりと持っているのだろう。僕にはとてもこんなことはできないな、と、無関係なのに後ろめたい気持ちになった。彼女の脳には、現在進行形で英会話の単語の数々がインプットされ続けているのだ。
 即興で造り上げた妄想の舞台の上で、彼女に語りかけてみる。
 狩野の脳内で親友という立場を確立している「E」は、横で腕を組み、云々と頷きながら聞いている。

 その、ちょっといいかい? ものすごく勉強している人だね、君は。すごいね。いや、お世辞でも何でもなく。こんなに長い時間、集中力を発揮できるなんて大したもんだ。僕の目には神々しくすら映るよ。でも、いいかい。少し聞いてくれ。少しの間だけど君の隣に座らせてもらった僕が見た限り、ものすごくたくさんの単語を覚えようとしているようだけど、今ノートに書き写しているそれらの単語のうち、本当に試験に出る言葉はいくつあるのだろうね? きっと一割も無いんじゃないかな。えっ、わかりにくい? じゃあストレートに言うよ。自分が今、すごく無駄なことをしてるって思わない? もっと長いスパンで考えても、これからの人生で、君が本当に使うことになる単語は果たして何個あるのかな? 君がとっても強い海外志向を持っているのなら別だけど、日本を出て行くことを今のところ考えていないのなら、果たして受験のためだけに英単語を覚えるというその作業に対するエネルギーは、もっとほかの事柄にぶつけてみたほうがいいんじゃないかと疑問に感じることはないのかい? いやいや失敬。今度こそはっきり言うよ。君は今、とっても無駄なことに労力を払ってるっていう自覚はある?

 皮肉を言われたと思った彼女は眉間に皺を寄せて、鞄から音楽プレーヤーを取り出し、イヤホンで耳を塞ぐ。僕の顔から目を逸らす。まるで寝転んでいるホームレスに暴言を吐かれたときのように、凛として無視をする。若く美しい顔が歪むその様子に、そして強く引かれた眉が捩れるその姿に、僕は、新宿にある高層ビル群がドミノ倒しのように連鎖して倒壊していく場面を想像したときと同じカタルシスを覚える。
 彼女は僕の身体からは目を逸らしたが、心の中ではまだ僕の声が反芻しているはずだ。彼女の、造ったばかりの高速道路のようにまっすぐできれいな胸の中を、グチャグチャに掻き乱しているはずだ。彼女は頭が良いからきっと考える。考えてしまう。僕の戯言に対する反論を。若い彼女は僕のささやかな主張をひっくり返すことが果たしてできるのだろうか?

 妄想は性愛の域に達し、狩野のペニスは屹立した。
 Eが満面の笑顔で狩野を称える。「そうだよ。そのとおりだよ!」と拍手している。

 だが。
 現実の彼女は、実際には発せられなかった狩野の疑問に気を留めるわけもなく、澄ました表情で英単語のインプット作業を黙々と繰り返している。隣に座っている得体の知れない男などまったく意識していないことが、彼女の存在に注視すればするほど、狩野自身にも伝わってきた。彼は眼の端で見やりながら、女子高生の棘のような集中力に、尊敬と嫉妬を覚えた。彼女の領域を侵せる力を自分が毛ほども持っていないということに気づき、狩野の頬は赤く染まった。

 しばらく俯き、やがてカップに入った残り粕のようなコーヒーを飲み干し、狩野は再び窓の外に眼を向けた。窓に映り込んだ彼の顔には、すでに落胆も怒りも浮かんではいなかった。ただ、能面のような無表情がそこに張り付いている。
 クリスマスも差し迫ったこの時期は、綻んだ顔で親しい者たちと歓談する光景が街の至るところで見られるようになる。そうした人々の姿が目に入るたびに、狩野は「彼らは本当に幸せなのだろうか」と思わずにはいられない。彼らが醸し出す幸福感をステレオタイプで退屈なものと思い、疑問を挟まずにはいられないのだ。

 Eが再びやって来る。遠くのほうから歩いてくる。
 いつも必ず自分の話を聞いてくれるEに感謝しながら、狩野は語り出した。

 もし神に「この世界はどうかね?」と問われれば、「どうしようもない奴ばかりで、はっきり言って終わってる」と答えざるを得ないな。僕はいつもヘラヘラと笑っていて、周りからは「人生楽しく過ごしている奴」だと見られがちだけど、そして確かにそのとおり人生に対して楽観的に構えてはいるのだけど、そんな僕から見ても、この世界は末期的だと思う。世界と言うと大げさかもしれないので、あくまでも僕の周りに限ったことなのだけど。
 だから「E」、商店街で通り過ぎるような人々、僕よりももう少し悲観的な表情をしている普通の人々、そして本来は自分たちの中にだけ存在するはずの「価値」を押し付けられて、それに疑問を持たずに信じ込んでいる善良な人々は、果たしてこの苦しくて矛盾した世界の中で、本当に幸せだと心の底から思える体験をたった数十年間の人生で獲得できるのだろうかと心配になってしまうんだ。

 Eは「わかるよ」と短く言った。狩野の位置からは、Eの顔がぼんやりとしていて、どんな表情をしているか判然としない。

 すぐそばに人の気配を感じ、狩野は「E」との会話を打ち切った。大学生ぐらいの女の子が、狩野の席の隣の椅子を抱え、自分たちのテーブルに運んでいったのだ。彼女は空いている椅子を探し出し、仲間たちの元に持って行っただけだったが、狩野はその行為を「奪われた」と感じた。ひと言「借りていいですか」という挨拶も無かった……。胸の奥が熱くなり、その女子大生が悪意の固まりのような存在に見えた。軽く会釈するなり、僕の許しを請う姿勢を少しぐらい見せてくれてもいいじゃないか。
 頭の中で、何かが激烈に流れ出すような感じがした。

 「ちょっと待って、狩野!」と、遠くからEが呼ぶ声がする。「冷静になって。よく考えて!」Eの表情はわからないが、とても焦っているようだった。
 Eに呼応し、落ち着いて考えてみる。

 この窓際の席はカウンター型で、座っているのは一人客が多い。彼女からすると、「僕の隣の席」という感覚ではなく、「空の席の椅子」という感じなのだろう。空の椅子を持って行っただけで、その空席の隣で物思いに耽っている男性客に、特に断りを入れなくてもいいと思ったのだろう。彼女は既に自分たちのテーブルに帰っていたが、もう一度振り返ってその姿を見ると、この時代には少々不釣合いな、清楚なお嬢さんという印象を受けた。

 もし、僕が自分の思いをそのまま口に出したのなら、つまり「ひと言ぐらい断ってもいいんじゃないの」と文句を言ったとしたら、彼女はまるで捕食される寸前の小動物のように怯え、何か悪いことをしたのだろうかと自分の過ちを隅々まで探索し、その答えが見つかる前に「ごめんなさい」と判然としない状態で謝罪していただろう。いや、もしかすると意外に気が強く、僕の物言いを理不尽なものと思い、食って掛かってきたかもしれない。どちらのパターンも、双方にとって歓迎できない状況というわけだ。そう考えると、僕は「心の中で憤慨したが、何も口に出さず、大人の対応をした」ということになるのだろう。「よくできました、よくできました」と、Eが褒めてくれる。僕は年齢にふさわしい態度として、自分の心の弱さが生み出した苛立ちに負けず、立派に我慢したというわけだ。
 だが、だが、だが、そうだとしたら、僕が現在抱えているこの怒りはどこに吐き出せばいいのか。後ほど合流することになっている友人の「Q」にでも愚痴を吐けばいいのか。いやいや、それ以前に、僕はなぜ少々ながらも女子大生の「誰も座っていない、座る予定もない、隣の椅子を取る」という行為に怒りを感じたのだろう。僕は、この「隣の空席の椅子」を使って、何かをしようとしていたのだろうか。しばらくしたら、床に置いてある荷物を置いてみようとでも考えていたとか? いいえ、そんなことは微塵にも思ってはいなかった。
 こうした思考分析の結果から、僕はある結論を導き出した。それは、「どんなに社会的に正しくて問題の無い行為だとしても、自分の近くにあるものを許可なく持って行かれるのは腹が立つ」ということだ。おお、この些細な日常の一コマから至言が導き出せたぞ。これは控え目に見積もっても、誰かと分かち合うべき貴重な発見であるはずだ。彼女に苦言を呈すのは止めたが、僕が導出した生物としての人間が持つこの深遠なるルールは、彼女にも教えてやるべきだろう。この思考分析のきっかけとなった人物ではあるわけだし。そう言えば、「貴重なものを独り占めにするのは良くない」と言われ続けて僕は育ったのだった。
 Eは、いつものように「行け、行け」と僕の背中を押してくれる。「正しいことをしているんだ自分は」という確信が生まれ、それがさらに勇気を奮い立たせてくれる。
 僕は彼女が座っているテーブル席に行き、「すみません」と肩を叩いた。彼女は「はい?」と振り向いたが、怪訝な表情をしている。椅子を取ったことで何か文句を言われるんじゃないかと危惧しているんだろう。そうじゃないんだ、僕が君に伝えたいのは、怒りじゃなくて発見なのだ。

 狩野はなるべく興奮を抑えつつ、彼女の行為がもたらした発見とその素晴らしさ、そして謝意を、どう言えばうまく伝わるか考えながら、説明を開始する。Eは保護者のようにすぐ隣に立ち、狩野を見守っている。


(終わり)

棘の無い鞭

棘の無い鞭

駅前のコーヒーショップで人間観察をする「狩野」は妄想ばかりしていて、世界に一線を置いているものの、彼独自のコミュニケーションで他者との距離を縮めようとする。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-02

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