平均男子は平凡生活を望む


 俺はごく一般的な、〝平均的な〟男子だ。
 モットーは、「目立たず、騒がず、落ち着いて」。学校という場所では、たとえば勉強ができすぎても、逆にできなさすぎても目立ってしまう。勉強に限らなくてもそうだ。運動で言ったら、百メートル走で一位になっても、逆にビリになっても耳目を惹いてしまう。目立たないためには、なにごともある程度できなければならない。
 誰でも得意科目と不得意科目があるように、「5」の科目もあれば「1」の科目もあって平均で「3」を獲ることより、まさしく全教科を「3」にすることのほうが難しいと俺は思っている。なぜなら、できる科目は相応に抑えなければならないし、できない科目はやはりそれに見合った努力をしなければならないからだ。
 でもそれだけの努力をしてでも〝平均男子〟でい続けるメリットを俺は感じている。目立つことは疲れるものだ。なまじテストの点がよすぎると、親から過度の期待をかけられて、勝手に俺が将来、医者か弁護士かパイロットになるものだと思ってしまうし、芸術の分野で秀でた才能を発揮しても全校生徒の前で表彰されたりしなければならないかもしれない。部活でもレギュラーになるほど優れた選手なら、毎日の練習で汗水垂らしたあげく、試合で不必要な緊張まで味わわなければならない。どうかな? 人よりできる=目立つということは、まったく「疲れる」ことばかりだとわかるだろう。
 しかしなぜだろうな。自分には皆目見当がつかないのだが、そんな〝平均〟を貫徹する俺の周りには、同じく平均的な友だちが集まっているかというと、そうでもない。……うん、この表現は適切ではないな、「そうではない」が適当だ。
 俺のよくつるんでいるやつらに即して言っているのだが、いやはや……、いかな俺が目立たない努力をしていても、一緒にいるやつが目立ってしまうと、そのハードルは上がってくる。さらなる細心の注意を払わなければならないということだ。ただ、近くで灯る光が強ければ強いほど、できる影ははっきりしていると言うこともできる。だから隠れ蓑としては油断さえしなければ最良のものだし、自分自身が影になってしまえばいい、とまで決意している。別にやけくそでもなんでもなく。

 文化祭一日目の今日はどこもかしこも人で溢れていた。格別力を入れているわけではない定型の公立高校で見られる文化祭なのだが、よほど地元民から関心を集めているのか、みな暇を持て余しているのかのどちらかだろう。
 去年から使い回しの入場門からとめどなく人が入ってくる。「第40回 うない(うないら)祭」と書かれたベニヤ板の看板がそこここに掲げられている。そのなかには、「〝一〟年越しの〝F〟orror」なんて書かれた見たくもないやつまで紛れ込んでいる。まったくうまくもなんともないそのテロップだが、わが一年F組のお化け屋敷を知らしめるものだ。せめて〝Fear〟のほうが様になった気がするがな。どちらにしても、来客はかんばしくないだろう。活況を呈しているのは、やはり模擬店だ。俺ら一年にはその権利はないため、詮方なくどこの高校でも鉄板と言うかマンネリなお化け屋敷に落ち着いたのだ。
 午前中に腐乱犬として大活躍をした俺は、午後は好きに見て回ることにしていた。いまは入場門を仰ぎながら、外テントで売られている焼鳥を調達したところだ。
「おお、うまそうじゃのう! あたしにも一本おくんなましっ!!」
 言うが早いか、俺のエコカップに刺さったねぎまを抜き取りかぶりつく駿河。爺さんみたいな口調だが、彼女はれっきとしたJKだ。森ガールなショートショートのぱっつんバングにふわくしゅなパーマが頬を流れ落ちている。ミルクブラウンの髪が柔らかく陽光の下で煌いていた。
 通りすがりの先輩たちがちらちらとこちらを見ている。それもそのはずで、駿河はこの高校でも評判の女子だったのだ。それこそ、「可愛い娘ランキング」なんかが公然と催されたなら、一位か二位を争うことは間違いない。そのうえ成績優秀、スポーツ万能、性格は誰よりも明るいので、まあ、人気がでないほうがおかしいというやつだ。こんなとき、とくに男どもから駿河のみならず、俺にまで視線が投げかけられる。勿論、見惚れているとか憧れているとかなどであろうはずもなく、ただ単に、駿河と一緒にいることに対する羨望の眼差しだ。
「……ん? なにを見ておるのじゃ?」
 仔犬のようにつぶらでいて、好奇心を具現化したかのように大きい瞳が、俺を真っ直ぐに見つめてくる。
 ああ、知らず凝視してしまっていたようだ。
「ああ、別に……」
 なんとなく濁していると、
「そうか!」
 特大の目を得心がいったように輝かせ、
「おぬしもいますぐ食べたくなったのじゃな?」
 言うなり、あ~ん、みたいな表情を見せながら、食べかけのねぎまを差し出してくる。
「い、いや、別にいいよ」
 そんなことをしたら命がいくつあっても足らん、というやつだ。
 駿河はなんだか残念そうに肩をすくめて、再び自分の口に串を運ぶ。それから、ちろり、と俺に目をやって、
「てか、いま思ったんじゃけんど……」
 お前は本当に高校生だよな?
「キンヤンって、なんか〝別に〟って多くない?」
 はぁ? ちなみに、キンヤンとは俺のことだ。
「別にそんなこと……」
 ぷぷぅーっ、とねぎを吹き飛ばすような勢いで笑い始める駿河。俺はじきに失言に気づき、羞恥が顔を赤に染める。駿河は渋面の俺を、こいつ引っかかりやがった、みたいな時を得顔で思う存分堪能すると、
「さ、早く体育館に向かわないと! デヴィたちが待っておる!」
 一気に残りの肉を頬張り、揚々と歩き出す。俺は焼鳥アラカルトなカップを手にしっかりと握り締め、意気軒昂な白い背中を追った。


『演劇部主催・「ハムレット」』
 かようなプラカードを掲げた客引きが混雑する人の群れのなかで精一杯の笑顔を見せていた。虚飾に彩られた文字の下に、〝第二部・午後13時半~〟との記載を確認できた。どうやら定時に始まるらしい。
 開けっ放しの体育館正面入り口、鉄扉の横に見慣れた顔が二つ並んでいた。すかさず駿河が声をかける。
「デヴィ! リモぉ~~~っ!」
 喧騒に溢れていても、これほどの大声ならさすがに届いたようだ。二人同時にこちらに顔を向ける。
「遅いわよ、いくら整理券があるからってね……」
 ややご機嫌斜めな長身の美女はいでべなんこ(いでべなんこめ)。翠色の制服が抜群に似合っている。胸は小振りだが、脚が異常に長く、引き締まったウエストはまさにモデルになるために生まれてきたような印象だ。ちょくちょく読者モデルとして有名雑誌に出たことがあるらしい。「サインくださいっ」なんて同級生から声をかけられているのも何度か見たことがある。俺もいまのうちにもらっておいたほうがいいかもしれないな。
「ま、いいじゃないか、ほら、瞬が僕たちのために買ってきてくれたようだし」
 いつものように軽々しい調子で執り成すのは森山都だ。黒縁眼鏡の奥から中性的な可愛らしい瞳が覗いている。学年で一位の成績を取っているような真面目さは微塵も感じない。こいつは中学の頃から女にモテていて、そのバレタインでもらう一日のチョコの数は、俺の一生分の数を足しても及べないだろう。比較として陳腐にすぎたかもしれないが。
「さあ、早く入りましょう。真奈、出して」
 鷹揚に手を突き出す出辺。
「わかっておる、わかっておる……」
 などと呟きつつ、駿河が脇腹の辺りをまさぐり始める。しかしその手はなににも引っかかることなく、すりすりとシャツの上を滑るばかりだ。
「ねえ、まさかあなた……」
 一瞬にして満ちる不穏な空気は正しかったようだ。
 わかりやすく駿河は頬に汗を垂らしながら、
「忘れてきちょりましたわいっ!」
 てへっ、と可愛く舌を出して見せる。たいていの男ならそれでもう許してしまえるのだろうが、
「大馬鹿っ!!」
 当然、出辺に通用するわけもなく、
「ひぃぃっ、怒らないでけろぉ~~っ!!」
 大げさに両手を擦り合わせる。
 どうしたものか、と俺が逡巡するより早く、先のプラカード持ちのスタッフと思しき女性となにやら話している森を発見。まもなく――
「なんとかしてくれるそうだよ」
 クールショートなツンツンヘアに見合った爽やかな笑顔で言ってくる。
「ほぅ、わしの予想どおりじゃ……」
「なに偉そうに言ってんのよ……!」
「いだだだだだだ……ッ!」
 思いきり出辺が駿河の耳を引っ張り上げる。
 こうして俺たち四人は、ようやく薄明かりで満たされた館内へと足を踏み入れた。

「一番後ろの端っこになっちゃったね」
 苦笑気味に言う森。すかさず首肯する出辺が、
「誰かさんのせいでね」
 嫌みったらしく言ったのだが、
「お、そこの可愛い娘ちゃん、ちょっと寄ってきんさいっ!」
 それこそ、一番後ろの隅に座っていた駿河は、でかい声で売り子の女子を呼びつける。
「なんだまだ喰う気か?」
 俺は焼鳥を見せてそう訊くが、
「当たり前のことを訊くねい! トルティーヤとワッフルを狙っていたんじゃい……」
 ぐっふっふ、と笑いながら両手に嗜好のブツを譲り受ける。
「太るぞ」
 厳しい口調で言ってやるが、
「ちっちっち、充分なカロリーは消費してあるから問題ないのじゃ!」
 言われてみれば、こいつは口裂け女の特殊メイクを施して、教室を縦横無尽に駆け回っていた。恐がらせるというより、笑われているに近かったが。
「しかしすごい人ね……」
 横で出辺が呟く。
 確かにそうだった。フロアに敷き詰められた椅子の横列だったが、余すことなく満員御礼だ。別に「ハムレット」などそう高校生に人気のある演目ではないと思うが……。
「やっぱり〝仮面少女〟が現れるって噂が効いているのかもね」
 出辺の向こうで森が訳知り顔で顎に手を添える。
「そんな噂が立っているのか?」
 飄然と森は頷き、
「ああ、上演中に、〝仮面少女〟がなにかを盗みに来るってね」
「やつが現れるときはたいてい盗むのだろうが……予告状でも見つかったのか?」
「いーや、ただの風の噂さ。そんなルパンみたいに犯行声明を出すなんていままでもなかっただろ?」
 それはそうだが。でもそれなら、演劇部が集客を増やすために流したデマかもしれんな。火のないところに煙は立たぬ、と言うが、別に立つときは立つだろ。立たせようとするやつがいればな。
「楽しみにしているような言い方ね……。山都は彼女が来ると思っているわけか……」
 足を組みつつ、斜に構えて出辺が指摘する。森は正直に笑い、
「勿論さ。ただの中二な戯曲より、よっぽど有意義な時間になると思うけど?」
 随分な言い分だな。いますぐハムレット愛好家に謝らねばならないだろう。
「なんだ、山都にも芸術に親しむ感受性が備わってきたのかと考えていたけど……見当外れだったようね」
 心底呆れた、といった仕草で出辺が溜息をつく。
 そんな出辺を透かして森が身を乗り出してきて、
「な? 瞬も〝仮面少女〟に会いたいよな?」
 そうか? そもそも俺はそんな噂知らなかったし、寝るには打ってつけだと思って来ただけなのだが。
 ふぅー、と出辺が長すぎる溜息で応じる。
「ま、瞬は男として変わってるからね」
 納得したように森。
「男として? 人としての間違いでしょう?」
 くつくつと笑って即座に出辺が。まったく手厳しすぎやしないか?
「まあ確かに人としてもマイノリティだね。でも、同性の僕からすると本当にキミって〝男〟が理解できないよ」
 おお、長いつき合いなのに結構はっきり言ってくれるじゃないか。一体なにが理解できないって?
「まっとうな男なら、誰だってあの〝仮面の下の素顔〟が気になるはずじゃないか!! どんなに可憐で精緻な美貌が隠されているのかと……!!」
 なにを決めつけていやがる。そんなことわからんぞ。いざ見たら目も当てられないような女かもしれないじゃないか。
 おい、そんな呆れ返ったような顔をするな。眼鏡がひん曲がっているぞ。
「これだからキミっておかまは……」
 なんだそれ。ディスってるつもりなら選択ミスだ。おかまだってれっきとした男なのだからな。少なくとも俺はそうだ。
「まあ、山都の言うことも一理あるわね」
「だろ?」
 なにを?
「だって瞬は全然女子に興味なさげだし」
 いやあるぞ。あるが、実際はその労力を思うと山都のようにアクティブにはなれんだけだ。だって人を好きになるって疲れるだろ? あれ、なんかいま深いこと言っちゃったんじゃないか?
「ただの面倒臭がり屋なだけよ。極度のね」
 そうでした。
「だから、普通の平均的な男子なら、〝仮面少女〟が超可愛い娘に違いないって信じられるはずさ」
 得意げに言いきってくる森。平均的というワードに少なからず心を揺さぶられる。
「これまでの所業に鑑みればね」
 人差し指を立てて、森がにっこりと笑む。俺はその指を見つめながら思い起こす。これまで〝仮面少女〟なる謎の人物がやったことといえば……
 まずは「授業泥棒」なんてのがあったな。俺たちの高校では10キロマラソンが授業の一環で行われるのだが、当然、これを待ち望んでいるのは、己の研鑽を知らしめたい運動部の少数派だけだ。雨天中止となり、俺が淡い希望を持って起床した翌日の予備日はこれでもかというくらいの快晴。自分の避けきれない運命を痛感したのだが、スタート直前、高笑いとともに現れた仮面少女。彼女の出現と同時に咲き誇ったスプリンクラーの異常動作によって、教師たちは慌てふためき、制御パネルをいじっても止まることなく放水は続き、降りかかった水のせいばかりではなくきらきらした生徒たちに見守られるなか、ついに今年のマラソンは完全に中止となった。
 持久走などという苦しむためだけの行為であっても、いざ始まれば手を抜くわけにはいかない。さして体力に自信があるわけではない俺だから、やはり頑張って走らなければ平均的な順位を得ることは叶わないからだ。
 俺が初めて仮面少女に感謝をした事件だった。
 ほかにも、「友情泥棒」なんてのもあった。別に誰かの友人関係を壊そうというのではなくて、軋轢を生んでいる関係を助太刀し、仲直りの過程を請け負うことで、元の関係に修復しようというのだ。具体的には、あの子はかような事情があってああいうことを言ってしまったのだ、とか、やるかたない背景による行動だった、などと説明することによって便宜を図ったという。これは俺が人づて(森)から聞いた話だから詳しくは知らないが。
 部活にもやつは現れ、「勝利泥棒」を働いたという。まあ、早い話が対戦予定のチームの決定的な弱点を衝く情報を入手し、勝ちをさらわせる、といったことだ。
 このように、仮面少女が好きなやつは多いし、森のような熱心な信奉者もいる。でもかといって、可愛いに違いない、というのは早計だろう。もっとも、男ならきっと可愛いはずだ、と信じたい気持ちもわからないでもないし、それが平均的だという可能性は充分だ。だとすらなら、俺もかぶりを振るわけにはいかない。
「機会があったら、見てみたいものだな」
 顔が割れれば、森の執心も霧散することだろう。逆にさらに苛烈になるかもしれんが。
「きっとあるね。ああ、楽しみだ」
 森は確信したような笑顔で舞台幕のほうへ目を投じる。正直、俺はどうでもよかった。というより、現れないでもらいたい。睡眠という緩やかな流れのなかで安逸を貪りたかったからだ。
「そろそろ開演時間だわ」
 校歌の刻まれた壁側にかかっている時計に目をやり、出辺がなんの期待も込めずに言った。
 あれ? と、俺は不意に違和感を覚え、向き直る。
 そこでは気持ちよさそうに目を閉じている睫の長い少女が。かすかだがはっきりといやに間延びした寝息が聞こえてくる。いつのまにやら、俺の手のなかからは焼鳥が一本たりともなくなっていた。無論、ワッフルやらなにやらも。
「こいつ……ちょっと静かだと思ったら……」
「ホントに……どうしようもないわね」
 気づいた出辺も呆然と呟くが、起こそうとはしない。
「寝かせといたほうが賢明だろうね。突然、『ねずみのわけないだろ!!』とかなんとか叫びだしそうだからさ」
 もっともだ。
 俺は言うとおりにすることにする。
 ほどなくして、するすると幕が開き始めた。


 俺は目を開けた。まどろむ視界のなかで、照明を浴びる舞台が浮かび上がる。
 いかにもハムレット然とした高貴な衣装を纏う男子生徒とかつらを被った女生徒が中央で立っている。女のほうは王妃のようだ。壁掛けに見せかけた簡素な布の向こうには頭の白い男子がみよがしに二人を窺っている。なんとなく俺がシーンを悟り始めたとき、ハムレットが無造作に壁掛けへと近づいた。
『……ねずみかな?』
 横で頭が揺れるのがわかった。どうやら森は宣言どおり起きているらしい。出辺は誰が生きようが死のうがどうでもいい、と言った無関心顔を舞台に向けている。最後尾の席でなによりだ。反対隣から叫び声が聞こえてこないので、まだ熟睡しているのだろう、なんとなく目をやると、
「……あれ?」
 誰も座っていなかった。
 トイレかな? などと考えを巡らせていた矢先、
「キャァッ!!」
 悲鳴のような驚きの声がかすめる。舞台ではボローニアスが倒れ込んでいた。とうとうハムレットに刺し殺されたらしい。と、
「……ん? なにかしら?」
 さすがの出辺も声を発した。舞台の内容については溜息をつくことはあれど、声まで零すことはなかっただろう。なぜ彼女が疑問を口にしたかといえば――
「おや、ここで照明が落ちるなんておかしいね。あのマザコンがお母様と絡むシーンがないのはおかしな話だ」
 森の言うように、ぱったり、と舞台上が真っ暗になったのだ。もとより、フロアのほうは電気が落ちているから、もう会場中が暗然としている。徐々に広がるざわめきは、明らかに異変を感受しているような、落ち着かない響きだ。
「ちょっとなによその顔、不謹慎よ」
 見れば森のやつが、いまこのときのために生きてきた、と言わんばかりの顔でにやにやしている。確かにステージから聞こえてくる慌てふためいた演劇部のことを思うとやってはいけない顔と言える。この日のためによほどの研鑽を積んできたのだろうし……
「ああ、ごめんごめん……早く復旧しないかなぁ……!!」
 そんなに明朗に言われては真実みが感じられない。
 すぐに出辺から冷ややかな言葉を森が投げかけられたとき、
「おっ、点きやがった」
 俺の言い方も微妙だったのか、森にやられた目と同じものが出辺から向けられる。お前にその顔をさられると、なにか自分が悪戯ばかりしている園児に退行した気分にさせられるよ。
「……点いたけど、様子がおかしいわね」
 出辺の言うとおりだった。
 舞台脇に立てられたピンスポットライトがなぜかステージ上のガートルードを責めまくるハムレットを映してはいなかった。明後日の方向、天井の鉄筋を白く照らし出している。
「おかしいねぇ……」
 小気味よさそうに見上げている森。
 つとライトが激しく動き始めた。誰かが向きを直そうといじくっているらしい。まもなく、直線的な動きを見せて、キャットウォークのほうへと光が移動する。
「あっ!!」
 声を出したものもそうでないものも、みなその一音が脳裏を駆け巡った。
 そこには喜色満面の仮面をつけた、艶のあるマントを羽織った〝少女〟が立っていたからだ。


「待ってましたぁぁぁぁぁぁっ!!」
 森を筆頭に、ヒューヒュー、と多くの生徒たちが立ち上がり、声援を送っている。劇のときとはまるで違う興奮に会場中が包まれていた。
 仮面少女は満足そうに(テンプレートがスマイルだからそうとしか見えないのだが)沸き立つ会場を見回すと、翻然とマントを揺らしつつ両手を掲げた。
「アタシは今日もお宝を頂きに来たのであ――――るッ!!」
 いつものようにボイスチェンジャーを仕込んでいるような機械的な声だ。
 一層の盛り上がる見せる生徒たち。いや、生徒たちだけではなく来場者の子どもたちもおそらく事情はわかっていないのだろうが、とりあえず楽しそうにはしゃいでいる。なによりだ。
「本日の獲物、第一弾は――」
 溜める仮面少女。第一……ということは今日は〝盗み〟は一回ではすまぬということか。森もその事実に感づいたのか、まあそんなことは関係なく恍惚とした顔で成り行きを見守っている。
「期末試験の『答案泥棒』よっ!!」
 色めき立つ場内。これは俺もテンションが上がる。いや、なにも本当にやつが教職員の机やなんかから試験問題を盗みだしたのではないことはわかっている。先学期の期末でも同様の〝事件〟が起こったが、そのときは予想問題といったテイストだった。それがいみじくも実際の試験問題と大同小異だったのだから驚きだ。正直、森たち三人は別にそんなものなくとも学年トップクラスの成績を叩きだしたのだろうが、俺は違う。俺の〝平均点〟の取得におおいに役立ってくれたのだ。
 そんな大半の生徒たちの〝宝〟というべき紙束が、宙に舞い上がった。たちまち場内は徳島市阿波踊り並みの様相に変わる。唸りのようなよしこのが鼓膜を揺り動かす。
 かくいう俺もそんな四国三大祭りの一部となって、どうにか振り落ちるプリントの一束をゲットすることができた。これでさらなる俺の平凡生活の継続が約束されたといえるだろう。
「慌てるでない!! プリントはたんまりと用意してきている……!!」
 まさに英雄だな。このときばかりは、森の言い分に信憑性を感じなくもない。あの仮面の下は、きっと目も醒めるような美少女で……
 舞い乱れる紙の嵐はやがて収束へと向かうと、
「さあ、続きましては――」
 いつのまにやら仮面少女が舞台へと降り立っていた。彼女の手のものなのかはわからないが、スポットライトが完全にその肢体を捉えている。いまやハムレットは闇のなか、端役以下の存在に没落している。
 泰然とステージ中央に佇立した仮面少女は、
「『告白泥棒』ぅぅぅぅぅぅぅっ!!」
 メタリカルな声で叫ぶ。ついで付随する迎合の雄叫び。
 俺は無頓着だが、多くの高校生にとっての大いなる関心事とはいわゆる〝色恋〟だ。むしろ定期試験の出題範囲よりも興味を集めている事柄と言ってもいい。別に誰と誰がつき合おうと、一週間で別れようと、放っといてやれ、というのが正直なところだ。
 しかしさらなる高揚を周囲の騒音は見せていた。まあ、他人が多大な緊張を背負って事を成すのを安全圏から見守るのは気分がいい、それは人間なら誰しも感じてしまう性ともいえよう。
 俺が大いに余裕綽々で噂話の咲き乱れる生徒たちを諦観していると、
「アタシが〝告白〟を盗む被害者を紹介しよう……」
 轟々とうねりを上げる喧騒の波。勿体ぶるのが仮面少女の癖らしいな。この点、森と似ている。俺がやつに勉強の助けを借りないおおむねの理由はそれだ。
「――一年F組、かねたに(かねたにF)瞬ッ!!」
 ……ん?
 一斉に左団扇な俺の間の抜けた顔に視線が集まる。俺はすぐには状況が把握できなかった。いま、仮面少女はなんて言った? 俺は自問しつつも、鼓膜に沁み込むその響きは確かな余韻を残していた。さらに重畳してくる無慈悲な声。
「ラブチキンな金谷くんに代わって、アタシが告白してあげよう!!」
 仮面少女は傲然と胸を張る。
 四方から好奇な視線が俺を襲っている。……なんてことをしてくれたんだ、仮面少女……!! 俺のもっとも嫌う〝注目〟がやつのせいでいままさに一身に集まっていやがる……っ!!
 それに俺はチキンなわけじゃない。先に言ったように、恋とは「疲れる」からだ。しかも、同じ高校の女子とつき合ってしまった日には、「さあ、いまこのときから僕たちの噂をしてくださいっ!」と、全校に豪語しているようなものだ。お互い秘密にしよう、などと取り決めをしていたとしても、その薄っぺらさは日ソ中立条約に匹敵するレベルだと歴史が証明している。そもそもバレずにいることなど、他校の生徒とつき合うのでもない限り土台無理な話なのだ。よって俺にはなんの益もなければ災厄しか引き起こさない〝恋〟というイベント。なにを好きこのんで告白などしなければならんのか。
「なんだ、瞬。お前、好きな娘なんていたのか?」
 世にも嬉しそうな顔でそう問いかけてくるのはほかでもない、森の野郎だ。俺にそんな愛嬌がないことくらい、こいつほどわかっているやつもいないだろうに。
「でもまあ、仮面少女さまが言うんだから間違いないのだろうけど……」
 一人で納得してしまう。なら訊くな。
「まさかあなたの好きな相手って私じゃないわよね?」
 繊細な黒い毛先を耳にかけながら平然と訊いてくるこの女も俺をかねてからよく知る人物の一人だ。こいつに至ってはその表情に森のようなはっきりした色が浮かんでいないから、それが本心なのかどうなのか判断しかねる。が、そのわずかに傾斜した口許に機微を感じ取り、
「お前を好きになったら、いろんな覚悟をしなきゃならんからな。ゆえにあり得ない」
「覚悟?」
「ああ、お前の相手だけでも大変なのに、〝出辺南子の彼氏〟ともなれば敵も多くなるんだよ」
 すると出辺は不承な面で、
「そうかしら?」
「お前は女だからわからないんだよ」
 可愛い娘とつき合うことほど、同性から恨まれることはないからな。それでなくとも俺は、なぜか同じグループにいる、というだけでリスキーなポジションにいるというのに。
 というか、それにしても駿河がここにいなくてよかった。いたなら、俺はここで立っていることすらできなったはずだ。逃げ出したいことに変わりはないが、もはやぐるりを囲まれていて、ねずみの這い出る隙間もない、という状況だ。
「それでは、告白を始めよう!!」
 声援を受けてターンを決めながら、けっして閉じない口を眉月の形に固定したまま、上機嫌に言明する。
 ああ、なんということだ。
 俺はますます勇躍とする仮面少女とは対照的に、消沈していく一方だった。これまで輝ける三つの星の下、つつましく平均を遂行して日陰生活に安心していたというのに、いまやスポットライトの一つが俺を照射し貫いていた。
「金谷! 金谷っ! 金谷っっ!!」
 まさかの金谷コール。みなその名を口にするのが初めてに違いない。できれば卒業まで口にして欲しくなかったのだが。
「やあ、人気者じゃあないか! そして瞬、キミは一体誰を好いていたのかな?」
 その首へし折ってやろうか。普段はにこにこした森のスマイルも、いまはにやにやをとおり越してニタニタしている。
「ええ、正直なところ気になるわね。てっきり私にぞっこんだと思っていたけれど……」
「ぞっこん」という死語というか古語にこいつの名状しがたいしたたかさが感じられる。これも長いつき合いだからこそわかる嫌味とも形容できるが。
「いーや、瞬はシャイだからね。わからないよ? もしかしたら、南子に首ったけだったかもしれないしね?」
 こいつに関して言えば存在自体が嫌味と等しいからあえて解説するまでもないだろう。
 ただ、仮面少女の発言次第で俺の運命が大きく変動することは確かだ。まあ、現時点ですでに予想外の分岐を見せているから、あとはこれが最小限に止まることを祈るしかない。告白相手が森だとでも言ってくれるのなら、それはそれで盛り上がって丸く収まりそうな気もするが、変な噂が根強く残ってしまいそうで不安が残る。頼む。なにか当たり障りのない発言でとっとと消え去ってくれ――
「俺は金谷瞬……」
 親指で自身を指し示す仮面少女。お前はどこからどう見ても奇人以外のなにものでもない。
 弾け飛ぶ笑声のなかで、誰かもわからない手に揺さぶられるダッチロールな視界、その中心で少女はなおも自作自演に興じ続ける。
「小学校の頃からずぅっっっっと、あなたのことが好きでしたっ!!」
 会場のボルテージがヒマラヤ山脈の世界最高峰に達するような勢いで上昇していく。これぞテンチョモというやつだろう。俺のもっとも苦手とする空気だ。その中枢に俺がいるなんて、最低の悪夢と言うほかない。
 仮面少女はといえば、また得意の〝溜め〟に入っている。身を屈めて小刻みに震えている様は、膨大な尿意でも抱えているように見える。
「いよいよ来るね」
 熱気にやられたのか森の眼鏡はサウナで無駄に粘っているおやじの尻の下にずっと敷かれていたかのように脂っぽく濡れそぼっている。その厭らしい笑顔をやめてくれないか?
「これが笑っていられないよ! まさか瞬が仮面少女の標的にされるとはね!!」
 それはそうか。俺は妙に感得していた。森は仮面少女の言うなればファンなのだ。そんな彼女になんであれ「盗まれる」なんて、こいつにとっては羨ましがることですらあれ、同情することなどあり得ないというわけだ。
「さあ、楽しみね」
 シニカルな笑みを湛えつつ、俺を横目で刺している女もその心境に森とたいした違いはないようで、
「私の名前が飛び出したらなんて答えてあげようかしら?」
 世にも妖しい微笑に変わっていく。こいつはこれから一体何人の男をその妖艶な瞳で惑わしていくのだろうか。ともすれば俺も幻惑されそうになり、すかさず目を逸らすと、絶え間なく打ち震える人並みの向こう、ようやく尿意の波を脱したらしい仮面少女が忌々しい笑顔でこちらを見た。そして一際大声で、
「駿河真奈さん! 俺とつき合ってくださいっっ!!」
 発せられたよくとおる音の波が、いとも滑らかに人海を流れていった。
 止まる時間。静まり返る人々の声……。
 俺は耳を疑っていた。まさかどうしてなんで俺が駿河のことを……?
「ふふっ」
 あらゆる感情(大部分は怒り――「身のほどを知れ!!」)を孕んだ視線に肌を焼かれながら、俺は取り繕うように声を漏らしていた。
「ふふふふっ、あーっ、はっはっはぁっ!!」
 みな瞠目しているのがわかる。森や出辺でさえも。しかし当然ここで付言するまでもないように、俺は頭がイカれたわけではない。そう、なんとか取り繕おうとする気持ちの表れだ。
「どうして俺があんな爺さんみたいな女を!? つき合うならもっとおとなしくて女っぽくて可愛い娘が……」
 やがて俺の声は蚊が叩き潰されるように消えていった。
 男どもの顔が鬼と見分けがつかない。どうやら地雷を踏んでしまったようだ。も、もうこうなったらやけくそだ。
「はっ、見誤ったな、仮面少女!! 生憎、あの爺……いや、駿河はおトイレタイムだっ!!」
 なにやら男どもの非難の唸り声と、女子どもの羞恥のざわめきが生まれだす。
 突き出した俺の指の先で、仮面少女は称揚と肩をすくめて見せて、
「なーに、ノーぅ、プロブレムぅっ!!」
 はっきりと親指を立てて応えてくる。
 なんだなんだその自信は。俺は勇んで周囲を窺う。天井も含めて全方位だ。どこかから颯爽と登場しかねない。やつの性格なら仮面少女に二つ返事で協力するだろう。むしろ自分から提案した可能性すらある。いや、それはないか。それだとまたおかしな話だもんな。
「彼女の返事は録音済みだ!! レッツ・プレイ!!」
 喧々囂々としていた荒々しい空気が引いていく。ややあって聞き覚えのある声が据えつけのスピーカーからこだました。
『なにぃ!? キンヤンがあたしのことをっ!? むむぅ~~、まあ、答えは決まっておる……』
 蔑むような小声が俺の耳に刺々しく侵入してきていた。「キンヤンだって、ぷくく」「すごい困ってる声……」「駿河さまがかわいそう」「はい、失恋フラグwww」――ここにきて男子より女子の視線が痛くなっている。駿河は女子からも男子以上に人気があり、その存在は〝神〟として位置づけられているほどだ。出辺と並んでいわば〝二人の女神〟。俺から言わせれば大げさにすぎるけどな。ちなみに森は〝眼鏡王子〟なんて女子どもから叫ばれている。俺は〝平民〟とも呼ばれていないのに。ま、呼ばれた時点でそれはもう平民でないわけだから、俺の望みは叶っていると言えるがな。……いや、言えたのだが……。
「あー、これは答えが楽しみだな~~」
 なにがそんなに面白いのか皆目見当がつかない含み笑いで森が漏らしている。
「ふん、そういうことね」
 これまたなにが「そういうこと」なのかまったくわからないのに一人で悟りに達したような顔で息をついている出辺。
 みなの失恋への期待値が臨界点を振りきるのを感じながら、俺はどうすることもできなかった。当たり前だ。すでに俺は日陰から光の下に引っ張り出された愚かな平民……、そう、〝愚民〟にすぎず、あとは処刑対象になるかどうかだけ、という問題だ。ただ、俺は希望を捨て去ってはいなかった。たとえ身分不相応な相手に恋をしている愚か者だと思われていても、またコツコツとモットーに忠実に「目立たず騒がず落ち着い」た日常を送ってさえいれば、後ろ指をさされることのない平凡生活が帰ってくるはずだ。そうだ、生きてさえいれば、きっと未来はあるんだ……!!
 自己啓発本が書けそうな活力に心を漲らせていると、ついに駿河の音声が轟いた。これで俺は笑い者にされるけれど、それでも光を信じて生きていきます――そう修道女のように手を組み合わせた瞬間、
『キンヤンがそう言うのなら、仕方あるまい!! ……うむ、その申し出、受けて進ぜよう!!』
 …………。
 氷水を打ったように凍てついた冷気を浸透させて静まる観衆たち。無論、俺もその一人だった。
「へえ~~、意外だねぇ、僕はてっきり振られると思っていたんだけど!」
 空気を読んでいるのか読んでいないのか判断しかねる無邪気な声を上げながら森が頷いている。
 出辺のほうは、
「…………」
 その他大勢のようにショックを受けているのとはまた違うクールな顔で押し黙っている。
 俺はあえて言うのも憚られるレベルのアホ面で、やめればいいのにムービングアイの仕込まれた人形のように目を泳がせつつきょろきょろ首を振っていた。
 前例にない静寂っぷりにさすがの仮面少女も動揺したのか、あたふたとマントを翻したり、翻してみたりしながら、
「さ、さらばだぁーっ! わっはっはっはぁ――――っ!!」
 わざとらしすぎる豪快な笑い声を残して舞台袖へと捌けていった。同時に袖から聞こえてきたのはすっかり見物人と化したハムレットたちの驚きの声だ。それを合図にして猛然と跳びだしたのは森だった。
 貴様、公開処刑前の俺を置き去りにどこへ行こうというんだ!?
「今日こそ仮面少女の素顔を確かめてやるっ!!」
 ああ、だめだ。その気合に満ちた瞳は子どもの頃から変わらない。なにを言っても止まろうはずもない。ならば――
「お、俺も興味があるんだぜ!!」
 ……まったくでたらめだったが、いまはこいつについていくことがなによりの防御策だ。出辺はどこまでも俺が追い詰められるのを楽しんで見ているような女だからな。二人で残されてもアテにはならん。
「めめ、眼鏡王子さまぁ~~っ!!」
 案の定、女子どもの嬌声を浴びながら、俺たちはステージを目指した。珍しく出辺が、「ちょっとやめなさいよ! あなたたち!!」などと厳しく声をかけてきたが、森の足は止まることがなかった。しかしてすべからく俺の足も。
 ステージから袖へと駆け込む。フォグマシンの影響か靉靆とした空間を抜けていく。外通路へと抜け出る扉を開けた瞬間、場内から絶叫のような騒音が俺を追ってきた。


「――あっちだ!!」
 森がやにわに指し示した。
 体育館と校舎間の通路を横切って、通り過ぎる人々の注目を集めつつ部室や特別教室が割り当てられているC棟へと突入していく仮面少女のマントが見えた。
 中庭に面したこの屋外通路では、なにやら煙が立ち上っていた。ここでも焼き鳥かと思いきや、どうやら焼き芋のようだ。小学生とおぼしき丈の短い人間たちで横溢している。逆にひょろひょろとした痩躯に長身の森は、いとも簡単にそんな子どもたちの間をすり抜けていく。こいつは飄々としているが、運動も得意だから恐れ入る。逆に俺は抜きんでて得意というわけではない。足も平均よりやや速いぐらいだから、こと体育に関して気を遣ったことはなかった。まあ、意識せずとも平均的な運動能力を発揮できるということだ。が、ごったがえし、流動する人波を器用に相当のスピードをもって貫いていくのは、やはり運動神経が「よく」なければできない。まあ、「慣れ」もあるだろうがな。
 たとえば渋谷のスクランブル交差点なんていい例だろう。地方からでてきたものはたいてい衝撃を受けるが、いざ渡ってみたら、別に神経も使わずに人と一度も接触することなく目的の〝島〟に行き着くことができるものもいる。これは相応のスキルを持っているからできる芸当だ。一方で、平均的なものは右往左往しながら、行きたいほうとは逆に流され、流された挙句、義時の追討に失敗した後鳥羽上皇のような気持ちを味わうことになる。
 そしてご存知のとおり俺は平均男子、さらに「慣れ」などあろうはずもなく、
「あまいあまぁ~~~い!!」
 甘ったるい声で叫んでいる小三くらいの女子グループに思いきり行く先を阻まれてしまう。新聞紙に包まれた金色に輝く芋をうまそうに頬張っているツインテールの女の子が、どこかで見た覚えがあると思ったら、
「あっ、アニキ! こんなところでなにをやっているんですか!?」
 ぐるり、とまるでウサギかハムスターか、とにかくげっ歯類的な(ウサギも昔はげっ歯類に入れられていたらしいからな)黒目がちの無垢な瞳たちが一挙にこちらを向いた。
「な、なにをやってるって、そりゃこっちのセリフだ」
 もっともだろう。俺は別に妹の運動会を見学に来ているわけではないのだ。
「それもそうですね」
 ふむふむ、と俺とまったく似ていないおかげで可愛いと評判の瞳をぱちくりさせて、いそいそと芋に戻る。ややひそめた声で、「なに、りん(りんふ)ちゃんのお兄さん?」などとお友だちから訊かれている。ああ、俺が去ったらこいつら俺の噂話でくすくすしやがるんだろうな。JSのガールズトークほど怖いものはない。やつら、というかこいつらは正直だからな。「全然似てないね」――早くも洩れ聞こえた声が俺の心を痛ぶってくる。その「よかったね」って顔やめてくれないか?
「うんうん、あまいあまい、おいしぃ~~~っ!」
 周りの友人たちはちらちらと俺の姿を見ているのに、一人で芋を堪能している妹は相変わらずマイペースだ。さっきから「あまい」と連呼しているが、それは石焼きのせいもあるだろう。その焼き方だとアミラーゼなる酵素がデンプンを麦芽糖へと変化するから……
「なにそれ、わかんないですよぉ~~!」
 どんぐりの代わりに鳴門金時をその小さな頬袋に目いっぱい詰め込んで訴えてくる妹。おっと、知らず口にだしていたようだ。
「――っていうか、アニキ、独りでなにをやっているのですか?」
 おい、そんな質問をするものじゃないぞ。ほら、お前の友だちが「もしかして友だちがいない人?」みたいな顔で見てるじゃないか。……いや、そんなことより――
「そうだった! 森だ森っ!!」
 突如として妹を押しのけ、小さな頭たちに決然と挑んでいく。なんとか数メートル進んだとき、背後から読みどおりの話が始まっていた。
「あの人、森になにしに行くんだろ?」
 なんだろうな、その距離感。ま、反抗期をまだ迎えていない妹のことだから、それなりの応答をしてくれるだろう。
「それは勿論、お芋を採りに行くのですよっ!!」
 突き刺さってくる視線。なんだか体育館を脱出したときより痛い気がした。
 この制服が作業着に見えるか? 緑とは言わず翠色とお洒落を気取って学校パンフには紹介されているのだがな。まあ、とまれ、なんだ……。
 帰ったら妹にまず、「森」と「畑」の違いを教えてやることとしよう。


 C棟に入ったときには、当然のごとく森の姿は見当たらなかった。ゆえに仮面少女の姿も。
 こちらの棟は一般客の立ち入りが禁止されているため、急にいままでのお祭り感が薄らいでいった。別に明かりが消えているというわけではないのだが、光度が格段に落ちたようなうら寂しさが漂っている。清閑な空気のなかで俺は耳を澄ましながら、森や仮面少女の行方を追っていると、
「きゃぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
 誰でも一度は経験があるだろう心臓が収縮して跳ねるような感覚が貫いた。たいていは驚き損みたいなもので、畢竟、寿命だけが縮まってしまった気がして虚しくなるのだが、いまの段階ではまだ定型が妥当するのか断定できなかった。とにもかくにも、拍子抜けするような事態であってほしいのは山々だったが……。
 とりあえず、聞こえてきた方角はわかっていた。真っ直ぐこの廊下の奥からだ。俺は進み始める。1階のこのフロアには文化系の部室が並んでいた。それこそ、文芸部、漫研、茶道、囲碁……。とうとうここまでやってきた。一番突き当たり。いままでの羅列から異質と言っていいプレートがその引き戸にはかかっていた。すなわち、
 ――『ワンダーフォーゲル部』。
 なにを隠そう、俺が所属する部活だ。ゆえにここに来たのも初めてではない。私立でもない公立に、こんな部活があるのは珍しいのじゃないだろうか。まあ、はたしてノリでつくってしまったものに違いないが、今年の新入部員がゼロなら廃部というお定まりだった。
 しかし、俺たちの仲よし(?)グループ四人と、それに付随して(女神やら王子やらがいるからな)六人の男女が加わったことにより、こんな校舎の隅っことは言っても一応は存在を許されていたのだ。
 これまでと違って人の気配がした。中に誰かいる。いそうなやつの心当たりがあった。文化祭とは言っても、誰もが手放しで青春を謳歌するかというと、そうでもない。俺も駿河たちに無理矢理引っ張り回されているようなものだしな。でなければ、部室でくすぶっているのも悪くないだろう。きっとあの毎日のように髪型を変えるギャルグループが溜まっているのだ。言われてみれば、さっきの悲鳴はうらぎ(うらぎみ)(チャラい三人組のリーダー)のものだったような気もする。
 突として扉を開くと、はたせるかな、そこには巻き巻きなウィッグをつけてポニテにしているでかい頭が見えた。しかし様子がおかしい。裏木杏はいつものうかれ姫のようなオーラを押し殺すように腕で自身の胸許を覆っていた。近くで寄り添っていたグループのぽっちゃりした片割れがつと顔を上げ、拍子に俺と目が合ったが、無愛想にがっかりした顔を見せて、また心配げな顔を裏木に向け始める。
 なんなんだ、これは……。
 ワンゲル部の部室はさして広くはない。普通教室の約半分といったところか。十分じゃないか、と思うかもしれないが、壁際に置かれたロッカーや、活動に必要なテントなんかが幅を利かせているので実際は狭く感じる。真正面には窓があり、開いていた。風が緩やかに吹き込んでいる。レールにかけられたワンゲル部公式Tシャツ(部活自体と同じくノリでつくってしまった「渡り鳥」がプリントされた水色のものだ。活動のときには決まって着させられるので正直恥ずかしいうえに面倒くさい)がゆらゆらと靡いていた。
 途方に暮れて視線を動かすと、
「……お」
 捜していたやつがいた。すぐに訊いてみる。
「どうだ? 仮面少女の素顔は拝めたのか?」
 森はいつになく真面目な顔で裏木のほうに目をやっていたが、
「……いいや」
 と静やかにかぶりを振った。
 ……ん? らしくないな。機を逸したならもっと悔しがっていてもおかしくはないのだが。
 俺は改めて周囲に目を配る。と、ここでギャルたち三人と森以外にも人間がいることに気づいた。俺が言うのもなんだが、まるで空気のような希薄な存在感で三人の人間がロッカーの隅に隠れるように存在していた。
 そのなかでとくにうっそりと立っている男が平常の猜疑心の塊のような目でどこを見るともなく見ていた。マッシュルームカットに色白の肌がいかにも貧弱そうで、とても〝ワンゲル〟には似つかわしくない風体だったが、まあこいつがいるのもまた駿河や出辺が目当てといったところだ。
 ワンゲル部は定員が決まっていて、十人しか入れない。ギャルどもも駿河たちのファンらしく、俺たちが入るや名乗りを上げたのだが、そんな連中も早いもの勝ちで、オタク系のきのこ頭・さるとかんじ(さるとかんじ員)を筆頭とする空気感に溢れた陰鬱な男子グループで打ち止めとなったのだ。俺としてはどんなやつが入ろうと駿河たちがいる限り面倒くさい活動であることになんの変わりもなかったので、とりわけ関心の置く事項ではなかったが。ギャルたちが露骨に嫌な顔をしていたのが印象的だった。ただ、たいていみよがしにデジタル一眼レフカメラを掛けている申戸にしてみても、別にお前らを撮りたくて入ったわけじゃない、というのが本音だろう。……そういえばいまはこいつの胸にあの重そうなカメラが据えられてはいなかった。
 いつまでも申戸たちを見ていてもあまりに色気がなさすぎるので、まあ、一応は女だということで裏木たちのほうへ視線を戻す。
 と、にわかに強風がカーテンを煽りながら侵入してきた。拍子に、
「きゃっ」
 その攻撃的な顔に似合わない可愛らしい悲鳴を上げたのは裏木。悪戯な風の舌先が彼女の短いスカートを捲り上げる。
 俺は目を見張った。感じるはずのないまさしく〝色気〟がそこから迸っていたからだ。
 肉感的な太腿が顕になってくる。どんどん際どいラインへと上昇し――
「!?」
 俺は異変を察知する。それは僥倖と言うにはあまりに刺激的な埒外の事件だった。
 そう、そこにあるはずのものがなかったのだ。ぷりん、としたどんなプリンよりもぷりんなお尻が俺を衝天させ昇天させる。それはどこまでも太腿のこんがり焼けた色とは隔絶された生白い肌色だった。
「キャァ――――ッッ!!」
 いままでで最大の金切り声がこのちいさな部屋を揺らした。
 なぜだ!? 
 俺は激甚とした疑問のうねりを感じていた。なぜ、こいつはパンツを履いていない……!?
 視界の端であたふたと影が動くのがわかった。ちらと見れば申戸のやつが目を剥いてしきりに胸の辺りで手を彷徨わせている。やつにとってはシャッターチャンス以外のなにものでもないのだろう。
「あっ!!」
 と、今度は至近距離での大声。森がはたと俺の肩を叩いて示していた。
「な……っ」
 俺もすぐに認識した。
 風の残滓によってまだ大きく揺れるカーテン。その外側に……
「ぱ、パンツだ……!」
 下着ドロを画策しつつも、なかなかターゲットが見つからず、何時間もかかってやっとブツを視界に捉えた変態のような声を発してしまった。
 しかしそれもむべなるかな。そこにははっきりと扇情的にカーテンに寄り添って動くボーダーのパンツがあったのだ。そしてその横には、同じ柄のブラもくっついていた。
 必死にスカートを押さえる裏木の横で柔らかそうなのに硬直していたぽっちゃり女がいち早く窓へと駆け寄り、
「こ、ここにあったじゃん!!」
 そのまま短い腕で懸命にカーテンを手繰り寄せ、パンツとブラを取ろうとする。手伝ってやりたい思いも少なからず芽生えるが、いかんせん物が物だ。ここで名乗りでれば感謝されるどころかたちまち「超きもいんですけど」とか罵倒されることだろう。さてこそ森もなにか行動を起こそうとはしていない。だからこれでいいのだ。(バカ○ンふう)
「ほら、これじゃん!? 杏っ!」
 俺たちの目などさして気にもしていない様子でかめづ(かめづの)(ぽっちゃり)がやっとこさ一本釣りに成功したマグロを掲げるようにセットの下着を突き出して見せた。
「まじか、よかった!!」
 裏木はマスカラたっぷりの目を輝かせ、一気に亀津の手から自分の生々しい下着たちをひったくった。さらに瞬間的に俺たちのほうへ視線を飛ばしてくる。その物言わぬ圧力が強制的に身体を動かさせた。
 団子のように固まって退出を余儀なくされる男ども。その背後から、
「――ってか仮面少女とかいってマジうざいんですけどっ!!」
 憤然とした裏木の声が追ってきていた。


 漫然と廊下に立ち尽くしながら、森の話を聞いたところによると、どうやらこういうことであるらしかった。
 仮面少女のあとを追っていた森は、彼女がわが部室に入っていくのを見た。そして入ったときにはもうすでに少女の姿はなく、例のブラとパンツをかすめ盗られた裏木や申戸たちしかいなかったらしい。なぜ仮面少女が裏木の下着を盗み、かてて加えてそれらを持ち帰ることなく屋外から丸見えのカーテンへ貼りつけていたのかはわからないが。
 森も仮面少女が実行に及ぶのを見ていたわけではないので、俺はなにやら密談に興じている根暗どもに話を振ってみる。
「おい、おまえたちはどう思う? あー……本当に仮面少女がやったってことで間違いないのか?」
 当然の疑問だろう。これまで、彼女が人を困らせるような「窃盗」を働いたことなどなかったからだ。少なくも、生徒に対しては。だからこその生徒たちの英雄視であったのだ。
「……それは間違いない」
 弱そうな顔つきとは対照的に断固として申戸が応えた。
「な?」
 そう横のワンゲル部が聞いて呆れる、亀津とお似合いの肥満体を仰ぎ見る。
「あの鮮やか手際からいって断言できるもす……」
 信頼感のない脂肪にうずまった小さな目をしばたたかせてもんぶ(もんぶの)が頷いた。
「ね?」
 こいつはこいつで、申戸を跨いだその向こうのもやしに同意を求める。もやし、もといまたほり(またほりこ)は、
「そうですね……。たしかに行動としてイレギュラーですが、わたくしもその意見に賛意を示します」
 天井に達するかと思うほど細長すぎる体を微動だにせずにそう口にした。まったく丁寧な言葉遣いが逆に反駁したくさせるのはなぜだろう。だが、俺はここに仮面少女が入ったところさえ見ていないわけだから、異議を申し立てる手を持ち合わせていないのが遺憾このうえない。
 なにかコメントできるとすれば森だが、こいつが仮面少女を追ってここに来た以上、まあ期待はできん。ということで……。
 どうやら仮面少女がやったという結論で決定づけていいようだ。しかし腑に落ちない。体育館であれだけ聴衆を沸かせたあとで、どうして下着を……それも裏木の下着をくすねる必要があったんだ? それに窓の向こうは人どおりは少ないが一応公道だ。そこへ見せびらかすように下着を祀り上げ、わざわざ恥辱を与えるような真似をしなければならなかったのか……。
 あの噂話をするために存在しているような裏木のことだ。それこそ、瞬く間にこの事実は学校中に広まっていくだろう。みなが信じるかどうかはわからないが、それでも仮面少女に対する悪評が立つことは確実だ。なぜかはわからない……わからないが、それがどうにも不本意に思えてならなかった。べつにそれほど仮面少女に思い入れがあるはずではなかったのだが……なんだかいまは肩を持ちたい気分だった。というか、熱烈な信者だったのはこいつだ。なぜもっと騒がない……。
 俺が訝しげに横で黙りこくっている男を見たとき、
「お、来たようだね」
 森は廊下の向こうに視線を預けたまま呟いた。
 見ればワンゲル部の残りの面子である女どもがいて、
「ちょっとなにやってんのよ? いつまで経っても戻ってこないしさ……」
 腕組みをしていかにもご乱心な出辺。そして――
「ずいぶん長いトイレだったな?」
 そう俺が声をかけると、駿河は本当に腹の調子でも悪いのか、どこか気抜けしたような笑顔で、
「……お待たせしたのう」
 いやにリアリティのあるかすれた声を漏らした。
 スラックスのポケットに突っ込んでいた俺の手に触れる紙……。仮面少女から手に入れた「予想問題」が、どうにも異物感をもって指先のじんわりと滲む汗にくたびれていった。


 やはり俺の予感は的中した。
 それも予想外に甚大にだ。無論、悪いほうにだが。
 裏木による風潮は単なる端緒にすぎなかった。それを合図にするかのように、次々と仮面少女による「事件」が積み重なっていったのだ。それは従来の、よくフィクションのなかに登場するようなひょうきんで憎めない怪盗を彷彿とさせる所業ではなく、裏木が被害に遭ったのと同じ系譜といえる度がすぎた悪辣なものだった。
 それこそ本当の意味での「盗み」だ。たとえば、筆記用具やら靴やら、小物の消失事件が相次いだ。それからは鞄、それとともに財布。やがて部活動にも影響を与え、囲碁部から碁盤が、バスケ部からバッシュが、チア部からスターポンポンが、漫研からは漫画たちが(彼らが毎年編纂している文集を除く)、いちばん大きなものではサッカー部がゴール自体を奪われた(試合で慣れているとはいっても、さすがにショックを隠せないようだった)。
 前述したように、仮面少女は予告状などの声明文を残さないことが特徴だ。だからそれらをすべて仮面少女によるものだと十把一絡げにすることに懐疑的なものもざっと見てもかなりいた。が、拍車をかけるように目撃情報が相次ぎ(例のスマイル仮面とマントだ)、ここ最近ではすっかり〝悪者〟として仮面少女は認知されるようになっていた。
 どこのクラスも部活も被害に遭っている一方で、ワンゲル部だけは裏木のブラとパンツをもってよし、としてくれたのか、天幕などの装備品がなくなることはなかった。あの余計な一体感を生み出してしまう、ワンゲル部公式Tシャツなら、いくらでも持っていってくれて構わなかったのだが……。

 そんな行き場のない憂いを抱えながら、しかし俺の身体は自動的に目的地へと運ばれていた。俺たちの高校と同じ市内にある地元では有名な兵士岳と呼ばれる、まあアウトドアにはもってこいの山だった。標高約1500メートル。そこのピーク(山頂)を獲ることが十月の文化祭あと、三連休を駆使した俺たち「ワンゲル部」の活動内容であったのだ。
 気乗りしないのは言うまでもなかったが、通例のように朝の三時に叩き起こされ(電話&チャイム)、俺はいまこうして他の連中とともにバスに揺られ、揺られているというわけだ。
 とくに寝起きが悪いほうというわけではないが、いつも朝ぎりぎりまで寝ているやつなら三時という時間はまだ夜だ。平均的なやつなら誰でも眠い。そしてろくに準備もしないで寝てしまったために(てっきり今日が活動日だと忘れていた)、寝起きで実にいらいらさせられながら、やれコッフェル(小型の鍋と皿がセットになったものだ)だ、やれストーブだ、やれ雨具だシュラフ(寝袋)だ、と追い立てられ、余裕のかけらもないザックはこれ以上ないほど重く、日頃、たらたらと歩荷練をやっているように見せかけていたことの報いなのか、背負っているだけで疲労困憊だった。
 もうずっとバスに揺られていたい。そして気づいたら自宅前だったらもう言うことはない。
 窓の外はもうすでにかなり深い木々で満たされていた。木漏れ日が申し訳程度にちらちらと俺の鬱蒼とした視界を横切っていく。なにを遠慮しているんだ。俺はおまえの燦々とした光をこそ見たいのだから、早くこんな緑の世界など蹴散らして……
「やぁーっと、起きたんじゃな!?」
「おぅっ!」
 脇腹に鋭いエルボーを喰らって俺は息が止まってしまう。望んでいない質の光が網膜で明滅している。
「……な、なんてことするんだ……、おっ」
 しかめた目線の先ではこれこそ太陽と評すべき昂然たる笑顔が花開いていた。
「まったくせっかく久々の活動だというのにキミってお人は……」
 駿河がやれやれ、と年越しを宣言した矢先に寝落ちした子どもを見るような目を眇めてくる。
「どんだけ寝たら気が済むんじゃ? そんなに若いうちから寝てばっかりいたらいかんぜよ?」
 なんだ、俺は怒られているのか?
 少々いらだちながら、
「あれだ……寝る子は育つって言うだろ? なんせ成長期だから」
 と、駿河の向こうでスマフォをいじっていた出辺がつと顔を上げ、
「そうかしら……私の見たところ中学三年の春からぴったり止まっているはずだけど……」
 ……なんという観察眼。たしかにそのとおりだ。
「それに山都を見なさいよ。あなたみたいに授業中寝たりなんか絶対しないのに……」
「はははっ、そうだね。僕は三徹までは余裕でいけちゃうからなぁ~~」
 山都が俺とは反対の窓際から明々と応える。
 なんて忌々しいやつだ。こいつはそれこそ中三の春頃までは俺と同じくらいだったのだが、いまでは十センチぐらいの差ができてしまっている。まだ伸びているというから、とっととワンゲルなんか辞めてバレーでもなんでも始めたらいいんだ。こいつの運動神経なら即レギュラーになれるだろうに。そうしたら、俺は囲碁部で安穏とした日々を送れるはずだ。手土産に碁盤の一つくらいは献上してやる。
「あのぉ~~っ!」
 俺の滾々たる鬱憤が遮られた。
 見やれば、これから相当の登山だというのに今日も盛りヘア全開で、なにやらカチューシャのように三つ網が完成されている女の、これからの崩れ具合が楽しみでもあり怖ろしい顔が背もたれの上に出現していた。これはこれである意味太陽だが、こちらはいかんせんスーパーフレアを起こしている。目が眩んで幸いにも見ていられなくなるが、芋焼酎焼けしたような濃厚でいてしかしかすれた声が降り注いできた。
「よかったら一枚撮ってくれませんかぁ!?」
 裏木が申戸のごついそれとは違う、コンパクトでピンキーな可愛らしいデジカメを掲げて示した。
「おお、いいぜよいいぜよ!」
 駿河が快諾してしまい、なんとなく俺たちはひとところに集まる。思い思いのピースを見せて(俺はしなかったが)、写真ができあがる。
「ありがとうございました!!」
 さすがに崇拝者たるや、礼儀正しいお辞儀を見せて、ほかのぽっちゃり(亀津)と幽霊(佐賀)とともに背もたれの陰へと消えていった。
 零れ聞こえてくるきゃぴきゃぴした声。
「やった、一枚ゲット!」
「よかったじゃん、まじいいじゃん」
「よく写ってるし、よく盛れてるし」
 まるでアイドルだ。だが、明らかにレンズの向きが俺をフレームに収めていなかったが。
 その後はCL(「チーフ・リーダー」。ワンゲルパーティのなかで一番偉いやつ)を務める出辺が練った地図を見つつ時間は過ぎていった。少し離れたところにいる申戸ら小松菜しか食べなそうな草食系たちは顔を寄せ合ってなにごとかひそひそ囁き合っている。興味を惹かれたが、どうせあの声優が可愛いとかいやいやこの娘だとか、声豚丸出しの会話に興じているに違いない。そんなことを思っていると、俺は再び睡魔の渦に巻き込まれた。出辺のくだくだしいご教授がいい睡眠薬だ……。


 次に目を覚ましたのは、もう目的地に到着してからだった。
 色づき始めた紅葉の淡い景色が俺に情感というものを呼び起こさせた。『兵士岳入口』と書かれた看板の前で入山写真らしきものを撮り、延々と続く木道へと足を滑らせる。どことなく硫黄の香りがする。この先の麓に言わずと知れた温泉地があり、たいていはそこを目当てにこの道を歩いていく。俺たちの前にも後ろにも、ぽつぽつと人の姿があり、まあみなその温泉に浸かろうと目論む観光者だろう。
 ちなみに、俺はその温泉に入ったことはない。地元民だからといって、地元の観光名所に精通しているかというと、案外そうでもないものだ。東京人がわざわざ東京タワーに行かないのと同じように。いまはスカイツリーのほうが名所としては上かもしれないが、それならなおのこと「観光」としての場所と言えるのではなかろうか。とまれ、俺は別にタワーにもツリーにも行きたくはない。人ごみが苦手だし、そもそも休日は家でのんべんだらりとしていたいからだ。平均的な人間なら誰しも休みはゆっくりしていたいだろう?
 だからわざわざ「登山」をしに休日を「浪費」するなど俺からしてみれば愚の骨頂以外のなにものでもない。身体を休めるのが「休日」の意義として相応しいのに、なぜ日常より過酷な目に遭わなければならんのか。たしかにピークで見る景色というものは壮観だが、別に肉眼で見るということにこだわりはない。いまは「Google マップ」もあることだし、菓子でもつまみながら、世界中どこでも行きたいところに行き、見たい景色を見ればそれだけで俺は満足できるのだ。
 だが、つき合いとはいえ、来てしまったからには仕方がない。もういまさらいくら家での安寧を思い描いたところで、俺の運命は決まっているのだから。それなら、せめてこの状況を楽しむ方向へシフトチェンジしたほうが、よっぽど建設的だというものだ。
 俺は思いきり空気を吸い込んでみることにした。
「……ふぅ」
 うむ。いい空気だ。
 空気がうまい、という感覚はけっして悪くない。ま、家でメロンソーダでも飲んでいたほうが……いやいや、空気が最高だ。「うまい」空気を肺に沁みわたらせつつ、深く背を反らせる。
「――おぅっ!?」
 急激に重みを増すザック。傲然たる負荷に俺は無様に両手を宙で彷徨わせる。と、唐突に軽くなり、前につんのめりながら振り仰ぐと、
「だはははははっ!!」
 腹を抱えて笑っている駿河だ。
「お、お前なんてことっ!」
 背骨の弱いやつだったらあっという間にデポ(物資や人を途中で置いていくこと)決定だぞ! 俺があくまで平均的な骨の強度を有していたからいいものの……!
「すんごい顔じゃね! だはははっ!」
 いまだ笑っているこの女を憤激の余勢を駆って湿原に突き落としてやりたい衝動が襲う。
「まあまあ、そう怒らないで」
 あきらかなる小気味よさそうな笑みを顔面に広げた森が、
「似合わないことをすると、とかく痛い目をみるって相場は決まっているものだろ?」
 それを言うなら俺がここにいる時点で似合ってなどいないのだ。脚の太い女のニーソと同じくらいには。
「ちょっとふざけてないでっ!」
 叱咤の声は無論、出辺だ。
「一瞬の油断が死を招くのよ。自然を舐めたらいけないっていつも言ってるでしょ?」
 ちょっとそのできの悪い息子を叱るような調子やめてもらえませんか。というかなぜ俺の顔しか見ていない。おい、駿河、「おーこらーれたぁ~~」みたいな顔してんじゃねぇ。
「わかったの?」
 詰め寄ってくる出辺。普段から厳格なやつだが、いまは軽く五割増しだ。CLとしての責任のようなものが彼女をそうさせてしまうのだろうか。まあ、なんであれ、こうなっては俺にできることは一つしかない。
「……ごめんなさい」
「……よし」
 高校生にもなってエロに興味ないみたいなクールキャラを貫徹している男子並みにむっつりと頷き、わがパーティの女隊長はようやくその剣呑な瞳を俺から外しくれた。再び始まる縦走。おいそこ、なにをくすくす笑っていやがる。ていうかギャルどもとオタクども、カメラを向ける先が間違っているぞ。風景を撮れ、風景を。
 俺は捌け口の見つからない怒りを携えながら、もう怒られないように、生真面目な歩調で進み始めた。
 ああ、俺はこれから、なにを糧に頂上を目指せばいいのだろうか……?


 長い木道を歩ききり、もう充分な達成感を覚え、あとはバスに乗って家に帰って寝落ちできたらどれほど幸せだろうか、とまた後ろ向きな妄想に捕らわれたとき、俺たちはやや陽の翳った木立のなかにいた。とうとう麓にご到着というわけだ。
 ここにはコテージ(通常の神経を持つものが泊まる場所だ)の集まった場所と、テン場(テントが建てられるようにわざわざ角形の敷き木で区分けされていた。これはありがたい。テントを張った経験のあるものならわかると思うが、地面が平らなことほど喜ばしいことはない)が分かれていた。すべからく俺の浅はかな望みなどあくたほども抵抗を見せることなく一蹴され、どうせまた撤収するのにめんどくさいだけの設営に執りかからねばならなかった。6テン(六人用テント)を男女別れて一つずつ張る。最初の頃は森に笑われてばかりだったが、いまではこなれたものだった。中に入るや横たわる。男五人が入ると居心地も見目もよいとは言えなかったが、俺にとってはつかの間の休息でもある。
「なんだ、もう疲れたのかな?」
 呆れたように声をかけてくる森。俺はそっけなく手を振って、
「当たり前だろ。あんな馬鹿みたいに長い道、ムービングウォークでも併設されてなけりゃ、『観光』とは言えないんだよ」
 俺がいい証拠だ。歩くので精一杯で、景色などろくに頭に残っていない。道幅が狭いから、後から来る人に嫌な顔をされないためにも、のんびり自分のペースで、というわけにはいかない。それよりなにより、あの怖いCLさまがおわすのだから、まあ、人がこようがこまいが関係ない。
「こんなところで息切れしていたんじゃ、先が思いやられるね。一応言っておくけど、瞬をおぶるのだけは勘弁だよ。なんの躊躇いもなく、熊が水を飲みに来そうな川沿いにデポしていくからね」
 なんて薄情なやつだ。
「いや、体力の問題さ。瞬を救うために共倒れになるより、一人犠牲にしてみんな助かるほうがいいだろう?」
 ほう。俺の尊い命を熊にくれてやってでも、お前の体力温存が大事ってわけか。
「まぁね」
 おどけたように肩をすくめやがる。そして思いついたように、
「でもさ、それは僕の体力では、って話だよ」
「お前の?」
 森は分度器をあてがったら、ちょうど重なりそうな絶妙な曲線をその瞳で描きつつ、
「ああ、真奈だったら、きっとなにも顧みずに瞬を担いでいってくれるだろうさ。それこそ、自分の命を犠牲にしてでも」
 言われた途端、厭らしいほどに明瞭にその光景が幻視できてしまい、俺は苦笑した。
「……そうなるくらいだったら、熊の腹に収まったほうが楽かもしれない」
 女におんぶされて助けられた男ってあきらかに平均以下なような……。しかし森は嘲笑するようにかぶりを振り、
「瞬の意思なんて関係ないよ。わかるだろ? 瞬がどんなに嫌がったところで……」
 そうだ、わかってるさ、みなまで言うな。
 うんうん、と腕組みして笑っている森を見ながら、俺は無性に腹が立っていた。……こいつめ、だんだん俺の焚きつけ方を憶えてきやがった。乗るのは癪だが、駿河の世話になるのだけはまっぴらだと、なにやら滾る感情が湧き上がってきているのは事実だったのだ。
 もうこれ以上なにを言っても森を負かすのは無理だろう。俺は緩やかに視線を反転させる。テントの隅でじめじめと苔のように蒸している男が三人……いまも爆弾のつくり方を議論しているような危ない顔で密談を交わしていた。
「おい」
 面白いほどびくっ、と背筋を緊張させて振り向く申戸ら普通の女子(とくにギャル系、裏木ら筆頭)だったなら視界にも入れたくない、と思うようなキモオタを象った男たち。
「なんだ……?」
 申戸が洞の奥の黒曜石のような目で俺を見る。
「お前らは大丈夫なのか? リタイアするならいまが一番いいと思うぞ」
 それにお前らの目的は充分果たしただろうし。密かに何枚もそれとなく、というかあからさまに駿河や出辺を撮っていたことを知っているぞ。あとで「山ガール萌え~~ブヒブヒ」とかパソコンの前でやるんだろ? それならもう申し分ないほど素材はゲットしたじゃないか。前回みたいにそれこそわけのわからん場所でビバーク(本来のテン場じゃないところで緊急にテントを張ること)することになってデポされるのはまっぴらだろう? 悪いことは言わん、撮った画像を俺に横流しすることを了承するなら、俺がそれとなく駿河や出辺に口添えしてやってもいいぞ。
 しかしこのオタクきのこはきっぱりと俺の好意を無下にし、
「いや、けっこうだ。……ボクの〝ニコりん〟がもっと撮りたいと訴えている……」
 そう胸許のカメラを愛おしそうに撫でつけながら応えた。……おお、なんとも……。見てはいけない、聞いてはいけないものに触れてしまった気がする。早くも水を向けてしまった自責の念が迫ってくるのを感じていると、
「ぼくも『けっこう』もす……」
 確実に申戸の言い回しを真似た、聞いただけで愚鈍とわかる声が追い討ちをかけてきた。
「ぼくの〝ペンちん〟もまだまだ欲求を溢れさせているもす」
 お前のその百円でもお釣りがきそうな坊主頭からもオーバーヒートな汗が溢れているぞ。というか、お前が同じテントにいるだけで軽く体感で二度は上昇するんだが……。まあ、そうやって隅で縮こまっていてくれるならそう目くじらを立てることはないさ。
 そして黙っていればいいのに空気を読んでいるようで読んでいない声が追随してきた。
「わたくしの〝カノのん〟も同様でございます。ここで帰還してしまったら、今日どうやってカノのんに謝罪をしたらいいのか……!」
 急に半べそになってカメラを掻き抱く又堀。その広いでこがさらに面積を広げたように思う。おい、高一でその上昇はかなりやばくないか?
 三人で固まってめそめそとカメラに向かって語りかける様を見ながら、あまりに痛々しくて俺はもうかける言葉が見つからなかった。
「まあ、彼らだって子供じゃないんだ。自分たちの体力くらい自分たちで判断できるさ」
 どこまでも軽い男がひょい、と俺の肩に手を乗せた。
「ね?」
 その調子とは裏腹に、その手は随分と重たく感じた。


「ななな、なんとぉっ!」
 駿河がわざとらしいぐらいの素っ頓狂な声を上げた。
 その目の前には、みよがしの看板――「改築工事のお知らせ ……つきましては、下記の期間を休業とさせて……」。そしてその「下記」とやらに目を走らせると、なるほど、俺たちがここへ舞い戻ってくる日づけとぴったりはまっていた。
 途方に暮れる俺たちの横を、家族連れやらお年を召した仲睦まじい夫婦たちが通り過ぎたり、またその建物から出てきたりしている。「なんか卵くさい~~」とか、「ふぅ~~これであと五年は生きられそうだ……」なんて世代を越えた声が溢れていた。うむ、もうお気づきだろう、ここが俺たちが山行の疲れを癒すはずだった温泉なのだ。
「そんな馬鹿なっ! わしはどこで汗を拭えばいいんじゃろうか!?」
 必死さの伝わらない物言いだが、その顔は真剣そのものだ。
「アタシも楽しみにしてました!……だって真奈さまと南子さまのあられもない姿が……いや、げふんげふんっ」
 あまりにショックだったのか、つい本音を零してしまっている裏木だ。ああ、俺も混浴だったらここで落胆していたのかもしれない。まあ、もしそうなら、申戸たちが風呂のなかまで「ニコりん」らを連れてきてしまうのだろうが……。それでも駿河に木っ端微塵にされて極上の死を迎えられるはずだ。どちらにしても幸せか。
「ああ、僕も楽しみにしていたんだけどな~~」
 耳許で聞こえよがしに森が言ってくる。
「おまえ温泉とか好きだったか?」
 ああ、訊いたのが失敗だったようだ。森はよく見せるからかうような流し目で、
「瞬とまた裸のつき合いができるじゃないか……小学校以来だったのにね」
 語尾に漏れなくハートが幻視できて気味が悪い。おい、裏木たちが冗談にならない顔で見ているぞ。侮蔑の反面、好奇の色がかなり強い。女はBLが好きなやつも多いと聞くが、だからと言って俺と森で変な想像をするのはやめてもらいたい。
「どどど、どうたらいいのじゃろ!? デヴィ~~っ!」
 たまらず助けを求めだすのは当然、駿河。出辺は動転する駿河を抱きとめながら、
「よし、決めた!」
 言葉のとおり決然と言い放つ。
「なにを?」
「いま入りましょう!」
 ……は?
「だって予定組んでんだろ? 急な変更は極力つくらないほうがいいって聞くぜ?」
 俺だって人並みに命は惜しい。押したスケジュールで無理して急いでもロクなことがないというのは、なにも山行に限ったことではないはずだ。
「えっらそーに……」
 ぼそっ、とひそめた声がかすめる。裏木たちが顔を詰めて俺を睨んでいた。なんだ、俺には諫言すら許されないのか?
「アタシたちは南子さまに賛成です! ね?」
 裏木が言うと、下りは歩くより転がったほうが明らかに効率のよさそうな亀津が、ない顎でどういう原理かうまいこと首肯とわかる動きを見せて、
「当たり前じゃん? 反対するやつの気がしれねーじゃん?」
 このデ……、言ってはならない一言を言ってやりそうになるが、この手の女はそういう侮辱にひたすら敏感だと相場は決まっている。それに取っ組み合いになったら勝てる気がしないので、俺は溜飲を懸命に下げた。
「じゃん?」
 今度は文化祭での俺たちのクラス展示で「呪いのビデオ」の主演に抜擢された女が、
「わたしも賛成だし、そのために来たって感じだし……」
 平坦な声で乗っかった。
 じと、と女どもの視線が俺を突き刺す。
 無意識に助けを求めるような視線を送ってしまうが、森の野郎ははたして下手糞な口笛を吹いてやがるだけだった。
 ……ああ、そうだよ、わかっているさ。俺の発言になんの効果もないってことぐらいは。それこそ、彼女に「あの娘はただの友だちだ」って言い訳する男と同じぐらいにはな。
「よぅし、決まりぜよ!!」
 言うが早いか、一目散にテントへと駆け出していく駿河。それからすぐに今後の未来になんの憂いももっていなさそうな声をときめかせて、ギャルくずれたちが追っていく。
「悪いわね」
 本当に思っているのか?
 こいつは優雅に俺から視線をはずし、鼻歌を奏でながら去っていく。……べつに俺だって温泉が嫌いなわけではない。ただ、なんだろうな……。若さとはときに無謀なものであることを俺はよく知っている。客観的に自分が平均にいるかどうかを常に気にしてきた人間だからだ。総じて俺の経験からものを言わせてもらえば、ちょっと慣れてきた事柄にそれ以上の余裕をもって挑むことが一番リスクが高い。それは油断にほかならないと言える。もっとも油断してはならない相手――それはしぜ……
「女子だね」
 気づけば鼻息を感じられるぐらい近くに森の顔が接近していた。
「……ん?」
「だからもっとも警戒すべき相手さ」
 俺は舌を鳴らす。どうやらまたぶつぶつと独りごちていたようだ。
「『自然』はわかるだろ?」
 なにがだ。
「機嫌がさ。ああ、もうすぐ雨が降りそうだな、とかいままさに雷が鳴っている、とか地震で足許が揺れている、とかね」
 だからなにが言いたいんだ。
 森はその女装したら映えそうな、可愛いと形容すべき瞳で俺を照らし、
「つまり自然はその感情がわかりやすいってことさ。ああ、いま怒ってるな、とかいまはずいぶん落ち着いているね、……って具合に」
 ほう。お前は将来、保育士にでもなったらどうだ? ちびっこから好かれそうだぞ。順応性もあることだし。
「へぇ、瞬に僕の職業を推薦されるなんてね。……うん、考えておくよ」
 けらけらと笑って歩き始める。俺はゆるゆるとあとを追い、話を戻すことにする。
「で、なんで女が自然より危ないんだ?」
「機嫌がわからないからだよ、勿論」
 ……わからない?
「そうさ。本当は腹のなかが煮え滾って臓腑が蒸発するくらいむかついてたって、表面じゃ笑って仲よくすることができる。……それこそ、いっしょにお風呂に入ったりね?」
 なにやら意味深長な目でテントに潜り込む駿河たちを見る。なにを話しているのかはわからないが、手を叩いて笑い合っている。どこからどう見ても仲のよいパーティにしか見えないが……?
「それはわからないよ。……ま、瞬も女子の恐さを知るときがきっとくるはずさ」
 おいおい、そんなもの一生知りたくなんかないぞ。いつまでも雷をなによりも怖いと思う俺でいたいんだ。
「はははっ、だろうね。……でも、知っていくことが、大人になるってことだろ? ときには知りたくないことも知ってしまうものなんだよ」
 それなら俺はずっと子どもでいい。知りたいことだけ知って生きていきたい。
「うん、瞬ならそれができるかもね。なんの『欲』もないやつだから」
 言ってくれる。
「でも、難しいと思うよ」
「ふん、自信ありげじゃないか」
 まあ、いつものことだが。
 森は如才ない笑みをぶち撒けて、
「……だって瞬も僕と同じで、〝ピーターパン〟じゃないだろう?」
 一瞬、その瞳から笑いが消えた。背を向けて俺の傍から離れていく。
 ……ああ、たしかにな。お前の背中はどう見ても、もう〝子ども〟には見えない。
 俺は歩みを止めた。そして顔を上向ける。梢から木漏れ日が降り注いでいた。
 大人になんかなりたくない。そう言ったのは本心だが、周りが大人になっていくのに、俺だけが子どものままというわけにはいかない。それでは平均的な男子ではなくなってしまうからだ。
 高校一年、十五歳……。もう「大人」になることが当たり前なのだろうか……?
 しかし俺の心は、顔に触れる陽射しのなかから、ティンカーベルが現れて俺をあの場所へ連れて行ってくれることを願っているようであった。そうだ、俺は永遠の……ロストボーイ……!!
 と、背中にタックルされたようなくぐもった打撃を感じた。
「……いってっ!」
 振り向くと、きのこの妖精……いや、おたくマッシュがカメラを神経質にかばいながら黒々とした目を俺に注いでいた。
「……失礼」
 そう無表情で言い、不気味な男三人が俺を追い抜いていく。
 俺はそいつらの姿を視界に捉えながら思う。……いや、森よ、なにも怖いのは女子ばかりじゃない。ああいう無口で閉鎖的な男も充分に恐怖を与えてくれる。まったくなにを考えているのかなんてわかりはしないからな。
 というか言われてみれば、俺からしたら森だって全然にわかっているとは言えない。むしろわからないことのほうが多い。
 ならば俺の周りには……怖れるべき人間しかいないってことじゃないか?
 再び本物の妖精を求めて日の光に視線を投じると同時、
「ハイパーマジカルクロスチョォォォォップッッ!!」
 妖精の福音とはほど遠い、駿河の峻烈なハイパーマジカルなんたらチョップが俺の首筋に炸裂した。


 古風な板張りの通路を歩いていくと、「千人風呂」の文字が見えてきた。
 男どもでぞろぞろと歩き、戸を開けるとそこは脱衣所だった。ひときわ硫黄の匂いが濃くなっている。ここもずいぶんと昔ながらの様相で、ロッカー、扇風機、体重計など、どれも昭和のシルエットだ。
 俺は手早く脱ぎ、衣服やらなにやらを備えつけの籠に投じる。こんな山奥の温泉だというのに、出入りする客は多い。さぞ「効能」のある湯なのだろう。うちのバスクリンとどれほどの違いがあるのか確かめてやろうじゃないか。ま、さしたる違いはないだろうが。
 勇んで乗り込もうとすると、
「ちょっとなにやってるのかな? 瞬」
 ん? 振り返ると、素っ裸の森が、
「それはなんだよ?」
 あろうことか、こいつは俺のいちばん大事なところをまっすぐに指してきた。無論、そこにはタオルが握られていたが。
「なんだってなんだ」
 一辺倒だが、こういうしかないだろう。
「まったく瞬は……そんなもので隠して逆に恥ずかしくないのか? こんな開放的な温泉なんだ、僕たちも開放していかなきゃ、これから賜る湯に失礼、ってものだろう?」
 べつに俺は実を言うと、というか言わなくても温泉になんか入らなくていいんだ。お前や駿河が無理矢理引っ張ってくるから……。
「……わかったよ」
 俺はタオルを籠に投げ入れた。これ以上なにを言っても無駄なのはわかりきったことだ。ここで時間を浪費するより、とっとと浸かってとっとと出発して目的地に到達できずにビバークしたほうが、まだ有意義だというものだ。
 満足げな森と、そんなに自信がないのだろう、ちゃっかり腰にタオルを巻きつけた申戸らとともに、俺はついに脱衣所の扉を開いた。
「――おおっ!」
 感嘆の声を漏らしてしまったのも無理はない。視界には「千人風呂」の名に恥じぬ巨大な湯船が広がっていたからだ。
「へぇ……なかなかじゃないか」
 森も嬉しそうに呟いている。と、不意にレフ板が上がるような音が耳許でした。まさかと思って見てみると、
「いい素材だ」
 などと言いながら、シャッターを切りまくっている申戸。「ニコりん」を浴槽に投げ捨ててやりたくなるが、いっしょに心中しかねないので堪えることにする。申戸のためじゃない、俺だって地元が過疎るよりは潤ってほしいと思うのだ。
「あの彫刻がステキもす」
「わたくしもいまそう感じていたところです……!」
 ぶひぶひ、と鼻を鳴らしながら写真を取りまくる。門部の言うように、浴槽にはいくつかの黒い像が顔を出していた。女性の体を艶かしく描いていて妙に蟲惑的だ。垂れ込める湯気の厚いヴェールがそう感じさせるのかもしれないが。
「……まあいい」
 俺はもう放っておくことにして、硫黄の香りの源へと向かう。と、
「ちょっと待った」
 なんだ、またおまえ……
「かけ湯をしなきゃいけないだろ?」
 ほう、そういえばそれがマナーなんだったな。
 見れば「冷湯」と書かれた冷たいんだか熱いんだかわからない看板があった。とりあえずその壷から溢れ出る湯をかける。たしかな「湯」だった。温かい。
「……よぅし」
 俺は毅然と湯に足を突っ込んだ。……うむ。熱い。これは沁みるぜ。
 ふぅ……と、一息つく。すると横で盛大に水を撥ねさせているやつがいた。さては腕白なクソガキだな。風呂はプールじゃないんだ。それぐらいちゃんとしつけやがれ、と途方もない怒りを覚えたその瞬間、
「だっはっはぁ! 気持ちいいぜよぉ――――ッ!!」
 俺の顔面に湯を浴びせながら、水中から人が躍り出た。靄がかかっている……かかっているが、その陰影と声が俺にただひとつの解を主張していた。
 靄から湯を揺らしながら影が近づいてくる。――だめだ、それ以上は……!
「あ」
「……あ」
 互いにぽかん、と見つめ合う俺と駿河。と、その背後から、次々と現れ出てくるオープンな女体たち。
「き、貴様……っ!!」
 スレンダー極まれる出辺が、せっかく相手に倒されてPKを獲れたと思ったのにレッドカードを突きつけられたストライカーのような顔で、
「なぜおまえがここにいるっ!!」
 必死に体を隠しながら叫んでいる。
 そんなことを訊かれても俺にもわからん。
「へへへ、変態だ! おまわりっ、早くこいつらを捕まえやがれ!!」
「やばいじゃん、ここまでとは思わないじゃん!?」
「ありえないし、でも男ってこういう生き物かもしれないし……」
 ギャル三人衆もべつに見やしないのに(と言いつつ見ているが)必死に湯船の中へ身を隠す。と、
「いやぁ~~、ここは〝混浴〟だからねぇ~~、くわばらくわばら」
 とか言いつつ、エプロンみたいな湯浴み着をちゃっかり纏ったおばさまが聞こえよがしにのたまい悠々と過ぎ去っていく。
「はははっ!」
性懲りもない笑顔で現れたのは勿論この男。
「眼鏡王子さままでっ!?」
 裏木たちがさらに後退する。
「〝改修工事〟の余波かな? 大事な看板が撤去されていたみたいだね。まあ、地元民には周知の事実だったようだけど……」
 おい、その顔はさてはおまえ知っていたな……!?
「ハプニングエロ到来っ!!」
 遠くからブヒブヒ言う声が聞こえてくる。ついでに連写の音も。おい、それはさすがにまずいだろ。
「てめぇら、なにしとんじゃぁぁぁぁぁいっ!!」
 湯から跳び出して申戸たちを追討しにいく駿河。ああ、よかった。おまえが一番なにしでかすかわからなかったからな。そっちをターゲットにしてくれたならば幸いだ。俺がすっかり安堵していると、
「私の裸を見た罪は重いわよ……」
 頭頂部を強靭な握力でホールドされる。震えながら仰のくと、
「〝外患誘致罪〟と同レベルにね!!」
 そりゃつまり問答無用で……
「ぐぉっ!?」
 気づけば俺の頭は、浴槽の底にぴったり張りついていた。効能のある湯が、それこそ体の芯まで流れ込んでいったのだ。


 一命を取りとめた俺は、温泉に併設された蕎麦屋で腹ごしらえをすることとした。本来は予定地でカレーを自炊するはずだったのだが、これも計画変更の一環だ。
 鰯だしの卵そばはなかなかに俺好みだった。溺死しかけた胃に優しく沁み渡ってくれる。隣の卓では女子どもがなにやら興奮気味で話している。まだ怒っていやがるのかと耳を傾けてみると、どうやらべつの話題で憤っているらしかった。
「本当に見たの?」
「え、ええ、見ました」
 出辺の不審げな問いに、裏木が戸惑いながらも頷いている。
「こんな山奥にぃ? ありえんじゃろ、それは……」
 駿河がきっぱりとかぶりを振るが、
「あ、うちも見たんじゃん、……あんたもね?」
「そうだし……わたしも見たし……」
 なにを「見た」と言うのだ。俺は蕎麦をすすりながらもさらに耳を澄ます。と、ふと「仮面少女」のフレーズが聞こえてきた。まさか――
「なんだ、なにか『盗まれた』のか?」
 そう訊くと、神妙な顔の裏木がひそめた声で、
「そうだけど……」
 認めるが、なにか煮え切らない様子だ。すると駿河がはっきりと、
「ブラをやられたんじゃ」
「なに?」
 うなだれている裏木。どうやら嘘ではないらしい。しかしなぜだ。仮面少女はそんなに裏木のブラにご執心なのか?
「アタシだけとは誰も言ってないけど」
 険のある口調で裏木が睨めつけてくる。
「ほかに誰がやられたんだ?」
 次々に手が挙がる。
「みんなブラを?」
 いくら俺でもこう単刀直入には訊けない。勿論森だ。
「そうよ……山都じゃないわよね?」
「まさか! だって僕はしかと南子たちの裸を見ていたじゃないか!」
「声がでかい!!」
 いっそうでかい声で南子にどつかれる山都。ざまあみろ、と俺は悦に入ってふんぞり返る森を見つめる。そして質問を再開した。
「……ってことは一人残らずやられたってことだな?」
 みな無言で頷いた。
「ほかの客は?」
「あたしたちだけだったみたいじゃな……」
「ん?」
 と、ここで俺は違和感に気づいた。つと口にする。
「亀津も盗まれたのか?」
 同時に、
「どういう意味じゃん!? 喧嘩売ってんじゃん!?」
 のこった、の掛け声がかかった関取のような形相で迫ってくる亀津。俺がつっぱりの危険を感じた瞬間、
「いやー、瞬が亀津さんのことを『好き』だったとは知らなかったなぁ!」
 森の清々しいほどに透きとおった声が響き渡った。
 微妙な表情を浮かべて後ずさっていく亀津は、
「なんじゃん、キモいじゃん……」
 とかなんとか呟いている。
 そして満ちるなんとも言えない居心地の悪い空気。
 俺もどうにか席に座り直すと、森が満足そうに俺の顔を見つめていた。なんだそれ、もうちょっとマシなフォローがあったんじゃないのか? まあ、命を救われたことは感謝だが……。
 やがて駿河が仮面少女の目撃情報を詳細に裏木たちに尋ね始め、俺はどうにか落ち着きを取り戻すことができた。
 しかしこんな山奥にまで俺たちを追ってくるとはな。
「……仮面少女に相当好かれているのかな?」
 そう森に呟くと、森は意味ありげに大きく肩をすくめて返した。いそいそと残りの蕎麦を平らげ始める。
 ……ふむ。俺もそれ以上は水を向ける気にはなれず、いつも以上に静かだな、と思いオタクどもに目を向ける。と、やつらは見事に破損したカメラを胸に抱き、いまだにしくしくと泣き続けていた。しかしどこか幸せそうな涙にも見えた。まあ、おまえらの崇拝する「天使」たる駿河に破壊されたのだから、それも無理はないのかもしれない。とりあえず、仮面少女に盗まれるよりはマシだったと言えるだろう。それでも理解できぬ色の涙を流し続ける「キモい」男たちを、俺はなんとはなしに眺め続けた。


 陽が中天よりはやや傾いた頃、俺たちは目的のルートに入っていた。
 緩やかな流れの沢を遡行していく。無論、沢装備で身を固めていたのだが、入渓後まもないうちはやはり慣れずに難儀した。廊下状になっている部分を避けつつも、少しずつ前進していく。天気が崩れることがなかったのは幸運だった。霧もなく見晴らしがいい。水のせせらぎを聞いているだけでも、心地よくなってくる。
 沢を踏破すると河原になり、だいぶ歩きやすくなった。会話する余裕も生まれてくる。
「あれだけ人だらけだったのに、いまはずいぶんと寂しくなったね」
 森が擦り寄ってきてしみじみと言った。
「それはそうだろう……。なにもわざわざこんな山の中に入っていこうなんてのは世捨人くらいのものさ」
 少なくとも平均的な人間のすることではないだろう。
「そうかな? 僕はこれぞ青春!――って感じがしてるんだけど」
 ほう。青春とはずいぶんと辛く厳しいものだな。俺の膝はもう必要以上に冷たい水のおかげで鉛をつけているようだ。
「青春ならもっと楽に体験したいものだ。なにも俺たちは『山岳部』というわけじゃないんだからな。もっと〝ハイキング〟程度に済ませても罰はあたらないんじゃないか?」
「まったくわかってないね」
 なにがだ。
「〝青春〟がだよ。たの(たの春)しいという漢字はらく(らくい)とも読むけど、『楽しい』と『楽』はイコールじゃない。辛いことも楽しいと思うことが肝要なのさ。人生を謳歌するうえではね」
「俺はそんなにマゾヒスティックには物事を考えられそうにないな」
 それは間違いない。なにしろ俺にとっては「楽」=「楽しい」にほかならないからだ。「楽しい」ことっていうのは、ある種、「逃避」の側面があるとは思わないか? たとえば試験前なんかは当然、勉強しなくちゃいけない。だが、そんなときこそTVを観たくなったり漫画を読みたくなったりする。それはあくまでしなくちゃいけないことからの「逃避」に違いなく、しかし、というかそれだからこそ、「楽」で「楽しい」のだ。
 それはなにもべつに試験前に限ったことではないのかもしれない。誰でもそうだろうが、高校生なら少しでも「いい大学」にいきたいと思うものだ。それこそ、日東駒専よりもMARCH、MARCHよりも早慶、早慶よりも東大、といった具合に。それならやらなければいけないことは常にあるということになる。それすなわち勉強だ。だから学校から帰って、ゲームや読書をすることが「楽しい」かもしれないが、同時にその時間を勉強にあてることこそ、しなければいけないことと言える。
 勉強以外の楽しいことをやることは、その時間分、やらなければいけないことから逃げているのと同義であり、だからこそ「楽」だと感じ、「楽しい」と感じる。東大にいくようなやつは、そういう「逃避」の時間を極力削ってやらなければいけないことをやっているやつだ。無論、一部の天才を除いては……だが。
 口笛を吹きながら「逃避」を謳歌している森。ちなみにこいつを始め、駿河も出辺もまだ一年だというのに全国模試で百位以内に入っている。俺と大学は別々になることはこの時点で間違いはない。それだけは胸を張って言える。そう考えれば、俺と森がここにいる意味というのはまったくの別物であると断定できる。つまり、森にとってはここに来ていることが「逃避」などではけっしてなく、よく言うところの「息抜き」であったり、自分でそう言ったように「青春」と置換するのがふさわしい。とすれば、「楽」と「楽しい」の分断も森だからこそ妥当するのだ。
 ここまで考えて、俺は理解する。俺にとってのいまは「青春」ではなく、それこそ「そんなことやってる暇があったらとっとと家に帰って勉強しろ!」と親や教師にどやされる類のそれ以外のなにものでもないということを。それなのに……
「ああ、辛い、しんどい、全然楽しくない……」
 足が重たい。沢など人間のとおる場所ではない。魚のテリトリー(テリトリー。)だ、ここは。
 これでひとつ証明された。「楽」=「楽しい」はあったとしても、「逃避」=「楽」はないのだと。逃げているのに辛いってどういうことなんだろうな。そうか……これが俗に言う「生き地獄」というやつなのか……! 
 ついに俺が自分のいまの現状を形容するにぴったりの言葉を見つけたとき、
「おっ、滝が出現じゃぞいっ!」
 先頭のほうから駿河の明るすぎる声が響いてきた。おい、なにをそんなに嬉しそうに。滝なんて忌避する対象であって出現を喜ぶようなものではないだろう。
「やっとここまで来たわね」
 出辺がくそまじめ顔で地形図に目を落としている。俺も横から覗いてみる。……うむ。まったくわかりません! 読図のスキルなど皆無だからな。天気図だってろくに読めはしないのにこんなもの読めるわけがない。はぐれたらおしまいだ、となんとなくほかのやつらの頼もしさを感じてしまう。
 滝といっても傾斜の緩いなめ滝だったので、まあ足許にさえ注意していれば大丈夫だった。こんなところでこけるのはよほどどんくさいやつだけだと思った拍子、「わわっ」と後方で慌てふためく声とともに盛大な水が舞い散る。
 見れば門部のやつが団子のように丸くなって申戸らとともにこけていた。よかったな、カメラを持っていたら粉砕していたことだろう。
 それ以降はたいしたハプニングもなく、俺たちの山行は順調だった。しかし――
「おおっ」
 前にでかい滝が現れた。五メートルはあろうかという滝で、傾斜も急だ。ごつごつした岩肌が隆起しているから、登れなくはないだろうが……。
 勇んで進み出たのは駿河。警戒に足をかけ、手をかけ登っていく。まるでこの山に棲みつく猿のようだ。
「さあ、次は瞬の番だね」
 森が声をかけてきた。なぜだ。
「なんだよ、男のくせに巻こうって言うのか?」
 じろり、とみなの視線が集まる。なんなんだ、その団結力は。頭上からの駿河の声がわずらわしい。俺は観念して登ることにした。
 全身濡れそぼりながらも、慎重に少しずつ進み、どうにか直登に成功する。
 よし、今度は高みの見物と洒落こもうじゃないか。
 俺が駿河によるうるさいだけの激励を受けながら威厳たっぷりに下に目をやると、
 ……いない。
 やつらの姿が消えていた。まもなく、
「いやぁ、男らしい登りっぷりだったね! とくに腰つきがたまらなかったよ」
 にやにや顔の森が横の岸から現れ出でた。
「さあらぬふりしてるくせに、けっこう自然が好きなのね。わざわざ直登するなんて……トレ山でもないのに」
 出辺もシニカルな微笑を湛えて森に続く。
 おい、おまえらは俺をからかっていじっているつもりなのかもしれないが、俺はいまひどく傷ついた。それこそ、涙が出るくらいにな。つまりこれは交友関係において一番始末の悪い事態だと言えるだろう。いじめっ子が自分の行為を「いじめ」だと認識していないパターンだ。
「おまえら、そんなに俺をいじめて楽しいのか?」
 すると森と出辺は悪びれるどころか嬉しそうに顔を見合わせ大様に肩をすくめて返した。
 ……本当に始末の悪いやつらだ。
「瞬、キミはずいぶんと僕たちを見くびっているようだね?」
 なんだと?
「そのとおりね」
 出辺も知ったように頷く。森がわざとらしく両手を持ち上げて、
「僕たちがキミをいじめるとしたら、こんな甘い手は使わないさ。もっと瞬を危機に陥れるはずだよ。それこそ、寝ているキミをテントに置き去りにしたりね?」
 森の目が露悪的に輝いた。
 俺は想像し、すぐに恐怖を覚えた。たしかにそんなことになったら俺は……
「私だったら念には念を入れて携帯もコンパスも帰還に必要なものはすべて持ち去ってしまうわね」
 こいつはいじめの才があると見た。いや、人を手の平のうえの箱庭で弄ぶ神のごとき素養が。
「どう? あなたに本当の「いじめ」の意味をわからせてあげましょうか? それとも、いままでどおりいじられるのか……」
 どっちがいい?
 細められた目が不気味に垂れ下がる。これこそがいじめの領域に足を踏み入れたような気がしてならない。それでも俺は、こう応えるしかなかった。
「……思う存分、いじってください」
 イェーイ、とハイタッチを交わす森と出辺。俺の顎先から涙にしては冷たい水滴が点々と落ち続ける。……俺はこれからもこいつらに勝てないのだろうか? そんな鬱憤にも似た思いが胸中を巡ったとき、
「まあまあ、安心せい!」
「……おっ」
 駿河に首をホールドされる。そして耳許でこっそりと、
「キンヤンがいじられていようがいじめられていようが、あたしはキミにつき合うからさ」
 胸にかかった靄が調子よくも軽やかに捌けていく。
「そ、そうか……」
「そうじゃ」
 駿河が俺を放した。俺はザックを背負い直す。水を吸って余計に重くなっていたが、なに、それは俺だけじゃない。横に立つこの女も、同じ重みを感じているはずだ。そして俺は――
「うわっ、ちょっとやめろ、瞬!」
 思いきり森の腕を引っ張って、沢のなかに押し倒してやった。弾け飛ぶ水の噴水。ついで沸き起こる笑い声とともに、
「ちょ、ちょっとなんてことすんのよ、眼鏡王子さまにぃ~~~っ!!」
 幼稚園でお友だちに怪我をさせられて乗り込んできた過保護なママのようにヒステリックな声を上げるギャルども。うるせい、なにが眼鏡王子だ。しかしすぐに水面から顔をだした森の顔は、それこそ王子さまのようにキラキラとした笑顔を発散していた。俺はせいぜい穏やかに言ってやる。
「すまん、ちょっといじってやりたい気分だったんだ」
 森はゆっくりと立ち上がり、
「やっぱりいじられるのって楽しいじゃないか」
 嬉しそうに頭を振って水滴を飛ばす。しかしそんな森の笑顔も長くは続かず、
「眼鏡王子さまぁっ!」
 気味の悪いファルセットな声を張り上げて、いそいそと森の体を取り出したタオルで拭きだす裏木たち。なんとも微妙な森の顔が微笑ましい。
 どうだ? これでわかっただろう? いじることがいじめにつながることだってあるんだよ。……まあ、これでやつの暴走にハーケンを打ったと言うことができるだろう。われながらあっぱれ、というやつだ。
 岸のほうで影が揺れ動く。見れば申戸たちがどこまでも疲弊しきったような顔で膝に手をついていた。滝をよけたらよけたで、かなりの急勾配を遠回りしなければならなかったようだ。やつらにとってみれば、滝を登ったほうがよっぽど楽だったのかもしれない。
 つまりはそうだ……誰もいじめてなんかいなくても、いじめられることだってあるということだ。やつらの苦しみに耐えている顔が、それをなによりも証明している。……というか、あいつらの姿なんか見なくとも、そんなこと最初から嫌というほどわかっていたと言えるんじゃないか?
 なぜなら何度も言っているように、俺がいまこうやってここにいること自体が、もうすでにいじめられていることにほかならないのだから。
 ああ、重い、冷たい……。
 タオルを頬にあてがわれている森を見ながら思う。
 なあ森、やっぱりおまえももうすでにいじめっ子だよ。これからもお互い、いじめ合って生きていこうな。
「さあ、明るいうちにもっと進むわよ」
 出辺のかけ声を受けて、俺たちは再び進行を開始した。
 カヤックでも落ちてやしないか? どうしようもないときこそ、あり得ない望みを抱いてしまうのも無理のないことだ。もしも見つけたら、ダブル・ブレード・パドルを駆使して一気に下っていくんだがな。無論、エスキモー・ロールを繰り返してそれはそれで辛いだろうが。

 だいぶ陽が傾いてきた。
 ほとんど休憩なしで歩いてきたために、俺の足は動かすことに慣れてようやくのってきていたところだった。ただ、もうタイムリミットだ。ヘツ電の光があるといっても、薄暗がりで歩くのは危険も大きい。それにもう行沈は確定だが、ここのところ足場がガレている。なるだけ早くテントを張れそうな場所を特定しなければならない。
 最難関というべきゴルジュ(沢登りでクライマックスとされる場所。流れが強烈なポイントだ)もどうにか一人のリタイアもださずにクリアすると、俺の足がついに悲鳴を上げ始めた。痛い、痛い、帰りたい! と、引きちぎれそうな声で叫んでいる。運悪く予防接種を安くて太い23gの注射針で受けることになった園児のような沈痛な叫びだ。そうだ。もっと楽なルートというのがなにごとにもあるものだ。
 痛いのが嫌ならケチらずに細い針を使っている医院を選ぶべきだし、俺に関して言えばなにも律儀にみなの後をついていかずとも、迂回していけばいいだけの話なのだ。ただ、それは選択の可能性の問題であって、その実、可能性があっても不可能という矛盾は往々にしてある。
「上に立つ者」の選択に抗うことができないものにとっては、いかにそれが愚昧な判断であったとしても、それにつき従わねばならぬ、というわけだ。園児にとってみればそれは「親」であり、あるいは社会人ならそれが「上司」になるのは言うまでもないし、いまの俺にとってみれば、それは出辺たちに違いない。さらに俺にとっての凶事はその矛盾に耐え忍んだところで、なにひとつ得るものがない、ということだ。べつにインフルエンザかなんかのワクチンが投入されるわけではないし、給料をもらったり出世できたりするわけでもない。ただなんとなく綺麗な景色を見られたことがよかったような気がする、それだけだ。
「いやぁ~~、やっぱりいいね、自然ってさ! こんなにも雄大に緑が紅く染まることほど美しいものはないよ!」
 たわけた意見をのたまうのはやはりこの男、名前からして山の好きそうなやつだ。
「ね? 瞬、今日一日家に閉じこもっていたら、けっして見ることのできない景色だったねぇ?」
 たしかに見ることはできなかったが、来たことによって見るはずだったものが見られなかったともいえよう。漫画にしろ小説にしろネトゲにしろDVDにしろ、な。いまの時代、静的な時間のほうが視覚的にも得る情報量が多いものだ。
「……俺にはなにか警報を鳴らしているように見えるがな」
 その太陽の豹変ぶりはまさに血を世界に撒き散らしているかのようだ。むしろ襲いくる陰惨な未来のメタファーだと考えるべきではないだろうか。少なくともいまの疲弊しきった俺には、そんな陽の美しさを純粋に楽しむ余裕などなかった。自然の恩恵なんてどうでもいいから、早く〝レスト〟がほしい。そういう心境だった。
「それはどういうことかな? キミの死亡フラグを自ら立てたってこと?」
 ……警報のことか。もしそうなら、いよいよもって俺がここにきたことが悔やまれるじゃないか。
「そうだな……。俺はここから無事還ることができたら、おまえにどうしても伝えたいことがあるんだ。それは俺がずっとずっと……温めてきた淡い想いなんだ。……受け取ってくれるか?」
 俺が嫌味ったらしく言ってやると、目を爛々と輝かせて笑い始めた森が、
「ああ、絶対にふたりで生還しよう!」
 親指を立てて請け合った。
 ふん。これでおまえも条件は整った。リスクを負うのはもう俺だけではないはずだ。
「さて、瞬と僕、いったいどちらが主人公なんだろうね?」
 そうだな。あとは補正を得たものの勝利と言えるだろう。しかしその点については多少自信があるぞ。おまえは主人公としてはできすぎている。モテて顔がよくて背も高くて運動もできてそのうえ勉強もできるんじゃ、読者からの反感を買うはずだからな。俺ならすべてが平均だから、共感を持ってくれるものも多いだろう。ただ、それには三人称で描いてもらわねばなるまい。一人称なら俺のこのひねくれたモノローグがまるごと筒抜けになってしまうわけだから、逆に〝敵〟として扱われてしまうやもしれない。いや、確実にそうだろう。
 というか考えみれば、そもそも俺なんかを主人公にしようという作者はすべからく気の狂ったやつに違いないのだから、そういうやつはくだくだしい一人称をぶち上げると相場は決まっている。それこそ、戦後の三六〇度な為替相場なみにだ。となれば……
 俺は自分の脳天にフラグがぶっすりと突き刺さっているのを、極めて生々しい感触をもって認識せざるを得なかった。と、
「お、あそこがよさそうじゃな!」
 駿河の花やいだ声が俺を絶望から救い上げる。
 その先には沢の源流たる「つめ」にあたる部分が広がっていて、沿岸は比較的なだらかに開けていた。
「そうね……今日はここでテントを張りましょう」
 出辺の了解も頂いて、俺たちはようやくひと段落つける場所へたどり着くこととなった。途中、天気図のためのレストも入れたから、なかなかのハイペースであることは間違いない。ギャルたちもオタクたちも、すっかり口数が減っている。こいつらのことだ、おそらく明日には率直に「帰りたい」と言いだすことだろう。俺もなにげなくそれに便乗すれば、いかに「お上」がうるさくても〝適切なルート〟が採れるというものだ。圧制から抜け出し、かならずや楽な選択肢を進むことが可能になるはずだ。
 そうだ……俺は明日リタイアする。
 そんな希望を胸に秘めながら、今日のところは森の言う「青春」を供与してもらうことに甘んじたとしても……、まあ、罰はあたらないだろう。

 このときはまだ、そんな短絡的な思いになんらの迷いも抱くことはなかったし、それだからこそ、一寸先の闇などまったくもって予感できようはずはなかったのだ。


 早速、テントの設営に取りかかった。
 鈍色のスチールペグは柄のないナイフといった風情で凶器のようにしか見えない。これでタープを固定していく。早く休みたい心意気も合わさってか、六テンが二つ手際よく張られていった。
 ひと段落つくと、森がザックからなにやら折りたたまれた棒のようなものを取り出した。さして興味もなく見ていると、それが3ピースのロッドだと気づく。やつはこれからプールに飛び込む子どものような顔で渓流へと向かった。まあ、いちおう釣果を期待しておくこととしよう。
 黄昏の空が紫からさらに黒く染まりだした頃、炊けたターメリックライスの上にカレーをかけ、これをメインに俺たちは晩餐に興じた。
「自然のなかで食べるご飯って、なんでこんなにおいしいんじゃろ?」
 心底幸福そうな顔で頬をいっぱいにしながら呟く駿河。
「ですよね! アタシもいっつも不思議です!」
 ようやっと体力も回復してきたらしい裏木がその軽いだけが売りの尻でのっかる。その横では亀津がいろんな意味で筆舌に尽くしがたい形相を曝けだしてコッフェルにかぶりついている。
「カップ麺ですら最高においしく感じるもんね」
 出辺も同意する。つと俺のほうを見てきたので、俺は自分なりの見解をぶち上げてみることにした。
「……あれじゃないか? 〝当たり前〟じゃないからじゃないのか?」
 しばしの沈黙のあと、
「どういうことじゃ?」
 言葉が足りなかったか。
「ほら、本当に自然で生きていくのなら、こんなカレーなんて喰えるものじゃないだろう? せいぜい果物やら猪やら草だ……だからカップ麺なんて異質なものをうまく感じるってわけさ」
 ずいぶん自信たっぷりに言ってしまったが、出辺があっさりと首を傾げやがった。
「そうかしら……私はいま、ものすごくラズベリーが食べたい気分なのに」
「あたしは猪を食べてみたいぜよ!」
 おまえらはそうかもしれんが、普通の人間はだな……。俺が煩悶しかけていると、黙然としていた申戸たちがださなくてもいい声を挟み、
「ボクはセロリがほしいところだ」
「ぼくは骨つきカルビがほしいもす」
「わたくしはほうれん草ですね」
 おい、ひとり変な意見を吐いたやつがいたぞ。ざまあみろ、そのせいで反駁が台無しだ。とはいえ、もとよりおまえたちの意見など求めてはいない。おとなしくカレーで満足していればいいのだ。たしかにこのカレーは最高だからな。こういうシンプルなカレーが一番……
「――って、なにしやがる!?」
 駿河が俺のコッフェルに納豆をだらり、と投入していた。オタクどもに気を取られてすっかり油断していたせいだ。なにかぐるぐると不振な動作をしていたことはわかっていたのに――
「まあまあ、おいしいから試してみるのじゃ!」
 そう言って、駿河は片っ端からカレーに納豆を入れていく。俺以外のみなも微妙な表情だ。断りこそしないが……。
「いやぁ~~、大漁、大漁っ!!」
 ロッドを肩に載せた森が沢から引き揚げてきた。まったくおまえはずっと魚と戯れていればいいものを。……なんて考えはすぐに吹き飛んだ。やつのバケツの中にはイワナやアマゴの姿があったからだ。これでは先刻の主張を自ら退けなければならない。まあ、俺は自身になんらの矜持も持ち合わせてなどいないのだから、それもしごく簡単なことだ。
 経験のあるものはわかると思うが、川魚の塩焼きほどアウトドアにおいて甘美なことはない。
「すごぉい、リモぉっ、最高ぜよぉ~~!」
 納豆カレーなどどこへやら、駿河が激しく手を叩いて喜んでいる。
 慣れた手つきで森はツボ抜き(割り箸などを突っ込んでワタを出す方法だ)を一匹ずつ丁寧にやり、そのまま鉄串を刺して焚き火の許へ据えた。
「もうすっかり暗くなっちゃったね」
 椅子に座るなり振り仰いで森が呟いた。俺もつられて空に目をやる。いくつかの星が顔を現し始めていた。
「明日は早いわよ、大丈夫?」
 出辺が訊いてくる。なんで俺の顔しか見ないんだよ。
「……俺はもともとそんなに身体が〝丈夫〟なほうではないからな。とても『大』丈夫などと即答できる素養は持ち合わせてはいないんだ」
 哀れむような色を帯びる出辺の目。呆れ返ってかける言葉も見つからない、といった雰囲気だ。と、それを代弁するかのように森が口をだしてくる。
「それで瞬はうまいこと言ったつもりなのかもしれないけどね……」
 そうひけらかすような前置きを律儀に添えたあと、
「〝大丈夫〟って言葉は中国が由来なんだよ。もとは『立派な男性』ってことだったかな。そこからありがちな変遷をたどっていまの汎用性を勝ち得たってわけだね。……だからキミの発言は――」
 おそらくは「間違いってことかな」、なんてウインクでもかまして言おうとしたのだろうが、森のやつはここでみよがしに「あれっ?」と眉をひそめて見せた。つぎのコマで確信犯的な笑いを顔面に広げて口を開く――よりも先に、
「どちらにしても同じことじゃ!」
 鬼の首を獲ってドッジボールでも始めようか、というほどの勢いで駿河が、
「キンヤンは『大』がつくほど丈夫でもなければ勿論、『立派な男』でもないのじゃからぁ!!」
 あっちゃぁ~~! と、嬉々として森が額を打ち、
「――ま、そういうことかな」
 たちまち横溢していく笑声。ギャルどもの侮蔑の混じった跳ねるような声が実に耳汚しだ。……ん? オタクども、なにおまえたちまで笑っていやがる。ほかの誰に笑われようとも、おまえたちだけには絶対に――
「ほら、喰うのじゃ!」
 焼きたてのアマゴが眼前に向けられていた。ついその香ばしいほどの焦げ目にわれを忘れてしまう。
「あーん」
 駿河に差し出されるがまま、俺はかじりついた。
「どうかな?」
 森も串を取り上げながら訊いてくる。
「ほふ、ほふっ」
 俺は熱さに喘ぎつつ、
「……ああ、なかなかの『大』魚だよ」
 森は愉快そうに笑った。
「はっはっは! そいつはよかった!」
 ちっともよくないが、こいつは心からそう思っているようだった。俺と同じようにハフハフと魚を踊らせながら味わっている。
「さあ、こっちもいくのんじゃ!」
 調子づいた駿河が、今度は納豆カレーを俺の口に持ってくる。おい、さすがにカレーと魚は……!
「さあ!!」
 有無を言わさぬ押しの強さで俺の口中にカレーが流し込まれた。納豆とカレーと残存するアマゴのハーモニー。いや、そんなものが存在するがわけが……。
「……ん?」
 俺はゆっくりと噛み締めながら、
「……なくは、……ない!!」
「だっはっはっは!!」
 背面跳びのイメトレでも始めたかのように腹を仰け反らせて笑う駿河は、
「そうじゃろそうじゃろ! これで今日からキンヤンも――」
 視界いっぱいに広がるほどその突き立てた親指を近づけてきて、
「『大丈夫(=立派な男)』じゃ!!」
 星空いっぱいにその頼もしい声が轟いた。
 おい駿河、おまえはどんなつもりか知らんがな――
 俺には小馬鹿にしているようにしか聞こえないぞ?
 まあ、だがいまはそれよりも……隣でやかましく「違いない!!」と連呼して爆笑しているこの男にどんな手で復讐してやるか、その策をじっくりと練っておくことが、きっとCIAでもそう認定するに違いないトツプ・プライオリテイ(トツプ・プライオリテイす)だろう。


 俺としてみればどうせ明日、帰途に就く気満々なのだから、べつにあえて早く寝なくても問題はなかったのだが、一人で起きていていまから俺の思考を勘ぐられるのは得策ではない。妙に勘の鋭いやつが俺の周りには多いからな。そこで俺はテントに入るなり、森や申戸らとともにシュラフへと潜り込んでいた。
「明日はきつくなりそうだねぇ……」
 耳許で囁いてくる。照明代わりのヘツ電に森の笑んだ顔が照らしだされた。
「ふん、そんな予想が立っているのなら、もう少し憂慮したらどうだ?」
 さすがのおまえだってリタイアする気になるかもしれんぞ。ま、あり得ないが。
「登山ってのはきつければきついほどいいのさ。それを越えた先にこそ、真の絶景は待っているのだから」
 ほう。やはり俺とは真逆の意見だな。俺はケチらずにどんな高い山でも頂上までロープウェイを延ばしたらいいと考えている。いまの技術なら暴風を考慮しながらでも実現することは可能だろう。登山電車などできたら、きっとなかなか体力に自信のないひとたちもご来光を拝むことができるし、相当の収益が見込めるはずだ。そしてそうなれば森のような考えも弱体化できるに違いない。そう、こいつらは気づくのだ。べつにきつい思いなんかしなくても、美しいものは同様に美しい、とな。
「……ああ、そこまで瞬が愚かだったとは……」
 森が長すぎる溜息をついたあと、
「いまキミは全国の登山愛好家たちの大多数を敵に回したんじゃないかな?」
「構わん。そのぶん、俺はふだん登山など興味のない圧倒的大半の同意を得ることに成功しているはずだ。おまえのようなMがいかに少数派なのか痛感することになるだろう」
 な? 俺のマジョリティよ。
「いや、瞬、キミは本当に平均的な意見を持っていると思っているのか?」
 なにをいまさら。
「そうでなければならないと俺は自分を律しているつもりだがな」
「あまい、実にあまいね」
「どういうことだ? みんなおまえのように苦労して山を登りたがっているとでも?」
 森は静かに首を振り、
「そうじゃないさ。ただキミの立ち位置に齟齬があるって言ってるんだよ。キミはたとえ高山の頂上までロープウェイができたとしても、わざわざ高いお金だしてまで乗ろうとはしないってこと」
「…………」
「行くまでの労力と時間と交通費を引き合いにだしながら、――そこまでして足を伸ばす価値はない。〝それが平均男子なのだ〟。とかなんとか得顔で言うだろう?」
 ふむ。たしかに言われてみればそうかもな……。
「キミが考えている以上に『平均』っていうのは難しいものさ。人の嗜好に鑑みるならなおさらね。登山が好きなのか嫌いなのか、人間はそんな単純な二元論じゃあカテゴライズしきれないんだよ。キミのようにべつに嫌いってわけじゃないけど、行く必要性がないだろ、ってひともいれば、必要性は感じていても、そんなことやってる暇はない、登ってる暇があったら家でゲームする、ってひとだってきっといるはずさ」
 森は黙っている俺を満足そうに横目で撫でながら、
「ロープウェイが頂上まであったなら『富士山』に行きたい、そう思うひとがどれだけいるのかな? 世界遺産になろうと登山がどれだけ楽になろうと、やっぱり行かないひとだって相当いるはずさ。べつに日本から消えてなくなろうが〝どうでもいい〟ってひとだってね?」
 くつくつと笑い始める。おい、いくら俺だってそこまで薄情なやつじゃないぞ。途中まではそのとおりだが。
「……だからキミが僕より平均的な大多数のなかに属しているかというと……そう単純には言いきれないのさ」
 いや、俺は信じたい。これまでずっと「平均」を意識して生きてきたのだ。こいつよりは平均を察知する能力には長けているはずだ。そうだ、こんなときこそ、「目立たず、騒がず、落ち着いて」――。
 しかし森の野郎がさらに、
「ワンゲル部の一員でありながら、一日目の夜にリタイアを決意しているなんて、むしろ圧倒的なマイノリティじゃないのか?」
「ま、マジョリティ!?」
 俺はシュラフのなかで激しく身をよじっていた。
 くぅ……っ、なんて野郎だ、完全に読まれていた……! だがそうか、たしかにこんなヘタレなやつはやばいほど男のなかでも下位に位置する少数派なのかもしれない……。
 俺は……俺は「平均男子」のはずだ。なのに――
「くっはっは、マイノリティだって~~」
 うきうきして眠れないDSみたいにくるくると回っている森。
 そのシュラフに火をつけてやりたくなる。が、着火できるものが手許にない。こんなときに平均的なやつのやることはひとつ。やつあたりだ。
「おい、おまえらも朝一で帰りたいよな?」
 カメラもねーんだからいる意味ないだろ?
 ヘツ電の光のなかへきのこが現れた。
「ボクはまだ続ける。滝に興味があるんだ」
 あいかわらず抑揚のない声で申戸が応えた。おい、そんなに俺をひとりにしたいのか?
「滝ってなんだ」
「……滝は滝だ」
 絞め殺すぞこの野郎。
 申戸の横からまんじゅうがでてきて、
「山のなかに湧きでた秘境らしいもす……そこは美しい水辺になっているそうもす」
 なんだ赤くなりやがって気持ち悪い。紅白まんじゅうだってもうちょっと品のいい色をしているぞ。
「なんだ……おまえらがそんな〝秘境〟なんぞに興味があるとは意外だな」
「心外ですね」
 唐突にもやしが生えてきて、
「わたくしたちが自然そのものに興味を抱くわけがないでしょう」
 わけのわからないことを言いやがる。
「ボクたちが写真を撮るのは自然が好きだからではない」
「そうもす。好きなのはカメラもす。あとは……」
「可愛い女性ですね」
 申戸たちが入れ替わり光に照らされて、あげく不気味な笑い声がテントに満ちる。
「いまおまえたちにカメラはない……」
 つまり……
「そのとおりです」
 もやしの又堀が下劣な笑顔をみせて、
「わたくしのキャッチした情報では、そこでマナマナとナンナンが水浴びをするご予定だとか……」
 だれだ。
「ぐふふ、そうもすそうもす。マナマナたちの水着姿が見られるのなら、ぼくはたとえこの脚が折れようとも……」
 その太い脚が折れるなんて想像もできないな。骨がとおっていたのか?
「門部の言うとおりだ。ボクたちはそのためにいまここにいるのだ」
 奮然と首肯し合うキモすぎる申戸たち。
「それじゃ、寝不足だと網膜への焼きつけが悪くなるから失礼する」
「おやすみもす」
「あなたたちも早めに寝ることをおすすめしますよ」
 次々と闇のなかへ消えていった。
 今夜はせいぜいいい夢を見るのだろう。もちろんマナマナとナンナンがでてくることは絶対だ。
 俺が向き直ると、小声で森が呟いてきた。
 なにが「ね?」だ。猛烈に反発してやりたくなったが、俺は認めざるを得なかった。もはやなにが少数で多数なのか、いまの俺に断ずることはとうてい難しかったからだ。
 俺はシュラフに顔をうずめ、一言、
「おやすみ」
 森が近づいてくる気配がして、
「朝起こしてあげるからね」
 新婚の奥さんみたいな甘い吐息で囁いてくる。
 どうやら俺も山行を続行しなければならないようだ。少なくとも、〝マナマナ〟たちの水浴びを見るまでは……
 ――きゃははははっ!
 あれだけ早く寝なさい、とか偉そうに言っていたくせに、女子どものテントからやかましい声が響いていた。
『あーっ、反則あがりじゃぁ!』
 ひときわうるさい駿河の声。
『はーい、大貧民決定~~~っ!!』
 まったく元気なことだ。そして心配するまでもなく、明日もその活力が維持されるのだから文句のつけようもない。こちらが萎えるばかりだ。
 だがしかし――
 駿河や出辺の水着か……。
 うむ。それなりに見がいがあるかもしれんな。
 俺はこのテントのなかでの多数に入れたちんけな喜びを感じながら、完全にヘツ電の明かりを落とした。
「……僕が寝るよりさきに寝ちゃやだよ?」
 横から森の裏木が聞いたなら卒倒しそうな声がかすめたが、もちろん俺は無視して目を閉じた。
 身体に溜まった疲労がすぐに睡魔へと変容し、俺の意識を一瞬で夢想の世界へと奪い去っていった。

 俺の意識がつと現世へと戻った。
 寝覚めは悪いほうではないが、「起きる」時間より早く起きてしまうということはあまりない。ふだんは携帯のアラームで起こされることがほとんどだ。しかし、いくら疲れていたとはいえ、日常に比して異常に早く眠りに就いたのも事実だった。まぶたの向こうが真っ暗なのもしかたのないことだろう。さて、みなが起きだすまでなにをして時間を潰そうか、そんなことを考えながら、俺は目を開けた。
「……?」
 違和感を覚えた。
 いや、予想外の光景が広がっていた、というわけではない。むしろ予想どおりの闇だった。テントの窓からは月の光さえ射し込んでいない。気象情報では「明日も快晴」ということだったが、雲がでているのだろうか。
 しかし俺がおかしいと感じたのは外側ではなかった。寝静まっているはずの空間に、動的ななにかを感じたからにほかならなかった。
 枕許のヘツ電をまさぐる。スイッチを入れ、俺はそれを上に向けた。無機質なテントの天井が映るはずの視界に――
 笑顔の仮面がいた。
 不気味に口角が吊り上がり、対照的に垂れ下がった目が恐懼を呼び起こさせる。
「……お……っ……!」
 声がでない。でかい声をだして森たちを起こしたいのだが、覚醒した意識とは逆に声が失われていた。
 幽玄な挙措で暗闇にマントを浸透させ、ゆるやかに表情の変わらない顔を近づけてくる。
『――オマエタチヲ、ヌスンデヤル……!』
 鉄の味を感じる声が耳になだれ込んできた。言葉の意味がわからず硬直していると、強い光がサイドから照射された。同時に俺の眼前から捌け、テントの外へと消えていく「仮面少女」――。
「おい、待てよ!!」
 勇敢なる森が出力全開のヘツ電を片手に追いかけていく。冷たい外気が俺の顔を打ちつけた。
「……どうかした?」
 いつのまにか起き上がっていたキューティクルなきのこ頭が光を反射しながら言った。
 俺はいま見たことを反芻しながら、
「か、仮面少女が現れた……」
「本当ですか?」
 やけに冷静な声で申戸の横から質問を繰り返す痩顔の又堀。こちらはこちらで危ない額が神々しい。
「……嘘つく必要はないだろ」
 たとえ今日がエイプリルフールだって、もっと相手を選ぶさ。おまえらに嘘をついて楽しむくらいなら、森をつっついて無性にイラつかせてくれる講釈を聞いていたほうがまだマシだ。
 申戸の光を湛えない黒い瞳が興味深げに周囲に動く。同様に又堀の窪んだアリ地獄のように陰気な目も落ち着きなく揺れていた。
「……どうして仮面少女が?」
「そうですね、なぜでしょうか……」
 ――なぜ。俺は引っかかりを感じた。そうだ、やつが現れたのにはなにか目的があるはずだ。そしてつまるところその目的とは、つねにそうであったように「盗み」であるはずだ。
「ちっくしょぉ、逃げられちゃったよ……!」
 息を切らして森が帰ってきた。寒々とした風が体温を下げる。森はやおらライトを忙しなく回し、
「――それで、なにか盗られてるものはあったかな?」
 俺よりはるかに頭の回転の速い森らしくそう口にした。というか俺が遅すぎるだけか。まあ、はっきり言ってしまえば仮面少女の出現にビビってしまって思考もフリーズしていたのだ。ともあれ、いまはそれが重要だ。
 ……いったいやつはなにを盗んだんだ?
 その瞬間、
「……いない」
 申戸がぽつり、と呟いた。
「は? なにがだ?」
 俺の問いに、マッシュな小男はひそやかに指を差した。
 その先には、大型のシュラフが。
 しかし、その中身が、ごっそりと姿を消失していた。
 ここで俺は、いまだまとわりついていた違和感の残滓の正体を突きとめるにいたった。
「そんな、まさか冗談ですよね……」
 かすかに震える又堀の声が零れた。たしかに冗談のような光景だが……

 門部の巨躯が、忽然となくなっていた。

「……外には?」
 申戸が言葉どおりもぬけの殻な寝床を見つめたまま声を発する。
 視界の端で森は緩やかに首を振り、
「いや、いなかったよ」
 それからひとつ息をついて、どこか諦観したように呟いた。
「……やられたね」
 集中するヘツ電の光に照らされて、真っ黒のシュラフが一点の汚れもない清廉な白に染まっていた。


「ブッチャ――――っっ!!」
 白々とした朝靄に包まれる岸辺、その大きく突き出した岩の上に立って駿河が声を張り上げていた。深く浸透し、響いていく声。しかし、返ってくる声はなかった。
 俺はそうは言ってもまだ安直な可能性を考えてはいた。いや、あの巨漢をそう易々と「盗める」ものではないし、仮面少女による所業ではないのではないか、と。やつなら相当に長い雉を撃ったり、でかすぎる花を摘まなければならないだろうから。が、その目論見はあまかったようだ。
 いくら捜してもブッチャ、いや、門部の姿は発見できなかったのだ。
 そして始末の悪いことに――
「……やばいわよ」
 俺の横で必死に駆け回っている駿河を仰ぎながら出辺が口にする。
「それはやばいだろう」
 平均的な男なら人が一人消えて「べつにふつうだろ」とは答えられんさ。
「彼のことだけじゃないわ。……どうやら私たちは連絡手段を失ったようよ」
「なに?」
 俺は瞬時にテントへと引き返した。
 朝の光の射し込むテントは出たときとは打って変わって明るい。俺はシュラフを抱え上げ、目を凝らした。
 たしかに枕許に置いていたはずの携帯が消えていた。ザックの中もついでに見るが、やはり見つからなかった。背後から、
「私たちのほうもやられてたわ。山都や申戸くんたちにも聞いたけど……」
 出辺が言葉を濁した。
「まじでやばいな」
「ええ」
 遠くで森や裏木たちの声が響いている。
「……で? CLとしてどうするつもりだ?」
 まあ、訊くまでもないことだったが。当然、俺たちはただの部活動の一環でここにきているにすぎない。なにも命を懸けて、仲間を犠牲にしてでも登頂しなければならない必要性は皆無なのだ。
 すんなりと出辺は頷いた。
「そうね。一刻も早く麓へ戻りましょう」
 結局、俺の希望は叶ったわけだ。朝一での帰還。だが、こんなに混濁した感情を抱えることになるとは思ってもいなかった。
 ざわざわと粟立つ感情が俺を無性に急き立てる。シュラフを丸めて、すぐに出発できるようにザックへまとめ始める。
 なにかいまもどこかであの仮面少女に見られているような気がしてならない。とにかくいま俺たちにできることは、出辺の言うようになるだけ早く下山して連絡を取ることだ。
「……仮面少女、彼女はいったい何者なのかしらね」
 出辺の呟きが、ひっそりと耳に入った。
 ここのところ生徒たちの仮面少女への評価は変わっていた。それでも俺は、公言さえしなくとも、彼女を擁護する気持ちであったことは間違いない。が、いまは違った。
 暗闇から現れたあの掴めどころのない笑顔が、ほかでもない怖れを抱かせていたのだ。
「――早く行こう」
 俺は一言、そう呟いた。

「あ、雨だね」
 最初に気づいたのは森だった。
 空を見上げると、すっかり厚いグレーになった雲から流れ落ちたその雫が俺の頬に触れた。
「……最悪」
 裏木がこっそりと呟くのが聞こえた。
「てか冗談じゃん? なんかのネタじゃん? これ……」
 亀津が緊張感のない声で言う。
「これだけ捜したし……、もしなんかあってもわたしのせいじゃないし……」
 亡霊のように長い髪の佐賀がけだるそうに頷いている。
 ネタか……。おまえら本当にあの門部にそんな愛嬌があると思っているのか?
「どこに連れてかれちまったんじゃろ? ブッチャーを『盗む』なんてどれだけ力持ちなんじゃ?」
 どこか間が抜けているがしごく当然の疑問だろう。少なくとも、俺が仮面少女を見たとき、彼女は門部を抱えてなどいなかった。それは森も認めたところだ。
「たしかに謎だらけだね。それに彼を連れていくメリットもわからないし……」
 森が雨粒で眼鏡を濡らしながら首を捻った。
 メリットなどあるわけがないだろう。一台あれば湿度と室温を上げるのに最適なことはたしかだが……。それでもかさばるし、上がりすぎるという難点がある。わざわざ盗む価値などないはずだ。あるとすれば……
「フェティシストなのかもしれんな」
 俺に視線が集中する。いやな感覚だ。
「またなにも根拠のないことを偉そうに……」
 馬鹿にしきった顔でうなだれる出辺。おい、今回はかなり自信があったんだぞ。
「自分が変態だからってね」
 ヒソヒソ、と裏木たちが囁き合っている。ふん、おまえらに男のなにがわかる。
「つまり仮面少女はぽっちゃりした人が好きってことかな?」
 森が得意の笑顔を取り戻していた。
 俺は自信たっぷりに首肯し、
「まあ、そう考えるのが妥当だろう。いまごろやつの柔らかい腹を愛でているんじゃないか?」
「なにが『いるんじゃないか?』よ。えっらそーに」
「あれじゃん? 自分があのピザ男が好きだから言ってんじゃん?」
「てかマジできもいし、ありえないし」
 その俺だけに聞こえる裏木らの声音が、充溢していた緊張感を霧散させていく。取って代わるのはもちろん「怒り」だ。
「なははっ、それじゃブッチャーも嬉しがってるかもしれんのぉ!」
 実に楽観的な駿河が豪快に笑った。
 しかし俺は大きく首を振り、
「いや、安心するのはまだ早いぞ」
 それから視線を亀津のほうへ移動させ、
「また新たな被害者がでるかもしれん」
 真顔で宣言した。と、
「どどどど、どういう意味じゃん!? それぇ!?」
 百裂張り手の勢いで突進してくる亀津。その大きな顔面に一瞬、真っ赤な隈取が幻視できた。
「い、いや、べつにただ、おまえがぽっちゃりしてるから言っただけだ……!」
「ぽっちゃりじゃないじゃん!? うちは男がみんな痩せすぎは嫌いって言うからさぁ!!」
 俺は突き飛ばされながら、
「だから嫌いだなんて言ってないだろ!」
 ぴた、と止まる突っ張り。
「……どういう意味じゃん?」
 ――意味? 意味などなにも……
「ま、『嫌い』じゃなかったら『好き』ってことじゃん?」
 けらけらと笑いながら森がいらぬ口をだす。
「だ、だからそれはキモイって言ってんじゃん?」
 ほんのり顔をピンクに染めて、まるでブ……、いや、動く桜大福のように引き下がっていく亀津。
 だから丸く収めるのはいいが、もっと違うやり方をしてくれないか?
 森はまったく俺の視線など無視して、
「お、準備はいいのかな?」
 やっとザックを担いだ申戸と佐賀を確認して声をかけた。
「……ああ、問題はない。待たせてすまない」
「わたくしもオーケーです。出発いたしましょう」
 無表情で頷くいまの状況でなくとも陰気なやつら。平素と変わらぬその寂黙とした様子に俺は不思議な感じがした。こいつらは俺らよりももっと門部に近い関係だったはずだ。いくら仮面少女が関わっていることによって通常の行方不明とはまた違う感覚だとは言っても、もう少し懸念を覗かせていいものだが……。
 俺が寄ってくるチビとノッポに意識を捕らわれていたとき、
「うわっ、急にきたね!!」
 一気に雨足が勢いを増した。森がどこか嬉しそうに天を仰いでいる。突風まで吹き下りてきて、まさにスコールだった。
 雨が岩や沢に打ちつける音が周囲に躍り狂う。いきなりの喧騒のなかで、俺たちは声を張り上げなければならなかった。
「なんでこんな急に降ってくんのよ!」
 裏木が益体のない悪態をついている。
「急にくるから〝ゲリラ〟だろ!」
 俺が叫ぶと、
「また瞬はなにを言っているのかな! そもそも〝ゲリラ〟って言うのはねぇ――」
「……?」
 森の声がとみに止まった。
「どうしたんじゃ?」
 駿河が訊くと、森は雨の弾幕の向こうへ指を向けた。
「……なんかいる」
 小さい声だったがはっきりと聞こえた。
「なんだ、門部か?」
 と、俺もなにかが見えた。沢の向こうの茂みのなかで黒ずんだ影が生き物のそれとわかる動きをみせていた。眼前の濡れねずみと化した緑が不規則に揺れ、遠方のなにかが近づいてきているのがわかった。
「ブッチャーじゃな!? ブッチャ――――っっ!! こっちじゃぁぁぁぁぁっ!!」
 駿河が狂熱を帯びて駆け寄った瞬間、爆ぜるように新緑の塊が振動し、なかから――
 一瞬、本当に門部が現れたのかと思った。その外郭があまりにも似ていたからだ。が、豪雨のスクリーンがかかっていても、彼ではないことがすぐに理解できた。門部にしてはやけに黒く、なにより巨大にすぎる体躯を誇っていたからだ。
 門部ではないなにかが緩慢な挙動で上体を起こしたとき、俺はそれがなにであるかを完全に認識した。

 それは身の丈三メートルを越えようかという〝ヒグマ〟だった。

 横で笑い声がかすめた気がした。
 隣にいるのは申戸のはずだった。しかし、この状況で笑えるわけがない。
 俺は即座に、それが心底ショックを受けた人間の悲鳴なのだと思い直した。


 俺のたいして深くもないまさに一般の人が有する程度の「熊」に関する知識であっても、この状況には疑問を呈することが可能だった。〝ヒグマ〟という個体はたしか日本では北海道にしかいなかったはずだ。本州にも分布している熊といえばツキノワだが、目の前でくすぶるそいつはあきらかに異なっている。胸部には特徴の眉月の形をした白い斑紋が入っていないし、なによりツキノワなら体長二メートルは超えなかったはずだ。こいつは二メートルなど大きく振りきっている。
 茶味がかった黒い体毛と分厚い脂肪に覆われていそうなそのでかすぎる体は、一目見てヒグマだと断ずることができた。
 熊のほうも驚いているのか、動きをみせない。
 俺は衝撃をなんとか咀嚼しきり、なるべく小さな声で話しかけた。
「おい、こんなときはどうしたらいいんだ?」
 こんなところにヒグマがいるわけよりも、いまは命を守ることが先決だ。
 俺と同じように抑えた森の声が返ってきた。
「……絶対動いちゃだめだ。待っていれば勝手に逃げていくはずさ。……向こうも驚いているからね」
 やはりそうか。あんなにでかいナリしてずいぶんと繊細なハートをお持ちのようだ。それでちょっとでも俺たちがとち狂った動きをしようものなら、余計にビビってあろうことか突進してきて殺そうとするのだから、まったく扱いづらいことこのうえない。
 俺の脳裏にふと、「ヒグマ」というフレーズから、あのF大の凄惨な事件を思い起こさせた。同時に――
「……!」
 熊がのそり、と動きを開始した。が、それは俺たちの思惑とは逆の方向だった。つまり俺たちのほうに前進してきたのだ。反射的に俺は声を発していた。思ったよりも早口になってしまったが、
「お、おい、逃げないぞっ」
「おかしいね……」
 おかしくてもこれが現実だ! いつまでも世の中ばかり恨んでいたら生きてはいけん! 現実を受け容れなければ……!
「……なぜ逃げない?」
 遊びたいのか?
「おーい、一緒に遊びたいのかな~~?」
 口にだすとは思わなかった。
 森が緩やかに手を振って熊に話しかけ始めたのだ。
「めめめ、眼鏡王子さま!?」
 熊よりも獣じみたメイクの滲んだ顔を裏木が引きつらせながら、
「ど、どうしたんです……!?」
 森の猫撫で声は止まらない。
「僕も遊びたいんだけどさぁ、今日のところは山に帰ってくれないかなぁ?」
 とうとう頭がイカれてしまったのだろうか。俺の友人にムツゴロウさんがいた記憶はないのだが……。
「そうじゃ、わしらは先を急ぐのじゃよ。……こんど相撲で勝負ぜよ!」
 のっかるべくやつがのっかるが、それでも熊の動きは止まらなかった。一歩一歩、こちらに近づいてくる。
「……だめか」
 森が平静に戻って言った。どうらや狂気に支配されていたわけではないらしい。
「人だってことをわからせればいいと思ったんだけど……」
 ほう、それが常套手段なのか? まったく効き目はなかったが。そんな小手先の方法に甘んじるより、もっとわかりやすい手段でいいんじゃないのか? たしかに熊と出遭ったら走って逃げてはならぬ、というのは俺も聞いたことがあるが、それはちょっと生態とか詳しく知っているふうな動物学者かなんかが偉そうに言っているだけの話だろう。
 理論上はそうかもしれんが、実際にはもっと本能的な行動がいい結果に結びつくということはよくあるものだ。たとえばスポーツなんかでもそうだ。教科書に載っているフォームや基本的な動き方とはまるで違うやり方で成功している選手はいくらでもいる。状況とその人の特性によってそれは変わってくる。フットボーラーでも独特の蹴り方で美しい弾道のシュートを放つものはいるし、それはない、と思わず言いたくなる走り方で「金」を獲る短距離走者だっているのだ。
 そしてなにより、先の知ったかぶったような学者こそ、いざとなったら誰よりも大声を上げて逃げるのだ。結果、仲間を犠牲(おとり)にして一人だけ助かる。だから俺がなにを言いたいのかといえば、もちろんこうだ。
「全速力で茂みのなかに逃げたほうがよくないか?」
 裏木たちが強く頷いたのがわかったが、
「いや、そんなことをしたら絶対に捕まるね」
 おい、自己言及のパラドックスだが、「絶対」なんて「絶対」ないって知ってたか?
「あんな脂肪の塊に捕まるとは思えんが……」
「馬鹿ね」
 とは出辺。
「ヒグマは時速60kで走れるのよ。人間じゃ逃げきれないわ」
 ……いまいちイメージが湧かんのだが?
「ボルトでも無理なのか?」
「彼は時速約44k。ぜんぜん無理ね」
 ヒグマ恐るべし。ならば緑山高校一年平均の速さでしか走ったことのない俺が逃げられるわけがないな。……結局、データに屈服させられてしまうのはなんとも遺憾だが。それを聞かされてなお走ろうなどという気概は生まれなかった。
「……だがもうほかにない」
 申戸が恐怖を感じさせない声で呟いた。
「わたくしも同感です。もう走って逃げるしかないと思います」
 珍しく気が合うじゃないか。これはこれで胸糞悪いが。
「いや、まだ手はあるよ」
 森がじりじりと寄ってくる熊から目を離さずに応えた。
「あいつの目的は〝捕食〟だろうから」
 恐いことをさらっと言うな。
「〝おとり〟を使う」
 おとりだと? まさか俺たちを犠牲にしておまえだけ一人で駆けだそうって魂胆じゃあるまいな?
 俺が掴みかかろうと手を伸ばした矢先、森は自らのザックに手をかけた。
「?」
 いそいそと下ろし始める。
「さあ、みんなも。ゆっくりと、静かにだよ」
 森に倣い、熊の動向を窺いながら、俺たちは不器用な手つきでザックを下ろしていった。雨で重くなったザックは異様に下ろしづらかったが、ほどなくしてみなのものが岩場に揃えられた。
 熊の視線がその九つのザックに捕らわれているのがわかった。
「よし、じゃあ、そーっとあとずさるんだ。そっと、音を立てないようにね」
 従順に森の指示を尊重し、俺たちは手のひらを下に向け、空気の流れを抑えるような動作を繰り返しながら後退を開始した。
 その作戦はようやく成功をみるように思えた。が、俺が理論やデータにも一目置こうかと考えた、その瞬間。
「……じゃんッ!」
「じゃん!?」
 声に反応して見ると、笑ってしまうほど鮮やかに亀津がそのでかい尻で餅をついていた。顔を歪めている亀津だが、俺はその下の岩のほうが心配になった。おそらく陥没しているか、よくて深いヒビが入っていることだろう。しかし、真に憂慮すべきは岩でもなかったようで……
「や、やばい……っ!」
 裏木の切迫した声の焦点は、もちろん熊のほうに合わさっていた。ザックに奪われていたやつの意識が、いまや完全にこちらに向いていた。
 ――やばい。俺は裏木と同じ言葉を唱えていた。また森につぎの手を賜ろうとするより早く、ついに熊が突進してきた。
「きゃ、きゃぁぁぁぁぁぁっっ!!」
「じゃぁぁぁぁぁぁぁん!!」
「ありえねっしぃぃぃぃぃぃっ!!」
 一目散に逃げだしたのは裏木たち。そして無言のオタクども。小心者ばかりだ。つまり俺も含まれている。
「うぉぉぉぉぉぉっっ!!」
 足を捻ったような感覚が走るが、それでも構わず全力のダッシュ。これなら、一度も選ばれたことのない「リレーの選手」になれるに違いないスピードだ。
「大丈夫だ! これはブラフ・チャージ(ブラフ・チャージは)だ!」
 すぐ後ろから森の声が追いかけてくる。
 なにが威嚇だ! あんな恐ろしい形相で突っ込んできて、威嚇だとかぬかすならそいつはどれだけ演技派なんだ! まったく、アカデミー賞受賞間違いなしだな!
 とにかくもう森の言うことなどアテにはならん。俺の足は止まらなかった。第一、森も俺のあとを追って走っているのがいい証拠だろう。ま、俺たちが走って逃げているせいで熊の「威嚇」が「本気」になっているのかもしれないが。だがいまはそんなこと……
「――知ったことか!!」
 俺は叫び、まもなく茂みのなかへと突入していた。

 溢れ返るのは悲鳴と枝や草を踏む音と湿った緑のにおい。
 命を懸けた鬼ならぬ「熊ごっこ」に、俺は全力で参加していた。無論、少しも楽しめるわけはなかったが。
 息が切れ、脚が限界を超えているのはわかっているのに、それでも疲れは感じなかった。必死に木の枝にぶち当たりながらも進み続ける。
 密度の濃い木々が幸いしたのだろうか。走ればむちゃくちゃ速いというヒグマには、いまだ追いつかれていない。
 だが掻き分けても押しよけても次々と現れる枝のせいで、周りの状況がよくわからなかった。近くにみながいることはたしかなのだが、その姿が見えなかったのだ。それに強烈な危機感が背後から嵐のように迫ってきていて、やはりまだ熊の野郎が追ってきているのも確実に感じられた。
 俺はペースを落とさずにひたすら走り続け、やがてふっと圧迫感が潰えるのがわかった。スピードを緩める。すると思いのほか辺りが静かなのに気づいた。近くでは悲鳴も、駆ける足音も鳴ってはいなかった。
 さらによく聞こうと呼気を整えつつ耳を澄ましていると、
「――じゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっっ!!」
 突然にしっとりとした空気を鋭利な悲鳴が貫いた。シンバルが掻き鳴らされたかのような音だったが、間違いない、これは亀津の声だ。
 ついで、なにか鈍器を叩きつけるような音とともに、服が引きちぎられているみたいな生々しい音が聞こえてきた。俺は無意識のうちに耳を塞いでいた。
 しかし、なにか騎士道精神的な自分でも正気を疑うような勇敢な思いが芽生え、俺は手を耳から離した。だが、再び周囲からは音が捌けていた。突如として湧いた緊迫感もいまはいずこへと消え去っている。
 亀津のことが気になった。が、助けにいこうにも方角がわからなかった。どこから声がしたのかもわからない。周りは同じ顔をした太い木の幹ばかりだ。深い森を散策したものならわかると思うが、かなり近いところから音が鳴ったとしても、密接した景色が同じだと、その出所がなぜか判別しにくくなるのだ。
 とにかく動きだそうと、俺が足を動かしたとき、急に横の茂みが揺れた。
 跳ね上がった心臓がそのまま止まりそうになると同時、影が現れる。見開いた俺の目の前には、見知った人間の顔が佇んでいた。
「森……!」
 俺はあまりにほっとして、がらにもなく森の肩を強く押さえた。
「亀津は? すごい声が聞こえたんだが……」
 森は汗だか雨だかわからないずぶ濡れの顔で息を落とした。
「……わからない」
 と、俺たちの四方の木々が、激しく波打ち始めた。
 どんどん大きくなり、近づいてくる荒々しい音たち。満たされた逃げ場のない音の襲撃に、俺は恐慌のあまり――
 森の引き締まった体を、できるかぎり強く抱き締めていた。


「トータスぅぅぅぅっ!!」
 駿河が大声で呼びかけている。
 まだそこらに熊がいるかもしれないのに、やつを引き寄せてしまうのではないか、と俺は気が気でない。はらはらして駿河の口を塞ごうか迷っていると、
「大丈夫さ、瞬」
 俺の内心を察したように森が口を挟む。
「熊は基本、人間を恐れているからね。近くにいるとわかれば、逆に遠ざかっていくものなんだよ。だから〝熊鈴〟なんてものがよく知られているだろ?」
 同時にさしたる効果がないことも知られているが。というか、さっきの熊の形相と行動を目の当たりにしてよくもそんな間の抜けたことを言えたものだ。やつなら基本から逸脱した行為もたやすくやってのけるだろう。基本というものはあくまで基本であって、例外があることもちゃんと考慮に入れなければならない。なにごとも基本が大事だとは言うが、基本ができても応用が利かないやつはどの世界でも平均よりうえには立てないものなのさ。
 とはいえ、俺はむしろ「平均」でいいわけだから、基本さえわかっていればいいとも言える。……なんだろうな、このジレンマは。
 声を上げているのは駿河だけではなかった。
 俺と森のBLへのフラグを目撃してしまったのは、門部と亀津を除くワンゲル部のメンバー全員だった。思い思いのトーンでそれぞれが亀津の名を呼んでいる。
 森のやはり役に立たなかった浅知恵のせいで、俺たちはザックをすべて置いてきてしまっていた。携帯はもともとなかったものの、地図もなければコンパスもない。いったい自分たちがどこへ向かって歩いているのかまったくわからなかった。どこを見ても〝木〟しかない。上を見れば折り重なった梢が空を覆い隠している。そのおかげで雨が遮られ、撥ねる音が響いてくるだけだった。
「おい、これからどうするんだ?」
 俺はこっそり横を歩く森に問いかけた。
「まずは自分たちがどこにいるのかわからないと話にならないよね。沢にでるか、登山道にでられれば話は早いんだけど……」
 うむ。可能性は薄そうだな。さっきから歩けども歩けども同じ景色が現れてくるだけで、まるでゲームのバグに陥ってしまったかのようだ。これはリセットボタンを押さなきゃだめなやつじゃないのか?

 あまりに歩き続けて自分が日本にいるのかどうかもわからなくなった頃、不意に視界が開けた。
 湖畔というには小さい水溜りがそこにはあった。そしてそこの中心へと荘厳な滝が降り注いでいる。雨のせいかかなりの水量だ。
「秘境だ……!」
 めずらしく申戸が声を漏らした。
「そうですね、間違いないです」
 又堀も声を零す。顔を見ればあきらかに嬉しそうな顔だ。まったく、不謹慎にもほどがある。おまえら、いったいなにを期待しているんだ?
「ここが例のチェックポイントじゃな……」
 苦々しげに口にする駿河。
「……ここで泳ぐために水着を用意していたんじゃが……残念じゃな」
 どうやら本当だったようだ。しかし真に残念そうなのは駿河ではなかったが。
「でもここにでれてよかったわ。ちょうどここが登山道と重なっているから」
 とは冷静な出辺。ああ、これで光が見えたというわけだな。ここを下っていけば、麓について異常を知らせられるというわけだ。あるいは登山客にでも出会えれば携帯を貸してもらってもいいだろうし……。
「……でも、疲れたな」
 俺は岩場に腰を下ろした。と、足許のやわい地面に掘り返されたような跡があるのに気づく。モグラ塚のような感じで、よくよく見るとこの一帯をほぼ等間隔で囲んでいた。その意味するところに脚を組んで潜考していると、
「もうちょっとよ、頑張りなさい」
 できの悪い弟を見るような目で出辺が声をかけてくる。
「郁美、大丈夫かな」
 疲弊しきった顔の裏木が呟いた。
「きっと郁美なら大丈夫だし」
 佐賀が力強く応える。まあ、なんの根拠もないだろうが、そう信じるしかない。というか門部の心配もしてやれ。
「さ、早く行きましょう」
 だろうな。ここで休憩している時間はない。こうしているいまも、門部や亀津が命の危険に晒されているやもしれんのだからな。
 俺が重い腰を上げたとき、
「しっ」
 森が顔を強張らせた。
 なんだ急にそんな顔をするな。どうした、熊か? でたのか?
 またも森に抱きつきたい欲求に駆られていると、俺も異変に気づいた。それは音だ。轟然たる風が吹き荒れるような音が上方から……
「なにっ!?」
 見上げた瞬間だった。それが風の音じゃないことを確認した。滝の上から猛々しい水の塊が、視界いっぱいに広がっていたのだ。
「なんだこれっ!?」
 回避しようとするが間に合わない。まもなく、膨大な水の初撃が俺の全身を呑み込んでいた。

「……くっ、くそ……ッ!」
 何度も水を飲みながら、俺は顔をなんとか奔流の外にだしていた。
 ちらちらとほかのものたちの頭も見え隠れしている。俺たちは突如として発生した大洪水に呑まれ、流されていた。ものすごい勢いだ。登山道を大きく逸れ、乱立する幹を紙一重でかわしていく。直撃したら無事ではすまないだろう。と、思った矢先――
「……うぉっっ!!」
 茂みをぶち抜いて現れた幹を回避しきれず、俺は顔面から衝突した。
「……いって……ッ!!」
 激甚の痛みが脳内を貫くが、意外にもそれが功を奏していた。というのも、幹が防御壁になって、俺の身体がそれ以上流されるのを止めてくれていたからだ。
 俺は幹を森だと思って……いや、最愛の抱き枕の要領でしっかりと腕を回して抱きかかえる。背中に流れてきた枝やなんかが突撃してきて痛かったが、必死に耐え抜く。
 周囲に視線を走らせる。相変わらず容赦ない濁流が続いていたが、ところどころ、俺と同じような体勢で幹や張り出した岩にしがみついているものが散見された。と、その岩のところで手を取り合うように一緒にいた裏木と佐賀だったが、
「あっ、紗枝っ!」
 巨大な流木に背をどつかれ、その勢いで佐賀が岩から解き放たれる。懸命に裏木が手を伸ばすが、佐賀の体は軽々しく波にさらわれていってしまい……
「紗枝ぇぇぇぇっ!」
「マジ激しいっしぃぃぃぃぃぃっ!」
 即席の川はさらに恐々たる唸りを上げて、佐賀の声もその流れのなかに吸い込んでいく。
 途中、倒木の枝に掴まっていた駿河の無茶な姿勢で伸ばした片手が流れゆく佐賀を捉えそうになるが、あと一歩届かなかった。
「ガーサぁぁぁぁぁぁっ!!」
 駿河の悔しそうな叫びが、洪水の轟音を超えて、俺の鼓膜をえぐってきた。

 凄惨な爪あとが刻まれていた。
 無数の木が倒れ、地面はぐしゃぐしゃにかき混ぜられている。まだ粛々とした水が流れてはいたが、もう嵐のあとの静けさだ。
「紗枝……」
 裏木がつらそうに歯噛みしている。もう完全にすっぴんだ。そっちのほうが全然いいぞ、と声をかけてやりたくなるが、命が惜しいのでやめておいた。
「いや、きっと平気だよ」
 とはいつでも希望を忘れない少年漫画の主人公にうってつけの森だ。
 泣きそうな顔に裏木の顔が歪む。やがて涙がその目に滲んだ。
 あ、ナーカシータ、ナカシータ、セーンセーイにーいって……なんて歌いそうになるが、やっぱりやめておく。それぐらいの空気は読めるのだ。
「なにも崖に落ちたってわけじゃないんだからね。この先にいけば絶対見つかるはずさ」
 でたな「絶対」。おまえの絶対でなくとも絶対ということは少ないし、俺はその言葉で少しも安心などできん。が、
「は、はい……!」
 裏木はまんざらでもない様子だ。というか森と同じ希望の色がその涙がかかった瞳に満ちていく。……まあ、そんな陳腐な言葉で勇気づけられるのならそれはそれでいいが……。
 俺は少々いじけながら、
「だが気をつけなければいかんぞ。一歩間違えばどこまででも滑り落ちていっちまいそうだからな」
 仰々しく行く末を示した。そのぬかるんだ緩い傾斜は、相当に注意して進まねばならないだろう。それにそもそも、あんな勢いでそれこそどこまでも水に流されて、佐賀が無事でいるとはとても思えないのだが……。もちろん口にはしないけど。
「焦らずにゆっくり進みましょう。これ以上行方不明者をださないように」
 出辺が冷静な口調で言った。
 俺は見回す。もう三人が欠けていた。ずぶ濡れだったが、申戸も又堀も無言で頷いている。「行方不明者」……か。まさかこんなことになるとは思っていなかった。
「よぉし、みんなで一丸になって進むのじゃ!」
 駿河が気合をこめる。
 本当に、俺たちはまたもとの麓へたどり着くことができるのだろうか……?
 俺は抑えようのない不安に、精神を支配され始めていた。

「……おい、いったいなんなんだよ……!」
 俺は慎重に足を踏みだしながら、悪態をついた。それも無理はない。あのまま下っていけば、佐賀を見つけ、あるいは見つからなくとも麓へと向かっていけたはずなのに……。
 いまはなぜか緩い傾斜を登っていた。あの川の流れを追っていったら、見えてきたのは隆起する地形だったのだ。山の稜線に沿って下りていたわけではなかったらしい。これではもう自分たちがどこへ向かって歩いているのか、ましてどこにいるのかさえわからなかった。
「おい森、佐賀なんかどこにいねーじゃねーか……!」
 やり場のない怒りをついつい森にぶつけてしまう。森ははたと首を傾げて、
「……おかしいね」
 本気で不思議がっている様子だ。まあわからんでもない。登り始めてようやく足許から洪水の余波が消え去っていたが、どこにも佐賀の姿はなかった。流されたのなら、その動線のどこかにいなければ「おかしい」ということだ。
 だがそんなことを言っていても始まらない。いくらおかしかろうと、いないものはいないし、俺たちがちゃんと帰れるかどうかもわからないものはわからないのだから。
 ああ、いらいらするぜ。
「やばいんじゃないのか? 食糧もなくて歩き続けるのは……」
 しかもあきらかに登っているし、これじゃあいつまで歩こうと麓には着けないだろう。
「いや、逆に遭難したら下りるほうが危険だったりするんだよ。登ったらかならずその先にはピーク(ピーク逆)があるからね」
 なかなかポジティブな意見だが、すべての道がローマに続いたのははるか昔の話だ。頂上に着くまえに力尽きるのがオチだと思うが。
「それでも登山道にでる可能性は高い。このまま登り続ければきっと……」
 本当か? 俺はこの木の呪縛から逃れることはそうたやすくはないと思うのだが……
「それにいまは低体温症になるのが危険よ。ここだと救助もアテにはならないし、そのまえに凍えて体力が保たないと思うわ」
 出辺が黙々と足を運びながら言う。
 そういえばひどく寒いな。あの洪水に流されたせいで全身ずぶ濡れだ。
 俺以外には裏木が限界にきているような青白い顔を浮かべていた。申戸や又堀はもとより生気が薄いからとくに代わり映えはしなかったが。
 いつもどこでも元気な駿河が俺の隣に寄ってきて、
「ほれ、力がでるぜよ」
 その手には一個六十円の「MILK」と書かれたチョコが握られていた。どうやらポケットかなにかに突っ込んでいたらしい。
 俺はありがたく受け取り、口に含む。
「おお……、うまい……!」
 最高にうまかった。こんなにうまいものが世の中にあるのかといったぐらいに。べつに言いすぎでもステマでもなんでもなくだ。昨日は自然のなかで食べるカレーが格別で……みたいな話をしていたが、これはそのはるか上をいっていた。やはり遭難したからこそ感じられる深い味わいなのではないだろうか。けっして同じ体験をおすすめすることはできないが。
 駿河に強い感謝の念を抱きながら、俺は踏みだす足に力をこめた。

 いつまで経っても登山道も人も見えてこない行軍のすえ、とうとう俺が根をあげかけたとき、
「おっと、なんだろうね……」
 森の声で俺は足許から顔を上げた。
 目の前にはぽっかりと開けた空間が広がっていた。ちょうど、さきほどの「秘境」と呼ばれた水溜りと似たような雰囲気だ。が、その中心には秘境はなく、代わりに小屋と形容するにふさわしいコンパクトな木造の建物が鎮座していた。それこそ、よく見る休憩所としての山小屋のそれに相当する外観だ。
 だが俺はすぐに口にする。
「おい、おかしいぞ。なんでこんなところにこんなものがある……?」
 みな首を捻っている。それもそのはずだ。たいていこういう建造物は、チェックポイントとなる登山道に重なって設けられるものだ。ここはどう見繕っても、獣か遭難者しか通らない木々の真っ只中だ。
 その周囲だけは木が生えていない。ただ、雑草が俺の膝あたりまで生い茂っている。小屋としては真新しいが、近いうちに人の立ち入った形跡は見当たらなかった。
「でもこんな建物があるのなら、管理事務所のほうは当然、把握しているはず……」
 出辺が腕を組んでその小屋を観察している。
「なにが言いたい?」
 俺がそう尋ねると、
「……ええ、登山計画書は提出ずみだから、ここで待機するのが得策かもしれないわね」
 出辺が決然と頷いて応えた。
 俺は小屋に目を移す。遮るものがないので、直に雨に打ち晒されていた。木が黒く滲んでいる。
「入れないことには始まらないけど」
 出辺がつけ加える。
 それはたしかにそうだろうが……
 俺たちは一斉に木の下から駆けだした。そして先頭をきっていた駿河が木戸を引くと、

 やはりな。

 妙な予感が的中したことが不気味さとともにどこか残念なような、そんないびつでおどろおどろしい影が忍び寄ってくる気配を、このとき、俺はたしかにその開け放たれた戸の奥に見いだしていた。


 だいたいの人はひとつの苦痛ならなんとか耐えられるものだ。
 たとえば、エアコンがない夏の教室での授業中、あまりに暑くてもそれだけなら我慢のしようもある。が、それプラス糞つまらない授業が展開されたり、体育で意味もなくグラウンドを走らせられたりしたら、一気に許容性を超えてしまうのだ。「こんなことやってられっか!」ってやつだな。
 しかし、たいてい苦痛というものはないときはないが、あるときはいくつか重なってやってくることが多い。新年度のクラス替えがひどいと思ったら担任まで最悪、なんてことはよくあることだろう? そのうえ束縛から解放される放課後の部活でも意地の悪い顧問やよほど大学に友人がいないのか卒業したのに毎日のようにやってくるOGなんかがいた日には始末に終えない。こと、その部活の活動中、「遭難」でもしてしまったあかつきには、これを「惨劇」と呼ぼうとも、もはや誰も文句は言えないだろう。
 重畳的な苦痛に喘ぎながら、俺はじめっとした湿気に満ちた小屋のなかに腰を下ろしていた。そして溜息を漏らす。内装については詳らかにその様相を語ろうとも、ひとつしか言葉がでてこなかった。つまり、〝なにもない〟ということだ。
 裸電球くらい天井から吊っていてもおかしくはなさそうなものだが、「ない」。ベッドも、カーテンも、布切れの一枚すら、「ない」。そうだ、俺たちにはなにも「ない」。
 が、まだ俺たちには命がある、と言わんばかりの目を湛えている愚か者がこの部屋には数人いた。そのうちの一人が喋り始めた。
「いや、まさに天恵だね。時間的に考えても、これ以上ないタイミングだったよ」
 窓を見る。もうそろそろ日も落ちようかという時間だった。歩きどおしで時間の感覚が麻痺している。森はこの陰鬱な場所とは相容れない力強い声で話し続ける。
「ここにいれば、近いうちに助けがくるはずさ。そしたらすぐにみんなのことも捜しにいけばいい」
「みんな」とは当然、門部と亀津と佐賀のことだ。私見では門部と佐賀はまあ可能性はあると思うが、亀津はどうなのかちょっと自信が持てない。あのうまそうなこぶ……、いや、人間をあの強欲そうなヒグマが無傷で放すとは思えなかったからだ。
 森の言葉にすがるように頷いている裏木がいては、まあ本心を話すことはできなかったが。しかし、
「ここで待っていて本当にいいのか? さっきおまえも言っていたが、頂上を目指したほうがいいんじゃないのか?」
 たしかにヘツ電もなく夜の進行は厳しいのはわかっている。けれど、やはり俺はほかのやつらのことが気になってもいた。
「夜は危ないわよ。いまはさらなる被害を抑えることを考えないといけないわ」
 出辺が厳格な口調で応える。
「……ここで餓死はまっぴらだぞ」
 俺が呟くと、
「問題なしじゃよ!」
 駿河が胸を張って言い、ポケットから大量のチョコを取りだした。とめどなくポケットから溢れてくるチョコの山。
「こんなときにはチョコは最適じゃ!」
「……おまえなんでこんなに……?」
 理由はわからなかったが、ともかく助かったのはたしかだった。俺たちは一人ずつそのチョコを手に取り、杯を交わす。
「それでは、わしらとブッチャーたちの生還を信じて……」
 駿河は高々とチョコを掲げて、
「カンパイじゃあ!!」
 俺の口のなかに、不思議な甘みと香りが広がる。包装に目を落とし、それがようやく「きなこもち」の味なのだと気づいた。うむ。これがあれば、俺はまだちょっとだけ希望を持って生きていける。そんな気がした。

 疲れていたのだろう。俺は案外、ぐっすりと眠りに就いていた。雨はようやく上がり、目を閉じたときには窓から月明かりが顔を照らしていた。明日には助けがくるかして俺はみなと家に還ることができる。そんな夢心地な夢を見ていたとき、唐突に意識が吸い上げられた。憶えのある感覚だった。目を開けると、
「……っ!」
 やはりでやがったか、それが瞬間の思いだった。しかと俺を見下ろし、薄明かりに仮面の陰影が浮かび上がっている。変わらぬ笑顔。その手には、溢れんばかりのチョコたち。
 俺は掴みかかっていた。
「おまえっ!!」
 俺の大事な食糧を……!
 が、指の先をかすめて「仮面少女」は戸へと走り去る。すぐさま追いかける。
「ど、どうしたんだ!?」
 森の声がかすめるが無視する。
 外にでると、すでに仮面少女は木々の向こうへと姿を消していた。俺も分け入っていくが、辺りから気配が感じられなくなってしまう。
 まもなく後ろから声が追ってきた。
「瞬、またでたのか!?」
 森がすぐ後ろに立っていた。
 俺は即座に頷き、
「ああ、チョコをやられた……」
 大好きなチョコを……。あの女……! 俺は携帯や門部を盗まれたときとは比べものにならないほどの憤激を覚えていた。絶対に捕まえて取り返してやらなければ……!
「だめだっ、南子も言ってだろう!? 瞬までいなくなることになるぞ!」
 森に強く腕を掴まれたとき、
「どうしたんじゃ!?」
 戸の前に駿河が現れていた。ついで、出辺、裏木に申戸が顔をだしてくる。
「仮面少女が……」
 俺はそう呟き、違和感がよぎった。
「……おい、又堀は?」
 駿河が駆け戻り、また顔をみせると、
「いないぜよ?」
 俺は背筋に氷を押し当てられたようなショックが走るのを感じた。

「おい、いったいなにが起こってるんだよ?」
 俺は車座になった面々を見つめながら問いかける。
「なんで仮面少女はこんなにしつこく追ってきやがるんだ? 誰かなんか恨みでも買ってんじゃないのか?」
 つい詰問じみてしまうがそれもしかたのないことだろう。こう何人もひとが消えているのに、冷静でいられるわけがなかった。
「完全に尾行されてたってことか……」
 出辺が考え込むように顎に手を添える。
 ああ、俺たちに発信器でも埋め込まれていなければな。
「どうしよう……」
 イメージにない弱々しい声をだしたのは裏木だった。
「このままじゃアタシたち、……本当にみんな助かるんですかね?」
 すがりつくような目が向けられる。そんな目で見られるのも悪くないと思ったが、やつが視線を向けたのは出辺、駿河、そして俺の横の眼鏡王子までだった。
 俺は悔しさもあいまって嫌みったらしく言ってやる。
「助かるんだよな? すぐに助けがきてれるんだろ?」
 視線の先はもちろん黒縁眼鏡のプリンスだ。
 王子さまは絶対に「ハムレット」の代役など務まらないであろう精悍な顔で頷きやがり、裏木ばかりか俺の胸までときめかせながら、
「もちろんさ」
 どこからその自信がでてくるのでしょうか?
「仮面少女の目的は僕にもわからない。でも、彼女はなにも殺人鬼やなんかじゃないんだ」
 それはわからんぞ。盗ってきたものをどうするかはその犯人しだいだろう。
「だからいなくなったからといって、悲嘆するのはまだ早いってことだね」
 黙って頷いている女子ども。なにかとつっこみどころはあるのだが、なんだかんだと勇気づけられてしまうのは俺も例外ではなかった。申戸は変わらず無表情でなにを考えているかわかりはしなかったが。
「……それでももう仮面少女からちょっかいだされたくはないわね」
 出辺の言葉に森が頷いて、
「うん。侵入経路はわかっているんだ」
 戸を示してから、
「僕たちがここにとどまっていれば、やつはまた現れるはず……」
 含んだような笑いを俺たちにみせつける。
 なんだ、それはつまりこういうことか?
「逆に俺たちがあいつを捕まえると?」
 森は大仰にかぶりを振り、
「『盗む』って言ってくれないかなぁ? あくまで対抗するんだからさ」
 それは悪かったな。
「それはナイスアイディアじゃ!」
 駿河が嬉しそうにこぶしを握り、
「成功したらやつからすべてを取り返してみんな助かるぜよっ!!」
 まあ、だから亀津は怪しいと思うがな。
「それじゃ、みんなで寝ずの番ですねっ!」
 裏木が声を発した瞬間、ここまで地縛霊か自生するきのこのように沈黙していた男がうっそりと手を挙げた。
「はい、申戸殿!」
 駿河が指すと、
「……ボクがやろう」
 端的に口にした。俺はいぶかしく思い、
「なんでだ?」
 口を挟む。いつになくやる気じゃないか。
「ボクは徹夜には慣れている。慣れていない監視役が寝てしまい被害が拡大することだけは避けたい」
 なるほどな。一理あると認めてやろう。たとえ交代制にしようと、ふだん寝ている時間に起きているというのはそれだけでつらいものだ。なにより、俺は寝落ちする自身満々だからな。えっへん!

 陽が完全に昇り、俺たちは声を潜めて仮面少女の出現を待った。あるいはほかの第三者の出現を。俺はやはり頂上へ向かうことを提案しようと考えていたが、頼みの綱のチョコがなくなったことによる空腹が、それを口にするまでにはいたらせなかった。かてて加えてゆるやかに広がった雲から雨がぱらついたりして、余計に俺の気持ちを萎えさせた。
 なんの収穫もないまま、陽が沈んでいった。今日も、恐ろしく長いようで短い、そんな一日だった。
 喉の渇きと胃液が込み上げる腹を抱えながら横たわる。戸の内側には宣言どおり申戸が置き地蔵のような佇まいで陣取っていた。無論、きのこ型の傘を差した地蔵だ。
 薄闇に浮かぶその鈍い光を宿した黒目がどうも気味悪くて、俺は向きを変えた。
「……!」
 森の顔が至近距離で待ち構えていた。
 なんだ、その「どうかな?」って顔は。
「どうかな?」
 もういい、口にしなくてもわかっていた。
「だからなにが?」
 うざったそうに言うと、
「いまどんな気分かな、ってことさ」
 どんな気分かと訊かれてもな。
「まあ、腹が減ったな」
 一日喰わないだけで死にそうだ。
「それはそうだね。……ただなんかワクワクしてこないかな?」
 そんな生に満ちた瞳を向けてくるんじゃない。
「どこにそんな要素がある? いつまた仮面少女が現れて返り討ちに遭うかもわからんのだぞ。余裕ぶっていられるか。だから……どちらかというとハラハラだな」
 おっ、と眉を上げてみせる森。
「かかってるわけか。すきっ腹にしてはやるじゃないか」
 そりゃ、どーも。
「……というか、なんでそんな前向きなんだよ。俺には暗い未来しか見えんのだが?」
 森は微笑んで、
「さてね。ただ、僕は一度だって『仮面少女』も『山』も、怖いと思ったことはないってこと」
 もっともな意見だ。あまりに直感的だがおまえの心情を表すにはぴったりの言葉だな。まあ、人間そんなものだろう。なぜ「恐い」のかと問われても、恐いものは恐いから、と答えるのが適当だろうしな。それは相対的なものであり、べつに理屈だって感じる類のものでもない。ワクワクもドキドキも全部いっしょだ。だからして、この状況下でもひとの反応というものは千差万別というわけだ。とはいえ、
「俺も最初は怖くなかったさ。ただ、仮面少女にしろ、その『山』にしろ、俺の当初の印象をどこまでも裏切ってきてる。仮面少女がひとを〝誘拐〟するとは思わなかったし、ヒグマがいるとも、まして滝がいきなり洪水に豹変するとも思わなかったんだよ」
 そうだ。ここにきてから埒外の事態ばかりが立て続けに起こっている。まるで――
「誰かに仕組まれているかのように……」
 俺の次句を森が請け合った。森はにっこりと笑い、
「もしそうだとしたら、やっぱりその『犯人』を捕まえれば、万事解決するってことだよね?」
 ……それが仮面少女だと?
「わからないけど……もうすぐそいつがなんだとしても、捕縛できると思うんだよ」
 なんだとしても、か。まるで人ならざる者を示唆しているように聞こえるな。ともあれ、
「また直感か……」
「知らなかったのか? 直感ほど優れた感覚はないんだよ。ストレスをなくすために最初に取るべき手段は、直感にしたがって行動することだね。ま、なかなか実践は難しいんだけど……」
 そんな顔をしなくてもいい。おまえは充分にできているさ。
「だが忘れるなよ」
 俺はしっかりと付言しておく。
「ここまでは、おまえの直感がすべて裏目にでてるってことをな」
 言いたいことだけ言っておいて、やつの反論を待たずに俺は背を向け、目を閉じた。猛烈な睡魔が襲ってきていた。
 森には「ハラハラ」と言ったが、正直、それは腹のほうの意味でしかなかった。いまは恐怖や期待なんてものより、とにかく早く家に帰って夕飯の残りでもなんでもいいから腹いっぱいにかっこみ、暖かく柔らかいベッドで寝たかった。俺の気持ちは、ただそこにのみ向かっていたのだ。

 肘をつつかれる感覚が、俺のまどろみを掻き消した。
 目を開けると、変わらぬ光景が広がっていた。戸の前には、寡黙に息を潜めて待機している申戸。いまだ黒曜石のような輝きが宙に浮いていることから、起きていることは間違いない。エアネットサーフィンでも楽しんでいるのだろうか。なにもせずによく起きていられるものだ。もはや感心していると、再び肘に妙な触感が走る。
 俺は視線を下げて、瞬時にえびぞりになった。だいぶ離れて横になっていたはずの裏木が目の前にやってきていたのだ。
「なっ」
 でかい声を上げそうになって思いきり口を押さえられる。
 人差し指を口にあて、「静かにしろ」の仕草をみせてくる。俺が頷くと、裏木はようやく手を離した。
「なんのマネだ?」
 なるべく声を落として訊く。
 裏木はなにか怒っているような眉間にしわを寄せたツラで、
「まえから訊きたかったんだけど……」
 と切りだす。
 なんだなんだおい。まさか「告白」なんかする気じゃないだろうな?
 俺がどぎまぎしていると、
「どうしてアンタって王子さまたちのグループにいるわけ?」
「……は?」
 俺はついアホみたいな声を発してしまう。
 やっと質問の意味を理解して、
「いや、どうしてってな……」
 どうしてだろうか。やつらとは小学校のときからのつき合いだ。その頃の友だちのつくり方なんていうのは「無意識」そのものだろう。気づいていたら仲よくなっていた。これだけだ。
「みんな言ってるの知ってんの? アンタがそのグループにいるのはおかしいってね。……それにタメ口だし」
 それはおまえもそうだろう。とはいえ、「みんな言ってる」……か。そんなこと、おまえに言われんでも俺だって知っていたさ。なにより、べつに高校にきてから始まったことではないからな。はたから見ればやはり「おかしい」のだろう。だって森にしろ駿河にしろ出辺にしろ、なんでもできるみんなからの憧れの存在なのだから。中学の頃から変わっていない。そのなかに、あくまでなにをやっても「平均」でしかない俺がいるのは、いわば光のなかに差す影にほかならない。まあ、もっと事実に即していうなら、〝しみ〟のようなものだ。際だつ異物感が、こと森たちのファンを公言するやつらには目障りでしかたがないのだ。正直、その気持ちはわかった。
「王子さまの言ってることが『裏目』のわけないじゃない。『裏目』はアンタの存在そのものでしょーが」
 俺の鼻先に指が突きつけられていた。
 根に持っていやがったのか。言葉の意味は理解しかねるが、言わんとすることはわかった。ようは俺に森たちのグループから抜けろ、ということが言いたいわけだ。俺だって綺麗なものになにか異物が付着していたら、取り除きにかかるだろう。それが好きなものならなおさらだ。
 俺たちはただ仲がいいから、いっしょにいたのだろうか? 好きだから? たとえそうだとしても、それだけでつるんでいていい時代は終わったということなのか? スペックの高いものは高いもの同士で固まらなければ、結局、淘汰されていってしまうのだろうか。
「アンタがいなくなっちゃえばいいのに……!」
 酷薄な女の歪みをみせつけて、ついに裏木は背を向けた。
 俺は反駁する言葉がなにひとつ浮かんではこなかった。こいつに言われたことは、俺が中学の頃のあるときから感じだした違和感の具体化そのものであったからだ。
 俺たちは友だちだ。それは間違いない。それでも、高校は別になると思っていた。しかしある日、森たちが私立にいかないと知った。うちの高校など、浪人を含めて一年にひとり、東大合格者がでるかでないかといったようなふつうの公立だ。いちおう進学校としては知られているが、あくまで地区レベル。私立の「進学校」のそれとは雲泥の差なのだ。
 俺はやつらと同じ高校を受験し、かつ通うようになってからというもの、違和感はますます大きくなっていった。そして湧くのは懸念だ。考えているのは「大学は別になるだろう」という短絡的な憶測だったが、それは当然、過去の思考とシンクロする。もしかしたらこいつらは、東大になんかいかずに、俺と同じ私大を受けてくれるんじゃないか?
 大学に入っても、俺たちの関係は薄れずにいつもいっしょにいて「当たり前」が続いてくれるんじゃないだろうか? それが俺の違和感の正体である〝本心〟だったことは言うまでもない。
 いかな小学校時代、中学校時代、高校時代、それぞれの時代で深い関係を築いていたとしても、進路が異なり、住む世界が違ってしまうと、なかなかその関係を継続していくことは難しい。たとえ続いていたとしても、その「温度」はやっぱり変わってきてしまう。同じ世界にいることの「重要性」。俺はいまでも憶えている。そんな話を、中学のいつだったか森が、いつものあっけらかんとした顔で俺たちに言ったのを。そのとき、俺は心のなかでやはり反射的に異を唱えたものだったが、これもやはりと言うべきか、着地点はやつの考えの傾倒だった。
 だから、いまも俺は、こうして森たちとともに殺風景な小屋にいて、肩を並べて横たわっているのだ。
 違和感の正体をもっと厳密に定義するのなら、本心と真実との葛藤といっていいだろう。俺はただ単に、甘えているのだ。森の考えに。だから俺に、こいつの考えがたとえ間違っていたとしても、責める権利などあるはずがない。「真実」を知りながら、それでも森の考え=本心に甘えていたからだ。裏木の怒りは、そこにこそあるように思えてならない。
 かすかな寝息が溢れている。
 門部がいないおかげで、静かないい夜だった。
 横を向くと、森は俺から背を向けて寝ていた。森の考えが俺にとっては甘いものであったとしても、それが正しいものだとは限らない。俺の真実も、ましてこいつらの真実も、互いの存在にはないんじゃないだろうか。その答えは、もうずっとまえからわかっていた。ただ、目を逸らし続けてきただけなのだから。
 ああ、言われなくてもわかっている。
 ここから無事に帰還できたなら――

「俺はワンゲル部を辞める」

 俺は自分を律するように、厳然と呟いていた。


 後頭部をどつかれたような殷々たる音が俺をいつのまにか落ちていた眠りから覚醒させた。跳ね起きると同時、戸が勢いよく閉められた。尋常じゃない事態だと瞬時に悟る。部屋のなかでは俺と同じように跳び起きたり、鬼の神経でぐっすり眠りこけている駿河の姿があったが、仮面少女の姿はない。俺はすぐさま小屋の外に跳びだした。
 夜明けを迎えたうすらぼんやりした視界のなか、強い雨が頭に当たった。が、別段、異変はなかった。誰の人影も見えない。
「でたんだね!?」
「捕まえなさいよ!」
 すぐに森と出辺がでてくる。俺は無言でなかに戻る。
「おい、申戸と裏木は!?」
 ようやっと起きた駿河に向かって問いかける。駿河は激しくまぶたをこすったあと、
「いないぜよ!!」
 猛然と立ち上がった。
 やられた……!
「でもどうして……!」
 女ひとりでふたりもの人間をそう簡単にさらえるものだろうか。
「ちっくしょぉ……!」
 わなわなと震えだした駿河が顔を硬直させて外へでていく。
「駿河っ!」
 駿河は雨で瞬く間にぐしょ濡れになると、
「おいふざけんなよっ! いったいなにを考えてやがるっ!!」
 立ち並ぶ木々に向かって叫ぶ。
「でてこいよ! 言いたいことがあるならちゃんと出てきて――」
 茂みのなかへ突っ込んでいこうとする駿河を森が必死で抱え込んだ。
「落ち着けって! 心配ないよ! みんな殺されたわけじゃないんだからっ!!」
 それでも駿河の怒りは収まらないようで、言葉にならない声を上げながら、森の腕のなかでもがいている。
 本当に心配ないのかよ、森。だってもうこれでとうとう……
「私たちだけになっちゃったわね」
 俺の隣で達観したように駿河の暴れる姿を見ながら、出辺が平静な声色で言った。
 俺は空を見上げた。
 落ち続ける雨とそれを降らす厚い雲……。いったいいつになったらこの雨がやみ、この山にきたときのような青空が顔をだすのか――
 俺にはまったく予想もできなかったし、その様を想像することすらできなかった。

 駿河を抱き締めている森に、無性にその答えを聞きたくなっていた。たとえいつも性懲りもなく外しまくる気象予報士よりもだんぜん体たらくであったとしても、これまでのように反射的に、多少のしこりだけを感じてやつに質問を投げてみたかったのだ。

「くっそぉー……、どうして寝ちまったんじゃろ……!」
 駿河が塗れたこぶしでかび臭い床を叩いた。
「僕もだよ。寝たふりして完徹してやろう、って思ってたのにね」
「おかしいわよね。徹夜なんてしょっちゅうしているから余裕だと思っていたのに……」
 どうやらこのなかで寝る気満々だったのは俺だけだったようだ。まあ、こいつらの意思も考えてみれば当然だ。自分で自分の神経を疑ってしまう。だが、欠陥だらけでとても収拾がつかないことは疑うまえにわかっていたと思い直し、
「どうだ? また現れると思うか?」
 出辺に向かって訊いてみる。が、出辺が口を開くまえに森が、
「絶対くると思うよ。これだけ立て続けにやってきたんだ。今日こそ寝ないで張っていれば……」
「そうかしら?」
 と、めずらしく出辺が異を唱え、
「彼女の目的がなんなのかわかっていないんだから、そう単純には言えないと思うわ」
 ごもっとも。拍手をしてやりたいね。
「わかってないからこそだよ」
 引くことを知らない恋愛初心者の痛い男のように森は身を乗りだし、
「わかってない以上、まだ仮面少女の目的は達成されてない可能性も充分にあるってこと。いまはそれを信じるしかないだろ?」
 探るような沈黙のあと、駿河がなんどか頷いて、
「そのとおりじゃ」
 ああ、やっぱりこうなるのか。
「今度こそやつを捕まえて懲らしめてやるぜよ!!」
 さすがにげんなりしてくるが、ほかに打つ手がなさそうなのもたしかだった。雨足はさらに強くなっている。小屋の屋根からは突き破るような雨音が響いていた。
「……もしもやつの狙いが俺たちにもあるのだとしたら、いったいその〝目的〟ってなんなんだろうな」
 俺は暗くて判然としない天井を見上げながら呟いた。
 しばし沈黙が下りたあと、
「目的ねぇ……ただふざけてるだけなんじゃないか?」
 いつもどおり楽観的な森。
「ふざけてるじゃすまされんだろ」
「全員生きて帰さない気とか?」
 出辺の意見は悲観的にすぎる。現実的ともいえるが。
「まあ、なんにしても、わしはやつを許さないぜよ」
 冷ややかな怒りを孕んだ声を駿河が漏らしたとき、俺は視線を戻した。こんな水も食糧もほかのメンバーもないない尽くしの状況だというのに、こいつらはひとりとして俺のように萎えてはいなかった。まるですべてがうまくいくと最初から知っているような顔つきだ。
 このまま〝光〟と置換できる顔を見ていたら、水を差すような言葉のひとつも吐いてやりたくなることは目に見えていたので、俺は逃れるように視線を移動させた。カーテンのないはめごろし窓がひっそりと視界に入ってきた。雨が強いせいで靄みたいにかすんで見える。なんとなくそこで目を留めて雨のざわめきを見ていると、
「……ん?」
 なにかが動いた気がした。
 俺の声にめざとく気づいた森が、
「どうかした?」
 訊いてくるが応えられなかった。俺の意識は窓の外に集中していたからだ。みなも俺の視線の先を追う気配がする。その一瞬ののちに、
「なっ」
 息を呑んでいた。
 角形の窓枠のなかに、突然、みっつの影が出現したからだ。予想だにしない光景とはまさにこのことだった。

 三人の仮面少女が、笑顔で小屋のなかを覗き込んでいた。

「――あいつら……!」
 いち早く正気を取り戻した駿河が、戸へ向かって突っ込んでいく。
「駿河!」
 俺もすぐにあとを追う。
「相手は三人だぞ!」
 外に出ると、案の定、三人の仮面少女は茂みのなかへと逃げていた。
「なんで逃げんだよっ!!」
 駿河が恫喝し、なおもあとを追おうとして、ぴたっと足を止めた。
「どうした!?」
 問いかけると、駿河が茂みの奥を指差す。
「ばらけやがった……!」
 そう指摘したとおり、三つの草を踏む音がばらばらに遠ざかっていく。ものすごいスピードだ。
「あたしたちもばらばらに追うしかない!」
 駿河が一点に的を絞って駆けだしかけるが、
「ちょっと待った! ばらけてここに帰れなくなったらやばいよ!」
 森が必死に止める。
「というかなんで逃げるのかしら? なんで三人なの?」
 出辺が問うが、そんなことわかろうはずもない。
「逃げるのはおとりかもね」
「どういうこと?」
「僕たちを捕らえるためにばらばらにしよう、少なくとも小屋からだそう、って魂胆さ」
「じゃあ……」
 俺たちの視線を受けて、森はすばやく頷く。
「なんで三人かはわからないけど、なにか罠があるのかもしれない。ひとまず小屋に戻ったほうが……」
 そうするほかなさそうだった。もうすでにやつらの足音は捌け、音で追跡しようにもそれはできない。
「くそっ!!」
 駿河が悔しそうに足を踏み鳴らす。
 まえから思っていたが、どうもこいつは仮面少女のこととなると我を忘れる傾向がある。それを配慮してか、森がいさめるように駿河の肩に手を置き、小屋へと誘う。俺はそんな二人のあとを出辺とともについていく。と、
「……?」
 俺は茂みを振り返った。
「早くいくわよ」
 出辺が声をかけてくる。
「……どうかしたの?」
 ああ、なにか気配がしたんだ。
 しばらく立ち尽くしていると、茂みがあきらかに不自然に揺らいだ。ひとつ、ふたつ、みっつの箇所で続々と。瞬間、
「山都、真奈!」
 出辺が引き返していた森たちを呼ぶ。
 同時に、揺れがやんだ。そして――
「!!」
 葉を撒き散らし、音の正体が現れた。
 そこには見覚えのある風体のモノがそびえていた。
 そうだ、人ならざる者。

 俺たちを執拗に追ってきた、あのヒグマが、三頭も揃って俺たちを取り巻いていた。


 見上げるほどのでかさ。
 こんなやつらに襲われたら、ひとたまりもない。一撃であの世逝きだ。恐怖と緊張のなかでの睨み合いが続いていた。なぜか熊たちは跳びだした勢いはどこへやら、その動きを止めている。
「……どういうことかしら?」
 耳許で出辺の呟きが届いた。
「わからないが、なんだっけ? やさしく話しかければよかったんだっけ?」
 と、俺の甘い語りかけが繰りだされるより先に、熊たちが動きをみせた。
 身構える俺たち。
 熊はその殺傷能力の高そうな爪を持ち上げ始めた。ここで俺たちが一歩でも動こうものなら猛烈なタックルをかましそうなそんな極限の殺気を感じさせる。当然、動くことなどできない俺の目の前で、熊は持ち上がった爪を静止させる。雨で濡れた光沢のある爪がなんともいやらしく惨忍な印象を焼きつける。
 が、いつ向かってきてもおかしくないその凶器は、なぜか不可解な動きをみせた。
「?」
 なにかリモコンで操られているかのようにシンクロして動く熊たち。いっせいにその手を後頭部のほうへと移していく。
「……なにを」
 俺が呟いたとあと、指を鳴らしたみたいな軽快な音が鳴った。もちろん熊のほうからだ。そして……
 熊の形が崩れていった。鬱蒼とした黒い毛も、厚そうな皮も、蓄えられた脂肪も、なにもかもがいっしょくたになってなだれ落ちていく。
 そのなかから、まるでマトリョーシカのように小さな影が現れた。
「……あっ!」
 背後から駿河の声が響いた。
 俺も心のなかで同様の一音を発していた。
 熊の外殻を解いてうちから出てきたのは――

 笑顔の仮面少女だった。

 三人の仮面少女の微笑みが俺たちに降り注いでいる。
 俺と出辺はたび重なる衝撃に押し流されるようにあとずさっていた。じきにぶつかる。森と駿河がすぐ後ろに立っていた。
 身じろぎしない仮面少女たち。
 先に動いたのは駿河だった。俺と出辺を押しのけて前に進みでる。
「おまえら、なんのつもりだよっ!?」
 喰ってかかる駿河。
 すかさず森がでていって駿河を止めながら、
「なにものだよ? いったいなにが目的なんだ?」
 投げかけられる問いに答えるように、仮面少女たちはまた同時の動きでその仮面に手をあてた。まるで弁当箱のふたを開けるようになんのためらいもなく、彼女たちはその仮面を取っていく。
 再び、俺たちは驚愕の渦に突き落とされなければならなかった。


「……やあ、仮面少女は、ボクたちだ」

 そうだった。仮面少女は、女ではなかった。男、それも……俺たちがよく知っている男たちだった。
「なんでおまえらが……」
 俺の視線の先で、きのこの頭をした男が顔中に笑みを広げた。俺が初めて見るそいつの笑顔だった。
「くっく……、驚いてくれたようで光栄だ」
 その喜悦につられたように、両側の男にも卑屈そうな笑顔が伝染していく。
 申戸、又堀、そして門部の三人が、仮面を手にし、黒い装束に身を包んだまま、どこまでも面白そうに、固まる俺たちに向かってうす気味悪い笑い声を飛ばし続けた。


「てめぇら……、ふざけたマネしやがって……!」
 わなわなと震えだしたかと思った刹那、駿河が森の腕から跳びだし、申戸めがけて襲いかかっていく。と、申戸がマントのなかから手を突きだした。その手には鉄製の鋭角な〝ペグ〟が握られていて――
「駿河!」
 俺や森が動いたときにはもう遅かった。申戸の手は駿河に向かって放たれ、灰色と深緑の世界に紅の彩色が散る。
「うっ!」
 喘いで腕を押さえる駿河。その指の隙間からどっと血が溢れでた。
「なにするんだよっ!?」
 森が駿河を支えながら喰ってかかるが、申戸は完全に凶器と化したペグを威嚇するように森の鼻先に突きつけ、
「おなしくしろ。……ボクたちはただ、奪いにきただけだ」
 したたかな笑みを落とした。
 申戸の横からうまくマントにその巨体を隠した男が現れ、
「そのとおりもす。全部奪ってやるんだもす」
 反対サイドからは樹冠を刈られた幹のような男が、
「キミたちに選択肢はないのですよ。人数の利を考えているとすればそれは間違いです。喧嘩の勝敗とはつねに「覚悟」が決めるもの。相手を〝殺す〟覚悟を持ったものが勝つのです」
 いつになくよく喋り、その「覚悟」とやらの象徴だとでもいうように、黒光りしたペグを俺たちにかざした。
「なぜ私たちはあなたたちに〝殺したい〟と思われているのかしら?」
 出辺が唐突に問いを発する。
 もっともな疑問だ。ただ、こいつらから立ち上る陰鬱そのもののオーラが、その答えを如実に示しているような気がしてならなかった。
 ふだんおとなしいひきこもりの男子がみせる突然の「狂気」。その「凶器」が同級生を襲った!!――こんな事件のテンプレートじゃないか? クラスのなかでかかえていた「心の闇」とか、こいつらなら漏れなく持っていそうだしな。そのうえで彼らの部屋からギャルゲーやちょっとでも「人を殺す」ゲームのタイトルが押収されれば完璧だ。当然、その条件にもこいつらなら十分条件を振りきって逆に満たしていないほどに達成していることだろう。それだと未達成だが。とにかく、またも「ゲーム脳」が原因か!? なんて見出しもつくことは請け合いだということだ。
 が、申戸の答えは俺が予期したものとは方向性の違うものだった。
「……ボクたちに火を点けたのは『仮面少女』が始まりだ」
 真っ黒な目を申戸は寸分も動かさずに口だけを動かす。
「ボクたちの憧れの存在である仮面少女があの日、奪ったブラジャー……」
 申戸の目が不意に宙を泳いだ。その目にはやはりブラジャーが映っているに違いない。というか、こいつはなにを言ってやがる。
「あの華麗な身のこなしに手さばき……そして掲げられた至高の白い輝き……いまも目に焼きついて離れていないもす」
 そういえばこいつらは裏木がブラを奪われたその瞬間を一部始終、部室の片隅で影のように見ていたのだ。仮面少女の素行がおかしくなったのはあれからだった。……ん? とすればこいつらが変装していたからこその豹変ぶりじゃないってことか?
「わたくしたちは言わば仮面少女に〝やられた〟のです。憧れの仮面少女さまがあの事件をもってわたくしたちのなかで『神格化』しました。それこそ、生きていくのがつらくてたまらなくなるほどに」
 申戸が無言で頷き、
「そして、ボクたちは〝仮面少女〟となったのだ」
 うまくまとめたつもりだろうが、まったく理解できんぞ。ただ、俺の見解とは「方向性」が違うだけで、素地としては違わないことがわかった。つまり……
「さすがに狂ってるじゃないか」
 そういうわけだ。
 申戸は口角だけで笑んでみせ、
「愛するということはつねに狂気とセットなのだ」
 恋愛経験ゼロのくせに「愛」を語ったかと思うと、
「これまで繰り返した数々の『犯行』。それらはボクたちにいままでにない刺激を与え、快感をもたらした」
「エクスタシーもす」
「忘我の境に入ったといっていいでしょう」
 忘れすぎだ。男のくせに少女を名乗るな。それに門部、おまえほど「エクスタシー」が似合わない男はいないぞ。
「あなたたちが仮面少女に憧れていたのはわかったわ」
「神もす」
「ええ……、だから彼女の窃盗を模倣したってわけね? なぜ? 彼女の気持ちを理解したかったから?」
 出辺の問いかけに、申戸の目が粘りけのありそうな光沢を放ち、
「だいぶわかってきたつもりだ。学校のやつらも、そしてあなたたちも、盗みがいのある反応をしてくれた。最高の気分だった」
 やはり最近の学校での執拗な事件の連鎖はこいつらの仕業だったか。考えてみれば仮面少女が本当に女でひとりの存在だったら、困難だったものも多い。
「それでとうとう物を盗んでいるだけじゃ物足りなくなったってことか……」
 森が申戸の顔を睨みつけて言った。
「裏木さんたちは無事なんだろうな?」
「さて」
「さてもす」
「憶えておりませんねぇ」
 申戸たちの顔が恍惚と歪んだ。まるでまたあの仮面を被せたみたいな同じ色の笑顔が並ぶ。
「てんめぇら……っ!」
 駿河が青筋を立ててすごむ。俺なら即答で謝ってしまうような迫力だが、さすがは申戸たち、その笑みに変化はない。狂気ってスバラシイ。
 ともあれ、まあ、これではっきりした。
 こいつらはもうなにを言っても無駄だという境地の「狂人」であって、まぎれもなくそのペグで俺たちを突き殺そうとしているということだ。こいつらが覚悟と呼んだ正真正銘の殺意をもってそう遠くないうちに俺たちに向かってくる。
 俺たちが倒れる青写真でも見えているのか、申戸たちは肩を震わして笑い始めた。さすがにぞっとするような光景だ。ちらと見れば、駿河や森、それに出辺でさえ、固唾を呑んだように目を見張っている。まあ、当然だろう。こんなキモオタのそれこそ神レベルのやつらをまえに、平静でいられるほうがおかしいのだ。普通の人間、いうなれば平均的な高校生なら、だれでも動揺のひとつぐらいはしようというものだ。
 が、ここで誠に遺憾なのだが、俺はきわめて冷静に申戸の悦に入った笑みを見つめていた。これは俺の平均生活がもたらした一種のスキルと言っていいだろう。すなわち、俺は自分がつねに集団のなかで目立たないようにするために、神経質なまでに周囲に目を配り、いったい自分がどれだけの立ち位置にいて、どれほど平均との距離があるのか、ということを測らねばならなかった。それは緻密な作業であり、ちょっとでもできれば、あるいはできなければ、たやすく賞賛されたり淘汰される世界において、いつでも冷静沈着に達観している必要があったのだ。
 無意識のうちに身に着けていたこのやや厨二っぽく言えば「クール・ゴツド・ビユウ(クール・ゴツド・ビユウの)」。それがいまこのときにも遺憾はあるのだが遺憾なく発揮されていた。それは同時に、程度や質の差はあっても、俺も普通人とは違う、いうなれば「狂気」を申戸らと同じように持っているということだ。
 きっといま、俺の傍にいる森たちは動けない。だが、俺は動ける。「ゴッド・ビュウ」が絶賛作動中だ。ならばどうする……?
 俺はこれまで、こいつらになにもしてはやれなかった。〝なんでもできる〟森たちのつくってくれた影に潜んで、ちゃちゃを入れてきただけだ。小学校の頃からなにも変わらない。俺たちはそれでよかったのかもしれないが、周囲がそれを許さなかった。なにもできないし、やりたくもない俺がこいつらとともにいることを、世界は拒んだのだ。いつのまにか、「好きだからいっしょにいる」、それだけじゃ足りない世界に変わっていた。
 俺はずっと気づいていた。気づかないふりをして無視してきただけだ。だが、もう逃げたくはなかった。俺は根っから、よくもわるくも目立つのが嫌な人間だし、これからもその生き方を変えるつもりはない。そしてそんな俺と森たちとの「共存」を世界が否定し続けるというのなら、俺はそれにしたがうと心に決めている。
 もうこれ以上、森たちの足を引っ張るようなマネはごめんだ。
 俺は気合を入れた。
 これで別れるというのなら、それもいい。俺ができることを見つけたいま、迷いはなかった。
 俺が手に入れた唯一の平均以上の力(「冷静なる神の~」)をもってして、俺はこいつらの命を守ってやる。全身全霊、命を懸けて。

 それが、俺がこいつらにみせてやれる、最初で最後の〝覚悟〟だ。


「さあ、ショータイムだ……!」
 申戸が駿河の血の付着したペグを見せびらかすように持ち上げて、大きく目を剥いた。黒目がそのまま飛びだしてきそうなその禍々しい形相は、そのまま加工なしでホラー映画のポスターに流用できそうな代物だ。
 恐々とした空気が鎖となって張り詰め、ショーの生贄たちの体をがんじがらめに捕縛する。もちろん、約一名(ミー)を除いてだが。
「『御命泥棒』ぉぉっ!!」
 仮面少女を踏襲したのだろうが、わけのわからない言葉を吐いて申戸が駿河へ向かってペグを振り下ろした。
 俺は気持ち的にはスプリングボックなみの跳躍力で駿河のまえに割って入る。そしてペグを受け止めようと手を突きだした。
「……ッ!!」
 瞬間、すさまじい痛みが手のひらを貫いた。手から鮮血が飛んでいくのがややストップモーションで見える。
「キンヤン!!」
 切迫した駿河の声が後頭部で打ち鳴った。
「おまえ……」
 正面では、にたっと陰惨な笑みをみせてくる申戸。紫の臭気が見えるほどの、徹頭徹尾の毒きのこ。
「安心しろ」
 俺は握りつぶす気迫で申戸のこぶしを握り締めながら、駿河に声をかける。
「俺がおまえたちのことを絶対、守ってみせるからよ」
 返事がこない。相当、「カッコイイ」台詞だったはずなのだが。それこそ、俺のことを好きになってしまうばかりか、好きになりすぎて嫌いになってしまうぐらいの。
 この緊張感漂う時間のなかではあまりに長く感じる沈黙のすえ、俺が本当に嫌われてしまったのか不安を覚え始めたころ、
「ぷっ」
 埒外の声音。ついで、
「ぷははははははっ!」
 爆発する笑声。垂れ込めていた緊迫した空気の鎖がいっぺんに錆びついて粉と帰していく。振り向くと、三人ともが雨と思いたいがおそらくは涙を拭いて笑っていて、
「本当に守ってくれるのかね? そりゃぁ頼もしいぜよ!」
 馬鹿にしたように両手を握って「頼もしさ」を体現してくる駿河。
「いやぁ~~、まさか瞬に守ってもらえる日がくるとはね。長生きはするものだよ」
 やれやれ、と大仰に肩をすくめてみせるのは「森」と書いて「もり」と読むなんの面白みもない男。
「ふふっ、ちょっと映画の観すぎなんじゃないかしら?」
 鞭を持たせたら似合いそうな高飛車な笑みを向けてくるドミナトリックスは出辺。
「おまえら……!」
 こいつらはいったいひとの「覚悟」をなんと心得ているのだろうか。
「笑ってる場合か。こいつらは本気だぞ……!」
 なぜ俺が緊張を煽らねばならん。が、言っていることは事実で、申戸のペグが俺の手を押しきろうとさらに負荷をかけてくる。と、
「わかっているさ。でも、なんで瞬だけが戦わなきゃならないのかな?」
 森が横から手をだしてペグを握った。じりじりと俺の鼻先から点のようにしか見えていなかった、上級生が卒業するやオールバックで登校してきた中三男子のような尖りきった先端が離れていく。
「そりゃあもちろん、俺がおまえたちにできるのはそれだけだからだよ」
「は?」
「俺がおまえたちといっしょにいた〝意味〟っていうかさ……」
 俺は満身の力を込めて、
「おらぁっ!!」
 申戸の手を弾き飛ばした。そのままもんどり打って大地に還るきのこ。
「……意味ってなんだよ?」
 マントを散らして声もなく仰向けになっている申戸を見下ろしながら森が、
「また得意の〝しょーもない論理〟を展開しまくっちゃったのかな?」
 かすかな笑みを滲ませて言う。
「しょーもないとはなんだ」
 おまえにだけは言われたくない。それに、ちゃんとつき合ってくれたひとだってきっといるんだぞ。ねぇ、ありがとう。
「……みんな俺がおまえたちと仲よくしてることを気持ち悪がってんだよ。まあ、妬んでるのかもしれんがな。なにもできない男が人気者と同じグループにいるもんだから」
 寝そべっていたきのこが起き上がり小法師のように膝も曲げずに体を起こし始める。
「本当にしょーもないわね」
 すぐ傍で出辺が、
「それであなたが私たちを守ったら、それがいっしょにいる〝意味〟になるの?」
 俺は首肯する。
「俺にもできることがあったってわけだ。無論、おまえらと対等というわけじゃないが、それでも別れのたむけとしては意味もあるさ」
「別れ?」
「ああ、俺はここで命を懸けて戦うからおまえらは逃げ……」
 側頭部で派手に雨水が跳ねた。はたかれたからだ。
「なにしやがる!?」
「ほんっっっと、馬鹿」
 そんなに溜めて言われると本当に馬鹿な気がしてくる。俺にM属性はないからお手柔らかに頼むぜ、ミストレス。
「だっはっはっは!」
 反対側ではすっかりいつもの調子の駿河が、
「まあまあ、こんなおバカなところもキンヤンの稀有なところじゃよ」
 ああ、似たようなことはさっき思ったよ。
「だれになにを言われたのか知らないけどね……」
 とは森。
「僕たちは知っているさ。キミがなにもできないやつなんかじゃないってことはね」
 そして油断なく申戸たちに視線を送る。三人は寄り添うように立ち、面白そうに俺たちの会話に耳を傾けている。
「能あるキンヤンは爪を隠して尻隠さず、ってことじゃよ」
 深いんだか浅いんだかまったくわからない。
「まあ、ものすごくシャイだから絶対に目立ちたくないとか思ってるせいで逆に目立ってるかわいそうな人ね」
 ああ、わかりやすいな。……っていや、そうじゃなくて、
「おまえらがどう思っているかなんて関係ない。大事なのは世界が俺を……」
「〝世界〟だって!?」
 ついにげらげら笑いだす森たち。つられて申戸たちもセンター街でうんこ座りしているギャルだったら見るまえに「きもい」と即断しそうな笑みをみせている。おい、おまえたちに笑われる覚えはないぞ。
「やっぱり瞬の思考は独特だね。それだけで『平均男子』たる資格を失っているといえるよ」
「どこがどう平均じゃないんだ? 俺はあくまで一般的で普遍的な……」
 そうだ。俺のモットーをそうあっさりと否定するんじゃない。
 ようやく笑いを抑えた森が、
「前提からして平均じゃないね。友だちでいるかどうかにもっとも関係ないものが……」
 ここで吹きだすのを懸命にこらえるしぐさをみせてから、
「〝世界〟なんじゃないかな」
「そのとおりよ」
 出辺が高圧的な声をはさんできて、
「大事なのは私たちがあなたを友だちだと思ってることなんじゃないかしら?」
「いや、もうそれは小学生のときにだな……」
 森が、またおかしなこと言いだしたぞ、みたいな顔で、
「小学生のころと世界が違うって?」
 いちいち「世界」って言うたび笑うのやめてくれないか?
 俺が黙っていると、
「それこそ燃えるじゃないか! どんな世界でも僕たちの友情は消えないってね!」
 よくも抜け抜けとそのまま青春映画から抜きだしたようなセリフを言えたものだ。俺なら即刻、脚本家なり監督に進言するところだが。おまえこそ映画の観すぎなんじゃないか?
 で、おまえはなぜ泣いている!?
「そ、それが聞きたかったんじゃ、いいこと言うのう、リモ氏ぃ~~っ!!」
 駿河は滴る雨以上に大粒の涙を流しながら、
「さあ、わしらの霧は晴れた! たとえ世界を敵にまわしても、わしらの友情は続いていく!!」
 と、ここで俺の肩を傲然と掻き抱き、
「現れた敵は、みんなで打ち倒してやればいいのじゃ!!」
 ビームでも放出されそうな勢いで申戸らを指差す。
「ま、そういうことだね」
 耳許で漏れたひどく陽気な森の声が癪だった。
 こいつらが吐いたのは俺の考えとは正反対の答えだった。大事なのは、世界より俺たちの気持ちだと。本当に、周囲の人間が許さなくとも、俺たちがそれでよかったらいいのだろうか? そんな駆け落ちするカップルのような利己的な心境でも? 仮に友情においてはそれでいいのだとしたら、どうして俺は……
 どうして俺は、こいつらにこんなにも、

 申しわけない気持ちになるのだろうか?

「新たな課題が見つかったんじゃない?」
 出辺がこっそりと呟いた。
「あなたは、そうね……、やさしすぎるのよ」
 向けられた偽悪的な笑みがかすんで消えていく。
 俺が「やさしい」だって? そんなこと、幼いころまでたどっても言われた記憶など皆無だ。それはさすがに出辺、おまえの「買いかぶり」というやつだ。俺ほど買いかぶったところで益体のないやつはいないぞ。ただ、不思議だな。俺もおまえらのことを、ちょうど同じように感じていたよ。
 おまえらのほうこそが俺に、やさしすぎるんだ。

「熱い友情に興じているところ恐縮だが……」
 恐縮ならそのままマントを脱ぎ捨てて土下座してから裏木たちが生きてるかどうか教えやがれ。
「あなたたちの『世界』はボクたちが奪う」
 おい、パクるんじゃない。
「そうもす。世界の終焉もす」
 やっと動いたか。食欲の神仏かなんかの像に昇華したのかと思っていたぞ。
「世界はわたくしたちの手のなかにあります。すべては〝仮面少女〟の標的なのですから」
 世界はおまえたちの手に収まるほど、そんなたやすいものじゃないんだよ。俺を「しょーもない」思考に突き落とすぐらいには厄介なものだ。おまえらなんかの手のなかで踊らされてたまるか。
 申戸がぽっちゃりしたJKでも「きもいじゃん!」というに違いない笑顔を放って、
「『世界泥棒』っ!!」
 絶対に許せない言葉を吐いたかと思うと、三人同時に突っ込んできた。
 この「殺す気持ち」というところの〝殺気〟が全身を痺れさせるような瞬間であっても、そこはこの俺、あの必殺スキルが機能する。「冷静ななんとか」が、迫りくる申戸のペグを欠伸するか、あるいは寝ていたらさすがにやばいくらいのスローモーションに変換して網膜に投射してくれる。意外と平均が低いと感じたスポーツテストの反復横跳びの要領で、軽やかなサイドステップをかます。すさまじく寝起きの悪いトロルが唸っているようなサウンドのなか、俺はメタな速さの手刀を一閃する。申戸の手首に命中し、あっけなくその手からペグが地面へと落ちていった。
 すぐにペグを拾い上げ、申戸へと差し向ける。「冷~」を解除すると同時、俺たちの勝敗は決まっていた。
 あえなく「女王さま」の足にその頭を踏まれている男が一名。陶然とした顔で靴底とぬかるんだ地面にはさまれている。「ナンナン、もっと強く踏んでください~……!!」などと独りごちているが、それ以上強く踏まれたら死んでしまうだろう。俺と違って又堀はドMなようだが、相手が悪かったというほかないな。腕を組んで鼻を鳴らしている出辺にはぜひファイバー製のケインを持ってもらってやつの尻を叩いてやってほしいものだ。本人も喜ぶことだろう。
 門部は腹をかかえてしゃがみ込んでいた。駿河が「押忍!」のポーズをしていることから、十中八九、彼女の得意とする「後ろ回し蹴り」が炸裂したと見受けられる。中学に入ってそうそう、校門前にたむろしていた上級生に喰らわしたのが俺の最初の目撃であり、以来、こいつとだけは取っ組み合いをしないことを誓ったものだ。
 森は頭の後ろに両手をまわして口笛を吹くようなマネをしている。まったく悠長でいいことだ。いつもの自分のポジションを見ているようで、やはりそれもなんだかんだ悪くないなと思っていると、
「おいっ!!」
 森の顔が豹変する。俺はすぐさま振り返った。申戸がいない。視線を振ると、門部の体に屈み込んでいる申戸を捉える。なにをやっているんだ、と思う間もなく、申戸が立ち上がった。その手には、門部の持っていたペグを握っていて――
「駿河ぁっ!」
 油断していた駿河へ向かって伸びていく申戸の卑劣な攻撃。俺は無我夢中で駿河を抱き締め、そのまま跳びすさる。その瞬間、
「ッ!!」
 首に火鉢を押しつけられたような激烈な熱が貫いた。
「キンヤ……ッ!」
「瞬っ!!」
 抱いている駿河や森たちからあきらかにやばいトーンの悲鳴が発せられた。それだけでも事態の深刻さを悟るには充分なのに、駿河を抱きとめる手からは瞬く間に力が抜け、首から侵入した「熱」が身体中を駆け巡り、血液を蒸発させていくような絶望的な感覚が甚大な情報として脳を爆散させんとしていた。
 俺はついに駿河の体をあとにして、地面へとくず折れた。沸き上がる高熱のなかで頬にかすかな冷気を感じた。耳が遠くなる。視界には煙草で穴を空けたみたいにところどころ紅い斑点が浮き上がっている。
 森たちのパニックを起こしたような轟々とした声が判別できない雑音となって鼓膜を揺らす。「赤」が徐々にその領域を広げていく視界のなかで、なぜかたくさんの足がやにわに溢れかえった。さらに狂ったような「音」がもうほとんど機能していない鼓膜を執拗に掴んでくる。
 なにが起こっているのかわからなかった。
 が、自分がなにをしたかは、霞のかかった意識においてもわかっていた。俺は自分が決意したとおり、命を張って駿河を守ったのだ。
 それは彼女たちの「優しさ」を知ったいまとなっても、自分にとってはかなり大切な朗報だった。
 つまり俺は心からの満足感と、わずかばかりの心残りを遺して――
 いまや真紅に染まりきった視界に、漆黒の闇を下ろした。


 最近の病室はなかなかのアメニティだ。
 まあ、「アメニティ」などという言葉をここにきて知ったぐらいにな。ちょうど空きがあったこともあって、俺は個室で悠々自適な入院生活を満喫していた。観たいときに大型のテレビでDVDを観る。冷蔵庫もあるから大好きな辛口ジンジャエールが飲み放題だ。溜まっていた本を読破するにもうってつけの時間だった。これがたとえば夏休み中のできごとだったら無性に損した気分にもなるのだろうが、俺以外の生徒はみな学校で聞きたくもない授業を聞いたり聞かなかったりしているのだから、これは笑いが止まらないというものだ。
 ただ、たったの一週間でこの安寧の時も終わりを告げるというのだから、なんとも口惜しい。あの妙にカルテを書く手が震えまくっている医者も少しばかり盛ってくれればいいものを。まったく融通が利かない。それをドイツ語だと言ったらドイツ人が一様に首を振りそうなきっとドイツ語で書かれたカルテはまさに暗号文。解読にはいったい何人の学者を集めなければならないのか見当もつかない。みみずがのたくってももうちょっとマシな字になるはずだ。あれで俺の首を縫合したというのだから、まったく世のなかには怖ろしいことが溢れているな。それで合法だというのは、むしろ「法律」こそこの世でもっとも無慈悲で怖い存在なのかもしれない。とまれ、意識を失っていて幸運だった。もしも手術まえにあの担当医のワックスをかけて磨きたくなる頭を見ていたら、全力で拒否していただろうからな。それこそ、血が一滴も身体からなくなるまで、叫び続けていたはずだ。
 ああ、法といえばあれだ。申戸たちは俺が倒れたまさにあのとき現れた「救助隊」によって警察に引きわたされ、そのなによりも恐ろしい法律の餌食になるそうだ。俺に傷を負わせたことで、余計に法律の「顔」は恐くなっているに違いない。俺の担当医のあのつぶらな黒目と同じくらいにはな。
 もっとも、派手に転倒して気絶した割には軽症だったのだが。一週間で退院だし。だからもうちょっと……まあいい、ところであまり気にするようなことでもないだろうが、裏木たちはちゃんと生きていた。俺たちが断食の苦行を強いられたあの山小屋からそう遠くないところに似たような建物があり、そこに捕らわれていたのだ。
 仮面少女というと笑ってしまうがあの申戸たちのアジト的な場所だったようで、そこには数々の丸太と有刺鉄線(あの洪水と化した「秘境」を囲っていたはずのもの)や、駿河が俺にくれたのと同じメーカーのチョコ(睡眠薬入り)であったり、リヤカー(亀津でもすっぽり収まりそうな大型のもの)などが置かれていたらしい。それらは全部、森から仕入れた情報だ。俺はこのとおり入院しているし、もししていなくても、やつらの「アジト」などに興味はひとかけらも持ち合わせてはいなかったからだ。勝手に喋る森の話を聞いていればそれで充分にすぎる、というものだった。
 西日を感じて、俺は時計に目をやった。十六時。過ぎてほしくない時間というのはことのほか早いものだ。これからは当分、ひとりで静謐な時間をのうのうと……、というわけにはいかない。なぜならまずは……
「アニキぃっ!」
 でた。
 あわただしくドアを開けて、ここは病院だぞ、と怒るより先に自分のほうが本当にここは病院だったかと疑ってしまうほどなんの憂いもない元気を発散して闖入してくるのは赤いランドセルを弾ませるJSだ。
「ただいまです!」
 鈴はどんな先生でも指してしまうだろう快活な挙手を披露する。
「ただいまっておまえ、ここは……」
 あれ、家じゃないよな?
「お頼まれモノですよ!」
 そう言うと、俺が持っていても似合いそうな桃色の手提げから何冊かの本を取りだした。
「おお、悪かったな……、っておまえ……」
 俺はわたされた本が自分が頼んだそれとはまったく違うことに気づいた。「にこにこ算数」。なんだこれは。
「今日の宿題でどうしてもわからないところがあるんですよぉ……!」
 ツインテールをくねくね回しながら言ってくる。
「わからないところはわからないままにしておくことも重要だ。あまりわかりすぎると平均点を大きく上回ってしまうからな」
「意味わからないですよ~~!」
 ぴょんぴょん跳び始める。
 まったくおまえはつねに動いているな。どれだけ無駄にカロリーを消費したいんだ? それにこの「にこにこ算数」っていうネーミングが気に入らん。なぜなら俺は算数でにこにこした経験などないからだ。むしろ「いらいら」とか「だらだら」とかいう接頭語ならまだ潔くて好感も持てるのだが。にこにこって……
「このままじゃ絶対にこにこできません……」
 泣き始める。おまえも入院したほうがいいんじゃないか?
「わかったよ。どれがわからないんだ?」
 とたんに笑顔の花が咲く。おお、にこにこになったじゃないか。これで解決だ。
「これです!」
 突き返した俺の手のなかの問題集から鈴が挑戦的な動きで一点を示した。俺は溜息をつきつつ、問題に目を落とす。音読する。
「『まわりの長さが24センチの正方形にぴったり入る円の半径を答えなさい』……」
「ね、意味わかんなくないですか!?」
 横から鈴も覗き込んでくる。
「いや、意味はわかるだろ」
「まじっすかぁ! さすが、アニキは〝天才〟ですねぇ!」
 高校生を馬鹿にするんじゃない。
 しかし面倒くさい。こんなもの暗算でいいのに式を書かねばならんようになっている。なにが「にこにこ」だ。「ねちねち」しやがって。
 しかたがないので鈴に教えてやりながら、式を書かせることにする。
「あ、そういえばアニキ……」
 鈴はベッドの脇で鉛筆を走らせながら、
「『仮面少女』、捕まっちゃったんですね」
 ああ、捕まったな。少女じゃなかったが。ずいぶんショックを受けたやつも多いだろう。ほとんどのやつがすべての仮面少女がやつらの仕業だと思っているからな。妹もその大多数のひとりだ。全部を語る気には到底ならない。
「それが、おかしいのですよ」
「……ん? なにがおかしいんだ?」
「鈴は仮面少女が二人いると思っていたからです」
 純粋な瞳をこちらに向けて、小さな手で「V」をつくった。
「ほぉ」
 なんとなく応える。正確には三人だがな。噂が小学校まで広まるうちに矮小化したのだろう。たいていは増えるものだが。いちおう訊いておく。
「なんだ? お友だちに訊いたのか?」
 しかし鈴は首を振り、
「鈴が見たからです。アニキの文化祭にいったときにです」
 再びVサイン。
 ああ、あの芋喰ってたときかな。
「はい、一回目はそうです。体育館からでてきて校舎に入っていく仮面少女を見ました」
 鈴は回想するように、アヒル口をつくってさらに上唇のうえに鉛筆を載せ、
「あとはアニキを追って森にお芋掘りの手伝いにいったときのことです」
 手伝わんでいい。
「校舎の横をてくてく歩いていたら、なんとっ」
 拍子に鉛筆が振り落ちるのも構わずに、
「教室の窓から女のひとがおっぱいにする下着を持った仮面少女が跳びだしてくるじゃありませんか!」
 自らのつるぺたな胸を思いきり掴む。
「あっ、鈴はまだ着けてないのですよ」
 そんな情報はいらん。それよりも、
「べつにだからといって別人とは限らないんじゃないか? 芋喰ってるときに見た仮面少女と同じやつかもしれんだろう?」
 鈴は澱みなく頷いて、
「それがまた現れたんです! 仮面少女がほっぽりだした下着を、同じ窓からでてきたきのこみたいな『仮面少女二号』ならぬ『仮面少年』が拾ってカーテンに張りつけ始めたんです!」
 申戸だな。しかし「二号」とは。どう見てもとおりすがりの変態かよくて仮面少女のぱしりだと勘ぐるのが関の山だと思うが。
 鈴は「にこにこ数学」に取り組む大半の小学生がみせる顔をつくり、
「みんなが『捕まった』と言ってるのはきっとあの『二号』のほうなんじゃないでしょうか」
 ほう、いい読みだ。
「鈴に素顔を見られちゃうぐらいお間抜けさんですからね」
 そのお間抜けさんに「アニキ」は病院送りにされたんだがな。
「だから『本家』はまだ捕まってないのですよ、アニキ。鈴はいつかその素顔が見られたらいいな、と思っています」
 そうにっこりして言うと、鉛筆を取って難しい顔に戻る。
 楽しみにするのはけっこうだが、やはり本家たる「一号」のほうはそうたやすくはないと思うぜ? 俺は式の続きを言ってやりながら考えていた。申戸たちと違って「お間抜けさん」ではないからな。
 妹が見たいと思っているのは、もちろん申戸でも門部でも又掘でもない〝だれか〟だ。あの文化祭の日、基本的にやつらはずっと部室にいて、鈴が見たように申戸が部室周辺をちょろちょろしていたくらいのものだ。申戸たちの前で華麗に裏木の下着を奪い、窓から走り去った仮面少女。彼女はその求心力からか申戸らをよけいに誤った方向へと感化してしまった。
「できあがり~~~ん!!」
 両の指先で自らを指し、二重跳びをするぐらいの勢いで跳ね始める鈴。ま、問題をやり終えてにこにこになるのなら、「にこにこ算数」も捨てたものではないのかもしれんな。その意図するところは違うと思うが。
「アニキ、鈴にご褒美をくださいませっ!」
 将来は自衛官をお勧めしたくなるほどの見事な敬礼をかましてくる。それはいいのだが、「ご褒美」ってなんだ? 俺がもらってしかるべきなんじゃないのか?
「期待してもなにもでてこないぞ。見舞いの果物は全部喰っちまったからな」
 それだけの怠惰な時間はたっぷりあったのだ。
「ジンジャエールがあるとママが言っていたような……」
 わけ知り顔の鈴。まったくいらないことを吹き込む〝ママ〟だな。
 俺がそっけなく冷蔵庫を示すと、たちまちベッドを跳び越えて瓶を手に取った。
 まもなく喉を潤し始め、
「ぷはぁ~~、学校帰りのジンジャーは最高ですねぇ!」
「おまえ絶対ジュース飲みにきただけだろ」
 聞いちゃいないと思ったら、
「それだけじゃないですよぉ~~!」
 息継ぎの合間に応えてきた。
 ああ、あと宿題をやらせにきたんだったな。
 猛烈な速さで一本飲み終えた鈴は、はたして無駄に笑顔を振り撒いて帰っていった。「たかしくんの家で遊ぶ約束」をしているらしい。軽く「たかしくん」にジェラシーを感じながら、俺はやっと落ち着けるインターバルに興じることにした。
 やはり頭に浮かぶのは「仮面少女」だ。まあ、妹が言うところの「一号」か。それに関して、実は俺も鈴と同じ気持ちだった。ある意味、自分のせいで申戸たちが「悪い」二号になってしまったことを、彼女はどう考えているのだろうか、それが気になっていた。感じる必要のない罪悪感を抱いてやしないかと、心配でもあったのだ。
 そうだ。俺も妹と同じように、仮面をとっぱらった素顔の彼女の声を聞きたかった。笑顔の仮面のその下では、けっしては笑ってはいない。むしろ反対に……
 それが俺には、手に取るようにわかっているからこそ、彼女の〝本音〟を聞かなければならなかった。
 と、また静寂の終わりを告げる、ドアのスライドする音が響いた。

「今日も一日、全力でメタボったかな~~?」
 こいつはこいつで無体な明るさをさらけだして俺の視界を独占した。はあ、疲れる時間の始まりだ。
「おまえがくるとストレスで細るからプラマイゼロだな」
「毛まで細らないようにね」
 うるさい。「まだ高一だぞ」と言おうと思ったが、又掘の例があるので呑み込まざるを得なかった。森のことだからまたべつの反論を繰りだしてきそうだがもしも、ということもある。いまはそれこそ「禁句」というやつだからな。無駄なフラグは立てないにこしたことはないのさ。
「はい」
 床頭台の上に出辺が鈍器のような音を立ててなにかを置いた。見ると、
「おおっ」
「図書室で借りといたわ」
 ありがたい……!
「鈴ちゃんが持ってきてくれると思ったんだけど……」
 いいや、あいつは算数の問題集(にこ算)しか持ってきやしなかった。
「しかし瞬が〝海外ファンタジー〟とはね。そんなピュアな心を持っているとは知らなかったよ」
「甘いな、おまえが読んでないのが丸わかりだぞ。ファンタジーといってもけっこうダークなんだよ。ひとは死にまくるし、残念系の共感できる男もよくでてくる」
 すると森はいたく得心がいったように、
「ああ、小説は共感が大事だっていうからね。『残念系』か……、うんうん」
 唐突に小学生のとき冬でも半ズボンだった小竹のような悪ガキそのものの笑顔になって、
「物語のなかにも『残念さ』を求めるなんて、キミはどこまでマゾヒスティックなのかな?」
 思う存分笑ってから、森は提げていたスクバをごそごそやり始めた。
「……僕からはこれだ! そんなキミには打ってつけだよ」
「いらんものを……」
 つい口からでてしまうのもいたしかたないだろう。そこにはどう屈曲しようとにこにこできないのだからすべからくにこにことはいっさい記されていない数学を始めとする指定問題集の山。中途半端な進学校はこれだから始末が悪い。
「授業でやったところは印をつけといてあげたからね」
 なにもウインクして言うことではないだろう。
「今度の体育祭の部活対抗リレー……」
 出辺がなにげなく呟いた。
 部活対抗リレー、ワンゲル部も体育会系部活として認知されているので参加を余儀なくされたという厄介なものだ。
「アンカー、あなたで登録しておいたから」
「おいっ!?」
 声が裏返ってしまう。部活対抗のアンカーなど「目立ちたがり屋」の聖地じゃないか! 「第二走」という無難な位置でぎりぎり転倒さえ喫しなければという許容性だったのに……。
「駿河はどうしたんだよ!?」
 あっ。
 そういえばこれも「地雷」と化していたのだった。つい興奮して口走ってしまった。
「……まだ学校にきてないのか?」
 まあ、ここにいないのだから訊かずともわかっていたが。
「ええ……、メールも返ってこないし……」
 出辺が顔を曇らせて、
「こんなこと初めてね」
 ああ、元気の代名詞みたいなやつだったからな。
「ま、心配ないよ」
 またおまえは……。
「真奈のことだ、すぐ復活して戻ってくるよ。瞬が目のまえで大げさに血を噴きだして意識失っちゃうんだもん、そりゃあショックも受けるさ。僕もあのときはさすがにヤバイと思ったし……」
 正直、俺ももうだめだと思ったが。
「わが町の名医、さとば(さとば名)先生に担当してもらえたからかな。よかったね、瞬」
 そうそう、本当にありがとうございま……、ってあのハゲが!? ああ、いやいや、そんなこと言っちゃだめだ。遊び心でカルテにつっこんでしまってごめんなさい。でも、自分で書いた字読めなかったよね。だからそれはドイツ人が読んだって……
「退院したら、あなたから連絡とってよね」
 出辺がまじめな顔で言ってくる。
 俺は黙って頷いた。そんなこと、言われなくても決めていたことだ。
 さっきも言ったように、俺は「仮面少女」の素顔――。
 すなわち、「駿河真奈」の声を、だれよりも聞きたいと思っているのだから。


 屋上とは風が強いものだ。理由としては「遮るものがない」というのが第一に挙げられるだろう。地表だと平坦に見えてもやはり摩擦が生じて弱まるものだからな。人間は空を飛ぶことができない。人を風だとするなら、つねに地表を這って吹いていくというわけだ。ときには建物に遮られ、自然物にも惑わされ、それでもよけたり越えたり戻ったりして進み続ける。摩擦だらけの世界を吹いていれば、ときには風どうしでぶつかり合い、ごたまぜになって嵐に変わることだってあるだろう。それでもいつかは収まって、また障害物と相対しながら吹きすさぶ。屋上で感じるこの風たちは、あまりに自由で、なんの憂いも孕んでいないように思えた。同時にそれが面白みに欠けると思ってしまうのは、俺が平均男子として生きるこの人生に、まだ決定的な嫌気を覚えてはいない証拠なのかもしれない。
 とまあ、また森に聞かれたらうんざりするほど笑われそうなモノローグに没入していると、屋上に突きでた階段室の金属質の扉が軋んだ音を立てて開いた。
 俺がまず感じたのは安堵だった。「待ってる」とはメールしたものの、きてくれるかどうかは返信もなかったので確信が持てなかったからだ。
 仮面少女、もとい、駿河真奈は俺の前までくると、やわらかく笑みを湛えた。
「よかった……、退院できてなによりぜよ」
 まあ、いまだに狂おしいほどの痒みとの闘いは続いているけどな。
「駿河も体調はもういいのか?」
 すると肩をすくめてみせて、
「キンヤンに心配されるようなことではないのじゃ……」
 柵に寄りかかった。俺も並んでグラウンドに目を落とす。休日のわが高校、午前中はサッカー部の支配下にあった。激しい砂埃のなかでボールを追いかけている集団には、どうやら「花粉症」という単語は存在しないようにみえた。俺は首のみならず、鼻のむずがゆさにも耐え忍んでいるというのに……、実にうらやましいことだ。
「ちょっとおまえに訊きたいことがあるんだ」
 そう言うと、駿河がこちらを向いた。その目で何人の男を魅惑したのかと思うと魔性さえ感じてしまう美しすぎる瞳が俺を突貫していく。気絶するのをなんとかこらえて、俺は続けた。
「いくら考えても、どうしてもこれだけがわからんのだが……」
 そう前置きしてから、
「どうしておまえは裏木の下着を盗ったんだ?」
 駿河の大きな瞳がさらに広がった。風がミルクブラウンの髪をざわざわと揺すっていく。
「そのまえの『仮面少女』のおこないは実におまえらしかったよ。学校中がおまえの登場を待ち望んでいたくらいにな。もちろん俺もそうだ。『答案泥棒』にはずいぶん助けられたよ」
 俺はここで腕を組み、
「そして申戸たちの登場。ここでその所業が醜悪なものになったのはいわば当然だ。化けているのが〝狂った〟やつらに変わったんだから。大事なのはそのきっかけ。つまり裏木の……まあ、『下着泥棒』か?」
 まったくそのままで自分のネーミングセンスのなさに呆れてしまうが、ほかに思いつかなかったのでしかたがない。
「あれはおまえのしわざだったはずだ。申戸たちは部室にいたと裏木たちが言っていたしな」
 しばし、風だけが吹き抜ける音が響いた。そして唐突に、
「全部バレバレだったんじゃな」
 駿河は俺から視線を逸らして笑った。
「ああ、どうやら俺だけがずっと気づいていなかったようだ」
 鈍感にもほどがあるというやつだろう。
「裏木になんか恨みでもあったのか?」
 まったく駿河らしくないがな。しかし、それ以外に考えられなかった。たとえカーテンに張ったのが駿河の犯行じゃないとしても、下着をかすめ盗っただけで充分、相手を「傷つける」意図が感じられたからだ。
 首を振ってほしかったが、駿河は首肯した。
「恨みってなんだ? なんか言われたか?」
 俺にもずいぶん辛らつにつっこんでくれたからな。しかしそれは「俺」だからであって、まさか崇拝している駿河にそんなことは……
 が、ここでも駿河は頷いた。
「なんて言われたんだ?」
 ややあって、
「……あたしのことじゃないんだ」
 だんだんと、少女の仮面が剥がれてきたのがわかった。駿河の顔がどんどん引きつっていく。険しく眉根を寄せながら、
「あたしのことじゃないんだよ」
 もちろん俺は感づいていた。腹の底からふつふつと嫌な感情がせめぎだしているのもわかった。俺のもっとも嫌う類のものだ。それは広義の意味でいうなら「後悔」とみなが即断できるそれだった。それでも、もう駿河の言葉を止める気にはなれなかった。
「俺のことか……」
 駿河は首を落とされたみたいにがくん、と頷き、震える声で、
「そうだ……、あいつ、キンヤンのこと『死ねばいい』って言ってやがったんだよっ!!」
 目に浮かぶようだった。体育館での「犯行」を終えて息をきらしてひとけのない部室棟へと戻った駿河。後ろからの森に追いつかれるまえに、ワンゲル部室前で変装を解こうとしたはずだ。そこで――
「あいつら、『キンヤンがあたしたちと仲よくしてるなんて間違ってる、あんなクズ……』」
 駿河がぼたぼた涙を零し始めた。息が詰まって、言葉がでないようだった。
「『あんなクズ……』っっ!!」
 ――「死ねばいい」、か。その言葉を聞いた駿河は、脱ぎかけていたマントと仮面を再び装着し、憤怒に駆られて部室に突入していったというわけだ。その様子を追いついた森が見てしまったのだろう。こいつらの態度の変化のなぞが、俺のなかでひとつにつながった気がした。
 駿河がもだえるように鼻をすすり上げていた。俺は感情に急きたてられるがままに、駿河を抱き締めた。
 あの秘境での大洪水を彷彿とさせる感情の荒波が、俺の心に伝わってきた。自然と俺の目が熱くなる。頬を伝っていくのがわかった。後悔と、そしてなによりも強い感情が溢れでていく。
「全部あたしのせいなんだ、キンヤン……、あたしがあんな馬鹿なことしたから、申戸くんたちは……、それになにより、キンヤンにこんな大怪我させて……!」
 駿河の手が俺の首筋に触れた。駿河はかわいそうなぐらい震えながら、
「それでも……、まだあいつらのことが許せないんだ……、あたしがやったんだって言って、謝らなきゃいけないのはわかってんだけど、絶対に謝ったり、……まして仲直りなんか死んでもしたくねえ、って思っちゃう自分がいて……!!」
 謝らなくいい! おまえが謝る必要なんてないよ!!
 そう、心のなかで叫んでいたものの、声にはならなかった。もしそうしなかったら、きっとより駿河が苦しまなければならないことが、直感でわかったからだ。
 いま俺に言えるのは、ただひとつしかなかった。後悔を凌駕する感情だ。俺はもっと強く駿河を抱き寄せ、自分でも情けなくなるくらいの涙に濡れた声で、その思いを吐きだした。
「ありがとう」
「え……っ!?」
 駿河が俺の顔を見上げる。
 俺は「感謝」していた。俺は正直、裏木のいうように本当にダメなやつ、つまり「クズ」だと思う。どこまでも自分勝手で、自分の生き方を変えることができない。駿河たちはこんなにも近づいてきてくれているのに、俺は遠ざかろうとさえしていた。どんなにうまい口上を並べてみても、結局のところ、それは自分のためだった。そんなクズな俺に、こいつらは「やさしい」と言ってくれ、「世界が拒んでも友だちでいよう」と言ってくれ、駿河は俺のために本気でブチぎれ、そして本気で泣いてくれている。「影」のままでいたいというわがままなこの俺を、それでも受け容れてくれた。
 そんな俺に言えるのは、言うべきなのは、言わなければならないのは、この言葉だけなんだ。
「ありがとう、駿河」
 駿河は一度、こくん、と頷いた。泣いたまま、俺の胸に顔をうずめる。
 大丈夫だ、駿河。なにも心配なんかいらない。俺におまえたちがいてくれるように、おまえには俺たちがいるんだから。それこそ、世界がおまえを拒んだって、絶対にいなくならない俺たちが。
 だからどうぞこれからも末永く、

 よろしくお願いします。


 まったく正気の沙汰ではないな。
 俺たちは週末の夕方から、またあの嫌なイメージしかない地元の名スポットに訪れていた。まあ、なにがあったにせよ、「ピークを獲る」という当初の目的を達せられなかったことが、俺を除く三人には許せなかったらしい。率先して負けたがる俺と違って、こいつらは負けず嫌いにすぎるのだ。もうちょっと楽に生きてもいいんじゃないか? とゲス顔で言ってやりたくなるくらいにな。
 やはり「緑山のカムエク」と呼ばれているだけあって、観光立市の期待を背負っているこの「兵士岳」は、土日はとくに縦走装備に身を固めた岳人で溢れている。ああ、例の銭湯を目当てに日帰りでやってくる観光客が主流であることに変わりはないが、今回の山行では計画に組み込まれてはいなかった。まあ、前回もそうだったのだが、予定の変更も残念なことに起こらなかったのだ。
 森が「ヒグマ沢出合w」と呼んだ場所から、半日くらいかけて直登、急登の連鎖が俺を苦しめ、もともとなかった登高意欲に拍車をかけていった。意欲がマイナスの域に入るとどうなるか、それは無口になり、自分の世界に埋没することになる。周りの景色も、においも、そんなものあろうとなかろうと、どうでもよくなるのだ。
 トレッキングポールの使い方が悪いのだろうか、どうも腕が張っている感じがする。森が「もっと短くしたほうがいいんじゃないかな」などと偉そうに言ってきたのを無視したのがいけなかったのだろうか。
 足裏に紛れ込んだ小石もさっきからちくちくと気になっている。沢靴を履き替えるとき、「登山靴のほうがいいんじゃないかしら」などと上から目線で言う出辺を鼻で笑ってトレランできてしまったのが悪かったのだろうか。
 まもなくガレ場(石や岩だらけのうざい場所だ)といっていいごつごつした場所に差しかかり、俺が道路の縁石の上をふらふら歩く小一なみにあどけなく歩いていると、
「さあ、もうひとふんばりじゃよ、キンヤン!」
 駿河が俺の口にやはりいい思い出のないチョコを放り込んできた。なぜかメイプルの香りが溢れる。ま、これが「なに味」のチョコなのかは判別しかねるが、なにが入っていたっていいさ。睡眠薬が入っていなければな。
 駿河は俺が礼を言うのも待たずに、頬張っているのを満足そうに見届けると、フルアニメ張りのコマ数を感じさせる流麗な動きで岩を飛び跳ねるように越えていく。俺は感心しながら、マイペースでのろのろと動き始める。
 なにしろ、いくら遅れてもほかのメンバーと接触することがないからな。森も出辺も、ガレ場を越えた先でなにやら談笑している。
 裏木たちから、部長である出辺に退部届けが提出された。
 ほんの二、三日まえのことだ。
 俺はすぐに駿河が「けじめ」をつけたのだとわかった。いったいどんな会話が裏木たちと駿河との間でなされ、さらに裏木たちはなにを思ってワンゲル部を辞めることにしたのか。想像が及ぶ部分もあったし、できないところもあった。興味はあったが、駿河に訊く気にはならなかった。
 なんでも首をつっこめばいいというものではないし、女には女の世界があることも知っていたからだ。もうでしゃばって痛い目に遭いたくはないのさ。女のまえで泣くなんて、人生のうちで一度でも経験したなら、それでもう勘弁してもらいたいと思うのが、「平均的な」男子なのだから。
「ちょっと瞬、なにをのんびりしているのかな? ちんたらしてたら陽が沈んじゃうじゃないか」
 ようやく突破した俺を森の疲れ知らずの笑顔が迎える。
「まだ昼だ。それにガスってて太陽がどこにあるのかわかりゃしない」
 だいぶ迫っているはずなのに山頂の姿も見えないほどだった。
「気をつけなさいよ。そんなにふらふらして崖に滑落されても助けにいかないからね。ヒグマの餌食になったらいいわ」
 だからヒグマなんかいやしないんだ。せっかく緑山市が推している山なんだから変な噂を立てるんじゃない。
「……?」
 草を踏んだはずの足許だったが、ゼラチンに足をつっこんだみたいな感覚が不気味に貫く。俺は眉を寄せて、視線を落とす。
 なにやら黒味がかった泥のようなものがひと塊、でん、と鎮座していた。足を離すと、途端に異臭が鼻をつく。
「なんだこれは……!?」
 駿河がすぐさましゃがみこんで、じっくり観察してから、
「これは熊のフンじゃな!」
 そんな燦然たる笑顔で言われても。
「おやおや、本当だねぇ! 見たところツキノワのこさえたモノじゃないかな? それにしても、瞬、よっぽど熊と縁があるんだね!」
 おまえまさかここに糞があることを知っていてここで待っていたんじゃ……。というか出辺、そんな本気で嫌な顔して俺のほうに風を送るのやめてくれないか? 俺が熊の糞みたいに……、おまえも知ってて踏ませたんだろ? な? 靴脱いでつけてやるぞ。
「ふ、ふん!」
 俺はツンデレ女子のように鼻を鳴らし、
「ツキノワなんか怖るるに足らん。ヒグマならまだしも。こいつらは木の実ばっか喰ってるし、人間を見た瞬間、逃げだすティキンなんだからな!」
 脱いだ靴底を草にこすりつける。
 と、近くの茂みから枝が割れるような乾いた音が響き、
「うぉっ!?」
 登山にダイエットを夢見ているすべてのひとの思いを打ち砕くかのようなメタボな親父が現れた。蜂の集まってきそうな真っ黒な登山着に、蛇口さえ打ち込めばビールが溢れでてきそうな腹。これでは出くわした登山者に熊スプレーを噴射されても文句は言えまい。雉を撃ち殺してきたのだろう、無造作にズボンのチャックを引き上げ、黒光りした顔にいやらしい笑みを滲ませて去っていった。
 なんなんだ……。四つん這いになってガレ場を攻略していく熊……、いや、なにが彼をそうさせるのか――やはりDNA的なものなのか――ひとり登山に興じるおっさんの姿を呆気にとられて見送っていると、
「どっちがティキンなんだろうねぇ?」
 森が勝ち誇ったような笑顔を向けてくる。
「熊親父」にはなんの興味も示さずに、いまだまじまじとフンに見入っていた駿河が、
「なんか灰色がかった毛がたくさん交じっているぜよ」
 なぞるように指を動かす。
 すると鼻をつまんだままの出辺が変な声で、
「羚羊ね」
 断言する。
「レイヨウ?」
「ええ、カモシカよ。ツキノワもだいぶ肉食系になっているってことね。油断大敵よ」
 そんな間の抜けた声で言われても緊張感はまったく湧かないが。
 しかし〝シカ〟とは……木の実ばっかり喰ってればいいものを。
「さあ、なにをぼさっとしているの? すぐ出発よ。早くその糞靴を履きなさい」
〝糞靴〟って言うな! けっこう高かったんだぞ。
「熊に出遭うまえにピークを踏もうじゃないか!」
 森が手をだしてくる。
 この「踏ませたがり」め。だがまあ、急ぐにこしたことはないだろう。おまえの熊に対する処世術は、それこそ〝糞〟の役に立たないことが証明されているからな。おまえがこの靴を履きやがれ。
 森の手を掴んで立ち上がる。
「ああ、いま離したらフンに尻餅ついて面白かったのに……」
〝糞瞬〟って呼べたのに……と、さも残念そうな顔で出辺が呟く。
「それは思いつかなかったかな」
 森が笑って応える。
 当然だ。そんなこと本気で期待するのは「やめて」を「やって」にしか聞こえないドSの塊の女だけだ。もし来年までワンゲル部が続いていたら、新入部員は相当の覚悟を持ってやってくることをお勧めする。ああ、変態はこちらから願い下げだ。もう充分こりたからな。
「はい、あ~~んじゃ」
 またも駿河が横から俺の口にチョコを投げ入れた。
「もうすぐそこじゃ、一気にいくぜよぉ!!」
 駿河の気勢とともに、俺たちはラストスパートをかけた。俺は噛み締めたチョコのなかから現れた「餅」に舌鼓を打ちながら進軍の一部となる。
 山頂はまだガスっている。それこそ、口のなかで転がる「餅」のように粘っこく垂れ込めている。……うん、ちょっと、いや、かなり強引だったな。

 周囲が白く、ひたすらに白く、展望もなにもないピークに立った俺たちは、山頂標を携えて写真を撮った。なぜか二つ建っている山頂標。見れば一方には緑山市、他方には生田市と刻まれている。森や出辺の長い話によると、この「兵士岳」はその二市の市境稜線であり、しかもここが県有地でどちらのものでもないため、借地をしてこのような標識を建て、いわば覇権争いのような状態になっているという。どちらも観光がその収益にとって死活問題であるらしく、ガチでマジな対立らしい。まあ、さして離れていないところに標が並んでいるさまを見ると、窺い知れるものはあったが。ただ、俺は仲よく協力して互いに寄りそっていけばいいと思うのだがな。そう、それはひとと同じだ。ひと同士の関係も、相互に寄りそっていくことがなによりも大切……、って、それ俺が一番できてねーやつじゃねーか!
 などと両市のぴりぴりした山頂標を肴にサル芝居に興じていると、
「いやぁ、残念だねぇ、せっかく山頂にきたんだから、いい景色をみせてくれてもよかったかな」
 さすがの森もテンション下がり気味だ。まったくなにも見えないこの視界では、それも無理もない。俺はもともとさして期待もしていなかったから、どうということはなかった。足場の悪い岩場のところどころに咲く淡紫色のビランジに慰めてもらわずとも、俺はまえを向いて生きて……
「日ごろのおこないが悪いせいじゃないかしら?」
 俺を見て言うな。だいたい天候とかなんか悪いことがあると「日ごろのおこない」を持ちだすやつがいるが、そんなこと関係あろうがはずがない。平均男子として平凡につましく生活しているこの俺が、病みあがりに登高へ強制参加させられ、熊の糞を踏みながらも登りきるというこの苦行に鑑みれば、その証明には充分な証拠能力が認められるはずだ。
「おっとぉ!?」
 背後で馬鹿でかい声が発せられた。振り向こうとすると、
「ちょっと待つのじゃぁ!!」
 がっつり駿河にホールドされる。動けずにいる俺たち三人に駿河は続けて、
「目を閉じるのじゃ」
「はぁ?」
「また変なこと考えてるんでしょう?」
「突き落とすのだけはやめてくれるかな?」
 疑問を浮かべる俺たちに背後からひそめた声で、
「よいのじゃよいのじゃ」
 町娘をはべらす悪代官のようでちっともよくない。が、俺たちは瞑目状態のまま誘われ、身体を反転させられる。さすが「カムエク」の名を冠するだけあって急峻な山頂は一歩踏み外せば命はない。俺たちは互いの手と駿河の声を頼りに進み、やがて示された岩をよじって慎重に体勢を整える。
 と、強風が顔を叩いてきた。足に力を込め、上体を持ち上げていくと、まぶたの向こうに鮮烈な光を感じた。
「さあ、開くのじゃ!」
 言われたとおりに開眼する。
「おお……っ!」
 嘆息が漏れた。こちら側はまるでターボ型の送排風機が設置されているかのように、徐々に充満していた濃霧が晴れていっていた。
 現れる緑山の町なみは陽を受けて煌然と輝き、なかなかの壮観だ。真下にはテントサイトも設けられているコルが、深い緑のなかに沈んでいるのが見えた。
「お、その顔は感動を覚えているんじゃないのかな?」
「まさか」
 俺は執拗に光を散らす町に両眼を眇めながら森を一蹴する。どうせ汚いんだし、そろそろ悠久の神戸を見倣って下履きを解禁せよ、と平均男子が陳情するわが高校はどこらへんだろうな? ああ、目が痛い。
「……感動を覚えるくらいなら英単語を憶えたほうがはるかに有益だろう」
 ただし、憶えすぎは禁物だ。あくまでアベレージ。
「まったくつまらない男ね」
 出辺がやはりつまらなそうに溜息をつき、
「いったいなんのために生きているの?」
 おい、このまま飛び降りたくなるようなことを言うな。なんだそのしたり顔……、まさかそれが目的!? と、
「そんなこと決まっておるのじゃ!」
「おわっ!!」
 突然出てきた熊に体当たりされたような衝撃が襲う。俺がよろけて本当に転落しそうになっていると、
「キンヤンはわしらといるためだけに生きているんぜよ!」
 そんなわけあるか! というか、そんなにきつく抱きつくな、マジで危ない! と、さらに反対側から、
「やっぱりそうか! 僕もそうじゃないかと思ってたんだぁ~~!」
 言うなり、
「むぎゅっ!」
 胸に手を絡ませてくる森。
「そうじゃそうじゃぁ~~!」
「ほらほら、ずっとこうしてほしかったんだろぉ~~!?」
 左右から巻きついた腕が交互に俺の腰を激しく揺すり、「くびれのほしいアナタに!」などという無責任な煽りにつられて体験ダンスレッスンに参加してしまった寸胴な女のみせる目もあてられないタヒチアンダンスのような動きを披露してしまう。
「おい、バカっ、なにごとにもふざけていいときと悪いときがだな……!」
 俺が「平均男子」になるまえのみぎりに教師から言われたトラウマをそのまま垂れ流していると、
「南子ぉ!」
「デヴィ!」
 森たちが叫ぶ。まさか出辺はそんな鼻水垂らしたやんちゃな小学生みたいなことをしないと思ったが、
「えいっ!」
 不覚にも可愛ささえ感じてしまうかけ声とともに、俺の首に両腕を回してきた。そして耳許で、
「あなたは一生、私の『奴隷』よ。そのために生きなさい」
 そんなバカなことがあってたまるか! と、心は反発しているのだが、なみなみならぬ殺気にも似た強制力が、俺の首を縦に振らせた。
「よろしい」
 妖艶な呼気が耳をかすめる。と、
「よぉ~~し、わしら『緑高ワンゲル部』、これにて『兵士岳』を……」
 息が止まるほど俺を締め上げて駿河が、
「〝完登〟じゃぁ――――ッ!!」
 駿河の叫びと、森たちの歓声が寄せてくる霧を吹き飛ばしていく。この幅ぜまの岩の上こそ、正真正銘のピーク(ピークま)といってよかった。
 残っていたガスが散っていく。つかの間、俺たちの前にはノイズひとつない完全なる景観が広がった。視界の及ぶ限りの自然、町、そして地平線。さらに視線を上げると……
「おおお……っ!!」
 圧倒的なコバルトブルー。眩しく異様に近く感じる太陽。それに、ほかを引き立てる点景のようにうっすらと棚引く雲。
 俺の声に反応したのか森が、
「今度こそ感動したようだね、まあ、この景色を観望してなにも感じないわけが……、ってどこ見てるのかな!?」
 俺はまだ空を見上げていた。
 横に長く伸びている雲は流れ続けていた。太陽をちらつかせながら、とどまることなく動いている。それでも雲は太陽の側にある。けっして寄りそっているわけではないのに、流れても流れても雲は太陽とともにあった。
 ひとはどうだろうか。
 ひとがともにあるためには、寄りそわなければならないと思っていた。いや、その考えに変わりはないのだが、なにも寄りそい合わなければならないわけではないのだと、いま俺は気づいていた。
 なぜなら俺もいま、こいつらとともにあったからだ。こんな唐変木な俺に、こいつらは力いっぱい寄りそってくれている。まあ、力が入りすぎて寄りそっているというよりは掴み締めて苦しめているといった感じだったが、そこはほら、あれだ、ラストだからやさしい目で見てくれるとありがいな。
 ともあれ、まあ、俺が言いたいのはこういうことだ。
 これまで俺が好きな天候はもちろんくもりだった。なぜかといえば、それは当然、一番平均的な香りがするからだ。晴れでも雨でもなく「くもり」。うむ、実に平均的だろう? だからもし、森に「好きな天気はなにかな?」なんてつねりたくなるにやけ顔で訊かれたら、迷わず「くもり」だ、と答えて「あ、おんなじだね(ハートマーク)」と返されたあげく、すべからくルンルン気分で空の上を歩けたはずなのだ。よし、じゃあ崖の向こうに足を踏みだすか、ってそんな話じゃなかった。よけいな話が長いよな。あともう少しだけつき合ってくれ。
 そうだ、いまの俺にはもう宙空を闊歩することはできないのだ。これは俺の好きな天候が変わってしまったのだからしかたがない。いまでも「くもり」は好きだ、捨てがたい。だが断然、いまは「晴れ」が好きになっていた。
 平均男子は、平凡生活を望む。
 それはいまも、そしてこれからも変わることはない。変えることはできない。それが俺の生き方であり、いわばそれしかない「人生」だからだ。
 そのうえで、俺は「晴れ」が一番好きなのだ。とくにこんな、自由に雲が流れ、それでも太陽とともにある「晴れ」の日が。
 ここでもうひとつ、俺が絶対に変えたくないものがある。今後いったい俺になにが起ころうと……

 雲ひとつない「快晴」を好きになることは、絶対にないということだ。

 絶対ということは絶対にないというパラドックスを絶対にないと言い張るぐらい絶対にない。
 俺は決然と腹に力を込めて溜まっていた思いを言葉にすると、なぜか活力に満ちた感情が腹の深淵から立ちのぼってきて、それが俺の顔に笑みという形で表れていた。
「お、いい顔しとるのぉ……!」
 いち早く駿河に気づかれてしまい、
「山を少しは好きなったんじゃな?」
 胸許から上目遣いで言ってくる。太陽が茶色に透けた瞳に映り込み、その稚気を孕んだ怜悧な輝きを見ていると、心の奥まで見とおされているようで、俺は目を逸らして上空に目を投じなければならなかった。雲の動きが速くなっている。ここよりさらに強い風が吹いているのだろう。
 森が勢いよく俺の胸をどつき、
「ここまできて嘘はつくなよ。僕たちまでばち(ばちま)があたるからね」
 罰だと? なんでこんな苦しい思いをして登ったのに罰が? 罰というのならもうすでに熊の……
 出辺が蛇のように手を顎先に滑らせてきて、
「ここはかつてから山岳信仰の聖地だったのよ、そう、神奈備の山として人々から崇められていたのだから」
 ふん、だから神でも宿っているってか?
 悪いな、俺は霊的な類はいっさい信じていないんだ。
 不意に、〝霊気〟を感じさせるひんやりとした指先が喉仏を軽く押し込んできた。
「もちろん、罰は私が責任を持って担当してあげるわ」
 ……信じていないが、いまはことのほか気分がいい。たまには素直に自分の感情を吐露しても、それこそ罰はあたらないだろう。
 俺は雲を透過した太陽の光を浴びながら、言った。
「まあ、ほんの少しだけな」

                                       了

平均男子は平凡生活を望む

平均男子は平凡生活を望む

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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