女心と秋の空

女心と秋の空

二日ぶりにあった彼女は、相変わらず気合いの入った格好をしていた。ボーダーのシャツの上にドレープ型の黒いワンピースを着ており、脚は黒いブーツに膝まで覆われていた。この季節に少し寒いのではないかと上着を貸そうとしたら、ニヤニヤとしながら断られた。

「意外と寒くないのよ。優斗が寒がりなのよ」

「ならいいけど……寒くなったら言ってね」

 そう言うと、また薄気味悪く口の端を釣り上げて笑った。
 とりあえず近くの居酒屋へ足を向けた。どこかを回るには時間も遅いし、仕事で疲れているだろう莉子を歩かせるのは可哀想だ。
 四人席に案内され、席に座ると莉子はすぐにカバンを置いて深く息を吐いた。
 注文した物が運ばれ、一つ乾杯を交わしてすぐに、莉子は口を開いた。

「うちの支配人が仕事をしないのよ」

 莉子の高く弾むような声が、不満そうな気配を帯びて机に落ちた。僕はその言葉に生返事で返し、割り箸を割った。良い音がして、頭が食事モードに切り替わる。
 眼前のテーブル上には、香ばしい香りを漂わせる魚や胸やけするほどの油ものが所狭しと並んでいる。加えて僕の前にはジョッキのビールと小さなグラスに入った焼酎、莉子の前には、同じビールが二つ。
 目の前で同じように音がして、僕が箸を伸ばそうとした鳥の軟骨のから揚げの皿が奪われた。彼女は小さなそれを器用につまみ、口の中に放りこんだ。コリコリと良い音がして、軟骨が咀嚼される。
 仕方なく僕は隣の豚キムチ炒めを取り上げた。豚肉の淡白な味にキムチの辛味がよく合う逸品だ。酒に合うかは別の問題である。

「腰が痛いだか足が痛いだか、いつも文句ばっかり言って。じゃあ帰れって話よ。どうせ居ても居なくても仕事に支障はないんだから!」

 蛸のから揚げをかじった。サクサクの衣の次に歯ごたえのある蛸が来る。蛸のうまみが口の中に充満し、思わずもう一つと箸が伸びた。その合間にジョッキのビールを一口飲む。
 莉子は焼き鳥の皿から串を一つ持ちあげた。粘着質なタレが皿に糸を引く。箸で鶏肉を外すこともせずそのまま齧り付いた。口の端に着いたタレを舌で舐めとる。
 料理を運んできた店員に手を上げ、茶碗と熱い急須を受け取った。茶碗の蓋を取り、急須に入っているお茶を回し入れる。これを食べないと居酒屋に来た意味が無い。お茶の香りが食欲をそそる、鮭茶漬けである。箸で荒く掻き混ぜ、勢いよく口に掻きいれる。

「それでね、私が何かミスすると、小さいことでもネチネチネチネチ言ってくるの。自分は何もしない癖に! 酷いと思わない?」

 口から吐く息が白くなる。ダンッと音がして前を見ると、莉子が男らしくジョッキ片手に手で口を拭っていた。
 僕は莉子の前から焼き魚の皿を取り上げた。箸を差し入れ、身をほぐす。ツヤツヤとした白身を口に運ぶと、丁度良い塩味と共に魚のうまみがしみ渡った、ビールを飲む。思わず声が漏れた。

「ねえ、ちょっと、優斗! 聞いてるの?」

 甲高い声に顔を上げると、莉子の眉のつり上がった顔が迫っており、思わず顔を引いた。一言謝罪を返すと、莉子は呆れたように溜め息をついて席に座り直した。頬杖をついてメニューを眺め、物思いにふけるふりをする。

「あんたっていつもそう。私の話なんか何も聞いてないんだから。私ばかり話しちゃって馬鹿みたい。無口で口下手なのは知ってるわ。でも、相槌くらい打ってくれても良いんじゃないかしら」

 ちらりとよこす視線に罰が悪くなり、僕は目をそらした。もう一度溜め息が聞え、それはテーブルの上でどす黒い塊となって空気を重くする。
 からあげを運んできた店員が、空気に当てられて短く悲鳴を上げた。
 莉子とは、所謂幼馴染みという関係だ。小学生の頃、僕が彼女の隣へ引っ越してきたのが始まりだ。当時から口下手で引っ込み思案だった僕は、彼女に引っ張られるようにクラスに溶け込み、背中を押されて声を発した。僕が彼女を好きになることは、随分自然なことであったように思う。告白は、僕からだった。
 昔からそうだ。僕が自分から何かを伝えたのなんてその時くらいで、いつも莉子の意見に倣って、莉子の愚痴を聞き流して、そうして付き合ってきた。
 どうやら、本日彼女はとても機嫌が悪いらしい。いつものことなのに、いつも通りの光景に、腹を立てている。僕は何と言えば良いのか分からず、から揚げ皿を引き寄せた。添えられているレモンを強くつまむと、透明なしぶきが黄金色に散った。

「あ、ちょっと! から揚げにレモンかけないでよ!」

 莉子の怒った様な声がして、びくりと手が止まった。

「私、レモン駄目だって、いつも言ってるじゃない。ほんとに、聞いてないんだ」

 つり上がっていた眉は見る見るうちに八の字に落ち込んでいく。僕は心拍数が一気に上昇したのが分かった。大きな瞳に雫が溜まって行くのを見て、冷や汗が流れる。そんな表情を、させたいわけじゃないのに。

「も、もういい! もういいわ! 優斗の馬鹿! 大嫌い! レモン野郎!」

 訳のわからない捨て台詞を残して、莉子は席を立ってしまった。荒々しく扉が開閉される音で、出て行ってしまったのだと分かる。周りの客や店員の視線が僕に突き刺さる。追いかけようと勢いよく立ち上がったが、ふと足が止まった。
 大嫌いだなんて、言われたのは初めてだった。心臓の音が煩い。汗は止まらないのに、体温はどんどんと下がってしまう。追いかけるべきか。でも、嫌いだなんて、嫌いな奴に追いかけられても、嬉しくないだろう。これ以上嫌われたらどうしよう。でも追いかけないと、このまま終わってしまうんじゃないか。
 激しいジレンマに、脚が震えた。力なくイスに座りこみ、溢すようにごめん、ごめんと続けた。
 終わってしまったらどうしよう。莉子のいない生活なんて考えられない。想像するのが怖い。何をするにも一緒だったのに、何十年ものその当たり前が、今この瞬間に終わってしまうのが怖い。でも、繋ぎとめる方法なんて分からなくて、僕はひたすら自分の擦り切れた靴を茫然と見つめることしか出来なかった。
 しばらくして、ヒールで強く床を踏む音がした。思わず顔を上げる。

「何で追いかけてこないのよ!」

 涙で頬を濡らした莉子が現れた。僕はポカンと口を開ける。

「普通追いかけるでしょお! 彼女が怒って出て言っちゃったのよ! 追いかけなさいよ! 引き止めなさいよお!」

 子供のように、莉子は泣き喚いた。

「もう、私の事なんて嫌いになったわけ? こんな、こんな面倒な女、もう嫌いになったんでしょお! それならそうと言いなさいよ!」

「そ、そんなわけない!」

 イスを倒して立ちあがり、莉子が涙を拭う袖を掴んだ。

「僕だって追いかけたかった! でも、莉子、僕の事大嫌いだって。嫌いな奴に、追いかけられたくないだろうと思って……」

「嫌いなわけないでしょお! 何年の付き合いだと思ってるのよ! 嫌いなら帰ってこないわよ! 嫌いな奴に合うのに、こんな格好しないわよお! あんたのことが好きだから、あんたに追いかけてほしいんでしょ!」

「うん、ごめん。ごめん莉子。から揚げにレモンかけてごめんね。新しいの頼もう。今日は僕が奢るから」

「当たり前よお……デザートも付けないと許さないんだからあ」

 なんとか莉子を泣き止ませようと、頭をなでる。ようやく落ち着いた様子の莉子を座らした頃には、僕らは店中からの視線を一身に集めていた。注文を取りに来た店員に謝り、新しいから揚げと食後にデザートを頼んだ。
 運ばれてきたバニラアイスを食べる頃には、莉子はすっかり機嫌も良くなり、幸せそうに白くて甘いアイスをほおばっていた。


☆☆


 と、二週間前はそうだった。僕は本当に反省した。莉子の話にはきちんと耳を傾け、想った事は口に出したりもした。結構な無理だった。そんな僕を見た莉子は、一言、そんな無理しなくてもいいわよ、と言った。
 どうやらあの日は本当にたまたま気に障っただけらしい。その後は、僕が彼女の話を聞こうが聞くまいが、楽しそうに口を動かしていた。僕も、あの日より前のように戻ってしまった。あの居酒屋には、二度と行けなかった。
 今日は久しぶりに休みが合ったため、朝から待ち合わせをして一日デートである。今更デートだなんて表現するのは気恥ずかしい気もするが、莉子はデートだデートだととても嬉しそうだ。今日の莉子はニットのワンピースにニーハイブーツ。首にはファーのような物を付けていて、暖かそうだ。
 二人で出掛けた回数は数え切れず、どこか特別な場所へ行くなんてことはしなくなった。商店街を目的も無く歩いたり、雑貨屋を巡ったり、服屋に付き合わされたり、莉子とのデートが日常になっているようで、何だか嬉しかったりもする。

「優斗優斗! これどう? 似合ってる?」

 今は莉子の服屋巡りに引きずられている所だ。莉子は自分の体にフリルのついたロングTシャツを当てて僕を見て来る。キラキラと輝く瞳に見上げられ、僕は苦笑いを溢しながらも似合うよと返した。

「無理に言ってるんじゃないの? なんか疲れてる」

「……疲れてる」

「か、彼女の買い物に付き合ってるときに疲れるなんて言わないでよお!」

 莉子は顔を赤くして、しきりに僕の肩を叩いた。そんな姿が可愛くて、思わず笑いを溢すと、莉子はハンガーを握りしめて立ちつくした。

「ごめんね。それ、似合ってるよ。貸して」

 悔しげな顔をしている莉子からその服を取り上げ、制止の声も聞かずにレジに向かった。

「別にあんたが買う必要ないでしょお! 良いわよ、私が払うから!」

「ちょっと黙ってて」

「なっ……優斗のくせに」

 ほほ笑む店員に頭を下げて紙袋を貰い受けた。それを莉子に渡すと、莉子は不服そうな顔をしながらも両手でそれを受け取る。その後に見せる、どうしても隠しきれないらしい笑顔が見たくて、だなんて、恥ずかしくてとても言えはしない。

「お腹がすいたわ! 何か食べに行きましょう!」

 さっきまで悔しそうにしていたくせに、すぐにこの自信満々の笑顔だ。僕は足どり軽く歩く彼女の後ろに着きながら、何にするのと問うた。

「パスタが食べたいの! あの店にしましょう!」

 そう言って莉子は意気揚々と洒落た装いの店に足を踏み入れた。店員に案内されて席に着くと、莉子は早速メニューを広げた。僕も同じようにする。メニューは充実しており、正直迷う。彼女を見ると、何故かオムライスのページを見ていた。そしてこれにするわ、と指差したのは、サーモンとほうれん草のクリームソースのオムライス……

「パスタじゃなかったの?」

「気分が変わったの。あなたは何にするの?」

 僕が指差したのは、小海老のトマトクリームパスタだ。莉子は頷くと、手を上げて店員を呼んだ。
 数分後に、僕の前にはパスタ、彼女の前にはオムライスが置かれていた。赤色に色づいたパスタをフォークに絡め、口に運ぶ。トマトの酸味がまろやかにパスタと調和し、絶品だ。小海老をプツリとフォークで刺して食べると、こちらはプリプリとした歯ごたえが溜まらない。対する彼女は、ふわふわの卵とチキンライスをクリームソースにくぐらせ、幸せそうに口へ運んでいる。しかしすぐに、こまめにこちらに視線をよこすようになった。

「……分かったよ」

 僕が自分の皿を差し出すと、彼女は満面の笑みを咲かせ、フォークにパスタを巻きつけ始めた。僕は彼女のオムライスを少し拝借する。美味しい。

「……優斗は、食べるのが好きね」

 莉子の声を聞いてそちらを見ると、分析でもしているように、手を顎にやっていた。言われてみれば、と頷いた。

「まあ、秋だしね。食欲の秋だよ」

 食べるのが嫌いな人間のほうが少数だろう。美しく美味な物を楽しみ、慈しむ心は人間として生まれた特権だと僕は思う。

「ふぅん……私はオシャレの秋ね! 夏は暑くて重ね着できないし、冬はコートで全て隠れてしまうもの。やっぱりオシャレは秋よ秋!」

「花粉症だから、春はそれどころじゃないしね」

 からかい半分で言うと、うるさいと一刀両断されてしまった。
 結局残りのパスタは全て莉子に食べられた。気分の変化はどこへいってしまったのだろうか。
 食後にコーヒーを、莉子はココアを飲んでいると、窓の外が暗くなってきた。まだ昼過ぎなのに、そう思って空を見上げると、どうやら雨が降るらしい。雲が重く空を覆っていた。すぐに窓に水滴が付き始め、外を歩いていた人たちが慌てて走り出し始めた。

「雨だ」

「ほんと。でも、こういう所での雨って良いわね。私、雨って嫌いじゃないわよ」

 莉子は両手で暖かいマグカップを持って言った。

「そういえば、この間友達と飲みに行った居酒屋の料理が美味しかったの! 今度一緒に行きましょうよ!」

「いいね。から揚げにレモンをかけないように気を付けるよ」

「も、もお、そのことはもう忘れなさいよ。私が悪かったわよ」

 そろそろ行こう、と莉子が言うので、コーヒーの残りを喉に流し込んで立った。会計は当然のように莉子持ちだった。慌てて止めると、あのTシャツのお礼よ、といたずらっぽく笑われた。
 店の外は、まだ雨がささやかに降っていた。気にするほどの量ではないが、莉子は空を見上げて眉をひそめた。

「そうだ、雨が降ってたんだわ。最悪」

 僕は思わず噴き出した。そういえば、こんなときにピッタリなことわざがあったはず。ああ、そうだ、女心と秋の空。

END

女心と秋の空

女心と秋の空

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-04-17

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