うちの母ちゃん凄いぞ

くず子 作

母ちゃん48歳、自分23歳。

オヤジの借金で家に乗り込んできた893相手に「そんな雷おこしみたいな髪の毛して!恥ずかしくないの!?」と罵倒して追い返した事のある母ちゃん。

ありがちな、母ちゃんが死んじゃうオチや、母ちゃんが病気しちゃったオチはないけど、ちょっとお前らに母ちゃんを自慢したかったのでスレ立てた。

中卒ニート

自分は3人兄妹。3つ上の兄と、7つ下の妹に挟まれた真ん中。
母ちゃんはどこにでもいるような母ちゃん。若い俳優にキャーキャー言うし、パートから帰ってきたらオヤジにパート先の愚痴をこぼしたり、普段はお菓子なんか作らないくせに、自分や兄妹の友人が遊びにきた時だけクッキーやマドレーヌを焼いて、「いつも作ってるんだけど、今日はちょっと失敗しちゃったわぁ」とか言って焦げた手作りお菓子を友達に振舞うような、見栄っ張りな母ちゃんだ。

例えるなら、クレヨンしんちゃんの「みさえ」がぴったりだろうな。
そんな母ちゃんだったんだけどさ。自分が14歳の時、オヤジの借金が発覚したんだよ。
元々詐欺みたいな学習用品のセールスをしてたオヤジは、その会社でずっとトップセールスマンでな。
自分が9歳(妹が赤ちゃんの頃だな)くらいまでは月収手取りで100万以上稼いでたらしい。
そんな高収入(だった)オヤジが借金を始めたきっかけは、バブル崩壊。
バブルが弾けてからどんどん売上も落ちていくし、どんどん給料も落ちていって、オヤジの手取りが20万を切るのはそう遅くなかったようだった。

『来月は頑張る』『来月こそは』というのがオヤジの口癖のようになっていって、100万の収入は、20万、16万、10万……と、カウントダウンのように減っていった。母ちゃんは「パートへ出る」と言ったんだけど、オヤジが「いや、来月こそは絶対稼いでくるから!」と母ちゃんを引きとめて、貯金を切り崩す生活をしばらく続けていたようだ。

当時妹はまだ2歳とかだったし、自分も9歳。そして兄がちょうど中学校に入学する、そんな大切な時期だったからこそ、母ちゃんに家にいてみたかったみたいだけど、オヤジの収入が8万を切った(家のローンがいよいよ払えなくなった)時点で、オヤジは何も言わなくなった。
オヤジが静かになったのを見計らって、缶工場へパートへ出た母ちゃん。
自給800円、月8万円余りの収入でも、大分家計は助かっていただろう。

だが、やはり母ちゃんがパートをしてるのを快く思わなかったのであろうオヤジ。
何を思ったのか、サラ金から生活費を借りて「ほら、一時期収入も落ち込んでたけど、また100万くらい稼げるようになったぞ」「だからお前もパートを辞めなさい」サラ金から借りた札束をひらひらさせながらそう言ったオヤジ。
母ちゃんはパートさえ辞めなかったけど、それでも、『あぁ、これで生活が安定する』と思っていたらしい。
ほっと安心する母ちゃんの顔を見て、オヤジは能天気に「笑った顔が可愛いなぁ」と思っていたらしい(後日談)

しかし、いよいよ。自分が14歳、中学二年生の時だな。
危ない所から生活費を借りてたオヤジの付けが回ってきたようで、昼夜問わず893が家に来るようになった。
今みたに回収が甘くないからな、平気で扉をドンドン叩くし、時間なんか関係なしにインターフォンも鳴らし続ける。
893が来ない日でも、ポストには“融資可能”“審査なしで即融資”と書かれたDMが沢山入ってた。
サラ金から金を借りきれなくなったオヤジが、ヤミ金へ手を出した証拠だったんだけどさ。

家に来る893、そして仕事してんだかしてないんだか分からないオヤジ。
17時までだったパートの時間に、残業をいれ始めた母ちゃん。
全てに嫌気がさした自分、当時中学2年生。
厨二病まっさかりなその時期、家の混乱を受け入れられなくて、こう思った。

「あ、頭おかしくなろう」

頭がおかしくなれば、精神病っぽくすれば、家族はみんな自分を心配してまた元に戻るかも!! 
まぁ当時は本気でそう思ってな、中学3年生に上がったばかりの頃、精神病っぽく装い始めた。
どう装ったかといえば、今も昔もエセメンヘルに大人気の、多重人格(笑)だよ。

ほんとにこの病気で悩んでいる人、もしいたら、不謹慎ですまん。

多重人格を装うのは意外に簡単だった。
簡単2ステップだ。

「あ……! 頭が……!!」と言いながら、頭を抱えてうずくまる→「ふふふ……私は誰か分かるか?」これでエセ多重人格の完成

しかし両親、そんな厨二病と向き合った事がなく、本気で自分の頭を心配してくれたようで。何度も何度も病院へ連れていってくれた。
その間もずっと、オヤジの借金取りは自宅へ来るし、まだ小学2年生だか3年生だかの妹の方が、よっぽど精神的に辛かったなんて知るよしもなく。
エセ病気のふりをする度に両親が力を合わせて病院探しに熱中しているのを見て、「あぁ、これでまた幸せな家族に戻れる」とか本気で思っていた。

そしてある日だ。
中学3年生の夏休み。自分は自宅にいて、アニメスペシャルを見ていた。
はずだったのだが。気づいたら病院にいた。
気付いたら、というのが遅すぎたようで、丸々2週間人工呼吸機で命をつないでいたようだった。
原因は首つり。首を吊った覚えなんかないし、夏休みアニメスペシャルのスラムダンクを見ていた記憶しかない自分は、病院、というか集中治療室で目が覚めてマジでびびった覚えがある。

正直、この時母ちゃんが見舞いに来て鏡越しになんか涙ぐましい事言ってた覚えはうっすらあるが、ぶっちゃけ覚えてない。
ただ、集中治療室で流れてたラジオの音しか、今でも記憶はない。

どうやら、多重人格を装っていた自分は、まじで多重人格になってしまったようで、他の人格が首つり自殺を図ろうとしたらしい。
だけどな、2週間意識不明、しかも首つり。
母ちゃんが「なんか胸騒ぎがするから」っていう理由で自宅に戻ってきて自分を発見してくれて救助されたようだが、マジで覚えてない上に、医者が心配するような後遺症も全然感じられない。

結局そのまま3カ月入院。
後遺症はなかったが、再発防止とかいって、変なカウンセラーの元で何度も変な絵を描かせられたりする日々で貴重な受験期間を潰してしまった。

まぁお約束のように、自分は高校受験に失敗。
中卒ニートで、毎日毎日家で薬を飲みながら生活していたわけだ。

趣味は2ちゃんとアニメ。外出は週に一度の精神科通院。
あーら見事に絵に描いたようなメンヘラが出来あがった訳だが、相変わらずオヤジの借金とりは家に来るし、ヤミ金DMも毎日のように届く。

みかねた母ちゃんがオヤジをけしかえるように、パートで働いていた缶工場で社員として働くようになった。

その頃トラックの運転手に転職してたオヤジ。
そこそこ稼いでいた物の、母ちゃんの収入にあっというまに並ばれていた。

母ちゃんに収入も並ばれ、自分のせいで出来た借金で毎日家族が取り立てられる毎日。
ストレスがたまったオヤジは、仕事帰りに自宅で酒を飲みながら意味不明な言葉をずっと叫んでいた。「ダァっ!!!」みたいな言葉だったな。
今でも意味わからん。

兄は高校へ行きながらバイトもして、自宅へ戻らないよう彼女の家へ入り浸ったりしていたが、どうしようもならなかったのが妹だ。
まだ小学3年生。幼いながらに893と話したり、ニートの自分と遊んでくれたりしていた。

なんか暗い話になってるが、全然暗い話じゃないんだけどな。
一気に暗い部分を終わらせる。


だけど、また自分は首つりをした“らしく”、気づいたら病院へいた。
医者から、また無意識でやったんですよと言われて、何をしているんだろうと罪悪感でいっぱいになった覚えがある。
そしてまた入院。今度は長めで、5カ月の入院。退院する頃には、同級生はもう高校二年生。
いったい私は何をしてるんだろう、と思う中、一人元気なのは母ちゃんだった。

母ちゃんは、見舞いにきながら毎日のように自分へこう言ってくれた。
「もう一人の自分がいるなんて凄いじゃん! 別に恥ずかしい事じゃないよ」
にこにこしながらそう言ってくれて、仕事に家事に忙しいはずの体で毎日見舞いに来てくれた。

だけど、そんな家庭環境に限界が来てしまったのは妹で、ある日母ちゃんと見舞いにきた妹が、うつむきながら言った。

「お姉ちゃん、私、おしめしてるの」

どうやら、尿意が分からなくなってしまい、気づくと漏らしてしまうらしい妹。
大人用のおしめをつけて生活しているという。
びっくりしたが、妹はにこにこしていて、早く直さないとプールに入れないと言っていた。

この一件が原因なのかどうなのかは分からないが、自分が退院してすぐ、母ちゃんとオヤジは離婚する事になったと言った。
離婚する理由は、あくまでも「893の追い込みから妹を守る事」だったが、本当の理由なんか明確だと思った。

しかし、どんなオヤジでもオヤジはオヤジ。そして、自分が病気になったそもそもの理由だって、両親が仲良くなってほしいから、であって。最後まで両親の離婚に反対したのは自分だった。

当然ながら、親権は母ちゃんに。しかも母ちゃん、兄と私と妹、3人まとめて引き取るという。
オヤジはこれから膨らみに膨らんだ数千万の借金のために自己破産手続きをしなくてはいけないので、親権をとる事は出来ないというし。

だけど、母ちゃん一人の稼ぎで3人も育てていけるのか?と。
母ちゃんに引き取られると聞いてすぐに思ったんぽはそれだった。

引っ越し

当時の母ちゃんの稼ぎ、正しくは知らないけど工場の事務正社員なわけで、よくて20万くらいだろう。そして、この予想は限りなく当たっていると思う。
オヤジに養育費なんか払う技量はないし、兄も高校をやめるつもりはないらしい。しかも自分ニートだし。
そうすんだ、と思って母ちゃんに聞いたら、「なんとかなるでしょ、大丈夫大丈夫」とけらけら笑っていた。
そういえば、自分が自殺未遂を起こした時も、893がおしかけてきた時も、母ちゃんは一度も涙を見せた事がないな、と思っていた。

離婚してからすぐ、まだ母ちゃんとオヤジは同じ家に住んでいて、母ちゃんと自分等の自宅が決まるまで離婚済みの同居生活をしていた。
何で母ちゃんが出ていかなきゃいけないのか、と当時は思ってたけど、893にばれている住所に子供たちを住まわせる訳にいかないからな、と今なら事情は分かる。

その頃家は、毎日お葬式みたいだった。
ニートの自分に、家に帰ってこない兄。
そして、おもらししては一人泣く妹。酒を飲んで泣くオヤジ。
どんより暗い家の中でも、母ちゃんだけは一人元気だった。

ある日そんな葬式みたいな家に、会社の制服姿のまま帰ってきた母ちゃん。
手に住宅情報誌を持って、「発表があります!」と万面な笑顔で自分と妹とオヤジへ声をかけてきた。

「家が決まりました!」と言って、住宅情報誌の付箋が貼ってあるページをめくった母ちゃんは、3LDKのマンションの見取り図を指さして、「ここがあたらしい家だよ」と言った。
家賃13万。どう考えても、母ちゃんの収入じゃやっていけない言えだった。

駅から徒歩10分。新築でもないが、オートロックのマンション。
前の借主は、地元の女医さんらしい。
写真を見たが、どう考えても綺麗過ぎる。
全部屋フローリングで、一番狭い部屋でも6畳あるし。

「こんな部屋借りたらやっていけないだろ」
オヤジが申し訳なさそうに言ったら、母ちゃんは鼻の穴を膨らませて、こう言った。
「あなた、私の収入知らないでしょ」
「知ってるさ。子供の前だから金額は言わないけど……」
「じゃあ、私が主任になったのは知らないでしょ?」
えっへん、と漫画に出てくるような擬音付きで膨らんだ鼻の穴から息をふきだした母ちゃん。
凄いじゃん! とか、言ったか言わないか覚えてないが、その場にいた全員で「えぇええええええええ」となったのはよく覚えてる。

離婚が決まってから仕事に勤しんで、頑張って頑張って事務主任の座にまで上り詰めたらしい母ちゃん。
子供3人守らなきゃ! という一心で、ほとんど寝ずに仕事をしてたらしい。
あの時初めて、母ちゃんが大分痩せていた事に気付いた。
元々痩せていたけど、更に小さくなっていた、というか。

手取りで18万?20万くらいの給料が、20数万に上がったらしい母ちゃん。
パートからここまでのし上がったのは凄いと思うが、それにしてもまだまだ家賃13万のマンションで生活出来るとは到底思えない。
どうするつもりなのかめちゃくちゃ心配だった覚えしかない。
これだけ稼いでしまうと、県や国からの母子家庭手当ももらえないしな。

だけど母ちゃんは、「まぁ、何とかなるでしょ」が口癖で、強引にそのマンションへの引っ越しを決めてしまった。

引っ越し当日、オヤジはこの世の終わりみたいな顔してたけど、母ちゃんが「ちゃんと出直したらまた一緒に暮らしましょ」と声をかけていて、少し表情が和らいでいた。
結局今でもオヤジとは一緒に暮らしていないけど、当時、母ちゃんのその言葉はオヤジにとって何よりの励みになっていたと思う。

オヤジと最後の飯を食べた時、母ちゃんは自腹でオヤジが大好きなすきやきを作って、久々に兄も一緒に家族5人でご飯を食べた。その日だけは、妹もおもらしをしなかったし、みんな全員笑ってたっけな。

引っ越し先のマンションは、とにかく綺麗だった。
先にも言ったが、自分の母ちゃんはクレヨンしんちゃんのみさえみたいな母ちゃんだからな、想像つくと思うが、とにかく見栄っ張りなんだよ。
収入が増えたら増えたで、安い長屋とかに住んで金貯めて家買えばいいのに、「汚い家はいやだ!」(長屋住まいごめんな)とか言ってとにかく綺麗な暮らしをしたがる。

母ちゃんが凄いのはここから。
綺麗な暮らしをしたがればしたがるほど、もちろんお金もかかってくるだろ。
「お金がないなら稼げばいいのよ!」とか言って、訳わからん資格の勉強をしたり、たかが主任なのに社長に直々「会社をよくするため」とかいって企業改革提案をしたり。
働いて、家事して、おもらしが止まらない妹を病院へ連れていって、勉強して。
一体いつ寝てるんだろう、と。相変わらずニートをしながら、母ちゃんを見て思っていた。

そんな母ちゃんを見て、高校卒業まじかの兄は高校卒業したらすぐ働いて母ちゃんを助けるといった。
母ちゃんは、ガリガリに痩せた顔でもまっすぐな笑顔で、「お前(兄)が大学出るだけのお金はもう貯まってるから、進学しなさいよ」と言ってた。
兄はなぜかぼろぼろ泣いてて、母ちゃんにお礼を言ってたけど、自分の事で手いっぱい(笑)なニートな自分は、なぜ兄が泣いてて、なぜ母ちゃんが笑顔なのかよく分からなかった。マジで。

だけど結局、進学をやめてフリーターになった兄。
就職しなかった理由をつい最近話してくれたが、どうやらまだ当時父親の借金で両親が離婚している、という事実は就職活動で不利だったらしく、思っていた職につけなかったからと言っていた。
アルバイトで稼ぎながら、母ちゃんにお金を入れている兄をみて「偉いなぁ」とは思いつつも、自分も働いて母ちゃんを助けようという意識は皆無だった自分。
そして、母ちゃんの仕事が忙しくなるにつれて酷くなる妹のおもらし。
ついには小学校へ投稿しなくなり、毎日毎日、ニートの自分と一緒にポケモンをして時間を潰すようになっていった。

アルバイトをしながら稼いだお金を母ちゃんへ渡す兄を見て、えらいなぁと思いながらも自分は何もしようとは思わなかった。
そしてその頃になると、母ちゃんは現場責任者の仕事もしてほしいと言われていたようで、フォークリフトの動かし方から、専門的な機材の動かし方まで、日々勉強していたようだった。

プリン

当時の母ちゃんの一日。
朝5時起床。不登校の妹と、ニートの私、そして兄のために朝食と昼食を作り、自分の弁当を作る。
昼休み12時頃必ず帰宅。妹と自分と一緒に弁当を食べる。食べてすぐ会社に戻る。
夜9時頃帰宅。家事、夕食作り。
その後勉強。
深夜起床。

そんな生活だったが、母ちゃんが弱音をはいた事はない。
今でも、別に当時の生活はつらくなかったと言い張る。

妹のおもらしが酷くなり、不登校が数カ月続くと自然と妹の通院日数も増えてくる。
ついに現場責任者となった母ちゃんは仕事を抜け出す訳にもいかず、唯一の休憩時間を使って妹を病院へ連れていく日々を送ってた。
お前ニートなんだからお前が病院へ連れていけよ、と思うだろ? 
あぁ、今ならそう思うが、当時はそんな考えは微塵もなかったな。
ただ、母ちゃんは大変だぁって思いしかなかった。

だけどある日、母ちゃんが夜中にせき込んでるのを聞いた。
ただの風邪だ、と言い張るけど、どう考えても顔真っ赤だし、声はがらがらだし、体は鶏がらみたいだし、悪い病気の人みたいな風貌。
「お前が頑張って“社会へ戻る勉強”が出来るように、母ちゃん頑張らなきゃいけないから、こんな事でへこたれてられない」とか言って、難しい本をひたすら読んでなんかノートを書いてた母ちゃん。
その姿を見て、ちょっとだけ心が揺らいだ。

先にいっておくが、どらまちっくな展開とか、母ちゃん死んじゃうかもとかそんなオチはないぞ

心が揺らいだけど、何をしていいかよく分からなかった自分。
いや、働けよと思うが、働こうという意思は皆無だったからなぁ。
家事もやり方なんぞ分からないし、料理だって出来ない。
さてどうしよう、と思って、何もしなくていいか、とは思いつつ。
だけどなんか揺らいだこの気持ちを形に残したいと思った自分。
一日妹とポケモンしながら考えてた所、テレビである特集をしていた。

疲れた体には甘い物が一番! みたいな特集で、家庭で簡単に出来るお菓子作り! みたいなワイドショーにありがちなテレビのワンコーナーだった。
プリン作りの特集で、美味そう……と思った自分は、卵と砂糖と牛乳というシンプルな材料で作れるそのお菓子を作ってみたくなった。
あ、言っておくけど、別に母ちゃんに作ってあげようと思ったわけじゃない。
ただ、なんかエネルギーがわいて、美味しいプリン作れたら、なんか自分、変われるかも! みたいな、何の根拠もないやってみよう精神だけだったけどな。
きっと、このなんかとりあえずやってみようかな精神は、ニート経験者なら分かってくれると思う。

相変わらずおむつをつけたままの妹と一緒に、プリン作りを始めた自分。
プリンが好きな妹から、「出来たらひとつちょうだい」と可愛くおねだりされたから、自分の分と妹の分、合計二つつくろうと思った。
プリンの型なんかないから、どんぶりを代用して作ったプリン。蒸し器に入れてから、あとは出来あがったプリンを冷蔵庫に入れるだけとなった所で、強い強い達成感から睡魔が襲ってきた。

何とか蒸し終えたプリンを冷蔵庫に入れて、妹と二人、ソファーで昼寝をした。

目が覚めたらすっかり夜で、隣で寝てたはずの妹がいなかった。
寝ぼけた頭で妹を探したら、キッチンで母ちゃんと一緒に、妹はいた。

自分は目が悪いので、眼鏡をかけない状況で視界がぼやけていたけど、これだけは分かった。
母ちゃんが、声を上げて泣いていた。
母ちゃんの泣き声に驚いて、慌てて眼鏡をかけてキッチンへ向かうと、どんぶりに入ったプリンを食べながら、母ちゃんがぼろぼろに泣いてた。

オムツをつけた妹が、「お姉ちゃん、おはよう」と笑って、「私、食べきれなかったからお母さんにプリン半分だけたの。
お姉ちゃんの分はちゃんと冷蔵庫にあるよ」と言った。
なんで妹のプリンを食べながら母ちゃんが泣いてるのかよく分からない。
だから、どうして泣いているのか母ちゃんに聞いたら、おいおい泣きながら母ちゃんは言った。

「疲れた時には甘い物がいいて……テレビで見て、母ちゃんのために作ってくれたんだろ?」

いや、ちげーよ。私はプリンを腹いっぱい食いたくて自分のために作ったんだよとはさすがに言えない空気で、とりあえず頷いておいた自分。
泣く母ちゃんの後ろで、おむつをつけた妹が嬉しそうに笑っていた。

結果的に、9歳の妹に出し抜かれた私は、なんだか母親の泣き顔を見るのが辛くて、そそくさと部屋へ戻った。
変な時間に昼寝を挟んだせいで、ベッドへ横になっても全然眠れない。
深夜、DVDでも見ようとリビングへ行くと、母親が勉強をしていた。
「まだ起きてたの? もう3時だよ」と言っても、母親はノートから目を離さず、「あんたが作ってくれたプリンでやる気全快だから、あと30時間は起きていられる」と冗談ぽく言ってた。

母ちゃんのために作ったんじゃない、と言いかけたけど、なんだか言ってはいけない雰囲気な気がして、結局黙って部屋へ戻った。

母ちゃんの会社には社報みたいなものがあるんだけど、ある日母ちゃんが社報を持って帰ってきて、自分に見せてきた。
社報いっぱいの見出しは、「課長の娘さんは世界一のパティシエ」(とかそんなだったと思う)
課長が疲れて帰ってきた時……自慢の娘さんが何と手作りプリンを作って出迎えてくれた! 
母ちゃん「私は世界一幸せな母親です(笑)」みたいな、そんな記事が書かれた社報。

「専務にちょっと自慢したら社報に乗っけてくれてさぁ」とか言って嬉しそうにしている母ちゃんを前に、嬉しいとか恥ずかしいとか、そんな気持ちより先に母ちゃんが課長へ昇進した事が一番驚きだった。

うちの母ちゃん、ふっつーの高校卒業して、ふっつーに高卒でOL経験して、ふっつーに結婚した人。
特に秀才でもないし、特に何か飛びぬけて凄い物もっているわけでもない(と思う)。

生活費の足しに始めたパートで、パートから社員へ、社員から主任へ、主任から現場責任者へ、そして課長。
いやもう、どっかのテレビ局が取材に来てもおかしくないんじゃね? 
と思うばかりのトントン出世にみえた。

社員数60人くらいの小さい会社だけど、それでも課長は凄いと思う。

しかしまぁ、母ちゃんの出世と引き換えに、母ちゃんの帰宅時間はどんどん遅くなっていった。
理由は簡単。ISOとかいうのを、母ちゃんが筆頭に会社で取得しようとしていたらしく、母ちゃんは勉強に研修に、とあちこち回っていたからだ。

町工場なので、現場の人間はDQNか派遣かパートのおばちゃんばかり。
(工場勤務の人、偏見ある言い方すまん)
人間関係もだめだめらしく、ISO取得と同時に、そのだめだめな人間関係も修復しなくちゃ駄目だ! と思ったらしい母ちゃんは、自ら“24時間電話相談”とかいうのを始めて、人間関係や仕事の悩み、果てはパートのおばちゃんの家庭の悩みや若い社員の恋愛事情まで全部丸ごと相談に乗るわよ! みたいな活動を始めた。

毎日毎日遅く帰宅しては、電話で社員の悩み相談を受ける母ちゃん。
ある時なんか、パートのおばちゃんが「旦那が浮気してるかもしれない」と泣いて電話をかけてきた時、「今から行くから!」と夜中に家を飛び出していったし、またある時は派遣で将来が心配……と言った男の子を、午前休を使ってハロワへ連れて行った事もあるくらいだ。

のめりこむと凄まじいというか、周りが見えなくなる母ちゃん。
なにをやらせても、常に100パーセントを出す人だと思った。

カロリーメイト

相変わらずニートだった自分と、アルバイトで忙しい兄と、ほとんど家にいる時間がなくなった母ちゃん。
自分はニートながらに、ずっと貯めてたお年玉(笑)とかを切り崩して、時に兄から小遣いをもらい、自由奔放に遊びまわっていた。

その内、家に帰るのがいやになってきて、寮付きのキャバクラにでも勤めればもっと自由になれるとか本気で思っていた当時の自分。
ふらふら遊んでは、夜中に自宅へ戻る事が増えてきた。

ある日、夜中遊ぶ友人が捕まらなかったので、久々に早い時間(といっても夕方6時くらい)に自宅へ戻った自分。
家へ戻ると妹がテレビを見ていて、自分を見るなり嬉しそうに「おかえりなさい」と言って抱きついてきた。
相変わらずおもらしが続いているらしく、まだおむつが外せない妹。ほこりをかぶったランドセルを見れば、やはりまだ不登校のようだった。

不登校の妹が、誰かと話す機会はなかったらしい。
私は家へ戻らないし、兄はアルバイトの合間しか家へ戻ってこない。母ちゃんも、同様。
孤独だったらしい妹は、「お姉ちゃん、今日はもうお出かけしない?」「○○(妹)と一緒にポケモンしてくれる?」としきりに聞いてきた。なんかちょっと泣けてきた。

なんだか妹が不憫に思えて、ぴったりと自分に寄り添って離れようとしない妹の頭をその日はずっと撫でていたと思う。
そんなこの日。一番衝撃だった出来事。それは妹の夕食だった。

「お姉ちゃん一緒にご飯食べよう」と言って、妹がどこからか持ってきたのは、カロリーメイトの4本パック。
「お姉ちゃんの分もあるよ」といって、同じ4本パックのカロリーメイトの箱を自分へ手渡して、妹は当たり前のようにそれを食べ始めた。

「これが夕食?」と聞いた私に、不思議そうに首をかしげて、妹は頷く。
「カロリーメイト嫌い?」
「いや、嫌いじゃないけど……」
「美味しいよ! あと、今日はお姉ちゃんと一緒だからいつもの倍は美味しい!」

あぁ、自分は、あの時の妹の顔が今でも脳裏に焼き付いて離れない。
嬉しそうな、なんとも微笑ましい、というか。
好物を前にした子供のような笑顔。思いだすだけで、ズキズキする。

母ちゃんが忙しくなって、いい加減家事に手が回らなくなったらしい。
朝食はまだしも、夕食を作る事は不可能だったらしく。
ある日の夕食にコーンフレークを出された妹は、「あぁ、お母さん忙しくて大変なんだな」と思ったとの事。
それから、「もう9歳なんだから、自分でご飯買いにいける」と駄々をこねて、母ちゃんからお金をもらったといっていた。

母ちゃんからもらったお金で買ったのが、カロリーメイトだったって訳だ。

それでもやはり、お金だけを妹に渡すのが心配だった母ちゃんは、ちょくちょく仕事の合間に妹へ電話を入れたり、ほんの少しの時間を見つけては家へ戻ってきて夕食作りをしていたようだったが、最終的に妹はそれすらも拒否したと言っていた。
「学校へ行けない分、お母さんにこれ以上迷惑はかけたくない」とか言って、隣の家のおばちゃんが夕食を作ってくれた、とか、卵焼きを自分でやいて食べたから今日は帰ってこなくていいとか、そんな嘘を母ちゃんについて、「心配いらないから、お仕事がんばってね」、と言い続けていたらしい。

それでもやはり、その事実は辛かったようで、めそめそしながら、妹は私にこの話をしてくれた。

私は、それでも真面目に働こうとは思わなかった。
働こうとは思わなかったし、じゃあ私が母ちゃんの代わりをしようとも思わなかった。
悪いな、これはドラマでも何でもないので、美談はないのだよ。

だけど、美談はないけど。それでも、これだけは思った。

妹の夕食がカロリーメイト。
これはさすがにやばい。

次の日私は本屋へ行って、調理本を買ってきた。
この本は今でも持ってる。「簡単おべんとレシピ」って本だ。

朝は苦手なので、朝食は作らない。これは母ちゃんに任せた。
昼飯も母ちゃんに任せた。
自分がちょっとだけ頑張るのは、夜だけ。

本片手に、最初は簡単なカレーから。カレーは失敗がないからね、初めて作ったカレーを食べて、妹は「カロリーメイトより美味しい」と何度もおかわりしてくれた。
それが単純に嬉しかった。なんか、ちょっと人の役にたててる気がしてね。

おべんとレシピの良い所は、あくまでもお弁当用レシピって所だ。
お弁当用レシピ=あんま手間がかからない

つまり、だらだらしたニートな自分でも、ちょっとがんばれば作れるって所。

妹の夕食を作って、妹が寝るまで一緒にテレビを見るか、ゲームをする。
妹が寝てから遊びに行く。遊び癖が抜けなかったんだな。
でも、私が家を出ていく度、妹が起きてしまう。
「お姉ちゃんどこ行くの?」と泣いて、おもらしをしてしまう。
その度、出かける時間を遅らせて、妹を寝かしつける。その繰り返し。
妹は可愛いけど、当時は遊びを邪魔されて正直鬱陶しいという気持ちの方が強かった。

家出

子供は凄い。まぁ、当時は自分も子供だったが(16歳とかだしな)、それでも、何も分かっていないだろうと思っていた妹の、人を見る目は半端ないと思った出来事がある。
夕方起きだして、夕食の支度をしようと思ったら、妹がいなかった。
部屋中探してもいなくて、代わりに、妹のおむつがいくつもなくなっていた。
あと、買いだめしたカロリーメイトもなくなってる。お気に入りのポケモンのぬいぐるみもないし、洋服もない。

びっくりして、妹の部屋へ入ると「かぞくへ」みたいな文章から始まる手紙があった。

手紙の内容はよく覚えてない。気が動転してたし、とにかくすぐ母ちゃんと兄に連絡しなきゃ、って事で頭がいっぱいだったから。
覚えてる限りの内容は、「○○(妹)がいなくなれば、お姉ちゃんはたくさん遊べます」みたいな。
夜泣き(?)を繰り返す妹を鬱陶しいと内心思っていた自分の気持ちを、妹は見事に見透かしていたらしい。

母ちゃんに連絡してすぐ、兄と、母ちゃんが示し合わせたように家へ帰ってきた。
兄と私は顔を真っ青にしてたが、母ちゃんは「家出は思春期の勲章だ」とか言って、「大丈夫大丈夫」とか言ってた。
言ってたけど、声がぶるぶる震えてたのを覚えている。

当時を振り返る度、母ちゃんはこの妹家出事件が、何より辛かったという。
オヤジが借金した時より辛かったといってた。
働かなきゃ食べていけない。会社を大きくしたい。でも家族も大事にしたい。だって片親だし。
兄を進学させてやりたい。私を社会復帰させたくて、社会人の手本になりたい。でも母親として、妹にずっと付き添ってやりたい。あぁでも、働かなきゃ生活が出来ない。もっともっと出世したい。
そんな思いで、自責の念と、後悔とでぐちゃぐちゃだったようだ。
父親役母親役、二役こなす母ちゃんだからこその本音だったのかもしれない。

警察に連絡しようか、と兄が言った時、「おおごとになれば、○○(妹)が帰りづらくなる」と言って、母ちゃんは一人探しに出かけた。
兄と私はいつ妹が帰ってきてもいいように、自宅で待機。
兄は探しにいきたいと言っていたが、母ちゃんが「これは母ちゃんの仕事だから」、と兄を静止してた。

数時間たたない内に、妹と母ちゃんは帰ってきた。
小さい体を縮こめて、体に不釣り合いな大きなリュックを背負った妹を見て、発作的に泣いた。
安心というか、「何してんだよ」っていう、なんか、怒りに近い涙だったよ。

母ちゃんは、この時、妹がどこにいたとか、どうやって連れ戻したとか、そんな話は何もしてくれなかった。
あとから妹が話してくれたけど、妹は、前の自宅へいたらしい。
もう父親も引っ越していて、放置状態の家に一人いて、カロリーメイトを食べて時間を過ごしていたんだと。

母ちゃんはこの事で凄く自分を責めたらしいけど、それでも、真っ先に妹がどこにいるか分かった母ちゃんは、やっぱり母親なんだなぁと思う。

その日から、兄はアルバイトを減らしてなるべく家にいるようになった。
収入は減ったらしいが、代わりに母ちゃんが「もっと出世すればいいんでしょ?」とかいって更に勉強を始めてた。
でも、なるべく家で勉強するようになって、少しでも妹のそばにいるようにしていたみたいだった。

私は相変わらずニートで、唯一の仕事は、家族の夕食を作る事。
それでも、美味しい、と兄や母ちゃん。
そして妹がそう言ってくれる度に、凄く幸せで、嬉しくなった。

合唱

妹の不登校が半年ほど続いた日、合唱祭のお知らせプリントが届いた。
妹は昔から歌う事が大好きで、それを知っている担任が、合唱祭をきっかけに登校出来るように、と気にかけてくれての事だった。
母ちゃんは、「行きたくなきゃ行かなければいい」と言った。
兄は、「ちゃんと学校行かなきゃ、クズ子みたいになるぞ」と冗談めかしに言った。
私は、何も言わなかった。
妹は今更行けない、との一点ばりで、「行きなさい」という兄の前でじっと黙っていた。

ある日母ちゃんが風呂上がりに突然歌い始めた。
何かと思ったら、会社で合唱部を立ち上げたと言ってた。
妹意識なのは丸わかりだけど、幼い妹は、家で一人合唱の練習をする母ちゃんを見て、目をきらきらさせてた。やっぱり歌が好きらしい。
母ちゃんが妹に、「一緒に歌う?」と聞くと、妹は頭をぶんぶん振って頷き、母ちゃんと一緒に歌ってた。
曲はシラネ。
なんか、ふんふんふーん、みたいな曲。
妹は歌がうまい訳じゃない。ただ、歌うのは好きなんだろうなぁと、そう伝わってくるようだった。
母ちゃんは、妹が歌う度に松村邦弘ばりに手を叩いて、妹を褒めた。
「すっごおおおおおおおおおおおおおおおい」
「いやぁーーーうちの歌姫だね」
「TKプロデュースでデビュー出来るんじゃない?」
小室哲也を知らない妹は首をかしげていたけど、それでも母ちゃんに褒められて嬉しそうだった。
こんなに上手なら、もっともっと多くの人に聞いてもらえたらいいなぁ、と母ちゃんが言って、自慢の娘をもっと自慢したいと言った。
それを聞いて、妹は泣きだした。
「学校いかないから、いい子じゃない」
「○○(妹)は自慢できる子じゃない」

母ちゃんの凄い所は、子供の良さを最大限に引き出すことだと思う。
母ちゃんは決して、子供の人格を否定しない。この時だってそうだった。
「生きてご飯食べてうんこしてくれていれば、それだけで自慢出来るよ」
あ、何か文字に起こすと何でもない言葉なんだけど、その時の母ちゃんは凄い説得力があるというか、素直に、「あぁ、そうなんだぁ」って思える言葉を使っていたと思う。
だって現に、それを聞いて妹はすぐ泣きやんで、しっかり頷いていたし、学校に行ったらもっと自慢になる? と聞いてた。
「行っても行かなくてもどっちでもいいよ」と母ちゃんは言って、そこまで見届けてから、自分はまた遊びに出かけた。

翌日の朝、妹がランドセルを背負っていた。
朝兄にたたき起こされて、何だと思ったら、黄色い帽子に赤いランドセルを背負った妹が、名札を探してた。
学校へ行くの? と聞いたら、小学生はみんな学校行くでしょと普通に返されて、びっくりした。
玄関前で何度かえずいていた妹。母ちゃんに「無理しなくてもいい」と言われたのに、「絶対大丈夫」といって、9歳の小さい妹は、見事にマンションの通学班へ混じりにいった。

子供は凄い、と思った。
兄と母ちゃんと私で、通学班の班長さんに「よろしくお願いします」と言ったんだけど、何の疑いもなく、というか、何の違和感もなく、突然混ざった妹とみんなで仲良く話し始めたからね。
これ、高学年だらけの班だったらまた変わってただろうけど、低学年の多い通学班だったから、それが良かったのかもしれない。

妹を見送った母ちゃんは目をうるうるさせて、仕事へ行き。兄もバイトへ出かける。
今まで妹と二人だった家で突然一人になり、なんだか物悲しさを感じた。

仕事

どこへ遊びに行ってるって、別にどこか特別な場所とかじゃなくて、普通だよ。
中学時代の先輩の家とか。特に面白い事なんもないよ。
普通にDQNな感じを想像そてくれればいい。

私は何をしてるんだろう、と思った。
なんか、妹が更生……といったら変だけど、あんなに小さいのに頑張って不登校を克服してるのに、私はいまだにニートだし。
楽しみなんてないし、兄に小遣いせびって遊ぶ日々。
屑人生だな、と。この時初めて実感して泣いたんだよ。

オヤジに似てると誰かも言ってたけど、間違いなくそうだな。
妹と兄は母ちゃん似。私はオヤジ似。

家出しなきゃいけないのは妹じゃなくて私だったんだなーと思って、なんか無償に悲しくなった。
悲しくなったらお腹すいたので、飯を買いに出かけた。
今朝は妹を送り出して母ちゃんがご飯作る時間なかったからな。

近所の某ドラ○もんがキャラクターの寿司屋さんに行ったら、当然だけどみんな働いてた。
レジ売ったり、寿司握ったりしてた。
なんか恥ずかしくなったから、寿司買わずに店を出た。

次いでスーパーに出かけたら、やっぱりみんな働いてた。
ここでも恥ずかしくなった。

ぶらぶら歩いてたら、母ちゃんの会社(てか工場)の近くまで来た。
時計みたらもうすぐ母ちゃんの休憩時間だったから、ついでに一緒にご飯食べようと思って会社を覗いた。

母ちゃんも働いてた。当然だけどさ。

工場と隣接するように事務室があるんだけど、20人くらいの人がばたばた働いてて、なんか場違いな気がした。いや、場違いなのは間違いないが。

自分を見つけた母ちゃんは驚いた顔をして、「ここは会社だから勝手に入ってくるな」と静かに自分を咎めた。
また恥ずかしくなった。

もうすぐ休憩だから一緒にご飯食べようと言ったら、母ちゃんは「美味しいラーメンおごってあげる」と言ってくれた。
会社の近くに、美味しいラーメン屋があるらしい。

事務室の外で母ちゃんの休憩を待っていたら、12時少し回った所で母ちゃんが出てきた。
母ちゃんが出てきたと同時に、たくさんの人が出てきた。
その人達はみんな、母ちゃん目当てだとすぐ分かった。

こぞって母ちゃんに話しかけるみんな。
ご飯に母ちゃんを誘うみんな。
自分の母ちゃんなのに、何だか盗られた気になって腹がたった。

母ちゃんは、みんなに自分を紹介してくれた。
「自慢の娘でーす」とか言って、「うちのコックさん」と紹介してくれた。
どうやら母ちゃんは、私が夕食を作っている事をまた社報で書いたらしく、みんなは「あぁ、あの子ですか」とすぐ分かったようだった。

「クズ子の作る料理は世界一なのよ」
そう口火を切って母ちゃんは私を同僚に見せびらかすように褒めちぎり始めた。
中には親ばかぶりに呆れた顔をしてた人もいたし、なんかこの時は、褒められて嬉しいというよりも「恥ずかしい」の意識の方が特に強かった。

ラーメン屋でも、やっぱりみんな働いてて、私は小さく小さくなりながらラーメンを食べた。
ラーメン屋の隅にアルバイト募集のチラシが貼ってあって、自給が750円と書いてあった。
その日私が食べたチャーシューメンと同じ金額。
私が黙って食べたこのチャーシューメンは、このお店で一時間働かなきゃ食べられない物なんだと、そんな当たり前の事を改めて痛感した。

その日帰ってから、母ちゃんに話した。
今日は一日何だか恥ずかしかった。妹は頑張ってるのに、私は何してるんだろうと思った。
外に出て改めて周兄りをみたら、みんな働いてた。それが恥ずかしかった。
支離滅裂な言葉をつらつら並べる私に、勉強しなきゃいけないであろう母ちゃんなのに、じっと黙って話を聞いてくれた。
その日妹は、合唱祭の楽譜を持ち帰ってきて、楽しそうに練習していた。

私は、もう消えてしまいたいと思った。
働けよ、と今なら思う。だけど、じゃあ働こうって思考がなかったんんだよね、当時。

目標がない、と言った自分に、母ちゃんは少し悩んで、じゃあ今何が一番したい? と聞いた。
ちょっと考えて、「恥ずかしくない毎日がほしい」と、思った事をそのまま言った。

そしたら母ちゃんは、じゃあまず、家の事から始めようと言って、こんな提案をしてくれた。

夕食だけ作ってた今だけど、昼食も作ってみる。昼食作りに慣れたら、朝食も作ってみる。
「そんな事、普通じゃん。別に偉くもなんともないし、それで恥ずかしくない毎日が送れるとは思えない」と言ったら、母ちゃんは怒った顔をした。

やろうと思った事をやりとげる、それが自信につながっていくんだから、結果立派なんだ。
昼食作りが普通? じゃあアンタは何でその普通が出来ないの? 

あぁ、もっともだと思った。

自分で普通だと思ってる事が出来ない。出来ないんじゃなくて、やらないだけ。
やらないから、自信がなくなってく。
でも、普通だ、という意識があるのであれば、絶対出来るはず。
自信を取り戻すためにもやってみろ、とか。なんかそんな事を言ってたと思う。

とりあえず、母ちゃんの勉強の邪魔しちゃいけないし、そこで「分かった」と言って、部屋に戻った。
その日は、なんか遊びにいく気分じゃなくて、ずっと部屋でごろごろしてたと思う。

次の日から、昼食を作ってみた。
自分一人だからごく簡単な物だったと思うけど、(何作ったか覚えてない)でも、作ってみた。
あぁ、出来た。と思った。

帰ってきた母ちゃんに、昼飯作ってみた、と言ったら、呼吸困難に陥るくらいめちゃくちゃに抱きしめられた。
たかが昼食を作っただけなのに、大げさな、と思ったけど、単純に嬉しかったと思う。

兄と妹にも褒められた。
「やれば出来るじゃん!」「お姉ちゃんすごーい」とかいって、ぱちぱち手を叩かれたと思う。
何だか気分が良くなったので、明日も作ろうと思った。

昼食を自分で作り始めて数週間。
妹の合唱祭の日が近づいてきたので、弁当を作ってやろうと思った。
その頃は朝起きれたら朝食も作るようになってたし、ついでだからと思って。

「お姉ちゃんがお弁当作ってあげるよ」と言ったら、妹は100点の笑顔で、おかずのリクエストをくれた。
からあげが食べたいと言われたが、実は揚げ物が苦手だった私は、妹のリクエストのために毎晩ひそかに練習をしていた。
練習したからあげを食べる役目は兄だった。
毎晩毎晩からあげを与えたせいで、この時ばかりは兄の体重が3キロ増えたらしい。

合唱祭当日、朝6時に起きようと思ったが、何だか興奮して眠れなかったので結局4時に起きて弁当を作り始めた。
朝6時。ばっちりからあげも美味しそうに揚がり、ちゃんとりんごもうさぎに出来た私は、なんか緊張して、リビングで弁当を前に正座してみんなが起きるのを待った。

弁当と一緒に正座してる私を見て、母ちゃんは「何してんの?」と笑ってたけど、なんか、ひとつの作品を作り終えた芸術家みたいな気分で、誇らしかった。

妹に弁当を渡したら嬉しそうに笑ってくれた。なんか、私も嬉しくなった。
宝物みたいに弁当箱かかえて出かけた妹を見送ってから、やたらエネルギーがわいたと思う。
よし! 自分はやれる! みたいな感じ。
自信がつくってこういう事をいうんだろうと思った。

木の棒

母ちゃんがずっと取ろうとしてたISOとかいうのは、とにかくとるのが大変らしい。
よく分かってなかったので母ちゃんに聞いたら、中小企業がこれを取得すると色々お得なんだと母ちゃんが言ってた。
ポイントカードみたいなもん? と聞いたら大笑いしながら「そうそう」と言ってたので、今でもISO=ポイントカードだと認識してる。

山のような資料と、研修の毎日。でも家事もこなす。
この頃になってやっと、母ちゃんの体が心配になってきた。
だって明らかにガリガリだし、いつ見てもリビングで勉強してるし、でも寝坊なんかした事ないし。
もしかしたら24時間寝てないのかもしれないと本気で思った。

母ちゃんは絶対に弱音を吐かないし、いつだって元気な母ちゃんてイメージしかない。
今でもそうだけど。
だけど一度、母ちゃんが泣いてるのを見たことがある。
夜中に、オヤジの写真見ながらめそめそ泣いてた。
母ちゃんはオヤジが大好きだったからな、離婚してからも、週に一度はオヤジに電話してたし、飯とか作って届けてたみたいだった。

オヤジは家から数十分のアパートへ引っ越してたんだけど、実はそのアパートへの引っ越し代も母ちゃんが全部出したらしい。
オヤジは身寄りがいないから、母ちゃんは放っておけなかったんだと思う。

母ちゃんは今でも、世界で一番オヤジが好きだ! という。
借金してたのに、家族を壊したのはオヤジなのに、と言ったら、離婚してたってなんだって、両親が仲良しなのは子供にとって一番の幸せなんだと母ちゃんは言ってた。
でも893が危ないから今だけ離れて暮らしてるだけで、今でもオヤジは最愛の夫だと言ってた。
母ちゃんは強いなぁと思ったけど、夜中に一人で泣いてる姿を見て、母ちゃんはそこまで強い人間じゃないんだなと当たり前の事を改めて実感した。

だからその日、母ちゃんの弁当を作ってあげた。
母ちゃんは目ん玉飛び出しそうになりながら喜んでくれて、弁当の写真を何枚も撮ってた。恥ずかしい人だ。
母ちゃんに弁当を持たせると、母ちゃんの腕が木の棒みたいになっててびっくりした。
「ちゃんと寝てる?」と聞いたら、「寝るよりも出世したい」と言った母ちゃん。
「母ちゃん、ISO取れたら昇進出来るんだ」といって、疲れよりも先に目の前に見える昇進という光に対する楽しみの方が上だといってた。

課長の次は何になるんだろうと思って兄に聞いたら、「部長になるんだろ」と言ってた。
母ちゃんついに部長かよ……と思って、単純に凄いなぁと思ったけど、それりもあの棒っきれのような腕が気になった。

その日は風が強かったのか強くなかったのかぶっちゃけ覚えてないけど、でもなんか、ふと頭に風でびゅーーーーんと母ちゃんが飛ばされちゃうイメージが浮かんで怖くなった。
こりゃやばいなと思って、なるべく母ちゃんはベランダには出しちゃいけないとも思った。
なので、その日の洗濯物を始めて取り込んでみた。
取り込んだついでに畳んでみた。
そんで夕飯を作ったら、あっという間に時間が過ぎていた。
家事は大変だと思った。

夕食ついでに母ちゃんにプリンを作ってみた。
太らせようと思った。風で飛ばされないように、もっと太らせたいと思ったから、夕食も揚げ物にした。

帰ってきた母ちゃんに、「洗濯物取り込んであるし、冷蔵庫にプリン入ってるよ」と言ったら、子供みたいに万歳して喜んでいた。
その日もめちゃくちゃ褒めてもらった。
というか私、母ちゃんに褒められた記憶しかないな。

ある日母ちゃんに、何でそこまで頑張るの? と聞いたら、母ちゃんは「あんたも子供を産めばわかるよ」とだけ言ってた。
例えばそこに水があって、ここは砂漠で、この水を飲まなきゃ死んでしまう。
でも水はひとつしかない。
そんな時、母ちゃんという生き物は迷わず子供へその水を差しだすんだと。
男脳、女脳とかあるけど、母ちゃん脳という物があるんだろうなと思う。

母ちゃんは男でも女でもなく、母ちゃん、という生き物だと思うんだ。

「今日はクズ子が家事をしてくれたから大助かりだった」
「母ちゃん今日は世界一幸せかも」

たかが洗濯と飯作っただけなのに、母ちゃんは100万もらったように喜んでた。
家事をすれば母ちゃんは喜ぶんんだなと思った私は、次の日も同じ事をした。
今度は風呂も沸かしてみた。
そんで次は部屋の掃除もしてみた。

ニートから、家事手伝いに昇格した、と思いたい。

ある日母ちゃんに年収を聞いたら、ナイショと言ってたけど、実は兄からの支援を断ってる現場を見てしまった私は、もう兄からの援助がなくても家賃13万の家で生活できるだけの生活費を稼げているんだろうと思った。

それもそのはずだ。
母ちゃんがめちゃくちゃ高給取りになったわけじゃなくて、母ちゃんは自分の物なんか一切買わない。
子供にはお金は使うけど、自分には一切使わない。
たくさん貯金をして、子供3人分の預金も作ってるみたいだった。
私は、私名義の預金があるならちょうだいよ、と思ってた。

兄から小遣いもせびり辛くなってたし、母ちゃんからはなんかお金もらいにくい。
とにかくお金がなくて、一瞬悪い事を考えたりもした。
悪い事しようかなと思う度、母ちゃんの顔が浮かんで出来なかったけど。
働けばいいんだけど、その頃にんあると外の世界が怖くて嫌だった。
だって中卒だし、何の取り柄もないし、昼夜逆転生活だし。
身分証明書もないし、年齢的に夜の仕事も出来ない。
なんか意味もなく死のうかな、とか思ってた。

母ちゃんにそれをボヤいたら、母ちゃんは求人誌を山ほど買ってきてくれた。
ぶっちゃけ、求人誌の見方が分からなくて、読む気なんかなかったけど、研修用の資料を片手に自分の職探しのように「この職場は自給がいくらで、この待遇っていうのはこういう意味で?」と
ひたすら教えてくれる母ちゃんを前に、「もういいやめんどくさいし」という本音を言う事は出来なかった。

しかし母ちゃんというのはエスパーな生き物で、私が求人誌に興味なしな事を察すると、すぐに求人誌をしまった。
「よし! 母ちゃんが仕事あげる!!」と言って、ご機嫌にどこかへ電話をかけていた。

その日の夜に、母ちゃんのISO取得が上手くいかなかった事を知った。
駄目ならまた次ってわけにもいかないみたいで、なんか年に数回しかないらしい。
次、はめちゃくちゃ遠いんだと言ってた。

あれだけ勉強してても駄目なんて、ISOはずいぶん手ごわいらしい。

でも母ちゃんは全然へこんだ様子じゃなかった。
「そりゃショックだけど、仕方ないじゃん」みたいな。
逆に次までの時間が長いからもっともっと勉強できる! とかいって、うきうきしてたし。

妹は母ちゃんの頭をよしよし撫でてた。
母ちゃんは泣きまねをしていた。
「よし! また頑張ろう!」といって、また勉強を始めた。
母ちゃんのエネルギーはどこから出てるんだろうと思った。

それからまたしばらくして、母ちゃんは私に「バザーのお知らせ」みたいなのをよこしてきた。
これで物を売れば金になるよ! と言ってた。
母ちゃんがくれると言ってた仕事はこれだったらしい。

だけど、ニートに売れるような代物はない。
何を売るの? と聞いたら、「あんたお菓子得意なんだからお菓子売りなよ」と言った。
バザーで素人が作ったお菓子なんか売れねーよと思ったけど、母ちゃんがやたら張り切っているのでとりあえず生返事だけを返しておいた。

バザーのお知らせを見て、びっくりしたのがバザー主催会場は母ちゃんの会社の工場敷地内だった事。
当然、主催も母ちゃんの会社だ。
母ちゃんの会社、社内バザーなんかやってたっけ? と思ってすぐに聞いたら、「今年からやる事になった」と言ってた。
多分、私のために企画してくれたんだと思う。

娘のために会社巻き込んでバザーを開いちゃう母ちゃんなんか、世界中で私の母ちゃんとあと数人くらいしかいないと思う。
うちの母ちゃんだけ、とは敢えて言わない。

企業主催だから、素人の料理だっておいても安心でしょ! とかいう訳分からない母ちゃんの持論。
保健所とか、色々大丈夫なんだろうかと思ったけど、簡単な市の許可さえあれば大丈夫らしい。
「社報にもあんたのお菓子は美味しいって書きまくってるから、絶対繁盛するわよ」といって、私よりも楽しそうな母ちゃん。
最悪売れ残ったら母ちゃんが全部買いとってあげると言ってくれて、100円でも稼げればマシか、どうせ材料費は兄のお金から出すしな、と思った私は、バザーに出る事をオーケーした。

バザー

まぁ、そんなこんなで母ちゃんが企画してくれたバザーなんだけどさ。
素人が食品なんか売っていいのか? と思ったけど、市でちょっと許可もらえばいいらしい。
どうせ兄から材料費せびるつもりだったし、私に損はないのでやってみようと思った。

兄に、「はじめて自分でお金を稼いでみたい」と言ったら、兄は涙ぐみながら1万円くれた。
お釣りはいらないと言って、あたらしいエプロンも買っていいよと言って更に5000円くれた。
材料なんか全部100均で買うつもりだったから、これだけで1万円以上は浮くなと思って私はうきうきした。

プリンは生もの過ぎてさすがに怖かったので、無難にクッキーを作ろうと思った。
クッキーなら簡単だし、腹壊される心配もないしね。
あと、市からの要請で何度以上の熱が通った物しか売っちゃいけないっていう規制もあったから。

クッキー作りは楽しかった。
母ちゃんは、またISOの勉強をしながら毎晩クッキーを作ってる私を、やたら嬉しそうに見てた。
5枚入ったクッキーを、ひとつ100円で売ろうと思ってた私は、50個売ったら5000円の儲けになると思って、お金を稼ぐのなんか簡単じゃんと思った。

バザー当日、朝起きたら、母ちゃんが私にネコの絵がついたエプロンをくれた。
妹が家庭実習で作ったやつだといってた。
「お姉ちゃんはお料理するからエプロンをあげたい」といって、リュックサックかエプロンかどっちかを作らなきゃいけない家庭実習で、妹はエプロンを選択したらしい。ずいぶん前に出来あがってたらしいが、バザー当日に母ちゃんから渡してほしいと妹から言われていたらしい。

可愛い妹のエプロンは嬉しかったけど、それよりも早く5000円稼ぎたい気持ちでいっぱいで、なぁなぁに妹へお礼を言ったと思う。

母ちゃんと一緒にバザー会場、母ちゃんの勤務先へ行く間。
母ちゃんは「そのクッキーいくらで売るの?」と聞かれた。
「5枚で100円」と答えたら、母ちゃんが大笑いしながら「100円は高いなぁ」と言った。
「じゃあいくらならいい?」
「10円ならいいんじゃない?」
10円? 何言ってんの? 馬鹿じゃない? 材料費だけで赤字じゃん、と思って、この時の母ちゃんの言葉は無視した。
だって、5枚入りを50個しか持ってきてないのに。
10円なんかで売ったら、全部売っても500円にしかならない。
500円なんか、兄の貯金箱からくすねればいつでも手に入る金額だ。

クズクズ言ってるやつら、この程度でクズなんて言ってたらこれからが読めないぞ

結局、母ちゃんの忠告を無視して「5枚入り100円」と書いた段ボールの看板を出した私。
所詮は地元企業のバザーといった所で、来る人来る人ほとんど社員とか、パートのおばちゃんばっかり。
外部からのお客さんはほとんどいないように見えた。

一応、会社で熱い人望があるらしい母ちゃんの娘。
クッキーを棚に並べていたら、ぞろぞろおばちゃん達がやってきた。
ばんばん売れていくクッキー。ほら、やっぱり5枚で100円でも問題なかったじゃん、と思いながら、大した愛想もふりまかず、100円もらったら袋を渡す、という作業を延々繰り返した。
確か10個くらい売れた所で、小さい女の子が来た。
花の形に抜いてあるクッキーを見て、ほしそうにしてた。
「100円だよ」と言ったら、女の子はきょろきょろ周りを見渡し始めた。
多分、母親を探してるんだろうと思った。

きっと、パートのおばちゃんの子供だろう。
年は妹よりも下だな、と。色々考えてたら、女の子はぶるぶるドックの絵柄がついた財布を取り出して、中を覗き込み始めた。

たぶん100円がなかったんだろう、と瞬時に分かった。
だって、ずっしり首を落として、分かりやすくうなだれていたから。
なんか、その姿が妹と重なって見えた。
あの日、家出をして、大きなリュックを背負って帰ってきた妹にちょっと似てると思った。

「いくらならあるの?」無愛想に聞いたら、女の子は財布ごと私へ手渡してきた。中を見たら、500円玉がひとつと、10円が数枚入ってたと思う。

なんだ500円持ってるじゃんと思って、500円玉を拾い上げて「これもらって、400円お釣り返すから」と言ったら、女の子は「それは駄目だ」と言った。
「なんで?」
「誕生日に、お母さんへハンカチを買ってあげるお金だから」
こづかいを貯めて、母親にハンカチをプレゼントしようとしてるらしい女の子。
可愛いなぁと思いながら、それでも、100円は100円。
こっちは5000円のために今日まできた訳だし、子供相手でも値切る事は出来ない。

「じゃあ買えないね、ばいばい」と言ったら、女の子はまたしょんぼりと肩を落とした。
だって、食べたいと思った惣菜があって、その惣菜は300円で、でも自分の手持ちは200円。どうやったって買えないじゃん。「っでも食べたい!」って思ったら、盗む事になるじゃん。
とか、そんな事を本気で考えてた私は、買わないだろう女の子を手で追い払って、「欲しけりゃ100円持ってきな」と言った。

泣きだしそうな女の子は、しょんぼりしたまま私のそばを離れて、また母親を探しているようだった。
可哀想とは微塵も思わなかった。

結局、50個のクッキーはあっという間に完売。いや、正確には49個完売。
ひとつ落としてしまって割れちゃったから、これは妹の土産にするか、と思ってあきらめた。ラッピングに土ついてたし。
今日私は、4900円稼いだ。兄からもらったお金を合わせると、多分2万円くらいはある。
これでまた当分ニートが出来ると思って安心した私は、うきうきしながら店じまいした。

バザーの終了を待たずにして、クッキーを完売させた私は、もうここには用はないと思って母ちゃんに「帰る」と言った。
母ちゃんは完売した事を喜んでいたようだったけど、私は、そんな母ちゃんよりも母ちゃんのそばにいる女の子の方に目がいってしまって、それどころじゃなかった。
あの、ぶるぶるドッグの財布を持った女の子。
母ちゃんのそばにぴったりと寄り添って、私をじろじろ睨んでいるようだった。

睨まれたら睨み返す。DQNの作法に年齢は関係ない。
私よりも10歳以上小さいであろうその女の子を存分ににらみ返した。
もう関わるのがいやだったので、やんやうるさい母ちゃんを無視して帰ろうとした時、女の子が「あのお姉ちゃん、私を睨んだ」と言って母ちゃんにすがりついて泣き始めた。
うざい子供だった。

普段は優しい母ちゃんも、子供を泣かせると怖い。
めちゃくちゃ怒られて、「なんで睨んだりするんだ」と怒鳴られた。
「睨まれたまら睨み返しただけ」と言ったら、「世の中、睨まれて睨み返していいのは893だけだ」と母ちゃんは言った。

私は何も悪い事をしてないのに、なんで怒られなきゃいけないのかよく分からなかった。
分からないし、分かりたくもなかったのでさっさと母ちゃんから背を向けた。
こんなクソガキにかまっているよりも、早く遊びに行きたかったからだ。

クソガキは、私の後をちょこちょこ付いてきた。
ほんとウザイ。なんてウザイんだろう。「睨んでごめん」とか言えばまだマシだけど、黙ってついてくる所がますますウザイ。
しばらくついてくるので、しびれを切らせた私は、「なんかよう?」と聞いた。
クソガキは、さっきまでのふるふるおびえているガキではなく、すました顔をしてた。
今思い出してもむかつく。

「クッキーちょうだい」
「はぁ?」
「クッキーちょうだい」
右手を差し出したままじたばた足を踏み始めたクソガキ。
いや、言い訳じゃないが、もっと可愛くクッキーをおねだりされていたら、多分あげてたよ、多分ね。

「じゃあ100円」と言ったら、「お姉ちゃん学校いってないんでしょ?」と言われた。
100円を支払えという事と、学校に行かない事と何の関係があるか分からなくて首を傾げた私。
「学校行かないで何してるの?」
もっともな質問だけど、クソガキに言われると無性に腹が立つ。
「学校行かないと悪い人になるんだよ」
「それとも、悪い人だから学校行けなくされたの?」
近くに流れている綾瀬川に、このクソガキを沈めてやるかどうしようか本気で悩んだ。

むかむかして、気づいたら、自分が泣いている事に気付いた。
無意識に泣いたのはこれが初めて。
なんでこんなクソガキにこんな事言われなきゃいけないのか分からないし、私は何も悪いことしてないのに、何でこんな事言われなきゃいけないのかさっぱり分からない。
クッキークッキーうるさいクソガキに、土がついた袋の、割れたクッキーを投げつけて帰った。
別にそのクッキーをクソガキにあげようと思ったわけじゃなくて、ただ、そのガキに痛い思いをさせたかっただけ。

帰ってからわんわん泣いて、多分6歳くらいのガキに私の何が分かるんだと思った。
まぁあれですね、悲劇のヒロインっていうか、可哀想わたし、みたいにわんわん泣いてたんだと思う。
一体私のどこが可哀想なのか当時の自分に聞いてみたいけど、まぁゴミみたいな人間だったからな。ゴミなりのプライドがあったらしい。

分からない

ゴミのプライドは馬鹿に出来ない。
もう、めちゃくちゃに腹が立った私は、「じゃあ学校行くもん!」と、自ら定時制高校を探した。
定時制高校は腐るほどあったけど、どこも学費が高い。
なぜか、学費だけは母ちゃんや兄の世話になりたくないと思ってた私は、今自分が持っているお金、2万くらいで行ける高校を本気で探していた。
もちろんない。そんな高校あれば今でも行きたい。

半ばパニックになった私は、それからしばらくひきこもった。多分数カ月くらい。
飯を作る事もやめたし、家事をする事もやめた。
一日中ベッドで、その日が終わるのを待つ生活を続けた。
多分ここが、私の人生の山だと思う。
ひきこもり時代の記憶はほとんどないけど、飯とか全くに近いほど食べてなかったと思う。

毎日ゴロゴロしながら、学校へ行ってる自分を想像して想像するだけで満足していた。
ニートが求人誌を見るだけで満足するようなもんだろう。
想像するだけで自分も高校生になった気がして嬉しかった。
母ちゃんは、家事をしなくなった私を毎日叱った。
怒られるというより、諭されている感じだった。
「今まで頑張ってきた、今までのクズ子に謝れ!」とか、なんかそんな事を言われた気がする。
半分以上聞いてなかったから覚えてない。

妹のおむつが、いつのまにか外れていた。
もう漏らさなくなったと言ってた。また私はとりのこされたと思った。
なんかこの辺りの自分は書いてても笑えてくるくらいの悲劇のヒロインっぷりだな、ちょっと書きながら笑えてきた。

まぁそんなこんなで、自分は6歳くらいのクソガキに言われた一言で自信を失い、更にどんどん成長する妹にも劣等感を感じてたわけだ。
朝目が覚めなきゃいいのにとか本気で考えてた記憶もある。

風呂とか入るのもめんどくさくて、ほとんど入ってなかったし、稼いだ金もあっというまになくなった。何に使ったか全然覚えてない。
多分通販で何か買ったんだろう。
また金がなくなった私は、妹のお年玉入れに手をつけた。バレないだろうと本気で思ってた。
あと、兄の貯金箱からも金を盗んだ。母ちゃんの財布にだけは唯一手をつけなかったけど。
貯金箱から金がなくなった事に気付いた兄は、夜中に私の部屋へ入ってきて、ぶん殴ってきた。なんかむかついた。

兄は、自分の金がなくなった事よりも「人のものを盗った」事に怒っていたらしい。
まあ当然よね。
「お前が大切にしてる物がなくなったらどう思う?」と聞かれたけど、別に大切なものなんかなかったし、「なんとも思わない」と答えた。
「人の物を盗るって犯罪なんだぞ? 分かってるのか?」と聞かれたので、「分かってる」と答えたと思う。
なんか兄は、一生懸命私を叱りながら諭してくれたけど、全く自分の意思が伝わっていない事に驚愕したのか、そのうち悲しそうな顔をしだした。
「なんでそうなっちゃったんだよ」と聞かれたので、これにも「分からない」と答えたと思う。
その時、兄が泣いてるのを、久々に見た。

その日から兄は、家に帰ってこなくなった。
多分当時付き合ってる彼女の家にいたんだと思う。
妹とかちょくちょく会ってたらしいけど、私の顔が見たくなかったんだと思う。
兄は、母ちゃんに私が金を盗んだ事は言わなかったらしい。
母ちゃんからは何も言われなかったから。

ある日、母ちゃんにリビングへ呼ばれた。
母ちゃんは私に小さい包みをくれた。可愛いラッピングの、なんか小さい包みだった。
それと一緒に、手紙をくれた。手紙には、「○○小学校なんねんなんくみ」みたいな、小学校の提出プリントに書くような名前が書かれていたと思う。
「何これ」と聞いたら、「バザーであった○○ちゃん、覚えてないの?」と言われた。
人の名前なんか覚えられないので、全力で首を傾げた。
母ちゃんの説明を聞いて、あのクソガキの事かと思いだした。
「あんた、○ちゃんにクッキーあげたんでしょ? それのお礼だって」と言われたので、「あげたんじゃないよ、ぶつけたんだよ」と嫌そうに言ったら、母ちゃんにめちゃくちゃ怒られた。
包をぐちゃぐちゃに破いてあけたら、ハンカチが入ってたと思う。いや、キーホルダーかな? あら、思いだせない。
とりあえず、そのお礼の品はあまり私好みじゃなかったので、妹にあげようと思った。
一緒にもらった手紙も封もびりびりに破いて読んだら、「はやくがっこういけるといいね」とか書いてあったと思う。
その下に、大きなピンクのマジックで、「クッキーおいしかった、はなまる」と書かれてた。
クソガキから、16歳にして花丸をもらえた私。あんまり嬉しくなかった。

母ちゃんから、「○ちゃんはあんたの作ったクッキー美味しい美味しいって食べてたわよ」と言われた。
ふーん、としか思わなかった。
手紙なんか取っておいても仕方ないので、すぐゴミ箱に捨てた。

少し前までは、自分の料理を食べて喜んでくれる妹を見て嬉しかったのになぁと思った。
今は、全然嬉しくない自分にちょっと驚いた。
母ちゃんはそんな私を見て、兄と同じように少し驚いた顔をしてた。「あんた具合でも悪いの?」と聞かれた。
健康すぎる体なので、「大丈夫」と答えたけど、母ちゃんは心配そうにしてた。

プレゼント

それからまたしばらくして、家に母ちゃんのパート先の人がたくさん来た。
普段家に客なんか入れないのにと思ってたけど、どうやらおばちゃん達とみんなで勉強会をするらしい。

わらわら家に人が入ってくる音がして、嫌だった。人の足音だけでも気分が悪くなってたからな。
おばちゃんの声と、あと何人か子供の声が聞こえた。おばちゃん達の子供だろう。
クソガキのせいで、妹以外の子供が大嫌いになっていた私は、地震か何かが起きて全員帰ればいいのにと思ってた。

イライラしながら部屋にいたら、母ちゃんに呼ばれた。
勉強会するから、子供達と遊んであげてほしいと言われた。
「絶対嫌だ」と言ったら、母ちゃんは少し考えてから「子もり代あげるよ」と言った。
私はすぐにOKした。

パートのおばちゃんどもの子供は全部で3人だか4人くらい。
もちろんというか、想像通りというか、その中にクソガキもいた。
パートのおばちゃんたちは「悪いわねぇ」とか言ってたけど、悪いと思うなら連れてくるなよ、とも思った。

クソガキは私をみて「この前のプレゼント使ってる?」と聞いた。
前見た時よりも無邪気な顔をしてるというのが印象強いと思う。

子供は男の子と女の子半々くらい。
男の子は楽だ。だって、妹のゲームを貸し与えておけば勝手に遊んでくれるから。
めんどくさいのは女の子。「なんかあそんで」としか言わない。なんか遊んでってなんだよと思った。

そしたら、クソガキの母親らしい人が、「クソガキちゃん、お姉さんに聞きたい事あるんでしょ?」と口を挟んできた。
クソガキはもじもじしながら、「クッキー作りを教えてほしい」と言ってきた。
「めんどくさいから嫌だ」と思わず言いそうになったが、一応母親の手前、「時間がかかるからまた今度ね」と言っておいた。
だけど、さすがにクソガキだけある。なかなか引き下がらない。
しかも、エプロンまで持参していやがった。ぴちぴちぴっちのエプロンだったと思う。

作る気満々じゃねーかよ、と思ったら、母ちゃんが「恥ずかしがらないで“約束通り”作ってあげなさいよ」と言った。
クソガキと一緒にクッキー作るなんて話しらないぞ、と思ってたけど、すぐに母ちゃんのしわざだと気付いた。
多分母ちゃんが、「クソガキちゃん、うちのクズ子がクソガキちゃんにまたクッキー食べさせてあげたいって言ってわよ」とか何とか言ったんだろう。
だから無邪気な顔して私に飛びついてきたのか、このクソガキは、と思ったけど、なんか、エプロン握ってわくわくした目を見たら「NO」とは言えない雰囲気になり、一緒に作る事になった。

子供の相手は疲れる。しかも最近、家族とさえあまり会話していなかった私は、人と話す事がこんなに疲れるのかと驚愕したくらいだ。
分量を量れと言ってるのに、なんか違う事し始めるし、泡だて器なんかみんなで取り合い戦争だ。
「私は全然作業できない」とか言って泣き出す子までいるし、許されるなら全員穴へ放り込んでやりたいと思った。

やりたい放題のガキどもの中で、クソガキだけは一生懸命なんか紙にメモをとってた。
子供にしか読めないだろうミミズのような字で、真剣にクッキーを作るクソガキは、ちょっと可愛いと思った。

クッキーを焼いてる間、他のガキどもはバタバタ走り回っても後片付けなんかしないのに、クソガキだけは後片付けを手伝いながらじーっとオーブンを見てた。
よっぽどコイツはクッキーが好きなんだなと思った私のエプロンを、クソガキが引っ張って呼ぶ。
「なに?」と聞いたら、こっそり耳打ちするように、「お母さんの誕生日に、クッキー焼いてあげるの」と言った。
貯めてたお小遣いでハンカチと、クッキーを作ってプレゼントするんだと。
対して興味もなかったが、「これは内緒ね」と言ったクソガキが意外にも可愛い顔をしてたので、ちょっとだけ笑顔を返してあげた。

なんかよく分からないけど、クソガキは私によほどなついたらしい。
クッキーが焼きあがったときも、食べる時も、私の隣をくっついて離れようとしない。
人から好かれるのはそんなに悪い気分ではなかったので、単純に嬉しかったと思う。

男の子がゲームの対戦をしようと言ってきたので、一緒にやった。
ニートのゲーム力を存分に発揮したら、男の子から尊敬された。
めんどくせーと思ってたけど、子供と遊ぶのはそこそこ楽しいと思った。

勉強会が終わって、おばちゃんや子供たちが帰ったあと、なんか顔が痛い事に気付いた。
母ちゃんに「なんか顔が痛い」と言ったら、
母ちゃんはにやにやしながら「久々に笑ったからじゃない?」と言った。
多分、母ちゃんは確信犯だと思った。

みんなが帰ってから、ちょっと寂しいと思った。
久々に、妹とゲームをしたいなと思った。
その前に母ちゃんから今日の子もり代をもらわなきゃと思った。
もらえたお金は500円だった。

「500円なんか小学生じゃあるまいし、もっとちょうだい」と言ったら、「じゃあいくら欲しいの?」と聞かれた。
母ちゃんにはお金をせびりにくいので、金額が言いだせなかった。
なので、しぶしぶ500円で我慢した。

母ちゃんからもらった500円を持ってスーパーへ行った。
お菓子を買おうと思ったけど、ぴちぴちピッチのレターセットだかメモ帳だかを見かけた。
値段は覚えてない。300円くらいかな。
お菓子はクッキーがあまってるからいいか、と思って、私はぴちぴちピッチのレターセットを買った。
クソガキに、クッキーのレシピをこれで書いてやろうと思った。
あんなミミズみたいな字で書いたレシピじゃ、クソガキの母親が腹を壊すかもしれないと思ったからだ。
家に帰ってからレシピをつらつら書いて、母ちゃんに「クソガキに渡してくれ」と手紙を渡した。
母ちゃんはびっくりして、天変地異でもおこったような顔をしてた。

「このキャラクターの封筒、あんたが買ったの?」と聞かれたから、「さっき母ちゃんからもらったお金で買ってきた」と答えた。
久々に母ちゃんにめちゃくちゃ褒めてもらった。

「もったいないと思った?」と母ちゃんが言った。
せっかくもらったお金で、クソガキへあげるレターセットを買う事がもったいないと感じたのか聞いてるようだった。
そういえば、別にもったいないと感じなかったなと思ったので、そのまま答えた。
母ちゃんは、「母ちゃんが自分じゃなくて子供にお金使うのと同じだね」と言った。
誰かのために金を使って、それがもったいないと感じなければ、そこには愛があるらしい。これは母ちゃん持論。

「やだよ、あんなクソガキ。愛なんかないよ」と言ったら、母ちゃんはまたにやにやしてた。
珍しく、勉強会のあと会社へ戻らなくてもいいらしい母ちゃん。
平日に母ちゃんが家にいる事なんかほとんどなかったので、なんだか新鮮だった。

母ちゃんもいるし、妹とゲームもしたかったので、ふと思い立って久々にご飯を作ろうと思った。
どうせオーブンの掃除とかもしなきゃいけないし、キッチンに立つついでと思って。
キッチンへ立った私を見て、母ちゃんはまた地球が崩壊したような驚きぶりだったけど、なんか嬉しそうだった。

私が久々にキッチンに立って、一番喜んだのは妹だろう。
夕方遊んで帰ってくるなり、料理作ってる私をみて、妹は「お姉ちゃんのご飯が食べられるの?」と聞いてきた。
私の隣でずーっと料理を見てたし、「早く食べたいなー」とずっと言ってた。
あとでゲームしようねと言ったら、妹はくるくる回って「やったー」と喜んでいた。
なんか、これもまた久しぶりに心から妹が可愛いと思った。

それからまた少しずつ料理を作り始めた私は、前みたいに誰かに料理を食べてもらいたいという気持ちがちょっとずつ戻ってきていた。
妹も母ちゃんも、私の料理を世界一の料理みたいに褒めてくれるから嬉しいし。
あと、クソガキからまたお礼の手紙が母ちゃん伝いに来た。今度の手紙は捨てないで取っておいた。

またそれからしばらくして、クソガキから再び手紙がきた。
ウソガキと、クソガキの母親、二人で映った写真だった。クソガキの母親は、クッキーとハンカチを持ってた。
母親の誕生日に、ちゃんと私に言った通り、プレゼントとクッキーを作ったらしい。

クソガキの母親は顔をくしゃくしゃにした笑顔で写真の中にいた。
よほど嬉しかったんだろうなと思った。
そういえば、私は母ちゃんに何かあげた事ないなと思った。
そりゃ小さい頃や、まだ家が正常だった頃は、肩たたき券とかあげてたかもしれないけど。

またふと思い立って、母ちゃんに何かあげたいと思った。
本当、書きながら思うが、私は何を行動するのも全て思いつきで行動していると思う。

別に誕生日でも何でもないし、母の日とかそんな日でもないし、あげる理由も特にないけど、なんかあげたかった。
多分、クソガキに負けたくなかったのかもしれない。
なんか、やり遂げてるクソガキに対抗したかったというかなんというか。

相変わらずお金はないので、物は買えない。
もちろん金を稼ぐつもりもないので、金のかからない何か。
肩たたき券とかでいいかと思ったけど、もっと高級そうな物をあげたかった。
でも金はかけられない。
凄い矛盾。

母ちゃんに、「何か欲しいものある?」と聞いた。
母ちゃんは「家」と答えた。
家はさすがに無理だった。

「じゃあ今何が一番したい?」と聞いた。
「出世したい」と言われた。
出世もさすがに無理だ。

「じゃあ、100円以内で何か買うとしたら何買う?」と聞いた。
「貯金する」と言われた。
だんだんいらいらしてきた。

母ちゃんになんかプレゼントしたくても何も浮かばないので、諦めの早い私は「なんかめんどくさいしもういいか」と思った。
でも一応気持ちだけは伝えようと思って、「母ちゃんに何かあげようと思ってた」とは言った。
母ちゃんは「気持ちだけで十分だよ」とかそんな事を言ってと思う。

「でも強いて言うなら、プレゼントじゃなくてもいいから、またクズ子のプリンが食べたいな」と
母ちゃんが言ったので、すぐに作り始めた。
「今じゃなくてもいいのに」と言われたけど、思い立ったらすぐにやりたかったので、母ちゃんを無視してプリン作った。
母ちゃんは「美味い美味い」と大喜びで食べてくれて、どんぶりいっぱいのプリンを一人で食べてくれたと思う。

母ちゃんから愛されていないんじゃないか、と心配になった事は一度もない。
多分、兄も妹もないと思う。家事手伝いしているだけなのに、立派に小学生をしている妹と、ニートの私を比べて何かを言う事もなかったし、“子供3人は分け隔てなく”が子育てのモットーだったらしい母ちゃんは、兄妹間で何かを比べる事もなかった。

母ちゃんの愛情深さは、われわれ子供だけに注がれていた訳じゃない。オヤジもそうだ。
友達なんかいないオヤジは、何かあればすぐ母ちゃんを頼って連絡してきた。

私はオヤジをめちゃくちゃ恨んでいたので会うつもりはなかったが、妹はオヤジに会いたいようだった。
母ちゃんもそれはよく分かっていて、毎週毎週オヤジと妹を会わせるために妹をオヤジの所まで車で送っていってた。
ここまではよくある片親の生活なのかもしれないけど、
母ちゃんはそれとは別に、週に一度は必ずオヤジと二人きりで会っていたようだ。
オヤジが母ちゃんに金でもせびっているんじゃないか心配になったので、
母ちゃんに聞いたら、オヤジから金をせびられた事はないと言ってた。
本当かどうかは分からない。

じゃあ何でわざわざ毎週毎週別れた亭主と会う必要があるのか聞いたら、「だって母ちゃんとオヤジは愛し合っているんだから、デートくらいしてもいいでしょ」と言ってた。
あんなクズオヤジをまだ愛している母ちゃんは、男を見る目がないと子供心に思っていた。

役職

ある日、母ちゃんから「今日は夕食作らなくていい」という電話がかかってきた。
夕方、母ちゃんは社員の人とかパートのおばちゃんとか、結構な人数を家に連れて帰ってきた。狭くない家だったけど、かなりの人数(多分20人近くいた)だったので、一気にリビングが人くさくなった。
クソガキいないかな、と思って探したけど、この日はクソガキの母親は来てなかったので、いなかった。ちょっとがっかりした。

ケンタッキーとか、なんかそういうみんなでつまめるおかずを買ってきた母ちゃんは、段ボールでお酒を持ってきて、「今日はみんなで飲もう」と言ってた。
一体何のお祭りかと思ってたけど、どうやら、ずっと言ってたISOが取得できたらしい。
社員みんなでお祝いという訳だったようだ。

私は人がたくさんいて気分が悪かったので、部屋へ戻ってしまおうと思ってたけど、その場にいた全員が母ちゃんを褒めたたえるので、もう少し聞きたいと思ってその場にいた。
あるパートのおばちゃんは、「母ちゃんから教えてもらった漢方を飲んで腰痛が治った」と言った。
ある社員の兄ちゃんは、「母ちゃんのおかげで結婚出来た」と言った。
どうやら、アルバイトの女の子の仲を取り持ったんだろう。

またあるおっさんは、「母ちゃんのおかげで妻の料理がうまくなった。もう家に帰るのが苦じゃない」と言ってた。
母ちゃんは、しんけんゼミみたいな人だと思った。

母ちゃんは、朝誰よりも早く出勤して、会社のトイレを掃除して事務所も掃除して、事務仕事をしてたと思ったら、工場へ走って現場の手伝いもする。
また、缶工場なので大きな機械で指を落としてしまったりした社員の病院の付き添いまでして、昼休憩はおばちゃんや社員の悩み相談相手になっているんだと。

変なおっさんが「課長がいなきゃ会社が回らない」と言ってた。
あるおばちゃんが「やだな、今日から母ちゃんさんは部長ですよ」と言ってた。
忘れてたけど、そういえばISOが取得出来たら母ちゃんは部長に昇進出来るんだっけ、と思った。
今日から私は、部長の娘になったらしい。別に私は何もしてないけど、めちゃくちゃ誇らしかった。
母ちゃんは、どこにでもいるような普通のパートのおばちゃんだったのに。
今じゃこれだけの部下を引き連れる部長だ。
「母ちゃんは運がいいんですね」と言ったら、その場にた全員が「何言ってんのコイツ」って顔で私を見てきた。

「クズ子のお母さんは、30人分くらいの仕事をこなしながら、人の30倍努力したから部長になれたんだよ」と変なおっさんが言った。
製造業で女女性幹部というのはひどく毛嫌いされるらしく、袋叩きというか、実際、母ちゃんが課長に昇進した辺りで「女性が取り仕切っている職場なら、おたくは大した仕事も出来ないんだろ」とか言って、まとまりかけてた仕事を取引先がキャンセルしてきた事なんかもあったらしい。
母ちゃんは会社の愚痴なんかこぼした事がなかったから、そんな事全然知らなかった。

母ちゃんの会社は、事務と一口にいっても、大手会社やそこそこ大きい中小企業のように、「営業課」とか「総務課」とかに分かれていない。
もちろんそれぞれ専門で稼働している事務員はいるんだけど、営業も総務も全部まとめて取り仕切っているのが母ちゃんだから、もし伝票不備があれば銀行に走りに行くのも母ちゃんだし、営業先でトラブルがあれば頭を下げに行くのも母ちゃん。
一体母ちゃんはいつ休んでるんだろうというのが、会社の七不思議に入っているらしい。
その七不思議は、今でも解明されないままだ。

ある時の営業先で、新規の顧客獲得の大きな仕事だったので、営業マンと母ちゃんの二人で商談へ行った事があったらしい。
その時の担当者が、「責任者」と書かれた母ちゃんの名刺を見て、すぐに営業マンを席からはずさせて、「じゃあ今晩ね」と言ったんだと。
製造業での女性差別はさっき書いたと思うけど、女性が幹部になり、なおかつ営業でトップの立場だと、全員“枕営業”に思われるらしい。

「で、どうしたの?」と聞いたら、「私はニューハーフなんですって言ったら、それから一切セクハラは言ってこなくなったww」と母ちゃんが言ってた。

会話の合間に、変なおっさんが、ビール片手に「クズ子の母ちゃんさん、お願いだから辞めないでね」と言った。
母ちゃんは、「会社が潰れない限りはいるから大丈夫、そんなに心配すんなよww」と笑っていた。
会社に来る顧問の先生などは、みんな大手製造業の元お偉いさん方なので、母ちゃんの仕事ぶりを見て「中小企業なんかにいないで、もっと大きい所で実力を出しなさい」と、必ず名刺をもらえるらしい。いわゆるヘッドハンティング。
その図を見る度に、おっさんははらはらして、「お願いだから行かないで!!」と心の中で願うんだと。
あとからその変なおっさんが社長だと知った。

社長ってもっと威厳のあるもんだと思ってたけど、なんかなよなよしてるし、母ちゃんの方がどう見ても偉そうだった。
偉そうというか、それこそ母親と息子みたいに二人が会話してるので、上下関係なんかそこには微塵も見えなかったと思う。

時間も遅くなってくるとパートのおばちゃん達は全員引き上げていった。あと、奥さん持ちの社員も。
残ったのは独身男性社員数名と、なよなよ社長だけ。
おばちゃんが帰ると、男性社員はおばちゃん達の悪口を言い始めた。
おばちゃんは子供が熱出ただけで休むから嫌とか、平気で遅刻してくるくせにろくに謝らないとか、どこにでもあるような愚痴。

男性社員は、こぞって母ちゃんに媚を売っているように見えた。
あのパートさんが陰で母ちゃんの悪口を言ってたから俺が止めましたとか、あのパートは仕事をさぼるので俺ががつんと言ってやりましたとか、母ちゃんに嫌われたらあの会社では生きていけないのかもしれないと思うくらい、みんな必死に見えた。

その日みんなが撤退してから、「母ちゃんて凄いんだね」と言ったら、「どこが凄いと思った?」と聞かれたので、「人望があついから」と言った。
そしたら母ちゃんは、「みんな私には本音は言わないよ、だからそんなのは人望があついとは言わない」と言ってた。
母ちゃんはみんなと上下関係なくなかよくしたいんだけど、役職がつくとみんな掌を返したようにゴマをすりはじめるらしい。
今日の図を見て、それは何となく想像がつく。
「普通にパートだった時はそんな事なかったし、みんなと本当になかよく出来たのになぁ」と母ちゃんが言ってた。

現場のトップに立つ人間は、嫌われるのが仕事なんだとも言ってた。
会社への不満は、全部社長ではなく、母ちゃんへいくらしい。
なかなか出世するのも大変なんだなと思った。

パートだった頃の母ちゃんは家でよく会社の愚痴をこぼしていた。
だけど、役職がついてからはこぼさなくなった。
子供の事や、オヤジの事、会社の事、母ちゃんにだって不満や愚痴はたくさんあると思う。
だけど、母ちゃんは誰にもその愚痴をこぼさない。
一体どこでストレス解消しているのか不安に思った。

それから数日して、妹が母ちゃんへ花をプレゼントしていた。昇進祝いらしい。
妹は、「私と、お姉ちゃんからだよ」と言っていた。
私はお金なんか一切出してないのに、妹は連名にしてくれたらしい。
だから私は、「そうだよ、妹と私から」と言っておいた。妹をたてようなんて気はさらさらなかった。

母ちゃんは、「今度は取締役を目指す!」と言って、ISOの勉強が終わったばかりなのに、今度は経営者研修とかいうのを受け始めた。
もういっそ母ちゃんが起業しちゃえばいいのにと思ったが、あの会社が好きなのであくまでもあの会社で出世したいらしい。
40代半ばで部長なんて、高学歴のエリートみたいに凄いらしいのに、もうこれ以上頑張らなくてもいいなじゃないかと思った。

寿司

ある日、母ちゃんが「ボーナスが出たから美味しいものごちそうしてあげる」と言って、回っていないお寿司屋さんに連れていってくれた。
私の好物NO.1は寿司。私の誕生日も近かったので、母ちゃんは「値段は気にせずばんばん食べなさい」と言ってくれた。
値段は気にせずとはいえ、値段なんかどこにも書いてないし、メニュー表もない。妹は、ずっとかっぱ巻きを食べていた。今思えば遠慮していたんだと思う。
でも私は遠慮なんかするつもり皆無なので、うにとかトロとか、とにかくこの機会に食べてみたかった寿司ばかり注文し続けた。

回っていない寿司は、美味すぎた。こんなに美味しい食べ物が世の中にはあるのかと思った。
特に気に入ったのがえんがわで、えんがわだけでも5カン以上食べたと思う。
相変わらずかっぱ巻きばかりの妹に、「あんたも高いお寿司食べなよ」と言ったら、少し迷ってから「じゃあツナのお寿司食べる」と言った。板前さんと母ちゃんが大笑いしてた。
優しい板前さんは、あぶったマグロを叩いて、ツナっぽくして出してくれた。
妹は、「かっぱ寿司のツナより美味しい」と言っていた。

私はこの寿司屋で食べた寿司があまりに美味しくて、2、3日寿司を食べる夢ばかり見ていたと思う。

寿司を腹いっぱい食べたいけど、お金がない私は、家で作れば腹いっぱい食べられるじゃん! と思った。
ただ、家で寿司を作るのは難しすぎた。巻物も難しい、まして握りなんかとんでもない。
べちゃべちゃのぐっちゃぐちゃ。
4号の酢飯と1500円分の刺身を無駄にした私は、もう寿司は諦めようと思った。
諦めの速さだけは自信がある。

それでも、今度の諦めは諦めきれなかったらしい。
日に日につのる寿司への思い。
見かねた母ちゃんが「週に一度は寿司屋につれていってあげるから」と言ってくれたけど、週に一度ではなく毎日食べたかった。

お金がないので自分で寿司も買えない。
母ちゃんからもらっている食費で昼飯にパック寿司を買ってたけど、毎日毎日500円も600円もするスーパーの寿司を買い続けると、一気に食費がなくなる。
寿司食いてぇ、が口癖になっていた私は、家の近くにある、例のどらえもんがメインキャラクターだった寿司屋にふらふら出かけた。

店の外に、「バイト募集」と書かれていた。「まかないつき」とも書いてあった。
まかない=ご飯=寿司屋でバイト=毎日寿司食べ放題! 
そんな単純思考が働いた。

お寿司食べたいから寿司屋で働いてみよう! そして寿司作りを習得したらさっさとやめて、家で寿司作り放題! と思って、ニート脱出を決意した。

こっからしばらくまた母ちゃんじゃなく、私の話になってしまう、ごめんね。

店の外にあった張り紙には、「応募先の電話番号」が書かれていなかった。
だから、どこに電話すれば働けるのか聞こうと思って、店へ入った。
中には、化粧のきついおばちゃんが一人でいた。平日の昼間だから、パートのおばちゃん一人なのかもしれない。

おばちゃんに「外の張り紙みたんですけど」と言ったら、「あんたいくつ?」と聞かれた。
「もうすぐ18です」といったら、「高校生?」と聞かれた。
高校へは行ってませんと答えたら、「なんで?」と聞かれた。
なんかイヤミなババァだなと思って、「いや、そんな事より応募先の電話番号が知りたいだけなんですけど」と言ったら、「あ、電話番号ね。じゃあここに家の電話番号書いて」と言われた。
日本語が通じないババァだと思った。

「趣味は?」
「ゲームです」
「今までバイトした事ある?」
「あります(バザーでクッキー売った)」
「なんで応募したいの?」
「寿司が食べたいからです」

時間にして、5分くらいだったかな。いや、もっとだったかも。
当時DQNにありがちな金髪(笑)にしていた私の頭を見て、化粧のきっついババァが、「全然似合ってないね」と言った。
なんかむかつくし、色々聞いてきて厭だったので、「やっぱいいです」と言って逃げるようにして店を出た。

その日の夜、母ちゃんが帰ってきてから電話がかかってきた。
「クズ子、○○寿司から電話よ」と言われた。

電話に出たら、「あ、あんた合格だから! 明日の9時にお店きて! あと履歴書と髪の毛のゴム持ってきてね!」ガチャ、みたいな。いや、本当こっちの話なんか何も聞かずに一方的に電話を切った、多分今日色々聞いてきたババァであろう人間からの電話。

母ちゃんが「なに、お寿司の配達か何か?」と聞いてきたので、「なんかバイト合格したみたい」と言ったら、母ちゃんは食べてたせんべいをぶーっと噴き出してた。

関東大震災が起きると予言された時のように、母ちゃんはがたがた震えだして、「落ち着いて落ち着いて」と自分を落ち着かせていた。
「あんた、いつ面接行ったの? 履歴書は書けたの? その髪の毛で大丈夫なの?」と聞いてきたので、全部分からない、と答えた。
面接なんかしてないし、飛び込みでいっただけなのに。
多分あのババァが店長か何かだろうなと思って、家じゅうをうろうろしている母ちゃんをしり目に、明日9時に起きれないから12時くらいに行くか、と考えてたと思う。

「いつから働くの?」
「明日に来いって」
「明日何時に行くの?」
「9時だけど、朝寝坊するから昼に行こうと思う」
「馬鹿! 友達と待ち合わせじゃないんだから!」
「でも起きる自信ない」
「母ちゃんが起こしてあげるから絶対行きなさい」

母ちゃんが、こうしちゃいられないと言って、まずオヤジに電話して「クズ子が働くのよ!」と言った。
そのあと兄に電話して、また「クズ子が働くのよ!」と言った。
妹を部屋から引きずり出してきて、「妹、重大発表よ。なんと! お姉ちゃんが働くんだって!!」と言った。
妹も、目をぐりぐりさせて「お姉ちゃん大丈夫なの!?」「何やるの!?」と聞いてきた。
「寿司屋だよ」
「お寿司作る人になるの?」
「何するかわからないけど、お寿司が食べられるらしい」
やったねお姉ちゃん、お寿司大好きだもんね! と言って妹は何度もおめでとうと言ってくれた。
大げさだな、と正直思った。だってすぐやめる予定だったし。

客商売なら一度バザーで経験がある私は、楽勝でしょ、と意味不明に自信まんまんだった。
もう3年以上もニートのくせに、初めて出る社会への不安なんか微塵もなかった気がする。
私はやればできるから、やらないだけだから。とテンプレート通りのニート思考を発揮していた。

その日、母ちゃんによる“バイト講座”をされた。
挨拶とか、返事とか、なんかそんなのだったと思う。

翌朝、朝7時に母ちゃんからたたき起こされた私。
朝ごはんを作るために起きる事はあっても、朝ごはん作ってから二度寝の時間があるから、起きるのはそんなに苦じゃないけど、今日は起きたら起きっぱなしなわけじゃん。
めんどくさくてベッドから絶対起きないとかたく決心した。

だけど、母ちゃんに布団はがされて無理やり体を起こされたのでしぶしぶ起きた。
起きたら妹がキッチンに立っていた。
お姉ちゃんの初出勤のためにお弁当を作るんだと言っていた。
寿司食べられるんだから弁当なんかいらないのに、と思ったけど、はりきってウインナー炒めてる妹にむかって、そんな事は言えないと思った。
あとでこっそり弁当は捨てようと思ってた。

9時に来いと言われたので、まあ9時に家を出ればいいだろうと本気で思っていた私は、それを母ちゃんに伝えたら朝一番で怒鳴られた。
母ちゃんに怒られた事なんかほとんどないので、これだけ怒るって事は時間はそんなに大切なんだなとよく理解した。

「余裕を持って8時30分には家を出なさい」と言われたので、妹の弁当を持って出かけた。
もう母ちゃんも妹も出てしまっていたので、自分一人しかいなかったけど、8時30分ちょうどに家に母ちゃんから「時間なので出勤しなさい」コールが入ったから、しぶしぶ出かけた。
寿司屋まで自転車で5分くらい。そういえば、時給の値段も聞いていなかったなと思った。

トレーナー

ついた店では、すでに2人のおばちゃんが店を掃除していた。
どこにでもいるような普通のおばちゃん。
「9時にここに来いって言われたんですけど」と言ったら、おばちゃんは「トレーナー、バイト来ましたよ」と奥にいたあの化粧の濃いババァを呼んだ。

トレーナーは何も言わずに私の前に立って、黙ってる。
「何したらいいですか」と聞いたら、「もう一回やり直しだな、こりゃ」と言って、私を店の外に出るように言った。

「もう一回店に入ってくる所から」と言われたので、また同じように自動ドアをあけて店に入った。
そしたらまた同じように、トレーナーは黙って私の前に立つ。
なんかイライラしてきた。一体何がしたいのか分からない。

イライラした私は、「一体なんですか?」とトレーナーに聞いた。
トレーナーは、「あんたバイトした事あるんでしょ?」と言ったので、「あります。バザーでクッキーを売りました」と自信満々に答えた。

掃除してたおばちゃんと、トレーナーが顔を見合わせてぶっと吹き出して笑い始める。
おばちゃんが、「トレーナー、また変わった子拾いましたねww」と言った。
何を笑っているのかよく分からないし、なんて失礼な人たちだろうと思ったので、取りあえずその場にいた3人まとめて睨んだ。

ひとしきり笑ってから、トレーナーが「職場では、挨拶が命だ」と言った。
そういえば昨日母ちゃんがそんな事を言ってたと思うけど、半分以上聞いてなかったので覚えてなかった。

「まず、職場にきたら“おはようございます”。夜でも“おはようございます”だからね。あと、あんた今日初日なんだから、“よろしくお願いします”も言わなきゃダメ」

分かったらさっさとやり直しな、と言われたので、むすっとしながらもう一度自動ドアをあけた。
「ざいまーす……」と軽く言ったら、「なんじゃその日本語は」と怒られて、やり直しをさせられた。
結局、トレーナーが満足する挨拶が出来るまでに、10回くらいやり直しさせられたと思う。

もう、店にきて15分たたずに帰ろうと思った。
とりあえず昼飯だけ食べて、今日の分の給料もらったらもうやめようとも思った。

トレーナーが、「まず履歴書」というので、そういえば履歴書必要だったけな、と思って「忘れました」と答えた。
履歴書はまた明日でいいと言われて、「じゃあ、身支度するから髪の毛しばって」と言われた。
そういえば髪の毛のゴムもねーな、と思ったのでまた「忘れました」と答えた。
「あんた何しに来たの?」と言われたので、「お寿司食べにきました」と答えた。
トレーナーは、また大笑いしてから、「あんた素直だね」と言った。

「あんたにはレジ打ちしてもらうから」と言われたので、「え? お寿司作れないんですか?」と聞いた。
明らかに不満いっぱいに言った私に、トレーナーがにやにやしながら「とりあえず今日一日レジやって、合間に厨房を見ればいいよ。レジ打ちの方が寿司作りよりも好きになるから」と言った。

もう今日でやめる気満々だった私は、「一日で寿司作りマスターできると思ったのに」とめちゃくちゃ落ち込んだと思う。

しかも、レジ打ちなんか誰でも出来る仕事じゃん、と昨日までニートだったくせにぶつぶつ文句だけは一人前で、その日の私は、日本一無愛想なレジ打ちだったと思う。

仕事は非常にシンプルで、客の注文を厨房へ伝えて、出来あがったらお会計するだけ。
あとはぼーっとしててよし(と、勝手に決めていた)。
お金はなんて楽に稼げるんだろうと思っていたが、お昼のいわゆる「ピーク」を迎えてからが地獄だった。
次々入る注文を厨房へ回すと、忙しくてイライラしているおばちゃんが注文票をひったくってくる。
無意味に睨まれる。
客からは、「あんた愛想悪いわね」とイヤミを言われる。
「まだ出来ないのかよ! 俺の時間を返せ!」とジジイに絡まれる。

忙しいのに、人数ギリギリなので、今日が初日の私には誰もフォローをつけてくれない。
なんたって、おばちゃん1人(朝いたもう一人のおばちゃんは、朝の仕込みだけで帰宅)とトレーナー、そして私の3人だけ。

帰りたい帰りたいとずっと思っていたと思う。
それに、ずっと立ちっぱなしで腰も痛いし足も痛い。
ずっと使っていなかった頭で、注文の確認とかするから頭も痛くて、せっかく出来あがった寿司を落としてしまったりもした。
作り直しになればまたパートのおばちゃんの機嫌も悪くなる。
ここにきてはじめて、「やっぱり仕事は大変かも」とはじめて思った。

地獄のピーク中、不機嫌なおばちゃんとてんぱる私、それでもトレーナーだけは元気いっぱいだった。
注文票だって、どんなに忙しくてもおばちゃんみたいにひったくって取らないし、何より、とにかく握るのが早い。
いわゆる“シャリ製造機”から出てきた成型済みのシャリにネタを乗せるだけの作業をしてるおばちゃんの横で、トレーナーは成型済みのシャリは使わず全部一から手で握ってた。

でもスピードも半端ないし、後片付けもしながら仕事してるし。
電話も出るし、洗い物もするし、握るし巻くし、とにかくくるくる動いてる。
ちょっとかっこいいと思った。

午後2時頃になって、ようやく注文も落ち着き、パートのおばちゃんは上がっていった。
次はまた別のパートさんが来るのかな、と思ってたら、夜に一人バイトの子が来るだけで、あとはもう来ないと言ってた。
「土日に人を確保したいから、平日はあんまり人を入れられない」んだと言ってた。
扶養控除内で働くパートのおばちゃんばかりだから、あんまり平日に来てもらっちゃうと土日に出勤出来なくなるんだって。

パートのおばちゃんが上がってからしばらくして、トレーナーが「今から17時まで休憩してきていいよ」と言った。
3時間も休憩もらえるんだ、と思ったけど、今から17時まではほとんどお客さんが来ないからトレーナー一人で十分らしい。
待望のまかないは、時間廃棄の巻物2本と、いなり寿司が3つだった。
「これだけですか?」と聞いたら、トレーナーが「あんた面白い事言うね」と言って、「今日は初日だから特別ね」と、6カン入りの小さい寿司をその場で作ってくれた。

イカとかタコとか安いネタばっかりの握りだったけど、美味しかった。
元々そんなに食べるほうじゃないけど、とにかく人生で初めての立ち仕事をした私は、疲れきってお腹がすいていた。
結局、まかないを全部食べて、妹が作ったお弁当も間食して、休憩室の畳で気付いたら寝ていた。休憩中にばっくれるつもりだったのに、「そろそろ戻ってきて」と声をかけられるまで目が覚めなかった私は、脱走に失敗した兵みたいな気分になった。

売り場にしぶしぶ戻ったら、同じ年くらいのバイトがいた。
そういや夜にバイトが来るとか言ってたなと思って、そのバイトをスルーしたらトレーナーに腕を掴まれた。
「朝やった事もう忘れたの?」と言われたので、めんどくさそうにバイトに 挨拶をした。
そのバイトは、19歳の大学生で、なんつーか、貫禄のある女の人だった。
お寿司大好きです! みたいな。言っちゃえばピザだ。
高校に入ってすぐにここでアルバイトをはじめて、もう4年目のベテランバイトらしい。
ピザは笑うと目がなくなる。それが見てて面白いと思った。

夜は、ピザがレジにつくと言ってた。
今日一日レジだと言われてたのに、と思ったけど、どうやら私が打ったレジで5000円以上のレジミスがあったらしい。
先に言っておくが盗ってないぞ。
多分、1万と5000円を間違えたんだと思う。

レジミスをした日から数日は、レジを打ってはいけないとかいう決まりがあるようで、「あんたには今日、私のサポートをしてもらうから」とトレーナーに言われた。
ついでに、厨房からピザのレジっぷりを見ておけと言われた。
チェーン店の中でも、なかなか売上の良いらしいうちのお店。
売り上げの半分は、あのピザのおかげらしい。

洗い物とかの雑用をしながらピザを見たら、仏様のような笑顔を客に振りまいていた。
ブッタみたいだと思った。なんか神々しい光を感じるくらいだ。
だって現に、ピザが寿司を手渡した客はみんな笑顔で帰っていく。「また来るよ」と必ず言う。

ピザ「○○(商品名)入りまーす!」
トレーナー「はいよー!」
と、お互い大声でかけあうのが何かかっこよく見えた。
店にも活気が出てくるようだし、「やるぞー!!」っていう気持ちがわいてくる感じだ。

トレーナーの、「はい、○○(商品名)あがるよー!」っていう掛け声も好きだ。かっこいい。
出来あがった寿司にガリをのせながら、私も小さくその返事に参加してみた。

トレーナー「はいお待たせ! あがるよ!!」
私「あがるよ!」
トレーナー「はいよ! 注文ありがとうございます!!」
私「ございます!」

中途半端な掛け声参加に、トレーナーが吹き出してしまって、「掛け声するならちゃんと参加しなさい」と言った。

しかし私に手伝える事なんかほとんどない。
売り物にはまだ触らせてもらえないし、洗い物とか、ガリ詰めとか、洗い物とか洗い物とか、そんな仕事しかできない。
掛け声には参加できるけど、所詮掛け声だけ。
私は何の役にもたててないじゃん、と思ったら、なんか虚しくなった。

仕事が終わってからトレーナーにそれを言ったら、「初日から即戦力を目指すなんていい度胸だ」と言った。
どこもバイト初日なんかこんなもんらしい。

着替えながら、そういえば時給はいくらか聞かなきゃと思った。
時給740円だと言われた。通常780円なんだけど、研修期間で40円マイナス。
つまり今日、8時間働いた私は5920円稼いだ事になる。

バザーの時はあっというまに5000円稼げたのに、あんな大変な思いして6000円くらいかよ。と思った。
また明日も9時に、「履歴書と髪の毛のゴム、明日忘れたらまかない抜くからね!」と言われたので、帰りに履歴書とやらをはじめて買ってみた。

帰ったら母ちゃんがリビングに鎮座していて、帰ってきた私に飛びついてきた。
「どうだった?」と聞かれたので、「一日中、はいよ! って言ってた」と答えた。

笑顔

履歴書を書かなきゃいけないんだけど、はじめて履歴書をみて書く気が失せた。
どこに何を書いていいかわからないし、写真とか持ってないとも思った。

母ちゃんに履歴書の書き方を聞いたら、嬉しそうに教えてくれた。
修正液を使っちゃだめな事も、この時はじめて知った。
ただ、体じゅうが痛くて、もうめんどくさくて明日からはもう行かなくていいか、と考えてるのに、履歴書とゴムはきっちり用意した矛盾が、今でも不思議だ。
母ちゃんに、明日何時? と聞かれたので、「明日はない」と嘘をついた。
また7時なんていう早すぎる時間にたたき起こされたらたまったもんじゃないしな。

一応目ざましだけはセットして寝た。
でも、起きたら9時ちょうどだった。
きっと目ざましがならなかったんだろう。

「遅刻!」と思ったけど、なんか遅刻するのもいやなので今日は行かない事にした。
布団に入りなおしてごろごろしてたら、家の電話が鳴りっぱなしになった。
無視したけど鳴り続ける。留守電に切り替わっても、またすぐにコールが鳴る。
あまりにうるさいので電話線を抜こうとも思ったけど、もし家族の緊急の用事だったら、と思ったら心配になったので、電話に出てみた。トレーナーだった。

トレーナーは、「早く支度しておりてこい」と言った。
おりてこい? どこに? と思っていたら、
どうやらトレーナーはマンションの下まで迎えにきたらしい。

鬱陶しいとかじゃなく、怖いと思った。だってわざわざ家まで来るんだよ。
バイトってちょっと遅刻しただけで家に来るの? 
2ちゃんのバイト板でもそんなの見たことねーよとか色々考えた。
怖かったので、履歴書とゴムを持って寝巻のまま出かけた。
トレーナーは「具合悪くない?」と聞いたので、「大丈夫です」と答えたら、「あんたは絶対今日休むか遅刻すると思ってたんだよねww」と言った。

自転車で二人出勤しながら、トレーナーに遅刻がいかにいけないか説教された。
半分以上聞いていなかったので内容は覚えてない。

店についてすぐにトレーナーから「あんた昨日のピザちゃんを見てどう思った?」と聞かれた。
「仏みたいでしたね」と答えたら、笑ってたと思う。
「ちょっと笑ってごらん」と言われたので、にーっと笑ったら、「今日一日、中で雑用しながらずっとその顔でいなさい」と言われた。
「それは疲れるので嫌です」とか言ったと思う。昨日とは違うパートのおばちゃんが、「客商売は笑顔じゃなきゃダメなんだよ」と言った。
めんどくせーな、と思ったけど、今日も寿司が食えるしトレーナーが見ている前だけでにーってしてればいいかと思った。

洗い物してたら、トレーナーに尻を叩かれた。「顔が怖い!」と怒られた。
「生まれつきです」と反論したら、「その生まれつき怖い顔を今日は仏様にする約束でしょ」と言われた。
洗い物の場所なんか客から見えないのにと思ったけど、怒られると鬱陶しいので言う通りにした。
1時間もたたずに、頬がけいれんし始めた。
笑顔を振りまいた事なんかないので、顔の筋肉が衰えているんだと思う。

眉間を寄せながら、それでもムキになって口角を上げていたら、トレーナーに「あんた負けず嫌いだね」となぜか嬉しそうに言われた。

今日は午後2時まででいいと言われた。
「早く上げてあげるんだから、明日は絶対遅刻するなよ」とクギをさされた。
まかないを食べて帰ってから、学校から戻った妹に、「お姉ちゃんて顔怖い?」と聞いた。妹は、「分からない」と言った。
否定しないって事は多分怖いんだと思う。

顔が怖いというより、愛想がないんだと思った。
なんかむかついたので、その日一日鏡の前で笑顔の練習をしていたら、母ちゃんから「あんたそれ気持ち悪いよww」と言われた。
黙ってれば怖いし、笑うと気持ち悪いんじゃ、もう駄目じゃんと思ったけど、母ちゃんは「心がこもってない笑顔だからだよ」と言った。

「あんた何してる時が楽しい?」
「ゲームと、あと今はお寿司食べるとき」
「じゃあそれを想像しながら笑ったらいいと思う」
そう言われたので、その日から笑顔を作る時は、うにとえんがわの事を想像しながら笑顔を作ろうと思った。
ちなみに当時の習慣で、今でも“笑顔を作ろう”と思うと、走馬灯のようにうにとえんがわが頭に浮かぶ。

それから、毎日毎日寝坊しては、トレーナーが鬼のような電話をかけてくる日々が続いた。
しかしそこで思いついた。体調わるいって言えば休めるじゃん! と。
なので、その日も朝起きられなくてトレーナーからかかってくる電話に出た私。
「今日は具合悪いので休みます」と伝えたら、「病院行かなくて平気?」と言われた。
なので、「いや、今行こうと思ってました。もう予約もしたし……」と答えたら、「どこの病院?」と聞かれて一瞬てんぱった。
とっさに、近所の病院の名前をあげたら、「そこ今日は休診だよ」と言われた。
ニート生活が長過ぎて曜日感覚が薄かったが、どうやら今日は世に言う祝日らしい。

「あんたはまた嘘ついて!」と怒られたので、「確かに今のは嘘だけど、またってなんですか! 今までトレーナーに嘘ついた事はありません! これがはじめてです!」とムキ二なって反論した。
トレーナーは、墓穴をほった私の言葉に大爆笑していた。

バイトをさぼる事に失敗した私は、めんどくせーめんどくせーと思いながらも、とりあえず急いで職場に向かった。
遅刻癖の酷い私を嫌いなパートのおばちゃんは多くて、私の挨拶をおばちゃんの半数は無視した。
でっかい声で返事をしてくれたのは、ピザとトレーナーくらい。

あとから知ったけど、トレーナーから何かと構われている私をパートのおばちゃん全員が快く思ってなかったようだ。
休憩に入っても私と口を聞く人はいなかったし、私の注文票だけに返事をしないとか。
あいにく、全然一目を気にしないマイペースな私は、それに辛いとか思った事はなかったけど、器が小さいおばちゃん連中に腹がたってしょうがなかった。

パートのおばちゃんの粘着っぷりは凄くて、無視、聞こえるように悪口、「いまどき中卒なんてwwww」と聞こえるように陰口などなど。
絵に書いたような女の職場の現状。
むかつくけど、どうでもいいとも思ってたので大抵無視してたけど、一人だけ、そんな悪口大会に参加していなかったおばちゃんがいた。
もちろん私の事は快く思ってなかったみたいだけど、それはトレーナーにかまわれているからじゃなくて、私の遅刻癖が激しいからとの理由。
おばちゃんなのに頭はボーズにちかい短髪で、なんとも男らしい人だった。

ある日トレーナーが午後から出勤の日、9時からのはずだったバイトを当たり前のように11時近くに出勤してきた私を見て、短髪のおばちゃんが「社長さん、おはようございます」とイヤミたっぷりに言ってきた。
ネタばれに近いけど、でも今でも短髪のおばちゃんだけは、凄く尊敬しているのでなるべくおばちゃんとは呼びたくない。
以後短髪のおばちゃんは「浅見さん(仮名)」と表記する。

浅見さん

浅見さんは、このお店に来てからもう20年近いベテランパートさん。
今日だって、トレーナーが午後出勤なので私と浅見さんだけで実質お店を回さなくちゃいけないのに、私が11時に悠々と出勤してきたにも関わらず、掃除からシャリ炊きから準備から、全て完璧に準備していた。

浅見さんはめちゃくちゃ体が小さくて、化粧もほとんどしてなくて、ボーズ頭。
言葉遣いも汚いし、なんか男みたいな人だと思ってたけど、私は浅見さんが嫌いではなかった。
だって、トレーナー以外でシャリ玉(機械で成型されたシャリ)を使わずにお寿司が作れるパートさんは、浅見さんだけだったし、何よりもピザの次くらいにお客さん相手が上手いし。
「やるじゃん、このおばちゃん」と心の中で上から目線で褒めていたのは、トレーナーとピザと、この浅見さんの三人だけだった。

なんだかんだで遅刻や突発の欠勤を繰り返しながらも、3週間まともに働いた私。
やればできるというか、やっぱり私は出来る子じゃん、とどこかでまた自信がついた。
トレーナーから相変わらず日々の笑顔を共有させられていたけど、大分表情筋が豊かになったのか、長時間笑顔を続けてもけいれんする事はすくなくなっていった。
私はそんなに太っているほうじゃない、というか、むしろガリに近いけど、ほっぺただけはクレヨンしんちゃんみたいだぞ。
多分、当時笑顔を作り過ぎて、笑顔のままで表情筋が固まったんだと思う。

その内、毎週ある平日の曜日は浅見さんと私で午前中を回すシフトで固定された。
浅見さんは、私が遅刻してくると決まって「社長さん、もう○時ですよ」と言った。
しかも、無表情。
言い方もかなりトゲがあるし、何よりも文句があるならもっとイヤミを言えばいいのに、その一言しか言わない。
しれっと仕事をして、しれっと帰っていく。なんかスマートすぎてかっこよくてむかついた。

他のおばちゃんと浅見さんが一番に違う点は、ほとんどイヤミを言わない所だ。
遅刻してきた時は、毎度おなじみのように「社長さん?(略」と言われる。だけど、それでおしまい。
他のババァなら仕事中ずっとイヤミを言われ続けるのに、浅見さんはそれだけでおしまい。
なんか浅見さんにスキを見せるのが嫌になったので、浅見さんと二人でシフトが組まれている曜日だけは寝坊しないようにしようと決めた。

ある日、目が覚めたら8時30分だった。
今日は遅刻しないで済むと思って、いそいそと出かけた。
浅見さんと二人での日だったので、当然朝行けば浅見さんがいる。
遅刻しなかったでしょ、ほら偉いでしょ、という顔で浅見さんを見たら、浅見さんは「あぁ、おはよう」と言うだけで、他には何も言ってくれなかった。
母ちゃんに褒められまくって育った私は、褒めてもらえないショックに、ちょっとめまいを起こしたと思う。

「遅刻しなくて偉いじゃん!」と褒めてもらえるだろうと想像していた私は、もしかしたら浅見さんは、定時出勤してきた私に驚きすぎて、言えないだけかもしれないと思った。
だからその日は浅見さんの後をちょこちょこついていって、褒めてもらえるのを待った。
あとをくっついてくる私を、浅見さんはちらりと見て、たった一言「暑苦しい」と言った。
あっち行け、と手で追い払われて、「褒めてもらえないんだ」と思った私は、めちゃくちゃ傷ついて10分間裏でしょんぼり落ち込んだ。

家に帰ってから、母ちゃんにその話をしたら、母ちゃんは大笑いしていた。
「あんた、浅見さんの事が大好きなんだね」と言われたので、「かっこいいとは思う」と返したら、「かっこいい浅見さんに、かっこいい姿を見てほしかったんでしょ」と言われた。
遅刻しないで出勤しようと思ったのも、浅見さんに認めてもらおうと思った証拠なんだと母ちゃんは言ってた。

でも、社会では遅刻新あいのは当たり前なんだと言われた。
当たり前の事をしても褒めてくれる“他人”はなかなかいないと言っていた。

「じゃあどうやったら浅見さんは褒めてくれる?」と母ちゃんに聞いた。
母ちゃんは真っ白な歯をむき出しにして、「その気持ちのまま、これからも仕事すればいい」とだけ言った。

「そのままの気持ちってなに」
「遅刻しないって決めたんんでしょ」
「うん」
「じゃあそのまま。もう遅刻しなきゃいい」

でも、遅刻しないのは当たり前で、当たり前の事を褒めてくれる“他人”はそうそういないと母ちゃんが言ってたのに。
なんか、母ちゃんの言ってる事は矛盾だらけだと思った。

いきなり遅刻癖を直せと言われても無理なので、とりあえず浅見さんと一緒の日だけは遅刻するのをやめようと思った。
ていうか、無理して起きなくても、「今日は浅見さんと一緒の日」という意識があれば、自然と朝8時には目が覚めていた。
浅見さんには、ちゃんと大きい声であいさつした。
だって、あいさつくらいしか話す機会がなかったから。
浅見さんが大きいシャモジで炊きあがったシャリをかき混ぜる姿を見ながら、

浅見さん「クズ子ちゃん! あんたって凄い人だったんだな!」
私「まあね」
浅見さん「本当にいい子だ! あんたには寿司の握り方を教えてやりたいよ!」
私「まあね」
という妄想をした。

気付けば、朝8時に起きる事が習慣になっていて、浅見さんと同じシフトじゃない日でも遅刻しないようになった。と思う。
いや、5分くらいは遅刻してたかもしれないが。

それでもやっぱり、浅見さんは褒めてくれない。
トレーナーだけは「あんた変わったね」と言って、「夕飯に家族で食べなさい」と3人前のパーティー寿司を持たせてくれたりしたけど、浅見さんだけはやっぱり褒めてくれない。
褒められない病気なのかな? と本気で思っていた。

母ちゃんに、浅見さんが褒めてくれるどころかほとんど口も聞いてくれないとボヤいたら、母ちゃんが「じゃあ自分から話しかけたらいいじゃん」と言った。
そういえば、自分から話しかけた事ないなと思ったので、話しかけてみようと思った。

それからすぐ、浅見さんと二人のシフトの時。
浅見さんの様子をうかがいながら、それでも頑張って話しかけてみた。

私「暇ですね」
浅見さん「あぁ」
私「なんで暇なんでしょうか」
浅見さん「さぁ」
私「暇で疲れちゃうなぁ」
浅見さん「(無視)」
浅見さんは言語障害なのでは? と思った。

トレーナーに、浅見さんの無愛想さについて愚痴った。
「あの人すぐに私を無視するんですよ」と言ったら、トレーナーから「あんたも負けずに無愛想じゃん」とすぐに言い返された。
確かバイト初めて一カ月くらいで、毎回私のまかないはトレーナーが直々に作ってくれていた。
イカとかタコとか安いネタは嫌いですと言ったら、イヤミのようにイカだけ10カンとか、タコだけの巻物を5本とかまかないとして渡されたと思う。
もっともっと仕事ができるようになったら、高いネタをまかないで出してやると言われたので、「じゃあ店長を目指して、毎日うにを食べます」と言った。トレーナーはゲラゲラ笑っていた。

休憩時間も終わろうとした時に、トレーナーが「浅見さんは、韓国映画が好きだよ」と言った。
私は韓国映画なんか見たことないし、全然興味もなかったけど、帰りにピザからツタヤに誘われたので、何の気無しに一本韓国映画を借りてみた

ブエノスアイレスっていう、ホモ映画だった。初めて見た韓国映画がこれだったので、今でも韓国映画=ホモという偏見が抜けない。韓国映画好きな人ごめんね。

特にホモに偏見はないというか、むしろ興味しんしんで見たブエノスアイレス。
ぶっちゃけ内容が難しすぎて意味が分からなかったけど、次に浅見さんに会ったら話してみようとわくわくした。
今思えば、中学生が先輩に初恋をする感覚に近いかもしれない。
私は別にレズとかじゃないけど。

待望の浅見さんに会えるシフトの日、朝一番に話そうと思ったけど、浅見さんの朝一はとても忙しいので我慢した。
10時になればシャリ炊きも終わるので、10時になったら話そうと思った。
だけど、10時になったもなんか邪魔が入った、なんだっけ、多分大型の注文だった気がする。
また忙しくなる浅見さん。イライラしてたので、その日のレジで客相手に八つ当たりしまくっていたと思う。

あぁ、なんで当時ブエノスアイレスを借りたのか思いだした。
トレーナーから、浅見さんが好きな俳優を聞いてて、その俳優の映画を探したからだ。ちなみに、「レスリー・チャン」ね。

いつも、14時に浅見さんは上がってしまう。
トレーナーが14時頃過ぎに来て、私はトレーナーが来てから休憩に入れるので、若干浅見さんとは休憩もずれてしまう。
今日はチャンスがない! せっかく見たのに! 400円も出したのに! と本気でイライラしていたら、浅見さんがとことこやってきて、突然私の髪の毛を指差した。
「あんた、それ自毛?」
一瞬きょとん、としたけど、あぁ、金髪の事かと思ったので、「違います」と答えた。
そしたら浅見さんが「やっぱりね」と言った。
浅見さんから声をかけてくる事自体珍しいし、
何よりもこんなに言葉数多く会話出来る嬉しさに舞い上がりながら、「な、なんでですか!?」と興奮ぎみに聞いたと思う。
「いや、あんた眉毛は黒いのに髪の毛はあかいから、変な感じがしてたし」
世の中のおばちゃんて、染めている髪の毛を全部まとめて「あかい」っていうんだろ? 
でも浅見さんはおばちゃんぽくないし、かっこいいから全然オッケーだよ! と、思っていたと思う。

浅見さんが、「最近真面目に来てるのに、そんな頭じゃぐれてみえるからもったいない」と言った。
もう一度聞きたかったので、聞こえないふりをして、浅見さんに同じ言葉を3回言わせた。

最近真面目に来てるのに。
最近真面目に来てるのに。
最近真面目に来てるのに。

言語障害で褒められない病の浅見さんが、はじめて褒めてくれたと思って、有頂天だった。
聞こえないふりをしている私を、浅見さんはお見通しだったんだろう。
「あんた面白いね」と言って、満足そうにしていた。

勢いにのって、「あの、昨日ブエノスアイレスを見たんです!!」と言ったら、浅見さんの表情がくしゃっと崩れた。嬉しそうな顔をしてたと思う。

「なに、あんた韓映画好きなの?」
「いや、全然好きじゃないけど、見ました」
「なんで好きじゃないのに見たのww」
「浅見さんが好きだって聞いたから見てみました」

一瞬ぴたっと動きをとめた浅見さんは、次の瞬間握っていた寿司を静かにおいて大笑いし始めた。

帰り際、浅見さんから名刺をもらった。
レスリーチャン愛好家仲間で使用している名刺なんだと。
浅見さんの本名と、連絡先が入ってて、「メールでも電話でも、いつでもしてこい」と言ってくれた。
帰り際に手をふってくれた浅見さんに胸キュン(笑)しながら、夜のシフト中もずっとその名刺を眺めていた。
結局、ほとんど毎日店で会えるのでメールも電話もした事なんかなかったけどね。

その日帰宅してから、妹をリビングに呼びつけて正座させた。
「ほら、これ見て!」と言って、浅見さんからもらった名刺を妹かにに見せびらかした。
とりあえず褒めようと思ったのか、妹は首をかしげながら「す、すごーい」と言ってた。
意味が通じなくてもいいので、誰かに自慢したかった。
ずっと勉強して、やっと試験に受かった時の達成感に似てるかもしれない。
私は試験なんぞ受けたことがないが。

カツラ

トレーナーに浅見さんに、いざ二人から構われてしまえば、パートのおばちゃんも私に優しくなってくる。
なんか、母親に媚びている社員たちを思いだして嫌な気分になった。

パートのおばちゃん達の話は、どこの職場でも一緒。上司の愚痴だ。
ひたすらトレーナーやベテランパートの浅見さんの悪口を言って、でも本人たちを前にすればへこへこし始める。
それを見ているだけでも嫌だったし、トレーナーや浅見さんの悪口を聞くだけでイライラしていた。

ある日に、客から私の髪の毛の事をグダグダ指摘された。多分髪の毛の事というか、私の無愛想加減にイライラした客が、私の身なりにいいがかりをつけてきたんだろうけど。
その時一緒に入っていたパートさんが出てきて、客にぺこぺこ頭を下げていた。

そのパートが、トレーナーに「挨拶とかそんなのはどうでもいいから、クズ子のあかい頭をなんとかしてくれ」と言っていた。

お前こそ、そのたわしみたいな頭をどうにかしろよと思ったけど、なんか面倒くさかったので聞こえないふりをして勝手に休憩に上がった。
休憩に上がったら浅見さんがいた。なんでいるんだろう、今日は休みなはずなのにと思ったら、「今日は昼から大型注文があるから、トレーナーと二人で注文商品だけ作りにきた」と言っていた。
着替えている浅見さんに、さっきの話をした。

「確かに、あんた真面目な子なのに、その頭じゃふりかもね」と浅見さんは言った。
人は見かけじゃないけど、それが通じるのは知人からで、客なんかにしたらあんたが真面目に働いてる事なんかわからないし、金髪=不真面目と思われても仕方ないと言われた。
「あんたもトレーナーに仕込まれてやっとバイトらしくなってきたのに、たかが髪の毛の色で評判が落ちちゃもったいない」とも言われた。

なので、帰り道に髪の毛を黒くするやつを買おうと思った。
よく分からなかったので、とりあえず「ビゲンの白髪染め?黒々つやつやな髪に?」とかいうのを買ってみた。

別に白髪じゃないのに、白髪染めで髪の毛を黒くした事がある人は分かると思う。
とにかく、びっくりするほど漆黒になる。風呂場で染めて鏡を見て、一瞬誰だか分らなかった。

母ちゃんは、風呂に行って出てきたら髪の毛が真っ黒になった娘をみて、「何それ、カツラ?」と言った。
妹も、「お姉ちゃん、それカツラ?」と言った。
あまりにも違和感がありすぎて、顔から黒髪が浮いていたらしい。

翌日出勤したら、久しぶりに朝からトレーナーがいて、私を見るなり「それカツラ?」と聞いた。
常連のお客さんも、「姉ちゃん、カツラ?」と聞いた。
午後からのパートさんも、「あらやだ、クズ子ちゃんカツラみたいwwww」と言った。

今すぐバリカンで頭丸めようかと思ったけど、突然店に浅見さんが来たのっで緊張した。
どうやら、トレーナーが「クズ子が頭黒くした!」と電話をかけたらしい。
でも浅見さんにも、「あんた、何それwwwwwwwwか、かつらじゃんwwwwww」と笑われた。
もう二度と髪の毛は黒くしないと思った。

そんなに笑う事ないのにと思ってむかっとしてたら、どうやら顔に出ていたらしい。
すぐに浅見さんが、「ごめんごめんww」と言ってくれた。

「似合ってないけど、いいよそれ」
「それ褒めてますか?」
「褒めてるよ」
「嘘だ、笑ったくせに」
「褒めてるってばww真面目な優等生に見えるよ」
けらけら軽く笑う浅見さんと、トレーナー。めちゃくちゃ腹がたったし、“髪の色を直した”事について誰も褒めてくれないので、それにもイライラした。

唯一褒めてくれたのはピザだけだな。
「クズ子、いいじゃん! それいいよ?! ふかわりょうみたい!」と褒めてくれた。

お金

なんだかんだで、ふと気づけば一カ月働き終えた所で、遅刻と欠勤がゼロになっていた。
いや、ゼロじゃないけど、ほぼゼロ。私計算でゼロ。週に2、3回しか遅刻してないし。

日給大体6000円。週に5日勤務なので、週3万円稼げる。
そしたら一カ月で12万。12万もあれば数カ月はニートが出来ると思った。

最初の頃は一カ月目の給料をもらったらもやめようと思ってたけど、トレーナーに「来月は浅見さんがいる日は全部シフト入れて下さい」と言ってた。
来月も働けるのか? と自分で自分が疑問だったけど、なるようにしかならないだろうとも思った。

勤めて一カ月目。
一ヶ月目というか、いわゆる締め日という日。
私は、締め日当日に給料がもらえるもんだと思ってたので、帰り際に何買おうか迷っていた。
浅見さんに、「今日お給料日ですね」と言ったら、「締め日当日に給料が出るわけないでしょ」と言われ、給料日があと10日も先だと知った。
なんか一気にやる気がなくなったので、この日も適当に客の相手をした。

母ちゃんに、「もうすぐ給料日だ」と言ったら、「初任給だね」と言われた。
初任給とは、勤めてから初めてもらうお給料の事である! 

初任給でありがちなのは、母ちゃんにプレゼント買ったり、母ちゃんにまるまるあげたり……そんな親孝行な子供が多い日本ですが、私は親孝行ではないので、さっそくアマゾンで通販予約をしまくろうと思った。
クレヨンしんちゃんが大好きな私は、クレヨンしんちゃんのDVDを大人買いしようと思った。

新しいPCも欲しかったし、でも、12万でぱーっと高級寿司屋に行ってもいいなとも思った。もちろん一人でな。
えんがわを買ってもいいなとも思ったし、ブックオフで12万円分漫画を買ってもいい。

12万円を一カ月に分けて使おうという意識がまるでない私は、とにかく12万円をどう一日で使い切るか真剣に考えた。
考えた結果、冷凍の刺身と米と酢を死ぬほど買えば、万が一バイトを辞めてもニートをしながら家で寿司食べられるじゃん! と思った。
さっそくアマゾンで冷凍の刺身を探した。

結局、遅刻に欠勤を繰り返していた私の手元にきた初任給は、10万円もなかった。
しかも、何とか税とかいうのが引かれていて、詐欺だと思った。

トレーナーから「初任給で何買うの?」と聞かれたので、「冷凍の刺身を買います」と言った。
「あんた本当に寿司が好きだねww」と言われて、「で? 他には?」と再び聞かれた。

「冷凍の刺身だけです」
「えぇ? あんたのお母さんには?」
「いや、母ちゃんは稼いでいるので、いざとなれば自分で何でも買えるし。私が何か買っても喜ばないと思います」
「あんた、親の心を分かってないねー」

金額じゃなくて気持ちなんだよとか言われた気がするけど、それよりも早くアマゾンで刺身を注文したかったので、話の途中でトレーナーを無視して帰宅した。
夜道で人に10万縁盗まれないか心配だったので、はらまきの下の下着の中に給料の封筒を入れて持ち帰った。
ちなみにこの店振り込みじゃなくて現金支給ね。当時だけじゃなく今でも現金支給だよ

冷凍の刺身はたくさんアマゾンで並んでいるけど、どれが美味しいのかよく分からなかったので母ちゃんに聞こうと思った。
リビングへ行ったら、母ちゃんと妹がいて、妹がめそめそ泣いてた。
「どうしたの?」と聞いたら、母ちゃんは私に「そこに正座しなさい」と言われた。
直観的に怒られると思ったし、テーブルの上に昔妹からくすねたお年玉の袋(もちろん空っぽ)がいくつも置いてあったから、あぁ、ばれたんだなと思った。

「クズ子、妹のお年玉がないんだけど、知らない?」
知らない? とは言うけど、母ちゃんの口調から全部ばれてると瞬時に分かった。
今までばれなかったのになんで今更、と思ったら、今日初任給をもらえる私のために妹がお祝いのプレゼントを買おうとしてくれたらしい。
お姉ちゃんのプレゼントを買おうと、貯めていたお年玉袋を見たら中身が入ってなくて、母ちゃんに話したというわけだ。

とっさに思ったのは、謝ろうでもなく、しらばっくれようでもなく、「あ、また頭おかしくなったふりしよう」だった。
頭おかしくて、無意識の内にやりました! って言えばいいじゃん! と思った。
でも、なぜか思いついたくせに出来ない。
多分、一カ月前の私なら何の迷いもなくやっていたと思う。
母ちゃんには嘘をつけないし、何より多分すぐばれる。トレーナーみたいに、すぐに嘘だと見抜いて、めんどくさい事になるだろうと安易に想像できる。

遅刻癖が激しかった時に、トレーナーから「遅刻したら挨拶と一緒に謝罪をする事」と教えられていた。
なので、この時だけは素直に「ごめんなさい」と謝った。
多分、家がおかしくなって自分もおかしくなってから、はじめて心から人に謝罪したと思う。

謝ったら、なんか悲しくなった。罪悪感がわいてきて、どうしよう、と思った。
妹を見たら、妹は「お姉ちゃんは悪くないよ」と言った。
「泣かないで、お姉ちゃんごめんなさい」と妹が謝っていた。また罪悪感がわいた。

人の物を盗むと、その人が傷つくというごく当たり前の事を、この時はじめて身をもって痛感した。
妹が泣いてる姿を見たくないと思った。
昔むかし、お金を盗んで、それに対して悪びれる様子もない私を見て、兄ががっくると肩を落として、それ以来出ていってしまったんだっけなとも思った。
困った事に、私が家族をめちゃくちゃにしている事に気付いてしまった。

働けて、結構普通の人に戻っているつもりだったけど、結局私は駄目な人間のままだと思った。
なんか頭がパニックになり、母ちゃんと妹にひたすら謝った。
母ちゃんは何も言わなかった。妹が「もういいよ」というたびに、母ちゃんが「もうよくない、妹は黙っていなさい」と言った。ついに見放されると思った。

母ちゃんは、「お金は何に使ったの?」と聞いてきた。覚えてなかったので、「分からない」と答えた。

「悪い事に使った?」
「分からないけど、でも遊んだりとか、絶対良い事には使ってないと思う」
「どうして盗んだの?」
「お金がなかったから」
「お金がなくて、お寿司が食べたいからってあんたは今働いてるでしょ」
「うん」
「今精一杯がんばってるでしょ」
「うん」
「じゃあ、妹に一番謝って、次に謝るのは母ちゃんじゃなく、今頑張ってる自分に謝りなさい」

頑張ってても、結局悪い事しちゃったら全部水の泡なんだと言われた。

「じゃあもう、私は駄目だね。人間の屑だから生きてる資格ないね」と言ったら母ちゃんにぶん殴られた。

あんたは、一番大切で一番心が難しい時期に家がめちゃくちゃになっちゃって、病気になったのも仕方ないと言ってくれた。
でも、病気を克服したのだって、家の手伝いをしたのだって、妹や母ちゃんに弁当やお菓子を作ったのだって、別に誰の力も借りてないし、あんた一人で頑張った事でしょうって言われた。
働こうって思ったのだって、母ちゃんが言ったからじゃなくて、自分で思ったんでしょうって言われた。
自分で見つけた仕事先で、精一杯頑張ってるお前の一体どこが駄目なんだと怒鳴られた。

めちゃくちゃ怖かった。
なんか、嬉しいとか悲しいとかじゃなくて、怒鳴っている母ちゃんが怖いという意識しかなかったと思う。

「例えばあんたが人を殺しても、母ちゃんだけはあんたの味方だよ」
「生きてる価値がないと思ったんなら、価値がある人間に変わればいいじゃない」
「母ちゃん、あんたが“生きてて良かった”と思える人生を送るためなら、なんだってする」
と言ってくれて、背中だか肩だかを叩かれた。

なんか書いてたら母ちゃんに会いたくなってきたのでちょっと待ってて。

妹が、「お姉ちゃんがいなくなったら、妹は泣くよ」と言った。
妹のお金をぱくるような姉なのに? と聞いたら、「それは仕方ないよ、だってお姉ちゃん働いてなかったんだから」と言った。
妹が可愛いと思った。なぜ妹は若干11歳くらいなのに、こんなに姉思いなんだろうと思った。
私は黙って部屋に戻ると、もらったばかりの初任給の封筒を持って再びリビングに戻った。
封筒から5万円は抜いて自分のポケットにしまい、残り5万円入りの封筒を母ちゃんに渡した。

初任給をほぼまるまる渡した(はず。5割だからまるまると言ってもいいよね)私に、母ちゃんが「これは何?」と聞いたので、「妹のお金を盗んだ分と、あと、お兄ちゃんのお金を盗んだ分の弁償」と言った。
お兄ちゃんのお金も盗んでいた事に母ちゃんはびっくりしていたけど、「あとでお兄ちゃんにもきちんと電話しておくなら渡す」と言ったので、約束した。

多分、5万なんかじゃ全然足りていないと思うけど、それでも、過去の罪が清算されたような気分になって、視界が明るくなった気がした。

正直にいって、5万円は大きいし、出来たら渡すのは嫌だった。

そのまま兄に電話した。兄は、最初こそずっと黙っていたけど、私が働き始めた事は母ちゃんから聞いて知っていると言ってた。

「今日、お給料はじめてもらえたから、お兄ちゃんにお金返すね」と言ったら、お兄ちゃんが「一カ月続いたのか!」とびっくりしていた。
そのあと、ごめんなさいと謝ったら、「正直、許せない」と言ってた。
だけど、お前があともう一カ月頑張って働けば許すと言ってくれた。
あと一カ月も働くのかよと思って「自信ない」と答えたけど、「お前なら出来るよ」と兄は強く言ってくれたので、一応「分かった」と言っておいた。

こうして、私の初任給はほぼ全額家族に渡したわけだ。
元々人の金だったやつを返しただけだろww禁止。
残り5万円で、刺身を買おうと思った。5万円分でも、かなり良い刺身が買えるからね。

イカとタコ

ある日、トレーナーに「あんたももう研修期間じゃないんだから、今から握りを教える」と言われた。
機械で成型されたシャリ玉にネタをのせるだけじゃん、らくしょうでしょ、と思っていたが、これが意外に難しい。
回転すしとかで、まさに「シャリ玉にネタをのせただけ!」という寿司を見かけるが、うちのお見せは一応目安としてシャリ玉を使うだけで、ネタを乗せてからもしっかり握っていた。

イカがつるつるしてるのでよくシャリから外れる。
イカが大嫌いになった。
タコもつるつるしてるのでよくシャリから外れる。
安いくせに調子こくなよ、とタコが大嫌いになった。

トレーナーに、「握りにくいので、イカとタコが嫌いです」と言ったら、「10000カンくらい握れば慣れる」と返された。
あと、あんなに好きだったえんがわも握りにくかった。
でもえんがわは高いし美味しいので、別に嫌いにはなっていない。
初めて握りの練習をさせてもらった日、今日のまかないは自分で握れと言われたので、えんがわとうにだけの握りを作ろうとウキウキしていたら、なぜか用意されていたネタは、イカとタコだけだった。

「まかないでえんがわ食いたきゃイカとタコを上手に握れるようになるんだね」と、トレーナーにニヤニヤされながら言われた。
悔しかったので、その日一日お客さんにもイカとタコをオススメしまくって、一日中イカとタコと戦った。

イカとタコは、強かった。惨敗だった。嫌いとか言ってごめんなさい、と土下座したくなるレベルだった。
ふとした合間にもずっとイカとタコ握りを作る私に、トレーナーが「クズ子! いくら練習っていったってこんなにネタ使われたらうちも赤字だ」と苦笑いしながら嘆いた。
5万円という大金を持っている私は、「じゃあ、私が買いとるのであと30カン握らせて下さい」とお願いした。
所詮イカとタコなんぞ店で一番安いネタだ。
大した金にはならんだろう、と思っての発言だった。

買い取りするなら、という事で、トレーナーも私とイカタコの戦いを許してくれた。
気付けば、山のようにイカとタコの握りが完成していた。
数は覚えてないが、6人前用のパーティー皿にギリギリおさまるくらいだったので、60カンとか70カンとかあったんじゃないか。

1カン50円なので、合計3000円くらい。
3000円出せば、えんがわがたくさん食べられたのに……と思ったが、それでも今日70カン握ったんだから、あと9930カン握れば、まかないでウニとえんがわが食べ放題! と当時は本気で思っていた。

私のえんがわへの思いは、もはや執着に近い。
トレーナーも、えんがわやウニのような高級ネタで釣れば私が動く事をよく分かっていた。
えんがわに釣られて大掃除をしたり、下水掃除もしたし、クレーム対応もした。
なんともトレーナーは私の扱いが上手いと思った。

山のようなタコとイカ握りを持ち帰ったら、妹が「何これ?」と聞いてきた。「お姉ちゃんが戦ったイカとタコだよ」……とは言わなかったけど、ちょうどいいので夕食で家族に食わせようと思った。

母ちゃんも妹も、「なんでイカとタコ?」って顔してたけど、「あんたの握った寿司は上手い、世界一上手い」と二人して頑張って食べてくれた。
「また明日も握るから持って帰ってくるよ」と伝えたら、母ちゃんから「出来たらイカとタコ以外でお願い」と言われたけど、無視した。
それから数日、うちは連日タコとイカの寿司が夕飯だった。

確か5日目くらいで、ついにタコからの降参が出た。
続けてイカからも降参が出た。私の完全勝利だ。

握りにくい寿司で練習し続けていたので、気づけばかなり握りが上手くなっていた。
スピードこそ遅いけど、見た目だけはかなり綺麗だ。
最初は安い寿司しか作らせてもらえなかったけど、段々お店の中でも値段が高い寿司を握らせてもらえるようになった。

気付けばピーク時でもおろおろしないで、握りの戦力になれていたと思う。
まぁ一回コツをつかめばあとは単純作業なので、難しい事は何もない。

ある日に、「まかないを作って休憩に行きな」とトレーナーが言うのでネタを見れば、えんがわが2枚入れられていた。

「トレーナー、これ食っていいんすか!? え、えんがわっすよ!?」と興奮ぎみに聞いたら、「あんた最近頑張ってるからね、でも毎日まかないにえんがわは無理だよ!」と言ってくれた。

ついに、えんがわのまかないデビューである。

まかないを持って休憩室へ行くと、ちょうど浅見さんが入れ違い出勤をしてきた。
「見て下さいよ! えんがわ! ほら!」と興奮してまかない握りを見せたら、浅見さんが「あ、いいじゃん、その顔なら可愛いよ」と言った。
唐突過ぎて何を言ってるのかよく分からなかったが、どうやら興奮して喜んでいる私の笑顔が可愛いと言ってくれたらしい。

「あんた、もう握りは完ぺきだ! ってトレーナーも絶賛してるんだし、あとはその顔でレジ打てばもうバイトとしては一人前だよ」

浅見さんにそう言われるとだんぜんやる気が湧いてくるので、夜からはレジ打ちをさせてほしいとトレーナーへお願いした。
しかしレジの方は全然駄目。
さすがにレジミスはないけど、客から「あんた愛想がねーな」と必ず言われる。

接客

愛想がないと言われるとむかつくので、ますます愛想が悪くなる。
その繰り返しというか悪循環だ。
トレーナーに「あんたは我慢が足らない」と言われて、ますます腹が立ったので、「やっぱり私にはレジは向いてません」と言って、レジに立つことを諦めた。

帰って母ちゃんに話したら、「ありがとうって言われると嬉しくならない?」と言った。
そりゃ嬉しくなるよと返したけど、丁寧に「ありがとう」なんて言ってくれる客ばかりじゃない。寿司をひったくる客もいるし、舌打ちする客もいるし。
そんな客相手に嬉しいとは思えないと言ったら、「そういう嫌な客でも我慢して笑顔でい続けられたら、また一つ自信につながるんじゃない?」と母ちゃんが言ってくれた。
そんなのめんどくさいし、そこまでして自信なんかいらないと思った。

ある日小さい子供と母親の二人が買い物に来た。平日の夜だったと思う。
その日ピザは休みだったので、私とトレーナーの二人で店を回していた。
トレーナーと二人なので、レジは私。めんどくせーなーと思いながらこの日も客相手していた。
小さい子供連れの母親に注文を聞いたら、子供が床に座り込んで、一気に戻した。
具合が悪かったのか、それとも車に酔ったのか、「うえー」って吐いて、わんわん泣き始めた。
ぶっちゃけ、泣きたいのはこっちだ。だって、子供が吐きだした汚物は一体だれが掃除するのか。
トレーナーに「なんか子供が吐いちゃったんですけど」と言ったら、黙ってモップを手渡された。
やはり私が掃除するらしい。

母親は「手伝います、私がやりますから」と言ってぺこぺこ頭下げてたけど、トレーナーが「いいんですよ?気にしないでください?」と母親に声をかける。
奥からトレーナーの“絶対客にはやらせるな光線”が飛んできたので、口で息をしながら掃除を始めた。
子供だし、そんなに量もなかったので掃除自体はすぐ終わったけど、子供がずっと泣いている。ぴーぴーうるさいので、販売機からジュースを買ってあげたら、子供が泣きやんだ。

母親は、最初は安い寿司を注文しようとしてたけど、店で一番高い一人前握りを4つも買ってくれて、最後まで頭を下げていた。

後日、あの母親と子供が再び店に来た。
この日も、一番高い一人前握りを今度は2つ買ってくれた。
親子が店を出る最後に、小さい子が「お姉ちゃん、この前はジュースありがとう」と言って、飴をくれた。あんぱんまんの飴だった。

なんだよこのゲロガキ、可愛いじゃないかと思ったので、「ありがとう」とその飴を受け取った。
後日、うちはチェーン店の寿司屋なので、月に一度本社から社報が来るんだけど、そこにうちの店舗名があった。お客様の声、みたいなコーナーだった。
ついでに私の苗字ものっていた。
内容は『うちの子供が店で粗相をしたにも関わらず、クズ子さんという店員さんが嫌な顔一つせずに片づけてくれて、おまけにジュースまでくれた』みたいな内容。
本社の社員のコメントで、“こういうプロ意識の高い店員はわが社の誇り”みたいに書いてもらえていた。
あの親子投書なんてやるじゃねーか、と思って、さっそくトレーナーと浅見さんに自慢した。
「まぁ私が本気出せばこんなもんっすよ」と自慢したら、「客に寿司パックを投げつけるあんたが、プロ意識高いなんて誰も思わないよ」と笑われて、全然褒めてもらえなかった。

あ、ジュースはレジのお金から買いましたけどそれが何か? 

母ちゃんだけは、めちゃくちゃに褒めてくれた。
「あんた、やっぱりやればできるじゃん!」と言って、兄に電話で報告していた。
この当時は、母ちゃんが飴でトレーナーと浅見さんが鞭のような存在だったと思う。

そしてまた後日、本社から金一封が届いた。
中身は2000円だったけど、あの“お褒めの声”に対する、店へのボーナスだった。
トレーナーは、まるまる2000円を私にくれた。
「結果的にはあんたの成果だから」と言ってくれて、嬉しかった。
そして私はまた学んだ。お褒めに言葉がもらえると、金になる。

またお褒めの言葉がもらいたかったので、子供が来る度に「吐かないかな?」と思ってそわそわしていた。
いつでもモップが取り出せるように準備してたのに、そうそう上手くはいかない。
トレーナーに相談したら、「普段からお客様にサービス出来るようになりなさいよwwwwピザを見習いなさい、ピザをww」と言われた。
ピザはその日も神々しく光っていた。なんていうか、にかーーーーって笑顔で、表情筋が止まっているんだと思った。あんなに笑うと目がなくなるのに、あれでお客さん見えてるんだろうかとたまに心配になった。

ピザはお褒めの言葉もらった事があるのか聞いてみたら、「ないよwwだって、苦情を書く人はたくさんいるけど、わざわざはがき代使って他人を褒めようって人はなかなか現れないもんだよ」と言っていた。
「マジっすかwwwwまぁ私も一回しかもらった事ないっすけどねwwww」
「あぁ、金一封もらってたよねークズ子ちゃんは頑張っているからな?」
「いやいや、普通っすよwwww大した事じゃないっすwwww」
なんだピザも大した事ないじゃんと思いながら話していたが、それでもピザの接客は神々しすぎる。あんなに神々しい接客でも褒めてもらえないなら、褒められた私はもっと凄いんじゃん、と自信が持てた。

とりあえずピザの真似をしてみる事にした。
ピザの声を真似てみて、立ち方とかも真似してみた。言葉使いもそのまま同じにしてみた。
初日に憧れた掛け声もピザの掛け声をそのままコピーした。

しかしだ、なぜか私にはあの神々しい光が発射出来ない。
かなり笑顔も頑張っているのに、なぜか駄目だ。
再びトレーナーに相談したら、「ピザとあんたの一番の違いは、あんたには邪心があってピザにはない所だ」と言われた。

「ピザはあんたみたいに褒めてもらおうとやっているんじゃなくて、お客さんに気持ち良く買い物してもらいたいからああいう接客が出来るの。」
「あんたとピザじゃ根本が違うから無理だわねwwww」
げらげら笑われたのがむかついたけど、全て事実なので言い返す事が出来なかった。

だったら、良いお客さんにだけは心から接客してみよう! と思った。
とりあえず愛想の良い上から目線じゃない客にだけは、『この人のために笑顔を作っている、決して金が欲しいんじゃない』と自分に言い聞かせながら対応してみた。
1時間で知恵熱がでた。

「あんた本当に邪心のかたまりだねぇwwwwww」
冷えピタを貼って、奥で食品に触らない仕事をしている私を指さしてトレーナーが笑った。
「邪心じゃなくて、お金が好きなんです」
イライラしながら答えたら、「なんでそんなにお金に固執するの」と聞かれた。
オヤジの事は話したくなかったので黙った。

2ヶ月目の給料が出た。
なんか、毎日毎日ただ働くだけであっという間に時間が過ぎたので、「もう金の日(給料日の事)か」と驚いたくらいだった。
2ヶ月目はほぼ無遅刻ほぼ無欠勤だったので、11万ちょっと入ってた。
やっぱり何とか税が引かれていた。詐欺だ。

11万は何に使うかなーと思ってた時に、兄の事を思い出した。
まだちゃんと働いてるよと報告した方がいいのか迷って、母ちゃんに相談したら「絶対電話してあげて」との事だった。
電話して「今日二ヶ月目のお給料もらえた」と話したら、兄は「来週どこかで時間作ってほしい」と言いだした。
母ちゃんと、妹と、私と兄の4人で、久々にご飯を食べようと兄が提案したのだった。
しかしそうなると、土日のどちらかになる。私は土日がどうしても休めない。
でも、きっと多分兄がご飯を御馳走してくれるだろうから、絶対行きたい。
翌日トレーナーに相談したら、「土日に休まれたらうちの店がどれだけ迷惑するか分かってるのかうんちゃらかんちゃら」と怒られた。

事情を話せばよかったんだろうけど、なんか家族の事話さなきゃいけないような気がして面倒だったので、「遊びに行きたいから」と理由を説明したのだが、この理由がいけなかったんだろう。
だけど同時に、土日に休むなと言われるという事は立派に店の力になれている証拠じゃね? と嬉しくなった。

怒っているトレーナーに、仏のピザが声をかけた。
「私が朝からきますから、クズ子ちゃんにお休みあげましょうよ」と、仏は文字通り神の言葉をかけてくれた。
「クズ子ちゃんずっと働きっぱなしだから、たまにはいいじゃないですかトレーナー」
「まぁ、ピザが来てくれるなら……でも、私遊の休みなんかこれっきりだからね!」
分かったら返事! と言われたので、勤め始めてから一番良い返事をかえしたと思う。

兄と会う気まずさはなかったと言えばうそになるが、家族みんなで会える事が何より楽しみだった。
でも、やっぱり一番喜んでいたのは妹だったな。何着ていこうと言って、髪の毛のゴムとか新しく買ってたみたいだし、カレンダーを見ては「あと何日寝ればみんなでお出かけできる」とうきうきしてたし。
妹は中学の卒業文集の「宝物」の欄に「家族(とくにお姉ちゃんv)」って書いちゃう中学生だったからな。
可愛いだろ、お前ら存分に羨ましがれ。

当日、都内で待ち合わせした。やはり顔を合わせると気まずかったが、母ちゃんが「そんな葬式みたいな顔してないで、早く美味しいもの食べにいこう」と声をかけてくれた。
私はこの日、二ヶ月目にもらった給料11万をまるまる持ってきていた。兄に見せたかったからだ。
有名らしいオムライスのお店に入って、すぐに封筒からお金を出して兄に見せた。
兄は一瞬びっくりしていたが、「何も現金そのまま持ってこなくてもww明細だけでいいだろwwww」と笑ってくれた。
気まずい雰囲気だったけど、兄が笑ってくれてから一気に場が和んだと思う。

兄は母ちゃんに、「俺、専門学校に行きたいから母ちゃん学資ローンの組み方を教えてくれ」と言った。
システムエンジニアになりたいので、自分で必死に稼いで入学金だけは貯めたが、学費だけはやはりローンしか無理みたいな話をしていた。
母ちゃんは、「わざわざクズ子や妹の前で話す事じゃない」と言って、「あとでゆっくりね」と言ったが、兄は「いや、クズ子の前だからこそ話したい」と言った。
母ちゃんは諦めたように溜息をついて、「専門行くくらいのお金なら母ちゃんが全部出してやる」と言った。
兄は、「それだけは絶対やめてくれ」と母ちゃんからの申し出を断っていた。

法律上、母ちゃんを守る人や母ちゃんの家はないし、御墓だってない。
俺は長男なんだからオヤジの代わりをうんちゃらかんちゃらとかっこいい事を言ってたけど、私は早くオムライスが食べたかったので兄の話を全然聞いていなかった。

全然話を聞いてない私を兄が叱った。
「お前も普通ならもうすぐ高校を卒業する年だろ? きちんと進路は考えているのか?」と言って、厳しい顔をしていたと思う。
「将来はどうなりたいとか、夢はないのか?」
「とりあえず、お金に困らなければそれでいい」
「一生フリーターか? 俺も数年フリーターしてたし、今もフリーターだけどかなり辛いぞ。お前は出来るのか?」

兄がこんなに口うるさく言ってくる事なんか珍しくて、なんか嫌だった。
昔から、お説教は大嫌いだ。
「うるさいなぁ」と思わず言ったら、兄はびっくりした顔で私を見た。
『うるさい』と言われた事に驚いたのではなく、私の怒った顔に驚いているようだった。
「お前、人形みたいだったのに随分表情豊かになったじゃないか」と言って、なんか嬉しそうにしてた。怒ったり笑ったり驚いたり落ち着きのない人だと思った。

母ちゃんは兄に、「クズ子は仕事はじめてから変わった」と言った。
「“普通の18歳になった”」と言われて、私は今まで普通じゃなかったのか、と軽く落ち込んだ。母ちゃんには言わなかったけど。
兄が「そういえば、お前……なんでそんなにほっぺたが丸くなったんだ?」と言った。
笑顔を作り過ぎたと言ったら、
「二か月でそこまで顔の筋肉が発達するなんてよっぱどだなww」とまた笑った。

「兄、大丈夫よ。最悪の場合クズ子はうちの会社で引き取るからww」と母ちゃんが言ったので、「それなら楽でいいな」と言ったら、「本気にするな、自分で頑張れ、人任せにするな」と母ちゃんと兄二人から同時に言われた。

ニートの時、頑張れなんか言われた事なかったのに、社会人になって始めて家族から「頑張れ」と言われたと思った。

みんなでオムライスを食べて会計の時、レジの前で兄と母ちゃんがもめていた。
いわゆる「私が払う払う揉め」だ。
そんなのに最初から参加する気は皆無だったが、レジにいたお兄さんがちょっと浅見さんに似てかっこよかった(浅見さんは女性なので若干失礼だがww)。

そういえば今日私の財布には11万という大金が入ってる。
ここで財布をひらひら見せれば、かっこいいお兄さんに「お金持ち!」と思われる! と考えたので、無駄にレジへむけて財布を見せびらかしながら、「いや、私が払う。だって私だって一応働いてるし」と言った。
兄と母ちゃんが固まった。

妹が、「お姉ちゃん、無理しちゃダメだよ」と言った。
兄も母ちゃんもうんうん頷いている。
なぜ私は払う払い揉めに参加できないのか考えたが、みんな私が堅実家な事を知っているからだろうと気付いた。
結局、母ちゃんが全部払って(兄に、あんたはこれから学校へ行くんだからお金使ったらだめ! と言ってた)店を出て、4人で散歩して、帰った。

帰り際に兄から「お前、本当に払うつもりあった?」と聞かれたので、「ないよ」と答えたら、兄は「良かった、クズ子らしいわww」と笑った。
母ちゃんが、「でもクズ子は、お寿司買ってきてくれたりするよ」と兄に伝えたら、兄は「お前偉いなぁ!」と褒めてくれた。妹も「お姉ちゃんのお寿司美味しかったよ」と言うし、母ちゃんも「あれはまた食べたいな」と言った。兄も「俺にも今度食わせてよ」と言った。
イカとタコの寿司しかあげてないのに、母ちゃんも妹もこんなに喜んでくれてたなんて、凄く嬉しいと思った。

孝行

2ヶ月目の給料をもらったのでまた刺身を買おうと思っていた。
だけど、毎日まかないがもらえるし、毎日お店でネタを堂々とつまみ食いしてたので、わざわざ自分で金を出す意味がないと思っていた。
だからといって、他に使うあてもない。少し前なら遊びに出掛けただろうけど、休日や仕事帰りに遊びに行くと朝寝坊する法則があるらしいので、遊びに行く気にもなれない。
クレヨンしんちゃんのDVDだって、わざわざ借りなくてもツタヤに行けば借りられる。
漫画やゲームは買っていたけど、11万まるまる使い切るほど欲しい漫画やゲームもない。
金の使い道に困るなんて初めてで、若干戸惑っていた。

だけど、手元にあるとお金を使いたくなる。特に買いたくもない洋服だって買いたくなる。
ちょうど同じ時期に、妹の林間学校だか自然教室だかがあって、それに使う大きなスポーツバッグを週末母ちゃんと妹で買いに行くと言っていた。
私は仕事だったけど、確か午前休とか午後休とかがあったんだと思う。
その買い物に一緒についていったので。
デパートで母ちゃんが「クズ子にもなんか買ってあげる」と言ってくれたので、なるべく高いワンピースを探した。高いブランドもののワンピースなんか着ていく場所もないけど、買ってもらえるならとにかく高い物がいいよね! と思ったので、売り場をぐるぐる探して、値札票を確認しまくった。

さっきも書いたけど、持っているお金をとにかく使いたかった私は、おもちゃ売り場で絶対にいらないであろうぬいぐるみや、クレヨンしんちゃんのキーホルダーとか筆箱とか、目につくものすべてレジに持っていきたい衝動にかられていた。
お金に対する感覚が人よりちょっとだけずれていたんだと思う。
ピカチュウの馬鹿デカイぬいぐるみを見ていたら、妹が私を呼びにきた。
どうやら、スポーツバッグで欲しいデザインがいくつかあり、どれにしようか迷っているらしい。
どれがいいかなといって妹が選んでいたスポーツバッグは、なんていうか、安っぽい生地の、デザインも男の子向けのバッグだと思った。
こんなのより、もっと可愛いデザインはたくさんあるのにと妹へ伝えたら、「でも、普段使うわけじゃないのにあんまり高いの買うとお母さんに申し訳ない」と言っていた。

3万円くらいのワンピースを母ちゃんにねだる気満々だった私に比べて、妹は3000円のスポーツバッグを真剣に選んでいる。なんて謙虚な子だろうと思ったし、えらいとも思ったけど、私は偉くなくていいし、謙虚じゃなくてもいいやと思った。
しかし、どれがいいとは言っても、どれもこれも残念なデザインばかりで、(安いから当然だが)この中から選べと言われても困る。
妹に、「とりあえず値段は気にせず、妹が一番気にいったデザインはどれなの?」と聞いたら、もじもじしながら某子供向けブランドのバッグを指差した。
当時、というか今もかもしれないけど、流行っていたんだよね、子供向けのブランド。ベティーズなんちゃらとか、メゾなんちゃらとか。
妹が指差したバッグは、ピンクのリボンと可愛いキャラクターがついた、まさに「可愛いJSのための旅行カバン」だと思った。

値段は確か1万円とかだったかな、もっと安かったかもしれないけど覚えていない。
「これにしなよ、可愛いじゃん」と言ったら、妹が「こんな高いバッグ、お母さんに申し訳ない」と言った。
「母ちゃん稼いでいるから大丈夫だよ。私が母ちゃんに話してあげる」
「だめだよ、お母さんお金貯めてるんだから」
絶対だめだという妹がちょっと泣きそうだったし、「でも、これが欲しいというとお母さんは買ってくれちゃうから、絶対黙っていてほしい」と言われた。

妹にバッグを持たせたら、なんとも似合っていた。
妹以外が使ったら駄目なんじゃね? このバッグ。とも思った。
衝動的に、妹を振り切ってバッグをレジへ持っていった。本当に衝動的に、だった。
妹が「いいよお姉ちゃん、いらないよ」と何度も言ってたけど、さっさとお金を払って、大きい包みを妹へ渡した。
別に買ってあげるつもりじゃなかった。ちゃんとレシートをもらったので、あとから母ちゃんにお金を返してもらおうと思っていたし。

あくまでもお金は建て替えるつもりだった。し、母ちゃんにすぐレシートが渡せるよう、綺麗に折りたたんでポケットへ常備していた。
「こんなとこにいたの」、とまもなくやってきた母ちゃんへ妹は飛びついて、「お母さん! みて! お姉ちゃんが、妹に買ってくれたの! すっごく可愛いバッグだよ!」と大騒ぎしていた。
「いや、違う」という前に、母ちゃんが目ん玉飛び出しそうなほど私を見て、「クズ子! あんた……」と売り場で震えはじめてしまった。
母ちゃんが、涙目で「妹、お姉ちゃんにありがとうした?」と聞いて、妹が力いっぱい私んい抱きついて「お姉ちゃん大好き! ありがとう!」と言った。
店員から「仲良しですね、良いお姉さまだわ」と言われて、私はもう、後には引けないんじゃないかと思い泣きたくなった。

母ちゃんは、きっとめちゃくちゃ感動したんだろう。
デパートの最上階にあるレストラン街の、一番一番奥にあった高いお寿司屋さんに、私と妹を連れていってくれた。
「クズ子は今日、一番偉かったから、一番たくさん食べなさい」と母ちゃんが言った。
もうむしろ寿司はいらないので、お金返して下さいと言いたかった。

でも、妹がカウンターに座ってからも、ずっとずっと大事そうにバッグを腕に抱えていて、お寿司が来るのを待っている間、袋の合間から中身を覗いては、嬉しそうにしていた。
この日、10回以上妹から「お姉ちゃんありがとう」と言われた気がする。

妹からお礼を言われると、悪い気はしない。むしろ嬉しい。
11万あったお金が、10万に減った事は大きかったが、不思議と、まぁいいかと思えた。
以前、母ちゃんがいってた、“相手のために使ったお金が惜しいと思わないなら、それは愛だ”の言葉を思い出した。私は、妹へはちゃんと愛があるらしい。
その日の夜、母ちゃんと妹の二人で、買ったバッグを撮影大会していた。
母ちゃんは、「また社報にのせる!」と言ったので、「大事な妹のためだもん、このくらいは当然だよ。
当然の事を社報に載せなくてもいいんじゃないかな(キリッ)」と言ってみた。
母ちゃんはえらく感動していたようだった。

それからまた一カ月、3ヶ月目の給料がもらえた。また何とか税が引かれていた。詐欺だ。
3ヶ月目のお給料がもらえた時点で、手元に前月分のお金が3万円残っていた。
ひと月のお給料はその月に使い切らなきゃ! となぜか思っていた私は、今日中に3万円を処分してしまいたかった。
なので、前に母ちゃんに連れて行ってもらったあの寿司屋に行こうと思った。
だけど場所が分からないというか、都内な上に駅からも大分離れていた記憶があったので、母ちゃんに車を出してもらおうと思った。

母ちゃんに、「お給料出たから、お寿司を食べに行きたいので車を出してほしい」と伝えたら、二つ返事が返ってきた。なぜか妹も同乗して、3人で出かけた。
店についたので、「2時間くらいしたらまた迎えにきて」と言った。
母ちゃんは「何を言ってるの??」と言って、一緒に車から降りてしまった。
どうやら一緒にご飯を食べるつもりらしい。
でも、会計は別々だからね、と念を押した。
母ちゃんは、「いいわよ、出してあげるから」と笑った。
「自分の食費を出そうなんて、クズ子も大人になったわね」と嬉しそうにしていた。
なんか誤解されていると思った。

私は、3万円分の寿司を自分で食い散らかしたかっただけなんだけど、母ちゃんは「クズ子が家族にご飯を御馳走しようとしてる」と思ったらしい。
「本当、私は自分で食べたいもの食べてお金使いたいだけなの」
「はいはい分かってるからww」
「今日中に使いたいんだよ、3万円」
「はいはwwwwクズ子は照れ屋よねwwww」
母ちゃんには日本語が通じないらしいので、板前さんに「この人たち(母、妹)とは会計別々ですからね」と伝えた。
すかさず母ちゃんが「この子ったら、社会人になりたてでやっと稼げるようになって、自立心が芽生え始めたんですよ」と板前さんに言った。板前さんも「姉ちゃん偉いな」と言った。
みんな誤解しているけど、まぁいいかと思った。

多分このお店は母ちゃんが会計してくれるだろうから、3万円使えない。
やっぱり無理してでも一人でくればよかったかなと少し後悔したが、久しぶりに3人そろって食べるご飯が美味しくて、どうでもいいか、と考え直した。

お会計の時、板前さんはなぜか私に伝票を差し出してきた。
そういや「会計別々ね」と伝えてあったっけと思ったので、母ちゃんに伝票を渡そうと思った。
だけど、母ちゃんは手洗いにいっていなかったのでとりあえず払っておいた。
会計額は覚えてないけど、3万円じゃ足らなかった気がする。
それもそのはずだ、だって3人分の会計だったから。
手洗いから帰った母ちゃんが、会計のお釣りをもらっている私を見て涙ぐんだ。
板前さんは「親孝行な姉ちゃんのためにサービスしときましたよ、お母さん」と言った。
またしても引けない状況に陥った。

帰りの車の中で、どんより落ち込んでいる私を妹は気にしていた。
「食中毒?」「具合悪い?」と気にかけてくれて、ペットボトルの水をくれたりした。
帰ってから、リビングへ母ちゃんに呼ばれた。
母ちゃんは先ほどの店の領収書を出せと言ったので渡した。
領収書の金額よりも少し大目の金額を私にくれた母ちゃん。
「家族に御馳走しようとしてくれた、その優しい気持ちだけで十分だから、とっておきなさい」と言った。
「母ちゃんが定年迎えたら、その時奢ってくれたらいいからww」と言った。
ありがたくもらおうとしたけど、なんかこれをもらったらかっこ悪い気がした。
だから、「じゃあ半分だけもらう」と言って、半分だけもらって、半分は母ちゃんに返した。

妹のバッグの件と立て続けだったので、もう家族と出かけるのはしばらく控えようと思ったけど、
やっぱり悪い気はしなかった。
何気なく次の仕事の時、トレーナーにその話をしたら、来る日も来る日もパートのおばちゃんたちに
「あんた、お母さんに給料で高級寿司ごちそうしたんだって!? 偉いわね?」と褒められた。
浅見さんと同じシフトの日、「あんた偉かったらしいじゃん。トレーナーに聞いたよ」と言って、その日のまかないを浅見さんが作ってくれた。
浅見さんが自らまかないを作ってくれる事なんか、とても珍しい。
褒められまくって嬉しかった私は、仲良しになりつつあったあの例のゲロガキ親子にもちょっと自慢してみた。
ゲロガキの母親は、「聞いた? ゲロガキちゃん、クズ子お姉ちゃんは親孝行で偉いわね?」と言って、「ゲロガキちゃんも、将来クズ子ちゃんのような立派なお姉ちゃんになるのよ」と言った。

ピザにも「クズ子ちゃん偉いよね、トレーナーや浅見さん達がほめてるの聞いたよ」と言われた。
「まじっすか、浅見さん何て言ってました?」
「あの子、最初はどこの不良娘かと思ってたけど、ガッツもあるし、親孝行な良い子だって言ってたよ」
「浅見さんがそう言ってたんですか?」
「うん」
「えぇえ? wwwwwwマジっすかwwwwすみません、最後のほうよく聞こえなかったんでもう一回言ってくださいwwwwえ? 浅見さんはなんて言ってました?? え? え?」
「あ、だからね(略 」

結局ピザに同じこと4回言わせた。
親孝行すると、浅見さんが褒めてくれるらしい。

貯金

しかし、これを書き始めて改めて思ったが、私は『金がもらえるからこうしよう!』『褒めてもらえるからこうしよう!』という直観だけで生きてきた人間なんだと改めて思う。

親孝行をしようっていったって、働くだけで親孝行出来てるんだから別にいいんじゃね? と本気で思っていた私。
何をしたらいいか分からないので、兄に相談した。
兄はもう専門学校の入学手続きも済んでおり、9月生とかいうので9月の半ばには入学するんだと言ってた。
1年間の学校で、そこでPCの事を学ぶんだと。
全然興味がないので、兄の学校の話はほとんど聞かずに、「親孝行のやり方」を聞いた。

「なんで突然親孝行したくなったんだ?」と言われたので、寿司屋の一件で周りから褒めてもらえた事を話したら、
兄は「お前、ほんと頭の中は幼稚園児と同じだなww」と笑った。
兄は、まずは私自身が落ち着けといった。
親孝行をするためには、まず自分自身のきちんとした土台が必要なんだと。
「とりあえず貯金してみろよ」と言われたので、「それだけは嫌だ」と言った。
貯金のように手元にお金を残すと、あぶくのように消えてしまうと本気で思っていたからだ。
昔はお年玉を貯金したりしていたが、それも昔の話。
金銭感覚がちょっとおかしい私は、手にしたお金をすぐに使ってしまわないと不安で不安で仕方なかったので、貯金なんぞするくらいなら妹に小遣いとして全額くれてやった方がまだましだと言った。
多分、これを読んでいる人は私のこの感覚を理解できないと思う。
私も、今となっては当時の私の感覚が理解できないからだ。

兄は、私はまず正しい金銭感覚を覚える事からはじめなきゃいけないなと言った。
「お前、なんかやりたい事はないのか?」と聞かれた。
ぱっと浮かんだのはどんぶりいっぱいのウニを食べる事だったのでそう答えたら、「そうじゃなくて、もっと大きい事だよww」と言われた。
私にとってウニをどんぶりいっぱい食べる事は大きな事だったので、そう反論したら、「じゃあ、ウニをたくさん食べる事を目標にして、ウニ貯金しろよ」と言われた。
ウニを大量に食べるには、おそらく1万円くらいのお金が必要だ。
そしたら、毎月1000円ずつ貯金すれば10カ月後にウニが食べられる。

そんな事しなくても給料もらってすぐに1万円使って食えるじゃんwwと兄を馬鹿にしたが、ここで大事なのは“ウニを食べる事”じゃなくて、“ウニを食べるためにお金を貯めた事”が大事になるんだと言ってた。
「だって今月すぐに食べられちゃったら、来月はどうすんだよ。また違う目標探すのか?」
「もちろん毎月毎月でもいいけど、いきなりばーっと食べちゃうより、こつこつ貯めてからやっと食べられた方が達成感があるだろ?」
「お前、死ぬほどイカとタコだけを握り続けてやっと握れた時嬉しかったって言ってたじゃん」
「それと一緒で、こつこつやり続けて達成できた時に、はじめて“1万円のお金と、ウニの価値”が分かるから」
だまされたと思ってやってみろと言われて電話を切った。

母ちゃんにその話をしたら、母ちゃんはウニ貯金に賛成してくれた。
毎月1000円くらいなら、手元に残ってもまだ我慢できる。
さすがに1万とか2万とか残ってしまうと怖いけど、1000円なら、と。
母ちゃんが、「やるならとことんやれば?」と言って、ウニ貯金がたまるまで職場でうにを食べるのを我慢してみたらどうかと言われた。
確かに良い案だとは思うけど、ウニがない生活に耐えきれるかどうか不安だ。
本気で頭を抱えている私を見かねた母ちゃんが、「じゃあ、月々3000円にして、最後の月だけ4000円。
それで三か月のスパンで考えたら?」と提案してくれた。
三か月ならまだ我慢できるけど、3000円残すには少し不安が残る。
でも、これをやれば親孝行ができて、いっぱい浅見さんに褒めてもらえる! と思っていた私は、三か月だけ頑張ってみようと思った。

しかし、私は腐っても心根はニートだ。
三か月のスパンは長過ぎた。三か月も待ってられないと思った。
母ちゃんに相談したら、「じゃあ、週貯金に切り替えろ!」と言った。
毎週3000円ずつ“貯めているつもりで、貯金箱へ入れる”
そうすれば、一カ月でウニ貯金が完成するという訳だ。

「まずは一カ月ずつでいいから、少しずつ間隔を広げていけばいいよ」と言われて、一カ月なら何とか頑張れると思った。
どちらにしても、一カ月で金を使い切る、という事には変わりないしな。

貯金を始めた、とトレーナーに伝えた翌日からすぐ、またパートのおばちゃん連中に褒められた。
浅見さんも、「あんた、貯金してるなんて偉いじゃん」と褒めてくれた。
褒められて嬉しいけど、どうしても金銭的な物は、人から褒められてすぐに変われる物ではない。
週にたかが3000円、いつも使うはずのお金を使わないで我慢しているだけで本当に辛かった。
貯金箱に入れたお金が消滅する夢を何度も見て、財布に戻してしまいたい衝動にかられた。
その度に母ちゃんから「やればできる!」と怒鳴ってもらい、自分に喝を入れていた。
これも全てはウニのため、いや、浅見さんのためだ。
浅見さんに褒められたい。いい子だと思ってもらいたい。
そしてまたお褒めの言葉とかをもらいたい。
(常連の客にも貯金の事は話しまくっていたので)そして、金一封だ。
そんなピュアな気持ちで、貯金を頑張った私。一ヶ月目は無事に成功した。

一ヶ月目、貯金箱に入った1万円分の1000円札を慌てて数えた。
一枚もなくなっていないし、まして消滅もしていない。
お金が消えなかったという当たり前の事で腰が抜けるほど安心した。
母ちゃんに10枚の1000円札を見せたら、母ちゃんは「母ちゃんよりも先に、クズ子はクズ子自身を褒めてあげなさい」と言った。
「偉かった、頑張ったと言ってごらん」と言われたので、口にだして言ったら、なんかめちゃくちゃ気分がよくなった。
そのあと、母ちゃんと妹にもみくちゃにされながら褒めてもらった後、さっそくアマゾンでビン詰めのウニを1万円分注文した。

数日後に冷凍で来たウニ。
冷凍なので若干風味は薄いけど、それでも一カ月ぶりのウニの味はたまらなく美味い。
妹や母ちゃんにあげようなんていう気はさらさらないので、一人で、その日一日で全部のウニを食べきった。

ただ何の目標もなく貯めているお金は、私にとったらないお金と一緒だった。
だから貯金だけは怖い。
けど、目標貯金(別名寿司ネタ貯金)は、明確に使い道が決まっているので、回数を重ねるごとに当初あった“貯金箱からお金がなくなるかも”という不安は消えた。
週貯金を月単位に出来たのは、確か寿司ネタ貯金をはじめてから1年はかかったと思う。
そのくらい、月をまたいでお金を残すという事の不安は大きかった。

しかし気付けば、寿司屋の最終扇、太巻きも巻けるようになったし、妹も中学に入学したし、兄もSEの卵として就職していた。
貯金に夢中で毎日が早くて、本当、あっという間に私は20歳を目前にしていた。
なんだかんだで、寿司屋でバイトを始めて2年を経過していた訳だ。

着物

20歳は成人式というものがあるらしい。
だがしかし、そんなものには全く興味がなかった私は、成人式よりもお祝いがもらえる事が楽しみだった。
親戚もほとんどいなかったけど、母ちゃんと兄がくれると言ってたので、もらったらすぐ貯金箱にいれようと思っていた。
確かこの時、20歳を迎える直前で、結構大きなスパンで貯金をする事にチャレンジしていたので、少しでもお金を貯めたかった。
何を買おうとしてたかって? まぐろの頭だよ。
20歳の女が買うもんじゃねーよwwwwと、今なら思うけど、当時は本気で欲しかったんだ。

とにかく大きなまぐろの頭が欲しくて、予算3万円、月々3000円の10カ月スパンを考えていた。
仕事も楽しかったし、とにかくたくさん店にいたかった。
トレーナーが、「あんたもうすぐ成人式だから、成人式用のバッグを買ってやる」と言ってくれた。
そんなもんいらないからお金下さいと言ったら、「あんたは、変わったけど変わってなくていいねww」と返された。
きっとトレーナーからしたら、どっかのDQNを更生させた気分だったんだろう。
いや、それもあながち間違っていないけどさ。

2年間いた店に凄く愛着がわいてたし、売上が悪いとトレーナーと一緒になって落ち込んだ。
たかが2年間だけど、私にとってこの2年間はただバイトをしての2年間じゃないからな。
思い入れが半端なかった。
ある日、新規っで始めるフェアのポスターをパートさん達で手作りしようという話になった。
もちろん本社からポスター買えば済む話なんだけど、経費削減とかいって、みんなで作る事になった。
チェーン店だと、メニュー表とかポスターを手作りしている店は多い。

ポスターは全部で2枚。1枚はトレーナーが描いて、もう一枚はパートの誰かが描く事になった。
しかしおばちゃん連中、誰も書いてこようとしない。
「うちは孫が来てるから駄目」とか「子供がいたずらしちゃうかもしれないから」とか言って、ポスター作りを嫌がっていた。
見かねた浅見さんが「私がやるからいい」と言ってポスター用の白い紙をふんだくった。
明らかに不機嫌な浅見さんにトレーナーがこっそりと「悪いね、ちょっと手当付けるからさ」と伝えた。
だから「お金出るならやります」と言って、浅見さんから白いポスター用紙を受け取った。
絵を描くのは嫌いじゃないし、何よりもお金が増えればまぐろの頭が早く手に入ると思ったからだ。

家に帰ってから描き始めてみたら、意外と夢中になった。
学生の頃から、図画工作や学級新聞とか、作文とか大好きだったからな。得意とは言わないが。
一日で描き終えてしまい、翌日すぐにトレーナーに提出したら、トレーナーが驚いてた。
「あんたこれ一日で描いたの?」というので、そうですと返事したら、トレーナーは私はポスター作りの才能があると褒めてくれた。
パートの人もみんな褒めてくれた。トレーナーが、「また追加で手当て出すから、新しいメニュー表も作って」と言った。
お金がもらえるなら何でもやるので、これも一日で作った。また褒めてもらった。
物作りが得意なのかもしれないと思った。

時系列がぐちゃぐちゃで申し訳ないが、妹が中学校に入学する時、体操着袋が欲しいと言ったが、気に行ったものが見つからず、くりくりと描いたイラストを見せて「お姉ちゃん、こんなの欲しいんだけどないかな?」と聞いてきた。
なんか花のポケットがついたかわいいやつだったけど、これとまるっきり同じものはどう考えてもないだろうと思ったので、安い生地を買ってきて作ってみた。
裁縫なんかしらなかったし、型紙? 縫い代? なにそれおいしいの? 状態だったくせに、自画自賛できるくらいの物は作れた。
頭で想像した物をそのまま形にする事は得意だった。
てっきり何の取り柄もないと思っていたが、意外な所で取り柄を発見した訳だ。

母ちゃんが珍しく店に買い物に来た。
トレーナーに挨拶をして、私が作ったポスターとメニュー表を見ていた。
寿司を買って帰った母ちゃん。
家に帰ってその寿司を一緒に食べながら、母ちゃんはオヤジの話をし始めた。

私は、オヤジによく似ているらしい。
オヤジも勉強さえできなかったが、一時期絵描きを目指して大学まで進んだらしい。
何がきっかけで大学を辞めて、あんな詐欺まがいな営業職についたのかまでは母ちゃんは話さなかったけど、「あんたがオヤジの血を引き継いでくれて嬉しい」と言っていた。
あんなオヤジに似てるなんて絶対に嫌だったので、私の方が立派だよ、貯金してるじゃんと反論した。
母ちゃんは、「オヤジの良い所だけを引き継いでくれたっていう意味だよww」と言ってた。

オヤジの話を聞くと私があからさまに嫌な顔をするので、いつからか母ちゃんも妹もオヤジの話はしなくなっていたのに。
なぜ今そんな話をするのかと思っていたら、妹も入学したし、あんたも成人するし、兄も就職出来た。その記念に家族写真を撮りたいんだと言っていた。
もちろんオヤジも一緒に。
オヤジ抜きなら撮ってもいいけど、オヤジがいるなら嫌だと言った。
母ちゃんはそれ以上何も言わなかった。

ある日、母ちゃんに連れられて着物屋さんに出かけた。
成人式用の着物を見に来たらしい。
成人式なんか出ないし、そんなもん出るくらいなら働きたいし、成人式の日は寿司屋めちゃくちゃ忙しいからな。休んでいられない、
とわめく私を無視して、母ちゃんは着物屋さんの店員と話をしていた。
母ちゃんは、「これから一生、クズ子から何の親孝行もいらないから、お願いだから成人式だけはきちんと迎えてほしい」と言った。
母ちゃんが20歳の頃、母ちゃんの母ちゃん(私のばあちゃんだね)は、成人式なんか贅沢な人が迎える事だといって支度をしてもらえなかったらしい。
そこで母ちゃんは、自分でアルバイトをして着物を用意したんだと。
でも、みんな家族を連れて着物屋さんに来てるのに、自分は一人だけで凄く寂しかったと言っていた。

母ちゃんは、20歳の頃に、絶対自分に娘が出来たらとびっきり良い着物を着せてあげよう! と決めたらしい。
「母ちゃんの夢を押しつけて申し訳ないけど、お願い」と言われた。
母ちゃんの、そんな悲しそうな顔を見るのが嫌だったので、しぶしぶOKした。
ほとんど乗り気ではなかったけど。

赤とかピンクとか青とか、よく見かけるような着物は嫌だと思った。
なので、「一番珍しい着物がいいです」と店員に伝えたら、店員は苦笑いしていた。
黒や紫じゃ、私の無愛想顔ではまるっきり“あっち”の人にみえてしまう。
だからといって、体が小さいので明るい色も似合わない。
そこで母ちゃんが提案したのが、白い着物だった。白い着物に花の柄が入ってるやつ。
試着したらなかなか綺麗だったので「これがいい」と言ったら、母ちゃんはバッグから封筒を出した。封筒の中身は、間違いなく札だろう。
現金一括払いかよ、というか、レンタルじゃなくて購入する事にしていた事に驚いた。

着物も帯もかんざしも、まとめて全部現金払い。
カウンターで、どさっとおかれた現金に目がくらみそうだった。

帰りの車の中で、あのお金は、ずっと昔から私の成人式の着物を作るために貯めていたお金だったと教えてもらった。
「あんたが今やってるまぐろ貯金と同じだよ」と言っていた。
今はまた妹の着物貯金もしているらしい。
私はまぐり貯金しかしていないけど、母ちゃんはいくつも貯金しているようだ。
「何貯金があるの?」と聞いても教えてくれなかったけど、少なからず、自分のためにしている貯金なんかほとんどないんだろうなと思った。
私は将来母親になっても、母ちゃんほど子供に愛をそそぐ自信がない。

トレーナーに母ちゃんに着物を作ってもらったという話をしたら、トレーナーと、あともう一人一緒にシフトで入っていたおばちゃんが、「今時着物作ってくれるお母さんなかなかいないよ」と言った。
どうせ人生で着る回数なんか限られているし、そんなもんに何十万もかけてくれる親はなかなかいないんだと。
あんたは幸せ者だと言われた。正直嬉しいと思った。
今も昔も、母ちゃんが褒められると嬉しくなる。

またある日に家に帰ったら、妹が泣いていた。どうかしたのかと聞いたら、家が壊されると聞いた。
前に住んでいた家だが、もうオヤジもいないし、所詮土地の権利はオヤジの親戚がもっているので、ついに取り壊されて駐車場になるらしい。
法的手続きを取ったあとだからヤクザが来るという事もないだろうが、建物があるだけで物騒だとか何とか近所の人にも言われたんだと。

数日後に家を見に行くと、すでに家の原型がなかった。
うっわwwwwwwwwやべぇよwwwwまじねえよwwwwwwwwwwと半分パニックになったのですぐに家へ帰った。

ある日母ちゃんは、私と妹を連れて不動産屋に出かけた。
家を建てたいんですけど、と店員に言ってた。テーブルを挟んで、家の話をしている母ちゃん。
店員に大体の年収は、と聞かれて、「600?700万くらいです」と母ちゃんは答えた。
扶養控除内で働くおばちゃんが、10年かからずに年収700万になれた例なんて、きっと日本じゅう探してもほとんどいないと思う。

いくつかパンフレットをもらった母ちゃんに、「家建てるの?」と聞いた。
そしたら、「今はまだ建てられないけど、あんたが25になるまでには必ずたてる」と断言した。
帰りの車の中で、母ちゃんは「こんな家が欲しいんだ」と夢を語ってくれた。
少女趣味な母ちゃんらしく、吹き抜けのリビングに、真っ白な壁で、御庭は広くて、とか、子供みたいにうきうきしながら語ってた。
部屋数は少なくていいらしい。バラバラに部屋に閉じこもるより、ひとつの場所に家族がそろっているのがいいんだと。
「妹の部屋はこんな感じで、クズ子の部屋はキッチンに一番近い部屋がいいな」と話す母ちゃん。
「母ちゃんの部屋は?」と聞いたら、「オヤジと相談して決める。オヤジの部屋にもなるし」と言ってた。
自分で稼いで立て直す家、そこに暮らす家族の中に、オヤジも含まれているようだった。

家が壊されてから、前家の近所でオヤジの噂が立った。
もちろん元々隣家には有名だったけど、今回はおばちゃんネットワークであっというまに広がったんだろう。
あるおばちゃんなんか、わざわざ私が寿司屋でバイトしてる事を嗅ぎつけて「クズ子ちゃん、お父さんの事大変だったわね?」と言いにきたりもした。
ずっとかくしていたのに、寿司屋の中でオヤジの事がばれた。

ババァの偏見の目は凄いぞ。
全然話した事もないようなパートのおばちゃんが突然優しくなって、何かと思ったら「御父さんいくらくらい借金あったの?」とか、「大変だったでしょう、それで高校も行けなかったの?」とか聞いてくる。
レジのお金盗られたら困るわよねーとか、あの子前は水商売してたんじゃない? 入ってきた時に髪の毛あかかったから、とか。
私に聞こえないようにこそこそ話しているつもりでもつつぬけなんだよね。
ウザイ、本当にウザイ。うざすぎてうんこしたくなるくらいウザイ。

一番悲しかったのは、トレーナーの態度が変わった事だ。
あんなに可愛がってくれていたのに、冷たくなってしまった。
トレーナーにも偏見の目で見られているんだと思った。
浅見さんだけはケロっとしてて、私に「気にしたらあんたの負けだからね」と言ってくれたけど、他のババァならともかく、トレーナーの事はとにかくショックだった。
トレーナーは第二の母ちゃんみたいな存在だったから、母ちゃんに見放された気分になった。
浅見さんに励まされても、ピザが私のためにお菓子を大量に差し入れてくれても、全然元気が出ない。もうバイトに行くのが嫌で、また遅刻癖がぶり返した。

母ちゃんにも話せなかった。だって母ちゃんは、社会復帰した私を自慢に思ってくれている訳だから、ここでくじけそうだと弱音を吐いたら、母ちゃんもトレーナーみたいに私を見放すんじゃないかと心配になった。

ある日に浅見さんは、「トレーナーは、あんたが自分で話してくれなかった事がショックなんだよ」と言った。
なんでそんな事話さなきゃいけないのかと思ったけど、「トレーナーはあんたの事、自分の子供みたいに思ってるから、何でも相談してほしかったんじゃないかな」と言った。
別に家の事で悩んでないし、なんでわざわざ不幸自慢しなきゃいけないのか分からない。
それに、私の事を子供のように思っていてくれたんなら、今! 今じゃん! 
今わたし超立場がふりなんだから、今助けてくれよ! と思ったし、言ったと思う。
浅見さんは、それ以上何も言わなかった。

行きたくないし辛いし、もう嫌だと思ったので、バイトを辞めようと思った。
ていうか、やめた。トレーナーに、「今月でやめます」と言ったら、「分かった」としか言わなかった。
ここで逆行に立ち向かおうなんていう精神は、あいにく持ち合わせていなかった。

バイトをやめた事を母ちゃんには言えなかった。
まるでリストラされたオヤジのように、バイトをしているふりをして、時間になれば家へ戻る生活をした。
まぐろ貯金のおかげと、辞めたその日に「あとから取りに来るのは来づらいだろうから」とトレーナーは給料を用意してくれていて、中を見たら、かなり色をつけてくれていた。
だからお金もあるし、2年前のニートクズ子なら、これだけお金があれば1年はニートでいられただろう。

だけど母ちゃんにはすお見通しだったようだ。「あんた、最近寿司の匂いがしないけどちゃんとバイトしてる?」と聞かれて、白状した。
何もかもオヤジのせいだと母ちゃんを怒鳴りつけたら、母ちゃんも一緒になって「そうだそうだ! よく言った!」と怒鳴った。
大きい声を出したら泣けてきたので、母ちゃんにすがりついてわんわん泣いたと思う。

驚いたのは、辞めた事を後悔していた事だ。諦めの速さだけは自信があったはずだし、何でも「まぁいいか」と思える精神だったのに、人の目なんか気にしないはずだったのに、辞める直前、それが全部出来なくなっていたと思う。

浅見さんは最後まで味方でいてくれたし、ピザだってなるべく私とシフトが重なるようにしてくれたのに、そんな好意を無にして、目の前の辛い物から逃げ出してきた後悔で、頭が痛かった。
母ちゃんは、「それで後悔しないの? あんた本当に後悔しないの?」と聞いた。
後悔している事も、母ちゃんはお見通しのようだ。
少しでも後悔しているなら、今からでも遅くないんだよ、と母ちゃんは復帰を促してくれたけど、トレーナーの顔を見る勇気がない。
抜け殻のようになった私は、またニートに戻って毎日部屋に引きこもる生活を送った。
働こうとは思わなかった。働く=傷つくと覚えた。

目標がない人間は本当に駄目になると思った。
毎日うんこして食って寝るだけだ。
ある日2ちゃんを見たら、「働かざるもの食うべからず」と書いてあった。じゃあ食わねーよ! 
とむきになって、一週間ポカリだけで過ごした。真症のバカだったと思う。
まだ2年前の方が家事もしてたし、良かったと思う。

出来あがった着物が届いたけど、見る気にもなれなかった。
当然、オヤジにも会いたくなかったので、家族で記念写真の話なんか絶対に嫌だと言い続けた。

成人式の手前で、私は20歳の誕生日を迎えた。
全然嬉しくなかったけど、もらえたプレゼントが嬉しかった。
母ちゃんから新しいミシンと、兄からは覚えてない(なんか洋服とかだった気がする)妹からは120色入りの色鉛筆と、スケッチブックをもらった。
このスケッチブックは嬉しかった。毎日狂ったように絵を描いた。
前に寿司屋でポスターを描いた時、楽しかった事を思い出したし、絵を描くと時間潰しにもなる。
そしてミシンも嬉しかった。前も書いたけど、頭の中で思った物を形にするのは得意なので、“どういう作りなんだ? ”というアニメとかのキャラクター衣装を作るのが得意だった。
もちろん余り布とかで形だけ作ってるだけだったので、特に着る事もなく作っては捨てていたけど、それでも楽しかった。

ある日に、妹が昔好きだったアニメのキャラクター衣装を作ったら、妹が「お姉ちゃん、これインターネットとかで売れば?」と言った。
お金もそろそろつきていたし、昔やったバザー感覚で、いっちょオークションに出品してみるかと思った。
材料費2000円くらいの物が、20000円で売れた。
妹に着せて撮った写真が良かったのか、明らかに男性ですね、という方が落札してくれた。
調子にのってもう一つ出品したら、こっちは12000円で売れた。
時期的に冬の大きなイベント前で良かったのかもしれない。

母ちゃんにその事を話したら、「自分でビジネスするのは色々と大変だよ」と言った。
いくら以上稼ぐと税金がどうので、確定申告がうんたらかんたらと言われた。
別にこれを仕事にしようとは思ってなかったので聞き飛ばしていたけど、それでもまたやる気というか、楽して金が手に入る! 精神が目覚めてきた。
衣装作りは苦じゃないというか、多分前世は洋服屋だったんだと思う。
一日に2着作るのは余裕だったし、見かけも悪くない。
ただ、いくらモザイク入りとはいえ妹の写真を使うのは怖かったので自分で着て出品した。
妹の写真を使った時よりも落札金額が低かったのはなぜだろうか。

ひと月で、結構な金額が稼げた。
母ちゃんが、「○○円は税金として申告して提出しなきゃダメなんだからね」と教えてくれた。
だけど、ひと月でこれだけ稼げてしまっていいものなのかちょっと怖くなった。

ある日母ちゃんが、「今度うちで新しい缶を作ろうと思うんだけどアイディアない?」と聞いてきた。
そういうのを考えるのは大好きなので、一晩中缶のデザインを考えた。
翌日母ちゃんにデザイン画を渡して見せたら、母ちゃんは驚いていた。
「あんた絵上手くなったね」と褒めてもらった。
一日中ずっと絵を描く生活をしていたので、画力が上がったんだと思った。

デザイン画を持って、母ちゃんが「これが通れば、母ちゃんの株も上がる」と言った。

絵の勉強がしたいと思った。いわゆるアニメ絵とかはからっきしダメだから、漫画を描こうとは思わなかったけど、とりあえず絵を習いたいと思った。
母ちゃんに言ったら、「学校に行く?」と言われた。
学校は嫌だったので、もう独学でいいやと思った。
だけど、独学で絵を勉強するのは難しい。だって、第三者の言葉がもらえないじゃん。
自分では上手い! と思っても、実は他人からみたら“いや、ここが……”ってのがあると思うんだよ。
母ちゃんに相談したら、母ちゃんは、「オヤジに習ったら?」と言った。
絶対嫌だと言ったけど、絵を習っていたらしいオヤジの絵には興味があった。
母ちゃんにオヤジの絵が見たいと言ったら、母ちゃんが一枚の絵を見せてくれた。
母ちゃんの絵だった。油絵だったけど、めちゃくちゃ上手かった。

私が今まで心奪われたのは、人生で二つだけ。えんがわと、このオヤジの油絵だ。
結婚前に描いてもらったらしく、もうかなり古い物だからヒビ割れて状態は悪かったけど、でも、ずっと見ていても飽きない絵だった。
何とかしてこの絵を描きたい衝動に駆られたので、模写した。
模写しまくったけど、やっぱり全然違う。何が違うかなんか明白だ。
接客の時の、ピザと私の違いと同じ。心がないんだと思った。
オヤジは本当に母ちゃんを愛していたんだなと思った。

オヤジに会おうと思ったのは、これがきっかけだ。
オヤジに会おうというか、感覚としては大ファンの画家に会いたいという気分だった。
もちろん相手はオヤジだけど、それでもこの絵を描いた時の気持ちが聞きたいと思った。
それは娘として思ったのではなく、一人の人間として思った。

オヤジ

母ちゃんがオヤジのアパートまで連れていってくれた。
数年ぶりに見たオヤジは、前歯がなかった。
「オヤジ、前歯は?」が、久々の対面の第一声だったと思う。

前歯の真相は、週に一度の母ちゃんとのデートの日。
仕事から帰ってきてからうきうきはしゃいでアパートの階段を降りたら、そのまま転倒したらしい。
歯医者で「もう駄目なので抜きましょう」といって抜かれたオヤジの前歯。
もちろんしばらくは仮の歯が入っていたが、そこから治療費をけちって歯医者へ通院しなくなり。
仮歯も取れてしまい、みごとな歯抜けになったという訳だ。
「いや、歯医者行きなよ」
「いやーお父さん歯医者嫌いだからねー」
HAHAHAと笑うオヤジは、昔からこういうオヤジだ。軽いというか、うん、軽い。

オヤジのアパートで、母ちゃんはかいがいしく洗濯や掃除をしていた。
しかしオヤジの部屋は矛盾だらけの部屋だ。
まずテレビがないのにDVDがあるし、炊飯器がないのに生のお米がある。
でも鍋もないんだぞ。
そして部屋に貼られた、某子役のポスターと、某タレントのポスター。
丁寧に新聞の切り抜きまで貼ってある。名前は伏せさせてもらう。
某子役は、妹。そして某タレントは私に顔が似てるから好きなんだと言っていた。
「毎日妹とクズ子が家にいるみたいで嬉しいから、お父さん貼っちゃった」と言った。

悪いけど、うちのオヤジは歩くギャグ漫画みたいな人なので、あまりエピソードを書くと漫画みたいになっちゃうから、書くのはなるべく控える。

なぜテレビがないのにDVDプレイヤーがあるのか聞いたら、見たいDVDがあったからだと言った。
でもテレビないじゃんと言ったら、どうやら数日前まではあったらしい。
だけど、家で米が食べたかったから売っちゃったと言った。
「でも炊飯器ないじゃん」
「そうなんだよ! だから、DVDプレイヤー売って炊飯器買おうかな」
「やだわ、あなたwwwwそれじゃせっかく買ったDVDが見れないじゃないwwww」
「そうなんだよね?」
あははうふふと笑いあう法律上は元夫婦の二人。そういえば、
小さい頃からオヤジと母ちゃんはこんなだったなぁと思った。

オヤジは、私の現状をたくさん聞いてきた。
なので、そのまま話したら、オヤジは寿司屋をやめたきっかけを聞いて、黙って頭を下げた。

意外に、話しているうちにあれだけ恨んでいた気持ちが消えていった。
オヤジは昔から、人を和ませる力を持っている人だったし、やっぱり元営業マントップだけはある、穏やかというか、優しいというか。
何度も何度も謝ってくれて、こっちが申し訳ない気持ちになってきた。

これは正直な気持ち、今の今でも、なぜオヤジが借金してしまったのか分からない。
もちろん理由はあったけど、でも、とてもこんなに優しいオヤジがなぜだろうという気持ちしかない。

まぁ話は戻って。
久々の父と娘の対面というよりは、今だけ昔に戻ったように、普通に話せた。
気まずいという事もなかったし、話題に困ることもない。
オヤジの人柄がなせた技だと思う。

オヤジの描いた油絵を見せて、「これに凄く感動した」と伝えた。
オヤジは懐かしそうに油絵を見て、「クズ子も絵が好きなのか」と言った。
「絵の仕事でもしたいのか?」
「ううん、ただ絵が好きだから勉強したいだけ」
じゃあお父さんが教えてあげると言って、オヤジはスケッチブックに私を描いてくれた。
鉛筆のラフだったけど、ずっと描いていなかったせいか、「下手になったなぁww」と自分の絵を見て笑っていた。
それでも私から見たら、凄く上手。
一日中、模写とか、静止画とか、オヤジと一緒に絵を描いた。

夕方に母ちゃんがご飯を作ろうとしてくれたけど、フライパンしかないので何も作れないという事になり、3人でご飯を食べた。
そういえばこの日妹がいなかったけど何でいなかったかは覚えてない。

帰りの車の中で、母ちゃんに家族写真の話を自分で切り出した。
母ちゃんは嬉しそうに、「じゃあ、兄の成人式もやってあげられていなかったから兄も単独で写真撮ってあげなきゃ」と言ってた。

家族と記念写真をとる、というか成人式の直前だったかな。
ある夜に、荷物が届いた。トレーナーからだった。
中を見たら、バッグが入っていた。成人式用のやつ。
手紙が入ってて、ごめん今ちょっと現物が手元にないので内容は詳しく書けないんだけど、文末に「いつでも戻ってこい」の言葉に泣いた覚えがある。
あと、「受け止めきれなくて申し訳なかった」とか、謝罪の言葉が並んでたと思う。

母ちゃんにもバッグは買ってもらってたけど、トレーナーからもらったバッグを使っていいかと聞いたら、母ちゃんが「当たり前でしょ」と言ってくれた。

3年ぶりにそろった家族で、兄もオヤジと会うのは久しぶりだったようだ。
やっぱり兄も、「オヤジ前歯は?」と聞いていた。

兄は、オヤジに「妹の事は俺に任せてくれよ」と言った。
「離れて暮らしている分、俺とオヤジで父親二人になろうぜ」と言った。
この時だけは兄がかっこいいと思った。
中学生なのに、いつまでも小さい子供のような妹は、はしゃいではしゃいで仕方なかった。
「今日が毎日ならいいのに!」と言って、車の中でもスタジオの中でも、ぱたぱた走り回ってとにかく落ち着きがない。

母ちゃんに買ってもらった着物姿の私に、オヤジは「凄い綺麗だけど、母ちゃんはもっと綺麗だったなぁ」と言った。
母ちゃんも「やだwwwwあなたったらwwww」と言って照れていた。
いまだにこの二人が元夫婦だなんて思えない。今も昔もずっとこんな感じだからな。

帰り際に、母ちゃんが「これを機に、月に1度は全員で集まりましょう」と言った。
妹の賛成の掛け声を合図に、みんなで賛成した。
そして母ちゃんが、もう一つ報告があると言った。
「母ちゃん、次の仕事が上手くいけば取締役になれるの」と言った。
運転中のオヤジが、急ブレーキを踏んで驚いていた。

実質社長と母ちゃんの2トップの会社になるんだと。
オヤジは、「しゃ、社長と再婚するのか?」と言ってたけど、社長はもう奥さんもいるしそんなんじゃないと母ちゃんは言った。

母ちゃんのヘッドハンテングの声が増えてきて、でも母ちゃんも年が年だしこの景気だから、他に移る気は皆無なんだそうだ。
前も書いた通り、あくまでも母ちゃんは今の会社で出世して、会社を大きくする事が夢だからな。

でも、大学も出てない、ただのパートのおばちゃんだった女性をこれ以上出世させる事もなかなか難しいらしい。部長が精一杯て事だろうね。

そこで母ちゃんは、「じゃあ女性も男性も関係なく、学歴にも負けない良い実績を上げればいいんじゃん!」と思ったらしく、第二工場を作って、事業を広げる一大計画を考えたんだと。

そういえばちょっと前に、なんか新しい缶のデザインを考えろとか言われたなと思って、「あれも母ちゃんの計画のひとつ?」と聞いた。
母ちゃんは、「あんた絵が好きだし、もし上手くいけばうちでデザイナーとして雇ってもいいかなと思ったんだけど、その権限も今はないから欲しいのよね」と言った。
「権限が欲しけりゃ手に入れればいいじゃん! よっしゃ出世しよう!」という、いかにも母ちゃんらしい発想。
オヤジが「……多分、今の母ちゃんは俺の倍は稼いでるよな」と呟いて落ち込んでいた。

復帰

それからまた母ちゃんはめちゃくちゃに忙しくなった。
携帯を持って風呂に入るぐらいだった。睡眠不足なんてものが母ちゃんにはないんだろうか。
よく分からないけど、毎年会社の健康診断は「判定A」だった。医者お墨付きの健康体。
多忙になれた結果だと言ってたけど、それでも凄い。
母ちゃんのお肌もつるつるだし、何よりも皺とかがない。
40代後半を迎えているはずなのに、30代前半にしか見えない(娘のひいき目かもしれないが)。
働くとエネルギーが湧いて老けないんだと言っていた。それは間違いないと思った。

でも、妹の授業参観は必ず参加するし、運動会なんか朝一番で場所取りするし、中学校の合唱祭も、一番前の席で一眼レフを光らせる。

相変わらず私はニートだったけど、でも、10代の時と決定的に違うのは、母ちゃんに対する考え方だった。
母ちゃん凄いなー、という気持ちから、母ちゃんみたいになりたいなーという気持ちになった。

文章力がないので何か文章を書こうとは思わなかったけど、私の発想力だけは仕事に出来るかもしれないのか、と思った。母ちゃんにそれを話したら、「発想力だけを仕事にしようと思ったら、なかなか難しいかもね」と言われた。
絵とか字とか、それに何か付属してなきゃお金にはならないわけだ。
ちぇーっと思っていたら、妹が「じゃあ、妹のクラスの学級新聞書いて!」と言ってきた。
お金にならないので断ろうと思ったけど、寿司屋のポスターから始まり、洋服と、とにかく何かひとつの物を完成させるのは好きだったので、引きうけようと思った。

学級新聞の材料を買いにホームセンターに出かける途中、寿司屋の前を通ってみた。
トレーナーにバッグのお礼を言おうと思ってたんだけど、見たら浅見さんが一人で仕事をしていた。
浅見さんと話したいけど、今更顔を合わせていいか悩んだ、けど悩んでても仕方ないので店に入った。
浅見さんはびっくりして「あんた、生きてたの!?」と言った。
そりゃ生きてるよ、と思ったけど、トレーナーがバッグを送って「戻っておいで、連絡待ってるから」と言ったのに連絡がないから、何か病気でもしたんじゃないかと思ったらしい。

いや! 大丈夫、ごめん、ちょっとすねてみたかっただけだよほら可愛いでしょあはは。
正直、もう戻るつもりはなかったので「トレーナーには近いうちに連絡します」とだけ言っておいた。
浅見さんが「今日はどうしたの?」と言ったので、学級新聞の話をした。
材料を買って今日作るんですと言ったら、「あんたの作ったポスター、えらい評判良いからまたうちの店のポスターも作ってよ」と言った。
見れば、もうフェアなんかとっくに終わってるはずなのに、私の作ったポスターをまだ貼ってくれていた。メニュー表も私が作ったままだった。

これにやる気が出たので、さっそく帰ってから学級新聞を作った。
新聞みたいな、見出しとかどこにどういう物を書こうとか考えるのが大好きなので、夜通しで夢中になって作業をした。

次第に私は、物を作る事に喜びというか、楽しいという気持ちを持つようになってきた。
金がなくなってはコスプレ衣装を作り、オークションで売る。
それだけでも寿司屋のバイトの時よりは稼げていたし、合間に絵を描いて、飯作って、掲示板で釣りスレ立てて、うんこして寝る生活。
結構充実した毎日を送っていたと思う。あんまりこの辺りはエピソードがない。
そのくらい、平穏というか、普通の毎日だった。

ただ、コスプレ衣装も大きなイベント前でない限りはなかなか売れない時もある。
母ちゃんに言ったら、「それがクリエイターの使命だ」と言った。
ぶっちゃけ、クリエイターの意味が分からなかったが、何となくかっこいい言葉だと思った。
なので、オークションの自己紹介欄に“職業:クリエイター”と書いていた。
ただのニートなのにひどい黒歴史だと思う。

トレーナーに連絡をした。バッグのお礼の電話だ。
トレーナーとたわいもない話をして、バッグのお礼を言った。
トレーナーは突然、電話口で泣き始めた。
何回も何回も、「悪かった」「ごめん」と謝られた。
トレーナーから直々に、戻ってくる気はないかと言われて一瞬迷った。
何となくやりたい事も見つかったけど、でもまだ何の形にもなっていないし、仕事といえるかも微妙な所だし。
何より、これ本当ぶっちゃけ、在宅で稼げてしまったので、気楽な生活になれちゃったから、また朝起きるのは嫌だ! と思ったんだよ。

トレーナーから、戻ってくるなら時給を上げてやると言われた。
いくらだったかは覚えてないけど、多分850円を900円とかにするって言われたのかな。
あと、まかないもクズ子だけは特別に好きなネタを好きなだけ使っていいと言われた。
戻ろうと思った。

クズ子だけ特別、がポイントだったのかもしれない。

でも前みたいに週に5日フルでは働けないと言った。衣装作りも続けたかったためだ。
こうして私は、寿司屋に復帰した。なんとも単純な理由で復帰した。
でも私はこういう人間なので、なんともらしいかな、と自分的には満足していた。

二足のワラジ

寿司屋でまた働きながら、衣装も作る。
衣装作りの数もこなしていくと、落札者からのリピートとか、オーダー希望の連絡も入る。
たまに仕事につまると、オヤジの所へ行ってオヤジと一緒に絵を描いたり、妹の学級新聞を作ったりしていた。

二足のワラジは結構辛いもので、復帰初日から寝坊した。
めんどくせーと思っていたが、この日、トレーナーがマンションまで迎えに来ていた。
インターフォンを鳴らされて目が覚めたので、すぐに分かった。

「絶対あんたは遅刻すると思ったんだよね」と、前に聞いた事があるような事を言われたが、久しぶりにトレーナーと会えてとにかく嬉しかった。
もちろんパートのおばちゃんの中には、「よく戻ってこれるわね」という人もいた。
ていうか、トレーナーと浅見さんとピザ以外全員そうだった。
けど、トレーナーと浅見さんとピザが味方なだけで良かった。

再び寿司くさい体になった私を、母ちゃんが誰よりも喜んでくれた。
「あんたは出来る子だ」とたくさん褒めてくれて、体にだけは気をつけろと言われた。

ある程度、オークションで私の衣装を落札してくれる人が定まってきた。
なので、オークションではなくネット通販に切り替えようと思った。
売れるんだか売れないんだか分らないオークションよりも、オーダー式の通販の方が全然良い。
ただ、確定申告とか税金とか、
20歳過ぎたので年金とか色々払わなきゃいけない物があるみたいで、全部計算がめんどくさくて母ちゃんにやってもらおうと思った。
なので、収入はまず母ちゃんへ全額渡す。
母ちゃんが必要経費を抜いて、私に残額を返してくれる。
しかしそれは二重で面倒なので、必要な時に母ちゃんへ申請して、母ちゃんに金を管理してもらっていた。

さすがに経理部長でもある母ちゃん(まぁ、営業部長でもありその他何とか部長っていう肩書は全部母ちゃんなんだけどね)、

結婚前は税理士事務所でお茶くみをしていただけあり、税金関係はばっちりだ。
きちんと毎月明細を作って見せてくれて、ひとつひとつ教えてくれた。
兄にその話をしたら、「税理士雇ったら凄い金額かかるから、お前はラッキーだな」と言われた。
母ちゃんがやってくれている事は、普通ならお金がかかるらしい。
でも私は母ちゃんがやってくれているから、ラッキーだと思った。

トレーナーにその話をしたら、「あんたも稼げるようになったんだから、お母さんに少しは返してあげなさい」と言われた。
気持ちでもいいので、ちょっとした物あげたら喜ぶよと言われた。

ある日に作っていた衣装で、ブレザーのボタンホールでミスをした衣装があった。
これでは売り物にならないので、母ちゃんに「母ちゃんのためにジャケット作ってみたよ」と言って失敗したブレザーを渡した。
母ちゃんが泣いた。
泣かせるつもりではなかったからびっくりしたけど、嬉しくて泣いてる事が分かったので複雑な気持ちになった。
まさかそれは売り物にしようとして失敗したからあげただけです、とか言えない空気だった。

その日から母ちゃんは、某ゲームキャラクターの制服(ワッペンつき)を毎日着て会社へ通勤するようになった。
その姿を見る度に罪悪感と、「それはえろいゲームのキャラクターの衣装なのに……」と思って笑えた。

それからまたしばらくして、母ちゃんが私に「あんたのデザイン、駄目だった。奇抜すぎてインクがどうのこうの」と言って、以前書いたデザインがボツになった話をされた。
あの缶さえ通れば、第二工場も夢じゃないのに、と言った母ちゃんのために、またその日夜通しデザインを考えた。
翌日母ちゃんにデザインを渡したら、母ちゃんは大喜びで「これを武器に、また社長と口ケンカしてくるわ」と言った。

連日繰り返しだった。またデザインがボツになり、またボツになり。
もうイライラしてきたので、「母ちゃん、社長と現場の連中全員連れてきてよ! どこが駄目なのか自分で聞く!」と母ちゃんに言った。
母ちゃんは、「別に無理してもう描かなくていいよ」と言った。
「他のデザイナーに頼んでみるから」と言って、私のムキになる性格と負けず嫌いのツボをギュウギュウ押してきた母ちゃん。
何がなんでもデザインを通してやると躍起になって、連日遅くまでデザインを考えていた。

寿司屋では、ピザが就職するので退職すると言った。
私は、「就職なんかしちゃらめええええええ」と言って悲しんだが、ピザの就職先が保育園だと聞いて妙に納得した。
保育園で園児を相手にブッダの教えを解けばいいと思った。

ピザがいなくなって、人出がたらなくなった。
困った事に、パートのおばちゃんもピザが辞めるのをきっかけに、というか同時期にだな、春だったので、「子供がうんたらかんたら」と言ってまとめて3人やめてしまった。
募集をかけようにも、私が働きだしてから3年、一人も新人が入ってきた事がない。
こりゃーやばいなと思っていたら、
トレーナーが私に「あんた、週に5日入れない?」と聞いてきた。
オーダーだけのシステムにしてから、かなり時間にゆとりはあったものの、寿司屋で週に5日働くとまるまる休みがなくなってしまう。
無理ですと言いたいが、でも店を助けると思えば、嫌ですとは言えない。
困っていたら、トレーナーが「あんたを、正社員で雇いたい」と言いだした。
バイトと正社員の違いがよく分かっていなかった私は、「時給が上がるんですか?」と聞いた。

正社員

トレーナーは、用意していたらしい分厚い書類の封筒を私に差し出して、「よく考えなさい」とだけ言った。
帰ってから母ちゃんに書類を見せた。寿司屋の正社員制度についての紙だったらしい。

でも外食産業は危ないからうんたらと母ちゃんがめちゃくちゃ悩んでいたと思う。
何とか保険はある、何とか手当はある、と鬼のような形相で書類を見ていて、「で? 給料上がるの?」と聞いた私を「黙っていなさい」の一言で黙らせた。

トレーナーの話によると、仕事の量も増えるらしい。
材料の仕入れとか、本社との打ち合わせとかもしなくちゃいけなくて、今まではトレーナー一人で全部やってたけど、これからは私がやるんだと言ってた。

しかし母ちゃんは、もしこれから私が別の企業に就職したいと思った時、正社員で働いた過去があるとふりになる事もあると言っていた。
一通り書類に目を通してから母ちゃんが、結果からいうと給料は上がると言った。
しかも上がるなんてもんじゃなく、1.5倍にはなると言った。
「あ、じゃあ正社員になる」
「馬鹿! あんたはいつもそうやってお金に飛びつく! これは一生の事なんだから、真剣に考えなきゃダメ!」
母ちゃんがぷりぷり怒っていて、ちょっと怖かった。母ちゃんが怒るなんて珍しいので、口を一文字にして母ちゃんの言葉を待った。
怒っているというか、真面目に悩んでくれて、必死だったんだと思う。
一晩考えさせて、となぜか母ちゃんが決める事になったらしい今回の話。
どうせ明日は仕事が休みなのでいいかと思って、再び衣装作りに戻った。

一晩考えさせてくれと言ったくせに、母ちゃんは次の日も次の日も、私が正社員になる事について何も言わなかった。
食品業界について色々調べたらしく、母ちゃんは毎日毎日関連本を買って帰っては遅くまで読んでいた。
ちなみに、兄がSEになると言った時も、SEについて調べたらしく、今でも家の本棚にはこの時に買ったSE関連の本と、食品関連の本が数十冊ある。
これまた余談だが、母ちゃんは本を読むスピードが並ではない。
家事をしながら少しでも勉強をしたかったので、ちょっとでも早く本を読めないかと考えた結果、早読? とかいう技術を身に付けたんだと。一日で、文庫本なら3冊は読めると言っていた。

しかし、トレーナーは返事を求め続けた。「どうするの?」と連日聞かれ続けて、もう面倒だったので母ちゃんの携帯番号教えてやるから二人で話し合ってくれよとも思った。
自分の意思で考えるという気持ちは微塵もなかった。
私は、正社員じゃなくても、社会保障がなくても、とりあえず金だけ稼げればいいと思っていた。

ある日トレーナーが、社員になったらする仕事を今のうちに見させてあげると言った。
「じゃあ、参考までに見たいんでお願いします」と言ったら、「じゃあ明日朝4時に店の前に集合ね」と言った。冗談だと思って笑ったら、凄い真剣な顔で、「いや、本当だから。遅刻したら明日の給料なしだからね」と極妻もびっくりなドス声で言われたと思う。

トレーナーが怖いと思ったので、この日だけは絶対遅刻出来ないと思った。
しかし、寝てしまえば起きられない体である事は誰よりも自分が一番よく分かっている。
なので、この日は寝ないと決めた。徹夜で暇つぶしをした。

4時にきちんと出勤してきた私に、トレーナーは「関心関心」と言っていた。
「絶対遅刻すると思ったのにww」と言っていたけど、家の前まで迎えに来てなかった所を見ると、クズ子は来るという確信があったのかもしれない。
まぁ、おほめの言葉をもらえちゃうくらい優秀な人材だからな。信用して当然なのだが(キリッ)。

薄暗い、朝とは印象の違う店内で、まずトレーナーは凍ったままの、過去の宿敵、イカを持ってきた。
イカは、物凄い大きさだった。いつもは切り身というか、ネタに出来る状態のままのイカなのに、この時見たイカは、まさに“イカの姿そのもの”。
これをさばいて、朝の仕込みまでに切り身にするんだと言ってた。

凍ったイカを解凍する作業が鬼だった。
ひたすら凍ったままの大きなイカに水をかけていくだけなんだけど、ずっと水に手を浸しているので、冬場でもないのにがたがた手が震えてくる。
やっと半分ほど溶けたイカを切るんだけど、半分凍ったイカは業務包丁でも切りにくい。
私がやっと一個のイカをきりさばいた頃には、もう外が完全に明るくなっていた。

イカが終わったら、今度はまたも過去の宿敵、タコ。タコにも同じ作業をほどこすのだが、イカと違う点は酢を入れた水で解凍する所だ。
怪我をしているわけじゃないのに、手がぴりぴりする。
解凍が終わった頃には、手が寒さと酢の刺激で真っ赤になっていた。

きっと、前世で私はイカとタコをいじめていたのかもしれない。
なぜなら、こんなにもネタ仕込みが面倒なのは、イカとタコだけだからだ。
握りにくいし安いくせして、人一倍仕込みに手間がかかるなんてなんて生意気な子なの! 
あんたなんかこうしてやる! ほらほらどんどん裸にされていくわよ! 恥ずかしいでしょ! 
という私の脳内妄想は、独り言で漏れていたようだ。

トレーナーが、「あんた、本当に寿司ネタが好きなんだねwwww話しかけながら仕込む子なんかいないよwwww」と言って笑っていた。

他の店舗では、この作業を週に1回行って、一回解凍させたネタを再冷凍して一週間持たせるらしいけど、トレーナーのこだわりで、うちの店は3日に一度この作業をするらしい。
所詮チェーン店なんだけど、チェーン店だからこそ他の店とは違う事をしなきゃやってられないと言っていた。
うちの店は他店舗と比べて売上もいいのは、ピザと、このトレーナーのこだわりのおかげだと思う。

そういやさっきたまたまスーパーでピザと会ったよ。
財布に250円しか入ってなくて、カップラーメンを真剣に選んできた私に、「ちゃんとご飯作って食べなきゃダメだよ」と1000円くれた。

イカ、タコ、サーモン、まぐろ辺りは初心者でもちょっと包丁使えれば余裕。
厚みをそろえるのが難しいらしいけど、手芸やっているので縫い目をそろえるのは得意=切り口をそろえるのも得意だったんだと思う。
えんがわ、焼きハラス、トロとかは柔らかくて崩れやすいので、修行しなきゃ切れない。

イカとタコと、あと何点かのネタ切りをした所で時間オーバー。
もうあと30分でパートさんが出勤してくるので、パートさんを迎える準備(ポットのお湯とか、クーラーor暖房、更衣室の掃除とかそんなの)をする事になった。

通常の出勤時間を迎えた所で、トレーナーから休憩に入っていいと言われたけど、言われなくても取るつもり満々だった。
だって、もう5時間立ちっぱなしで、手は痛いし足も痛いし、何より眠い。
ネタの仕込みをする日は、パートさんが出勤してきたら一旦上がりで、あとは夕方から夜を手伝えばいいとの事。
時間がかなりあるので家に戻ってもいいと言われたけど、家まで自転車をこぐ気力がなかったので、休憩室で大の字になって寝た。

夜、営業終了してからも仕事はたくさんある。
日報報告、掃除、洗濯、在庫チェック。普段なら20時には帰れるのに、この日は22時近くになれないと帰れなかったと思う。

本社

それからしばらくして、本社会議に連れて行くと言われた。
スーツで来いと言われたけど、スーツなんか持っていない。
母ちゃんのを借りようと思ったけど、サイズが合わない。
仕方ないので、衣装で作って在庫に抱えていた、名探偵コナンの衣装を着ていく事にした。一番スーツっぽかったので。

朝、コナンになった私を見て母ちゃんが「半ズボンはやめなさい!」と怒った。
青○なら朝早くに開店しているから、ちゃんとスーツを買ってから行けと言って、お金をくれた。
しかし、青○はトレーナーとの待ち合わせ時間よりも開店が一足遅い。
仕方ないのでそのまま待ち合わせ場所へ向かったら、トレーナーにも「何で半ズボンなの!」と怒られた。
コナンくんはショタキャラなんですと言おうと思ったけど、トレーナーが半端なく怒っているので言うのをやめた。

とりあえず本社がある都内まで移動して、トレーナーは「駅についたらダッシュするからね」と言った。
走るのが面倒だったので「私、体が弱いのでダッシュは無理です」と言ったら、無言で睨まれた。
いつもなら冗談で返してくれるのに、この日のトレーナーはとにかく怖いという記憶しかない。
「せっかくあんたを本社の人に推薦しようと思ってるのに、そんな半ズボンじゃまとまる話もまとまらない」「少しでも高待遇にしてもらえるように掛け合うつもりだったのに」と言われた。
トレーナーは、御年5○歳とは思えないほどの全力疾走で、駅ビルへ駆け込んだ。

目についたスーツ屋さんで、「9号! 9号で一番良いスーツを早く出して!!」と店員へ怒鳴っていた。

トレーナーの迫力に負けて、店員は店を早足で駆け回っていくつかスーツを出してきた。
「じゃあこれ、試着はいいから。今ここで着ていくから更衣室だけ貸して」と黒いスーツをトレーナーは選んで店員へ差し出したので、「トレーナー、私7号なんですけど」とシラっと言ったら、トレーナーの背中から黒いオーラが漂い始めた。
「7号ですね! 1分、あ、30秒お待ち下さい!」と店員が再び店内を駆け回り始めた。
何だか申し訳ないなぁと思った。

試着室でスーツを着て出てきたら、すでに会計が終わっていた。
そういや母ちゃんからスーツ代をもらっていたなと思ったのでお金をトレーナーに渡したら、「そんなのいいから、とにかく走りなさい」と言って、オフィス待を猛ダッシュし始めた。
ダッシュが良かったのか、時間にもかなり余裕を持って到着した本社。
会議室には、それぞれチェーンの支店名が書かれたプレートが置かれていて、私とトレーナーも自分の店の名前のプレート席へ座った。
ぜぇぜぇしているトレーナーは、この数十分だけで一気に老けたと思った。
何だか申し訳ないなぁと思った。

本社の会議は、会議というか、なんかそれぞれの売上報告とか、うちの店の工夫とか、なんかそんな話をひたすらしていた気がする。
新商品の提案とか、本社企画部の人もいたので参考意見が聞きたいと言っていた。
なので、「平日限定でえんがわ三昧、しかも値段低価格」という提案を私も出した。
普段は高くて手が出ないネタを、なるべく低価格で一人でも多くの人に味わって頂きたいので(キリッ)と言ったが、本音は「これなら夕食でも安値でえんがわ食い放題wwwwうはwwww」だった。

しかし、私の初提案は企画部に華麗にスルーされた。
ムキになって、こうなりゃひとつくらいは「それはいい」と言わせたくて、思いつくままポンポン提案していった。
企画部の人も、「他に意見はありませんか?」と聞く度に私が手を挙げるので、7つ目くらいの企画提案で「またおまえか」感が顔にもろ出ていた。
結局私が上げた提案はひとつも「いいですね」と言われなくて、めちゃくちゃ悔しかったのでまた帰ってからFAXで本社に提案をまとめて送ってやろうと思った。

トレーナーが、「普通は委縮しちゃうもんだけど、あんたには羞恥心がないのか」と言っていたので、「羞恥心なんかよりも、負けたくないって気持ちのが断然上です」と答えた。
「あんたは誰と戦っているんだwwwwここには仲間しかいないのにwwww」と笑っていたけど、私からしたら、企画部の人間はもはや敵でしかなかった。

そのあと、トレーナーと人事は二人でどこかへいなくなってしまって、会議室の外でぼーっとしながら待っていた。
企画部の人が私の前を通って、通り様に「また何か案が出たらいって下さい」と言った。
ちょっと笑ってたのはなぜだろう。

結局、朝一番で来た本社を出たのは夕方近くて、この後また店に戻らなくてはいけなかった私とトレーナーは、駅まで早足で戻った。
駅に向かう途中でトレーナーは「やっぱり、二人で遅刻しようか。あんたを連れて行きたい所があるから」と言って、再び本社近くまで戻り始めた。
本社近くにあったのは、本社直営の寿司屋。
同じチェーン名なんだけど、「ここのお寿司は全国で同じチェーン店の中でも抜群に美味しい」と言った。
どうやら、遅めの昼ごはんを御馳走してくれるらしい。
購入した寿司を近くの公園で食べたが、めちゃくちゃ美味しかった。
同じ分量の酢や調味料で味付けされたシャリに、同じネタを使っているはずなのに、どうしてこんなに美味しく感じるのか不思議だった。
握り方ひとつで味は変わるというが、まさにそれを痛感した出来事だった。

美味しいっすwwwwwwマジやばいっすwwwwwwと感動しっぱなしの私を見ながら、トレーナーはこれくらい美味しい寿司を、うちの店でも提供していと言っていた。

もちろんチェーン店なので限度はあるけど、私のように「美味しいwwww」と感動する客を一人でも増やしたいと言っていた。
実際、ピザが辞めてから若干ではあるが売り上げは待ちがいなく落ち始めている。
ピザの力は半端なかった事を数字が示していた。
ピザに次ぐ接客神の浅見さんもいたが、浅見さんはあくまでも一番のベテランパートさん。
浅見さんにしか出来ない仕事は山ほどあるので、レジに出ていられない。
「じゃあ私がピザの代わりに頑張ります!」と言ったら、トレーナーは「あんたは厨房の才能はあっても、接客の才能はないよ。厳しい事言って悪いけど」と言った。

これだけは、悔しいけど認めるしかない。
接客も才能なので、ただ笑顔でいればいいだけじゃないからな。

アルバイト募集

当時、うちにはピザのような専任レジがいなかった。みんな厨房業務とかけもち。
下手すりゃ握った寿司は握った本人が会計する。
つまり、毎回毎回レジがかりが変わるという事もしばしば。
トレーナーが困っていたので、「じゃあレジ専用のバイト入れましょうよ」と言った。
だが、そう簡単に人材は集まらないらしい。
まれに面接希望がきても、条件が違うとか、土日が出られないとかそんなのばっかりなんだと。
困った困ったとトレーナーは言ってるけど、そもそも、あんな時給も連絡先の電話番号も書いてないような張り紙じゃこねーだろ、と思った。
だって私も連絡先が分からず店へ飛び込んだ感じだからさ。

その日店に戻ってから、さっそく募集張り紙の差し替えを提案した。
「時給も書いてないし、連絡先も書いてないし、待遇も書いてないんですからこれじゃ人間集まらないですよ」と言ったら、トレーナーは「えぇ? そうなの?」と言った。トレーナーは肝心な何かが抜けている。
募集の張り紙作ってきてもいいですか? と言ったら、「あんたが作ってくれるなら目立つやつ作ってくれそうだし、ぜひお願い」と言われた。
帰り道に張り紙の材料をコンビニで買いながら、材料費と張り紙作る手当もらえるか聞くのを忘れていたと気付いた。
ついでにスーツのお金も返していなかった事に気付いた。
後者はまぁいいとしても、前者は絶対に明日一番で聞こうと思った。

張り紙を作っていたら、母ちゃんが帰ってきた。「スーツは買えた?」と聞かれたので、「トレーナーが買ってくれた」と言ったら、母ちゃんは目ん玉飛び出しそうな顔をした。

「なんで、だって母ちゃんあんたにお金渡したじゃない」
「うん、だけどトレーナーがいらないって(多分そう言うだろう)」
「ちょっとやだ、母ちゃんいるのに、あんな半ズボンで本社に向かわせた母親と思われたら嫌じゃない!」
見栄っ張りな母ちゃんがぷりぷり怒ってしまったので、「じゃあ明日返すよ」と言った。
どうでもいいけど、なぜおばちゃん達はコナンくんの衣装の良さが分からないんだろうか。

翌日張り紙をトレーナーに見せたら、「若い子が飛びつきそうだねぇ」とわくわくしていた。
多分、イラスト満載で見やすくして、高校生を狙った張り紙だったからかもしれない。

張り紙をしてから数日、いきなり効果が表れるはずもなく静かなものだった。
それからどのくらいかな、多分一週間くらいで、一人電話がかかってきた。
電話に出たのは私だった。
「あ、○○寿司っすか? バイト募集のぉ、張り紙見たんすけどぉ」という、(恐らく)チャラ男からの電話だった。
接客神を入れる予定だったので、こいつは駄目だろうと思って「あ、あなたは駄目です」と断った。
トレーナーにそれを伝えたら「何で勝手に断っちゃうのよ!」と最初は怒っていたけど、電話口でのチャラ男の口調を真似したら、「あぁ……」と言っていた。
「大体にして電話のかけ方がなってないですよ。きっと愛想も悪くて、金髪でフリーターですよ」と偏見バリバリ発言をしたら、浅見さんがけらけら笑いながら、「あんたそれ、鏡に向かって言ってんの? wwww」と言った。

しばらくしてもう一人電話がかかってきた。
「ア、○○スシサンデスカ? ワタシ、働キタイ」とお国不明な人からの電話だった。
一応トレーナーに引き継いだけど、「名前聞いたらエルトン・ジョンだって言うし、いつから日本にいるの? 身分証明書あるって聞いた途端に『イングリッシュでお願いシマース』って言ってすっとぼけるから怖かったのでやめた」と言った。
それからまたしばらく3、4人電話がきたけど、チャラ男再来、妊娠8カ月の妊婦(事情があるにせよ立ち仕事をしようとするなww)とか、あとなんかいたけど忘れた。
「あんたの張り紙にしてから募集は増えたけど、逆に今まで普通に応募してきたおばちゃんとかが来なくなってるよww」とパートの人に言われた。

結構な日数が流れたと思う。えっと、この間に他にも色々あったんだけど、ちょっとごちゃごちゃしちゃうのでそれはまたあとで書く。
私の“魔の募集張り紙”のせいで、きちんとした人材確保がいまだに出来ていなかった。
大分インクも薄れてきちゃったので作り直そうと思った時に、店に女の子がやってきた。
「アルバイト募集してますか?」と言った言葉が日本語で、ちょっと驚いた。
なぜなら、名倉純や平井賢もびっくりなほどの濃い顔だったので、絶対フィリピンとかタイとか、そっちのほうの子だと思ったからだ。
高校の制服を着たままの女の子は、15歳だと言った。高校1年生だろう。
とりあえず名前を書いてもらって、もっと驚いた。
これ、本名書けないから伝わりにくいんだけど、この異国の血を感じさせるお顔で、THE! ジャパン!! っていう名前だったんだよ。
たとえるなら、『よね』とか、『きく』とかそんな感じ。

トレーナーが不在だったので、後から連絡をするから連絡先を書いてくれと言ったら、「はい! わかりました!」と、いちいち返事が元気で可愛いと思った。
「連絡先は、両親が共働きで家にいないので、携帯電話でもよろしいでしょうか!!」みたいな、伝わるかな、声を張り上げて前に前に出てくる芸人みたいに元気いっぱい。
なんともかわいい顔をしてるし、元気いっぱいなその姿に好感が持てたので、ちょっと雑談をした。
「日本語上手だね」と言ったら、「あ、よく間違われるんですけど、純日本人です!」と言われてびっくりした。
だって、若干目の色も薄い緑がかっているし、鼻もびーんと伸びて高いし、なにより眉と目の彫りが深すぎて、目に影が落ちてるからさ。
「父は大工だし、母も寿司職人のがっつり日本家計です!!」と声を張り上げた女の子の歯だけが妙に真っ白で、酢飯の匂いに包まれる店内から、どこからともなくアジアンな匂いが漂ったのは気のせいじゃないと思う。

トレーナーに電話して女の子の事を話したら、「元気いっぱいなのはいい事だね」と言って、何とも好感触だったようだ。
「あんたはどう? 話してみてどうだった?」
「はぁ、パクチーの匂いがぷんぷんする子でした」
「は?」
「いや、純日本人って本人は言ってたんですけど、日本人離れした顔してました」
「あぁ、外人さんか」
「いや、なんかお母さん同業者らしいですよ。職人だって言ってました」

同業者でこの地域で働いているなら顔見知りかもとか言って、その子にはその日中に面接の日程をトレーナーから連絡したみたいだった。

その子の面接には私と浅見さんも同席させてもらったんだけど、浅見さんもトレーナーも、そろって「本当に日本人?」と聞いていた。

先に言っておくけど、私も店の人達も特に外国人差別はないぞ。
ただ、身分を明かさないというか、不法侵入とかが当時話題になっていたので慎重になっていただけ。

女の子が「身分証明もちゃんとあるし、あと、漢字検定も持ってるし、あと……証明になるか分からないですけど、母が○○寿司で握りをしています!」と言って、真っ白な歯をきらきらさせた。
○○寿司は、近所じゃちょっと有名な高いカウンターのお寿司屋さんだ。
トレーナーはそこの寿司屋へ行った事があるらしく、「え!? もしかして○○さんの娘さん!?」と食いついていた。
トレーナーの予想はズバリ的中だったようで、「そうです!」と言った女の子に、トレーナーはあれこれその寿司屋の話をし始めた。あのネタが美味しかったとか、あの寿司をあの値段で出せるなんて?とか。トレーナーのうきうきした感じに、浅見さんがこっそりと「この子多分受かるね」と言った。
トレーナーは最後に、「あんた、お寿司好き?」と聞いた。
女の子は、「はい! 大好きです!」と答えた。

浅見さんの的中通り、女の子が帰ったあとに、トレーナーは「あの子を採用しよう」と言った。
何が決め手でしたか? と聞いたら、「あんたを採用した時と一緒だよ」と返された。
浅見さんが、「寿司好きかどうかがうちでの一番の決め手なんだよ」と教えてくれた。

教育係

女の子がバイトに来る日を目前に迎えて、トレーナーから女の子の教育係を任命された。
新人教育なんか嫌だと思っていたが、浅見さんが「先輩になったあんたを見てみたいなぁ」と言った。ちょっと心が揺らいだ。
そしてトレーナーから、研修中に引かれる女の子のお給料が、引かれた分まるまる私に“研修手当”として入るよ、と聞いたので、新人教育を引きうける事にした。
母ちゃんに、「明日からバイトの子教育するんだ」と言ったら、母ちゃんは『先輩としての極意』を教えてくれた。
「しかしクズ子が先輩とはねwwあんたも成長したね」と母ちゃんが嬉しそうに言うので、「より良い人材を育成するのも店員としての勤めだからね」と返した。
母ちゃんは、「あんたはこんなに立派になって!」と言って抱きついてきた。風呂からあがってきた妹が、「二人でずるい」と言って、「妹もいれて!」と母ちゃんとは別の方向から私に抱きついてきた。
ちなみにこの我が家名物“母娘どんぶり”は、妹が高校に入学した今でも続いている。

女の子は、学校が終わる夕方の時間に出勤してきた。
予定時間ギリギリの時間、「遅くなりました!」と言って店に入ってきた女の子を、先輩の私は仁王立ちで迎えた。
女の子は高校の制服を着ていて、黒い前髪をヘアピンで止めてオデコが見えている。
そのデコっぷりが何とも可愛い。
だがしかし、顔の可愛さなど社会人には関係ない。
しかも時間ギリギリに来るなんて、なんて社会を舐めているんだろうか。
ふんふん鼻息荒く、私は「もう一回やり直しだね」と言った。
デコは、「えっ?」って顔してすぐに、挨拶が遅れました! おはようございます!! と深々頭を下げた。
私レベルでバイト初日に20回以上やり直しさせられた挨拶を、一回で楽々クリアできるデコはただものではないと思った。

デコは、世にも珍しい素直な高校生だ。
着替えはここ、休憩室はここ、厨房はここ、倉庫は……と、淡々と無愛想というより、無駄に偉そうな私を相手に、「はい!」と良い返事を繰り返す。
私の後輩でも高校生の奴は何人かいるけど、全員「クズ子さんパねぇっすwwwwww」みたいな、まぁテンプレート通りのDQNが多いからな、黒髪で、スカートさえ短めだけど、こんなリアル清純派(というか、普通の)生女子高生は初めてだ。

時刻はちょうど夕方なので、休憩室でデコの制服のサイズ合わせをしていると、カーテンの隙間から夕日が差し込んでくる。
色黒なデコのデコが、夕日でぴかぴか光っていてちょっと面白かった。
「クズ子さん! 背中のリボンが縦結びになってしまいます! どうしましょう!」と言う度に、キラっと光るデコ。
「事前にトレーナーから、クズ子さんが凄い人だって聞いてます! 教えて頂けて光栄です!」と言う時も、キラっと光るデコ。

デコな上に、この異国な顔立ちでペラペラ日本語喋られるギャップがあまりに面白くて、思わずふいてしまった。さすがに笑ったのはまずかったかな、と。
事前に浅見さんから「ああいう顔立ちが日本人離れしてる子は、その顔立ちがコンプレックスな可能性もあるからあんまり面白がったら駄目だよ。許さないからね」と言われていたので、慌てて「ごめん! 別にデコが面白くて笑ったわけじゃないから!」とフォローした。
デコは、「いや、いいんですよ! 本当は面白いですよね?」と聞いてきた。
私は人の顔を見ながら嘘がつけないので、「うん」と頷いた。
もちろんごめんも言ったぞ。そしたらデコは、「両親も気を使ってあまり言わないので、クズ子さんみたいに正直に言ってもらえると嬉しいです!」と言った。
なんか、凄く酷い事をしてしまった気分になって、半泣きになった。
私なんか家の事とか派手な容姿をちょっと指摘されただけで年下年上関係なく睨みつけてしまうので、この子は何て寛大なんだろうと思った。
ちょっと負けたと思って、へこんだ。

「デコはしっかりしてるね」と言ったら、デコはでっかい目をぎょろぎょろさせながら私の顔色を伺っているようだった。

それから、レジのキー打ちや、基本的なお金の数え方などを教える度に、デコは「クズ子さんさすがです!」と私を褒めちぎってくれた。
気を使われているのはすぐに分かった。
妹と大して年齢の変わらない女の子に、私は気を使われている。
変なプライドがあるらしい私は、ちょっとそれが悲しかった。

名前デコじゃなくて名倉にするわ。
実はそれからすぐにデコ出しやめたので、デコというあて名に違和感を感じていたので。

その日、珍しく夜まで残ってくれていた浅見さんと、トレーナー。
どうやら浅見さんは、新人研修はじめての私を気にかけてくれていたので、閉店まで残っていてくれたらしい。
名倉が帰って、開口一番「もう無理です」と弱音を吐いたら、浅見さんが「早っ!」とつっこんできた。

名倉

名倉は、レジさえたどたどしいが、お客さんにも素直な態度を見せているので、客からしても好感触だったらしい。ある客なんか、何を勘違いしたのか、名倉の顔を見て「お寿司屋さんにバイトなんて親日なのね、嬉しいからちょっと奮発しちゃう」とかいって、うちの店で一番高い寿司を買っていってくれた。
でも名倉は空気を読んで日本人である事を主張しない。
にこにこ笑って、わざとカタコトなふりで「アリガトゴザイマス」とか言うくらいだ。

とにかく名倉は、仕事が出来ると思った。
きっとこの子は伸びるだろうという直観も働いていた。
今後、この直観が“直観”だけで終わらないだろうと言う事も予測出来ていた。
店に必要な人材を育てないなんてもっともらしい事を言ったけど、それは半分本音で半分嘘だ。だって、素直な気持ち、私が誰よりも褒められる人材でいたいのに、名倉は私のそんな足元もおぼつかない床を簡単に崩しそうな気がして怖かった。
優秀な部下を持った上司なら、普段言葉に出しはしなくとも何となく気持ちは分かってくれると思う。

帰ってから、母ちゃんに今日の話をしたら、母ちゃんは私に「じゃあ、クズ子はどうしたい?」と聞いた。
なので、よく分からないけど、新人には負けたくないと話したら、母ちゃんは、新人に負けないためにはどうすればいいと思う? と聞いてきた。
分からなかったので素直に首を傾げたら、「簡単な話だ。あんたが新人さんより頑張ればいい話」と言った。
そんな事言われたら、まるで今まっでの自分は頑張ってなかったみたいじゃんと反発したら、「今まで100パーセントで頑張ってきたのに、それでも勝てないだろうって相手には200パーセントで立ち向かうしかないじゃん。限界を感じる努力は努力じゃない。もっともっと出来る! という意欲があってこその“努力”だ」と言った。

もうコイツには勝てないだろうという相手は、母ちゃんからしたらたくさんいたらしい。
だけど、『勝てないな』じゃなく、『どうやったら勝てるだろう』と考え始めてから母ちゃんは一気に出世したと言っていた。
「負けるかも、と一瞬でも思ったら終わり。負けるかもなと思ったら、即座に次の負けない作戦が立てられる人は比較的出世しやすいと思う」と母ちゃんは言った。
でも、名倉と比較できる所なんかひとつもない。だって、レジだって名倉の方が上手いし、名倉はレジ専門バイトなので他で競う訳にもいかない。
それもそのまま母ちゃんに伝えたら、母ちゃんは少しだけ頭をひねって、「じゃあ、名倉よりも先に挨拶をするようにしろ」と言った。
例えば名倉と私が同じ出勤時間で、全く同じ時刻に店へ入っても、0.0001秒でも早く名倉よりも先に「おはようございます」と言えといった。

客に対しての「ありがとうございます」もそうだ。
レジに立ってお客さんを目の前にしている名倉よりも、通常レジが見にくい厨房に立つ私の方が先に挨拶が出来ると、それだけで店の印象も違うし、 名倉が私を見る目も違ってくると言った。
なので、翌日から名倉をストーキングし続けて、名倉よりも先に挨拶をして、名倉よりも先に客へ見送りの言葉をかけるようにした。

ある日、名倉がレジで客に抱きつかれていた。
厨房からその姿が見えてびっくりしたので、慌ててレジへ飛んでいったら、どうやらどっかのお国から来日されたばかりのお客様らしく、「オオ、ナンチャ?ラカンチャ?ラ」と言って、ひどく感動した様子で名倉とひたすら抱擁を交わしていた。

日本人の旦那さんでもいるんだろう、その外人さんは、名倉に注文したい商品の名前が書かれたメモを渡して、頭を下げた。
名倉は、「センキューセンキュー」と客から距離を取りながら、今度は私にその注文メモを渡した。

「なんか、お客さんと同じ国出身だと勘違いされたみたいですww」と名倉はヘラヘラ笑っていたが、この調子じゃ今までの人生でもずっと外国人と勘違いされる人生だったんだろうなと思った。
これはもう名倉の写真を見せてやりたいくらいだが、名倉を見て日本人だと思う人は絶対いないと思う。
ハーフだと思う人ですら少ないかもしれない。
そのくらい、名倉はパクチーの匂いが強い。

きっと私なら嫌だと思った。だって、チェーン店とはいえ、やっぱりうちは寿司屋だ。
頑固なおやじの常連客も多い。
名倉を見て、「寿司は日本食の代表なのに、外人なんかレジに置いとくな!」と突然怒り出す頭のおかしい客だっていた。
それでも名倉は弱音を吐いたり、落ち込んだりしない。
いつでも笑顔で、別に名倉は悪くないのに、そんな偏見客に「ごめんなさい」と謝罪していた。
私なら、きっと客を睨みつけて、寿司も乱暴にビニールへつめて、釣りの小銭を「あ、間違えました」と言いつつ投げつけると思う。
思うと言うか、間違いなくしているだろう。

非のうちどころがない人間なんか、今まで見たことがないが、名倉はまさにこの“非の打ちどころ”がない人間に近い。
あっというまにパートさん全員から好かれたし、トレーナーにも気に入られた。
真面目で、遅刻もしない。テスト等の予定で1分でも入店が遅れたら、その場に土下座するような勢いで謝罪する。通っている高校だって、関東でも結構有名な進学高だし、顔も可愛いし、スタイルも良いし、いつでも笑顔だし、黙っていても口角が上がっているし、お客さんにも好かれている。

ある日なんか、あの例のゲロガキ親子が買い物に来た時、ゲロガキが名倉を指差して「外人さんだー」と言った。
名倉は、「外人さんですよーww」と言って、ゲロガキにお菓子をあげていた。
名倉が休憩時に食べようと思って買っていたお菓子をあげたようだった。

「お菓子代もったいないんじゃない? トレーナーに言って、経費にしてもらったら?」と私が言ったら、
「いえ! 最近ダイエット始めたので(ゲロガキに食べてもらえて)ちょうど良かったくらいなんです!」と言った。

ゲロガキは、来店する度に私にあんぱんまんの飴をくれる事が日課だったので、この日も飴をくれるだろうと思ってゲロガキ親子に挨拶に行った。
お腹もすいてたし、早く飴が食べたかった……が、ゲロガキは、私にあげるはずだったあんぱんまんの飴を名倉にあげていた。
名倉は、「わぁー! 私、あんぱんまん大好きなんだぁ!」と言って、ゲロガキとあんぱんまんの話題で盛り上がり始めた。ゲロガキの眼中に私はいなかった。
浅見さんとの嬉し恥ずかし二人っきりシフトの時。
普段口数の少ない浅見さんが、名倉をベタベタに褒めていた。
「あの子は立派だ」「あんな良い子がこれからの日本を支えていくんだと思えば、まだまだこの国も捨てたもんじゃない」とか、ずーっと名倉を褒め続けていた。

しばらくして、名倉だけ制服が変わっていた。
うちはチェーン店なんだけど、制服の種類がいくつかある。
制服ランクというか、松・竹・梅のように、値段が異なる制服がいくつかあるんだけど、名倉がその制服の中でも一番値段の高い制服を着ていた。
トレーナーが、「あんたはうちの期待の星なんだから、少しでも良い格好でお客さんの前に出なきゃね」と言って、一番良い制服を着た名倉の背中をぽんぽん叩いていた。

アラ探し

私は、名倉のアラを必死で探した。何かあるはずだと思った。
これだけ良い子なんだから、きっとどこかに影はあるだろうと思った。
だけど、探せば探すほど、名倉の優等生っぷりが見えてしまうだけだった。
私の姑根性はものの半日で終わってしまった。名倉には、どう頑張っても勝てない。
名倉は、愛されるために生まれおちた子なんだと思った。
きっと、イエスキリストの生まれ変わりだ。

ピザはブッダで、名倉はキリスト。
神二人の共通点は、人を悪く言わないし、常に誰かに感謝している事だ。
客から店頭で褒められたら、それは自分の力ではなく「人を褒められるこのお客様こそ素晴らしい」。
職場の人間から褒められたら、それも自分の力ではなく「こんな後輩を認めて下さる先輩の方が立派」。
こんな神意識の人間はそうそういないと思う。
ピザはまだ良かった、年上だし、先輩だったから、勝てなくても言い訳が出来る。
でも、名倉は後輩で年下だ。

ある祝日の日だったかな、朝からトレーナーに浅見さんに、私に名倉の4人。
レギュラー勢ぞろいで開店を迎える直前、トレーナーと浅見さん二人がかりで、名倉を褒めちぎっていた。
どうやら、前日に客から「あの子の対応が良かった」と褒める電話が店にかかってきたようだ。
「名倉が入る前に、ピザっていう子がいてね、そりゃもうお客さんに人気があったんだけど、名倉もピザに負けてないよ」
「今度の夕食会にピザを呼んで、ピザに名倉へ接客のコツを全部伝授してもらおうか」
なんて盛り上がる二人から離れた所で、むすっとシャリをかき混ぜる私。

その頃私は、名倉を心の中で“パンダ”と呼ぶようにしていた。
「きっとみんな、パンダが珍しいんだ。だから今だけちやほやしてるんだ」と何度も言い聞かせては、パンダと名倉は違うじゃんwwと自ら冷静につっこむ心を消し去ろうとしていた。

名倉は、トレーナーと浅見さんに褒められて、ひとしきり謙遜していたけど、突如「でも、私はクズ子先輩みたいになりたいので、私なんかまだまだです!」と言った。
「クズ子のどこに憧れてんの? ww」と浅見さんがちょっと面白がって聞いたら、名倉はこそこそとトレーナーと浅見さんへ何か話し始めた。
気になったので、シャリ場から耳だけ出して聞いていたら(厨房とシャリ場は事実上別々の部屋なので)「クズ子先輩は、正直でいてくれるし、何より肝が座ってて、職人みたいでうんぬん」と、会話の端々だけは聞こえてきた。

「クズ子先輩は、子供やお年寄りに特別優しいんです!」
ガキはお菓子くれるし、じいちゃんばあちゃんは小遣いや釣りをこっそりくれるからだよ。

「クズ子先輩がレジフォローについてくれた時、お客様一人一人に“是非ご意見下さい”って言って、お客様アンケートのハガキを渡していたんです。向上心があるんだなぁと思って、あんな人になりたい! と思いました」
お褒めの言葉狙いです。

「お子さんの事業参観で出勤出来ないと言ったパートさんに、クズ子さんは『私が出ます』と言って嫌な顔せずシフト交換するし」
残業代と、浅見さん目当てです。

「とにかく、凄い凄い人です!」と、しめくくられたらしい名倉の言葉。
ふん、嘘つけよ。ゴマすりすりしやがって、とぶっちゃけ思ったが、口元がにやにやしていた。

トレーナーと浅見さんが、「だったらクズ子に言ってあげなよ。あの子褒められるの好きだから」と名倉へ言ったら、名倉は「クズ子先輩はそんなに単純じゃないですよ! 私なんかがクズ子先輩に尊敬してますって言っても、ただのごますりにしかなりません」と答えた。
「だからもっともっと頑張って、クズ子先輩に認めてもらえる仕事ができるようになってから、告白しますww」と言った名倉の顔をちら見して、ちょっと泣きそうになった。

やたら疑り深い私なので、もしかしたら私がこの話を盗み聞きしている事も計算なんじゃないかとか色々考えたけど、私の心の中の天使が、名倉は本物の良い子ですよ認定をかけたんだと思う。
計算でもなんでも、とにかく私を褒めてくれる人は、みんな好きだ。

「シャリ炊けましたー」とやたら上機嫌にトレーナーに報告して厨房に顔を出したら、名倉は私がシャリ場にいると思わなかったのか、やたら驚いて目をぎょろぎょろさせていた。

この日から、名倉への私の態度は180度変わった。
「レジ辛くない?」
「変なお客さんに当たってない?」
「パートさんにやたら偉そうな態度取られてない?」
合間合間に、笑顔で名倉にそう問いかける私。むしろ私の方が名倉へごますりすりしてたと思う。

ある日の帰り際、名倉はトレーナーに店の奥で相談事を持ちかけていた。
帰ろうと思ったが、名倉の声が聞こえたのでこっそり盗み聞きしていたら、「最近、クズ子先輩が優しくしてくれるんですが、私はそんなにフォローしてもらえないと仕事が出来ない奴なんでしょうか?」とトレーナーに半泣きで聞いていた。

この日の夜に、トレーナーから電話がかかってきた。
「あんた、理由もなく突然新人に優しくするのやめて」と言われた。

「理由はあります。あの子は私の事が好きらしいので、私の事が好きな人は私も好きですからね」
「あんた本当単純だねwwwwじゃあ、あんたは新人の事認めてるんだよね?」
「私に憧れている所ですか? それは認めてるというかわかってますよ」
「そうじゃなくて、新人の仕事が出来る点は認めてるんだよね?」
「まぁ一応」
「だったら、それを新人に伝えてあげてよ。あんたの態度ひとつであの子も一喜一憂するみたいだからさ」

面倒くせーな、なんで私が褒めてやらにゃいけないんだ、と本気で思ったけど、トレーナーの電話が長くなりそうで面倒だったので、とりあえず「はい」と返事しておいた。

次に名倉に会った時、とりあえず褒めなきゃいけないのかと思ったので、「そのオデコピカピカで綺麗だね」と褒めた。名倉は、「良いオデコってよく言われますww」と答えた。
名倉のバックに変な猫の人形がついていたので、「それ面白いね」と褒めた。
名倉は、「じゃあクズ子先輩にあげます」と言って、私に変な猫を押しつけてきた。
とりあえず二回褒めたし良いだろうと本気で思っていた。
だけど、その日も、翌日も、また翌日も、連日トレーナーから「あんたが面倒見る約束の新人なんだから、ちゃんと心のフォローもしてあげて!」と怒られた。

母ちゃんに相談したら、「容姿や持ち物じゃなくて、仕事について褒めてあげなよ」よ言われた。
「でも、後輩の仕事を褒めるなんてかっこわるい」と言ったら、「トレーナーだって、浅見さんだって、かっこわるいかもしれないけど、あんたをめちゃくちゃ褒めてくれたでしょ?」と言われたので、無言で肯定した。
「あんたは、今まで人に認められたくて必死だったかもしれないけど、これからはあんたが人を認めてあげる番に回ってきたんだよ。あんたが新人ちゃんを認めてあげる、新人ちゃんはまた次に来た新人ちゃんを認めてあげる。そうやって、社会の上下関係は成り立ってるんだ」と教えてくれた。
「あんた、はじめて浅見さんに褒められてどう思った?」
「嬉しかった」
「じゃあ、今度は可愛い後輩にその嬉しさを味合わせてあげなさい」
そうすれば、後輩ちゃんだけじゃなくて、あんた自身ももっともっと良い事がたくさんあるよと言った母ちゃん。
母ちゃんの言葉も理解は出来るけど、それでも私の安いプライドが、名倉を認めて褒めようという意識を持たせなかった。

ある日に、名倉はレジではなく厨房を手伝いたいと言った。
お前はレジ係でしょと言ったけど、なぜか浅見さんが「今日は私がレジするから、名倉にも厨房知識をざっと今日一日で教えてあげてよ」と言った。
浅見さんが一日レジに立つなんて、そんな珍しい事はない。
どういう風の吹き回しだろうと思ったけど、浅見さん直々のお願いであれば断る訳にもいかない。
「じゃあ、とりあえず手の洗い方からね」と面倒くささ全快で名倉に言ったら、名倉は「ありがとうございます!」と地面に頭がつくんじゃないかというほど、首をだらんと下げてお辞儀をした。

厨房の仕事で、私が今まで壁にぶちあたったのは、イカとタコの握りだけだ(と、思う)。
つまり、厨房仕事はニートでも出来た単純作業という意識が強かったが、名倉を見てそうじゃない事を改めて知った。
名倉は、シャリ一つ取らせても、上手に出来ない。
ただ機械から出てくるシャリの玉をケースに並べるだけなのに、シャリをぐちゃぐちゃに潰してしまう。
このままじゃ今日炊いたシャリを全部潰されると思ったので、今度はガリの補充をさせて見た。
特定量のガリを出来あがった寿司の隣につめるだけなんだけど、量がまちまち過ぎて、これじゃ客からクレームになるレベルだと思った。
洗い物をさせた。きっと名倉は、洗い物をほとんどした事がないんだろうと思った。
一回洗い終えた物を点検したが、全て汚れが残っている。

一つ一つの仕事が出来ていないと名倉も察していたんだろう。
「すみません、すみません」とこの日は一日中私に頭を下げていた。
名倉が帰ったあと、トレーナーに呼ばれた。トレーナーは、「なんで名倉が今日厨房に入ったかわかる?」と言った。
「さぁ、レジに飽きたんですかね」
「馬鹿! あんたに認めてもらいたかったんだよ! あんた本当に人の気持ちが分からない子だね!」「でも、結局名倉は全然仕事出来なかったですよ」
あのレベルで私に認めてもらおうなんて100年早いっすwwwwと言ったら、トレーナーに厳しい目で睨まれた。
「あんた、それ本気で言ってるんだったら、がっかりだね」そう言って、トレーナーは店じまいを私に任せて帰ってしまった。
私は、何で怒られたのかよく分からなくて、とにかく腹が立ったと思う。

クズ子先輩

浅見さんはレジにそう毎日立ってられない。
なので、結局名倉が厨房仕事を手伝ったのはあの日が最後だった。
だけど、ある日の休憩時間。休憩室で昼寝をしていて、なんかお腹がすいたので厨房につまみ食いをしに行った。
そしたら、トレーナーと名倉が二人でいた。
テスト休みだか夏休みだったか定かではないが、とりあえず学校はないにしても名倉の出勤時間までまだ1時間以上あるのに何してるんだと思ったら、名倉はひたすらイカを握っていた。
名倉の隣には、山積みになったイカがあった。
そういえば解凍期限切れのイカと、時間切れのシャリが最近やけに減ったと思ったが、ここで売り物にならない材料を使って、名倉が練習していた事を察した。

ある日の帰り道、名倉に、「クズ子先輩は何のネタが一番好きですか?」と聞かれた。
「えんがわ」と答えたら、「えんがわかぁ……。私にはまだまだです」と言って、なんかしょんぼりしていた。
握りの練習をして、私に寿司を握って食べてもらって、そして認めてもらおうという考えか、と分かったけど、この時は名倉に何も言わなかった。

それから休憩中、いつ厨房をのぞいても必ず名倉はいた。
そうそう期限切れの食品も出ないので、文字通りネタがつきたのか、いつのまにか練習用のネタ(プラスチック製の、本物の感触にきわめて近い疑似寿司ネタ)を使って、ひたすら握りの練習をしていた。
正直、えらいなぁとも思ったけど、それよりも、名倉が握りも出来てしまっては追い打ちをかけて私の立場がなくなるとも思った。

ある日、名倉が「クズ子先輩! 食べて下さい!」と言って、マグロ、イカ、サーモンの3カンだけの寿司を持ってきた。
この時すでにはじめて名倉のこっそり練習を見てからかなりの日数が経っていたが、やっとイカを克服したか、とちょっとだけ嬉しくなる気持ちもあった。
お腹もすいていたので、ありがたく頂いた。美味しかった。まだ手につける水量が多いのか、べちゃっとする気はするけど、ほぼ気にならないレベルだ。
私はこの日、美味しかったけど名倉に「美味しかったよ」とは言えなかった。
というか、言わなかったが正解だな。
ついに追いつかれた気がして、焦りの気持ちがMAXでそれどころではなかった。

ある日にトレーナーと一緒に昼ごはんを食べていたら、トレーナーが「あんた、ちょくちょく休憩中に厨房のぞいてるでしょ?」と聞いてきた。
「あぁ、なんか頑張ってるなぁと思って見てました」
「残念だけど、あの子には握りの才能はないね。
才能はないけど、努力の虫だし若いから、あっというまに人並みには握れるようになったよ」
握りの才能はないという言葉に正直ほっとしながら、「じゃあ、これからは忙しい時レジ兼用で握ってもらえるから楽になりますね」と言った。
トレーナーは、「まぁそうだけど、あの子のゴールは店の役に立つことじゃなくて、えんがわを握れるようになる事だからね」と私の顔をじーっと見ながら言った。
「悪いですけど、私えんがわにはうるさいですよ」
「そんなのみんな知ってるよwwwwだからあの子も死に物狂いなんだろwwww」
あんたから寿司の才能を除いたら本当、ただの馬鹿でしかないねwwww人の気持ちが分からないただの馬鹿だねwwwwとトレーナーがけらけら笑うので、トレーナーの醤油皿にチューブわさびを10センチほど入れてやった。

それからまたある日、変なハゲ客に名倉が絡まれていた。
絡まれていたというか、怒鳴り散らされていた。
何事かと思ってレジへ向かったら、ハゲは「寿司屋に外人をレジに置くなんて、お前の店はおかしいんじゃないのか!?」と私に怒鳴ってきた。

「失礼ですけど、彼女は日本人です。海外出身ではありません」
「じゃあ証拠見せろよ! 証拠! 名札の名前だって、明らかに偽名じゃねーか!!」
(前も書いたけど、名倉の本名はなかなか珍しいTHE! 日本! という名前)
今までに何回か、こうして名倉の容姿に突然怒り出す客もいたが、怒りだすというか、ちょっときつめにイヤミをいっておしまいな客ばかりだったのに、この客はやたらしつこい。

なんでこんなに話が飛躍したのか聞いた所、客が言い捨てるように言った注文が名倉は聞きとれず、「もう一度お願いします」と言ったら、
「お前日本語も分からないくせにレジに立ってじゃねーよ! お前外人だろコラ、俺に偉そうな口聞きやがって(略 」という流れだったようだ。

まぁ一言でいえばただのクレーマーなので、こういう客は相手するだけ時間の無駄。
「とにかく、うちのレジは日本人ですから」と言い捨てて、さっさと注文しろよ、光の速さで握ってやるからさっさと持って帰って二度と来るな、という言葉をオブラート1枚に包んで伝えた。

私の対応にもカチンときたらしい客。
「一流店ではなぁ、こういう時土下座するもんなんだよ! なんだお前のその態度! 正社員のバッチつけてんだからお前が責任者だろーが、今すぐ土下座しろ!!」

お前みたいなやつがやってる店だからろくでもない店なんだろ、こんな店俺なら電話一本で潰せるぞ、お前は人間のクズだな、こんな外人もどきのバイトなんかどうせ他に働き口がなくて仕方なくこんな店で働いてるんだろう

ハゲクレーマーは、ねちねちねちねち詰め寄ってくる。
だが残念な事に全くそんなねちねちは性格上気にしないので、「はいはい」「あぁ、そうですね」と全て受け流していた。

クレーム対応としては0点なんだろうけど、あとからトレーナーに怒られるかもしれないけど、別にいいやと思った。

ハゲには合わなかったかもしれないけど、うちの名倉はこの地域で一番のレジ打ちです。それは間違いありません。
ただし、今日は注文が聞きとれなかったようなので、帰りに責任持って耳鼻科に連れていくのでそれで許して下さい。と言った。
ハゲは、「耳鼻科の前に頭の病院行けよ!」と怒鳴って、結局何も買わずに帰っていった。
めんどくせーオヤジだったね、と名倉に言ったら、名倉がぼろぼろ泣き始めてしまった。レジ前で誰が見てるか分からないので、厨房のすみに連れていって、「気にしたら負けだよ、きっと髪の毛が抜けて機嫌悪かっただけだよ」と言ったら、名倉は「そうじゃなくて、クズ子先輩に一番のレジ打ちだって言ってもらえて嬉しかったので、これは嬉し泣きです」と言った。
言葉のあやというか、気にしてないとはいいつつ若干自分を馬鹿にされて腹が立ったので思わず言っただけなのに、名倉は真っ白な歯をむき出しにしてびーびー泣いている。

なんか、急に恥ずかしくなってきた。
人を褒めた事なんかほとんどないし、そもそも褒めたつもりもないのに、現に名倉は目の前で「クズ子先輩が褒めてくれたーーー!!!」とガッツポーズを取りながら泣いているし。

シャリ炊き場からパートさんが「なんの騒ぎだ」と覗きにきて、ビービー泣いてる名倉と私を見て。「クズ子ちゃん、何も泣かせる事ないでしょ!!」と意味不明にいきなり怒られた。

違うと弁明する前に、名倉はパートさんへ駆け寄って、「クズ子先輩が??」といきさつを話し始めた。
この日、夜に来たトレーナーにも、翌日朝から出勤してきたパートさんにも、浅見さんにも、名倉は私との話を自慢し続けたようだった。
話が飛躍し過ぎて、ある日久しぶりに会ったパートさんから「名倉ちゃんを守って、痴漢もどきのお客さんを殴り倒したらしいじゃない。暴力は駄目よ、トレーナーは知ってるの? 店の信用問題に??」と説教される日もあった。

確かに私は無愛想だけど、このパート連中の決めつけにはさすがに腹が立った。
連日連日なので、イライラしながらきゅうりを叩き切っていたら、浅見さんが「あんたのまかない、今日は私が作ってあげる」と言った。
「あんたが先輩になれたお祝いだから、特別にウニも入れてあげる」と言って、浅見さんは私の肩をぽこぽこ叩いてくれた。
「偉いじゃん」と言われて、有頂天になった私は、「まぁ、新人を褒めて伸ばすのも先輩の仕事っすからねwwwwww当然の事をしたまでっすよwwww」と誇らしく言った。浅見さんは、「今日だけは調子に乗らせてあげるかww」と言って、えんがわとウニ入りのまかないを作ってくれた。

これで名倉との話はほぼおしまい。

「私の意思だ」

名倉が入店する少し前、母ちゃんと私は、何度も何度も“就職”について話し合っていた。
ぶっちゃけ、母ちゃんは反対だったんだと思う。
外食産業という物はここ何日かで目を通した資料で少しずつ理解はしたようだけど、それでも不安は残るらしい。
まだ私は若いし、いくらでも学校へ行き直して、新卒として入れる職種があるんじゃないか、と本気で悩んでいたようだ。
私は正直言って、どちらでもよかった。就職しなきゃ生きていけない訳じゃないし、とりあえず食っていけるだけのお金が稼げれば良かった。

ある日、かなり大きな注文が入った。
懇談会だか何かで出すための寿司、30人前の注文だったと思う。
30人前はかなりでかい。うちとしても利益が大きいし、何よりもこういう大型注文は、みんなで一丸となって作るので、人間関係の向上にもつながる。

決まったネタではなく、あくまでも予算を提示してきた客の、その予算内に収めて寿司を握る。
つまり、何もない所から自分のセンスで一枚の皿を完成出来るわけだよ。
私はそういう作業が大好きなので、打ち合わせの段階からわくわくしていた。

ここにウニを入れてしまうと原価が割れてしまうから、ここは半分きゅうりの半分ウニ軍艦を入れようとか、そんな打ち合わせを連日遅くまでみんなで残って話し合う。
修学旅行の打ち合わせみたいで楽しいと思った。
何より、私が入社してから、こんなにも大きな大型注文は初めてだったので、はじめてこなす物に、やる気でいっぱいだったと思う。

当日詰めるネタも決まり、前日の大型仕込みも終了した。
翌日は、出勤出来るパートさん全員と、私、浅見さん、トレーナーのレギュラーメンバーが朝一番で出勤する事になっていた。
トレーナーが打ち合わせの最後に、「明日の指揮は、クズ子でいきます」とパートさんに向けて言った。

ここで説明しよう! うちの店でいう“指揮”とは、その名の通り全体のバランスを考えながら、この人にはこれだけの仕事、この人にはこの仕事……と割り振っていく立場だ! 

いつもはトレーナーが取る指揮を取らせてもらえるらしい。
「私でいいんですか」と聞いたら、「あんた以外誰がやるの」と返された。
ですよねwwwwww私しかいないっすよねwwwwwwとちゃらけて返したら、トレーナーは、ただ「期待してる」とだけ言って、もう上がっていいと私に言った。

期待されると答えたくなる性分らしいので、何だか妙に気合いが入った。
帰ってから早々、PCの電源も入れずに、即風呂へ入って、即寝た。明日のためにと思った。

翌日、目ざましよりも早く目が覚めて出勤したら、すでにトレーナーが来ていた。さっそくシャリを炊いていた。
店が開店してしまうと、通常客の注文を優先的に作らなくてはいけないので、朝のうちに注文分の寿司をどれだけ握れるかがポイント。
だけど、生ものは時間制限があるので、あまり早くに握っても駄目。
用意された6人前のパーティー皿が5枚。
そこへ、時間制限のない巻物やネタから握られは詰められていき、大きいパズルを組み立てているようだと思った。

人数が多いし、この大人数で全員取りかかっている仕事は同じ。
そうなると、特にみんなの気合いが違う。
ただ、もちろん私は嫌われ者なので、私の指揮を無視して勝手に作業を進めるパートさんもいた。
だけど、そんなパートさんですら、同じパート同士で注意しあってくれる。
「指揮の言う事聞きなさいよ!」と言って、私が指示した持ち場に戻るように注意してくれる。
同じ目標をもって取りかかるのは、良い事だと思った。

5枚のうち、一皿だけは子供用にサビ抜きで注文のはずになっていた。
なので、それ通りに指示を進めていたんだけど、ここで注文票を見直して、大きな事に気付いた。子供の人数が、10人以上いる。絶対一皿じゃ足らない。
ていうか、昨日まで子供の人数はここまで多くなかった。なんで人数が変わっているんだと思ってみんなに聞いたら、一人影の薄いパートさんが、「さっき電話で追加注文頂いたので、注文票直しました」と言った。
直したなら直したでちゃんと報告してよ! と言ったら、「声かけましたよ」とムスっとした顔で、パートさんは私を睨んできた。多分、作業に夢中でパートさんの声を聞いていなかったんだと思う。
もう一枚5人前のさび抜き寿司を作るには時間もぎりぎり過ぎるし、何よりまた予算が変わってしまう。人数は増えたのに予算は変わらないらしいので、下手したら一からやり直しになるかもしれない。

困ったのでトレーナーに助けを求めたら、トレーナーは「今日の指揮はあんたでしょ」と言った。あれだけ本社で企画案提出したんだから、その頭をひねりなさいと言われた。
あまりの無茶ぶりに、イライラしたのでこっそりウニを大量につまみ食いしてやったけど、でも、トレーナーの言う通り、ここで私が何とかしないと、どうにもならない。

でも、また一から電卓をたたき直す時間もない。
奥で一人頭を抱えていたら、トレーナーが、「うちで一番安い寿司は何?」と聞いてきた。
「イカとタコですね」
「じゃあ、イカとタコよりも安いものは何?」
「ないですね」
「なくないでしょ、“握り”のイカとタコよりも安いもの、あるでしょ」
少ない脳味噌をフルに使えと言われたて、考えた。だけどやっぱり何も思い浮かばない。
というか、イカとタコと戦友関係をつくりあげすぎて、今更イカとタコよりも下の存在が思いつかなかった。

云々うなっていた私の頭から煙が噴き出ていたんだろう。
トレーナーは、コップに水をついで差し出してくれて、メニュー表を持ってきてくれた。
「6人前の皿を埋めるには何カン必要?」
「55カンっすね、握りだけで」
「55カンも握れないなら、どうすればいいのよ」
「……あぁ、」
「うちで一番安い一人前寿司は、どうやって皿を埋めてるの?」
「巻物ですね」
なら、さっさと巻いてこいと言われて、尻を叩かれた。

巻物の材料、特に子供が好きな卵やかっぱ巻きや納豆は、原価がほとんどかからない。
原価高めの鉄火巻きをいれるにしても、巻物にしてしまえば、握りを5カン並べる所が1本の巻物で埋まるんだよ。
慌てて巻物作り始めた私は、もくもくととにかく安くて、ガキが好きそうなネタを選んだ。
たまご、きゅうり、鉄火、納豆。あと、おしんこ。
一番安いイカ握りで皿を埋めるより、その半分の値段で一枚皿が埋まった。
かなりすかすかだったけど、巻物の良い所は、すかすかでも並べ方一つでたくさん入っているように見える所だね。

出来あがった合計6皿の寿司値段を計算したら、やっぱり無理に増やした巻物のせいで若干予算はオーバーしていた。
だけど、まだまだ黒字が出るレベルだ。

6皿目最後の皿にガリを詰めて、ふたをしてから、厨房の人間の間でどっと拍手が沸いた。
お疲れ様、と言い合っているパートさんをしり目に、とりあえず終わった事にほっとして、座り込んだ。
浅見さんが、「あんたの巻物提案、凄く良かったよ。お疲れ様」と言って、ジュースを買ってくれた。
あの提案はトレーナー発案なのにと思って言おうとしたら、トレーナーが「黙っておけ」という顔をした。

帰り際に、トレーナーは「職場って良いでしょ」と聞いてきた。
「みんなで何かやり遂げるのは良いですね」と返したら、「あんたにもそれを分かってほしかった」良かった、あんたの小さい頭でも理解できたかwwwwと笑っていた。

この一件で、ただ漠然と、この店にずっといたいなと思った。

パートのおばちゃんはむかつくし、レジに出ても客から怒られるし、ただ寿司が好きなだけの人だけど、でも寿司が好きというか、この店が好きなんだと改めて思った。
だから勤めたいし、これからもいたいと思ったので、母ちゃんにそれを伝えた。「社員になろうと思う」と言ったら、母ちゃんは「それは、自分の意思で決めた事?」と聞いてきた。
なので、「私の意思だ」と言ったら、「よし! ならやりなさい」と母ちゃんは言った。
勤めるからには、やめるなとは言わないが、全力をつくせと言われた。
「あんたの人生のフィールドが、○○寿司になれるように母ちゃんは応援する」とも言ってくれた。
そんなに重大な事を決めた意識がなくて、母ちゃんの言葉がピンとこなかったけど、それでも何か「偉い偉い」と褒めてもらえたので、嬉しいからまぁいいかと思った。

おしまい

これが私が社員になるまでのいきさつ。
そして、実はこんな中途半端で申し訳ないが、もう他にネタがない。
なので、尻切れトンボのようで申し訳ないけど、事実上これで話はおしまいです。

もっと小説のような感動的ラストを想像してた人すみません。
私の話のピークは、母ちゃんが部長昇進した所です。ほんとすみません。

今も部長止まり。
むしろ部長までの道のりがトントン拍子過ぎたんだと思うと母ちゃんが言ってた。

兄は結婚したし、妹は立派に進学高校へ入学。
父母の再婚も決まって、円満なのではないでしょうか。

オヤジはもうとっくに自己破産して、
弁護士に債務整理頼んでて、弁護士費用の分割もすでに終わってる。

みんなもありがとうございました。
一人でも多くの人が、うんこモリモリしますように。

うちの母ちゃん凄いぞ

この文章は、インターネット掲示板2ch.netのスレッド「うちの母ちゃん凄いぞ」の内容を編集したものです。多くの人に読んで頂くために時系列を整頓して隠語を一般語に変更しています。

うちの母ちゃん凄いぞ

母ちゃんと兄と妹とオヤジ。寿司とトレーナーと浅見さんとピザと名倉と寿司と寿司。

  • 随筆・エッセイ
  • 長編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2010-10-31

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work
  1. 中卒ニート
  2. 引っ越し
  3. プリン
  4. カロリーメイト
  5. 家出
  6. 合唱
  7. 仕事
  8. 木の棒
  9. バザー
  10. 分からない
  11. プレゼント
  12. 役職
  13. 寿司
  14. トレーナー
  15. 笑顔
  16. 浅見さん
  17. カツラ
  18. お金
  19. イカとタコ
  20. 接客
  21. 孝行
  22. 貯金
  23. 着物
  24. オヤジ
  25. 復帰
  26. 二足のワラジ
  27. 正社員
  28. 本社
  29. アルバイト募集
  30. 教育係
  31. 名倉
  32. アラ探し
  33. クズ子先輩
  34. 「私の意思だ」
  35. おしまい