もみじ色の子どもたち

もみじ色の子どもたち

灰色の町で、水とクスリをもとめてさまよう女の子。
埃まみれのブリッツスカート。
オーバーニーソックスには、SP5800。
震える指先で、冷たい引き金をたしかめる。
1秒でも長く生きながらえる。
それだけの女の子。

もみじ色の子どもたち その1

もみじ色の子どもたち その1

<もみじ色の子どもたち>


その男は、警官のように見えた。
警棒を携え、ややくたびれた制服を身につけていたからだ。
もしかしたら、昔は――この町が、経過観察下に入るまでは――警官だったのかもしれない。
おばあさんに道案内を頼まれれば丁寧に対応し、酔っ払いが押し入れば、手際よく、自宅までタクシーで送り届けたのかもしれない。

でも、今は違う。
警察など、存在しない。
生きる理由の乏しい老婆から死んでいく。
酔うためのアルコールは、全て”ナイス・パーソン”行きだ。

だから、あれはただの人。
(ユキ)「……」
いえ。
私にとっては、生きるための糧で、きれいな水とクスリを持っている可能性のある、食糧。
寒々しい雑居ビルの瓦礫に背をあずけ、あくびをしている。
今日は、この季節……秋にしては暖かい。
空が低く、陽が近く感じられる。
それでも、油断など、片時もしてはいけないはずなのに。

私は、小型サイレンサー付きのSP5800を手に取ると、男の背後に回った。
あと3メートル。微塵の警戒も感じられない。
あと2メートル。もう少し。
あと1メートル。いま気づいても。
(警官風の男)「え」
遅い。
すえた匂いのする頭髪を引きちぎるようにして掴む。
(警官風の男)「……ひあァッ…」
男が後ろによろめく。自然と空を見上げる。
軟口蓋と舌根がかぱっと開く。そこに、銃口をねじ込む。喉仏に押しつける。
(警官風の男)「……ぅあッ……!! があっ……」
でもこの程度では、捕獲とは言えない。
私は空いた左手で安っぽいグレッグ19を男の両足に向け、たん、たんと2発発砲する。
乾いた音がした。それくらいの骨しか残されていないだけかもしれない。
どちらでもいい。
動きが止まる。
倒れた男の両肩を両足で踏みつけ、見下ろす。
SP5800が男の口にあてはめられている。
無精髭が、黒々とした銃身をなぞるようにして並んでいる。
何か、異議申し立てをしたいのだろう。男は、涙をこぼしながら、鼻息を荒くしている。
涎が銃身に付着する。いや、鼻汁か。胃液か。どちらでもいい。
(ユキ)「水とクスリ」
(ユキ)「両方あれば右手に撃つ」
(ユキ)「片方なら両手に」
(ユキ)「両方なければ、このまま引き金を引く」
嘘だ。
両方あってもなくても、男には一択しかない。
男はあわてふためき、顎で、自身の胸元のポケットを指す。
何度も、何度も。気の毒なまでに。
あなた、そこまで生きたいの……。
男の黄ばんだYシャツの胸ポケットをあらためる。名刺入れ。名刺など入っているわけはない。
その中に……あった。5錠ほど。
見た目はロキソニンかちょっとしたビタミン剤。
でも、実際は違う。大して価値のない白血球の代わりに、考えなくて済む時間を給仕してくれるクスリ。
経過観察下に置かれてから、界隈で大量に横流しされ始めた赤いクスリ。“アリス・マジック”。
男は、少し表情を緩めた。私がクスリを見て、幾分満足げな表情を見せたからだろう。
(ユキ)「水は?」
訊くと、男は、一瞬、捨て置かれた赤子のように私を見、そして、ゆっくりと右手を差し出した。
片手は覚悟の上、ということなのだろう。
(ユキ)「……」
本当は、このままクスリを胸ポケットから取り出し、逃げてもいい。
別に、誰かを必要以上に傷つけることで気がまぎれるわけではない。
そういうのは、ナイス・パーソンか、もしくはナイス・パーソンの機嫌を伺う連中に任せておけばいい。
でも……私は、右手の引き金を引いた。

カシュ。
何も起きていないような瞬間。

思考や、前置きはなかった。
きっと、男は、自分の予想よりも早く事が動いたと感じつつあるのだろう。
けど、感じたときには、すでに弾丸は舌根を裂き、喉仏を貫通し、痺れ果てるような苦痛と瞼の重みが彼を支配している。
クスリを掴むと、左ひざのオーバーニーソックスを広げ、そっとしのばせる。
廃ビルとなったショッピング・モールに捨て置かれていたスカートが少しめくれている。
本来であれば、もっと優しい女の子によって着こなされるはずのブリーツ・スカート。
にわかに皺のついた白のブラウスと、細かな砂がつき、すすけた紺色のブレザー。
胸元に留められた黒のリボンは、誰のものかもわからない返り血で赤く汚れていた。
いつのまにか身に着けていたブラジャー。
全て、特に認めた覚えもないのに自分を形作っている。



「そうしたほうがいいよ」
いつか誰かが言った。きっと、同じような境遇を抱えた誰かだと思う。名前は忘れた。
まだ、ブラジャーをつけていなかった頃のことだ。
「私たちは、もちろん弱い。でも、それは使いようによっては最大の武器になるわ」
うん。
私はうなづいた。
「制服を着ている女の子が歩いている。心細そうに。控え目に。まず間違いなく、人は警戒心を解く。
まさか、その背徳的なスカートの向こう側で、サイレンサー付きの赤いレーザー・ポインタが自分を捉えているとは思わない」
うん。そうだね……。



相手を油断させ、一瞬で引き金を引く。
そのためには、私は常に獲物として認識されなければならない。
だから、一度見られた相手を、取り逃がすことはできない。
口外されては困るのだ。私が、人を殺す人であることを。
私に銃口を向けられたものは、皆生き残ってはいけない。
生き残れるのは、私を殺したときだけだ。

警官と思しき男は、目を見開いて絶えていた。
今でも、自分が死んだかどうか、いまひとつ自信をもてない。そんな風に見えた。

わかってる。
こんなこと、長く続くわけがない。
隙をついた初動。今回のような不意打ち。
私が生き残るために撃てる弾は最初の数発のみ。それらが外れたら、おしまい。
組み伏せられて、人形のように扱われて、羽蟻のようにむしられて終わりだ。
殺す人間と殺される人間。
この地の、いたるところで見られる命のやり取り。
今日の私は、たまたま殺す人間だった。
いま、心臓は動いている。
でも、明日はわからない。
明日はかわされるかもしれない。そうなれば、私は殺される人間。
目の前のみすぼらしい死体と同じになる。数十時間の違い。結果は見えている。
それでも……生きるしかなかった。
生き長らえなければならなかった。

どこかで銃声が鳴る。誰かと誰かの命のやり取り。
サイレンサーをつけ忘れたか、ナイス・パーソンによる見せしめか。
ひとつ。またひとつ。
野良犬の鳴き声のように、灰色の町にこだまする。

木枯らしが吹く。手が冷たい。
SP5800を左手に持ち替え、右手を胸にあてる。少し温かい。

まだ、心臓は動いている。
けど、心はもう動いていないのだと思う。

看板の取り外された倉庫に忍び込み、誰もいないことを確認する。
オーバーニーソックスをめくり、アリス・マジックの入った名刺入れを取り出した。
清潔な水はない。
水なしで服用すると、さらに白血球を痛めつけることになる。
けど、考えたくはない。感情を取り外したい。時間を薄くしたい。
無造作に一粒呑む込むと、くたびれた快楽に身を委ねた。

その2

その2

誰かを殺して、水とクスリを剥ぎ取って、生きる日々。
次の日は2人。
また次の日は4人。
わかってる。
長くは続かない。
でも、続けるしかない。
続けなければ、ならない。


ぱらぱら。
何かがどこかから落ちた。
そよそよと、風が寝ぼけ眼を撫でている。
……ああ。朝だ。
5時39分。気持ちの良い時間。
(???)「にゃあ」
目の前に猫。猫の種類なんてわからないけど、黒と茶と白の毛が混じっているから、たぶん、三毛猫。
机の上にちょこんと乗っかって、前足で首筋を掻いている。
目が水平線のように細く閉じられている。気持ち良いのだろう。
(ユキ)「……」
可愛い、とは思わなかった。悩みがなくて、いいな、と思った。
改めて、教室の壁時計を確認する。
5時44分。
開け放たれた窓から風が吹き込み、クリーム色のすすけたカーテンを揺らす。寒い。
(ユキ)「当たり前か……」
もう11月だった。この制服だけでは、夜を越すのに心もとなくなる季節だ。
猫が机からリノリウムの床にそっと降りる。
そこには赤い錠剤。アリス・マジック。
昨晩は、どうやって眠ったかきちんと覚えていない。何かに追われるようにしてこの校舎に逃げ帰った。
水は調達できなかった。唾液だけでアリス・マジックを飲み込んだ。
そのとき口からこぼれた錠剤が机の上に散り、寝返りを打ったときに床に落ちたのだろう。
拾って、小さな瓶に詰めなおす。残り少なくなっていた。
(ユキ)「また、取ってこないと」
ナイス・パーソンから。
右手の薬指が半分しかない人間たち。
夜中に、水辺の公園でナイス・パーソンを殺し、アリス・マジックを奪った。
あのときはうまくいった。殺したからだ。
ナイス・パーソンも、目撃者の女の子も。
艶やかな黒髪をまとった脳髄を、SP5800の安っぽい弾丸が壊した。
楽しかったわけじゃない。
そうしなければ、自分の身が危うかっただけのこと。

廊下で物音。
ブレザーの内ポケットからSP5800を引き抜く。
同時に身を地面に投げ出す。
後ろの机と椅子が、かたりと音を立てる。
発砲音はない。が、確実に何かがいる。こちらの様子を伺っている。
……どうする?
何も知らない無力な少女を演じて出て行く?
いや。
ナイス・パーソンだったら?
危険すぎる。
こちらはつい最近、ひとり殺しているのだ。
奇襲をかける?
グリップを握りなおす。軽いことと消音性に優れていること以外、取り柄のないちっぽけな武器。
発煙筒や閃光弾があれば話は別だが、あれは廊下側のロッカーの中にある。敵に一度体を見せなければ手にすることはできない。
リスクが大きすぎる。
それじゃ、どうすれば……
(猫)「ふにゃあ」
教壇の上で、猫があくびをした。
(???)「ああもう、やっぱり」
声が聞こえてきた。姿は確認できない。
(ユキ)「……」
息を殺して様子を伺う。
(???)「もう、どこいってたのよっ」
がら……。
ゆっくりとドアが開く。
とっとっとっとっ
猫が入り口に近づいていく。
その先に、女の子がいた。
私と、同じくらいの歳だろうか。
肩で切りそろえられた髪が、秋の朝の光に揺れていた。
幼い子が着るようなフリル付きのスカートは、ところどころ破けていて、汚れていた。
カフスのあたりに、固まった血がこびりついていた。
敵ではない。でも、それは殺さない理由とはならない。
あの子が新たな敵を引き寄せる可能性がある。ここに出入りしている人間がいる。
その噂は瞬く間にこのすすけた町に広がる。
(???)「だめでしょうが、暗くなる前に帰ってこなくちゃ……」
汗が一筋、背中を伝っていった。
(???)「くそう……あくびなんかして……」
SP5800を抜く。冷たさも感じない。
(???)「あーそうですか、えーけっこうですとも。あなたがそういうつもりなら、私にも考えがありますからね」
サイレンサーを取り付ける。静かに。
(???)「煮干も中落ちも、ぜんぶ禁止よ! 当分! 反省するまで!」
机の間から銃口がのぞく。
(???)「言っておくけど、意地悪とかじゃないわよ。リコが悪いんだからね」
照準など合わせる必要もない。どうせ当たる。
(???)「っあいたあ! ひっかいたっ……私のすべすべの肌……よくもやってくれたわねッ!!」
引き金に指をかける。
(???)「おらあ、待たんかい!! 話はまだ……」
猫が音もなく駆け出す。女の子の傍を抜けて、廊下へと出ていこうとする。
その前足が、女の子にぶつかる。
(???)「あっ……」
……からんからん。
ステンレス製の松葉杖。
女の子の右半身の体重が委ねられていた。
……珍しいことじゃない。
経過観察前に埋められた無数の地雷。
ナイス・パーソンによる気晴らしの流れ弾。
自由を奪われる機会は、石ころみたいに転がっている。
80年生きた老婆であろうが、10年足らずしか生きていない少女であろうが、不幸の機会は平等に与えられる。
(???)「いったああ……もうっ、リコのばか!!」
松葉杖を拾い、立とうとする。
まずい。
その低い姿勢からだと、こちらが見える。
(???)「……あなた、だれ」
見つかった。ほとんど義務的にSP5800を抜く。
(???)「撃つの?」
(ユキ)「……」
銃口を向けられても相手は動じなかった。
悲しんでもおびえてもいない、透明な瞳でこちらを見ているだけだった。
(ユキ)「…………怖くないの?」
銃口を向けた相手に言葉をかけるのは、初めてだったと思う。
(???)「別に、今さら……。慣れたわ、こんな街でこんな杖をついていれば、よくあることよ」
(ユキ)撃たないと思っているの?」
(???)「撃つ気なら、もう撃ってるわ」
(ユキ)「…………」
(???)「こう思っているでしょう。“姿を見られたけど相手は足が不自由。誰かに自分のことが伝わる前に誰かに殺される。
なら、放置してもそれほど問題はない”」
(ユキ)「…………」
(???)「どう? 当たらずとも遠からず、ってとこじゃない?」
(ユキ)「……答える必要なんかない」
(???)「はいはーい……というわけで、私は今回も命拾いをしましたとさ」
銃口はまだ自分に向いているのに、女の子は意に介さず伸びをした。
(???)「……っと……。そろそろ朝ごはんね……リコーーー! 帰るわよーーー!! 来ないんだったら朝ごはん抜いちゃうわよーーーー!!」
松葉杖を持ち直し、廊下へ向かう。
一歩ずつ、ゆっくりと。
未だに女の子の眉間にレーザーポインタをあてている自分が、ひどく滑稽に思えた。
(???)「あ……そうだ」
くるりと振り返る女の子。フリルがその後を追って翻る。
(???)「あなたも、ご飯食べる?」
(ユキ)「え」
(???)「どうせろくに食べていないんでしょう。見るからに生活能力なさそうだし……あ、こいつはほんとにもう」
リコ、と呼ばれた三毛猫だった。女の子の傍にちょこんと座る。
(???)「ご飯っていうと言うこと聞くんだから…………で、どうするの?」
(ユキ)「……」
(???)「そんなほっそい体して………私がどれだけ歯を食いしばってウエストを……あ、なんか、腹が立つわ腹が立つわ!
もう決まり、来なさい! ぶくぶくに太らせてあげるわ!! リコ!?」
(リコ)「ふみゃ」
女の子の合図で、リコがこちらに突進してくる。
(???)「捕獲しなさい」
(ユキ)「は?」
(リコ)「みゃ」
かぷ。
(ユキ)「………」
ブリーツスカートにぶらさがっていた。
(ユキ)「い、いや、ちょっと脱げ……」
(???)「ほらほら、言うこと聞かないとパンツ丸見えよ~」
(ユキ)「だ……め、ちょと、やめ」
(???)「リコ、手加減はなしよ」
(リコ)「みゃあ」
(ユキ)「っ……いいかげんにっ」
(???)「何よ、案外根性無いのね。いいじゃない、女同士だし」
どこか居心地の悪い目つきと手つきで女の子が近づいてくる。
どうすればいい。
銃口を押し付けられたときは、か弱いふりをしてSP5800をホルスターから抜き取ればいい。
男に組み伏せられたら、太ももからグレッグ19を抜き取ればいい。
でも、同じくらいの、松葉杖をついた女の子が近づいてきたときにどうすればいいかなんて、まるでわからない。
私の周りに、そんな人間なんていない。わからない。
(???)「そうよ、いい子ね。おとなしくしていれば、痛くないわ」
(リコ)「みゃ」
女の子が笑う。ほほ笑みではない、どこか禍々しい笑みを浮かべながら両手を握ったり閉じたりして近づいてくる。
3メートル、2メートル、1メートル。
息が触れ合いそうな距離。
その薄気味悪い両手が……私の胸に近づく。
(???)「…………っぷ」
(ユキ)「……え」
(???)「やだも、っ、なに顔真っ赤にしてるのよっ、じょっ、冗談に決まってるでしょう」
(ユキ)「…………あ」
(???)「あ、ダメその真顔、っくく、面白すぎっ、るわ」
(ユキ)「…………」
(???)「ちょっとしたジョークよ、ジョーク! 怒んないでね、ああ、これじゃあまるで、私が少女趣味のナイス・パーソンみたいだわっ」
(ユキ)「…………」
(???)「あ、そうそう、とにかくご飯よご飯! ああっこら、リコ、その子のスカートから――」
急に押し黙る。
(ユキ)「……なに」
(???)「そういえば、名前聞いてなかったわ」
時々、こういう人間がいる。
絶望せずに、自分にできる範囲で前向きに生きようとするもの。
(???)「私は百合子。花の百合に、子どもの子で百合子」
私は……そういう連中も、許せなかった。
(百合子)「あなたは?」
同じ境遇のはずなのに。
(百合子)「名前くらい、いいでしょ」
思い出の詰まった町を、壊された仲間のはずなのに。
(百合子)「ねえ、そんな怖い顔しないで」
どうして、そんな優しい顔ができるの。
(百合子)「それともやっぱり、殺す?」
……まただ。
立場はこちらの方が上のはずなのに、どうしてこの子はそんなことを言えるのだろう。
(ユキ)「…………ユキ」
漏れたような声が出た。
(百合子)「いい名前ね……どんな字を書くの?」
(ユキ)「…………」

―――――ゆき、よくききなさい―――――
―――――おじさんや、ほかのみんなをうらんだりしてはだめだ―――――――
―――――みんなは、ほんとうはやさしい人たち――――――
―――――ただ、よわいだけの、ふつうの人間なんだ――――
それは、アリス・マジックで薄く引き延ばしたい記憶。
でも、何錠飲んでも、決して消えることのない一場面。
―――――そのよわさを――――
―――――ゆるせるやさしさをもって、生きてくれ――――
―――――ゆき――――――

それは、幼い日に課せられた十字架だった。
自分は、優しくなんて生きられない。
それ以前に、生きたいわけじゃない。
でも、生きなくてはならない。
どんな手を使ってでも。


(優生)「優生」
(優生)「優しいに生きるで、優生」
(百合子)「そう」
女の子――百合子はゆっくりとしゃがみ、リコの頭を撫でると、教室のドアへと歩き始めた。
(百合子)「じゃ、これでお友達ね、私たち」
そうして百合子は、廊下の向こうへと歩いて行った。
(優生)「…………」
あとには、私一人と猫が残された。
(リコ)「みゃあ」
(優生)「……」
自分が引き金を引かなかった理由。
それは、情に踊らされたわけでも相手を恐れたわけでもない。
食事を作ることができる。
つまり、あの子は水を……清潔な水を持っている。
……アリス・マジックはまだ手元にある。
でも、水がない。そのまま飲むこともできるが、意識の飛び方が桁違いだ。可能であれば、水を確保しておきたい。
だから、あの子は殺さない。殺さなかった。それだけのことだ。
(優生)「……友達」
なれたのかもしれない。少なくとも、こんな時代じゃなければ。
私は今までに何十人もの人間を殺した。
この前は、年下の無抵抗の女の子を撃ち殺した。きっと、今日の夕方には百合子を殺している。
そして水とともにアリス・マジックを飲み、眠るのだろう。
昇降口に出る。
(リコ)「みゃあ」
リコが足元に寄り添ってくる。
(優生)「……」
無言でオーバーニーソックスから、小型サイレンサー付きのグレッグ19を抜く。
まとわりつかれるのは構わない。どうでもいい。
でも、いつか。ナイス・パーソンから逃れるためにビルの物陰に身を隠しているとき、この猫が寄ってきたら?
どうする?
困る。
(リコ)「み……」
口を掴み、そのまま引き金を引く。
カシュ。
腹から血と何かが吹き出る。
カシュ。
喉元から呻くような声が漏れる。
ぼた。
リノリウムの赤茶けた床に落ちる。
血の匂いはしない。でも、赤茶けた床は赤黒いものに覆われていく。
好きでやっているわけではない。ただ、合理的なだけだ。
何も見ていない、死体の目。
この子と私。どちらが生きながらえるべきだったかなんて、わかってる。
でもね、リコ。
(優生)「生きたいと思うものが生きられるわけじゃないんだよ」
それじゃあ……生きたいと思っているわけじゃない自分は。
どうして、こんなことをしているの……。
ガラスの割れた昇降口から、中庭に出る。
青々とした若葉は姿を消し、赤く色づいた紅葉だけがあたりを覆う。
空も、アスファルトも。
グレッグ19をしまい、校門へと駆け寄る。
百合子が手を振る。
(百合子)「あれ? リコは?」
(優生)「どこか行ったわ」
(百合子)「……そう」
百合子は、教室で見せた、悲しんでもおびえてもいない、透明な瞳でこちらを見ていた。
昇降口のガラスが割れて、申し訳程度にガムテープが張ってあった。
雑草が生え、何かの死骸が捨て置かれたグラウンドに、サッカーボールが転がっていた。
中庭の紅葉が、いやに赤く色づいて、綺麗だった。
右の頬がひんやりと冷たく感じられた。
(百合子)「仕方ないわね、ほんとう」
(優生)「……そうだね」
私たちはすすけた校舎を後にした。

その3

その3

とん、とん、とん。
(百合子)「ごめんね、のろのろで」
(優生)「たいへんそうだね」
松葉杖がアスファルトを打ち、朝焼けの町にひびく。
(百合子)「そりゃまあ、最初はね。なれなかったわ。脇の下に水ぶくれができて、やぶけて、またできて……っと」
少しバランスを崩す。が、すぐに持ち直す。
(百合子)「んしょっと……でも、おかげさまで、二の腕は締まってるわよ。どう? ウエストのくびれじゃ、あなたに負けるけど、
その手の男の子には、この二の腕のシルエットが情欲をそそるのよ」
(優生)「……たぶん、違うと思う」
(百合子)「そんな、哀れむように言わないでよ。……えーそうですよ。どうせ細くて小顔でおとなしいお人形さんみたいな子がもてるのよ」
(百合子)「あんたみたいなね」
(優生)「……どうでもいい」
(百合子)「あらもったいない。かわいいのに」
どうでもいい。私は、意図的に話題を変えた。
(優生)「……その足」
(百合子)「ん?」
(優生)「ナイス・パーソンに、やられたの?」
(百合子)「……まったくもう。少しは笑ってくれてもいいじゃないのよ」
(優生)「私はこういう顔なの」
ふう。百合子はため息をついた。
(百合子)「そうね。正確にはあいつらじゃないけど。まあ取り巻き連中、ってとこかな」
(優生)「流れ弾?」
(百合子)「はずれ」
(優生)「クスリ?」
(百合子)「それもあるけど、それが原因じゃないわね」
……じゃあ、答えは1つ。
(優生)「……やられたの?」
(百合子)「うん」
とん、とん。松葉杖の音が止まる。
(百合子)「まだぼっこみたいな足してたころのことなんだけどね」
(優生)「……」
この町が経過観察下に入る前から、レイプはままあった。
でも、経過観察下に入ってからは、特に小さな女の子が犯されることが多くなった。
簡単なことだ。
未来がない。そして、犯罪を取り締まる者がいない。すると、普通を取り繕っていた人間たちが、欲望の捌け口を抵抗の少ない少女へと向けた。
(百合子)「子宮は無事だったんだけど、ここがぽんこつになっちゃって」
自分の頭をぽんぽんとたたく。肩で切りそろえられた髪が揺れる。
(百合子)「体の右半分がどうもね。言うこと聞いてくれないの」
(優生)「……」
(百合子)「ま、人生いろいろあるわよね」
からからと笑う百合子。
(百合子)「で、あなたは?」
(優生)「……」
(百合子)「リボンに血付けて、ニーソックスに拳銃忍ばせるなんて、ハードボイルド」
(優生)「……」
(百合子)「でも、まだまだ駆け出しってところね」
(優生)「どういう意味?」
(百合子)「ニーソックスの血、乾いていないわ」
(優生)「……」
(百合子)「あと、いくらサイレンサーでも、こんな静かな場所じゃ、筒抜けよ」
……この子。
気づいている。
私が、リコを殺したってこと。
即座にブレザーに隠していたSP5800を抜き取る。
百合子は立ち止まっている。
ちっちっち……
雀が鳴いている。陽の光がアスファルトに反射している。
(優生)「私が憎い?」
(百合子)「別に。必要だからやったんでしょう。第一、憎くてもこの状況で私にできることなんて何もないわ」
(優生)「かわいがってた?」
(百合子)「ええ、目の中に入れても痛くないくらい」
(優生)「じゃあ、どうして怒らないの」
(百合子)「さあ、なんでかしらね。まあ、まともな神経じゃないことは確か」
(優生)「……」
(百合子)「で、どうするの?」
(優生)「……」
(百合子)「朝っぱらからこんな美少女が2人で抱き合ってたら、ご近所様のいいネタにされるわよ」
まただ。
銃口を眉間にあてられているのに。
必要なら、私が引き金を引く人間だってわかっているはずなのに。
(百合子)「というわけで……今回も命拾いしましたとさ」
伸びをして、また歩く。
一歩一歩。全身の筋肉を使って、ゆっくりと。
(百合子)「ほら、いくわよ。朝ごはんの時間に間に合わなくなる」
……水だ。水を得られればいい。
私はSP5800をホルスターにしまい、ブレザーの裾でニーソックスの血を拭き、歩いた。
(百合子)「じゃあ、いきましょっか。ここから坂道になるけどがんばってよ。あと少しで着くから」
大きな公道の傍らに、石段でできた坂道があった。
振り返る。
いつの間にか、人家や廃ビルが減り、レンガ造りの建物がぽつりぽつりと見えるようになっていた。
ここは、普段の生活圏とは異なる町の西端だ。まるで土地勘がない。
かん、かん、かん。
松葉杖が石段を突く。
(百合子)「ここが、きっついのよね……っとお」
何度も往復しているのだろう。百合子は慣れた身のこなしで石段を登る。
それでも、額には玉のような汗がにじんでいた。
(百合子)「でも、見晴らしは最高よ、期待しててね」
(優生)「そう」
(百合子)「ああ、あと言っておくと……水はあるから安心して」
(優生)「……そう」
(百合子)「ちなみに、クスリはないわ。そっち目当てだったら外れだから」
(優生)「……クスリならある」
(百合子)「じゃ、水をゲットしたらお役御免ね」
(優生)「……」
かん、かん、かん。
(百合子)「いつでもどうぞ」
挑発的でもなく、悲嘆に暮れているのでもなく。
ただ、少しだけ寂しそうに言った。仕方ないと割り切っているようにも見えた。
引く。
引かなければならない、自分は。
同じような状況で、たくさんの人間を撃ってきたから。
自分が生き残るためには、手段を選ばなかったから。
……引き金を引く基準は、ぶれてはいけないから。
(百合子)「とうちゃーっく」
いつのまにか、百合子は10段ほど先の頂上にたどり着いていた。
後を追う。
あと3段、2段、
(優生)「……あ」
自分の目が見開かれているのがわかった。
朝露に濡れた芝生が、小高い丘一面に広がっている。
その終わりを認めることはできないくらい、開けた丘。
その丘の向こう側には……空があった。
芝生がそのまま空へとつづいているように感じられる、あいまいな境目。
私は、何かに引きずられるようにして丘の端へと寄っていた。
一歩進むごとに、穴のあいたローファーが朝露に湿っていく。
ときおり、強い風がブリーツスカートをはためかせた。
ほどなくして、丘の西端に立つ。
(優生)「……海」
左手には、船着場と開けた緑地帯と灰色の町が見えた。
よく知っている。水辺の公園だ。
その対岸に、今、自分は立っている。
右手には……何もなかった。
そう感じられた。
まだ夜の名残の混じった、白とオレンジと紫色の空。
寄せては返す波間と、藍色の海。
そして、紅葉の木。
赤や黄色の葉が、淡い空に映えていた。
(百合子)「どうよ、すごいでしょ」
すごい、とは思わなかった。
少し怖いと思った。
吸い込まれそうな空を見ていると、自分が薄くなっていくような気がしたから。
(百合子)「ま、景色なんてあとでいくらでも楽しめるわ。まずはごはんごはん」
(優生)「ちょっと……」
引っ張られた先には、2階建ての丸太小屋があった。
(百合子)「どうぞ遠慮せずあがって。ちょっとぼろいけど、意外と頑丈だから、安心してね」
その言葉通り、丸太がところどころ禿げていたり、窓にガラスがなく、ベニヤ板を打ちつけていたりした。
少し離れた場所に、木でできた滑り台やシーソーがあった。
砂場のようなものも見えた。
一人で住んでいるわけじゃないようだった。
ドアを開けて中に入る。ドアノブには「おうち」と書かれたコルクボードがぶらさがっていた。

(???)「あ、おかえりなさ……っ」
(百合子)「あ、こら、ユカ、いきなり逃げないの! 失礼でしょ」
(???)「おーい百合子、しょうゆがねえ……ってうわあっ!!」
(百合子)「わおナイスタイミング! カエちゃん、ユカこっちに連れてきて!」
(???)「だからカエちゃんって言うなって何度もっっ……うっ、っく、ゆ、ユカ落ち着け! ていうか首! 首! 締まってる締まってる!!」
(???)「だってっ、知らない人っ」
(???)「……っ、そ、ぞうがっ、それは、残念だったな……うぷっ、で、でもな、とりあえず、その羽交い絞めにィ、して、いるうっ、その腕を、ぉぅ! どけようかァッ……っッ」
(???)「ごめんね、ごめんね」
(???)「悪いと思ってんなら、腕を離してくれ……ぁ……」
男の子が、白目を剥いていた。
(百合子)「あ……あはは、ごめんなさいね。なんだかお恥ずかしいところをお見せしちゃって」
(優生)「……」
きっと、私は呆けていたように見えただろう。
でも、そうじゃない。
私は、すぐにその場を離れたかった。
ここは駄目だ。理由はわかならい。
でも、胸のどこかがちくちくと痛んでいた。
その痛みを、なんて呼ぶかはとうに忘れていた。
いや。
思い出してはいけないのだ。


(百合子)「じゃあ、改めて……」
(百合子)「優生さんいらっしゃーい!!」
万歳をする。
私の腕が勝手に持ち上げられ、万歳をさせられる。
(百合子)「……の、朝ごはんのはじまりはじまり!!」
(百合子)「ぱちぱちぱちぱち」
まるで一人芝居を見ているようだった。
(男の子)「はぐっ、はぐっ、うおお!! このスクランブルエッグうめえ!」
男の子はすでに朝食を始めていた。
(女の子)「……(もそ)」
女の子は、細かく千切ったパンの一切れを噛んでいた。
私は、コップの水を一口飲んだ。
(百合子)「こ、ここから盛り上がっていくのようちらは! 本当よ」
(百合子)「っここで、みなさんお待ちかねの自己紹介ター…」
「百合子ケチャップ取ってくれ」
(百合子)「だまらっしゃい!!」
(男の子)「ふはんっ」
(女の子)「汚い! スクランブルエッグほっぺについたあ!」
(百合子)「あーあ、泣ーかした泣―かした、カーエちゃんが泣―かした! ほら、あやまりなさいよ」
(男の子)「な、なんで俺が」
(女の子)「……ぅぅ」
(百合子)「言い訳しない!」
(男の子)「わ、わかったよ……ごめんな。ほら、拭いてやるから」
(女の子)「……うん」
(百合子)「ああ、何よこれ何よこれ! 淫らだわ、ふしだらだわ! 年端もいかない男女がスクランブルエッグを理由に、あんなに顔と顔をくっつけて、もう、納得できない」
(女の子)「お姉ちゃん、恥ずかしいこと言わないで」
(男の子)「……っていうか、何をやらせたいんだよ……」
私は、コップの水を一口飲んだ。
(百合子)「いいわよ、いい感じで盛り上がってきてるっ、いけるわ! それでは、まず私から自己紹介をば!」
百合子は立ち上がって身を引き、両腕で自身を抱いた。
(百合子)「百合子お姉ちゃんです。二の腕に自信のある、ちょっぴりのろまな女の子です。実はゆりゆりって呼ばれてみたい年頃です」
(男の子)「うわ、きっつ」
(女の子)「なんか、おかしいよお姉ちゃん」
(百合子)「うるさい、勢いが大事なのよ! ほら次、カエちゃん!」
(男の子)「えっ、えっ」
(百合子)「ほら、早く!」
(カエデ)「あ、あの、カエデです。よろし、く」
(百合子)「あんたなに緊張してんのよ」
(カエデ)「うるせえ!」
(百合子)「ほらほら、次」
(ユカ)「………ユカです。さっきは、あの」
(ユカ)「ごめんなさい」
(百合子)「はいよくできました! うんうん、いいわよユカ」
(ユカ)「え、えへへ」
(カエデ)「なんだよ、ユカばっか」
(百合子)「それじゃあ最後に、本日のお客様の登じょ」
(優生)「帰る」
コップの水を1口飲み、席を立った。
(百合子)「ちょ、ちょっと待ちなさいよ」
ひどく気分が悪い。神経がきりきりと痛み、右腕がしびれている。
さっき、ポリタンクの位置は確認した。間違いなく、透過処理された水だ。
夜になってからまた来ればいい。長居は無用だ。
(百合子)「何がご不満?」
不満なんてない。ただ、付き合いきれないだけだ。
百合子は知っている。
私が、今日の夜に3人のこめかみを。サイレンサー付きのSP5800で打ち抜くことを。
それを知っていて、なぜ。
(カエデ)「なあ、よくわかんねえけどさ」
出て行こうとすると、男の子……カエデが前に立った。
(カエデ)「飯は残さず食えよ」
手を引っ張られる。
(優生)「……っ」
振りほどいて。押しのける。
(ユカ)「カエちゃん!!」
(優生)「触らないで」
(カエデ)「っおい、てめえ!」
(百合子)「やめなさい、カエちゃん」
凛とした声だった。声量があるわけでも、語気が強いわけでもない。ただ、場の空気を支配する何かがあった。
(百合子)「ごはんは大丈夫よ。……ねえ、ちゃんと取っておくから。気が向いたらまたいらっしゃい。このスクランブルエッグは絶品なんだから」
(カエデ)「で、でもさ」
(百合子)「いいのよ。人にはね、それぞれ事情があるんだから」
何を、知ったようなことを。
ホルスターを確認する。2発くらいは入っていたはずだ。
1人分足りないが、どうにでもなる。
(百合子)「でも、”それ”はちょっとだけ待ってくれる?」
(優生)「……」
視線をブレザーの内側に落としただけでこれだ。
きっと、百合子も同じ世界で生きる人間なのだろう。
そうじゃなければ、こんな食糧は手に入らない。
(優生)「どうして、私があなたの言うことを聞かなければならないの」
(百合子)「ごもっとも。聞かなければならない理由はないわ。だから、これは単なるお願い」
(優生)「……」
前と同じ。
こちらが生死を握っている。しかも、今は2人の子供の生死をも。
それなのに、百合子はいつもの透明な瞳で私を追い詰める。
(ユカ)「お姉さん」
ユカがしがみついていた。腰に手を回して。ぎゅっと。
さっきはいきなり逃げた女の子。
今は、なぜか一番近くにいた。
(優生)「…………っあ、ああっ、ああっ」
激痛。
のこぎりで背中を切り刻まれるような感覚が襲う。
なに? ……これは?
毛細血管が一つ一つ引きちぎられていくイメージが脳裏に浮かぶ。
アリス・マジックの副作用。
忘れていた。
いつもはこの時間に、次のアリス・マジックを飲んで意識を飛ばしているのに。
右手の人差し指に力を込める。
(カエデ)「お、おい……!!」
(ユカ)「おねえさん!!!」
(百合子)「優生」
3つの声がする。
手のつけられていないスクランブルエッグがテーブルからこぼれる。
そこで私はシャットダウンさせられた。

その4

その4

夢には2つある、と思っている。
まったくの空想から生まれた夢と、引き出しの奥に眠っている記憶から生まれた夢だ。
その考えが正しいかどうかはわからないけど、とにかくそのとき見ていたのは、後者だった。



お父さんが、みんなの前で、柱にくくりつけにされていた。
みんなは、ピストルとかナイフとかを持って、お父さんを取り囲んでいた。
(時計屋)「あ~あぁ、やってくれちゃったよねえ、おじさんのとこの、お嬢さ……んッ!!」
時計屋のお兄さんが、お父さんの顔を蹴り飛ばした。
(お父さん)「っあ…がッ……!!」
(時計屋)「いやあ、まさかナイス・パーソンさんから食べ物を盗むっていうのは……恐れ入りますね、勇敢ですよ実にね。ねえ、みなさん!!」
(???)「ふざけんな!!」
(???)「早く家族全員ぶっ殺して、生首をナイス・パーソンに持ってけよ!!」
右手が震えている。手を握っている菜月が、尋常じゃないくらいに、何かの発作のように。
(菜月)「ゆるして、ゆるして、ゆるして、ゆるして、ゆるして、ゆるして……」
念仏か何かのように許しを請うていた。請い続けていた。



妹の菜月は、明るく元気で、人一倍やさしく……正義感の強い子だった。
一方私は体が弱いせいもあり、引っ込み思案で、臆病な性格だった。
ある日、お母さんが家を出て行ってから、炊事や洗濯などの家事は私の仕事になった。
一日中外で元気に明るく暮らしている妹と、病気がちで、家事をこなす毎日を送る自分。
正直、少し嫉妬していたのだと思う。
だから、少し意地悪をした。
その朝も早く起きて、みんなのお弁当を作っていた。
お父さんの分を作り終え、菜月の分へ。
そこで……おかずを、取り除いた。
ごはんと海苔だけのお弁当。
きっと、恥をかくだろう。馬鹿にされるだろう。
少しは、公平になると思えた。
それくらいは許してもらえると思っていた。
(菜月)「…………ただいま、お姉ちゃん」
(優生)「おかえり」
思ったとおり、帰ってきた菜月の表情は暗かった。
どうして?
なんで、あんなお弁当にしたの?
菜月の心の声が聞こえてくるようだった。
でも、菜月は言わない。絶対に。
人一倍優しい菜月が、そんなことを言えるはずなかった。
(菜月)「じゃ、じゃあ、私、外で遊んでくるから……」
(優生)「ごめんね菜月」
私はあえて、自ら切り出した。
(優生)「お弁当、おいしく作れなくて」
言ってしまえば、菜月は何も言えなくなる。
(菜月)「ううん、ぜんぜん! いつもおいしいお弁当、ありがとうお姉ちゃん、早く元気になってね」
(優生)「……うん」
いつも通りの、あふれるような魅力的な笑顔。
その笑顔を見るのが嫌だった。
空のお弁当箱を開ける。
最初は、紙くずだと思った。でも、それは折鶴だった。
不器用な菜月が折った鶴。
破ろうとし……それを、机の奥にしまった。

次の日も、その次の日も。ずっとおかずを抜いた。
(優生)「ごめんね、菜月。今日もおかずなくて……」
(菜月)「……うん」
少し哀しそうだった。そんな妹の態度が気に入らなかった。
(優生)「……嫌なら、自分で作ってもいいんだよ」
(菜月)「そ、そんな嫌なんて思ってないよ、お姉ちゃん」
(優生)「そう」
菜月は肩を落として台所を出て行った。
ちくりと胸が傷んだ。ひどいことをしていると思う。でも、引き返すきっかけがない。
空の弁当箱を開ける。
(優生)「……」
また折鶴だった。
今度こそ破ろうとし……また、机の奥にしまった。


1ヶ月後。
普段より体調の良かった私は、昼に家を出て公園を散歩していた。
そこに……菜月が座っていた。
滑り台の端に身をくるめるようにして座り、おかず抜きの意地悪なお弁当を食べていた。
友達に見られたくないから?
こんなところで?
胸が苦しくなった。
とても居心地の悪い思いだった。
(菜月)「ごちそうさま……」
(菜月)「うちはお金がないんだから……」
(菜月)「わがままいっちゃだめ」
独り言が聞こえる。
(菜月)「よし、そんじゃあ、今日も頑張って折ろうっと」
そして、菜月はワンピースのポケットから折り紙を取り出した。
(菜月)「千羽まで、あとどれくらいかなあ……」
そのときになって、ようやく私は気づいた。
(優生)「……千羽鶴」
菜月は、私のために、千羽になるまで折鶴を贈っていたのだ。
恥ずかしかった。
菜月だって、いつも笑顔でいられるわけじゃない。
お母さんが出て行ってから、外に遊びに行くことが前よりもさらに多くなった。
私にはなんとなく、わかっていた。
菜月は、どこかで泣いているんだって。
それを私やお父さんに見せないように、必死に耐えている。
それなのに……私は。
(優生)「菜月……」
(菜月)「お姉ちゃん?」
(優生)「ごめんなさい……お弁当。わざと……」
(菜月)「…………いいの。私も、ごめんなさいしないといけないから」
(優生)「え?」
(菜月)「せっかく作ってくれたお弁当を恥ずかしいなんて、思って、ごめんなさい」
それから私はたった一人の妹を、大切にしていこうと決めた。
少しだけ不格好な鶴の羽が、夏の潮風にわずかに揺れていた。

時が過ぎた。
経過観察下に置かれてから、見る間に食べ物がなくなっていった。
ナイス・パーソンへの上納。搾取。
町の人間は、奴隷のように扱われた。
そんなある日のこと。菜月はナイス・パーソンによる嫌がらせを見た。
ナイス・パーソンに囲まれて、骨が浮き出そうなくらい痩せこけた男の子が数少ないパンを取り上げられていたのだ。
なにもしていないのに。
1日分の食糧。
たった数切れのパンなのに。
菜月は、納得できなかった。
人一番優しく、正義感が強かったから。
リンチを受けて倒れた男の子に、菜月は約束した。
(菜月)「ぜったい、とりかえしてくるからね」
菜月は後を追った。
前を歩く数人の男。その中の一人が持っているバッグ。
隙を見てバッグを取り返し、男の子のもとへと戻る。
(菜月)「ほら、パンだよ。すごいでしょ、私」
だが、男の子は手をつけずに、恐れおののいて去っていった。
菜月は首をかしげて、家に帰り、お父さんに話した。
(お父さん)「そうか……よく、がんばったな、菜月」
そういって菜月の頭を撫でているとき、お父さんはふっと息を吐いた。
(お父さん)「優生……菜月を寝かせてあげなさい」
そのときのお父さんの顔が目に焼きついて、私はなかなか寝られなった。
きっと、お父さんは自分の命が長くないこと、私と菜月について、覚悟を決めていたのだろうと思う。
翌日、お父さんは町の役場を訪れて、事情を話した。
たくさんの人に罵られ、殴られて、唾をはきかけられた。
その間、お父さんはだまって、額をろくに掃除もしていない汚い床にこすりつけたままだった。



(お父さん)「あああぁぁ…………あ、っあああああああッッ!!!!!!」
お父さんの右指にライターの火があてられる。何秒も、何十秒も。
(お父さん)「はあっ、はあっ、があああッッ、あッ、くぅ、……ああぁぁぁぁ………」
「おっと気絶はダメですよ。きちんと苦しんでもらわないと、ナイス・パーソンさんに聞こえるようにね」
時計屋のお兄さんが、崩れ落ちそうなお父さんを起こし、横顔を蹴り飛ばした。
(パン屋)「わかってるね、優生ちゃん」
おなかをすかせた菜月に、よくパンをくれたおじさんが、耳打ちした。
わかるはずなどなかった。
わかりたくもなかった。
(パン屋)「こうしなければ、町中、ナイス・パーソンに皆殺しにされる」
どうして。
菜月は……妹は、そこまでひどいことをしたの。
優しい子なのに。
意地悪をした私にだって、笑顔を向けてくれたのに。
(優生)「おじ、さん」
(パン屋)「仕方ないんだ」
それは、私の知っている、お隣のパン屋さんのおじさんではなかった。
憎悪ですらない。それは、まったくの無関心だった。認識されていなかった。
あれだけ仲良くしていたお父さんが……経過観察下に置かれるまでは、お酒を飲んで夜通しおしゃべりをしていたお父さんが……殺されるというのに。
(時計屋)「みなさん、憂さは晴れましたか?」
1時間以上にわたって、ひとりひとりから殴られたり……それ以上の、ひといことをされていた。
(時計屋)「いやよく耐えましたね、おじさん」
「苦しいのはここまでです。お別れは寂しいのですが」
時計屋のお兄さんが、銃を取り出した。
(優生)「ぉと……おとうさん!!」
(お父さん)「来るなッ!優生!!」
(優生)「っっ」
(お父さん)「絶対に来るんじゃない。大丈夫だ」
そんなこと言っても、殺されちゃうよ。お父さん。
(お父さん)「やくそく……してくれ」
(時計屋)「はい?」
(お父さん)「子どもたちは……見逃してくれるんだな」
(時計屋)「……ああ、安心してください。僕が保証します。子の責任は親の責任ですものね。親の死体をお見せすれば、彼らも文句はないでしょう」
(お父さん)「……っき」
(時計屋)「……なんですか。まだ何か申し開きでも?」
(お父さん)「な……つき」
(時計屋)「あらら残念。お気の毒ですが、あの薄汚いお嬢さまなら、もう頭が飛んでしまっていますよ」
(菜月)「ゆるして、ゆるして、ゆるして、ゆるして、ゆるして、ゆるして、ゆるして、ゆるして、ゆるして、ゆるして……」
お父さんは、一度激しく咳き込み、血を吐いた。
そして、私を見た。
(お父さん)「ゆ、き」
(優生)「……お、とう、さん?」
顔の形が変わっている。歯がほとんどない。ペンチで引き抜かれていた。
でも、目だけは……確かに、お父さんだった。
(お父さん)「ゆき、よくききなさい」
(お父さん)「おにいさんや、おじさんや、ほかのみんなをうらんだりしてはだめだ」
(お父さん)「みんなは、ほんとうはやさしい人たち」
(お父さん)「ただ、よわいだけの、ふつうの人間なんだ」
(お父さん)「そのよわさを」
―――――ゆるせるやさしさをもって、生きてくれ――――
―――――ゆき――――――
ぱん。
時計屋のお兄さんが、お父さんの頭を打ち抜いた。
力を失った身体が、くくりつけの縄になすがままになる。
(時計屋)「まず1人っと……さ、あとで彼らのところに持っていきますよ」
(パン屋)「あ、ああ」
(時計屋)「……何ですかその目は。おじさんは見せしめに殺すしかなかった。そのことに不満があるのなら、次はあなたがローソク漬けにでもされますか?」
「い、いや、不満なんてないさ。うん、正しいんだ。俺たちは、正しいことをしている」
(時計屋)「……次はどっちを先に殺りますか?」
(パン屋)「ま、まってくれ、ユウキ。それは……」
おじさんが、私と、菜月をちらりと見た。
「何を善人ぶっておるんじゃ!!!!」
どこからか、叫び声。
「1人で済むがないじゃろうがッ!! 隣町のようになりたいのかっ!!!」
「そうだ、ガキも殺せ!!」
「アリス・マジック漬けにされてたまるか!」
このとき初めて、私は自分がもうすぐ死ぬことを察知した。
もしかしたら……いや違う。確実に、私は心のどこかで、お父さんが身代わりになってくれて……ほっとしていた。
菜月のように男の人に体中をいじりまわされ、壊されるのが怖かった。
でもそれ以上に殺されるのが怖かった。
粗大ごみのように紐で縛られて、ビニール袋につめられた遺体。
お父さんだったモノだ。
人の弱さを許す?
無理だよ、お父さん。
こんな弱い私が、何を許せるっていうの。
前歯が、がちがちと耳障りな音を立てる。
のどから、変な呼吸音が聞こえる。
(パン屋)「……わかった」
低く、くぐもった声。
パン屋のおじさんだった。
(パン屋)「ただ……2人は必要ない。ナイス・パーソンに怪我をさせた隣町とは違う。もう1人。あと1人で……事は足りる」
(時計屋)「ここまで来たら、1人も2人も変わりませんよ」
(パン屋)「冷静に考えろ。パン数切れで3人差し出してしまえば、この先、ささいなことでも1人殺さねばならなくなる」
(時計屋)「………っち」
(パン屋)「どちらか、1人だ」
それは、自分に向けられた言葉だと、遅れて気づいた。

その5

その5

ざざぁ……ざぁ……ざ……ざぁ………
潮騒が聴こえる。
ずっと遠くではない。すぐ近くから。
休むことなく、幾度も。
(???)「……あれ?」
頭上で人の声。
(???)「………百合子お姉ちゃん!! お姉ちゃんが、あ、えとあの、こっちのお姉ちゃんが!!」
(???)「優生お姉ちゃん、よ……で、起きそうなの?」
(???)「うん、目のあたりが、ぴくぴくって」
(???)「本当かあ? さっき見たけど、完璧にくたばっちまってたぞ」
「縁起悪いこと言わないの!」
(???)「そうだよカエちゃん!!」
(???)「なんだよ、また俺ばっか。大体、あんなやつ……」
(???)「……だって、優生お姉ちゃんの目……」
目を開く。
(ユカ)「うわあっ」
様子を伺う。
夜だ。腕や太ももが、ちくちくと痛む。
芝生の葉先が、素肌に触れていた。
暗くてもやもやしているが、わかる。
丸太小屋の前で、私は横になっていた。
(百合子)「ほら、ぼやぼやしてるから、不意打ち!」
どたん。
何かが地面に落ちる音がした。
シーソーの両端で、百合子とカエデがにらみ合っている。
(カエデ)「どおお!! あ、あっぶねえ……たく、百合子のケツ、重てえんだよ」
(百合子)「っ、なななな、なんですってーーー!?」
たしか……そうだ。
アリス・マジックの副作用に耐え切れず……そのまま、きっと気絶したのだろう。
(ユカ)「えと、おはよう」
見覚えのある顔だった。
(ユカ)「だいじょうぶ?」
(優生)「…………なにが」
(ユカ)「ほっぺ。泣いてるみたいだから」
頬に指を添える。湿った跡がある。
アリス・マジックの軽い方の副作用のせいもあるだろう。
でも、きっとあの夢を見たからだ。
ブレザーの内ポケットを確認する。
(優生)「放っておいて」
(ユカ)「……あ」
シーソーの方へと歩く。
(百合子)「もいっぺんいってみんさいよ、あんたっ」
(カエデ)「おうなんべんでも言ってやるぜ、百合子のケツは重くてデブ………ぁ」
(カエデ)「ごめんなさいデブは言い過ぎました」
(カエデ)「いや、だから、そんな松葉杖の先をこちらに向けないで、冷静に紳士的に、な、百合子」
(百合子)「だまらっしゃあい!!」
(カエデ)「ぐぼァ!!」
ぼた。
(百合子)「はあ……はあ……まったく、カエちゃんは。ちょっと甘やかしすぎたかしら…………って、あら」
ようやくこちらに気づいた。
(百合子)「お目覚めかしら、ハードボイルドなお嬢様」
(優生)「どういうつもり」
(百合子)「ん? 何のこと?」
(優生)「銃に弾、こめたでしょう」
確認せずともわかる。明らかに重い。全発装填されている。
私が気絶しているときに、こめられたものだ。
おそらく、百合子だろう。
(百合子)「うん。まあ、私だって身を守るための最低限のものは持っているからね。ちょちょいと」
(優生)「そんなことは聞いてない」
(優生)「なぜ、弾をこめたの」
元々は2発しかなかったはずだ。
今は、少なくとも3発以上ある。
百合子、カエデ、ユカ。
私以外の3人分。
(百合子)「…………」
空気が少し変わった。
(百合子)「カエちゃん、ユカ」
(カエデ)「いててて」
(ユカ)「うん?」
(百合子)「例の準備を始めるわよ。おうちで支度しててくれる?」
(ユカ)「え、でもさっき、みんなでやろうって」
(カエデ)「……いくぞ、ユカ」
(ユカ)「で、でも」
(カエデ)「……俺が手伝うから」
(ユカ)「……」
(カエデ)「な?」
(ユカ)「……う、うん」
カエデは、ユカの手を引いて、小屋の中へと入っていった。
(百合子)「なかなか、勘の鋭い子でしょう? カエデ」
(優生)「……そうだね」
百合子が、人払いをしようとしているのに気づいた。
賢いのだろう。
(優生)「あの子たちとは、どこで?」」
(百合子)「……ま、お決まりのパターンよ」
それ以上何かをいう気はなさそうだった。
おそらく……施設から抜け出してきたか、親に売られたか。
そんなところだろう。
血のつながりもないのかもしれない。
(百合子)「うーん」
百合子は伸びをした。
吐く息がかすかに白くなる。無理もない。そろそろ冬支度をする季節だ。
(百合子)「ねえ、優生」
(百合子)「素敵な夜だと思わない?」
松葉杖を芝生の上に置いて……両手を空に伸ばした。
それにならうようにして、私も空を見上げた。

明るかった。
無数の星。
あるものは単体で太陽のような輝きを。
またあるものは連なって、紫と藍色の中間のような不思議な色合いを成している。
その中で、10秒に一度空を流れおちていくものがあらわれる。ひっきりなしに、次々と。
本来であれば暗闇のはずだった。
でも、星たちの発光が暗さを上回り、陽光が降り注いでいるかのような錯覚を覚える。
綺麗だった。
流れ星が朝のような夜空を駆け巡る。
見ていると、自分がそこににじんでしまえるような感じがした。
(優生)「……そうかもしれない」
(百合子)「案外……ロマンチストなのね。あなたも」
目を閉じていた百合子が、笑った。
でも、それは長くは続かなかった。
(百合子)「松葉杖がないと、私は歩けない」
抑揚のない声。
(百合子)「銃はあっても、あなたみたいにうまく撃てない」
時折見せる、悲しんでもおびえてもいない、透明な瞳で私を見ていた。
(百合子)「そんな私がどうやって、水と食べ物を確保してきたと思う?」
(優生)「それは……」
決まってる。
売りだ。
もちろん、そうだろうとは思っていた。
でも、百合子は、そんな素振りを見せなかった。
(百合子)「私は……もう、ダメなのよ」
フリル付きのスカートをたくし上げ、下着を下ろす。
下腹部から性器にかけて、紫色に変色していた。
感染症による免疫不全。
末期だった。
(優生)「………」
ようやくわかった。
学校の教室。
石段の途中。
生殺与奪を握られた場面で、百合子はどんな種類の感情も見せなかった。
なぜか。
……生きようとしていないから。
今日打ち抜かれなくても、明日には病死するかもしれない。
明日病死しなくても、次に売りをやったとき、新たな免疫不全を引き起こし、急死するかもしれない。
それ以前に、ナイス・パーソンに殺されるかもしれない。
そんな世界で、誰が生きようとするだろう。
(百合子)「どの道、長くはないの」
(百合子)「そして、私が死んだら……あの2人はこの螺旋地獄のような世界に取り残される」
(百合子)「だったら……こんな夢みたいに素敵な夜になら」
(百合子)「そして、優生になら……殺されちゃってもいいかなって」

生きようとしていないから、殺されてもいい。
百合子はそう考えている。むしろ、それを望んでいる。
じゃあ、私は?
生きようとしているから、殺すのだろうか?
今日までそうしてきた。
自分を生かすことを最優先とした、絶対の基準。
それは果たして、正しいのだろうか?
お父さん……
……菜月。




(パン屋)「どちらか、1人だ」
(優生)「………ぇ」
声にならない。
(パン屋)「菜月ちゃんは、もう、駄目だ」
(優生)「そん、な」
(パン屋)「……でも、選ぶのは、優生ちゃんだ」
なにを、選ぶっていうの。
(パン屋)「難しく考えるな。生きたいか、死にたいか」
(優生)「……っ」
怖い言葉を聞かされて、涙があふれた。
(パン屋)「こんな世界だ。死にたいのなら……」
こんな世界。
そう。お母さんが出てって、菜月が狂って、お父さんが殺された、地獄のような世界。
(時計屋)「……あ、あいつ……右手の薬指が半分しか……ナイス・パーソン……っおい、てめえ早く決めろよ!!」
時計屋のお兄さんの大きな手が、私の髪の毛をつかんだ。
(優生)「でも……だってっ!!」
(時計屋)「こいつで頭を吹っ飛ばされたいか」
ゴッ
(優生)「ひっ……!!」
銃口が、冷たい鉛が押し付けられる。
(時計屋)「それとも、吹っ飛ばされたくないか、2つに1つだ、簡単だろ。いや、もういい。面倒だ殺す」
(優生)「いやあ! こわいよ、やだよっ!! お願いだからっ……」
理屈も何もなかった。
痛いのが怖い。それだけだった。
お父さんの言葉も、震える菜月の手も、不恰好な折鶴も……何もかもが消え失せていた。
(優生)「ころさないで」
(優生)「だって、盗んだのは私じゃない」
……ああ。
それは、たぶん、言ってはいけない言葉だった。
思ってもいい。でも、口に出してはいけない言葉だった。
(時計屋)「決まりですね」
(菜月)「……っ、ゆ、ゆるして、ゆるして、ゆるして、ゆるして、ゆるして、ゆるして、ゆるっして、ゆるして……」
菜月の手が離れ、くくりつけられる。
(時計屋)「よし、ちょうど少女趣味のナイス・パーソンさんが見てますよ……………今だ、殺せ」
(優生)「あ……」
そのとき、菜月と目が合った。
ゆるして、とは言わず。
たすけて。
そう言ったように見えた。
ぱん
乾いた音が、灰色の町に鳴り響く。
その瞬間……私の中の何かも、崩れ落ちた。

その6

その6

来る日も来る日も、おじさんやお兄さんや、ときにはおじいさんに、犯され続けた。
夜まで眠って、夜中にレイプをされ、朝方に時計屋のお兄さんから食糧をもらう。
そうして、生きた。
死のうと思った。
何度も、果物ナイフでお腹を刺そうとした。
吊るされた縄に、首をかけた。
でも、そのたびに、お父さんと菜月の声が聞こえてきた。
その声は、私を責め続けた。
もっと生きて、苦しめ。
死ぬことなんてできなかった。
生き続けることが落とし前だと思うことにした。
それが、私の存在理由だった。

路地裏には、似たような境遇の女の子や男の子がいた。
私は、彼らから人の殺し方を学んだ。

「私たちは、もちろん弱い。でも、それは使いようによっては最大の武器になるわ」
うん。
私はうなづいた。
「制服を着ている女の子が歩いている。心細そうに。控え目に。まず間違いなく、人は警戒心を解く。
まさか、その背徳的なスカートの向こう側で、サイレント付きの赤いレーザー・ポインタが自分を捉えているとは思わない」
うん。そうだね……。

半年後。
時計屋のお兄さんを殺し、パン屋のおじさんを殺した。
私は髪を切り、町を出て、西へ向かい、この町にやってきた。

そこで私は、アリス・マジックの中毒にかかった。
生き続けることと別に、クスリを得る、という生き方ができつつあった。
体を売っておびき出し、殺してクスリと水を得る。
そういう毎日だった。

これは、罰なのだ。
お父さんと妹を殺して、私は生きることになった。
つまり、私はそういう人間なのだ。
自分が生きるためなら、何を犠牲にしても、自分の妹を生贄にしてでも、差し支えない。
このあまりにも醜悪な価値基準を、一生貫かなければならない。
生きる理由なんて、必要ない。
自分を生かすことが、生きる理由。
このちっぽけな心臓の鼓動が、懺悔の足しになると信じて。
そんなものにすがって、生きてきた。


そんな私に、百合子は……。

(百合子)「お願いがあるの」
(百合子)「丘の端っこの紅葉、見える?」
(優生)「……」
(百合子)「お花見には、打ってつけの場所」
(優生)「……」
(百合子)「素敵な星空と綺麗な紅葉。絶好のロケーションじゃない?」
(優生)「……それ、花見じゃない」
(百合子)「あ、そうか」
(百合子)「でもいいじゃない、花見じゃなくても。とにかく、みんなで過ごして」
(百合子)「楽しい思い出をつくるの」
(百合子)「みんなでご飯食べて、騒いで、ふざけて……」
(百合子)「思い出ができたら……撃っていいわ」
(優生)「…………」
(百合子)「これが私のお願い」
(優生)「…………そう」
(ユカ)「お姉ちゃん! 準備できたよー!!」
(カエデ)「ああ、もう! 二度とお前と料理なんてしねえからな!」
(ユカ)「ど、どうしてよ」
(カエデ)「どうしてもくそもあるかい! 生卵をいきなりチンする奴があるか!」
(ユカ)「だ、だって、あっためとけって、カエちゃんが言うから……」
(カエデ)「俺は茹でとけ、っていったんだよ。あと、カエちゃん言うな」
(ユカ)「ご、ごめん」
(百合子)「相変わらず、仲むつまじいことで」
ステンレス製の松葉杖を拾うと、百合子は2人に手を振った。
(百合子)「ほうらあ、カエちゃん、いちゃいちゃしてないで、はやくお料理、運びなさーい」
(カエデ)「いちゃいちゃなんかしてねえ!」
カエデが両手にいっぱいの皿を持って怒鳴る。
(百合子)「何してるの、行きましょう」
百合子が、私の肩をぽんと叩いた。
(百合子)「お願いね」
百合子のお願い。
私は、引き金を引くのだろうか。
……。
引く。
それが、私の唯一の生き方。
今さら変えられない。
そしてまた、百合子にとっても。
ここが、唯一の死に場所なのだろう。


(百合子)「そんじゃあ、改めまして……」
(百合子)「優生さんいらっしゃーい!!」
万歳をする。
私の腕が勝手に持ち上げられ、万歳をさせられる。
(百合子)「……の、晩ごはんのはじまりはじまり!!」
(百合子)「ぱちぱちぱちぱち」
(百合子)「みんな、もう食べまくっちゃって、飲みまくっちゃって!!」
(カエデ)「うめー、電子レンジで爆発したスクランブルエッグ、めちゃくちゃうめえ」
(ユカ)「……うう、ごめんなさいもうしませんからゆるして」」
(百合子)「ってのっけから、あんたはっ、ユカいじめんじゃないわよ」
(カエデ)「いでえ!! ……ひ、ひっかくことねえだろ……っだああ! 鶏のから揚げ、落としちまった……」
(百合子)「なんの!」
ひょい。ぱく。
(カエデ)「ああ、食いやがった!」
「百合子おねえちゃん、だ、だいじょうぶ?」
(百合子)「所詮は芝生よ。3秒ルール内だわ」
(カエデ)「食い意地はってんなあ、だからふとるん……」
ひゅ。
(百合子)「カエデくん、なにか言った?」
(カエデ)「ゆ、百合子お姉さまが美しいと。だからフォークを首筋にあてるのはやめてくださいお願いします」
(百合子)「よろしい」
(カエデ)「だんだん、洒落にならなくなってきてねえか……」
ビニールシートに、丸太のテーブル。
お祝い事のときに出されるような、料理の数々。オレンジジュース。
満天の星空と、紅葉の木の下での「お花見」。
コップの水を一口飲む。
綺麗な水だった。町中にあるような、血のにおいのする不純物ではない。
アリス・マジックは、まだある。
飲んでしまいたい。思考したくない。
(ユカ)「……優生お姉ちゃん、食べないの?」
(優生)「…………」
スクランブルエッグにかけられたケチャップ。
おいしそうだった。
でも、食べられない。
作ったのは、この子たちだから。
この後、私は殺さなければならない。
(カエデ)「お前、そうやって朝もっ」
(百合子)「優生」
凛とした声が、カエデを制した。
透明な瞳で私を見つめた。
おねがい。
声に出さず、そう訴えていた。

ーーみんなで過ごしてーー
ーー楽しい思い出をつくるのーー

一口、食べた。
スクランブルエッグとしては、とろけすぎていた。
溶き卵に近い感触だった。
でも、おいしかった。

(ユカ)「……ど、どうかな?」
恐る恐る、といった感じでユカが訊いてくる。
(優生)「…………おいしい」
そう言うと、百合子は穏やかな笑顔を浮かべていた。
子を持つ母親のような、優しい微笑だった。
(ユカ)「ほ、ほんと!?」
(優生)「……ええ」
(カエデ)「あ、あたりまえだろ、俺たちが作ったんだからな!」
(百合子)「もうカエちゃんたら照れ照れ、デレデレ」
(カエデ)「照れてもデレてもいねえ!」
(百合子)「ひょっとして、お姉さんタイプが好み?」
(ユカ)「……そうなの?」
(カエデ)「勝手に決めつけんな! っいでで、何すんだよ、お前!」
(ユカ)「……知らない」
(百合子)「おーっとここでまさかの三角関係か!」
(カエデ)「うるせえ黙ってろ! ああもう、なあ!」
カエデと目が合う。
(カエデ)「お前もなんか言ってやれよ、優生」
(優生)「え?」
(カエデ)「黙ってると、百合子のおもちゃにされるぞ」
(百合子)「そうよお、私の妄想の中じゃ、それはもう3人は組んずほぐれず……」
(カエデ)「オヤジかてめえは!」
(ユカ)「くんずほぐれずって、何?」
(優生)「……カエデに、訊いてみたら」
(カエデ)「ちょ、ここで俺に振るのかよ。ああ、まあそりゃあなあ、いろいろあってだなっ……な、なあ、百合子!?」
(百合子)「3人でえっちなことをするってことよ」
(カエデ)「ちっとは隠せこのアホ!」
(ユカ)「えっち?」
(優生)「……」
(百合子)「……あら」
百合子が頬杖をついて、こちらをぼんやりと眺めていた。
(百合子)「へえ」
(優生)「何」
(百合子)「なんかいいことでもあったのかしら」」
(優生)「え」
(百合子)「笑えてるわよ、あなた」
…………。
……。
何年も、1人で生きてきた。
人は、怖かった。
パン屋のおじさんのように、無関心な目を向けられる日が来るのが怖かった。
嬲られ、犯され、鳴き声をあげる。
結果として残されたのは、他人を欺いて殺す術だけだった。
でも……1人にも、疲れていた。
溶けきったスクランブルエッグ。
冷え切ったビニールシート。
騒がしいお花見。
満天の星空。
赤く、黄色く色づく紅葉の下で。
みんなが笑っていた。
私も……もしかしたら笑えていたのかもしれない。
少しだけ、ホルスターの重みを忘れられていたのかもしれない。
…………。
……。
……。

(百合子)「さてさて……お子様が寝静まったところで」
(百合子)「じゃん! アルコールタイムでございます」
口の開けられていない小瓶を取り出す。
スコッチだった。
(優生)「そんなもの、どうやって手に入れたのよ」
酒なんて、役場のゴマすり連中でさえめったに呑めないはずなのに。
(百合子)「そんなの決まってるじゃない」
(百合子)「あいつらを絶頂させた隙に、ちょろまかしたのよ。見て見て、18年モノよ」
(優生)「…………あなたの方が、よっぽどハードボイルドよ」
(百合子)「おほめにあずかりまして」
ウイスキーには、いささか胴が長すぎるグラスに氷を入れて、2センチほど注ぐ。
酒には全く詳しくないけど……たしか、オン・ザ・ロックという呑み方だった。
(百合子)「優生は? どうする?」
(優生)「私は、べつに要らない」
(百合子)「却下」
(優生)「……………ロック」
(百合子)「はいはーい」
再び注がれる、スコッチ・ウイスキー。
ワインくらいなら飲んだことがあった。
そうしなければいけない状況だったから。
ウイスキーなんて、自分に呑めるのだろうか。
(優生)「あなたは、よく呑むの?」
(百合子)「そんなわけないでしょ。中年オヤジじゃあるまいし」
(百合子)「お酒自体、初めてよ」
(優生)「そう」
(百合子)ほら、グラス持って」
(優生)「うん」
(百合子)「きん、て鳴らすのよ」
(優生)「それくらいわかってる」
(百合子)「これは失礼……では、改めまして乾杯をば」
乾杯。
お父さんがパン屋のおじさんと呑んでいるときは、決まって何かに乾杯してた。
菜月が生まれたときは、菜月に。
お母さんが出て行ったときは……私の未来に。
(百合子)「2人のかわいい寝顔と」
(百合子)「ハードボイルドな友人に」
『乾杯』
…………きん。
それっぽく、私たちはグラスを鳴らした。
大人になれそうもない私たちの、精一杯の背伸び。
それでも、初めてのスコッチは、熱くて……おいしく感じられた。
(百合子)「ねえ、優生」
(優生)「うん」
(百合子)「大切な思い出」
(優生)「え」
(百合子)「これ……紅葉の、花言葉だって」
(優生)「………………」
(百合子)「笑っちゃうよね」
うつむいて、寂しそうに笑って、グラスを傾けた。
私も、それにならった。
紅葉の葉が、丘の向こう……藍色の海原へと消えていった。
…………。
……。


(百合子)「じゃ、もういいわ」
(優生)「ええ」
(百合子)「うちの食べ物とか水とかは、全部あなたにあげるから、好きにして。ま、腐る前に食べてもらえると、うれしいけどね」
(優生)「わかった」
サイレンサーを取り付け、セーフティを外す。
(百合子)「ん……しょっと。あ……」
ぱた。
松葉杖が倒れる。
(百合子)「これは、まあ、そのうちおばあさんにでもなったら、使ってよね」
(優生)「そんなに生きられない」
(百合子)「残念」
…………。
……。
夜空を見上げる。
ステンドグラスの窓を流れる雨粒のように、星が丘陵の向こう側へとおちていく。
絶えることなく、幾筋も、幾筋も。
星が、誰かのために泣いているように感じられる。
(百合子)「うはあ、すごいわね」
数メートル先で、丘は終わっている。
百合子の後ろは、海。
ほんとうの、はじのはじ。
(百合子)「さて、と」
両腕が、左右に大きく広げられる。
(百合子)「いいわよ、いつでも」
(優生)「うん」
レーザーポインタを額にセットする。
赤い点が小さく灯る。

(優生)「……………………ねえ」
(百合子)「……………………なあに」
(優生)「……さみしくなさそう?」
(百合子)「…………ええ」
(百合子)「ちっぽけな、思い出があるから」
(優生)「……そう」
(百合子)「あなたも、さいごは……」
(百合子)「思い出してあげてね」




私は、3人を撃ち、3日分の水を得た。
いつもより、少し割の良い日。
(優生)「でも、変わらない」
4日後以降のために、また誰かを殺す必要がある。
そして、いつかは終わる。
(優生)「そのときには……私にも、あるのだろうか」
大切にすべき思い出が。

東の空に、うっすらと朝焼けが広がるころ。
私は、丘をあとにした。

(終わり)

もみじ色の子どもたち

お読みいただき、どうもありがとうございました!

もみじ色の子どもたち

ナイス・パーソンと呼ばれるものたちによって占領統治された町で、少女・優生(ゆき)は日々、退廃的な生活を送っている。 男たちに近づいては、ブレザーの内ポケットに隠された拳銃で殺害し、生き延びるために必要なドラッグと水を得る毎日。 そんな優生の前に、半身不随の少女、百合子が現れる。

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-06-01

CC BY-NC-ND
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  1. もみじ色の子どもたち その1
  2. その2
  3. その3
  4. その4
  5. その5
  6. その6