幕末異聞録  ~歴史への挑戦者~ 邂逅編

 もし、あなたに歴史を変えられる力があったとすれば、どうしますか?

 この問いを考えながら、この小説を読んでいただければ、作者としては幸いです。

登場人物紹介

                             登場人物紹介


・直江三成
 高校生で剣の名手。持ち前の冷静さ、豊富な歴史の知識で、幕末を駆け抜ける!

・一橋(徳川)慶喜
 聡明であり、経世済民の理想を内に秘める伏龍。読書から茶道、裁縫までこなす多芸多才の美女。

・平岡円四郎
 慶喜の側近で、慶喜に絶対の忠誠を誓う女性。武骨ではあるが、その明るい性格で周囲からも愛されている。三成とも仲が良い。

・松平慶永
 慶喜最大の理解者。慶喜同様に聡明。三成の前では、常に優しいお姉さんの態度をとっており、信頼される。

・徳川斉昭
 慶喜の母親。尊王思想が強く、慶喜でも手を焼く程の頑固者。母として、先覚者として慶喜と三成を見守る。

・松平容保
 会津藩の藩主。徳川将軍家に絶対の忠誠を誓う生粋の佐幕派。真面目過ぎる一方で、一途過ぎる面も持つ女性。

運命の出会い

                               運命の出会い


                                運命の時--。
                            二人の出会いが、歴史を変える。


 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***      

「さて・・・・・・と。一体何が起きたのか、もう一度整理してみるか・・・・・・」
 俺、直江三成は、先程自分のみに起きた事に思いを巡らせる。
 俺はごく普通の高校二年生だった。しかし、それはほんの少し前に起きた出来事により、過去の話となってしまった。


  その日、俺はいつも通り学校に登校し、部活動や生徒会活動を終え、帰路へとついた。そして、そのまま家に帰る予定の筈・・・・・・だった。
(あの怪しい雑貨屋に入った事が、全ての始まりだった・・・・・・)
 帰路の途中、普段見かけない店を見つけた。そして、なぜかその店に入りたいとの思いに駆られた。
 店内に入ってみると、雑貨屋なのか、古文書や古書、文房具、日用品まで、様々なものが売られていた。
 店内にある商品を見て回る中、俺はある商品に心を奪われた。
 それは、店の片隅に置かれた、埃を被った一台のカメラだった。それも、かなり昔のカメラで色も相当に褪せていた。その上、これがカメラかと思える程に重かった。
「これはもしや・・・・・・」
カメラを手元に寄せ、埃を払っていくと、俺の頭脳に衝撃が走った。
俺は、俺が保有する歴史の知識に総動員をかけ、その衝撃が本当であるかを確かめた。そして、このカメラがいつの時代の物であるかを、即座に理解した。驚くべき事に、このカメラは、江戸時代の末期、俗に『幕末』と呼ばれる時代の物だった。
 何を隠そう、俺は学校一の歴史通。とりわけ、幕末は守備範囲中の守備範囲だ。その俺に、幕末の品が分からない筈はない。
 このカメラは九十九・九パーセントの確率で、幕末に使用(?)されたカメラだ。


(こんな掘り出し物と出会う事ができるとは・・・・・・)
俺は感激のあまり、体が震える事を抑える事ができなかった。俺にできた事は、感激のあまり流れ出そうな涙を抑える事のみだった。
俺は、即座にカメラを購入する事を決意。カメラにつけられていた、黄色く変色した値札を睨み付けた。何とも幸いな事に、カメラの値段は安く、今現在の財布の中身で十分過ぎる程だった。さらに幸いな事に、カメラはすぐにでも撮影ができる様にセットされていた。
 店の中にはなぜか店員がいなかったため、カメラの代金と事の詳細を描いた手帳の切れ端を、レジの上に置き、店を出た。
 そして、店の外で写真を撮ったその瞬間・・・・・・!


「・・・・・・ここにいたのだな、俺は」
 周囲にあるのは木、木、そして木。先程までいた怪しい雑貨屋など、影も形もない。それどころか、周囲には木があるのみで、家一軒、人一人いない。
 いかに俺が冷静に考えても、この状況の変化に対応する事など不可能だ。むしろ、この状況の激変に冷静を保っている俺の方がどうかしているとも言える。
「まったく、一体何がどうなっている。それ以前に、ここは一体どこだ?」
 どれ程冷静に考えても、この場所が先程までいた場所と同じという事はありえない。どれほどの馬鹿であろうと、その程度の事は分かる。
では、一体ここはどこなのか?
先程の俺の質問に答える者など、周囲には誰もいない。
俺を嘲笑うかのように、頭上でカラスたちが鳴くだけである。
「焦っても仕方がない。座禅でもして、善後策を考えるとするか・・・・・・」
  取り敢えずその場へと座り、祖父仕込みの座禅を組み、思案を始める。
だが、いくら思案をしても、情報が不足し過ぎているこの状況下では、有効な考えなど浮かんでこない。いや、何をもって有効とするのかが分からない以上、浮かんだ考えが有効か否かさえ分からない。
(さて、どうするべきか・・・・・・)
 考えも浮かばない以上、これ以上の思案は時間の無駄以外の何物でもない。かと言って、下手に動けば、どんな事態に陥るかも分からない。
 ここは、そうした事も踏まえてもう一度思案した方が・・・・・・。
「ぎゃ~~~~~~!」
点を切り裂くような悲鳴が、森中に響き渡る。ついで、凄まじいまでの金属音が、その日命に続く。
「まったく、俺には思案するだけの時間さえ与えられてはいないのか」
 辟易しつつも、金属音がする方向へと向かう。
 厄介事に巻き込まれるとは、冷静ではなくても分かるし予想もつく。しかし、理性では分かっていても、それをそのまま行動に移せないのが、人であり、そして俺の性というものだ。
 金属音がする場所に着くと、そこでは三人の男たちが刀を抜き、一人の女性を取り囲んでいた。
 女性のすぐ傍には、男性が倒れている。おそらく、先程の悲鳴の主だろう。全く動かないところを見ると、残念ながらもう事切れているようだ。
 事情は不明だが、現在の状況が女性にとって有利でない事だけは確かだ。女性も刀を抜いてはいるが、すでに肩で息をしている。その上、先程からの戦いを見る限り、剣の腕自体もそれ程ではないようだ。
現状から察するに、三人の男たちに斬りかかられて男性は絶命し、女性は不慣れではあるが刀を抜き、三人と斬り結んでいた、と言うところだろう・・・・・・。
「面倒事には関わりたくはないが・・・・・・。女性一人を男三人が襲っているのを見過ごす事もできまい」
 俺の取るべき行動は決まった。


俺は、目の前の光景に何か違和感を感じつつも、その場を駆け出し、三人の内の一人に当て身をくらわせる。当て身をくらった男は体勢を崩し、その場に倒れ込む。
「お、おのれ!何をするか!」
「それはこちらの台詞だ。女性一人を男三人で襲うとは・・・・・・、貴様ら恥を知れ!」
 俺の大喝に一瞬はたじろぐも、退こうとはしない。
(やはり、手荒な事は避けられない、か・・・・・・)
 あまりにも予想通りの展開過ぎて、正直嫌になる。
「小僧、邪魔立てすれば容赦せぬ!」
「そこをどけ!さもなくば、ただでは済まさぬぞ‼」
  三人は刀を構え直し、俺を威嚇する。
 もっとも、この程度の威嚇を恐れているのなら、この場に立ってなどいない。
「面白い。邪魔したらどうなるのか・・・・・・、教えてもらおうか!」
 言い終わらぬ内に、三人のもとへと駆け出す。三人は一瞬は驚くも、すぐにこれに応じ、彼らもまたその場を駆け出す。三人の内の一人は、顔に笑みさえ浮かべている。
(こいつらの不幸は、相手の実力を知らないことにあるな・・・・・・)
  俺は自分の心配をするより、三人の事を哀れに思ってしまう。


最初に斬りかかってきた男を蹴り、刀を奪い取る。刀を奪われた男は、慌てて脇差を抜こうとする。
「・・・・・・遅い」
  しかし、脇差を抜ききらない内に俺から峰打ちをくらい、その場に崩れ伏す。
  残りの二人には、斬り結びもせずに、峰打ちをくらわせる。二人は糸を失った操り人形の様に、その場に崩れる。
 この一連の動きに、三人の状況認識能力は、全く追いついていないようだった。
(この程度の相手、全国大会の予選会に腐るほどいた)
  すでに過ぎ去った、剣道の全国大会が懐かしく感じられる。
  あの大会で、俺は見事に二連覇を達成したのだ。あの時、準決勝から決勝にかけて戦った相手に比べれば、三人の腕など全く大した事がない。
「くっ・・・・・・!こやつ、なかなかできるぞ」
 ただ単に、貴様らの腕が未熟なだけだ。
「いったん退け!」
 男たちは、体を引き摺りつつ辛うじて、その場から逃げて行く。しかし、男の一人が立ち止まり、苦痛に顔を歪めながらも言い放つ。
「今日のところは引き揚げる・・・・・・。しかし、必ずやその首級頂戴いたす。覚えておけ‼」
 捨て台詞を残し、男は仲間のもとへと無様に去っていく。
(貴様はどこの悪役だ、どこの・・・・・・)
 大した事のない奴らだった。もっとも、そうでなければ、三人で女性一人を襲ったりはしないだろうが・・・・・・。
「・・・・・・せめて、自分の持ち物くらい持ち帰れ」
 男の一人から奪い取った刀を、逃げて行った方向へと投げ捨てる。
 何はともあれ、これで荒事は終わった。
 しかし、やはり俺は何か妙な違和感を感じていた。


 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***

(一体、この者は何者なのだ)
 私を助けた事からして、少なくとも敵でない事だけは確かだが・・・・・・。
 姿からして、武士ではなかろう。だが、町人にしては、あまりにも腕が立ち過ぎる。そしてそれ以前に、その格好からして、我が国の者か疑わしい。
 もっとも、その疑惑は先程この者が我が国の言葉を話していた時点で、拭われた。となれば、異人の格好をしている事からして、洋学者か何かなのだろうか?
「・・・・・・大丈夫か?」
「・・・・・・・・・?」
「腕から血が出ている・・・・・・」
 その程度の傷で、何を言っているのだ。
 この者は?
「大した事はない。単なる掠り傷・・・・・・」
「何を言っている。見せてみろ」
 私が言葉を言い終わりもしない内に、目の前にいる男は私の腕を攫んでいた。
 いつもならば、この様な勝手決して許しはしない。しかし、この時だけは、なぜかそれができなかった。
(温かい手だ・・・・・・)
  私の腕を攫んだ彼の手は、これまで私が触れてきた手の中で、最も温かかった。この手に触れられていると、不思議な気持ちになる。ただ触れられているだけなのに、とても心が落ち着く。先程まであった痛みも、今では全く感じられない。


「・・・・・・これでいいだろう」
 彼の声が、私を現実へと連れ戻す。
 人が感傷に浸かっていたというのに、無粋なまねをする。
「ん?どうかしたのか?」
「そうか、それならばいい。応急処置はしておいた。念のため、医者にも見せた方がいいだろう」
「・・・・・・す、すまない」
「礼など不要だ。俺はただ、俺の成すべき事をしただけだ・・・・・・」
 初めてだった。
 人からここまで優しくされたのは、初めてだった。
(何なのだ、この思いは・・・・・・)
 彼が傍にいるだけ、それだけで心が安らぐ。
 この私に、この様な思いを抱かせるとは不思議な男だ。


「ところで、ここがどこなのか教えてはくれないか?」
 無礼だとは思いつつも、俺はこの女性に位置情報について尋ねてみた。 いかに冷静に思案しようとも、情報が決定的に不足しているこの状況下で、何ら有効な方策が浮かばないのは、先程嫌と言うほど体験した。
 そうなれば、俺がとるべき選択肢は一つ。
  目の前にいるこの女性から、情報を入手する。たとえそれが、どれ程些細な状況であろうと・・・・・・。
「ここは江戸近郊の森だ」
「エ・ド・・・・・・?」
  俺の耳に異常がなければ、目の前の女性は江戸と言わなかったか?
「蝦夷ではない! 江戸だ。関東武蔵国にある江戸だ‼」
「・・・・・・・・・・・・」


 俺の脳裏に、ある仮説が浮かんだ。
 しかも、俺の考えたその仮説が、九十九・九九九パーセントの確率で、的中しているような気がしてならない。
「つかぬ事を尋ねるが・・・・・・。今の年号は、平成だな?」
「何を言っている?今の年号は、安政に決まっている」
「・・・・・・・・・・・・」
 俺は、何も答える事ができなかった。
 女性の言葉は、俺の考えた仮説を僅かに否定する希望さえ打ち砕いた。
 俺の頭脳にある歴史の知識では、安政の年号が使われていた時代は、日本に一つしか存在しない。
 つまり、俺が今いる時代。
 それは・・・・・・。
「江戸時代、だと・・・・・・」
 たしかに、今が江戸時代だというならば、これまでの全てに対して説明が可能だ。先程の男たちやこの女性が刀を帯び、斬り結んでいた事も例外ではない。
 江戸時代には、銃刀法が存在しないのだから、刀を差している事は犯罪ではない。それどころか、武士が世の中心あって国を動かしていた最後の時代が江戸時代だ。武士がいて、武士が刀を差している事は、むしろ当然とさえいえる。
 要するに・・・・・・。
 今の状況を総合的かつ冷静に判断すれば、答えは一つしか存在しない。
「俺はタイムスリップしたという事か・・・・・・」
「いきなり押し黙るとは・・・・・・よく分からん奴だ」
「すまない」
 取り敢えず、無難な返答で彼女を誤魔化す。
(誤魔化す事はできたが・・・・・・)
 俺自身が混乱している事に変わりはない。しかし、この状況下では混乱するな、という方に無理があるだろう。
 タイムスリップした現状を受け入れる事は、今の俺にも十分に可能だ。発生した現象に対して、あれこれ考えを巡らせる事は全くの無意味だ。それは単なる時間の無駄に過ぎない。
 要するに俺は、現象に対して混乱しているわけではない。
 俺が混乱しているのは、自身がいる時代に対しての理解故だ。


 俺がタイムスリップしたのは江戸時代、それもその最末期。
 日本史で『幕末』と言われる激動の時代だ。安全や平和、希望と言う言葉とは全くの逆方向に位置する時代。
(よりにもよって、最悪の時代にタイムスリップしてしまった様だな・・・・・・)
 自分が置かれた状況が分かる、という事がこれ程までに混乱をもたらすとは何とも皮肉なものだ。
「また黙り込んで、一体どうしたのだ?」
「いや、何でもない・・・・・・」
「まぁよい。それよりも、私の屋敷に来ないか?」
「何・・・・・・?」
 あまりに突然の事で、俺の理解が追いつかない。
 俺の耳に異常がなければ・・・・・・。
 彼女は今、屋敷に来ないかと言わなかったか?
「大方、行く当てもないのだろう?それならば、私の屋敷に来ればよい」
「構わないのか?」
「構わん。私は、私のなすべき事を為すだけだ」
「すまない」
「礼は不要だ。それに・・・・・・、命を救ってもらった礼もしたいからな・・・・・・」


(そう言われては断れないのだが・・・・・・)
 しかし、彼女は一体何者だ?先程までは気付かなかったが・・・・・・。
 彼女の服はとてもではないが、一介の武士の娘が身に着けられるような代物ではない。
 また、言葉づかい一つにしても、一介の武士の娘のものではない。人の上に立つ者特有の何かが、その端々から感じられる。身分の高い、高貴の出のお嬢様若しくはお姫様である事だけは間違いない。
「ん・・・・・・?」
「どうした?」
「・・・・・・誰か来る」
 俺が彼女を追い掛けようとすると、突如森の向こう側から蹄の音が近づいてくる。振動や音からして、馬は一頭ではない。少なくとも、二、三頭はいるだろう。
 もしかしたら、その数はさらに多いかもしれない。
(先程の連中の仲間か!)
 無意識のうちに、俺は彼女を庇って前に出る。そして、最悪の状況へと備える。
 もっとも、俺はすでに最悪の状況を現在進行形で経験し続けている。たとえ何が起こったとしても、今より最悪の状況に陥る事などまずありえない。たとえ、先程の刺客たちの仲間が来たとしても、俺にとって状況にそれ程の変化はない。
「案ずるな。私の家臣たちだ」
 彼女はそう言い、至極落ち着いている。この状況でこれ程落ち着いていられるとは、彼女は余程胆が据わっているのだろう。少なくとも、俺より胆が据わっている事だけは確かだ。
 そうこうしているうちに、蹄の音はさらに近づいてくる。
 その結果、俺は彼女の予測が正しかった事を知った。


「姫様~~~!姫様はどこに~~~‼」
 女性の澄んだ声が、森中に響き渡る。
「言った通りであろう?」
 彼女はそう言うと、俺の前へと進み出た。
「円四郎。私はここだ‼」
 彼女の声を聞くと、先頭で馬を走らせてきた女性が、転がり落ちる様にして馬から降りた。
「姫様!よくぞ、よくぞご無事で・・・・・・」
「心配をかけてすまない。私は見ての通り無事だ」
 うまく誤魔化したな。
 もっとも、相手がこれだけ興奮状態に陥っていれば、余程の馬鹿でない限り誤魔化す事はできるだろうがな・・・・・・。
「姫様が刺客に襲われた、と供の者が報せに来た時は胆が潰れるかと思いましたよ」
 円四郎と名乗る女性の顔は、涙と汗でひどく汚れていた。
(この女性・・・・・・、大したものだ)
 円四郎と呼ばれるこの女性は、余程彼女の事が心配だったのだろう。顔が涙と汗まみれになっているだけではなく、着ている羽織が裏表逆になっている。供の者が急を知らせてから、それこそ取る物もとらずに駈けてきたのだろう。
 その状態を一言で表せば、着の身着のままで来た、とでも言うところだろう。
 いずれにせよ、並の者にできる事ではない。


「・・・・・・だが、長十郎が刺客の手にかかって亡くなった。手厚く弔ってやってくれ」
「何と、長十郎殿が・・・・・・。姫様、本当によくご無事で・・・・・・」
「私も刺客たちを浴び、腕に傷を負った。それでも私が無事でいられたのは、この者のお蔭だ」
 彼女がそう言うと、円四郎と言う女性は、俺の方へと視線を向ける。その視線に悪意は感じられないが、見世物でも見るようであまり気分のいいものではない。
(服装が服装だから、多少は止むを得ない)
 そう自身に言い聞かせても、やはりこの感覚は拭えなかった。
「お前が姫様を助けてくれたのか。何と礼を言えばよいやら・・・・・・。誰か、褒美を!」
「待て、円四郎。この者は私に屋敷に連れて行く」
 彼女のその言葉に、円四郎と呼ばれる女性はすかさず反応する。
「姫様。その様な事をすれば、南紀派からどのような言いがかりがつけられるか・・・・・・」


(なるほど、そう言う事か・・・・・・)
 この時代、徳川幕府の将軍は徳川家定だ。
 しかし、家定は病弱の上、知的障害があり、徳川幕府は国難に立ち向かうための指導者を欠いていた。そのため、早くも幕府内部では、将軍後継者を巡り二派に分裂していた。
 一派は、英明の誉れ高き一橋慶喜を将軍にする事で、国難を乗り切ろうとする一橋派。
 もう一派は、紀州の徒奥川慶福を諸王軍にしようとする保守的な南紀派。
 この二派が幕府を二分し、激しい政争を繰り広げていた。
(要するに、彼女は一橋派なのだな)
 それも、一橋派の有力者又は協力者の身内と言ったところか・・・・・・。
 そう仮定すれば、先程の刺客たちに襲われた理由も説明がつく。
 大方南紀派の何者かが刺客を送り、彼女を人質にして脅しをかけるか、彼女を殺す事で警告をしようとでも考えたのだろう。
(本当に、とんでもない時代に来てしまったな・・・・・・)
 俺は改めて理解させられた。
 この幕末では、現代の非日常が日常に背中合わせで存在し、常に命が危険に曝されているも同じなのだ、と・・・・・・。
 また、俺はすでに知らずして幕末の政局の渦中へと巻き込まれている事を・・・・・・。
(もっとも、後者に至っては完全に身から出た錆だがな)
 そう思うと、自分で自分がおかしくなる。
 まぁ、今となったら運がなかったと諦めるしかない。


 彼は隣で沈黙を保っている。
 私の前では、なおも円四郎が彼を屋敷に連れて行く事に難色を示している。
 普段の円四郎からは予想もつかない程、真面目に話をしている。
 だが、私の決意は変わらなかった。
「言いたい者たちには言わせておけばよい。私の決意は変わらん」
 私の政治生命が、彼一人連れてきただけで立たれる。もしそうなら、私の天運はその程度のものだった、という事だ。
「・・・・・・承知しました、姫様」
 私のの決意は変えられないと悟ったのか、漸く円四郎が折れた。
 すると、円四郎は家臣たちと共に連れてきた馬の一頭を彼に勧めた。
「そろそろ日も暮れる。皆、屋敷に戻るぞ!」
 私も馬に跨り、皆に声をかける。
 私の声を受け、長十郎の亡骸を運ぶ者以外、全員が馬に跨る。
「それでは帰るとするか・・・・・・」
 馬首を揃え、一斉に馬が動き出す。


 こうして、私は命の恩人を連れて自身の屋敷へと向かった。
 まさかこの出会いが、私の運命はおろか、この日ノ本の運命すら大きく変える事になるなど考えもせずに―。


 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  


(見事・・・・・・、としか言いようがないな・・・・・・)
 彼が馬に乗れるのか、と少しでも心配していた事が馬鹿馬鹿しくなる。
 馬に乗れる乗れないなどの話ではなかった。彼は馬に乗れるどころか、この場にいる誰よりも手綱さばきが巧みだった。少なくとも、私にはそう感じられた。
(最近の旗本共とは、比べ物にならん)
 最近の旗本共は、馬を走らせる事はおろか、満足に乗る事さえできない。それ以前に、馬に触れた事があるかどうかさえ怪しい。
 それに対して、彼はどうか。
 彼は巧みな手綱さばきに加え、馬の扱いさえ見事と来ている。さらに、その動作には全く非の打ち所がなかった。
 しかも、彼が乗りこなしている馬は、私が持つ馬の中でも一、二を争う程に気性が荒い。
 私も馬を乗りこなすのは巧みな方だが、この馬にはかなり手こずらされた。完全に乗りこなすまでには、少なくとも半月程度はかかった。並の者なら、最低でも二ヶ月程度はかかるだろう。
 その馬を、一にもせずして乗りこなしているとは・・・・・・。
 悔しさを超え、感心さえしてしまう。
(もっとも、それは私だけではないようだがな)
 円四郎を含めた家臣たちも、彼の手並みには驚きと感心とを隠せずにいる。
 皆の反応も無理はない。幕府の旗本共は、二百年以上続いた泰平のぬるま湯に慣れきっていた。武術はおろか、馬術さえ満足にできないなまくら武士の者が大半だ。そして、その状況が長く続いた事で、最初は呆れていた者たちもそれが現状だと諦める様になっていた。諦めは絶望や失望へと代わり、それらが積み重なった事で、幕府は時間をかけてゆっくりと衰退させていった。多少の良識がある者ならば、誰でも知っている事だ。
 そのような状況下で、これ程の腕を持つ者を見るのだ。むしろ、驚きもせず感心もしない、という者がいたとしたら、その者の方が異常だ。


「なぜ、俺の方ばかり見ている?」
「いや、貴公の手並みがあまりにも見事なもので・・・・・・。つい見惚れてしまった」
「そうか」
 俺は、祖父が馬を飼っていた事もあり、子供の時から馬という存在を身近に感じて育ってきた。祖父を手伝って馬の世話をした事もあれば、馬に乗った事も数えきれない程ある。
 そのため、当然の事ながら馬に関しての経験は豊富だ。
 もっとも、今回の馬は気性が少しばかり荒く、乗りこなすのには多少の苦労があったが・・・・・・。
(見惚れる程の腕ではない、と思うが・・・・・・)
 彼女や周囲の反応を見る限りでは、この時代の武士たちはまともに馬にすら乗れない程レベルが低いようだ。
「剣術だけでなく、馬術も一流とは・・・・・・。貴公には、つくづく驚かされる」
「褒められる程のものではない」
「誇って構わない。今の時代、貴公の様な腕を持っている者など、そうそういない」
 正直言って、ここまで褒められるとは予想外だった。普通身分の高い人間というものは、身分の低い人間を褒めたりなどしない。百歩譲って褒めたとしても、そこには必ずいくばくかの下心がある。
 俗に『陰険漫才』と呼ばれるものだ。
 だが、彼女の言葉にはそうした下心は感じられない。
 むしろ、言葉を通して誠実さのみが伝わってくる。
 彼女は余程の政治家か、あるいは本当の君子のどちらかだろう。
 だがいずれにせよ・・・・・・。
(彼女には、人の上に立つ器がある)
 それだけは間違いない。
 先程の円四郎と呼ばれる女性との会話、周囲の家臣たちの様子から見ても、彼女がそうとう慕われている事は間違いない。
 この幕末に、この様な主従関係はそう多くはない。本当に稀有な例と言える。
 俺は幕末にタイムスリップした事を悲観視していたが・・・・・・。
 この世応な人物に拾われた事は、不幸中の幸いだったかもしれない。


 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  


「姫様、どうしたんです?そんなに楽しそうに・・・・・・」
「別に普段と変わらないと思うが・・・・・・」
「そうですか?でもあたし、少し安堵しました」
「安堵した?」
「姫様が笑ったの、初めて見たので・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
 そう言われてみれば・・・・・・。
 私はこれまで、ほとんど笑った事がない。
 一橋家に入ってからは、様々な事に追われて全くもってゆとりがなかった。来る日も来る日も政争に明け暮れ、その多忙さのために笑う事など忘れていた。いや、笑う様な心さえも忘れていた。
 その私が笑ったとは、私自身が信じられない。
(一体なぜ、私は笑ったのだ・・・・・・?)
 しかし、この様な事、私自身が一番よく分かっている。
 彼との出会いだ。
 私を救った名も知らない彼との出会い。それこそが、この問いに対する答えの全てだ。
 だが・・・・・・。
(全てはあの手、だな・・・・・・)
 彼の手はとても温かかった。
 私はこれまで、多くの者の手に触れてきた。しかし、その手はどれも冷たかった。
 だが、彼の手は温かかった。
 あんな温かい手、私には初めてだった。


「姫様?」
「どうした、円四郎?」
「あの男、一体何者なんですか?あの馬術の腕といい、姫様の言われる剣の出といい、とてもただの町人には思えません」
 たしかに、円四郎が言う事にも一理ある。
 それは私が抱いている疑問とほとんど変わらない。
「何よりもあの異人の様な出で立ち。あの者が日ノ本の者など、あたしには思えません」
 円四郎がそう思うのも無理はない。彼の服装は、この日ノ本の者ものではない。
 むしろ、日ノ本を長き眠りから覚ました四隻の黒船。それをを率いてやってきた、ペリ-をはじめとする異人たちが着ていたという服に果てしなく近いように思える。いずれにせよ、彼がただの町人などではない、という事に変わりはない。
「私にもよくは分からん」
「姫様にも・・・・・・?」
「しかし、彼は私の命を救った。分かっている事は、私の敵ではない、という事だけだ」
 もし彼が私の敵なら、私を救いなどしないだろう。
「なら、なんで屋敷に・・・・・・?」
「たしかに、あの者が何者なのかは分からない。しかし、あの者の馬術の腕や剣の腕といい、服装といい、実に興味深い。それに・・・・・・」
「それに?」
「実にいい目をしていた・・・・・・」
 彼の目には、一切濁りがなかった。
 そして、その目には輝きがあった。
 今の世で、あのような目をしている者が一体どれ程いるだろうか・・・・・・?


「目・・・・・・、ですか?あたしにはよく分かりませんが・・・・・・、姫様がそう言われるなら、間違いないですね!」
「円四郎、そのような大声を出しては、周囲の迷惑になる」
 私は軽く円四郎をたしなめる。
 すでに周囲は夕闇に包まれ、月が昇り始めていた。


 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  


(彼女は・・・・・・、一体何者なんだ?)
 彼女の言葉に甘え、俺は彼女の屋敷に来た。そして、彼女が身支度を整えるまでの間、この広い部屋で待たされていた。様になったにも拘らず、特に警戒されるわけでもなく、お茶まで出してくれてたのだから、十分もてなされていると考えてよいだろう。
 それを考慮すれば、多少の間待たせる事は許されてもよいだろう。
 俺自身も、待たされる事自体には不満などない。
 だが・・・・・・。
(屋敷が江戸城の中にあるとは、一体どういう事だ?)
 しかも、この屋敷とてもではないが、一介の幕臣程度が住めるような屋敷などではない。たとえそれが、高禄の幕臣や将軍からの寵愛が深い幕臣であったとしても・・・・・・だ。
 この屋敷の大きさ、豪華さからすると、どう考えても小大名以上、少なくとも十万石程度の大名の格式だ。
 俺の知識に間違いがなければ、江戸城の内部には一般の大名の屋敷はない筈だ。紀伊、尾張、水戸、の御三家ですら、江戸城内に屋敷などなかった筈だ。江戸城内に住めるのは、将軍の家族かそれに準ずる者たちのみだ。
 それにも拘わらず、彼女は江戸城内に屋敷を持っている。
 これは一体どういう事なのか・・・・・・?
(そう言えば・・・・・・、一つ例外があった!)
 たしか、御三卿の一橋家、田安家、清水家は大名でこそないが、十万石の領地を持ち、将軍の一族として扱われ、江戸城内に屋敷を賜っていた筈だ。
「はっ・・・・・・!」
 まさか、彼女の正体は・・・・・・。
 その瞬間、俺の背中に冷や汗が流れた。

 
「待たせてすまない。着替えに少し手間取ってしまった」
「い、いや・・・・・・。それ程待たされてなどいない。気にする事などはない」
「そうか、それならよかった」
 どうしたのだろうか。何か、どことなくぎこちない。
 私の気のせいだろうか?
「美しい・・・・・・」
「なっ・・・・・・⁉」
 この男いきなり何を言うのだ!
 そ、それも美しいなどと・・・・・・。
「い、いきなりすまない」
「べ、別に構わないが・・・・・・。今言ったのは本当なのか?」
「・・・・・・・・・?」
「わ、私が美しいという話しだ・・・・・・」
 一体何を聞き返している。これではまるで、私が先ほどの言葉を気にしている様ではないか‼
 一体、今日の私は何なのだ。本当にどうかしている。
「あぁ、本当だ」
「そ、そうか・・・・・・」

 
(俺は、なんて事を言っている!)
 会って間もない彼女に、突然こんな事を言った自分の愚かしさに腹が立つ。
 とは思うものの・・・・・・。
 事実、先程の侍姿から和服姿になった彼女は、本当に美しかった。
 先程の侍姿の彼女も確かに美しかった。しかし、その美しさはより正確に言えば綺麗であり、美しいとは違う種類のものであった。そのため、次元が根本的に違う。
 だが、今の彼女は可憐さと清潔さ、そして清楚さが漂っている。
 そんな彼女を見て、俺の口から言える事は、美しいの一言だけだった。
「まぁ、・・・・・・。この話はここまでとして、本題に入ろう」
 彼女は居住まいを正し、表情を変える。
 彼女の威厳に満ちたたたずまいに、俺はただただ圧倒される。気を強く持たなければ、平静さを保つ事さえできない。このような状況、いまだかつて味わった事がない。
「私の名は一橋慶喜。先程の事、改めて礼を言う。かたじけない」
「・・・・・・・・・・・・」
 やはり、か・・・・・・。
 俺の予想通りだったな。しかし、予想はしてはいたが、こうして改めて言われるとやはり少し驚く。
 驚きが顔に出ていなければよいのだが・・・・・・。


「驚かないところを見ると・・・・・・。やはり気づいていたか」
「何となくだが・・・・・・な」
「いつから気づいていた?」
 いつから・・・・・・か。
 この質問は、非常に答えづらいな。最初からとも、途中からとも、最後とも言える。俺自身も、いつ気づいたのかのか、正直なところよく分かっていない。
(取り敢えず、無難な答え方をしておくとするか・・・・・・)
 そうすれば、一応は彼女に対して嘘を言った事にはならない。
 我ながら、まずまずの策と言ったところだな。
「そうだな・・・・・・。うっすらと気付いたのは、貴女が一橋派であると知った時。それが、確信へと変わり始めたのは、貴女と共に江戸城に入った時からだな。そして・・・・・・」
 俺はゆっくりと、そして大きく息を吸い、腹部と言葉に力を込める。
 不思議と緊張感や圧迫感、威圧感と言った類のものは、全くもってかんじられない。逆に、真剣で相手と向き合った瞬間の、あの独特の昂揚感にも似た何とも言えない感覚が俺の全身に満ちていた。
「完全なる確信となったのは・・・・・・、この屋敷を見たその瞬間だな」
「なるほど・・・・・・。何故だ?」
 彼女は、その目を怪しく輝かせ、俺にさらなる説明を求める。
「これらの条件を考慮し、なおかつ総合的に思案すれば・・・・・・。それらを満たす人物は一橋慶喜だ、と導き出すのはそれ程難しい事ではない」
 冷静かつ合理的に、与えられた情報を分析すれば、多少の知識を持つ者ならば、誰でもこの結論を導き出す事ができる。三流のマジックが、練習さえすれば誰にでもできるのと同じ原理だな。
(もっとも、徳川慶喜が女性だという点に関してだけは、少々驚かされたがな・・・・・・)
 どうやら、この世界は俺がいた世界とは、若干異なる世界のようだな。
 納得できない事が多々あるが・・・・・・。
 あの雑貨屋(?)の古いカメラが、俺をタイムスリップ兼異世界トリップさせた。そう考える事が、現時点では最も理にかなった結論だろう。
 

「見事だ。少ない情報をもとにそこまで分析するとは、大したものだ」
「・・・・・・・・・・・・」
「さて、それではもう一つだけ質問しよう」
 その質問が何か、おおよその察しはつく。
 それは俺にとって、最も答えるのが難しく、なおかつ相手を信じさせる事が面倒なものだ。
「貴公は一体何者で、何処から来た?」
 やはりな・・・・・・。
 俺が予想した通りの質問だ。
(さて、どう答えたものかな?)
 現状で、俺が選択できる答え方は二つ。
 何も答えないか、あるいは正直に全てを話すか、だ。
 どちらを選ぶにせよ、圧倒的に分が悪い。
 前者を選べば、いたずらに立場を悪くするだけだ。
 逆に後者を選べば、
 『自分は未来からタイムスリップしてきた』
との説明を否応なくしなくてはならない。それも会って間もない彼女に対してだ。
 信じてもらえない事はやむを得ないとしても、それで俺の立場は著しく悪くなる。
 さて、どちらを選ぶとするか・・・・・・。


「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
先程までは整然と話をしていたのに、いきなり沈黙するとは・・・・・・。
 何か話せない事情があるのか。はたまた、話すと困る事情でも抱えているのか?いずれにせよ、彼には彼なりの事情がある、という事、か。
 だが、このままの状況を続けていても埒が明かない。
「一つだけ言っておく。何か話せない事情があるならば、私は無理に聞こうとは思わない。だが・・・・・・」
「・・・・・・・・・?」
 「私は貴公が話す事を信じる。できる事なら、たとえどのような事であろうと、話してほしい」
「・・・・・・・・・⁉」
 やれやれ、なんて人物だ。
 会って間もない俺の話を信じるとは、とんでもないお人好しだ。とてもではないが、政治に携わってる人間とは思えない。むしろ、これまでどうやって政治の世界で生きてきたのか、今すぐ俺に説明してほしいものだ。それとも、江戸時代の政治の世界とは、現代の政治の世界とは異なり、余程甘いのか?
 まったく、俺の先程の感動を利子つきで返してもらいたいものだ。
「・・・・・・一つ聞きたい」
 俺は無意識のうちに、彼女に尋ねていた。
 自分でも、理由はよく分からない。
「・・・・・・・・・?」
「なぜ、会って間もない俺の話を信じる?」
「おかしな奴だな。疑われたいとでも言うのか?」
 その瞬間、俺はかつてない程の怒りを覚えた。
 疑われる事を好む人間が、一体どこの世界にいるというのか⁉
 だが、会って間もない人間を信じるなど、というふざけた人間をすんなり信じられる程、俺は恵まれた人生を送ってはいない。その様な善人ぶった人間ならば、長くもない人生で嫌という程見てきている。そんな俺が、そうすんなりとその様な言葉を信じられるわけがなかった。
 だが、俺は怒りを辛うじて抑え込み、極力平穏な声で話しかける。
「会ったばかりの、しかも見ず知らずの者の話。それを何の疑いもなく信じるなど、警戒して当然だ」
 これが、あまりにも無礼である事は俺自身も自覚している。けれども、性根が歪んでいる俺は、たとえ無礼だと自覚していても言わずにはいられなかった。


「貴公は、私の窮地を救ってくれた。そして、その後もなお私を守ろうとした・・・・・・」
「それは当然の事であり、それ以上でもそれ以下でもない」
 彼は相変わらずの権幕でまくしたてる。
 彼の言葉には、疑念と恐れ、驚き、ありとあらゆる負の感情が込められていた。そのため、何気ない言葉にさえ鋭い棘や毒があり、言葉を発するたびに、それらがより鋭く強くなっていく。
 その様子は、まるで苦しんでいる様にさえ感じられた。
「それだけで十分だ」
「・・・・・・・・・⁉」
「私にとって、私が貴公を信じる理由はそれだけで十分だ。それ以上何がいる?」
 私にとって、もうそれだけで十分すぎる理由だった。
 人を信じるのに、これ以上何かが必要だとは、私には思えない。人を疑う事は、決して心地よいものではない。むしろ、人を疑う事よりも人を信じる方が、比べ物にならない程に心地が良く、清々しい。
 だが、私が彼を信じた最大の理由は・・・・・・。
「貴公はとてもいい目をしている」
「・・・・・・・・・・・・・・」
 たったそれだけだというのか?
 たったそれだけで、俺を信じるというのか?
 その瞬間、俺の心は今までにない程軽く、温かく、そして清々しかった。それはまるで、心についていたいくつもの汚れや穢れがおち、浄化されていく様な感覚であった。その感覚は、あまりにも心地よく、忘れていた何かを俺に思い出させた。
 この様な思いになったのは、いつ以来だろうか?
「なぜ、泣いている?」
 気がつけば、俺の視界は歪み、涙が流れていた。悲しいわけではないにも拘らず、涙が次から次へと流れ出てくる。拭っても拭っても、涙は止まる事なく流れ出てくる。
 これまで、どれ程辛い事があっても泣かなかった俺が、今この瞬間だけは大粒の涙を流し、泣く事を止められなかった。
(一体どこをどう探せば、この様な人物と出会う事ができる)
 彼女になら、本当の事を話すべきかもしれない。信じてもらえるかどうか自体は別だが、彼女には誠意ある態度を持って臨むべきだろう。
 そして、俺は覚悟を決めた。
「信じてもらえないかもしれないが・・・・・・」


 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  
  

「・・・・・・・・・・・・・・・」
 彼の言葉を真に受けたというわけではないが・・・・・・。
 たしかに、にわかには信じがたい内容の話ではある。
 彼の話を要約すると・・・・・・。
  『自分は未来から来た』
 と、いう事になる。
 こんな事をいきなり言われ、すぐさま信じよ、という方が無理というものだろう。あまりにも現実離れし、信憑性が薄すぎる。
 だが、もし仮に彼の話が事実とするならば、彼の異質な身なりや言動。その全てに対して説明をする事ができる。納得できる事の方が、はるかに多くなる。
 それに・・・・・・。
(彼の目には、一切の濁りがない)
 もし彼がウソを言っているならば、必ず目に濁りがでる筈だ。しかし、彼の目には全く濁る気配がない。それどころか、目は先程よりもさらに澄み、迷いや恐れといったものがない。見ているこちらが清々しくなる程の目をしている。
 私には、彼がウソ偽りを述べている様には、到底思えない。


(空気が重くなってしまったな・・・・・・)
 俺が現在の状況下で思いつく言葉の中では、その言葉が最も完璧に現在の状況を表現する事ができる。むしろ逆に、これ以上完璧な表現を可能とする言葉を、俺は知らないし、あるとも思っていない。
(まぁ、ある程度は予想していた状況だから、特段驚く程のものではない)
 どれ程冷静かつ合理的な人物でも、突如目の前に、未来から来た、と名乗る者が現れれば驚き、混乱もする。むしろ、これ以外の反応があるというのならば、俺に具体的かつ納得のいくよう説得してもらいたいものだ。
 俺自身もケースこそ異なるが、これに似た経験を多数体験している。
(もっとも、俺は主に慶喜殿の立場からこれ似た状況を経験した)
 今までこれに類する状況下では、俺は生徒会役員の一人という立場で、今とは正反対の立場で臨んでいた。今のような立場で臨むなど、いまだかつて一度としてなかった。
 だからある意味、こうした立場で臨むというのはひどく新鮮にさえ感じられる。
「たしかに、にわかには信じられる話ではないな・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「だが、だからこそ、ウソではないとも言える」
「・・・・・・・・・⁉」
「もし仮にウソをつくというなら、もっとましなウソをつくだろう?」
 意を決していった俺が言うのもなんだが、まさか本当に信じてもらえるとは思わなかった。あまりにもあっけなく認められたので、どのような反応をすればいいのか判断に困る。
「それで、だ。もし貴公がよければ・・・・・・」
「・・・・・・三成だ」
「・・・・・・?」
「三成。俺の名は、直江三成だ。一橋慶喜様」


 今、自らの名を名のったのか?
 私に対して?
 それはつまり・・・・・・。
「男子の膝下に黄金有り、とも言う。しかし、少なくとも俺は貴女を認めますよ。貴女が将軍の、一国の主たる器である事を・・・・・・」
「私を認める、か」
「もし貴女がよいというならば、俺を家臣の末席にでも加えてくれ」
 どうしてだ。
 どうして、私などに仕えようとしてくれる。
 私に仕えれば危険な目に合うと、十分に理解している筈なのに・・・・・・。
「嬉しかった」
「え・・・・・・?」
「絶対に信じてもらえないと思っていた。だが、慶喜様は俺を信じてくれた。それが嬉しかった」
 三成の目がなぜあれ程までに澄んでいたのか、漸く分かった。
 三成は純粋だ。純粋だからこそ、あれ程までに綺麗な澄んだ目をしていたのだ。
(三成が傍にいてくれるなら・・・・・・)
 私にとって、これ程心強いことはない。


「分かった。直江三成を、我が軍師として召し抱える!共に日ノ本を変えようぞ‼」
「承知した。必ずや、慶喜様の力となろう」
 こうして俺は、徳川慶喜の軍師となった。


 だが、俺はまだ気づいていなかった。
 この瞬間に、歴史の歯車が大きく動き出していた事をーー。


  
  
 
 

 

北国の姫

                                北国の姫


「こんなものか・・・・・・」
 最後の洗濯物を干し終え、一通りの仕事が終わる。
  俺が一橋慶喜卿の軍師となってから、早くも半月が過ぎた。
 一橋家での生活にもようやく慣れはじめ、つつがない日々を送っている。
(もっとも、俺の生活に特段の変化はないが・・・・・・)
 俺の肩書は、一橋卿の軍師、という事になってはいる。しかし、俺がしているのは掃除や洗濯、料理などの雑務に属する事ばかりだ。新参者の俺が、いきなり実務等を任せられるとは思っていなかったから、これらの仕事を任せられる事自体に不満などない。むしろ、こうした平和的な仕事ができる事に対しては、幸せさえ感じる。
 それ以前に、元の世界でも同様な事をしていたのだから、苦痛や苦労等を感じるわけがない。
 その結果、俺の日常で変化したのは、服装が侍姿になった事と刀を帯びるようになった事の二点だけだ。
 それ以外は、全くと言っていいほど変化していない。
(まぁ、料理に関しては一橋家の家臣専門だが・・・・・・)
 一橋家家臣の俺の仕事、特に料理に対する評価はかなり高いらしい。
 その原因は実に簡単明瞭で、俺の作る料理が美味しいから、だそうだ。俺が料理を作る以前、一橋家の料理はかなり酷いものだったらしく、食事というものがただ生きるための手段と化していたらしい。そのため、食事には欠かせない楽しさが全く欠如しており、精彩がない殺風景な光景が恒常化していた。
 だが、俺が食事を作るようになり、それが一変した。
 まず、料理の味が大幅に改善された。それに伴い、それまで食事に欠如していた楽しさが加わり、食事に精彩があるようになった。それにより、一橋家の家臣たちにとって、食事の時間は最も楽しみな時間となった。
 また、食事の光景が一変した事により、家臣全体のモチベーションが高まり、全体的に良い傾向がみられるようになった。
「軍師が料理で喜ばれるとは、どうかと思わないでもないのだが・・・・・・」
 家臣たちに喜ばれているのだから、いいとするべきだろう。
 千里の道も一歩から、とも言う。
 今俺の為すべき事は、小さい事を積み重ねていく事。そして、それが最後には大きなものとなる。

「三成、な~~にしてんのよ」
 無駄とは思うが、一応抗議をするべきだろう。
 さもなくば、この行為を俺が受け入れた、と円四郎殿に誤解されかねない。
「現れて早々抱きつかないでもらえますか、円四郎殿」
「同じ家中の者同士なんだから、別に構わないでしょ?」
 俺の予想通り。
 俺のささやかな抗議は、円四郎殿に一考すらしてもらえなかった。
 もっとも、いつもこうした現れ方をするため、俺自身も円四郎殿のこの行為自体には慣れつつある。

 俺に抱きついているこの女性は、平岡円四郎。
 慶喜様を迎えに来たあの女性武者であり、慶喜様の側近にして一橋家の側用人。
 頭脳派というわけではないが、それなりの切れ者ではある。しかし、根っからの武骨者であり、性格は無駄に明るく素直であり、周囲の者たちからは好かれている。まさに、良くも悪くも侍と評すべき女性。
 かく言う俺自身も、彼女の事は好ましく思っている。一橋家に仕官した俺を、最初に受け入れてくれたという事以外にも、その性格が好ましいという理由もある。しかし、俺が彼女を好ましいと思う最大の理由は、他にある。
(円四郎殿は、やはりあいつに似ている)
 俺の幼馴染と円四郎殿がどうしようもなく似ている。
 それが、円四郎殿を好ましいと思う最大の理由である。
 だから、円四郎殿の事は嫌いではない。
 嫌いではないのだが・・・・・・。
(現れ方をもう少し、改めてもらえるとありがたい)
 円四郎殿には感謝の思いもあれば、好ましいという思いもあるのは事実だ。しかし、現れる度に抱きつかれていたのでは、俺としては鬱陶しいもといたまらない。
 俺も一応は男である。
 それに多少ではあるが、大人としての自負もあれば自覚もある。
 円四郎殿の様な女性に何度も抱きつかれて、一橋家家中の者たちにあらぬ噂を立てられてはたまらない。
「貴女の誰にも分け隔てない態度は、確かに評価に値します。しかし、もう少し慎みというものを持っていただきたい」
 俺自身もとい円四郎殿のために、それだけは言わずにおかれなかった。
 もっとも、こした事を言ってすぐさま受け入れてもらえるなどとは、先程の態度からして期待はしていない。
「え~~。面倒くさいから嫌よ」
 やはり、期待などしなくて正解だった。
「円四郎殿、頼みますからも少し淑女としての品格を持っていただきたい」
「そ・れ・よ・り・も 、いいかげんあたしに『殿』付けするのやめてくれない。なんか水臭いわ」
 俺の要望は無視された上に、逆に要望を出されてしまった。
 円四郎殿が相手では、会話の主導権がまるで握れない。会話の主導権を握られた挙句、一方的に振り回されてばかりだ。俺としては、全くもってやるせない。


「それで、俺に何か御用ですか?」
「酷いわね~~。せっかく、あたしが会いに来てあげてるのに~~」
「いつも屋敷内であっているでしょう」
「三成はつれないわね~~」
 まったく、円四郎殿と話していると一々疲れる。
 いっその事、無視でも決め込んでみるとするべきか・・・・・・。
「三成、今あたしの事を無視しようとか考えたでしょう?」
 しかも厄介な事に、無駄な事に対してカンが鋭いと来ている。
 益々以て、始末におえない。
 俺が円四郎殿に絡まれていると・・・・・・。
 突如として、救いの手が下ろされた。
「先生、こちらにおられましたか!」
「どうしたんです?そのように慌てて」
 家臣の一人が、駆け足で俺のもとに駆け寄ってくる。
 一体、俺に何の用なのだろうか?
「はっ。実は、姫様が先程から先生をお呼びになっておられます」
「私を・・・・・・?」
 慶喜様が俺を呼んでいる。
 一体なぜ?
「はっ。すぐに参るように、と」
「分かりました。すぐに参りましょう」
 こうして俺は、慶喜様からの招聘を口実に、円四郎殿の下を後にした。
(それにしても、俺に一体何の用だ?)
 慶喜様の呼び出しにより、円四郎殿から解放されたのだから、俺に文句などある筈はない。しかし、こうして改めて考えてみると、慶喜様に呼び出される理由に、全く思い当たる節がない。
 廊下を歩きつつの思案に耽るのもどうかとは思う。
 だが、なぜ呼び出されたのか?
 俺としては、その疑問に対する答えがどうにも気になって仕方がなかった。


 そうこう思案していると、俺はいつの間にか慶喜様の居室の前に来ていた。
 ここまで来て答えが分からないのだ。
 もはや、思案する事などやめ、腹をくくる方がよいだろう。
「お召しにより、三成参上いたしました」
「遠慮はいらん。中に入ってくれ」
 慶喜様の声は、特に変わった様子などない。
 また、何かをひた隠しているような声でもない。
 俺の考え過ぎだったのだろうか?
「失礼いたします」
 俺が居室に入ると、そこでは慶喜様が読書の最中だった。しかし、俺が入ると書見台を横に片付け、俺と真っ直ぐに向かい合う。
「ここでの生活には慣れたか?」
「一橋家の家臣の方々の寛大さもあり、すぐに慣れる事ができました」
「そうか。それはよかった」


(すっかり打ち解けたようだな)
 三成を召し抱える。
 家臣たちにそう告げた時は、あまり良い反応ではなかった。反対する者は少なかったものの、私が述べた理由だけでは完全に納得する者は皆無に近かった。
 だから、三成が勤め出してから多少の心配をしていたのだが・・・・・・。
 どうやら、その心配は杞憂だったようだ。
「これも全て、慶喜様が私を洋学者とだと家中の方々に説明していただいたお蔭です」
「そんな事はない。それは全て三成の才覚だ」
「私の才など、たかが知れております」
 三成はどこまでも謙虚だった。
 しかし、それは卑屈とは全く異なり、驕りを隠しているというものではなかった。あくまでも、己を戒めるという様子での謙虚さだった。
「知識というものは、持っているだけでは意味はない。それを実際に生かす事で、知識は初めて意味をなす」
「・・・・・・・・・・・・」
「三成は、見事にそれをなして見せた。それは、三成に才覚があればこそ、だ」
 事実、三成の未来の知識を活用した言動により、一橋家の空気は大きく変わった。
 それまでは、攘夷派の家臣が多かったのが一橋家の現実だった。
 家臣たちは、外国の実力や幕府・諸藩の実情も知らず、ただ徒に攘夷を唱えていた。明確な理論ではなく、意味のない精神論が攘夷を唱える根拠だった。
 だが、三成は自分が持つ未来の知識を、洋学者として家臣たちに伝えた。はじめは受け入れる家臣も少なかったが、三成が根気よく丁寧に説明する事により、ほぼ全ての家臣が考えを変えた。
 三成の説明を受け、家臣たちは日ノ本の遅れや諸外国の実力、世界情勢を多かれ少なかれ理解した。そして、誰もが攘夷の無謀さ、無意味さを嫌というほどに思い知らされた。
『日ノ本は攘夷ではなく、開国の道を取るべし!』
 家臣たちは、そう考えるようになっていた。
 もはや、一橋家中に攘夷を唱える者などおらず、開国を唱える者が大半となっていた。


 だが、真に着眼すべきは別にある。
 家臣たちの考えを正反対の方向へと変えた。
 言葉にするは容易いが、それを実際に行う事は極めて難しい。
 私が知る限りでも、三成による開国の考え方の浸透は、一筋縄ではいかなかった。そもそも、考え方を浸透させる以前に、ほとんどの者が三成の考えについて理解できなかった。未来から来た三成と、二百数十年の長きに渡りこの島国に閉じこもってきた者たちとでは、知識一つとっても開きが大きかったのだ。
 だが、三成はあきらめる事無く、複雑極まりない世界情勢を懇切丁寧に分かりやすく説明した。理解できない者がいても決して見捨てる事などせず、付きっきりで納得がいくまで、根気よく説明した。そして、一度として尊大な態度を取る事がなかった。
 その結果、古参も含めた多くの家臣たちが三成に師事し、敬意を持って接するようになった。
 そうした状況にも拘らず、三成はこれまで通りに生活し、雑務までこなしている。
 これだけでも十分に着眼するに値する。
(並の者にできる事ではない)
 皆が三成を受け入れ、考え方を改めたのも、そうした誠実な態度あってこその事だろう。
 三成は、その言動から人に冷たさを感じさせることが極めて多い。しかし、三成の本質はそれとは全く異なる。冷たさを感じさせる事はおろか、逆に温かさを感じさせる。
 三成には、人を惹きつける温かさ、誠実さがある。それらに加えて、膨大な知識に裏打ちされた才能、それを支えるに十分な度胸をも持ち合わせている。
 まさに、理想の武士だな。
「慶喜様、そろそろ本題に入りませんか?まさか、この様な話をするためだけに、私を呼んだのではないでしょう?」
 しかも、カンまで鋭いときている。
 本当に、一点の非の打ち所さえない。
「三成は本当に切れるな」
「私を褒めたところで、何も出ませんよ」


(こうした可愛げのなさもまた、三成らしい・・・・・・)
 しかし、もう少し可愛げがあれば、人当たりも随分と変わる事だろう。今の三成は人当たりが悪いわけではないが、それでもやはり硬さがある。そのため、三成は人に近寄りがたい雰囲気を与える。
 もっとも、可愛げがある三成など、私には想像もつかないが・・・・・・。
「分かった。だがその前に、三成も他人行儀なその話し方はやめろ」
 三成としては、家臣としての分を考えての事だろうが・・・・・・。
 私としては、あまり三成には距離を置いてほしくない。
「分かりました。ならば、俺も地で行かせてもらおう。ただし、それはあくまでも二人の時のみ、だ」
「それで一向に構わない。私もその方がやり易い」
「それで、俺を呼んだ理由は?」
 すると、すぐに話を本道に戻す。
 切り替えが早いな。
「ある人物に書状を届けてもらいたい。それも、本人に直接だ」


(なるほど、そう言う事か・・・・・・)
 慶喜様の口調から察するに、この手紙は一橋派の者に宛てたもの。そしてなおかつ、南紀派の者に見られては少々厄介な事になる内容が書かれている。ただしそれ程の大事なものではない、といったところか。
 もし仮に俺の読みが当たっているならば、新参の俺を使う事は確かに最適な人選だ。あわよくば、俺の実力を改めて見定め、他の家臣たちへの刺激とする。
(さすが慶喜様、といったところか・・・・・・)
 人の上に立つ者ならば当然の采配だ。
 そうした采配を行えるからこそ、俺も仕えがいがあるというもの。それと同時に、忠義を尽くす価値もある。
「どうした三成?そのように笑って」
「何でもない。その命、確かに承った」
「期待しているぞ、三成」
「その期待、しかと応えて見せよう」
 慶喜様が与えて下さった任務を、絶対に無駄にする事はできない。
 必ずや応えて見せる。

 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  

   
―越前福井藩江戸屋敷/広間ー 
「ここが福井藩邸、か」
 慶喜様からの手紙を受け取った後、俺はその届け先である越前福井藩江戸屋敷へと向かった。
 屋敷に着き、身分や訪問の要件を告げると、何の問題もなくすぐさま屋敷の中へと通された。そして、藩主が来るまでの間、俺はこの広間で待たされる事となった。
 一応は、事前の通達がなされていたようだ。
(それにしても、屋敷全体に藩主の性格がよく出ている)
 越前福井藩の藩主は、松平慶永。
 幕末にその英明ぶりを謳われた四賢公の一人。越前福井藩の財政を一代で立て直し、優れた人材の登用により政治や軍事、財政などの刷新に努めた名君。
 一譜代に過ぎなかった藩を、時代の表舞台にまで押し出したその才能は、十分評価に値する。
 この屋敷の随所に、そうした名君松平慶永の性格が垣間見える。
(まずもって、屋敷に全くもって無駄な物がない)
 屋敷はどこまでも質素ではあるが、だからと言って貧しさやその類を全く感じさせない。それに加えて、屋敷全体は手入れが行き届き、犯し難い清潔感が漂っている。
 もはや、これだけで十分に松平慶永という人物が窺い知れる。
「慶喜様が信頼される人物だけはある、か・・・・・・」
 俺としては、松平慶永という人物が評判倒れでないと分かり、まずは一安心だ。


「失礼いたします」
 穏やかな声が流れると同時に、右の襖が静かに開かれ、一人の女性が静かに入って来る。
 全体的に淡く白い着物に身を包んだその女性からは、何とも言えない清潔感が漂っている。
「お茶も出さずに申し訳ありません。粗茶ではありますが・・・・・・、どうぞ。喉の渇きをお癒し下さいませ」
「すみません。ありがたくいただきます」
 俺は、女性が差し出したお茶をありがたくいただいた。
 お茶はそれほど熱くはなく、覚ます事なく飲める温度だった。こちらに対する気遣いがよくされていた。その上、このお茶は実に美味い。お茶を入れた人物は、お茶にそれなりに精通しているのだろう。
(慶喜様とはまた違った美しさがあるな、この女性は・・・・・・)
 淡く白い着物と雪の様に白い肌が、腰まである黒髪を全く違和感を与える事無く、ごく自然に強調している。白と黒は本来は真逆の色であるはずなのだが、この女性のもとでは実に見事に融和している。そしてそれが、見る者に言葉にできない美しさを感じさせる。
 この女性ならば、俺の時代でも十分に美人として通用するだろう。
 まさに、生きた芸術と言っても過言ではない。
「どうかなさいましたか?」
「いえ、慶永公とは一体いつ頃対面が叶うものか、と考えていましたので・・・・・・」
「はい?」
 なぜ、俺の質問が疑問形で受け止められるのだ。
 俺が何か妙な質問をしたというのか?
「おかしな事を仰られるのですね」
「おかしな事とは、一体?」
「貴方はもう、松平慶永と会っているではないですか?」
「・・・・・・・・・・・・」


(俺が、松平慶永と会っている、だと?)
 そんな筈がない。
 俺はこの屋敷に通されてから今現在に至るまで、この広間に一人でいた。その間は、誰とも会っていないし、犬や猫とすらも会っていない。そんな俺が、松平慶永と会っている筈がない。
 強いて会ったというならば、お茶を運んできたこの女性とは会った。しかしそれは、俺の自発的な意思によるものではない。あくまでも、俺の意思とは別のものによって出会ってしまった、と言う方が適切だ。
 だから、俺はまだ松平慶永とは会っていない筈、だ。
(ん・・・・・・?)
 少し待て。
 たしかに俺は、この女性以外とは会っていない。しかし、この女性の話し方では、俺は松平慶永と も う 会っている。つまり現在進行形であっている状態が続いている事になる。
 それはつまり何を意味するか?
「それはつまり・・・・・・」
「(クスクス)」
「まさか、貴女が松平慶永公ですか⁉」
「漸く気がついて頂けましたか?」


(漸く気がついて頂けましたか、と言われたもだな)
 普通、今現在の状況下で、これ以上早く気がつけと言うのは、どう考えても不可能な事だろう。
「普通、藩主自らが使いのものにお茶を運ぶなどありえない。そうお思いなのでしょう?」
 全くもってその通りだ。
 一体、今の日本のどこをどう探せば、この様な藩主がいるというのだ。
「貴女がそのようにお思いになるのも、無理はありません。しかし、私はどうしても自分の目で、貴方を見たかったのです」
「私に?それはまた妙な事を・・・・・・」
「貴方は、一橋邸からこの屋敷まで無事に辿り着いた。それもかすり傷一つ負いもせずに・・・・・・」
 たしかにその通りだ。
 俺は全くの無傷でこの屋敷にまで辿り着いた。
「貴方が初めてなのですよ。その様な状態でこの屋敷にまで辿り着いた者は」
 俺が初めて?
 一体なぜ?
「たいていの者は、途中で南紀派に襲撃されて斬られるか、あるいは負傷するかです」
「なるほど、私が本当に慶喜様の使者であるか疑っておいでになるというわけです、か」
 たしかに、それも無理はない。
 こうした手紙は、普通ならば特定の者あるいは側近クラスの者が届ける。いきなり、これまでと違う者、それも新参の者が届けに来ては、疑いの念を抱くのも無理はない。むしろ、そうでなければ信頼する事などできない。
(事前にこれまでのやり取りを調べてこなかった事が痛いな)
 後悔先に立たずとは、まさにこの事だな。


「そうではありませんよ、三成さん。以前登城した折に、慶喜様から貴方の事を知らせる書状と人相書きを受け取っています。ですから、事前に貴方が使者として来る事は分かっていました」
 やはり、事前に通達がなされていた、か。
 もっとも、あぁもすんなり屋敷へと招き入れてくれたのだ。事前の通達がなされていないとしたら、それこそ妙な話ではある。
「では、なぜ私に会いたいと?」
「政治向きの書状を無事に届ける事は、言葉にできぬほどの至難です。たとえ、その役目を任された者が老練な者であろうと・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
 慶永様の仰られている事は、確かに正論だ。
 重要な書類を無傷の状態で相手に渡す事は、それ程までに難しい。
(要するに、俺の手腕をそれなりに評価していただいた、という事か)
 若輩かつ新参者の俺が、無事に書状を届け負傷すらしていない、という事を・・・・・・。
 四賢公の一人、松平慶永公に評価されたのだから、悪い気は全くしない。しかし、この程度の仕事ならば、これまで数多の修羅場を潜り抜けてきた俺にとって、それ程難しい事ではない。
「三成さん、もしよろしければ、、貴方がどのようにしてこの屋敷までいらしたのか、私に話してはいただけませんか?」
 慶永様ほどの名君にこうも頼まれては、俺としても断るわけにはいかない。
 ありのまま全てを話そう。


***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  


 江戸城内の一橋邸からこの福井藩邸に来る時、俺は警護を連れる事などしなかった。
 変装などもせず、堂々とこの福井藩邸にまで来た。
 ただ俺はこの時、真っ直ぐにこの福井藩邸に向かう事などはしなかった。途中、南紀派と目される大名屋敷の前を通る大回りを何度か繰り返し、それを経て福井藩邸へと至った。
 おそらく、多くの者にはこの行動を非常に危険と思う事だろう。しかし、これこそがコロンブスの卵。福井藩邸まで無事に辿り着く、最も安全かつ安心の方法だ。

『自分の敵が、眼前を通る筈がない』

 普通の者は、まずこう考える。
 そのため、自分の足元を敵が通らないか、とわざわざ注意するような者はまずはいない。
 まさに、灯台下暗し。一般的思考の落とし穴をついた策、とでも言うべきものか。
 また、仮に南紀派の手の者に後を付けられていたとしても、まず斬られる心配はない。南紀派の様な血筋や家柄と言った類のものを重んじる守旧派に属する者は、たいてい世間体や対面といったものを重視し、事なかれ主義に陥る者が多い。そのため、いかに同じ南紀派の者の屋敷の前といえど、迂闊な事はできない。
 いつの時代でも、守旧派の類の人間が考える事に大差はない。


「なんと・・・・・・。三成さんは、そこまでの計算をした上で、その様な策を実行したのですか」
「策などと呼べるような、大それたものではありません。私はただ、特定の人間の本質に基づいて行動しただけです」
 慶永様に手放しで称賛された事で、逆に気が引き締まる。
 それと同時に、自身の説明を通して、改めて反省点が浮かび上がる。この任務が無事終わったのならば、改めて反省会を行い、今後の事も視野に入れた見直しを大なう事にしよう。
「謙遜する必要などありません。そのような策を立てられる肝の据わった方など、そう多くはおりません」
 慶永様は、微笑みながら俺に呟く。
(本当に綺麗な方だな)
 慶永様の微笑みに、俺は見惚れていた。
 慶永様には、慶喜様とは異なる近寄りがたさとでも言うべき美しさがある。しかし、その一方で侍女の姿をしている事もあり、なぜだか妙な親近感を抱かせる。
 本質的には相反するこの二つが、慶永様に美しさとはまた異なる『綺麗』と感じさせる雰囲気をあたえている。


「どうしました、三成さん?」
 沈黙を続ける俺を心配してか、慶永様が声をかける。
「いえ、少し考え事をしていただけですので・・・・・・。どうぞお気になさらず」
「そうですか・・・・・・」
 一応は慶永様の心配は解いたが、いつ俺の考えていた事に気づかれるとも分からない。
 ここは、何とかして話を他に転じるべきだろう。
「慶永様との話に夢中で、危なく私の務めを忘れるところでした」
 俺は懐から手紙を取り出し、慶永様へと渡す。
「我が主君、一橋慶喜卿からの書状にございます。どうか、お受け取り下さいませ」
「分かりました。それでは、さっそく拝見いたしましょう」
 言い終わるか否かと言う瞬間に手紙を開き、素早く目を通し始める。
 先程までとは異なる雰囲気に、俺の全身も引き締まる。
 すると、手紙を読み始めてから暫くして、慶永様は俺に視線を向ける。
(一体、手紙にはどのような内容が書かれていたのだ?)
 慶喜様に限って、妙な内容は書いてはいない筈だが・・・・・・。
 慶永様のこの反応は明らかに妙だ。それに加えて、慶永様がまとっている雰囲気も先程までのものとは全く異なる。今まとっている雰囲気は、緊張を感じさせるものと言うよりも、困惑を伝えると言った類のものだ。
 また、俺の気のせいでなければ、この部屋全体の空気自体も、先程までより幾分か重くなっている。
 ここは無礼を承知で尋ねてみるべきであろう。
「慶永様、書状には一体何と?」
「それなのですが・・・・・・」
 慶永様は首を傾げつつ、俺に手紙を渡す。

『 慶永殿へ
 今回のこの書状をいたす者が、殿中にて貴殿に話した直江三成である。
 この者、甚だ有能にて、我が片腕ともなるであろう傑物である。そこで、貴殿とも会わすべきと考え、書状を届ける使者として遣わした。
 この者に真意とくと見るべし。
                                                                                    一橋慶喜 』

「・・・・・・・・・・・・」
 この手紙に対して、何と答えるべきなのか?
 手紙の内容自体としては、俺にとってはありがたいもの、喜ぶべきものと受け止める事はできる。しかし、この手紙からでは慶喜様の真意が全くと言っていい程に分からない。
 手紙を手渡された時の口調からは、その内容は極めて重大なものと感じられた。
 だが、今手紙を読んだ限りでは、どう考えても重大な内容とは考えられない。
 むしろ・・・・・・。
(完全な私信だな、これは・・・・・・)
 あるいは、この手紙は私信に似せた暗号文とでも言った類なのか?
 この内容が?
「三成さん、お疲れではありません。もしよろしければ、お茶でもして一休みしませんか?」
「いえ、私は仕事中でありますので・・・・・・」
 無礼にあたらないよう、丁重にお断りする。
 しかし、慶永様も譲らない。
「此度の事は、三成さんとの顔合わせの意味もあるのですよ?」
「しかし・・・・・・」
 なおも断ろうと試みる。
「お互いを知る事もまた、大切な仕・事・で・す・よ・ね?」
「はい」
 慶永様は満面の笑みを浮かべ、俺に了承を迫る。その笑みには、有無を言わせずそれでいてこちらを圧倒するような威圧感、重さがあり、到底俺では抗いきる事などできなかった。
 要するに、俺は慶永様の笑みに負けた、という事だ。
 そして、慶永様とお茶をいただく事となった。


 認めたくはないが・・・・・・。
 もしかしたら俺は、美人からの誘いには絶対断れないようにできているのかもしれない。

 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  *** 


 慶永様と俺は、お茶を楽しみつつ互いの趣味や取り留のない世間話に興じた。最初はあまり気乗りではなかったが、今ではその思いは完全に消えている。慶永様は知識が豊かで、話題は軍事から政治や経済、果ては座禅や学問にまで及び、全く厭きるという事がなかった。そして、話に夢中になる内に瞬く間に時間が過ぎてしまった。
(有能な上に、ここまでの教養があるとは・・・・・・)
 どうやら先程までの俺は、松平慶永という名君の真価を理解できていなかったようだ。
 松平慶永、恐るべし。
「ところで、三成さん」
「何でしょう?」
「貴方はい、今の日ノ本について、どう思われます?」
 あまりに突然すぎる質問に、俺は咄嗟に答える事ができなかった。
「現在日ノ本は、諸外国に圧力をかけられ、開国を迫られています」
「隣国の清国は、その圧力に抗ったがために、アヘン戦争を起こされ、国土を蹂躙されました」
 慶永様の口から語られることもあり、言葉の一語一語に圧倒的な重さがあった。

 この時代、欧米列強と称されるヨーロッパ諸国とアメリカは、その圧倒的な軍事力と工業力を背景に、市場の獲得を目指しアジアへの進出を本格的に始めた。圧倒的な欧米列強の前に、多くの国々が植民地化されるか、主権と国土を蹂躙された。
 欧米列強のこうした蛮行に対して、あくまでも抵抗する国もあった。しかし、そのいずれもが、欧米列強によって無慈悲かつ残酷に悉く叩きのめされ、敗北の憂き目にあった。
 インドのムガール帝国やビルマ、ジャワ、そして清。
 今やアジアの富と資源は、欧米列強によって次々と奪われている。
 日本でも、早晩選択が迫られる事になるだろう。
 涙を呑んで欧米列強に国を開くか、それともあらっがて全てを蹂躙されるか、を・・・・・・。


(だが、今の日本では欧米列強には勝てん)
 日本は平和に慣れ過ぎている。
 二百年余りにわたり続いた平和の時代。そのため、国防の要である武士のほとんどが平和に慣れ切り、国を守る事はおろか、まともに戦う事さえできない。そんな武士たちを中心にして、圧倒的な軍事力を持つ欧米列強と戦う事など、果てしなく不可能に近い。
 ましてや、欧米列強に勝利して国を守りきるなど、天地がひっくり返ろうと絶対に不可能だ。
(戦争は、勝利してから戦わなくてはならない)
 絶対に勝利できる、すでに勝利が確実、という状況でのみ戦争は行うものだ。くだらない事極まりない精神論や楽観主義で戦争を行うなど、愚者どころか犬畜生以下だ。


「日ノ本が、その力を結集して攘夷を行ったとしても、外国に勝つ事は不可能でしょう」
 まったくもって慶永様の言う通りだ。
 これは憶病などではなく、極めて正しい現実認識だ。
「ですが、開国したとしても外国の言いなりになるのは、火を見るよりも明らか・・・・・・」
 話をしている間に、いつしか慶永様の顔は、憂国の士の顔そのものになっていた。
(慶永様が思い悩むのも無理はない)
 四賢公の一人とまで謳われる慶永様には、欧米列強の脅威が嫌という程に分かっている。それと同時に、この日本の今の実情さえ・・・・・・。
 それらを知っているからこそ、慶永様は思い悩むのだ。悩み続けているからこそ、俺のような者にまで意見を求める。
 慶永様こそ真の憂国の士、と言えるだろう。
「私も慶永様と同じ考えです」
「・・・・・・・・・・・・」
「今の日ノ本にとっては、開国するも攘夷を行うも、行き着く先は地獄です」 
「地獄、ですか・・・・・・」
「しかし、だからこそ、私は開国すべきだと考えます」
「・・・・・・・・・⁉」
 俺の発言が予想だにしないものだったようだ。
 慶永様がまとう雰囲気が大きく乱れる。
「進むも退くも同じであるならば、私は未来に賭ける事を選択します」
 これは、俺の基本的な考え方だ。
 進むも退くも同じ結果であるならば、前に進む事を選択する。俺の中では、当然の考え方だ。
「開国ですか・・・・・・」
「ただし、開国するとは言っても、それは外国に卑屈になる事を意味しません」
「・・・・・・・・・?」
 どうやら慶永様は、開国したからには外国に卑屈な態度をとらねばならない、と考えているようだ。
 だが、それは俺の考えとは違う。
「誰が相手であろうとも、日本人としての誇りを持って当たる。それを前提にしての開国であり、それがなければ真の開国ではありません」


(俺とした事が、少し熱くなり過ぎたか・・・・・・)
 俺とした事が、ついつい熱くなってしまった。この程度の事で冷静さを忘れたばかりか熱くなるとは、何とも情けない。いついかなる事態、状況であろうとも冷静さを保つ事を意識しなくては、物事に適切な対応ができない。
 今後はもう少し気を付けよう。
「真の開国、ですか・・・・・・」
「申し訳ありません。私とした事が、次いで過ぎた真似を・・・・・・」
「いいえ。お蔭で私も覚悟が決まりました」
 慶永様の顔は、先程までの憂国の士のものではなくなっていた。
 その顔はまるで、闇夜に一筋の光明を見つけた者の様に、希望と喜びに満ちていた。先程までこの国の未来を憂いていた慶永様が、俺の目の前にいる人物と同一人物だとは、俄かには信じられない。
「三成さん」
「何でしょう?」
「慶喜様にお伝えください。松平慶永は覚悟を決めた、と。慶喜様にどこまでもついていく・・・・・・、と」
 今現在の状況を十分に呑み込む事はできない。
 だが、慶喜様にとって悪い状況でない事だけは確かだ。部外者である俺が、無理に関わって現在の状況を害する、という事態に陥る事だけは回避すべきだろう。
 となれば、ここで俺がすべき事はただ一つ。
「承知いたしました。必ずやそのようにお伝えしましょう」


 こうして俺は、呑み込めない事態こそあったものの、慶喜様から与えられたこの初仕事を無事にやり終えた。
 そして、何事もなく一橋邸へと帰還した。

 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  
  

(慶永の説得に見事成功するとは・・・・・・)
 慶永は迷っていた。
 いや、迷っていたというよりも、悩んでいたという方が正しい、か。
 慶永は現状と未来との間で、もがき苦しみ、そして絶望していた。
 その状態の慶永の説得に成功するとは、つくづく大したものだ。

 今の日ノ本には、外国の圧力に抗うだけの実力はない。
 ましてや、攘夷を実行して外国と戦い、その上勝利を収める程の実力など、あろう筈がない。
 その事実は、私も慶永も嫌というほど分かっていた。
『開国も攘夷を行うも、結果は同じです』
 慶永は、外国に抗うも屈するも最後の結果はいずれも同じになる、と絶望的な結論に至っていた。
 慶永は聡明だった。
 聡明過ぎたからこそ、開国後の日ノ本にとって最も悲観的かつ絶望的な結論を導き出すに至ってしまった。聡明過ぎた慶永は、時勢の移り行くさまを的確に見抜いてもいた。それもまた、その結論に至った大きな原因だった。
 慶永の聡明さは、人の上に立つべき者が持つべき以上のものだった。
 その聡明さは、人々を導くうえで幸運に作用する事多々もある。しかし、その聡明さは時として、当人を深い絶望の淵へと追い込みもする。
 今回が、まさにそうだった。
 私がいくら説得を試みても、慶永の結論を変えるには至らなかった。むしろ、それまでにもまして頑なにするだけで、全くもって意味をなす事などなかった。
 だが、三成の場合は違った。
 それどころか、慶永の考えをよい方に大きく変えた。


 三成を慶永のもとに遣った目的が、紹介する事にあったのは紛れもない事実だ。
 だが、それは事実であった全てではない。その目的と同時に、当人に話こそしなかったが、説得に当たらせるという事もまた重大な目的だった。むしろ、そちらの方が実質的には主目的であった、とさえ言っても過言ではない。
 何らかの確証があった、というわけではない。
 ただ、三成が私に仕えるようになってから今日までの短い時間。その時間が、私に直江三成という男を多少なりとも知る機会を与えた。三成を完全に知るためには十分な時間ではなかった。しかし、可能性を見出すには十分過ぎる時間でもあった事は事実だ。
 私は、三成に慶永を説得する可能性を見出した。
(もし強いて理由を上げれば、あの目と人格・・・・・・とでもいったところだな)
 三成の濁りのない純粋な目、そして内には情熱を秘めつつも冷静さと意志の強さを兼ね備えた人格。
 もっとも、今となっては後追いの理由に過ぎないかもしれない。
 だが、それらを併せ持っていた三成だからこそ、私は博打を打とうとしたのかもしれない。
「今思えば、よくあそこまで勝率の少ない博打をしたものだ」
 慎重さが取り柄の私としては、苦笑をせざるを得ない。
(直江三成、本当に大した男だ)
 慶永を見事説得した態度といい、屋敷の者たちに瞬く間に受け入れられた事といい、驚くべき人望だ。しかし、何にも増して驚くべき事は、それらの結果が、当人街として行動した結果得られたものではない、自然に任せた結果によるものだという事だ。
 三成のごく自然な態度。
 それが、周囲の者や初めて出会った者たちを惹きつける。
 その現実は、かつて人望で天下を取った豊臣秀吉や漢の高祖劉邦、人徳で国を打ち立てた劉備を彷彿とさせる。
 かく言う私も、三成に惹かれる一人だ。
 三成は、普段は礼節をわきまえた態度を決して崩しはしない。しかしその態度は、地の三成とは少し違う。特に言葉遣いの面で、その違いは著しい。
 だが、地の三成も普段の三成も、態度に若干の違いこそあれど、根本は全く同じだ。素直ではなく、己の信念に基づいた言動をとり、その言動の全てから、人を労わる優しさと誠実さが感じられる。
「それが三成の魅力、か・・・・・・」
 直江三成、全く底が見えない男だ。
 あるいは、三成には人を動かす力、もしくはそれ以上の力があるのかもしれないーー。

 

 

 

 

 



 


 


 


 

水戸の老虎

                                水戸の老虎


「先生、おかわりお願いします!」
「先生、こちらも‼」
 食事時の一橋邸は、一日で最も賑やかになる。
 これも仕方がないと言えば、仕方がない事だ。
 何せ今は、家臣たちにとっては最も楽しみなひと時なのだ。
「まだたくさんあります。ですから、ゆっくりと食べて下さい」
 だが、料理を作る俺からしてみれば、逆にこの時間が一日の内で最も多忙な時間、というと事になる。
 一橋家の家中は、老若男女の区別なく食欲が旺盛だ。そのため、食事中は常時料理を作り続けていなければ、需要に供給が追いつかない。よって、俺は休む暇もなく孤軍奮闘を強いられている。
「いい加減、俺一人では限界だな」
 一応は、それなりの俸禄も与えられている。
 しかも、最近になって加増まで受けている。
 現段階での俺の俸禄から考えれば、人を雇う事などそれ程難しい事でもない。また、俸禄の有効活用として投資や一部商品の売買を行えば、資金をさらに増やす事ができ、より多くの人を雇う事もできる。
 そうした事も考慮に入れて、真剣に検討するとしよう。
 このままでは、俺が過労で倒れかねん。
(だが、今俺が為すべき事は、泣き言ではなく行動する事だ)
 俺は考えを切り替えて、再び料理を作り始める。
 もし、俺が料理を作る手をこれ以上とめれば、完全に供給が需要から突き放される。
 それだけは、防がなければならない。


「三成!三成はどこ~~~!」
 俺がこの時間、最も会いたくない人物の声がこの御厨へと近づいてくる。
 それも、人の名を大声で叫び続けながら・・・・・・。
 まったく、食事時だというのに何と騒がしい。
 もう少し、彼女には淑女としての、女性としての自覚を持ってもらいたい。それと同時に、自分が周囲の者たちに迷惑をかけている、という事をもう少し自覚してもらいたいものだ。
 まぁ、彼女には無理な事かもしれないが・・・・・・。
「三成、ここにいたのね!」
「円四郎殿、頼むからもう少し、静・・・・・・」
「今はそんな事、どうでもいいわ!そ・れ・よ・り・も、急いで姫様のもとに来て‼」
 事前の通知もなしにいきなり来たかと思えば、何を無茶な事を言っているのだ。
 この状況を見れば、明らかに不可能だろう。
「悪いが今は忙しい。こちらが一段落するまで、少し待っ・・・・・・」
「いいから来なさい!姫様からの緊急集合命令よ‼」
 緊急集合命令?
 一体何事だ?
「あぁ、面倒くさい。とにかく来て!」
 こうして俺は、円四郎殿に首根っこを掴まれ、無理やり連れられて行かれた。


「お待たせいたしました、姫様!」
「三成、円四郎少し遅いぞ」
 軽い叱責を受けたものの、それ以上追及される事はなかった。
「三成が素直に来なかったもので・・・・・・」
 いや、俺のせいなのか?
 たしかに、俺のせいで遅れた事は紛れもない事実だ。しかしそれは、円四郎殿が理論立てた説明をせず、俺が『なぜ』という疑問を解消できなかったからに他ならない。人は何の説明もされず、『なぜ』との疑問が解決されなければ、基本的には協力的にはなれない生き物。ましてや、人間的なつながりが浅い者同士でならばなおさらの事だ。
 つまり、今回のケースでは、具体的な説明を怠った円四郎殿にも責任の一端があると思うのだが・・・・・・。
 それは俺の思い違いだろうか、いや、思い違いではないだろう。
「三成が素直に来なかったのは、大方円四郎が説明を怠った、といったところだろう」
 さすがわ慶喜様。
 極めて正しい現状把握だ。
 俺が仕えようと思っただけの人だけはある。
 それは当然としても・・・・・・。
 あまり気分がよくない。
 俺の気のせいだろうか?


「三成、いかがした?顔色がよくないぞ」
 一体、三成を連れて来る際に何をしたのだ?
 三成をこの場に連れて来ることだけを頼んだのだから、手荒な手段を講じる必要はない筈だ。それにも拘らず、なぜ、三成の顔色がこれ程までに悪くなる。
 三成の顔色は、心なしか少しばかり蒼白い。
 まさか、とは思うが・・・・・・。
「円四郎、どのようにして三成を連れてきた?」
「はい?」
「三成をどのようにして連れてきたのか、と聞いている」
 いくら円四郎とは言えど、常識やバリの行動はしていない筈。
 おそらく、私の杞憂だろう。
「どのように、と仰られても・・・・・・。三成の首根っこを摑まえて連れてきただけですよ?」
「・・・・・・・・・・・・」


(三成の顔色が悪くなるのも当然だな)
 一体どこの家中に、人を連れて来る際に首根っこを摑まえて連れて来る家臣がいる。
 円四郎に対して、常識ある行動を期待した私が愚かだった。
 いや、それ以前に、三成のもとへ遣る者の人選の段階で間違いを犯していた。円四郎の様な者ではなく、もそっと常識に基づいた言動がとれるものを選ぶべきだった。
「円四郎、いかに側近のお前といえど、三成に手荒な事をすればどうなるか・・・・・・。心しておけよ?」
「は、はい。以後気を付けます」


(あの円四郎殿を震え上がらせるとは・・・・・・)
 さすがは一橋慶喜卿。
 改めて感嘆の思いを抱くしかない。現に今この瞬間も、慶喜様は氷の如き笑みを浮かべて、円四郎殿にお小言・・・・・・ではなくキツ~~イ灸をすえていらっしゃられる。
 灸をすえられている当の本人を前に不謹慎だとは思う。
 だが、常日頃から円四郎殿に迷惑をかけ続けられている俺としては・・・・・・。
「まさに、自業自得。身から出た錆、というわけだな」
 この言葉以外に、現段階では円四郎殿にかける言葉は見つからない。


 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  

(円四郎殿にはいい薬だろう)
 慶喜様からの執拗なまでのお説教に、さしもの円四郎殿も悲鳴を上げている。
 いや、悲鳴どころか、すでにノックアウト寸前といった様相を呈している。
(だが、このままではいつまでたっても、本題に入れんな)
 もう少し、円四郎殿の可哀想な姿を見て痛いところではあるが・・・・・・。
 俺は自分の気持ちを抑え、不本意ながらもた受け舟を出す事にした。こうした時に、自分の冷静さが全くもって嫌になる。冷静ささえなければ、このまま事態を座視できるものを・・・・・・。
「慶喜様、円四郎殿の件はそこまでとして、そろそろ本題をお願いします」
「三成がそう言うならば、円四郎の説教はまた別の機会にするとしよう」
 これにより、長い間続いた円四郎殿に対する説教が漸く終わった。
 それまで説教をされていた当の本人は、俺の方に向かいただひたすら手を合わせている。
(これで、暫くの間は平穏になるだろう)
 もっとも、円四郎殿の事だ。
 いつまでこの殊勝な態度をとり続けるのか、甚だ疑問だな。それどころか、喉元過ぎれば熱さ忘れるで、暫くしたらもとの態度に戻るのではないだろうか。そして、以前にも増して迷惑をかけてくるのではないだろうか。
 これはまだ想像に過ぎないが、現実になる可能性が高いので心配だ。


「それでは本題に入る」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「と、言いたいところなのだが・・・・・・。まだこの話し合いに参加する最後の一人が来ていない。今しばし待ってくれ」
 なるほど。
 緊急集合をかけるだけあって、今回の話し合いには一橋派の重要人物も来るというわけか。
 一橋派の重要人物が来るということは、余程の重要案件について話し合われる、という事か。
(もし仮にそうだとすれば・・・・・・)
 この話し合いに来る一橋派の重要人物とは、一体誰だ?
 松平慶永様か?
 あるいは堀田正睦殿か?
「待たせたの~~~慶喜!何とか間に合ったか?」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
 あまりにも突然の出来事に、この場にいた誰もが何も発する事ができずにいた。
「どうした?皆、一体何を黙りこくっとる?」


(この人は、相変わらず・・・・・・)
 いきなり目の前に現れれば、誰でも驚くに決まっているでしょう。
 ましてや、その突然現れた人物に己の主君が呼び捨てにされるのを見れば、それはなおさらだ。その上さらに、今のような態度をとられれば、咎めるべきか怒るべきか、はたまた無視するべきなのか、判断に戸惑うのは至極当然の事だろう。
 今更ではあるが・・・・・・。
(この人には、それが分からないのか?)
 まったく、厭きれてしまう。
 我が母親ながら、何と情けない事か・・・・・・。
 娘としては、何ともやるせない。
「慶喜、皆なぜ唖然としておる?」
「母上が、いきなり現れたからですよ!」
 すると、母上は逆に呆れるような問いを私に返す。
「いつもの事ではないか?」
「それは、私と二人で会う時の話でしょう!この二人は、母上とあった事などないのですよ‼」
 ついでながら、相手に何の伺いも立てず尋ねるのは、礼儀としては問題がある事です。是非とも今後は改めていただきたい。
 これら二つの話を寸でのところで呑み込む。
 おおかた母上に願ったところで、暖簾に腕押し。まったく無意味で終わるに違いない。完全なる言葉の無駄遣いにしかならないのだから、言うだけ言葉と労力の無駄使いになる。
「そうだったか?」
「そうです」
 これ以上のやり取りを続けても時間の無駄。
 そう思い話を素早く切り上げる。


 完全に、会話から取り残されていた。
 俺と円四郎殿は、突如として現れた闖入者こと徳川斉昭殿の会話の前に、蚊帳の外に置かれたも同然の状況に陥っていた。そして今も、二人の会話に口を挿めずにいた。
「円四郎殿、あの方は本当に徳川斉昭様なのか?」
「あ、あたしが知るわけないでしょう!」
 予想通りの反応だ。
 俺自身も円四郎殿に現在の状況を裏づけしうる情報を期待していたわけではない。
 しかし、慶喜様の側近中の側近として、それではいくらなんでもマズいと思うのだが・・・・・・。
 本当に大丈夫なのだろうか?
「慶喜、この者は一橋邸では見かけぬ者だが・・・・・・。何者だ?」
 すると、突如として話題の矛先が俺へと向けられる。
「この者は、新たに私の軍師として召し抱えた者です」
 すると、すかさず慶喜様が俺を援護する説明を斉昭殿に話す。
「智謀で知られたお主が軍師を召し抱えるとは・・・・・・。以外じゃな」
 だが、斉昭殿はその説明に完全には納得していない様子で、俺へと視線を向ける。
(これは、紛れもない本物だな)
 向けられ視線を受けて、俺はそう判断せざるを得なかった。
 斉昭殿の視線は、これまで俺が経験した事がない程に鋭く、圧倒感いや『覇気』と呼ぶべきものが全身を突きさしてくる。
 俺の横では、円四郎殿が斉昭殿の覇気に完全に呑まれていた。
 かく言う俺自身も、斉昭殿の覇気に呑まれないよう意識を保つので限界だった。先程までのように、他の事を考える余裕など全くなく、少しでも気を抜けば、覇気の呑み込まれかねない状況だった。
 さすが徳川斉昭、と言うべきか・・・・・・。
「ほう。儂の威圧を受けてなお、たじろぐ事はおろか全身で受け続けるとは・・・・・・。なかなかやるな」
「・・・・・・・・・・・・」
 悔しいが、全く言葉を返す事ができない。
 目でそれに答える事が、現状では限界だった。
「貴公の名は?」
 その瞬間、斉昭様の覇気が一気に消える。
 それと共に、俺にも多少の余裕ができる。
「直江三成と申します」
 斉昭殿の目に視線を向け、落ち着いた重い声で答える。


(相手が天下の徳川斉昭といえども・・・・・・)
 たとえ相手が誰であろうとも、決して卑屈になどなりはしない。
 俺が主君と認めたのは、一橋慶喜。
 天下の主たる器量を持ち合わせる者。
 ここで卑屈になれば、慶喜様の誇りに傷がつく事になる。それだけは、命に代えても防がねばならん。
「主君を辱めぬその態度・・・・・・。誠に見事。貴公こそ家臣の、いや武士の鑑と言える」
「・・・・・・・・・・・・」
「わしの名は徳川斉昭。一橋慶喜の母じゃ」
「徳川斉昭様・・・・・・」
 俺は無意識の内に、『様』をつけて呼んでいた。


 徳川斉昭。
 徳川御三家の一つである水戸家の前藩主だった人物。しかし、それ以上に熱烈な尊皇攘夷思想の持ち主として、日本全国にその名が知れ渡っている尊皇攘夷思想の巨頭、とも言うべき人物でもある。現に水戸藩前藩主、隠居の身であるにも拘らず、この人物の政治的な影響力は極めて大きく、幕末初期の政局を左右する程でもあった。
 有能な人材には恵まれていたが外様大名や中・下級幕臣や藩士が多く、政治的地盤が脆弱だった一橋派が幕末の政局を二分するまでの勢力になれたのは、徳川斉昭が一橋派の中心人物の一人であったからでもある。


(あの覇気、さすがわ徳川斉昭と言うべきか・・・・・・)
 俺が知っている通りの人物だ。
 女性であるという事実を除けば、だが・・・・・・。
 この世界に来てからある程度時間が経ち、幾分はこの驚きにも慣れはした。しかし、元の世界での先入観がいまだに根強く、やはり多少は驚いてしまう。 
「とにかく・・・・・・だ。本題に入るとしよう」
「そうですね。一応、緊急集合がかけられる程の話ですから・・・・・・」
「三成の言う通りね」
「慶喜、頼むぞ」

 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  


 慶喜様が俺たちに伝えた情報。
 それは確かに、緊急集合がかけられるに足るものだった。

 老中首座の堀田正睦の失脚
 それに伴う、井伊直弼の大老就任

 これら二つの情報は一橋派にとっては、まさに最悪の情報そのものだった。
 老中首座の堀田正睦は、幕閣における一橋派の有力者。そして、幕府や朝廷に対して、慶喜様の擁立を働きかけていた中心人物であった。それに加えて、幕府内部の改革派(一橋派・親慶喜派)を南紀派から守っていた人物でもあった。
 その堀田正睦が失脚し、南紀派の巨魁である井伊直弼が幕府最高職の大老に就任する。
 それは、一橋派の政治的敗北を意味する。


「その情報、何かの間違い・・・・・・、というわけじゃないですよね?」
「慶永からの情報だ。そのような事は、万が一にもありえない」
 円四郎の一縷の望みはあっけなく打ち砕かれる。
「儂らにとっては、最悪の情報だな・・・・・・」
 慶喜様は当然、として。
 無駄に明るい円四郎殿や、豪快極まりない斉昭様までもが、これ程までに思いつめるとは・・・・・・。
 時勢や政治に疎い者でも、この状況を見ただけで、事態の深刻さが理解できる事だろう。
 それ程までに、現在のこの部屋の空気は重い。
 まるで体全体を水銀で包まれているかの様な、そんな錯覚さえ覚える。
「慶喜様、一つ進言したき議があるのですが・・・・・・。よろしいでしょうか?」
 重い空気が張り詰める中、俺は思い切った進言を行おうと決意した。
 こうした状況だからこそ、家臣として進言しなくてはならない事がある。
「ちょっと・・・・・・、三成!」
「かまわん。申すがよい、三成」
「はっ、それでは遠慮なく進言させていただきます」
 慶喜様の了解を得て、俺は俺自身が感じてきた一橋派の問題点について歯に衣着せぬ進言を述べた。


 今回の件も含めて、一橋派は南紀派に対して後れを取る事が多々あった。
 今の一橋派は、資金力や影響力においては、南紀派にも負けてはいない。人材の質に関してならば、むしろ一橋派が南紀派を圧倒的に上回っているといっても過言ではない。
 それにも拘らず、一橋派は南紀派に対して後れを取っている。
 それは一体なぜか?
 俺はその原因が、一橋派の足並みの乱れにある、と考えている。
 一橋派には、慶喜様の将軍継嗣擁立という共通の目的は持っている。しかし、共通の政治理念が存在しない。より正確に言うならば、政治方針の統一がなされていない。
 一橋派の政治方針は、開国と攘夷の二つに分かれており、両者は対立している。そしてそれは、一橋派指導部が開国派と攘夷派に分かれている事に端を発している。
 開国論者の慶喜様と慶永様。
 攘夷論者の斉昭様。
 一橋派指導部たるこの三人の意思の相違が、一橋派の足並みを大きく乱している。
(指導部の意思が分かれれば、当然の結果だ)
 古来より、組織の足並みが乱れる原因の多くは、指導部の意思不統一にあると決まっている。指導部の意思が統一されていなければ、その組織の構成員もそれに動揺してバラバラになる。そしてそれが、最終的には組織そのものを崩壊させる結果を招く。
 だからこそ、組織の指導部に属する者たちは、相互理解や情報共有を通じて指導部の意思が不統一になる事を防がねばならない。
 幸いな事に、一橋派はまだ末期症状を呈するまでには至っていない。
 だが、今回の敗因の最大の理由が一橋派の足並みの乱れにある事に変わりはない。
「現状を打開し、一橋派の劣勢を巻き返すためには、政治方針の統一しかありません」


(さすがわ三成だ)
 この短期間で一橋派の問題点を見抜き、現状打開のための策まで立てるとは・・・・・・。
 しかも、三成が立てた策は現状打開のみを目的としているわけではない。さらに先の事まで見据え、それを周到に計算し、おり込んだ上で立てられた策だ。
 やはり、三成には軍師の才がある。
 三成がいれば、誰にも負ける気がしない。

「それならば、攘夷を我らの政治方針とすればよい」
「母上、いい加減に現実と時勢を見て下さい!」
 普段は滅多に声を荒げる事のない慶喜様が、斉昭様の現実無視兼時代遅れの発言にたちまち声を荒げる。
「攘夷など亡国の思想。政を為す者が考えるべき事ではありません!」
 しかし、斉昭様も負けてはいない。
 たちまち慶喜様に食って掛かる。
「何を言うか!攘夷こそ、神国たる日ノ本が取るべき唯一無二の方策。異敵どもを打ち払い、日ノ本を護るのじゃ‼」
「何を血迷った事を・・・・・・」
 こうして、慶喜様と斉昭様の終わりの見えない論戦が始まった。


 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  


「ねぇ、三成・・・・・・」
「何だ、円四郎殿」
「あたしたち、何のために緊急集合したんだっけ?」
「奇遇だな・・・・・・。俺も全く同じ事を考えていたところだ」
 珍しく、円四郎殿と俺の考えている事が一致した。しかし、今の俺たちにそれについてどうこう言うだけの気力など、すでにありはしない。
 慶喜様と斉昭様の論戦が始まってから、すでに一時間以上が経過している。しかし、両者の論戦は収まるどころか、むしろさらに激化の一途を辿っている。
 緊急集合がかけられた目的は完全に忘れ去られており、この場はすでに二人の論戦場とかしていた。


(今更、集合理由を考えるのも愚かだ)
 二人の論戦を横から見続けている俺たちは、すでにそう思わざるを得ない状況に至っていた。
 逆を言えば、そうとでも思わない限り、この場にい続ける事など不可能に近い、いや、不可能そのものだ。今や俺たちは、二人の論戦が繰り広げられているこの場に居続ける事を、気力で耐えているのが現実だ。
(だが、そろそろ幕切れとするか・・・・・・)
 俺の横では、気力が限界に達した円四郎殿が、倒れる寸前の様相を呈している。
 俺としては、円四郎殿の倒れる姿を見てみたい気持ちもあるが・・・・・・。
 そこまですれば、鬼や悪魔と言われてしまう。いくらタチの悪い俺でも、そのような悪名で呼ばれるのは、少々気が引ける。
 俺自身も、二人の論戦を見るだけ、というのにはそろそろ退屈してきた。
 それに・・・・・・。
(軍師としての仕事もしなくてはならん)
 二人の論戦は、いまなおも続いている。しかし、慶喜様の旗色は正直言ってあまりよろしくない。
 論戦の相手が母親や論戦ないように反対しづらい、という事もあるのか攻勢がイマイチ弱い。その上、慶喜様は斉昭様を論破するだけの決定打を、何ら見出す事ができないでいる。
 このような状態で、論戦を有利に押し進める事ができるわけがない。
 せいぜい、よくて引き分けと言ったところだろう。
  そろそろ、俺が伏兵として、慶喜様を救う必要がある。斉昭様の主張は、一通りは理解した。横腹に刃物を突き付けるくらいは、十分過ぎる程にできる。
(勝算は、六割というところ、か・・・・・・)
 現段階では、どう贔屓目に見ても、勝算はこの程度だ。最終的な勝算は、状況次第で変ってくるだろう。
 勝てる戦いしかしないのが俺の主義なのだが、この際その主義を変更するのもやむを得ない事だろう。


「斉昭様に、一つお伺いしたい事がございます!」
 それは、あまりにも突然の事だった。
 三成が、私たちの論戦にいきなり入ってきた。
 それも、何の前触れもなく。
(三成、一体どういうつもりだ?)
 この論戦は、一橋派の今後をかけた戦い。
 母の持論を破らぬ事には、一橋派を変える事はできない。
 それは、お前にも分かっている筈だ。
 だが、三成はそうした私の考えを無視し、平然と母に言葉の矛先を向ける。
「斉昭様、先程貴女は外国から入って来るもの全てが穢れている。まして、外国人などはなおさら・・・・・・。そう言われました」
「いかにも。それが如何した?」
 敵意も露わの母の視線が、三成に向けられる。
 だが、三成はいささかも怯む事はない。まるで、固い盾が矢を跳ね返すが如く、泰然とそして堂々と母の視線をその身体全身で受け止め、全くもって動じる気配すらない。
「ならば何故、斉昭様は儒学や仏教を学ばれます?」
「・・・・・・・・・⁉」
「・・・・・・・・・?」
「・・・・・・・・・・・・」
 その瞬間。
 部屋は静まり返り、先程までの白熱した空気が、一気に冷めた。
 私も含めた全ての者が、三成の言葉をすぐには理解できなかった。
 それ程までに、三成の発言は私たちの意表突いたものだった。
「儒学も仏教も、共に外国から入ってきたもの。何故、斉昭様はそれらを学びます」
「そ、それは・・・・・・」
「先程までの主張と、全くもって矛盾しているのですが・・・・・・。如何でしょうか?」
「・・・・・・・・・・・・」
 三成の言葉は、ゆっくりと確実に母を追い詰めていく。
 真綿で首を締めるが如く、少しずつ・・・・・・。
 母は、三成言葉を退ける事はおろか、逃れる事すらできない。傍から見れば、母は無抵抗に一方的に三成の言葉に嬲られ、さんざんに手玉に取られている、としか見えない。
「さらに、我が国では、遥かなる飛鳥や平城の御世から外国に使節を送り、外国の文化等の吸収に努めております」
「・・・・・・・・・・・・」
 三成の話は確かに道理だ。
 しかし、道理ではあっても決して覆す事ができないでもない。
「その上、継体帝や敏達帝、桓武帝ら多くの天皇により、外国文化や外国人の受け入れをいたしております」
「い、いかにも・・・・・・」
「また、水戸家二代藩主水戸光圀公におかれては、特にその傾向が御強いですね」
 だが、突如として三成が私たちの論戦に入ってきた事や、その話が意表を突いたものであった事、そして舌を休める事無く繰り出される言葉と三成の堂々とした態度。それらにより、母は十分に考える暇がなく、反論の隙を尽く見逃している。
 だがそれにもまして・・・・・・。
(この勝負、ほぼ決まったな)
 尊王思想が強い母が、三成の論に反論できるわけがない。まして、自らの先祖がした事について・・・・・・。
 もはや、論戦の主導権は、完全に三成の手に移った。
 いかに母といえど、ここまで追い詰められた状況から巻き返す事は不可能だ。
「斉昭様の論からは、桓武帝らかつての天皇の行為、そして自らの先祖の行為を否定する事と受け取れますが・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
 決定的な主張だ。
 三成の主張に、母は反論する言葉さえもはや見いだせない様子だった。
 いや、反論する言葉を見いだせないのではない。反論すらないのだ。
 三成の手堅い理論詰めに、全ての退路と反攻の道が断たれたのだ。


(勝負あったな、三成の勝ちだ・・・・・・)
 横やりから始まった母と三成の論戦だが、あれ程優勢だった母を、こうも簡単に手玉に取るとは・・・・・・。
 こうまで、完膚なきまでに叩きのめしてしまうとは・・・・・・。
 三成の弁舌の才もさることながら、母に対してここまで堂々と意見を述べる度胸。
 今この場では、むしろそれを高く評価すべきだろう。
「母上、この論戦は三成の勝ちですね」
「・・・・・・・・・・・・」
 見ず知らずの若者に、ここまで叩きのめされたのだ。無言なのも無理はない。
 母の姿が、あまりにも哀れ過ぎて、かける言葉すら見当たらない。
 そして、部屋全体を沈黙と重苦しさが覆う。
「怪物とは、一体何でしょうか?」
 沈黙に覆われた部屋中に、声が響き渡る。
 静けさが覆う部屋に、澄んだ声が響く。
「斉昭様。私は思うのです。怪物とは、私たちの無知や恐怖、不安が作り出すものではないのかと・・・・・・」
「無知や恐怖・・・・・・」
「逆に言えば、恐怖や無知こそが、実在せぬ怪物を実在させるのではないかと・・・・・・」
 先程の論戦での姿もあり、三成の弁舌に誰もが見せられていた。
 そして、一心にその話に耳を傾けつつ、三成の訴える事について考えだす。
「そして、実在するようになった怪物は、人の心を支配するのではないだろうかと・・・・・・」

 怪物

 それは、己自身の無知と恐怖が作り出す。
 そして、人々の心を支配する。
 三成の言葉が、私たちの心に染みわたっていく。
「私は思うのです。斉昭様や多くの者が、外国人を怪物の如く恐れ、攘夷を主張するのは、この怪物のせいではないかと・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「人は、無知と恐怖から多くの過ちを犯します。怪物を生み出し、それに心を支配させる事によって・・・・・・」
 三成の言葉は、静かだった。
 静かではあったが、温かかった。
 不思議なほどに、心に沁みわたった。
「しかし人は、必ず心に怪物を住まわせているものです」
「・・・・・・・・・・・・」
「ですが・・・・・・。その怪物に、心を支配されるか否かは、自分次第」


 三成の言う通りだ。
 私たちは、外国人を恐れている。
 だがそれは、外国人を知っているからではない。知らないからこそ、外国人を恐れる。
 無知から生まれた恐怖が、攘夷という怪物を生み出した。そして、その怪物が、多くの者の心を支配した。いや、人の心だけでなく、この日ノ本そのものを支配している、と言っても過言はないだろう。
「斉昭様。外国を受け入れ、そこで改めて攘夷を行うか否か、考えてみませんか?」
「何じゃと・・・・・・」
「俗説や風説に盲信するのではなく、己が目で判断する気はありませんか?」
「儂に、外国を見定めよ、と言うのか?」
「その通りです!」
 三成は、それまで以上の声で、毅然と母の問いに答える。
 目をずらす事なく、ただ一点を見て・・・・・・。
「百聞は一見に如かず、とも申します。己の目で、真の外国の姿をご覧になるべきです」
「・・・・・・・・・・・・」
「外からの眺めと内からの眺めでは、見えてくるものも変わりましょう。外国人たちとて、人に変わりありません。心を開いて接すれば、真の姿が見えましょう」
 三成の言葉には、確かに説得力があった。
 他人の言葉ではなく、自身の目と心で物事の本質を確かめる。
 それは、為政者がなすべき当然の務め、ではないだろうか?
「真の姿、か・・・・・・」
 先程とは打って変わり、三成の言葉に鋭さはなかった。その言葉からは、人を包み込む温かさが溢れている。
 これが先程まで、徳川斉昭を追い詰めていた男の言葉とは、とても思えない。
 完全に別人の言葉だ。

「慶喜・・・・・・」
「はい、何でしょうか?」
「儂を、ここまで叩きのめした者は、この三成が初めてじゃ」
「・・・・・・・・・・・・」
「このような者を、軍師として召し抱えるとはな・・・・・・」
 母の話し方は、穏やかではあったが、有無を言わせぬ重さがあった。
 正直言って・・・・・・。
 ここまで覇気に溢れた母は、私でも初めてであった。
 私の体中に、緊張が奔る。

「全く大したものだ。さすが、儂の自慢の娘じゃ」
「・・・・・・・・・⁉」
「お前たちの好きにするがよい。攘夷論者の者どもについては、儂が抑えよう」
 それはまさに、青天の霹靂だった。
 たった今この瞬間。
 一橋派の攘夷論者の巨頭、徳川斉昭が開国論に転じたのだ。
 それは、一橋派の開国論抵抗勢力が消滅した結果に限りなく等しい。
 これで、一橋派の開国論に抵抗する攘夷派勢力は一気に弱まるばかりか、指導者を失い空中分解を起こすだろう。そして、一橋派の政治方針は統一され、真に一つの統一された組織と化す。
「母上⁉」
「斉昭様!」
「三成。それでは早速、そなたの知っている事を話してくれ」
 斉昭様は、苦笑しつつも俺に外国について尋ねる。
「私の知る限りでよければ、喜んで話をさせていただきます」
 こうして俺は、俺が知っている世界情勢から欧米列強の軍事力、政治体制まで話した。話は斉昭様が屋敷に帰るまで続き、俺は柄にもなく熱弁をふるった。
 その時間は、慶喜様や斉昭様、俺にとって大変有意義な時間となった。


 この日を境に、一橋派の政治方針は、開国論に統一された。
 一橋派内の攘夷論者は、開国論に転じた斉昭様の懸命な説得活動もあり、多くが開国論に転じ、残りの者も支持を表明した。斉昭様が考えを転じた事により、攘夷派勢力は強力な指導者を失っており、すでに抵抗勢力としての力を失っていた。そのため、旧攘夷派勢力の説得にはそれ程の時間はかからなかった。
 兎にも角にも。
 これにより、一橋派の頭痛の種であった足並みの乱れが解決し、それまでの劣勢を急速に挽回していく。
 一橋派が南紀派を圧倒する勢力を得るのに、それ程の時間はかからなかった。








 







 

 
 

 

奥州の若虎

                              奥州の若虎


「では、この書状を頼みます」
「承知いたしました、先生」
 手紙を受け取り、駆けていく彼の姿を見送り、俺は屋敷の内へと戻る。
 今日は雲一つなく、まさに日本晴れと呼ぶに相応しい日だ。まるで、現在の一橋派の姿を暗示しているかのようである。
(ようやくここまで来た・・・・・・)
 俺は、感慨に耽るのを禁じ得なかった。


 斉昭様が開国論に転じたあの日から、一橋派は、劣勢を急速に挽回していった。
 今や、一橋派の勢力は南紀派の勢力を上回り、終始圧倒するまでの実力すら得ていた。幕府内部での勢力バランスは、それまでの南紀派有利から両派の拮抗を経て、一橋派有利へと完全に逆転した。
 さらに、朝廷に対しても積極的に働きかけを行った。現在、朝廷でも慶喜様の将軍継嗣擁立の声が急激に高まりをみせており、大勢はこちらに傾いている。
(今こそ、慶喜様を将軍に・・・・・・)
 慶喜様が将軍になれば、必ずやこの国を正しい方向へと導いてくれる。そうなれば、日本の歴史は、俺が知っている歴史から大きく変わるかもしれない。
 日本が、破滅の道へと進んだあの歴史が変わるかもしれない。いや、必ず変わるだろう。そして日本は、新しい歴史を、繁栄と平和に彩られた歴史を歩む事になるだろう。
(俺の知識と経験で、歴史を変えてやる)
 それは自惚れに過ぎないかもしれない。
 だが、目の前にほんの僅かでも可能性があるならば、そして己に可能性を実現するだけの実力があるかもしれないのならば、それに全てを賭けてみたい。
 それは、歴史を愛する者が、多少の野心を持つ者が当然抱く夢だろう。
 それに対して批判する者がいるのであれば、
 『己の夢を実現する可能性があるのに、それを諦めようとする者は負け犬だ』
と、敢えて言おう。
 何の努力もせずに己の夢を諦める者を、俺は軽蔑する。
「この時代に来たばかりの俺が聞いたら、厭きれてしまうだろうな」
 厭きれるどころか、逆に問い詰められるかもしれないな。
 『なぜ、そのような事をしているのか!』
そう怒って・・・・・・。
「先生!こちらにおいででしたか。姫様たちとの会合に遅れてしまいますよ⁉」
 突然の呼びかけに、俺は現実に戻る。
「そのような刻限でしたか・・・・・・。わざわざ、すいませんね」
「先生は、姫様の軍師なんですから、しっかりとして下さいよ」
「分かりました。以後、気を付けますよ」
 これ以上の催促を受けぬよう、そそくさとその場を後にした。
 その直後、俺はある事を思いついた。


(女性陣が集まるというのに、ただ話し合うだけでは何とも味気ないな・・・・・・)
 政治的な会合なのだから、話し合いが中心になるのは仕方がない事だ。しかし、女性が何もない中でただただ話し合う。年頃の女性が集まるにも拘らず、それではあまりにも陰気過ぎる。
 女性陣が集まるのだ。何かしらの趣向が欲しい。
 それも、話し合いに多少なりとも花を添える。
 そう言った何かが是非とも欲しい。
 それにその方が、かえって話し合いが活性化するかもしれない。
「俺にできるのは、あれくらいだが・・・・・・」
 まぁ、何もないよりはマシだろう。
 そう考え、俺はある場所へと向かった。


 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  


「三成には、本当に驚かされる」
「全くもって、その通りですね」
 部屋にいる二人の美女が、揃って笑う
 その光景は、まさに絵そのものであった。
「あの斉昭様を説得し、開国論に転じさせるなど、真昼に江戸城を攻める事よりも至難だというのに・・・・・・」
「慶永、いくらなんでも不謹慎だぞ」
「申し訳ありません。しかし、私の考えも間違ってはおりませんでしょ、慶喜様?」
「ふっ、確かにな」
「で、ございましょう」
 慶永の譬えは不謹慎ではあるが・・・・・・。
 たしかに、正鵠を射ている。
 稀代の頑固者たる母を説得するのは、それ程に困難な事だ。
 いずれにせよ、今回の三成の働きは、城を百落とす以上の功績に匹敵する。
(当の本人は、気にも留めないが・・・・・・)
 だが、そのような態度こそが、私が三成を気に入る理由でもある。
 よく言えば、謙虚で無欲。
 悪く言えば、あまりにも無欲。
 そう評するしかないのが三成の態度であり、それが多くも者が三成に惹かれる理由でもあるのだろう。
 かく言う私もその一人ではあるのだが・・・・・・。
 三成は、私のことをどう思っているのだろうか?
 最近は、それが無性に気になる。

「慶喜、慶永、待たせて済まんの~~」
 母が突如部屋に入ってきた事で、私は現実に連れ戻された。
「どうした慶喜?そのように不機嫌そうな顔をして?」
「何でもありません」
 我が母親ながら、どうしてここまで無神経なのだろう。
 一方の慶永は、私たちのやり取りを肴にして、悠々とお茶を飲んでいる。
 それも、驚く程の笑みを浮かべて・・・・・・。
「全くもって、平和ですね」
 なんともはや、暢気なものである。
 慶永は性格自体が穏やかで優雅、という事もあるからこうした事を言うのも無理はないが・・・・・・。
「そんな事よりも、だ。三成はどうした?」
「そう言われれば、そうですね」
「彼奴の事じゃから、すでに来ておると思ったんじゃが・・・・・・」
 三者三様に眉を曇らせ、先程までとは真逆の雰囲気が部屋を包む。
 先程まで、他愛も無い話をしていたのが嘘のように、部屋の空気は重かった。


「遅れて申し訳ありません。少々私用で手間が掛かりまして・・・・・・」
 俺が部屋に入ると、案の定三人はすでにこの場にいた。
 お叱りを受けると思っていたが、そのような事はなく。三人とも、真昼に幽霊を見たが如く、呆然とした様子でこちらを見つめている。何とも奇妙極まりない光景だ。
 美女二人と若々しい初老の女性が、唖然とした様子で一人の男性を凝視する。
 もし、第三者がこの光景を見たら、何というだろうか?
「三成、無事だったのか・・・・・・」
「全く、とんだ人騒がせな小僧じゃ」
「こんな美女たちに心配されるなんて・・・・・・。
 男冥利に尽きますね、三成さん」
「・・・・・・?」
 慶永様の言葉の意味が理解できず、俺には今の状況が全くと言っていい程に、分かっていない。それ以前に、俺はこの三人を何か心配させる事をしたのか?
「み、三成~~~~~~」
「よ、慶喜様⁉」
 慶喜様に突如抱きつかれ、危うく体勢を崩しかける。
 一体何なのだ!
 この状況は!


 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  


「なるほど、この菓子を作っていて話し合いに遅れたと・・・・・・」
「面目次第もございません」
 俺は今、三人の女性陣に囲まれ、説教をされている。
 慶喜様たちは、時間に忠実な俺が来ないのは、刺客にでも襲われたかではないか、そう考えていたらしい。そのため、本気で俺の身を心配していたとの事。
 俺が遅れた理由が、あまりにも普通すぎて厭きれるものであったため、こうして説教をされている仕儀となった。
(期待をよい意味で裏切れた事は良かったというべきなのだろうが・・・・・・)
 今回はその裏切り方に問題があった、と言う事なのだろう。
「もうよしにしませんか、慶喜様?」
「慶永の言う通りじゃ。三成は、我々のために菓子を作った。それでよいではないか」
 慶永様と斉昭様が、助け舟を出す。
 それに続けて・・・・・・。
「それに、慶喜様もこの菓子を、お褒めになったではありませんか」
「そ、それはそうだが・・・・・・。二人がそこまで言うのなら、これでよしとしよう」
 こうして、少し長めかつ少しばかり光栄な説教は終わりを告げた。
 だが、今後は気を付けるにこした事はないだろう。
 今回の事をよい戒めとしておこう。
「それにしても、この菓子は美味いの~~」
「まさか、三成さんにこの様な特技があるとは、思いもしませんでした」
 菓子職人でもない男、それも武士がこの様な菓子を作るなど当時の常識からすれば、まずありえない。趣味やもの好きが高じて料理をする者はいたかもしれないが、菓子を作る者などまずいないだろうというのがこの時代だ。
 それを考慮すれば、慶永様の言も当然の事だろう。
「お褒めに預かり、恐悦至極。御世辞であっても、御二方にそう言ってもらえれば、私としては嬉しい限りです」
「世辞ではない、三成。この菓子は、本当に美味い。この様なもの、初めて食べた」
 軽い気持ちで作った菓子が、ここまで褒められるとは・・・・・・。
 少々、驚きだな。
 だが、たまにはよいな。
 今度は、一橋家の家臣たち向けに菓子を作るのも、よいかもしれない。


 楽しく和やかな時間の終わりは、突然やってきた。
 それも最悪の形で。
「姫様、失礼します!」
 話し合いの席に、突如として円四郎殿が大慌てで駈け込んで来たからだ。
「円四郎、会合中だぞ。後にしろ」
「それどころじゃありません!火急の知らせです!」
「火急の知らせ?」
 どうやら、円四郎殿が慌てているのには、かなりの仔細があるようだ。
「そうなんだ、三成!それも、かなり深刻で、一体どうしたら~~」
「まずは落ち着け、円四郎殿。その様に慌てていたのでは、状況が全くもって分からん」
 俺の言葉に、漸く落ち着きを取り戻した円四郎殿は、火急の知らせについて話し始めた。


 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  


 それは、まさに寝耳に水だった。
 あるいは、青天の霹靂とでも言うべきものだった。
「井伊大老ともあろう人が、思い切った手段に出たものです」
「三成、感心している場合ではないぞ!」
「確かに、今回ばかりは容易ならない事態の様ですね」
「・・・・・・・・・・・・」
 この場にいる皆が驚くのも無理はない。

 徳川慶福の将軍継嗣決定
 日米通商修好条約の締結

 将軍家定の名のもとに、これらの決定が突如として発表された。しかし、これらの決定が、井伊大老の独断でなされた事は、誰の目から見ても明らかだ。少なくとも、多少なりとも政情に通じている者ならば、これらの決定を額面通りに受け取りなどしない。
 重い病の床に就いて長く、今日か明日消えるともしれない命の将軍の家定に、これらの決定を下すだけの思考など残っているわけがない。将軍の名を使ったのも、井伊大老の独断、との批判をかわすための一種の形式、隠れ蓑にすぎない。


「しかし、解せんな・・・・・・」
 沈黙を破ったのは、慶喜様の一言だった。
「何が解せないんですか、姫様?」
「井伊の採った手段だ」
「たしかに、慶喜様の言う事にも一理ありますね」
「どういう意味じゃ、慶永?」
「今回のような手段を採れば、井伊大老に非難の矛先が向けられるのは明らかです。慎重を旨とするかの御仁が、もっとも好まない筈の手段です」
 そのもっともな意見に誰もが頷く。
(さすがは慶永様だ)
 井伊大老の性格を、よく見抜いている。
 慎重極まりないあの井伊大老が、非難の矛先を向けられる覚悟をしてまで、このような強硬手段に打って出た。それには、必ずやそれ相応の事情や目論見がある。
 そうでなければ、この様な大胆かつ強硬な手段にでる筈がない。
(その事情の原因は、主に俺だが・・・・・・)
 事情の原因を作った俺の活動が、すぐさま脳裏に思い浮かぶ。
 どうやら、俺の策が少し派手過ぎたらしい。
 一橋派のための活動が、かえって真逆の事態を招くとは、何とも皮肉だ。苦笑どころでは済まない。
 策士策に溺れるとは、まさに今の俺のためにあるような言葉だ。
「慶喜様、今回の井伊大老の強硬手段。全て、私の失策が原因です・・・・・・」
「三成の失策?」
「はい、申し開きの仕様もありません。本当に、申し訳ありません」
 皆、怪訝な顔をする。
 俺が何を言っているのか、よく分からないといった顔をしている。
「珍しいですね。三成殿ほどの者が、失策を犯すなど・・・・・・」
「儂もそう思うぞ」
「あ、あたしも右に同じ!」
 皆は、口々にそう言う。
「それで、お前が犯した失策とは、何なのだ、三成?」
「はい、実は・・・・・・」
 皆が理解できるように、極力簡単な説明をした。


 斉昭様との話し合いの後、俺は一橋派の政略を任せられるようになった。
 政略と言えば聞こえこそいいが、こうした状況下での政略は調略や諜報といった要素が著しく濃くなる。そして、活動が暗躍というべきものに限りなく近くなる。
 政略の主な目的は、一橋派の巻き返しだった。しかし俺は、それと同時進行で、一橋派の勢力拡大も行った。
 そこで俺が採った方法が、現代のマニフェスト戦術だった。
 生徒会での選挙管理の経験もあり、それを実行に移す事は、それ程難しい事ではなかった。しかし、現代のやり方がそのまま通用するわけでは勿論ない。そのため、マニフェスト戦術は、多少の修正と俺独自の工夫を加えた上で行った。
 有力者な大名や幕臣に手紙を送り、慶喜様が目指す国家を説明し、そのための政策やその実施により予想される影響を、極力具体的に記した。手紙に対しての質問にも、答えられる限りは答え続けた。
 そして、有能な人材と思える者には、直接会い、隠し事をせず全てを話した。
 話したとはいえ、それは嘘偽りを話さなかっただけで、馬鹿正直に事実を全て話したわけでない事は当然である。
 慶喜様とそれを支える慶永様、斉昭様の聡明さもあり、幕府内部には強力な一橋派の支持基盤が誕生した。これにより、一橋派は南紀派に対して、圧倒的優位に立つに至った。
 おそらく、俺の派手な政略が、井伊大老に一橋派に対する危機感を募らせたのだろう。
 俺は自身の策を進める中で、知らず知らずの内に井伊大老を追い詰め過ぎていったのだろう。そしてついには、井伊大老を水際まで追い詰めてしまった。
 それが井伊大老をこの様な強硬手段へと走らせた。
 まさに、窮鼠猫を噛む。
 冷静かつ客観的に考えれば、この結論にしかたどり着かない。


「なるほど、そういう事だったか・・・・・・」
「申し訳ありません」
「み、三成の責任ではないでしょ!」
 珍しく、円四郎殿が俺を庇う。
 もしかしたら、明日は雪が降るのではないだろうか?
「円四郎の言う通りじゃ。今回の件に関して、三成が責めを感じる事などない!」
「むしろ、この短期間にそれほどまでの政略を成功させた、その手腕こそ評価すべきです」
 全員が全員、俺の弁護をしてくれている。
 これ程まで、俺を庇おうとする彼女たちの態度には、感謝しなければならない。
 自分で言うのもなんだが・・・・・・。
 俺は本当に素晴らしい同志を、仲間を持ったものだと思う。
(だが、いかなる策も結果が全てだ)
 過程がどれ程素晴らしくとも、それには意味などはない。

 結果

 それこそが、軍師にとっての全てだ。
 成功か失敗か、二つに一つ。
 中間などは存在しない。
 あるのは、明確な結果一つのみだ。
 そして今回の結果は、俺の策による政略の失敗。
 それ以上でも以下でもない。


「井伊大老が、強硬手段に出た仔細は分かった」
「・・・・・・・・・・・・」
「しかし、今回の件で三成が責めを負う必要はない」
 私は皆の前で、敢えて断言する。
(三成、お前のせいではない・・・・・・)
 三成は、労多く報いが薄い政略活動に、己の全てを注いでいた。朝早くから、夜遅くまでただひたすら働いていた。目の下に濃い隈までつくり、ただひたすら働いていた。
 お前は知らないだろうが、屋敷の者全てが知っている。
 お前の努力と働きを・・・・・・。
 そして、誰もがお前を認め、尊敬している。
 それは、この場にいる誰よりも、この屋敷の誰よりも、私がそれを知り、直江三成を認めている。
 だから、井伊大老がこの様な手段に打って出た事に、責任を感じる事などない。むしろ、あの狸をその様な状況にまで追い詰めたその手腕こそ、高く評価するに値する。
 それにもし、責任を追及するならば・・・・・・。
「今回の件は、三成の責任ではない。私も含めた皆の責任だ」
 深く息を吸い、私は続ける。
「私たちは、三成を信じ政略を一任した。ならば、三成一人ではなく、皆で責任を負うべきだ。違うか?」
「姫様の言う通りです!」
「さすがは、我が自慢の娘じゃ!」
「私も、異存はありません」
 この場には、誰一人として、三成を責める者などいなかった。


 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  


「この事態に、いかに対処すべきか・・・・・・」
「毒は毒を持って制す。こちらも強硬策で応じるべきじゃ!」
 案の定、母は積極策を主張する。
「と、言われますと・・・・・・?」
「決まっておる。すぐにでも登城し、井伊を糾弾するべし!」
「たしかに・・・・・・。今なら、井伊大老を失脚させられるかも!」
「手荒な手段は好みませんが、やむを得ませんね」
「・・・・・・・・・・・・」
 母の提案により、井伊大老に対する積極策が、この場を支配しつつあった。
 ただ一人、沈黙を続ける三成を除いて・・・・・・。
「三成、お前に何か策はないか?」
 三人の視線が、一斉に三成に向けられる。
 当の本人は、さして臆する様子もなく・・・・・・。
「・・・・・・敵に塩を送る、ですね」
 その発言に、皆驚きを隠せなかった。
 誰もが、予想だにしない発言だった。
「敵に塩を送る?」
「斉昭様の手段は、一応理には適っております。しかし・・・・・・」
 三成は言葉を切り、冷めた茶を口に含む。
「それでは、井伊大老に百利あって一害なし。敵に塩を送るようなものです」
「その根拠は何だ?」
「押し掛け登城は、大名の御法度。一橋派の名を上げる事はできましょう。しかし、幕府から処罰を受け、実を失います」
 その言葉は穏やかではあったが、それはこの場にいる誰の言葉よりも重く、冷静さに満ちていた。
(恐ろしいまでに、正論だな・・・・・・)
 三成の言うように、私たちが押し掛け登城をすれば、井伊大老に処罰の大義名分を与える事になる。そうなれば、一橋派は確実に政治的な影響力を失う。最悪の場合、一橋派自体が消滅または再起不能に陥りかねない。
 それだけは何としても避けねばならない。


「それでは、一体どうするのじゃ?」
「何か策はあるのか、三成?」
 すると、三成の目が鋭く光った。
 獲物を狩る、鷹の如く鋭い目つき。
「まずは、将軍継嗣の決定を認めます。その上で、慶喜様を将軍後見役とし、当面の政治を行わせるよう、一橋派や中立派の大名と幕臣連名の建白書を提出します」
 徳川幕府には、将軍が幼少の時に後見役が政治を行った前例がある。
 これならば、井伊大老とて否定する大義名分がない。しかも、一橋派だけでなく、中立派の大名や幕臣も建白書に名を連ねれば、幕府内の大勢は完全に決まる。
 もともと少数派である南紀派が、この圧力を跳ね返せるわけがない。
 三成の策は、それらの全てが最大限に発揮される形で組み込まれている。
 「それと同時に、斉昭様が中心となり、条約の締結と将軍継嗣決定を独断で行った非を追及する詰問状を、井伊大老に提出します。この詰問状も、建白書と同じく連名で提出します。ただし、南紀派の反井伊派や親慶喜派らも連名させた上で・・・・・・、です」
 完璧な策だな。
 全くもって、私では非の打ち所がない。


 (数で圧倒する事こそ、戦の基本)
 少数の敵には、多勢を持っての純粋な力押しこそが何よりの上策。
 下手に策を立てるよりも、そちらの方がリスクを大幅に減らせる。それに加えて、前回の様に己の立てた策で足を救われる、との笑えない事態を回避する事もできる。
 これぞ、慶喜様に相応しい戦い方だ。
 いや、親の将軍たるものが為すべき戦いの王道。
 そう言う方が適切、かな?
「もし、井伊大老が建白書や詰問状を握り潰したら如何します?」
「その時は・・・・・・、天下に井伊大老の非道を訴え、正面対決あるのみです」
 俺は、冷めきった茶を口に含み、一気に飲み干す。
「もっとも、井伊大老や南紀派の亡霊どもに、それ程の勇気があれば・・・・・・、の話ですがね」
 おそらく、今の俺はこれまでにない程、不敵な顔をしている事だろう。
 病床にある将軍の名の下、今回の強硬策に打って出た時点で、井伊大老ら南紀派は俺たち一橋派に負けている。
 その様な手段しか採れない負け犬が、こちらの提案を握り潰す勇気など持ち合わせているわけがない。仮に持ち合わせていたとしても、全くもって恐れるに足りない。
 すでに正面から向き合う覚悟を失った敵を打ち破る事など、赤子の手を捻るよりも容易い。
「三成の策を採ろう。異存のある者は?」
「儂は全面的に賛成じゃ」
「私も賛成です」
「あたしも、右に同じ!」


 さしたる反論もなく、策は採用された。
 だが、この策には一つだけ問題がある。
 それも、もっとも重要な問題。
「三成、南紀派で同調させる者じゃが・・・・・・」
 早くも、斉昭様はこの策における最大の問題に気がついたらしい。
 海千山千の強者は、さすがに違う。
(問題は、その人選だな・・・・・・)
 すでに、南紀派の一部の者がこちら側に寝返っている。しかし、それらのいずれもが己の保身のみを考えるだけの愚か者か、権力の匂いにのみ敏感な出世主義者などに過ぎない。
 慶喜様の政権には役不足、今回の同調者としても当てにできない。
 有能な人材であり、なおかつ信頼するに足る人物。
 人選は慎重にも慎重を重ねなければならない。
 言うは易く、見つけるは難し。
 南紀派に、それ程の人物がいるだろうか?
 情報収集が十分でなかったためか、すぐに誰かの名前を上げる事ができない。
「会津藩主松平容保がよかろう」
「松平容保?」
 斉昭様の言葉を、俺は思わず聞き返してしまう。
 それは、俺が全くもって予想だにしない人物だった。
「母上。確かに容保殿は、有能であり信頼できる人物です。ですが、彼女の性格では、こちらに寝返るとは思えませんが・・・・・・」
 慶喜様も、松平容保の寝返りの可能性については、甚だ懐疑的なようだ。
 それは、慶永様や円四郎殿についても言える。
 もっとも、それは至極当然の反応だろう。


 松平容保は、その有能さと天下最強を謳われる会津藩の藩主として、その名を知られる人物である。
 しかも、この時代には珍しく、保身や損得勘定では動かない人物でもある。
(だが、だからこそ、彼女を落とすのは不可能だ)
 俺の南紀派の有力者に対する情報は確かに不足していた。しかし、その俺でも松平容保についての情報はそれなりに持ってはいた。その上で、人選から最初にはずしたのだ。
 彼女を人選から外したのは、彼女の性格からして、絶対に寝返りなどしないと、容易に予想できたからだ。
 俺としても、喉から手が出るほど欲しい人材ではあるが、この考えから諦めていた。
 だが、幕府にとっては必要不可欠な人材であるため、一橋派が勝利して幕府の実権を掌握した後説得を行い、閣外協力との形で幕政に参加させる事を考えていた。
 まさか、このタイミングで寝返らせるなどとは、全く考えていなかった。
「慶喜の言う通りじゃ。しかし・・・・・・」
「しかし、何ですか斉昭様?」
「慶喜も慶永も、大事な事を忘れておる」
 斉昭様は先程までとは異なる、厳かな口調でさらに言葉をつなぐ。
「大事な事?」
「円四郎殿、貴女が口を挟むと面倒な事になるので、お静かに」
「な、何だと~~!」
 横で喚いている円四郎殿を余所に、俺は斉昭様に話を促した。
「たしかに、容保の説得は難しい。だがそれは、かつての儂ら・・・・・・、ならの事じゃ」
 全員を改めて見回し、より威厳ある声で、斉昭様は話を続ける。
 もはや、途中で口を挟もうとする者はいなかった。
「今の儂らには、三成がおる。三成は、烏合の衆だった儂らを、見事纏め上げた。それを忘れた者は、よもやおるまい」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
 これは、妙な流れになってきたな。
 斉昭様の言葉に、その場にいる誰もが引き込まれている。
 このままでは、妙なところに話が流れていきかねない。
「儂は、容保の説得に三成を推挙する」
 俺の予想した通りだった。
 この一言により、俺が松平容保の説得に当たる事となった。


 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  


(これはまた、面倒な仕事になるな)
 自分の建策に、責任を取る覚悟はあった。
 しかし、松平容保の説得を任せられる事になるとは・・・・・・。
 正直、全くの計算外だった。
「それ以前に、説得相手が松平容保とは、少々厄介だな」
 俺には、松平容保を説得するだけの手札がない。
 手札なしに調略を成功させるなど、古今東西聞いた事がない。
 いわば、何の勝算もない調略を今俺はやろうとしている、という事だ。
「勝てる戦いでなければ、戦わない主義だが・・・・・・」
 この策の扇の要は、松平容保。
 松平容保の説得に俺が成功しなければ、この策の効果は半減する。効果が半減すれば、それだけ一橋派の、慶喜様の立場が危うくなる。
「慶喜様のためにも、今回ばかりは、少し本気でかかるとする、か」
 手札もなく、勝敗の行方も不明。
 状況も五分五分。
 敗因に転嫁しうる要素が比較的に少ない事だけが、救いと言えば救いだろう。
 ならば、取るべき戦術は一つのみ。
「正攻法による正面対決」
 調略で策もなく、相手と真っ向から戦うなど前代未聞。
 ならば、こちらも調略では前代未聞の正面からの正攻法で臨むしかないだろう。
(しかし、慶喜様のためやらねばならん)
 俺の心にあるのは、その思いだけだった。


 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  


「三成は、大丈夫だろうか?」
「慶喜、一体何度目じゃ。少しばかり、心配が過ぎるぞ」
「し、心配などではありません!私は、主として、家臣を・・・・・・」
「心配は無用ですよ。相手は、松平容保。使者を殺す暴挙などしません」
 慶永までも、私が三成を心配している、とからかう。
 私は、三成の心配などしていない。
 私は、誰よりも三成を信じている。
 ただ、少しばかり気になるだけだ。
 これは、心配などと言う程大袈裟なものではない。
「それにしても、まさか斉昭様が容保殿の説得に三成さんを推挙するとは、正直言って驚きました」
「驚く事もあるまい。儂はただ三成の目に気が付かされたのだ。時代の流れというものに、な」
「時代の流れ?」
 いつもの母とは、異なる一面を見せられ、私は戸惑いを隠せなかった。母の顔は、今この時を見ているのではなく、まるで遥かな先を見ているかのようだった。
 その姿からは、どこか『老い』というものが感じられる。
「三成の姿を見て、悟った。もはや、儂らの時代は終わった。これからは、若者たちの時代じゃ・・・・・・」
「若者たちの時代・・・・・・」
 母は、微笑みを浮かべ、私や慶永、円四郎に向かって優しく語りかける。
「これからの日ノ本を、時代を作るのは、儂のような老人ではない。お前たちのような若者じゃ」
「母上、一体どうなさったのです?」
「よく聞くがよい」
 母は、それまでとは打って変わり、覇気を帯びた声で私たちに語りかける。
 私たちは母にの覇気に圧倒され、一言も言葉を発する事ができない。
「これからは、お前たちが時代を背負っていくのじゃ。お前たちが望む国を、お前たち自身の手で築いていくのだ。儂は、お前たちを支える柱となり、護る盾となろう」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
 私は母の言葉に、何か不吉なものを感じた。
 しかし、敢えてそれを口に出そうとはしなかった。


 私は母の言葉から、母の何らかの覚悟を感じた。
 母の言葉は、なによりも頼もしかった。
 それは母の言葉以上に、英雄の言葉だった。


 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  


―会津藩江戸藩邸/容保居室―
「私に、南紀派を裏切れというのか!」
「左様にございます」
「き、貴様・・・・・・」
 気品ある顔から、怒気を発する女性を前にして、俺は冷静な態度を崩さない。ただひたすら、彼女を向こうに回して言葉を繰り出し、勝機を待ち続けた。しかし、勝機はなかなか俺のもとに姿を現さない。
 それどころか、彼女の怒気は増すばかりだった。
(まさに、若く気高い虎そのものだな)
 これまで、俺が接触してきた大名や幕臣の数はかなりに上る。しかし、これ程までの人物とはほとんど会わなかった。比較になる人物を強いて挙げるならば、小栗上野介や栗本鋤雲、山内豊信など、極僅かだ。
 だが、その人物たちでも彼女には敵わない。
 これが、彼女に対しての俺の評価だった。


「私は、徳川将軍家に忠誠を誓う者。将軍家の決定に逆らうなど、思いもよらぬ!」
 彼女は、将軍の決定を順守する南紀派を正義と見做している。そのため、一橋派への協力を頑なに拒否している。
「貴女は、本当に自身の行動を、忠義とお思いですか?」
「無論だ。主君の決定に従う事こそ、家臣の務め!いや、武士のあるべき姿!」
 彼女の顔には、全く迷いがなかった。
 己の信念に、絶対の自信を持っているからの事だろう。
 だが、俺はその瞬間に松平容保への評価を大幅に下げた。それどころか、その人間性に対して、軽い失望さえ覚えた。
(この程度の人物だった・・・・・・、という事か)
 どうやら、斉昭様や俺の評価は、過大評価だったようだ。この程度の人物では、全くもって話にならん。
「左様でございますか・・・・・・。それでは、私は失礼いたしましょう」
 この程度の人物では、現段階でしか役に立たない。そしてそのような人物は、慶喜様の打ち立てる政権が、これからの日本が、必要とする人材ではない。
 俺は、多少の失望を覚えつつ、その場を後にしようとした。
「少し待て!」
「私に、まだ何か御用ですか?」
 すると、容保が俺を呼び止める。
「貴公は、何故こうも素直に引き下がる。私を説得に来たのではなかったのか?」
「貴女が、あくまでも南紀派に忠誠を尽くすなら、説得も何もありません」
「私が南紀派に忠誠だと・・・・・・。聞き捨てならん。私が、忠誠を誓うのは・・・・・・」
「徳川将軍家ですか?」
 俺に先に言われたためだろう。
 彼女は、怒りを滲ませながらも、黙って頷く。
 自身の言動に何ら矛盾を感じる事もなく。
「これは異な事を申されます!」
 声を張り上げ、俺は彼女の言動の矛盾を突き上げる。
「徳川将軍家に忠誠を誓うなら、なぜ井伊大老の専横を認めます?何故偽りの上意に従います?」
 彼女の顔に、一瞬ではあるが迷いが走る。
 すかさず、一気呵成に言葉を畳みかける。
「井伊大老は、独断で条約の締結、将軍継嗣を決定しました。その上、偽りの上意を発しました」
 容保の顔にさらなる迷い、動揺が走る。
 ここが勝機と見た。
「・・・・・・・・・・・・」
「しかし、それに異を唱えすらしない。それが、徳川将軍家に忠誠を誓う者の態度ですか?」
「井伊大老は、幕政を任された御方。それに逆らう事は、徳川将軍家に逆らうも・・・・・・」
 多少は後ろめたさがあるのか、声に先程までの勢いや怒気は感じられない。


 主に逆らう事を恐れるとは、笑止千万。
 その様な者が、忠義を語るなど片腹痛い。
 その様な者の言葉に、傾ける耳など俺は持ち合わせていない。
 彼女の言葉を遮り、言い放つ。
「貴女の忠誠は、忠義ではない。ただの盲従、無責任に過ぎない!」
「言わせておけば、貴様・・・・・・」
「貴女は、真の忠誠を知らない。真の忠誠とは、忠義とは、主を誤らせない事にある!」
「・・・・・・・・・⁉」
 彼女の顔から、怒りが消えていく。
 怒りに変わって、自身の信念を粉砕された衝撃が顔に表れる。
 先程まで、部屋を覆っていた殺気まじりの重苦しい空気も消え、静寂が訪れる。
「今の貴女では、我が主が求める人材とは成りえない。ならば、私が説得するに値する者でもない。それだけです」
 衝撃に打ちひしがれる容保を横目に、俺は再び部屋の外の向かい歩き始める。
 柄にもなく熱弁をふるったものの、何も変わらなかった。
(人選を速急に考える必要があるな・・・・・・)
 幸いな事に、彼女に比べれば多少役者は劣るが、他にも候補はいる。
 劣る点は、数で補えばよい。
 善後策を考えつつ歩いていると、不意に左腕が引かれた。
「まだ、私に何か?」
「私は・・・・・・、どうすればいい」
「何・・・・・・?」
 思いもよらぬ言葉に、俺は戸惑いを隠せなかった。
 先程までとは打って変わり、今の容保は支えを欲する朽木の様だった。
「徳川将軍家への忠誠が否定された今、私は何を支えに藩主を続ければよい!」
「・・・・・・・・・・・・」
「答えろ!忠義を否定された私は、何をもって藩主を続けられる!」
 彼女は泣いていた。
 松平容保は、涙を流し、泣いていた。
 俺の前にいたのは、会津藩主松平容保ではなかった。一人の泣く女性だった。


 会津藩主松平容保は、会津の人ではない。
 徳川家の血を引く名門、尾張藩支藩の高須藩の六男―この世界では六女―に生まれ、会津藩主の養子となり、藩主の地位に就いた。
 会津藩は、徳川家光の異母弟である保科正之を藩祖とする。言わば、御三家である紀州、水戸、尾張徳川家に次ぐ第四の徳川の藩屏とも称するべき藩である。
 しかも、会津藩は日本で、最精鋭とも称される精強な武士団を保持している。
 会津藩には絶対の掟、藩是がある。

 『会津藩だけは、何があっても徳川将軍家に忠誠を尽くせ』

 それが、会津藩とその藩主が守らねばならない絶対の掟。そしてこれこそが、会津藩が日本全国にある三百余りの諸藩と一線を画す証にもなっている。
 また、この掟、藩是こそが、会津藩と会津武士の誇りとするところでもあった。
(今まで、無理をしてきたのだな・・・・・・)
 養子の身で、徳川将軍家に連なる親藩会津藩の藩主となった。その上、歳もまだまだ若い。
 その様な状態で藩主となったがために、会津藩の責務を果たすために、想像を絶する程の努力と無理を重ねてきたのだろう。いや、会津藩の責務を果たすと同時に、会津藩家中の者たちにまだ若い自分を藩主として認めさせる、認めさせたいとの思いもあったのかもしれない。
 俺の言葉がキッカケになり、これまでの苦しみと辛さが溢れだしてきた。
 そう言ったところ、か。
(己の血と藩の宿命に、己の人生をささげてきた女性、か)
 哀れさを感じる以上に、尊敬の念を抱かざるをえないな。


「松平容保も虎である以前に、一人の女性だったという事、だな」
 俺は小声で呟いた。
 思ってみれば、この若さで会津藩主という重荷を背負わされ、その重圧に一人で耐えてきたのだ。
 それがどれ程孤独な事か、俺にも経験があるから多少は分かる。
 俺としても、そうした立場や境遇を理解した上で、話をするべきだったのかもしれない。
 今となっては後の祭りだが・・・・・・。
「大丈夫ですよ、松平容保殿。貴女は立派な会津藩主であり、徳川一門です」
「なっ・・・・・・?」
 容保の涙が止まった。
 俺は、容保の顔の涙を拭い、乱れた髪を整える。
「容保殿。これまで貴女は、会津の重荷を一人で背負ってきた。誰の手も借りず、たった一人で背負ってきた」
 不敬であるとは思いつつも、容保殿を優しく抱きしめる。
 幸いな事に、周囲に見ている者はなく、人の気配もない。
「・・・・・・・・・・・・・」
「もう誰が何と言おうと、貴女は立派な会津藩主だ。だから、自分を否定するような事を言わないでください」
 幼子を諭すように、優しく語りかける。
 なぜだか分からないが、俺は容保を救いたかった。
 救わねばならないと思った。
 もしここで救わなければ、容保が消えてしまいそうなように思えた。


「なぜだ?なぜ貴様は、私にその様な事を・・・・・・。私は貴様の敵・・・・・・、なのだぞ?」
「敵も味方も関係ない。俺は、泣いている女性を見捨てない。ただそれだけです」
 すると、容保は突然笑い出す。
 先程までとは異なり、その顔には年相応の女性の笑みが花咲いていた。
「貴様は、変わった奴だ」
「たまによく言われます。さして、気にはしていない」
 容保は再び笑い出す。
 しかし、それは先程の笑みとは比べられない程、大きな笑みの花だった。
 見ているこちらまで幸せなる程、優しく温かい笑みの花だった。
「一橋慶喜、恐ろしい女だ」
「どういう意味ですか、それは?」
「貴様の様な者を、送り込んで来た。おかげで私は、貴様に惹かれてしまった」
 笑みを浮かべ、さらりと重大な事を言う。
 もし私でなければ、容保の言葉を聞き漏らしていただろう。
「それは、こちらの要望を全面的に受け入れる。そう受け取って構わないだろうか?」
「無論だ。松平容保は、今この瞬間より一橋慶喜様につく。建白書と詰問状の件も、全面的に協力しよう」
 予想していた事態とは、だいぶ違う事態とはなったが・・・・・・、何とか説得には成功した。容保の言葉と表情は、そう判断するのに十分過ぎる程の裏づけだった。
 終わりよければ、全てよし。
 今回は、これでよしとするとしよう。


(さすがに疲れたな・・・・・・)
 緊張が緩んだせいか、今までの疲れがどっと体に押し寄せてきた。
 そのせいか、先程から地の話し方と警護での話し方が混じり出している。
 正直に言えば、許されるならば今すぐこの場で眠りたい。
 それが、今の俺の心情だった。
「どうしたのだ、三成?」
「少しばかり、疲れただけだ。問題ありません」
「無理もない。休息も食事もとらず、長い間話をしたのだ。今日は、我が藩邸に泊まるがいい」
「いや、俺はすぐにでも慶喜様に報告をせねばならん。そういうわけには・・・・・・」
 せっかくの申し出ではあるが、俺としてはこの吉報を一刻も早く、慶喜様たちに伝えなければならない。
 だが、容保は俺の話を最後まで聞かず、有無を言わさぬ顔で・・・・・・。
「それはならん!すでに日も傾き、月が昇ろうとしている。そのような時に、今の貴様が出れば、危険だ。それに・・・・・・」
 容保は言葉を切り、朱が差した顔をこちらに向ける。
「私は、もう少し貴様と共にいたい」
「・・・・・・・・・⁉」
「べ、別に構わないであろう。貴様の要望を聞き入れたのだ。これくらいの我が儘、許されてもよかろう」
 恥じらった顔で、俺を見つめながらこうまで言われては、答え方は一つしかなかった。
「それでは、お言葉に甘えさせてもらうとしよう」
 結局、俺は会津藩邸でその日を終える事になった。


 俺は以前に、自分は美女の頼みを断れないようできているのかもしれないと思ったが、訂正しよう。
 俺は、美女の頼みを絶対に断れない性格のようだ。




















 

月夜の涙

                               月夜の涙


「・・・・・・・・・・・・」
「ひ、姫様・・・・・・」
 その日、私は何時になく苛立っていた。
 なぜか?
 その理由はただ一つ。
 最近三成が、容保といる事が多いからだ。

 三成は、一橋派のため松平容保の説得に行った。そして、見事その大任を成し遂げた。
 その結果、松平容保は一橋派に加わり、建白書と詰問状に名を連ね提出役まで務めた。しかも、南紀派からの離脱の際、妹の桑名藩主松平定敬ら有能な大名らも離脱させ、一橋派に加えさせた。
 ただでさえ劣勢の南紀派は、今回の松平容保らの集団離脱により、さらなる劣勢に立たされた。南紀派にはすでに、一橋派の要求を拒むだけの力はない。こちらの要求が実現するのも、もはや時間の問題となった。
 だからこそ、私も三成の働きを第一とみなして、一橋家の側用人の一人として私の側近とした。

 しかし、三成は容保の事をどう思っている?

 容保は、一橋派に加わって以来、頻繁に一橋家を訪れるようになった。そして、一橋家に訪れる度に必ずといってもいい程の頻度で、三成のもとにも出向く。
 三成は、一橋派の政略の大半を任されており、容保が訪れる事自体はおかしくはない。
 私自身もそれが理解できているからこそ、特に咎める事もしていない。
 しかし、三成と親しい者や円四郎の話によると、三成と容保は政略の話以外にも、かなり個人的な話までしているという。それ以上に気にになるのは、三成の部屋からは、終始笑いが絶えない事もあるという事だ。


(現に今も、三成は容保と共にいる)
 私は別に、三成が誰とどのような関係を持とうとかまわない。かまわない筈なのだが、三成が私以外の女性と親しくしている。そう思うだけで、私の心に細波が立つ。
 三成の近くにいたい。
 不思議とその思いが強くなる。
 それも日増しに・・・・・・。

 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  


「なるほど・・・・・・。世界では、そのように情勢が動いているのか」
「俺自身も、書物等を通して知った事。多少正確さに欠けるとは思うが、大まかな動きとしては、間違っていない筈だ」
 俺は世界情勢の動きについて、容保のために説明している。


 容保が同志とともに南紀派から離脱し、一橋派へと加わってから、多少の月日が流れた。容保が加わった事で、幕府政局における一橋派の有利はほぼ決定的になった。
 容保自身の優秀さもさる事ながら、彼女が一橋派に連れてきた者たちも優秀で、一橋派の人材により厚みができた。
 一橋派には元々優れた人材が多かったが、今回の件でその数がさらに増えた。優れた人材が増えれば、それだけ政権に多様性を持たせる事ができ、より強力な政権を発足させる事が可能となる。
 人材が多くて、困る事などない。

 『人こそ組織の財産なり』

 今なら、この言葉の意味が頭と体の両方で理解できる。
 自身で経験したからこその事だろう。
(それにしても驚くべきは・・・・・・)
 松平容保のマジメさと知識への貪欲さ、そして俺への態度だった。
 説得の際には、気負いや疲労もあり、礼儀を欠いた言葉で話してしまった。
 そのため、容保が一橋派に加わって以降、極力言葉に気を付け、警護での話し方を意識していたのだが・・・・・・。
『私は貴様に、いや、貴方に心底惚れた』
 そう言って、あの時と同じく礼儀無しの話し方を頼まれた。そればかりか容保は、俺に対しての態度をあの時の者とは全く比較できない、尊敬に満ちた態度へと変えた。
 それは、弟子が師に接するように敬愛に満ち、素直で礼儀正しかった。
 共にいる時は必ず俺を立て、淑女としての振舞を決して崩さない。
(これぞまさに、大和撫子だな)
 傍から見れば、どちらが大名かまるで分からんな・・・・・・。
 そう思いつつ、茶を啜る。


「それにしても、三成の知識には驚かされてばかりだ」
「これでも一応は、洋学者だからな・・・・・・」
 もっとも、それはあくまでも建前だ。本来の俺は、ただの一学生、一高校生に過ぎない。さらに少しばかり大時代的な悪い言い方をすれば、ただの青臭い書生に過ぎない。
 俺の持っている知識は、高校で勉強したものか、あるいは個人的に本から得た知識に過ぎない。
 それを慶喜様意外に言えないため、慶喜様の提案もあり、洋学者という肩書を名乗っているだけだ。
「たとえ洋学者と言えど、これ程の知識を持つ者はそう多いとは思えない」
 容保がそう言うなら、おそらくそうなのだろう。
 容保はマジメだから、決して世辞などつかない。その容保に、こうまで言われれば、誇ってもいいだろう。
「特に、兵器や軍制、条約に関しての知識は、天下広しと言えど、及ぶ者は皆無だろう」
「いくらなんでも言い過ぎだ・・・・・・」
 容保のあまりに過ぎた褒めように、どことなく複雑な思いになる。
「いいや、先の条約調印の時に、三成がいなかった事が悔やまれる」
「・・・・・・・・・・・・」


 徳川幕府が、イギリスやフランス、アメリカ等と結んだ安政の五か国条約は、日本に対して極めて不利な、不平等条約だった。
 領事裁判権の承認。
 関税自主権の喪失。
 最恵国待遇の一方的な随時適用。
 これら三項目を、何の議論もなくあっさりと認めた事は、あまりにも大きな痛手。いやよりせいかくに言うならば、幕府の知識不足と外交経験の不足、そして国際事情への疎さが招いた大失策と言っても、過言ではないだろう。
 これらの改正に、この後の明治政府、日本の総理大臣と外務大臣が、どれ程苦労させられた事か・・・・・・。
 考えただけで、頭痛がする。


「・・・・・・俺がいたとしても、おそらく条約内容の変更は不可能だっただろう」
 欧米列強は、市場獲得のため、はるばる極東にまで来ている。それが、自らの権益を排してまで条約内容を変更するとは思えない。
 ましてや、軍事力で圧倒的に劣る日本相手に、その様な行動には絶対にでないだろう。
「過ぎた事を悔やんでも仕方がない。それよりも、今俺たちに何ができるか、それが重要だ」
「・・・・・・私は三成に助けられてばかりだな」
「そうか?」
「そうだ」
 どちらからともなく、笑いが吹き出した。
 その直後、思わぬ珍客が俺たちの目に現れた。


「三成、入るぞ!」
 三成の部屋の襖を開け、私は部屋に入る。
 別に、盗み聞きをしていたわけではない。
 偶然三成の部屋の前を通りかかり、偶然用を思い出しただけだ。
 私に疚しい事など断じてない。
「慶喜様!」
「これは、慶喜様。用があるのであれば、呼んでいただければ、私の方から出向いたのですが・・・・・・」
 三成の落ち着きぶりからすると、危惧する程の事はなかったらしい。
 どうやら、私の杞憂だったようだ。
「で、では・・・・・・。私はこれで失礼する」
「容保殿、何かあればまた何時にでもおいで下さい」
 三成は、普段と変わらぬ態度で容保を送り出す。


 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  


「それで、俺に何の用だ?」
「・・・・・・・・・・・・」
 三成は、私が来た理由が本当に分からないようだ。
 もっとも、普段の三成からすれば至極当然な反応ではあるが・・・・・・。
 もう少し、女心を理解してほしい。
「慶喜?」
「容保とは、何をしていたのだ?」
 三成の顔に、少しではあるが微妙な動きがあった。
 漸く、私の心意が読み取れたらしい。
 三成はなかなか鈍いらしい。いや、鈍いというよりも、三成の中ではそう言った事に関しての関心や興味、必要性があまり高くないため、気づくのが遅いようだ。
 三成は、私の顔色など窺がう事なく意見を述べる男だから、それも当然ではある。
「安心しろ。慶喜が疑うような事はしていないし、そのような関係でもない」
「そ、そうか・・・・・・。それならよかった」
 三成のことは信じている。しかし、本人の口から改めて言われ他方が、やはり安心できる。
 私とは、つくづく面倒な女だ。
 こんな事では、それこそ本当に三成に嫌われてしまうというのに。
 やはり、私は面倒な女だと思われているのだろうか?


「・・・・・・よ・・・のぶ。慶喜」
「な、何だ⁉」
「大丈夫か?先ほどから、心ここにあらずという感じだったぞ」
 一体、誰のせいでそうなったと思う。
 声には出さないが、そう言いたくなる。
「問題ない。それで、一体何の話だ?」
「頼まれていた、政権の人事の案だ」
 三成は、小箱から一枚の紙を取り出し、私の前に広げる。
 そこには、流麗な字で三成の考えた人事が書かれていた。

 ・将軍後見職  一橋慶喜
 ・大老     松平慶永
 ・老中(軍事) 松平容保
 ・老中(財政) 徳川斉昭
 ・老中(政治) 小笠原長行
 ・老中(外交) 上杉斉憲
 ・老中(工業) 松前崇広
 ・老中(司法) 板倉勝清
 ・老中(朝廷) 牧野忠恭
 ・若年寄    松平定敬
 ・若年寄    山内豊信
 ・御側用人   平岡円四郎
 ・勘定奉行   小栗忠順
 (陸軍奉行)
 ・大目付    永井尚志
 ・外国奉行   川路聖謨
 ・外国奉行   岩瀬忠震
 ・海軍奉行   勝海舟
 ・軍艦奉行   水野忠徳

(文句なしの見事な人事構成だ)
 人事を頼んで、まだ三日と経たぬのに、ここまでの人事案を作るとは・・・・・・。
 しかも、三成の選んだ人材は、いずれも有能、切れ者と噂される者ばかりだ。しかも、それらの人材を見事なまでに適材適所に振り分けている。今作りうる私の政権の人事案では、間違いなく最高最善のものだろう。
「やはり、お前に任せて正解だったようだな。しかし・・・・・・」
「何か不満、問題点があるか?」
「あぁ、一つだけある」
 最高の人事案ではあるが、一橋派の主だった者がこれを見れば、必ず私と同じ思いを抱く筈だ。
 そう、その思いとは・・・・・・。
「三成、お前の名前がないではないか」
 一橋派最大の功労者である直江三成の名が人事案のどこにもない、という事だ。
 それが、この人事案唯一の問題点だろう。


 やはり、慶喜様の目は誤魔化せない。
 俺は改めて、そう思わずにはいられなかった。
 自分で言うのもなんだが・・・・・・。
 俺自身は、この人事案は最高の人事案だと自負している。
 これ程までに徹底した能力主義の人事案は存在しないだろう。悪く言えば、これ程までに幕府の作り出した慣習や格式を無視した異例の人事案など、この時代のどこを探しても存在しない。
 それ以前に、考えだせる者など片手の数ほどもいないだろう。
 この人事案は、俺がこの時代の人間ではないからこそ作りえた人事案。より正確に言えば、慣習や格式といった虚礼に何ら価値を見いだせない時代の人間だから考えられた人事案だ。
 要するに、良くも悪くもこの時代の常識から外れた人事案だ。
 だからこそ、俺は何の職にも就かない。
 もし俺が、何らかの職に就けば、異例の人事で批判を受ける慶喜が、さらなる批判に曝される事になる。
 彼女の軍師として、それは防がねばならない。
「俺は、洋学者上がりの肩書で、得体の知れない人間だ。そんな者が、幕府の要職に就くわけにはいかん」
「だが、お前は一橋派の最高の功労者だ。誰も文句は言わないだろう」
「それは、俺の事を知る慶永様や斉昭様、容保様だけだ。大多数の者は、やはり不平や不満を抱く」
 俺の意見は、正論だろう。
 多くの人間は、いかに必要と理解していても、裏方の活躍を認めたりはしない。その上、裏方の者がその功績を高く評価されれば、不要な軋轢や反発を招く。
 これは空の星よりも多い、古来から歴史で繰り返されてきた否定しようのない事実だ。
 かく言う俺自身も、それは嫌と言う程に経験してきた。


「だが・・・・・・、それではあまりにもお前が報われない」
「俺は、報われたくて働いているのではない。気遣いは無用だ」
 三成は平然と答える。
 その姿は、いかにも三成らしい。
 おそらく、三成の言う事は本当だろう。
 私が知る限り、三成は己の栄達や禄の加増等にはまるで興味がない。よい意味でも悪い意味でも無欲であり、私欲ほど三成に縁のない言葉はないだろう。

 清廉潔白

 それを絵に描いたような存在が、直江三成という男だ。
 あるいは、それ以上の存在とさえ言えるかもしれない。


「それに、物事には汚れ役が必要だ」
 機先を制して、俺が先に言葉を繰り出す。
「ましてや、大規模な改革や変革を行うとなれば、抵抗勢力を抑え、その批判を肩代わりさせるための汚れ役は必要不可欠となる」
 これもまた、古今東西の歴史が証明する事実だ。
 通常時の組織においても汚れ役は必要であり、非常時には汚れ役の必要性はより大きくなる。
 組織の指導者が手を汚す事ができない以上、通常時、非常時に拘わらず、指導者に変わり手を汚す汚れ役は必要だ。後者の場合ならば、汚れ役は率先して指導者に変わり手を汚す必要がある。ましてや、この幕末で政治を行うならば、手を血で汚す事と批判を受ける事は絶対に避けられない。
 手を血で汚し、批判を受けずして、慶喜と俺の理想は実現しない。
 ならば、誰かがそれらを引き受けなければならない。
 それならば・・・・・・。
「幸いな事に俺は、手を汚す事には慣れている。慶喜に代わって俺が手を汚そう。だから、俺は幕府の要職にはつけない」


 あの時と同じ目だった。
 初めて会った時、三成がしていた目だ。
 あの時していた目と、全く変わらない。
 あまりにも純粋で、真っ直ぐな優しい目。
「全く、お前と言う男は底が知れないな」
「褒め言葉として、受け取っておく」
 少し笑みを浮かべ、優しさ溢れる声で答える。
(三成は、本当に三成だな)
 私は三成に頭を下げる事でしか、敬意と感謝を示す方法を思いつかなかった。


 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  


 好事魔多し。
 自分が思う通りに物事を進められる、そう思う時にはえてして邪魔が入りやすい。それは進めている人物や、進めている物事の内容の善悪を問わず降りかかる、一種の災難とも言うべき事である。
 慶喜様を中心とする政権が、現実まであと一歩と言う時にそれは起きた。
 まるで、天が俺たちを試そうとでもするかのように・・・・・・。
 俺が政権の人事案を慶喜に見せた翌日、信じられない報せが入った。
 その報せが届いた時、慶喜様と俺は人事案の最終調整を行っていた。
 俺たちにとって、それは政権発足のための最後の仕上げだった。


 「円四郎殿、それは本当なのか?」
 「斉昭様からの直々の知らせよ。間違いである事は・・・・・・、万に一つもないわ」
 「これは、まずい事になったな・・・・・・」
 慶喜様も円四郎殿も、予想だにしていなっかた報せに、驚きと呆然さを隠せない様子だった。
 かく言う俺自身も、辛うじて意識を保つのが精一杯だった。

 『朝廷が、水戸藩に密勅を下した』

 一体誰が、この様な事態を想定できただろうか。
 朝廷が、この状況で横槍を入れるなど、誰が想定できるだろうか。
 武家政権にとって、幕府の最高権力者である将軍を経ずに臣下の大名―一族や譜代そして外様の別なく―が朝廷と接触するなど、絶対に許されない。もしその様な事をすれば、ルール違反どころか、将軍や幕府に対する反逆罪と判断されてもやむを得ない。
 かつて、源頼朝が弟の源義経に厳しい処罰をしたのもそのためだ。愚弟義経が、勝手に朝廷と接触し官位をもらったその行為が、武家政権における絶対のルールへの重大な違反だったからだ。
(政治を知らぬ無能公家どもが・・・・・・)
 密勅を下すという行為が、何を招くか理解する事すらできないのか。
 まさか、こんな形で足元を掬われるとは、怒りではなく、悔しさの方を強く感じる。
「三成、やめて!」
 円四郎殿が、俺の腕を摑んでいる。
 気づくと、手が赤く染まっていた。
 どうやら、無意識のうちに畳を殴りつけていたようだ。
 そのせいか、畳の一ヵ所が赤黒く変色している。
「すまない。少々取り乱していたようだ」
 俺は、目を逸らし慌てて手を袖の中に隠そうとした。しかし、その手を隠す前に慶喜様に掴まれる。
 その掴み方は、とても優しく温かいものだった。
「三成、自分を傷つけるな。私まで悲しくなる」
「慶喜様・・・・・・」


 三成の手は、赤かった。
 夕暮れの日差しよりも、赤かった。
 おそらく、今私たちが思う事は同じ。
 悔しい。
 その一言だろう。
 それ以外に、思う事はない。
(だが、誰よりもその思いは強い筈だ)
 一橋派の中で、政権の発足のため誰よりも働き、誰よりも己の夢を賭けていた。
 それが、三成だった。
 三成が、なぜそれ程までに私に尽くしてくれるのかは分からない。
 まして、三成の夢が何なのか、私は知らない。
 だが、三成が私たちにとって、大切な同志である事は、揺らぐ事のない事実だ。
 だから・・・・・・。
 「お前の悔しさは、同志である私の悔しさだ」


 慶喜の言葉は、実に短い。
 その上、青臭い事この上ない言葉だった。
 正直言って、決して優れた台詞などではない。どれ程贔屓目に見積もっても、三流の台詞というのがよいところだろう。
 だが、三流の台詞で優れていない言葉だからこそ、ゆっくりとだが、胸に沁みわたる。
 慶喜の心が、痛い程に俺にも伝わってくる。
「心配をかけて、申し訳ありません」
 もはや、悔しさはおさまり、冷静さが戻っていた。
「過ぎた事を悔やんでも無意味。それよりも今は、事態打開の策を考えましょう」
「三成の言う通りだな」
「あたしも、全面的に賛成だ!」
 最悪の事態にも関わらず、俺たち三人は至極明るかった。
 まぁ、こういう状況だからこそ、暗く打ち沈むよりも明るく振る舞う方がいい事は確かだ。
「まずは、井伊大老にこれ以上の付け入るスキを与えない事です」
 すでにこの情報は井伊大老ら南紀派にも伝わっている、そう考える方が自然だろう。
 先んずれば人を制す。
 ここはこちらが、先手を取るしかない。
 朝廷からの密勅が下された時点で、井伊大老と南紀派は一橋派を追及するに十分過ぎる程の大義名分を得た。これ以上、状況を悪化させないためにも、何としても先手を取る必要がある。
 となれば、採るべき手段は一つのみ。
「朝廷からの密勅を、慶喜様御自ら幕府に提出して下さい」
「密勅を提出?」
「これだけ密勅の存在が知られているのです。もはや、隠しおおす事は不可能です」
 そもそも、存在が知られている時点で、密勅は密勅ではなくなっている。
 ならば先手を取って、密勅をこちらから幕府に提出した方が上策だ。
 それに密勅を早く提出すれば、それだけこちらに対する疑念を小さくできる。そしてそれは、現状の悪化を防ぎ、一橋派延いては慶喜の誠意を示す事にもなる。
「たしかに、三成の言う通りだ」
「た、確かにね・・・・・・」
 慶喜はともかく、円四郎殿にまで俺の策が理解されるとは、少々驚きだな。
(円四郎殿も、馬鹿ではないからな・・・・・・)
 密勅を下されたという事が、どれ程一橋派にとって分が悪いか、さすがに理解しているのだろう。そうでなければ、この様な理解は示す事などはできない。
(もっとも、理解の程度は疑問だが・・・・・・)
 それでも、最低限度は理解していると思いたい。
 この最悪極まりない状況下で、これ以上の面倒事は御免だ。
「まぁ、今はそれどころではないが・・・・・・」
「三成、何か言った?」
「いいや、別に言ってないが」
 本人を前にその様な事を言えば、面倒なだけだ。
 ここは、何も伝えない方がいいな。
 絶対に。


「それで、次はどうする?」
「何もしません」
 部屋が凍り付いた。
 三成の発言は、私と円四郎が全く予期せぬものだった。
「三成、一体どういう事⁉」
「言葉の通りだ」
 怒りで顔を朱に染め、円四郎は三成に発言の真意を尋ねる。
 しかし三成は、それを平然とあしらう。
「慶喜様、ここで下手に動けば、それこそ井伊大老の思う壺です。事態の推移を静観すべきです」
「それじゃあ、斉昭様はどうするの!まさか、見捨てるつも・・・・・・」
「馬鹿を言うな!」
 普段は、決して大声をあげない三成が、円四郎の言葉を遮り、怒気をはらんだ大声をあげる。
 その声に部屋の空気が震え、私ですら圧倒される。
「今私たちが下手に斉昭様を庇えば、かえって斉昭様の立場を悪くする。それが、お前には分からないのか!」
「・・・・・・・・・・・・」
「斉昭様には、暫くの間藩邸で自主的に謹慎してもらう。そうすれば、井伊大老ら幕閣もそうそう手を出せん」


(たしかに、それが最善の策だろう)
 三成は、母の置かれた状況を、よく理解している。
 母は、正直言って幕閣から危険視されている。より正確に言えば、幕閣と大奥の者たちから、蛇蝎の如く忌み嫌われている。
 水戸藩自体が、尊王思想が極度に強く、幕府からも危険視されている藩だ。そして、母は歴代の水戸藩主の中で、特に尊王思想が強い。これだけでも十分に、幕閣が母を危険視する理由にはなる。
 その上、母は幕閣と大奥に蛇蝎の如く忌み嫌われている。
 その理由は何か?
 それは、母が倹約家であり、なおかつ改革志向の人間だからだ。
 保守的な者たちから、改革と倹約程嫌われるものはない。
 その代表である二者が、母を蛇蝎の如く忌み嫌い、なおかつ危険視するのは至極当然な成り行きだ。
(本当に恐ろしい男だ)
 あの短時間に、ここまで完璧な考慮をして策を立てるとは・・・・・・。
 我が軍師ながら、鳥肌が立つ。
 絶対に、三成だけは敵に回したくはない。
「分かった。三成の策を採ろう。円四郎、異存はないな?」
「あたしは、姫様の決定に従います」
「それでは、私は早速手を打ちます」
 三成は部屋を出ると、駆け足でその場を去っていった。


 ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  


「今夜も冷えるものだな・・・・・・」
 月明かりに見守られつつ、俺は部屋を出て裏門に向かう。
 密勅事件以来、これが毎日の日課になっていた。


 事件に対する一橋派と斉昭様への処罰は、幕府内部での意見対立もあり、今なお決定されてはいない。
 一橋派の大名や幕臣らの動きはないが、中立派や南紀派内の穏健派が、厳罰に反対姿勢を示しており、井伊大老も今一つ決定に踏み切れないためであった。
(もっとも、そう仕向けたのは俺だが・・・・・・)
 俺は、一橋派での政略の人脈をもとに、事態打開のための工作活動に奔走している。
 幸いな事に、俺の名もそれ相応には、知られている。そのため、ある程度独自の工作が可能だ。
 また、慶喜や慶永様、円四郎殿とは立場が異なるので、俺の工作がたとえ露見しても、慶喜たちにさほどの害は及ばない。一家臣独自の行動として、処理されるだけだ。
 俺はその立場を最大限に利用し、工作活動をしていた。
「工作活動とは言え、やっている事は褒められたものではないがな」
 俺の工作活動の目的は、一橋派への処罰の軽減、可能ならば赦免だ。
 そして、そのための方法が・・・・・・。

 ・交渉
 ・買収(贈賄)
 ・脅迫

 これら三つだ。
 信用できる者には、交渉により一橋派の処罰軽減や赦免を懇願している。しかし、利に弱い者や弱みがある者に対しては、多少の金品や脅迫により、こちらに協力させている。
 政略活動のため与えられた資金が、かなり残っている外に、活動時の寄付金もある。それらのお蔭で、工作に必要とする資金は、十分過ぎる程にある。脅迫に必要な情報も、それなりに広い人脈のお蔭で容易く手に入る。


(あまり、気持ちのいい事ではないが・・・・・・)
 一橋派の、慶喜のためには、やらなくてはならない。
 こうした手の汚れる事は、俺にしかできない。慶喜や円四郎殿たちでは、こうした事はできない。いや、仮にできたとしても、絶対にやらせてはいけない。
 手の汚れる仕事こそが、軍師本来の役目。慶喜の軍師になった時から、俺はこうした事は覚悟していた。それに、もといた時代でもこうした汚れ仕事は、俺の専門分野の一つだった。
 また、俺の性格はがこうした汚れ仕事に向いている、という事もある。
 だがそれにもまして・・・・・・。
(慶喜たちに、手を汚してほしくない)
 それが、俺の思いの全てだった。


 世の中の大半の者は、欲にまみれて汚れている。
 それは、いつの時代、どこの国でも変わらない。
 悲しい事だが、それこそが人間の性でもある。
 しかし、世の中には極稀に、純粋で真っ直ぐな汚れ知らずの者もいる。
 慶喜や慶永様それに斉昭様、円四郎殿。
 彼女たちは、純粋と真っ直ぐそのものだった。
 だからこそ、俺は彼女たちに惹かれた。そして、彼女たちを護りたくなった。
 彼女たちの姿は、あまりにも美しく、あまりに危うかった。そのさまは、ほうっておけば踏みにじられてしまう蕾そのものだった。
 だから、護りたかった。
 まだ開かぬ蕾を護り、大輪の花を咲かせたかった。
 蕾からどんな花が咲くかは、俺にも分からない。
 しかし、俺はどんな花であろうと後悔しないだろう。
 なぜなら、俺はこれ程までに、この蕾たちに惹かれている。
 その俺が、後悔などする筈がない。
「俺らしくもないな・・・・・・」
 物思いに耽りながら歩いていくと、すでに裏門近くに来ていた。
「・・・・・・・・・?」
 裏門には、すでに誰かがいた。
 この時間帯は、屋敷の者も寝静まり、誰も起きていない筈なのだが・・・・・・。
 一体何者だ?
 刀の柄に手をかけつつ門に近づいていくと、そこには見知った顔があった。


「三成、やっぱり来たわね」
「おや、円四郎殿か。どうしたんだ。こんな時間にこんな場所で?」
 先程まで月を覆っていた分厚い雲が去り、月明かりが夜の闇に降り注ぐ。その明かりに照らされ、互いの顔が青白く闇夜に浮き出る。その光景は真に幻想的だ。
「それは、三成もでしょ?」
「なぁに、夜風に当たりながら、散歩に行くだけだ」
 俺は適当に誤魔化す。
 俺の散歩好きは、一橋家の家臣ほぼ全員が知っている。
 それ程、疑わしい事ではないはずだ。
「・・・・・・嘘ね。それは・・・・・・」
「何を言っている。事実だ」
 珍しく円四郎殿が食い下がってくる。
「・・・・・・なら、なんで最近そんなに頻繁に散歩に行くの?しかも、帰るのは明け方近く」
「盗み見とは、いい趣味ではないな」
 迂闊だった。
 いくら疲れていたとは言え、見られているのに気が付かなかったとは・・・・・・。
「それだけじゃないわ。屋敷にいる時も、部屋に籠りっぱなし」
「よく観察しているものだな・・・・・・」
 よくもまぁ、他人の私生活をこれだけ観察しているものだ。
「おまけに、昼間でも江戸の町に出向いている。しかも、出かけた時は必ず人と会っているわよね?」
 よくもここまで、俺を観察したものだ。
 時代が時代ならば、ストーカーとして警察の厄介になっているな、間違いなく。
 まぁ、この才能を生かせば、隠密か探偵にでもなれそうだな。
 俺は少しばかり、円四郎殿を過小評価していたようだ。


「俺は、暇が嫌いでな。それらは、単なる時間潰しだ」
 たとえ円四郎殿でも、俺がしている事を知られるのは不味い。
 ここは、何が何でも誤魔化し通さなければならん。さもなければ、俺のしてきた事が、全て水泡に帰す。
「・・・・・・して。ど・・・・・・して?」
「・・・・・・・・・?」
 円四郎殿の肩が、震えていた。
 今夜はかなり冷える。暗くてよくは見えないが、円四郎殿はかなりの薄手、寝間着の上に何かまとってといった程度のようだ。おそらく、寒さで体が冷えたのだろう。
「これを着ていろ。多少ではあるが、違う筈だ」
 俺は着ていた羽織を脱ぎ、そっと円四郎殿に掛けてやる。
 しかし、次の瞬間。
 月が照らす静かな闇夜に、美しいまでの音が響き渡る。
 俺は自分の身に何が起こったのか、すぐには理解できなかった。


「・・・・・・・・・⁉」
 気がつくとあたしは、三成の顔を渾身の力を込めてぶっていた。
「どうしてあんたは、いつも一人で背負い込むのよ!」
 あたしは、三成に思いをぶつける。
 三成は、どんな難しい仕事も必ずと言っていい程、独力で行う。決して、人の手を借りようとしない。
 三成は、優秀だ。
 あたしが、どれ程努力をしたとしても、三成の足元にも及ばない。下手をすれば、その後ろに追いつく事すらできない。
 それ程、三成は優秀いや天才だ。
「あたしが無能なのは、三成を見ていればよく分かる。けど・・・・・・」
 あたしが、三成に及ばないのは紛れもない事実だ。あたしが無能だから、三成にその分の負担がかかるのも分かる。
「あたしの事、もっと頼ってくれてもいいでしょう!」
「円四郎殿・・・・・・」
 あたしは、三成に頼ってほしかった。
 三成が、仕事で常に無理をしている姿を、あたしは役目柄誰よりも近くで見ていた。
 そのたびに、あたしは自らの無能さを呪った。呪って呪って、呪い続けた。
「あたしは、あたしは・・・・・・」
 それ以上、言葉が出なかった。


(俺は、大変な間違いをしていたようだ)
 円四郎殿が震えていたのは、寒さのためではなかった。
 泣いていたから、震えていたのだ。
 だが、それ以前に・・・・・・。
「俺は、そこまで円四郎殿を苦しめていたのだな」
 これだけ近くにいながら、俺は円四郎殿の苦しみに気付いてやれなかった。
 いくら激務に追われていたとは言え、どうして気付いてやれなかったのだろう。
 円四郎殿の気持ちに・・・・・・。
「円四郎、お前の気持ちはありがたい」
「なら・・・・・・!」
「だが、俺が今している事は、かなり危険な事だ。お前を巻き込むわけにはいかない」
「だったら、なおさら巻き込んでもらわないといけないわ」
 どういう考え、理論でその結論にたどり着く。
 全く理解ができない。
 やはり、円四郎は馬鹿か・・・・・・。
「理由は一つ!三成は、あたしの大切な仲間だから。反対は、認めないわよ」
「・・・・・・・・・・・・」


 訂正しよう。
 円四郎は、馬鹿ではない。
 馬鹿ではなく、大馬鹿だ。
「慶喜様の側近には、馬鹿が揃っているようだ」
「どういう意味かしら~~」
「言葉通りの意味だ」
 言葉通りの意味以外などありはしない。
 俺も含めて、本当に慶喜の側近は、馬鹿が揃っている。いや、馬鹿ではなく大馬鹿が揃っている、といった方が正確だろう。大馬鹿は大馬鹿でも、それこそ救いようのない程の大馬鹿が・・・・・・。
 そんな大馬鹿が集まるのも、慶喜の将器あるいは人徳によるものなのだろう。


 三成は月を見上げ、何も言わない。
 ただ月を見上げているだけだ。
「円四郎、何をしている。さっさと着替えて来い」
「え・・・・・・⁉」
 三成、今なんて・・・・・・⁉
 あたしになんて言ったの⁉
「早く着替えて来いと言っている。その格好で、外に出るつもりか?」
 あたしの聞き間違いじゃなかった。
 三成は、あたしが付いて行く事を認めてくれたんだ。
 「勘違いするな。貴女のような馬鹿に、付いて来るなと言う事が無駄だと悟ったにすぎない。他意はない」
「・・・・・・・・・・・・」
 あれ?
 月明かりでよく見えないけど・・・・・・。
 三成の顔、少し赤くなってない。
 あたしの気のせい?
「何をしている。さっさと着替えてこなければ、置いて行くぞ!」
「三成、せっかちな男は嫌われるわよ」
「余計なお世話だ。本当に置いて行くぞ」
「わ、分かったわよ」
 周囲は今なお、月が照らす闇夜だった。
 しかし、私の心はそれとは対照的に、果てしなく明るかった――。

































 
 

幕末異聞録  ~歴史への挑戦者~ 邂逅編

  もし、あなたに歴史を変えられる力があったとすれば、どうしますか?

 『もし』は歴史について考える上では禁止用語の一つですが、この小説では敢えてその『もし』の立場で話を進めていきます。歴史が進んでいく過程には、多くの可能性がありました。その可能性が『もし』実現していればを考える事で歴史はより楽しく面白くなる、と私は思うので私が考える『もし』に基づいてこの小説を書きました。

 さて、まえがきの問いを考えつつ、この小説を読んでいただけたでしょうか?
 読んでいただいた方は、問いに対する答えを見つけられたでしょうか?
 読んでいただけなかった方は、また機会があった時に考えながら読んで下さい。

 目の前に大きな可能性が存在する時、今の人、特に若い人ならどうするでしょうか?
 可能性が大きければ大きい程、当然の事ながらその可能性に対するリスクもそれに比例して大きくなります。それに対して魅力を最初に感じるのか、それとも危うさを最初に感じるかは、人によって異なります。
 そしてそうした場合、今の多くの人、特に若い人のほとんどが、その可能性に手をかけようとは思わないでしょう。リスクが高い事を回避し、リスクが低い事の方を行おうとする。
 私はそれが悪いとは思いません。
 しかし、それが必ずしもよい事、正しい事だとも思いません。
 リスクを回避すれば自分が傷ついたり、何かを失う事はそれ程多くはありません。ですが、それではリスクを犯す事でしか得られない『何か』を得る事もまたできません。
 その『何か』は人によって異なりますが、それが私たちにとって大切なものである事は確かです。
 今の人、特に若い人は、リスクを避ける事を重視するあまり、敢えてリスクを犯すという勇気を忘れてしまっているように思えます。
 敢えてリスクを犯す勇気を忘れてしまった人たちに、その勇気を思い出してその他いかに得られる『何か』を得られるようになってほしい。
 そうした思いをこの小説に込めました。

 敗北した時、あなたならどうしますか?
 これが次の小説での問いです。
 あなたはどう思いますか?


 

幕末異聞録  ~歴史への挑戦者~ 邂逅編

神の悪戯か、本来は決して会わない二人が運命の出会いを果たした時。 歴史は、その流れを大きく変え始める。 『己の夢を実現する可能性があるのに、それを諦めようとする者は負け犬だ』 己が主と認めた彼女のため、彼は持てる知識と経験の全てを捧げる。そして、彼女の理想実現に携わるうちに、夢のため、彼女のため、歴史を変える決意をする。 『実にいい目をしていた・・・・・・』 彼を信じた彼女は、彼を己が軍師として迎え入れ、己の理想を共に実現とする同志とした。彼の軍師としての働きを通して、彼女は彼が持つ力を見出し、彼への信頼、絆を深めていく。 出会うはずのない二人の出会いは、歴史への挑戦者誕生の瞬間だった――。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-27

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND
  1. 登場人物紹介
  2. 運命の出会い
  3. 北国の姫
  4. 水戸の老虎
  5. 奥州の若虎
  6. 月夜の涙