38歳の総論

まだ真冬の寒い季節、私は寒がりの彼女のために缶コーヒーをカイロがわりに買って待っていた。その缶コーヒーを毎回彼女はとても喜んでくれた。両手で大事そうに抱えて。

二人はよく東京駅から近い上野公園に行った。初めて彼女とデートした時もこの公園だった。真冬でも二人はあの広い上野公園をよく歩いた。彼女が、疲れたというとベンチで休んだ。「寒いね。」と私が言うと、彼女は微笑みながらぴったりと私にくっついて暖めてくれた。また、少し休むと歩きだした。歩いているときだけ、二人はよくおしゃべりをした。ベンチで休むときは無言になる。お互いに。二人くっついて。

私は夕暮れていく上野公園の空を、すっかり葉の落ちた木々に囲まれたベンチで見ていた彼女を近くで見るのが恥ずかしかったから。

五時になると、台東区役所の放送で間延びした感じの夕焼け小焼けが聞こえてくる。
二人ベンチに影を並べて暗くなるまで寄り添い、そして上野公園を出て行く。幸せという感情は、こういうものなのだと私は思った。愛しく彼女を思えて仕方ないことが、胸を暖かくした。ずっと一緒に歩いて休んで。幸せが続くことを信じていた。

東京駅銀の鈴広場

はじめに


 喪失感とはなんだろうか。人が生きていく上で大切なものを失ったときに感じる心の変化。変化は千差万別と言えるのじゃないか。例えば目標や夢を失った時、大切な人がいなくなったとき。大きな悲しみを伴うことは共通しているかもしれない。どれだけ時が流れても癒えることがないあの感覚。しかし、ときには喪失感が人間を成長させてくれることもある。喪失感から何かを学び、それを教訓としてまた訪れる喪失感に対する免疫力と対処方。
喪失感の大きな悲しみと、ぽっかりと心に穴が空いた状態をいかに乗り越えるか。その挫折から立ち上がり、それを抱えて、なお、前に進む心をもったとき。
 そういうときの人間は、もっとも強く輝いていて尊く、それでいて人間くさい。乗り越えて前を向ける人もいれば、そのまま喪失感に心を蝕まれ続け、人格が荒廃してしまったり、そうでなくても、精神の健全性を失うこともよくある。
前者か後者になるのは、「運」ではないだろうか。
心の強弱なんてものの個人差はどんぐりの背比べ程度の違いでしょう。だって、また前を向けるかなんてその時の環境にかなり左右されるでしょう。喪失感を上回る光があれば立て直すことも少しは楽だ。逆に、喪失感をもったまま、また違う喪失感を持てばしばらく立てないのが普通でしょう。だって、それくらいダメージを受けるくらい大切なものを失うからこそ喪失感といえるのだから。そして、喪失感ははいつくるのか人間は知る術をもたない。
だから、人間は喪失感を知り、悲しみを知り、心の苦しみを察しとることが必要なのだと思う。周りの人しか自分の状態を見えないこともある。先人たちが、似たような経験をどう乗り越えたか教えてくれることもある。人間の社会なんてそんなもの。腐りきった社会の中の希薄な人間関係の中でも絆は壊れないことを信じている。もし、この世界を生きる意味は、神様や世界が教えてくれるのではなくて、生きる意味を私がどう決めるかを、神様や世界が期待して見つめている。としたら私が生きる意味は模索しながら考えて、好きなように自分で決めてやればいいじゃないか。今日も明日も自分次第。偶然や運命もあるし、その他のはかりしれない未知の何かをも期待して。


私のこと


 振り返ると、私の人生は良くも悪くも凡庸に幸せだったなと思う。数少ないが、親友にも恵まれたし、小学校から始めていた剣道は高校まで体育会系の剣道部で、世間のことなどに頓着せずに学園生活に集中できた。ある程度勉強もできたし、体格や容姿もそれなりに成長してくれた。兄が一人いて、よく喧嘩をした。祖母も父も母も穏やかな人で、それでも一家は平穏であった。そんな優しい祖母や両親に育てられ、かくして平凡な少年時代を経て、中学、高校、大学と恵まれた人間関係の中で、友人や、先生、両親のおかげで、こんな私も人並みに成人した。高校受験は、志望校に向けて一生懸命勉強したが、体調を崩して不合格になり、都立高に進学した。進学した高校は行きたい学校ではなかったが、結果的には自分とうまのあう多くの友達に出会えた。高校3年を本当に有意義に後悔なく卒業して、身分不相応の名門大学まで卒業できた。その後は多少の紆余曲折はあったが、公務員になることでなんとなく自分の将来の費やし方を決めた。

たぶん、学生時代によく読んでいた司馬遼太郎さんの小説に大きく影響を受けていたのだと思う。当時は、自らの小ささを知らず、日本をいい国にしたい~。 なんて大それたことを考えていた。私なりに学生から脱皮して社会人になり、また、国家公務員として大人になろうとしていた。私が就職する年、兄が、四歳年下の私の同い年の女性を、赴任先の仙台から連れてきて、両親に紹介した。その夏に、彼らは結婚式した。喜ばしいことに、翌年私に、とても可愛い姪っ子ができ、私は“叔父さん”となった。


親友の死


 毎日、日が昇り、夜が明ける。世界は静かに形をつくっていき、それが鮮やかな光を帯びて輝いていく。
この世界は美しいと感じる時がある。
そして、人は光の中に生き、夜の闇に死んでいく。
光の世界にあってはその明るさを何も感じたりはしない。夜の闇にあっては光の明るさを忘れてしまう。
光の輝く世界の中で生きている時に、光がいかに大切なものだったのかということに気付くことができたなら、我々は悔やむことの宿命から解放されるのではないかと思う。

平成18年の暮れに友人が突然亡くなった。病名は急性骨髄性白血病。彼のお母さんに会ったとき、背中が痛いと訴えていたので病院にいったところ、この病気が分かり、発病後僅か3か月で、その命の炎を消し去ってしまった。
私が彼に最後に会ったのが亡くなる前年の暑い夏の夜だった。有楽町の焼き鳥屋で焼き鳥を片手に二人で酒を飲んだのが最後だった。それ以降はたまにメールをする程度でお互い平凡な日常を過ごしていると思っていた。
彼は、病気になったことを私には告げてくれなかった。理由は分からない。ただ、会ってもわたしには何もできないし、おそらく、ただ心配だけをいだいただろう。それを見抜いてのことだったのかもしれない。彼の友達思いはそんな死期にまでも貫いていたのかと思うと畏敬の念を持たざるをえない。ただ、知らせてくれなかったことに同時に後悔は私には残った。

彼と私は小学校の時の同級生であり、その頃からの親友であった。放課後には日がどっぷり暮れるまで、自転車で駆けずり回って泥んこになって遊んだ。中学校以降は別々の学校になっても、よく遊んでいた。高校を卒業して、それぞれ別の進路を進んだが、彼は常に私の傍らにいてくれるように味方であり、友人で在り続けていてくれた。

子供の頃は私が一人で上級生達を相手に勝てないケンカをしていれば理屈抜きで味方になって一緒にケンカしてくれたり、私が二十歳の時に初めて彼女ができたことを報告した時など「やったな!」と自分の事のように喜び、朝まで一緒に酒を飲んでくれたりした。 彼は昔から女の子にもとてももてたので、そっちの方の経験も私より豊富であり、たくさんアドバイスをしてくれた。

彼は決して怒ったりすることなどなく、人に当たることなどなく、友達想い、家族想いであり、周囲の人達をとても大切にする人であった。その人間性は私など足元にも及ばない人であった。葬儀の時のご親族や会社のご同僚の方々の嗚咽がそれを物語っていた。

悲しみに優劣はない。しかし、親友を失うことがこれ程までに悲しい事だとは思いもしなかった。今思えば、あれもしてあげていない、これもしてあげてない~など、悔やまれることばかりだった。その中でも最も後悔している事は、彼は私にとっての人生の松明であり、彼が友達でいてくれている事がどれほど私には心強き事だったかを伝えていない事である。二十数年も友達でいてくれたのに。

だから、大切な人にはその想いを短かくても手紙でもメールでもいい。しっかりと伝えていこうと思う。自らの想いを伝える事はとても勇気のいることだし、素直な気持ちを伝えることはとても難しい。しかし、自分が人に言われた時のことを考えてみれば、とても嬉しいことだろう。
私たちは皆、人の助けなしには生きていけない。だから、この思いが、私達の原点になるのだから。

夏の終わりの芒漠とした深夜に思い出す彼との少年時代の想い出は、今では涙の種のようである。 人の一生では本当に明日のことは分からない。今日という一日は、死の淵に彼が何としてでも生きたかった一日かと思えば言葉にならない重みを感じる。我々は日々を精一杯生きているだろうか。


恋人Ⅰ


因果律。人間の出会いと別れは、らせん状に過密に、かつ密接に絡み合う長い蔦のようなもの。そんな螺旋状に絡み合うものの中に、たくさんの心がある。自らを一本の蔦と例えるなら、私の蔦は、何本の蔦と接していたり、絡み合っていたりしているのだろうか。一本の蔦。私とあの人の蔦はどうして絡み合う運命にあったのだろうかと、折に触れ考える。くだらないことを考えるものだと思う。

 話は就職する前まで遡る。というのは、この話はハッピーエンドよりはるかに遠く、いまだに心の整理がつかない部分があるので、自分でもうまく書けない。でも、私とって一生の宿題を残す重要事項だったことは間違いないから、総論から省くことはできない。

 当時、ちいさなきっかけで出会い、就職前から付き合い初めた関西人の彼女がいた。私にはほとんどはじめての恋人で、 愛されることの幸せも愛することの幸せも、みんなあの人が教えてくれたような気がする。明るくて、笑顔がとても可愛くて、優しい人だった。年上の姉に近い感じの恋人だった。色々な手ほどきを受け、私にはマドンナ。

そんな彼女と、大阪と東京で遠距離で付き合っていた。月に2回程度大阪と東京を行ったり来たりしていた。彼女が東京にくる時、二人はよく東京駅の銀の鈴広場で待ち合わせた。まだ真冬の寒い季節、私は寒がりの彼女のために缶コーヒーをカイロがわりに買って待っていた。その缶コーヒーを毎回彼女はとても喜んでくれた。両手で大事そうに抱えて。

 二人はよく東京駅から近い上野公園に行った。初めて彼女とデートした時もこの公園だった。
真冬でも二人はあの広い上野公園をよく歩いた。東京駅から京浜東北線に乗り、上野駅の公園口から上野公園に向かう。
公園の中央にある噴水広場を目指してゆっくりと歩く。
彼女が、疲れたというとベンチで休んだ。1月の初旬の寒い頃だから日が傾いてくるととても寒かった。
「寒いね」と私が言うと、彼女は微笑みながらぴったりと私にくっついて暖めてくれた。また、少し休むと歩きだした。歩いているときだけ、二人はよくおしゃべりをした。近況報告やら、とりとめのない日常のことなど

「新幹線混んでた?」
「今日は金曜日やろ?だから結構混んでた。」
「座れた??」
「うん」
「新しい病院には慣れた?」
「それがな、おもろい婦長さんでな、いつも真っ赤な口紅ぬってんねん。アハハ」
「真っ赤な口紅の婦長さんか~。なんか想像できない。」
「ひろし、あそこにベンチがあるで。」
「じゃあ、休憩しよう。」
ベンチで休むときは無言になる。お互いに。二人くっついて。
彼女は私が口下手なのをとっくに見抜き、沈黙の時間をむしろおもしろがっているようだった。それが私の気持ちをとても楽にしてくれた。反対に、彼女はよく喋る。耳慣れない関西弁もあって、何を聞いてもおもしろかった。

私たちは、すっかり葉の落ちた木々に囲まれたベンチに座り、真冬特有の薄暗く低い太陽が夕暮れていく私はよく上野公園の空を見ていた。
空を見ているのは、彼女に近くで見られるのが恥ずかしかったからだったかもしれない。

4時になると、台東区役所の放送で錆びついた鉄柱の上の小さなスピーカーから流れる間延びした感じの夕焼け小焼けが聞こえてくる。
都心の喧騒の中の公園で、二人ベンチに影を並べて暗くなるまで寄り添い座って佇んでいた。
やがて、二人手を握り来た道を戻り、上野公園を出て行く。少し、私は緊張がほぐれている。振り返り彼女を見ると、物珍しげに、周囲を見ていた。少しだけ微笑んだような、楽しそうな横顔。ぱっちりとした彼女の眼はきらきらとよく輝いていた。だから感情がすぐに眼に現れる。そんな幸せそうな彼女を見ていると、不思議と私は今までの自分自身を肯定できた。
幸せそうな彼女を通し、世界が奥行をましていく感覚。幸せという感情は、こういうものなのだと私は思った。愛しく彼女を思えて仕方ないことが胸を暖かくした。ずっと一緒に歩いて、そして休んで。ゆっくりとした幸せがずっと続くことを信じていた。
そんなふうにして、私の初恋は彼女の優しさに包まれて始まった。

その年の春に、私は就職して社会人になった。
社会人になって間もない頃は、分からないことだらけだったけど、いつも彼女がきめ細やかなアドバイスをくれたし、本当に親身になって心配してくれていた。
無償の施し。時間や、労力、体力、お金さえも。人を愛することの尊さと、自分以外に大切にする人がいることによる世界の広がりに私は興奮していた。
様々な思い出は、振り返れば常に彼女の深い愛情に包まれていたと思う。私は、彼女から学ぶことばかりだった。
 社会人になって初任給で彼女にプレゼントをした。やっと少しだけ対等になれた気がした。付き合い初めた一年という時間は、本当に一瞬だったと思う。
その時間の経過の中で、私達二人は、普通の恋人同士のように結婚して人並みに子供を育て、年を取っていく。たまには喧嘩もするけど口下手な私は負ける。そんな風に自然と本気でお互い結婚と共に過ごす将来を考えていた。

 彼女との最初の出会いは、就職する前年のありふれた飲み会の場であった。高校時代の同級生が看護学校に進学し、看護師として働いていた病院に、彼女が関西の病院から何かの研修で東京に来ていた。私はというと、大学を卒業して公務員を目指して勉強していた頃だった。大学のゼミの同期達は皆、就職をして社会人になっていくのに、出遅れた自分をみじめに思っていた。だから中途半端であまりカッコのつかない身分だったので、なるべく人と会わないような生活をしてコツコツと毎日図書館で勉強をしていた。
 高校時代の同級生に紹介されて、はじめて彼女を見たときの第一印象は、おでこと、二重の大きい眼が丸くて可愛いなと思った。ところが、飲み始めると大酒のみで、酔うと関西弁で冗談ばかり言っていた。そのギャップがとても魅力的だった。初対面なのに、私が弟に似ているといって、からかった。
 三歳年上だったが、私には彼女がとても大人の女性に思えた。飲み会の帰り、「もう一軒行こう!」と一人だけ元気だった。私の高校の同級生達は、明日仕事だからといって12時頃に帰ってしまった。私も終電の時間が迫っていたので、帰ろうかと思っていた。彼女は、一人でもう一軒行く。と、言っている。行こうとしている先は歌舞伎町の奥。関西の人だし、酔ってるし…。ちょっと一人でおいて帰るには心配だった。私は終電をあきらめた。
 その後は、朝まで営業している居酒屋で二人で飲んだ。朝までいろいろなことを話した。聞き慣れない関西弁と、彼女の丸くぱっちりした眼がキラキラしていて、いい人だなと思った。

 午前4時半を過ぎてラストオーダーとなり二人は店を出た。明け方のカラスがやかましく、生臭い歌舞伎町から新宿駅の東口に向かって二人は歩いていった。
「楽しかったで。ありがとうな。…時間あったらまた来週遊ぼうか?」すっかり酔いが覚めたような顔で私に言った。少し歩いて東口の改札で別れ、中央線の始発で私は帰った。
私もとても楽しかったしまた会いたいと思っていたので嬉しかった。既にこのとき私は彼女に淡い恋心を抱いていたのだろう

 約束どおり、翌週に二人は、渋谷駅のハチ公の広場の片隅で待ち合わせて飲みに行った。その日は早く、日付の変わる12時前にお店を出た。前回朝まで付き合わせてしまったことを彼女なりに悪く思っていたのかもしれない。
その帰り際に、二人はほろ酔いでいい気分だった。センター街から出て道玄坂をまたいだ細道のゲームセンターの前で、私は勇気をだして彼女に小さな声で言った、「知り合ったばかりなんだけど、まさこちゃんと付き合いたい。」と私は告げた。自分の勇気に我ながら驚いた。彼女はにこりとうなずき、いたずらっぽい顔でUFOキャッチャーを指さしてあれを取ってこい。というような仕草をした。UFOキャッチャーは5回チャレンジしたが一つも取れなかった。
「へたくそやなー」彼女は大笑いして私の肩を強く叩いた。それでも、優しい表情で私のことをじっと見つめていた。

 よく、出会いは運命。その後どの様な関係になるのかは当人達の意思に依る。と言われる。振り返って考えてみる。確かに、好意をもって付き合っていきたいと思ったのは私の方。でも、出会いはやはりその人の持つ運命に委ねられるものなのかもしれない。そしてその後の関係も必然性を持っているような気がする。
 その二か月後、彼女は京都の元々の勤務先である病院に帰った。研修期間が終わったから。二人の始まりはこのようなどこにでもある若者の恋愛だった。

いわゆる遠距離恋愛だった私達は、お互いに東京大阪間を行ったり来たりしていた。私が就職して何回目かに行った大阪。新大阪駅の阪急デパートで私は彼女が以前から気に入っていた小さな椅子テーブルを買った。大きい荷物を抱えタクシーに乗り、彼女との待ち合わせ場所に行き、テーブルを見せるととても喜んでくれた。それから阪急電車に乗り、二人で彼女のアパートまで椅子を運んだ。若い二人はそんな無茶ですら幸せだった。そうやって、本当に無邪気に喜ぶ彼女をますます好きになり、お互いの関係を大切に感じる気持ちが強くなり、自分が必要とされ、自分も彼女を必要としている。そういう存在が出来、だんだんと自分の居た孤独な世界が変わっていく。
それがとても幸せだった。心を許しあい、全てを分かち合う存在がいることで、この世界がこんなにも鮮やかに躍動的になっていくことに興奮していた。
だけど、そのような時々も彼女は私ほど能天気に浮かれていられたわけではなかったのだろうと、今は思う。
 人間って、自分と自分たちは普通の将来を都合よく勝手に描くものだ。でも、人間関係は予期もしないことが起こる。
 そんなこんなで時が過ぎ、4月の暖かくなるころのある時、告白を受けた。彼女は同和地区出身者なのだと。
そして彼女が同和地区出身者だから、差別意識と差別問題に関わることを嫌い、両親には結婚を猛反対された。
(もし同和地区のご出身の方が読者におられたら、どうかこのような表現しかできないことを許していただきたい。)
このことが原因で若すぎて未熟な私達には超えられないあまりに沢山の問題が二人を取り巻きはじめていた。

私は、同じ同和問題で悩み苦しむ若い恋人達のために私にできることはないか。今でも、その事を考えない日はない。

 毎年春になると思い出す。京都の賀茂川の川べりのベンチでパンを一緒に食べた。
桜の花びら舞い散る春風の薫りとパンの甘い匂いが私をとても幸せな気持ちにしてくれた。 でも、彼女の横顔はとても難しい表情だった。理由は分かる。私もその事を考えると辛かった。もう、出会った頃の彼女の魅力的な明るさは失われていた。悔しさと、無力感が二人の幸せまでも奪い去っていってしまうようだった。
私は、両親と結婚について半年以上にわたり同意を得られないまま交戦状態が続き疲弊してきていた。
 そんな中でも、二人は愛し合い二人でいるときはその問題を忘れて愛し合っていた。しかしそんな状態に若い二人が耐えうるはずもなかった。
 翌年の夏、高校野球の決勝戦で川西北高が優勝した暑い日、東京まで来てくれていた彼女が大阪に帰るので、新幹線のプラットホームで二人新幹線を待ち、言葉もなくたたずんでいた。
 私の頭は、これからのことで頭がパンク寸前だったし心も常に緊張状態だった。だって、こんな事態をどうやって切り開くかなんて、いくら考えても糸口すら見えない。結婚ってなんだ? 家族と本人たちの結婚とが将来どう関係してくるのだろう。なにが、本当の障害物なんだろう。人間幸せで浮かれているところの隙を突かれるともろいものだ。
どうして、私達のささやかな人並みの幸せが与えられないのだろうか。普通に出会って結婚し、家庭を持ち子供をつくる。そんな未来が私達には儚い蜃気楼のようになってしまっていた。
実存には無限に遠い。こういった絶望感や出口のない問題に二人は限界まで疲れ切っていた。

 突然、彼女が切り出した。「ひろし、今まで本当にありがとう。私、これで最後の東京にするわ。」私にはとうとつ過ぎて訳が分からなかった。だが、彼女は語り得ぬ疲れと諦めで、涙で目を孕ませていた。
「私、ひろしの事ずっと忘れへん。こんな私と、ちゃんと結婚考えて、お父さんお母さん説得するの真剣に頑張ってくれたこと。ほんま、ありがとう。」と、涙ながらに話す姿が彼女らしく健気で… 私はやりきれないほど切なかった。
私は、そんな彼女の言葉を遮る言葉も持たず、引き留める力もなかった。
上野公園の散歩や、いろいろな場所で二人で一緒にみて感じてきた。彼女の冗談や、おどけた話で笑った。最初のデートで東京タワーに登って二人で見た東京の夜景も、新大阪駅の新幹線ホームで待っていてくれた彼女の笑顔もみんな、これで失われてしまうのだ。新幹線に乗り、車内の人となった彼女の眼を見つめ続けた。新幹線の発車のメロディがエピローグのように聞こえる。動き出す列車の最後尾を遠く見えなくなるまでずっと見ていた。

 その帰り、人気の少い日曜日の夜、東京駅から八王子に帰る下りの中央線の中で、私は声をあげて泣いた。そして、世の中にはどうにもならないことがあるのだと悟った。

間もなく、季節は夏から秋になろうとしていた。心の中は砕けたままでぐちゃぐちゃだったが、私はまだまだ駆け出しの社会人であったから、それでも職場では何もかも忘れてがんばろうとしていた。一年目と二年目は慣例的に八時より早く帰った日はなかった。私は少しづつだが仕事を覚えていった。10月の終わりくらいだったと思う。彼女と東京駅で別れてから数か月後だった。 私は、仕事で北海道に出張に来ていた。仕事が終わり、ホテルの部屋でベットに寝転がりボーっとしていた。突然、携帯がなった。彼女が勤務していた病院の看護婦長さんという方から私の携帯に電話があった。
「彼女には、私に知らせないで欲しいとという約束を破ることが、あなた達にとって良いことか悪いことか判断がつかない。だけど、私は、あなた達の事を彼女から話に聞いていたので、黙っている事に耐えられないし、貴方には、この事実を知って、ちゃんと受け止めて生きていって欲しいと思う。」と言われ、私はとても嫌な予感を覚えた。
冷静を保つ限界まで達していた。次に告げられる事実を信じたくなかった。
だって、そんな残酷な出来事が私の周りに起きるなんて信じられないし、私には十分に現在進行形で、世の中の不条理と無力感にうちひしがれていた。更に追い打ちをかける意味が分からなかった。

「彼女は、九月の中頃病院の寮の自室のバスルームで、自らの命をたってしまった。
ご両親への遺書とは別に、婦長である私への手紙と私への手紙もあったから、こうして電話しているのです。」と。
「婦長さん、お知らせくださいありがとうございました。」
私は、婦長さんとの話を終えると、携帯を出張先のホテルの壁に思いきり投げつけた。破片が飛び散り、ばらばらになった。
罪悪感ももちろんあったが、それ以上に私は彼女に二度と会えないことの悲しみが絶えきれなかった。いつか、また会いに行く可能性を私は心の片隅に置くことで、とても細い糸のような希望を捨てないことで、今までバランスを取っていた事をこんな形で認識した。だから、辛くて辛くて我を失ってしまいそうだったことを覚えている。

あの時、東京駅で彼女を呆然と立ち尽くし新幹線を見送ったのが、結局、彼女との最後の別れになってしまった。今でも一人で車を流していると、彼女が隣にいたら二人で冗談を言って、私をからかい大笑いしながらはしゃぐ彼女を想像すると、幸せだったろうなと未練がましく思う。とはいえ、別の世界の他人の話のように現実から遠すぎて感傷もわかない。

 人間の記憶なんて都合のいいものだと思うが、十数年の歳月は、二人の間の色々な記憶を蝕むが、二人の報われることのなかった想いが、あの恋を風化させなかった。むしろ、雨垂れが石をも穿つ様に、若者の二人の純粋な思いの本質を剥き出しにするようで。

名前は忘れたけれど、19世紀のフランスの有名な作家の言葉に、「本当に大切なものは、眼に見えない。」という言葉がある。
自分のこと考えてみる。私は家庭も持っていないので、母と父の存在が大切。
眼に見えるじゃないか。と、思うが、母と父の存在自体はもちろん大事。でも、もっと大切なものがあるのではないか。ただ、そこに存在していればただの自分以外の他者。母が私を愛してくれていること。私が母を慕っていること。その想いを元にした関係。その関係から発生する様々な言動。施し。これが一番大切であり、心の支えなのではないだろうか。
人間は一人では生きていけない。支えあって生きていかなければいけないと思う。その理由は、孤独では、生きる意味すら見失ってしまうから。

生きる意味についてはどうなのだろうか。金、女、権力を得たいから生きる。権力以外は、はっきりとした可視物。
お金がないと得られないのは、安定した生活や、物欲など。女性がいないと得られないのは、子孫の繁栄、性的な欲求。そして、自分以外に大切にすべき人を持つという世界の広がり。
いずれも、実存して目に見える人やモノ。そしてそこから生まれるモノ。
本当に大切なものは、このようなものなのだ。
幸せな思い出。楽しかった思い出。また、逆に悲しかった思い出。挫折した経験。
これらは、全て先に書いた現実に起こったものから生まれた事象の記憶の影に過ぎないじゃないか。

今の自分を幸せにして、自分らしく生かせてくれているものはなんだろうか。その時の私には、それこそが、彼女が愛してくれていることから化学反応を起こし、私に施されるものなのだ。それこそが、かけがいのない一番大切なものだった。

 そんな大切なものをくれた彼女を通して、生きている中で経験する事は、忘れてもいい事、忘れてはいけない事柄、優劣はないのかもしれないが、忘れてはならない事は何かの形にしなければいけないと思った。それを体験した人間の宿命はその人生での宿題だと思う。

春先になると、彼女が教えてくれたスイートピーの花言葉を思い出す。

それは…「優しい思い出」


祖母の死


 少し時間は進むが、私が30歳をいくつか超えたころ、祖母が突然亡くなった。
祖母とのこと。

遡れば、私の家庭は両親は共働きだったので、幼稚園の頃などはお弁当を祖母に作ってもらったり、いつも祖母に頭を洗ってもらっていたりして、典型的なおばあちゃんっ子で私は育った。
私が小学校に上がるとすぐ、祖母は我々の家から、千葉の外房の白子町という海の近くののどかな農村に叔父夫婦と住み始めた。 祖母と白子町とのゆかりは、太平洋戦争まで遡る。 当時、祖母の家族は浅草に住んでおり、私の祖父にあたる人は優秀で、旧制中学を卒業し陸軍士官学校を卒業していた。昭和18年~19年、太平洋戦争は激化し、空襲は本土まで達した。戦争の終わりとともに祖父は戦死したと知らされたらしい。

祖母と、母と兄弟は、父を残し(戦争にかり出されたため)、その白子町に一時期疎開していた。 その時から、祖母たちと白子町には縁があった。そんなわけで、私が小学校に上がる頃、祖母と叔父夫婦は白子町で農家を始めていた。

一方、私達家族は八王子に新たなマイホームをかまえ家族四人で暮らしていた。

学校が夏休みに入ると母と私と兄の三人で祖母のいる白子町に三日~四日で泊りに行った。
毎年のそれが夏の恒例行事であり一年の中で私の一番の楽しみだった。 夏の外房は本当に気持ちのいいところだった。海が近いので、潮のにおいに真っ青な空の下、地平線まで広がる田園風景に蝉が鳴いている。田舎なので、夜になると、庭の樹木でクワガタやカブトムシがとれたり、昼間は近くの海に海水浴に行き。また、従兄弟たちも 日程を合せて泊りにきていたので、にぎやかでとて楽しかった。 その祖母の家での夏休みの数日は、幼少の頃の私の夏休みのハイライトだった。私の少年時代を象徴するような思い出。

泊りに行く数日前から胸がはずんだ。虫取りをしようとか、海には浮き輪をもって遠くまで行ってみようとか、このおもちゃを持っていとこに見せびらかそうとか~。
おばあちゃんに、学校でのあの出来事を話したら驚くだろうか。叔父さんは、車でどこに連れて行ってくれるのだろうか。お小遣いはいくらくれるのだろうか。

でも、何より私にとって、その数日の滞在での一番嬉しいことは、大好きな祖母の近くに居られることだった。丸くなった背中に手拭いを腰に掛けて、祖母は真っ黒に日焼けした、深いしわが目じりに垂れさがる深く優しい笑顔が私は大好きだった。

祖母は亡くなるまで「ひろちゃん。」と私の事を呼んだ。 一人で夢中になって虫を追いかけていたり、一人遊びの好きな私が、裏山で遊んでいると「ひろちゃん。」と、よく心配して見に来てくれた。 夕方になると、井戸水で良く冷えたスイカを切って食べさせてくれた。縁側で、祖母と一緒に食べたスイカはとても甘くておいしかった。

夜は、いとこ達と花火をしたり、祖母が私の手を引いて懐中電灯で足元を照らし用水路まで蛍を見せに連れて行ってくれたりした。 祖母は、決して怒ったりすることはなく、常に私達孫全員の事を平等に心配し可愛がってくれていた。 その深い愛は、子供の私にもよく伝わってきた。 祖母のやさしい眼差しや、かすれた優しい声。 今でもすぐに脳裏に浮かぶ。

当時、私のうちには自家用車がなく、毎年毎年、八王子から外房まで、電車で四時間かけて外房の白子まで訪ねた。往きは、途中の東京駅の銀の鈴広場で、お昼ご飯を食べたり、昼寝したりして休んだ。東京駅から外房線に乗り、おやつを電車の中で食べたり、母と話したり、兄とふざけたりして電車での四時間を過ごした。

そして、三~四泊の祖母の家での滞在を終えて、また四時間かけて外房の祖母のうちから八王子まで帰った。 祖母と叔父は、最寄りの駅まで車で送りホームで私たちを見送ってくれた。遊び足りないし、まだまだ泊まっていたかった。帰りたくなかったけど、カブトムシやらお小遣いや、買ってもらったおもちゃ、沢山のお土産があったので何となく満足感はあった。

ある年、見送りにきていた祖母が、眼一杯に涙をためていた。手拭いでしきりに涙を拭っていた。 例年は、そんな風に露骨に寂しさを露わにすることのない祖母だったのに、その夏だけはとてもとても悲しんでいた。私はそんな祖母を見ていられなかった。

今でも、その時の光景は忘れられない。何故… あの年だけ祖母はあんなに泣いていたのだろう。 走り出した電車の車窓から見ても、祖母はまだ手拭いを顔にあてていた…。
東京に向かって帰る外房線は、蒸し暑く当時の電車は扇風機が回っているだけで、どうにも快適とは程遠い車内だった。毎年のことながら往きとはずいぶん違う感じをもった。

 不幸は重なるもので、その翌年の11月末に、祖母が亡くなった。

ある日、祖母が家の中で転倒した。大腿骨を骨折して以降寝たきりになってしまった入院中の祖母の容態が急に悪化し、たった七日間で亡くなってしまった。死因は誤嚥性肺炎が悪化して三日目だった。
月末にすぐお通夜と告別式を執り行った。私は兄の車に乗って、夜の高速を、外房方面に向かい走っていた。兄も私もほとんど喋らなかった。ただただ、車のエンジン音とラジオの音だけが響いていた。
祖母は家の近所の火葬場で焼かれ、祖母はこの世からいなくなり、すぐに真っ白なお骨と位牌だけが残った。翌日の日曜日すぐに告別式が行われた。古めかしいぼろ寺で形通りのそれが行われた。天気は台風の様な暴雨で、寺の戸板を雨音が激しく叩き付けていた。それ以外のことはほとんど覚えていない。

その告別式の後、遺影とお骨と位牌を上座にして、葬儀所の近くの料亭で親族一同が集まり故人を忍んだ。久しぶりにあった従兄弟と世間話をしたりして時間を潰した。私は次の日早い時間に羽田から飛行機で福岡に出張の予定だったので、お焼香を母に促され、祖母の遺影の前に正座した。 …、急に祖母と二人きりになった気がした。まるで目の前に祖母がいるようで。「おばあちゃん、早かったなあ。ぼくは、まだまだおばあちゃんに元気で生きていて欲しかったよ。」と心の中でつぶやいた。

こみ上げるものを感じ、私は慌てて、そそくさと席を立ち会場に一礼して、喪主である叔父さんに挨拶をして外にでた。
もう辺りは真っ暗だった。
駐車場まで歩き車を開け運転席に座った。キーを回してエンジンをかけた。真っ暗な車内で、ラジオから昔の歌謡曲が流れてきた。どっと涙が溢れだした。とめどなく涙は流れた。

祖母が亡くなったことで、祖母が住んでいたこの外房の大好きだった田園の広がるのんびりした田舎の土地が、急に私の知らない異国の地のようになってしまったような寂寥感を持った。何故か、また一つ自分の帰る場所がなくなったと思った。


恋人Ⅱ

 私は今日までに、二回ほど結婚をしようと真剣になった女性がいた。二度あることは三度あるのだろうか。不思議に感じるのは、同じ幸せも同じ不幸も人生で二度とないはずなのに。一人目の女性については前述の女性である。
 34歳の時、大学の同期生に、「お前もいい年だから。」と言われ、三歳年上の看護師をしている人を紹介された。目黒駅の近くのこ洒落たダイニングバーで彼女に会った。背が高く、気の強そうな顔をした人だった。店内が薄暗くて音楽がうるさかったせいか、何を喋ったかよく覚えていない。煙草の煙が体中にしみついてくるような店だった。
「メールしよ。」と、彼女に言われてアドレスを名刺の裏側に書いて渡した。アドレスを一瞬見てから表の肩書をみて首をかしげていた。
 不思議なもので実際に会っている時より、携帯でメールをしている時の方がお互いに素直に話ができた。だんだんとメールの頻度が多くなり、会う回数も増えた。自然な成り行きで付き合った。彼女は車好きの私に付き合って、よくドライブに行ってくれた。そのドライブの帰りに彼女のマンションまで送ったあと、マンションの近くのファミレスで二人でよくおしゃべりをした。口が小さいのにたくさん食べる人だった。それを指摘すると、彼女は真っ赤になって笑っていた。
 二人でよく映画を見に行った。彼女は映画のシーンの分からなかったことをよく聴いてきた。変てこな映画だと、それが無意味なシーンであることも多いんじゃないだろうか。私にはなんて答えていいのか分からないことばかり聴かれたこともあった。そうやって、私を少しいじめては楽しんでいるところがあった。でも、私はからかわれても、不思議と彼女には微塵も腹が立たない。むしろ、からかわれて、こてんぱに言われても、年下の私のことを、どこか可愛がっているようなそんな愛情表現をする人だから、私もむしろ楽しんでいた。

 結果から言えば、真剣に好きになれた。春先の桜咲く頃の出会いは、とても自分にとって大切なものになっていた。彼女との幸せな時間は時の経つのを忘れさせるほどに幸せだった。また、彼女も私と同じ気持ちなのだと信じていた。一年経つ頃、二人は婚約をした。
この人と一緒に生きていきたいと思えた。この時私は先の人並みの幸せを全く疑っていなかった。というよりは、今度こそという思いだったかもしれない。

 彼女と一緒だった一年間は本当に幸せだった。夏に行った伊豆の下田へのドライブで私が道に迷って疲れて寝てしまったら、彼女がラブホテルまでおんぶして押し倒してきたこと。ディズニーシーで口喧嘩をして、めちゃくちゃ気の強い彼女が泣いて私が慌てたこと。
彼女のマンションのファミレスで、遅くまでよくおしゃべりしたこと。だが、過ぎ去った優しい思いでは今では自分を惨めに思わせるだけのものになってしまった。そうして、愛していた彼女は他人となった。あっけない事だなと思った。女はいつもさっぱりしている。
だけど、私が知らなかっただけで現実は残酷なものだった。ちょっとしたきっかけで、彼女には、六年間続いている十七歳年上の既婚の不倫の彼氏がいることが分かってしまった。そのことを知ったのは彼女からの自白だった。もっとも、怪しい事が何回かあったので詰め寄って問いただしていた。きっと、隠していることに彼女も堪えられなくなり、自らも変わりたいと思い始めていたのかもしれない。変わりたいと思うことや、言いたくない過去を一つや二つもっているのは生きてきて当然付けたもので、ある意味人間臭いし、誰しも抱える心の問題だと思う。それを、人に打ち明けるという事は、自分のことを相手に知ってもらいたいという願望の働きの一つだと思う。それを知って相手が、どういう態度をとるかは愛情確認という範疇を越えたとき、断罪裁判の様な裁かれる者の心境になるのかもしれない。
 彼女は、「不倫のことはほとんど終わっている。」というけれど、私は直感的に信じることができなかったし、六年間もの不倫への道徳的な嫌悪感が払拭できなかった。不倫といえど、お互いいかに本気で愛し合っていたかを彼女は私に説いた。
それと同時にに、お互いが本気で愛し合っていたのだろうと思うことで、逆に私にはまた違う憎しみに似た嫌悪感を強く抱いた。もはやそれは、殺意ににも似た感情であった。…決定的な問題だった。 それを彼女から電話で聞いたの時、私は出張先の九州にいた。
 そんな彼女への愛情は一日で不審感に変わった。二人の間に信頼関係はなくなっていた。
何回も話をして、気持ちを立て直そうと試みたけれど私の心の中で、めためたに壊れた何かを復元することはできなかった。婚約まで辿り着いたのに、彼女が身を引く形で二人は終わった。 一度、寂しさから復縁を申し出たが、「一度ダメになってしまったものはもう元には戻せないよ。」と彼女は言った。それはよくわかっていた。私は、両親には婚約破棄の理由については黙秘した。言えたもんじゃないよな、と。

 ある日、大阪に出張した帰り、四ッ谷で仕事の接待の飲み会に参加した後、時間はもうすぐ夜の10時になろうとしていた。お開きになり、四ッ谷見附から四谷三丁目に向かい歩き出した時にちょうど雨が降ってきた。いつもなら四ッ谷駅から丸ノ内線に乗って一瞬で移動する距離を、歩いた。

梅雨時で、やたら蒸し暑い夜だったが歩きたい気分だったのだと思う。駅や地下鉄の車内で自分を見られるのが嫌だった。今の自分の酷い顔は想像がついた。当時の事は今でも思い出すと言葉にならない。 婚約をしていた彼女の長い不倫という隠し事が発覚し、信頼関係が壊れ、婚約破棄にいたるまでは俊巡があったが結論は彼女が身を引く事で収めた。

無限の喪失感は一歩一歩の足どりを重たくした。汗だくになりハンカチで顔を何度も拭った。新宿まで歩いて中央線で帰ることをなんとなく考えていた。歩きながらとりとめもなく考えていた。恋人は同じ気持ちなのだと信じていた。ずっと。
思い出すたびとても寂しい気持ちになった。しかし、それと同時に不倫をしていた彼女が許せなかった。その二人の関係を私は呪った。そして、私はいつかこの憎しみを乗り越え、再生することを心に誓った。

しばしば私は職場のトイレの個室で仕事の隙間に彼女との楽しかった想い出を振り返って自分を慰め耐えた。少なからず誰しもあることだと。


私の病気について


 プライベートの不幸とは別に仕事は充実していてたし、やり甲斐も感じていた。しかし、これも不思議なことに、不幸にも一年一年、二倍、三倍とますますその後忙しくなった。当時の私の在籍する課は毎日異常なほど忙しく、いつも帰宅して午前2時前、朝は7時に起きて職場に向かった。毎日が猛スピードで過ぎていき雑務に忙殺されていた。月々の残業もかなりの時間になり、休みも土日はどちらかは死んだように寝てすごした。

以後も仕事は相変わらず多忙であった。捜査官として検査の仕事が未熟であり、先輩調査官に叱責を受けたりしでも、落ち込む暇などなかった。仕事が楽しかったし、自分のできることの幅が目に見えるように広がっていくの分かり、仕事以外のことは楽しくないといえるくらい充実していた。でも、それは、心に病気を抱えているのを忘れようとして仕事以外考えないようにする擬態のようなものだったのかもしれない。それから数ヶ月後、仕事は相変わらず忙しかった。しかし、ある日急に心身の力が抜け無気力な人形のようになってしまった。明らかに心と体に異変を感じはじめた。

発病

 仕事のやる気を失うとともに、胸のつかえの様な三つの悲しみは日に日に大きくなり、小さな自分をまるごと飲み込んでしまった。空虚感、絶望感。仕事についていけなくなり、手がつけられないくらいケアレスミスを連発。病院にいったところ、うつ病という診断を受けた。嫌な予感は的中してしまった訳である。 しかし、休職するのが怖く(障害者扱いのようになるのが怖かった)、処方されたパキシルを飲みながら2年間頑張った。 その後、課を異動し、仕事が変わったっりしたが、今度は上司とうまくいかず追い詰められた。慢性的な疲労が常に身体にまとわりつき、楽な日はなく、病気も一進一退が続いた。

そして、うつ病を患って3年目の秋が終わるころ、抗うつ剤を変えた。途端、うつ症状が酷く悪化し、とうとう、まともに出社できなくなり、当時の課長に全てを打ち明けた。
私の関係する仕事は誰かに引き継ぎ、出張は取消になり、とりあえず病気休暇を取得させてもらった。結論から言えば復職には一年かかった。

休職中は、毎日、公園や自分の部屋、喫茶店の壁を五時間も六時間も見つめて過ごした。一年間も毎日毎日そうやって過ごした。薬のせいか常に頭はからっぽでいられた。
 今思えば、運悪く不幸が重なり、悲しく辛い。という事を上司に相談して、早めに休暇を取ればよかったのかもしれない。その際は、甘えだという意見もあったかもしれない。
しかし、少なくとも、自分が精一杯やってきたことの結果なのだから仕方がないと自分を納得させることはできたはずだ。打ち明けることができたなら、違った心境になり、また違う結末になっていたのかもしれない。

 うつ病、日本ではこういう事を話すことは、人として軟弱や怠け者の仮病とされてきたことが事実としてあった。だが、人間は自分の力だけで生きてる訳ではなく、周囲の人々によって生かされているのであり、どうしても一人では乗り越えられない時が人にはあるのだから絶望してしまうこともあるのだ。だから、人間を自分の周囲の人をなるべく孤立しないようにしてあげようと私は思う。
人の居場所は人の心の中にしかないのだから。


生きていく意味

 以上、反省を書いてみたが、不幸自慢のような事を書くつもりは全くなかったが、私には幸福な事より、不幸な事の方が強く心に残ってしまう性格なのかもしれない。
 我々の属する世界にはほぼ、人と人のつながりや、愛し合うことや、敵対や、恐怖や、憎しみや、優しさで成り立っている。
 時間の流れは、人との出会いと別れを繰り返すスケールに過ぎず、人と人との繋がりの深度を深めて、更にその深度を永遠に深めると思わせながらも、無残にも本当にたやすく何事もなかったように全てを奪い去り、人を孤独にしてしまう。出会って、別れて、深めて、無くして、それでも我々は何かを残そうと絶え間なく一念の思いを一瞬に注ぎ込む。

だけど、よく考えれば、それは無くなることを前提とした非建設的行為から抜け出せていないことは本当は悲しむべき事なんだとも思う。だが、形にならず、何も残らず、思い出は、脳の神経細胞に残された事象の影に過ぎず、愛情は脳の錯覚に過ぎず、生命の誕生は細胞同士の科学反応に過ぎず、魂は存在せず、神も悪魔も存在せず、この不条理な世界にたった一人孤独に生まれてきて、一人ぼっちで死んでゆく。

 だけど、生きたがる訳でもないが、死にたがることもない。生きてきた日々の事象は脳細胞に刻まれた記憶の影に過ぎず。生きた証は将来から見れば、要約された名も無き短編小説に過ぎず、成し得た功労は時間がたてば上書きされ、名前とともに消え去る。そう考えれば、生きてる意味はなく、こんなにも仰々しい無意味な物事はこの世にないのではないだろうか。

それでも今の私は生を否定しない。ぬくもりを分かち合った大切な人達が薄墨色の世界の中に消えいってなくなっていくように、幸せだった記憶が遠くかすんで、思い出すのに段々時間がかかり、いつか忘れて無くなってしまったとしても。

無くてもいいじゃないか。

すべての物事の理由はいずれも本当に小さな小さなつまらないこと。何千回も思い出し、そして、考え、悩む事も否定しない。

私が誰とも分かち合えない孤独を永遠に生きるような、そんな孤独にどっぷり浸ってしまい、自分以外の誰も目に入らず、うなだれて、必死に電車のつり革につかまっている。電車を降りて、家に帰って、のろのろとスーツを脱ぎ、タバコを肺いっぱいに吸い込む。たちまち二本も灰にして立ち上がる。寂寥感でいっぱいになり逃げ出したくなる辛さを胸につかえて、何の味もしない食事をし無気力に寝て朝起きて、駅に歩く人達にまみれりゃ、泣きごとも言えない。

 これらすべてが、昨日のことであり、明日のことであり、永遠に繰り返す。逡巡はたれのせいでもない。自らの過去の罪を償い、人や社会の役にたとうとひたすら生きる。二本足で突っ立って、横断歩道のめいっぱい横を人にぶつからないように歩く。オフィス街の昼休み、身体いっぱいに冬の寒風を受け、目が渇き涙がそれを濡らす。私のオフィスがある虎ノ門の外堀通りと桜田通りの交差点はいつも車の往来が多く、信号にはビジネスマン達が闊歩している。公務員になったときは、私はこの高揚するこの街の雰囲気が好きだった。今は何故ここに私が突っ立てるのか分からなくなる時がある。

 私はこんな、まぶしい色彩世界に生まれ、崇高な虚無感と孤独感を感じて胸が痛くなる。嘘偽りなくその心の奥で思う。生あったかいだけが人の幸せじゃないと思える。真の愛を持ち得るのは、病気であっても、今の私の心は人々への愛で満ちているし、私もはかりしれない存在から愛されている。

人がなす事などは、なにものにもならない一瞬の火花のようなもの。でも、今の私は否定しない。何回、何千回思い出してみても何にもならない。そして人は宿命的に同じ過ちを繰り返す。それは過失ではなく因果だから。

この先も、初めから決まった仕組まれた成り行きで、人の力では変えられない事なのかもしれない。
まさしく因果なのかもしれない。でも本当だろうか。だから、まだまだ生きてみようと思う。何かを決めるのは、もっともっと、体験して創造してみてからでも遅くはないじゃない。生きることはそうやって日々を積み重ねてさらけ出していくことにほかならない。

何故生きるの?
生きる意味は?
生きてても辛い事ばかりだから死んだ方がまし!
何もする気力がない。ただ生きているのすら辛い。

うつ病ってそういうテーゼを常に断続的に問い続けてくる病気。
でも、違うんだよ。聴くこと自体違うんだ。なんていうか、もっと自由なんだ私たちの世界は。何かに縛られて生きるんじゃなく、何かのために生きるのでもないの。
何より、もし、この世界を生きる意味は神様や世界が教えてくれるのではなくて、生きる意味を、私がどう決めるかを神様や世界が期待して見ている。としたら私が生きる意味は歩きながら考えて、好きなように自分で決めてやればいいじゃないか。全ての出来事には例外がある。まだ見ぬ未知のステージや偶然、奇跡、その他のはかりしれない何かを期待している。

今の私なら、この仮説を信じて自分で生きる意味を見つけていこう。偶然や小さな奇跡を楽しむだけの生き方で理由は十分になれたから。だって、その先にいつか生きる意味を見つけられればいいのだから。神様やこの美しい世界はきっとその瞬間を待っている。
眼に見えない大切なものと、自分が生きることの意味を。

38歳の総論

少し思い出したことで、恋愛を含む人間関係がいかに人生に影響を与えるか。
新しい出会いが私達に少しだけやる気を与えることがある。出会いから生まれる新しい人間関係は、過去に同じものはない。先にもないだろう。
人間関係には定められた寿命みたいなものが存在すると思う。書きながら考えている。
役所の同期に、仲の良い友達ができた。うちの一人とは、よく夜遊びをした。お互いいろいろなことを話した。少し自暴自棄気味の私によく付き合ってくれたものだなと、今は思う。
彼は、夜遊びざんまいが落ち着いて、数年経ち最高の彼女といえる人に出会い結婚した。
私が休職したりしてもたもたしている間に、マンションも買ったらしい。
休職中、金を借してくれと頼んだが断わられた。私のことをよく理解しているもんだなとも思う。

今は、飲みにいくこともない。たまに役所で会えば、挨拶するくらいの関係になった。近況報告もしなくなった。こんな私に愛想を尽かしたのだなと思う。
私は彼に何をしてあげられただろうか。何も思いつかない。
何かが相手にギフトになるものを提供したりされたり、無意識にできることが人間関係の肥料になる。
私は貰ってばかりだったかもしれない。

38歳の総論

もし、この世界を生きる意味は神様や世界が教えてくれるのではなくて、生きる意味を、私がどう決めるかを神様や世界が期待して見ている。としたら私が生きる意味は歩きながら考えて、好きなように自分で決めてやればいいじゃないか。全ての出来事には例外がある。神秘や奇跡や、その他のはかりしれない何かを期待して。 今の私なら、この仮説を信じて自分で生きる意味を見つけていこう。例外を楽しむだけの生き方で、理由は十分になれたから。だって、その先にいつか生きる意味を見つけられればいいのだから。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-04-22

CC BY-ND
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