夜桜奇談

夜桜奇談

 爽やかな風に髪が揺れた。
 空には澄み透った青空が広がっている。
 大きな深呼吸をひとつ。胸の中を満たす、春の青臭い空気。
 夫の転勤でこの町に引っ越してから一週間。
 やっと家の中が片付き、気持ちが外へと向いた。
 周辺のスーパーや銀行は引っ越し前に確認していたけれど、その他のことについてはまったくわからない。
 天気もいいし、少し探検してみようという軽い気持ちで家を出た。
 お隣の奥さんが庭の花に水やりをしている。おはようございます、と声をかけると、陽気な声が返ってきた。
「今日はいいお天気ね。お出掛け?」
「はい。散歩がてらに、この辺りをまわってみようと思って。どこかおすすめの場所はありますか?」
 彼女は肩をすくめて苦笑いする。
「この辺りには特に見るようなものなんて……」
「どこでもいいんです。のんびり過ごすのにいい場所とか」
「そうねぇ……御山の神社くらいかしら」
「御山?」
 あの山のことよ、と彼女は東を指差す。家々の向こう側に見える、小さな丘陵。
「もうすぐ桜が咲いてきれいよ。でも、それだけ」
 それにね、と彼女は思案げに眉根を寄せる。
「あそこの神社、若い女性はあまり行かない方がいいって言われているの」
「何かあるんですか?」
「さあ……。私も嫁いできてから姑に言われただけで、詳しいことはよく知らないの」
 そうですか、と相槌を打つ。どうしようかと迷ったけれど、他に行きたい場所もない。神社までの道順を訊き出し、そそくさとその場を後にした。


 神社は思っていたよりも近くにあり、十分程で着いた。
 町の東端にある丘陵の麓。鳥居をくぐり、古びた石段を上がりきったところに小さな社があった。
 どれほどの年数を経ているのかはわからないけれど、木製の社は雨風で灰色に変色している。そのわりには表面にツヤがあり、隅々まで手入れが行き届いていて、大切に扱われていることが見て取れた。
 社の隣には同じように古びた小さな手水舎。そして社に向かい合うように、一本の大きな古木が聳え立っていた。
 太く力強い幹からあちらこちらへと手を伸ばしている枝には、たくさんのつぼみ。まだ固く、花が開くまでには日数がかかりそうだった。これらが一斉に咲く様子は壮観に違いない。
 桜の他にも木々がいくつも植えられていたけれど、わたしには、それらの木が桜を崇め称えているかのように見えた。桜が一番年老いて立派だからだろうか。あるいは、他の木の枝が、桜に向かって両手を挙げるように伸びているから……?
 不意に、おはようございます、と落ち着いた低い声が背後から聞こえた。
 驚いて振り返ると、そこには笑みを浮かべた男性の姿があった。目が合った瞬間、鼓動が強く脈打ち始める。
 白い着物に浅葱色の袴という身なりが神職であることを告げている。優しく細められた瞳。すっと通った鼻梁。薄い唇はほのかな桜色をしていて、きめの細かそうな肌にとてもよく似合っていた。宮司というには若く、わたしと同じ二十代後半くらいに見える。
「こちらには初めてですか?」
 彼に再び声をかけられて我に返る。あまりにもぶしつけな視線を投げかけていたことに気付き、恥ずかしさに顔が火照ってくる。
「つい最近、引っ越してきたばかりで……」
 ノドに引っかかりそうになる声。
「そうでしたか。この桜、見事でしょう?」
 桜を振り仰いだ彼につられるようにして見上げた枝先が、ざわざわと風に揺れた。
「ご神木です。御山から下りてこられた神様は、まずこの木の枝で一休みされた後、あちらの社に入られます。ご興味はおありですか?」
「ええ、まぁ……」
「よろしければご案内いたしましょう」
 ゆるりと差し出された手。静かで落ち着きのある動き。
「でも、ご迷惑なのでは……」
「ここは私一人ですし、結構暇を持て余しているのですよ」
 瞳にいたずらっぽい光を宿した彼に、わたしは素直に応じることにした。
「こちらの祭神は、先ほども申しましたとおり、この山にお住まいの男の神様です。春になると山から里に下りてきて里の守り神となり、秋になると山にお帰りになるのですよ」
 山から桜へ、桜から社へとなめらかに動く手。彼は柔らかい笑みを崩さない。人当たりの良い笑みだったけれど、奇妙な違和感があった。けれどもそれははっきりと言葉で示せるようなものではなく。
 男の流れるような振る舞いや落ち着いた静かな声には気品があり、その姿の美しさとともに、わたしの心に深く刻み込まれたのだった。


 毎朝、夫が仕事に出掛けた後、神社へ行くのが新しい日課になった。
 通勤や通学の途中に参拝する人が多いことに気付き、その時間帯は避けるようにした。男はそれを知ってか知らでか、わたしと会っても話しかけることはなく、ただ会釈をするのみだった。
 その静かな佇まいがまた美しく、控えめで押し付けがましくないことも好ましく思えた。すれ違う時、かすかに香が鼻をくすぐるのも印象的でなよやかだった。
 気付けば彼を目で追うようになっていた。
 舞のようにゆるやかな所作。音も立てずそっと静かに歩くさま。ふと気配を感じて振り返ると、少し離れたところで穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ている。
 優しく細められた瞳には、深い愛情――親しみだとか友愛などではない、何かが示されていて。
 わたしは当惑した。
 彼に好意を持つ一方で、近付いてはいけないような気がした。少なくとも、今の距離を保っていなければならない、と。


 半月が過ぎた。
 桜の古木は目覚めが遅く、つぼみはまだ青く固いまま。
 神社の周辺では桜色の絨毯が敷きつめられ、木々は瑞々しい青葉を茂らせていた。
 いつもなら午前中に神社を訪れる。けれども、今日はどうしても先に済ませてしまわなければならない用事があって、神社に行った時には日が暮れかけていた。
 男は古木に寄り添うようにして立っていた。幹に片耳をあてがい、目を閉じてうっとりと。
 どこか幸せそうに見えた。その一方で、夕日の赤い光が彼と古木をその周辺から切り離し、孤独で寂しいものにしていた。
 声をかけることは躊躇われた。彼らの世界を壊してはいけない。もし壊してしまったら、その時は――。
「……いらしていたのですか」
 はっと彼の顔に目を遣る。男は桜から体を離し、こちらをじっと見つめていた。
「今日はもう来られないのだと思っていました」
 まだ夢の中にいて心ここにあらずという表情。美しい顔はほんのりと夕日の赤に染まり、妖艶な笑みが口の端からこぼれ落ちた。
 とても嫌な予感がした。この場にいてはいけないと頭の中が激しく叫び声を上げている。けれども体は動かない。まるで石になったように。
「この社の祭神の話を覚えておられますか?」
 優しい問いかけがしっとりと耳に届く。ドクン、ドクン、と強く音を立てている心臓がうるさい。
「その話には続きがあるのですよ」
 知りたいですか? と彼はクスクス笑いながら、わたしの方へ一歩、また一歩と近付いてくる。
「ある年の春、山から下りてきた神は人間の女に恋をしたのです」
 細められた目はとろんと蕩けている。何を考えているのか読み取ることはできない。
「彼は人間の女を妻に迎えました。人間たちはとても喜んだ。秋になって彼が山に帰るとき、女は人の身であったからともに行くことはできず、この里に残った。次の春、再び山から下りてきた彼が見たのは、人間の子を腹に宿した女の姿」
 意味はおわかりですね? と彼はわたしの顔をのぞきこんだ。頭に靄がかかったようになって、体の奥がじんじんと熱を帯び始める。男の瞳から目が離せない。
 いつの間にか彼の手が背中にまわされていた。ゆっくりと桜へ導かれる。ふわりと鼻先を掠める甘酸っぱい香り。
「彼は怒り狂った。桜が咲きほこる夜、女の柔らかく美しい体を喰らった」
 男は枝につと手を差し伸べる。桜色の美しい爪。月のように白い手が枝をなぞる。愉しげに。優雅に。
 頭の中がじんわりと痺れてくる。目が眩むような感覚。
「……吉乃」
 なぜわたしの名を知っているのだろうと虚ろな頭でぼんやりと考える。きらきらと夕日を浴びて、男の瞳が金色に輝いている。
 もう何もかも、彼に委ねてしまいたい。
 ただ、彼の甘い声を聞き、彼の流れるような手の動きを見、彼にされるがまま身を預けて。
 そう思った瞬間、りん、と鈴の音が響き渡った。
 誰かが石段を上がってくる。段を踏むごとに、りん、りん、とこだまする。
 はっと正気に返る。とても近くに彼の顔があった。忌々しそうに顔を歪め、金色の瞳がきつく石段を睨みつけている。初めて男が見せた感情に、わたしは悦びを覚えた。
 その一瞬を彼は見逃さなかった。満足そうにわたしを見下ろした。けれど瞳が輝きを失っていくにつれ、その表情は翳りを帯び、やがて唇を固く一文字に引き結んでまぶたを閉じた。何かを諦めようとしている、そんな気がした。
 失礼いたしました、と男はわたしに背を向けた。こちらこそ、とわたしは呟くように小声で応じた。
 わたしは、わたしたちは、一体何をしていたのだろう。
 考えなければいけないのに、まるで糸がもつれ、からまるかのように、思考がまったくまとまらない。
 男が強張った冷たい声で言った。
「……もう、ここへ来てはいけない」
 なぜ? と訊ねる時間さえ与えず、急ぎ足で社の中へと姿を消した。その背中はきつくわたしを拒んでいた。
 鈴の音はその間も鳴り響いていた。やがて、杖をついた老婆が一人、石段の上に姿を現した。社に参拝した後、わたしの顔を物言いたげに眺めながら石段をゆっくりと下りていく。
 少しずつ遠ざかる鈴の音。


 わたしはフラフラと家に帰った。
 自分の身に起こったことが理解できなかった。
 男の様子は明らかにおかしかった。
 いつもより艶かしく、危うげなほど繊細で、何かに魅了されたかのように陶酔していた。
 この世のものとも思えない妖しさ。わたしは渦に引き込まれるように彼に惹きつけられ、捕らえられ、できることならずっとそのままでいたいと感じたのだった。
 あれは何だったのだろうと考えれば考えるほど、深みに嵌っていく気がした。
 彼の声が聞きたい。金に煌めく瞳を見たい。白磁のような手に触れたい。触れてほしい。
 それに、あの桜。彼が愛おしそうに手を這わせていたあの桜をもう一度見たい。
 そして知りたい。彼と、桜の、本当の姿を。
 けれど彼はわたしが訪れることを望んではいない。あの冷たい声を、振り返らなかった背中を思い返すたび、心は千々に乱れた。
 気付けば時計は0時を指している。夫はまだ帰ってこない。
 ほんの少し。
 ほんの少しだけ、家を抜け出そう。
 彼の姿を、桜を、ほんの少し見るだけ。
 男には見つからないように気を付ければいい。そして、夫よりも早く帰宅すればいい。何も問題にはならないはず。
 そうと気持ちが固まるや否や、取るものも取らずに玄関を飛び出した。時折足がもつれて転びそうになりながら、夜の闇の中を駆けた。
 いつの間にか、白いものがひらひらと空中を舞っている。雪のように音もなく。
 彼が呼んでいる。わたしを待っている。
 会いたい、早く会いたいと心がはやる。
 何度も通った道を走り抜け、鳥居をくぐり、石段を駆け上がった先に見えたのは。

 満開の桜。

 一面に広がる、淡い桜色。枝がその重みに逆らうように大きく張り出している。
 月の光を受けて薄ぼんやりと闇に浮かび上がっているさまは、神々しく、繊細で、優美。儚さの中に凄みがあり、圧倒される。
 太い枝の一本に、片膝を立てて座っている影を見つけたわたしは、ゆっくりと桜に歩み寄った。
「……来てはいけないと言ったのに」
 咎めるような口調で、けれど幸福そうに男は顔を綻ばせた。
 風花のように静かに着物の袂が揺れ動く。ひらりと地面に降り立った彼は、艶やかに笑っている。ほのかに香る、桜の甘酸っぱい匂い。
「……あなたは、何?」
 わたしの声は掠れて、息のように微かな音になった。彼の耳に届いたのか不安になって、もう一度咽喉を震わせようとした。男の唇がそっとわたしの口を塞ぐ。
「もう、わかっているだろう?」
 ふふふ、と甘い笑い声が闇をくすぐる。風もないのに、枝がざわざわと揺れている。
「女を喰らったゆえ、穢れたこの身は山に帰れぬ。……お前はあの女によく似ている。私の愛したあの女に」
 優しく頬に触れる、冷たい手。ひんやりとした感触が気持ち良くて、私は彼の手に頬をすりつける。
「わたしは、その人の代わり……?」
 自ら口にした言葉で心が張り裂けそうになる。たったひとり、わたしだけを見てほしいのに。
 そんなわたしを嘲るような声。
「あの女の代わりなど、誰にもできぬ」
 言葉の辛辣さにまぶたが震える。その様子を愉しげにのぞき込む彼の残酷さに、涙が流れた。
「なぜ泣く? お前の代わりは誰にもできぬ。それと同じではないか」
 そっと涙を拭い、彼はわたしをしっかりと抱きしめた。桜の香りがより一層濃く深くなる。
「もう、帰してはやらぬ。私は警告した。恨むなら、警告に逆らったお前自身を恨むがいい」
 金色に煌めく瞳。彼は頭を傾け、わたしの首筋に牙をたてる。
 肌を切り裂く痛み。
 漂う血の匂い。
 少しずつ体から力が抜けていき、意識が薄れていく。
 これでわたしは彼のもの。
 そして、彼はわたしのものだ。
 夢のように優しい幸福の中で、わたしは静かにまぶたを閉じた。

夜桜奇談

画像はしちみ黒猫さんから許可をいただきお借りいたしました。この場を借りてお礼申し上げます。

夜桜奇談

引越し後、初めて訪れた神社。そこにはとても美しい男がいた。その優雅な振る舞いや落ち着いた声には気品があって、わたしの心に強く刻み込まれた。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-06

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