命の蔓と蜘蛛の糸


地獄の沙汰も金次第。金は人生の通行証であり、保身の為の道具である。
男は仄暗い檻の中にいた。窮地に陥り、犯罪に泣く泣く手を染めてしまった挙句には救済と弁明の機会が与えられず、只々、一方的な判決を待つだけの状態となっていた。
男は自身の無力を深く嘆き、視覚を奥闇(おくやみ)へと埋めて過酷な現状から逃避せんとする。
しかしそれでも思考の放棄すらも許されない。叱責と追及が男を一時たりとも休ませることなく、目蓋(まぶた)の裏側で節足虫の如く這いずり回るのであった。

一章
台風一過を契機に暑さは北上し、替わりに清涼な風が青臭い薫りを運んでくる。そんな九月下旬の河川敷の上でその男は寝そべりながら、悠然と広がる空を眺め惚けていた。
男の名は高須。歳は満二十四の青年ながらも、成人男性の平均より断然逞(たくま)しい骨格肉付きと鋭い眼に潰れた耳のいかつい面貌が原因で、どう転んでも年相応には見えない。御世辞に言ってもせいぜい三十路手前の容姿であろう。
現在は針が午後三時をまさしく刻んだ頃。岩の如き人間が平日の白昼後から大の字になって、御機嫌な鼻歌をなびかせていれば、当然、河川道からそれを偶然目撃する大小二種の異なる年齢層達は一部を除いて顔に好奇と侮蔑を浮かべた後に、すぐさま姿勢と表情を正すか、もしくは小憎たらしい挑発を投げかけてくる。
それでもどんなに陰口を叩かれようとも、高須は無反応だった。今の彼にとっては一々反応するのはとても億劫だ。仮に反論した所で怠惰な印象が覆るならまだしも、女子供相手では厄介事に発展するのが前もって目に見えているし、何より微風にそよがれながら澄んだ青空を眺めるのが好きなだけで、無粋な言動で趣(おもむき)を極力壊したくはないのである。
「よっと!!」
高須が腹筋に力を入れて勢い良く巨躯を起こす。下敷きになった芝はまるで大きな質量に生気を吸い取られたのか、一斉にひしゃげていた。
「ん、ん……っ」
高須は背筋を大きく伸ばして清々しくも生暖かい空気を肺の中で煽り、十分に満喫したら最後に衣服全体へとこびりついた草を一つも残らず掃き落とす。一連の動作には、まるで身体のいたる所から老廃物がぽろぽろと排出されていくかの心地良さがあった。
睡眠(休憩)と食事(補食)は人間の基本的欲求であり、同時に娯楽の代名詞でもある。気分上々に河川敷を後にした高須が次に向かったのは、駅前商店街の中央に座するケーキ屋だった。
この店のケーキは雑誌に度々掲載されるほど味の評判が大変良く、平日でも時間帯によっては店頭販売は当然、店内飲食目的でも長蛇の列が発生するくらいの人気がある。
幸い現在はまだ、女子学生が蔓延(はびこ)る時間帯ではない。高須の立ち位置から視認できたのは、店頭販売をしている中年の女性店員と接待をされている老夫婦が一組。後ろに並んでいる主婦二人と連れの子三人。更にそこから一定の距離を空けて、両手を前で組んだ礼儀正しそうな中学生らしき面貌の少女が俯きながら一人ぽつんと佇んでいた。
 ……これって、並んでないよな?
僅かな戸惑いを顔に浮かべた高須が暫く様子を見ると、少女からは順番待ちをしているそぶりが特に見受けられなかった。
高須はさり気なく主婦の後ろにそろっと並ぶ。それでもマナーの悪い行動と薄々感じている上に、少女の控え目さが尚更合いまって、高須は待っている最中にも無性な焦燥感へと襲われてしまうのだが、今更おめおめと並び順を替えるわけにもいかなかった。
高須は自分の注文番が訪れる直前になると、首を捻ってわざとらしく大通りの景色を眺めるふりをする。
(びくッ!)
その中途半端な気遣いが裏目へと出てしまう。間近で顔を上げていた少女との視線が偶然にも交差してしまった所為で、結果、彼女に素早い踵を返させてしまう事になった。
「あ、ちょ……」
高須が咄嗟に少女を呼び止めようとするが、声を掛けるタイミングが今一歩遅すぎた。少女は思ったよりも早足で、たちまちの内に高須との距離を広げていく。
けれども少女は高須の目の届く範囲から完全に逃げ切るわけでもなかった。近くのシャッターが閉じられた店に行き留まると、そこから脅えた表情できょろきょろと周囲を窺い始めたのである。
――もしや単なるコミュニティ障害ってやつか?
自分が直接の原因ではない。それだけで高須の少女に対する罪悪感は急激に薄れ、ここまで大袈裟な態度に興味を持つ運びとなる。いくら人間付き合いが苦手だとしても、病的なまで広範囲に渡って警戒をする必要性はない。そもそも少女は学生服を着用していない。しからば一体、学校を休んでまでこの場に居る理由とは何であろう、と。
遠くから見た少女の外貌からは、いじめの対象になりがちな陰鬱な雰囲気は決してなく、どちらかと言えば、深窓の令嬢にでもありがちな閉鎖的で儚(はかな)気(げ)な雰囲気が滲み出ており、その希薄めいた姿が却って高須の網膜に存在をより色濃く焼付かせた。
「ちょいと、お兄さん。どのケーキにするんだい?」
ふいに背後から発せられた中年女性の声。我に返った高須は慌てて店側へと振り返る。
「あ、はい。いつもの下さい」
「いつもの五点ね」
待たされている側からしたらとんだ傍迷惑だったろうが温情溢れる店員からの追及はなく、彼女は笑いながらトングを片手に手馴れた動作でケース内のケーキを一つずつ取り出し箱に詰め、まるで籠を編み上げるかの如きすばやい手付きでそれを閉封する。
「はいよ。全部で1380円ね」
「はい」
ケーキ箱がカウンターの上に置かれるのとほぼ同時に、高須はズボンのポケットから茶封筒を取り出して、中から新札を一枚引き抜いてみせた。
「あら。お兄さん、今日はお金持ちだねえ。それで、お釣りはいるのかい?」
「当然です」
「あら、残念」
冗談混じりに紙幣を受け取った店員は早々とレジで精算を済ませ、釣銭を乗せた受皿をケーキ箱の横に並べると、再び朗らかな笑顔を浮かべた。
「毎度ありねー。また、是非ともいらっしゃいな」
「あ、はい。また来ます」
やけに友好的な店員の調子に、高須は流されるがままに会釈を返す。勿論、感謝されて悪い気はしないのだが、背後の少女の視線を意識すると何故か素直に喜べなかった。
高須は反対側のポケットに入っている財布に釣銭を忙しなげに収めて、ケーキを手にする。そして妙に緊張した面持ちで意を決すと、大きな身体を小振りに翻した。
「んっ?」
視線の先、少女の姿は既に何処へと消えていた。
 高須は頭を片手でポリポリと掻く。
「あれ、一体何だったんだ?」
結局、暫らく考えても答えは出る筈もなく、高須はまるで狐につままれたような表情で首を傾げながら、そのまま自宅への帰路を歩くのだった。

『安楽(あんらく)荘(そう)』
今年で築四十五年目を迎えるこの木造アパートの一部屋は、高須の居住空間となっている。思わず現代人の認識から忌諱(きい)されそうな胡散臭い名称に反して、駅から徒歩十分圏内の地便の良さに加えて家賃もかなり良心的価格。ともかく近くて安い。この二つの条件さえ優遇されていれば、例え、藁葺(わらぶ)き屋根建築であろうが、害虫が這いずり回っていようと高須には耐えうる自信があった。
だがそんな高須にも安楽荘に対して唯一、未だに不慣れな事がある。
「HEY! コンニツワ!」
高須が門をくぐった途端、敷地内にいたレゲエチックで陽気な黒人に声を掛けられた。
「こんばんは」
調子をどうにも合わせ辛いと感じた高須は、相手より遥かに劣るテンションで挨拶を返す。それでも日本語での意思疎通が可能であるだけ、これは比較的マシな対応であるかもしれない。もしも相手の挨拶が『HELLO』や『?(ニー)好(ハオ)』だったのなら、高須は片手で返事を済ませて、そのままあっさりと通り過ぎていただろう。
――日本に居るなら、日本語使えよ。
口には決して出せないが、第二言語に精通していない者の本音などこんなものである。
「イテキマス」
「行ってらっしゃい」
黒人は擦れ違いざまに高須の肩を軽く叩くと、軽快なリズムをとりながら敷地外へと去って行った。
相手の背中が視界から完全消失したのを確認した高須はひとまず安堵の息をつくが、苦手意識から張りつめた心の弦は完全に緩む事もなく、周囲を何度も何度も見渡しながら自分の部屋へと抜き差し足で向かった。
一〇八号室の鍵を開けてやっと部屋に入った高須が真っ先に郵便受けを確認する。中では公共料金の支払い通知が三枚と消費者金融からの催促状二枚が、不要な広告と纏めて無造作に押し込まれていた。
「やっぱ支払い催促が来たな……、どうすっかな」
中身にさっと目を通した高須が軽く舌打ちをする。
「まあ、公共料金は後回しだ。来月でも止まらないだろ」
さもそれが最善の選択かに呟くと、購入したケーキを冷蔵庫にしまい、二枚の葉書と封筒をポケットに捻じり込んで再び扉を開いた。
コンビニの内側の扉から高須が現れた時、その顔色はげんなりとしていた。責務と言う不可抗力で金銭が消失してしまうのは致し方なしだが、それでもやはり虚無感は生まれてしまう。
自室に戻った高須は卓の前にどっかりと腰を下ろすと、急に何かを思い立ったのか、四つんばいになりながら箪笥(たんす)の引出しから一枚の使い古された空封筒を取り出して、茶封筒の中身の一部をそこに移し替える。
「さてと……」
高須は弾力性が著しく失われた茶封筒の残金を目視して、仕方なしに溜息をつく。それでも、くどいようだが責務は果たさなくてはならない。結局、微かに重みの付いた古封筒を握り締めたまま立ち上がると、今度は安楽荘の離れ小屋へと向かっていった。
扉の前に辿り着いた高須がチャイムを押して息を巻きながら待機をする。他の部屋のものとは明らかに異なる上品な音色が、ここに住まう者の立場の優位性を示唆していた。
やがて優雅な旋律が暫らく流れた後に、扉の奥から辛うじて聴きとれる緩慢(かんまん)な返事が発せられる。そしてすぐに扉の開放と共に一人の腰を曲げた老婆が控え気味に姿を現した。
「こんばんは大家さん。今月の家賃を支払いに伺いました」
大家と呼ばれた老婆は、はっきりと要件を告げた高須の姿を目の当たりにした途端に、温柔な笑みを浮かべて口を開く。
「それは、それは、ご苦労様です。えーっと……」
「一○八号の高須です」
高須は封筒を大家に向かって差し出す。その正体は集金袋であった。
「そうそう。高須さんねぇ。近頃は異人さんが多くて、名前も覚えられなくてねぇ……」
集金袋を受け取った大家は玄関の靴棚上に置かれている老眼鏡を掛けて、取り出した集金袋の中身を一枚一枚と指で丁寧に数え始める。
「確かに、外国の人多いですよね。ここ」
「そうなんですねぇ。でも主人が好きだから……。ああ、控えを持ってきますので、少しだけ中に入ってお待ちくださいねぇ」
「ああ、はい」
大家は高須を中に招き入れると、転倒するだけで折れてしまいそうなほどの華奢な棒脚を、ずるずる引き摺りながら奥へと引っ込んだ。
正当な用事とは言え、他人の家の玄関でずっと佇んでいるのは心細いものがある。特に年配者の大家が言う『少しだけ』の感覚が如何なる程度なのかが不明だったので、高須は長時間待たされても構わない覚悟を決め、時代遅れの邦楽を口ずさむ。
しかし大家は二番を歌い始めて間もない頃に戻って来た。
「はい。お待たせしました。お釣りを確認してくださいな」
先程の集金袋を高須に返却する大家。骨張った肩からは僅かばかりの上下運動が見てとれた。
「あ、はい」
 高須が言われたまま中身を確認する。折り目の跡がついた数枚の紙幣の他に、一枚の捺印された領収書が入っていた。それも三文判ではなく、正真正銘の実印が寸分の角度のずれもなく押してあるので、毎月の事ながらも、高須にはそれが勿体なくも感じてしまう。
「はい。問題ないです」
「そうですか。それは良かった。最近は体もそうですが、目がめっきり悪くなってしまってねえ。先日もつい、うっかり異人さんの家賃のお勘定を間違えてしまったようで、それはもう、大変なことになりまして」
「それは大変でしたね……」
「ええ。異人さんの言葉は主人じゃなきゃ分からないので、どう何を話したらいいのか。やはり昔と違いますから、わたしも今更だけど語学の習いを始めましてねぇ」
「語学ですか」
大家は時代の推移に順応しようと懸命だが、高須にはそれが一種の老人虐待かに思えた。
「それよりも、皆が日本語を話せればいいんですがね」
「それが一番良いのですけどねぇ」
高須と大家は、互いに困惑が入り混じった笑いを顔に浮かべていた。
その後、二人は本当にたわいもない雑談を交わして、頭を丁寧に下げ合いながら別れた。
高須が自分の部屋の扉を開けると、ふと普段と異なる状態に気付く。いつも玄関にきちんと並べてある筈の靴は乱雑に放置され、一部が無残に踏み潰れていた。
――ん? 俺、そんなに慌てて部屋を出たっけ?
違和感に首を傾げたまま、どうしてだか目印のように奥に続いてる土を視線で追いながら、部屋に上がり込む。すると信じられない光景が目を覆った。
部屋の中にある棚と言う棚が全て開かれていた。当然、先程開けたばかりの箪笥の段も引き出たままになっており。更には――、
「給料袋……どこだ?」
卓上に置いた筈の、茶封筒が忽然と姿を消していた。
高須の血の気が一瞬にして引き、額に一滴の冷汗が浮かび上がる。
「えぇっ、嘘だろっ!?」
状況をやっと飲み込めた高須がすぐさま半ば死にもの狂いで部屋内を捜索する。布団の中、絨毯(じゅうたん)の下、果ては天井の上まで、隅から隅まで余す所なく探すが、それらしき物は全く見付からなかった。
高須は発狂したい気持ちに駆られながら、すぐさま近くの交番に駆け込む。警察官は彼のあまりの形相に最初は驚きを隠せていなかったが、後々に事情を知ると、
「あー。部屋の鍵掛けてなかったんだよね。正直厳しいなー。言っちゃ可哀想だが、そりゃ自業自得だよ。決め付けはいけないけど、ここら辺は外国人多いんだからさ」
辛辣な言葉を口にしながら、無駄になるであろう調書をとっていた。
放心した状態で安楽荘へと戻った高須は部屋に入るなり、財布と集金袋の中身を卓上へとばら撒いた。
「…………しち、八、九」
幸か不幸か、金を数える度に、失っていた冷静さが戻ってくる。
――もしや犯人が捕まって、被害額が戻ってくるのでは?
――もしや犯人が改心して、給料を返してくれるのでは?
と、先程までは甘い希望(ゆめ)を見ていたのだが。皮肉な事に、金の力により現実へと引き戻されていく。
「……全部で、9685円か」
結局、残額を算出し終えた頃には、正体不明の犯人に対する怨嗟の感情が殆ど消えかかっていた。
「これでどうやって、生活するんだ」
それよりも只、この事が何よりも心配だった。
今の高須には貯金はおろか、借金ができる機関もなく、更には頼れる人脈すらない。実の親ですら、とある理由で音信不通となっている。
高須は緻密な人生設計を立てぬまま実家を飛び出し、漠然と運命に流される日々を送っていた。しかし当然ながら生活は困窮を極めていき、挙句の果てには今回のような災難に見舞われてしまう。
負った痛手は簡単に癒えるものではない。貧困は決して楽にはなれない。それを常日頃から痛感していた高須だったが、この後にすぐ人生の転機が訪れようとは、現時点では思いにもよらなかっただろう。

給料袋を紛失してから、一週間ほど経ったある日の事である。
高須は近所のショッピングモール内の本屋で立ち読みをしていたついでに、ふらふらと彷徨うようにして家電量販店に寄ったのだが、そこで挙動不審な中年女性の姿を目撃する。
女性が利用しているカートの中には、決して少なくない数の小物、中型家電製品が乱雑に積まれている。それだけなら纏(まと)め買いの顧客と大して変わりがないのだが、高須が異様と感じたのは、商品を選定する時の行動であった。
女性は、まず見本と値札を交互にさっと目視した後、売り場に置かれている販売商品の外箱の四方をまじまじと物色している。
高須は外装状態の良し悪しで品物を取捨しているのかとも思ったが、何故か女性の選定条件はそれだけでは済まない気がしていた。
ゆえに、気になって後をひっそりと付けてみる。すると女性はレジに向かわず、店内エレベーター前に設置してある防犯ゲートを何の異常もなく颯爽と掻い潜った。
「え?」
女性の動作があまりにも鮮やか過ぎて、高須には一瞬何が起きたのかを理解できなかった。けれども女性がそのまま鉄箱に飲まれて、まるでマジシャンの如く自身を華麗に消失させた時、高須はついにその正体を認識した。
「おいおい……まじか」
肉眼で犯罪を目撃した事よりも、一見して平凡そうな女性に窃盗を行える事が衝撃的だった。それも躊躇いの欠片も垣間見えない行動力からして、初犯のレベルではない。十中八九、手慣れた常習犯であるのだ。
高須はその姿に何を感じたのか、女性の計画性ある手口を解明しようと先程の不自然な行動の意味を彼女の立場になって深く考える。すると、思ったよりも単純な手品の種があっさりと解明できた。
すぐさま高須が改めて全てのフロアにある商品を長時間掛けて物色する。その結果、思わず店の管理体制を疑ってしまう程、条件を満たした物を大量に発見できた。
――あんなに、あっさりとできるのなら……。
該当商品を手にしながら高須は生暖かい唾を飲み込む。果たして、女性の手口を模倣してしまっても良いのだろうか?
ひとたび実行すれば、確かに現状の生活に対する苦痛や苦悩からは抜け出せるが、同時に今までの人生から、とある一線を踏み越えてしまう事になる。
高須は未知の行為に対する高揚感と背徳感に襲われて暫く悩むのだが、どのみち今の食糧難の状態がこのまま続けば、飢餓が理性に抗えなくなるのは時間の問題である。だからこれは生活維持の為の一種の緊急避難であり、それに見つからなければ罪に問われないだろう、と自身に深く言付けてしまい。
その日から高須は犯罪予備軍の一員となった。


二章
11月2日(木)
禁断の果実に向かって食指を動かせば、きっかけが何であろうと蜜の味に溺れていくのは時間の問題であった。
新たな生活費の稼ぎ方を知り得た高須は、あれから複数回に渡って同様の手口を繰り返していた。リサイクルショップでの換金率は最大で30%前後。一度の換金額は大凡(おおよそ)3千円から1万円未満なので決して功利的ではなかったが、高須にとっては欠かせない収入源となっていた。
懐具合が以前と比べて豊かになると、必然的に精神にも余裕が生まれる。ここ連日、河川敷で秋風を満喫した高須は商店街のケーキ屋にも通い詰めていた。
「ん? あれは」
高須がいつも通りケーキ屋に辿り着くと、例の少女の姿がたまたま視角に入る。
夕暮れ間近な時間帯。部活帰りか何かの女生徒がちらほらと店に立ち寄っているが、少女だけはやはり制服を着用していない。
高須はこの三ヶ月間に、ここで幾度か少女を目撃していた。それも全て、注文をする直前までは双眸が自分へと確実に向けられており、いずれもケーキを手にして振り向いた時には存在が不気味にも消失してしまっている為、次に少女と相見えた時には声を掛けるべきか否かをその都度、逡巡させている。
「参ったな……」
だがいかんせん、肝心な所で決心がつかない。相手が自分に好意を持っている前提での行動ならともかくとして、少女が向ける視線はその類ではなく、依然として軽蔑が混在したようなものだった。そんな目で凝視されて心地が良くなる男性など、一部の特殊性癖者を除いていない。今の世の中、大人が女子中学生をじろじろと見るだけで大事(おおごと)となる。ましてや少女の態度から察するに、高須は嫌悪感を抱かれているのかもしれないのだ。
高須は今回も触れぬが定めともどかしく割り切って、垢抜けた女生徒グループの後ろへと並ぶ。
そしておよそ三分後に彼女達がケーキを手に取りはしゃぎ去って行く。高須は店員と顔を合わせる前に、やはりもう一目と背後を振り向いた。
「ん?」
そこで目の当たりにした少女の様子は普段見慣れたものとは異なっていた。
明後日の方向に向けられた少女の顔には薄く困惑した笑いを浮かばせ、全身には視認できる程の大きな哀愁が纏わり付いていた。
高須は少女の瞳が自分を映していないのを良い事に、注文の合間を縫ってひっそりと観察をする。
するとやがて少女は何かを諦めたように溜息をついて、俯きながらとぼとぼと踵を返し始める。その後姿は小柄な身体に相応しい程、誠に弱々しいものであった。
下を向いて寂しげに歩を進めていく少女。けれども暫くして、突如前方に歩みを阻む大きな影が突如現れた事により、精気の一段と薄れた顔をゆっくりと上げざるを得なくなる。
「……えっ!?」
少女の顔が一瞬にして凍り付く。そこに立っていたのは、ケーキを手にして先回りをしている高須だった。
「あっ、あの……えっ……?」
目の前で仁王立ちしている男に身体を強張らせる少女。慌てふためき言葉が口から上手く出ていない。
対して、高須の方も緊張していて無口になっていた。
あ、あれ。一体、何をしているんだ俺は……。と、高須は頭の中で自問しながら、動揺を抑えようとする。少女を脅かすつもりはないのだが、自身の体躯と態度が好ましくない印象を与えているのが、少女の全身からひしひしと伝わってくる。
第三者の視点からすれば、きっと二人の様子は黒熊(こぐま)が白(はく)兎(と)を威嚇しているようにしか見えないだろう。実際には両者ともに竦(すく)んでいるので、犬猿に類似した対等な関係であるが。
高須が間近で見ている少女の肌は驚く程に白い。所謂、美白でも、揶揄(やゆ)するのなら粉雪のような繊細さがあり、更には少女の髪が一切の飾り気がない純黒の長髪であったからか、より一層肌の白さを強調している。
気が付くと、高須は違った意味で少女から目を離せなくなっていた。
「あ、あの……、な、何か御用でしょうか?」
少女の訝しげな質問に高須は我に返ると、慌てて右手に持っていた物を咄嗟に差し出した。
「あ、ああ。その……これ」
「えっ?」
目の前にケーキ箱の入った手提げ袋を差し出された少女は、小さな口をぽんやりと開けながら、ぎこちなさげに高須の顔へと視線を戻す。
「ああ、ちょっと、その友人との約束がキャンセルになってね。俺が、一人で食べようとも思ったんだが、えーと、そう言えば減量しているのを思い出してさ。そんな時、目の前にたまたま丁度、君がいたから。そのだから、もし宜しければだけど……」
しどろもどろに曖昧な言葉を濁し、左手の動作を織り交ぜて不穏な誤解を招かぬよう弁解する。
最初はそれを唖然として見ていた少女だが、やがて不器用にも必死な高須の真意が伝わったのか、軽く微笑むと、
「あの、ではお言葉に甘えまして。今回、御相伴(ごしょうばん)に預からせていただきます」
高須の厚意を無下にせず、両手を伸ばして箱を丁重に受け取った。
「あっ……? ああ!! 是非とも御相伴してくれ」
高須の肩の荷が一気に下りる。しかし束の間の安堵は耳に残っていた先程の言葉によって崩壊する羽目となる。
「えっ、御相伴!?」
――御相伴。社会の群れから孤立した高須にとっては、普段あまり使い慣れない言葉。
その意味を思い出す為に、高須は頭の中の辞書を高速で捲(めく)らせるのであった。

高須は少女と肩を並べながら、黙々とケーキに手をつけていた。
茜色に染まる河川敷に、姿を現す人の数は昼間とは比べ物にならない程多い。下校中の中高生を始め、買い物帰りの主婦、泥に塗(まみ)れた児童に、ペットの散歩をする老人。様々な立場の人間が二人の背後を通過する。しかし面白い事に、一部の学生の嫉妬や羨望による関心の眼差しこそは集めていたものの、高須の立場を蔑んで見るものは一人もいなかった。
「冷たい風だな。寒くない?」
「はい、大丈夫です。もう秋も終わりですね」
「そうだな。そろそろ冬だもんな」
「そうですね。つい最近まで、夏でしたのに」
「ああ、早いよな。食欲の季節もそろそろ終わりだな。でも、あの店のケーキは年中美味いんだけどな」
元々、口下手で若者向けの話題にも疎い高須だが、この場は自分がリードしなくてはならないと感じているのか、ありきたりでも会話を繋げようと試みる。
「ええ、本当にそうですね。私も、あのお店のケーキをよく購入します」
少女は両手で豆腐とおからのシュークリームを少しずつ、丁寧に口へと運びながら、微笑みを絶やさずに相槌を打ってくれていた。
高須はチーズと生クリームをふんだんに使用したケーキの最後の欠片を無造作に口へ放り込むと、暫しの間を保たせて、以前から少女に対して気になっている疑問を尋ねた。
「ところで、何でいつも遠目からケーキ屋を眺めているんだ?」
「えっ?」
少女の手が一瞬止まり、やがてケーキがそのままゆっくりと大腿部へと置かれる。それを見た高須は、自分が質問を発した時機の悪さを少し後悔した。
「あ、いや、別に大した意味はないんだ。何て言うか、俺がいつも注文している時に後ろを向くと、遠くから気難しそうな表情をしていたからさ。ケーキを買い辛いのかなって」
流石に自分が睨まれていた理由を直接尋ねられないので、詳細な理由を付け加えて婉曲に言い直すが、それでも少女は高須の心意をすぐにでも悟ったのか、急に左手で口を覆い隠すと、申し訳なさそうに深く俯いた。
「その、変な事を訊いてしまったみたいだね。ごめん」
「あっ! いえ、そうではなく。あの時は、かなり失礼な行動を……。その、怖かったもので……」
「怖いって、俺が?」
「……はい。大きな男性の方だな、と」
「えっ? まさかそれだけ?」
呆気にとられた高須が尋ねると、こくんと頷いた少女は顔を真っ赤に染めて、ますますに恐縮してしまった。
「ははっ、そうか。それでケーキを買い辛かったのか。なら今でも俺って怖いかい?」
高須がはにかみながら尋ねると、首を強く横に振った少女は気恥ずかしそうに笑う。
「いいえ。お話してみると、とても優しくて誠実な方だと判りました」
「せ、誠実って」
今度は高須が不意打ちを食らって赤面してしまう。相手が一回り年下とはいえ、純粋な褒義の言葉が嬉しかった。今の高須は周囲の人間にも社会にも信用されていない。だからこそ、彼女の言葉は過去に置いてきた何かを揺さぶっていた。
それをきっかけにして互いへの疑心は薄れたのか、二人のその後の会話は順調に弾んだ。実際には常に話を切り出しているのは高須であって、少女は能動的に物腰の柔らかい態度で受け答えを返しているだけだったが、それでも二人の間には微笑みが絶えなかった。
幸福な時間もいつかは終わる。辺りが既に暗くなり始めていた事にやっと気付いた高須は左腕へと目を移す。
安物のアナログ時計の針は午後五時十五分を指していた。
「もう、こんな時間なのか」
「最近は日没が早いですからね。名残惜しいですけど……」
少女の表情が高須からは、はっきりと分からなかったが、微かな寂黙を孕んでいるようにも見えなくもなかった。
「でも、そろそろ家に戻らないと家族が心配するだろう」
「そうですね……あっ?」
「どうした?」
「その、弟に頼まれていた、お遣いを忘れていました……」
少女がしまった、と軽く舌を出す。
途端に高須の目が軽く剥き出しになる。彼女がやっと年相応の動作を見せたのもそうだが、上品で克つ控えめな態度という先入観に囚われ、てっきり親の手塩に掛けて育てられた一人っ子か、もしくは末っ子だと勝手に思い込んでいた。
「弟がいるのか?」
「はい。弟が一人います。そう言えば、私達、お互いの話をしていませんでしたね」
「確かにそうだけど、どのみち俺には兄弟もいないし。自分の話なんて誇れるものじゃないからな……」
高須は口を濁した。自身の恥ずべき現状などを話題として挙げられる筈がない。だからこそ気にはなっていても、少女の身分に直接触れる言動も少なからず遠慮をしていたのである。
「そうだ!」
ふと高須は急に何かを思い立ち、視線を横の地面へと移す。そしてそこに置かれているケーキ箱を手に取ると、自分と少女の間にさっと添えるよう置いた。
「なら、余ったケーキを弟へ持っていきなよ」
「えっ? それはさすがに」
「いやいや。俺は今、減量中だし。一緒に食う人間も今のところいないしな」
「でも……三つも」
「いいんだ。それに、ここのケーキなら三個なんてすぐに食えるよ」
「でも」
「いいから、いいから」
高須は左手の親指をグッと気取るように立て、少女の憂慮を強引に押し切ろうとする。
「……分かりました。ありがとうございます。高須さんの御気持ち、しっかりと弟に伝えておきますね」
「ああ、味は俺の折り紙付きだからさ。美味しく味わってくれと、弟に伝えてくれ」
高須は満足気に胸を張るが、即座にふとした疑問が頭の中に浮かび上がる。
「あれ? 俺、名前を言ったっけ?」
高須自身には名乗りをあげた記憶がないのだが、質問を耳にした少女はかすかに頷いた。
「はい。お話ししている最中に、何度か御自身を『高須』と」
「そうか? 余りにも話に夢中で気付いていなかったな。じゃあそれなら、ついでに君の名前も教えてもらおうかな」
躊躇うそぶりも見せずにさらりと言い切る高須。正直な所、自分で無意識の内に名乗っていたのだから、一方的に知られたままでも癪とも不等とも思ってはいないのだが、おかげで少女に堂々と名を尋ねる口実ができたので、折角の機会を逃すわけがなかった。
「え? 私、の名前……ですか?」
「ああ。もしかしたら、また何かの縁で会うかもしれないしさ。駄目ならいいんだ」
「あの、いえ、そうではありませんが。突然そう言われてしまうと、何だか急に恥ずかしく感じてしまいます……」
その言葉は本心から出たものかどうかは定かではない。只、少女は目蓋(まぶた)を閉じて暫く何かを思案していたが、やがて無言の威圧に観念したのか、たどたどしくも口を開き始めた。
「はい。私は冬場(とうば)細雪(さゆき)と申します。冬の場所で“冬場(とうば)”、細い雪で“細雪(さゆき)”と読みます」
――冬場細雪。
名は体を表す、と言う諺の意味を、高須は人生二十四年で初めて理解したのであった。

その夜、高須はベッドの中で本日の行動を反省していた。
「腹減ったな……。やっぱ、見栄張るのは良くないよな……」
呟きと同時に高須の腹が煩わしく蠢く。元々、自分で食す為に五つ購入したのだが、実際に消化したのは一個のみ。その所為で腹部と頭中の警笛は先程から幾度も鳴っていた。
高須は天井をぼんやりと眺めながら、先程知り合いになった少女の名を呟く。
「冬場……細雪、か」
今回の行動を後悔ではなく、反省としているのは評価している点も少なからずあったからだ。勿論、それは細雪との出会いである。
高須と細雪。一見すると相反する気質の二人だが、本質はどうであろうか?
高須が細雪を初めて目にした時、第一印象は薄幸(はっこう)で儚気であった。故に、近寄り辛くも何処かその存在を放って置けなかったのだが、『存在が薄い』と言う点では高須自身も同様であった。ただしこの場合は単に社会的な立場上での事なのだが。
「細雪……細雪……か」
高須は少女の名を反芻する。名前が『冬場(とうば)細雪(さゆき)』なのだから皮肉にも儚く脆いイメージにより一層の拍車を駆けてしまった。もしこれが『冬場(とうば)冬子(ふゆこ)』とか『倖(さち)薄代(うすよ)』だったのなら、却ってここまで気に留めなかっただろう。安直過ぎて逆に興味を削がれるからだ。
「……くっ、何考えているんだ俺。相手は中学生だぞ」
高須は妄想を振り払うかの如く頭を強振する。確かに、細雪へと興味を示しているのは否定しない。けれどもそれは異性としてではなく、単なる一個人としての興味である。
……と、高須はそう信じていたかった。
「くっ、俺はロリコンじゃない、ロリコンじゃない、ロリコンじゃない……」
高須は羊を数える要領で、その言葉を意識が落ちるまで口にした。

11月3日(金)
翌日早朝、高須は眠い目を擦りながらも生活費を稼ぎに行く為に、渋々と安楽荘を去って行く。
「ふぁ~。だるいなぁ~」
吐く白い息に混じって、口から幾度も欠伸が出る。低血圧で目覚めは悪いが、だからと言ってこの寒い時期に、目覚ましを一時間早くセットする気にはなれない。
人間は嫌々行動しようとすると、脳の命令伝達速度は遅れ、身体の動作反応は急激に鈍くなる。物事を面倒と感じるのは一種の危機回避本能の表れだ。だからこそ、敢えて危険を背負い込んでまで自分の不備を補おうとする人種を、高須は不思議に思いながらも尊敬している。寧ろ、崇敬の域にまで達している。
「おはようさんよ。高須の兄ちゃん」
「おはようございます。松本さん」
現場で同僚の老人と挨拶を交わす高須。
高須は雑踏(ざっとう)警備――つまり交通誘導のアルバイトをしている。無論、正規の労働であり、得ている賃金も正当なものである。違法な小遣い稼ぎはあくまで補助の範疇に留めており、主職として成り立たせるには色々と問題があった。
それに雑踏警備は地域にも左右されるが、高須の業務は人の気配すら希薄で閑静な現場で一日直立するだけであるので、退屈を苦痛としない人間にとってこれほど適切な仕事は他になかった。
午前の業務を終えて休憩時間になると、早速、松本がにやにやしながら高須のもとへと詰め寄って来た。
「んだ、高須の兄ちゃんや。何か良いことでもあったかぁ?」
「良い事、ですか?」
「朝から顔がふやけてんぞ。昨日何かあったんだろう?」
高須は顔に手を当て表情筋を摸触(もしょく)する。だけども自分の表情がどうなっているのかなど、触れずとも分かっている筈だった。
「うーん。少なくとも、松本さんよりふやけているとは思えませんけど。でもまあ、確かにあったような、ないようなですよ」
「ほぉう?」
松本は背伸びしながら馴れ馴れしく高須の肩を抱くと、目の前で反対側の手の小指を垂直に立て、それを捻じり付けるように見せつける。
「やっぱ、これかぁ?」
「指切りですか?」
「なに、馬鹿言ってんだぁ。女だよ、オ・ン・ナ。さては兄ちゃん昨日もしっぽり(・・・・)やってきたんだろうぉ~?」
「しっぽり……?」
高須は最初、馴染みのない擬態語に渋い表情を浮かべていたが、改めて松本の下卑た顔を近くで見ると、嫌応でもその意味を理解した。
「ああ、彼女は全然そんなんではないですよ。多分、まだ中学生くらいなんで」
「ひょぉ~。兄ちゃんも相当やるねえ~。まあ、俺も兄ちゃんくらいの時にゃあ、大層モテたけどなあ。常にとっかえひっかえでなぁ。ともかくあの頃は、毎日がエブリディだったよぉ」
松本は歯茎を剥き出しにして、グヘグヘと下品に笑っている。
高須はエブリデイの和訳を松本にしてあげたかったが、本人が過去の情景に想いを馳せていたので、水を刺すのを遠慮して諦めた。
その後、松本の駄弁は延々と続いたが、結局、年長者の話は自慢話と与太話で構成されていると言う事だけしか高須の脳に記憶されなかった。
「ただな、兄ちゃん。男の失恋は女のよりもずっと女々しいぞぉ」
けれども、不意打ちの如く最後に放ったその一言だけは、何故か高須の心根に深く絡みついた。

仕事あがりの高須はいつも通り、駅前商店街のケーキ屋へと立ち寄っていた。
「流石に、昨日の今日でいる筈はないか」
列に並んでいる際中にもいつもの癖で周囲を見渡すが、やはり細雪の姿はどこにも見当たらない。本来の目的が潰えた訳ではないので徒労感はないが、些かの寂寥感はある。
「いらっしゃい、お兄さん。何にするんだい」
「すいません。いつものケーキ下さい」
取り敢えず、高須がもう一方の期待に胸を膨らませ注文すると、店員はいつもの機敏な動作でケーキを取り繕っていく。
「はいよ、おまたせ。1100円ね」
「あれ?」
高須が疑問を感じて首を傾げる。ここだけ普段と勝手が違っていた。
まず、高須は注文したケーキの値札を一つずつ順に目で追って行き、これらを頭の中で計算してみた。
すると、――¥1380。
次にレジ付近に視線を這わすが、本日から値下げや、何らかのサービスを実施している様子はない。
最後に店員の中年女性を一瞥した。残る可能性は店員の単なる計算違い。しかし、高須はその疑惑を即座に振り払った。まがりなりにも高須はこの店の常連だ。親密な会話こそ交わしてはないが、店員がある日突然、特定の注文内容を違えるのは有り得ないに等しい。
結果、どう考えても答えが出なかった高須は葛藤に苦しむ事になる。心の中の天使が、店員に是非とも尋ねてみるべきだと提言しているのだが、
――やりすごせ、もうけもんだぞ。
と、悪魔の魅力的な囁きに、その都度、誘惑されそうになっていた。
そんな高須がうなりこんでいるのを目にした店員は、「ふむふむ」と合点がいったように頷くと、軽々しげに頭を下げた。
「あ、ごめんね。計算間違えた。正しくは1380円だったわ」
その瞬間、高須の中で何かが激しい音を立てて崩れ去った。
「え、あ……はい」
「……ふっ、ふふ、あはは!」
店員は外面にまで及び出てしまっている高須の崩落した様子を見ると、堪え切れずに吹き出し笑いを始めた。
「ごめんごめん、ちょっと悪ふざけが過ぎたねえ。だからそんな呆然とした顔しないで」
「えっ?」
高須は現世に回帰する。それでも今の状況がさっぱり把握できない。
「ケーキ一つ分は、あたしからのサービスだよ。良かったらさゆちゃんと仲良くお食べ」
「さゆちゃん?」
 高須にはその愛称が誰を示しているかなど分からなかったが、店員が昨日の状況を目にしている可能性を踏まえて、恥をかく覚悟で尋ねてみる。
「それって細雪さんの事ですか?」
「当たり前だよ。あなた達、知り合いなんだろ?」
「はあ、一応知り合いですけど。昨日言葉を交わしたばかりなんですが」
店員は急に怪訝な表情を浮かべると、いきなり「ハァ? どういうこと?」と首を傾げた。
「まさか、あなた達、付き合っている訳じゃないの? ……はぁ、さゆちゃんも初対面の男に付いて行ったのかい。まさか、そんな尻の軽い娘じゃない筈なんだけどねぇ……」
「尻は軽くなさそうですけど」
店員は納得がいかなそうに暫く何かをぼやいていたが、高須にちらりと横目を向けると、
「本当に、あんた達付き合っていないんだろうね?」
馴れ馴れしい口調でくどくも尋ねた。
流石の高須もこの粘着質な態度には少し苛立った。
「ええ。まあ、昨日の今日でいきなりそんな関係になる筈ないでしょう。有り得ないとは言い切れませんが、俺も彼女もそんなタイプに見えますか? それに彼女とは歳が離れ過ぎてますよ」
高須は真っ向から否定する。大人気なくも、事実無根な噂だけは立てられたくなかった。
すると店員は先程までどれだけ期待していたのか、脱臼もあり得そうな勢いで丸みの帯びた両肩をズトンと落とした。
「確かに、あんたはそんなに手が早いタイプじゃないよねえ……。どちらかと言えば奥手の、今流行りの草食系男子っぽいし……」
口を尖らせた店員は皮肉をぶつくさと発しながら、上目遣いで高須を一瞥する。
「ガタイが良いから老けて見えるけど、それを差し引いたとしても、そうさゆちゃんと離れているようには見えないんだけどねぇ」
「いや、それはいくら何でも……」
熊は雑食なので、高須も人によっては草食系に見られる事もあるだろう。だが流石に中学生と言われた事が高須には、にわかに信じ難かった。
「そう言えば、昨日知り会ったばかりなら、なっくんとはまだ会ってないのかい?」
「誰ですか、なっくんって?」
「さゆちゃんの弟だよ」
高須は首を左右に振る。弟の存在は耳にしていたが、いくら親しくなれたと言えども、当日中に家族を紹介されるほど親密になった覚えはない。
「まだ会ったことはありませんね」
「そうかい。なら、もしかしたら、その内に会う機会が出て来るかもしれないね。なっくん、病院でなかなか友達ができないみたいだからね。もし会ったら、ちゃんと面倒を見てあげなよ」
「病院?」
普段、縁のない施設名称を耳にして、高須の眉間に深い皺が寄る。
「もしかして、入院でもしているんですか?」
「あら、知らなかったのかい。結構、この界隈じゃ有名だよ、あの姉弟」
「……初耳ですね」
高須には近辺の情報を媒介する知人は一人も居ない。何よりも自身が噂と言う非確証的な情報に躍らされるのを嫌っていた。
「それで、どんな風に有名なんですか?」
普段なら噂話など高須に対しては馬耳東風だが、細雪が関係しているとなると、やはり詮索せざるを得なかった。
「あらま。仏頂面の皺が急にとれたじゃないの。やっぱりさゆちゃん達の事が気になっているんじゃないの」
「茶化さないで下さい」
「はいはい。でも、ここで話をするのも他のお客さんに迷惑だから、どうせなら中で食べてかないかい?」
そう言って、店員は親指で自身の背後をクイクイと指し示す。
「……まあ、確かにそうですね」
このタイミングでお預けされた事に些か不満を抱いた高須であるが、渋々と店内に続くドアを開けて中へと入って行くのであった。

高須が店内に入ってから既に二十五分弱が経過した。その間に持ち帰りで購入した品とは別に、ケーキ三皿とミルクティ二杯を飲食していた。
あれから高須を店内に誘った張本人は奥に籠ったきり姿を現していない。辺りを見廻しても、やはり何処にも姿は確認できない。それはまるで姦計に掛かって、ひたすら店の売上げに貢献させられているようにも感じられた。
「一体、何をやっているんだかな」
ともかく、今の高須は非常に苛ついていた。けれども実際の行動は裏腹であり、それを解消する為の悪循環に陥っている。
高須が四皿目のケーキを注文する為に、若い店員に向かって手を挙げたその時、
「ごめん、ごめん。お待たせしちゃったねえ」
どうやって移動したのか、中年店員が悪びれた顔もせずに入口の方角からやって来た。業務用のエプロンは既に身に着けていない。
「遅かったですね。てっきり何かの罠に嵌ったと思いましたよ」
高須が非難の意を込めて皮肉を言うと、店員は素で目を丸くして反論する。
「何を言っているんだい。ちゃんと、丁重にご案内したじゃないの。大事なお客様に対して、誰がそんな失礼なことをするのさ?」
「いや、あの親指のジェスチャーは、どちらかと言うと挑発に見えたんですが」
「それは個々の捉え方次第じゃないか」
「感性、かなり倒錯してますね」
指でのジェスチャーには粗暴な含意が多々存在する。仮に、アメリカのスラム街で中指を垂直に立てたとしたら即暴行を受けてしまうだろうが、この店員なら却って好意的に解釈してしまうのではないか、と高須は思わず相手の観念を疑った。
「まあまあ、それよりも折角だから、さゆちゃんの話の続きをしましょうか」
「元々、そのつもりです。お願いします」
「さて、どの段階から説明すればいいのかしらねえ……」
店員は顎に手を添え思考する。その動作だけで細雪の噂が複雑で、且つ濃密な内容である事を高須は一瞬で察知した。
「じゃあ、そうね。取り敢えず、元はと言えばさゆちゃんの家庭が父子家庭でね。母親がいつ亡くなったかは詳しく知らないけど、やっぱり家族三人での生活は厳しかったみたいなんだよ」
「父子……ですか?」
「そう。父親と、さゆちゃんとなっくんの三人ね。そりゃあ、片親がいないと生活は辛いに決まっているだろうからね」
「でも苦しくても、子供二人育てて生活してるのなら素晴しいじゃないですか。下手な家庭よりも断然良いと思いますよ、俺には」
話に割り込んだ高須の口調には何処となく棘(とげ)があったが、まだ細雪の家族構成しか語っていない店員はこれからだと言わんばかりに、首を左右へと大きく振って高須の意見を全否定する。
「そうだったのなら良かったんだけどね。残念だけど、父親は大変なロクデナシで、毎日ろくに仕事もしないで酒場に入り浸ってたそうよ。子供の面倒もそっちのけでね。ホント最低の人間よね」
店員の顔にはっきりとした憤怒の色が表れ、初見の高須は思わずたじろいだ。
「……なるほど。でもそれなら、それでよく家族三人で生活できていましたね。何かパトロン的な、助けてくれる存在でもいたんですかね?」
「そんなものがいたら、子供二人はとっくにそこへ預けられているわよ」
「確かに、言われてみればそうですけど……。なら、どうしたんです?」
高須はカップの中の液体をちょくちょく口に含み、店員の言葉を待つ事にする。
「いい? 働かない人間がいるなら、別の人間が働くしかないの」
まあそうだろうな、と高須は頷く。だが次に、思い掛けない事実が待っていた。
「生活費を稼いでいたのは、さゆちゃんの方だよ」
「ぶッー!!」
高須の口に含んでいた液体が霧状となって、卓上へと散布する。
「なっ、ナンダッテー!!」
え、彼女、義務教育中だよな? 有り得ない。有り得る筈がない。
それっていいのか? いや、駄目だろ?
そもそも、どうやって稼いだ? ヤバイ事してないよな……?
一つしかない頭に様々な意見と疑問が絶え間なく産まれ、それらが一気に撹拌(かくはん)する。
「あらあら……もう」
店員は使用済みのおしぼりで卓上を拭きながら、錯乱気味の高須に向かって口を開いた。
「取り敢えず、落ち着きなさい。そりゃああたしだって、あんな良い娘の生活環境を知ったときは凄いショックだったよ。でもまあ、働ける年齢だから、まだ不幸中の幸いだよ。下手すれば姉弟離れ離れの施設行きだったかもしれないんだからね」
「……はい?」
一瞬、耳を疑った高須の動きが止まる。何故なら自分が認知している『細雪』と店員が話題に挙げている『さゆちゃん』の情報に齟齬(そご)が生じていたからである。只、実際に確定情報として断定可能なのは『細雪の名前』と『細雪に弟が存在する』の二点のみだった。
つまり、今、感じている違和感の根源とは……。
「細雪さんって、今幾つ?」
年齢である。
「えっ、さゆちゃんの年かい? 確か、今年で二十三くらいじゃなかったかねえ。でも、もしかしたら二十四だったかも」
「なっ!」
高須は開いた口が塞がらなかった。決して誰が原因という訳でもない。しかしどうしてだか、巧妙な詐欺の被害に遭ったような感覚に陥った。もしも仮に、彼女が今年二十四歳ならば自分と同い年なのだ。
「もしかして、さっきも年が離れているとか言ってたけど。まさか、さゆちゃんが中学生くらいだと思ってたのかい?」
高須の顔が引き攣る。まさにその『まさか』であった。
「あらら、図星かい。さゆちゃんも可哀想に。若く見られるのは女にとって永遠の名誉みたいなものだけど、流石に中学生はねぇ……」
店員は目を細めて陰湿に笑う。弱みを握られた高須には、ぐぅの音も出なかった。
「まあまあ、そんなに塞ぎ込まない。別に本人に話す気はないわよ。あたしの所為で、二人の関係にヒビでも入ったら、責任取れないからね」
「別に……特別な関係じゃないです」
心なしか顔を背けた高須の否定は少しふてくされていた。そのつれない態度を目にした店員は「なんだい、若い男が女々しいねえ」と、落胆の声を漏らした。
流石にこの身勝手な台詞には、高須も黙っていられなかった。
「別に、細雪さんは彼女でもないし、人生に大打撃を被るような間柄でもないです。一体、何の確証があって、俺達が特別な関係だとしつこく言い張るんですか?」
強い口調で嫌疑の理由を言及する。只の好奇心なら、深く追求すれば否応なしに諦めるだろうと思っていた。
すると店員は手詰まりか、参った様子で口を開いた。
「あらら……、お兄さんには、気付いてないかもしれないかもしれないけど。いや、これじゃあ気づける筈もないかもねえ」
皮肉から始まる意味深な語り。だがそれは決して、本気で批判しているものではなく、これから話す内容を強調する為の、一種の煽りに近いものだと高須には感じられた。だからこそ静黙して次の言葉を待つ事にした。
「さゆちゃんはね、実は……人見知りする娘なんだよ」
「はあ、人見知りですか」
高須は気の抜けた声で相槌を打った。間を保たせた割には理由がしょぼい。
「そう言う事さ」
「いや、そう言うことって……。人見知りをたまたましなかったからって、恋人と決め付けるのはかなり強引過ぎませんか? それなら俺だって一種の人間不信ですよ」
「だから、不器用同士で付き合ってるんだろ?」
「いや、そうじゃなくて。人見知りが珍しいものではないって事ですよ。人見知りが会話をした人間全てが恋人なら。今、俺の目の前にいる貴女は俺の何なんですか?」
「アハハッ。あたしは既婚者だよ」
「そうじゃなくって!」
肩透かしを食らっている高須から、次第に余裕の表情が失われていく。店員は少々遊びが過ぎたかと思ったのか、やっと真面目に口を開いた。
「さゆちゃんの人見知りは、かなりのものだね。特に異性に対しては異常なくらいの拒絶反応を起こすのよ」
「男性限定ですか?」
「限定ではなく、男性に対して特に敏感だって事かしらね。あの娘、以前に茶髪のちゃらい男に肩を叩かれて、道の真ん中で突き飛ばした後に嘔吐しちゃったくらいだからねえ」
「それは、もはや精神疾患では……。でも、それが本当ならかなりの重症ですね。もしかしてまた俺をからかう為に、敢えて過剰な表現とかを加えてないですよね?」
寧ろそうであって欲しい、と一抹の期待を込めて高須は尋ねるが、それは一介の動作によって裏切られてしまった。店員は躊躇いもなく首を横に振ったのだ。
「まじか……」
「あたしだって冗談で済ませられるなら済ませたいよ。でも、残念ながら事実なんだ。なんせ、その時に介抱したのがあたしだからね。噂によると、さゆちゃんはあのロクデナシから日々暴行を受けていたらしいよ。あの綺麗な顔からは想像がつかないけどね」
――家庭内暴力。
親の道徳心が欠如していると、その被害は子供に廻ってくる。子は親を選ぶ事は不可能であるが故に、親は是が非でも子を独立可能な年齢まで養育する義務がある。だがそれは裏を返せば、子が独立するまで秘密裏に虐げる事も可能だと言えた。
この御時世、過激で悪質な家庭内暴力はメディアでも頻繁に取り上げられる為、抑止がかかっていると人々からは思われがちだが、決してそうではなかった。
「まあ、でも。そのロクデナシも三年前にアルコール中毒で死んでしまったんだけどね」
「そうなんですか」
高須の全身から熱気が徐々に抜ける。例え不謹慎でも、細雪への負荷が消えた事に安堵していた。
「だけど、まだまだ問題は山積みさ。さゆちゃんの人見知りとか、なっくんの病気の問題とかね。本当に大変なのはアフターケアの方なんだよ」
「そうですね」
高須は口渇した喉を潤す為にカップを口につける。温くなったミルクティーは著しく火照った身体を鎮める役割としては最適だった。
「まあ、だから、お兄さんが現れて、その内の一つが解消されるんじゃないかと期待したんだよ。さゆちゃんが男性に反応しないで、ほいほいと付いて行くなんて、奇跡みたいなものだからね。堂々と胸張っていきなよ」
店員は身を乗り出して、高須の胸を軽く叩く。
「でもそれって……。異性として認識されていないんじゃ……?」
複雑そうな表情を浮かべる高須に対して、店員は頬を掻いて「どうかね」と笑った。
その後、吹雪に関する話を二、三点耳にした高須だったが、ふとした拍子で視線を窓の外へと向けると、景色がいつの間にか暗闇に包まれていた事に気付く。
「そろそろ時間か」
腕時計を確認する。針は午後六時七分を示していた。
「さて、では俺はそろそろ失礼します。今日は色々とお話しして頂き、ありがとうございました」
「あれま、もういいのかい? 結局、さゆちゃんの事ばかりで、なっくんの話を全くしていなかったけど」
「ええ、折角ですが、またの機会という事で」
「そう。残念ねえ」
店員は物足りなさそうに不満を顔に浮かべている。高須は、この人には絶対に秘密を握られてはならぬ、と店員に対しての警戒をより一層心掛ける事を決心した。
高須はミルクティを一気に飲み干すと、席を立って、黒いダッフルコートを羽織る。
「また、いつでも来なさい。話し相手になってあげるから」
親切心から出た言葉かどうかは定かではないが、店員のその言葉を聞いた高須は隙もなく、こう返した。
「でも、情況が進展しても、簡単に話す気はありませんよ」
「ええ!? いけずねぇ」
店員が頬を膨らませてまるで仲間外れにされた子供のように拗ねるが、会釈でそれを受け流した高須は出口へと向かう。
「ああ、そうだわ。できれば毎日、商店街に来なさいよ。二日、三日に一度くらいの割合で、さゆちゃんは買い物に来るから」
 出口の扉に手を掛けた高須のすぐ背後から発せられた勧告。やはり接客業に就いているだけあって顧客至上主義の思想と習慣が身に付いているのか、いつの間にか店員が見送りで後に続いていた。
「用があれば、そうすることにします」
高須は店員に軽く笑いかけると、扉を開いてケーキ屋を後にした。
その夜、高須は早めにベッドに潜り込んだが、余計な意識の所為で中々寝付けなかった。生活、仕事、副職、そして家族。高須にも細雪と同じく、悩みの種は数多くあった。
結局、高須はその日、一睡もできなかった。

11月4日(土)
翌日の業務は高須にとって、散々たるものであった。
明け方、携帯に会社からの連絡があり、別の担当地域に突如欠員が発生した為に、補充要員として急遽その現場へと駆り出される命が下った。
身嗜みを整える暇すらなかったので、当然、朝食を摂る時間もない。仕事中に栄養失調と昨夜の寝不足が交互にたたって集中力は散漫。その結果、現場の監督にどやされるのだが、正直、何を言われたかさえも覚えていなかった。
業務終了時、高須の精神は磨耗しきっていてかなりぼろぼろだった。こんな状態の時、高須が向う先はいつもの河川敷ではなく、決まってとある別の場所だ。
高須は市内のゲームセンターの前にいた。勿論、目的はストレスの発散である。
ゲームセンターは駅前商店街から少し外れた県道沿いに存在し、アミューズメント施設としての規模は然程に大きくはない。ペンキが所々剥げ、外観こそは廃れているが、そこは放課後の男子生徒にとっては数少ない憩いの場であった。
節制とは無縁だった当時学生の高須も、学業や部活で厭な事が起こる度に、わざわざ隣市の学校からここへと立ち寄って遊んでいた。
 高須は自動ドアを潜り、激しい騒音の中へと足を踏み入れる。
「よっしゃあ!! 獲った!! 120枚の1.5倍オッズ」
「うわっ、ワイドかよ。すげえ、ちゃちい賭け方してんな、お前」
複数の高校生らしき私服男子が自重しない馬鹿でかい声を発しながら、通信競馬のメダルゲームを嗜んでいた。
高須はその男子達が遊戯している筺体(きょうたい)を見る。それはフロア面積のおよそ十分の一を堂々と占領していた。
「よくもまあ、あんな大きいものを導入したな……」
高須が学生の頃はビデオゲームが主流で、当時の腕前で500円あれば、四、五時間超は居座れていた。
改めて、歩きながら店内を見回してみると、ビデオゲームスペースが縮小されて替わりに大筺体機が場を占拠している事に気付かせられる。アーケードでもオンラインやデータ登録が普及している現在、古い形態のゲームが淘汰されてしまうのは当然の事象だった。
そんな中、高須は店の角にひっそりと設置されている一台のビデオゲームを発見する。
「おっ。あれだ」
高須は嬉しそうに近付いて、その液晶画面に視線を移す。それは縦スクロールのシューティングゲームだった。
「微妙にバージョン変わってるが、一台でもあるもんだな」
操作盤を撫でるように指先で触れながら当時の感慨に耽る。そして腕を鳴らせながら席に腰掛けると、財布から硬貨を一枚取り出して投入口へと落とした。
「げっ。1プレイ100円かよ……」
入れてから発覚する。これも御時世であった。

――COUNTINY?
筺体の画面に表示される英文字群。本日、既に十二回目。
高須の財布から、既に紙幣一枚と硬貨二枚の金額が消えていた。いくらプレイ料金が値上がりしたとしても、この二時間での出費は自尊心を深く傷付けた。
「……ありえない」
プライド奪還の為に財布の口に再度手を掛けるが、中には白銅硬貨が見あたらない。
高須は大人気なくも舌打ちをすると、席を立って不安定な足取りで出口へと向かう。結局のところ、ストレス解消どころか敗者特有の喪失感が心の中に生まれる事態となってしまった。
「……ちくしょう」
やるせなさを隠し切れない高須は扉の前へと立つ。そのまま放っておいてくれれば良いものを、自動ドアの親切設計に慰められている気がして、思わず下唇を噛んだまま店を出た。
「ん?」
その時、高須の視界は奇妙な人物を映した。それは外に設置してあるクレーンゲームの前にいる一人の少年だった。
小学生低学年ほどの背丈しかないその少年は、必死に背伸びをして、中の商品を食い入るようにして見詰めている。だが、高須が気に掛かったのは小学生がこの時間にいる状況ではなく、少年の外装そのものだった。黒いトレーナーとセットのズボンはともかく、この季節に安物のサンダルを履いているのはあまりにも奇怪過ぎていた。
不審に思った高須は少年の背後に寄って、ほんの一言だけ声を掛ける事にした。
「なあ?」
「っ!?」
少年の身体がビクッと震え、恐る恐ると振り向いて高須を見上げる。
高須の心に罪悪感が産まれるが、それでも自身の行動もあながち間違ってはいなかったかもしれないと後々になって思えるようになった。目尻の下がったその少年の面貌からはとてもではないが、ゲームセンターに通い慣れているとはどうしても考えにくいのだ。
「こんな時間に何をしているんだ?」
「…………」
少年は口をつぐんだまま、視線を落とした。
「お父さんとお母さんはどうした?」
高須が辺りを見廻すが、それらしき人物の姿はない。仮に親同伴だとしても、息子にサンダルを履かせるキチガイな保護者とは関わりたくはない。無茶な因縁を付けられるのだけはは勘弁願いたかった。
「家を出てきたのか?」
「!?」
少年は身体全体を小刻みに震わせ、ぶんぶんと首を横に大きく振っている。その様子を見て真相を悟った高須は溜息を吐いて肩の力を抜くと、少年の前に屈んで視線の高さを合わせた。
「何か、あのゲームの中に欲しい物でもあったか?」
少年がこくこくと頷いて、クレーンゲームを指差した。高須は立ち上がってガラスの中を覗いてみる。
「なるほど、仮面ライダーのメダルが欲しいのか?」
少年は首をふるふると振ると、やっとその小さい口を開き始めた。
「かびぱら(・・・・)さん……」
「かびぱらさん?」
高須は再度ガラスケースの中身を確認し、それらしき物を視索する。
「そうか、“カピバラ”さんのぬいぐるみが欲しいんだな」
「うん。かびぱらさん」
カピバラさん――動物のカピバラをモチーフにした、巷(ちまた)の女性に人気のあるマスコットキャラクターだ。そのぬいぐるみが、中央の仕切り板で二分割されている筺体の片部屋に大量に積まれていた。
「うーむ」
腕を組んでいた高須は財布の中身と相談すると、意を決して、少年にこう言った。
「分かったよ。兄ちゃんがカピバラさんを獲ってやるから、そのかわり家に早く帰るんだぞ?」
「うん!!」
少年は笑顔で頷いたが、それは同時に家出の肯定をも意味していた。
高須は紙幣から硬貨への両替を済ますと、気合を入れて筺体の前に立つ。ケースの中には色違いのカピバラさんが二種類存在していた。
「それで、どっちがいいんだ?」
「かびぱらさん」
「ああ、大丈夫だ。それで白と茶色のどっちがいいんだ?」
「かびぱらさんがいい」
「『白いカピバラさん』と、『茶色いカピバラさん』のどっちの方がいいんだ?」
「かびぱらさんのほう」
「……かびぱらさんって、どっち?」
「おとこのこ、のほう」
「どっちがオスか分からないんだが……」
ガラスケース内には販促用ポスターは貼られていない。高須はあらゆる角度からカピバラさんを嘗(な)め回すように見るが、雌雄を決定付ける特徴は両色ともに見受けられなかった。
「これじゃ、らちがあかないな」
もはや百聞は一見にしかず。高須は少年の脇に両手を差し込んで、軽く担ぎ上げて自身の肩に乗せる。しかし途端に少年が頭上で勢い良くはしゃぎだした為に、振り子の反動で足腰が大きくぐらついてしまう。
「こら、暴れるな」
「だって、かたぐるまだもん」
「いや、そうだが。落ちたら死ぬほど痛いぞ?」
「いたい……」
少年の動きが、徐々に慣性を失っていく。
「そうそう。それでいい。で、どうだ見えるか?」
「うん。かびぱらさんが、いっぱいみえる」
「そうか。それでどっちが欲しい方なんだ?」
少年は、うーん、と考え込んだ後、大きな声で言った。
「どっちも!!」
「……そうか」
高須はゆっくりと少年を地面に降ろすと、改めて遊戯位置に着く。
「1200円で一つも獲れなかったら、諦めるからな」
「うん!!」
高須は視線を落として投入口を見ると、すぐさま残念な既視感に襲われた。
そのクレーンゲームは、1プレイ200円であった。
「ちくしょう」
しかしその口調と裏腹に、高須の肩は唸りをあげているのであった。

それから、三十分程経過した頃。高須と少年は暗い夜道を並んで歩いていた。
結果は高須の惜敗だった。敗因はたかがクレーンと侮り、舐めてかかった事である。
クレーンゲームは1プレイ200円だが、更に100円を余分投入すると、遊戯回数が一回分オマケとして追加される。けれども長期決戦を見越していなかった高須は、200円投入で予算の1200円をいとも簡単に消費してしまった。
『NOォォォォォ!!』
そこで諦める高須ではなかった。その後、300円投入作戦に切り替えて、通算十二回目にして念願の初カピバラさんをゲット。要領を得たのか、続けて十四回目にして目標の二匹目も捕獲したのだった。
そして、現在そのカピバラさん達は少年と高須の左腕に一匹ずつ抱えられている。
「ねえねえ、おにいちゃん」
高須にわざとぶつかるようにして、肩を寄せて来る少年。
「ん? どうした?」
「あのね、ありがとう!」
上機嫌な少年の純粋な礼に、高須の顔が思わずほころぶ。2400円の出費は決して小さい額ではないが、ビデオゲームで浪費した金よりもずっと有意義なものだと感じていた。
高須は右手で少年の頭を軽く撫で回す。
「ああ。どういたしまして。そのかわり、今度から勝手に家を飛び出してきちゃ駄目だからな。約束だぞ」
「うん、やくそくする」
高須は右手をそのまま下に滑らせると、少年の目の前で小指を差し出した。
「?」
「じゃあ兄ちゃんと指切りだ」
「ゆびきり?」
少年が本気で首を傾げているので、高須は、まさか、と驚愕した。
「おいおい。もしかして、今の子供は指切りを知らないのか」
「うん。ごめんなさい……」
少年は怒られたと勘違いして、しゅんと俯いてしまう。
「いや、謝る事はない。それなら、兄ちゃんが今、教えてやる」
「うん……ゆびきり、おしえて」
高須は少年に理解できるよう、ゆっくりと丁寧に儀式の説明をする。
「ええーっ。はりせんぼんなんて、のめないよぉ」
「だったら、二度とこんな事をしないようにな」
「う、うん」
高須が改めて小指を差し出す。すると少年はおどおどしながら、それよりもひと回り小ぶりな小指を絡めて来た。
『ゆ~びきり~げんま~んう~そついたらは~りせんぼんの~ますゆ~びきった♪』
詩の終了と同時に二人を繋いでいた小指が離れ、替わりに二人だけの約束が結ばれる。
「よし。これで後は家に帰るだけだな」
流石に、晩秋の夜道を少年一人で歩かせる訳にはいかない。現在、高須は少年に付き添って自宅へと向かっているのだが、どうやら郊外に出たのか、辺りは樹木や施設ばかりで、人の住居らしきものは全く見当たらなかった。
「家まで後どれくらいだ? ここから近いのか?」
「おうちはあっちのほうだよ」
少年は人差し指で、進行方向とは真逆の方角を指し示した。
「ほう。早速、約束を破るとは。そんなに針千本飲みたいのか?」
「ち、ちがうよ。ぼくのおうちはあっちだけど。かえらないといけないのは、あそこなんだ」
少年が慌てて旋回して進行方向の先にある建造物を指差すと、高須は反応に困った。
「……なあ」
その建物は本市民なら誰でも知っている程、有名なものであった。
「……あれって、病院だよな?」
記憶違いでなければ、そこは市民病院であった。
「うん。ぼく、ここににゅういんしているんだ」
「はぁっ?」
怪しいと疑いつつも、少年の虚偽である可能性を完全に拭い去る事ができなかった高須は、真偽を確かめる為に無言でそのまま病院まで足を進めるのだった。
市民病院に辿り着いた二人が緊急外来用の入口から院内へ入ると、内部は不安を掻き立てるくらいにひっそりとしていた。受付窓には『緊急外来のみ』の立て札とカーテンが掛かっているので、人の出入りが滅多にある筈がないのだが、生気が全く感じられない程の冷ややかな質感を持ったそこは、例えるならばホラーゲームの世界観そのものと言っても過言ではない。
高須は少年を連れて受付の前に立つと、外来用呼び出しボタンを押そうと指を伸ばす。
だが丁度その時、横の扉から出て来た温厚そうな熟年の女性看護師と目が合い、その看護師は高須の横にいた少年に気付くと、血相を変えながら慌てて駆け寄って来たのである。
「まあっ! ちょっと! 病院から突然いなくなって、今までどこに行ってたの!!」
「ご、ごめんなさい」
「ごめんなさい、じゃありません!」
看護師は少年を厳しく叱咤(しった)する。高須はこの状況を見て、やっと少年の話の真実を確認する事ができたが、替わりに安易に去れない情況へと陥ってしまう。
結局、説教が止むまでそのまま暫く二人の前に立ち尽くしていたのだが、やはりこのまま全てが丸く収まる訳がなかった。気が付くと、看護師の鋭い視線の矛先はいつの間にか高須へと向けられていた。
「あの、失礼ですが。貴方は一体、どちら様でしょうか?」
「あ、はい、そのですね。この子を偶然見かけた者です」
直面して素性を尋ねられた高須は背筋をピンと張らせた。突如、行方不明になった少年と、その横にいる無精髭面の如何にも怪しい大男。この状況下で、果たしてどのような巧い説明をすれば自身に対する嫌疑が晴れるのだろうかと、高須は脳をフル回転させるのだが……、
「おにいちゃんはわるいひとじゃないよ。ぼくに、かびぱらさんをとってくれたんだ」
間一髪、割り込んで弁明を始めた少年が、抱いていたカピバラさんを看護師に向かって差し出した事により、高須の冤罪は運良く証明されたのである。
「まあ、可愛いヌイグルミね。このお兄さんに貰ったの?」
「うん!! それでね……」
少年が先程の出来事を自慢気に語ると、看護師も耳を貸しながら優しく少年の頭を撫でる。時間が経つにつれて、その表情から徐々に険が失われていく。
おかげで疑念もすっかりと消え失せたのか、経緯を聞いた看護師は高須に向き合うと、恩人に対する失態を恥じて深々と頭を下げ始めた。
「大変失礼しました。この子がお世話になったそうで。慌てていたとは言え、どうかお許し下さい」
「いえ、あまりそこまで気にしていませんから」
高須が右手で相手に顔を上げるように促すと、看護師は申し訳なさそうに頭を元の位置へと戻した。
「たまに病室を抜け出すので、私達もこの子のわんぱくさには、つくづく困り果てています。元気なのは良い事なのですけどね……。でも流石に今日のように、院外までは……」
看護師は心底困った表情をする。その陰には少年に対する深い愛情さえもが隠れていた。
「そうですか。それは何て言うか、難儀でしたね。場合によっては親御さんにきつく叱って貰った方が良いかもしれませんよ」
「そうですね、ええ……。一応、御家族にはお伝えしているのですけどね」
高須は双方の為を思って忠告したつもりだが、看護師の反応はあまり肯定的と言えるものではなかった。
「でもまあ、恐らく今後は勝手に飛び出す事はないと思いますよ。再犯防止のおまじないをしましたから」
「おまじない、ですか?」
「ええ」
頷いた高須がわざと少年に聴こえるように例のフレーズを口ずさむと、少年の身体がビクッと大きな痙攣を起こした。
「わ、わかったよぉ……だから、はりせんぼんはやめてよぉ……」
少年は涙混じりの声で訴えるが、かろうじて流涙を懸命に堪えるその強がりに対して、高須は意地の悪い笑みを浮かべていた。
「泣くな。それなら特別に百本で勘弁してやる」
「ひゃっぽんでも、いやだよぉ……」
 看護師は一人取り残されたように、ぽつんと二人のやり取りを遠巻きに傍観していたが、やがて口元を吊り上げると、容赦なく高須へと加担し始めた。
「そうね。たまにはお灸を据えて、針を飲ませるのもいいかもしれないわね。病院を抜け出す悪い子には、針の五百本くらいは飲んでもらわないとね」
その看護師の恐ろしい言葉を耳にした少年は、より一層の恐怖に打ち震えていた。
「さて、あまりからかって人間不信になられると困るので、私はこの子を病室に連れて行く事にしますね」
「そうですね。時間も時間ですので。俺もそろそろ失礼します」
高須は抱えていた一匹の景品を看護師に預けると、軽く会釈をして帰宅の姿勢をとった。
「おにいちゃん……かえっちゃうの?」
少年の不安気に高須を見上げる瞳はまるで捨てられた子犬かの如くであり、何か弱々しいものを震える全身を用いて訴えていた。
「ああ。だから、お前もそろそろ病室に戻れ」
「いやだ! もどりたくない。おにいちゃんといる」
「駄目だ。我がまま言うな。我がままばかり言っていると、将来、良い大人になれないぞ。それじゃあな」
高須は手を振って強引に踵を返そうとするが、すぐさま少年に上着の袖を強く掴まれてしまう。
「おにい……ちゃん…、ぼく、おにい…ちゃん…いる、……ぐすっ」
少年が目尻に涙を溜めながらぐずっている。しかもこの小さな身体の一体何処にそんな力があるのか。袖を握っている手に更なる力が加わり、高須の巨躯が意外にも背後へと引き摺られそうになった。
「うっ、うわあああああん……」
やがて堪え切れずに溢れ出した涙と共に、高須の身体はすんなりと解放された。
あれだけからかっても、決して流れる事がなかった涙が堰を切って流れ落ちている。それ程、高須の存在は少年にとって大きなものになっていたのだろう。
困惑した高須は看護師に視線で会図を送るが、彼女は目を伏せると、遺憾そうに首を横に振った。
「そうだ。なら、今度会うときは、兄ちゃんが好きなケーキを買ってきてやる。とっても美味いケーキだぞ。ケーキは好きか?」
「……け、ケーキぃ? ……う、うん」
咄嗟に唱えたケーキという魔法の呪文に、少年の嗚咽が止まる。
「じゃあ、指切りしよう。ケーキを持ってくる約束な」
「う、うん。わかった」
高須が小指を出すとすぐに少年との指が絡まり、それは詩と共に分離した。これで早くも、本日二度目の約束が結ばれてしまった。
「よし、じゃあケーキを買う約束だ。それで、どんなケーキが好きなんだ? 何でも食べたいものでいいぞ?」
駅前商店街のケーキ屋はベーシックからオリジナリティなものまで、様々な種類のケーキが取り揃っている。少年が何を注文しても、大概の物なら持っていける自信があった。
「うん、おりがみのケーキ」
「……おりがみ、ね」
高須はつい今しがたの言動を後悔した。針千本を飲まされるのはもしや自分の方かもしれない、と。
しかし高須が本当に後悔するのは、その後の帰り道での事であった。
「あっ、名前訊くの忘れた……」

11月5日(日)
高須が目を覚ますと、時刻は既に午後十二時を過ぎていた。
「ふああぁ~」
欠伸を漏らしながら、買い溜めしていたカップ麺を啜る。正午を回っていても態度に余裕が表れているのは、本日が非番であるからだろう。
建築会社は大抵、土日休日である。従って雇用されている警備会社も自ずと週末休みとなる。職件が全くない訳ではないが、昨日のような事態が突発しない限りは高須にまで職が回る事は珍しい。
高須は簡易な食事を終えると、シャワーを浴びながら本日の予定を計画する。
主職なし=副職の日、とは一概に決めていないが、何ぶん、少年との約束もある。特に、少年の待ち望んでいる『折り紙のケーキ』とやらの正体が未だに特定不能な高須にとっては、下手すると余分な種類のケーキを購入する羽目となり、結果、出費がかさむ事になってしまう恐れがあった。
高須は財布の中身を全て取り出し、卓の上にそれらを並べて計算する。
――18056円
次に、壁に掛かっているカレンダーへと視線を移す。
――本日は十一月五日。赤丸で囲まれている数字まで、減算して後二十日。
高須は立ち上がると、頭を掻きながらシャワー室へと向かって行った。

「ありがとうございました。また不用品の処分の際には、ぜひ当店を御贔屓に」
今では馴染となったリサイクルショップの店員の謝辞に見送られながら、高須は女性肖像の紙幣を一枚片手に店を後にする。
高須は危険が付随して来るのは理解しているが、それを最低限回避する為の術を編み出している。常に店のシステムを研究し、いろいろな対策を練ってきた成果の現れだった。おかげで、今では活動範囲が近隣三店舗にまで増えている。
高須はズボンのポケットから財布を取り出し、手に握っている紙幣を収納しようと財布を開くと二つに折りたたまれた細長い紙が、そこからはらりはらりと地面に舞い落ちた。
高須は屈んでその紙を拾い上げる。それはここに来る直前に発行された、13500円分のレシートであった。
それを見て、高須は忘れない内に頭の中で深く言葉を刻み込む。――ああ、商品を戻しに行かないとな、と。
その後、高須は各所を行ったり来たりと繰り返して、ようやく商店街に辿り着いた頃には空がオレンジ色に包まれていた。
土曜の商店街となると、人の出入りは激しい。全ての店は活気づき、辺りからは笑い声が尽きない。その喧騒はまるで小規模の祭りかの如くである。
そんな状況の中、高須は最も恐ろしい光景を目の当たりにする。
「げっ……」
ケーキ屋に集まる人々であった。人は我先にと、蟻のように二台のレジへと群がり、そこには昨日までには存在した規律、平和と言う概念が見て全く感じ取れない。まるで災害発生さながらの物資支給状態だ。雑誌に紹介される人気店は良くも悪くも、今まさしくその本領を発揮していた。
流石に、躊躇して暫らく立ち止まっていた高須であったが、敢えて人ごみを掻き分けると、やっとの思いで店員の前に立つ事に成功する。
「あら。お兄さんじゃないか。土曜日に来るなんて珍しいね」
「すいません。折り紙のケーキって売ってます?」
高須は単刀直入に尋ねた。店員には悪いと思いつつも、この暴動の中で長話をするつもりは毛頭もないし、ましてや度胸がない。
「折り紙? なんだいそれは?」
案の定、それは高須の予想通りの反応であった。
「いえ、ないのならば結構です。なら取り敢えず、贈答用に人気のあるケーキを十点。予算5000円以内で見繕ってもらえますか?」
高須の注文に店員は「はいよ」と返事をすると、トングを片手にケーキを適当に見繕う。
「そう言えばさ。さゆちゃんを昨日、見かけたけど。何かあったのかい?」
店員がふと、思い出したかのように細雪の名を出した途端、高須の表情が一段と険しくなった。
「細雪さんが、ここに来たんですか?」
本来なら、昨日もゲームセンターのついでにここへ立ち寄る予定ではあった。しかし、例の少年との事があったので、諦めざるを得なかったのである。
「ああ、そうさ。で、一体何があったんだい?」
「何があったとは?」
「昨日、さゆちゃんが泣きそうな顔で、ここの通りを駆け抜けて行った事だよ」
泣きそうだった、の部分に高須は首を傾げる。当然、原因に覚えはない。
「俺に聞かれましても……」
接触してないのだから無意識に彼女を傷付ける筈もなく、仮に責任が高須にあったとして、思いつく節は前日に譲ったケーキで腹を壊したくらいしかない。だがそうなると、目の前の女性がこの問題の根源である。
「じゃあ、女が泣きながら走り回る理由なんて、痴話ゲンカ以外に何があるっていうんだい?」
店員は主因が男女関係。つまり高須にあると一方的に疑っていた。
「もしかして、嬉し泣きかもしれないじゃないですか」
「嬉し泣きで、ここの前を走り抜ける女がいるかい。それじゃ、危ない人だろ」
正論だった。高須は嬉し涙を流しながら道端を駆け回っている細雪の姿を思わず想像したが、あまりにもイメージにそぐわない。
「まあ、お兄さんが原因じゃないと何にも分からないねえ。取り敢えず、おまたせ」
店員は手提げ袋に入れられた、普段より一回り大きいケーキ箱を高須へと差し出すと、にやりと不敵に笑った。
「いくらですか?」
「全部で3900円ね」
「さ、3900円!?」
高須は予想外の値段に仰天した。あからさまに、一つに対して平均100円程高い。
「あら? 予算5000円以内でしょ?」
「確かにそう言いましたが、普段五つで1400円くらいが、どうしたら十個で3900円になるんですか!」
「そりゃ、オススメ十点だからねえ」
店員は淡々と言い切った。しかしこの場で文句を言っても始まらない。店員に決定権を委ねたのは高須自身なのである。
高須はやるせない気持ちのまま財布の中から5000円札を出して支払うと、替わりに釣銭と共に受け取ったレシートの明細を順に目で追うが、馴染みのケーキの名称はそこにはなかった。
「お兄さん。あたしは別に意地悪している訳じゃないからね。当たり前の事を言うけどね、ケーキにも流行があるんだよ。贈答用に適当なもの見繕うはずないだろ」
店員のその説明を聞いて、高須は渋々と納得した。
「……すいません。てっきり、また何かの陰謀に嵌ってしまったのかと」
「また、って失礼だね。あたしがいつそんな事をしたんだい」
店員の素の態度に、高須は苦笑いを只々浮かべるしかできなかった。

高須が市民病院に辿り着いた時、日は既に暮れていた。
郊外の一角と言う立地場所に、病院独自が包含(ほうがん)する陰鬱な印象が加わった所為か、周辺は不気味な静寂に包まれている。
時刻は午後五時十五分。面会終了時刻まで残り四十五分。左腕の時計に目を移した高須は内心ホッとする。ケーキを無駄にしなくて済んだからだ。流石に、一晩寝かせたケーキを見舞い品として渡す行為は、生活に余裕がなくても気が引ける。
高須は正面の自動ドアをくぐり院内へと入る。意外にも、その中は外観とは対照的に活気付いていた。
既に診察の受付は締め切っているにもかかわらず、広々としたエントランスには少なくない数の老若男女が和気藹々と会話している。
高須は自販機でコーヒーを一本購入すると、空席に腰を下ろして、缶を開けた。
「さて、これからどうするかな……」
少年の素性も入院している棟すら分からない中で、一体、如何にしてケーキを差し入れするべきなのか。
コーヒーを啜りながら、周りを見渡す。結局は事情を理解している者を探すしか方法はない。つまりは少年本人か、昨晩の熟年看護師である。
しかしこの広い敷地内で特定の人物を発見するのは決して容易ではなかった。気が付くと、高須は三本目のコーヒーのタブに指を掛けていた。
「こんばんわ~」
突如、高須の側面から甲高い女性の声が発せられた。
「ええと、はい。こんばんは」
声に振り向いた高須は取り敢えずと挨拶を返したが、そこには何故か見覚えのない垢抜けた感じの若い看護師が立っていた。
「あの~。昨日、夏(なつ)彦(ひこ)くんにカピバラさんをプレゼントしてあげた方ですよね?」
その看護師は子供向け番組の声優を彷彿させる声色で尋ねた。高須は一瞬、『夏彦くん』と『カピバラさん』が、どの番組のキャラクターかと勘違いしたが、昨晩の事情を思い返して、話の内容を大凡察知した。
「ああ。昨日の子ですか。確かにそうですが、何故、貴女が俺を?」
高須は念入りに看護師の顔を見回すが、それでもやはり覚えがなかった。
「駄目ですよ~。女性の顔をじろじろ見ちゃ失礼ですよ」
看護師は頬を急に膨らませると、高須の肩をマンガチックにポカポカと叩き始める。
「でも、今回は勘弁してあげます。その替わり、間違っても惚れちゃ駄目ですからね。夏彦くんにも『しょうらい、ゆいおねえちゃんのおむこさんになる』って、プロポーズされてるんですから。あっ、でも二人の男性がわたしを巡って争いをする。ちょっとトキめくシチュエーションかも。いや~ん」
看護師は恍惚を面に浮かべて、奇妙な独り言を長々と呟いている。高須は暫し戸惑ったが、面倒に巻込まれそうな気がしたので、傍観に徹する事に決めた。
「ちょ、ちょっと~。何か言ってくださいよ。これじゃわたし妄想癖がある、イタい女みたいじゃないですか」
看護師がペンギンの玩具のように、両手をパタパタと上下に羽ばたかせる。その動作がより一層、痛い女の印象に拍車を駆けている事を、本人は全く気付いていなさそうだった。
「取り敢えず。どちら様ですか?」
高須は、ずばりと切り出した。先手を取らないと、目の前の看護師は延々とマシンガントークを続けるだろうと危惧した為である。
「はい。こちらに勤めている看護師です」
「知ってます」
これで看護師じゃなければモグリだろ、と高須は思わず突っ込みたかったが、それを口にしては相手の思うツボである。付け入る隙を与えない為に我慢した。
「んもう。ちょっとした冗談なのに。わたしは当病院看護師の大(おお)島(しま)っていいます。ちなみに夏彦くんの担当でもあります」
「なるほど。俺は高須と申します」
二人は互いに一礼する。今更堅苦しい挨拶もないだろうが、看護師は最低限の礼儀を弁えていた。
「でも、よく俺の事を知っていましたね?」
「だってわたしも昨日、あなた達のやり取りを見てましたもん。怖かったから、物陰から覗いてましたけど」
「物陰……」
高須は一瞬呆れるが、まあ、満更でもないかと改め直す。森の熊に好んで近付く、お嬢さんは存在しない。夏彦と言う小さな拾いもの(イヤリング)がなければ、恐らく生涯の内に関わる事などなかっただろう。
「でも、よく見ると、高須さんって身体も大きいし、わたしの好みのタイプかも。ねえねえ、彼女はいるの?」
大島は瞳を輝かせながら、会って五分も経っていない高須へと率直に尋ねた。これには流石に呆れを通り越して、精神的に引かざるを得なかった。
「い、いや。いませんが……」
高須は女性と交際した経験が、からっきしである。別に男色の気がある訳でも、異性への興味がなかった訳でもない。只、昔から特定の人間以外との距離を置いてしまう傾向があった。それ故に、以前の細雪とのやり取りもそうだが、女性の直情的な言動に対しての免疫が欠如している。
「きゃ~。紅くなっちゃって、かわいい!」
大島はからかうようにして高須の顔を覗き見る。こと、男女関係に関しては、大島の方が成熟していた。
「あの、ところで、その夏彦君の病室って何処にあります?」
危うく相手のペースに呑まれそうだった高須は、現在自分がこの場に居る目的を今思い出して尋ねた。
すると、大島は高須の横席に置かれている物を一瞥して、
「ふ~ん」
と、舌先を軽く出して頷いた。

高須は大島に案内され、別棟二階の廊下を歩いていた。
「奥側の部屋が、夏彦くんの部屋だよ」
もう既にこの時、大島は高須に対して敬語を使用していなかった。
「結構、病院の入口から遠い所にあるんだな」
ちなみに高須も使用してはいない。職場の上司でもない年下がタメ口なのに、自分が敬語を用いる必要はない。但し、細雪の例があるので、外見年齢を鯖読みしている可能性も否めない。
「本棟からだと、ちょっと遠いかも。でも、バグ技があるけどね」
「バグ技?」
「裏技のこと。機会があれば、その内にね」
大島は意味深な言葉を残すと、奥から数えて二つ手前の部屋の前でようやく足を止めた。
「ここだよ」
「ここか」
目の前にあるのは汚れはおろか、使用感すら感じられない真っ白な引き扉だった。それが却って近寄りがたい不気味な嫌悪感を抱かせ、病院に対する親近感を湧かせなくするに十分な要素であった。逆に言い換えれば、この光景に見慣れてしまった時点で、本当の意味での身心共に不健常者になってしまうのだろう。
高須はここで入院している少年の精神状態に不安を抱きながら、ネームプレートへと視線を移す。
『203 冬場夏彦』
「冬場……夏彦……?」
名前を見た瞬間、高須の中で何かの違和感が生じた。けれども、それは名の方ではない。大島から少年の名を耳にした時には、特に何も感じなかった筈だ。
つまり疑問があるのは、名ではなく……。
「ああっ!?」
その疑問はすぐに解消された。
弟を持つ男性恐怖症の女性。
なっくんと呼ばれた女性の弟。
夏彦と言う名の入院している少年。
そして、『冬場』と言う姓。
頭の中で様々な情報が組み立てられて、一つのある事実を形成する。
「細雪さん……」
口から、無意識にも一人の女性の名前が紬ぎ出ていた。
「さゆちゃんを知っているの!」
大島は素っ頓狂な声をあげ、高須へと勢いよく振り向いた。
「ああ、一応。そっちこそ知り合いなのか?」
「うん。わたしとさゆちゃんは、小学校以来の親友」
誇らし気に胸を張っているが、もしかすると本人が一方的にそう思い込んでいるだけかもしれない。けれども、細雪と友人と言うだけで大いに自慢したくなる気持ちが、今の高須にはなんとなく理解できた。
「そうだったのか」
ここまで偶然が続くと、これは必然と呼んでも過言ではない。もしかしたら、細雪との関係が進展するのでは? そう思うと、高須の呼吸は無意識に荒くなる。
「ねえ。どんな経緯で、さゆちゃんと知り合ったの?」
しかし大島は警戒しながら、その怪しげな高須の横顔をじっと睨むように見詰めていた。
「え? 三日前に、商店街のケーキ屋で会ったんだが?」
「三日前……。それで? それからどうなったの? 何したの?」
顔に苦味を浮かべ、早口で捲くし立てる大島。当然、訝しげな視線は未だに解消されていない。
「何した、って。一緒にケーキを食べて、話をしただけだが」
「えっ、エエ~ッ!!」
大島の声が廊下中に響き渡る。甲高さが余って、それは一種の超音波と化していた。
「急に、近くで大声出すな! 鼓膜が破れるかと思ったよ」
「だって、嘘言っているの分かるんだから。どうしたら、さゆちゃんが男の人とケーキを一緒に食べるのよ?」
「いや、俺に言われても……。嘘だと思うなら、本人にでも尋ねてみろ。それに、今ここでそんな事を疑ってもしょうがないだろ」
高須の正論な発言に、大島の眼差しから疑惑が徐々に薄れていく。
「まあ確かに、お見舞いが優先ね」
大島は結構に潔い性格なのか。視線をあっさり外すと、振り返って扉を引き開けた。
病室の扉が開かれると、窓の外を眺めていた夏彦が即座に振り向いた。
「あ、ゆいおねえちゃんだ!! いらっしゃいませ」
「やっほー。夏彦くん。身体の具合はどうかな~?」
 満面の笑みで大島を迎える夏彦に向かって、大島はその場で右手を振った。
「うん。げんきです!!」
病人とは信じ難いくらい気持ちの良い返事が、病室内に響く。
「そうかぁ。じゃあ、そんな元気な夏彦くんに良いお知らせです。今日はなんと! お見舞いが来ているよ~」
「わーい! おみまい~!!」
大島はコホンと一つ咳払いをする。
「はい。今日、夏彦くんのお見舞いに来てくれたのは……」
大島がクイズ司会者のように間を持たせる。そして夏彦はワクワクと待っている。
「じゃじゃ~ん。ケーキさんです」
大島は後ろに隠してあった左手を大きく掲げて、夏彦にケーキの箱を見せつけた。
「うわぁ。ケーキさんだ。やった!!」
夏彦はベッドから飛び下りて、大島の元まで、てくてくと駆け寄って来る。
「おいおい。俺の事はどうでもいいのかよ……」
大島の横から不満を呟く声。そこで夏彦はようやく高須の存在に気付いた。
「あ~!! おにいちゃんだ」
「よう。今更、気付いたか」
高須が右手を軽く挙げる。
「おにいちゃんが、ケーキをもってきてくれたんだね」
「ああ、約束だからな。俺だって針千本飲むのは怖いんだ」
実際には、折り紙のケーキを入手することは叶わなかったが、これだけ多種のケーキがあれば、情状酌量で針を飲まされる事はないだろう、と言うのが高須の魂胆であった。
「じゃあ、早速、みんなで頂きましょうか」
大島が待ち切れんとばかりに、箱に封されているシールを勝手に剥がすのだが、後から急に思い出したように高須へと振り向いて、
「あっ、高須さん。これは決して職務違反じゃないので、くれぐれも御内密に~」
と、一応の念を強く押した。
「すごーい。ケーキが、ひい、ふう、みい……十一個も入ってる!!」
「え、十個の筈だが」
「そう? ねえねえ夏彦くん、どれ食べよっか?」
まるで些細な事はどうでも良いと言わんばかりに大島が高須の疑問を流して、箱の中身を夏彦に見せ付ける。
「ん~。ぼく、これがいい」
夏彦が指差したのは、六寸の大きさはゆうにある果物ロールケーキだった。そのサイズを目にした高須は、改めてケーキ屋の店員に嵌められた事を自覚した。
「わたしはホワイトチョコケーキにしよ。じゃあ、高須さんはプロテインケーキで決まりね」
「じゃあ、プロテインケーキで決まりね、の意味が理解できないんだが?」
「なんか、同梱されてたメッセージカードによると、プロテインの粉末が混入している試供品らしいよ。あの店、新作ケーキを限定数で提供するからねー」
「いや、答えになってないし。それに『混入』って毒物に聴こえるんだが。俺よりも、大島さんが試しに食べたらどうだ? きっと大きくなれるぞ?」
高須は大島に勧め返す。彼女の身体はそこまで小柄ではないが、正体不明の異物を口にするのには抵抗があった。
「わたしも、流石にプロテインはいやだなぁ~」
「そりゃそうだ」
二人は同時に顔を見合わせると、深い溜め息を付いた。
「取り敢えず、俺はチーズかクリームのケーキがあれば、それでいいや」
「結局、高蛋白じゃない。別にいいですけど」
大島は手提げ袋から人数分の紙食器を取り出し、その上に各自が希望したケーキを乗せて、内二つを高須と夏彦に手渡した。
「それじゃあ、手を合わせて」
大島がゆっくりと合手をする。すると夏彦も習うように、続いて手を合わせた。
「では、いただきます」
「いただきまーす」
礼節を重んじた後、二人は勢い良くフォークに手を伸ばした。高須もこの雰囲気の中、流石に直接ケーキへ手を付けるのは不適切と感じたのか、
「……いただきます」
と、静かな声を出した。
「おいし~いっ!! やっぱり有名なお店だけある~」
大島は大袈裟なくらい、至福を全身で表現しながらケーキを咀嚼していた。
「どうだ、美味いか?」
高須が横にいる夏彦に尋ねると、夏彦も大満足そうにケーキを頬張っていた。
「うん! おりがみのケーキとあじいっしょだ!!」
「そうか、沢山あるから、好きなだけ食べていいんだぞ」
「そんなに、いっぱいたべれないよぉ」
幼い夏彦では残り分を消費する前に、ケーキが先に痛んでしまうのは、いくら家族ではない高須でも分かっている。それでもこの笑顔を眺めていると、どんどん勧めたくなる。今なら、孫世代にたんまりと食事を勧める老人の心情さえもが理解できる気がした。
「それに、おねえちゃんも、もうすぐおりがみのケーキをかってきちゃうんだ。ぼくがおねがいしちゃったから」
「え?」
夏彦の思い掛けぬ言葉に、高須のフォークを動かす手が一瞬で止まる。
「さっきって。今日、姉ちゃんが来たのか。何時くらいだ?」
病室内に置時計があるにもかかわらず、高須は敢えて自分の腕時計を見て確認する。現在時刻は午後五時五十五分。退出時刻まで残り五分をきっていた。
「えーと、ね。じゅうしちじぜろぜろふん」
夏彦は室内のデジタル置時計を見て言った。
「五時か。すると、一時間も前だな……。これって時間過ぎたらどうするんだ?」
高須は二個目のケーキを頬張っている大島に尋ねた。
「ほへぇ」
どうやら食べるのに集中していて話を聴いていなかったようで、高須が再度尋ねると、大島は口を動かしたまま首を横へと振った。
「どうやら、間に合わなそうだな」
「残念だけど、そうかもしれないね」
二つ目のケーキを丁度完食した大島が、高須に擦り寄って小声で同調する。
それから五分を経過したが、結局、高須の予感が的中し、午後六時を過ぎても細雪は病室に姿を現さなかった。
「それじゃあ、高須さん。一般の方はそろそろ退出の時間ですよ」
「ああ……」
高須は名残惜しそうに頷いた。自身が細雪と再会する機会は元より、夏彦が落胆する姿を想像するとやはり不憫に思えてしまう。
けれども、高須よりも更に辛い立場に置かれているのは大島であろう。夏彦の担当看護師である彼女は、高須が去った後に酷情を伝えなくてはならないのだ。
高須は去り際にもう一度夏彦を見る。何も知らない無垢な少年は未だに一つ目のケーキに口をつけていた。
「じゃあ、元気でな」
「うん。またきてね、おにいちゃん」
夏彦はケーキに夢中の余り、昨晩のように無理に引き止める事はしなかった。だからこそ高須には余計にそれが心苦しかった。
高須は大島に目礼すると、踵を返して、扉の窪みに手を掛ける。
――その時。
コンコン。
ふいに扉が何者かによって叩かれ、反射的に手を引き戻した高須は思わずその先をじっと見詰めた。一瞬停止しかけた心臓の鼓動が、次第に大きく脈打っていく。
この無機質な一枚の白い扉を隔てて、向こう側に何者かが……いや、この場の皆が待ち望んでいた人物がいる事を、高須は一瞬で確信した。
ゆえに、そのまま固唾を呑んで見守ろうとする。
何もせずとも、扉は自然にゆっくりと左側から外部の世界を現し始める。その光景はきっと高須にとってはスローモーションの如く映っていただろう。
そして――、
奇異な因果によって、二人は病室の境界線を隔てた所で邂逅するのだった。


三章
その夜、二人は河川敷にいた。周囲には自販機はおろか街灯すらない。けれどもこの場所を完全な漆黒に至らしめていないのは、月光と言う唯一の灯りのおかげだった。
高須は感触だけを覚えている席で、旬を少し過ぎた月見を嗜みながら六寸のロールケーキを賞味していた。
「流石に、食い慣れないケーキだと。少し辛くなるな」
と言いつつも、高須のケーキを口に運ぶペースは一向に鈍らない。
「あまり、糖分を摂取し過ぎると、身体に毒ですよ……」
隣にいる細雪は高須が甘食中毒者(スイーツジャンキー)である素性を知らないので、かなり不安気な顔でその様子を目にしていた。
「いや、大丈夫だから。それより細雪さんの方こそ、さっきから手が止まってるけど?」
「あ、は、はいっ!」
細雪は慌てて大腿部に置かれているケーキを、何度もプラスチック製のフォークで掬って口に運ぶ。その機械じみた動作があまりにも可笑しくて、高須は思わず吹き笑いをしてしまう。
「な、何か変でしょうか?」
「いや。ごめん。何だか、緊張しているみたいだからさ。確か、三日前もここで一緒にケーキを食べたよね?」
「……あっ、はい。そうですね。つい先日もこの場で御馳走になりました」
少女は高須に向かって丁寧に頭を下げる。
「それからすぐ細雪さんの弟と知り合うし。本当に凄い偶然だよな」
「私の方こそ驚きました。まさか弟の話していた男性の方が、高須さんだったなんて。本当に、夏彦がお世話になったそうで」
細雪はまたもや頭を伏したが、それは先程とは少し異なり、額に土壌が付着しそうなくらい深々しいものであった。
「いや。当然の事をしただけだよ。だから気にしないで」
「あ、はい。ありがとうございます……あの、それで」
高須は宥めて頭を上げさせるが、細雪の態度がどうにもよそよそしい。錯覚でなければ、肩に力が籠っているようにも感じられた。
「ん、どうかしたのか?」
「その、聞いたところ。ヌイグルミをプレゼントして頂いたそうですが」
「ああ、カピバラさんか。てっきり、仮面ライダーとかに興味を持ってると思ったんだが。最近の男の子にも、あの手のマスコットが人気があるんだな」
「え、はい。あの……そうですね」
高須が意外そうにも感心していると、細雪はそのまま口をつぐんでしまった。
「でも、いくらヌイグルミが欲しいからって、病院を抜け出すのはいけないよな。あ、そう言えば今日は病室であの二匹を見なかったが、一体何処に行ったんだ?」
高須はふと疑問に思った事を細雪へと尋ねた。『病室へのヌイグルミの持込禁止』と言う病院規則があるとは思えないし、もしも規則があったのならば、折角の大金を叩いた意味が損なわれてしまう。
「その事ですが、実は……私が原因なんです」
「え?」
高須が目を丸くすると、細雪は意を決して恥ずかしそうに語り始める。
「元はと言えば、私があのヌイグルミを欲しがっていたのが原因なんです」
「カピバラさん好きなの?」
高須が尋ねると、細雪はこくりと肯いた。
「この歳になって、変ですよね?」
細雪はおずおずと顔色を窺うようにして尋ねてくる。それを間近で目にした高須は彼女の姿が可愛いと思ってしまい、暴露した本人に対して失礼だと感じつつも、笑いを堪えきれなかった。
「……そこまで、笑わなくても」
頬を膨らませている細雪の表情は、本来の見た目通りにあどけないものであった。
「ごめんごめん。でも要するに、夏彦は細雪さんの為に、病院を抜け出したって事か」
「はい。病院から連絡を頂いた時は、必死になって心当たりのある場所を探しましたけど、それでも見付からなく。まさか、ゲームセンターに居るとは思いにもよりませんでしたので、怒るにも怒れなくて……」
「それじゃあ確かに、怒るにも怒れないよな。それにしても、すごく姉想いな弟だな」
不謹慎だが、高須は事件を通してこの姉弟が本気で微笑ましいと感じてしまった。擦れ違いがあったとは言え、お互いを想い合える理想の家族像であった。
「そう、ですか? もしかしたら、夏彦にとっては、私が母親代わりになっているのかもしれません。両親が物心が着く前に他界していますので」
「……親が他界か。奇遇だな」
「え? もしかして高須さんも御両親が?」
「まあ、そうだな。でも俺に弟がいたら、問答無用で喝を入れてるかもしれないな。夏彦が細雪さんの弟で本当に幸せだ」
高須が冗談めかして言うと、細雪はくすくすと笑った。
「はい、今回の件で高須さんには本当にお世話になりました。夏彦の我が侭でカピバラさんだけではなく、ホワイトさんまで獲って頂いて……。本日も御見舞いに来て下さいましたし」
「ああ、あの白いカピバラさんが、“ホワイトさん”なのか。どおりで……」
「え?」
「あ、いや、こっちの話だから。気にしないで」
細雪が怪訝な表情を向けていたので、高須は話を元に戻す。
「じゃあ、カピバラさんは病院に没収された訳ではなく、細雪さんが持っているんだね」
「はい。自宅で大事に保管しています。……あっ、そう言えば」
細雪は急に何かを思い出したのか、慌てて横に置いてあるカバンから財布を取り出した。
「あの、ヌイグルミとケーキの代金ですが、幾らになりますか?」
「ああ、気にしなくていいよ。あれは俺が夏彦にプレゼントした物だから、細雪さんが払う必要もないし、受け取るつもりもない」
そう言って、財布の金具に指を掛けて口を開けようとする細雪を、高須は左手で制す。
「でも」
「いいんだ。俺としても大事にしてくれる方が、金を返されるよりもずっと嬉しいからさ」
「高須さん……」
細雪は少し考え込むと、財布をカバンの中にしまい戻した。
「ありがとうございます。是非とも、一生の宝物にします」
「そんな、大袈裟な」
「いいえ。男性からプレゼントを貰うのは初めてですから」
「…………。え、そうなのか? 何か、意外だな。細雪さんモテそうなのに」 
高須はケーキ屋の店員との会話を思い出し、一瞬反応に困ったが、敢えて何も知らないそぶりを装った。
「そう見えますか? でも、残念ながら男性の知り合いがいませんので」
「へー。……もしかして、男嫌いとか?」
余計な事とは思いつつ、敢えて核心へと高須は踏み込む。ついでに店員が言っていた話が事実であるのかを確認したかったのだ。
細雪は正面を向き、水面に浮かぶ月をその瞳に映したまま、静かに肯いた。
「申し訳ありません。男性の高須さんを前にして、失礼でしたね……」
「あ、いや、そんな事はない。だって、俺とは普通に喋ってるみたいだけど?」
もしも事前に店員から話しを聞いていなければ、『奇遇だな。俺も女性は苦手なんだよ』と、軽く笑いながら、共感した気になっていただろう。
「本来ならば男性に声を掛けられた時点で、身体が震えて竦んでしまうのですが……不思議ですよね。高須さんに初めて声を掛けられた時、不信感はありましたけれども、嫌悪感は何故かありませんでした。それどころか……」
その続きを言い辛そうにして、細雪は高須の顔をちらりと覗き込む。
「それどころか、どうしたの?」
「……もしかしたら、お気を悪くされるかもしれません」
「いいよ。何を言われても怒らないし、気を悪くしないから、言ってごらん?」
高須が優しく言うと、細雪は僅かに戸惑いながらも言葉の続きを口にした。
「この人は私と何処か似ている、との安堵感がありました」
「……そうか」
人に対する感覚が異常なほど敏感になっている細雪は、無意識に高須から共感できる何かを感じ取ったのだろう。しかもその知覚もあながち的外れではない。
「確かに、俺も人付き合いは下手だからな……」
「気分を害してしまったのなら、申し訳ありません」
顎に手を当てている高須に対して、細雪は謝罪を述べる。
「いやいや。別に、気にしてる訳じゃないさ。寧ろ、これはチャンスだなって思ったよ」
「え?」
「だって、俺には反応しなかったんだろ? つまり細雪さんの男性恐怖症を克服する目途が出てきたって事だ。何だったら、これからは俺を通じて徐々に克服していくのも良いかもしれない」
それは細雪を救えるのは自分だけだとの、優越感から出た安易な提案かもしれない。だがそれでは自己満足で言っているも同然であった。
「折角ですが、それは高須さんを利用している形になります。仮に、構わないと仰っても、私の良心の呵責から、そのような事は絶対に出来ません」
その結果、細雪にしては強い口調で断られてしまった。
まあ、彼女の性格ならそう言うだろうな。と、高須は思った。よくよく考えれば、生半可な気持ちで他人の問題に口を出すのは、図々しく失礼にも程がある。
少なくても今の時点では、高須に細雪の覚悟を破る程の覚悟はなかった。
「……そうか」
だからこれ以上は、執拗に踏み込まない事にした。

11月6日(月)
「よぉ、高須の兄ちゃん」
「おはようございます。松本さん」
高須が週明け早々、一番に顔を合わせたのは松本だった。
松本は高須の午前の仕事ぶりを見て何かを感じとったのか、昼休憩になると顔をしかめながら近付いてきた。
「なぁ、兄ちゃん、この土日に何があったよ? 四六時中、ニタニタ笑いやがってよぉ」
「え、そうですか?」
「ああ、七十年近く生きてる俺が言うんだ、間違えねぇだろ。で、やっぱ、これか?」
松本はいつにでもない下卑た表情で、左手の小指を突き立てる。
「まあ、彼女ではないですけど、そうですね」
「ほほぉ、そうかあ。んじゃ、さっさとやる事やっちめえよ」
「やる事? またすぐにそっちの方に話を持っていく」
「ちげえよ。早く告って、ものにしちまえって事だよ。前も言ったけど、女は早い者勝ちだぞぉ。まあ、兄ちゃんオクテっぽいから、俺が直々に、女の事を伝授してやらあ」
「は、はあ……」
呆れる高須を余所に、松本は自分の恋愛論を勝手にべらべらと語り始める。
「其の一。女に頼りが無い男と、優しい男って言われるのは駄目な男だ」
「優しいのも駄目なんですか?」
「ああ、なんでかって言うとな、女にとっちゃ、『優しくて良い人』ってのは、誰に対しても使える都合の良い万能な言葉だからだ。よく、告白を断る口実で『良いお友達』とか言うだろ、ありゃ完全に駄目な典型だぁ」
「……なるほど。要するに、他に褒める部分がないので、適当な条件をでっちあげるしかないって事ですね」
 松本の持論に信憑性があるかはともかく、高須は少し心気まずくなった。細雪に先日、面と向かって言われた『誠実』の二文字には、もしかして何かしらの含意があったのだろうか、と。
「そう言う事だなぁ。次に、其の二。財産と能力がない男と、金に汚い男も駄目」
「ああ、それは分かります。でも貧乏で頭悪くても、彼女いる人はいますけどね」
「いや、そいつは貧乏かもしれないが駄目じゃねえ」
「えっ?」
高須は首を傾げた。貧乏と無財には明確な区別があるのだろうか?
「彼女がいる時点で既にあるじゃねえか、女って財産をよ。つまり女が寄るってのは、本能でその男に何かを期待してるって事だ。だから女の勘ってのは、男よりも鋭いんだ」
「単に口が上手いだけでは?」
「いいじゃねえか。女を口説けるのも立派な才能だ」
逆に言い換えれば、女がいれば能力がある。更に言えば金も後に付随する。それこそが松本の考えだった。
「其の三。女からの告白を待っている男は論外」
「男から告白するって事ですか?」
「いや、男から攻めなくても、自然と引っ付くやつは付く。俺が言ってんのは、女が告る生き物だと勘違いしている男がいる事だぁ。もうこの時点で駄目。あれだ、あれ。前に流行った、ときめく何とかってゲームのやり過ぎ。聞いた話じゃ、三年掛かって、女からの告白を待ってるらしいじゃねえか。それは男として終わってるなぁ。つまり、そいつらはオタクだオタク」
「……いや、オタクとは直接関係ないような」
松本の持論が正しければ、秋葉系男子は全て彼女無しとなってしまう。
「其の四。自分の欲に忠実ではない男は、男として論外」
「欲望ですか」
「欲望って言うか、恋愛欲だな。まあ百歩譲って、生活の問題で泣く泣く諦めるのはしょうがねえ。俺は好きじゃねえが。俺が信じられないのは、大した弊害がないにも関らず、感情を無理に偽ろうとするやつがいる事だ。男も女も言えることだが、頑固に認めねえ。そして時に好きか嫌いかさえ自分でも理解できなくなる。まったく、中学生じゃあるめえしな」
この条項を講じる松本の口調には、一際、熱が入っていた。
「確かに、考えてみると奥が深いですね」
高須は松本を自身の栄光談しか吹聴しない好々爺としか評価していなかった。けれども今講釈している持論は確固たる自分の定義を確立しており、やはり人生経験豊富な先輩である立場を否応でも認識させられる。
「そりゃあな。でも、兄ちゃんもいずれ分かるさぁ。嫌でも分かる。長く生きていれば分かる」
溜息と含みを持たせた松本の物言いは、まるで詳細を尋ねてくれと間接的に訴えているかのようであった。
「松本さん。昔に何かあったんですか」
「おお、あったよぉ。特に俺の若いカミさんと色々あってよぉ……って、あんま人に話すもんじゃねえけどな。バレちまったら大目玉くらっちまう。げへへへへ」
「まあ、ここまで言っておいて、それは今更ですよ。話してください」
「仕方ねえなあ」
松本は言葉とは裏腹のニヤけ顔で、自身の妻との馴れ初めから近年の家庭状況まで長々と語った。高須はひたすら静黙としながら、その話に耳を傾けていた。
「まあ、認めたくはないが、二十歳下とは思えないくらいデキはいいからなぁ、ウチのカミさんはよぉ。だから文句も言えねえんだ。全く、女ってやつは、結婚前はしおらしく男任せなのに、結婚すると急に強くなりやがるやぁ。今では小遣いすら貰えねぇ」
「しっかりした人じゃないですか」
松本は男性能動主義の恋愛論を躊躇なく語る姿から、金に糸目をつけないタイプである事が窺える。だからこそ妻に財布の紐を握られているのだろう。けれども高須にはその境遇が少し羨ましいとも感じた。
「そうかあ? 俺は亭主としては立つ瀬がねえよぉ。仕事も定年になっちまって、こんな仕事してても、カミさんに食わせて貰っているようなもんだからなぁ」
松本は深く肩を落とす。先程までの自信に満ち溢れていた威勢はどこに消えたのか、萎縮した姿には雄としての威厳が失われていた。
「でも、松本さんだって奥さんを助けようと仕事をしているんですよね」
松本夫婦の年齢差が二十歳以上もあるのならば、現在四、五十代の妻が仕事をするのは断じて普通であり、寧ろ定年後に仕事をしている方が高須にとっては尊敬に値する。
しかしそんな高須の敬意さえも松本には届かず。彼は半ば何かを諦めるかにして、首を横へと振った。
「所詮は端金よ。ちょっと食わしてもらってるもんじゃねえ。カミさんの稼ぎは年収1200万なんだ」
「い、1200万!?」
高須の声が思わずひっくり返る。これでは妻に劣等感を感じるのは至極当然であろう。
「……そういえば、奥さんの仕事については全く触れてませんでしたけど、一体何をやってるんです。奥さんって?」
この話題に触れてもいいのかと高須は一瞬悩んだが、さりげなく妻の正体を尋ねると、松本は何処かバツが悪そうな顔を作った。
「ああ……俺のカミさん。駅前の商店街でケーキの店、開いてるんだぁ」
その言葉を聞いて高須は唖然とする。世間はやっぱり狭かったのである。

高須が病院に着いたのは暮れ頃だった。手ぶらのせいか、昨日と比べると半刻ほど早い。
エントランスに入ると偶然にも大島の姿が高須の目に付いたが、何やら忙しそうだったので声を掛けずに、そのまま夏彦の病室へと向かう。
記憶を辿って、何とか迷わずに別棟二階にある夏彦の病室に辿り着くと、高須は息を整えてから、親近感が全く湧けない殺風景な扉を叩いた。
「はーい。どうぞー」
「!?」
いきなり室内から発たれたのは、聴き覚えのない少年とも女性ともとれる中性的な声色だった。
高須は驚いて反射的に名札を見上げるが、そこには間違いなく夏彦の名が記されている。
念の為、今度は少し控え気味にノックをする。するとやはり、中から返ってきたのは先程と全く同じものであった。
高須は不思議に両眉を寄せて、再度入院患者名を確認する。そして万が一の際の言い訳を早々に考えると、何が現れるか分からない扉をゆっくりと引き開けた。
「……何で、ここにいる?」
部屋の中を確認した高須は決してそこに存在する筈がない人物に向かって、疑いの視線を送った。
「何で、って。わたし夏彦くんの担当だしね~」
「そうじゃなくて、さっきエントランスにいた筈だろ」
それは紛れもなく、先程まで慌ただしく動いていた大島であった。
「えっ、もしかしてお姉ちゃんと会ったの?」
「お姉ちゃん!?」
驚きの声を張り上げた高須の目が、大きく剥き出しになる。
「実は、大島由衣には、由宇(ゆう)と言う一卵性双生児の姉がいて、内科に勤めているのです」
「そ、そうだったのか?」
まさか大島が双子であり、その姉も同病院に勤めているとは予想だにもしていなかった。
「嘘です」
大島は悪びれも無くあっさりと否定した。刹那に高須の中で黒い感情が芽生え、それが隠し切れることもなく修羅として表情に顕現する。
「そ、そんなに怖い顔しないでよ~」
「それなら何故ここにいる? そしてあの声は何だ?」
高須は念には念を入れて室内全体を見渡すが、やはり大島と夏彦以外の存在はない。
「ああ。あの声はね、し……」
「昔、ここで死んだ患者の声だとか言ったら怒るぞ。てか、不謹慎だ」
高須が間髪を入れずにオチを遮ると、大島は咄嗟に咽るような咳払いをし始めた。
「や、やだな~。そんな筈ないじゃない。わたしの声よ、わ・た・し!!」
声優業顔負けの声変化で白状した大島の顔はあからさまに動揺している。高須は呆れながらも、その演技術にだけは少し感心をしてしまった。
「それで、ここにはどうやって来たんだ? 俺さっき、エントランスで姿を見かけたばかりなんだが?」
それが現状においての最大の疑問点である。SF小説のように、時空を跳躍しない限りは二点間の高速移動が不可能であるが、例え存在そのものが出鱈目(でたらめ)な大島であっても、万物の理を無視できるとは到底思えなかった。
「ああ、それはね。本棟と別棟を繋ぐ連絡通路を渡るより、中庭から奥にある非常階段を上ってきた方が早いの」
「非常階段の扉って、普通、カギが掛かってるだろ」
非常扉の錠は鍵が無い限り、内側からしか開錠不可となっているのは常識である。確かに、大島が通ったルートなら高須よりも早く病室に辿り着けるが、実際には実行不可能だ。
「あっ、鍵は掛かってないよ。だってわたしが中から開けて、そのまま放置してるもん」
「お前が原因かよ」
高須は心から大島の素性を疑う。これでも繊細な命を預かる看護師が務まるのだから、本気で不思議だと感じた。
「あ~。高須さん。今『おまえ』って言った~。それに『おまえのようなナースがいるか』って言いたそうな顔してる」
「勘が鋭いな。探偵に転職できる素質があるかもよ。それか声優」
「残念ながら、探偵も声優も容易に務まる職業ではございません」
「それはそうだが……」
少なくとも看護師よりは適正があると思い薦めてみたのだが、正論を言われた高須は言葉に詰まってしまう。
「でも、一つだけわたしに転職できそうなものがあるね~。と言うよりやってみたい職業なんだけど」
「大島さんに向いている職業? 声優以外でか?」
「んもう。声優はやりたくないの。じゃなくてわたしがやりたい事」
大島が興味を持つ職業。高須は彼女の性格をふまえて、色々な可能性を浮かべてみる。
「保育士とかか?」
「う~ん、惜しい」
やはり近いか、と高須は思った。大島は明朗で面倒見が良さそうなタイプである。
「介護福祉士」
「う~ん。少し遠くなったし、今とやってる事は近い」
「なら、ペット調教師とか、か?」
「あ、それはやってみたいかも。でもハズレ~」
「ディズニーランドの従業員」
「あっ、それは昔憧(あこが)れた。けどそれもハズレ~」
「ディズニーランドの着ぐるみスタッフ」
「ちょっと~。どんどん離れていくよ~」
大島が例の発条(ぜんまい)仕掛けの玩具と化し、高須をおちょくるように煽る。
「じゃあ、一体何なんだよ。もうこの際、見た目は大人で頭脳は子供な探偵でいいだろ」
高須は痺れを切らして問い詰めた。正直、もうどうとでもいい、とも思っていた。
「ええ~、コナン君じゃあるまいし」
「だったら、勿体ぶらずに教えろ」
「……分かった。でも、あまり大きな声では言えないよ。特に男の人の前では恥ずかしいし。こんな事言っても、素で引かないでよね?」
大島は恥ずかしそうに、上目遣いで高須をチラリと見る。その表情から高須は瞬時にして、彼女の目指す業種を察知した。
「あー、そうか分かった。男の前で口に出せないって、アレか。何て言うか、まさか大島さんがそっち方面に興味があるとは意外だった」
俯きたい気持ちは高須も同じだった。けれども恥ずかしいと言うよりは、複雑であった。大島が夜の業界に興味を示している事が分かったので、支持するべきかどうかの反応に困っていた。
「酷いよ~。でもやっぱり、わたしだと意外に見える、のかな?」
大島は再度の上目遣いで見やるが、その問いに対して高須の首は微動だにしなかった。
「でも、わたしって結構、色々と尽くすタイプなんだよ……?」
「色々と尽くすって、せいぜい仕事の愚痴を聴いたり、料理をあ~んするくらいだろ?」
「あ、あと……一緒にお風呂……とか……」
「ぶほッ!? ごほっ、ごほっ」
 思わぬ言葉に高須が咽かえる。キャバクラに客専用の浴槽があるとは思えない。大島の目指す職業とは、高須の想像の範疇を逸脱していたのである。
「……じゃあ、まさかその後って?」
高須が確認の為に含みを持たせた言い方で尋ねると、大島は顔を紅潮させて俯いた。
「マジか。更に斜め上を行くのか」
「……え?」
「いや、何でもない……。まあ、その、確かに人受けは良さそうだし。今だと色々趣向が充実してるらしいからな。アニメのコスプレとかさ。俺には引き止める権利がないが、よーく考えて決めた方がいい。後悔しないようにな」
高須の言動は中立を保っていると装って、実際にはかなり否定側へと傾いていた。
「後悔は多分しないと思うけど。昔からの夢だったし。でも、アニメコスプレの意味が分からないな。男の人ってそう言うのが、やっぱり好きなの?」
「ああ、世の中にはいろんな趣味の人間がいる。ゲームキャラとか、メイド、ナース、女教師とかな」
「ナースは現職だけど、さすがに病院以外で着るつもりはないなあ」
流石の大島も多少は怖じ気付いたのか、困惑した表情で苦笑っていた。
「そうしないと、金を稼げないからな。仕方が無い」
高須は自分が堂々と説教できる立場でないと分かっている。しかしだからこそ、金に不自由な生活の悲惨さが身に沁(し)みていた。
「……お金? やっぱり旦那さんの稼ぎだけじゃ、難しいのかな。でも、今の時代じゃそうだよね。それに仕事も辞めようと思ってるわけじゃないし」
「結婚後も続けるのかよ……」
婚姻しても尚、身売りを続ける大島の意欲に対して、高須はかなり鬱な気分になった。
「でも、もし高須さんが、わたしを貰ってくれるなら、完全共働きでもいいかな。なんてねっ」
大島は恥ずかしそうに高須の肩を強く叩いたが、高須は素直に喜べず、苦虫を噛潰したような表情を浮かべていた。
勿論、生活の為に止むを得ない場合もあるだろう。今の高須のように違法な行動で直接金銭を得るよりは、法に接触していない行為で間接的に金を得た方が良いのは当然だ。只、両者の状況に関して共通に言えるのは、それが周囲に対して明らかになったとき、その者の人間関係が間違いなく破綻する事である。
仮に其々に百人の知り合いが存在するとして、彼らが高須達の正体を知ったとすれば、一体、内の何人との関係が即刻破綻するだろうか。百人全てが容認する可能性は皆無に等しい。何故なら、物事の外端しか目にしなく、内奥を見ていない人間が少なからず存在するからだ。
つまり、窃盗犯は如何なる理由であろうとも憎むべき犯罪者。性風俗は如何なる場合でも蔑むべき非道徳行為、と頑なに思い込んでいるのである。
生活の為に止むを得なかった高須は、そこまで視野の狭い人間ではない。しかしだからこそ大島が金銭目的ではなく、興味本位でその道を歩むのが耐えがたかった。
「もし俺が旦那だったら、風俗なんて辞めさせるけどな」
 故に、高須は大島に対してはっきりと拒絶の言葉を口にしていた。
「……えっ? 風……俗?」
大島は瞬きもせずに高須を呆然と見上げた。
「あれ?」
高須は急激な不安に襲われる。恐る恐ると口を開いて、本人に向かって単刀直入に尋ねる事にした。
「大島さんって、風俗嬢に興味あるんだよね?」
「だ、誰? わたし?」
高須が無言で二度頷くと、直後に大島の目蓋の硬直が溶け始めて、凄い勢いで首を左右へと振った。
「えっ、ええ~っ!! わ、わたし? 違う違う!!」
「あ、あれ? 俺に言えない恥ずかしい職業って、性風俗(・・・)じゃないの?」
高須の直球過ぎる言葉に、大島の顔面が一瞬にして沸騰した。
「そんなわけないでしょ~!! わたしが言っているのは、あれだよ、あれ!」
大島は必死に否定しているが、肝心な部分に『あれ』と言う代名詞を連用している為、結局何を言いたいのかが、高須には伝わらなかった。
「『あれ』じゃ分からん。ハッキリと言ってくれ」
高須は語気を強めて言った。言いたくない事を無理やり言わせる主義ではないが、それは誤解を生む以前の話である。こうなった以上、追求しなくては気が済まなかった。
「……さん」
「え?」
大島が小声でボソりと何かを言ったが、高須には聞こえなかった。
「……よ……さん」
「いや、良く聞こえない。もっと大きな声で言ってくれ」
大島は決心して、顔を紅らめたまま高須に近づくと、耳元で小さく囁いた。
「…………およめさん」
なるほど、と高須は思った。
「ねえねえ。ゆいおねえちゃんたち。なにしているの?」
「っ!?」
夏彦の声に二人は驚き、反射的に身を離した。
「な、夏彦くん。テレビは見終わったの?」
「うん。とっくのまえにおわったよ」
高須が腕時計を確認する。時刻は午後五時の十五秒前になっていた。
「ねえねえ。なにしてたの。もしかして、ちゅう?」
夏彦の視角からはそう映ったのか、きゃっきゃ、と二人を交互に見て騒ぎだした。
「ち、違いますっ」
大島は慌てて否定するが、今の夏彦にとっては逆効果であり、必死に弁解するその姿を見て更に愉快そうにはしゃいでいた。
高須はそんな二人の様子を目にして、夏彦の方が一枚上手である事に感心し、同時に大島が意外にも純情である事に優越感を覚えた。
「夏彦は、さっき何のテレビを見ていたんだ?」
決して大島に助け舟を出した訳はないが“病室でキスをしていた”との誤解を夏彦に深く植え付けてしまうと、後日の病室訪問が厄介になるし、情操教育にも好ましくない。そう思った高須は話題の矛先を変えようと試みた。
「うん。みとこうもんだよ」
高須の思惑通り、夏彦の意識が逸れた。
「水戸黄門か。難しいの見ているんだな。他に見るものとか無いのか?」
「そうそう! 夏彦くんは月曜から木曜まではいつも水戸黄門で、金曜日だけはその後にアンパンマンを見ているんだよねー。面白いよねー!?」
未だにそわそわとして落ち着かない大島が夏彦へと話し掛けるが、それは間接的に高須への回答にも向けられていた。
「うん。すけさんとかくさん、それとアンパンマンはつよいんだ。でも、おじいちゃんがでできちゃうと、みえないちからでわるものがたおされちゃうんだ……」
夏彦は顔に不服を浮かべていた。強い=暴力と思い込んでいる夏彦にとっては、肉体を使って悪を打ち倒さない限りは、話に納得がいかないのだろう。
「あの爺さんは偉い人だから強いんだな」
「えらいとつよいの?」
「そうだな。もしかすると、アンパンチよりも強いかもしれないな」
夏彦の先程の言葉は解釈によっては的を射る。『みえないちから』が権(ごんげ)の力であり、権力主義は古今東西の常識であるが、これを無垢な六歳児が理解するにはまだまだ時間が掛かりそうであった。
「なら、ぼくもおおきくなったら、えらいひとにってあくにんをやっつける」
夏彦は意気揚々と右拳を前へ突き出した。
「あっ、それじゃあ夏彦くんが将来正義の味方になったら、わたしの周りの悪人もやっつけてもらおっと。特に、純情乙女の想いを踏みにじる悪人とか」
と、言いつつ、大島は一瞬高須の顔をちら見する。
「まだ、根に持ってるのか。じゃあ、俺も夏彦にどこかの男をたぶらかす悪女でも退治してもらおうか」
お互い様だと、高須は溜息混じりに言い返した。
「うん。わかった。おねえちゃんをわるいひとからまもったあとに、ゆいおねえちゃんとおにいちゃんもまもってあげる」
「やっぱり、さゆちゃんが一番最初かぁ」
大島が残念そうに肩を竦めるが、表情は何処かしら嬉しそうだった。
「ところで、夏彦。その姉ちゃんは今日は見舞いに来ないのか?」
室内に細雪はいない。唯一の身内が、幼い夏彦の見舞いに来ていないのは不自然な事態である。
「おねえちゃんはきょうはよるのおしごとだから、おひるにきたよ~」
「……夜のお仕事?」
「ちなみに製造業ね。しかも、お菓子工場」
大島は高須が余計な誤解を招かぬよう、夏彦の言葉を早々と補足した。
「ああ、お菓子工場か。それなら仕方ないよな」
食料系の工場は需要の関係上、昼夜問わずに稼動をしている。その実情を高須は知っていた。
「じゃあ、今日は来ないんだな。なら、明日と明後日はどうなってるんだ?」
「あしたもあさっても、きょうとおなじ、じかんだっていってたよ」
「そうか」
高須は少し肩を落とす。しかし仕事の都合であっては、踏ん切りをつけざるを得ない。
「もしかして、さゆちゃんに会えなくてショック? まさか惚れちゃってたり?」
大島が人差し指で、高須の側腕をつんつんと小突く。
「ええっ。おにいちゃん、おねえちゃんのことすきなの?」
夏彦が直球で尋ねてきた。それも本当に嬉しそうな口調だった。
「いやいや、ちょっと待て、夏彦! これは嘘を周りに振りまく悪い女だぞ。正義の味方があっさりと騙されていいのか!?」
高須は大島を指差しながら、必死に弁明を試みる。
「あれ~? 高須さん、珍しく動揺してますね~。嘘をついているのはどっちかな~?」
だが、大島は余裕をもって急所を突いてくる。
それが愛情か同情かは分からない。けれども高須が細雪に対して関心があるのは紛れも無い事実であった。それも出会った瞬間から。
大島の執拗な肩を揺さぶる追及と共に、高須は思わず松本の言葉を思い出す。
『自分の欲に忠実ではない男は論外』
それはまさに今の高須の状態を表しているのかもしれない。口に出してしまった嘘は本当の感情さえをも紛らわせる。
だからこそ、大島が『本当は気になってるんでしょ?』と、いやらし気に尋ねた時、
「ああ、気になってるよ。悪いかよ」
と、不機嫌ながらも本音を口にしていた。
「……あ、あれ?」
大島の手の動きが急に止まる。すると高須は、じろりと彼女を見た。
「……何だよ」
「ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」
この展開を予想だにしなかったのだろう。大島は自分がした過度な煽りについて、顔を青ざめてさせていた。
高須は溜息を軽くつく。そんな表情をされては怒るに怒れなかった。
「まあ、完全に恋愛感情とは限らないしな。それよりも細雪さん本人には言わないでくれよ」
高須は目で訴えた。さもなくば二度とこの病室には来ない、とは夏彦の前では勢い任せでも口に出せなかった。
すると大島も流石に反省したのか、無言で強く頷いた。
「で、夏彦も姉ちゃんや他の人に絶対言うんじゃないぞ」
高須は夏彦にも念を押す。正直、こちらの方が手強かった。何しろ六歳の実弟なのである。
「おにいちゃんがおねえちゃんをすきなこと? どうして?」
「姉ちゃんが困るからだ」
「なんですきなのに、こまるの?」
やはりそうくるか、と高須は思った。子供である夏彦には当然、大人の事情を理解していない。何でも言える、何でも行えるのは子供の理念であり特権である。そしてその意識は成長と共に漸々と消えていく。
だからこそ、高須は夏彦に皮肉と羨望を込めて、
「俺と姉ちゃんが大人だから、言うと困るんだ。だから約束だ」
と、言って、半ば強引に小指を絡め取ろうと、自分の左手を差し出した。
「ふーん。おとなってへんなの。でも、おねえちゃんとおにいちゃんがこまるんだ」
夏彦は不思議そうに頷きながら、高須と一応の約束を交わした。
だがしかし、高須と大島が病室を後にしてからも、夏彦は先程の言葉に対して顔に疑問符を浮かべていた。
「やっぱへんなの。おねえちゃんも、おにいちゃんのことすきだとおもうけどなあ」

11月10日(金)
――金曜日。
「ちょっと聞いたよ、お兄さん。あんた、あたしの旦那の同僚なんだってね。服装が仕事着じゃないから気付かなかったよ」
高須は仕事帰りに、駅前のケーキ屋に立ち寄っていた。
「ああ、自分は一旦事務所によって着替えてますから。それよりもまさか松本さんの奥さんが貴女だとは思いませんでしたよ……」
「アハハッ。確かにあんな貧相オヤジの伴侶が、人気店の若くて美人な看板娘だなんて、普通なら誰も想像できないわよねえ?」
松本妻は同意を求めるようにしてウインクをする。確かに旦那の観点から言えば若い女性であるが、仮にそれを百歩譲って認めるとして、自称美人は流石に誇張し過ぎだろう、と高須は思った。
「でも、どうしてあんなのに付いていってしまったんだろうね。結局は惚れたもの負けだねえ……」
松本妻は空を見上げて、独り言を呟いていた。どことなく、恋する乙女のような哀愁を漂わせるその姿からは、彼女も一応、女性である事が見て取れた。
「あ、そう言えば。今思い出したけど。この前の話なんだけどね」
突然、松本妻は視線を高須へと戻して、唐突に別の話しを切り出した。
「この前の話?」
「もう、本当に鈍感だねえ。さゆちゃんの事だよ」
「ああ。なるほど」
高須は一瞬ムッとしたが、思い返すと確かに細雪に関する話をしていた。……と、言うより、細雪に関連する話題しか今までに挙がっていない。
「先週、さゆちゃんが泣きそうな顔で走っていた話をしたわよね?」
高須は無言で頷く。
「あれって実は――」
「弟がいなくなったんでしょ」
松本妻が言うより先に高須が答えた。
「……なんだ、知ってたのかい」
松本妻は真相をバラされて、心底不服そうな表情を浮かべていた。
「一応、本人から聞きましたから」
「なるほどねえ。どおりで、さゆちゃんが珍しく男の話題を出してると思ったら、そういう事かい」
松本妻は一人勝手に何かに納得して頷き、そして改めて高須の目を見る。
「ちなみに、なっくんをその時に発見したのはお兄さんだろう?」
「そうですが。細雪さんから聞いたんですか?」
正直、高須は夏彦を保護した経緯を何故、松本妻が知っているのかよりも、細雪が話した内容が気になっていた。
「そうだよ。お兄さんの名前を直接出した訳じゃないけど、話を聞いたらすぐにあんたの事だってピンときたね」
細雪が自分に関する話しをしていた? それだけで高須の心臓の鼓動は早くなる。
「何か言ってましたか?」
高須は平静を装い尋ねたつもりだが、その口調には微かな不安と期待が混じっていた。
「やっぱ気になるのかい?」
「気になりますよ」
松本妻は含みを持たせた笑顔で高須を見ていた。高須は、何故こうも俺の周囲には意地悪な人間が多いんだ、と不満と苛立ちを感じながら松本の目をじっと見詰め返す。
「まあまあ、安心しなさいよ。恩人に対して悪い事を言う訳がないじゃないか。寧ろ、お兄さんと同じだよ」
「俺と同じ?」
高須が自身を指差して訊き返す。
「あんたも、さゆちゃんもお互いが気になってるんだねえ。さゆちゃんも、あたしがお兄さんの事知っているって言ったら、根掘り葉掘り聞かれたよ。あんまりにも意外で嬉しくて、ついべらべらと喋っちゃったよ」
喋れるほどのネタがあったのかは別として、細雪が男性に興味を示したのが余程嬉しかったのか、松本はまるで自分の家族事かのように快く話す。勿論、高須にとってもそれは嬉しくて仕方がなかった。
「だから、あたしからも忠告するけど、行けるうちに行っておきなさい。女の観点からすれば恋愛なんてうちのケーキと一緒みたいなものよ。特に若い娘はね」
「ん? どう言う意味ですか?」
松本妻の伝えたい言葉の真意が、高須には全く読めなかった。
「つまり、そのこころは。『どちらも甘くて旬がある』って事ね」
なるほど、と高須は思った。それと同時に、ふと別の事もを思い出した。
「言いたいことは分かりました。それよりもケーキで思い出しましたけど、前回のラインナップ酷かったですよ……。値段も高くて量も多いし。殆ど余ってしまいましたよ」
実際は余すとこなく高須が完食したが、夏彦の見舞い品としては完全に不適切である。
「なんだい。値段が高くて量が少ないのが、良かったのかい」
「んな、筈ないでしょ」
「人気順で選んだつもりなんだけどねえ。まあでも、欠品していたのが何点かあったけどね。じゃあ、今日は何にするんだい?」
「いつもの五種でお願いします」
高須はキッパリと答えた。松本妻は、はいよ、とトングを片手にする。
「あれ? あそこに居るのは、さゆちゃんじゃないかい?」
「え?」
「あそこだよ、あれ!」
松本妻に背後をいきなり合わされた銀の先端で指し示されたので、高須は思わず振り向き人混みの中に目を凝らす。
するとおよそ五十メートルほど離れた位置に、俯きながら雑踏の中を歩いている細雪を発見した。
細雪はたどたどしい歩調でそのまま向かって来ているが、余りの偶然に高須は声の掛け方に悩んでしまう。よって、細雪がケーキ屋に着いた時には、
「よ、よお。元気?」
声が無意識にも裏返ってしまっていた。
「えっ!?」
突然に声を掛けられた細雪はびくっと身体を震わせ、青白い顔を恐る恐ると上げる。
「あっ、……高須さん」
高須を確認した細雪は一瞬驚いていたが、やがて表情は紅いものへと変化していく。
「その、奇遇だね……」
「はい、奇遇ですね……」
ぎこちない会話。あまりにも不器用な二人のやり取りを傍目から見ていた松本妻は、溜息混じりに言葉を呟いた。
「やれやれ、こりゃあ時間の問題だねえ」

高須と細雪が病室を訪れた時、夏彦はテレビ観賞の真っ最中だった。
三日振りに顔を見る夏彦の様子は普段と違っていた。天真爛漫な態度で高須の来訪を迎え入れる事もなく、ずっとテレビに視線を注いでいる。
「夏彦。ケーキを買ってきたぞ」
「うん」
夏彦が高須に目もくれずに素っ気ない返事をしたので、高須は夏彦が不貞腐れているのかと思い、気まずそうに眉を吊り下げた。
「高須さん、申し訳ありません。夏彦はテレビに集中してしまうと酷いくらい周囲に気が利かなくなります。今日は特に」
「今日(・・)は?」
高須は範囲が限定されている言葉に疑問を感じるが、視線を夏彦と同じ方角に移す事で、その原因となるものを特定できた。
「ああ、今日は金曜日だったか」
夏彦が目を奪われているテレビ。そこで放送されている番組はアンパンマンであった。
「そうなんです。普段なら集中していてもあそこまで淡白な反応はしないのですが。アンパンマンの時だけは……」
高須が改めて見ると、確かに夏彦は画面に食い入るようにしてテレビを見ているだけではなく、時々歯を食い縛り、両拳を握り締めたりしている。それは集中と言うよりは完全なる熱中だった。
「なるほど、そう言う事だったのか」
ともかく、高須は違和感の原因が自分ではない事に安堵して、なるべく視聴の邪魔をしないよう音の配慮に気を使った。
やがて番組のエンドロールが流れ終わり、コマーシャルに画面が切り替わると、夏彦はいつもの笑顔でこう言った。
「おにいちゃん、ケーキどこぉ?」
「はいはい」
その現金な態度に、高須は仕方ないやつだなと思いつつも、ケーキを取り出そうと箱に手を掛けた。
ところが、その時の事である。
「夏彦、いい加減にしなさい! お客様が来ているのにテレビを見て、その挙句にケーキはどこじゃないでしょ! それよりもまず先に言わなくてはいけない言葉があるでしょ!!」
細雪が普段と異なる強い口調で夏彦を叱り始めたが為に、高須はそのあまりの珍しい光景に思わず目をくり剥いてしまった。
「ご、ごめんなさい……。おにいちゃん……ごめんなさい」
夏彦が怯えながら何度も高須に向かって謝罪をする。だが間違いなく号泣すると見ていただけに、これも高須にとっては意外な展開であった。
「あ、ああ。気にしてない」
「……ほんと?」
「本当だ」
高須は夏彦の頭頂に軽く手を乗せる。それは単に失態を庇う為のものだけではなく、遠慮しない関係までに成長しているのは、良い傾向だと思っていたからだ。それに多少の気まずさこそはあったが、二人の新しい一面を垣間見れたので、高須の心は少しだけ得をした気分になっていた。
「それじゃあ改めて、高須さんに御挨拶しなさい」
細雪が普段の口調に戻して言うと、夏彦は目一杯に頷いて、大きく口を開いた。
「あのね、おにいちゃん。――おねえちゃんを、およめさんにもらってください!」
その瞬間、夏彦を除く、病室内の時間が停止した。
「あ、あ……」
暫らく経った後、最初に声を発したのは細雪であった。
「な、な、なつひこーーッ!?」
細雪の顔が一気に噴火する。動揺して何かを口走っているが、ところどころに不正な発音が混じっている所為で、言語として機能していない。
「えっ、えっ? ぼく、なにもわるいことしていないよ。してないもん」
夏彦は再び脅えながらも弁解するが、自分が怒られている理由が微塵も察知できていない様子だった。
「おにいちゃんにあいさつしただけだもん。おしえてもらったとおりに、あいさつしただけだもん!!」
「教えてもらった? ……夏彦、誰がそれを教えたんだ」
高須は頭を抱えながら尋ねた。けれども、誰が無垢な夏彦に下らない冗談を吹き込んだかのは、訊かずとも何となく予想がついていた。
「ゆいおねえちゃん」
「……ゆいちゃん」
消え入りそうな声で呟く細雪。顔は両手で覆われており、高須からは表情が分からなかったが、端の位置にある両耳たぶは真っ赤に染まっていた。
辺り一面に重い空気が充満する。
「そう言えば、夏彦はアンパンマンが凄い好きなんだな」
気まずい雰囲気を解消しようと、高須が夏彦へと話題を振った。
「えっ、うん。でもアンパンマンより、しょくぱんマンのほうがすき。かっこいいもん」
「そうか。兄ちゃんはカレーパンマンが一番カッコいいと思うぞ。あと、おむすびまん」
「ええ~。カレーパンマンかっこわるいよ」
子供の頃の記憶を辿っての他愛も無い会話。それだけで場の空気は入れ替わる。
「おむすびまんはかっこいいけど、“ゆうきのはな”からジャムおじさんがつくってないからだめだよ」
「ゆうきのはな?」
けれどもやはり、現役視聴者の豊富な知識には敵わない。必ず綻びは生まれてしまい、そこで流れは停滞してしまう。
「……アンパンマンの勇気の源です」
顔を覆い隠したままの細雪がポツリと呟くように言った。
高須は、「やけに詳しいな?」と思いながら二人の話を統合する。するとアンパンマンの世界では、パンのヒーローは勇気の花から誕生すると言う設定へと辿り着く。
「じゃあ、ジャムおじさんは、ヒーローを作るすごい人なんだな」
「うん。ジャムおじさんはすごいけど、にんげんじゃないんだよ。おにいちゃんしらないの~?」
「そうだったのか」
「あとね、あとね。アンパンマンはへんなんだよ。あんなに、いつもみんなをたすけているのに、“あい”と“ゆうき”だけしかともだちがいないんだよ?」
夏彦は寂しそうな表情を浮かべる。この話の意味は高須でも知っていた。
「愛と~勇気だけ~が、と~もだちさ~♪ っていう歌か?」
「うん」
アンパンマンの主題曲の一フレーズである。高須も昔はこの歌に一度疑問を持った事があるが、大人になった今では、その歌詞に込められた意味が何となく分かる気がした。
「夏彦。この世の中ではな、愛か勇気があれば、家族や友達がたくさん作れるんだぞ」
「そうなの!?」
「まあ、そういう事だな」
高須はほんの少しだけ控え気味に頷いた。本当は“愛”か“金”だと言いたかったが、それでは不純すぎる。それに“勇気”も人間関係を円滑に築きあげる為の補助的な要素ではある。
「じゃあ、ぼくはゆうきがほしい!」
夏彦が目を輝かせながら言った。
「おいおい。愛はいいのかよ」
「うん。あいは、はずかしいし……」
夏彦が細雪をちらりと見る。そして笑顔ではにかみながら、その続きを口にする。
「それに、ぼくがひとりじめしたらいけないもん。だからゆうきだけもらって、あいはおねえちゃんと、おにいちゃんにあげるんだ!」
「夏彦……」
細雪は依然として顔を覆ったままだったが、その声には微かな感涙が混じっていた。
「そうか。じゃあ病気が治ったら、友達100人作れるようにしないとな」
高須は微笑みながら鼓舞を送った。すると夏彦は一旦ベットに向かって俯くと、
「うん。でも、ぼくのしんぞうのびょうき、しゅじゅつしないとなおらないんだって」
と、重大な事実を、淡々とした口調で暴露した。

高須と細雪は河川敷にいた。
あの後、病室で普段通りケーキを食べながら談話をして過ごして、二人は病室を離れたのだが、ここに行き着くまでの間に一切の会話は無かった。
「なあ、夏彦が言ってた事、本当なのか?」
突如、高須が重々しく尋ねると、細雪は目をゆっくりと閉じて痛々しそうに頷いた。
「……はい。本当です」
「そうか。病弱とは聞いていたが、そこまで重い病気だったのか」
「けれども、手術をすれば治せる見込みはあるそうです」
恐らく細雪は余計な心配を掛けない為にそう言ったのだろうが、『見込み』という言葉の意味に気付いた高須の心は余計に滅入ってしまう。
「それじゃあ、手術の予定とかあるのか? その、手術するには色々準備が必要だって聞くけど?」
心臓の手術で多大な費用が掛かるのは間違いない。
「はい。一応ですが……」
細雪の躊躇いがちな口調から、高須は冬場家の芳しくない財政状況を一瞬で察知した。
「日程はいつ?」
「あくまで予定ですが、来月末頃です」
「クリスマスの後か」
高須は夜空を見上げる。広大なスクリーンにかろうじて映る夏の大三角形。これが姿を消す頃に高須は二度の給料日を迎えている筈なのだが、仮に援助の申し出をしたとしても、細雪が受け入れる可能性はほぼ皆無であろう。
三人の関係は三ツ星と違い、一括りにできるものではない。勿論、知人の二人とて彦星と織姫星ではない。繋がっているのは、ベガとデネブだけである。
高須は何かを決めあぐねるかのように目を瞑り、やがてある決心と共に白い息を吐く。
「なあ、細雪さん。前に言った事、覚えてる?」
「え?」
突然の話の振りように、細雪はきょとんとした表情で高須の横顔を見ていた。
「あれだよ。五日前にここで印象を話した時だよ。あの時、細雪さんが俺と似ているって言った、本当の理由が分かった気がするんだ」
「えっ!?」
驚く細雪を余所に、高須は空を見たまま言葉を続ける。
「俺さ、親がいないって前に言ったけど。実は、親父の方は一応、生きてはいるんだ」
「そう、ですか……。では、お父様は御実家に?」
父親の話題が原因か、もしくは反応に困っているだけなのか、細雪の声量は僅かに下がっていた。
「ああ。意外に思うかもしれないが、俺の親父は地元で県会議員をしているよ」
「議員ですか。御立派ですね」
「……立派、ね」
細雪は特に驚きもせず、父親の高尚な肩書きに褒意の言葉を述べるが、高須の態度は反して誇らしげなものではなかった。
「残念ながら、政治家だからって立派とは限らないさ。偉いのは態度だけだ」
鼻で笑った高須は目を瞑ると、自分の過去を逐一思い出すかのように語り始める。
「『県民のため、県民が第一』なんて口では言ってるけど、本心はそう思ってない。俺の親父は周りの目を気にすると同時に、見下して優越感に浸っている節があったよ。だから、息子の俺にも幼少の頃から厳格な教育方針を押し付けていた。成績は常に学年で五位以内。放課後は塾と習い事。親父と面識のない同級生との交流厳禁。寄り道、買い食い、マンガ本の購入禁止……。更に、休日は近所のボランティア活動だ。これを一つでも破るものなら、容赦なく罵声を浴びせられたよ」
逐一と言葉を紡ぎながら、辛い記憶を思い起こす高須が目を見開いて隣を一瞥すると、細雪は俯き押し黙っていた。
「ある日。重病のクラスメイトの手術があるから、クラスの何人かで見舞いに行こうって事になって、学級委員の俺はその日だけ塾を休んでしまった事があった。当然、親父に怒られるんじゃないかと、内心びくびくしてたけど、意外にもそれまで親父に従順だった母さんが、一度だけ俺を擁護したんだ」
『――間違った事はしていないじゃないですか』
「結局、親父に罵倒されてたけど。俺はその時の、母さんの哀しそうな目を今でも覚えてる」
高須は血が滲みそうなくらい、下唇を強く噛み締めた。
「今思うと、あれは癌で死期を悟った母さんの最期の優しさだったのかもしれない。そしてそこから思い始めたんだ。親父は俺を人間扱いしていないんじゃないか、って」
「お母様が……」
細雪が小さく声を洩らす。その後の展開がどうなったかなど、訊くよしもなかった。
「中学に入ってからは柔道部に入った。自分を鍛える目的と同時に、親父の方針に対する些細な反発だった。そこには成熟してたやつもいれば、喧嘩っ早いやつもいたよ。だから部活内だけでも様々な付き合いがあったし、そこだけ自由だと言えた。親父は内心不満そうだったが、正当な部活動だし、何より成績は落としてないから何も言えなかっただろうけどな。大学に入るまでが俺の青春時代だったよ」
「……高須さんは大学に通われていたのですか?」
「一応な。今の俺からは想像できないだろ?」
「そ、そんな事は……」
慌てて否定しようとするが、細雪の反応を高須は見越していた。
「いや、いいんだ。周りからは結構色々と言われるよ。『何で?』とか『やっぱ不景気なんだね』とかな……。しかも、立英だったから尚更だ」
「えっ、立英大学、ですか?」
高須が頷くと、細雪は目をぱちくりとさせたまま表情作りに困っていた。
「本来なら、俺が目指せる場所ではなかったさ。俺は文学部だったけど、理系の名門なんて目標にするつもりはなかったし、受かる筈もなかった」
「もしかして、それもお父様の希望ですか?」
「ああ。親父に『一体今まで、お前に幾ら投資してきたと思ってるんだ』と言われて、俺は渋々と受験会場に向かったんだ。まさか合格する筈がないだろう、と思ってたら。案の定、試験内容は俺如きでは対処不能な難易度だった。一応、真剣に取り組んだけど、正解率は三割に届くか届かないかって感じだったな。ああ、これで親父も諦めるだろうって内心喜んだけど、何故か受かってしまった。もう、その時は嫌な予感しかしなかったよ」
「嫌な予感?」
「結果が発表される以前から、親父の態度には俺の合格を確信しているようなそぶりがあった。恐らく、親父と大学関係者は繋がっていた。不思議とその後の単位もすんなりと取得できたしな」
「……それって?」
「ああ、全て金と人脈の力だ。そして卒業後は、はたまた親父の紹介で大手銀行に就職だ。努力するのが馬鹿らしくなってくるだろ? でも、自信と実力が伴ってなければしっぺ返しは必ず来る。傲慢な程のエリート意識と出世欲が無い人間は、あの世界では生きていけない。俺にはどうしても肌に合わなかったし。何よりも、親父の操り人形になっているって事に嫌気が差していた。だから一年で辞めて、親父から勘当を言い渡されたんだ」
「そうですか……」
一流嗜好の人間にとって、二流品以下は問答無用でジャンク品同然である。故に、不望の結果をもたらした高須は廃棄処分宣言され、家の敷居を跨げなくなった。
「まあ、本当の痛手は勘当された事よりも、辞職した時点で、社会の落伍者の烙印を押された事なんだけどな。そうなると、何処の企業も俺の素性と根性を疑うよ。『エリートさんがどうしてウチに来るの? ウチのキツイ仕事が勤まるんですか?』って、まるで甘い汁を吸っていたかのようにな」
栄華な人生からの急転下。上流社会にも溶け込めない不良品が、平均的な生活水準を維持できる筈もなかった。隣市に安アパートを借り、アルバイトで生計を立てながら、消費者金融から金を借りては返済する自転車操業。高須の負債は日々ごとに蓄積していた。
「そんな俺は、家を出てからは親しい知り合いもなく、精神的に辛い事があっても誰かに頼れない孤独な日々を過ごしていた。そんな状態で偶然にも、細雪さんと出会った。だからこそ、俺は細雪さんが気になった」
「高須さん……」
「たまに細雪さんから哀愁が漂っているのも、同じ原因じゃないかと思う。特に、夏彦の手術が近いからか、凄く脆そうに見える。でも俺と同じで、誰にも泣き言を言えないし、言おうとしない」
細雪の心の支えは夏彦だけであり、支柱は恐ろしいほど不安定だ。万が一、崩れるものなら細雪は奈落の底へと真っ逆さまであり、もしかしたら支えよりも先に精神が崩壊してしまう可能性も否めない。
それにこれは高須だけではなく、きっと大島や松本妻も以前から危惧している。だからこそ高須との関係に期待するしかなかったのだろう。
「なあ」
高須は今までになく強く真剣な眼差しを細雪へと向けると、深く息を吸った。
「こんな事、俺が言う権利はないかもしれないけど。俺じゃ、細雪さんの心の支えにはなれないか?」
「えっ?」
下手な告白ともとれる発言に細雪は一瞬驚いて高須を呆然と見るが、すぐにその視線は申し訳なさそうに下へと向けられてしまう。
「ありがとうございます。高須さんの気持ちは大変嬉しいです。でも、私は……」
「前に言ってた、俺の好意を利用したくないって理由か? 別に、利用されてるとは一つも思ってないけど」
高須が続けざまに放つ言葉に対して、顔を伏せたままの細雪は哀しそうに首を横に振る。
「私が思ってしまいます。高須さんは、私の過去については御存知ですか?」
「え?」
細雪の質問の切り出し方はまさしく、高須が事実を知っているのを確信しているかのものであった。
「その様子では、お耳に挟んでいるみたいですね。私が父親から虐待を受けていた事を」
「…………」
高須は無反応だった。だがそれ自体が、紛れもない肯定を示していた。
細雪は今までにないくらい薄く痛々しい笑顔で、自分の過去の詳細をゆっくりと語り始める。
「実は、私の父は十二年前まで、上場企業の重役を務めていました」
「そうか。何となく、細雪さんの態度から、そんな気がしてたよ」
「会社の重役と言っても、家庭を重要視してくれている人間で、私の誕生日や小学校の運動会の日には必ず参加してくれました。とても優しくて、私にとっては誰よりも大きな存在でした」
「良い父親だったんだな」
細雪の感情がこもっている語りから、それが虚偽ではないと分かる。しかしそれは、あくまで十二年前まで(・・)の話である。
「はい。でも、それが原因なのでしょうか。父を快く思っていない方々の謀略によって、ある日、横領疑惑を会社から問い詰められ、一派共々失脚させられてしまったようです」
「一般企業にも、派閥問題での失脚ってやっぱりあるんだな」
高須がかつて生きてきた世界もそうであった。私事を一切捨て、如何に相手を踏み台にして自分を高く上げるか。それが不可能なら、逆に寝首を掻かれるのは致し方なかった。
「はい。直接手を下したのは、対抗派によって懐柔された父の部下だったそうです」
「部下か」
高須は複雑な気分に陥った。部下に裏切られたのであれば、細雪の父親が余程甘過ぎたか厳し過ぎたか、どちらかであった可能性が高い。どのみち幹部としては致命的な欠点であり、巧い擁護の言い回しがまるで思いつかなかった。
「それが理由で職を失った父は、まるで別人のように変わりました。それまで仕事付き合いでしかしなかった賭博と飲酒を嗜むようになると、負けて酔っては母に暴力を振るうようにもなりました」
「その時点で母親は、離婚とかは考えてなかったのか?」
「悩んでいなかったと言えば嘘になります。しかし本当の父を知っている所為か、やはり辛抱してしまうのでしょうね。何をされても、笑顔で許してしまっていました」
「俺の母さんと同じだな」
どうして女性は愛に対して単純な程に一途で、そして忍耐強いのだろうか。高須はそれを疑問に思うと同時に、とても憫れに感じていた。
「それに、当時は私への直接被害がなかったからかもしれません。母は夏彦を産んでから、すぐに亡くなりましたが、それまでは全て母が父の犠牲になっていましたので」
「それからは細雪さんが暴力の対象になったのか?」
「はい……。アパート暮らしに変わってから暫くすると、貯金が尽きて娯楽費もままならない状態に陥り……。すると父の暴力はエスカレートしていき、公衆の面前でも殴られる事も珍しくありませんでした」
「ろくでもない人間だな」
高須の口から思わず本音が飛び出た。細雪に対して悪いとは思いつつも、同性として女子供に暴力を振るう行為はやはり許し難いものがある。
だがそれでも細雪はやはり肉親を庇い、首を横へと振った。
「でも、結局は私も母と同じなんです。暴力を振るわれても、何故かその都度、昔の優しかった父の姿が思い浮かんでしまう……。本当に駄目なのは、過去に依存している私自身なんです。暴力を振るわれても父に嫌われたくなかった。無視されるよりはましだと思っていた……。本当に馬鹿ですよね、私」
「細雪さん……」
高須はついに悟った、自分と彼女の唯一の違いを。それは身近な人間に対する想いの深さ。良く言えば信愛。悪く言えば未練。
自ら逃げ出した高須と、自ら囚われたままの細雪。どちらがより未練がましいのかは明確である。その所為で細雪は新たに絆を生み出す事を敬遠し、拒絶と救済の狭間に迷い込む結果となっていた。
「……なので、私が高須さんの気持ちに答える事は出来ません。似た境遇を持つ高須さんに依存してしまうのが怖いから……。そんな私の身勝手な理由で、高須さんに御迷惑は掛けられません」
「別に迷惑だとは……」
「いいえ。それに夏彦の事もありますし」
首を左右に振った細雪が諦めがちな笑顔を浮かべるが、高須には話の意図が見出せなかった。一体、何故そこで夏彦の名前が出てくるのだろうか。
「対人恐怖症の姉ですら迷惑なのに。その上、重病人の弟と付き合わなくてはならないなんて、高須さんの人生にとっては重荷になるだけですから、きっと」
「なっ!」
脈絡をはっきりと理解した瞬間、高須の中で理性の緒が遠慮なく弾け切れる。
「違うっ!!」
高須が凄い剣幕で声を荒げた。途端、細雪の身体がびくっと怖張る。
「ごめん。細雪さんが何を言いたいのかは分かるよ。俺に負担を掛けたくないって思ってくれてるのは有り難い。でも、だからと言って夏彦の病気までもを棚に上げないでくれ。それは夏彦に対して失礼だし、とても卑怯な発言だ」
何を言っても想いが伝わらないとの苛つきもあったが。それ以上に、夏彦を盾にして拒絶する細雪に怒りを隠せなかった。
「で、でも……」
細雪は狼狽する。これが本心では望んでいない弟の病状を引き合いに出してまで、高須を突き放そうとした結果であった。
「責任を少しでも夏彦に押し付けて、自分は一生このままでいるつもりか? そうすれば、俺があっさり納得すると思っているのか? 俺って夏彦を邪魔者扱いしているように思われていたのか?」
「ち、ちがっ……」
細雪は慌てて否定しようとするが、高須にそれをさせるつもりはない。
もしも本当に夏彦だけが原因ならば、憐れみはあれども許す事はできただろう。しかし細雪は優し過ぎた。自分の本当の感情を押し曲げてまで、身近な人間を優先してしまう。それこそ彼女の母親のように。
だからこそ高須は余計に冷徹にならなければいけない。細雪のベクトルとは異なり、自分の感情に従順でなくてはならないのだ。そうでなくてはこの先もずっと平行線のままだから。
「悪いけどさ。今の俺にとっては、細雪さんの過去に何があったのか。現在、何を背負い込んでるのかなんて、正直どうでもいい事だ」
「そんな……どうでもいいって……」
「ああ。俺は細雪さんが言ってくれた程、優しくて誠実な人間じゃない。寧ろ、とても自分勝手な人間だ。だから俺は自分が悩みたくないから、今、怒っているんだ。大切な存在である二人を失いたくないからな」
「……え?」
細雪の肩がぴくりと反応する。高須が言う“失いたくない二人”とは、自分の他にもう一人。誰が含まれているのかは口に出さずとも分かっているのだろう。
「細雪さんが俺に迷惑を掛けようが、俺を利己的に扱おうが、依存しようが構わない。それでも俺にとっては細雪さんが必要なんだ」
「どうしてですか……? 私達(・・)には高須さんに迷惑を掛ける事しか出来ませんし……。高須さんの想いに答えられる筈がないのに……」
細雪は震える声で尋ねる。どうして自分を求めるのかと、真剣に訴える。
「それは違う。俺が失いたくないって思ってる時点で、二人から与えられているものが既にあるんだよ。夏彦だって、今日もはっきりと言ってただろ?」
「え?」
細雪は涙を蓄えた瞳で高須を呆然と見詰める。それが一体、何であるかを完全に失念してしまっていた。
「だからさ……その、夏彦の言葉を借りる訳じゃないけど」
何だかんだ言って、結局、自分も夏彦の名を挙げて卑怯だなと、高須は思った。
けれども、想いを拒絶する細雪に伝えたかった。
弟の言葉を理解していない細雪に教えたかった。
自分の本心を隠してる細雪に認めさせたかった。
高須も夏彦も、そして細雪も。皆が皆、それぞれの救いを求めて、お互いを本当に必要としている事を……。
「――俺も、細雪さんと夏彦に、愛と勇気をあげたいんだ」
だから高須はこの言葉をはっきりと口にした。
「……あ……っ」
ふいに細雪の瞳から一粒の涙が滴り落ちる。
「……やっ……やだ……どうして……」
高須の真摯な想いが、夏彦の純粋な気持ちが、細雪の強情な外殻を突き破っていた。
「……うっ……うわぁぁぁぁん……」
そして一度弱みを見せて、内側から漏れてしまった感情はとめどなく溢れ出す。そんな子供のように無邪気に泣きじゃくる細雪を、高須は自分の懐へと優しく引き寄せ、あやすように頭を撫でた。
「迷惑を掛けられても、それでも俺は細雪さんを支えたいんだ」
細雪は高須の胸の中で泣いた。それはまるで全てを清算するかに、延々と重々しく。
この瞬間、細雪は過去のしがらみから、ようやく解放されたのである。

11月24日(金)
あれから二週間が経過した。
「え~っ。ケーキ持ってきてないのぉ!?」
「おにいちゃん、ひどいよぉ……」
高須の目の前ではパジャマ姿の病人と、その担当看護師が駄々をこねて騒いでいる。
「今月、給料日が銀行休み入るから、きついんだよ。酷い会社だからな」
「酷いと言われても、別にわたしの生活が困るわけじゃないし」
「おにいちゃんがきたから、ケーキたのしみにしてたのに。ケーキたべたい~!」
あの出来事以来、全員の関係には何かしらの変化があった。大島はより神経が太くなり、夏彦は遠慮なく我侭を言うようになった。
「お前ら、いい加減にしろ……特に、そこの看護婦もどき」
高須は多少冷徹に接する事に決めていた。まともに付き合えば、体力と精神が三日と保たない。
「ちょっと。夏彦もゆいちゃんもいい加減にしなさい!!」
だが、この中で一番著しい変化を見せているのは細雪であった。
「高須さんはお金がないの。お金がない人がケーキを買ったら。お金が無くなって生活できないでしょ」
「細雪……。あまり、金がないって、はっきりと連呼しないでくれるか……」
「ご、ごめんなさい」
細雪は以前と比べて少しだけ、くだけた口調で物事を話すようになった。
「おお~。最近のさゆちゃんは本当に天下の大蔵女房だねぇ~」
「ねぇ~っ」
大島と夏彦は互いに顔を見合わせ同調する。夏彦の方は間違いなく言葉の意味を理解していないのだろうが、二人の結束力が日に日に上がっていくにつれ、高須も次第に危機感を覚えていった。今では、大島の存在が夏彦の人格形成に悪影響を与えるのでは、とまで危惧している。
「にょ、女房!? わっ、わたし、飲み物を買ってきますっ!?」
からかわれた細雪は刹那に頭頂から熱蒸気を発すると、ばたばたと逃げ出すように売店へと駆け向かって行った。
「あ~あ。相変わらずウブなんだから」
「お前が言うな」
高須は睨むように大島を見るが、大島は横を向いて惚(ほう)けた振りをしていた。
これはとんでもない悪友を持ったものだ、と、高須は細雪が出て行った扉に向かって深く同情する。
「ところで」
「な、なんだよ」
大島にいきなり声を掛けられた高須は思わず辟易(へきえき)する。彼女の声色がつい先程までとは打って変わって、低くなっていたからだ。
「二人の関係って何なの?」
大島は単刀直入に尋ねてきた。高須はその質問が遅からず向けられるとの覚悟をしてはいたが、やはり一瞬でも言葉に詰まってしまう。けれども決して、周囲に対して細雪との関係を秘密にしている訳ではない。
あれ以来、細雪との距離は急激に縮まったが、それが恋人同士の段階にまで発展したかと言うと、胸を張って頷ける自信は無かった。何しろハッキリと言葉を口にした訳ではないのだ。『彼女になってくれ』と。
「何って、ただの……友達だよ」
「……そう」
大島はそれ以上何かを訊く事はなかったが、表情にはあからさまな不満が表れていた。
「ねえねえ、おにいちゃん。きいて、きいて~」
夏彦が突然、高須の袖を掴んで何度も引っ張った。
「ん? どうした?」
視線を横に向けると、夏彦は何かを言いたそうにしていた。
「あのね、ぼく。しゅじゅつのひがきまったんだよ!」
「本当か!? いつだ!?」
高須の口から驚愕と歓喜が同時に洩れる。
「うん。じゅうにがつにじゅうななにち」
「そうか。クリスマスの後だな」
細雪から大まかな日程を耳にしていたが、正確な日時が決定すると心底安心するものだ。高須はまるで自分の事のように嬉しくなり、夏彦の頭に軽く右手を乗せた。
「うん。だからサンタさんが、ぼくのしゅじゅつがうまくいく“ゆうき”をくれるんだって。おねえちゃんがいってた」
「ああ、そうだな。サンタがきっと成功をプレゼントしてくれるさ」
高須がそのまま右手で、はしゃぎ弾む夏彦の頭を優しく撫でる。すると夏彦はこそばゆそうに目を閉じながらも、サンタに向かって一ヵ月以上も早い謝礼の言葉を述べていた。
その姿を目にした高須は心から願う。もしもサンタが本当に存在するのならば、この優しい子に幸せな未来を与えてくれ、と。只、それだけをひたすらに天井へと向かって願った。
やがて頭の冷却装置が働いた細雪が売店から戻ると、四人で他愛も無い会話をしながらそのまま面会時間を過ごした。
病院からの帰途、高須と細雪の間には沈黙の空気が流れていた。例の河川敷に着くまで互いに沈黙を保っているのが、いつの間にか二人の黙約となっていた。
 だがしかし、その暗黙を初めて破るのは高須からであった。
「なあ、細雪」
前を歩いている細雪に声を掛けると、彼女は驚く事もせず、「はい」と一言だけ返した。
「夏彦の手術だが、本人はその、知っているのか?」
「……知っていると言うのは、成功率に関してですか?」
「ああ」
細雪は口に出すのを躊躇っているが、それだけで高須にとっては十分なる返答も同然だった。そもそもサンタのプレゼントと言う、不確かな願掛け要素を挙げてる時点で、現実的ではないと何となく予想ができていた。
「いや、やっぱりいい。悪かった」
「……およそ60%です」
細雪がどこか感情を押し殺した声で、ぽつりと呟くように答えた。
「60%、か」
高須の位置からでは細雪の表情が判別できない。だが、小柄な後ろ姿はまるで恐怖に打ち震えるかの如く小刻みに動いていた。
「……成功率が過去の前例から見ると、60%だそうです。わ、私……どうすればいいのか。夏彦に本当の事を話せばいいのか。でも、生きる希望を失ってほしくないんです。でも……、それでも……!?」
急激に半狂乱気味にしゃくりあげる細雪を、高須は後ろから優しく抱きしめる。
「いや、細雪は間違っていないさ。間違っていないと俺は思う」
けれども正しいとも、絶対に口には出さなかった。だから結局は、高須も信仰に頼るしか他ならないのである。
高須は細雪を家まで送り届けると、そのまま寄り道もせず安楽荘に帰宅して、手っ取り早く食事とシャワーを済ませた。その後は適当に時間を潰し、気が付くと時刻は午後十時を過ぎていた。
高須はベッドへと横になるが、気持ちが昂ぶってなかなか寝付けない。やはり夏彦の手術成功率の数字が心に引っ掛かる。
――成功率60%。
その数字はどれ程のものだろうと、高須は色々な尺度や事象に換算するが、どれも実感が掴めなかった。
十人寝たら、四人は目を覚ます事がないものだろうか?
十回寝たら、四回は目を覚ます事がないとは違うのだろうか?
そう考えると高須は余計に眠れなくなった。
つまり夏彦の状況を今の高須に置き換えると、今このベッドで寝ると四割の確率で永遠に目覚めない、と言う事だ。
寝ている内に死ぬとは、どのような感覚だろうか。苦しくないのか、怖くないのか、何も感じないのだろうか。
只、言えることは、夏彦は自分が次に目を覚ますと信じて、そのまま二度と戻って来ない可能性がある。それだけだった。
けれどもそのような事を長々と考えている内に、脳はやはり本能に従順なのか。高須の意識はいつの間にか暗闇へと落ちていった。

11月25日(土)
その日の朝、高須は無事に目を覚ます事ができた。
本日は土曜日でも、半日業務のシフト表に高須の名は入っている。これを意識していたおかげか、早朝であろうと高須はなんとか起床できた。
休日出勤は殆どの人間を憂鬱な気分にさせる。それでも金銭の新たな使い道が見えてきた高須は自分自身に何度も言い聞かせるように呟くと、じわじわと襲い掛かる眠気を抑えながら準備を整えて、家を後にする。
「高須の兄ちゃん、今日も早いなぁ」
「おはようございます」
現場に辿り着き、相変わらず締まりのない笑顔を浮かべている同僚と挨拶を交わす。
「兄ちゃん。ここ最近、三十分ほど早く来てんなぁ。さてはあれかぁ? 早起きして、朝からズコズコやってたんだろぉ」
朝から松本が恥もなく細い腰を上下に動かして行為を主張するが、高須の顔色に変化はなかった。今日はやけに直球的だな、と思いつつも、何故か不思議と以前のような不快感が生まれなかったからである。
「それでも、俺より先に松本さんがここにいますけどね。あと、会う度に言ってると思いますが、俺にそんな相手はいませんよ」
「んだぁ? 若いのに。俺なんか、カミさんと毎晩ヤってんぞぉ?」
松本がドヤ顔で再び腰の運動を繰り返す。流石にこれには高須も不快感を軽く通り越して、急激な嘔吐感が込み上がってきた。
「で、正直どうなんだぁ? デキそうなのかよ」
「デキそう?」
松本はじれったさそうに、うずくまるように身体を前のめりにしている高須の肩を抱くと、彼の目先で左小指を垂直に立てる。
「コレだよ、コレ! 俺のカミさんから聞いたぞぉ。兄ちゃんのホの字の女って、カミさんの客らしいじゃねえか」
「げっ!?」
 高須の嘔吐感が一瞬で吹き飛び、替わりに背筋がピンと張るくらい、ぞわっとした悪寒に襲われた。プライベートに極力触れられたくない人物の一人に目を付けられてしまったのである。それもその妻も同様の立場である為に、今後は情報の共有化をされて、適当にあしらえなくなる危険性があった。
「んだぁ? 世界が終わるような顔しやがって。んじゃ、俺がその女とデキるコツを、この前みたく伝授してやるよ」
「そ、そんなものいりませんよ」
「んじゃあ、よくきいとけよぉ~」
松本は相手の遠慮も気にせず、勝手に持論を講じ始める。けれども高須は内心では気になってしょうがないのか、唾を呑みながらその話にしっかりと聞き耳を立てていた。
「その一、押して、引いて、突っ込む!」
「その心は?」
聞くところは安直だが、松本論である限りきっと何か深い造詣があるに違いない、と高須は心の底では信じて疑わなかった。
「ガンガン攻めて、突然じらして、後はホテルに引き込む」
「そのまんまですね」
その後、五項目ほど耳にしたが、どれも高須にとっては参考にならなかった。
業務終了後、高須は駅前商店街の大通りにいた。見舞いの際には、ケーキを持参する義務も礼節もないが、昨日のように駄々を捏ねられるのは面倒である。
高須は財布を開いて持金を確認する。そこには千円札が二枚だけあった。
「……ふぅ」
正直、ケーキショップに足を運ぶのは気乗りでない。金銭的な問題も当然関係しているが、それ以上に松本から受けた情事の毒が頭の中に残留していた。
高須は更に深い溜息をつくと、意を決して週末の商店街の中に歩を進める。
だがその時、ズボンが突然の振動を起こし始めた。
「ん? 誰だ?」
マナーモードにしている携帯電話の着信通知。ポケットから携帯を取り出した高須は液晶画面に表示される『冬場細雪』の文字を右から左へと幾度も視線でなぞると、少し緊張した面持ちで電話に出る。細雪とは病室で落ち合う予定だが、事前に彼女の温かい声を聴けるだけでも嬉しかった。
「た……、高須さん……っ。助け……て」
けれども真っ先に高須の耳へと入ったのは、嗚咽を交わせながら弱々しく助けを求める細雪の声であった。
「お、おい細雪、どうした! いったい何があった!?」
尋常ではない細雪の様子に高須は思わず声を張り上げた。周囲の視線が一斉に何事かと、起点へと集中する。
しまった、と感じた高須は慌てて声が漏れないように、空いている左手で口と送話口を覆い隠すと、今度は小声で優しく問い掛ける。
「……それで、どうかしたのか?」
「……こが……っ…から……す…っ」
細雪の声は依然として言葉になっていなかった。
「細雪、落ち着いて話してくれ。どうしたんだ?」
「……ひこが……に…から……いな…です」
「もう少し落ち着こう、な」
「なつひこが……に、へやから……いない…です」
――夏彦、いない。その二つの文節だけで、事態を把握するには十分であった。
「まさか、夏彦がいなくなったのか!?」
「はい……。夏彦が急に部屋から……いなくなってしまいました」
高須の呼吸が数秒ほど停止する。夏彦が約束を反故にして、勝手に病室を抜け出す筈はない。
「わかった。今、病院に行くから、待っててくれ」
高須は電話を切ると、全力疾走で病院へと向かった。
病室に辿り着いた高須は即座に細雪と大島へ詰め寄り、状況を確認する。
「ごめんなさい……。わたしが非常階段の鍵を開けたままにしていたから……」
 大島は自身の管理不足に対して俯いて、ひどく落ち込んでいた。
「けれど、それがいなくなった原因じゃないだろ。それは脱走の二次的要因であって、結局、鍵を閉めていても脱走は企てていたかもしれないからな。それよりも病院の内部に隠れている可能性とかは無いのか?」
「……それは。黒いトレーナーとサンダルを履いた男の子が、病院から走って出て行くのを、目撃した人がいるの」
「夏彦……っ」
細雪は消え入りそうな悲愴の声で、夏彦の名を呟いた。その小さく震えた姿は以前よりも儚く、まるで今にも溶けて昇華してしまいそうだった。
「分かった。俺と細雪で外を回って探してくる」
高須は細雪の手を強引にとった。このまま細雪を連れて行かなければ、二度と会えない予感がしていた。
「……あっ」
「行くぞ」
高須はとった手を更に強く握って、細雪の身体を前方へと無理やり引き出した。絶対にこの手を離すつもりはなかった。
細雪を連れて外へと飛び出した高須は、必死に市中を駆け回る。病院周辺から、駅前商店街、ゲームセンター、細雪の自宅、果てはショッピングモールまで廻って夏彦の目撃情報を人々に尋ねるが、成果は得られなかった。
気が付くと、辺りはすでに日が暮れ始めていた。
「くそっ! 一体何処にいるんだ。夏彦」
高須は相当に苛ついていた。正直、六歳児の行動範囲などは限られていると思っていた。それだけにここまで手懸りが掴めないのは予想外であったのだ。
「細雪、何か夏彦が興味を示しそうな場所に、心当たりはないか!?」
高須は、隣で生気を失い虚ろな目をしている細雪の肩を強く揺さぶる。細雪の前では絶対に諦めの素振りは見せられないし、何より本人に決して諦めてほしくなかった。
「でも、やはりケーキショップにも、ゲームセンターにも……いませんでしたし……」
本日の細雪の瞳には、相も変わらず高須が映っていなかった。
「やっぱ、それだけか……くそっ、このままじゃ」
日が完全に落ちれば、後は動くかどうか分からない警察に全てを一任するしかない。
「……んっ?」
その時、ふと高須の頭の中で、何かしらの疑問が引っ掛かる。
「なあ、細雪。今、居そうな場所は、『やはりケーキ屋かゲーセンくらい』だって、今言ったけど。夏彦はあまり他の店とかは行かないのか?」
「はい。元々病弱で、外出する機会が殆どありませんでしたから……」
「外出の機会が無い?」
高須は眉間に皺を寄せる。細雪の話が本当であれば、不自然な点が一つだけあるのだ。
「だったら、前に病院から抜け出した時、ゲーセンに居たのって何でだ? あんな学生の溜まり場みたいな場所に、入院する以前から通ってたのか?」
尋ねてはみるが、高須は気付いていた。夏彦が偶然あそこに行き着いたのではない事を。
「それは、私が夏彦にゲームセンターの話をしたからで……っ!」
そこで細雪も何かに気付いたようだった。
「そう言う事か。つまり」
夏彦にとって、市内の認識とは細雪の話題だけだ。だからこそ却って無意識のうちに、ケーキ屋かゲームセンターにいる可能性が高いと思い込んでいた。
ならば、次に細雪に尋ねるべき事は決まっている。
「ケーキ屋とゲーセン以外で、夏彦に話した事がある場所って何処かあるのか?」
そこに夏彦がいると、高須は直感した。但し、無闇に動き回ってない限りではあるが。
「あっ……」
すると細雪には思い当たる節があったのか、僅かに光を取り戻した瞳で高須を見上げた。
「実は俺も一箇所だけ、探してみたい場所がある。もしも場所が被ってなければ、時間が無いから手分けして探さないか」
「わかりました」
けれども、二人が歩を進めた方向は見事に一致していたのだった。

二人が夏彦の姿を発見した時、辺りは少し薄暗くなっていた。
夏彦は河川敷の草むらの中で、膝を抱えて蹲(うずくま)っていた。
二人は夏彦が逃げ出す事も考慮して、足音も立てずにゆっくりと近付く。そして射程圏内に入ると、細雪はその小さな肩に震える手を添えて、ぽつりと口を開いた。
「なつ……ひこ……」
細雪が安堵や悲哀にも似た声で名を呼んでも、寂寥感漂う背中からは一切の反応が無かった。
「夏彦。何故、病院を抜け出したんだ? 兄ちゃんと“約束”しただろ」
高須は語調を強めて尋ねた。ここまでの行動を起こした理由が知りたかった。
「……サンタさんいないんだもん」
「サンタ?」
夏彦がポツリと呟いた言葉の意味が、高須には理解できなかった。
「まーくんがいったんだもん。サンタさんはおとうさんだから、おとうさんがいないぼくにはこないんだって……だから、ゆうきをもらえないんだって」
「……っ!?」
「……くっ!」
 細雪は悲痛の声を洩らし、高須は歯軋りをして憤慨した。まーくんが何者であれ、夏彦にとって唯一の希望を安易な言動で奪ったのが、恨めしくてしょうがなかった。
「ねえ、おねえちゃん。ぼく……どうなるの。ぼく、しんじゃうの?」
夏彦が顔を上げて細雪に率直に尋ねた。その顔には涙の流れた跡が何本もあった。
「な、何を言っているの……」
「ねえ、ぼく、しゅじゅつしたくない。なおらないなら、しゅじゅつしたくないよ」
「そんな事ない! 治るから……絶対」
細雪が弱々しく笑う。最後の二文字が高須には痛々しい程、残酷に感じられた。
「ほんとうに、ぼくはなおるんだね。おねえちゃんは、ぜったいにうそをいわないよね!! ぼく……ぜったいに、しなないよね……っ!!」
夏彦は涙を流しながら、必死に訴え続けた。
「……う……ん……っ」
重圧に耐えて絞り出した蚊の鳴くような肯定。既に細雪の良心は限界に達していた。
「当たり前だ。夏彦の病気は絶対に治る!!」
そんな中、高須が根拠も無くも、二人の間に割って堂々と答えた。
「ほ、ほんとうに……? サンタさんいないのに?」
「サンタは来る。これは本当は秘密なんだが、何故なら、兄ちゃんの正体はサンタクロースだからな」
「おにいちゃんが、サンタさん? ほんとうに?」
夏彦のしゃくり声が止まった。高須は斜面に屈んで、間近で夏彦の瞳をしっかりと見据える。
「ああ、だからクリスマスの日には、勇気と他に夏彦の欲しいものをプレゼントしてやる。何が欲しい?」
「ケーキ!! それと、ぼくとおねえちゃんと、おにいちゃんと、ゆいおねえちゃんといっしょにケーキをたべたい」
高須は細雪に目配せをして、夏彦に頷いた。
「分かった。ゆい姉ちゃんにも頼んでみよう」
「うん!!」
「よし!! それじゃあ、約束だ」
左手で夏彦の頭を強く撫でた高須は、反対の手の小指を優しく差し出した。
「はりせんぼん……」
口を紡いでだ夏彦の顔が蒼白くなる。それを見た高須は、ああ、と頷いた。
「特別に、今日破った約束のは飲まなくてもいい」
「ほんとうに?」
「ああ、でもその替わり、手術をしないとか、死ぬとかは二度と口にするのは駄目だぞ。約束できるか?」
「うん!! やくそくする」
こうして、二人にとって三度目であり、最大の約束が結ばれた。
しかし、高須はその翌日、
『――窃盗現行犯で逮捕する』
細雪と夏彦の知らぬ所で、両腕に手錠が掛けられる事態となっていた。


四章 前編
高須が目を覚ますと、そこはいつもの光景ではなかった。
朦朧としている視界に映るのは、毎朝見ている茶色い木目の皺がある天井ではなく、一面殺風景な真白い石膏であり、良く見るとその白さは下の壁にまで続いている。
高須は欠伸をしつつ、醒めきれていない頭の中で、記憶の糸を手繰り寄せる。
「ああ、逮捕されたんだっけか?」
それでも逮捕と言う事実に、いまいち実感が湧かない。昨日、窃盗が発覚して警察署に連行された時の焦燥感は不思議と全く無いからだ。
つまり、高須はこう解釈する。
――これは全部夢だ。そうに違いない、と。
高須は再び目蓋を閉じた。この夢を終わらせて、本来の日常に回帰する為に。
けれども何度、目を瞑っても意識は落ちない。それはまるで、この世界を確りと見据えろと、何者かが告げているようにも感じられた。
ふいに、高須の目から何故だか分からないが、涙が溢れてきた。
否、分からないのではない。分かろうとしなかっただけだった。本当は認知しているのだ。自分が罪を犯してしまったこの現実を。そして細雪と夏彦に暫く会えない事を……。
だから結局、高須には無理矢理でも重い身体を起こす選択肢しか残されていなかった。

高須が窃盗罪で逮捕されてから、二日が経過した。
「高須。お茶か水、どちらがいい?」
「……お茶を頂ければ」
高須は現在、警察署取調室にいる。無論、醤油顔の中年刑事と喫茶をする為ではない。
「で、どうだ、高須。昨日はぐっすりと眠れたか?」
「山中さんは、俺と同じ情況なら、寝れるタイプですか?」
卓を挟んで、対面している刑事に尋ね返す。刑事は、ガハハと笑うと、
「そりゃあ、今回の件も含めて、七十二時間動き回っているからな。仮に留置所の中でも、今の俺なら三十秒で寝れる自信はあるぞ」
と、本気にも冗談にもとれる、皮肉を言った。
「まあ、だが捕まった時と比べて、顔色は良くなっているみたいだな。あの時のお前は、如何にも、しまった、やっちまったって顔してたからな」
「はあ」
高須は気の抜けた返事をする。逮捕されて『しまった、やっちまった』と言う顔をしない人間が果たしているのだろうか。
「あ、お前。世の中に捕まって嬉しがる奴がいる筈ないと思ってるだろ」
「ええ」
「実はいるんだよ。ここには色んな人間がよく来るぞ。快楽の為に悪い事する奴とか、どん底まで追い詰まってやっちまう奴とかな。まあ、差し詰め、お前は……」
そう言って、山中は高須の瞳の奥をじっと見詰める。
「そうだな……。メシは一応食えてるが、金に困ってる感じだな。けど、犯行が計画的過ぎるから、やはり何とも言えんなあ」
山中はお手上げと言わんばかりに頭を掻くが、その猜測はあながち間違いではなかった。
「しかし、お前も凄いやり方するなあ」
山中は質素な卓上に置いてある、一台のパソコンの液晶にちらりと視線を移す。
「今回、お前は窃盗一件の罪状で拘留されているけど、これ、多分他にも叩けば、数件出そうだなあ」
山中は両肘を卓につきながら溜息をついていた。
『叩く』と言う強引かつ粗暴な言葉を耳にした高須は不安で恐ろしい気持ちを隠せなかった。実際には繰り返しで犯行を行っていたのである。
「これ、もしも、他の窃盗の件が出てきたら……どうなるんですか?」
「う~ん。俺は検事じゃないから何とも言えないし、あまり余計な事は言っちゃ駄目なんだが……。まあ、通常このくらいなら示談や罰金刑で済むところを、再逮捕で場合によっては悪質だからって起訴されちまうな」
――起訴。
「それって……どう言う事ですか?」
今時、起訴の意味はニュースを見れば誰でも知っている。けれども高須には、自分が置かれている現状が把握できていなければ、当然、行末も想像できていない。だからこそ詳細な説明を欲していた。
「通常十日から二十日の拘留で出てこれるところを、裁判受けなきゃいけなくなるから、一ヶ月以上はシャバに出れないな。しかも下手すると実刑付きで、十年以下の懲役だな」
「一ヶ月……!?」
山中の言葉が心に重く圧し掛かり、高須の表情から血色が一気に失われる。正直、今は懲役と言う単語よりも、一ヶ月と言う数字の方が気に掛かっていた。
「現状は下手すればって段階だ。まっ、取り敢えず今暫らくは取調べを受けてもらうから、ヨロシクな」
山中は人の気も知らず、憎らしい程の笑顔を浮かべていた。
その後、留置所に戻った高須は、またすぐに弁護士接見で面会室へと引き連れられる。
室内には中央のアクリル板を挟んで、向かい側の椅子に六十代歳手前程の白髪の男性が座っていた。その顔立ちからは威厳と知性を漂わせている、所謂エリート的人種である事が一目で見てとれた。
「あ、よ、よろしくお願いします」
不用意にも心の準備が整っていなかった高須は緊張して、声がひっくり返ってしまう。
「えー。まず今回、貴方は窃盗と言う罪状で、裁判所より十日間の拘留の命が下されました。そして私選弁護士に依頼をしないと言う事で、被疑者国選で私、君島(きみしま)と申しますが今ここにいるわけですが」
だが弁護士は高須には一切目もくれず、淡々と持参のファイルに記されている概述を読み進めていた。
「あの~?」
「ん?」
高須は言葉を割って君島に尋ねた。今更、既知事実を言われても仕方がないし、何よりも重要な事があった。
「俺って、どうなるんでしょうか」
「どうなるとは?」
「その、……刑罰とか」
「一応、今回は未遂犯ですので、ほぼ罰金刑でしょう。被害者側との示談が成立すれば釈放も可能です。ただ、聞くところによると、犯行手口がかなり計画的との事ですので、同じ場所で複数回犯行を行っているのであれば、相手側が示談に応じる可能性は低いです。正直、今までにどれくらいの額を窃取しました?」
君島は高須を下から覗き見ているが、それは断じて上目遣いではない。どちらかと言うと、ガンを飛ばしているような、相手を完全に格下と見ている眼つきだった。
「その……分かりません」
高須は少し考え込んで、こう答えた。それは断じて黙秘を決め込んでいるのではなく、今まで窃取した品数が多すぎて、金額の算出が難しいからであった。
「そうですか。それらを弁済しないと示談は厳しいでしょう。寧ろ、起訴されてしまう可能性があります」
君島の見解は殆ど山中のそれと同じだった。高須はやはりと落ち込んだが、顔を上げると意を決して尋ねる事にした。
「俺が起訴されないように、何とかならないでしょうか?」
どうしても起訴に行き着くのだけは回避したかった。それによって、一つの重大な約束を反故にしてしまう結果に繋がってしまうのである。
「と、言われましてもね。それは検察官の判断になりますので」
君島が一瞬嫌そうな顔をしたのを、高須の真剣な目は見逃さなかった。
「じゃあ、俺が拘留期間後に、すぐ出れる可能性ってどれくらいですか?」
確率などアテにならない事は頭では重々承知している。それでも具体的な数字を知り、現実的な希望を持ちたかった。
「……どちらかと言えば、現状では出れる可能性の方が高いですが、そもそも今回のような軽い窃盗は現行犯以外で逮捕される可能性は低いんですね。被害者側も常に防犯カメラに目を向けている訳では無いし。仮に商品が何処かの質に流れたとしても、その商品が被害店から持ち込まれたと言う確証はないんです。やはり警察も暇ではないのでね」
「そうですか」
高須は胸を撫で下ろした。このまま何の進展も無く事が運んでくれれば、と心から祈る。
「では、そういう事になりますので。何も無さそうなので、私はこのまま帰ります」
「ああ……はい」
高須は唖然とした返事をする。初の弁護士接見がこんなに呆気無いものだとは思いにもよらなかったからである。これではまさしく、本当に形式上だけの接見だ。
「それでは、何かあったら連絡下さい。“国選”なので頻繁に来れないとは思いますが」
自身の立場を強調した君島は高須に目もくれる事なく席を立つと、いそいそと外に続く扉を開けて、去って行った。
そのまま独り、静寂とした室内に取り残される高須だったが、君島が去った扉を呆然と眺めていると、突如、口から乾いた笑い声が洩れた。
――ああ、金が無ければ、味方さえも作れないのか。
貧困こそが一番の大罪だと、高須が心底思い知らされた瞬間であった。

次の日の夜。
高須の留置房に突如、三十~四十代のごろつき風の男が無理矢理、押し込まれた。
「出せや、おらぁぁああ!! 訴えるぞ!!」
ごろつきはドスの効いた声で粗暴な言葉を放ちながら、横柄にも開く筈の無い鉄の格子に蹴撃を幾度も繰り返す。
「静かにしなさい!!」
看守が二人がかりで警告するが、それでもごろつきの動作は決して止む様子が無い。
衝撃音が響く度に、高須の心の中では苛々が募る。しかしそれ以上に見知らぬ相手への恐怖が上回っていた為に何も言えず、後ろ姿を只々眺めているだけであった。
暫くすると、ごろつきは諦めて高須の二畳先のスペースにどっかりと腰を下ろした。
「けっ、クソがっ」
ごろつきが唾を絡めた舌打ちをする。
高須は触らぬ神に祟り無し、と視線を反対側に背けるのだが、
「おい。何、わざと無視してんだ」
けれども運悪くも、ごろつきに意図を察知されてしまったのである。
「いえ……その、怖かったもので」
高須の口からつい本音が飛び出てしまう。口実を考える余裕もなく、更には何を言い繕っても見透かされてしまうのでは、との不安な直感から無意識にも正直な感想が表れていた。
「……あ?」
ごろつきは高須が緊張して口走っている言葉の意味を、一瞬、理解できていなかったが、
「……ぷっ、ははははははっ!」
 次の瞬間には、馬鹿でかい笑いを留置所内に響かせながら、高須との距離をぐっと詰めて来た。
「お前、面白えな。名前なんて言うんだ?」
「えっ、ええ。高須です」
「高須クンか。俺は高谷(たかや)だ。奇遇だな、一文字違いだよ、おいっ!」
高谷と名乗ったごろつきは、何が可笑しいのか、まるで思春期を迎えたばかりの少年の如く陽気にはしゃいでいた。その姿を見て、見た目よりも案外若いのかもしれない、と高須は思った。
「んで、高須クンは何をやってここに来たんだ? シャブか、騙しか、傷害か?」
「……一応、窃盗です」
普通なら、犯罪の事実を他人に公開する勇気などはない。それでも躊躇気味にでも罪名を絞り出せたのは、ここが同類者の集落だからだろう。相手も同じ立場であれば、蔑視を浴びる可能性も激減するのが救いだった。
「盗みか。初犯?」
高谷の続けての質問に、高須は頷く。
「なら、長くても二十日で出れるじゃねえか。よかったなあ!」
高須の肩をばんばんと加減もせずに、高谷は強く叩いた。勿論、二十日間で出れる確証はない状態だと知らない上での予測である。けれども、まるで自分の事かに喜んでいる姿を見て、高須の中での高谷に対する警戒心が少しだけ薄れ始めていた。
「まあ、二十日間退屈だと思うが、自弁(じべん)購入でもして暇を潰せば、すぐだな」
「自弁?」
「ここで買える、本とか、食いもんの事だ」
「なるほど……。でも、実は金が無いので何も買えないんですけどね」
高須は恥ずかしそうに苦笑った。現財産は、保管物となった財布の中身の96円である。
「んじゃ、親かダチに言って送ってもらえよ」
「頼れる、親も友人もいないので……」
「金借りれるとこは?」
「その、あてが無いので窃盗を……やっぱり、世の中、地獄の沙汰も金次第ですね」
「…………」
高谷は急に押し黙ってしまった。
「……やっぱ、厳しいですよね」
高須は顔色を窺いながら尋ねた。突如、無口になった高谷に対して、特に何らかの粗相をしたつもりはない筈だが、何ぶん、この手の人間とコミュニケーションをとるのは初めての事なので、内心に不安を覚えていた。
「……はあ。カワイソウな奴だなぁ」
高谷は憐れみの言葉と共に溜息を吐き、同情とも冷遇ともとれる眼差しで高須を見ていた。
「は、はあ」
高須は反応に困ってしまう。面と向かって可哀想な人間と言われたのは初めてであった。
「あのな、『ツル』も『イト』も無いんじゃ、シャバは当然、ここでの生活もキツイぞ」
「ツルとイト、ですか……?」
それが何かの業界用語であることはすぐに予想が付いたが、その意味までは流石に想像できなかった。仮に鶴と亀だとしても、それでは財産ではなく単に長寿の象徴となってしまう。
「ああ。ツルって言っても、鳥じゃなく植物のほうだぜ。『命(いのち)の蔓(つる)』と『蜘蛛(くも)の糸(いと)』ってやつだ」
「蜘蛛の糸って……」
命の蔓とやらはともかくとして、蜘蛛の糸と言う名称は、高須には聞き覚えがあった。
「確か、それって芥川龍之介の著書にも同じのがありますよね?」
「誰かはわかんね。でも、多分それだ」
高谷は確証も無く、適当に肯いた。
蜘蛛の糸――死後、地獄に落ちた罪人が、生前でのたった一度の善行を仏に認められ、斟酌(しんしゃく)で極楽へ行く事を許される物語である。
「神様だか女神様だかが悪人に天国へ続く糸を垂らすけど、その糸に群がる奴等のせいで、糸が切れちまうって憐れな話だ」
「そうです。それです」
二人の認識が合致した。
「そして、まあ、ツルも似たようなもんだ。命を左右する蔓。昔の言葉で、裏金の事みたいだけどな」
「……裏金」
「要は、現状で言うとな。高須クンは地獄にいるけど、助けてくれる女神さんも、救いのイトも、金ヅルも無い状態なのよ。つまり俺が何が言いたいか分かるか?」
「ええ。金も人脈も無ければ、人生、救われないって事ですよね」
高須は当然の如く回答した。これは今までの体験から嫌だと言う程、深く思い知らされている。しかし高谷はまるでその答えを待っていたのか、喜悦を顔に浮かべると、首を左右へと大きく振って高須の考えを真っ向から否定した。
「と、思うだろ普通。半分は正解だが、それじゃあ高須クンが救われないだろうからな。俺が良いことを教えてやるよ。確かに、金や人脈も大切だが、それ以前に一番大切なのは“運”だ」
「運?」
想像の斜め上を行く解答が高谷のドヤ顔の口から現れ、高須は思わず彼の精神状態に一抹の不安を感じてしまった。
「ああ。金や人脈も所詮は、運の下に成り立っている。例えばな、高須クンがギャンブルで一攫千金とか、ふとした成り行きで権力者の命の恩人にでもなったとする。すると、ぜってえ、こんな風にはならねえだろ?」
「そ、そうですね」
「結局は、現代社会であろうが、原始時代であろうが、極楽浄土であろうが、運は何処でも必要ってこった。その男も偶然、女神さんに助けられたってとこまでは良かったが、糸が切れたのは不運だったな。俺なら自分のシマを荒らす奴等は容赦しねえけどな」
高谷が不敵に口元を吊り上げる。余りにも冗談に聴こえなかった高須は背筋がぶわりと寒くなる感覚に陥った。
「と、言う事だ、高須クン。若いもんがあまり地獄の沙汰も金次第なんて、偏った考え持つんじゃねえぞ。運があれば失敗なんて挽回するんだからよ。なっ、俺を失望させないでくれよ、な」
高谷の口調は朗々としていたが、その目は決して笑っていなかった。
「あ、はい。分かりました」
高須は必然的にそう答えるしかなかった。それと同時に悟った。――結局、運を心の拠り所にしたいのは、この人の方じゃないのか、と。
高須は高谷の罪状が気になったが、怖くて尋ねられなかった。
その後、高谷の哲学講義は朝日が昇る時間まで続いたのだった。

逮捕から四日目が経過した。
「どうした高須。元気がないじゃないか」
「……色々と考える事があったんですよ」
「そうか、ついに罪の意識に悩まされてきたか。じゃあ、取調べで綺麗サッパリ、ぶちまけてしまおうじゃないか」
「…………はあ」
「おいおい。こりゃ重症だな」
朝から取調べを受けている高須の反応は鈍かった。昨夜はあまり眠れていなかったが、原因は罪の意識ではない。そんなものは逮捕の瞬間からとおに感じている。
「山中さん。一つ頼みたい事があるんですが」
「ん、頼みたい事? 釈放してくれ、は駄目だぞ」
山中は相変わらずの調子で笑う。正直、今の高須にとってこのノリはいつも以上にキツかった。
「で、頼み事って何だ?」
山中が今度は真面目に訊き返した。刑事が急なテンションの切替が得意なのは、誘導尋問に適している為だからであろうか、と、高須はこの対応の本質でさえも嫌疑してしまう。
「……職場に連絡を入れて欲しいのですが」
高須は既に三日程、会社を無断欠勤をしている状態だ。最悪、解雇されてしまう可能性もある。但し、連絡した所で解雇されない保証もない。
「ああ、それについては、既に確認をとってある」
「本当ですか!?」
「本当だ。一応の在籍確認と、一報入れなきゃ行方不明かと思われる可能性あるからな」
「そうですか……」
高須が安堵を感じられたのは、ほんの束の間だけであった。一つの悩みが解消されれば、またすぐに次の不安に襲われてしまう。まるでそれは、手が進めば進む程に追い詰められていく、詰み将棋を指しているかのような感覚であった。
 そんな高須の救われない心境を見透かすようにして、山中は冷静で現実的な言葉を投げ掛ける。
「会社の話は高須と会社側の問題だからな。今、どうなるのか考えても意味はないぞ」
「そうですよね……」
「それで話は変わるが。寝ていない理由って、やっぱ同部屋の人間か?」
「ああ、やっぱり分かります?」
「そりゃあ、伊達に刑事を長くやってれば、勘が鋭くなるさ」
「あの方は、所謂、そっちの筋の方ですかね?」
その職業の名称を口に出すのは、いくら警察署内でもやはり躊躇われた。
「そっち、とは“ヤ”の付く方(ほう)かどうかって事か?」
「はい。頭にヤの付く御職業かどうかです。それか数字の8です」
高須は婉曲な言い回しをして、山中の返答を待つ。
「ヤクルト販売員か、89610販売員なのかって事なら違うが。まあ多分、高須の想像している筋の人間だ」
山中は実質の肯定をしたが、高須に驚いたそぶりは無かった。
「何か、威されたりでもしたのか? 堅気に対しては、礼儀正しい輩が多いんだがな」
「そうなんですか?」
「いや、ホントだぞ。あいつらの世界じゃ、自分は周りの人間や後輩に好かれてなんぼ、みたいな考えだからな。ただ、悪い事をしているイメージが世間に浸透してしまってるから、あれなんだが。友達になってみると案外、面白いもんだぞ」
「もしかして、山中さんにもそちらの筋の御友人が?」
高須は疑いの眼差しを山中へと向ける。
「まあまあ、そんな目で見るな。それで話の続きだが、何かあったのか? 悩み事なら相談に乗れる範囲で聞いてやるぞ。一般人よりかは、こっちの人生経験豊富だからな」
山中は上手く話の矛先を逸らす。刑事から相談に乗ってやると言われて、精神的に追い詰まった人間が心を動かされない筈はなかった。
「じゃあ……。そうですね。山中さんは、世の中、金や権力が全てだと思いますか?」
「当然だな」
「え?」
山中が考える間もなく即答したので、高須は一瞬、自分の耳を疑った。
「どうしてですか?」
「ん? もしかして『思わない!』って答えた方が良かったのか?」
「そう言うわけでは……」
山中のあっけらかんとした返答に、高須は自分の認識の甘さを再度疑い始める。本音を言えば、山中に正当化して欲しかった。少なくても、昨日の国選弁護士よりは人情味があると見ていただけに、彼の意見はそれ相応の衝撃力があった。
「あのな、高須。司法関係ってのは社会の一番汚い所が見えてくるものなんだ」
「社会の汚い所……ですか」
「ああ、特に法律の不完全な所が見えるからな。表立って色々と出てくるんだよ……」
山中にしては珍しく、顔に弱々しくもうんざりと言った苦笑いを浮かべる。それは今までの人生で、散々な物事を見てきた経験を物語っていた。
「具体的に言うと、例えば?」
「具体的に言うとか?」
山中は少し考えた後、良い例が思い浮かんだのか、ポンと手を叩く。
「例えば、とある窃盗犯が幾度となく盗みを繰り返した可能性があるが、立件されたのは一件のみだったとかな」
山中は高須にわざとらしく笑い掛けると、続けて口を動かした。
「あと、ニュースでも話題になっているが、人を殺しても証拠不十分とか。違法薬物に認定されていない危ない薬の服用とかな。そうだ高須。お前、今、彼女とか大事な女っているか?」
「ええ……。まあ」
一瞬、細雪を思い出し、高須は後ろめたい気持ちになる。
「例えが悪くて事前に謝っておくが。もし、その娘が思春期を迎えたばかりの少年に強姦されたとする。お前どう思うよ」
「警察に行って、被害届を出します」
「まあ、まずそうするよな。ただし、決断に行き着くまでの過程に時間が掛かる。その選択に迷わず辿り着けるのは、実際には一部の人間だけだ。実際には悩み悩み、悩んだ末に頼るのが警察しかなかっただけだ」
高須の模範的回答は、あくまで架空話として展開している事件だからこその選択でしかない。実際、細雪に危害が加えられたとしたのなら、冷静な態度を保てるのかどうかはまた別の話である。
「それにな高須。お前が被害届けを出す訳じゃないぞ。強姦は親告罪だ。例えば、お前の彼女が強姦魔に脅されて口を閉ざしたり、恐怖で打ち明けられなかったり。何らかの理由で被害届けを出さない場合。それは単なる和姦や未発生な事象としか見なされない」
「告訴は不可能ですか」
「そうだ。そして面倒なのは、加害者が思春期を迎えたばかりの少年である事だ。確か、刑法の……四十一か四十二条かのどっちかに、責任年齢についての記述がある。“十四歳に満たなければ罰しない”とな」
「十四歳未満って、思春期を迎えて異性の身体に興味を持つ年頃じゃないですか」
早熟な人間ならば、既に小学校高学年の時点で性への興味に目覚めている。
「小学生がOLを強姦して、ムショに入るなんて誰も想像できないだろ。基本的に少年の犯罪とは状況と年齢によって処断が下される。被疑者が成人に近くて克つ、極悪犯罪なら検察庁に逆送致もありえるが。まず、大抵の場合は少年法が適用されて家庭裁判所扱いだな」
「少年には刑法が適用されない、と言うあれですか……」
「その通りだ。そもそも刑法の大半は他の法律と異なり、接触するのが違法なんだ。要は条文の数だけしか適用されないし、触れなければ何をしてもいい。こう言っちゃアレだが、責任年齢、親告制、正当防衛、緊急回避などの色々な抜け穴もある。もしも刑事訴訟が不可能ならば、民事で親を相手に解決するしかない訳だ。被害者にはご愁傷様としか言えん」
山中は大層不機嫌な顔で言った。高須は司法の不十分さを思い知り、気が滅入った。
「話が少し逸れたが、金は何をしても許される『免罪符』じゃあない。ただ、公的な『減罪符』になっている節はある。特に犯罪に甘い資本主義国ほど、その傾向が現れ易い」
「減罪符ですか?」
「普通車免許取りたてのボンボンのガキが、衝突事故起こして相手を死に至らしめた。仮に、示談金を払って執行猶予がつき、民事でも賠償金を払ったとしよう。猛省していると思われていた馬鹿ガキが『実は、オレって人殺した事あるんだぜー。ちょー、すげーだろ』なんて後に自慢してたら、無性に殴りたくならないか?」
「そうですね」
「だが、例え被害者遺族でも殴ったら傷害罪成立だ。状況や過去の犯罪歴によってはそのまま実刑をくらう場合もある。極論だが、人を殺すよりも、傷をつける方が罪が重くなる、それが減罪符の効力だ。金の量は罪の重さに反比例している。綺麗事じゃなく、命は金額に換算できるからな」
山中は呆れ返りながらに吐き捨てると、天井を見上げて息をついた。
「つまり金は重要で、権力がある人間は金もあるに決まっている。だから、例のマル暴が言ってるのもあながち間違いではない」
「知ってたんですか?」
「そんな事、俺じゃなくても気付くだろ。で、奴は何て言ってたんだ?」
山中は当然の如く言った。確かに今までの話の脈絡から、余程鈍感でない限りはこの結論へと辿り着けるだろう。
「そうですね。けれども一番重要なのは運とも言ってました。それがあれば金も人脈も思いのままだそうです」
「そうか……。ちなみにだが、運のみに頼って成功している奴を俺は見たことがない。後が無い人間ほどギャンブルで勝てないようになっている。結局、成功している奴等って、運気じゃなくて運命なんだろうな」
「運命……」
それは高須の『貧困ほど楽にはなれない』持論と何かしら共通するものがあった。
「さてと、長く話しすぎたな。そろそろ取り調べを開始するか」
「はい」
それ以降、二人の間で事件関連の話題以外は挙がらなかった。

高須が昼食を摂りに留置房の前に立つと高谷の姿は見えなかったが、代わりに見ない顔が居座っていた。それは間違いなく新参である。
新参は見た目からして愚鈍そうな巨漢であり、壁に寄り掛かりながら退屈そうに頭をボリボリと掻いている。その様子は動物のナマケモノを彷彿させる程の怠惰を感じさせ、高須が格子の前に立っていると言うのに、鈍感にも気付くそぶりは一切として無い。
留置房の格子扉が解錠されて開くと、流石にこの時は高須へと視線を向けるが、すぐに何事も無かったかのように再度頭を掻き始める。
その動作に生理的嫌悪を感じた高須は、自分のスペースに腰を降ろすと、だんまりを決め込んだ。しかし同室人に挨拶をしないのも何かと失礼かと思い、気乗りなく声を掛ける事にした。
「あの、今日入ってきた方ですか?」
高須が声を掛けると、手を止めた巨漢は視線を移し頷くが、結局一言も話さず、又しても頭を掻いた。
高須は二言目を発する事もなく直感した。この人とは相容れぬ、と。
自身も人付き合いは苦手だが、礼を非礼で返す行為は決してしたつもりはない。故に、巨漢とは二度と接触を試みないと、心の奥で誓った。
その後、暫く房内は静寂に包まれるが、突如、下手糞な鼻歌が留置所内に響き渡ると、もう一人の同室人が通路から姿を現した。
「やっとメシだ、メシ。高須クンよお……あ?」
つい今まで上機嫌だった筈の高谷の顔が、一瞬にして険しくなる。自分が留守の間に、丸い物体が勝手に定位置を占領していたのが気に障ったのだろう。
「誰だてめえ!! そこは俺の場所だっ!」
と、額に青筋を立てながら、巨漢を一喝した。
すると流石に、巨漢も高谷の恫喝には気圧されたらしく、のそのそと隣の畳に移動し始めた。
「なあ、高須クンよぉ」
「はい」
「誰、このデカブツ?」
「分かりません。俺が、取り調べから戻った時には、既にここにいました」
「ちっ」
高谷は舌打ちをすると、奪還した自分の領地に落ち着こうとする。
しかし――、
「高須クン」
「はい」
「……看守に言って、ホウキ持って来させてくれ」
高谷は地面を指差したので、高須が何事かと視線を向けると、そこは一面フケの海であった。
「……分かりました」
高須は顔を引き攣らせながら、看守を呼んだ。
ちなみに、巨漢は依然として頭を掻いていた。

その夜、高須は房内トイレの便座に腰を降ろしていた。別に、腹部の調子が優れない訳ではない。個室の中が防音となっているからである。
房内では、巨漢が凄まじいイビキを立てていた。単調なものであれば、耳を塞げば気にならない事もないのだが、巨漢のイビキは突如リズムが変わったり、口涎をくちゅくちゅと嚥下する音も混じっている。悪く喩えるなら不和調音のオーケストラ。更に酷く言えば、バラードの途中で、いきなりデスメタルに転調する。まさにそのような感じであった。
高須が透明窓から房内に視線を移すと。意外な事に、そこから安らかな寝顔の高谷が見えた。
よくもまあ、この情況で寝れるな。と、高須は羨ましく思った。
逮捕される直前まで一人暮らしをしていた高須には、他人との同居生活は不慣れなものである。実家に居た頃ですら、自室で就寝していたのである。故に、この環境の変化には順応できなかった。
しかも睡眠に限った事だけではない。高谷の言葉通りに、無銭での留置施設生活は苦痛中の苦痛だった。毎日、毎日、六畳の牢房で最低限の質素な食事と就寝を延々と繰り返す。洗面用具以外の日用品、補食、書籍は所持金の無い者には与えられず、雑踏警備とは全く意味の異なる拷問のような退屈。留置者を廃人にするかの如き、無意義な時間が精神を蹂躙する。これなら労役義務がある刑務所の方が余程有意義な生活を送っているのではないのかと、まで思ってしまう始末。
けれども、善良な一般市民なら間違いなく、口を揃えて言うであろう。
“自業自得”だと。
そんなのは当然である。それは高須自身でも嫌と言うほど理解している。
だがそれでも、救いの無い現状に耐え切れず、発狂しそうだった。
「細雪ぃ……、夏彦ぉ……」
高須の口から二人の名前が弱々しく漏れる。
崩壊しそうな精神を現実に繋ぎ止められているのは、二人の存在のおかげだった。二人が唯一の支えだった。それだけが、金も力も運も無い高須の糸なのかもしれない。
――会いたい。もし許されるなら二人に会いたい……。
高須は悔し涙を流したまま、そのまま一夜を過ごした。

逮捕から六日目の午前。
高須が朝の取調室へ連行されるのは既に慣例となっている。だが、いつもと違うのは、今日の山中は何やら複雑な表情で高須を見詰めている事だった。
「高須……。お前、結構悪い奴だな。リサイクルショップの買取り帳に、お前の名前が載ってたぞ」
山中は手元のファイルに目を通して、大きく溜息を付く。
「ここ三ヶ月近くで、五十点くらい同じ店で売ってるなあ……。買取総額23万9000円だってよ。どうして市内で売っちまうかな。県外とかに行けば良かったのに……」
山中は刑事らしからぬ台詞をぶつくさと、面倒臭そうに呟いていた。
「23万ですか……」
「買取額な。分かっているとは思うが、被害額に換算すれば、その三、四倍はあるからな。つまり単純計算で、最低でも70万円以上って事だ」
「70万以上……」
高須の顔が蒼白する。その数字は今の自分にとって、とてつもなく巨額なものでった。
「まあでも、これはあくまで買取額であって、窃盗額ではない。実は盗んだものではなく、高須の貯金で70万円分の家電を買ったり、友人から70万円分の家電をプレゼントされた可能性もあるからな」
「70万円分の購入って普通は有り得ませんよね……」
「明らか様でも、確証がなければ、おいそれと手が出せないのが刑法の欠点だ。俺等にとって誤認ほど怖いものはないからな」
皮肉にも高須は刑法の隙間に救われていた。これが山中が言っていた司法の不完全さであろう。
「ああ、だから明日、お前のアパートに行くんだが。仮に何かあったとしてもこの件が追求されるかどうかはまだ何とも言えない。ただ、もし起訴されなかったとしても、どのみち悪い事をしたのならば将来的に償わないといけないぞ。やったかどうかは本人が良く知っているんだからな」
「……はい。分かってます」
高須が固唾を呑んで俯くと、山中は再度大きく溜息を吐いた。
「まあ、やったものは仕方がないよな。まだ、二十六歳だっけ?」
「二十四です」
「ああ、そうだった。二十四だろ? まだまだやり直しが効く年齢じゃないか。ここ出たら、真っ当に生きて、嫁貰って、ガキ作って、幸せに生きる。それが今なら、高須次第で可能なんだぞ」
強く力説する山中の瞳の奥からは一辺の嘘偽りも、一時の慰めも映っていなかった。
「そうですね……。ありがとうございます」
高須は目尻に熱いものを込み上げそうになりながら、素直に感謝の言葉を述べていた。
この日の取り調べはそれだけで終わった。
高須が房に帰ると、ちょうど高谷の奇妙な行動が目に付いた。
「何やってるんですか? 高谷さん」
壁に靠れながら昼寝をしている巨漢の正面で、高谷があぐらを掻きながら両手を使って、一定間隔で畳を叩くそぶりをしている。
「おっ、高須クンか。いい暇つぶしを発見しちまってな」
「暇つぶし、ですか?」
高須は二人を交互に見廻すが、別段、興味を惹く類のものはない。変わっているのは、巨漢が寝(ね)涎(よだれ)をだらだらと流しているくらいだった。
「おう、じゃあ見せてやるから、よーく耳の穴かっぽじって聴いてみろ」
高谷は人差し指で畳をトントンと叩くと――、グッー、グッー、と巨漢のイビキがリズミカルに呼応して鳴った。
「なっ、面白いだろ?」
高谷が今度は、手のひらでバンバンと畳を叩く。するとイビキが、ゴガーゴガ―と更に鈍く擦れる音へと変化した。
「凄いですね」
「だろ。俺の動作に反応して音が変わる、人間アンプ。名付けて、“細井アンプ”だ」
高須はそのネーミングセンスに脱帽した。ちなみに、細井と言うのは巨漢の姓である。
「細井アンプ、いいですね。でも俺には、太井ダンプに見えなくもないんですが」
「高須クン、言うようになったじゃねえか」
上手い皮肉返しに感心して笑う高谷。それ程、高須は細井に対しての苛々が募っていた。
「まっ、暫くはコイツで遊べるな。それに、よーく見てみると、結構、小憎たらしい顔しているぜ、コイツ?」
「……そうですかね?」
 高谷が嬉しそうに細井の顔を指差しているので、高須は仕方なく、あまり注視したくないものに向かって視線を移す。
確かに改めて見てみると、小憎たらしいとも思えなくもなかった。細井は子供に人気のあるサーカスの玉乗り熊と動物園のパンダと水族館のセイウチを足して割ったような顔をしている。けれどもそれが愛嬌のある顔の特徴であるかと言われれば、また別の話である。
「そうだよ。俺はコイツが可愛く見えてきたぜ? なんか、あれっぽくねえ?」
「あれ、とは?」
「あれだよ。あれ。分かんねえかな。あのやつ」
二人は“あれ”のみで意思疎通できる間柄ではない。高須は最近このやりとりを何処かでした記憶があったが、余り深く気にしない事にした。
「そうだ。思い出した。あれだよ、あのアニメのやつ」
高谷は自分一人で納得して、畳をポンと叩く。
――ゴガー、ゴガー。
高須はアニメと聞いて、一瞬嫌な想像が頭を過ぎり苦い顔をしたが、きっとドラえもんに違いない。そうに決まっている、と自分の中で勝手に言付ける。
「そう。あれだ、アンパンマンっ!」
しかし、期待は非情にも裏切られた。
「あんな、アンパンマンいませんよ……」
夏彦には口が裂けても言えないな、と高須は心の底から思った。
「まっ、確かにコイツじゃ、ガキ相手に、……何て言えばいいんだ? あの夢とか希望とか勇気ってやつを与えられそうもねえもんな」
「そうですね。どっちかと言うと、悪夢とか絶望とか無気力とか与えそうですからね」
「はははっ、相変わらず面白えな、お前。それにしても、えらく機嫌がいいじゃねえか。もしやさっきの取り調べが好調だったか?」
「ええ。少し複雑な気分ですが、そうですね。明日、家宅捜索になりますけど」
「ガサか……。何も出て来なければいいな。盗んだもんとかな。ちゃんと処分しただろうな?」
高谷は怪訝な眼差しで、高須を見る。
「盗んだ、と言うよりは、その日に一度買ったものは家に残して来てしまいましたが。それ以外は何もありませんよ」
「一度買った? どう言う事だ?」
高谷は眉間に皺を寄せた。この反応は至極当然であり、高須が行った犯行の手口を知っている者でなくてはその意味を理解できなかった。
「あまり、人に堂々と話す事ではないんですが。自分の手口って、普通のやり方ではなく少し特殊だったんですよ」
「特殊。ほう、何をやったんだ?」
高須の含みを持たせた言い方に、高谷は興味を示さずにはいられなかった。
「その、俺は今回、家電量販店で窃盗して捕まったんですが、家電製品には防犯シールが貼ってあるのを知っていますか?」
「ああ。シールって、あの出口でピーピー鳴るやつか」
高谷は知っていた。それならば話は早いと、続けて次の説明に移る。
「店内を隈なく見ると気付くんですが、防犯シールを貼り忘れている商品が結構あるんですよ。特に大規模な店ほど、その数は多いです」
「そいつはオイシイな。パチで言うと、店が朝一で確変を残しているみたいなもんだぜ」
「多分、そうだと思います」
高須はパチンコの遊戯経験は皆無だが、店側の不意により、客側が何らかの得をする点では一致していると思い、高谷の例えを肯定した。
「それで、そのシールが無いものを探して、盗って。それだけで終わりか?」
高谷は首を前に伸ばして、難癖を付けるように尋ねてきた。そんな単純な犯行手口では満足しないぜ、と目が訴えている。
「いえ。その商品がターゲットになる事には代わりがありませんが、先にシールが付いている同一商品を買って、家に持ち帰るんですよ」
「買うのかよ」
「ええ。その後、購入レシートを持参して、先程のシール無しの製品を持って、そのまま店を出ればOKです」
「それで、商品を売っ払っちまうって事か」
高須は頷く。けれども、高谷の睨む視線に変化は無かった。
「だが、気になる点がいくつかある」
「何でしょう?」
顔に余裕を浮かべながら、高谷の言葉を待つ高須。システムを網羅し、練りに練った計画を実行した人間からすれば、疑問の論破は容易な事。ましてや、ごろつきがすぐに思い付く程度の問題点など、たかが知れている。
「まず、そう簡単に店の外に出れるのか?」
「絶対とは言えませんが、出れます。何せ、事前に購入している同一商品のレシートを持参していますから。ただ、そのまま外に出るのもあれなんで、紙袋を持って行った方が良いです。もしくは、別のレジに行って『紙袋が破れた』などと言うと、店員自ら新しい袋に商品を入れてくれます」
「防犯カメラは無いのか? それと、もしシールが貼られてない商品が既に売られて無くなってたらどうする?」
「シールが貼られてない商品が他の客に取られたケースは今までにはありません。棚の奥とかに押し込んでおくと、まず他の人は見ようとはしませんので。だけどもし、商品が売られてしまってたら……どうでしょうね。シール付きの物でも取って行った可能性はありますけれど。あと、防犯カメラは正直、役には立っていないと思います。堂々としていれば目を付けられる事もないですし」
「……ふうん」
高須があまりにも得意気に説明するので、調子が狂った高谷は思わず顔を顰めた。
「出口で店員に呼び止められたらどうするんだ?」
「その時は、持参のレシートです。店員からしてみれば、購入証明のある客を疑っている訳ですから、心理的にはかなり苦しい筈です。訴える事も可能ですからね。但し、半日前とかのレシートを見せても、余計に疑われるんで、購入から一時間以内の距離で来れる場所が好ましいです」
高須は申し訳なさそうに苦笑った。実際、犯行を行っていた三店舗も全て自宅から往復一時間圏内の位置にあった。
「けどな、商品を一度正規の値段で買ったんだろ。二個あっても元が取れなきゃ採算が合わねえじゃねえか」
窃盗をするにあたってここが一番の難点であろう。質入したとして、一つにつき店頭販売価格の五割以上の値がつかなければ、赤字は免れないのである。
「いいえ。買った物は、売らずに戻せば良いんですよ」
「戻すだと……んっ!?」
その言葉に高谷は手法を思いついたのか、合点がいったのか何度も強く頷いた。
「あーあー、そうか。そうだよな。商品とレシートを持って店に押し掛けろってか」
「その通りです。返品は別に当日でなくても可能ですからね。只、店側に目を着けられますので、連続で同一店、同一レジでやらないようにしてましたけど」
「なるほどなあ。面倒臭えやり方だが、高須クンって思ったよりズル賢い性格してんな。自分の手口を語っている時の口数なんて、普段より多くなってるしな。とんだ悪党だぜ」
高谷が笑いと共に言い放った『悪党』とは、純粋な褒め言葉にも捉えられなくない。只、高須は改めて自分が高谷と近種の人間である事を改めて認識してしまい、やるせない気持ちになった。
「いえ、遠慮しておきます……。あの時は生活がきつくて、ともかく必死でしたし。それに結局、間違って類似商品を盗ってしまったんですけどね」
今だからこそ、その馬鹿な真似に対して恥ずかしく思えるが。しかし当時はやらざるを得ない状況に陥ってたし、その核因となる負債は未だに清算されてはいない。
「まっ、捕まる時は呆気ないもんだ。だがそうなると、少し厄介な事になりそうだな」
ふと、高谷が苦虫を噛み殺した表情で、意味不明な事を呟いた。
「厄介とは?」
「そりゃあ、起訴かどうかだ。明日のガサの結果によっちゃ、再逮(さいたい)にならなくても、二十日で出れなくなっちまうぞ」
「えっ?」
高須はその言葉を疑った。何故なら、高谷の見解は弁護士の君島や刑事の山中とは異なるものであったからである。弁護士と犯罪者。どちら側の話に信憑性があるのだと言えば、考えるまでもない。
そう、考えるまでもない筈なのだが……。高須は縋るようにして、高谷へと尋ねる。
「まさか、そんな事ないですよね。購入品は証拠にならないんじゃ?」
「ああ。この手口を刑事が知らなけりゃあ、間違いなく罰金で済む。が、喋っちまったんだろ?」
「え、ええ」
「ガサで、犯行に利用したブツが押収されるとなると、かなり面倒だ。自供が事実になっちまうからな」
「え、えっと、つまり?」
動揺の所為もあってか、高谷の説明の整理がつかなかった。それでも、嫌な予感だけはどんどんと膨れ上がっていく。
「つまり、状況証拠だけならともかく。物的証拠が出てきた時点で、『悪質で計画的な犯行ですね。言い逃れはできませんよ?』って事になる訳だ。同じ犯罪でも、ブツが出るのと出ないのじゃ、大きく違う。検事はそういう細けえとこにうるせえからな」
「そんな……」
高須の全身の力が一瞬にして抜け落ちる。
「まっ、そんな絶望みたいな顔すんな。多分、出てきたとしても、起訴の確率は半々くらいだと思うぜ」
高谷は不敵な笑みを漏らし、高須の肩を叩くとこう言った。
「結局、出るか出ないかは――運次第だ」
けれども、その翌日。
高須の部屋から家電製品は押収されなかったものの、リサイクルショップの明細書五点が証拠品として押収された。
そして逮捕から十二日目。12月7日の朝。
高須は留置房の中に入ったまま、看守から起訴事実を言い渡されたのである。

12月8日(土)
起訴の決定から翌日。警察署留置所内。
高須は特にやる事もなく、憮然と壁に寄り掛かって天井のシミを数えていた。
「890、891、892……」
起訴後、高須はすぐに弁護士接見を希望したが、君島の回答は『週末は忙しくて来れない』と言うものであった。
もしも君島の被弁護人が高谷であったのならば、間違いなく憤慨して暴れているだろうが、今の高須には怒る気力は元より、呆れる気力ですら昨日の時点で何処かに置き去りにしてしまっていた。
「950、951、952、952……あっ?」
一度の失敗で、今まで積み上げてきたものは簡単に崩壊し無意味と化す。高須に積み上げたものが幾つ原型を留めているのかは、自分自身でも把握していない。だが少なくとも、二人の姉弟との繋がりは今月の25日を以って、二度と修復不可能な状態まで断裂するのは間違いなかった。
「……はぁ」
高須は溜息をつき、視線を横へと移す。そこには自分とは異なり、未だに拘留期間が終了していない二人がいた。
細井は最近、頭を掻く事を忘れ、替わりに足の皮を繕う事を覚えていた。
一方、高谷はその様子を熱心に観察しながら、手元のノートに何かを記入していた。
「高谷さん。何をしているんですか?」
高須は特に興味はなかったが、他にする事もないので高谷に話し掛けた。
「あ? 何って、見りゃ分かるだろ。観察日記付けてんだよ、細井の。高須クンもやるか? 天井見てるよりは有意義だぜ」
「いえ、遠慮しておきます」
高須は苦笑いながら断った。他人の観察日記もそれほど価値があるとは思えなかったしそれに心なしか、細井の顔に不満が表れているように感じたからだ。
「まっ、裁判まで一ヶ月以上、本来なら拘置所に移監される筈なんだが。ここに預かりになっちまってるからな。金が無いなら、ノートくらいは看守の目を盗んで何とかしてやんぞ?」
「はは、気持ちだけ受け取っておきます」
高谷の親切は有り難かったが、高須は素直に喜べなかった。
「それか、保釈申請するとかな」
「保釈、ですか?」
何処かで聞き覚えのある言葉を耳にし、高須の頭に大きな疑問符が浮かぶ。
「まさか、保釈の説明を、弁護士から受けてないんじゃないだろうな?」
「その、まさかなんですが……。顔合わせの時以来、会ってませんし」
「普通、起訴されたら速攻で説明に来るよな。高須クンってホントにハズレばっかを引いちまってるな。何か取り憑いてるんじゃねえか?」
「かもしれませんね……。ところで、保釈って、つまり仮釈放ですよね?」
高須が窺うように尋ねると、高谷は微かに眉を吊り上げる。
「いいや、全く違う。仮釈(かりしゃく)はムショの囚人が刑期終了まで、シャバに出るのを言う。仮釈希望なら、裁判当日に裁判官ぶん殴れば、お勤めできるぜ?」
「そうですか……別物ですか」
高須は自身のあまりの知識の乏しさに、肩身が狭くなった。
「保釈ってのは、金を担保にすれば裁判が片付くまで、シャバに出れるって事だ。もちろん、金は判決後に全額戻ってくる」
「えっ、そうなんですか!?」
「嘘言って、どうすんだよ」
その言葉に、高須は思わず飛び跳ねそうになる。もしも保釈申請が通るのであれば、夏彦との約束を果たせるのである。
「それで、どうすればいいんですか!」
高須は勢い良く高谷へと詰め寄った。その急激な態度の変化には、怖いモノなしの高谷でさえも多少たじろかせた。
「まあ……、そうだな……。取り敢えず、弁護士に頼む事だな。そうすれば金額を教えてくれると思うぜ。多分、100万程だが、何か補助制度みたいなものがあった気がするから聞いてみな。利子高いらしいが」
「本当ですか!? それなら利子が高くても、全然結構ですよ」
高須の銀行口座には、未だ手を付けていない先月分の給料が振り込まれている筈だ。それを頭金にでも使えば、上手く事が運ぶかもしれないと期待していた。
急に気持ちが軽くなった高須は、即座に看守へ週明けの弁護士接見を依頼した。

12月10日(月)
週明けの月曜の夜、高須は保釈を相談する為に面会室の椅子へと座っていた。
高須は息を呑んで、担当弁護士である君島の入室を一分一秒に気を張らせて待つ。
着席から一分ほど経過した頃だろうか。突然、対照的な位置にある扉が開かれて、そこからゆっくりと壮雄とした初老の君島が入室して来た。
君島は自分の席に着くと、愛想はおろか、一言の挨拶もなく口を開いた。
「それで、どうしました?」
無粋な態度に高須は少し苛ついた。けれどもここで何か文句を言っても始まらない。ましてや弁舌のプロ相手に太刀打ちなど、無謀であると端から分かっている。
高須は息を深く吐いて、もやもやとした気持ちを落ち着かせると、単刀直入に用件を切り出した。
「今日、お呼びしたのは、保釈制度について訊きたい事がありましたので」
「……ああ。なるほど」
君島は一瞬煩わしそうな顔をしたが、何事もなかったかのように軽く頷いた。
「保釈制度とは保証金を裁判所へ納付すれば、身柄が一時的に釈放されると言うものです」
「ええ。それは分かっています。俺が知りたいのは、保釈が可能かどうかです」
「誰が? 貴方がですか?」
権利を望むのは至極普通なのだが、まるで高須がその権利を主張する事自体が禁忌であるかの如く、君島は顔を引き攣らせていた。
「当然です。他に誰がいるんでしょうか?」
「保釈はですね。御両親、御家族がいないと難しいです。それに保証金は約150万円前後。高須さん、今の貴方に支払い能力があるとは思えませんが」
君島は鼻で笑った。その傲慢な様子は弁護士が金と地位の権化である事を改めて認めさせるに十分だった。
「……その為の、補助制度とかはないんですか?」
この不穏な流れで、相手を頼る話題を出すのは些か抵抗があったが、高須は高谷の不確証な情報を頼りに尋ねてみた。
けれども……、
「その様な制度は知りませんし。利用した事もありませんよ」
と、一蹴されてしまった。この時点で、高須は切り札を呆気なく失ってしまう。
「ともかく、今回の用件はそれだけのようですね」
口にこそ出さないが、君島の顔は無駄足だっだと言いたそうであった。
「待って下さい!」
例え、往生際が悪くてもここで君島を帰すわけにはいかなかった。高須は何らかの方法が残されているかを必死に逡巡する。
するとふと、一つの方法が頭の中に浮かび上がった。
「まだ、何かあるのですか?」
「じゃ、じゃあ……っ」
何かを言いかけた高須の口が心底気まずそうに止まる。果たしてこれを言ってしまっても良いのだろうか。けれど現状は既に、後へと退ける情況でもなかった。
「実家に……、親に、連絡は取れませんか?」
「御両親ですか」
「両親と言うよりは、親父です」
今更許される話ではないが、できるならこの名を高須は口に出したくなかった。仮に、刑務所に行く結果になったとしても、実家に消息を入れずひっそりと入牢する覚悟はあるつもりだった。しかしそれでも、それでも、是が非でも果たしたい約束があったのだ。
「実は、御父上とは既に連絡を取っています」
「っ!? そ、そうなんですか!?」
高須は驚きを隠せなかった。まさか自分の知らぬ所で、弁護士が勝手に父親と接触していたとは思いにもよらなかったからである。
「ええ」
「それで、どうなったんですか?」
この際、君島が何をやったのかなどは不問として、それよりも突如、音沙汰無しの息子が逮捕された信息を耳にした父親が、一体何を口にしたのかが知りたかった。
「ええ。御父上は、その、こう仰っていました」
君島が少し気まずそうに咳き込んで、一瞬だけ高須から視線を逸らす。
「『私には、息子はいない』、と」
「……そうですか。ははっ」
予想していた回答だが、高須の口から乾いた笑いが出て、それが何故か止まらなかった。
君島はその憐れな弁護人の様子を、只々無表情で見続けていた。
高須がおぼつかない足取りで房まで戻ると、高谷はその意気消沈とした姿を見て、事の顛末を悟った。
「駄目だったか」
「……ええ。親にも頼れない状態みたいです」
高須は項垂れる。今の悪状況を打破できると思われていた希望が、たかが十分足らずで潰えてしまったのだ。
「親、ねえ……。なあ、高須クン。他に金出して貰えそうな知り合いはねえのか? 女とかさ」
「女……」
高須の脳裏に一瞬、細雪の顔が思い浮かんだ。
「……そんな知り合いはいませんよ。残念ながら」
「そうか。不運だったな」
高谷は同情を含みながら言うと、すぐさま視線を外して再び細井観察に没頭し始める。
高須は心底実感した。やはり自分は、言われた通りの不運で可哀相な人間であると。運も金も力も何も無い、社会の中で矮小な人間はたった一人の六歳児の命を救う願望すらも許されない。もし、自分が約束を守れない事で、夏彦の命が懸かった手術に影響が出てしまうのかもしれないのでは。そう思うと、酷く恐ろしい不安に襲われた。
そんな不祥な事を長々と考えていると、房の扉が急に音を立てて開いて、
「高須さん。面会ですよ」
と、いきなり看守に名指しで呼ばれた。
「面会? ですか?」
「はい」
高須は首を傾げる。今しがた弁護士との接見は終わって戻って来たばかりで、他に一体誰が自分を訪ねるのだろうか。
高須は不整に脈打つ鼓動を無理に鎮めて、再び面会室へと足を進めるのだった。

四章 後編
冬場細雪は、その日夢を見た。
一面の漆黒の中に、三つの白光が細雪の周囲を照らしている。
一つは大きく精悍な光。
一つは中くらいの温和な光。
一つは小さい純朴な光。
三つの光は細雪を中心点として、ぐるぐると弧を描きながら回っている。
最初に、中くらいの光が消失する。辺りが一段暗くなった。
次に、大きな光が消失する。辺りが更に一段暗くなった。
そこに取り残されたのは細雪自身と小さな光のみ。
しかしやがて、その小さな光にも存在が消えかかる時が訪れる。
細雪は刹那に蒼ざめて、慌てて手を伸ばす。だが届かない。
細雪は水を掻くように、必死でもがく。それでも届かない。
細雪は啼泣も同然に嘆く。だがそれでも、暗闇は無情にも無反応であった。
「……っ!?」
愕然として地面にへたり込む細雪の背後に、突如、一つの光が産まれ始めた。
その光は大きい光ほど精悍でも、中くらいの光ほど温和でも無い。けれども他のどれよりも激しく魅力的に輝いているように何故か感じられた。
すると、まるでその光を見習うかの如く、小さな光も見る見る内に元の明るさを取り戻し始める。
細雪は思い掛けぬ事態に感涙していた。その光は自分にとって、いつの間にか希望の光となっていたのである。
だから細雪は声にならない声で、輝く光の名を叫ばずにはいられなかった。
「……か……さんっ!」
そこで細雪の夢は途切れるのだった。

12月4日(火)
細雪が目を覚ますと、世界は急激に色彩を取り戻す。
景色が白黒二色のみで構成されたままではなく、全てに赤青緑の原色を主体とした着色が施されていた。
「おはようございます」
一緒のベットで寝ていた、白と茶の二匹に朝の挨拶をする。もしもこの姿を親友の大島以外に見られたのならば、メルヘン症候群を患っていると本気で心配されるに違いない。
枕元に置いてある目覚まし時計の針は午後三時ちょうどを指している。早朝帰宅で次班が休日の時は、大抵この時間に起床する。
細雪は本日の初食を摂り、シャワーを浴びて髪を梳かすと、適度な薄化粧を施す。
「一ヶ月前なら、考えられなかったのに……」
鏡の中の自分に向かって呟く。その頬には風邪熱にも似た赤みを仄かに帯びていたが、決して体調不良と言う訳ではなかった。
残りの支度を手早く済ませて家を出た細雪が病院に辿り着いた頃には、辺り一面は橙色に染まっていた。
季節は既に十二月。北風が色白い肌を撫でていた所為か、細雪の顔は病的なまでに蒼白かった。
細雪は院内廊下を歩いて、とある病室の前へと立つと身体を硬直させる。血の繋がった家族とは言え、この不気味な程に白く佇む扉を開けるのは勇気が必要だった。
「……はぁ」
細雪が躊躇う原因が実はもう一つあった。この扉の先に今日もある人物が居なかったら。そう考えるだけで細雪は胸が締め付けられる思いに苛まれてしまうからだ。
暫らく深呼吸を繰り返した細雪は、最後に大きく息を呑みこむと、意を決して扉を真横へとスライドさせた。
「あ、おねえちゃん、いらっしゃいませ」
「さゆちゃん、こんにちわ……じゃなくて、こんばんわ」
部屋の中には最愛の弟と親友が居た。周りを見渡しても、他には誰の姿もない。
「夏彦。ゆいちゃん。こんばんは」
細雪がにっこりと笑って、二人に挨拶を交わす。
「今日は仕事あるの?」
「ううん。今日と明日はお休み。昨日がC班の夜勤だったから」
「そっか」
大島の表情が柔らかくなる。それだけで『お疲れさま』と労いの言葉を掛けられているのが、古い友人の細雪には分かった。
「おねえちゃん、きょう、おしごとないんだ。やったあ」
夏彦は両手を大きく掲げて喜んでいた。面会終了時間を過ぎてしまうと、結局は室内から居なくなってしまうのだが、夏彦にとっては細雪が休みだと言うだけでも相当に嬉しいのだろう。
「ねえ、ゆいちゃん。その、高須さんは?」
「今日も来てないね……」
「……そう。昨日もなんだ」
「でも、まだ五時前じゃない。いつも高須さんって、こんなに早く来ないし。そのうちケーキでも持って、ひょっこりと来るかもしれないよ。携帯も落としただけかもしれないし」
「そうよね。きっと、そうよね……」
自分自身に言い聞かせるように呟いた細雪は無理に笑顔を作ると、そのまま夏彦へと視線を向ける。
「それと、ごめんね。夏彦。今日はケーキを買って来ていないの」
決して夏彦に毎日ケーキを持参するように、せがまれている訳でもない。それに高須が今日こそはケーキを持って再訪してくれるのでは、と希望を持ちたかったのかもしれない。だから細雪はこの五日間、店に一度も立ち寄ってはいなかった。
「ううん。ぼく……ケーキなんかいらないよ。ケーキなんかより、おにいちゃんがいい」
夏彦が不満そうに呟いた。
「夏彦……」
「ねえ、おねえちゃん? おにいちゃん、もうきてくれないのかな……。ぼくのこときらいになっちゃったのかなぁ……っ」
夏彦は細雪を見上げて、涙混じりに必死で訴えた。
細雪は夏彦の精神が自分以上に不安定であるのを悟り、両腕で夏彦を優しく包み込んだ。
「馬鹿ね。高須さんが夏彦を嫌いになる筈ないでしょ。だって、『勇気のお薬』を貰うって約束したんでしょう?」
「うん……」
姉の胸に安らぎを感じたのだろう。夏彦の顔から徐々に不安や寂黙が消えていく。
その弟の様子を目にしながら、細雪は心から願った。――高須さん。どうかお願いですから。夏彦だけは見捨てないで下さい、と。

12月5日(水)
翌日、細雪が自室で昼食を摂っている時に突然携帯のメロディーが鳴る。
液晶に目を移すと、発信者は大島であった。
「はい。冬場です」
電話の相手が誰か知っているにも関わらず、細雪は礼儀正しくも自分の姓を名乗る。
「さ、さ、さ、さっーーー!!」
「っ!?」
細雪は一瞬、自分の耳を疑った。いきなり受話口から聴こえたのは、言葉になっていない大島の驚声であったからだ。
「さっ、さゆちゃんっ! 大変だよっ!?」
「え、えっ? ど、どうしたの突然……?」
大島の声に尋常では無い程の迫力を感じ、細雪は思わずその場でたじろいだ。
「た、高須さんの事なんだけどっ」
――高須。
「何かあったの!? 高須さんに!!」
高須の名が出て、細雪の呼吸が急に荒くなる。
「そうなんだけど、そのっ、何て言えばいいのか分からないんだけど……っ。いろいろと大変なんだよっ!」
早口で言葉を捲くる大島の口調は、多少混乱気味であった。
「ゆ、ゆいちゃん、落ち着いて。高須さんが、どうしたの?」
「うん。でも、その……、やっぱり、この場では話し辛いかな……って」
確かに、大島の態度は少し余所余所しいと、細雪には感じられていた。それが現在、大島が公共の場にいる事。それと何よりも、高須の身に関してとても良からぬ話がある事を明かしていた。
「さゆちゃん、取り敢えず。駅前のケーキ屋さんまで来れたら、来て!!」
「う、うん。分かった。今すぐ行くから」
通話が切れると、細雪は食事の後片付けもそのままに、駆足で駅前商店街へと向かった。
ケーキ屋の前に辿り着くと、店内に居る松本妻が手をこまねいて、入店を促していた。
細雪はそれに従い、身体を縮め込ませながら、ドアを開けて店内へと入る。
「さゆちゃん、こっち、こっち」
大島が手を振って、細雪を奥の部屋に迎える。その部屋はプライベートルームであった。
細雪が部屋に入り椅子に腰を下ろすと、深刻な面持ちの大島が口を開いた。
「……とりあえず、松本さんが事情を知ってるから、先に注文しよう。コーヒーでいい?」
「うん」
大島が呼び鈴を押してコーヒーを二つ注文する。
暫くして、盆にコーヒーカップを三つ乗せた松本妻が部屋に入って来た。
「おまたせ。コーヒー二つ」
松本妻はコーヒーを全て卓の上に置くと、部屋の扉を閉めて、大島の横に腰を落とした。
「さて、話を始めようかい」
松本妻が、細雪と大島の目を交互に見て言った。
「あの、ゆいちゃんから聞いたのですけど。高須さんの身に何があったのですか?」
細雪は恐る恐ると松本に尋ねた。
「待って。その前に」
大島がいきなり間に割り込む。細雪と松本妻は同時に大島へと振り向いた。
「先に、さゆちゃんに言っておくけど。松本さんにこの話をして欲しいって、お願いしたのはわたしだから。だから松本さんには何の責任もないからね」
「構わないよ。どうせ、話してしまえば同罪だよ。あたしも、さゆちゃんは知っとくべきだと思ってるからね。高須のお兄さんには悪いけどさ」
高須の名が出た途端、細雪はピクリと反応した。本人にとって都合の悪い事情とは何だろうか。もしかして自分が知ってしまっても良いものだろうか、と言う罪悪感はあった。
しかしどうしても、高須が急に姿を消した理由が知りたかった。
「分かりました。是非とも、話をお聞かせ下さい」
「そうかい……。少し待っておくれよ」
松本妻はコーヒーを数口飲んで暫く無言になるが、カップをソーサーに置くと、静かに口を開いた。
「実は、あたしの旦那がお兄さんと同じ職場でね。やっぱり、会社を突然無断欠勤していたみたいで、みんな不審がってたらしいんだよ。でも、三日後くらいに警察からいきなり電話が掛かってきたらしいよ」
「け、警察……?」
細雪の頭の中が空白になる。話があまりにも突飛していた。まだ、事故に遭った。身内に不幸があった。と言われた方が、実感が湧けて驚けただろう。
「まあ、何をしたのかは、警察もぺらぺらと喋ってくれなかったみたいだけど。今、お兄さんは逮捕されて、留置所に入れられてるみたいだね」
「逮捕……っ!?」
細雪の顔全体が蒼白になる。その言葉で、やっと現実を認識した。
そう、高須が。自分や最愛の弟にとって、大切な人が。犯罪者になってしまったのだと。
細雪の肩が小刻みに震える。
「さゆちゃん、ごめんね。でも、夏彦くんとの事もあるし、知っておいてもらいたかったの」
大島が痛々しそうな表情で、細雪に謝った。
「ううん。いいの。それよりも、ありがとうございます。ゆいちゃん。松本さん」
細雪は二人に向かって、誠心誠意、頭を下げた。

12月10日(月)
細雪が高須逮捕の事実を知ってから、既に五日が経過した。
情報元は不明だが、あれから詳しい罪状を松本妻から耳にした細雪は休暇日の午後に警察署を訪れるが、何故か建物の前で右往左往と焦っていた。
署内への入口に行けども、体格の良い人間が内側から漸々と、まるでアリの巣のように這い出てくる。細雪はその都度、自分が餌物であるかの如く、その場から怯えて逃げ出してしまっている。
だがそれは縁の無い一般人なら普通の反応である。彼等は一種の軍隊アリだ。いくら、細雪が害意のない善良な市民であろうとも、その威圧的な姿は小柄な細雪からしてみれば、かなりの脅威に映っているに違いなかった。
やっとの思いで、署内に入れた時には、既に到着からおよそ四十五分が経過していた。
受付で面会の手続きをする細雪。名前と住所を記入している間も、膝が笑って身体が思わず崩れそうになる。高須が逮捕された消息を耳にした頃から、魂は半分何処かに抜け落ちて不安定な状態となっていたが、その時以上に、生きた心地がしていなかった。
「こちらになります。面会時間は十五分間です」
「……はい。ありがとうございます」
面会室の中へ案内された細雪は、案内役の婦警に会釈をすると、複雑な面持ちで椅子に座る。
細雪は悩んでいた。一体、高須を目の前にして、どんな顔をすればいいのだろう、と。
けれども、どうしても高須に会いたかった。会って、夏彦が高須を必要としている旨を伝えたかったのだ。
やがて、反対側の部屋から扉の開く音と同時に、細雪が待ち望んでいた人物がついにその姿を現した。
「なっ!?」
高須は面会者が細雪である事に気付き、ばつが悪そうに視線を逸らした。
「……お久しぶりです。高須さん」
「……そうだな」
高須は看守と共に目の前の椅子に腰掛ける。だがそうすると、強制的に細雪と対面してしまうからか、わざとらしく視線を遠い位置に向けていた。
「起訴されてしまったのですね」
「ああ。できる事なら、知られたくなかった。ごめん」
高須は深々と頭を下げた。
「どうして、このような事をしたんですか?」
細雪が落ち着きを装って静かに尋ねる。しかし高須は俯いたまま、何も答えようとはしなかった。
「もしかして、夏彦と関係はありますか?」
「なっ!?」
「やはり、あるんですね……」
細雪は高須のふとした動揺を見逃さなかった。
「違うっ! 夏彦は関係ない。元々、俺の生活が苦しくなってやってしまった事なんだ。今回の事も、まだ夏彦とは何も関係していない!」
口調を荒げた高須は、細雪を睨み付けてまで必死に否定を訴えるが、
「まだ(・・)夏彦と関係ない、とは。最終的には夏彦と関係するんですね」
と、細雪に言葉の矛盾を突かれてしまい、ハッとして、口をつぐんでしまった。
「……以前、高須さんから手術費用について尋ねられた時、そのような予感がしました」
「違う。そんな事は考えてない」
「本当ですか!? それなら本当に、私たち姉弟は絶対に無関係だって、私の目を見て言い切れますか!」
「それは……」
涙ぐみながら本気で訴え掛けている細雪の瞳を、高須は直視していなかった。
「高須さん……。夏彦は貴方がお見舞いに来てくださるのを、毎日心待ちにしています」
「ごめん」
「私も、ゆいちゃんも待っています。だから……」
細雪の頬に一筋の涙が伝う。
「だから……、お願いです。絶対に、戻って来て下さい……」
「……ごめん」
高須は機械のように、無感情でその言葉だけをひたすらと口にしていた。

12月14日(金)
あれから四日が過ぎた。
本日、夜勤予定の細雪は、午前中に警察署を訪れていた。
「あの、留置人との面会を希望したいのですが」
受付で手続きをする。けれども以前のような、傍目にも分かる程の恐怖感と拒絶感はそこまで現れていない。
面会室に通されると、正面には相変わらず無機質なアクリル板が立ちはだかっている。細雪がこの透明な防壁を見るのも、今回で四度目だった。
緊張を緩和する為に、深呼吸を幾度も繰り返す。そして暫くすると、普段と同じく高須が対面側から入室して来た。
「細雪、今日も来たのか……」
高須は目尻にクマを浮かばせたまま、だるそうに言葉を吐いた。
「高須さん……」
細雪が痛々しそうにその姿を見る。拘禁されると言う事がどれほど精神的に辛苦なものであるかを、目の前の高須はまさしくその身で体現していた。
「……裁判の日程が決まったらしい。来月の十四日だそうだ」
「一月十四日、ですか?」
「ああ……」
無気力に頷く高須の双眸には、細雪の姿が映っていなかった。
結局、それ以上は細雪も適当に掛ける言葉が思い浮かず。刻々と面会時間は過ぎ去っていった。
細雪が署の出口へと向かっている途中、スーツを端正に着こなした初老の男性とすれ違う。
署内では制服の警官と、私服の民間人が混じる中、その優雅にも錯覚しそうな正装はあまりにも場に似つかわしくなかった。
細雪は律儀にも初老と会釈を交わす。そして出口に差し掛かり、外に出ようとした。
その時――。
「――――――」
「……え?」
細雪は耳を疑って思わず、初老が向かっていた受付の方角に振り向いた。
そこには、細雪がつい先程まで面会をしていた人物の名前を口にしていた、一人の弁護士の姿があった。

「そっか……。裁判の日が決まったんだね。高須さんの」
「うん……」
細雪と大島はその日の午後に駅前商店街で待ち合わせをして、そして現在はケーキ屋の個室に居た。
「それで、どうするつもり? 夏彦くんの手術前の約束はクリスマスの日だったよね」
「うん……」
「どうやって、夏彦くんに説明するつもり? 下手すれば、『手術を絶対に受けない!』とか、言い出すかもしれないよ」
「うん……」
「……さゆちゃん。わたしの話、聞いてないでしょ」
「うん……」
「…………おーい」
細雪は何処か心にあらず、と言った感じに、何かの物思いに耽っていた。
「さゆちゃんっ!!」
「うん……えっ?」
大島の気迫ある声に、細雪は我に返った。
「あ、ご、ごめんなさい」
「まったく。今日は会った時から、ずっとその状態だよ。何かあるなら言ってよね。わたし達、親友でしょ!」
大島が少しふてくされたようにそっぽを向く。
「ご、ごめんなさい」
「……ねえ。一体、何があったの? 午前中に」
大島は不安気な瞳で、細雪を見詰めている。
「うん。実はね……。先程、高須さんの弁護士さんとお話しをしたの」
「弁護士って? 警察署の中で会えたの?」
「うん。偶然、お会いして」
「へえ~っ。それで、何を話したの?」
「高須さんの保釈制度について、聞いたの」
「保釈制度?」
大島はコーヒーを一口含み、その意味を落ち着いて考える。
「保釈って……。もしかして、一度、外に出れるの?」
「そうみたい」
大島は手にしていたカップをソーサーに素早く置いて、一気に細雪へと詰め寄った。
「ホント!? よかったじゃない。それができれば、夏彦くんも絶対喜ぶよ。きっと!!」
「うん。でも……」
細雪の口調は、大島と対称的に重いものを含んでいた。
「保釈金が必要みたいなの」
「保釈金? いくら?」
「一括で150万円前後……」
「ひゃ、150万!? ええええっ、何なのそれっ!?」
大島は予想以上の額に、椅子から転げ落ちそうなくらい吃驚していた。
「やっぱり、驚くよね……」
「そ、それは当然……。わたし、夏コミで東京に行った時の予算でさえ最大7万円だったよ。い、一度の釈放で150万も払わないといけないんだね……。高須さんじゃ、絶対に払えないよね?」
大島は顔を引き攣らせながら言った。細雪は頷き、肩を落とした。
「高須さんの貯金では足りないみたい。それに、家族の方にも頼んだみたいだけど、連絡が取れないって……」
「そ、そうなんだ……。大変なんだね、高須さんも。じゃあ、夏彦くんとの約束はやっぱり……」
「そう……」
二人は俯くと、そのまま沈黙しながら、目の前に置かれた食事へと手を付けた。
「……あのね。ゆいちゃん」
突然、細雪に名前を呼ばれ、ケーキを黙々と食べていた大島は何事かと顔を上げる。
「さゆちゃん、どうしたの?」
「あの……。もしも私が。……いえ、ごめんなさい」
細雪は何かを言い辛そうにして、再び顔を下に向けた。
「……そう」
けれども付き合いの長い大島には、何となく細雪の話の内容が想像できていた。だが、それは相談に乗れる範疇を超えている。例え唯一無二の親友であったとしても、その事に対しては口を挟む事も、後押しする権限も無い。
「さゆちゃん。わたしにとっては、さゆちゃんも、“夏彦くん”も大事な親友だから」
だから大島は卑しくも、こう言うしか他なかったのである。
「うん……」
大島の真意に気付いた細雪は、瞳を潤ませながら、
「ありがとう……そして、ごめんね」
と、自分の思惑を一瞬でも友人に肯定させようとした事を、心から恥じた。
その後、二人はケーキを数点包んで貰い、病院へと向かう。
病院に到着した二人が夏彦の病室へ立ち止まると、相変わらず戸惑っている細雪に代わり、大島が扉を開けた。
部屋の中には、背を向けている夏彦がいた。
「夏彦くん、こんにちは~。お見舞いに来たよ~」
大島が陽気に声を掛けるが、夏彦からは何の反応もない。
「夏彦?」
不思議に思った細雪が夏彦に近付き、その正面へと回り込む。
「おにいちゃん。こないかなあ」
夏彦は虚ろな瞳で、窓の外をぼんやりと眺めていた。
「夏彦、今日はケーキを買ってきたよ」
「……ケーキ」
夏彦が微妙に反応し、細雪の方にぎこちなく振り向いた。
「おりがみのケーキ?」
「勿論。夏彦の大好きな高須さんの、味が折り紙付きのケーキ」
「ケーキ……おにいちゃん……ぐすっ……うえ…っ」
やはり現時点ではその名を挙げる事は禁句だったのか、夏彦の目に一瞬だけ宿った光は、すぐに涙によって歪んで消えてしまった。
「おねえちゃん……ぐすっ……。おにいちゃん、ボク…の……こと……」
「夏彦……。いつも、言っているでしょ。高須さんは夏彦を嫌いになんてならないし。今はお仕事が忙しくて、会えないだけだって」
細雪は良心を押し殺して、しゃくる夏彦を慰める。嘘をつくのは苦手だが、真実を話せる訳がなかった。
「でもっ……おねえちゃんばかり……ぼくにはあって……くれないっ。なんで……?」
「それは……っ」
細雪は言葉に詰まる。自分が嫌悪されて避けられていると深く思い違いをしている夏彦に対して、どう説明すれば納得してくれるのか?
そして更に、夏彦は追い込むように細雪へと問い掛ける。
「おねえちゃん。おにいちゃ……っ、絶対……ぼくとのやくそく……まもってくれる……よねっ?」
「っ!?」
細雪は身体が震えそうになるのを堪える為に、唇を噛み締めた。昨日までならいざ知らず、高須の公判期日を知ってしまった今日現在。流石にそれは安易に首を縦に振る事ができなかった。
「おねえちゃん……、ぼく、しゅじゅつしたくない!! おにいちゃんが、きてくれないなら……ぼく……しんじゃうんなら、しゅじゅつ……したくないよぉ……っ」
「夏彦……っ!!」
夏彦は涙をぼろぼろ溢して泣いていた。そして細雪も思わず顔を伏せた。だが夏彦と異なり、細雪がこの場で泣く事は決して許されなかった。何故ならそれは、夏彦の言葉を肯定する事になってしまうから。
「それは駄目だよ。高須さんは絶対に来るんだから。夏彦くんがそんなんだったら、高須さんが会い辛くなっちゃうでしょ」
あまりの惨状に見兼ねた大島が、横から会話に割り込んだ。
「えっ、ほ、ほんとお……?」
夏彦は縋るように、大島の顔を見上げる。
「うん。でもね、高須さんは夏彦くんと同じくらい大きな病気になっちゃったんだよ。だから早く良くなるように、お願いしないとね。夏彦くんがわがままを言っていると、治るものも治らないよ、きっと」
大島の咄嗟に機転を利かせた嘘によって、夏彦の虚目(うつろめ)に再び光彩が戻っていく。
「う、うん。わかった。ぼくが、おにいちゃんのびょうきがなおるように、いっぱいおねがいする。そうすれば、おにいちゃんきてくれるよね?」
「もちろん!」
大島は一分の躊躇いもなく頷いた。すると夏彦は、たちまちの内に元気を取り戻した。
「じゃあ、取り敢えず。ケーキでも食べよっか」
「うん!!」
その二人の様子を端から見ていた細雪は、心から大島に感謝と謝罪をせずにはいられなかった。
『――夏彦くんは、将来、わたしのお婿さんになるかもしれないからね』
別れ際、大島は細雪に冗談交じりで笑いながらそう言っていた。
しかしあくまでこれは一時凌ぎでしかない。このままでは、大島の善意が夏彦の期待を裏切ってしまうのは時間の問題なのである。

12月16日(日)
――午前五時半。
週末日とは言え、この時間に人が起床するのは珍しい事象ではない。何かしらの習慣、目的で活動する人間は許多に存在する。
本日が早番後の休暇日である細雪も、習慣でこの時間に起床している一人であった。けれども、普段と異なるのはその白い顔に不釣合いな、黒いクマを目下に浮かべている事だ。
今日の細雪にはある目的があった。だがそれは正直な所、明確なものではなく、自身でも何を求めればいいのか不明な程、曖昧なものであった。
「……はあ」
細雪は憂鬱気味な溜息を吐く。そして、今回の目標を設定していない目的を達成する為に、支度を整えて部屋を後にした。
人間は見慣れない景色を目にすると感動するが、細雪の現在の感動とはすなわち、不安、躊躇、憂慮……などと言った、負の感情の集大成である。
細雪は地図と一片の紙切れを交互に見ながら、見知らぬ地理を散策する。
途中、路に何度か迷い混乱したが、通行人の親切もあって、細雪はやっとの思いで目的の高級住宅地に辿り着いた。
細雪が一件一件、しらみ潰しに家を見る。その度に心臓の鼓動が大きくなっていく。
そして、とある家の入口を目にした時。
「……っ!?」
細雪の心臓が一際大きな音を立てた。何故なら、その視線の先には……『高須』と彫られている大理石製の表札があったからだ。
細雪はその姓を前に立ち竦む。だがここまで来て、今更、後には退けなかった。
震える手で呼び鈴を押すと、チャイムが響き渡る。けれども中からの反応は無い。
細雪は残念に思いながらも、内心は少しだけ安堵していた。そして踵を返してこの場を立ち去ろうとした、まさにその時の事である。
「私の家に、何か御用ですかな?」
向かいの道路に、白いビニール袋を片手にぶら下げた白髪の男性が立っていた。
――ああ、これでもう後戻りはできない。
細雪は息を呑んで、こう覚悟するのだった。

細雪は家の客間に通され、現在、白髪の男性と対面していた。
ガチガチに緊張している細雪。異性への恐怖心が少しずつ薄れてきているとは言え、部屋の中で家族以外の男性と二人きりになるのは初めてである。もしこの空間がもう少し狭く、相手の風貌に粗野が表われているのならば、細雪はこの場で失神しているかもしれなかった。
「大丈夫ですか。顔色が優れない様子ですが?」
「はい……大丈夫です……」
もう一つ幸いなのは、目の前の白髪男性には微かに高須の面影がある事だった。
「それで、私の息子に関する話とは、何事でしょうか?」
「は、はい。その……。御子息の現在の情況は御存知でしょうか?」
細雪は声を震わせながら、相手を窺うようにして尋ねた。
「ええ。存じております。二、三週間程前に、弁護士の方から一度連絡がありましたので」
「一度、と言いますと、その後はお話しされていないのですか?」
「その後、とは。どの様な意味で?」
「その……起訴、されてしまった件です」
「そうですか。起訴ですか」
父親は眉一つ動かさずに頷くと、目の前の紅茶の入ったカップに口を付けた。
「はい。大変、遺憾な事だとは思いますが……」
「なるほど……。分かりました。それで、冬場さんと仰いましたかな。今回は一体どの様な用件で、こちらに参ったのですか?」
「えっ」
父親はカップを置くと、細雪を怪訝そうに見た。
「だってそうでしょう? 弁護士以外の者が、息子の起訴事実だけを伝えに、わざわざ我が家を訪れるとは思えません。何かきっと、他の理由があるのでしょう」
「それは……」
父親の目は、細雪の意図を見透かしていた。
「はい……。実は先日、高須さんの担当弁護士の方とお話させて頂いたのですが……その」
細雪は申し訳なさそうに父親を見る。父親は黙って話を聞いていた。
「起訴決定後の被留置者には、保釈の権利がある、と伺いました……」
「……なるほど。話の内容が理解出来ました」
父親が紅茶を一口飲むと、今度は鋭い視線を細雪に向ける。
「しかし何故、貴女が私にそれを伝えに? 失礼ですが息子とは如何なる御関係で?」
「それは……」
細雪は答えられなかった。高須との関係があまりにも曖昧不明瞭であったからだ。
そんな細雪の様子を見た父親は何かを黙考していたが、暫くすると口を開いた。
「いや、失礼。余計な質問でした。冬場さん、私には貴女についての人間関係や事情を知る権利はありません。しかし、貴女も私に息子の助けを請う権利もありませんし、そのつもりもありません」
「そんな!?」
父親は冷淡にも言葉を続ける。
「いえ。そもそも、私に息子と言うものは存在しません。以前、弁護士の方にも一度申しましたが、私は唯一の家族を十二年前に失ってます。なので、その男性とは全くの無関係です」
「そんな……ひどい……」
例え疎遠になろうとも。親が健在しているだけ、高須は自分よりも恵まれている状態だと、細雪はそうずっと思い込んでいた。それだけに、実の肉親が放ったその言葉があまりにも衝撃的で、失神する程の眩暈を起こしそうになった。
「唯一の家族、なのに……」
細雪は目の前の白髪男性が急に恨めしく感じ、思わず涙を溜めたままの瞳で、喰い掛かるように見詰めていた。
流石にその形相をひたすらに向けられる側は堪ったものでない。故に、白髪男性は露骨な気まずさを顔に浮かべると、
「それならば貴女が父親の替わりに、その方の支えになってあげて下さい」
慰めにも似た、捨て台詞を吐いた。
結局、高須はとおの前から、天涯孤独の身であったのだ。
その後、細雪は高須邸を後にすると、不安定な歩調で夏彦のいる病院へと向かった。
細雪の顔は、道行く人々が思わず振り返る程、心神喪失者さながらに酷かった。睡眠不足がたたっているのもそうだが、それ以上に先程のやりとりが主たる原因であった。
病院に辿り着いた細雪が、真っ先に向かったのは化粧室だった。
「あら? もしかして冬場さんじゃない? どうしたのそんな酷い顔して?」
そこで細雪の名を呼ぶ優しい声。視線を上げると、そこには良く知っている先客が居た。
「……安田さん」
その熟年看護師の顔を見た途端、細雪の目から大量の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
「あらあら。何があったかは分からないけど。取り敢えず、ここではない所に移動しましょうか」
安田は優しく細雪の肩を抱くと、化粧室から病院の中庭へと誘導した。
細雪をベンチに座らせてその場を一旦離れた安田だったが、暫くすると湯気を立たせた紙コップを二つ両手に持って戻って来た。
「紅茶だけど、コーヒーの方が良かったかしら?」
「いいえ。ありがとうございます……」
細雪は安田から差し出された紙コップを受け取ると、中身の紅茶を一口啜る。すると不思議な事に、今しがたまで不安定だった情緒が徐々に和らいでいった。
「どう? 落ち着いた」
「はい。おかげさまで」
「それは良かったわ。それで一体何があったのかしら。夏彦君の事?」
その質問に、細雪は首を左右に振った。
「そう」
安田は細雪の隣に腰掛けると、空を見上げた。
「今日は良い天気ね。何もかもが、きれいさっぱり洗い流されるような青空だわ」
細雪も釣られて、空を見上げる。
「そうですね。本当に綺麗な晴天ですね」
その瞳には、一面青く澄み渡っている空が映っていた。
「ねえ、空ってね。ここの病院に居る患者さんにとっては全て同じなの。子供もお年寄りも、妊婦さんも。みんな、今日の空を見れば、きっと心がきれいになるわ」
「同じ……、ですか?」
細雪が疑問を投げ掛けると、安田は空を眺めたまま、頷いた。
「そう。だから患者さん達の為に、雨の日なんてなくなって、みんな元気になれれば良いのに……って、空を見る度に思うんだけど。少し夢見がちかしらね?」
安田は心恥ずかしそうに笑っていた。
「でもね、冬場さん。晴れの日でも、患者さんには青空が見えない時があるの。それはどんな時だと思う?」
「それは、手術などの理由ででしょうか?」
安田は首を横に振り、温柔な眼差しを細雪へと向ける。
「それはね。身近な人が曇った表情をしている時よ」
「!?」
安田は細雪の肩を、優しく、それでいてしっかりと叩く。
「だから、夏彦君にとって一番身近な空である貴女が、あんな顔をしてちゃ駄目よ」
「はい……。ありがとうございます」
安田の気遣いによって心の負担が些か軽くなった細雪は深く一礼すると、そのまま夏彦の病室へと向かって行った。
病室に入ると、細雪の顔は真っ先に青ざめる。何故なら、夏彦が開いた部屋の窓から半身を乗り出していたからである。
「夏彦っ!! 何をしているの!!」
細雪の悲鳴にも似た怒声に、夏彦は身体全体を怖張らせると、慌てて上半身を室内に戻した。
「お、おねえちゃん。びっくりしたよお」
「びっくりしたのは私の方よ。一体、何をしていたの!!」
細雪は強い口調で問いただす。先日までの夏彦の精神状態から、とても好からぬ想像が脳裏に浮かんでいた。
「なにって、そらをみていたんだよ」
「空?」
「うん。きょうのてんきははれで、そらがすっごくあおいんだ!!」
夏彦が嬉々としてはしゃぎながら、再び窓の外を見る。その様子を目にした細雪の緊張は一気にほぐれた。
「そうね。今日は良いお天気ね」
「うん!!」
細雪は夏彦の隣に立つと、肩を並べて上空を眺める。南向きの窓から見える光景は中庭のものと異なり、淡い太陽が顔を覗かせていた。
「ねえ、おねえちゃんしってる? おひさまにはげんきがいっぱいあって、それをあびるとげんきがでるんだって」
「そうなんだ」
先程、耳にした話と類似しているので、きっと情報元は安田だろう、と細雪は思った。
「うん。だから、おにいちゃんもここにきて、このそらをみればきっとげんきになれるのに……」
「そうね……」
高須の話題が出て、細雪の表情が思わず曇りそうになる。しかし夏彦の前ではおくびにも出せぬので、薄目で日光を直視して耐えていた。
「ねえ、おねえちゃん。おにいちゃんは、しゅじゅつしないとなおらないんでしょ?」
「え?」
細雪が視線を横に向けると、夏彦は遠い目で空の彼方を見ていた。
「きのう、おにいちゃんはぼくとおなじくらいおおきなびょうきだって、ゆいおねえちゃんがいってた」
「え、ええ。そうね」
「でも、おにいちゃんは、ぼくとちがってかぞくがいないから……。きっと、しゅじゅつができないんだよね。だから、びょうきがなおらなくてぼくにあえないんだよね?」
「……ええ」
細雪は返答に迷いながらも首を縦に振る。経緯が異なるとは言え、結果的に家族に見放されて救いの道がない事には変わりがなかった。
「だからね、おねえちゃん」
 突然、夏彦は細雪の正面に顔を向けた。
「ぼくきめたんだ。だったら、ぼくがおにいちゃんのかぞくになってあげるって」
「えっ?」
細雪が反射的に目を見開く。夏彦の発言の心意が不明だった。
「ぼくがおとうとになって、おにいちゃんのしゅじゅつをおいしゃさんにおねがいするんだ!!」
「夏彦、一体どうし……?」
細雪は一瞬冗談かと思い、夏彦の目を凝視するが、その瞳の奥からは真摯な想いのみが満ち溢れていた。
細雪は改めて悟った。夏彦も自分と同じく、高須に対して一途な感情がある事を。
同時に細雪は慙愧(ざんき)した。六歳児の弟の方が自分よりも遥かに先へ踏み出す勇気を持っていた事を。
直後に細雪はとても大切な事を思い出した。夏彦が自分の信頼すべき唯一の肉親である事実を。
「あのね夏彦、一つ聞きたい事があるけど。いい?」
だから、細雪の口は自然と動いていた。
「うん。いいよ」
夏彦の頷きに、細雪は高鳴る鼓動を落ち着かせて、頭の中の言葉を整理する。
「その、もし。もしもね、夏彦が高須さんの手術をお医者さんにお願いする事で、夏彦の病気が治るのが二、三ヶ月……ううん、もっと遅くなるかもしれないとしたら……どうする?」
震える声で尋ねる細雪。すると夏彦は二コリと笑った。
「いいよ。おにいちゃんは、ぼくとおねえちゃんに、かびぱらさんとケーキをくれたし。クリスマスには、ぼくにゆうきをくれるって、やくそくしてくれたんだ。だから……」
――ぼくは、げんきになったおにいちゃんに“あい”をあげたいんだ。
その言葉が心に響いた時、細雪は思わず夏彦を抱きしめていた。
「ねえ、おねえちゃん。ぼくはおにいちゃんのことが、おねえちゃんとおなじくらい、だいすき!! おねえちゃんは?」
「私も勿論、夏彦が大好きよ」
夏彦は身体をがっちりと固定された中で、首を力一杯に左右へと動かした。
「ううん。おにいちゃんのことだよ」
夏彦は悪気が無いのか、卑怯にもこのタイミングで尋ねてくる。
逃げ道を塞がれた細雪は、もうこの場で本心を曝け出すしかなかったのだ。
「ええ。私も、高須さんの事が大好きよ!!」


五章
高須は牢に居た。
そこは留置房でも懲罰房でも保護房でもない、一面の暗闇に閉ざされただけの部屋。
高須の起訴後、細井が私選弁護士の敏腕により被害者側との示談が成立して釈放され。そしてその後、起訴を言い渡された高谷が拘置所へと移監された。
高須の肉体は確かに留置房にあるが、その精神は一切の蔓と糸から見放された絶望の檻に収監されていた。
「もう……、疲れた……。これ以上、何かを奪おうとしないでくれよ……」
高須は気力無く呟き、全てを諦めたいが為に、強く目を瞑る。
「……くっ……ううっ」
けれども滲む涙がそれをさせてくれない。脳裏にどうしても二人の姉弟の姿が浮かんでしまうのだ。それも想いを振り切れば振り切ろうとする程、像はより鮮明となっていく。
「細雪ぃ……」
高須の口から、ここ数日欠かさず面会に来てくれていた女性の名が漏れる。本心はあのように冷遇したくなかった。安慰の言葉を掛けたかった。しかし、高須にはそれが許されなかった。希望を持たせてしまえば、彼女の弟の心を更に深く傷付けてしまう事に繋がるからだ。
だがどのみち、二人を裏切ってしまう結果になる事は必然だった。
その時、留置房の扉が甲高い悲鳴を発して、鈍く開いた。
高須は目蓋を開く。この房には既に自分一人しかいない。
「高須さん。面会ですよ」
――きたか。
高須は重い身体を起こし、本日の冷たくあしらう算段を、その既に冴えなくなった頭の中で巡らせた。

12月17日(月)
高須が面会室に入ると、細雪が既に席へと着いていた。
「こんにちは、高須さん。三日振りですね」
細雪は高須を目にすると、落ち着いた口調で挨拶をした。
「あ、ああ……こんにちは」
出会い頭に拍子抜けする高須。何故なら、細雪の態度は前回までの面会とは異なり、何処かしら余裕が感じられたからだ。
高須は自分の椅子に腰を下ろし、細雪を正面に見据えると、早速口を開いた。
「それで、今日は何の用があって来たんだ?」
高須は意地悪く、わざわざ分かり切っている事を尋ねる。だがそうでもしないと、自分自身でも冷徹な感情の切り替えが不可能だった。
しかし細雪から返って来た答えは、高須の予想だにしないものであった。
「はい。今日は、保釈の件について、お話があります」
「は?」
高須の目が点と化す。訳が分からず、思わずその場で呆然となってしまう。
「はい。高須さんの、保釈についてです」
自分の名が出てきた途端、高須は我に返る。
「俺の、保釈……どう言う事だ?」
高須の唇がわなわなと振える。一体、何処でその話に行き着いたのか、全くもって見当が付かなかった。
「実は金曜日の面会終了後に、偶然にも高須さんの弁護士の方とお話する機会がありました」
「君島さんか……。そうか、あの日来たもんな」
「ええ。そこで高須さんのお話をして頂いたのですが、その中で保釈の権利がある事を耳にしました」
「ああ、保釈か。俺も申請しようとしたけど、断られたよ。その、金と保証人がないって理由でな」
高須は自嘲気味に笑った。けれども細雪はその姿を決して蔑もうとも、憐れもうともせず、一心に高須の瞳を真っ向から受け止めていた。
「高須さん。お尋ねしたい事があります」
普段と違う、丁寧にも重圧を感じさせる声。高須の自虐笑いが思わず止まる。
細雪は目を閉じて、深めの呼吸を繰り返すと、意を決して口を開いた。
「正直に答えて下さい、高須さん。今の貴方には夏彦に勇気を与えてくれる気持ちが、未だに残っていますか?」
「は?」
高須には細雪が突然、何を話し始めているのか理解不能だった。
「夏彦は今でも貴方をずっと信じて待っています。高須さんは夏彦の気持ちに応える事が出来ますか?」
「一体、何を言っ……!?」
そこで高須の口が急に止まる。何故なら、細雪が目に涙を溜めながらも、視線の方向だけは全く変えようとしなかったからだ。
「……ああ。できるものなら、答えたいよ」
細雪の意図がどうであれ、本気の質問だと直感した高須。もうこの時点で感情を偽る事は不可能だと悟っていた。
「信じて、良いんですね」
「ああ。本当だ……。夏彦の顔が見たい……」
高須の本心を耳にして、細雪はホッと胸を撫で下ろす。
「分かりました。それでしたら、保釈の手続きをしてみます」
「え! ど、どうして細雪が? てか、簡単にできるものじゃなくて、保証金とかどうするつもり……!?」
高須の慌てて言い放った複数の疑問に対して、細雪は微笑みながら頷いた。
「はい。私が用意します」
「いや、用意って、あっさり言われても。そもそも、金額を知っているのか?」
その問いに、細雪は再度頷いた。
「約150万円です」
「ちょっと待ってくれ。そんな大金、どこから用意するんだ!! 夏彦の手術だって間近に控えているのに……っ!?」
そこで高須は何かに勘付いた。
「ま、まさか……夏彦の?」
恐る恐ると尋ねる高須の問いに、細雪が頷く事はなかった。
「待ってくれ! 夏彦の手術はどうなるんだ!?」
「それは……、大丈夫です」
「嘘だ。本当の事を言ってくれ……」
高須は懇願するように言った。
「……保釈金が返還されるまで、延期となります」
「細雪、分かっているのか。裁判の判決が出るまで、下手すると二、三ヶ月は掛かってしまうかもしれないんだぞ?」
「はい。知っています」
「そんな……。俺に、夏彦の命を二、三ヶ月危険に晒せって言うのかよぉ……っ」
夏彦を助けるつもりが、逆に下手を打った自分が救われ、挙げ句の果てには本人を命の危険に晒してしまっている。高須は羞恥と自責の念に苛まれ、頭を抱えて深く嘆いていた。
細雪はそんな高須を見下ろしていたが、今まで以上に優しい口調でこう言った。
「高須さん。これは夏彦と私の総意ですから」
「夏彦が……?」
高須が怯えた小動物のような顔を上げる。するとそこには、温和な眼差しを向けている細雪の顔があった。
「はい。夏彦は高須さんから、沢山のかけがえのないものを頂きました。だから自分は大好きな高須さんに愛を返したい、と言っていました」
「夏彦……」
細雪は自身の胸に手を当てる。
「そして、私も同じ気持ちです」
「細雪……」
「だから……、お願いですから。夏彦に、あの子に……あの時の約束を。勇気をプレゼントしてあげて下さい……どうか、お願いします……」
細雪の目から一涙の希望が、零れ落ちる。
「ああ……勿論だ。約束する。ありがとう、細雪。ありがとう、夏彦。二人とも、本当にありがとう……」
高須も涙ぐみながら、ひたすら二人の姉弟に衷心の感謝をした。
その後、看守の粋な計らいで、面会室で二人きりとなる高須と細雪。
暫く見詰め合って、お互い照れ笑いを浮かべていた、突如、高須の頭にふとした疑問が浮かび上がる。
「そう言えば、細雪」
「はい。なんでしょう。高須さん」
「保釈の事なんだが、保証人はどうするんだ? 親族じゃないと、まず申請自体が不可能なんじゃ……?」
今更気付いて、思わず青ざめる高須。それに対して、細雪は首を横に振る。
「いいえ。保釈申請なら弁護士の方でも手続きが可能です。ですが、保釈申請が通過するとなると、過去の例から確実とは言えないみたいですが」
「そうなのか。家族がいないと厳しいかもしれないのか……」
不安を顔に浮かべる高須を余所に、細雪はくすりと笑った。
「そうだとは言い切れませんので、大丈夫ですよ。それに申請は一度断られても、再度の申請が可能なようですし」
「一度駄目だったのに、二回目は通るものなのか?」
「多分、事情が変わらなければ、結果は一緒だと思います」
「それじゃあ、万が一の場合はどうするんだ?」
「ええと、その場合は……」
細雪は何故か急に、高須から視線を逸らしてしまった。
「あ、あの、そのですね……」
顔を急に赤らめた細雪は自分の鞄から、慌てて二つ折りにされた一枚の紙を取り出すと、透明板越しに高須へと広げて見せた。
「え!?」
その紙面に記載されている内容を目にした高須は、驚き固まった。
「わ、私だって、必死に悩みましたよ。だからこれは、その……最後の手段です」
「最後の手段って……。そんな無茶苦茶な」
高須は開いた口が塞がらなかった。細雪が手にしている紙とは、まさしく……。
「ともかくです! 高須さん、唐突な話ですけど。もし、もしもですよ……この書類に“一旦”署名をしなくてはならない場合。どうしますか?」
細雪は恥らいながらも、高須の目を一生懸命に見ようとしている。
高須は突拍子もない細雪の大胆さにあんぐりと口を開けて呆けていたが、やがて観念したかのように息を吐いた。
「そうだな。その時は――」

12月25日(火)
この日は一日中、雪が降っていた。
夏彦はいつも通り、病室から窓の外を眺めていた。
早朝、敷地内には日課の散歩やジョギングをしている老人達が、白い景色の中で更に白い息を弾ませながら、両手を擦り合わせていた。
昼には、嬉々わいわいと積雪にはしゃぐ夏彦と同年代の子供達が、雪合戦や雪だるまを作って遊んでいた。
そして夕方になると、灰雪は細雪(ささめゆき)へと変化し、しんしんとまるで聖誕節を祝福するかの如く、優しく柔らかく辺りに降り注いでいた。
子供達は夜空を眺めながら両親に手を引かれ、一人、又一人と敷地内から姿を消して行く。その顔は皆、温かい幸福に包まれていた。
それでも、夏彦はずっと窓の外を眺めていた。
夏彦は信じていた。姉が、友人が、そして自分だけのサンタだと約束してくれた家族が来てくれるのを。
だから夏彦は、羨ましいそぶりや、泣き言はおくびにも出さなかった。
「おにいちゃん……まだかな……」
夏彦が窓に向かって、いつもの言葉を呪文のように呟く。
キィ……ッ。
すると魔法が効いたのだろうか。病室の扉が静かな音を立てて開き始める。
夏彦がすぐさまベットから降りて入口へと視線を向ける。そこにはサンタクロースに扮した細雪がケーキ箱を片手に立っていた。
「メリークリスマス、夏彦」
「おねえちゃん!!」
「あーあ。やっぱり、こっそり入る前に気付かれちゃったね」
「ゆいおねえちゃん」
 その隣から、トナカイを模した大島が顔を覗かせた。
 だが夏彦にとって本当のサプライズとは、二人の陰に隠れているもう一人の存在だった。
「あっ」
何かに気付いた夏彦はおずおずと扉に駆け寄って、そこから廊下へと首を伸ばす。
そこには最も待ち焦がれた、こそばゆそうな照れ笑いを浮かべた大きなサンタクロースの姿があった。
「お、おにい……ちゃ……っ」
夏彦の顔がくしゃくしゃになり、瞳からはすぐに涙がぼろぼろと流れ落ちる。
「……遅れてごめん。夏彦、メリークリスマス」
「おにいちゃぁぁ……んっ」
夏彦が叫びながら、高須の膝に強くしがみ付いた。
「おにいちゃんっ。ぼく、ぼく、さびしかったよぉ……っ」
「ああ。俺も寂しかった。もしも夏彦が愛をくれなかったら、俺はきっと駄目になってたな」
高須は夏彦の頭を撫でると、身体を優しく抱き上げた。
「ほんと……? ぼくのあい、とどいたの……っ?」
「ああ、姉ちゃんが届けてくれた。本当にありがとうな、夏彦」
姉弟の泣き癖が伝染してしまったのだろうか。高須の目元には大量の涙が溢れていた。
「ぼく、いっぱいおにいちゃんのびょうきがなおるように、おねがいしたんだよ。おねえちゃんにたのんで、なんかいもなおしてくださいっておねがいしたんだ!」
「ああ。ありがとな」
「うん……。だから、おにいちゃんもぼくのびょうきがなおるように、きてくれたんだよね?」
夏彦が強く同意を求めるかにして、高須の顔を真剣に覗き込む。
「勿論そうだ。その為に、兄ちゃんはここに来たんだ。夏彦との約束を守る為にな」
「ほんとお?」
高須は夏彦と視線を交わせると、自信満々に力強く頷いた。
「ああ、前にも言っただろ? 兄ちゃんは夏彦のサンタクロースだって」
「うんっ!」
夏彦の顔から涙が瞬時に消え、替わりに眩しい笑顔が現れる。高須の雨上がりの瞳には、それが晴天の太陽の如く映った。
「それじゃあ、サンタのおにいちゃん。おねがいです……」
夏彦は待ち焦がれていたものを、高須へと要求する。
あの日以来、ずっと一途に家族を信じていた少年。だからこそ、少年には自分だけのサンタクロースに対して、最高のプレゼントを催促する資格があった。
「――ぼくに、ゆうきのおくすりをください」
二人の三度目の約束は、今、この瞬間をもって果たされた。
この『絆』こそが、人との繋がりを失い掛け、絶望していた高須と細雪を救った、愛と言う名の蜘蛛の糸であり。
同時に死の淵に立たされていた夏彦にとっての、勇気と言う名の命の蔓だったのかもしれない。


エピローグ
――十一年後、夏。
「うん。楽しみに待ってるね。うん、またこちらからも電話する。それじゃあ……」
受話口から通話の相手の声が途切れた事を確認すると、細雪は手にしている固定電話の子機を元の位置へと戻した。
「ほれへ、何はっへ?」
 突如、背後から放たれた野太い男の声。振り向いた細雪が壁際に視線を移すと、その先のソファーに浅く腰を掛ける隆々とした体躯の青年が、カップラーメンを物凄い勢いで啜りながら、何かを訊きたそうな表情を作っていた。
「え?」
「んぐ……いや、だから、由衣さん。何か言ってた?」
「うん、あのね、先週のイベントで買ってくれたお土産を昨日発送したから、今日あたりには届くはずだって!」
細雪はまるで夢見る乙女の如く、つぶらな瞳をキラキラと輝かせる。顔が依然としてあどけないだけあって、初見の人間からすれば何の違和感もないのだが、細雪を良く知っているその青年は心の底から呆れ返った。
「……相変わらず、三十路をとっくに過ぎても、その趣味なんとかならないかな。俺なんて、アニメなんか柔道始めてからは見た記憶がないよ。と言うか、恥ずかしくないの?」
青年は溜息混じりに呟くと、容器で顔を覆い隠すようにして中の麺を一気に口へと運ぶ。
「あ、そう。それじゃあ、ゆいちゃんにも伝えておく」
「んぐっ!」
不意の一言で、青年が急にむせ返り、すぐに右拳で胸をどんどんと力強く叩き始める。
「べ、別に由衣さんには言ってないよ」
「どうだか?」
「本当だよ!」
青年はまるで天敵に脅えるようにして否定するが、その目は完全に泳いでいた。
「そもそもウチはウチ、ヨソはヨソ、だろ」
「ふーん。ヨソ、ねえ? あ~あ、ゆいちゃんも可哀想に……」
「な、なんだよ」
細雪は動揺する青年の隣に腰掛けると、意地の悪い笑みを浮かべて、こう言った。
「あれぇ~? 昔は、ゆいちゃんと結婚するってあんなに言ってたのに。一体、あの頃の可愛さは何処に行ったのかしら……?」
「変わったのはお互い様だろ……」
「何か?」
細雪が冷笑を浮かべると、青年は咄嗟に顔を逆方向に逸らして、再び容器に顔を埋める。
「あっ、そう言えば。ゆいちゃん、看護副師長になるそうよ」
「へー。そりゃ、めでたいね」
青年はラーメンの汁を啜りながらも、しっかりと言葉を返していた。
「まあ、でもあの人なら有り得るだろ。なんせ俺が昔、心臓の手術をした時、師長と結託して支払期日を延ばすよう、院長室に殴りこみかけたんでしょ?」
「殴ってはいないけど……。でも、ゆいちゃんと安田さんにお世話になったのは、紛れも無い事実よ」
細雪が苦笑いながら答えると、青年は無表情で最後の汁の一滴を飲み干し、空の容器をそのまま隣のゴミ箱へと投げ捨てた。
「さて、と。腹も少し膨れたし、そろそろ行くか」
青年はソファーからのっそりと立ち上がると、足元に置いてある大き目のショルダーバッグを手に取る。膨張寸前な容量の所為で紐が上手く肩に掛からない。
結局、鞄は本来の用途を果たしそうもないので、青年は仕方なく本体を肩にそのまま担いで持ち運ぶことにした。もしこれが細雪の荷物であるのならば、間違いなくキャリーを使う羽目になっているだろうが、人を背負い慣れている青年にとっては容易な事であった。
「今日から一週間の合宿だっけ? 服と下着は足りるの? 向こうに洗濯機はあるの?」
細雪が御節介にも尋ねると、青年はやれやれと首を横に振った。
「あのさ、一週間泊り込みの後、そのままインターハイって言わなかったっけ?」
「あれ? 言ったかしら」
細雪は顎に手を当てて考え込む。冗談ではなく、本気で時たま首を傾げていた。
「……そう言えば、それとなく聞いた気がしなくもないけど。つまりそれじゃあ、二週間くらい戻って来ないのね?」
「それも言った筈だけどな。そして正確には十三日間だ。洗濯は合宿所とホテルでする。それよりもマジで、その歳で痴呆だけはやめてくれよ?」
青年は本気で心配そうに細雪を見ていたが、
「大丈夫よ。いつもの事でしょ」
「確かに、それもそうか」
その一言であっさりと納得する青年。そのまま玄関に移動して運動靴を履くと、外へと繋がる扉の取っ手にゴツゴツとした手を掛ける。
「あ、そうだ」
青年は突然何かを思い出すようにして、見送りで付いて来た細雪へと振り返る。
「姉貴。俺、団体と個人戦、両制覇してくるよ。だから帰ってきたら祝賀会よろしくな!!」
「ええ。期待して待っているから、優勝してきなさい。――夏彦」
細雪は微笑みながら、最愛の弟の後ろ姿を見送った。
夏彦が去って行った後、細雪は気合を入れて家の中を掃除していた。目に見える所は当然、客人には縁がない場所まで念入りに塵埃を落とす。
最後に倉庫部屋の清掃へと取り掛かる。そこは処分しきれない趣味を保管している四畳半の部屋であり、関連書籍やグッズが異様に多いので倉庫部屋と言うよりは、ちょっとした個人の書斎と化していた。
細雪が台座を使って長年放置していた本棚を整理していると、偶然、高棚の奥に潜むようにしてしまわれている一つの冊子を発見する。
「あれって?」
細雪が何気なく手を伸ばして取ってみると、それは表題に『絆』と黒の油性ペンで巧筆に書かれている白いソフトカバーのアルバムである事が分かった。
細雪は積もりに積もっていた埃を手で払うと、腰を下ろして、中身を閲覧してみる。
「あ……」
真っ先に細雪の視界に現れたのは、幼い細雪が両親と一緒に写っている写真であった。
「お父さん……お母さん……」
色褪せた写真の中では、父親も母親も中心に立っている細雪にも一切の隔たりがなく、皆が一概に幸福そうな笑顔を向けている。
細雪が名残惜しげにページを捲る。すると大島が現れ、途端に父親が消え。夏彦が現れるとすぐに母親が消える……。ページを捲れば捲る程、アルバムの風景が漸々と新しいものに移り変わって往く。
そしてページを捲る手が急にある位置で止まる。細雪の目は一枚の写真に釘付けとなっていた。
「これって……」
そこに写っている光景は、病院の中庭で夏彦を中心として、細雪、大島、安田、松本夫婦、そして高須の七人が満面の笑みを浮かべているものだった。
「あれから、もう十一年も経つんだ……」
細雪は時間の感覚も忘れる程、一途な感慨に耽る。そして気が済むと、静かにアルバムを閉じて、両手でそれを抱えながら立ち上がった。
その時、アルバムの隙間から半折のくすんだ紙がはらりと落ちる。
「……?」
細雪は何かと思い、その紙を拾い上げて中身を閲覧する。
「あっ!?」
思わず目を見開く細雪。それは一枚の届出用紙であった。
紙面には“冬場細雪”と自筆で記入され、続けて実印が押してあった。しかし、それと対称的な位置にある欄は依然として空白のままだった。
「今思うと、随分と大胆な事したなぁ……」
自分と最愛の弟を救ってくれた希望の光。
細雪は当時の情景を思い出し、絆を胸に抱いたまま恥ずかしそうに彼の名を呟いた。
――ピンポーン。
突然、ドアチャイムの音が鳴り響き、それが細雪の身体の反応と共に意識を現在へと呼び戻した。
「ちわーす。お届け物でーす」
若い男の張った声が家の中まで響き渡る。相手を目視で確認するまでもなく、それはまさしく宅配員のものであった。
「あ、はーい。今、行きまーす」
相手に届いてるかどうかも分からない返事をした細雪は、慌てて紙をアルバムの隙間に戻して棚にしまうと、足早に玄関へと向かう。
案外早いな、と思いつつ。宅配物の中身に期待と胸を弾ませ、細雪は家の扉を大きく開け放った。
「こんちわーす、
――高須細雪さんで、よろしいでしょうか?」
 

命の蔓と蜘蛛の糸

命の蔓と蜘蛛の糸

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 成人向け
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2014-05-17

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