理由なき殺人
1.
やはり人は好きになれない。
西日で赤く照らされた自動車の背が、次々と過ぎ去っていく光景を見下ろしながら、翔子は今更のようにそう思った。
カフェレストランの二階の窓際。翔子は四人用のテーブルをたったひとりで占有し、ウィンドウから覗く景色をぼうと眺めていた。
人間ほど裏表のある動物はいない。人間社会に引きずり込まれた犬や猫でさえも、自分の感情には素直だ。仮面をつけて生きていかなければならないのは、数多くいる動物の中でもたった人間だけなのだ。
溜息をつき、冷めきったコーヒーを口に運ぶ。久々に飲んだカフェインだったが、いつもにも増してまずい。顔をしかめ、背もたれに身を預けると、前方の席から遠慮のない馬鹿でかい会話が聞こえてきた。翔子はさらに顔をしかめて、その会話を聞くともなしに聞いていた。
「なあ、アレ聞いたか?」
「ちょっとぉ、アレじゃわかんないでしょー」
声と口調から判断するかぎり、頭の悪い青年と尻の軽そうな女のようだ。翔子は席を立とうとしたが、男の次の言葉で浮かせていた腰をソファに戻した。
「なんとか精神病院から、やばい患者が逃げ出したって噂だよ。ほら、数年前に連続した無差別殺人があっただろ?」
「知らなーい。あたし、ニュースとか新聞とか見ないし」
「まあ、俺も詳しくは知らないけど、そんな事件があったんだよ。で、その犯人、裁判で精神喪失だとかなんとか判断されて無罪。ま、当然そのあと、精神病院に入れられたわけだ。それで、今回の噂だよ」
「まさか、その犯人が病院から逃げ出した患者、って言うんじゃないでしょうね」
「そのとおり」
「ばっかばかしぃ。そんなの作り話に決まってんじゃん」
「それがさ、この話、かなり信用できる筋から……」
こんな下らない会話のなかにも、下心が渦巻いているに違いない。そう思った途端、翔子はひどい頭痛と耳鳴りに見舞われた。望みもしないチカラが働く前兆だ。
男と女の会話が小さく遠のき、再び大きくはっきりと聞こえてきた。
『どうして、この男、こんなつまんない話しかしないのかしら』
『このあと、どうやってホテルに連れ込もうか……。とりあえず、このまま時間を稼いで、もっと暗くなってから……』
脳に直接響いてくる声に耐えられなくなり、翔子は両目を閉じた。視界を遮断し、色のない世界に逃避する。しかし、その会話がやむことはない。
『この前、加奈子に紹介してもらった、あの男に電話してみようかな。このままじゃ、つまらなそうだし』
『やべぇな。つまらなそうな顔してんじゃん。とりあえず、ここ、出るか』
「――申し訳ございません!」
その正常な声で翔子は我に返った。
手元を見ると、琥珀色の液体がだらしなく尾を引き、テーブルの端から垂れ落ちている。
傍に立つウェイトレスが頭を何度も下げながら、謝意の口上を述べた。
「申し訳ございません。もちろん、お代のほうは結構ですので。――御洋服のほうは汚れていませんでしょうか?」
ウェイトレスに促され、確認してみる。右袖のところに焦げ茶色の班点がついていた。カップが倒れた際、コーヒーが跳ねたらしい。
『あ。やっぱり跳ねてたか。ったく、なんてついてないの。面倒くさいなあ、もう!』
しかし、彼女が実際口にする台詞は全くの正反対だ。
「申し訳ございません。どうぞ、こちらの方へいらしてください。クリーニング――」
「結構です」
翔子は苛立ったように言い放ち、席を立った。
自動ドアを抜け、下りの階段を音を立てて駆け下りる。車のキーをハンドバッグの中から探り出しながら、心の中でもう一度毒づいた。
やはり人は好きになれない。
2.
「警部。本当にこいつが人殺しなんですか?」
運転席の深山が言った。
「そんな感じには見えないっすよ」
喋りながら手配写真をちらりちらりと脇見運転する部下に、溝上は素っ気なく答えた。
「間違いない」
「へえ。ひとの良さそうな顔ですけどね。美形だし。それに意外に若いんだなあ」
片手で写真を、もう片方でステアリングを握り、ながら運転する深山に溝上は内心ひやひやしていた。備え付けの灰皿に、吸い殻の山が築かれ始めている。普段より速いペースで消費されるタバコ。それでも落ち着けることのできない、この言いしれぬ胸騒ぎは深山の運転のせいか、それとも目の前に迫っているであろう脱走犯のせいであろうか。
溝上は軽く頭を振って、まだ半分も残っているタバコをひねりつぶした。
「深山。人間を見た目で判断するのは愚の骨頂だ。人間、腹で何を考えているのか、わかったもんじゃない」
「わかってますよ。それにしても、愚の骨頂なんて、古いっすね」
深山は、くっくっとおかしそうに笑った。
「おまえの場合、腹の中の言葉を全部吐き出していそうだな。……新しいものに意味などない」
そう言って、溝上は深山の手から手配写真を奪い取った。
「運転に集中しろ。警察が事故ったら洒落にならん。また世間から苦情が殺到するはめになるぞ」
「りょーかい。警部殿」
深山はおどけて敬礼をする。当然、片手運転だ。
この車には助手席にもエアバッグがついていただろうか。急にそんなことが溝上は心配になってきた。
「しかし、こんな山奥じゃあ、誰もいませんねえ。まあ当然ですけど。……ホントにホシはこんなとこに逃走したんすか?」
今、溝上たちが走っているのは郊外の高山に続く田舎道だった。二車線の細い道路の両脇には、針葉樹の密生した林が続いている。サイドウィンドウからほんの五メートル先は、林から生まれた闇に包まれていた。
隠れるなら恰好の場所だ。溝上はひとり納得していた。
「目撃情報もいくつか寄せられている。付近にいるのは間違いないだろう」
「でも、どうして、こんなふうにこそこそとやってるんですかね、我々は。潜伏場所がはっきりしてるんなら、もっと数に物言わせて捜索すればいいものを……」
深山は、少数による隠密捜索が気にくわないらしかった。ずいぶん前から、不平を漏らしている。そしてその都度、溝上は同じ説明を繰り返すのだった。
「脱走した患者は、世間にも知られた人物だ――異常者としてな。数年前の無差別連続殺人事件は、おまえだって知っているだろう?」
「ええ。知ってますよ。無関係の人間が訳もわからない理由で次々と殺された事件でしょう。理由なき殺人、ってやつですかね。あれはいろんな意味で悲惨だったっすね」
「……理由なき殺人かどうかはわからんよ。殺した本人には、何か理由があったのかもしれん」
「まさか」深山は鼻で笑った。「精神鑑定で全部、犯人の被害妄想と判断されたって聞きましたよ」
「まあな。肝心の裁判で、刑事責任なしと無罪判決。被害者の関係者は悼まれないよ」
溝上は当時を思い返すように溜息をついた。
「そんな世間に有名な殺人犯が脱走した、といって、ちまたに容易く情報を流すのは無意味な混乱を招くだけだ。今回のウエの判断は間違っていないだろう」
言下に、隣から噛み殺した笑いが聞こえた。
視線を横に投げると、深山が笑いをこらえるようにステアリングを掴んでいる。
「け、警部。ちまた、だって……ホント古いっすね」
溝上はほんの少し不機嫌になって、前方を見据えた。フロントライトが湿った道を円錐形に浮かび上がらせている。
残り一本になったタバコを取り出して、溝上は苛ただしげに火をつけた。
「……新しいものに意味などない」
3.
陽の光を失った山道は、昼間と比べて何倍も哀愁に満ちていた。
整然と立ち並ぶ木々、風に揺られる雑草。ほかには何もない。もちろん、ひとけなど一欠片もない。あるのは自然。自然に切り開かれた道。そして、植物たち。
翔子はなによりも植物が好きだった。植物は決して喋らないし、なにも思わない。理想のパートナーだ。考える葦など目の前から消えてしまえばいい。
翔子は上機嫌に車を飛ばしていた。やっぱり、ひとけのない場所が一番だ。こんなところなら、人間の醜さを聞くこともなければ、それで気分を害することもない。いっそのこと無人島に移住しようか。ふとそんな考えが頭をよぎる。それにはもっとお金が必要だわ。
……なにを考えているのだろう、わたしは。
馬鹿げた考えを一瞬でも本気に検討した自分を、翔子は自嘲気味に笑った。
カーラジオに雑音が目立ってきたので、音楽に切り替えた。趣味の楽曲ではなかったが、しかたなくそのまま流しておくことにする。
と、数分もしないうちに、音量が小さくなっていき、それにつられるように車速も衰え始めた。
「エ、エンスト……?」
思わず声に出してアクセルを踏み込むが、右足にはまったく抵抗が感じられない。
「……うそでしょう」
翔子のつぶやきも虚しく、ほどなくして車も音楽も完全に止まってしまった。
肩を落として、車を出る。なんとかならないだろうか、と熱気を帯びたボンネットを開けて見た。煙がエンジン部分からもうもうと立ち上がる。これはひどい。翔子は口を手で抑えて、その場から離れた。
車に詳しくない翔子には、どうすることもできなかった。
近くに民家がないかと探し回ったりしたが、当然見つかるはずもない。公衆電話も見あたらないし、携帯電話もない以上、助けを呼ぶ手立てもない。
翔子は途方に暮れて、車の横に背もたれた。
重い息を吐きながら空を見上げる。真っ暗な空。星はひとつも見えなかった。雨が降り出すかもしれない。傘も持っていないから、歩いて山を下るのはやめておいた方がいいだろう。ということは、やっぱり待ちぼうけか……。
結局、他人に頼らなければならない今の自分が、その存在を否定してしまいたいくらい嫌で嫌で仕方なかった。
どれくらい経ったのだろう。自然のなかにはあり得ない音に気づいて、翔子は伏せていた顔を上げた。
自動車の走る音だ。
直感したとおり、登りの道からやってくる車のライトがぼんやりと見えた。
その車は翔子を数メートル通り過ぎると、速度を落として道の脇に止まった。
よかった。気づいてくれたみたい。翔子は胸をなで下ろして、その車に駆け寄った。
そのメタリックブルーのスポーツカーから降車してきたのは、まだ若い男だった。顔立ちも良く、細身で背も高い。人の良さそうな雰囲気を全身から放っていて、好青年と胸に名札をつけて歩いているような人柄だろうか。
「どうかなさったんですか?」
男は紳士的に訊ねてきた。
翔子は警戒心を緩めることなく、言葉を返した。
「車がエンストしてしまって。困っているんです」
そう言って、自分の車を目で示した。煙が上がっているようなことはなかったが、車は精気を奪われて寂しそうに佇んでいた。
「ちょっと見せてもらえますか?」
「ええ、もちろんです。どうぞ――」
翔子は微笑み返して、男を車へと促した。
男はエンジン部分を調べたり、運転席に乗り込んでいろいろと試みたようだった。しかし結局、車が息を吹き返すことはなかった。
「駄目ですね。動きそうもない」
男は首を左右に振りながら、診断結果を伝えた。
「そう、ですか。……どうしよう」
「どうでしょう?」
心なしか、男の声が明るさを増したように思えた。
「車をここに置いたままで構わないのなら、僕が市内まで乗せて行きましょうか? ああ、もちろんあなたが望むのなら、の話ですが」
「え……」
翔子は男の申し出にとまどった。この男は何が目的なのだろう。何か下心があるに違いない。翔子は男の顔をじっと眺め、意識を集中してみた。
――しかし、いつまで経っても、何も聞こえてこなかった。
肝心なときに働かないなんて、なんて役立たずなチカラなんだろう!
「なんだか警戒されちゃってるなあ。まあ、無理にとは言わないよ。嫌なら嫌でいいんだけれどね」
男はうなじを手で掻きながら、朗らかに笑った。
「い、いえ。……そんなんじゃないんです」
翔子は作り笑いを浮かべながら言った。
「じゃあ……お言葉に甘えて、市内までお願いします」
男は、翔子が助手席のシートベルトをつけたのを確認すると、車を発進させた。
ゆっくりと動き始める外の淋しげな景色。サイドウィンドウで四角に切り取られたスクリーンは、いつまでも似たような映像をうつし続け、ループしているような錯覚に陥る。助手席からの眺めも、そんなに悪くないな。翔子は新鮮な体験に少しだけ気分が晴れた。
「あのう、どうしてあんなところに?」
男が言いづらそうに聞いてきたが、翔子はその質問の意味がわからなかった。答えようがなく、しばらくの間、カーラジオが車内を支配した。気まずい時間が続く。
「いや、なんか訊いちゃマズイことだったかな。ただ、若くて綺麗な女性が、こんな物寂しい山奥にひとりでいたから……なにかあったのかなって……」
「ああ……趣味なんです。こんなところをドライブするのが」
本当ではないけれど嘘でもない、と翔子は思った。
「なるほどね。趣味なんだ……」
男は一応納得したように二、三度頷いて見せた。
「僕もドライブは好きだな。それから散歩も。こんな自然の中を散策するのも気持ちいいけど、街の中を歩き回るのもおもしろいね。人通りをぼうと眺めるのも……」
「ひとけの多い場所は嫌いです」
言ってしまってから、翔子は後悔した。なにも、こんな下らない会話で本心をさらけ出す必要なんかないのに。
「そう。人の多い場所は嫌い?」
「ええ……まあ……ちょっと苦手なんです」
「人を観察するのはおもしろいよ。人間ウォッチングっていうのかな。いろんな癖が、その人それぞれにあったりして……見ていてホントに飽きない。人間を観察していると、世の中いろいろと不幸なことばかり起きているけれど、やっぱり人間って本来はそう悪いものじゃないと――」
「そんな話には興味がありません!」
翔子は耐えられなくなって、大きな声で男の話を遮った。「そんな話は不愉快です。やめてください。人間はみんな、汚れた心しか持っていない! あなたはそれを見ていないだけよ!」
翔子はすべてを吐き出してしまって、それから自分がひどく興奮していることに気づいた。わたしはなにをムキになっているんだろう。聞き流しておけばいいものを……。
上気した額に手をあてながら、翔子は恥ずかしさのあまり失語症になったような気がした。なんとか、必死に声をつむぎ出す。
「す、すみません。大声を出してしまって……」
「いや……気にしなくていいよ。ちょっと、びっくりしたけどね」
男は笑ってさらりと言ってのけたが、内心、へんな女だと思っているのだろう。
翔子は逃げるように、視線を車窓へと向けた。
突然、ずきりとこめかみに刺激が走った。
そして――頭痛と耳鳴り。
『この……ひとが……して……僕が……やろうかな……でも……』
なんて言っているのか聞き取れなかった。雑音が入ったり、所々が途切れて頭に響いてくるのだ。どうしてだろう。こんなことは初めてだ。
翔子は隣の男がどんなことを考えているのか気になって、その横顔をうかがった。何事もなかったように、相変わらず人の良さそうな顔で運転を続けている。
本当に人のいい人間なんていない。
翔子は唱えるようにそうつぶやいて、視線を前方に戻した。気のせいか、あたりの景色に見覚えがないように思えてくる。道はこれであっているのだろうか?
それを訊ねてみようと口を開きかけたとき、突然、ラジオの口調が緊迫したものに変わった。どうやら、緊急のニュースが入ったらしい。
『ついさきほど、N県警察署から入りましたニュースです。詳細は不明ですが、同県警が手配する人物の目撃情報を求めている、ということです。手配されている人物は――』
ニュースキャスターの語尾が低く歪んで、唐突に途切れた。
「こんなニュース、あまり聞きたくないな」
男はラジオを切ると、翔子に力なく微笑みかけた。
「きみの言う通りかもしれないね。――人間はみんな、心が汚れている」
4.
溝上は、さっきまでやかましいくらいに喋っていたラジオのボリュームを勢いよくしぼった。
途端に、薄気味悪いくらいの静寂が車内に蘇った。
「ついに流したみたいっすね、情報」
「ああ。すこし早まったかもしれんが……」
溝上は溜息と一緒に、深山から奪ったタバコの煙を吐き出した。
「まあ、情報は一部伏せてあったから、さしたる問題もないだろう」
「さしたる……っすか」
「べつに古くはない。みんな使っている」
「みんなって、警部のような定年まぢかの方たちですか?」
深山はにやにやと愉快そうな笑みを満面に浮かべた。職務中の刑事の態度としては、追試のレベルだ。だが、溝上はそんな深山を嫌いになれなかった。
「おふざけはそのくらいにしておけ。ほら、前を見ろ。車が止まっている」
「……なにかあったんでしょうか?」
言いながら深山はブレーキを踏み込んだ。すでに表情は真剣さを取り戻している。
溝上と深山は車を降り、問題の車に近づいた。
「――誰も乗っていませんね」
深山が運転席を覗き込みながら言った。「鍵もかかっているみたいっす」
「犯人が逃走に使った車は、青か紺の普通車とか言っていたな」
「この車も青ですね。でもこれ、軽っすよ」
「そんなことは言われなくてもわかっている。当然、犯人は車を何度か乗り換えているに決まっているよ」
溝上は、サイドウィンドウをこぶしで軽く叩きながら言った。「問題は、この車の中に誰もいない、ということだ」
「車の主はどこへ行ったんでしょうか。誰か通りがかった人に、乗せてもらったのかもしれないっすね」
「こんな山奥を通りかかるやつなんて、そうはいまい。いま、そんなやつがいるとすれば……」
溝上は意味ありげに言葉を切った。
「まさか、警部」
深山はふたえの細目を大きくした。「犯人だとか言うんじゃないでしょうね。縁起でもない」
「その可能性は比較的高い。通りがかった人物が犯人だという可能性も、この車の主が犯人だという可能性も。そのどちらも、充分ありうる話だ。――さあ、車に戻ろう」
溝上は深山にひと足遅れで車に乗り込んだ。ドアを閉め切らないうちに、深山は車を発進させる。
シートベルトをするのも、もどかしいくらいに溝上は落ち着かなかった。
「さっきから胸騒ぎがする。急ごう」
5.
「あの、道は、これであってるんでしょうか?」
ずいぶん前から胸と喉元を去来していた言葉を、翔子はいま、ようやく口に出すことができた。
「道?」
数分前、近藤と名乗った男は、呆気にとられた様子で聞き返してきた。
「道はあっている……というより、市内までは一本道だから間違うはずないよ。そんなに僕、方向音痴に見えるかな。これでもけっこう自信あるんだけどね、このへんには」
近藤は相変わらず、にこやかに話を盛り上げようとしている。
しかし、翔子には、あたりの景色は賑やかになるどころか、時間が経つにしたがって、ますます閑静になっていくように思えた。
この男の言うことを信用してもいいのだろうか。このあたりで降ろしてもらったほうが賢明ではないか。いや、駄目だ。こんなところに降ろされても、再び途方に暮れるだけだ。もう少し……。もうしばらくだけ様子を見てみよう。
翔子は膝の上にのせた右手をぎゅっと握りしめた。
……大丈夫。市内に着いたら、すぐに降ろしてもらえばいい。それからのことは、そのあと考えよう。
「どうして、このこ何も喋らないんだろう。見た目はかなりいいんだけどなあ」
唐突な言葉に、翔子はびっくりして近藤を見上げた。
近藤は不思議そうに翔子を見返す。
「どうかした?」
「さっき、なにか……言いました?」
「いやなにも。どうしてそんなこと訊くの?」
「いえ、なんでもありません」
翔子は早口に答えて、下を向いた。
さっきのは……彼の心の声だったんだ。聞こえていたんだ。聞きたいけど聞きたくない。聞くのがこわい!
そう思った瞬間、頭痛と耳鳴りが――チカラの働く前兆が脳に鳴り響いた。
「……久々にいい女つかまえたのになぁ……このままじゃ、あんまり乗り気になれな……そうだ……して……みようかな……」
まだ所々途切れて聞こえるが、まえよりは随分クリアになっている。
翔子は、耳をふさぎたい衝動と、耳を澄ましたい好奇心と、その葛藤に苛んだ。
近藤の独り言はさらに続いた。
「さっさとどこかに連れ込んで……らくかも……顔はきれいだし肌も悪くない……を絞めて……」
翔子は耳を疑った。……絞める? 首を絞めると聞こえたような気がした。
「……そのあとは……っくりと時間を……の肌を切りさいて……蔵を引きずり……バラバ……もって帰ろ……」
肌を切り裂く? バラバラ? 首を絞める?
考えれば考えるほど、混乱という状態に向かって転げ落ちていく。
翔子は震える手を必死で押さえつけながら、隣で運転を続ける男の横顔を見た。何も変わらない。胸のなかで考えているようなことは微塵も表へ出していない。怖ろしいまでの冷徹さ。それをその横顔から感じ取ることができた。
「みろよ……だとしても……気づきやしない……さぞ簡単に折れる首の骨……」
「やめてください!」
思わず、翔子は叫んでしまっていた。何も考えずに。
「ど、どうかしましたか?」
男が紳士の仮面をつけて心配そうに訊ねてくる。
「な、なんでも、ありません……なんでも……」
翔子は冷静になろうと、男に気づかれないように何度も深呼吸をした。吐き出す息さえ震えている。
まだ、このひとが殺人者だと決まったわけじゃない。翔子は必死に言い訳を探した。ただ、頭の中で妄想をしているだけかもしれない。実際に行動に移すかどうかは別問題。
大丈夫、大丈夫。わたしのチカラさえ知られなければ、いますぐ殺されることはないはず。とりあえず、いまは、このまま大人しくしていれば……市街地に着いてから助けを求めるなり、なんなりすればいい。いまは、落ち着くのが先決だ。
そう、何事もなかったかのように振る舞えばいい。
翔子は次第に落ち着きを取り戻しつつあった。
「……は、気分でも悪いのだろうか?」
「いえ……大丈夫です」
翔子は言ってしまってから、すぐにしまったと気づいた。
さっきの声は……。
おそるおそる近藤を見てみると、やはり驚いた顔でこちらを見ていた。
「びっくりしたな。いきなり独り言なんて言うから。もしかして、独り言を言う癖とか、あったりしない?」
それに答える余裕など、翔子には残っていなかった。
ばれてしまった。わたしのチカラが知られてしまった。殺される……。
「……いつ、いったいどうし……の正体が知られ……いますぐ殺……」
「とめてください!」
翔子は胸の前で祈るように両手をからめて、そう叫んだ。
近藤は目を見開いて、振り返った。
「車を、とめてください。……き、気分が、悪くて……」
「だ、大丈夫?」
そう言って、近藤はブレーキを踏んだ。
車がのろのろと減速する。いままで一番長い十秒間を翔子は嫌と言うほど味わった。
完全に停車しないうちに、翔子はドアを開け放って外へ飛び出した。
どこへ行こうか、そんなことは考えてもいない。ただ、目の前に広がる闇へ――木々の中へ、身を隠そうとだけ本能が訴えかける。
突っ走る翔子の背後から、男の声が飛んできた。なにやら叫んでいるようだったが、何を言っているのか聞き取れない。
構わず、前へ前へ走った。とりあえず前へ。闇へ。
翔子が逃げたことに気づいたのか、男は車から出て、叫びながら追いかけてきた。
土を踏み込む音が、落ちた木の枝を踏み折る音が、次第に大きくなって背後から迫ってきている。もう、数メートルくらいだろうか。
翔子は泣きそうになりながら走り続けた。泣いたって何も解決しない。そう頭では理解していても、涙はこぼれそうなくらい目に溜まっていた。
まっすぐなはずの木が、涙で不気味に歪んで見える。空間がねじ曲がったような錯覚。不思議の国に迷い込んだアリスのように、翔子は走り続けた。
恐怖のためか、疲労のためか、身体がいうことを聞かなくなり始めた頃、ふっと身体が宙に浮いた。
なにかにつまずいてしまったのだ。
一瞬だけ空を泳ぐように舞い、次の瞬間、翔子の身体は湿った地面に、呼吸が止まるくらい激しく叩きつけられた。
しびれる全身に全神経を集中させ、急いで起きあがろうと試みる。うまくいかない。自身の身体と悪戦苦闘しているところへ、木の枝が踏み折られるこぎみ良い音が、すぐ後ろから聞こえた。おそるおそる振り返って見上げると、黒い影が目の前に立ちはばかっていた。
その影は息を切らしながら優しい声を浴びせてきた。
「きゅ、急にどうしたんですか? 突然走り出して……」
もう駄目だ、と翔子はぼんやり思った。
「車内にハンドバッグを置き忘れていましたよ。なくしたら困るでしょう?」
そう言って男は、ハンドバッグを翔子の手に握らせた。そして翔子の手を取り、立ち上がらせようとしたが、虚ろな瞳の翔子はそれを拒む。
男は諦めたように翔子に背を向け、歩き始めた。
「とりあえず、車に戻りましょう。……ここはなんだか気味が悪い」
翔子は地面に尻をついたまま、茫然と男の後ろ姿を見ていた。
わたしは殺される。あの男に殺される。
このあたりには人がいない。誰もわたしを助けてくれない。
だから、わたしは殺される。あの男がいる限り、殺される。
あの男を殺さなければ、わたしが殺される。
翔子は呪文を唱えるように、ぶつぶつとつぶやいていた。
その虚ろな瞳に、傍に落ちていたこぶし大の小石がうつる。
翔子の視線が、前方の男の後頭部とその小石を交互に飛んだ。
翔子はその小石を手に取ると、弾けたように飛び起きた。
殺さなければ、殺される!
早足で歩くと、男の後頭部はみるみるうちに目の前に迫ってくる。
――殺してやる!
6.
白いガードレールが、血液のような赤に染められていた。
数台のパトカーと一台の車が、ガードレールの前に止められている。パトカーは警戒心を煽る赤色灯を回転させているが、このあたりには警察以外、誰もいない。その虚しさはサイレンが鳴っていないため、さらに倍増していた。
深山はガードレールに腰掛け、落ち着かなさそうに片足を踏みならしていたが、林の薄闇から溝上が出てくるのを見つけると、主人の帰りを待つ犬のように彼のもとに駆けつけた。
「……どうでした?」
溝上は白い手袋を外しながら、悔しそうに首を振った。
「遅かった。手遅れだったよ」
「そうですか……」
「脱走者はいまだ逃走中。そう本部に連絡してくれ」
溝上は手近な制服警官を捕まえて、そう伝えた。
目頭を指で押さえる溝上に、深山がタバコを差し出しながら言った。
「しかし怖ろしい女ですね」
「いつの時代も女は怖ろしい生き物だよ」
溝上はタバコをうまそうに吸い込んだ。
深山が助手席のドアを開いて、溝上を招き入れる。軽く頭を下げて溝上は車内に乗り込んだ。
深山が運転席に座り、シートベルトを胴体にくくりつけながら溜息を吐く。
「まったく……おそろしくタチの悪い異常者っすね。自分に特殊な能力があると信じ切っているんですから……」
「ああ……」
溝上は疲れ切ったように頷いた。「思いこみというやつは、本当におそろしい」
ひとけのない波止場で、翔子は車を止めた。
たゆんだ海が闇を飲み込み、目の前に広がっている。波の音だけの世界、光のない世界、そして人のない世界。
車を降りると、心地よい潮風が髪をなびかせて通り去った。
やはり人混みは苦手だ。雑踏にまみれると、あの声が聞こえてくるから。聞きたくもない醜い声が、わたしを苛むから。
翔子は長い髪を掻き上げた。ぬめりとした感触があった。手のひらを見ると、指先に乾ききっていない血が付着していた。それを見て、ついさっき自分が人を殺したのだと思い出す。
とりあえず、逃げなければ……。
何も刺激のない、あの狭い部屋には、もう、戻りたくない。
逃げなきゃ。
7.
依然、逃走した患者の足取りがつかめないまま、数日が無為に過ぎていた。
溝上と深山は、それこそ藁をつかむ心境で、数日前殺害された男性のマンションへ足を運んだ。被害者の男には身寄りが無く、家宅捜索の手続きに思ったより手間取ったのだ。
被害者は若いにもかかわらず、そうとう裕福だったらしい。立派なマンションだった。ロビーの小さな個室を除くと、管理人と思わる初老の男が新聞を読んでいた。
溝上は管理人に警察手帳を見せ、ざっと事情を話した。管理人が愛想よく合鍵を出してくれたので、続けて被害者宅の捜索に立会をお願いする。これにも管理人は二つ返事を返してくれた。心なしか嬉しそうに見える。刑事ドラマの見過ぎではないか、と溝上は思った。
「しかし、こんなところに手がかりなんてあるんすか?」
深山がさめた口ぶりで言った。
「行って見なきゃわからんだろう。一パーセントの可能性でもあれば動く。それが刑事ってもんだ」
溝上は説教をたれながらエレベーターに乗り込み、「6」のボタンを押した。
「だいいち、あの被害者が、逃走した女に殺されたと決まったわけじゃないだろう? 別口かもしれん」
「またまた。そんな心にもないことを」
深山の揶揄に溝上はにらみ返したが、内心そのとおりだった。あの男はいかれた精神異常者に殺された。ここへ来ても、得るものなど何もない。
「――たしか、ここですね」
ルームナンバーを見上げて歩いていた深山が、あるドアの前で足を止めた。ナンバーを確かめなくても、一号室はたいてい角部屋なのに、そんなこともしらないのか、こいつは。溝上は半分呆れて、無知な後輩の後ろ姿を見ていた。
「ああ、間違いない。……だからさっさと開けてしまえ」
「はいはい、わかってます。……よいしょっと、開けたっすよ。ささ、どうぞ警部殿、お先にどう……う……」
おちゃらけてドアを開けた深山は、一瞬でその顔つきを歪めた。原因は、部屋のなかから流れてくる異常な臭気。溝上も顔をしかめ、しおれたハンカチを取り出すと口にあてた。
「すごい臭いだ……」
「……死んだ魚の臭いっすね」
ハンカチでこもった深山の声すら、溝上には不快に感じた。すべての感覚に臭覚が備わった気がする。そして、そのすべてがひどい臭いなのだ。
「とりあえず入るぞ」溝上は深山を促した。
「ええ、入るんっすか?」
「あたりまえだ」
溝上はそう言い置いて、手袋をはめながら室内へ足を踏み入れた。
いっそう臭いが強くなる。吐き気を催すのは当然のこと、意識を失ってしまいそうなほどだ。
臭いは室内に充満していたが、ある場所から特に激しく臭ってきていた。
「……風呂場だ」
「バスルームって言ってください」深山が苦しそうに言った。
「どっちでも同じことだ」
溝上は風呂場の扉を勢いよく開けた。
煽られた空気に乗って、さらにひどい臭気が鼻を突く。
窓もなく、換気口も働いていない。完全な密室。そこに漂っていた空気は想像を絶するものだった。政治家すべての腹のうちを掃き溜め、腐敗させたような臭い。そんなもの想像できるはずないのだが、溝上が連想したものはそれだった。
バスタブに目を向けると、いびつに膨れあがったビニール袋が無造作に放り込まれていた。口は結ばれることなく開けられたままだ。異様な臭気もそこから放たれているらしい。
溝上は大きく息を吸い込んで――それもためらわれたのだが――息を止めると、そのビニール袋を覗き込んだ。
そこにはおおよそ予想通りのものがつめられていた。
「見ないほうがいい……」
溝上の忠告をよそに、深山はそれを覗き込み……「うぐぅ」と妙な呻き声をあげると同時に口を抑え、そばの洗面台に駆け寄った。
「古い人間の忠告は聞いておくもんだ」
溝上は、際限なく胃の中のものを吐き出し続ける部下の背をさすりながら、静かにそう言った。
結局、この日、溝上たちは風呂場以外の場所も含め、合計四体の女性と思われる腐乱死体を発見した。もっとも、それらはすべてバラバラにされており、じっくりと検証してみないことには正確なことはわからないだろう。
〈了〉
理由なき殺人