ヒヤシンス(花草セレ)
甘い雪
息が妙に白く凍えると思ったら、空から綿が降ってきた。ほほに当たると悲しくもないのに雫が垂れて、厚着した袖口で拭っても目元を濡らすばかりで、一向に拭えない。伸びてきた前髪を払うと既に積もっていた雪がはらはらと落ちた。遠くを見れば、葉の一つも身に着けていない木々の腕に、指の先に透き通るような白が降りかかっている。風にもなびかない彼らは果たして、寒いと感じているのだろうか。僕にはとても耐えられないのに。
蒸し暑いのだって嫌いだけれど、冬も同じくらい嫌いだ。冷たい雪の欠片なんて色の一つも持ち合わせてはいないくせに身を寄せ合って背中を白く見せ、この寒さにどうしても青や水色といった突き放す色を思い浮かべてしまう。僕は憎らしくも肩にとまった雪を散らした。離れ離れになると少しだけ寂しそうに光の粒を輝かせるものだから、一層腹が立つ。
先の見えない曇り空を撃ち抜かんと黒い雨傘を広げてはみた。広げてはみたものの、どうも使い物にならない。半分を譲っているからか。いや、彼女は、ぼく自身も一人分のスペースすら持て余してしまうというのに、両手を広げた蝙蝠傘に収まりきらぬはずがない。雪は小人に似ている。いたずら好きで、だから風を伝って僕の肩にとまるんだ。そのくせ怖がりだから、彼女の白いほほに身を隠すんだ。
「ちゃんと入らないと、風邪をひくよ」
「人のこと、怒れませんよ」
僕を気遣って笑う彼女が唯一暖かい色を持っていて、他の景色はすべて、冬の空に飲まれていく。覆われていく。包まれていく。赤くしもやけしているのであろう左手をそっと彼女のほうへ動かすと、指の先を風に冷やされた彼女の手がそっと押し返す。仕方なく彼女に傘を一度渡してやり、持ち手を握る震えた右手を上からくるんでやった。とはいっても僕自身相当この寒さには参っていて、どうしようもなく冷えた二人分の指が、もどかしく相手の居場所を探した。
「知ってますか?」
突然無理に遠くへ足を動かして彼女は僕の前に立った。意地悪く微笑む顔に僕は一瞬ためらい、その隙を見逃すまいと彼女は傘を手放し、雪の向こうへと駆けていく。そのまま消えてしまうのではと不安がよぎるほど冬空は勢いを増しており、風も強くなってきた。目線に対し真横に近い高さを飛び交う白い小人達は自分の好む色に世界を塗り替えていく。立ち止まってしまえば、僕も視界を埋める木々のように美しい白塗りのはく製に変えられてしまうだろう。もちろん、彼女も。
「雪って、本当は甘いんですよ」
紅をさしたような唇は凍えているのを感じさせないためかわざとらしく早回しで、雪の球を大事そうに持った両の手は、しびれるように赤かった。彼女は少しのためらいもなく手にした雪玉を一口かじり、無理にほほへ血色を集め美味しそうな顔を作る。僕が傘を差し出すと、よほど寒かったのだろう。触れる肩も、髪の先も、氷を削り取ってできているかのように冷たかった。まったく、どうしてこんなバカをするのか。お返しにと差し出された雪玉を、僕はしょうがなく受け取った。
「それに、食べるとなんだかあったかくて。雪がほんのりピンクに見えるんです」
嘘をつけと小声で呟いて、吐き出した息は白く景色に溶けていく。彼女にしては意地を張って一つも前に進みだしてくれないので、僕は仕方がなく一口、彼女を真似て齧って見せた。雪は当たり前のように冷たくて、喉の奥へ流れていく雪はだんだんに冷たいただの水へ戻され、体の奥までしみわたっていく。やっぱり嘘じゃないかと寒さに身を縮こまらせたとき、雪玉の中央に何かこの銀世界に消えてしまわないものを見つけた。言うことを半分も聞かない手で雪を払いのけると、丁寧に包装されたチョコレートが、顔をのぞかせる。
「うんまあ、確かに」
途端、雪の通り抜けた道が温かく熱を帯びた。吹雪と呼んでもいいほどに空は荒れ始め、先の見えない旅路に気も遠くなる。けれど青空を閉じ込めた雪の結晶から漏れ出す色は、彼女と同じ、優しい陽だまりに似ていた。
春の海
「蕾もないのに、どうして花の散ることがあるでしょう」
春は大層出無精で、肌寒い日が続いている。連れ出す風は力任せに駆け込み、芯の弱い彼女の髪はされるがままに舞い上がる。潰れるほど強く閉じたまぶたに塩辛い砂利が残り、涙のように拭う。大丈夫かと僕が声をかける前に彼女は慎重に潤った瞳を見せ、平気ですよと笑った。
「せっかくいただいた帽子なのに、飛んでいってしまいそうで。それだけが怖いのです」
つい先日、曇り続きの空が過ぎた頃だ。眩しいばかりで切り付けるように冷たい日差しを案じた折、ピンクのリボンが目をひいた麦わら帽子。特に深く考えることもなく、多分似合うよだなんて適当もいいところな言葉を添えて買ったものだ。予想を超えて喜ぶからちゃんと選べばと申し訳なくなった。季節外れの帽子は寧ろ寒々しく見える。
「まだ咲いてなかったね。どうする?」
桜にはまだ遠い。ただべとつくばかりの海辺には用などなかった。一面に広げた青は寂しくも広々と波を湛え、世界の裏側を隠している。水平線の向こうへ思いを馳せていたのか、間を開けて彼女は返事をくれた。
「待っていれば、咲きますよね。もうすぐにでも」
どうだろうと僕は物憂げに視線を落とす。散らばった木々は寒いと身を縮こまらせており、誰かが切り落としたのか、小さな枝を伸ばしてもいなかった。白々しい砂浜には他に色がなく、冬の終わりを見つけることは難しい。僕のうつむいた考えを察してか、彼女は飾ったように明るい声で僕の手を引く。
「もしかしたら、一つくらいは春が来ているかもしれません」
決して長く伸びているとは言えない海岸線であったが、それでも端から端まで細かな砂をけって歩くのは骨が折れる。砂浜を掻き分けた桜の木はまばらに散らばっていたが、数は十を超えるだろう。生来の無精が顔に出ていないか心配しつつも彼女の純粋さに負けてしまい、いいよと答えてしまう。
「風が強いから、それだけは気を付けて」
僕の言葉をどう受け取ったのだろうか。彼女は苦味を帯びた笑みを浮かべて、帽子のつばを白い右手で抑えた。ちょうどよく風が吹き付け、反射的にまぶたを閉じる。おさまったかと視界を開けば、大丈夫とばかりに彼女が顔をほころばせた。寒さのせいか、頬と鼻だけが紅をまぶしてある。
わからなくなるからと、海岸の端から確かめて回ることにした。これが結構手間のかかる話で、まず先端へ移るのに一苦労であった。砂浜を歩くなんて想定もしていないただのシューズは何度も埋もれてしまい、その上穴が開いているのだろう。靴の中に入ってきた砂利を落とすことは、途中であきらめてしまった。
僕のほうが当然背が高く、彼女に頼まれては枝先を見上げた。もちろん、とは言いすぎかもしれないけれど冬の姿から変りもせず、蕾なんて遠い夢のようだ。彼女が落ち込まないよう確認するたびに次もそうだろうとほのめかしたが、一向に効かない。次こそはと期待の尽きることがなく、結果の見えてきた僕は言葉を濁すことにばかり気を取られてしまう。
「見えますか? あの一番高い枝に」
だから、彼女が指をさしてくれなければ気付かなかった。この海辺で一番早い春の便りに。明日にでも開きそうとは言えない固く閉じたものだけれど、蕾が一つ、凍える木肌の隅へしがみついていた。落ちてくる星を捕まえるように、彼女は両の手を伸ばす。それは一瞬のことだった。
「あっ」
春を告げに来た風は意地悪で、帽子から手の離れる隙をずっとうかがっていたのだろう。一気に僕でも手の届かない高さまで舞い上げると、波打ち際を悠々と飛び越えていく。リボンが尾を引く麦わら帽子は波の生まれる海の真ん中へと連れていかれてしまった。まるで、散った花弁を連れていくような軽やかさで。
桃色のリボンが目を引き、花びらに見えたことは内緒だ。
眼鏡橋
手を伸ばせば、僕は僕と握手できてしまう。それほど静かな水面だった。流れに従う船は一隻もおらず、紛れ込んだ落ち葉は海を夢見て沈んでいく。世界を逆さに写しこむ鏡は決して、底を見せてはくれない。
「ほら、あれじゃないかい?」
僕が川の行く末を指差すと、彼女は引かれるように身を乗り出す。覗き込んだ顔を写しながら、高く踏み込んだ足の蹴飛ばした小石を受け川はわずかに揺らめいた。
「遠くに、二つ輪っかが見えます」
足元を流れる水は、一足お先にと僕達の目指す方へ進んでいく。涼しげな風をまとう背丈のある草が、手を振るようにはためいた。
何か大切なことを話しているんです。
彼女がそう言うから、僕たちは互いに黙ったまま歩き続けた。余計な邪魔をしてはいけない。耳を澄ませば、言葉なき声が聞こえてくる。それが心地好くて、急ぐ理由もないため歩調は自然、遅くなった。僕に合わせたわけでもないのに、いやむしろ、僕よりずっと愛おしそうに彼女はゆっくりと歩いた。
日も暮れはじめ、見据える空には下から群青色が染み出して来る。振り向けば別れを惜しむ太陽が、焦げ付くほど赤く燃えているのだろう。川は黄金を敷いたようにきらめき、写し鏡の世界は光の奥へ溶けていく。
「思っていたより、ずっと大きいね。これなら船でも通れそうだ」
歪みのない曲線を二つ描き、煉瓦づくりの橋は頭上高くへ道を通していた。水面の作る半分を足し合わせれば、形は確かにその名の通り。
「眼鏡橋、です」
辿り着いたばかりだというのに、彼女は駆け足で道を引き返す。離れてみればなおのこと、二つの輪ははっきりと見て取れた。そんなこと、道中ずっと見てきたじゃないか。
「君達、ここで何してるの」
橋の向かいから姿を見せたのは、小柄な少年だった。もう手の届く距離に町が見えるから、そこの子供だろうか。橋の根本を器用に渡ることは避け、少年はぐるりと迂回してくる。
「しいて言えば観光、かな」
「何も無いだろ、こんな町」
「いや、どうしてもこの眼鏡橋を見たいと言われてね」
「なるほどね。だったら、知ってるのか?」
少年の言葉は、どれも地面へ吐き捨てるようで僕の元へ届けようとしていない。最後の質問だけは下方から鋭い瞳で見上げられ、思わず一歩引いてしまった。
「何を、かな?」
「知らないのかよ」
地面を蹴り上げ八つ当たりする少年は、橋の根本へと楽しげに歩を運ぶ影を見つけるなり声を張り上げた。
「その先に行くな。帰れなくなるんだ」
驚き、彼女はこちらへ引き返して来る。僕の背中に隠れると、今まで気にも留めていなかったのであろう少年の姿を恐る恐る見つめた。彼は大声を上げたことを恥じているのか、気に食わないと書きなぐった顔を下に向けている。
「君、急にどうしたの?」
舌打ちを一つ。半ば呆れの見える表情で、少年はぶっきらぼうに口を開いた。本当に何も知らないで来たのか。あまりに小声だったが、一言目はそう聞こえた。
「ちょうどこの橋の下で川に落ちると、消えてしまうんだ」
「消える、というと?」
「言葉の通りだ。一度水に飲まれたら最後、浮き上がってこなかった」
唇を強く噛んだ少年は、苦々しく言葉を続けた。
「先月俺の、俺の両親も消えちまった」
少年はそれきり押し黙ってしまう。罰が悪そうにつま先で地面をへこませ、僕達とは一定の距離を開けたまま動こうとしない。しばらく続いた無言に耐え切れず、真っ先に僕が口を開いた。
「教えてくれてありがとう。そろそろ暗くなってきたから、僕達は先に行くね」
やっとか、そう聞こえたため息を合図に僕は彼女の手を引いた。少年はどうも、僕達がいなくなることを待っているフシがある。空からいまだこぼれ落ちない日の光りはもう残りわずかで、完全に沈む前にせめて町には着いていたい。だから、僕は先に進むよう彼女に促した。
「ちょっと、ちょっとだけ待ってください」
力一杯に腕を引かれ、僕はバランスを崩してしまう。馬鹿みたいな姿勢で芝生に寝転がると、橋の描く眼鏡越しに向かうべき町が見えた。褐色を基調とした煉瓦作りの家一軒一軒が、夕闇に溶けていく。
「声が聞こえたんです。水面から」
「声?」
川の方へ耳を向けてみたものの、一方向に抜けていく水の音しか聞こえてこない。少しずつ川のふちへ歩み寄ったが、大差はなかった。聞こえないと示すため、僕は彼女に向かい首を傾げる。夜を取り込んだ水面はどこまでも青く、静かだった。
「あれ?」
水平線を境に、空は燃え尽きる赤が瞬いている。比べて川面は、水底を思わす深い青に沈んでいる。
「別の世界が、写り込んでる」
「それだけじゃないんです。私の顔も、写らなくて。代わりに」
彼女に合わせ僕も身を乗り出すようにして覗き込む。そこに見知った顔は一つもなく、僕達より二回りは歳を重ねた女性の姿があった。朧げな桃色の瞳は何かを訴えているようで、その言葉はまるで聞こえてこない。
「伝えて。こっちに来ちゃ、ダメ? 戻れなくなるから。あの子に」
掬い取った言葉を繰り返す彼女の声に、少年ははっと顔をあげた。恐る恐る踏み出した足はすぐに走りだし、勢いはそのまま彼女に詰め寄る。
「誰がしゃべってるんだ。父さん? 母さん?」
飛び込まん勢いのまま少年は水面ギリギリまで顔を寄せた。当たり前のように自分の顔が写りこんだのか、続いて僕に問いただす。
「あんた、見えたんだろ? 誰だった?」
「女の、人だったよ。ちょうど君くらいの子供がいそうな歳の」
「母さん?」
ほとんど叫ぶように喉を枯らして、少年は川の底へ呼び掛ける。声は届いたのだろうか。返事を聞き届けた彼女がワンテンポ遅れて口を開く。
「私たちはここにいて幸せだから安心しなさい。でも、一度来てしまうと二度と帰れなくなる、だから絶対に来るんじゃないと伝えてほしいそうです」
どうしてと少年が問い掛ける前に日は沈み切ってしまい、水面には何も写らなくなってしまう。彼女は申し訳なさそうに首を横に振った。一欠片残る桃色は、それで振り落とされてしまった。
ヒヤシンス(花草セレ)
【甘い雪】
彼らの事情はそのうち長々と書くつもりです。
お読みくださり、ありがとうございます。
【春の海】
既に、しかもまた季節はずれです。ごめんなさい。
【眼鏡橋】
眼鏡橋って言いたかっただけです。