*星空文庫

侵食されしケレブレム(楠楊)

東大文芸部 作

  1. Tutorial stage
  2. 1st stage
  3. 2nd stage
  4. 3rd stage
  5. 4th stage
  6. 5th stage
  7. Ending

高校生の時に二年かけて書き上げました。自分の好きな雰囲気にまとまり、気に入っています。今後もこのような作品を書いていきたいです。

Tutorial stage

 心に巣食う、もう一人の存在に気付いてから自分の生活は一変した。自我を強く保たないと、脳内に繰り返される悪魔の囁きのせいで記憶があやふやになる。幻覚に襲われ、混乱する。それらの現象は自分を疑心暗鬼にさせていった。
 微かだが、まだ憶えている。一番初めの兆候は小学生の頃だった。



 ――雨が降っていた。
 雨は汚れを洗い流すように、呆然と立ち尽くす者の体を濡らしていた。ローズグレイの瞳を曇らせた少年。茜色の髪は額にへばり付き、むきだしの腕には水滴がのっていた。
 彼は界隈にいた数少ない生存者であり、足元には事件を起こした犯人が首筋に赤い線を走らせたまま転がっていた。
「なに、が……」
 年端も行かず、労働を知らない柔らかそうな手からナイフが零れ落ちた。それは凄惨な死体置き場と化した場に埋もれずに輝き続け、数分前まで存命していた者達の生命(いのち)のようだった。
「……ッ! どこだ!?」
 口元を腕で拭い、糸が切れたように動き出した彼は死体をひっくり返し、視線を至る所に這わせた。足元に転がる遺体を踏みつけ、周囲に漂う異臭さえも気に留めず、取り憑かれたかのように奇妙な行動をしていた。傍から見ればさぞかし、失くした物を捜している子供であろう。
 しかし、ここは死体置き場。子供が惹かれるようなものなどない。
 『市立霜華(そうか)小学校』と黒字で印刷された白いテント。椅子やテーブルが並べられ、地区のテントの下には青色のシートが敷かれていた。中には自前のパラソルを立てた人もいるようだ。それら全て、持ち主がいなくなった後もそのまま残っていた。
 グラウンドは雨でぬかるみ、引かれた白線は消えてしまった。
サッカーゴールには得点板が設置されていた。赤組と白組は接戦で、きっと誰もが先の展開に興味を示したのではないだろうか。
 正門付近には出店が並んでおり小規模ではあるもののこの運動会を盛り上げようとする地域住民の心意気が垣間見えた。
「あった……」
 取り乱していた彼はやっとのことで、捜しもの一部――うさぎのぬいぐるみの耳――を発見した。
 捜しものの上に覆いかぶさっている重りをずらし、ぬいぐるみを大切に抱えて縮こまっている女の子に手を伸ばした。
智帆(ちほ)……」
 彼の妹――智帆の肌はすでに青白くなり、人体特有の温もりを感じられなかった。雨で体温を奪われたのかもしれないと彼は思ったが、その予想は外れた。覆いかぶさっていたもののおかげで、彼女の運動着は全く濡れていないのである。
 彼は智帆の口元に耳を近づけて、呼吸音を聞こうとした。
 何も聞こえなかった。
 肩を揺らし、頬を叩いてみた。
 反応はなかった。
「智、帆……。智帆ぉぉぉぉぉ!」
 妹の死に打ちのめされた彼は咆哮し、その意味のない動物的な荒々しい叫びは雨音に掻き消された。
「……はは、あはは……お兄ちゃん、妹でさえもまもれないなんてダメ……だな。パパに、しかられる。女の子をまもるのが、男の子の、やくめ……なのに……」
 彼は泥まみれの手で目頭を拭った。
「どうしてだろう、お兄ちゃんにもよくわかんないんだ……。なにがあったのかを。なんで大切な人をまもれなかったのかを」
 小学校の運動会中だったためか、子供とその家族が大勢巻き込まれ、被害は甚大であった。一人の人間によって尊い命の灯火が消え去られた。無論、少年も知らぬ間に犯人の絶好の的となっていた。だが、彼を含めたごく僅かな者には効かなかった。それは犯人も同じであった。だから人の手で裁くしかなかった。
「……人、を……。知らない人を、自分は……自分はっ!」
 彼は唇を噛み締め、拳を強く握り、悲しみや恐怖で綯い混ぜになったものを精一杯堪えようとしていた。
 そんな彼の背後に同年代らしき少年が歩み寄った。
「……もういい、奏都(かなと)
空義(くうぎ)……。でも、智帆は!」
 妹から視線を外そうとしない少年――奏都に声をかけたのは彼の親友である空義だった。先程まで遠巻きから一部始終を見ていた空義は奏都から注がれる視線を一身に浴び、母親が子供を宥めるかのように言葉を発した。
「泣き叫んでも、失われた命は戻ってこない」
 骨折をしてしまい満足に立てられない空義は自身の境遇に嘆かず、奏都を見つめ返していた。その真摯な思いを感じ取った奏都は俯き、慈しむように妹の頭を撫でた。
「自分は……智帆を守れなかった。ごめんじゃゆるしてくれない。……ゆるされない」
 楽しかった日々が走馬灯のように思い起こされた。記憶の中の智帆はいつも、ぬいぐるみで顔の半分を隠していて。兄である自分の服をひっぱり、潤みがちなローズグレイの瞳で言いたい事を訴えかけてきた。
「この、頬ほおも……もう、ふくれあがったりしないんだな。かわいかったのに……」 
「犯人は息たえ、お前は俺と捺由(なつゆ)を護ってくれた。それが紛れもない事実。覆す事の出来ない」
 二人の衣服は雨が染み込み、白い運動靴は泥だらけだった。
 奏都の頬を伝う滴は涙か雨粒か判断し難い。やがて奏都は鼻をすすり、大きな口を開けた。
「――はっくしょん!」
「奏都、中に入らないか?」
「い……いいっ。ここにいる」
 盛大なクシャミをした奏都は頭を振り、妹の傍から決して離れようとしなかった。
 見兼ねた空義は一人で校舎へと片足を引き摺りながら向かった。援助して欲しいという遠回しな頼みを断られても、嫌な顔一つせずに。


「……あ……! ……っぐ!」
 顔を歪め、膝を折った奏都は自身の体を両腕で抱きかかえた。丸くなってみると、自分の存在がいかに小さいものであるかを思い知らされ、あまり良い心地ではなかった。
「空義は行った、よな?」
 これ以上自身が錯乱するところを親友に見せたくなかったのは彼なりの優しさだった。
 犯人の狂った笑み、そして倒れていく人々……。それらをありありと見せつけられたことに耐えるのは至難の業であり、まだ幼く、心身共に成熟しきっていない奏都にとっては悪夢同然だった。
「うあ、ああぁぁぁ! ふざけるな! のっとるな! ささやくな! じゃまするな!」
 何かを振り払うように怒鳴り散らす奏都の瞳には、死と直面した恐怖や大切な人を奪われた悲哀でなく、怒りの色しか浮かんでいなかった。ローズグレイの瞳は煌々と光を放ち、虎視眈々と今にも飛び掛ろうとする獣のような迫力であった。
「……だれだっ! めいれいするのは! 自分のことは自分できめてやる、さしずなんていらないっ」
 思う存分叫んだ後に耳を押さえ、外界からの情報を遮断してみたが、何者かが体の内側から執拗に語り続けた。その声は明瞭になり、耳元で鳴っているような錯覚に陥った。
『ほほう。余の神託が聞こえるか?』 
 感嘆している声が脳内に響いた。人が死んだというのに傍観していて呑気な声は奏都を刺激した。
「うっさい! 黙れ!」
 耳をふさいでも、心を閉ざしても、憎たらしい声は頭から離れずに木霊する。
『口が渇くだろう? さあ啜り飲め。血を分け合った者の味を確かめろ』
「分かったような口をきくな! 血なんかよりも、智帆が生きてくれる方がいいっ」 
『本心を偽るな。さあ……飲め。お主を苛ませた者の血を。お主を闇に葬った忌まわしき名の片割れを持つ者の血を』
「なっ、体が……! やめろ……やめろ!」
 奏都の指先が智帆の喉下に伸ばされる。必死の抵抗も空しく、距離はだんだん狭まっていった。
「智帆に、触るな!」
 腕をがむしゃらに振っても、元凶を断つことは出来なかった。声は無情にも奏都に現実を突きつける。
『その小娘はすでに絶命している。だのになぜ、拒む? あの味は易々と忘れるものではないだろう? お主は、その小娘に……』
「いいや、違う! ……違う……」
『如実を否定するつもりか。ふむ……愚鈍だな。まあ、痛痒は感じないが』
 声は奏都を眩惑する。奏都は犯人から流れていた鮮血を思い出してしまい、口から流れ出た涎を咄嗟に拭いた。よく見ると、彼の口元は赤く染まっている。擦ってごまかそうとしたようだが、完全には消えていない。
『さあ……血を』
「……血を」
 輪唱し、二人の言葉は重なる。
『血を!』
「血を……」
 奏都の指が智帆の喉下を捉えた。爪を突き立て、薄い肌を引き裂こうと力を込める。
 この肌の下に流れるものは一体どんな味がするのだろうか。力強く掻き毟り、一気に仰ごうか。それとも一滴残さず自分の血肉にしてやろうか。
 もはや奏都には智帆が誰よりも彼を好いていた妹であることや血が消化できないことなど関係なかった。姿なき声に好奇心を煽られ、肌の裂き方に脳内を支配される。
 爪が智帆の肌にのめり込む。奏都は快哉を叫びながら、自分の手元だけを注視する。
 その時だった。
 風を切り裂く一矢が奏都目掛けて一直線上を進んだ。それは目視できず、常人には感知できないであろうが、人でない獣と化した奏都は微弱な空気の振動に反応した。
「ちっ」
 反射的に後ろへ飛んだ奏都は紙一重でそれをかわし、着地する。
『く……邪魔が入ったか』
 奏都の右肩を隠す運動着は切り裂かれ、彼の二の腕が露になる。傷は浅かったが、完全に避けられたと高をくくっていたために、自身が怪我を負ってしまったことを認めざるを得ない。
「誰だ! 早く出てこい! テメェも始末してやる」
「……バイ、バイ」
 高ぶった感情を押し殺した謝罪のような声に振り返った時、頭に衝撃を受けた奏都の意識は途切れた。



 校庭はついに静けさを取り戻した。濃淡のある灰色の雲が晴れていき太陽が姿を見せる。その光に照らされても残された者達の気分は晴れなかった。
「朝から雨が降っていれば……運動会が中止になっていれば……」
「怖いのか? 捺由」
 地面を覆いつくす死体の山は変わらず屹立していた。その中には彼らと親しい者も含まれている。無論、家族でさえも。幸い、捺由と空義の両親はまだ来ていなかったが、奏都の家族は巻き込まれた。
「だ、だって……あたし、奏都くんの頭を……!」
 グラウンドには二人の少年少女しか立っていなかった。二人の若葉色の髪が風に靡き、その風景は初夏を思い起こさせる。髪と同じ色の瞳はどこまでも澄んでおり、宝石のようであった。
「自身を責めるな。俺らは彼を……奏都を止めなければならない。まさか、あそこまで飢えていたとは思っていなかった。恐らく、あのままでは自暴自棄になっていただろう。捺由、お前の行動は正しい」
「うう……ごめんね、ごめんね……」
 空義の双子の姉である捺由は自分に言い聞かせるように「ごめんね」と繰り返し、慙愧した。
 市立霜華小学校の運動会は毎年六月に開催され、梅雨入りを目前にしたこの日に運動会は予定されていた。午前の降水確率は三割、午後は四割。空気が冷たい中、運動会は盛大に行われた。午前のプログラムが終わり、子供たちが家族と一緒にお弁当を食べている頃に小雨が降り始めた。だんだん雨脚は強くなり、運動会は様子見となった。――そして悲劇は起きた。
 どこからか、サイレンが鳴り始めた。それはだんだん強くなっていく。
「……音が近づいている。急いで出発するぞ」
 そう言い、空義は捺由の肩に手を置いた。不意を突かれた捺由は間髪を容れずに振り返る。何を言っているの、と反駁しそうな顔で。
「この区域にまだ俺らのような人間が潜んでいる事を忘れたか? もし、人が来て問いただされるのは俺達だ。そうしたら逃げられなくなる。こんなにも人が亡くなった。必ず、野次馬に紛れて接近してくるはずなんだ」
「それって、奏都くんを置いて逃げろってこと? そんなの無理っ! 奏都くんをわかってあげられるのは、あたしらだけなんだよ!」
「くどい」
 空義の重く潜められた声で捺由は青ざめた。冷静で落ち着いた様子のまま空義は正面打起しをしてから、捺由の額に左手の人差し指を向ける。その姿は精錬されており、あたかも本物の矢を射るようだった。
 二人の間を沈黙が流れる。捺由は空義を睨みつけようと鋭い目つきになったが、諦めて目元付近の筋肉を緩めた。目を瞑り、それから時間を掛けて瞼を持ち上げる。
「いつも空義は正しかった……。きっと、またみんなと遊べるよね?」
「ああ。生きていれば会える。あくまでも、生きていればだが」
 歯切れの悪い空義を尻目に、捺由は否定的な考えを頭から排除した。
「そうよっ。あたしは二人とまた遊ぶ! ぜった――」
「避けろ!」
 拳を突き上げようとした捺由は訳もわからないまま、声に従って体を捻った。一方、空義は東門に向かって威嚇射撃をしていた。空気を切る音が捺由の耳にまで届く。
「な、なにがあったの!?」
「お前だと分が悪い。ここは俺に任せろ」
 吐き捨てた空義は捺由を一瞥した。その顔には焦りが浮かんでおり、捺由も戦慄する。新たな襲撃者がやってきたに違いなかった。
「相手は大物だろう。十中八九、狙いは奏都だ」
「だったら、なおさらあたしがやる。空義は足が……」
 あたしの所為で、と捺由は付け加えた。
「お前では無理だ。恐らく……あれは――っ!」
 制止の声は届かず、果敢にも捺由は走り出した。ぬかるむ地面を勢いよく踏みつける度に靴の重さは増した。
「――ガルデニアだ!」
 東門のそばで季節はずれの漆黒のドレスを身に纏った少女が唇の端を持ち上げた。喪服なのか、それとも個人的な趣味なのか、ひらひらのゴスロリは人形のためにあしらわれた衣服のようだった。

1st stage

 その目で何を見るのか

 

 夏休みを寸前に控えた七月の始め、自分は珍しく学校――県立靄然高校に登校した。初夏の日差しは刻一刻と体力と気力をも奪い、動く度に汗が吹き出る。この蒸し暑さは十数年生きているというのに未だに慣れず、正直なところクーラーの効いた部屋で惰眠をむさぼっていたかった。
「あぢー。ったく、どうして空義はこんな日に呼んだんだよ」
 木陰を探しながら校庭を歩く。昔遊んでいた影ふみをしているようで、少しだけ幼い頃に戻った気がした。あの頃は……最悪だった。
 昨年の単位数はぎりぎり。留年の窮地に手を貸してくれたのが空義である。彼のおかげで無事に進級することができた。まさに空義様様である。今でも頭が上がらない。人助けは当為だと割り切れるところも尊敬に値する。
 そんなことを考えていると、輪郭のあやふやな家族の顔が浮かんできた。
「あーっクソ、思い出しちまったじゃねーか。……家族なんてクソ食らえだ。空義のほうが何倍、何十倍も存在価値があるっての。マジでいらねぇし、うぜー」   
 父親はどこかに単身赴任中。その反動なのか母親は世間体を気にする。智帆は自分と対照的で社交的かつ愛想が良い。校内に『ちーちゃんファンクラブ』があり、その人気は計り知れない。隠れファンもいるだろう。その上両親に可愛がられている。成績は芳しくないが、内に宿した生来の魅力で誰もが彼女に眩惑されるのだ。みんな彼女が猫をかぶっていることに気付かない。要するに、自分は妹が好きではない。好きにもなれない。いや、むしろ家族全員。
「ふー」
 気を紛らわすために、ぼんやりと校庭を眺めてみた。こでは部活に勤しむ生徒たちの声が飛び交っている。己を鼓舞する声。黄色混じりの声援。チームプレイでの掛け声、合図。
 何か熱中出来るものがあることは素晴らしいと思う。時間を空費せずに変哲もない毎日を過ごせるのだから。誰かの手の平で踊っていることを顧みもせず、汚い事や不利益なものから目を背けられるのだから。
「どいつもこいつも哀れだぜ。裏に何かが蠢いている事実を知らない。本っ当に間抜けばっか」
 靄然高校は「清く、正しく、和気藹々」をモットーにする進学校である。全国にも名を轟かせ、県の中では常にトップを維持し、模試の難易度によっては他校と平均十点差をつけることもあるらしい。教師達もさぞかし鼻が高いだろう。特別教え方が上手いわけでもないのに。
「弓道部は……っと」
 校庭を抜けたところに弓道場はある。喧しい音をかき消すために耳を塞ぎながら歩みを進めた。
 靄然高校弓道部といえばインターハイの常連だ。運動部所属経験のない自分には規模やその栄光を理解しがたいが、親友の真剣な姿を目にすると何が面白いのかとは訊けなかった。もし尋ねても、彼は頑なに節を屈しないだろう。それは彼の双子の姉にも当てはまる。
 弓道場は校庭とは違って無音の領域だった。休憩をする者達の囁き声は気に留める程度でない。開け放たれている窓から中を覗くと、数名の生徒が的に向かって弓を引いていた。
「……おっ、空義!」
 隅に弓道衣姿の空義を発見した自分は叫び、手を振った。すると近くにいた人がすぐさま振り返り、こちらを睨みつけてきた。負けるものかと自分も睨み返す。
 その無言のやりとりの直後、空義が矢を放った。
 練習中に声をかけるという自分の浅慮な行動を恥じたが、空義には影響しなかったようだ。親友の放った矢は吸い込まれるように的の中心を射抜く。周囲の感嘆が耳にまで届いた。先程まで自分を睨んできた奴でさえ拍手をしている。
 離れ(矢を放つこと)の後、時間が静止したかのように暫く硬直していた空義は弓を下ろし、部長らしき人物に近付いた。両者の会話は一分もかからず、空義は用具を素早く片付けて着替えを済ませ、中から出てきた。そんな彼を自分は好きな人の話題で冷やかすような表情で出迎える。
「相変わらず、おまえが親友であることを誇りに思うぜ。声をかけて無視されたのは流石にグサッときたけど」
 グサッ、という擬音語と同時に自分は胸を押さえた。その演技を軽く受け流した空義は口を開く。 
「……頃合だと思ったからな」
「ん? もうそんな時間だっけ」
 夏は日が長い。腕時計に目をやると短針は五を指していた。
「五時過ぎなのに明るいよなー。そうか、空義は自分の習性を知り尽くしているのか。まー、付き合いなげーし。隠してもいないけど」
 生温い風が鬱陶しい。それに髪がへばり付く。例年よりも遅い梅雨入りのためか、この湿気に気が滅入った。十数年生きているのに慣れない。慣れてしまったら四季に目もくれない人間になってしまうのだろうか。
「自分?」
 ふと、肩を並べて歩いていた空義が足を止め、眉をひそめた。
 彼がなぜ引っかかったのか、自分はピンとひらめいた。自分っていうのが、どちらのことだか混乱しているのだ。
 奏都(じぶん)の一人称が「自分」であることで、話がややこしくなる事態は度々あった。自分は親友の疑問を晴らそうと、頭を掻き毟り、視線を泳がしながら答える。
「あーその、……奏都(じぶん)のことを言ったんだ。わりーな、俺とか僕とか、しっくりこないんだよ。
どうしても」
「それは個性だろう。変える必要はない」
 納得したのか、空義はまた歩き出した。恐らく彼は校舎を目指している。
 空義という男は合理性を求める理論派である。周囲の予想を超えた発言はいつも核心を突き、その現実主義である性情は自分と馬が合った。そして何よりも着飾らない。頭髪は本来の若葉色の髪を染め、日本人に溢れた黒。やや紫色を帯びているように見えるのは光の関係だろうか。襟足が長いのは捺由の趣向だったはずだ。無造作に跳ねているところも外見に拘泥しない彼らしい。ラインの上がった目元はどこか力強さを感じた。
 二次元にいそうだな、という感想は死んでも空義には言えない。たとえ口が裂けても。いや、死んだら自分の口が裂けているかどうかわからないか。化けて出ても空義は平然としていそうだし。
 校舎の中に入ると数名の生徒とすれ違った。彼らは空義に短く挨拶した後、こちらをじろじろと見てきた。珍しい奴がいるとでも思っているのだろうか。それとも空義と一緒にいる、ということが彼らの興味を引いているのだろうか。どちらだとしても気に食わない。
「先に行ってる。場所はいつものところだろ?」
 自分は彼らを歯牙にもかけなかった。自己紹介をする気などさらさらない。居心地が悪かったので、空義に場所の確認し、返事をされる前にその場から去った。
 生徒会室は潔癖症かつ効率重視の空義のおかげで片付いていた。資料は分類され、管理場所が指定されたため、損失も無くなったらしい。生徒会長がぐうたらで大雑把のために、空義が裏で主導権を握っていると言っても過言ではない。実際、会計監査の黛空義という名は生徒からも教師からも恐れられている。一円帳簿が合致しないだけで論うらしい。一体何度会計を泣かせたことか。
「待たせたか?」
「いや。そんなに待ってねーよ」
 やや遅れて空義が入室してきた。彼は時間が惜しいのか、唐突に話を切り出す。そんなに急いでいるのなら、すれ違った生徒達を無視すれば良かったのに。
「……奏都、確かお前は部活に所属していないはずだ」
「部活なんてつまんねーもん、誰が入るかよ。つるんでるだけじゃん」
「その公平な立場であるお前に任せたい」
 そう言って空義は綴じられた数枚の紙を渡してきた。『パソコン部会計』と見出しがついて
いるそれは、ところどころ赤字で小言が書かれてある。要するに今回の被害者が決定したのか。どこの誰かは知らないが、ご愁傷様。って、自分が行くのか。自分が加害者なのか。
 空義は返事を待たず、筆記用具やメモ用紙などをそそくさと準備する。
 パソコン部について気になるのは活動内容についてだ。昨年の学校祭ではCGイラストを飾っていたようだが、それだけに一年を要するとは思えない。噂ではとある企業を手伝っているとかいないとか。しかもお賃金つきで。
「はぁ、行けってことか。他ならない親友の頼みだし、忙しそーだしな。……よーし、わかった。行ってやるぜ」
「恩に着る。俺もあらかた処理したが、あそこの会計とは極力関わりを避けたくてな」
「へー。おまえが怖気づくほどの人間って、化け物か? それとも鬼か?」
 空義が特定の人間に苦手意識を持つなんて珍しい。多少癖があっても、空義は誰とでも仲良くなれると思っていた。
「いや、行動力があり意志も強い人間だ。だが……」
「どうかしたか? 空義」
「――気にするな、些細なことだ」
 眼鏡の奥で曇る瞳の真意はわからない。空義が何を危惧しているか、自分には想像もつかなかった。

 迷わずにパソコン室に辿り着けたが、問題はこれからだ。自分は部外者であるので、どうやって中に入ればいいのかと悩む。
 挨拶はするべきだ。「こんにちは」または「失礼します」が無難だな。それと、無理をしてでも笑顔でいるべきだろう。簡単な自己紹介も忘れてはならない。奇異な目で見られるのは勘弁だし、不信感を抱かれても困る。任務失敗じゃプライドがズタボロだ。それに空義への評判にも関わる。慎重に言葉を選ばなければ。
「すー、はー」
 ドアの前に仁王立ちして大きく深呼吸し、覚悟を決めた。大丈夫……大丈夫、自分は平気だ、と呪文のように唱えながらゆっくりとドアを引く。
「失礼します」
 お、涼しい。
 パソコン室に入ると、心地よい冷気が出迎えてくれた。頬を撫でる風は気持ちよく、出来ればずっと留まっていたい、ここに住みたいと思ってしまうほど快適だ。パソコンがあるならば、自分はどこでも生きていける自信がある。一日一食でもパソコンがあれば大丈夫だ。なんたってオカズはいっぱいあるからな、ぐへへ。
 室内は静まり返っていた。それもそのはず、パソコン部は大会を狙う運動部とは違って出席が強制ではなく、生徒が自由気ままにやっていて幽霊部員も多々いる。つまり物好きが蔓延る場所なのだ。ちょっと待て。ということは自分もその物好きの一員? おえっ、マジか。……話を元に戻そう。そのような自由な方針が空義の精神に反するかもしれない。空義は規則に厳しく、融通の利かない男だ。規律があるからこそ自由が生まれる、と白熱した議論をつくせる人物は十数年生きてきて彼しか知らない。
「……? 部員ではないな。どのようなご用件で? 一応、おれが部長だけれど」
 応対をしてくれたのはドアのすぐ近くにいた男子生徒であった。強面であり、ぼんやりと空義と似たリーダー性を感じ取れた。
「申し送れました。生徒会会計監査の代理である櫻井奏都と申します。会計の方はいらっしゃいますか?」
「あー、またあいつが何かやらかしたか」
 直後男子生徒は呆れたような表情をし、この展開を予想していたような口調で言った。
 その言動は自由奔放な学生に手を焼く教師のようにも見えた。この事態に慣れているのかもしれない。会計が自分では手がつけられないぐらい横暴な奴だったらどうしよう。空義本人をぶつけた方が早く済むのではないのか。
 そんな問題児であるから空義は来るのを躊躇ったのだろうか。一応訊いてみるか。
「また、とは?」
「代理っていうのは、黛のところだろ?」
 パソコン部部長は質問を質問で返してきた。
 ここで問題を起こすと空義の信用に関わるため、自分は苛立ちを抑えた。笑顔が引きつっていないかどうか鏡で確認したい。なんならパソコンのディスプレイで。
「そうです。彼は友人ですから」
 空義の仕事を手伝ったのは今回が初めてではない。話しだせば意識せずとも仕事文句と化した言葉がすらすらと口から発せられるくらいには手伝ってきた。
 返答を待っている間、焼けるような熱が耐え難い刺激となって全身を駆け巡った。
「……っ」
 小さく呻き、咄嗟にシャツをつかんでしまった自分は、相手に気取られないよう自然に自身の体調を確認する。今のところ心拍数は正常値。異常な発汗はしていない。その他異常なし。
 そのまま立っていると痛みはたちまちひいていった。
 気のせいだと胸をなでおろし、発作が来た原因を探ろうと室内全体を見渡す。ぼちぼちと生徒は残っていたが、それぞれ自身のことに没頭しているらしく、部外者の訪れに気付いた者はほとんどいない。誰とも視線が合わなかった。
 落ち着け自分。今回は耐えられる。なんとか乗り切れ。
 額から小粒の汗が流れた。嫌な汗は背中からも出ていて、シャツがべったりと肌にくっつく。下着を着てはいるものの不快なこと極まりない。
 窮地に瀕していた自分の傍で、パソコン部部長はうんうんと頷いていた。
「多忙な親友がいると大変だな。同情するぜ。……螺旋羅! 生徒会からのお客さんだ」
「はい」
 すぐさま高い声が返ってきた。女性と思しき声は芯が通っていて、離れているというのに
しっかり聞き取れた。
 螺旋羅。変わった苗字だなと考えていると、ふわりと柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。そして目の前に現れたのは日本人離れした外見の女子生徒。
「私がパソコン部現会計の螺旋羅汐世です」
「あ……」
 自分は彼女を見て言葉を失った。
 腰まで届く銀色の髪。それと対を成す金色の瞳。一直線に切り揃えられた前髪は子供っぽさを残すのではなく、カチューシャのかわりである三つ編みとの相乗効果で一種の独特な雰囲気を醸しだす。彼女は聖女と見紛うほどの神秘性を秘めており、その上煌々とした月よりも幻想的であった。
 紛れもなく、自分は彼女が秘めている〝何か〟 に、アンテナが電波を受信するかのように反応していた。その何かを強いて表現すれば影。彼女の表情からは何も読み取れられない。
 現会計ってことは三年生……先輩だ。空義のためにも失礼なことはしないよう気を引き締めないと。
「よろしかったら座りませんか?」
 用があって来たのに中々口を開かない自分を見兼ねたのか、彼女が声を発した。 
「……そ、そうですね。座りましょう、座りましょう」
 彼女に熱い視線を送っていたことに気付き、恥ずかしさで顔から火が出た。
 二次元の美少女が現実世界に飛び出してきた、と二度見三度見する。手足は長く、整っている肢体。逆三角形の顔で小さく主張している薄めな唇。その唇で一体どんな言葉を紡いでくれるのか興味が湧いた。そして何より目がいってしまう胸は控えめで正直物足りなかったが、全体的には合格点である。花丸をあげたい。
 まるで耳元で鼓動の音を聞いているかのように、心拍数は増える一方だった。
 それからどんな討論をしたのか全く憶えていない。退出した後に我に返ると、自分の手には資料が握られていた。先輩の直筆を加えた物が。



 時刻は七時を回り、街頭が薄暗い歩道を照らす。人影はまだ多数見受けられ、日が延びたことを表していた。
 この靄然市は人口五十万人を越える政令指定都市である。福祉や教育に力を注ぎ、市内の出生率は二・四らしい。工業団地や住宅街もあり、働く場所や住居には困らない。高い地価は難点であるが、他から引っ越してくる価値はあり、交通費も安く、市外で働くのも苦ではないようだ。
 あれから自分と空義はもう一度全ての部活動の資料に目を通し、不透明な点がないか確認した。それを明日、空義は生徒会長から判子を受け取るらしい。
 形式って面倒だぜ。どんなにみみっちい内容でも判子をもらわないといけねーんだから。
 役目を果たした自分は上機嫌で、空義と一緒に帰路につくと鼻歌を口ずさんだ。伸びきった鼻の下のせいでイマイチきまらない。それほど先輩が罪な女だということだ。
 運命や前世からの縁を信じない自分にとっては珍しく、神様に感謝したかった。何だったら地面に額を擦り合わせてもいい。
「綺麗だったなー、汐世先輩」
「……彼女に会えたのか」
 対照的に空義は歯切れが悪かった。険しい顔をし、困難に直面したような雰囲気を漂わせている。
「行けって頼んだのは空義だろ? 別に変なところはなかったぜ。……はぁー。それにしても久しぶりだったな三次元の女にときめいたのって。フラグが立ったと本気で思ったんだぜ? 智帆はうぜーし、母親も口先ばっかだし。そりゃー自分も現実逃避したくなるっての」
「お前の妹は相変わらずか」
「そうそう。なーんにも変わってねー。しつこいってマジで。朝、いちいち自分を起こしに来るんだぜ。身の安全のために鍵かけているけどさ」
 智帆に荒らされないよう普段から自室に鍵をかけている。一部の人にとっては妹に朝起こしてもらうのはスチル付きのイベントかもしれないが、自分にとっては余計なお世話である。朝起きる時間は自分で決めたいし。
「彼女はお前を学校に行かせたいだけだろう」
「なんだよ、それ。あいつが母親代わり? いやいや母親は二人もいらねーよ」
 智帆に好かれていることに多かれ少なかれ気付いていた。でも、兄妹という一線を越える気は毛頭ない。智帆の所為で現実の女の子に幻滅したのだ。それは空義も同じである。空義の場合は双子の姉の影響であった。
「なあ、空義。そういえばさ、捺由は元気か?」
 空義はうんともすんとも言わず、眉間に皺を寄せた。その様子から捺由の状態が良くないことは明らかであり、言及する気は起きなかった。空義はどう言葉にするか悩んでいるらしく、こちらに余計な心配をかけまいとする思いがひしひしと伝わってくる。友達なんだからさ、自分も巻き込んで欲しいんだけどな。
「もう七月だな。おまえは夏休みの予定とかあるか?」
「一応決まってはいる」
「へー、もしかしてこれか。おまえも大人になったな~」
 そう言って自分は、にやにやしながら小指を立てた。
「何を言いたいのかがわからん。小指がどうかしたのか」
 空義はこの手の話題に興味ないんだっけ、と思い出し自分は肩を竦めた。こういう空義の固いところは嫌いではない。欲を言うとすれば、もう少しからかいし甲斐が欲しい。その分、捺由は脱ぎ癖があり、人間としての面白みがあった。どこで脱ぎ始めるかわからない、という危うさが自分を楽しませたものだった。
「はいはい、くーぎ様は部活にお熱ですもんねー」
 ぶーぶーと口を尖らせる。夏は強化合宿に行くんだろうな、羨ましい。自分もそんな青春イベントを経験したい。
「……捺由が意識を失ってから一ヶ月が経過した」
 空義の発言で周囲の温度が下がった。もうそんなに経ってしまったのか、と自分は視線を下げる。どこか回想するような口調で語る隣の人物の目には焦りの色が浮かんでいた。
「俺には二ヶ月しか猶予がない」
「二ヶ月?」
 自分は間髪を容れずに聞き返した。二ヶ月の猶予。それがなぜ捺由に繋がるのだろうか。
「九月と言えばあれか? 体育祭とか、か?」
 そう言って自分は後悔した。空義と捺由はクラスが違うのだ。
「いや、これはお前に説明するべきではないだろう」
「なんだよ! 力不足だと言いたいのかッ」
 頭に血が上っていく。友人が関わっている以上、ここで引き下げるわけにはいかなかった。
「一人で抱え込むんじゃねーよ。おまえは数少ない正真正銘の友達なんだ。いつもみたいに何
があっても平気、みたいな顔をするな、こっちがハラハラしてしょうがねーじゃんかよ!」
 衝動的に空義の胸倉をつかんでいた。空義と視線がかち合う。
「もやもやして胸がすかねーんだ。……ちくしょー」 
「お前がどう考えようと勝手だ。不確定事項を言い触らすわけにはいかん」
「っ! テメェ、一発殴れたいのか!?」
「お前は殴れない。その脆弱な力では」
 脆弱。そうだよ、自分は弱い。だから殻に閉じこもった。周囲と絶縁し、空義や捺由を除いた存在に対する感覚をも遮断した。実際、街や学校で顔見知りとすれ違っても声をかけるような真似はしない。顔見知りと呼べる人間の絶対数が少なすぎるし、声をかけても無視されるのがオチだ。そんな弱い心が見透かされたようで反論できなかった。
「心に留めておけ、奏都。俺はお前が捺由と同じ結果を辿るのではないかと怖いんだ」
「捺由と同じ道……?」
「そうだ。俺はお前に言われた事をそのまま返す。一人で抱え込むな。手遅れになる前に」
「て、手遅れってなんだ?」
 自分の頭で考えずに他人に答えを求める姿が子供っぽいとわかっていた。けれども、問わずにはいられなかった。湧き上がってくる苛立ちを発散せずにはいられなかった。
「……明日、話すから待っていてくれ」
 そう呟く空義の目は光を失ったかのようにほの暗かった。


 翌朝、空義に呼ばれた。さしずめ昨日の件であるだうが、早朝に起こされたので愚痴らずにはいられない。
「はあぁ、こんな時間に何の用だよ。つまんねー話だったら恨んでやる。夢の中にも出てやる」
 寝起きだったので自慢の茜色の髪はぼさぼさだった。手を動かしていないと眠気に襲われたから、うとうとしたまま頭を掻いていた。
 空義の家は近所にある。片道歩いて五分、いや三分もかからない。カップラーメンが出来るのと同時に到着する計算になるだろうか。特に食への拘りはないので、いつか試してみよう。頼めば箸くらいは用意してくれるはずだ。
「お、ここだよな」
 ぐちぐち呟いているうちに到着した。目の前にあるのは二階建ての一軒家。空義の外見からだと〝和〟を連想する傾向がある(奏都調査)が、家は洋風である。築数年ということもあり、目立った罅割れや外傷はない。引っ越してきた当初と瓜二つに見えるほど手入れが行き届いている。
 インターホンを押し、声の調子を整えた。
「どうもこんにちはー、自分は奏でる都と書いて奏都でーす。空義はいるかー?」
 返事の代わりに扉が開かれた。扉の先にいたのは空義だ。彼は制服を着込んでおり、学校に行く準備万端のようだ。
「よく来た」
「へいへーい、でも学校に一緒に行くという頼みだったら断るぜ」
 学校に行く気のない自分は赤と黒のチャック柄のネルシャツに紺色のスウェットパンツを履いていた。スウェットパンツは運動するためではなく、ただ単にこの緩さが好きなのだ。
「学校の件で早朝にお前を呼ぶのは野暮だろう」
「け、わかってんじゃん」
 家にお邪魔して数秒後、自分は目を剥いた。原因はこの家に異常な清潔さだる。生活臭はほとんどなく、生物がここで生きていけるのかと疑問になる。聖域という言葉がしっくりきた。この聖域を侵さないようにすると息苦しかったので、自分は普段通りに振舞った。微かに漂う香ばしい匂いがせめてもの救いである。
 空義は捺由と父親の三人暮らし。母親は彼が小学生の時に亡くなったらしい。
「今日はお前に渡したいものがある」
 二階に上がった空義は『捺由』と掲げられた部屋のドアノブに手をかけ、躊躇いなく開けた。
 部屋は虚無に等しかった。高校生の女の子の部屋とは思えないくらい質素で何もない。机の上は整頓されており、教科書類が本棚を征服している。
「殺風景だな。処分したわけじゃねーんだろ?」
「無論、いつ目覚めて良いよう以前のままだ。一切手を加えていない。……掃除はしているが」
 そう語る空義は小さなテーブルの上に置かれたノートパソコンに近寄り、着脱式CD―ROMドライブを押して、中から一枚のCDを取り出した。
「……捺由はパソコンを起動させたまま発見された」
 ごくり、と自分は生唾を飲み込む。
「外傷は見当たらなかった。脳震盪ではない事は明らかであり、原因は不明。そして唯一の手掛かりであるこれを調べてみようとしても応答しなかった」
 蛍光灯の光を反射し、それらが干渉してCDの裏面は彩られた。
「その言い草じゃまるでCD? が使う人を選んでるみたいじゃねーかよ」
「俺も解せん」
「ほー……、空義にも手が付けられないのか」
 一通りの経緯は理解した。空義が何を思っているのかを逡巡し、結論を出す。
「いいぜ。自分に任せろ」
 空義は顔を上げ、こちらの真意を質すような目をした。眼鏡の奥から光線が出たら面白いの
に、とつくづく思う。ふざけられる雰囲気ではないが、空義は目で殺せるという方に一票。
「これが渡したいものだろ? 回りくどく言わなくてもわかるさ。そういう仲だろ? これに捺由に関するヒントがあるんだったら、手を貸してやるぜ」
「お前を巻き込んでしまい、すまん」
「そんなのおあいこだろ、溜飲なんて下がらねーぜ。空義のおかげで自分は進級できたんだ。借りを返そうとしても、返しきれねーよ。つーか借金みたいに積もってく一方だし」
 空義の手によってCDは透明なケースの中に入れ、それを自分は受け取った。
 人間が意識不明に陥る品物。それに記録されているのは呪いの歌だろうか、それとも心を狂わす天使の歌声か。どちらにしても興味は尽きない。
 これからの予定を考えている最中に空義から提案があった。朝食を食べていかないか、という誘いを自分は遠慮せずに受けた。


        * 
 
 
 視界が暗転する。
 落とされているのだろうか、どんどん深くなる。何がと尋ねられたら、眠るときと同じような感じだ。睡魔に抗えないみたいに、この落とされている感覚から逃げられない。どこまで落ちるのだろうか、それは自分でもわからない。
 やがて小さな光が生まれ、星のように瞬く。自分の体はその中を巡っているようだ。瞼の裏からほのかな光を感じる。
 安心していたら突然、奇妙な感覚に襲われた。落ちていくだけでも奇妙であるはずなのに、今度は上がっている。
『ようこそ』
 凛とした声が頭上から降り注いだ。
 ようこそ……だって? 自分はどこに来たんだ?
 うんうんと唸りながら記憶を辿ってみても、智帆に襲われそうになり、急いで自室に戻ったところまでしか思い出せない。
『目をお開けください』
 言われた通りにゆっくりと瞼を持ち上げると、そこは一面真っ白だった。何もない=何でも生まれると考えることもできるが、無に帰したとも読み取れられる。ついでに白は亡霊や死の色として恐怖や不安を想像させるらしい。
「ここは……どこだ?」
 口からすんなりと出たのは面白さの欠片もない常套句だった。せめて気炎を上げて、男らしく振舞えばよかった。例えば「ここは俺様の世界だ。ガーッハハハハ」とか言ってみたい。突っ込みどころが満載で空義がいたら揚げ足取られ、ついでに世界に所有者はいないとか論陣を張り始められるな。
 現在地がわからないというのに自分は落ち着いていた。山だったら遭難しているかもしれない。
『ようこそ。ケレブレムに足を踏み入れし、新たなプレイヤー』
「プレイヤー? つーことは架空世界?」
『ここはケレブレム。それ以上でも以下でもありません』
「……イコールはないのかよ」
 求めていた答えと違ったので、ぼそっと呟いた。
 質問に応じた声の持ち主はどこを捜しても見当たらない。辺りを見回してもスピーカー等の音響機械がないので架空世界なのだと察した。でなければ声が聞こえてくるはずがない。空耳であったら会話が成立するはずがない。そうか、ここは夢だ。ならば覚めるまでこの空間を満喫しようか。夢の中じゃ不可能なんてない。夢占いというのがあるほど、ここは本人の欲や未来を暗示させているのだ。本人の記憶を基にしているという一説もある。
「まーいいや、ここがどこかなんて。夢なんだしさ。ぱーっと楽しもうかなー」
『プレイヤー、名は何と申しますか?』
「自分が願ったら、この世界も広がっていくんだろうな。だったら、現実にないものとか……。どうせならバーチャルリアリティにあるような体験なら……例えば……」
『プレイヤー、名は?』
「うへへ……や、やべぇ……妄想が止まんねぇ」 
『……名は?』
「そういえばバーチャルリアリティって、人間のための人間による人間の所作なんだよな。だったら、妄想みたいに有り得ない事を考えるんじゃなくて……実現するんじゃねぇか?」 
『…………プレイヤー』
「うっさい! 今、脳内パラダイス中なんだから邪魔すんじゃねぇ!」 
『失礼ですが、名前を決定してもらわなくては次の段階に移行できません』
「へー、だから何? アナウンスじゃ説得力ねぇし。おまえらがどうにかしなくても、自分で道を切り開いてみせるぜ」
『……その傲慢さ、いつか罰せられるでしょう』
「はっ、姿を見せられないテメェなんぞに言われたくねぇな」
 多少言い過ぎたとは思ったが、全て本音だ。自分はネットの掲示板を見て一喜一憂している奴らとは違い、他人を支えとして生きているわけではない。引きこもり歴四年は伊達でないんだ。義務教育課程中、担任から散々説教や悩みを話せとか脅迫っぽく言われた。それを無視し続けるほどの根性はあると自負している。
 引きこもり暦の長さに感慨深くなっていると、突如無の世界に線が浮かびあがった。線は交差したり曲がったりしながら無数の円を完成させた。それらは幾重にも連なり、円柱型になる。数人納めることの出来る空間はこの世界から遮断され、異質な雰囲気を醸しだした。
 何か来る、そう直感した。
 収束した光は人型を形成していき、円柱の中に浮かぶ人間はこちらを睨んでいた。
「私を呼び出させるとは……貴方、何者ですか」
 にべも無い態度で詰問してきた少女はぷかぷかと浮いていた。ピンク色のリボンとレースがあしらわれた黒色のワンピースの上にボレロを着て、同色のロングブーツを履いていた。そんな黒ずくめの姿を見てしまい、余程黒が好きなのだろうかと推測してみた。しかし、髪の毛だけは白色……というよりも銀色であり、服装と比べると、これまた可哀想なくらい浮いていた。瞳は雲ひとつない青空のような色だ。
「Nomen meum est Gardenia」
 少女は異国の言葉をすらすらと語った。
「へ? ノー麺、うめぇ……?」
「Non」
 明らかに少女はこちらを試している。やっぱし挑発したのはまずかったな。
「わかりませんか? 私はあなたの申し出の通り自己紹介をしました。ですから、貴方の名を知る権利が私にはあります」
 名前を知る権利って何だよ。
「自分は奏都。奏でる都って書いて奏都」
 偽名の方が良かったかなと思ったが、それを憶えられる自信がなかったのでやめておいた。
 いい加減、この自己紹介にあきてきた。他のアイデアを出してみようか。
「認識完了。それではどうぞ、ケレブレムの世界をお楽しみくださいませ」
 水泡がはじけるように、少女は一瞬にして消え失せた。
「一体何なんだよ……、あー肩こる」
 訳のわからないまま、自分は目を閉じた。

「おっはよ、奏都くん。お、目の下にクマ発見! 徹夜でもした? ははーん、何をしていたのかなー」
「……遅刻するぞ」
 制服姿の捺由と空義が目の前にいた。二人は呆れ顔でこちらを見ている。特に空義は右手の人差し指で眼鏡の位置を直した。この仕草はまずい。彼は本気だ。そうすると教師でさえも手が付けられないほどの論争になる可能性が高まる。一方的であるため、最後まで聴いた人の大半は魂が抜けたような状態に陥るらしい。用心しなくては。
「遅刻って、何に?」
 空義という男の前で沈黙はいかなる言葉よりも雄弁であり、彼に考えさせる暇を与えさせないために理屈が通らない事でも言ったほうがましだ。
「まだ寝ぼけてるの? 学校でしょ、学校」
 空義は静観しており、代わりに捺由が答えた。
「急に言われても制服なんて着てねぇよ」
「あはは、やっぱ寝ぼけてる。奏都くん、学校に行く気満々でしょ。制服着ているし、鞄も持ってるんだから」
「なっ――」
 急いで自分の姿を確認した。名門である靄然高校の生徒がだらしない着方をすると学校の評判に関わるようで、教師らは校外でも目を光らせている。
「いつの間に着替えたんだろ……」
 白いシャツの裾はズボンの中に入れてあるし、緑と白のストライプ柄のネクタイも曲がっておらず、ベルトは苦しくも緩くもない。このように身を固めていれば学校に行く気満々だと思われても仕方ないな。
 だとしても、いつの間に着替えた? 鞄をいつから持っていた?
 思い出せない。何も思い出せない。
「どうかしたか、奏都」
 空義が疑問を推し量るかのような眼差しを向けている。それを嫌だとは思わなかったが、落ち着かない。
 ……そんな目で見るな。穢れの無い善人の目で自分を見るな。
「なんでもない。なんでもねーんだよ……」
「う~ん。もしかして、奏都くんはあたしたちを心配してるの? 大丈夫、あたしは後悔しないよう頑張るから。気にする必要なんてないよ」
「ああ……そうだな。気にする必要なんてねぇな」
 適当に相槌を打った。恐らく、捺由は部活の大会の話をしている。
 その通りだ、深く考える必要なんてない。長いものに巻かれてしまえばいい。
「よーし、ひとっ走りでもするか。ビリは今日の昼食おごりで。んじゃ、先に!」
 自分は真っ先に走り出した。
「売られた勝負は買うのが礼儀。黛捺由、受けて立ぁつ!」
 振り返ってみると、捺由が簡単に準備体操をしていた。何だかんだと言って、やっぱり捺由は付き合いがいい。一方、空義は余裕綽綽とした様子で最後尾にいた。
「……やれやれ。捺由と俺は弁当を持参しているんだが」
 空義は小さく呟いた。
 その後の逆転劇に自分は目を疑うしかなかった。

「ぜぇ……ぜぇ……」
 息を切らしてゴール――靄然高校の校庭――に辿り着いた自分は、よろよろと空義と捺由に近寄る。二人は自分と違って息を切らさず涼しい顔だ。手を振る捺由は楽しそうである。
「奏都くん、おーっつ」
 どこか人を食った態度であるのに、見ているこちらが腹立たないのは彼女の生まれながらの才能か。それとも人徳か。いや、軽はずみな事を口走しったら最後、空義に揚げ足を取られるのが目に見えているからか。
「おまえら……速ぇーよ」
「帰宅部に侮られては面目が立たん」
 腕組みをしている空義のシャツの袖から伸びている腕は鍛え抜かれている。上腕二頭筋は硬そうで、自分とは大違いだ。その盛り上がった筋肉は男の勲章であるように思えた。
「空義の言う通りかなー。ここぞっていう時に力は発揮するものだけど、普段から発揮できなきゃ本番でも失敗するから。毎日の努力が大切だよ。千里の道も一歩から!」
「……遅刻寸前なのも鍛錬の一種か」
「ばっ……! そ、それを言わないでよ空義。遅刻ぎりぎりで毎日走っているのは……うーんと、常に身を危険にさらすためだって。朝に弱いからじゃないよ」
 行雲流水のごとく自然と振舞う捺由も同年代の女子と比べれば引き締まっているほうだ。贅肉がほとんどない。というより贅肉は一箇所に集まっている。それが揺れる姿をまじまじと見つめていたなんて言える筈がない。その光景を見るために一番先に走り出したのだ。彼女が勝負に食いついてくるだろうという核心を持って。
 いつもならば、空義と捺由は朝練に励んでいる。一緒に登校する機会なんて滅多にな……い?
 ……朝練に励んでいる?
 自分は異変に気付いて顔を上げた。
「なぜだ、音がしない。普段なら声が飛び交っているのに」
 朝練が何時から何時まで行われているか自分は知らない。けれども、逆にここまで静まり返っていると不気味だ。自分の耳には親友の声しか届いていない。聞こえてこない。
 普段ならば気にも留めないような所まで注意を払う。笑い声や自動車が走る音。木々を揺らす風の音。夏の風物詩である蝉の鳴き声。耳障りな蚊の羽音。
「……何も聞こえねぇ。あの煩い声までも」
「奏都くん、置いて行っちゃうよ。早く早くー」
 捺由に促され、小走りで昇降口に向かった。
 こいつらがいればいい。自分を本当に理解してくれる、こいつらだけがいればいい。
 幸福に溺れよ、という言葉が頭の中で響く。快楽でなく幸福というところが、いかにも自分らしい。
   
 教室にも邪魔者はいなかった。空義が教師役で自分と捺由は生徒。科目は日本史。どんどん手を挙げた自分を空義が指してくれる。社会科目が苦手な捺由は尊敬の眼差しをこちらに向けてくれる。とても心地よい、至福の時だ。
 自分が大人への不信感を募らせていったのは小学生の頃。当時、教師たちは出る杭を打とうとする傾向があった。逸脱している子供達は貶され、いじめの対象となった。そんな中、自分は空義と捺由に出会った。二人は能力よりも髪色に目を付けられていた。子供のくせに髪を染めやがってなどの些細な理由で。子供の未知なる能力の芽がつまれていく小学校が大嫌いだった。今思い出しても腸が煮えくり返りそうになる。むしゃくしゃする。
 夢が現実になればいいのに。そうすれば自分は一生幸せでいれるのに。
   
 景色が崩れていく。
 空義と捺由の姿はもうない。
 涙で視界がぼやけているのではない。
 また、落ちていく――。
 深く。深く。
 言っただろ、夢ならば覚めないでほしいと。
 願いは歪な形で叶えられた。
  
 ――世界は再構築された。
  
 校舎の外に広がっている景色は怪しく、無意識に身震いした。灰色の雲が空一面を覆い、蛍光灯をつけているというのに室内はどこか暗い。雨が降ってきそうだ。
 荷物をまとめ終わり、椅子から立ちあがる。席を離れる寸前に捺由がやって来た。
「はい、これ。頼まれていた本」
「本? そんなの頼んでいたっけか」
 無造作に渡された本はかなり分厚い。辞書だと言われても疑われないだろう。こんな読破するのに時間が掛かりそうな本を自分が頼んでいたとは。
「タイトルが読めねぇ。ってか、おまえがこんな分厚い本を読むなんて初めて知った」
「余計なお世話だよ。あたしだって本を読むことくらいあるし」
「ふーん、本当に? 最後まで? 読書感想文を始めの数ページで書いてしまうおまえが? 百ページまで読み進められないおまえが?」
「うっ……それは、途中で飽きちゃうことがほとんどだけど……」
 もじもじと尻すぼみしている声で話す彼女を見たのは久しぶりだった。
 本のタイトルは日本語でない。アルファベットが幾つか並んでおり、自分の知っている単語ではないことは確かだ。英語の発音は自信がないので、声に出さないでおいた。独学で勉強したので、対人コミュニケーションは、からっきしダメだ。定期試験に口述がなくて助かった。
「でも、この本はおススメするよ。あたしでもなんとか最後まで読めたから。たくさん名前がでてくるんだけど、そこが見所かな。誰が誰だか考えながら読むのが楽しくって楽しくって」
「おまえが言うと、説得力があるな」
「それはどういう意味かな? 奏都くん?」
 捺由の指がポキポキと鳴った。
 智帆とは違った意味で身の危険を感じた。言い訳するという動作にありったけの精神をつぎ込む。テレビで見たことのある、妻に浮気がばれた夫にひどく共感してしまった。できれば一生知りたくなかったが。
「落ち着け、落ち着けって。おまえが言うと説得力があるっていうのは……んーとな、そのー」
 これから先に続く言葉は、なかなか見つからない。
 捺由は静かに次の言葉を待っている。下手に言ったならば、彼女の手と足が出てくるに違いない。そしてノックダウンされる。捺由は柔道部なので背負い投げかもしれない。どちらでも、暫く動けなくなること確実。
 窮地に瀕していると、遠くから近付いてくる一つの影があった。
「……捺由、遅れるぞ。今回は重要な打ち合わせがあったはずだろう?」
 救世主・空義が現れた!
「うっそ! もうこんな時間っ。じゃあね、奏都くん」
 そうして腕時計を一瞥した捺由は台風のように教室から走り去っていった。今、校舎内で走るなと咎める者はいない。
「……ふぅ」
 自分は息をもらし、胸をなでおろした。願ってもいない救世主の登場で無事に捺由の呪縛から逃れられた。感謝してもしきれない。
「空義、ありがとな」
「礼など及ばん」
 律儀に返事をした空義の視線はこちらの手元に向けられていた。そういえば自分は捺由からもらった本を持っていたままだった。
「ああ、この本、捺由から借りたんだ。一方的に押し付けられたんだけどさ」
「そうか。ということは女主人公版か。背表紙に梔子の花が描かれているはずだ」
 本を逆さまにしてみると、確かに梔子――白色の六弁花――が背表紙を飾っていた。やや擦り切れており、花は白というより黄色っぽい。保存の状態が悪かったのだろう。
「男主人公版と女主人公版の両方を読む事で初めて世界の全貌を理解できる仕組みになっている。他にも数人主人公はいるようだが……、当たり前か。登場人物それぞれに物語があるものだ」
「へぇー、奥深いな。どっちかというと自分は男主人公の方を読みてーな。女の気持ちって、わかりずれーし」
 空義は力強く頷いた。
「女の気持ちが理解し難いものであることについては同感だ。だが、捺由にも何か思惑があるのかも知れん」
「つまり、読めってことか」
 自分は渋々鞄の口を開け、本を入れた。それから鞄を手に持ち、教室から出ようと廊下側に目を向ける。自然と教室の窓に背を向けた。
 灰色の雲を掻き分け、太陽が顔を出した。一瞬だけ、白い光が世界を照らす。しかしその光が万人に届くことはなかった。
「……逃げろ」
 逸早く何かに気付いた空義がそう言った。
「はあ?」
 訳もわからない自分は振り返り、空義に理由を尋ねようとした時、外の光景が目に入った。
「な、なんなんだよ、アレっ!?」
 あまりの光景に開いた口は塞がらなかった。
 赤黒い空。果たしてそれを空と呼んでもよいのかわからなかったが、異常事態が起こっていることは確かだ。空は夕焼け雲が厚くて光が通りにくいようではなく、絵の具をべったり画用紙にのせたような濃さだった。
「奏都、すぐに逃げろ。――に見つかる前に。俺はまず、高確率の方から避難させる」
 確率、という言葉に背筋が震え、手に汗が浮かんだ。
 命の危険があるというのか? 高確率って一体何が?
 肝が据わっている空義は寡黙で言葉が足りない。一方、自分は取り乱してしまい聞きたいことは沢山あるのに言葉にできない。どうしても「あ」や「う」など意味のない単語を発してしまう。逃げることが最優先だというのに。
「……恐らく、これは校舎全体にかけられている。ならば、校舎外の生徒は……」
 空義の呟きがやけに鮮明に聞こえた。つまり彼はこう言いたかったのだろうか。校舎外ならば安全だと。
「わかった、先に行くからな!」
 自分は微かな望みを頼りに、荷物を置き去りにして教室から出た。
 避難訓練を真剣にやっておけば良かったな、という後悔が自身の胸をチクリと刺した。その上、次にとるべき行動を思い浮かべることができない。向こう見ず、という危うさが自分の焦りをせきたてた。
 廊下の窓からも赤黒い空が見えた。太陽なんてどこにもなく、渦巻いている空だけがあった。赤と黒がせめぎ合い、マーブル模様になっていた。濃淡があり、生きているようで不気味だ。そう思った直後、時間が静止したように感じた。それは錯覚ではなかった。自分の足と空の渦が止まっていたのだ。
 この感覚を知っている。忘れるはずがない。
 例えば視線。いつも監視されている恐怖。止めどなく不安を押し寄せるもの。だから自分は振り返ることができない。振り返れば、いつもそこで誰かがこちらを見ている。
 例えば言葉。人を揶揄するくらいなら別にどうってことない。それが誰かの根源を揺るがすような場合に時として凶器となり得るもの。人間は全ての性格を持っているが、相手によって見せる性格を変えると本で読んだことがある。確かジョハリの窓といったはずだ。
 視線と言葉。それがとてつもなく怖い。呉牛月に喘いでいる自分を嘲られないくらいに。おどけるなんて真似、この二つの前では到底できない。
 逃げなくちゃならねぇんだよ、ここで止まっているわけにはいかねぇんだ。ここは夢なんだからさ、形勢逆転の一手っていうのがあるもんだろっ!
 なんとか自身を鼓舞するが、一向に足は動かない。校舎内は水を打ったように静まり返っている。空義は反対側の階段を使ったのかもしれない。
 方法など考えている暇はない。一秒でも早く、逃げるべきだ。そう思いつつも、頭の中は余計なものに支配される。元々自分は創作するということに向いていない。要するにテストでは点を取れるが、小論文は全く書くことが出来ない奴なのだ。
「ちくしょう……」
 呟きは空気に溶け込んで失せた。
「どうしてこんな目にあわなくちゃならねぇんだよ!」
 行き場のない怒りは霧散した。
 刹那、足音が聞こえてきた。規則的なリズムが階段のどこからか発せられている。これで助かると思うと、動かなかった足が引き付けられるようにゆっくりと動いた。耳をそばたてると、下の階から響いてきていることがわかったので階段を迷わず下りた。手すりにつかまり、一歩ずつ着実に音源へと近付いていく。
 一階と二階を繋ぐ階段の中腹にそいつはいた。ここまで足音が聞こえてきたので彼も階段を下りてきた人なのかもしれない。足音を響かせるために何か鈴でもつけていたのだろうか。そんな奴、いるわけないな。いたら指を差して笑ってやる。
 そいつは止まり、振り返った。つられて自分も立ち止まる。そして、そいつは言う。
「ようこそ、ケレブレムへ。人が訪れるのは一ヶ月ぶりでしょうか。前回は男勝りな方でした。今回は……普通ですね」
 初対面のそいつ――少年は、少女と見紛うような顔立ちをしていた。肌の色白さとの相乗効
果で余計にそう思わせる。対照的にパールグレイの瞳は淡々とし、気力の欠片もなく、屈託した顔つきだ。磨けば光るだろうに勿体ない。そうしてやっと、ここが夢であることを実感できた。彼も作られた世界の住人に他ならないのだ。そうならば気力のない目に合点がいく。屈託した顔つきというのは矛盾しているような。疲労なんてするのか?
「へいへい、お勤めごくろーさん。で、あんたは?」
「申し遅れました。僕の名前はイシ。お兄さんは……奏都さんですね?」
 イシと名乗った少年は同意を求めるような視線を向けてきた。こいつは自分を知っている、という根拠のない考えが風船のように膨らんだ。
「なあ、お前。どうして名前を知っているんだ? まだこっちは名乗ってねーぞ」
「……それは僕が……」
 顔色を曇らせたイシの声は淀んでいた、というのは自分の勝手な解釈だろうか。幸薄そうな人に会うのは初めてだからよくわからない。会話を途絶えさせた行為に対して逆上させてこない心地の良い沈黙に包まれていたけれども、自分は早く逃げなければ。ここで無駄足を踏んではいけないと早々と会話を切り上げようと努める。
「まーいいや、んなこと。逃げることが優先だ」
「待ってください」
 イシは両手を広げ、通行禁止を訴えかけてきた。そんな彼の目は虚ろ。彼を押しのけていくことは指一本でも出来そうな気がした。
「あなたは、この世界の存在意義に気付いていますか? ケレブレムの意味をご存知ですか?」
 無性にイシが気に食わなくなった。全てを放棄したような虚無な奴が、やる気満々の自分を妨害する行為が許せない。
「は? おまえ、頭でもいかれてんじゃねーの。夢に存在意義なんてあんのかよ」
「そうですか。あなたは虫けら以下の知力しか持ち合わせていませんね」
「こ、このクソ餓鬼……!」
 今にも飛びかかりたい衝動をぎりぎりのところで堪えた。自制心が働くのがもう少し遅かったら、取っ組み合いをしてしまったかもしれない。ま、最終的に勝つのは自分だが。
 真顔でひどいことを言うイシとは一生関わりたくない。あ、でも夢だから真顔なのはしょうがない、と心の中で付け足しておいた。
「奏都さん。言葉には意味があるのです。僕の名も然り」
「〝イシ〟に意味があるって? だったら、川の中で角(かど)をとってこいよ」
「…………はい?」
 イシ=石。それに加え、角をとって丸くなる=性格のことを指したつもりなのだが、少年にはレベルが高すぎたようだ。イシは目を動かさず一点を見つめている。
「こほん。話を元に戻しましょう。ここから先は危険です。命の保障はできません」
「は、ここは夢だぜ? 別に体力がゼロになって死ぬわけじゃねーし。あ、夢は覚めるかもな」
 そう言って自分は、イシという障害物をどかそうと肩をぶつけてやった。
「じゃーな、ませ餓鬼」



 気付くと、体の自由が利いていた。理由はわからない。そんなことよりもここから出ることで頭が一杯だった。要領の悪さがこんなところに反映されるとは。
 昇降口の扉は開放されており、靴に履き替えずに外へ飛び出した。この判断は良かったかもしれない。なぜなら、自分の靴がない一年生用の昇降口から出てきてしまったからである。二年生用はここから反対側だ。引き返す時間が惜しい。
「よっしゃ! これで……」
 赤黒かったのが嘘だったほど、空は澄み渡っていた。その青い空を見て自分は落ち着きを取り戻せた。それから見晴らしの良い所に出ようと校庭へと向かった。その途中には屋外プールがあり、そこで泳いでいる生徒を見かけた。彼らは黙々と、わき目も振らずに泳ぎ続けている。その様子はまるで、ここから切り離された空間にいるようだった。誰一人も自分と目を合わせようとはしない。気にしすぎだ。彼らは練習熱心なだけだ。そうに決まっている。
「……きっとさっきのは見間違えだ。空が赤黒くなるはずがないし。幻覚を見るなんて疲れてんのかなー。最近ゲームは控えているつもりだけど」
 喜びは束の間だった。
 スピードを緩め、歩こうとした瞬間、甲高い声が脳天を突いた。悲鳴だった。女の子の、あの、耳障りで頭が痛くなる金切り声だった。聞き間違いだと思った。けれども自分の心は妙にざわつく。急いで校庭に躍り出ると、そこには凄絶な光景が広がっていた。
「……なんだ、これ」
 髪は長く、黒いコートを纏った女性が毅然と歩いている。彼女から逃げようと逃げ惑う生徒達。片や歩行、その他大勢は走行であるのに距離は一向に広がらない。むしろ縮まっている。
「――――」
 女性が何か言葉を発した。
 次の瞬間、驚くべき光景に自分は顔色を失った。
「ひ、人が……消えた」
 女性の近くにいた一人の男子生徒が跡形もなく消え失せ、校庭からいなくなった。するとまた悲鳴やなんやらが木霊する。その光景は一瞬だけ、小学生の頃の事件と重なった。
 忘れるはずがない。あの時は運動会だった。他学年の競技の結果にも一喜一憂し、個人としては順位に固執しながらも、とても楽しかった。大勢の人が一斉に奮起しているのを見て、自分は子供らしい温かいものを幾つも受け取った。その瞬間を誰かに奪われなければ。喜びを奪われなければ。奪われたのはそれだけではない。沢山の命もなくなった。冷たくなった妹の姿を思い出すたびに怒りを覚えずにはいられなかった。
「嘘だと言ってくれよ、なあ。夢なら覚めてくれよっ。もうたくさんなんだ!」
 親友といる時、夢なら覚めないでほしいと願った自分が愚かだった。目の前で誰かが傷つくのも、いなくなるのも耐えられない。空義は逃げろと言っていたが、これでは開けて悔しい玉手箱だ。助かる、という望みは砕け散ったのだ。
 校庭は生徒でごった返していた。なぜ校門から出て行かないのだろうかという疑問はすぐに晴れた。というのは、自分は校庭から引き返し、一番近い西門へと向かっていたからだ。ゴールテープを切るように、迷わず門を抜けようとすると。
「へごふっ」
 顔面から何かに衝突した。そこに壁など何もない。もう一度門を抜けようと、地面を力強く蹴った。
「いで……」
 また何かにぶつかる。手を伸ばしてみると、壁のようなものが門のところにあった。
 結局学校の敷地外に出られなかった。見えない壁が邪魔していた。舌打ちをして、その壁へとタックルをかましても跳ね返されるだけだった。
「このまま自分も消されるのか!? 夢の中でも、怖ぇもんは怖ぇんだよ!」
 焦りが思考を鈍らせる。校庭に目をやると、生徒の人数が著しく減少していることに気付いた。恐らくすでに半分以下にはなっているだろう。
「空義……捺由……、逃げられたか?」
 このひきこもりの身である自分よりも、肝胆相照らす仲である彼らの命の方が高価値だと思った。二人とも大会で入賞経験があるし、周りから尊敬されている。
 本当は悟っているくせに、と最悪の結果が脳裏を過ぎる。
「このまま終わりたくなんかねぇのに、こうしてただ嘆くしかできないのか? 悲劇を繰り返さなくちゃいけねぇのか?」
 頭を垂れ、両手に力を込めた。
「……無理だ。自分じゃ何もできない」
 力量は本人である自分が誰よりもわかっている。自分は特別なんかじゃない。歴史好きで、体育が苦手などこにでもいるような男子高校生だ(体育が苦手な人は少ないかもしれない)。筋肉がつきにくいのは生まれつき。中学生の頃、試しにプロテインを摂取してみたが、効果は現れなかった。『無知の知』という言葉を聞いたことがあるけれども、こうやって自分の欠点を挙げてしまうと無力である事を再確認しているようで空しくなった。
『そうやって、逃げるのか? 尻を巻いて逃げ続けるのか?』
 耳にたこが出来るくらい聞き慣れた声が自分を質した。どうやらその声は〝善〟の方なので、自分はあざけながら答える。
「逃げてもいいだろ? どうせ、無理なんだから」
『打開策を見つけろ。そうすれば道は開かれん。お前は考えたか? なぜ人が消えたのか。その前にあやつが何と言ったかを』
「気になってはいるさ。でもな、繋がらねぇんだ。水泳部は平気な理由とかも」
 校庭では惨殺が繰り広げられているのに、プールの方からは、ばしゃばしゃという水音やホイッスルの音が聞こえてくる。あれが平和ボケなのか。明らかに緊張感がない。部活としての緊張感は今自分が感じているものと明らかに異質だ。
「あーもう、わかんねぇよ!」
 頭を掻き毟ると、茜色の髪の毛が数本指と指の間に挟まっていた。
「……見ぃつーけた。貴方が今回のプレイヤーさん?」
 背筋がぶるっと震え、口が渇いた。恐る恐る声がした方向を目で追うと、いた。赤いコートを纏う長髪の女性が。黒いというのは見間違いだった。彼女の腕は赤い生地――返り血らしき赤い斑点がある――に覆われていた。
「貴方の名前は……奏都、櫻井奏都。かなちゃん、とでも呼ぼうかしら」
 女性は不気味な笑みを浮かべた。目元はいまにも泣きそうなほど弱弱しいが、全身から狂気といえそうな妖艶さが漂ってきており、その対称さが気味悪い。
「なんで知ってんだよ! 名乗ったおぼえはねぇぞ!」
「ふふふ……名乗ったでしょう? この世界に入り込んだ時に」
 そういえばそうだった。数刻前(時間の感覚はよくわからないが)、アナウンサーらしき少女に自分は奏都だと名乗った。
 この馬鹿野郎っ。なんで軽々しく名前を口にしたんだよ!
 自身を叱咤した後、次に襲ってきたのは消されるという恐怖だった。男子生徒が消される瞬間が脳裏に過ぎり、身を屈める。消されたらどうなるんだろう。夢が終わるならいいが、そんなに話が上手くできているはずはない。待ちうけているのはきっと、これ以上の地獄。
 消されるのを待ったが、その時はなかなか訪れない。生き地獄かよ、ここは。  
「名を縛れない……ということは……」
 女性の声に反応し、自分は顔を上げた。彼女は顔色一つ変えることなく淡々と言葉を続ける。
「ふっ、面白い。貴方は選ばれし者……だが、無事に帰すつもりはない。せめてもの余興だ、貴方が何を見ているのか試してやろう」
 上から目線の言動が頭にきたが、心を落ち着かせて相手の手の内を読もうと頭を回転させる。消えない、という事実で安堵した体は考える行為に適していた。
「……ククっ、櫻井奏都。もし貴方が我が名を当てることができたならば、無事にこの世界から帰すと約束しよう」
「なんだよ……それ。夢はいつか覚めるものだろ。他人に帰すなんぞ言われる筋合いはねぇよ」
「夢……だと?」
 自分の声も彼女の声も震えていた。
 突如、彼女は両手を広げて笑い出す。
「これが夢? これが、夢? 夢? ゆめ? ユメ?」
「何度も言わせんな。ああ、これは夢さ。いつか覚めるはずのな!」
「軽々しく命を粗末にするな。青二才め」
 その瞬間、自分の顔のすぐ横を何かが通り過ぎていった。数本の茜色の髪が宙に舞う。彼女は本気だった。話は噛みあっていないのに、それだけは明瞭だった。
「時間をやろう。それでも我を倒せなければ、貴方を殺す」
 無意識に振り返り退路を見つけようとしたが、浮いている幾多ものカードが自分を取り囲んでいた。何かの文字が描かれているカードは生きているかのようにこちらの動きを遮る。右足を動かそうとすれば、右足にそれらが集まり、貼り付いた。再びその右足を動かそうとすると、激痛が走り、意識が朦朧とした。
 右足を引き摺りながら女性を一瞥すると、彼女の手には黒い鞭が握られ、その周囲にカードが浮遊している。
 選択肢などなかった。生きて帰してもらうため、校舎へと足を動かす。まだいるのか? 空義……。頼りにできる親友の姿を自分は捜し求めた。

「あれ? 奏都くん、まだ帰ってなかったの?」
 教室に戻ってみると、捺由がいた。彼女は空をぼんやりと眺めていたのだろう、窓のそばに立ったまま顔だけをこちらに向けていた。
「おまえ……部活に行ったんじゃないのか?」
「うん、行ったよ」
「終わったんなら、さっさと帰ればいいじゃねぇか」
「……誰もいなかった」  
「は?」
 聞き取れず、自分はすぐに聞き返した。
「誰もいなかったの。先に着いちゃったのかな? と思って待ったんだけど、誰も来なかった」
 それは当たり前だ。今頃逃げ惑っているか、或いはもう消されたのかもしれない。彼女は外を眺めていたのに、一部始終を目撃していないのだろうか。
「何を見ていたんだ?」  
「何も。あたしは何も見てはいないかな。……違う、見ようとしないだけ」
 捺由は一息つき、体ごとこちらに向けた。
「見てしまったら、現在に留まりたくなってしまう。その景色を忘れないようにするために、ずっとその中に居続けようとする」
「はあ? 何を言ってんだ?」
「でも、あたしは後悔しない。行いも言葉もなにもかも。この名を受け継がなければ、あたしは……あたしたちはあの時、死んでいたから」
 あの時――。それが一体いつを指すのかは見当がついた。
 やめろ。これ以上思い出させないでくれ!
「小学生の頃、篩にかけられたの。そうして今になって、あいつらに見つかっちゃった。……誤算だったなあ」
「篩にかけられたってどういうことだ? もしかして、あの事件の真相を知っているのかっ!? 答えろよ、捺由!」
「ごめんね、言えないの。あたしに権限はないから」
 自分は、つかつかと捺由に歩み寄った。
「そんなのどうだっていい! 自分らの友情はそんなに柔だったのかよ!?」
「…………」
 捺由は罰が悪そうな表情のまま、こちらと目を合わせようとしない。
「答えろ。もしかしたら智帆は死ななかったのかもしれねぇんだぞ」
「…………」
「この……!」
 衝動的に右拳を上げ、捺由に向かって突き出した。
「奏都くんは相変わらず、感情的だね。でもそれじゃ……勝てないかな」
 捺由は繰り出された拳を手の平で受け止め、空いているもう片方の手で奏都(じぶん)の腕を掴んだ。
 そこからメリメリと骨が軋むような音が発せられた。あまりの痛さに歯を食いしばり、呻き声を漏らしながら耐えようと必死だった。
「君があたしに勝てるはずがないじゃん。みくびらないで」
 とどめと言わんばかりに鋭い蹴りをお見舞いされ、腕は解放されたが、自分は縮こまって蹴られた場所を押さえた。
 勝者が敗者を蔑んで圧倒的な力を示すように、勝ち誇った笑みを浮かべながら捺由は言う。
「わかったでしょ? これが力の差。そして……あたしがすでに〝捺由〟ではないことを」
 ど突き合いや喧嘩は今まで何度もあったが、それは友達だからであって本気ではない。捺由が相手に有無を言わさず一方的に本領を発揮したところを見たのは初めてだった。
「今度会うとき、あたしは〝捺由〟じゃなく、別の名で呼ばれるかな。その時、奏都くんも思い出してくれたらいいな。本と同じような名とか。そしたら分かるよ。あたしや空義がどうして武道において頭角を見せるのかを」
「おい、捺由っ」 
「バイバイ、また会おうね」
 お別れを告げる彼女の頬に涙が伝わっていた。それを見た瞬間、自分は口をつぐんだ。かける言葉を見つけられなかったのだ。
 そして捺由は泡が弾けるように消えた。
「捺由……」
 彼女はまるで自身の行く末を悟っているかのようだった。彼女の泣き顔を見てしまい、自分も悲しい気持ちになった。現実世界で捺由は昏睡状態におちいっている。だから、夢の中だとしても言葉を交わしたことに喜んでいる自分がちょっとはいるのかもしれない。
 結果的に捺由の泣き顔は自分の胸に蟠りを残した。

「あー、色んなことが一度に起きて頭がパンクするっての」
 体を起こし、床の上で胡坐をかいた。捺由が泣いていたことなど小事だ。それよりも、この現状を何とかして覆さなければならない。
 意味不明な言葉を話す、黒色のワンピースを纏った少女。
 階段で出会った、生気のない顔をした少年。
 血で染め上がったコートを羽織り、殺戮を行う女性。
「引っかかるような、引っかからないような……」
 重い腰を持ち上げ、ペンとノートを取るために自分の鞄へと向かった。鞄の中に何か入れた憶えはないが、入っていることを信じて鞄を開けた。
「おおー、入ってる入ってる。用意がいいな、じぶーん」
 鞄の中に入っていたのは筆記用具、ノートと教科書数冊、携帯電話、下敷き、クリアファイル、本。昼食は入っていない。真っ先に手に取ったのは携帯電話だった。開いて、
「……電源は入らねぇか」
と名残惜しく閉じ、鞄の中に戻した。
「だーっ、いらいらするっ」
 頭を掻き毟り、地団駄を踏んだ。言葉に出来ないモヤモヤとしたものがしきりに自分を急かしており、何かしていないと不安に飲み込まれそうだった。
「……一体、自分が何をしたっていうんだよ。クソッ」
 むしゃくしゃして、自分の机を蹴り飛ばした。必然的にその上に置かれていた鞄は落下し、中身が散らばった。
「なんで苦しまなくちゃならねぇんだ。いつまで過去に囚われなきゃならねぇだ」
 今まで押さえ込んでいたものが弾けとんだ。
 始まりは大切な者の死。それから、もう一つ……自分を監視している存在に気付いたこと。
どちらも些細な事では済まされない大事だ。
「結局、誰も本当の意味で助けてはくれない」
 ふと、捺由の涙が蘇ってきた。彼女は泣いていた。人には滅多に弱いところを見せないくせに、穏やかに泣いていた。
『わかったでしょ? これが力の差。そして……あたしがもう〝捺由〟ではないことを』
『今度会うとき、あたしは〝捺由〟じゃなく、別の名で呼ばれるかな』
 謎めいた言葉が何を示すのか、いくらなんでもヒントが足りなさ過ぎる。捺由は捺由であり、それ以外の何者でもない。誰かに手を上げたならば、彼女は自身の行いを反省するだろう。案ずるより産むが易いという言葉を象徴しているような奴なのだ。だから自分は友人として捺由
が好きだ。しかし、それ以上ではない。見えない境界線が引かれている。果たしてその境界線を引いたのは自分か捺由か。
 捺由の言い残した台詞が頭の中をぐるぐると駆け巡った。
『今度会うとき、あたしは〝捺由〟じゃなく、別の名で呼ばれるかな』
「捺由が捺由でないのは、他の名前で呼ばれるからか? だとしたら……!」
 幸運なことに思い当たる節があった。
『奏都くんも思い出してくれたらいいな。本と同じような名とか。そしたら分かるよ。あたしや空義が武道において頭角を見せるのかを』
 床に散らばった物の中から捺由に借りた本を拾い上げた。彼女が言う〝本〟とは、これだという確信があったからだ。そうでなければ、〝本〟という言葉をわざわざ使ったりはしない。なんたって、彼女は百ページまで読む集中力を持ち合わせていないのだ。双子だというのに成績に差があるのは、こういう要因があって不憫としかいいようがない。
 本をパラパラと捲ると自然にとあるページを開いていた。故意にそこを開こうとしたのではなく、挟まれていた白い紙がそのページへと誘ってくれた。
「えーっと、なになに」
 文字の羅列を目で追った。意味が解らない記号やみみずが這いつくばったような文字は読み飛ばした。日本語の部分だけを見、頭の中で内容を補いながら読み進める。
 紙が挟まれていたのは最初の方だった。ゲームのプレイメモを見ているようで自分は小さく吹いてしまったが、すぐさま視線と集中力を紙へ向けた。捺由は出てきた名前を全て書き留めたのかもしれない。どれとどれが同じであるか分からない序盤で、とにかく全て写してしまえと思ったのだろう。いや、そうに違いない。誰もが空義のような能力を宿しているわけではないのだ。
「さーて、読んでみますか!」
 制限時間がわからない中、今までの最高速度で本を読み進めた。

 本を読破した後、暫くの間高揚した心が落ち着きそうになかった。
「すっきりしねぇけれど、この選択しかなかったんだろうな……」
 本の内容を要約すると、次のようになる。
 生まれた直後に捨てられた少女は、ある家に引き取られた。彼女はすくすくと成長し、小さな夢を抱いた。しかし、戦渦はとどまるところを知らず、幸せに暮らしたいという彼女の願いは隣国との戦争によって儚く散り、人々も次々と徴兵されていった。
 やがて彼女は自分だけが幸せになってはいけないのだと思い始め、剣を取った。腕が動かなくなるまで毎晩素振りをし、時間があれば師範や年上の人の剣技を身に着けようと努力した(自分は、この〝努力〟っていう言葉が嫌いだ。戦争と言われてもピンとこないし、そうしてまで強くなろうとした気持ちが理解できない)。
 血が滲むような鍛錬のおかげか、彼女は一人前と認められて村を出た。それと同時に名を捨て、ヤスミノイデスと名乗るようになる(何が語源なのかは記載されていない。メモ曰く、重要人物。主人公なんだから、重要人物であるのは当たり前だと思う)。
 腕を見込まれて王族の護衛という職に就いた少女は着実に経験を重ね、王女の側近を務めるようになった(大出世だな)。戦渦は収まったように見えたが、今度は王国に対する反乱分子が挙兵した。それを鎮静するのは彼女の役目であった。そんな中、彼女は自身と同じ理想を掲げる彼(名前は不明)と出会った。そうして何度も彼と剣で語り合ううちに彼女は淡い恋心を抱くようになった。
 彼女はまた悩んだ。自分だけが幸せになっても良いのかと。彼女は王国の忠実な僕であり、彼とは相容れない立場だったのだ。葛藤をしている間に争いは激化し、彼女は暗殺者の対応にも追われ始めた。その上王女とは付きっきりで、彼と会える時間はなくなっていく……。
「そこらへんに腐るほどあるハッピーエンドじゃない、ってところが魅力かもな。捺由はきっと、少女の恋の行方を知りたくて読んだんだろうけど」
 結果を先に述べると、少女の恋は叶わない。二人は相打ちになり共に負傷する。それだけなら良かったもしれない。彼は突然現れた盲目の人によって殺される(盲目に殺されるなんて結構ドジ?)。それでも彼女は仲間の前で悲しみを見せず、気丈に振舞った。
 最終的に彼女はその戦いで勝利を収める。だがやはりそう上手い話はなく、彼女もまた王女を庇って致命傷を負った。息が絶えるまで歩き続け、偶然か或いは運命か、彼と邂逅する。彼は名を縛られて、呪いにかかっていた。疲弊しきっていた二人は最後の力を振り絞り、刺し違えた。
「うーん、名前が記載されていないってところがポイントか。このヤスミノイデス? っていうの絶対偽名だな。にしても、登場人物多すぎ……。昔暮らしていた村の住人と、王宮の人々の名前を挙げるだけで日が暮れちまう。だーッ、ちまちました作業は性に合わねぇ! どがーっと来いよ、男ならどがーっと! 矢でも鉄砲でも持ってくればいいじゃんかよ」
 こういう答えのない問題は自分には向いていない。
 本を閉じて、溜息をついた。空回りしすぎて心身ともに疲れてしまい、これ以上は続けられそうになかった。
「言っているだけで空しくなってきた……」
 心にぽっかり穴が開いたような感じがしても、二人の選択を間違いだとは思えない。最後まで二人は幸せだった。その幸せを他人がどうこう口を挟むことは彼らへの侮辱なのだ。
 他はわからないことだらけだった。
 なぜ、彼女は戦うことを決意したのか。なぜ、身を挺してまで王女を守ろうとしたのか。そして暗殺者とは誰なのか。なぜ、彼は死んだのか。名を縛るとは一体なんなのか。また、彼の名を縛ったのは誰なのか。なぜ、なぜ、なぜ――。
 ……ぷしゅう。
 空気が抜けたような間抜けな音が頭から発せられた。
「はひほへほ……」
 もう、限界だった。『考えるんじゃない、感じるんだ』というフレーズを思い出しながらも、思考回路が正常に戻るまで魂が抜けているような心地だった。
 時間の経過を忘れて無心でいると、外に遊びにいっていた魂が「ごめんねー」と体に戻ってきた。
 ……他人の気持ちがわからない、そのもどかしさが自分の首を絞める。居場所をどんどん狭くする。引きこもりになった原因は無視されたとか、虐められたとかじゃない。そりゃあ、時には挨拶しても気づかれない時だってあるし、からかわれることだってある。自論の域から出ないけれども、そういう理由で引きこもったんじゃない。自分はそんなに弱くない。
 それは皆同じなのだろうか。あの物語の彼女にも誇りがあり、譲れないものがあったのだろうか。自分にはある。もしも他人が自分を社会からの脱落者だと見なしたら、すぐさまビンタしに行き、こう言ってやるんだ。
「人を見下せるんなら、テメェは何か誇れるものがあるのかよ。そういうものなしに他人を侮辱するなんて、テメェの心が知りてぇ。つか、頭の中も覗いてやろうか」
 ……最後の一言は余計だな。語尾にゴルァとかつけても逆効果かもしれない。
「さて、と……やりますか」
 自分は血染めのコートを着た女性の名を調べる作業に取り掛かった。
 手がかりはある。絵や文字が描かれたカード。あれは一枚でなかった。あんなにも沢山所持している人は限られてくる。大量生産品でない限り、とても貴重な物だろう。
 御託なんてどうでもいい。今は、やるしかないんだ。

 女性は校庭でまだ生徒を弄んでいた。
「まだ……そこにいたのか、テメェは」
「あら? かなちゃん。どうしたの?」
 母親が子供に話すような口調は癇に障った。
「気味わりーな、その声。化けの皮を剥いでやろうか、あ?」
「……ふふ」
 女性の影が揺れたのと同時に最後の一人であった生徒が消えた。
「化けの皮ではないわ。我は子供が好きなの」
 口調がおかしい。情緒が不安定になっているのだろうか。それはそうだ、人を消すなんて常人の行いではない。
「おまえ、子供がいたんだろ?」
「しかし……我が子は国に奪われた」
「だからって、取り返すために王宮に奇襲をかけるなんて卑怯だろ!」
「ほほう、知っておるのか」
 感心した様子で、女性は妖しげな笑みを浮かべる。手の中にはカードを収めており、戦闘態勢をとっていた。
 防御や気を逸らす術を生憎自分は持ち合わせていない。でも言葉という武器はある。
「ああ、知っているさ。テメェは王宮に奇襲をかけたが、一人の男に邪魔されて失敗したんだ」
 その男というのが、物語に出てくる〝彼〟だ。時間系列的には反乱軍挙兵の前。偶然にも王宮の前を通りかかったときに異様な雰囲気を察して、その正体を探り、鉢合わせしたのが目の前にいる女性なのである。
「……ふふ、そうだったかしら」
「そうだぜ」
 自分はさらに追い討ちをかける。
「テメェのそのカード、占い用だろう? あの時、テメェは追われているのに気付いて、そのカードを投げた。ナイフのような切れ味を持つのは特別性だから、だろ?」
 女性の動きが止まった。顔を引きつらせ、ただこちらを見ている。
「…………切れ味なんて、今までにこのカードに触れたことがあるような台詞ね。かなちゃんに貼り付けただけなのに」
「勘だ」
 その刹那、女性の手の中からカードたちが鳥のように一斉に飛び立った。軌跡は魔方陣を描き、自分と女性を取り囲む。その中から一枚だけこちらへと一直線に向かってきた。「うわっ」などと情けない声を漏らしたが、ドッジボールの要領で右へ跳び、間一髪避けられた。着地時によろめいたのは、この上なく恥ずかしかった。夢の中ぐらい運動が得意だったらなあ。
「危ねぇな、マジで。不意打ちとか正当法じゃねぇし……」
「正当法など、この世には……少なくとも我が生まれし時には存在せぬ。もしそのようなものがあったとしても、しがらみである」
 女性の声に呼応し、カードが発光する。その光に魅せられないよう、自分は眩しくても目を開いていた。
 タイミングを見極めろ。やるべき事はただ一つ。好機は逃すな。
 両腕を交差させ、頭を守った。光が収まる気配は一向にない。脚や腕が痛い。ヒュン、と風を切る音が聞こえた直後に痛みを感じた。カードが自分を切り裂こうとしていたのだ。首の後ろやアキレス腱を狙わないのは自分を弄ってから消したいのか。えげつない女だぜ。ったく。
軽口を叩く心の余裕はあった。それが驕りでないことを心底願う。
「さあ、我を倒す方法は見つかったか?」
 女性の声は風を切る音の中でも透き通って聞こえてきた。耳元で囁かれている、と疑ってしまいたくなるほどはっきりしている。
「無駄な足掻きはやめろ。汝に能力がないことを知らしめるのみ。……私は子供を手にかけたくない。けれども、かなちゃんの名前を縛ることができないから、私の権限で現実世界に戻すことはできないの。それでも帰りたいのならば、ゲームオーバーにさせましょうか?」
 ゲームオーバーは死を予感させる言葉だと思った。リセットする方法なんて知らない。なら、失敗しなければいい。自分の勘に賭けるしかないよな。
 覚悟を決め、体勢を変えないまま大きく息を吸い、吐いた。
「自分はテメェの名を知ってるぜ! テメェは――」
 ヒントを与えてくれたのは捺由だ。彼女は泣きながら自分に何かを伝えようとしていたのだ。それが言葉でなく態度で表れたのは秘密の漏洩を防ぎたかったからか。それとも彼女の性格か。
「テメェはオルキダケアエ! もう一度言ってやる、オルキダケアエだッ!」
 次の瞬間、雷の落ちるような轟音が自分の意識を掻っ攫った。
 最後、女性は柔らかくて、たおやかな笑みを浮かべていた。
 それを見て、まるで母親の腕に抱かれているような安堵が自分の体中を包み込む。
 そして、自分は抵抗することなく深い眠りに吸い込まれた。



 普段は輝きに満ち溢れている王城の火災の噂は瞬く間に国中へと広まった。民衆は王を始めとした者達の生存を心から願ったが、誰も消火しようとは動かない。王城は四方八方厳重な警備をされており、消火が目的とはいえ入城を許可されず、民衆の大部分は祈ることしか術がなかった。
 垂れ込む暗雲は民衆の心を表し、太陽の光が遮られた薄暗い中、炎だけが浮き上がっていた。
「……マリザの予感的中か。オレも最悪の事態を考慮してはいたが」
 例外はいつの世にもいるらしく、とある青年は自ら行動を起こした。燃えるような髪と瞳をもつ彼は警備の目を掻い潜り、城への侵入を果たした。
 城内の様子を見て、青年は唇を噛んだ。
 炎に包まれた王城は石造りのためか原型を保っていた。一方、排煙の量は尋常でない。外壁も煤まみれになっていた。この城の建設には莫大な費用という名の税金が費やされていたで、悔し涙を飲んでいる人は大勢いるだろう。
 炎の勢いは止まらない。生きているかのようにうねり、城を巻き込む。
 口元を外套の袖で覆うようにし、青年は振り返らずに進んでいった。
 煙を吸ったせいで呻吟している兵士や貴族らしき人は青年に救いを求めた。這い蹲りながらも、彼らは生きようと必死だった。
「これが……この国の現状なのか。かつて父上と母上が訪問したという……」
 青年は倒れている人々に目もくれなかった。足首を捕まえられても、
「たった一国でさえも守れない輩に興味などない」
 と冷たくあしらった。
   
 扉の前に立ち、徐に腰に手をかけた青年は鈍色の鞘から剣を抜き放った。弧を描くように剣を切り払い、飛び掛ってきた名も知らない人間の息の根を止めた。首から血を流して倒れ伏す襲撃者は鎧などの防具を身につけていなかった。所属を表す紋章なども見当たらないため、正規軍ではないことは確かだった。
「フッ……弱卒か。そんな奴に陥落させられるとは、この国も落ちたものだな」
 剣を鞘に収めて屈み、襲撃者の服をまさぐると一本の鍵を手に入れた。その鍵を扉の鍵穴に差込み、青年は一種の自信を胸に秘めたまま両開きの扉を押した。それから青年は真剣な面持ちで王座に座っている人物を見上げた。
 王座に座っていたのは恰幅が良くて無精髭を生やし、山で熊と戦っていそうな大男だった。ぞろぞろと控えている部下もやはり大将に似ていて、王城に釣り合わない人物ばかりであった。
「貴様か。この城を陥落させ、尚且つ王座を汚したのは」
 青年は周辺を萎縮させるように言い放った。
「へっへっへっ。あったりめぇだろ? まだ毛の生えそろっていねェ坊ちゃんがよぉ」
 大将に侮蔑され、青年の眉がピクリと動いた。
「一人でのこのこやってくるなんて馬鹿だよなぁ。……おめぇーら、やっちまえ!」
 命令された部下たちが一目散に青年めがけて己の武器を振るった。
 青年は微動だにせず、果敢に突っ込んでくる部下など眼中になかった。
「はは、びびって、ちびっちまったか?」
 豪快な笑い声が部屋を満たした。すぐに青年は小さな声で「……戯言を」と反駁し、外套の中に手を入れ、何かを床に投げつけた。それは煙幕を撒き散らし、部屋内に居たゴロツキたちの視界を奪う。何も見えずに慌てふためく声が耳に届いた瞬間、青年は駆け出した。
「ひるむんじゃねぇ! 相手は一人だぞ! ここを奪えば――」
 部下を鼓舞しようとする野太い大将の声が途切れた。なぜ声が途切れたのか、部下たちには見当もつかなかった。煙が晴れた後、残っていたのは首と胴体が切り離された大将の無残な姿だけで、青年の姿はすでに消えていた。

「嘆いても仕方ない。皆、大将の仇を探し、討て! それが大将の望みだ!」
 一致団結し、行動をし始めるのは早かった。幾つかの部隊に分かれ、死体処理と仇の追跡に取り掛かった。臨時で指揮を執る者が現れ、応援を要請しようという英断を下した。要請を受けた部下達は散開して、炎の影響が少ない部屋へと向かった。
 その際、緑色の髪をもつ少年は新入りということで応援を要請する班に選出された。小柄であることを活かし、背負っていた矢筒と弓はやや邪魔になっていたが、大人一人も入れない細い通路を進んでいた。煙に体を蝕まれているというのに誰も炎を消そうとしない事実に疑問を抱きながらも、少年は弱音を吐かずに黒く変色した壁をつたっていった。
「よお、新入り。初めての任務で大将が死んじまうとは、運が悪かったなー」
 間延びした声に引き止められ、少年は振り返った。声の主は金時の火事見舞いのような顔をしており、兵の中では珍しく鎧で身を固めていた。
「もしかしたら、この団も終わりかもしれない。さーてと、次の就職先どうすっかなー」
「団……?」
「そーか、そんな事も教えられていねえのか。でも、おいら達が正規兵じゃないって事は知ってんだろ?」
 こくりと少年は頷いた。
「おー、素直でよろしい。つまり、おいら達は志を同じくして集まった一団なんだ。結成して……えー、どんくらいだったかな」
 少年は男の話に興味があるのか、任務そっちのけで目をきらきらさせた。そんな目を向けられ気分を良くした男は饒舌になり、一方的に話を進める。
「可愛げがあるな、新入り。照れちまうだろ。……んまあー、それはさておき、話の続きだっけか。おいら達は盗賊団だとか呼ばれたりもするが、正確には違うんだ。さて、ここで問題。おいら達の目的とは一体何でしょう?」
「侵略」
「おいおい、それは子供が使うような言葉じゃないだろう」
「侵略でなければ、どうして城に火を放ったのですか?」
 どうして、どうしてと少年はさらに男に詰め寄った。
「あー、それは大人の事情ってやつで……」
「大人の事情って何? それは僕にも言えないの?」
「あ、ああ! いつか、わかるようになるさ」
「…………そうやって、俺を除け者にするのか」
「は? 今何て――」
「なんでもありません。……あ、質問があります。どうして誰も消火しないのですか?」
「おうよ! それはおいらでも知ってる。大将の策で、今日は雨が降りそうだから、だそうだ。雨が降れば火が消える……とでもお考えなさったのだろう。いやー、すんばらしい策だ」
 男は白い歯を見せて大声で笑った。しかし、少年にとって男は論破の標的に過ぎなかった。
「その策に反対する者は居なかったんですか?」
「大将の腹心と話し合って出したものだからな、恐らく居なかったんじゃないか」
「……ぷぷ、はははははは!」
「新入り、悪い物でも食ったのか? 可笑しいところなんてないぞ」
 笑いこける少年の瞳には薄っすらと涙が滲んでいた。少年は涙を拭こうとせず、腹に手をあてたまま際限なく笑い続けた。
「この……! 静かにしないと職務怠慢だって罰を受けちまう!」
「ははははは……こんな滑稽な話、笑わずにはいられません。憶測で行動するとは考えが浅い。それに今日、あなたたちのための雨なんて降りませんよ」
「……どー見たって、あれは雨雲にしか見えないだろ。さ、新入りは大人をからかってないで仕事に戻りな」
 と、男が苦笑いする様子を少年は明鏡止水の心境で見つめた。
 確かに空一面厚い雲で覆われていた。少年は雨が降らない根拠を述べようとせず、男から目を離さなかった。
 暫くして少年は男を見ているのに飽きたのか、深い溜息をついた。
「わかりました。考える脳のない人に興味はありませんから。ですが……」
「まだ、何かあるのか?」
「仕事は迅速に……です」
 少年の目つきが獲物を狙うかのように鋭くなった。それから少年は矢筒から一本の矢を取り出し、弓を引いた。矢は的――鎧を着た男――に淀みなく向かった。
「今日、あなたたちのための雨は降りません。あなたたちのための雨は、ね」
 少年は糸が切れた人形になった男を残し、何事も無かったかのようにまた歩き始めた。
 相変わらず空は薄暗く、何かが起こる前兆のようであった。いつになったら雨が降るのだろうか。それを予測した者は果たしているのだろうか。
 冷えた目で燃える城を一瞥した少年は焦げついた壁の前で足を止めた。それから壁の一箇所を迷わず押すと壁が動き、地下へと繋がる隠し通路が出現した。警戒を怠らない少年は足音を立てずに闇の中へと吸い込まれた。
「お疲れ。首尾は?」
 地下に作られた広間で少女らしき甲高い声が尋ねた。松明やランプで明かりが灯っている地下は広く、広間と呼べるのに相応しいので、彼らはここを広間と呼んだ。
「期待には……応えられたと思う」
「それは良かった。こっちも成功したよ。ついでに彼も」
 少女は広間の真ん中を指差した。そこには沢山の子供たちに囲まれた青年がいた。青年とは数刻前に玉座へと単独侵入した本人であり、特徴的な赤い髪は子供たちの遊具と化していた。髪を引っ張られて痛そうな顔をしているが、怒るような素振りは決してみせない。
「……彼が、大将を仕留めたのですね」
 少年の言葉には羨望の気持ちが込められており、それを察した少女は二度目の質問をする。
「マヌス、彼に憧れてる?」
「お、俺は別に……」
「あたしは彼のこと、すごいって思うかな。あたしらみたいな生い立ちじゃないのに、こんな仕事に向いているなんて珍しいから」
「珍しい……。俺もそう思う」
 質問の答えを聞けた少女はいたずらっぽく笑い、少年の手を引いた。
「んじゃ、後始末に取り掛かるよ!」
 小さなランプに照らされた少女の髪は少年と同じ色に染まっていた。
 
 広間には老若男女が集められていた。今にも死にそうな面持ちの人はおらず、誰もがこの状態を覚悟していたかのような顔つきであり、まして騒ぐ者など皆無であった。幼いために状況を理解出来ない子供を除き、広間は水を打ったように静かでどこか恐ろしくもあった。
 静寂を打ち破るために青年が手を二回叩くと、人々の視線が彼に注がれた。
「オレは要点しか言わない。よく聴け。まず、ご存知だろうが、この城は防衛に特化している。隠し通路や入り組んだ構造をしているのも一例だろうな」
「……質問があるのじゃが」
 一人の老人が恐る恐る挙手をした。
「どうぞ」
「ワシはこの城の……、城で王に仕えるようになってから早数十年、一度も隠し通路の件を拝聴したことなど一度たりともないわい。お兄さんは一体どこでお知りになったのじゃ?」
「両親です」
「両親……とは?」
「オレの両親はキャラバンの一員で、この国に立ち寄った際、王様にお世話になった。随分昔の話だから、憶えていないのも無理はない。……では、話を戻すぞ」
 青年は早々に話を切り上げ、本題へと入る。
「仲間の話によると、あの一味……いえ、城を襲ったのは反乱を目的とした一団のようです」
 その一言で周囲がざわついた。
「お静かに。これはオレの推論ですが、あの一団はこの国を本気で滅ぼすつもりではなかった。恐らく、この件を足がかりにするつもりだったのだろう」
 ふざけるな、とどこからか野次が飛んできた。
「皆さんには大切な国だったかもしれない。だが、民衆にはどうだったんだ? 現に、人っ子一人助けに来てくれませんね」
 青年は淡々と述べた。怒りの矛先を見失った人々はその青年に突っかかるしかなかった。国が滅亡したのに涼しい顔しやがって、などと言う輩さえいた。しかし、青年の言葉で痛いところを突かれた者が彼らを制した。
「勘違いするな。オレは救世主じゃない。どう思ってくれても構わない。だがな、お前ら皆予想していたんじゃないのか? いつかこの国が民衆に見限られるのではないかと」
 反論する者はいなかった。それを青年は無言の肯定だと受け取った。
「現在、反乱分子を駆除している者がいる。……以上だ。オレはもうお前らを助けない。ここはお前らが守るべき国なんだから……」

 人々の間でこれからの方針を決定された直後に恵みの雨がもたらされた。それはまるで雨がこの国の人々を試していたのかと思われるようなほど絶妙なタイミングだった。
  
 青年と二人の姉弟、計三人は最小限の荷物を抱えて祖国へと向かっていた。彼らは徒歩で移動することが多いため、今回も太陽に照らされながら満足に整備されていない道を通った。
「う~~ん、やっと仕事終了かな~」
 そう言って背伸びした少女は一歩先を歩む青年に駆け寄り、喋りだそうとする。
「ウー……」
 言いかけた途端、少女は罰が悪そうな顔で口をつぐんだ。その様子に気付いた青年はすぐさま言葉を返す。
「別にもう名前を呼んでも構わない。国家権力が及ぶ範囲から出たからな。ニュンパエア、オレの名前が忌言葉だからって気にする必要はない。……マヌス、お前もだ」
 名前を呼ばれた少年は青年の背中にくっつくように歩いていたのだが、返事はなかった。
「あー、またこの子ってば歩いたまま寝ているよ。ごめんね、ウーア。あたしの愚弟がいつも迷惑をかけて」
「いや、そんなことはない。むしろ弟ができたみたいで嬉しい」
「だったらいいけど……」
 少女は言葉を濁し、弟である少年を一瞥した。その視線は温かいというよりも心配しているようだった。そして少女は何かを言おうとして口を開いたが、躊躇ったのか唇をきつく結んだ。
 青年は慰めるかのように優しく少女に声をかける。
「お前もまだ……悩んでいるのか」
「ううん、あたしは悩んでなんかいない。悩んだりしない。死んだら花実は咲かないもの。一視同心でいるだけじゃ、できないことだってある」
「オレは枯れた木だって好きだけどな」
「そんなのウーアだけだよ、この悪趣味」
「だが、その木を枯らすのはお前の役目だろ」
「あ、そう……だね。そうかも。あは……人のこと言えないか」
 自嘲する少女は空を仰いだ。
 空には雲ひとつなかった。一人ぼっちの太陽は燦々と輝き、荒れた大地を見下ろしていた。
「……この魔法って、あの占い師のものでしょ? すごいよね、天気を操るなんていう神業、あたしには真似出来ない。しかも肌が浅黒いってことは移民なのに」
「誰もが天候を操作出来たら大変なことになるだろう。自然の摂理に反する行為だからな」
「あくまでも他人事なんだね、ウーアにとって」
「お前もそうだろ」
「ふぅ、やっぱり敵わないなぁ。……ねえ、本当は今回の首謀者が誰だか知っているんでしょ?」
「ああ。あらかた目星はついている」
 青年は足を止めた。そのせいで真後ろを歩いていた少年が青年の背中にぶつかって起きてしまった。ねぼけ眼をこすり、半分しか開いていないそれで少女を見た。
「寝ていいよ、マヌス」
「ふわぁああぁ……うん……」
 そうして少年はまた夢の世界へと旅立った。
「くすっ……。あっ、笑っちゃだめかも。マヌスは結構根に持つし」
 柔らかい表情でいた少女は視線を青年に戻した。微笑んだまま話を続ける。
「マヌスは君といると安心するみたい。寝ながら動くのはよくあるけれど、何かにぶつかることはほとんどないもの。でもね、それが怖い……。あたしと君はいつか敵同士になって、互いの命を奪い合う日が来るかもしれないから」
「オレは……」
「可能性がないとは言わせない。あたしはこの仕事に誇りを持っているからこそ、そんな状況になっても逃げたりしない。……まさか、命は鴻毛よりも軽いと思ってないよね?」
 青年はその問いに答えず、明後日の方向を見ていた。


        


 断金の契り。断金の交わり。それらが結ばれていたならば、オレの前には違った未来が拓かれていたのだろうか。もし……そうならば、オレは……。オレは……。
「…………オレは」
「奏都、目が覚めたのか」
「……ん? 空義?」
 体を起こして辺りを見渡すと、勉強机用の椅子に空義が座っていた。彼は足を組んだまま本を読んでいたようだ。ここからではタイトルはわからないが難解なものに違いない。
 自分は右足だけ体育座りの様に曲げ、右手で後頭部を押さえた。
「あー、なんかくらくらする」
 手で押さえた所が若干痛い。痛む原因となった行動は思い出せない。
 空義が手元の本から視線を移し、一瞬だけこちらと目が合った。それが一瞬だったのは自分が先に目を逸らしたからである。別段胸に一物あるわけではないというのに、直視できない。
「大丈夫か? 随分寝ていたぞ」
 空義の言葉からひしひしと労りの念が伝わってきた。読書をしているように装っているけれども、自分が目覚めてから空義は一度たりともページをめくっていない。
「随分って、今何時? いやそれより、なんで空義がここにいる? 学校休んだ……って訳ないか。天と地がひっくり返っても、空義が学校休むなんてことあり得ねぇもんな」
 無遅刻無欠席無早退。自分にはよく価値のわからない塊を集結させたのがこの男、空義だ。小学生の頃は転校の手続きのせいで数日休んだらしいが、中学生の時に何食わぬ顔で三年間皆勤賞を受け取っていた。……うわ、だめだ。これ以上比較すると自分が惨めになる。
 ほらまた、この男は超然とした態度で言う。その言葉がどれほどの威力を秘めているかを知らずに。
「学校は二時間前に終わった」
「に、にじっ……っ! はぁ、急に頭が重くなった気がずる」
「……ずる?」
「衝撃で頭の螺子が一本抜けちまっただけだって! いちいち鸚鵡返しするな!」
「突っ込まなければ、お前がお馬鹿キャラとして定着しそうだからな」
「うぐ……。アリガトウゴザイマス、クウギサマ」
「見え透いた礼は要らん」
「うごーっ! 二回も足を掬われたーっ」
 こうやって騒いでいると何もかも忘れられそうな幻覚に陥る。それがたまらなく生きている気分を味わせてくれる。だというのに、どこか物足りない。穴は完全にふさがれていない。
 苦笑している空義は何かを鋭敏に察したのか、脱線したのを通常運行させられるように話を切り出す。
「奏都が睡眠に関して取り乱すのは珍しい。予測不能な出来事に遭遇したのか?」
「わっかんねぇ……。家に帰ったらパソコンに直行して、で、それから――」
 寝る前の行動を思い起こそうとしてみても、パソコンに向かった以後の記憶がなかった。だとしたら、なぜ自分はベッドの上にいたのだろうか。夢遊病だという選択肢を除いて、この状況から導きだされる答えは一つしかない。
「あ、もしかして空義が運んでくれたのか? あんがとな」
 やっぱおまえに合鍵を渡しておいて正解だった、と呟きながら自分はベッドから降りて背伸びする。ついでに首を左右に傾ける。あと、欠伸もしておく。
「ふはぁぁあぁ~」
 随分間抜けな声だと思った。それが人前で出来るということは他人に弱みを見せても平気だということの表れかもしれない。親友に対して〝他人〟という言葉を使用するのに抵抗はあるものの、〝赤の〟という形容詞がないだけも心が軽い。たとえどんなに仲がよい親友だとしても、自分以外の人――他人――であることに変わりないのである。
 思案をめぐらしているわりには締りのない顔つきで自分は空義に歩み寄った。
「何読んでんだ?」
 背後から声をかけてみたが、空義は全く反応しない。
「あちゃー。また一人だけの世界に入っちゃったかこいつは。……まあ、いいけどさ」
 耳を澄ますと聞こえてくる、ページをめくる音が心地よかった。
 やっと日常に戻れたんだという安堵と、あれは夢だったという寂しさの中を自分はぷかぷかと浮いていた。足元が地に着いていないかもしれない高揚感。だからこそ、地に落されるのは簡単だった。
「…………」
 突然頭の中が真っ白になった。一点を見つめたまま自分は呆け――、
「奏都!」
 空義の声を耳にした直後、自分の足は立つことが出来なくなり床から離れていた。しかし、何かに衝突した感じはなかった。空義が抱きとめてくれたのだろうか。そうでなくても、今の自分の体は鉛がつまっているかのように重かった。
 
 
 
 

2nd stage

 その頭はなにを記憶するのか



 空義から一枚のCDを受け取った二日後、自分の心は奇妙なくらい躍っていた。
 外に出ると、まだ早朝だというのに暑いと感じた。智帆が日焼け止めを念入りに塗っているのを目撃すると夏の恒例行事が始まったなと思う。だけれども身内の顔を見る度に羨ましいという視線を送ってくるのは正直言ってやめてほしい。そのせいで否が応でも夏は紫外線を意識してしまう。確かに自分の肌は白いが、もやしみたいでなよなよしているようなのでもう少し日焼けしたいところである。そんなことを言えるのは肌が白い人の特権だと釘を刺されそうなので、胸先三寸におさめておこう。
「うおっしゃ、今日も学校に行くか!」
 そう自分を奮い立たせた後、智帆が遅れて玄関から出てきた。
「めっずらしー。お兄ちゃんが朝から学校に行くなんてぇ。あっもしかして、ちーちゃんと一緒にいる時間を増やしたいの? だったら言ってくれればいいのに。お風呂だって布団の中だって一緒に!」
 体をくねくねさせながら智帆は独り言を始める。「いやだ、もう」とか「お兄ちゃんってばエッチ」とか聞こえてきた瞬間、自分は彼女を空気と同等の存在とみなそうと決めた。いや、比較するのは空気に対して失礼かもしれない。なぜなら空気は役に立っているのだ。一方、後ろでぎゃーぎゃー喚く子供は邪魔だ目障りだ。それでも消えろと言わないのは自分の機嫌がいいからだとしておこう。
 すたすたと無言のまま自分は歩く速度を上げる。
「ま、待ってよお兄ちゃんっ」
 待つ訳がない。もしも遅れてしまったら、こんなにも早く起きた努力が水の泡になる。
 腕時計で時間を確認すると、予定通りだった。流石自分と褒め称えながら先に行っているはずの親友の影を追う。彼を発見するにさほど時間はかからなかった。
「くーぎー!」
 小走りで追いつくと、彼はじっとこちらを見てきた。前を向いていないのに、ぶつからず歩けるとは器用な奴だ。無言で見つめられると照れ……いや、他意はない。ついでに自分は男色家でもない。
「……な、なんだよ。じろじろみたって面白くねーぞ?」
「…………ふっ」
「わ、笑ったな! 女に釣られた軽い奴だ、とか思ったんだろ。そうなんだろ ああそうだぜ、そうだとも。単純で悪かったな」
 今日学校に行く目的は勉強や単位ではなく先輩に会うためだ。簡潔で不純な動機が原動力である。空義の情報によると先輩は早起きらしく、この時間に行けば会えるかもしれないのだ。
「……安心した」
 空義の返答は予想と反しており、自分は虚を衝かれて頭の中が真っ白になった。
「お前が元気そうで」
 おまけに空義の微笑。歯は見えていないが、貴重な瞬間を目撃した。空義の笑顔が写っている写真を校内の女子に売ったらいくらになるだろう。財布が膨れ上がるのは期待できる。小銭や札で財布がぱんぱんだと何となく幸せになるものだ、人って。
「お、空義もそう思うか。いやーなんかさ、絶好調なんだよねー。走って息切れしないなんて何ヶ月ぶりだろう……。とにかく今日は機嫌もいいし、不可能なことはねぇ!」
「そうか」
 急に空義の返事がそっけないものに変わった。むしろ、先程までの反応が珍しいものだったのだ。
 それから学校に到着するまで空義と他愛のない話をした。校門を通ったあたりで歩いている先輩を発見し、声をかけようとしたが、失敗に終わった。なぜなら後ろから引っ張られていたからだ。物凄い力なのでお相撲さんでもいるのか(相撲部ってあったっけ?)と思って振り返ると、
「……お……にい……ちゃん」
 そこには涙目になっている智帆がいた。仮面である普段の愛敬笑いをやめ、深刻な面持ちをしている。
「こ……わい」
 だから何だ。自分には関係ない。構ってほしいというアピールが見え見えなんだよ。それぐらいじゃ自分は動かない。
 訥々と語る智帆を振り切ろうとしても、いかんせんシャツを握っている力が強すぎる。力ずくで逃げようとしても放してくれない。これは本当に智帆の力なのだろうか。女の力じゃねぇぞこれ。
 先輩の姿はどんどん小さくなっていく。これ以上離れたら見失ってしまう。
「放せよ、智帆!」
 智帆はぶるぶると首を横に振った。
「なあ、空義も手伝ってくれ」
「…………」
 舌打ちして隣にいる親友に助けを求めたが、空義は石像のように動かない。よく見ると、彼は正門から目を放さずに唇だけ小さく動かした。
 ハリブ。
 その言葉は強い印象を残す。ハリブ。カリブ海の間違えか? 学校に海なんてないから、地理の用語覚えとか。勉強熱心だなぁ。……とどのつまり、自分が気にすることじゃないか。 
 ちとりと空義が見ている方向――正門に目を向ける。そこには普段となんら変わらず学校と道路を仕切る門があった。
 いつものように教室には行かず、社会資料室で個人授業を受ける。教師のペダンディックにうんざりしては、こちらから難題を出すという逆襲をし、それを解けない彼らをせせら笑う。生徒を陶冶出来ない教師の授業を聞くなんて時間の無駄だ。もう来んなと唾を飛ばす。
 しかし、今日だけは違った。正確には午後から違った。
 購買のパン(ババアのお弁当は拒否している)を味わい、資料をあさって過ごした昼休みが終わりになる頃、二人の来訪者がやってきた。そのうち一人は名も知らない教師だ。真夏だというのに背広を着ている。見ているだけで暑苦しい。だから自分は顔を上げる気にもなれずに突っ伏し、た意識は別の方に逸れ始めた。ちなみにもう一人は紺と白のチェックブリーツを履いている。窓から入ってくる風でスカートはそよいだ。
 ……ん? チェックブリーツ?
 視線を少しずつ持ち上げていくと紺のラインが二本、袖と胸元に入っている半袖のシャツが目に入った。この時点で相手が三年の生徒であるとわかった。女の教師が若作りしていない限り、紺と白のラインが入っているシャツは、この学校では三年の証だからだ。ちなみに一年が赤と白で二年が緑と白。スカートの色は全学年同じ。男子に関してはネクタイに学年の色が反映される。
 顔を見た瞬間、自分は驚きを隠せなかった。思わず叫びそうになるのを堪えられたが、席を立ってしまった。
「せ、せせせ先輩。どどどどうしてここに」
 ここで何か言わなければならないと思ったのは衝動的に立ってしまったからである。立ったまま無言なのは失礼だろう。強いて何かを言うならば、トイレに行ってきますぐらいか。
 教師は螺旋羅に任せると言い、去っていった。小さな資料室に自分と先輩が残される。
 け、お邪魔虫めがと心の中で毒づく。やっとこれで先輩と二人っきりになれ――二人っきり?
 意識してしまうと顔面が紅潮した。二人っきりという言葉が頭の中でぐるぐると回っている。輪舞曲に合わせて踊っている。
「こんにちは。本日から特別講師となりました、螺旋羅汐世です」 
「先輩の名前ぐらい覚えていますって! それよりどうしてここに!」
「十日ぐらいのお付き合いとなりますが、よろしくお願い致します」
 先輩は律儀にもお辞儀をした。後輩に頭を下げるとは礼儀を重んじる人なのかもしれない。
「そんなことどうでもいいです。だからどうして先輩がここにいるんですか!」
「……私、あなたとお会いしたことありましたか?」
 それを聞いて目の前が真っ暗になりそうだった。三日前に出会ったばかりだというのに、忘れ去られたショックは計り知れない。心にぽっかりと穴が開いたような気分だ。その穴を埋めてくれる救世主・携帯がタイミングよくブルブルと振動する。五時間目開始を知らせるチャイムは鳴っていない。ということは、まだ授業は始まっていない。迷わず携帯を確認するとメールが一通きていた。宛名は空義だった。
『三年一組螺旋羅汐世がお前の勉強をみることになった。理由は二つ。お前が教師の手に負えないため。お前の学力に匹敵し、尚且つ就職希望である生徒が彼女しかいないため』
 現状を説明され、納得した自分は携帯を閉じて鞄の中にしまった。そして先輩に向き直る。
「こちらこそ、よろしくお願いします。汐世先輩」
 頭を下げると、
「あ……あなたは先日、生徒会の代理として来てくださった方ですか?」
 と先輩は思い出してくれた。
「はい、その通りです」
「忘れてしまい、申し訳ありません」
「いや、今思い出してくれただけで嬉しいです」
 それを聞いて安心したのか、謝るのをやめた先輩は三年である忙しさをおくびにも出さないで、自分の向かい側に座った。
 思い出してくれてくれなければ、きっと今夜枕を濡らしていただろう。
 だがこのままでは前途多難だ。先輩は自分を男として認識してくれていないようだし、何より会話が成立するかどうかも不安だ。
 勉強中に先輩を盗み見ると、彼女はずっとポーカーフェイスで何を考えているのかわからなかった。いや、現在勉強している内容を考えていることだけはわかった。
 今今という間に今ぞ無く、今という間に今ぞ過ぎ行く。
 それから自分の怒涛のごときアタックが始まった。

 七月中旬。
 報告。自分は前途多難なほど燃える性分らしい。
 登校、校内、下校……そのいずれの時においても先輩に偶然を装って声をかけた。天気やニュース、七月の始めにあった模擬試験の話を持ち出すと、先輩は相槌をしながら聞いてくれた。会話の中でさりげなく「先輩は美しい」とか「先輩が好きです」と言ってみても、先輩には届かず、さらりと受け流されてしまう。冗談だと思われているのか、それとも年下には興味がないのだろうか。後ろ向きな考えが浮かんでは消える。
「あきらめるな、自分。戦いは始まったばかりだ!」
「……っ!」
 立ち上がり拳を突き上げた瞬間、はっと我に返った。
 小さな悲鳴を上げた先輩は制止したまま動かない。そんな先輩の手から鉛筆が抜け落ちた。ころころと鉛筆は転がり、文字で埋め尽くされたノートの上に止まった。
「あ……ええと」
 静止したままの先輩は絵画に描かれている聖女のようだ。このまま持ち帰りたい、という衝動を抑え、この場を取り繕う言葉を考える。
「えーっと、これは……なんというか」
 頭の後ろを掻き、視線を泳がせる。空義や捺由とならば場の雰囲気を変えることなど容易で、思ってもいないことがぽんぽん口から出てくれるのに。
 生ぬるい空気が室内を満たす。先輩の匂い――柑橘系の香りが自分の心を落ち着かせる一方で、心拍数を上昇させる。
 結局良さそうな言葉は見つからなかったので、自分は椅子に座り、シャーペンを手にとって問題を解き始めた。先輩に変な人、と思われたかもしれない。勉強している最中に「戦いは始まったばかりだ」と言ったら不審な目で見られるに決まっている。できたとか解けたとかならまだしも、〝戦い〟だなんて大袈裟だもんな。
「さっきのは独り言です。気にしないでください。こいつ馬鹿だ、とか思ってもらってもいいんで!」
 ああ、何やっているんだ自分。惨めすぎて、空笑いもできない。
「……独り言だったのですね。私が至らないために難問と戦っているのかと思いました」
「そんなことありませんっ。先輩はとても丁寧に教えてくれています。教え方は、あの教師ら以上です。いや、先輩の隣に出るものは誰もいない!」
「…………お世辞が上手ですね」
「お世辞なんかじゃありません。本心です。先輩は色眼鏡で人を見ない。自分を一人の人間として見てくれる」
 先輩はぎょっとしたのか、顔を上げて瞬きせずにこちらに目を向けた。その視線で自分の体温は一気に上昇し、余計に暑くなった。でも、このまま見つめられてもいいと思った。
 やがて視線を外した先輩は手で口元を隠した。
「…………ふふ。それは櫻井さんも同じです」
 名前を呼ばれて心臓が跳ね上がった。今先輩は自分だけのために話してくれている。それだけで彼女への思いが募る。病気にでもかかってしまったみたいだ。この治療薬を誰か開発でもしてくれるのだろうか。そうしたら画期的だ。空義あたりが開発してくれないだろうか。
「櫻井さんは私の外見で何か気付きませんか?」
「何か……? んー、先輩は女性です。あと髪は銀色。光沢が眩しいです。あ、白髪だとか言いたいんじゃなくて」
「予想通りの反応です」
「そんな、自分は決して先輩の髪が白いなどと微塵も思っていません! 思っている輩がいたらブッ潰しに行きます」
「白い? ……違います。私が言いたいことは――」
 チャイムの音が先輩を邪魔した。発言のタイミングを失った先輩は、そそくさと帰り支度を始める。
 いつもならチャイムの音など気にも留めないのに、今回は恨めしかった。時間という概念でさえも自分の敵であるかのようだ。
 先輩が出て行ってから自分は支度を始めた。シャーペンと消しゴムを筆記用具の中に入れてチャックを閉め、ノートを閉じ、中から下敷きを抜く。鞄は開けっ放しだったらしい。携帯電話がまる見えだ。そのおかげで自分は携帯電話の微かな振動に目敏く反応出来た。
 一通のメール。宛名を見た瞬間、顔をしかめずにはいられなかった。
「智帆かよ。……ちっ」
『お兄ちゃん、今日一緒に帰りたぁい』
 ちゃっかりと語尾にハートマークまで付いている。どこまでこいつは他人の神経を逆撫ですれば気がすむんだ。自分は智帆の彼氏じゃない。お遊びは親衛隊とやれ。

 その日は空義と帰ることにした。生徒会や部活で遅くなる親友を気長に待つ。普段は時間潰しに寝たり資料を読んだりする。社会資料室を舐めてはいけない。地球儀や地図だけでなく戦時中の写真なんかもある。生徒会の仕事を手伝う時は基本、生徒がいない時間を見計らう。その甲斐もあってか、生徒会で顔見知りはほとんどいない。顔と名前が一致するのは会長を含めて片手で数えられるほど。
 帰り道、久しぶりに探検をしてみた。探検といっても、宝とかを探すのではなく、抜け道を捜索したり周りの風景に見惚れたりするだけだ。それだけで心が落ち着くし、何といっても楽しい。新しい発見をする度に感動が生まれるのだ。
 夕日が街を赤く染めると風景は一変する。プルキンエ現象という専門用語は置いといて、ただ単純に新たな一面を見られるんだ。例えば歩道のすぐ横に植えられた向日葵。聳え立つ姿が哀れに思えてくる。例えば鳥。鳴き声が空しさを誘う。
 もくもくとした入道雲を眺めるのも好きだ。どれぐらいの高さがあるのか測りたくなる。雲の長さを測るものがあったらいいのに。木だったら影の長さを測って比例計算をすればいい。けれども、雲に対してはその方法は使用できない。雲は動いているのだから、影の長さは正確に計測出来ない。むしろ雲の影の長さを測ろうとする勇者に会ってみたい。
 幸せだというのに胸がざわめく。満ち足りない、もっと欲しいと言っているようだ。
 ――ああ、またこれか。
「空義、ちょっと寄りたい所があるから先に帰ってろ」
「大丈夫か?」  
「はは、そんな子供じゃないんだからさ、一人で帰れるって。コンビニでアイス買って食うだけだし」
「……わかった」  
 こういう時、空義はいつにもまして物分りがよい。追究せずに従ってくれる。
 空義の背中はどんどん小さくなる。小さくなるのは背中の大きさだけで、滲み出る風格や自信は変化しない。
「いつから、一人にして欲しいって素直に言えなくなったんだろうな……」
 小さな呟きは周囲の雑音にかき消される。
 一人になった瞬間、アレが襲ってきた。眩暈がし、立つことでさえも儘ならない。激しい動悸は自分の心臓が何者かに捕まえられているようだ。
 日は傾き、影が伸びる。夕暮れは幻想的な雰囲気を醸しながら自分の心を侵食する。赤色系は昔の記憶を呼び起こす憎い色。目の前が血の色に染まっていると誤解し、恐怖に苛まれるからだ、と精神科の医師に診断されていた。だが、自分はわかっている。それだけじゃないと。
「……気持ち悪ぃ」
 付近に誰もいなくても四六時中監視されている気分になる。自分が歩く度に、そいつは自分との間隔を縮める。後ろを振り向いたら、そいつは背後霊のように立っているかもしれない。
 呼吸を浅くすると自然と落ち着いた。魚が餌を食べるかのようにしきりと口を動かす。自分は病気なんだ、と思えるからかもしれない。
 この醜悪な姿を笑えよ下衆ども。
 やがて闇の中から聞こえてくる笑い声が耳を打った。狂気に塗れたその声は、自分に人間の恐ろしさを教えたものだった。不快だ。汚い。人間なんて……醜い。
「うぐっ、……はぁ……はぁ」
 奥底に沈めた記憶が這い上がってきた。フラッシュバックするそれは自分を苦しめる。最終的には同じ問いに辿り着かせて。
 自分は一体誰なんだ?
 刃物を手に取り、犯人を殺した感触をまだ自分の手は憶えていた。なぜそんな行動をとったのか、今になっても見当はつかない。無理やりにでも結論付けるとすれば答えはただ一つ。自分でない何者かが心に巣食っている。それが本当の自分かもしれないと思うと、肌が粟立った。己が育てている化け物に畏怖嫌悪した。
「自分は……自分は」
 一人称を〝自分〟にすることにより、櫻井奏都としての人格を強く保とうとしていた。〝自分〟という言葉は当のその人を指す。私や俺などよりは流されずにいられる。
「自分はッ! ……げほっ」
 幼い頃の自分の凶行を見ていた人がいると思い始めるようになってから、身もよだつ恐怖が己を支配した。きょときょとと忙しなく周囲に視線をやってしまう。すると冷酷な人間達は不審な目で見返してきた。それで全身が戦慄し、視線を恐れ始め、ついには殻に閉じこもった。
 人々はそんな自分を引き篭もりと呼んだ。親の脛を齧っていると愚弄した。
「……その通りだよ、自分は」
 突如、世界が暗転した。ぐにゃりと視界が捻じ曲がり、針で刺されたような痛みが首筋に走る。
 あまりの出来事に目を瞬かせた。周囲に注意を払うと、そいつは道を挟んだ向こう側にいた。
 心臓が大きく鳴った。それからすぐに眩暈に襲われる。全身が竦み上がる。
 どうして、ここにいるんだ。どうして、おまえがここにいるんだ。
「見ぃつぅけた。あひゃあひゃあひゃっ、ソート君。オレ様に会えなくて寂しかっただろ?」
「くそっ、またテメェかよ。それに、自分は奏都だ!」
 下劣な笑みを浮かべたそいつは久闊を叙しながらも微動だにしない。こちらの出方を窺っているのだろうか。そうだとしても、このままだと殺される。 
 自分の足は行く当てもなく動き出した。
「ははっ、鬼ごっこかぁ? 勿論、鬼はオレ様だよな~。地の果てまでも追いかけてやるぜぇ。けっけっけ」
『おもしろき こともなき世を おもしろく すみなしものは 心なりけり』……か。
 今、この名言をとても恨めしく思った。他人のために。そう、他人のために弄ばれるというのが気に食わなかった。自分は全く面白くないけれど、膝は笑っていた。そんな状態でも逃げた。何があっても、こいつに捕まってはいけない気がするから。
 太陽は地平線に沈み、夜の帳が下りる。
 本当の恐怖はこれからだった。


 始め、どこにいるのかわからなかった。夜なのかと思ったが、違うみたいだ。夜の街の中であれば、少なくとも月明かりや街灯がある。どんなに田舎なところでも、遠くに明かりが見える。何もないということはここが光の届かない屋内であるという可能性が最も高いだろう。
「あのまま、寝ちまったのか?」
 あいつに追われたことは記憶している。その後は、よく思い出せない。あれからそう長くは経っていないはずだ。左手首を触れてみると腕時計の硬い感触は無い。腕時計を落とすとは、一体どんなことをしてしまったのだろう。
「無闇に動くのは危険か」
 やはり考え事は性に合わない。これからどうするか考えてみたが何も浮かんでこないので断念した。
「行くしかねぇよな、やっぱ」
 両手を伸ばしながら、のそのそと歩き出した。
 ここが自室でないことは明らかだった。いくら暗闇であっても住み慣れた場所を間違えるはずがない。
 目隠しをしている人ってこういう気分なのだろうか。だとしたら、盲目の人はどんな世界を見ているのだろう。真っ暗で足元もわからず、歩くこともままならない。
 誰かいませんか、とは怖くて言えなかった。どこに誰が潜んでいるかわからないため全身が総毛立つ。声を出すことは即ち、自分の居場所を相手に伝えてしまうのだ。
 歩いても歩いても、豆電球ほどの大きさの光さえも発見できなかった。ここは洞窟や地下なのか。それとも自分の目が節穴なだけか。後者の方が希望を持てる。あれ? 節穴っていうのは眼力のないことを罵っていう言葉だったような。……自問自答は、もういい。疲れるだけだ。
「……はぁ……なんでこう、はぁ」
 溜息を吐いても吐いても次々と溢れ出てきた。すでにテンションは落ちられるところまで落ちている。この溜息はそれを自覚させようとしているのか。悲しい時は悲しい曲を聴いたほうがいいという状況なのか、これは。いじめではないらしい。ってゆうか、夢の中でいじめられたいなんて思うほど自分はマゾヒスト・マゾヒズじゃない。
「なんで正式名称を知ってんだよ」
 思わず自分でツッコミを入れてしまった。
 好きこそ物の上手なれ、という言葉がある。自分の深層心理はそういうことに興味を持っているのだろうか。考えるだけで寒気がする。これ以上変な趣味を増やしたくはない。
「にしても、早くここを突破しねーと」
 光がないと気持ちがげんなりする。パソコンを使用している時でさえ蛍光灯はつけたものだ。視力の低下や何やらではなく、光に憧れるのだ。――これは引きこもりが言う台詞ではないな。
 足を止め、顔を上げた。頭上に何があるかは暗闇のせいでわからない。しかし、なぜか安心した。夜空が見えたならば、もっと心の支えになっただろう。
「……そう、だったけか」
 今、何を考えた。今自分は何を考えた。
「夜空が心の支え? ……んな訳ねぇだろ!?」
 それは怒号だった。壁を蹴ろうとした足が空振りする。
「オレの支えは、そんなもんじゃねぇっ。そんなもんじゃねぇんだよ!」
 手を差し伸べてくれたのは空義と捺由だった。二人がいればつまらない事物は面白いものに生え変わりした。そんな二人が一緒でない夜空など興味ない。これは四季のような気温の変化と違い、いちいち気にしなくても生きていける。それに二人がいなくて起こった手足の震えを、夜空は止めてくれるのだろうか。いや、そんなはずはない。
「なのに、……苦しいんだ?」
 この苦しみは動悸ではなかった。何か大切なものをを置いてきてしまったかのような空虚感があるから。
「どうしてこんなに自分は無力なんだ。悩むこともできねぇ……」
「そうですね。あなたは救いようが無いくらい無力です」
「だ、誰だ!?」
「失礼ですね。僕のことを忘れましたか?」
 その声に誘発されたのか、蝋燭のような小さな赤い光が列を成して次々に灯る。
 少しして自分は声の持ち主が誰だかわかった。目深にフードを被る人物は今のところ一人しか知らない。
「おまえ、イシ……なのか」
 イシは答えることなく、一点を指差した。
「向こうが出口です。そんなに距離はありません。なのにわからないとは、奏都さんの目は節穴ですか?」
「ちげーよ。本当に暗くて何にも見えなかったんだ」
「……暗い? まさか……そんな……」
 表情はフードに隠れてわからないが、イシは何かに驚いているようだ。
「どうしたんだよ? 陸へ上がった河童みてーな声だして」
「河童はどう鳴くんですか?」
「いーだろ、どうだって。河童なんて見たこともないし。ものの喩えだよ、喩え」
「…………僕、思い出したんです」
 イシは出会った頃と同じで、遠い所を見ていた。そして懐かしむような目のまま語りだす。
 自分はイシの話を邪魔することなく、ただ静かに立ったまま聞いていた。本当は座りたかったけれども、発言者だけを立たせているのもきまりが悪い。座れ、と言うのも話の腰を折ってしまいそうで気がひけた。
 話の内容は薄かった。というよりも簡潔だった。
「僕は夜空を見るのが好きでした。瞬く星、月の満ち欠け……。それら全て僕の癒しでもあり、拠り所でした。それに時々僕の傍に誰かがいた。僕はその人と語り明かすことも少なくありませんでした」
 無気力そうなイシの目に僅かだが強い光が灯っていた。
 ――ああ、これが彼を繋ぎとめているものなのか。

「もう少しで出口です」
 先導しているイシは振り返らずに前だけを見ていた。後ろをついてくる者への心配など一切持ち合わせておらず、こういう奴はリーダーに向いていないだろうな。
「……おいっ、待てって!」
 体に何かかが当たった。その冷たい感触が恐怖心を煽り立てる。
 蝋燭の明かりだけでは心もとなく、辛うじで壁や人影が認識できるくらいだ。立ち話をしていた時はもっと蝋燭の火が多かった気がする。いや、本当に蝋燭の火なのだろうか。爪の大きさもない火がゆらゆらと揺れている。
 イシは真っ直ぐ歩いてはいない。右へ左へとジグザグに動く。その姿はまるで蝋燭の火のようだった。小さく、儚い。そして時々揺らめく。傍から見れば睡眠不足でふらふらになっているようにも見えるのだ。
「……奏都さん」 
 やっとイシは振り返った。顎を持ち上げ、こちらと目を合わせた。
「ここから先にどんな困難が待ち受けていようとも、奏都さんは先に進みますか?」
「立ち止まっていても、ここじゃ気味悪いし。一刻も早く出たい」
「あの時のようだとしても? 眼前で殺戮が行われていたとしても、そうだと言い切れますか?」
 イシは知っている。あの赤いコートを着た女を知っている。
「先に進んだら、引き返すことはできません。第一ステージは迷い込んだ者を選別する場にすぎませんから」
「第一ステージ? よく出来た夢だな。ってことは、この先が第二ステージなのか」
 イシは視線を固定させたまま頷いた。
「……自分は行く、行ってみせる。はっ、その場で足踏みするのが嫌いな性質(たち)なんでよ」
「そうですか。別に構いません。また会えるならば、次の機会に。くれぐれも注意が散漫にならないよう――」
 光り輝く粒子がイシの体を包む。
「気をつけてください」
 弱弱しく嗄れていそうな声が耳に残った。
 この前と違い、先に場を離れたのはイシだった。彼が消えた原理など、どうだっていい。これは夢。ぶっとんだことがあっても不思議じゃない。むしろ、その方が現実では体験できないことの満載で飽きないじゃないか。
 方途は自分の前にある。そう信じて疑わなかった。

 出口は階段を上った先にあった。扉などは無く、ぎりぎり見えるぐらいの距離に誰かがいる。性別までは確認できない。突然襲ってきた眩暈を堪えながら、自分は歩いた。
 光が眩しい。目がちかちかする。その上、開けているのが億劫になるほど目が痛い。ビリッときて咄嗟に目を閉じてしまったが開かないわけにはいかない。閉じたままじゃ、どうぞ後ろからグサッと刺してくださいと豪語しているようなものだ。
 緑色に染まっていた世界が引いてから目を開ける。目に飛び込んできた光景のせいで自分は戦いた。身体の震えは恐怖からくるものだけではない。
「すげーっ! マジですげーよ!」
 白色に塗り固められた壁一面を鈍い光を放つ得物が取り囲む。この部屋の持ち主の趣味なのだろうか、ガラスケースなどには入れずに堂々と見せ付けている。
「これは剣だな。……おっ、槍か。自分とほぼ変わらない長さなんじゃねー? こんなもの、どーやって使うんだ? 手が滑って味方まで刺しちまいそうだぜ」
 真っ先に思い浮かべたのは焼き鳥だった。説明はグロいからしない。人間って不思議だ。だって生きている鶏を殺すのは躊躇うくせに、鶏肉は遠慮なく食べるのだから。
「鎌槍、月槍、菊池槍、薙刀なんかもあるのか」
 槍類は台の上に横向きにして置かれている。ちなみに槍の名称はゲームで憶えた。神話に出てくる物も幾つか知っている。
「……ごほっ。……う、けむい……煙草か?」
 そこでようやく、自分が夢中になっていることに気付いた。煙草は自分が嫌うものの一つである。体に悪いと知っていながらも手を出す輩の気が知れない。煙草をやめたら太ったという話はストレスを発散出来なくなったに過ぎないし、むしろ周りの迷惑を考えてほしい。以上、未成年者からの視点。煙草の吸殻を拾いまくったのはクリーン活動という学校の行事だったような、ないような。しばし逡巡。
「よう、坊や。やけに詳しいな」
 背後から声をかけられ、振り返る。いつからそこにいたんだ。さっきまでは、かろうじで見えるくらいだったのに、今こうして一人の男が後ろで葉巻の火を煙らせながら立っている。葉巻を実際に見るのは始めてだ。いやいや、重要なのはそこじゃない。どうやって男が自分の背後に回ったかだ。
「怯えなくてもいいぞ」
 いや、あんたの顔を見れば、どんな子供でさえ怖気付くに違いない。ガキ大将も尻尾を巻き、鼻水を垂らしながら逃げていくだろう。男は恰幅が良く、白い肌に灰色の髭を蓄えさせている。それだけならば人当たりのよさそうな爺さんかもしれない。茶色の帽子とコートがよく似合っている。問題なのは男が腰にガンホルダーを巻いていることだ。そこに銃が二丁ぶらさがっている。只者じゃない。
 男は腰に注がれている視線を察し、目尻を下げた。
「目敏いな坊や。しかも武器に精通しているようだ」
 含み笑いが怖い。もと来た道を引き返そうという考えが頭を過ぎる。しかし、もとの場所に出口は無い。外には出られない。
「どこから来た?」
 男は怪しんでいる。それもそうだ。不審な人物が屋内にいるのだから疑って当然だ。
「無理して言わなくてもいいぞ。ここにはそういう子も度々迷い込んでくる」
「え、でもここって武器庫ですよね。なのにどうして子供が?」
「坊やも子供だろう」
 子供じゃない、と反駁する気にはなれなかった。老化し始めている男にとって十代の人は子供だろう。
 男は目を細め、徐に周辺――武器の周りを回っている。
「これは……この歳になって収集趣味が湧いた。坊やは変だと思うか?」
「思いません。自分も武器は嫌いじゃないですし、使い方によっては人間を助けてくれます」
「ふむ。歳の割には考える力をお持ちのようだ」
「……馬鹿にしてんのか」
「滅相もない。子供は好きだ。それ故――」
 男は腰に手を滑らせる。葉巻が床に落ち、火が消えた。
「迷い込んだ子羊を返してやらなくては」
 男のごつごつとした右手に銃が握られている。銃口は真っ直ぐこちらに向けられていて、頭は真っ白になった。息をすることさえも忘れ、銃口に目を奪われる。かちかちとなる歯。がくがくする膝。嫌な汗が背中を濡らす。
「……坊やはどうする。子羊のように逃げ回るか。それともじっと耐え続けるか」
 似たような質問をイシにもされた気がする。イシは目の前で消えた。そうか、ここは夢なのだ。こんな簡単なことを見落としていた。
「下ろしてくれねぇか、銃を。おちおち答えられねぇだろ」
 自分は男を睥睨しながら強く言い放った。我ながら上出来だ。自分は震えているだけの羊じゃないんだ。
「……久々に骨のある坊やだ。オルキダケアエの選別は間違っておらぬ。試して悪い」
 豪快に男は笑い、右腕を下ろした。銃をしまい、朗らかに言う。きっと、人に銃を向けることを悪いなんて思っていない。こいつはその気になれば人を殺せる。
「我が名はアウルム。見ての通り武器商人だ」
 男は銃を握っていた右手を差し出してきた。握手を求めているのか。男の腹の底を窺い知れないため、少し迷う。それでも自分は差し出された手を握り返した。力を込めて握ってやると、それよりも数倍の力が返ってきた。やっぱり、この男(爺さん?)は只者じゃない。絶対なにかある。

 アウルムと名乗った男は人が入れるくらい大きなスーツケースを片手で持ち、のろのろと森の中を歩いていた。その足元には一匹の黒猫がいて、時々男の足に頬ずりする。猫のせいで男はスピードを出せないようだ。だというのに、油断も隙もない。背中に目があるのでと思ってしまうくらい威圧感を放っている。
 森の中は静かで物音一つしない。それがとても不気味であったため声を出そうと口を開く。
「その猫、あんたの飼い猫なのか?」
「そうだ。こいつはゲンマ。かれこれ一緒に暮らして数年になる」
「ふーん……」
 周りに目ぼしい物はなかったので、黒猫のゲンマを観察してみた。ゲンマの首には金色の首輪がかかっている。毛並みも美しく、飼い主が相当可愛がっているのだろう。それに男は歩いている間、猫をちらりと見もしない。つまり、猫のせいで男はスピードを出せないのではない。男がそうしたくて、しているのだ。普通なら足元不注意で猫の尻尾を踏みそうなのに。
 にゃー、とゲンマが嬉しそうに鳴く。
「なあ、どこまで行くんだ?」
 行き先を尋ねると、やはり男は前を向いたまま答える。
「それは秘密だ、坊や」
「企業秘密か。つまんねーの……って、武器商人に企業なんてないか」
 気晴らしに足元に落ちていた石を蹴った。それは当たりがよかったのか、飛んでいって茂みの中に隠れてしまい、退屈に逆戻りした。どこかに面白いものはないだろうか。例えば毒蛇がにょろっと出てきたり誰か人が倒れていたり。
「坊や、そんなに退屈か?」
 声をかけられ、自分は視線を男の背中に固定した。
「そうじゃないけどさ。こう……なんというか、自分を奮い立たせるものがないとやりがいがねぇだろ。そういうこと」
「それはつまらないということなのだろう。どうだ? ヒントをやろうか?」
「ヒント? 何の」
「目的地のヒントだ」
 目的地――。この男は一体、初対面の自分をどこに連れて行こうとしているのだろう。手に持っているスーツケースも気になるし、男は目的地と言った。裏にある意味を汲み取れば、漫ろ歩きしていた訳ではないことになる。
 じっと男の背中を見つめる。自分とは違い、がっしりした体格。背筋の良い姿勢。一度疑いを持つと、それら全て一種の凶器のように思えてくる。
 こいつは武器を持っている。こいつは武器を持っている。こいつは武器を持っている。危険だ、危険だ。危険だ。銃だけじゃない。体格差というハンデを持っている。子供の首を絞めるくらい、容易いことに違いない。警鐘が絶え間なく鳴り、懐疑心が自分の心を埋め尽くした。
「この先に街が見渡せる丘がある。そこで見える光景は絶景だ。なんたって――」
 商品が活躍しているから。
「……っ」
「どうした、坊や?」
「いいや、なんでもない」
 自分は無意識に足を止めていた。ここは森の中。足を動かすたびに木の葉を踏み、土に足跡をつける。物音がしなければ、立ち止まっていると思われても不思議でない。違う。気になるのはそんなことじゃない。空を仰ごうとしても、見えるのは聳え立つ木々の葉や枝。まるで空を見てはいけないかのような。
 これも夢なのだ。これ以上考える必要なんてない。異界で色々なものに流されていればいい。物語を楽しみ、現実では体験できないことを味わっていればいい。
「でも本当にこれは夢なのか?」
 風が止んだ。小鳥が鳴き止んだ。森のざわめきも収まった。足音は聞こえない。音がなくなった。男は歩いている。猫も歩いている。なのにどうして、こんなにも静かなんだろう。生命の営みを感じられないのだろう。無機質なものに囲まれている気分にとらわれるのだろう。
 何故――。
 自分の頬をつねってみる。
「いてぇよ……」
 ここが夢なのか、はたまた現実なのか。自分にはわからない。正常な思考を失っているのかもしれないが、何かがおかしいってことは理解できている。
「着いたぞ、坊や」
 男はそう言って、スーツケースを草の上に置いた。その傍らで猫は顔を洗っている。
「え……もう着いたのか?」
 明らかに変だ。自分は立ち止まってから、一歩も歩いていない。なのに森は無くなった。再び吹き始めた風が体を撫でる。さっきまで森があったので、体に直接風はあたらなかった。
 天を仰ぐと、そこには青い空があった。白い雲は変化しなからなびいていく。
 そうだ、この感覚は初めてではない。ほんの数日前に味わったんだ!
「もう騙されねぇぞ」
 声を張り上げ、男を指差した。
「ここは現実でも、夢でもない。アウルムっていったか? 爺さん。自分は帰る」
「はっ、どうしたんだ坊や。ほら下を見てみろよ。絶景だろ?」
「見たくない。どーせ、綺麗なもんじゃないんだろ。〝絶景〟という言葉は優れた景色を意味するんだぜ。決して、美しい景色を言い表していない。テメェはそういう意味で、敢えて〝絶景〟と表現した。……違うか?」
「がはははは……。活きがいいなあ、坊や」 
「その坊やっていう呼び方をやめてくれ。腹が立つ」
 風に乗ってきた火薬の臭いが鼻を突く。それに腐敗臭までまじっている。気持ち悪い。胃から込み上げてきそうだ。咄嗟に鼻と口を手で覆う。
「戦場を子供は知らぬ。だからこそお主は坊やなのだ」
 男はスーツケースから白い何かを取り出した。表面に光沢はなく、乾いた壁のように所々ひび割れている。大きさは人間の頭くらい。目の穴や鼻と口の穴もあったならば、人間の頭蓋骨にも見えそうだ。
「……ひっ」
 その白い物体には球が入りそうなほどの穴が二つあった。それから内部に空気が通って行きそうな穴もあった。そして最も大きな穴――まるで口のような――ボロボロの歯がこちらを噛み砕かんとついている。
 それが何であるのかわかり、思わず後ずさりをしていた。
 猫がスーツケーツに入っていた物を掘り起こし、まるで鞠のように転がして遊ぶ。
 見るな! 見てはだめだ!
 好奇心よりも恐怖が勝った。自分は森に戻ろうと踵を返す。
「どこに行くんだ坊や」
 ひどく冷たい声が背中を貫いた。
 だめだ。振り返ってはいけない。あいつは狂気の殺人犯。ほら、コリコリとしゃぶる音が聞こえる。
 見るな。
 ――繰り広げられているのは狂人の遊び。
 聞くな。
 ――耳を撫でるのはコリコリと何かを食す音。
「坊や、今更怖気づいたのか?」
 男は人骨を食っていた。それがあたかも当然の行いであるように、人骨を食べていた。
「こっちを見な、坊や。これは何だと思うか?」
 誘いに乗ってはいけない。これも男の策略なのだ。見てはいけない。振り返ってはいけない。でも振り返らずにいて、もしも男がこちらに銃を向けていたら――? 
 自分は敵に背中を向けた絶好の的じゃないか。
 振り返るか振り返らないか。大丈夫……いや、大丈夫ではない。この選択によっては自分は帰れなくなるかもしれない。
 ゴクリと唾を呑み込む。呑み込んだというのにすぐに口の中が乾いた。何か飲みたい。そう例えば赤色の――。
 何を考えているのかと頭を振る。だめだ、余計なことを考えている暇はない。
「坊や、見ないのか?」
 振り返るか振り返らないか。その選択が命運を決める。
「チッ、邪魔者が入りおったか」   
 男は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 これがこの男の本性だった。騙されずにすんで幸いだ。安堵していると、目が霞んできた。男の顔や空でさえも見えなくなる。やっと気味悪い夢から覚められる。
「奏都。生半可な気持ちで先に進むのは命取りだ」
 進むべきでない、と男は真剣な面持ちで言った。
 どいつもこいつも邪魔しようと言葉を投げかけてくる。罪のない人を、自分を、毒牙にかけようとしたくせに。今更心配するのかよ。アウルム、あんたも同じだ。
「テメェが言うな! テメェが!」
 ――安い信頼とか心遣いなんていらない。自分の選択は常に正しいって信じているんだ。


    
        


 こんなにも近くにいるのに、どうしてこの身を焦がす思いが伝わらないんだろう。手を伸ばせば触れられるのに。近寄ろうとすると、あなたは遠ざかる。触れようとすると、あなたは逃げる。わからない。あなたがあの人に思いを向ける理由も。そこまで気に入っている理由も。自分はもうあなたを理解できなくなってしまった。昔はあなたの傍を独占できたのに、一体どこで間違えてしまったのだろう。

「入るよー。……あれ? お兄ちゃん、寝てるの?」
 幸いにも鍵が掛かっておらず、奏都の部屋に侵入した智帆は椅子に座り突っ伏している部屋主の姿を発見した。起こさないよう最善の注意を払い、忍び寄る。床に散らばった教科書に足元を取られたが、なんとか持ち堪えた。
 ネットゲーマーである自堕落な奏都の部屋には至る所に紙が貼られていた。それらは全て日本史の語呂合わせであるが、智帆は興味がないのかインテリアぐらいにしか思わない。
「『肉なしの生活救った徳政令』……? 何それ、意味わかんなーい」
 フィギュアやポスターなどを想像していた智帆は肩を落とした。
 奏都は折りたたまれたノートパソコンを両腕の下に隠し、安らかに寝息を立てていた。その様子はまるで母親に抱かれて眠る赤ん坊のようであり、腕に敷いた物を外敵から庇護しているようであった。そんなにパソコンが大事なのかと、智帆は毒気にあてられる。
 そんな智帆の気も知らず、彼は無防備に眠りこけていた。不健康な青白い肌。さらさらな茜色の髪。その外見は明らかに智帆と違う。智帆の地毛は黒であり、無理して茶色に染めているのだ。
「い、今なら触っても怒られないよね? だって、ちーちゃんは悪いことしてないもん」
 そして、やおら手を伸ばした。
「……ぷに」
 人差し指で愛しき人の頬を突っついた智帆は、とある衝動に駆られもう一度触れる。
「ぷにぷにぷにぷにぷにぷに」
 肌の弾性力を活かした連撃が命中し、一本の指を通して生身の人間の温かさが智帆に伝わる。妹として、要するに恋愛対象外だと見られている智帆にとって、それは天国にのぼったような心地だった。
「夢なら覚めないで。あっ、お兄ちゃんは起きちゃダメ」
 自身の右頬をつねり、この祝福が夢でも妄想でないことを確認する。
「むむ。夢じゃない?」 
 そう口にすると心に何かが芽生えた。それは目まぐるしい速さで根を張り、葉をつける。これは夢でない。夢でないのに、恋焦がれる人物が目の前にいる。もう自分を止めることは出来なかった。
「……お兄ちゃん」
 胸が高鳴り、内奥が締め付けられる。いつも感じている恋心とは明らかに何かが違う。この状況のせいなのだろうか。それとも自身が陶酔し、錯覚しているだけなのか。
「お兄ちゃん」
 世を渡るために、甘い声で誘惑することは技術として体得していた。アイドルとして持て囃されるのは嫌いではなかったが、無関係なほど多くの人に愛されたくはなかった。彼女が愛されたいのはたった一人。この世の隅から隅まで捜しても、兄である櫻井奏都だけしかいない。
 智帆は腰をかがめ、奏都の耳元で囁く。
「ねえ……智帆はお兄ちゃん……ううん、奏都のことが好き、だーい好き。この思いは誰にも負けないもん。だって、始めて見た時から惹かれていたんだもの。智帆が〝櫻井智帆〟として生を受けた頃から」
 様々な感情が自身の抑圧下で渦巻き、せめぎ合う。愛する者の幸せを願う白と自らの幸せを願う黒が混ざり、曖昧な灰色と化す。
「わかってる……頭ではわかってるの! このままじゃ、彼がまた遠い所に行っちゃうって!」
 智帆は両腕で自身の体を抱いた。智帆の真情を吐露する声が増す一方、奏都は深い眠りについているらしく、まるで死んだように目を開こうとしない。
「長年一途に思ってきたのに、報われないなんて……そんなのヤだっ。欲しいものは力ずくでも奪う。それが智帆のぉ、ポリシーなのっ!」
 考えるよりも先に体は動いていた。
「奏都はちーちゃんのもの。誰にも渡さない……特に、あの目障りなアマには……」
 スカートに落ちた埃を払い、ゆらめく炎のように立ち上がる。そして影がぶれる――。
 智帆は手に最大限の力を込めた。奏都の呼吸が不規則になる。さらに智帆は笑いながら力を込める。奏都の呼吸音が止まった。
「! ……ッ、ぐ」 
 全て一瞬の出来事だった。
 奏都の首から両手が離れたのと同時に、智帆は後退し膝から崩れた。後頭部が壁にぶつかったが、痛みを感じる余裕などない。すでに他の痛みが智帆を支配し、体の自由が利かないのだ。
「智帆は奏都を殺したいの。だから動いてよ! 智帆の体!」
 体を動かそうとしても神経情報が別のものに塗り替えられしまい、脳からの指令が下りない。運動器官が持ち主の意に従おうとしない。
「もうあきらめてよ、マリザ! どうせ、彼は乖離症。すぐには目を覚まさない。やるなら今しかないの。今だけしかないの! それとも、これが大いなる意思だっていうの!?」
 嗚咽交じりの叫び声が部屋中に響き渡る。
「……はは……きゃははは……。智帆の人生をこーんなにもズタズタにしたくせに、今になって彼を生かそうとするの? そんなの虫が良すぎるってば……。ねえ、智帆の努力はどうなるの? 居場所をつくるために、愛されようとしてきたんだよ?」
 薄く開かれた赤錆色の瞳は曇り、周囲に振りまく小悪魔のような笑顔も今の彼女からは想像がつかない。彼女は頭を垂れ、内なる自分と対話する。
「こんな方法じゃ、努力がパアになるって? 今まで築き上げてきたものが全部崩れるって?」
 昔の記憶が深淵から呼び起こされた。忘れたかった事実が心臓を突く。自らを慰めるための涙など出なかった。すでに、恨むことに飽きてしまったから。
 憎んでも呪っても、智帆は現実から目を背けられない。
「あはは、智帆が折れればいいんでしょ? 折れれば」
 やがて智帆は立ち上がって奏都を一瞥し、踵を返した。
「選ばれし者よ。マリザは、かの土地で待っている……その時に決着をつけようぞ。己が命運を賭けて」
 と、言い残して。
 
 
 
 
 
 

3rd stage

 3rd stage:何を選び、何を得、何を捨てるか

 
 
 頭がぼーっとする。熱っぽい。何か込み上げてくる、逆流してくる。
「……うっ、げ……」
 吐いたのは何度目か覚えていない。ほらまた、ビニール袋の中に胃の中のものを吐き出した。急に吐き気が来るため、トイレに間に合わず部屋でやり過ごしてもう二時間ぐらい経った。
「はぁ……」
 携帯電話で日付を確認してみると土曜日だと表示していた。来週には終業式があり、それを乗り越えたら待ちに待った夏休み。たとえ夏休みに特別な予定がなくても、学校に行くという義務がなくなったので心が躍る。課題は、まあ……なんとかなるだろ。最悪の場合、空義に手伝ってもらえばいい。時間は腐るほどある。とりあえずまずは休みを満喫しよう。
「今日は課外か。けど学校に行く理由なんかねーしな。って、昨日は金曜だったのか。毎週見ている番組があったな。……うーん」
 唸りながら記憶を手繰り寄せても番組の内容を思い出せない。先週で止まっている。
「はぁ……見逃しちまったか。んまあ、有志達がネットで公開してくれるだろうから、いいや。落ち込んだってしゃーねー……っ」
 気を抜くと頭が、がんがんしてきた。誰かに叩かれているようだ。もしかして本当に叩かれていた? 寝込みを襲われた? ……そんなはずはない。妄想が甚だしい。
 ベッドから立ち上がると足元が覚束ず、倒れそうになる。なので這うようにして部屋の扉に近づき、鍵を確認してみると、
「っ! 開いてる……」
 誰が開けた? それとも自分が閉め忘れた?
 この部屋の合鍵を持っているのは空義と捺由と、あのうるさいババアだけだ。この三人の中で自分の頭を叩くような奴は(ババアにそんな勇気はない)いないだろう。いや、捺由は大歓迎だ。つまり彼女が回復したってことを意味するのだから。
「へっくしょん!」
 クシャミとともに鼻水がずるずる出てきた。ふらふらと机に戻り、ティッシュで拭いても鼻水は止まらない。一回で五枚もティッシュを使ってしまった。これこそまさしく資源の無駄だ。使ったティッシュの一枚を開いてみると、黄色い鼻水が付着していた。風邪だ。心の中で白旗を振る。病原菌に負けたのだ。今もなお白血球は戦っているようだが、潔く負けを認めて薬を飲んで休んだほうが治りは早い。
 課外は強制でないから、休んでも咎められない。今日は休むことに決めた。普段からサボっているけれど。薬でも飲んで寝ておけば、けろっと翌日には復活するだろう。
 パジャマから、だぼっとした私服に着替えて部屋を出た。一応鍵を閉める。開いている隙を狙って智帆に部屋を荒らされたらたまったもんじゃないからな。
 手すりにつかまって階段を下りると、見たくない人物と鉢合わせしてしまった。こいつと朝から顔を合わせるなんて、胸糞悪い。今日は最悪な一日になりそうだ。
 向こうも自分に気付いたのか、皿を運ぶ手を止めた。
「珍しいわね、奏――」
「軽々しく呼ぶんじゃねぇ! テメェみたいな穢れた奴が口にすんな!」
 暴言を吐くと、そいつは言い返してこない。黙ったまま、そそくさと料理をテーブルに並べ始めた。泣かないだけでましだ。びくびくされると、かえって余計に怒鳴りたくなる。
 薬箱は台所にある。冷蔵庫にあるペットボトルの水を注いですぐに薬を飲めるという配慮からだ。そんな配慮、誰のものなのかは知らないが。
 食べ物のにおいが充満している。ババアが作った料理は出来立てらしく、スープから湯気が立っていた。でも、美味しそうとは思えない。あのババアが作ったものだ。何を企んでいやがる。そんな方法で仲良くなれるとでも思ってんのか。馬鹿め、自分は餌付けなんてされねぇんだよ。
 そんな決意は、せり上がってきた何かのせいで心の奥深くに沈んだ。
「う……」
 吐き気だ。気持ち悪い。気持ち悪い。
 片手で口を塞ぎ、逃げるように階段を上がって部屋に戻った。こんな状態では台所――薬箱まで辿り着けない。だからといって、ババアや智帆に薬を持ってこさせるという真似はしたくない。
 霞む目に飛び込んでくるのは偉人の言葉たち。それら全てが自分に活力を分け与えてくれる。綺麗な言葉なんて要らない。今自分に必要なのは実用的であり、真理を説いたもの。
「……はぁ、はぁ……どう、しよーかな」
 引きこもっていることへの罰が当たったのか、動悸がし始めた。元々体力がない方だとは薄々気付いていたが、今回は深刻だ。
 窓の外へと目をやる。太陽が照っていて暑そうだ。見ているだけで萎えてくる。汗をかくのは嫌いだ。汗をかいている人とすれ違うのも嫌いだ。
「好き嫌いなんて、言ってられねぇか……」
 行こう、病院へ。このままでいることのほうが悪夢だ。
 思い立ったが吉日。早々に準備して家を出た。

 夏は暑い。そんなの当たり前だ。小学生だってわかる。しかしそれは普遍的な事実ではない。冷夏なところもあれば、一年中寒い地域だってある(その逆もあるが)。今まさに、自分はそんな場所にいた。
「気持ひ~」
 顔の筋肉が弛緩して〝ち〟が〝ひ〟になった事は大したことじゃない。
「エアコン、最高~」
 自分の部屋にエアコンがないため、ここはまさに天国に思えた。悪夢なんて払いのけて天国に来たよ。
「いけね、まだ死にたくねぇぞ」
 正気を取り戻した自分は背筋を伸ばし、開きっぱなしの足を閉じて気を引き締めた。さっきまでの気が緩んだ姿を空義に見られたら説教される。間違いない。ただ完全に閉じると女性みたいな気がしたので足は肩幅ぐらい開いておいた。
 気を引き締めていると、あの吐き気が襲ってきた。これだったら天国気分に浸っていた方がましだったかもしれない。
 吐くな、吐くな、耐えるんだ。自分なら出来る。大丈夫だ、耐えろ……!
 ここは病院の待合室。もし吐いたとしても、嘔吐物の処理は看護師あたりがやってくれるだろう。だが、周囲の視線は自分に注がれる。それはなんとしても避けたい。
 病院の中は静かで足音が響き、自動ドアが開いたり閉まったりする音も鮮明に聞こえる。テレビの音は雑音。老化なんてまだ自分には関係ない。事務が名前を呼ぶと、その名前の持ち主が立ち上がり、処置室に行ったり会計をしたりする。
 軽々しく名前を呼ばれるなんて不快だ。名前は大切な人にだけ呼ばれたい。
「う……」
 生暖かいものが喉にまで上がってきた。それを抑えようと手で口を塞ぐ。せめてハンカチを使えば良かった。後悔しても遅い。手を離したらすぐにゲロゲロ吐きそうだった。このままやり過ごすしかない、と腹をくくった時だった。
「お兄ちゃん、大丈夫……?」
「っ!」
 自然と周りを見ないようにしていたためか、近くに来ていた女の子の存在に気付かなかった。
「とても、つらそう」
 彼女は無垢な目で自分を見てくる。なぜか悪いことをしている気分になってしまい言葉が詰まった。
「どこか、わるいの?」
 真っ白い病院服に目がいき、彼女の言葉なんて耳に入ってこなかった。それは、あまりにも浮いていて。こんなに幼い子が入院しているのか。神様はなんて意地悪なのだろう。
 恐らくこの女の子は自分よりも善である。嘘や罪で汚れず、長い間入院していたのだろう。病院の中で笑っている子供は何も知らずにいるか、逆に知りすぎて精一杯生きようとしているかのどちらかだと思う。例えば、幼い糖尿病患者でさえ、痛がらずに注射を自身にする。彼らにとって、それが日常であり当然であるから。
「いや、君よりは悪くないよ」
 それが初めて彼女に向かって放った言葉だった。
「わたし……よりも? お兄ちゃん、わたしがどれくらいだかわかるの?」
「ああ、わかるさ」
 自分がそう言うと、彼女は自分の隣にぽすっと座った。床につかない足をぶらぶらさせている。隣で見ると、余計に幼く見えた。丸い顔立ちに、大きな目。手足も短く、五から六頭身。おまけに無邪気で危険を顧みない行動。まるで――、
「……未就学児みたいだ」
 妹と比較して、この女の子は幼稚園生だろうという結論に至った。小学生になったならば、見知らぬ人に声をかけるなとか教わるはずだ。登下校に連れ去られたらたまったもんじゃないからな。幼稚園生とストレートに言わなかったのは、この子が意味を知らないと思ったからである。しかし、女の子は自分の予想の遥か上をいっていた。
「ピーンポーン。だいせーかい」
 透き通る高い声で彼女は答えた。それから興味深そうに目を輝かせ、自分をまじまじと見つめてくる。逃げられない、と自分は悟った。質問攻めにされるだろうな、という直感は見事に的中した。
「ねえねえ、お兄ちゃん。びょういん、はじめて?」
「いや、何度も来たことはあるぜ。予防接種とか……んまあ、そんなとこ」
「よぼうせっしゅ……?」
「感染症の予防のためにワクチンを体内に入れることだよ」
「かんせんしょう……わくちん……」
「知っているか?」
「ぶーぶー、しってるもん。たしか、かんせんしょうは……さいきん、ういるすなどのかんせんでおこる、びょうき」
 誰かの受け売りのような言葉をたどたどしく話す光景は滑稽だが、笑わないように努めた。病院で笑い声でもあげてみろ。周りから睨まれ、看護師や医者に注意されるに決まっている。つまらない質問を真面目に答えてくれるなんて可愛い子だ。
「……智帆もこんな子だったな」
「ちほ? ちほってだあれ?」
「妹だよ」
「かわいい?」
「うん」
 妹が可愛いことを認識して少し照れる。そうだ、可愛くて家族として好きだったから守ろうと思ったんだ。だというのに、自分は――。
 これ以上思い出してはいけない。辛くなるだけだから。思い出に鍵をかけましょう。ふとした瞬間に思い起こさないために。

 暫くして自分の名前が呼ばれた。やっとこの女の子から開放されると思って立ち上がると、腕をつかまれた。といっても幼児の力なんて高が知れている。力ずくで放させるのは容易だ。でも大人気ない。ここは会話に挑むことにした。
「悪いけれど、行かなくちゃならないんだ。……放してくれない?」
 女の子は首を振る。
「ダメ。いかせたら、あなたもヤスもしあわせになれない」
「ヤスって誰だ?」
「……? まだあっていないの?」
 会話は上手く噛み合っていない。ヤスという名前に聞き覚えがあるような……ないような。もしかしたら今までのクラスメイトの中にそんな人がいたのかもしれない。あるいはアニメや漫画やゲームに。
「多分勘違いだ。自分はヤスなんて知らない。放してくれないか?」
 何かに心を痛めている様子の女の子は、そっと手を放してくれた。もじもじとした表情で自分の顔を見つめたまま、
「Memento mori」
 と言い、小さくお辞儀をしてからパタパタと走り去った。逃げ足は速く、すぐに見えなくなる。彼女が靴を履いていたことに今気付いた。きっと外出許可が下りた喜びで靴の履き心地を確かめていたのだろう。
 対照的に自分は静のままで、立ってから一歩も動いていなかった。
「……死ぬ事を忘れるな……? って、は? そんな言葉知ってたっけ」
 ポリポリ頭を掻く。
 女の子につかまれた手の平を見てみると、そこには赤い丸のシールが数枚貼ってあった。血まみれのようで気味悪くなり、全部剥がして病院のゴミ箱に捨てた。
 赤い丸のシール。それは自分の手が赤く染まったときのことを思い起こさせた。子供の悪戯だと自分に言い聞かせながらも、無性に気が立っていた。

 診察結果は、異常なしだった。聴診器をあてられたり、喉の奥をみせたり、オマケのような簡単な会話で原因をわかるかは疑問符だが、念のためということで解熱剤や精神安定剤の処方箋を出してもらった。薬をもらうことについて自分は気乗りしなかったが(精神安定剤をもらう理由がわからない)、断るのも面倒なので大人しくもらっておくことにした。さて、薬代は誰に請求するべきかな。
 待合室に戻ると、あの女の子の姿はなかった。もやもやした別れ方だったので最後の言葉の真意を聞いてみたかったのだが、いなくては仕方ない。時計に目をやると、あと少しで正午。朝から災難が多いせいで苛立っている中でもお腹は正直で、病院から出るとぐぅ~っと鳴った。
 腹減った、と呟いていると空義の顔が浮かんだ。土曜の課外は午前中だけだ。もしかしたら家に帰って昼飯を作っているかもしれないという期待で胸が躍り、居ても立ってもいられなくって、足早に黛家へと向かっていた。すでに吐き気はなくなっていたため、自分を抑えようとするものはなにもなかった。……なかったはずだった。

 翌日、ベッドの上で目を覚ました。気分は昨日よりも楽で、寝起きはとても良い。気持ち悪さとかはないし、二度寝しなくてもすみそうなほど瞼が上がりきっている。いわゆる活動日だ。こういう日なら、いろいろと捗るだろう。もしかしたら二倍速で行動できるかもしれない。五十メートル走のタイムが半分になったり、授業時間が半分になったり。
「あれ? 体感速度が遅くなったら、授業を短く感じるんだっけ。どう足掻いたって授業時間は変わんねえから、二倍速の方が損なのか? てっか、二倍速で動くのは自分じゃなくて時間? いやいや、それじゃ授業は短い……?」
 頭がこんがらがってきた。もうどうでもいい。気にしていても埒が明かない。
「月曜だったら実践できるんだけどな……。生憎今日は日曜だっての。ついてねぇーなぁ」
 ベッドを降りて、南窓のカーテンを開けると日が差し込んできた。じんわりとカーテンも温かい。外は暑そうだ。こんな日こそ家に閉じこもってぼんやりしたい。あるいは冷房の効いた部屋でのんびりしたい。
「は、実は月曜だったりして。んなわけないか。一日ずっと起きていたことはあるけれど、流石に一日寝っぱなしっていうのはなかったもんな」
 だから今日は日曜だ。学校は休みだ。そんな日曜だ。日曜日……? 本当に今日は日曜日なのか。土曜日の次は日曜日のはずだ。それは常識だ。土曜日の次は何曜日かと尋ねられたら、幼稚園生だって元気よく「にちよう!」と答えるだろう。
「今日は……いつなんだ」
 携帯電話を見れば日付なんてすぐにわかるだろう。だというのに、そのことが酷く恐ろしい気がして出来ない。画面を見て日付を確認する……いいや、携帯電話に触れることでさえも億劫に感じてしまう。それだけでなく、机の上にあるパソコンを視界に入れるのも耐えられない。今までこんな風になったことはなかった。一時期あった、智帆のメールの嵐以外には。
 無言のまま頭を掻き毟る。髪型が変になってもどうせ家から出ないので気に留めない。その後暫く、ぼーっと部屋の中を眺めていた。とめどなく溢れてくる無気力感のせいで動きたいとは思わなかった(無気力って何もないからなのか? 溢れてくるものではないかもしれない)。ただ時間だけが過ぎていく。
 しかし、過ぎた時間はものの数分。廊下を走り抜ける音で自分は突然、現実に引き戻された。
「…………うっせぇな、くそ」
 呟くと、足音は止まった。雨がやんで欲しいと願ったら雨がやむ……みたいな現象が起きているのか、と自分の新たな能力に気付いた……わけないか。偶然だ偶然。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんってば!」
 ドンドンと誰かがドアを叩く。空耳だ、と思い過ごしたかったが、耳障りな声と音は自分の思考を邪魔してくる。
「開けて! 開けてよ!」
 智帆だ。こんなアホな真似をしてくるのは智帆しかいない。用件があるならばドア越しで言ってくれればいいくせに。どこにもドアを叩く必要はないし、まして開けてほしいなどとは言語道断。自分のことを女王様か何かと思っているのだろうか。もう、やめてくれ。おまえはすでに高校生なのだ。そろそろ大人になってほしい。
「そこにいるんでしょ。だったら開けてよっ」
 哀願しているような声は聞き飽きた。騙されるものか。智帆は自分の味方ではない。平穏や秩序を脅かす敵だ。だから自分がこうして部屋に篭っているのは防衛のためである。ドアを開ける気など露もない。正当防衛は認められるはずだ。
「…………開けてよぉ。智帆を一人にしないで」
 は、テメェには親衛隊がいるじゃねぇか。あんなにちやほやされて一人にしないでって、一体何人いればおまえは一人じゃないと思えるんだ。十人か? 百人か? それとも千人か?
「怖いんだもん。また、誰かいる……」
「智帆。よく聞け」
 低い声で名前を呼ぶと、智帆はドアを叩くのを止めた。
「お兄ちゃん……?」
「テメェの被害妄想に付き合うほど自分は暇じゃない」
「ち、違うもん! 妄想じゃないもん! いるの……後ろにいつも誰かいるの! 本当だよ、信じてよ。智帆を信じて……」
 もしも智帆と向かい合っていたならば、自分は冷たい目で見下ろしていただろう。
「どうせ、親衛隊かなんかだろ。ごっこ遊びに付き合わせるな」
「…………っ! ……なんで、どうして、智帆を信じてくれないの? みんな、みんな、わたしを疑う。嘘だって言う。でも、わたしにはわかるの。大地の息遣いが……厄災を知らせる警鐘が。偽りの世界などいらない。わたしは世界の耳……わたしは終焉を望む者……」
「智、帆?」
 何かが破裂するような音がして、ドアだけでなく部屋全体が震えた。やや遅れて気がついた、智帆がドアを蹴ったという事実は想像もつかないことだった。
「いいもん、お兄ちゃんなんてストーカーに刺されちゃえばいいのに」
 智帆の鷹揚のない平らな声を耳にし、身の毛がよだった。ストーカーが刃物を持っているとかはさほど重要ではない。第一、ストーカーとは限らないんだ。たまたま刃物を手にしたまま家を出てしまった主夫かもしれない(ある意味恐ろしい。三枚卸にしてやるぞ、みたいな)。それよりも、気になったのは智帆の言葉だった。彼女の『わたし』という台詞を聞いたのは何年ぶりだろうか。
 自分を縛り付ける何かのせいで、暫くその場から動くことが出来なかった。
 昼頃、一通のメールがきた。空義からだった。日付は無視して、メールを開く。
「なになに……『学校に来ないのか』? 学校って、今日は日曜だろ」
 日曜に課外はない。だとしたら。
 目をこすり、携帯電話の画面を凝視した。そこには(月)と書かれていた。画面もこすってみたが、月曜日という表示は偽りのないものだった。ついでにパソコンを立ち上げてみると、月曜日だと表示されていた。
 空白の一日。
「月曜だって……!?」
 その現実を受け止めることがどうしてもできなかった。
 思い返してみると、異変は少なからずあった。記憶が曖昧になったり、やけに眠かったり。でもそれは疲れている所為だ。特に変な夢を見るようになってから、そうだと思い込ませていた。
 オルキダケアエ。彼女は戸惑っていた。子供が好きという言葉は嘘ではないだろう。明確なヒントを出していたのは、仕事だと割り切っていた彼女の本心だったのかもしれない。
 アウルム。腹の中がわからない老人。武器商人と名乗ってはいたが、武器を使われて喜んでいたあの姿のほうが頭に残っている。まるで戦いを楽しんでいるようだった。同時に幾つもの正念場を乗り越えてきたかのように堂々としていた。
 そしてイシ。常に何かを哀れむように憂いを帯びる瞳は、こちらに助けを求めているようでもあった。自分が何かしなくては、と思ってしまうのは年上だからか。彼の年齢など知らない(夢に出てくる人に年齢という概念があるかさえも不明)という事実なんてそっちのけで、こうして悩む自分がいる。
 他にも忘れているような気がする。忘れてはならない人が他にもいたはずなのだ。胸の痛みがズキズキとまでいかないのは、忘れていることを忘れてしまっているからなのか。
「……今、自分がしないといけないことは何だ? やらなくてはならないことは?」
 心に開いた穴に気付いた瞬間、居てもたってもいられなくなってしまった。
 自分は知らなくてはならない。自分から行動をおこさなくては。
 固い決心とともに、自分は机に向かった。パソコンを隅に寄せ、シャーペンと消しゴムを筆記用具の中から引っこ抜き、手近にあったノートを広げて文字を殴り書きした。
『疑問のまとめ
  ・近頃の身体の不調の正体は? 
  ・捺由の植物状態との関係は?
  ・智帆の一連の行動(ストーカー事件を含め)
  ・イシは一体何者?』
 書き終わった後も、ノートとにらめっこを続けた。小言を追加しようとシャーペンを動かそうとしたら芯が折れた。
「自分は……向き合わないといけねぇのか?」 
一連の事件が自分のせいだったならば、自分の行いのツケがまわってきたのだとしたら、これほど罪悪感を覚えずにはいられない。ひきこもり、ひきこもり……。違う、自分のせいじゃない。自分は何にも関わっていない。関わらないために一人になったのだ。学校に行く意義を見出せなくなり、クラスメイトと一緒にいる楽しみを得られず、己のために生きていこうと必死に勉学に勤しんだ。ゲームは気晴らしに過ぎない。逃げ道に過ぎない。
「逃げるのはやめたくせにっ! あいつと会ってから、どこまでも戦おうと決めたくせに! 何もできないのかよ……」
 目の奥がつうんとする。でも、泣きたいとは思わない。逃げることは、とっくの昔にやめたんだ。空義も捺由も自身の能力に向き合い、それを伸ばしてきた。今ここで、未熟な自分が涙を流すのは彼らの努力への冒涜。乗り越えなくてはならない日が来たんだ、と喜ぶのが先決なのではないか。
                   
Fotuna divitias auferre potest,non animum. 
 Non solum fortuna ipsa est caeca sed estim eos facit semper adjuvat.
 Veri amicirari.
 Nisi in bonis amicitia esse non potest. 
 Boni improbis,improbi bonis amici esse non possunt.          
 Curatio vulneris gravior vulnere saepe fuit. 
 Nemo ante mortem beatus.         
 Certa amittimus dum incerta petimus.
 Nec posseum tecum vivere,nec sine te.

 運命は財産を奪うことはできるが、心を奪うことはできない。運命は、それ自身が盲目でいるだけでなく、常に助ける者たちを盲目にする。 
 真実の友人はまれである。善人以外の人間において、友情は存在しえない。善人は悪人にとって、悪人は善人にとって、友人であることができない。
 傷の治療は、しばし傷そのものより大きな痛みをともなう。
 だれも死ぬまでは幸福ではない。
 われわれは不確実なものを求める間、確実なものを失う。
 私はおまえとともに生きていけない、おまえなしに生きていけない。
 
 頭に流れ込んでくる幾つもの言葉が、今の自分を祝福しているように思えた。
『やべ、今日日曜だと思ってた。すまんすまん』
 ボタンを押して、空義からのメールに返信する。
『謝る必要はないが、先輩はいいのか?』
 先輩?
「先輩って誰だ?」
 年上の友人はおらず、顔見知りである生徒会長も仕事以外で話すほど仲良くはない。先輩。それは誰であるのか。空義に聞こうと思ったが、聞いたら聞いたで頭がおかしくなったと言われるのがオチだ。コトン、と携帯電話を机の上に置く。
「どうなってるんだか」
 深く溜息をついた。



終業式の日、普通の生徒よりも遅れて学校に来た。職員室に向かい、夏休みの課題通知表受け取ると、足は生徒会室へと向かっていた。
「くーぎー? いるのかー?」
 と、開けっ放しのドアから入ると、声をかけられる。
「……彼はいません」
「え?」
 空義は確かにいなかった。元々生徒会室は片付いているため、かくれんぼできるような場所はない。少し待っていたら来るだろう。
「こんにちは。櫻井さん。一週間ぶりでしょうか」
 先客――銀色の髪の少女は薄く微笑んだ。
 自分は返事もできず、棒のように突っ立っていた。言葉を発しようとしても喉につっかかっているようで、ただ唇を噛み視線をそらす。唇を噛んだ理由は自分でもわからない。やましいことは何もないのに。
「櫻井さん。私が誰だか分かりますか?」
 窓に背を向けるようにして立つ少女は、柔らかく包容力のありそうな口調だった。その言葉のせいなのか、どうしても嘘を言う気にはなれない。知ったかぶりをすることはできない。
「…………わからない。おまえは誰だ?」
 訝しむような目を向けると、彼女は顔色一つ変えずに独り言を始める。時期……乖離……などという単語が耳に入っても、訳の分からない自分は居たたまれなくなるだけだった。変な人がいると思い、そそくさと部屋から出ようとした時、
「待ってください。一つだけ忠告を」
 と、呼び止められて自分は振り向いた。少女は焦燥に駆られているのではなく、穏やかに顔色を変えずに口を動かす。その仕草をどこかで見たことのあるような錯覚に陥り、自分は視線を泳がせた。
「ハリブは外で貴方を待っております。……ご武運を」 
 ハリブ? そんな奴知らない。変わった名前だ、言いにくくて噛みそうになる。
 この状況が理解できないのは、自分が救いようもないくらい馬鹿だからだろうか。それとも彼女の方がおかしいのか。誰か判断してくれよ、本当に。
「私は生徒会に用があっただけですので、お先に失礼します」
 そうして一礼し、彼女は部屋から出て行った。
「……お先にって、自分の方が先に出ようとしていたのに、おまえが引きとめたんだろうが」
 こぼした愚痴を聞いてくれる者はいない。空義はまだ仕事が残っているのか、指定された時間になっても来ない。二十分ぐらい経ち、維持を切らした自分は生徒会室を跡にした。
 校舎内では、ほとんど生徒を見かけなかった。終業式で学校が午前中のみだったためか、せいぜい吹奏楽部が楽器を演奏しているぐらいだ。すれ違う人の数が少なくて、自分の心は軽い。視線という制約に縛られず、鼻歌を歌うことさえできる。
 ちょうど、とある曲のサビにさしかかったたりで昇降口についた。すでに用を終えたので、後は帰宅するだけだ。空義の用件はメールで問えばいいだろう、上履きを脱いで鞄の中に押し込み、革靴をとると、奇妙な感覚がした。それは音だった。ピーという耳鳴りに耐え、数秒後何事もなかったかのように靴を履く。耳鳴りは稀にある。難聴ではないから、一時的なものだろうと楽観しておこう。鬱病や神経病の症状としても耳鳴りは起きるようだが、そんなはずはない。鬱病? 神経病? 自分は、いたってまともだし、結構外に向かって表現するほうだ。そのような病気に縁などない。
 昇降口は静まり返っていた。そんな中で自分の足音は空しく響く。
 正門まで距離は然程ない。のんびり歩いても苦じゃない。やかましい蝉の鳴き声に付き合ってみるのもたまには風情があっていいだろう。
 遠目で見ても、正門付近に誰かがいるのはわかった。あれが銀髪少女の言っていた『ハリブ』か。随分体のスケールが大きくねぇか? こえー。喧嘩でも売りにきたのかよ。智帆の親衛隊か、あるいはストーカーの犯人か。暴力沙汰を覚悟しておくべきかもしれない。勿論自分は戦えないから殴られたら土下座して命乞いするけどな! 面子なんてどうでもいい。命を守るためにはどんな醜いことだってしようじゃないか。
『ハリブ……』
 久しぶりに自分ではない声が耳を打った。どこか哀愁を帯びた声は普段自分を惑わし、執拗に語りかけるものとかけ離れていて、調子が狂いそうだ。幻聴を何度も聞いてしまうと、幽霊が喋っているのかではないかと慣れてしまう。慣れたくはなかったけどな。苦笑していると次の衝撃が体を打った。
『体を貸せ』
「は?」
 反論する間もなく、意識は塗り替えられた。
 
 
         *
  
  
「よう、ハリブ」
 夏だというのに涼しい顔をした奏都は、正門にいた大男に馴れ馴れしく声をかけた。大男といっても、実際は身長百八十ぐらいであり、近づき難い雰囲気を漂わせているだけなのだが、高校生とは思えない立派な図体をしていた。
「いい歳して高校に入り込もうなんて、やっぱり頭がかてぇな」
「…………」
「ハリブ。黙りを決め込むつもりなのか。いい度胸だな、オレに向かって」
「…………ハリブじゃ、ない」
「いいや、おまえはハリブだ。オレの勘がそう告げている」
「……なら、君は――」
 大きな体のわりに男は動きが俊敏だった。男は奏都の胸倉を掴み、その腕を高く上げる。奏都は男の腕から逃れようともがくが、びくともしない。
「――弱くなった」
 そう言われた瞬間、奏都の抵抗が止まった。胸倉をつかまれて相手に主導権を握られているというのに、奏都は何食わぬ顔で男を見下ろしていた。むしろ、鼻白んだのは男のほうだった。その瞬間を見逃さなかった奏都は小さな声で何か呟くと、男の動きも止まった。
「いいのか? ハリブ。オレは有言実行な男だぜ?」
 場の主導権は一瞬で逆転した。負けを認めた男は奏都の胸倉をつかんでいる手を離し、後ずさりする。一方で軽やかに着地した奏都は言葉で怖気づいた男を三下に見ていた。
「口先の言葉に惑わされるとは、おまえも弱くなったな。……小心者め。それほどまでに主の命が惜しいか」
 奏都はズボンのポケットに手を入れ、正門の壁によりかかった。俯く男を横目で見ながら、次に何を言おうか逡巡する。
「あっ、そうだ」
 思いつくのは早かった。この頭の回転の速さこそ、両者の違いを決定付けるものであろう。
「あんたら、こいつを狙っているんだろ? まさかこいつ――奏都に目をつけるとは目が高いな。だが、オレの方が先に狙っていたんだ。そう簡単に奪わさせやしねぇぜ」
「……それは主様の台詞だ。主様は櫻井奏都という貴重なサンプルを貴様に渡しはしない」
「サンプル、ね。そう表現されると一層奪わせたくないな。この体も少しずつオレ好みになっている。完全にオレのモノになるまで後一歩のところなんだからさ」
「その体は主様の恋人のものだ。おまえのものではない」
「主、主、あるじあるじあるじあるじあるじ……。おまえの頭にはそれしか詰まってねぇのかよ。無様だ。そして哀れだな」
「主様を、主様をバカにするなぁぁあ!」
 業を煮やした男は猪突猛進のごとく一直線に奏都へと向かう。筋肉質だというのに繰り出される拳は速く、重い。動きが単調にならないよう蹴りも混ぜてくる姿は戦士のようだ。
「だからさ、オレを誰だと思ってやんの」
 背筋をただし、男の正面に立つ奏都。余裕を浮かべた表情には薄ら笑いが浮かんでいる。
「うおぉぉぉおぉぉ! この野郎っ!」
「マジうるせー。耳押さえてもいい?」
 楽々と男の一撃をかわす奏都はどこか楽しそうであった。
 
 
         *
         
 
 意識がはっきりしてくると、自宅の前にいることに気付いた。
「あれ……どうやってここに……」
 あまりに何度も同じ道を通っているため、いちいち気に留めなかったのだろうか。色々な経過をふっとばし、今自分は帰宅した。
「ま、いいか。どうでも」
 細かいことを気にしても何も変わらない。そう思い始めてから全てを放棄してきた。聴力を。視覚を。嗅覚を。味覚を。触覚を。何も聞きたくはない。もう自分の耳には何も聞こえやしない。
 家の中に入るために、そっとドアノブへ手を伸ばす。
「…………っ。手がどうして震えてんだ?」
 伸ばした手は震えていた。一点に留まることができずに、小刻みに動いている。自分はまだ高校生で、手の震えで悩んだことはない。ならば、なぜ。これじゃ、家の中に入ることを怖がっているみたいじゃないか。
 太陽は傾き始めていた。それでも暑さは残っている。最後に雨が降ったのはいつだろうか。いや、雨が降っていても滅多に家から出ないので、気付かない可能性が高い。カーテンを閉め、イヤホンを使って音楽等を聴いていたら尚更だ。
 もう一度手を伸ばしてドアノブに触れようとすると、家の中から声が漏れてきた。
「……だから、お前が! お前がそんなんだから、子供達がああなったんだろ!?」
「ごめんなさい。ごめんなさい。は、放して。お願いだから……」
「反省の色がないな、このっ!」
 矢継ぎ早に響く、何かが崩れる音と女性の悲鳴。どちらも一度きりではなく何度も繰り返される。自分が家に入ることを怖がっている理由がやっとわかった。真昼から夫婦喧嘩をするような奴らは知っている限り彼らしかいない。
「帰って、きていたのか」
 最近、勘が鋭くなっている傾向がある。これもその一つなのだろう。
 もう嫌だ。家族なんていらない。自分を縛り付けておこうとする、理解のない家族など。
「……っ」
 帰省。規制。きせい。その言葉が頭に浮かんだ瞬間、戦々恐々としてしまう。身体は素直だ。どんなに気を強く持とうとしても、手足の震えは隠せない。
「……まっぴらだ」
 踵を返して玄関から離れ、両親に悟られないよう静かに走り出した。

 ここから空義の家に行こうと思ったが、彼を家庭の問題に巻き込みたくはない。なので一人になれるところを探して彷徨った。
「結局……行くあてなんてねぇのに、自分は歩き続けるのか」
 彷徨ったものの、行き先がなくて逆に疲れるだけだった。その上、瞼が重くなってくる。少し前もぼんやりとしていたのに、また眠くなってきた。最近、眠気が抜けないような感じがする。毎日何時間寝ているのだろう。赤ちゃん並みだったりして。
「……空義、捺由……。おまえらはどうしてこんな時に限って、助けてくれねぇんだよ」
 捺由はまだ眠ったまま。最後に会話したのは夢の中。今頃空義は自宅で勉強でもしているのだろうか。巻き込むことを嫌がったのは自分なのに、こうやって他人のせいにしようとする自分が憎い。
「どうせ……自分は」
 馬鹿だ。しょうもない馬鹿だ。家族を怖がって、家に帰れないのだから。
 辺りを見回すと、小道の脇に一台の自転車が止まっていた。近寄って見てみると、鍵はかかっていない。この自転車を使えば、もっと遠くに行けるか。自分を知る者がいない場所に。ここから離れられればどこでもいい。櫻井奏都として生きなくてもいい場所――あるいは世界に行きたいのだ。
 自分の目は自転車から離れなかった。だからこそ気付けなかった。
「人の自転車をじろじろ見るなんて……気味悪いですね。どういうつもりですか?」
 ばっ、と反射的に自分は自転車から離れた。声がした後ろを振り返ってみると、そこには学生服姿の少年がいた。身長はそれほど高くないから中学生だろうか。特徴的な高めの声は声変わりを迎えておらず、中性的な外見も一部の者には受けそうだ。
「何……って、ちょっと乗ってどこか行こうと思っただけだぜ」
「要するに盗もうとしていたのですか」
「そ、そんなつもりはねぇよ。ただ遠くに行きたいなって」
「やっぱり盗もうとしていたんじゃないですか。窃盗ですよ。未遂ですけど、警察に通報しましょうか?」
 目の前にいる少年は徐に黒い学生鞄に手を伸ばし、中から何かを取り出した。それは携帯電話だった。通報されて書類送検とかやめてくれ!
「悪かった。自転車を盗もうとしていたのは謝る。だから通報はやめてくれっ」
 土下座でもなんでもしようと思ったが、下はコンクリート。流石に膝をつける気にはなれなかった。それを真剣身が足りないと受け取ったのか、少年はこちらを無視した。
「……はい、もしもし。……はい、……はい、了解しました」
 こちらの哀願など気にも留めない少年は携帯電話を耳に当て、誰かと会話をしていた。内容はよく聞き取れなかったが、本当に通報されたのかもしれない。
「おまえ、まさか……通報、したのか」
「僕はそんなことしません。冗談くらいわからないんですか? 通報したって時間の無駄です」
 そして少年は「あなたと話すことも時間の無駄です」と言いたそうな目をこちらに向けてきた。だったら構わずに一人にしてくれよ。
「こちらの台詞だと言いたそうな目ですね。ええ、僕は帰ります。あなたが自転車に轢かれたくてそこにいたいのなら、どうぞご自由に」
 この状況をよく考えてみると、いや考えるまでもないが、邪魔をしているのは自分の方だった。自転車の開いている鍵は、少年がすぐに戻ってきて出発することを代弁しているようだ。
「ぐ……生意気だな、このクソ餓鬼」
「その制服、靄然高校のものでしょう? 僕らの年齢差はせいぜい二、三歳。大差ありません」
「二、三歳は大差あるだろ」
「どこらへんが?」
「そりゃあ……えーぶ……じゃなくて、先輩と後輩っていう上下関係がな」
「年齢で決められる上下関係に僕は興味ありません。それ相応の力がある人を先輩と認めるべきでは」
「そうだよなー。同感……って、おまえと同じ考えなの気持ち悪い」
「僕も気味悪いです。なのに会話がここまで続くのは不思議です。なぜだと思いますか?」
「さぁな」
「つまらない答えですね」
 曖昧な答えにがっかりしたのか、少年は俯いた。それを見て、もう少し深く考えれば良かったと反省するが、きっと辿りつく答えは同じだろう。
「……あなたは遠くに行って、何をするつもりですか」
 再び顔をあげた少年は語尾を上げずに淡々と言った。彼は真剣だった。今までの話は全部冗談だったはずなのに、今更本気になってどうする。どうせ一期一会の出会いだ。これから一生顔を合わさない確率のほうが高い。
「ここから離れて、新天地に行きてぇんだ。そこでは誰も自分を知らない。自由気ままに暮らせる」
「あなたの考えにケチをつける気はありませんが、それで心は晴れますか」
「さぁどうだろう。でも、今とは違くなるっていう確信はある」
「はぁ……、あきれましたよ。猫に鰹節ではありませんか」
「そんなに危なっかしいか? 自分」
 猫に鰹節っていうことわざを知っているあたり、この少年への見方を変えなければならないかもしれない。ガリ勉のような雰囲気を醸し出してはいないが、今まで相当な努力してきたのだろう。
「自覚がないのは性質悪いですね」
「おまえもな」
 肩をすくめたまま少年が目を丸くした。それはごく僅かな変化であったが、自分には驚いているように見えた。こうして話してみて、彼は人見知りではなく、人が秘密にしたいことにずけずけと踏み込む大胆さをもっている。その他いくつか加味しても、彼は自分の苦手な部類ではない。裏でこそこそ陰口を言うような人間よりも好ましい。
 気が合うなと思い、こちらが口の端を上げると少年はそっぽを向いた。そして慣れた動作で自転車のストッパーを外し、ハンドルに手をかける。
「……ええ、肯綮(こうけい)に中(あた)っていますけれど……、雲行きが怪しくなりましたね」
 空を仰ぎ見ると確かに北の空が真っ暗だった。風の流れも変わったのか、涼しくなり始めている。シャツがベタつかず、さらさらで気持ちいい。
「帰らないんですか?」
 全く動こうとしない自分を見兼ねたのか、少年が質問してきた。
 別にそこまで介入してこなくてもいいっての。夏で涼しいと思える機会は少ねぇんだから急かすな。帰ろうと思っても帰れる場所がねぇんだから。
「できたら帰りたくねぇよ、あんな家」
 そうですねぇ、と少年が間を空けた。
「……でしたら、僕の家に来ませんか? 袖振り合うも多生の縁と言いますから」
「いいのか!? ……って、親とかの許可なくて平気か?」
「問題ありません。すでに連絡は済ませました」
 警察に通報するという話題の時に家族と連絡をとっていたのか。どんだけ要領がいいんだ、こいつ。智帆とは天と地の差だ。どうせなら、こんな弟が欲しかった。少年の家に行ってみようか。
「ここからそう遠くはありません。ついてきてください」
 少年はこちらに背を向けて先行するが、自分はまだ聞いていないことが一つあった。
「待てよ。おまえの名前、聞いてねぇぞ」
 おまえと言い続けるのも疲れるし、年下だからといっておまえと呼ばれる方も大変なはずだ。そういうあなたから名乗って下さい、と言われると思ったが、彼は立ち止まり答えてくれる。
「僕は暁夜(ときや)っていいます。あなたは?」
 振返った少年の表情は同年代の子に向けるものであった。少々やるせない。年上の威厳をもと体から放出しなければ。
 ゆっくりと自転車が動き始めた。前輪と後輪が動いているときに発せられる高音が懐かしい。自分はそんな懐かしさにつかりながら、暁夜に並ぼうと小走りをした。
「自分は奏都。奏でる都って書いて奏都。よろしくな暁夜」
 言い終えた途端、暁夜がぷっとふきだした。
「奏でる都って、あなたには似合いませんね。せいぜい農村や疎開した町ぐらいですよ」
「あー、自分も似合わねぇと思う。ただそれ以外に自己紹介の仕方がなくてなあ」
「納豆なんてどうですか」
「なんで納豆?」
「かなと。か、なと。か、なっとう」
 〝か〟の要素がないのは気にしてはいけないことなのか。
「暁夜、おまえ滑ったな」
「……はい。言って後悔しました」
 そうして自分達は歩き始めた。曇っているせいで暗く感じているというのに、自分は新しい出会いに心を馳せていた。
 
 暁夜の家に着いた矢先、雨が降り始めた。シャツは水を吸って透けてしまい、濡れた髪から滴が垂れてくる。濡れるのは嫌いではないなと思っていると、一足早く家の奥に入っていった暁夜がタオルを取ってきてくれた。自分は短くお礼を述べてタオルを受け取ると、それはふわふわしていて頬擦りしたくなりそうだ。ババアが洗濯した(正確には洗濯機が洗ってくれた)ものとは全く違う。何度も洗濯してけばけばになったものとも違う。
「どうかしましたか?」
 まじまじとタオルを見つめて触っていると、暁夜に尋ねられた。そりゃあまあ、そんなに真剣に触っていたら変な人だと思われるな。
「いや、なんか違うなって思ってさ。なんていうか、寂しい? む、そうじゃないな……」
 靄然市の外れに暁夜の住む家がある。青々と茂る木に取り囲まれており、一種の要塞のようだ。その上庭も広く、家庭菜園というやつまで行っている。じっくりと眺めている時間はなかったので植物の名前まではわからなかったが、美味しそうな香りを放っていたような気がする。……食べること前提なのか、自分。最近マシなものを食べていなかったせいかもしれない。ああ美味しいものが食べたいな。
 ここには自分が捨ててしまったものがある。あの家では得られなかったものがある。そう思っている自分にどうしても戸惑ってしまう。まるでここに来たことがあるような気分になってしまって。
「廃れているとでも? 確かにこの地域は靄然市の中でも辺鄙な所ですけれども、僕は好きです。こういうの。……どうぞ、上がってください」
 玄関でさっと水を拭き取ってから中に通される。暁夜の靴があまりにも美しく置かれていたので、自分も脱いだ靴を丁寧に揃えた。普段ならば靴を揃えるなんて習慣はないのに、自分に靴を揃えさせる魔力がこの家にはあった。
「お邪魔しまーす」
 家の中の光景は、やはりあの家とは異なる。床には畳が敷かれているし、部屋を仕切っているのは襖だ。障子はないようだが、純和風のお屋敷にいるみたいだ。天井も高い。さっきタオルで水を拭き取った場所は土間というやつなのか。初めて見たから反応が遅れてしまった。
 荷物をほっぽり投げた自分は家の中を探検し始めた。今日初めて出会った人の家を探検するなんて失礼極まりないだろうが、そんなの関係ない。自分の好奇心を押さえつけるのは無理だ。童心にかえったようにドタバタ走り回ったり、喜んでいたりすると、後ろから揶揄がとんでくる。
「そんなに珍しいですか? 赤ん坊のみたいに動き回って」
「赤ん坊か……。その例え、光ってんぜ。母親から産まれたばかりの子は世界を知らない。自分らみたいなある程度育った人に言い換えると、異世界に行ったみたいな感覚。外国とか行くと、たまーにそういう気分になるよな」
「人の家を異世界扱いですか」
「いいんじゃね? 現にとっても面白いぜ。掛け軸とか壷とか。いかにも〝和〟で。自分が住んでいる家の床は全部フローリングでさ。畳みたいに湿気とか気にしないのはありがてぇんだけど、窮屈なんだよ」
 畳をさすると、滑らかな凹凸が自分の手の平を押し返してきた。この手触りはフローリングじゃ味わえない。畳の上で死ぬという言葉があるように、日本人は元々畳と友達だったに違いない。
「僕は物心ついたところから住んでいるのでよくわかりません。愛着や居心地なども」
「愛着っていうものは住んできた時間に比例しねぇよ」
「それは誰の言葉ですか?」
「自分のだ。だいだい十年前、自分は今の家に引っ越してきた。前の家は良く覚えてねぇけど、だからって今の家が好きなわけじゃない」 
「……なんだか寂しいですね」
「そうかもな」
 興奮が鎮まり始めた頃、自分は縁側に座って足をぶらぶらさせ、しとしとと降る雨を眺めた。この雨は、あの家にも降り注いでいるのだろうか。雨音が騒音を打ち消けせられるなら、あの家も今頃静かなのだろうか。厄災の元凶が酒でも飲んで暴れていなければ。
「雨って、趣深いです」
 隣にはいつの間にか暁夜が座っていた。自分のように足をぶらぶらさせず、律儀に正座していやがる。育ちというよりは暁夜の本来の性格かもしれない。このひ弱そうな少年が人の忠告を聞かずに暴れまわっているような想像はつかないもんな。
「だな。雨は嫌いじゃないぜ」
「……でも、長くは続かない。雨はいつか止む」
「その台詞、正座している奴に言われても説得力ねぇな」
「別に説得力など求めていません」
 そう言っているわりに何かを感じたのか、暁夜は体勢をかえ今度は体育座りをした。対照的に自分は胡坐をかいてふんぞり返る。あ、今自分、最高に男らしい?
「僕は大切な人を守れる力が欲しかった。いつまでも誰かの荷物でいるのは嫌だったから」
「過去形なのか」
「はい、昔の話です。お金持ちだったくせに人一人救えなかった最低な人間がいた時代の」
「消費活動してれば誰かの儲けになるんだから、一人も救えなかったわけじゃないだろ」
「僕にとっての人とは、特別な仲間や友達のことです。……友達や家族を救えない力なんてなければよかった」
 ポツリ、と暁夜は呟いた。
「ないほうがマシっていう力だって使いようだぜ。いつどこで役に立つのかわかんねぇんだし」
「お金は? お金はあったほうがいいものですか?」
「中学生がそんな質問するか、ふつー」
「はぐらかさないでください」
「ふあぁぁ~。金の価値なんて人それぞれだぜ。誰かに答えを求めんな」
 眠気が襲ってきた。瞼を上げているのもやっとだ。欠伸を何度かしていると、隣にいる暁夜が真剣な眼差しのまま口を開く。
「……泊まっていきますか?」
「いいのか!?」
 一瞬だけ眠気がぶっとんだ。泊めてくれるということは、あの家に帰らなくてもいいことを意味する。着替えとかは気になるが、そこまで拘泥するほうではない。帰らなくてもいいというほうが自分には重要だ。
「他の人が帰ってくるまで時間がありますし、それに……反対する人はいないでしょうから」
「いや~、やけに歓迎されているな自分。布団かベッドある? 一眠りしたいんだけど」
「ずうずうしさは誰に似ているんでしょうね。親の顔を見てみたいものです」
 親の顔なんてよく覚えてはいない。
「布団、布団~♪」
 暁夜は手際よく敷き布団と毛布を押入れの中から出してくれた。自分はすぐに寝られるよう布団を敷き、他にもベルトを外しておいた。
「ねむ……。自分は先に寝るぜ、暁夜」
「……良い夢を見てください」
 誰の布団かは、この際どうでもよい。干したばかりなのだろう心地良さの前に、所有者の問題なんてちっぽけだ。
 意識はすぐに深い闇へと落ちた。



  人々の叫び声。度重なる轟音。その阿鼻叫喚の図は、まるで世界の終わりがやってきたかのようだった。至る所で硝煙が舞い上がる。絶えない発砲音。そんなの今までテレビでしか聞いたことがなかった。テレビならば、チャンネルを変えるだけでよい。しかし、耳をふさいでもこの音から逃げることはできなかった。
「え……なに、これ。って、逃げねぇとヤべぇ……!」
 身を隠すために路地へ駆け込んだ。レンガ造りの家々を囲む高い塀と塀に挟まれているそこは、人が横一列で数人通れる幅があり、道中に死角となるような物はない。見つかったら一瞬の終わり。もっと広いところに出て格好の的になるのはごめんだ。こっちの路地のほうが幾分ましだろう。足は震えて動けなかったが、前に進もうとしたら足が絡んで転びそうになったが、ゆっくりと調子を取り戻し、全速力を出した。
「おい、こっちにもまだいるぞ!」
 数人の足音が聞こえてきた。四方八方から聞こえてきて混乱してくるが、極力冷静を保とうと頭を働かせる。
 どこに逃げればいい!? そもそも逃げ道なんてあるのか!?
 逃げろ、と全身が警告を発している。己の本能に従い、闇雲に走る。あまりの恐怖で総毛立ち、余計に足が地面にくっ付いてしまいそうだった。でも、ここで本当に地面にくっ付いているわけにはいけない。周囲で何が起きているか詳しくわからなくても、自分が巻き込まれていることはわかった。いや、一帯が巻き込まれてしまったのだろう。騒ぎはまだ止まない。どれくらいの人間が死んだのだろうか。考えるだけで恐ろしい。
 無我夢中で走り続けると、路地が複雑な造りになっていることに気付いた。平行な道は幾つもあり、迷路のように入り組んでいる。周りの風景も家ばっかりで目印となるものがない。良く言えば綺麗にされている。悪く言えば画一化が進んでいる。個性などありはしない。見ているだけで反吐がでる。この街に出ていた杭は全て打たれてしまったのだ。
「……はぁ、はぁ……」
 息はすぐに上がってしまった。足音はまだ聞こえてくる。ここで止まっている暇はない。
 逃げなくては。
 ――なぜ、逃げる?
 生き延びなくては。
 ――生き延びてどうなる? 死ぬとは限らないのに。
 自分が住んでいたあの家も箱庭だった。小さい頃は外出の制限や門限があり、外ではしゃぐことも許されなかった。待っていたのは孤独のみ。それは死んだのと同然だった。度々尋ねてくれる空義と捺由が心の支えで、彼らは自分にとって救世主であり太陽だった。いつも自分を照らしてくれた。そして自分に生きる力を分け与えてくれた。
「っは、……はぁっ……」
 限界まで走った。その間、すれ違った者は独りもいない。やはりこの一帯がすでに巻き込まれているのか。だったらここから出るしかない。鬼ごっこを永遠に続けるのは自分の体力では不可能だ。
「チッ、どっちだ!?」
 また十字路と遭遇し、今度はどっちかに曲がろうかと思案しながら息を整える。コーナーにさしかかった時、自分は急に痛みを覚えた。
「ここにいたのね、坊ちゃ~ん」
 相手が誰だか確認する暇もなく、自分は何者かによって羽交い絞めにされた。両腕を背後で押さえられ、逃げ出せない。
「放せっ! 放してくれ!」
 逃げようともがくが、相手は放してくれなかった。
「こんなことしていいと思ってんのか!? すぐに警察呼んでやるぞ!」
「あらら~元気の良い子ね。お姉さん、そういう子、だーいすき」
 艶やかで間延びた声は女のものに違いない。どこかで聞いたような気もする。首だけ後ろを振り向いてみると、そこには黒いコートで身体を隠した人物がいた。ちゃっかりとフード付きで顔さえもわからない。
 自分を苦しめて何が楽しいんだよ、クソッ。自分は逃げなくちゃならねぇんだ。ここで捕まるわけにはいかない。ここで捕まるわけにはいかねぇんだよ!
「オルキダケアエ、首尾は……」
 第三者が近づいてきて、自分は抵抗を一時的に緩めた。
「見てわからないの?」
 口を尖らせた女性は、自分を乱暴に投げ出した。急に解放され、つんのめってしまったところを新しく来た誰かに受け止められ肩をわしづかみにされた。大きくてごつごつとした手。ということは男。肩幅も広そうなのでそんな感じがする。性別などどうでもいいのだけれども、コート&フードで身を隠す人に良い人はいないことが身をもって証明された。
「い……っ」
 男に突然髪を引っ張られ、顔を近付される。呼気が互いの鼻に当たる距離。男の顔を好む趣味はないため、咄嗟に目をつむってしまう。
 やめろ。自分を見るな。自分を、暴くな。
「赤毛ってことは、まさか!」
「その通り。わたしを邪魔したのは彼に間違いないわ」
「本当に、こんな小僧がお前を……オルキダケアエを止めたというのか。信じられん」
「……オルキダケアエだと」
 その名をまだ覚えている。変な夢を見たときに出てきた女性の名だ。血染めのコートを着て、校庭で殺戮を行っていた女性の名だ。
「おまえが、おまえが……なんでここに!? あの夢で終わりじゃなかったのかよ!?」
「夢? なんのことかしら」
「惚けてんじゃねぇ。確かに自分はオルキダケアエっていう名前を当てたんだぞ。だからここにおまえがいるはずがないんだ」
「ふーん。……だから?」
 オルキダケアエは腕を組み、平然とした口調で言った。
「だからも、クソもへったくれもねぇぞ! 自分はちゃんと本物の世界に帰れたんだっ」
「何言っているの。オルキダケアエっていうのは仮名。本名じゃないわ。知られても損得ない」
 知られても損がない……だって? 確かにあんたは名前を縛ることが出来ないと言ったんだぞ。頭の整理が追いつかない。名前は同じだけれども、人物は同じではないのか?
「バルバ、その子を連れて行きなさない」
 戸惑いを隠せない自分を連行しろと、オルキダケアエは男に指示した。すると男は自分をつかみ、ひょいと肩に担いだ。男の背中の方向に頭が来るように担がれ、自分はじたばたと暴れる。だって今、ケツ丸出しだし。自分は鼓太鼓じゃねぇ、こんな羞恥をさらされてたまるものか。
「な、何すんだよ。放せ、この野郎!」
 男に担がれるとは自尊心を傷つけられた気分だ。恥ずかしくて声を張り上げ、一生懸命もがくが、女にでさえも敵わない自分が男に敵うわけもなく、何ら変わりない。
 どうして自分の身でさえも守れねぇんだ。強くなろうと決心したくせに、何も進歩していない。むしろ退化している。
「放せ! 放せって言ってんだろ、聞こえねぇのか? は、てめぇの耳はお飾りかよ。フードに隠れているだけで実は耳がなかったりして。あ、わかっちゃた。おまえ、顔に自信がねぇんだろ。だから――」
「黙れ。静かにしないと落とす」
 男が冷たく言い放った。男の身長は自分よりも高い。肩の高さでも百七十センチはあるんじゃないか。そんな高さから落ちても死なないだろうが、無傷では済まないだろう。打ち身で数十分は動けないかもしれない。そんなの怖くはない。何もかも今更なんだ。
「だったら落としてみやがれ、朴念仁」
「バルバ、挑発にのってはダメ。彼の利用方法によっては、わたしたちの名を揚げることができるわ。素晴らしいとは思わない?」
「利用って、何するつもりなんだよ」
「坊やには、ひ・み・つ」
 若作りしているつもりなのか。キモイぞ。
「……何か来る」
 ふと男は足を止めた。頭を動かさずに周囲を警戒する。自分を落とさないとは仕事熱心な奴だ。落とせば枷がなくなって警戒しやすくなるだろうに。
「ええ、そうね……」
 女も何かを察してコートからカードを取り出し、臨戦態勢をとる。
 遠い空で鳥が鳴いていた。首が上げられないので、どんな鳥なのかはわからない。幸せの青い鳥だったらいいな。しかし、そんな幻想は発砲音に打ち砕かれる。鳥の鳴き声は変わり、悲痛な叫びのようだった。鳥は撃たれたのだ、と自分は瞬時に悟った。鳥は一匹だけじゃなかった。数羽いや十数羽の鳥が弔い合戦のように鳴き始めた。彼らは落ちた仲間の元へと飛んでいったのだろうか。
 自分は鳥のほうに注意がそがれ、現在進行している状況を把握できなかった。
「……んぐ、うっ」
 男の身体が前に傾き始めた。それにつられて自分の身体も傾く。男の腕に目を向けると、自分の腰あたりをつかんだままだ。
 受身をとらないつもりなのか!?
 己の窮地でも対象を放さないなんて、馬鹿なくらい仕事熱心な奴だ。
 視界の端に白いものがちらつく。今になって走った疲れが襲ってきた。目が霞む。
「けほっ。…………ニュンパエア、まさか、血に塗れた子供が……人を、助ける……なんて」
 女が苦しそうに呻いている。それから男の身体が地面の上にうつ伏せに倒れた。男の右腕はまだ自分の腰。左肩から先に突っ込んだのか。幸い男が下敷きになってくれたおかげで自分は痛みを感じなかった。
 自分は男に身体を半分に折るようにして担がれていて、本来なら自分も地面にぶつかっていくはずだった。男は自分を庇ってくれたのだろうか。そんなの、自分の妄想であることを願う。でなかったら、怒りの矛先がなくなってしまう。
「大丈夫? 立てる?」
「うおっ」
 何者かに引っ張られ、男の背中の上から引きずり降ろされた。そしてついでに立たされる。舞い降りてきた声はバルバという男のものでもオルキダケアエという女のものでもない。目はまだ霞んでいるので、第三者の顔がはっきり見えなかった。
「起きて」
 ゆさゆさ。ぐるぐる。
 身体を左右に揺すられたせいで余計に視界が定まらない。このまま眠ろうか。……疲れた。能力以上のことをしてしまったのだ。どうか休みをくれ。
「起きないと、死ぬかなっ!」
 バン、っといい音がした。痛い。頬を叩かれた。パチンでもぺシンでもなかった。風船が破裂したかのような音だった。頬が残っているのか気になって触れてみると、そこにはちゃんと皮膚があった。
「死んでもいいの?」
 また一発叩かれた。容赦なさすぎだろ。危うく失神してしまいそうだった。
「死んだら帰れなくなるのに」
「へ……?」
 気になる台詞を耳にして、自分は少し身体を乗り出すように前傾した。
「あ」
「ぐへごほ……っ」
 最後の一発は当たり所が悪かった。頬じゃなくて首の頚椎にチョップが命中したのだ。やっと目が覚め始めたのに、衝撃で頭がくらくらする。
「ごめんね。あ、でも目が覚めたからいいかな。結果オーライ♪」
「オーライ♪ じゃねぇ!」
「目、覚めたよね? ならいいじゃない♪」
「少しは労わってくれてもいいじゃねぇか! つーか、なんで人の顔を叩きやがるんだよ」
 労わるように首をさする。あと数センチずれていたら、永久の眠りについていたかもしれない。
「ごちゃごちゃ言わないの、男の子なんだから。とりあえず走って。ここから離れるよ!」
 黒いコートを着た二人から助けてくれたのは自分と同い年くらいの少女だった。すらりと長い足で地面を蹴るスピードは自分よりも速く、ぼうっとしていると置いていかれそうだ。少女は周辺の地理に知悉しているかのように右折左折する。どうやらまだ、いざこざが勃発しているようだ。発砲音や悲鳴が耳をつんざく。自分の身体を動かす原動力は一刻も早く助かりたいというエゴである。それを悪い感情だとは思わない。動物に備わる生存本能が働くのは仕方のないことだ。今の自分もそんな状態なのだろう。変なことじゃない。これは当たり前のことなんだ。
 前を走る少女の背中に目を向ける。身長は自分よりも低いというのに、その背中はとても大きく感じた。
「空義……捺由……」
 それは大切な人を想起させる背中で。無意識に一粒の涙が頬を伝わった。

 そろそろ限界だなと思っていると、路地の隅に見覚えのある人物が立っていた。
「イシ! 連れてきたよ」
 少女は息を切らさずにそう告げた。この子とイシはどういう関係なのだろうか。それよりも、この夢の中で自分以外にイシを知っている存在がいたということに驚いた。
「二人とも無事でなによりです」
「……これの、どこが、無事だっていうんだよ……。もう走れねぇぞ、おい」
「日ごろの鍛錬不足を呪ってください」
 一言一言のダメージが大きすぎるぞ。心折れます。
「それよりもイシ、この家……」
 少女は顔を上げた。つられて自分も顔を上げる。その家は周囲と全く変わらないレンガ造りだ。日本生まれ日本育ちの自分にとっては珍しいけれども、それ以上思うことはない。
「まず、入ってください。話はそれからしましょう」
 イシに促され、裏口らしき扉から家の中に入った。
「ねぇ……イシ。それはあたしも聞かなければいけない話?」
 家の中に入った後、まるで裏口を守るように立っている少女が言った。彼女の表情は嫌そうではなく、とても落ち着いていた。
「性急すぎます。あなたはまだ彼に自己紹介していないでしょう?」
「あ、そういえばそうでした」
 それからイシに案内され、広間に来ていた。置かれているテーブルや椅子は小奇麗かつユニークなものばかり。飾られていたアンティークを含め、何に使われるのかわからないのも多い。実用さを重視していない物を見る限り、ここの家主は生活を楽しんでいそうだ。
 そんなことは口にせず、自分は黙(だんま)りを決め込んでいた。外での争いを見たり聞いたり体験してしまったせいで、口を開くのを躊躇い、気分はどんどん落ちていく。作り笑いをすることさえできない。イシと少女は広間を突っ切り、またどこかへ行こうとしている。意外にこの家の中は広い。部屋一つ一つが大きく、通路が長い。今まで住んでいた家とはスケールがかなり違う。こんなに広いと地価はどれくらいだろう。自分が住んでいる家よりも高かったりして。
「おい、待てよっ」
 二人が階段を上り始めた頃、自分は追いつこうと走った。
「奏都さん、感じませんか?」
 追いついた時、二人はすでにとある部屋の前に立っていた。感じないかと言われても、どう返答すればいいのかわからない。そもそも何を感じていると言えばいいのか。
「えーっと、広いとか無駄に金かかってるな……とかは思うけど」
「すみません。僕の問いかけが拙かったです。奏都さんはこの先に何があると思いますか?」
「部屋」
「正直に答えてください」
 ドアの先にあるのは部屋だ。それ以外どう答えればいい。異空間に繋がっているとか? イシに馬鹿にされるに決まっている。空義とは違って冗談だとわかりながらも、イシはねちねちとした攻撃をしかけてくるだろう。
「直感でかまいません。この先に何があると思いますか」
 一応想像してみる。二階に水周りは無さそうな気がする。だとしたら誰かの寝室か? ……いや、違う。この先にあるのは秩序だ。ふと頭を過ぎったのは白くて殺風景な光景だった。適当に答えれば解放されるだろうと、自分はそれについて言おうと口を開いた。
「何もねぇと思う。例えば空き室とか」
 そう言った直後、少女の態度が変わり、口を半開きにさせたまま自分へと視線を向けてきた。
 だらしねぇぞ、とっても。魚みたいに何度も口をぱくぱくしていたほうが何倍も可愛いのに。
「この先に何があるのかは、あなたの目で確かめてください」
 含有に富んだ言葉を紡いだイシはドアを開いていく。自分は少女に見られていることなど忘れ、ただドアへと集中していた。だからこそ迷わずに中に入ることができた。
「殺風景だな」
 直感は的中していた。その部屋には何もない。大きな窓が備え付けられているだけで、人間の生活の跡は見受けられない。ネズミなどの住処にはなっているかもしれないが。
「本物なの……?」
 少女は震えた声でそう言い、自分に近寄ってきた。
「本物って、何がだよ……」
自分は危険を察して後ずさったが、少女の方が幾分早かった。
「生まれてからずっと、君に謝りたかった。ごめんなさい。本当にごめんなさい」
「……っ」
 心臓がドクンと激しく鼓動した。少女に抱きつかれているからでも、その身体から柔らかいものがあたっているからでもない。自分は確かにこの少女を知っている。そして、この家も知っている。ある人の話によると、感動の素というのは意外性となつかしさらしい。この二つを自分は一緒に感じている。あー、そうだったのか。イシの言っていたことはこの事だったのだ。なつかしい。全てなつかしい。
「ごめんなさい……」
 少女は静かに泣いていた。自分のために泣いてくれているようで、彼女の姿は美しく見えた。


「彼女は奏都さんの一人前の来訪者、ニュンパエアさんです」
「……ごめんなさい。急に泣き出しちゃって」
 ニュンパエアという少女が泣き止んだ頃、一つ先にあった部屋に通された。その部屋には丸いテーブルがあり、そのテーブルを囲むように三つの椅子が置かれていた。ちょうど三つあるというところが出来過ぎている気もする。
 ニュンパエアという少女はお尻を隠すくらいの長さである白い上着を羽織り、下は黒のスパッツを穿いている。外見からすると身体をよく動かすような人だろうか。果実が実っているような豊胸は色気を醸し出し、肩につかないくらいの緑色の髪とともに揺れる。
「暗いのは嫌いだから元気だして張り切っていくよ! はい、ご挨拶預かりましたっ。あたしはニュンパエア。よろしくかなかなー」
 かなかな、って初めて言われたぞ。わざとボケけているのか、それとも天然なのか意味がわからない。
「自分はどう呼べばいい? ニュンパエアっていちいち言うの面倒だし」
「好きなようでいいかな。ニュンでもエアでもパエリアでも」
「……ならニュンでいいか?」
「うん、よろしくね奏都くん」
「よろしく」
 ニュンといると不思議と安心できた。彼女の持ち前のおおらかさと安心感の所為だろうか、ニュンとは初対面でない気がした。でも、自分は自己紹介したっけか。まあ、イシが何度もそう言っているから名前くらいは覚えられるだろうが。
「おまえ……自分と会ったこと、あるか?」
「え!? なななないよ。一度も。うん、一回も。会ったら忘れてないよ。奏都くんって結構目立つし」
 力強く首を振る姿は明らかに動揺していた。そして首を振る度になびく髪の下――小麦色の肌に自分は火傷の跡を発見した。生来の肌の色に交じり合うようにして、火傷の痕は彼女の体右半分にまで広がっていた。
「あ……そんなに、この火傷って目立つかな?」
「……、ごめん」
「いいよいいよ、気になっちゃうのは仕方ないもん」
 恐る恐るニュンに訊かれ、一瞬戸惑った。火傷の痕を食い入って見ていたなんて、自分が嫌いな人間と大差ない。足や手のない人を見て、気持ち悪いとか不気味だと思っている人と変わりないのだ。道徳などの授業が本当に活かされているのか知らないけれども、表面化していない深刻な問題だってあるだろう。
「ただちょっと火炙りにされただけなんだけど、まだ消えないんだよね……。一生残るのかな? 顔はちょっと困るんだけど」
 怪しい単語が聞こえたような。気のせいだ、スルースルー。
「顔に傷がついたらお嫁にいけないってやつか?」
「違うよ。特徴的なものは覚えられてしまう」
「おまえのその髪も特徴的だろ」
「そうかな? 君みたいな赤よりは珍しくないと思うよ。生まれつき?」
 こくり、と自分は頷く。
「あたしの緑色も生まれつきだよ」
 そう言ってニュンは緑色の髪をいじる。こう改めて見ると、ニュンは相当な美少女だ。サバサバとした振る舞いで後腐れのない友好関係を築いていそうである。
「髪の毛は帽子で隠せばいいし、なんなら染めればいい。でもね、火傷の痕はどうにもならないかな。身体的な特徴だし、バレると仕事にね……」
「仕事ってなんの?」
 火傷の痕が気になる仕事とは、体を売る商売だろうか。そんなこと、この子にはやっていて欲しくない。早く否定してくれ。
「あたしは――」
 そこでニュンは言葉を切った。
「イシ、かなかなと二人っきりにさせて」
「わかりました」
 足音を殺してイシは部屋から出ていった。
 二人っきりにさせられ、緊張して視線が泳ぐ。一目惚れしました、って告白されたらどうしよう。そんなこと、太陽が西から昇るようなものか。
「あたしは罪を犯しました。友人を……助けを求めていた友人を、救えませんでした。君はこんなあたしを罰しますか? 罰しませんか?」
 真摯な瞳に射抜かれる。これは真剣に返答しなければならない。
 ニュンの声は爆音に消された。爆心地は近い。次ぐようにして小さな爆発がいくつも発生する。まるで紛争地域にいるような気分だ。いつ狙われるかもしれないという恐怖が常に自分と寄り添っている。
「行かなきゃ」
 ニュンは立ち上がった。すたすたと窓際まで歩き、開錠してから窓を開いた。こちらから見える彼女の背中はピンとしていて揺らぎや迷いがない。それゆえに呼び止めることが出来なかった。
「ニュンさん。ご無事を願っています」
 イシはニュンを止めようとせず、むしろ快く送り出した。イシに送り出されたニュンはこちらに背を向けたまま、肩を少し震えさせながら笑った。
「ははっ、もちろん。それじゃ、行ってくる!」
「おい! ここ二階だぞ」
 彼女は身を乗り出し、窓枠を勢いよく蹴って空中へと身を投げた。その直後、自分は椅子を倒したことなど気にせずに窓から下を覗いてみたが、そこに人影はなかった。舞い上がる煙は地面を覆うだけでなく、一人の人間をも隠してしまった。
「意外です」
 イシが呟いた。ニュンが窓から飛び降りたっていうのに冷静沈着な態度のままなので、一体何を考えているのか見当もつかない。そんな彼が意外と感じたのは何だというのか。
「奏都さんは彼女を止めませんでしたね」
 相変わらずイシは痛いところを突いてくる。的確すぎて痛すぎる。
「先ほどの台詞からして、二階なら平気だと思っているわけでもないでしょう。ならば、なぜ止めなかったのですか」
「それはおまえも同じだろーが」
「全て同じだと考えてしまうのは奏都さんの悪い癖です。表面上は同じようでも、思いや考えの深さは異なります」
「……何が言いてぇんだよ」
「〝ウーア〟」
 その言葉を耳にした瞬間、胸が苦しくなった。ある時に胸が痛いという信号をだしているのは脳だと聞いたこともあったが、重要なのはそんなことじゃない。その言葉に自分は聞き覚えがあった。恐らく日本語ではないのに、いつどこで聞いたのだろう。謎は深まるばかりで、すっきりしなくていらいらする。
「僕は以前、あなたに伝えしました。ケレブレムにも僕の名前にも意味がある、と。それは僕だけではありません。ウーアというのは僕の名の対極にあり、忌み名の中で最も深くこの世界と関係があるもの」
「忌み名?」 
 忌み名――諱(いみな)。口に出すことがはばかられる名前。死後にいう生前の実名。歴史上の人物の諱と字(あざな)が良い例だろう。
「忌み名を軽々しく口にしてはいけません。この世界のルールですから。例外なのは忌み名をもつ同士たち。それ以外なら口に出さないほうが懸命です」
「ん? でも、自分は普通におまえのことイシって呼んでるぜ」
 対極の名が忌み名だというならば、イシという名も忌み名であるはずだ。この理論は正しいに違いないが、矛盾点を残す。自分は忌み名を呼ぶ影響を受けていない。自分の理論が間違っているのか。
「鋭いですね、奏都さん。見直しました」
「へへん、どうだすごいだろ。奏都様って呼んでもいいぜ」
「付け上がりやすい性格も汚点です」
 持ち上げて落とすのがおまえの主義か。
 イシは立ち上がり、両手を前に突き出した。それから何かを抜くような動作をすると、何も無い所から黒い物体が出現していた。抜き終わると、細くて長いそれはまるで壊れ物を扱うようにしっかりとイシの両手に握られていた。そんなに強く握ったら壊れるんじゃないか、と思うぐらいに。
「僕は、ここの人達と管轄が違います。……管理者が違うというべきですかね」
 そうイシは静かに語る。その静かさが、とてつもなく恐ろしいんだ。実は自分など到底及ばない存在で、すぐに自分を追い越せる超人なのではないだろうか。自分の知らない事を知っている人物にどうしても恐怖心を抱き、身構える。新しい世界が現在を侵食し破壊してしまうのではないかと疑ってしまって。
「奏都さん」
「……なん、だよ」
「あなたは鳥籠の中で鳴く鳥。自身の力だけでは空へ飛び立てない鳥。だから僕はここにいます。あなたを救うために」
 イシはこちらへと歩いてきた。反射的に自分は後ずさる。しかし、後ずさった方向にあるのは窓だった。生唾を飲み、イシから目を離せない。
「逃げられないと言ったでしょう。……すみません、言い過ぎました。そんな顔をしないでください」
 フードに隠れる彼の表情は全くわからない。向こうからこちらは見えるのに、こちらから向こうは見えない。マジックミラーのようだ。それとも彼に与えられた特権だというのか。解せない。頭に血が上る。
「来るな! テメェは一体何なんだよ! どこまで知っている。どうして全てを知っているみたいな態度でいやがるっ」
「……ええ、僕はあなたを知っています。生まれたときから一時も忘れたことはありません。……それだけではありません。オルキダケアエもアウルムも、この世界の管理者でさえも。そして――あなたが次に戦うべき相手を僕は知っています」
 全知全能の神、という言葉が頭に浮かんだ。イシはやはり自分では敵わない存在だったのだ。
「お高くとまって、ずっと見ていたのか? 自分が逃げ惑っている姿を! 虫けらごときが、って!」
「そんなことをするほど、性格悪く見えますか」
「見える」
「不本意ですが、そう思われても無理ありませんね。僕というイレギュラーはあなたにとっても邪魔でしょう。信じてください、とは言いません。選ぶのはあなただ。――これを」
 イシは虚空から抜いた黒い物体を左手で支え、右手で抜き放った。煌く刀身は本物であることの証。錆びや刃毀れなどないそれ――真剣は今まで見てきたどんなものよりも美しかった。魅入られていると気付いたときには、自ら剣へと一歩踏み出していた。
「引きつけ合うとは、これが運命なのでしょう」
 イシは剣を鞘にしまった。一方、自分はその剣にとりつかれていた。まるで崇めるかのようにそれを欲し、鞘に触れて手が止まった。また、心臓が締め付けられたのだ。逃げられない、という言葉が何度も反芻し、判断を鈍らせる。この剣を取る、という判断を。むしろ、受け取らないほうが常人の考えではないか。たとえここが夢の中だとしても、自分は自分であることには変わりない。この剣を取って、自分は何をする? アウルムみたいに眺めるだけか? 己で戦火の種をばら撒いて? 眺める、だけか?
「遠慮しないでください。これは元々、あなたのものですから」
 あなたのもの? 誰のもの? 自分のもの?
「第三ステージに求められるのは〝力〟。きっとこの剣は、あなたの〝力〟になるはずです」
 ――その剣は自分のものだ。誰にも奪えさせやしない。触れていいのはオレだけだ。
 ノイズ混じりの平常心を取り戻してきた。忘れちゃいけない。ここは夢なのだ。もう何回も続いているけれど、所詮は夢。イシだって怖くない。ニュンパエアが飛び降りたのは演出だ。夢でも現実でもない世界。それは夢でもあり現実でもある世界。この夢から出られれば、自分は目を覚ませられる。死なないことを優先に考えていればいい。
「ありがたく受け取っておくぜ」
 自分はイシから一本の剣を受け取った。始めに見たとき、訳のわからないほど不鮮明な黒い物体だと思ったが、手にした途端輝き始めたように見えた。誰かに言ったら錯覚だと笑われそうだが、自分には確かにそう見えた。
「生憎、時間がありません。もうすぐ……来ます」
「おまえは一緒にいてくれるのか?」
 なんて馬鹿なことを口にしただろう。自分がこんな奴に頼るはずがない。まして、空義や捺由よりも親交が浅いコイツになど。さっきまで畏怖していたじゃないか。いくらなんでも変わり身早くねぇか、自分。
「今回、僕の出番はありません。第一、これはあなたが乗り越えるべき試練です。僕の出る幕など存在しません。……奏都さん」
 彼の面影が一瞬だけ誰かに重なった。懐かしさとは違い、嬉しさだ。彼に名前を呼ばれるだけで、自分がここにいるのだと思える。……いや、それともちょっと違う。これは――。
「生きて、帰ってきて……ください、よ?」
 思い出の中の誰かと重なった。


 世界が別の色に塗り替えられた。目の前にいたイシも消え、風景だけが変わる。自分は立ったまま、見ている光景がくるくると変化をとげる。瞬きを数回したら、眼前には先程とは違う世界が広がっている……はずだった。
「何か、変わったか……?」
 イシがいないこと以外、変化はなかった。立っている場所は同じであり、開けっ放しにされた窓もそのままだ。ハッと自分の姿を確認してみる。左のポケットあたりに手を伸ばすと、鞘に収められた剣がベルトに固定されてぶら下がっていた。こんなに長い物をひっつけまわした経験はない。外そうと、ベルトに手をかけた。
「ダメ! はずさないで!」
 自分の前には誰もいない。そう認識してから振り返ると、ここにいるはずのない人間が扉の向こうに立っていた。
「おまえ、ニュン……?」
 ニュンは頷いた。
 彼女は窓から飛び降りたはずだ。だというのに、なぜここに。その上、彼女は酷い怪我を負っていた。髪の毛は光沢を失い、頬は切れている。顔は全体的に煤まみれになっており、服も所々破けている。血痕らしき赤黒い斑点がついている箇所もあった。
「どうしたんだよ、その怪我!」
「ちょっと転んで……」
「転ぶくらいでそんな大怪我なんかするかよ!?」
「あはは……。頭からぶつかっちゃいまして……」
 力のない彼女の笑顔を見て、自分はたじろいだ。問い詰めてもなにも答えは出ないと悟り、質問するのをやめた。
「わかった、これ以上聞かない。でも、これには答えてくれよ。なんで、これを外しちゃいけねぇんだ?」
 一瞬でニュンの表情が険しくなる。それは仕事モードに入った顔なのか。それともこれが彼女の本質だというのか。彼女と出会ってそう経っていないけれども、助けてくれた恩を感じている。謝られる理由はわからないが、きっと彼女が話したくなった時に教えてくれるだろう。
「第三ステージは〝力〟を試される。どんなに君が法外的に強かったとしても、彼に素手では敵わないかな。ちなみに、あたしは素手だけどね」
 えっへん、とニュンは胸を張る。大きな胸がより大きく見えて破裂しそうだ。いけねいいけねい、鼻の下を伸ばす暇があったらわからないことを潰さないと。
「その、第三ステージって何のことだ?」
「ふーん、知らない? この世界は幾つかの断層に分かれていて、人によって大差はあるけど、だいたい三から五までの戦いを挑戦者は受けなければならないかな。その回数の差にも結構意味があるんだけどね」
「そんで、今ここは三つ目の戦いだと言いたいのか?」
「当たらずとも遠からず」
 まだ戦いが自分を待っているのだろうか。早く終わって欲しいのに。それが夢の世界だとしても、あと何回かイシと出会うことになるんじゃないかと思うと辛い。
「ちなみに第二ステージから死亡扱いにされると、本当に〝あっちの世界〟に戻れなくなるよ。君一人じゃ大変そうだから特別にあたしが手を貸すけど、覚悟はしておいてほしいかな」
「……さらっと、すげーこと言わなかったか、おまえ」
「さあ? ひとまず、広いところに出ようよ!」
 ニュンパエアがこちらの手を引いて、駆け出した。つかまれているところから彼女の温もりを感じてしまい、赤面してしまう。廊下に出て、階段を転びそうなくらいの速さで降りると、彼女は手を離してくれた。
「あ、……ごめんね」
「別に。意外と力つえーんだな」
「怪力って正直に言ってもいいよ?」
「ニュンパエアの怪力女―!」
「あはは、あはは。冗談のつもりだったんだけど……」
 隣にいた彼女が目の色を変えた。
「お出ましみたいだね」
 そう言われ、慌てて自分も彼女が向いている方に目を向ける。ここは広間。そしてその先には表玄関がある。ゆっくりと仰々しくその玄関が開かれた。誰が来るのだろうかと、息を呑む。
 男だ。たった一人の男がそこにいた。
 
 男はこちらに近づいてくる。彼はあの二人と違いローブなど着ていなかったので、顔が見えた。流石にこの距離からでは輪郭しかわからないものの、滲みでるオーラが自分の体に巻きついているような気がして足がすくむ。
「……礼服」
 ニュンが言葉を呑み込むように呟いた。彼女の様子を伺ってみると、目に角を立てているような目つきだ。見ているこっちがびくびくしてしまいそうなので、男へと視線を戻した。
「…………見つけた。主の敵ぃいぃぃ!」
 男は叫び、急にスピードを上げてこちらに突っ込んでくる。あまりの速さと突然さに気遅れしてしまった自分は反応が遅れた。それにしても速すぎねぇか。十メートルはあったぞ。五十メートルの選手か、なんて分析してる暇はねぇ!
 男の身体はもう目の前にあった。動けない自分を嘲笑っているのか、男は足を上げた。その足に自分は釘付けになり、立っていられなくて膝から崩れ落ちた。男が繰り出そうとしているのは踵落とし。さて、足が下ろされる所は頭かそれとも肩か。男が足を振り下ろした瞬間、自分は目を閉じてしまった。逃げられない。知らない奴に襲われて、自分は帰れなくなるんだ。 「やらせない」
 落ち着いた声。耳元で囁かれてドキッとする。だが、そのドキドキは恐怖から来るものであり、彼女の声にときめいたとかじゃない。
「……目を開けて、奏都くん」
「……?」
 恐る恐る目を開けると、眼前には白い服。それがニュンのものだとわかった瞬間、自分は状況を理解した。彼女は自分と男の間に分け入ったのだ。背後からでは、どうなっているのか見えない。ニュンが男の足を受け止めているのだろうか。そんなはずあるもんか。アスリートの踵落としを素手で受け止めた人なんているものか!
「何……、蹴りを受け止めた!?」
「はぁああああぁあああっ!」
 ニュンは男の振り下ろされた右足を腕で振り払い、低い体勢のまま大きく水平に蹴り込んだ。男はその蹴りをまともに受けたらしく、下っ腹あたりを押さえたまま後退した。
「……すげぇ」
 自分の感想はその一言に尽きた。ニュンは男がこちらに走ってきた時に瞬時に反応して、割り込めるように準備していたというのか。
「黒い肌。顔の傷。それと、その服。君、あの占い師のボディーガードかな?」
 傷一つついていないニュンは両手を二回擦り合わせ、毅然たる姿で言った。彼女に助けてもらったのはこれで二回目だ。やはり、彼女の後ろ姿は自分よりも男らしい。自分も誰かを守れる人を目指していたのに、どこで差がついたのか。
「そ…うだ。お初にお目にかかる」
「へぇ~、その様子だと、あたしのこと知っているのかな」
「無論」
 ニュンと男の間を沈黙が流れる。どうやら互いに知り合いであるけれども、面と向かって会うのは初めてだということか。
「……あいつ、誰だ?」
 自分は立ち上がり、ニュンの隣に歩み寄った。
 訊ねると、彼女はすぐに答えてくれる。
「とある人のボディーガード。名前はハリブ。主に蹴り技中心で、噂だと人情深いらしいよ」
「コソコソ相談するとは卑怯な。男なら正々堂々と……立ち向かって、こい」
「コソコソって、先に仕掛けてきたのはテメェだろ。少しぐらい作戦立てる時間をくれよ」
「吾は玄関から来た。だから、問題ナイ」
 問題ある、と言い返そうとしたが、ニュンに手で制された。
「あたしを試すつもり? 破壊者くん」
「吾は破壊などシナイ。全ては主様のため」
「第三ステージで君が来るなんて……。次は君の主の出番かな?」
「吾はシラナイ」
「……話しても無駄なようね。奏都くん、邪魔だから端に行ってて」
「わかってる。頑張れよ」
「うん、全力でやる」
 邪魔と断言されても自分はちっとも悲しくなかった。過大評価も過小評価もされていない。いざという時、ニュンのほうが動けるだろう。自分はお荷物だ。せめて彼女に負担を与えない荷物になりたい。
「ココは櫻井奏都が、越えるべき、試練だ。なぜ、他者がかばう。利益ナイ」
「利害関係とかじゃないもの」
 ニュンの言葉を耳にして、ここから離れようとしていた足を一瞬だけ止めた。
「彼はあたしにとって、守るべき人だから!」
 ニュンは音もなく走り出した。
 男――ハリブとニュンは至近距離で技を出し合っていた。間合いを詰めて離れるの繰り返しで、どちらもまだ決定打を繰り出してはいない。手に汗握る攻防を続けている。
「でぇっ、はぁッ」
「吾は止まらぬ、主様のために!」
「あたしだって! あたしだって……」
 二人の咆哮が聞こえてくる。強い思いを抱えながら、真剣に敵と向かい合っている。
 対して自分はなんと無力なんだろう。応援することだってできず、縮こまってガクガク震えている。
「強くなりてぇのに……」
『……Non solum fortuna ipsa est caeca sed estim eos facit semper adjuvat.今のおまえもそんな感じだ』
「その声は……」
 ニュンが繰り出した正拳突きはハリブの米噛みをかすった。すかさずハリブは反撃として前蹴りをした。どちらもシンプルな攻撃。なのにどちらも動きが見えない。あの中に入ったら自分は邪魔になるに決まってる。一瞬でお陀仏して泡を吹くだろう。想像すると肝が冷えた。
『邪魔じゃないさ』
 どうしてそんな楽観的なことを言えるんだ。
『あの男は主を悲しませるような行動はしない』
 心温まるような忠誠心ですねー。だからって、それが何になる。いつの時代の話だよ。忠誠を尽くしたって裏切られるに決まっている。というか、何で今、主従の話を持ち出すんだ。
 ハリブが回し蹴りを外し、その瞬間を見計らっていたニュンがハリブの肩をつかみ、膝下を刈り上げた。ハリブの身体はぶらつく。
 ニュンは迫撃せず、構えをとったが、見事にハリブの罠にはまってしまった。
「おおおお!」
 ハリブも一筋縄いかない人物だったようで、体勢を立て直して前蹴りを一発入れる。
「……ひゃっ」
 ニュンはすぐに反応して左にかわしたが、その先にはハリブの反対の足。避けきれず、ニュンは咄嗟に背中を向けて受身を取る。
「っあ!」
 痛々しい呻き。
『Fortes fortuna juvat.……なあ、そんな後ろ向きで非難したくなるようなおまえを誰が助けてくれる?』
 後ろなんて向いていない。前だって見ていないけれども。
『だったら残るのは〝現在〟だけだろう?』
 綺麗事なんてもう聞きたくない。そんなのを聞いたって、自分は動かされないぞ。汚い事だって何の価値もない。現実を見過ぎた。もう疲れたんだ。
『だったら、この言葉を送ろうか』
 いつのまにか二人は広間からいなくなっていた。今、自分がいるのは階段下に空いていたスペースである。恐らくここなら巻き込まれない。
 ミシミシと階段が軋む音が聞こえてきた。ということは、階段の上に二人はいるのだろうか。ドン、とニュンが二階から飛び降りた。その衝撃は一階の床にも伝わり、心臓が跳ねる。その直後ハリブも飛び降りてきた。
『Nemo sine periculo vincere potest』
 ハリブが着地した瞬間、ニュンは左足裏を相手の右足踵にあてて素早く刈った。二倍ぐらい体重差のありそうな相手を彼女は床に叩きつけたのだ。また大きな振動が床を、家全体を襲う。
 ――誰も危険なしに勝つことはできない。ニュンは体格差という不安を拭い去り、実行した。ハリブは受身をとれたようだけれど、まだ起き上がれないようだ。
「はぁっ、はぁっ、はぁ……。奏都くん、ダメ。もっと離れて。じゃないと巻き込んじゃう! ……っひ!」
 ハリブはニュンの足首をつかんでいた。彼女は自由が空いているもう片方の足で彼の手首を踏みつけたが、それでも彼は手を離そうとしない。
「あるじ様を、かな……しませはしない」
「く、……まだやるっていうの。なら、手加減はしないよ」
 ニュンの雰囲気がやや変化した。今までは堂々と真正面から向かい、辛くても次の一発を模索していた。なのに、今の彼女は――。
「ニュンパエア。それがあたしの名前」
 ニュンはいきなり白い上着に手をかけ、脱ぎ始めた。黒いタンクトップに覆われた上半身と火傷の痕が露になる。
「見なさいよ。これが、あの占い師に受けた罰。彼女の逆鱗に触れて受けた罰」
 ハリブの表情が固まった。驚いているのか。それとも主様素晴らしいと思っているのか。
「ハリブ。あたしたちは相容れない。君の行いも耳に入ってくるけれど、あたしらには及ばない」
「血にまみれた人間にそのような罰を与えるとは、主様は本当に素晴らしいっ」
 ハリブは手を離し、ニュンに寝技を仕掛けた。膝下をめがけた蹴りはあたらなかったが、ニュンに距離をとるという選択肢を選ばせた。それだけで効果があったといえる。ハリブはやっと立ち上がった。彼の雰囲気も何となく違った気がする。崇拝しすぎておかしくなったのかもしれない。
『Sit difficile; experiar tamen』
 二人の動きは少し前と格段に違っていた。互いに躊躇せず相手に突っ込む。その上、相手の攻撃を予測している。片や投げ技と殴打技、もう片や蹴り技。互いに自身の技の長所と短所を理解しているように見える。
 自分は何をしたらいい。このまま傍観するだけでは、恐らく二人の決着はつかない。スタミナが切れるまで二人は一進一退の攻防を続けるだろう。そうでなくてもどちらか一方が一敗地に塗れるまで止めないつもりだ。自分はこうして指をくわえて見ているだけでいいのか。勝負は時の運とかいうけれど、それでいいのか? 出来たら、いや絶対にニュンに勝ってほしい。彼女は自分を守ると言った。その言葉に甘えるわけにはいかない。
「……Quid faciam?」
 自らに問う。武道の経験がゼロに等しい自分に出来ることを。これが現実だったら警察や救急車を手配して隠れているのが安全だろう。でも、ここは夢の中。夢は醒めるものだとしても、夢見が悪いに決まっている。そして現実に帰るために、この戦いは譲れない。
『Per asprera ad astra』
 的確な答えは返ってこない。それもそうだ。答えは自分の中にある。自分のとった行動が答えになるんだ!
『……いい顔つきになったな、奏都』
 優しくて自分と寄り添ってくれた声が自分を押してくれる。今まで、そんなことはなかった。引きこもりになった時でさえも何も言わなかったくせに。むしろ自分を追い詰めたくせに。
『未熟だが、これからの成長にかけようか』
 自身の手の上に誰かの手が重ねられているような気がする。もちろん隣には誰もいない。温かさのみがじんわりと伝わってくる。
『後悔するなよ』
 剣が抜き放たれた。無意識のうちに、親指を立てて剣の峰に沿わせていたのだ。持ち方や構え方など知らないのに、しっくりと剣は手に馴染む。
「重い……」
 この重さが思いの重さだというならば、耐えてみせようじゃないか。
 なっ、いけるよな? オレ。

 自分の身体は温かい。血流が良いおかげか次の一歩が早いし、歩幅も広い。瞬発力が跳ね上がっている。気持ちいい。走るってこんなに気持ちのいいことだったんだ。
「けへへ……」
 感動しすぎて涙が出てしまいそうだ。
 ハリブとニュンは未だに雌雄を決していない。そんな二人に向かって自分はレールの上を走っているかのような気分で距離を縮める。敢えてハリブに標準を合わせない。その意図をニュンが汲み取ってくれると信じている。
 自分が手にしている剣は両刃。扱いを間違えたら自分まで切ってしまう恐怖の剣(つるぎ)。留意しなくては。自滅なんて格好悪い。それと、両刃剣は切れ味を重視する日本刀とも違う。その分、長所である丈夫さを活かせばいい。
「おりゃぁあああっ!」
 情けない声とともに剣を振り下ろした。
 バックステップしていたハリブもニュンも自分という第三者の乱入に目を丸くしていた。けれども、ニュンはすぐに口の端を上げていた。やっと来たかな、と言いたそうに。
「……まさか、覚醒したのか? ヤ、剣筋は粗い。あいつじゃ、ナイ」
 ハリブは跳びながらも冷静にこちらの剣筋を見極めていたようだ。ああ、そうだ。自分も内心冷や冷やしている。さっき剣を振り下ろしたときの重心は柄の中にあった。ゲームの中では主人公が軽々振っていたから軽くて楽なんだろうと思っていた。それは決め付けで剣にも重さがある。重心をきちんと知っておかないと上手く扱えない。
『やはり、お前には無理か』
「無理じゃねぇよ、まだ一発しかやってないんだからさ、これからだ」
『なら、何も考えるな。全てお前の身体が知っている』
「ああ……やってやるぜ」
 自分はハリブに向かって跳躍し、リーチの中に入ったら剣を持つ手を押すようにして、もう片手を引いた。突き。こんな真っ直ぐな攻撃、見破られるに決まっている。案の定、ハリブは横に避けた。その瞬間を待っていた。突いた後に次の構えにもっていく。下からの切り上げ。その一閃はハリブの足にかすり傷をつけた。
「奏都くん、前に出すぎないで!」
 ニュンの忠告を耳にし、後退する。このまま前に出ていても良かったかもしれないが、冷静さを欠いては事も欠く。経験値は相手のほうが勝るんだ、油断してはいけない。
「……ウーア」
 ハリブは脂汗を額に浮かべながら言った。大きく深呼吸をし、再び話し始める。
「弱くなったと、思ってイタ。その剣筋、その規則性のなさは、あの頃と、変わってイナイ。数ミリも違いはシナイ」
「け、自分はウーアなんて知んねぇよ」
「目覚めてイナクテモ、主をかなしませナイ……」
 ハリブの目は真っ直ぐにこちらを射抜いている。彼も迷いがない。主従関係が彼を迷わなくさせているのか。自分にそういうものはないけれども、引かない。勝ってみせる。

 自分とニュンのコンビネーションは即席だというのに息が合っている。どちらかが出れば、どちらかが引く。同じ瞬間に攻撃することはせず、確実に相手を追い込む持久戦に持ち込む。出来たら一瞬で勝敗をつけたいが、相手はそうさせてくれない。剣先はかすれるだけだ。
 剣先がかすれる……? もし、かすれずに命中していたらどうなる? いや、考えてはいけない。目の前の出来事に集中しなくては。
 自分がハリブの回し蹴りをなんとか避けると、ニュンが背後から素早く攻撃を仕掛けた。その間に自分は息を整える。柄を握る力を強くする。勝つ、という思いが自分の身体を動かしている。
 ニュンがしつこく拳を繰り出すため、ハリブはその対応に追われていた。行くなら、今だ。男が背を向けている、今しかない。
『声を出すな』
 勿論。ここまできて、熱くなっている訳じゃない。あくまでも正確に事を終えるつもりだ。自分は一歩踏み出た。いける。身体は軽い。スピードにのれる!
 声を出さずに、ハリブに肉薄した。ニュンの攻撃に気をとられ、こちらに気付いていない。そして袈裟斬りをしようと剣を振り上げる。
「吾を殺して何を望む」
「……!」
 反射的に自分の動きは止まった。止まってしまったのは声が聞こえてきたからだ。その声はまさしくハリブのもの。ニュンと対峙しているのに、どうして声が出せるんだ。
『惑わされるな。これは管理者がハリブの味方をしているからだ。管理者によって、この世界はどうにでもなる。逆転させることも可能だ』
「それじゃ、戦う必要なんてねぇんじゃないか?」
 負け前提の戦いであることを知り、危うく剣を落としそうになった。
「奏都くん!」
 横から衝撃を受け、自分の身体は宙に舞い上がり床に叩きつけられた。
「奏都くんッ」
 ニュンの声だけが聞こえる。
 自分はハリブに蹴られた。それは頭で理解出来た。背後に何もしないで突っ立っていたら、格好の獲物だと思われるのは当然。剣は自分の手から離れていた。床に当たった金属の音は後方から発せられた。
『立ち上がれるか? 負け犬』
 テメェ、馬鹿にしてんのか。自分はまだ負けてなんかいない。
『なら……いい。顔を上げろ、ニュンパエアから目を離すな』
 言われた通りにすると、ニュンの攻撃の仕方が変化していることに気付く。殴打と投げ技を駆使し、どこか一点を狙っているように見えた。それゆえハリブは防戦に切り替えている。ハリブが蹴り技を仕掛けても、その場所にニュンはいない。
『二人とも、本気になったのか』
 間もなくして二人は足を止めた。先に話の口火を切ったのはニュンだった。
「力だけでは、あたしを倒せない」
「君も、そんなひ弱な力では、吾を倒すことは、デキナイ」
「さっきさ、管理者に手を借りたでしょ。卑怯者」
「吾は卑怯者ではナイ。正々堂々と戦い、勝つ」
「だから肉弾戦を選ぶのかな? あたしが素手だから同じ状況にしよう、って」
「ソウだ」
「へー、噂は本当だったんだ。銃を隠し持っているくせに、使わない、……ハリブ」
 ニュンの最後の一言が響き、家が震動し始めた。いや、世界が振動している……? 一方、ハリブは少なからず動揺していた。ただ、何を言っているかは聞き取れない。ハリブの声は自分の頭に響いてくる声で打ち消された。
『決めろ、奏都。終わりは近い』
 ニュンが何かを投げた。それはハリブを素通りし、ちょうど自分の目の前の床に刺さる。ナイフだ。錆一つもないそれは、暗闇まで照らしてしまいそうな光を放っている。
 自分は迷わずナイフを手にした。男はまだあたふたとしている。背中が、がら空きだ。今度こそいける。そう思い、自分はナイフを両手でしっかりと固定した。このまま突っ走れば突き刺すような感じになる。迷いはない。雄叫びを上げながら走り出した。
「うおおおぉぉおおお!」
 ハリブが振り向く。すかさずその男の身体をニュンが羽交い絞めにしていた。
「これで、終わりだッ」
 ナイフがハリブの身体にぬめり込んだ。力が足りないせいか奥までは入り込まない。
 ――小学生の頃のあの感触を自分は覚えている。
「……っ。そうだ、まだ覚えて」
 手が震えだす。自分はナイフを握っている。そして人を傷つけた。怖い。こんなことをした自分が。平気な顔で人を傷つけた自分が。怖い。やっぱり、自分の中には恐ろしい何かがいる。
『言っただろ、後悔するなと』
「ダメ、まだハリブは生きてる!」
 ニュンの声がもの凄く遠くで鳴っているようだ。まるで壁があって、音を遮られている。
 自分はナイフから手を離し、ずるずると後ずさった。足元が覚束なすぎて、倒れてしまいそうだった。立っている筈なのに、そんな感覚はない。
「自分は何をやってんだ。誓ったじゃないか、あの時。強くなろうって。その強さは、誰かを傷つけるためのものだったのか? 違うだろ……。そんなことしても、智帆は喜ばねぇよ……」
「……櫻井、奏都。いヤ、……ウーアぁああ!」
 ハリブは暴れ、ニュンの羽交い絞めから脱した。腹にはまだナイフが刺さっている。
 自分は、ここで死ぬのか。思えば短い人生だったな……。空義、捺由。おまえらには本当にお世話になった。感謝してもしきれないくらい、大事なものをもらった。
 急に目頭が熱くなった。ハリブは怖い顔をしてこちらに向かってくる。自分は殺されるべきなんだ。生きているべき存在じゃないんだ。だから――受け入れよう。

 時は巡る。あの惨劇が。悲劇が。すべてを終わらせる息吹が――すべてを告げる。

4th stage

 4th stage:価値ある終わりを



 目の前で白い光が上がった。その光はハリブとニュンから発せられている。前者は平然としていたが、後者は平常を装うことが出来ずに邪魔されたことへの怒りをぶつける。
「どういうこと? まさか、途中で打ち切られたっていうの? 誰が、そんなこと決めた!? まだ終わっていない。決着はついていないっ」
「……わたしが終わりにした」
 また強い光が視界を埋め尽くす。光が弱くなってから目を開くと、自分とハリブの間に黒いローブを着た人物が立っていた。そいつの足は地面に着いておらず、ふよふよ浮いている。
「役立たずなんて、要らない」
 黒ローブは謎めいた言葉を呟いた。そして腕を上げて天井を指差し、再び何か唱えると、そいつの指先から何かが生まれようと空気がピリピリする。光、いや違う。轟音をともなった光――雷がハリブの足元に落ちた。彼は叫ばず、その雷を無防備に受ける。
「あ、る、じ、さま……」
「…………役立たず」
 ハリブに主様と呼ばれた黒ローブは、自ら配下を手にかけたというのか。ハリブは間もなくして光の粒子になり、消えた。オルキダケアエがかつてそうしたように。
「テメェ、あいつは仲間だったんじゃねぇのかよ!」
 主従関係は仲間とは違うかもしれないが、その言葉しか咄嗟に思いつけなかった。
「わたしは……ハリブを、そう思ったことはない」
「なんでだ!? いくらなんでも冷たすぎねぇーかっ」
 激情はなかなか収まらない。
「マリザ……。君が奏都くんの第四ステージのボス?」
 ニュンが発した言葉も自分の求めているものとは違い、この流れで怒りを感じるのはおかしいのだろうか。
 黒ローブはニュンの言葉に頷いた。するとニュンは目尻を下げ、何か悟ったような顔つきになった。
「そっか……。運命って皮肉だね。奏都くん、あたしはこれ以上、ここにいられない。消えなきゃ」
「は? まだ会ったばかりじゃねぇか。展開が速すぎて意味わかんねぇぞ、おいっ」
「無理だよ。だって、あたしは……その子、マリザに負けたから」
 負けた、とい言葉が全身を貫いた。ニュンが負けた? あんなにも勇猛に戦えるのに? 
「あなたも消えなさい、ニュンパエア」
 雷が落ちた。余分な音エネルギーを発さず、真っ直ぐニュンの元に落ちた。
「……マリザ、ごめんね。あたしはあなたも守れなかった」
「…………」
 雷を受け、ニュンの体が薄くなっていく。このままでは彼女も消えてしまう。消えないでくれ、自分はおまえも守りたかったんだ!
「行かないでくれ!」
 ニュンに駆け寄ろうとしたが、マリザというらしい黒ローブの雷によって行く手を阻まれた。足元のすぐそばの床に穴が開いてしまった。直撃していたらただじゃすまないだろう。
「いいよ。来なくても。あたしは後悔なんてしない。だって、やっと、真実を突き止められたのだから」
「行くな!」
「……楽しかったよ、ずっと」
 そう言われて息が止まってしまいそうだった。ニュンの身体はすでに半分消えている。お腹、胸、腕、首まで光と化し、顔や頭も光になってしまった。そこにニュンがいた形跡などない。
「許さねぇぞ、テメェ」
 自分は背筋をただし、マリザと向き合った。マリザもフードを被っており、表情は読み取れない。ただ、隙間から包帯のような白くて長いものが見え隠れしている。
「わたしはマリザ。終焉を導く者。……櫻井奏都、ここまで来たことを褒めてあげましょう。貴方が進むのならば、またきっと会う。その時までの猶予をあげる」
 光に包まれたマリザは消えた。その消え方はイシに似ていなくもない。
 マリザは恐ろしい存在だ。ニュンパエアもハリブも敵わなかった。自分は二人の足元にも及ばないというのに、彼らを打ち破った奴に敵うというのか。
 行く果てのない不安が自分を襲う。焦りはない。猶予を与えられたのだから、その間に手を打てばいい。その手がないからこそ不安は生まれ続けてしまうとしても。

「……気分転換でもしようか」
 重い腰を持ち上げ、玄関に近寄る。扉を押すと、外には満天の星空が広がっていた。いつのまにか夜になっていた。爆音とかも聞こえなくなっていて、嵐の前の静けさのようで薄気味悪い。嵐はまだ来ていない。けれども、いつか来る。自分がマリザと戦わなくてはならない限り。
 剣を扉に立て掛け、玄関の前の地べたの上で胡坐をかいた。
「ニュンも、あの男もマリザっていう奴には敵わなかった。そんで、自分に勝機はあるのか?」
 あったとしたら百分の一。あるいは千分の一。結局確率はゼロに等しいのだから、むしろ近似でゼロにしたくなる。それでいいのか自分。負けを認めることになるぞ。
「……暗い顔ですね、みっともありません。あ、ハリブに勝てたようですね。辛勝のようでしたが」
 突然現れたイシは自分の隣で体育座りをし、同じように夜空を眺めていた。それと、いちいち最後の〝が〟を強めなくていい。
 戦いを思い出してみても、鉛のような何かが胸をふさぐだけだ。気分は一向に晴れない。
「あれは、勝てたんじゃない。勝たしてもらったんだ」
「その心は?」
「男は手加減しているように見えた。いや、殴り合いは本気だったと思う。けど、一歩足りないっていうんかな、殺し合いをしているようには感じられなかった」
「ハリブは生来、人殺しもできないような小心者なのです。それを主のため、という戒めの下で汚い作業を行っている。彼はマリザのボディーガードという表現のほうが正しいかもしれません」
「まるで知っているみたいな話し方だな」
「ええ、もちろん。ハリブはマリザを通して僕と交流がありましたから。ニュンパエアは名高き暗殺者らしかったようですが、……彼女とはあまり面識がありませんでした」
「あいつが人を殺せるはずがねぇよ。あの身のこなしは凄かったけどさ、暗殺者だったらなぜ自分を助けた? あいつに自分を助ける義理なんてないはずだ。はぁ……よくわかんねぇ」
「わかる必要はありません」
 星はなかなか動かない。ずっと同じ絵を見せ付けられている気分だ。それを嫌とは思わない。この時間が永遠であればいいのにと願う。心の奥にマリザと戦うことへの恐怖があるからか。
「奏都さんはどうしますか? 第四ステージに勝たないと、あなたは帰れませんよ」
「……一度だけの人生だ。だから今この時だけを考える」
 自分は一旦声の調子を整え、またイシに視線を戻した。
「過去は及ばず、未来は知れず。死んでからのことは宗教にまかせる」
 この言葉に秘められた思いをイシに汲み取れるかは問題じゃない。
「いつまでも受身でいたって、何にも変わらねぇ。それにうじうじするのも、している奴を見るのも反吐がでる。だから、戦うつもりだ。あんなものを見て、引くわけにもいかねぇだろ」
「…………ぷっ、そんなこと、よく言えますね」
 小さく噴出したイシは腹を抱えただけでなく、薄く涙を浮かべていた。笑い泣きか。
 イシが心から笑ったところを自分は見たことがない。彼の瞳はいつも憂いがちで儚い印象を受ける。自分の問題を棚に挙げるのはアレだが、まあ……いいや。まだ自分よりも若い彼は夢や希望で満ち溢れていて欲しい。げ、考えているだけで鳥肌がたってきた。もしかしたら、彼なりに何かを背負い、戦っているのかもしれない。
「ですけど、そういうところが奏都さんらしいですね。考えていることと真逆のことを言うところが。ほら、鳥肌が立っていますよ」
「は? どこだどこだ……って、こんなに暗いのに見えるわけねぇだろ!」
「ははは……、わかりました。奏都さんの熱意に押されても何もしないなんて、僕の名が廃りますから」
「ついてくるのか? イシ」
「はい。僕を……子供だからといって舐めないでください」
 目に生気が宿ったイシは眉を開いた。
 最後に笑うものが最も笑えればいい。例えば、こいつのように……。未来に可能性がある人が栄光や富を得られない世界なんて、自分は許さない。
 心から溢れ出てくる感情に反して、自分は白い歯を見せていた。
「うはは、そうでなくちゃな」
「その笑い方、気味悪いですね」
「うはは……うは、は? このっクソ餓鬼! 自分のどこが気味悪いって言うんだ!」
「全部です」
「全部!?  太鼓判を押された、この美青年の声も否定すんのかよっ」
「はい、全部。奏都さんがそこに居るだけで虫唾が走ります」
「へー、美青年っていうのは否定しないのか。自分、思われてる~」
 珍しくイシの視線が痛くなかった。溜息を付いた彼はこちらの毒気に当てられたのかもしれない。そうならば、自分の勝ちだ。何の勝負かというと、どちらが一枚上手なのかということだ。年上として、年下に良い顔をしたい。そんな願望を口に出すわけにはいくまい。ぽろっとこぼしたら最後、イシに足元を見られる。絶対に悪夢のような日々が自分を待っている。……それだけはごめんだ! 考えるだけで身の毛がよだつ。落ち着け、落ち着くんだ自分! こいつの前で手の平に〝人〟を三回書くにはいかねぇ。どうすればいいっ。
「あなたを非難していたら、僕は……僕自身が貶されている様な錯覚を覚えることがあります」
 答えを求めるような目で自分を見てきた。他人の問いに答えることは出来ないので、
「気のせいだろ」
 と適当に返した。
 イシは膝の間に頭を沈めていた。さっきまでの輝きが嘘のような思いつめた顔だった。
「僕は骨肉相食むことに耐えられません」
「骨肉……? えーっと、肉親同士が争うことだっけか」
 現在は第四ステージ。彼は、この先に待ち構えているのが肉親だと言いたいのだろうか。先程ちらっと言っていたが、イシとマリザの繋がりは一体何なのだろうか。
「話が早くて助かります。そうです、第四ステージではプレイヤーに最も親しき者、あるいは血の通った者と戦うのが決まりです。その決まりを覆すことは僕でもできません」
 要するにマリザは自分の血縁者だというのか。あんな非道で鬼みたいな奴、自分は知らねぇ。あれ? イシとマリザにも何か関係があるんじゃなかったっけ。……いや、今はそんなこと考えている場合じゃない。
「決まり……か。そんなのは些細なことだと思うぜ」
「どうして些細だと思えるのですか」
 イシの声は僅かだが震えていた。なあ、そこまで事態は深刻なのか?
「へ、自分はまだ絶賛反抗期中だぜ。歯向かって当たり前。おまえも進路とかで衝突でもすれば、嫌でもわかるだろうよ」
「奏都さん、まだ気付いていないのですか?」
「…………っ!」
 頭の中を見透かされた気がして、二の句が継げなかった。言ってしまったら、現実を見せつけられて後悔してしまいそうだった。自分だって哀れまれるほど間抜けではない。だいだいの目星はついている。認めたくねえねぇよ。第三ステージのボスと現実世界で会っていたかもしれないとか、ステージをクリアする度に体に異常をきたしているなど。全部偶然だ。そうだ、全部偶然。偶然以外の何物でもない。
「その様子だと、多少は気付いているんですね」
「うはは、なーんのことだ? 自分にはさーっぱりわからねぇよ」
「隠すのをやめませんか」
 突然に話題を変えられ、自分は「はあ?」としか言えなかった。
「奏都さん、あなたは賢くて聡い人です。僕の言い回しを理解できるのですから。平凡な大人よりも頭の回転は早いのでしょう」
「買い被りだぜ、それは。ここにいる櫻井奏都とかいう男は馬鹿で屑だ」
 幼い頃、智帆が亡くなった時のことを思い出した。自分は護れなかった。人一人護る事でさえ出来ない無能なんだ。
「なら、舞台から下りてください。台本どおりにしか動けない役者は必要ありません」
「それは無理だ。真実を突き止めるまでは」
「目を背けたくなるような現実が待っていても?」
「それは野暮だろ。自分は行く」
「何かが犠牲になっても?」
「犠牲はつきものだ。ただ有形か無形なだけだな」
「本当に本当に行くのですか? やめるのなら今です」
 念を押されても、自分の決心は揺るがなかった。
「自分は行く。この先に待ち受けていようが、引き返したりしねぇ」
「……その熱意、しかと受け取りました」
 イシは佩いている剣に手をかけた。鞘から抜かれたそれは準備されたかのように研がれていて、深い輝きを放っていた。
「お供します、奏都さん」
 イシは手を出してきた。握手だと思い、自分も右手を差し出した。
「…………!」
 相手の拳が鳩尾にめり込んだのか、腹部に強い打撃を食らった。意識を保とうとする暇なく、目を閉じてしまった。
「申し訳ありません。あなたには思い出して欲しいのです」
 ――夜は深い。

        *

 目を覚ましたウーアを襲ったのは小さな違和感だった。コートを着て、階段を下りるとその違和感は確実なものになった。屋敷の中は普段よりも静かだった。不気味であるが、こういうことは初めてではない。しかし、妙なことに肌が泡立った。仕事のような緊張感が心拍数を上げさせた。エントランスは広かった。気のせいだと自信を騙す時間も十分にあった。ウーアは次の仕事に向かおうと外へと通じる玄関へと向かった。
「ウーア……行ってしまうの?」
 いつからそこにいたのだろう。マリザはウーアを呼び止めようと声をかけた。彼女がいるのは階段のふもと。先程ウーアが下りてきた階段だ。気配がなかったことに訝しみながらも、鶴の一言で考えを曲げる彼ではなかった。
「それが俺の仕事だ」
「ウーア……」
 二人はお互いを忌み名で呼び合うことのできる稀有な存在であった。その上、二人の忌み名の意味も似ていた。どちらかといえばマリザという概念の中にウーアは含まれていた。
「マリザ、俺にはやらなけばならないことがある。お前はわかっているだろう?」
「わかったら……ハリブは生き返りますか?」
 その一言でウーアの体は硬直した。ハリブが死んだ。……死んだ? あいつが? 嘘だと、直観は否定した。真実だと、理性は告げていた。
「わたしは……あなたを失いたくありません」
 話しかけられ、ウーアの思考は正常に戻った。ハリブの生死は自身の行動に支障をきたさない、とウーアは心の中で結論した。ただ口に出した言葉はハリブへの憐みを表現していた。
「悪いが、俺はお前の駒じゃない」
「違います。そういう意味ではありませんっ!」
 マリザは腕を伸ばしてあたりを探るように歩き、やがてウーアの存在を認め、抱きついた。一方、ウーアは目を見開くこともなく、ただ扉を見つめていた。
「わたしは……ずっと……あなたを!」
「マリザ……」
 溜息をついたウーアはマリザの腕をとり、ゆっくりと拘束をといた。またマリザが飛びつこうとする寸前にウーアは振り向き、彼女の手首を掴んだ。放さないよう、強く。
「気付けよ、マリザ。それはお前の心じゃない。……同情なんだ」
「……っ!? わたしは嘘偽りなく心から……」
「なら、なんでお前は俺を戦場に行かせた。お前は王様気取りで後ろにいて、報告しか耳を貸さなかった。つまりさ、お前はマリザになろうとしなかった。お前自身がマリザを行う存在になろうとしなかった。そんな奴に、俺の気持ちがわかるか? ウーアという宿命を授けられた者の気持ちを!」
 ウーアは乱暴にマリザの手を振り払った。咄嗟のことでマリザは尻餅をついたが、立ち上がろうとせず、ウーアが立っているであろう場所に顔を向けた。その顔を隠す布のせいで、彼女の表情は判断できなかった。
 しばらくの沈黙後、最初に口を開いたのはマリザだった。
「……あなたは、変わってしまいました。今までのあなたはウーアであることの怒りを他人に向けることはしませんでした」
 おもむろにマリザは立ち上がる。その振る舞いには泣き出しそうな脆さはない。衝動に駆られることもない。ウーアと対等に向き合おうとする強さがあった。決意があった。威風堂々と立つその姿は、ウーアと肩を並べられるくらいの威圧感を放った。
「一つだけ質問します。あなたをそうさせるのは、あの女ですか? あの女のために、あなたは行くのですか?」
 ウーアは鼻を鳴らし、答えた。
「俺は自分のために行く」
 道は分かたれた。
「わたしは……とても後悔しています。あなたを彼女と合わせなければよかった。本当の名を思い出せない失敗作だと侮るべきではありませんでした」
 マリザの呟きを聞かずに、ウーアを歩き出した。外へ出るために扉に手をかけた時、マリザが彼の背中に視線を向けた。目が見えているように、揺れ動く彼の背中を目で射抜いた。
「……それがあなたのウーアであるならば、わたしも使命から逃げません」
 ウーアが出ていくと、マリザの周りには強大な気の流れが渦巻いていた。

 外に出たウーアを待っていたのは、壁に背中を預け、腰に剣を携えたイシだった。
「やあ、ウーア。僕の予想通り来たね」
 気さくに手を振りながらイシはウーアに歩み寄った。勝ち誇ったような笑みを浮かべるイシは、全てを見越していたかのように普段と差がなかった。
 それから二人は扉から距離を取ろうと無意識に歩き始めていた。
 穏やかな快晴だった。こんな天気の下、人が戦っているなど想像するのは難しかった。街ですれ違う人々の笑顔を守ったのは一体誰なのだろうか。王国軍か反乱軍か。どちらにせよ、市民には関係ないのかもしれなかった。力のある方が国を治めればよいと思っているのかもしれない。
 ウーアの生まれ故郷はここではなかった。ゆえに切り捨てるのは容易いと考えていた。ウーアがなぜこうなったのかと逡巡している最中にイシは足を止めた。
「ウーア。僕は君を止めない。君のしたい通りにすればいい」
「そうか。お前は俺を力ずくでも止めるかと思っていたが」
「君一人なら、ね。マリザも本気になった以上、僕一人では……君たちとは真逆の意味をもつイシでも止められない。けれど、少しは驚いたよ。君がマリザを選ばなかったとはね」
「あいつは……友人だ。邪な気持ちなど抱いてはならない」
「敵に邪な気持ちを抱く方がよっぽど悪い気がするよ。僕はね」
「俺はそんな気持ちを抱いてはいない」
「ねぇ、ウーア。僕は君のこと、よく知っているよ。……君よりも、たくさん。勿論、男色ではないよ。付き合いが長いせい」
 言いながら、イシは服のポケットから取り出したコインを親指を上手く使って鉛直に飛ばす。鉛直運動をしたコインは重力加速度を受け、やがてイシの手の上に落ちた。同時にイシはそのコインをもう片手で隠した。
「さ、表と裏どっち?」
「……表だ」
「じゃあ、僕は裏だね」
 イシがコインを隠す手を動かした。
「お、僕が正解。これで僕の全勝だね。ふっふー」
 コインは裏だった。ウーアとは逆を選んだイシが正解した。ちなみにこれまで同様のゲームを何度かしていたが、それら全てイシの勝利だった。ウーアの二択で全部間違えるという技も滅多にないものだろう。
 ウーアとイシは名前が示す通り、真逆の存在だった。どちらの人生のほうが幸せかどうかなど、二人には関係ない。二人はお互いを認め合って生きてきた。
「僕は君の運でさえも奪ってしまったのかもしれない。ウーア。君はどうだった? つらかった? 悲しかった? 怒った? 呪った? この世の不条理を、どう思った?」
「どう思いもしない。自分の選択だ。後悔はしない。結果が悪ければ、受け入れるだけだ」
「……君は僕の力がなくても立っていけるんだね」
「お前には世話になった。その借りを返そうと思ってもいるぞ」
「借りなんて……僕は君に生きてほしい。それだけだよ」
「それは……できない」
 ウーアはイシから視線を外し、遠くの空を見上げた。雲はゆるやかに流れている。青い空と白い雲の両方があるからこそ、コントラストで映えた。
 ウーアとマリザとイシ。三人の関係は時とともに変化を強いられた。最も早く変化したのはマリザであるかもしれない。
 やれやれとお手上げの状態のイシは表情を崩した。
「君のこと、僕は止めない。……覚悟しておきなよ、ウーア……君は忌み名を持たない人物と結ばれない。力ずくでもマリザが介入してくるからね」
「それはお前の勘か?」
「勘というよりも予想だよ。僕のイシとしての力、舐めないでよね」
「……信頼してるさ。肝に銘じておく。イシはその名の通り、イシのために危機判断能力に優れているからな。 俺とは違う」
「違うからこそ、君は選択できるんだよ。……行ってきな。とりあえず、マリザを阻止しようと頑張ってみるけど、期待しないでよ。マリザのしつこさは蛇さえも超えるから」
 イシは抜刀し、低く構えた。細身の剣は彼にとても似合っていた。実用性を重視されたそれは肉をも切り裂く。
 屋敷の中から感じる力を止めようと、イシは突きの構えのまま走り出した。
 親友とすれ違ったウーアは一度目を閉じ、しばらくして目を見開いた。
 もう、彼を止められるものはいない。彼の歩む先にあるのは――ウーアかイシか。

       *

 永遠なんて僕は信じない。
 この思いは、きっといつか失う。それは自分が死んだときかもしれない。あるいは愛想が尽きたときかもしれない。要するに僕は永遠という言葉が嫌いなんだ。だって、そうだろう? 今が大切なときではなくて、明日の到来が確実ならば今何かをしようとは思わない。明日にまわしちゃえ、と思うんじゃないか。いつまでも同じならば、本当に大切なものなんてない。いつもあることが大切なんかじゃないんだ。隣にあったら自分たちはその大切さを忘れてしまう。明日があるからこそ、今を忘れてしまう。今日はたった一日しかないというのに。
 バカだ。みんなバカだ。
 明日が来るとは限らない。それはずっと続くことを意味しているのではないんだ。一日が二十四時間じゃなかったら、という願いが叶うはずもない。けれども人々はそれを願う。叶うことはないとわかっているからこそ、人々は願う。僕はそんな儚い夢を否定しようとは思わない。夢を糧にしている人が世の中に入る。その人を侮辱する気などないんだ。
 僕は永遠なんて信じない。
 いつか全て終わる。終わってしまう。その時、僕は何を願うのか。恐らく、その時にならないとわからない。
 永遠なんて信じない。
 ……僕には今しかない。過去と未来の間に現在があり、こうして考えている瞬間がもう過去だとしても今しかないんだ。
 そして、再び誰かが訪れる。
 招かれざれし者よ。何を背負ってここに足を踏み入れた。ここに永遠などない。あるのは終わりだけ。それでも幸運があるのなら、僕に会えたことぐらいでしょう。
 僕はこの世界で最も異質な存在。ウイルス。バグ。そう称されるようになったのはいつからか。……いつだろう。
 生きることが諦めることならば、僕はすでにここにはいない。誰かを待っている間、時間だけが無慈悲に過ぎる。
 ……僕はあなたを待っていた。
「奏都さん」
 あなたは誰よりも強いくせに弱い。そんなところはあれから変わっていない。だから、あの中立的だった彼も……あなたの味方でいることを選んだのでしょう。

       *

 悪夢を見たような気がした。
 目を開けると、そこは自分の部屋ではなかった。まだ夢を見ているらしい。見慣れない部屋だとなんか落ち着けない。
「おはようございます。寝起きはいい方なんですね」
 声をかけてきたイシは近くの椅子に腰かけていた。
 眠気は取れた。案外よく眠れたのかもしれない。慣れないところで寝られるほど、そこまで神経が図太かったっけ? ……あの家には自分を脅かす人物がいた。そいつがいないだけで精神的な疲れは軽減する。
「おはよう。イシは眠れたのか?」
「この世界の住民に睡眠はありません」
「……寝ていた間、ずっと寝顔を見ていたのか? イヤ――」
「そんなことを言うのはこの口ですか?」
 最後まで言う前に、イシによって口の中に猿轡を入れられようとしていた。いくらなんでも準備が良すぎるぞ、おい。猿轡って拷問かよっ。
「冗談に決まってんだろ。本気にすんな。ほんっと冗談が通じない奴だなー」
 自分は体を起こし、ゆっくりとベッドから出た。ゆっくりと出なければ壊れてしまいそうなベッドだったのだ。その割には寝心地が良かった。ベッドの硬さなんかも気にならない。まるで長い間使っていたような、そんな気分だ。
「朝食は要りますか?」
「んー、朝は抜く。お前は?」
「この世界の住民に食事は要りませんよ」
 イシはまた引っかかる言い方をした。ここが現実ではないということを強調しているのだろうか。それにしても、ただのプログラムだったら、こんなこと言うはずはない。重要キャラクターであることを豪語しているようなものだ。メインキャラっていうやつか。というか、イシばっかりでてくるような気がする。
「他に準備は必要ですか? 用意ができていればすぐに発ちます」
「準備で決着が着くっていうだろ。って、こういう時はアイテムとか装備を工夫するべきじゃねーの? おまえ、知っているか? 超スーパーアイテム」
「マリザに小細工など通じません。必要なのは戦略だけです。彼女の読みを覆すような一手が欲しい」
「二対一だからこっちが有利だろ。戦略よりは力押しのほうがいけそうな気がするぜ。プラス、アイテム使えばどうにでもなるだろ。さーアイテムよこせ」
「はぁ……、僕言いましたよね? マリザに小細工は通じない。実力勝負でなければ、介入されるだけです」
 誰に、と聞くのは野暮だ。ハリブ戦ではマリザに介入された。次介入してくる奴がいるとすれば、相当の覚悟をもたなければならないかもしれない。ラスボスだと思って辛勝したら、実は次の相手がラスボスだったなんて間抜けなこともしたくない。
「お前の台詞ばっか聞いていると、お先真っ暗だな。勝ち目なんてあるのかよ」
「勝ち目はあります」
「よく言えるな、堂々と」
「あなたを勝たせるために僕がいますから」
 出会った当初よりもイシは精神的な成長を遂げている。これもプログラムなのだろうか。それともイシ自身の力か。そんなことを置いていても、彼の成長はまるで自分の家族のように嬉しかった。
 ……家族。そうだ、自分は……こんな家族が欲しかった。学力だけじゃない、ありのままの自分を認めて欲しかった。空義と捺由以外にこういうことを言われたのも初めてだ。こんな奴が……プログラムであるはずはない。
「イシ、お前……。言っていることの意味、わかってんのか?」
「わかっています。全て覚悟の上です。奏都さんを失くすわけにはいきません」
「お前が男じゃなかったら、ときめいたんだけどなぁ」
「変な妄想しないでください。手早く片づけたいので」
「へーいへーい。あーあ、男じゃなかったならな~。いや、自分が女でも良かったな。ああ私の王子様♪ なんちゃって」

 外に出て広場に出た頃、吹き下ろす気流に乗りながら何かが落ちてきた。見間違うはずはなく、それは人の形を成していた。突風が砂塵を巻き上げたので直視はできなかった。どうやって登場してきたのか、まだわからない。
 すでにイシは剣を構えていた。遅れないよう、自分も形だけの剣を構えた。扱いはまだ慣れない。重さで体がふらつくときもある。だとしても負けられない。目の前で無情な命の終わりをもたらした人物に負けるわけにはいかない。
「……どうして、イシがいる?」
 箒に乗って空から降ってきたマリザの一声はそれだった。
 ここまできて箒で驚きはしない。黒いローブは不気味の一言に尽きる。表情もわからない。この状況を楽しんでいると想像すると背筋がゾッとする。
「ここは櫻井奏都のためのステージ。他の人が手を出すことは有り得ない。ううん、管理人に強制退場させられる」
「……そうしたら何をしますか?」
 イシは冷静に言葉を返した。
「第四ステージの主催者、マリザが命ずる。邪魔者を排除せよ!」
 何が起こるのかと、自分は身構えた。一方、イシはどこ吹く風のようだ。構えを解き、平然とマリザに視線を向けている。第三ステージのように雷でも落ちてくるのだろうか。一発なら運が良ければ逃げられる。ここ一帯なら? 逃げられる望みはない。生きるか死ぬかの選択が、彼女の一言で決められてしまうなんて許せねぇ。
  秒の沈黙後、マリザの猛々しい叫びではなにも起こらなかった。いや、すぐに発動しないタイプなのかもしれない。自分は構えたままマリザに視線を向けた。
「マリザのためのマリザによるステージ。ここではわたしがルール。……イシ、何をした?」
 態度に出していなくても、マリザの動揺がこちらにもわかった。彼女は信じられないという様子のまま再度箒に跨り、空中に浮かぶ。乗り慣れているのか、バランスはとても良い。
 尋ねられたイシは質問を質問で返す。
「あなたは、これでわからないほど馬鹿ではないでしょう?」
「ウイルス……こちらに介入してきたのね」
「そうです。僕はウイルス。……やっと記憶がつながりました。現実と仮想世界。あなたがたの野望を僕は止める。特にマリザ、あなたは――姉さんを奪った!」
 一瞬の薙ぎ。イシの剣先は空中に浮かぶマリザにかすりもしない。だがイシの対応は早い。剣技が届かない判断した瞬間、何かを唱えた。
直後、突風がうまれてマリザを叩き落とそうとする。
「……」
 その風をマリザは寸前でかわした。無傷ではなかった。ローブの裾が少し引き裂かれていた。それからイシが迫撃しようとする前に、彼の真上に光の槍が召喚されていた。
「イシっ!」
 自分はありったけの声で注意を促した。異変を察したイシはサイドステップで落下してきた槍をよけた。数秒前までイシがいた場所に槍が直立していた。どういう原理なのか自分にはわからない。槍はイシを狙った、ということはマリザが召喚したのだろうか。マリザはイシの術をよけていたはずだ。一体どこにそんな余裕があったのだろう。
「あなたたちは……無詠唱に勝てることができる?」
「へぇ~、無詠唱とかチートだろ」
「チート? マリザはそんなの知らない。ここはマリザが統べる第四ステージ。マリザは神。意志があれば詠唱はいらない」
 無詠唱なんてチートだ。ゲームバランスを崩壊させる種だ。勝ち目なんて本当にあるのだろうかと疑っていると、イシが大きく息を吸った。
「マリザ、君は間違っている! そうやって君は世界を望むように動かしてきたかもしれない。でも、君は一つだけ手に入れられなかったものがあるだろうっ」
「……マリザは神。手に入れられないものは力ずくでも奪ってきた」
「いいや、君は手に入れられなかった! ……ウーアの心を!」
 イシが叫んだ直後、彼の体はマリザが生み出した衝撃波によって傾いた。好機を見出したマリザは畳み掛ける。体勢を立て直したイシの周りを竜巻がいくつも囲んでいた。衝撃波は一撃目だったのだ。二撃目の竜巻は四方八方にあり、イシの逃げ道を塞ぐように渦巻いていた。この距離でも風の音が聞こえる。あんなのが直撃したらひとたまりもない。
「イシこそ物分りが良かったはず。出来そこないのあなたは不必要。切り裂かれてしまえっ!」
 マリザはが腕を上げると、竜巻がイシに接近し始めた。
 イシ、と叫んだ自分は彼に駆け寄ろうとしたが止められた。
「僕が〝イシ〟だということを忘れないでくださいっ!」
 風がイシを切り裂く。その様子をマリザは箒に乗って笑いながら見つめている。
 ……楽しんでやがる、こいつ。人間じゃねぇ。
「テメェ、マリザっていったよな?」
「わたしはマリザ。終焉をもたらす者」
「ふざけんな、頭に来た。そうやってお高くとまりやがって! いい気分になるなよッ」
「櫻井奏都、我を屈服できるならしてみろ。剣劇が我に届くのであれば」
 突く、切る、はらう。それだけでは空中にいるマリザには届かない。生憎、ずば抜けた跳躍もアクロバティックなこともできる気はしない。今まで自分はどうやって空にいるものを落としてきた?
 風が消えると、そこにはうずくまったイシがいた。剣を地面に突き刺したまま彼は暫く動こうとしない。恐らく、大きなダメージを受けているのだろう。こういう時、サポートするのが自分の役目なんだ。
「どうする? 櫻井奏都?」
 相手の挑発でいちいちむきになってはいけない。周りを見ろ。ここはどこだ? 相手は誰だ? 自分には何ができる? 
 ふと、足を止めた。
 声が聞こえる。
 懐かしい……この響きは……。
 詠唱。
 地面を蹴った。この気持ちが間違いではないならば、きっとこれは……。この術は!
 晴れた空に一筋の光。光は新たな力がうまれた時に発せられたエネルギー。それは余剰なもの。周囲を照らす明かりにはならない。
 マリザは光に気付き、自身を薄い膜で覆う。
 自分はマリザに接近し、飛び上がった。
 飛距離は足りないが、これでいい。
「奏都さんっ」
「うおぉぉおおおぉぉ!」
 気合を入れるために雄たけびをあげると、一瞬だけマリザと目があった。フードの下に隠された表情は想像よりも幼い。
 ほぼ同時に光が消滅し、もたらされたのは小さな粒――ヘイルストーム。雹はマリザが張っていた膜を貫いた。バランスを崩したマリザは下降する。その
 下にいた自分は落ちてきたマリザに剣を力任せに振るった。空中にいるせいか、足元に力を入れられなかった。切っ先はぶれたが、元より相手にダメージを与えることを考えていたわけではない。
 意外と上手くいったな、イシ。相性抜群かもしれない。そんなことを言ったら、何言ってるんですかと断られそうだけど。
 渾身の袈裟懸けはマリザに当たらなかった。これでいい。相手を落とすこと。その方法を一つ見つけられただけでいい。着地し、後ろに下がると無傷のイシが頷いていた。懐かしさが一体なんなのかはしらない。天候を変えるなんて真似、現実じゃできないもんな。現実だったら、石とかぶつければいい。石ゆえにイシ? なんか一度考えたことのある台詞だな。
「……っ」
 剣を避けようとしたマリザは緊急回避をしようと急いで後ろに下がった。箒の上でまごついていたが、暫くするとバランスを取り戻していた。
「卑怯な手を使ってくるなんて……っ。この―っ! つぶれちゃえーっ」
 マリザの口調が変わったと思った刹那、急に寒気を感じた。自身の足もとに青い魔法陣が描かれている。しまった、逃げられねぇっ。
 氷の中に閉じ込められた。冷気が耳を切る。痛い。皮膚も切られている。嘘だッ。息もできねぇぞ。苦し……っ。
 砕けるように消えたダイヤモンド型の氷。その中に閉じ込められていた自分は寒さにやられた。解放された後も肩で息を吸う。ここは針のむしろなんだ。油断した先に待っているのは死。このままじゃ体力と気力がもたない。
「ね? 苦しかったでしょ?」
「へ……たいしたことじゃねぇ」
「降参した? ……チっ、また……ウイルスごときがっ」
  分が息を整えている間、イシがマリザに肉薄していた。彼は詠唱をほぼ必要としない術を織り交ぜながら剣で相手を圧倒する。マリザも無詠唱の術でイシ一人を狙っているようだが、ことごとく交わされている。
 二人の戦いは自分のより何段も上に戦い方をしている。どちらもソロのときのようだ。敵単体を狙う。自分は眼中にないってことか……じゃねぇ。ソロゆえに防御を考えなくてはならない。パーティだったら回復役と火力が果たす役目は違う。なあ、今マリザに防御を考えている暇はあるのか? さっきは膜みたいなものが体を覆っていた。それは今、ない。
 イシとマリザ、ニュンとハリブ。二つの戦いで違うのは肉弾戦だけでないということだ。力だけが全てを決するのではない。
 ……空義。お前なら、どうやってこの場をやり抜く?
 答えが返ってくるはずはない。
 空義が弓道を始めたのはいつだっただろうか。仲良くなった時は弓道なんてやっていなかった気がする。自分が弓道を知ったのは……確か。
 身に覚えのない光景が頭をよぎった。
 自分の前で笑う四人の子供。
 車を追う自分。 
 三人の子供と一緒に泣く。
 運動会の事故後、自分は知らない人に引き取られる。
 どちらも笑っていない。
 また誰かがやってくる。女の子。自分と同い年そうな――。
 記憶が弾けた。パズルのピースが完成する。
「……智帆、お前は一体……誰なんだ?」
 妹である智帆は事故で死んだ。だったら、妹のふりをする智帆は何者なんだ?
 考え事はマリザの術に邪魔される。地面が急に柔らかくなって足を取られた。お遊びの術なのか、実害はない。ただ考え事を邪魔された程度だ。
「わたしの標的は櫻井奏都だよっ!」
「よそ見する暇がありますか?」
 マリザとイシの応答がやけに遠く感じる。
 考えている暇はないのに考えずにはいられない。
 また異変を感じた。予想通りマリザの術が炸裂する。自分のすぐそばで小さな爆発が起きた。その爆発に巻き込まれ自分は地面に臥した。腕で身体を持ち上げようとすると難なく立ち上がれた。爆発のエネルギーで吹き飛ばされただけのようだ。あの氷のときのような痛みはない。臥した際、手のひらを小石で切ったくらいか。手を握って開く。大丈夫だ。まだ手は動く。剣を握れる。
「……わたしを見てよ。あなたの敵はわたしだっ」
「は……?」
 棒立ちになっている自分の前で影が動く。次に襲うのは感触。腹部あたりの服を誰かに掴まれていた。影と判断されたのはマリザだった。彼女は箒から降りて、こちらの上着を掴んでいる。
 咄嗟の出来事で自分の体は動かない。この距離ならやれれてしまう。
「離れるんだ、マリザっ」
 距離を置いたところで、イシが剣で地面を切り上げるようにして衝撃波を生み出した。それは真っ直ぐこちらに向かい、マリザの体に直撃する。
「わたし……だよ。奏都の相手は……」
 攻撃を受けたというのにマリザは手を放さない。この執着っぷりを理解できない。どうしてそこまで自分を狙う?
「逃がさない。地の果てまでだって、わたしは追いかけてみせるっ。ウーアだってそうだったもん! わたしじゃなくて、あの女を選んだ。なんで、自身の真名さえ知らない女を選ぶの? ずっと好きだったのに、ずっと好きだったのに! どんなに嫉妬深くても、罵られてもいい。愛していたの……」
 マリザの手に力が集まっているのが自分でもわかる。気流が変化しているのだ。マリザは台風の目になりつつある。幸い自分の右手は空いていた。 この距離ならマリザを斬れる。果たして、それが自分にできるのだろうか。
「手に入らないくらいなら、誰にも奪わせはしない。だから――」
 マリザの腕が震えていた。泣いているように思ったのは目の錯覚だ。身長差のせいで、こちらからフードの下を見ることはできないのだから。
「死んで」
 それは終焉へといざなう言葉――。

        *

 長い旅路の後、辿り着いたのがこの街だった。表向きは賑わっているようだが、裏では犯罪の巣窟だった。陽の下を歩く者としては不自由などなかった。物流の中心でもあったからだ。旅で身内を失った自分の拠点となったのはキャラバンのうちの一人の知り合いの屋敷だった。
 歓迎はされなかった。いや、歓迎などされる気もなかった。寝るためにその屋敷に戻る、という日が数十日続いた。
 いつの日だったか。いつものように外をぶらつくと、誰かにつけられているような気がして裏路地に駆け込んだ。誘い込まれているとは気付かず、逃げ込んだ先に彼らはいた。
「これが例の人……? 弱そう……」
「人を外見で判断しちゃダメでしょ、マヌス」
 弓士と格闘家。二人がこの街での初めての友人と言える存在だった。
 二人からこの街について教えてもらう代わりに、自分は戦い方を教えた。幼い二人は水を吸う根のようにメキメキと成長した。元々センスはあったが、その伸び具合は目を見張るしかなかった。
 二人に同伴した最初の任務後、屋敷に忍び帰ると一階に二人の人物がいた。同い年くらいのイシ。占術士のマリザ。イシとはすぐに悪友と呼べる仲になったが、マリザは掴みにくい奴だった。占術士などいないと思っていたせいもある。彼女の助言は的確だった。まるで仕組まれたかのように事が運んだのだ。
 この街に慣れた頃、忌み名や真名という説明を受けた。

「お前はウーアだ」
 そうだ、俺はそう呼ばれ続けてきた。名付け親はきっと両親と仲の良いキャラバンの人だったと思う。
 ――ウーア。
 旅の中、この名前で困ることはなかった。砂漠を超え、海を渡り、初めてこの名前の意味を教えてくれたのは盲目の少女だった。
「……ウーア。呪われた名。意味するものは死」
 死?
「わたしはマリザ。終わりへの導き手。あなたと……同じ」
 終わり?
「いつか……わかる日が来る」
 自身の名が死を意味する。それを知った時、俺に光を与えてくれたのは境遇も生き方も違う少年だった。
「僕の名前はイシ。ウーアやマリザとは同じ言語ですが、〝生〟を意味するそうです」
 生?
「心配する必要なんてないよ。僕の名が君の名を打ち消すから」



 呼吸をすると、すんなりと酸素が肺にたまった。体のどこも痛くない。
「……生きているか?」
「生きていますね」
 そう答えたイシは自分の前にいた。マリザはいない。自分の腹部を触ってみても、何も感じなかった。あの至近距離の攻撃をどうやって受け流せたのだろうか。自分は超凄い術でも発動したか、あるいはイシが助けてくれたのか。……後者だろうな。
「お前、何かやったのか?」
「特別なことは何も。発動前に突進しただけですよ」
「突進って危ねぇーな。後先見ずに行動すんなっての」
「奏都さんの無茶ぷりに比べれば、たいしたことではありません」
 イシは左腕を右手でつかんだ。それにつられて自分も目を動かす。彼は左腕を怪我していた。袖は焼け爛れ、素肌がのぞいている。
「怪我してんだろっ!? たいしたことないって嘘つくな!」
「これぐらい、たいしたことではありませんよ。僕が無力だったせいでウーアもマリザも戦いの道を選んだ。……どんな巡りでも、最後に必ず僕は生き残る。イシという名は僕を縛り付ける。この痛みは僕への罰なのです」
 返す言葉が見つからなかった。最近見る夢をあてにするならば、イシは生き続ける。出会った頃のイシはすでに疲れていたのではないだろうか。それが設定であっても、軽く笑い飛ばすことはできやしない。認めたくはないけれども、それほど自分はイシという少年に同情しているのだろう。誰かに同情するのは久しぶりだ。空義も捺由も心が強かった。自分が入り込める隙間なんてない。イシは? イシなら……。
「……けほ……ごほっ。わたしに手を下すなんて、いい度胸してんじゃん……。もうっ、手加減してあげない! ひれ伏しなさい、女王様の前で!」
 マリザもぼろぼろだった。黒いローブは所々焼かれている。ちらちらとちらつく素肌は白い。白……? 夢の中で誰かがマリザを浅黒い肌だと言った。なのに白? 自分の見間違いか。それとも今まで見た夢のマリザと違う……?
「きゃはははははっ♪ 君たちの血はどんな色?」
「奏都さんっ、これは……!」
 イシの発言に自分は思いっきり舌打ちをした。ここにきて引き下がるわけにはいかない。舌を巻いているわけにはいかねぇんだよっ!
 足もとには半径数十メートルはありそうな黒色の歪が生まれていた。まるで地面が真っ黒に染まったようだ。自分もイシもその中に引きずり込まれている。もがこうとするが、掴めるものはない。
「……街が吸い込まれている?」
 イシの呟きは的を得ていた。掴めるものなんてあるはずがない。周りの風景も一緒に引きずり込まれているのだ。建物や森は粒子となって霧散し、空も色を変えていく。タイルが剥がれていくように、全てがなくなったあと残るのは……飾り気のない基礎だけに決まっている。
「二人を特別招待しまーすっ。本物の第四ステージに♪」
 無邪気な声は毒気など含んでいない。そんな子がここまで歪んでしまうのかと思うと、ちくりと胸が痛いんだ。この子も打たれた杭だったのかもしれない。生き方を否定され、価値観を捻じ曲げられ、辿り着いたのが今のような悲惨さなのかもしれない。   

 何もなかった。一面、雪が積もったのかと疑いたくなるほど真っ白だった。街の風景などどこにもありはしない。何もない。ここには何もない。
 ブラックホールに吸い込まれた後、落とされたのがこの白い空間だった。
「ここに人をいれたのは何年ぶりかなぁ? キャハ、初めてかもぉ~。ねえねえ、わたしと遊んでよー、お二人さん? サービスするよー? ねね、何飲む~? それとも食べる~? 食べるのは、わ・た・し……だよね?」
 くるくると変わる態度に自分は口をはさめなかった。一方、イシは自分の前で臨戦態勢をとっている。冷静な奴だ。左腕をぶらりとさせていることから推測すると、骨か筋がやられたのかもしれない。
 自分も鞘から剣を抜いた。錆一つもない刀身は迷いなどない輝きを放っていた。こんな風に輝きたい。そう願ってしまうのは悪いことなのだろうか。
「奏都さんっ! 僕が全ての攻撃を引き寄せます。その間にやってください」
「やるって何をだよ!?」
「全く、剣を振るしか脳がないんですか?」
「剣さえも満足にできなくて悪かったな」
「……奏都さんにしかできないことがあります。彼女の気をそらしてください。その一瞬を僕が決めます」
「できるのか? お前にそんなこと」
「僕の心配よりも己の心配をしたらどうです? ここはケレブレムですよ? 心を痛めないでください。僕には頼もしい協力者がいるんで」
「そいつは信頼してもいい奴か?」
「勿論、僕が責任を負いますよ」
「よく言った! さ、自分もいっちょやるか」
 前方を睨み付けると、マリザは地に足をつけていた。箒に乗ってはいない。余程の自信があるように見える。焼け焦げたローブは痛々しいが、その佇まいは凛としていた。
 イシが詠唱を始めたのを確認した後、自分は前に躍り出た。その瞬間からすでにマリザの術は発動しているようだった。自分に向けられたものは全てキャンセルされ、イシへと対象を変える。後ろ髪をひかれるが、振り返るわけにはいかない。マリザの相手は自分なのだ。
「……櫻井奏都」
「ああ。自分は櫻井奏都だ」
 口を開いたのはマリザが先だった。
「わたしは黛捺由を手にかけた張本人。それでも、戦う?」
「ふーん、やっぱりニュンが捺由だったのか」
「驚かないの?」
「付き合いが長いからな」
「……ウフフ、アハハ……! マリザに歯向かうのがいけないんだよっ! 奏都のそばにいるのは、わたしだけでいい! 他の女に渡しはしないっ」
「奏都のそば……? お前、自分を知ってんのか?」
「妹の名前、智帆っていったけ。落ち着いた女の子。そう、マリザのように。本心を隠してもなお相手を立てる古臭い女。ざこかったよ。殺すのも、いためつけるのも」
「……!? テメェ、妹に何をした!?」
「いや~ん、こわーい。わたしは何もやってないよぉ。っていうかー、智帆ちゃん自身の落ち度でしょー。あの子は抗体をもって生まれてこなかった。わたしは悪くないもーん」
「見て見ぬ振りをしたっていうのか?」
「そんな真似、わたしがするわけないじゃん。わたしは彼女が死んだあと、自分について知った。わたしは智帆と同じマリザの片割れ。あの子はマリザの記憶と性格を受け継いだ。まーあ、わたしは能力と感情を受け継いだんだけどねー。これが厄介で厄介で」
 目の前の人間はマリザと呼ばれているはずなのに、まるで自分はマリザでないかのように話す。こいつは誰だ? 妹の死の詳細を知っているこいつの腹の底がわからない。自分を惑わすつもりなのか?
「ねぇ、生まれてからすぐに執着を覚える子どもなんているのかな? わたしだって怖かった。ウーアに向けられた思い、どす黒い嫉妬心。耐えられなかった、耐えることなんてできなかった。つらかった、壊れそうになった! なのに、櫻井智帆は悠々自適に生きていた! 名前を与えられ、住む場所もあって、家族がいて……! わたしもマリザの半身だった。この扱いの差は一体何? わたしがなんでマリザを背負わなくちゃいけないの? 怒りも苦しみも全部っ。
わたしは結局替え玉でしかない。櫻井智帆の替え玉であって、本物の智帆じゃないもん!」
「お前、まさか……」
「欲しいものは全部奪ってきた! 奪われたものを取り返すために。わたしの名を、家族を、人生を取り戻すために。奏都、わたしと戦って!」
 マリザは黒ローブをいきなり脱いだ。目を隠そうと思ったが、ちゃんと彼女は下にまだ服を着ていた。
「櫻井奏都。わたしはお兄ちゃんなんて呼びたくなかった」
「智帆……」
「わたしは智帆じゃないっ。わたしはマリザだ! 何度も言わせるなアホっ」
 ローブの下に隠れていたのは見慣れた顔の少女だった。茶色の髪を二つに分け、その結び目には薄いベールがついている。軽装で、お腹と膝付近を露出させている。短パンとブーツというのは冒険者のようだ。腰に巻きつけられた布には金色の装飾品が映えた。踊り子、その一言がしっくりくる。妹が死んでから、智帆と名乗る少女を妹だとみなしていなかった。彼女だけじゃない。今の父親と母親だって本物ではない。わかっていた。わかっていたんだ。今さら驚きはしない。
「わたしは拾われた。その恩義のために、退くわけにはいかない。来なさい、櫻井奏都!」
 智帆の手には短剣が握られていた。  
 
 智帆は毅然とした姿でいた。本当にあの智帆なのかと目を疑ってしまうほど金色の装飾品は彼女にとても似合う。
「お兄ちゃん……待ち遠しかったよ。ここでお兄ちゃんが負ければ、あの女に奪われなくてすむ。痛くないよ、すぐに終わらせてあげる」
「自分はテメェの兄じゃねぇ! 妹の名を汚すなっ」
「なら……お兄ちゃんはちーちゃんを殺せる? 嫌われてるって気付いていたけど、智帆を殺せるの? 妹と同じ名前の女の子を殺せるの?」
 剣を握る右手。自分の右腕は動かない。一方、相手は短剣しか持っていない。リーチは短い。どこかに飛び道具を隠しているかもしれないが、智帆はそんなに俊敏な方ではない。たとえどんなに荒い攻撃であっても、彼女は避けられないはずだ。自分が乱暴に剣をふるっても当たる可能性はある。そんな仮定は智帆が計算高くない人間であればの話だ。自分に勝ち目があるかどうかはまだわからない。
 悩んでいることに気付かれたのか、イシに言葉をかけられる。
「奏都さん、重要なのはあなたがどうしたいかです。……敗北は死を意味することをお忘れなく」
「智帆は覚悟してる。負けちゃって現実に帰れなくなっても、お兄ちゃんがいない世界にわたしの安住はない。勝っても、お兄ちゃんはいない。……どっちがいいんだろうね? 誰かのために死ぬのか、自分のために殺すのか。マリザは悩んでいて、あんなことしちゃったみたいだけどぉ。ウーアの名を縛って、マクツーリアを呪い……。キャハッ? マクツーリアにかけた呪いはやったじゃ~ん♪ マリザをほめてあ・げ・る。あの色いいよねー。白色の髪、生まれながらの白髪。おばあちゃんみたい。きゃはは、きゃはは、あははははははは。ねーねーお兄ちゃん。生きながらの死ってどんな気持ちなのかなぁ? 人にさげずまれ、嫌われ憎まれて。はぁーっ、どんな気持ちなのかなぁ」
 とろけたような甘い声。陶酔しているかのような表情。妹と同じ名を持つ彼女は扱いづらい。感情の起伏が激しすぎて手に負えない。
 こいつ、爆弾を抱えてやがる。
 あともう一つ言葉が頭をよぎった。
「おまえ……統合失調症なのか?」
「あはは……は? 違うに決まってるし。わたしはわたし。智帆だよ、マリザだよ。マリザは奇異なものを見るような目を向けらてきた。占い師。魔女。そんな思いをマクツーリアも味わえばいいっ。銀の髪、金色の瞳。そうだよ、そうだよ! あいつらは生命を弄んできた。あいつらは一卵性の双子を二卵性にしたんだ。許しはしない。あの女――マクツーリア!」
「お兄ちゃん、お兄ちゃんもあの女に騙されているんだよ。なっちゃんだって、あの女に騙されて目を覚まさなくなった。倒したのはマリザだけど? うふふ」
「捺由はおまえに負けて昏睡状態になったのか?」
「詳しい原理は知らないけど、そうみたぁい。けどねけどね、わたしたち運営側も適応されちゃうんだよねー。シドっちも、もうバタンキューしてるかなぁ? ……あわ、話それちゃった、てへ? わたしだって負けたら死ぬんだもん。綺麗ごとなんて言ってられない。でもね、なっちゃんのこと好きだった。緑色の髪なの  に堂々としているんだもん。なのに、なのに、なのに、なのに! お兄ちゃんを罠にはめるために犠牲になったんだよ」
「ぎ……せ、い? 自分のせい? 自分が捺由と仲が良かったせい?」
「この世界・ケレブレムだって仕組まれた産物。目を覚ましてよ、お兄ちゃんっ。お兄ちゃんは騙されているんだよぉ~」
 捺由を巻き込んだのは自分なのか……? 自分が巻き込まれたのではなく、自分が巻き込んだ側? 自分がいなければ彼女は昏睡しなかった? 輝かしい栄光を残し続けていた? 捺由が活躍しているところを見たことはある。彼女は誰からも信頼されていた。後輩に慕われ、先輩からも一目置かれていた彼女の生活を奪ったのは自分だというのか。  
「……っ!?」
 こめかみに鋭い痛みを感じた。ピリピリとした痛み。まるで電流のようなものが自分の思考を邪魔する。思い出さなくてはならないくせに、思い出せない。どうやって捺由を巻き込んだのかを。それを思い出すのも責任なんだ。捺由が目覚めないという事実は変わらないのだから、彼女を目覚めさせる手段を探せばいい。叱責やなんやらはその後だ。
「思い出そうとしたの? 無理に決まってんじゃん。お兄ちゃんはどんどん忘れていく。ケレブレムに入るのはそういうこと。お邪魔虫がケレブレムを汚し、壊す。ここではマリザもお邪魔虫。お兄ちゃんもね」
 不気味な笑顔を浮かべる智帆は自分よりもケレブレムについて深く知っているようだ。ケレブレムの存在意義。それを聞いたのは一体誰だったか。
 マリザとは反対方向――自分の後ろに少年がいる。彼の名はイシ。出会った当初は曇っていた瞳が、こちらの決断を見守ってくれている。
「……智帆」
 言葉が自然と漏れる。
 自分は握っていた剣を鞘に戻し、その鞘ごと足もとに捨てた。滑らせるように投げてみたが、元々の重みや形状のせいで飛距離は短い。
 そんな光景を目にした智帆は明らかに狼狽する。
「なにするの……、剣を持ってよお兄ちゃん! お兄ちゃんもなっちゃんのように戦えないの!?」
 ああ……やっぱり捺由も戦えなかったのか。
 この気持ち。この思い。この感情、心の動き。
 そうか、智帆は――。
 やっと見えた……智帆の本質が。
「剣をとってよ。そんな無防備じゃ簡単にやられちゃうよっ」
 智帆と目があった。どちらもなかなか視線をそらさない。彼女の表情は強張っている。そのまま視線を外さないのは彼女の意地だろうか。それともいまだに
ヤンデレ気味なのか。わたしを見てよ! ……なんちゃって。こんなにも深刻な場面でふざけれらるのも才能の一つかもな。口から発せられた言葉は現状にふさわしいものだった。
「だったら殺せ。この距離ならできるんだろ? おまえなら」
「……ど、どうして……?」
 智帆は膝から崩れ落ちた。顔を両手で隠し、すすり泣き始める。彼女はプログラムではない。生きている人間そのものだった。
「なっちゃんも抵抗しなかった。目を閉じて〝殺して〟だなんて言った。ふざけないでよ! ここで負けたらケレブレムの活動が遅くなると知っても、負けを選ぶなんて馬鹿だよ、アホだよ、大馬鹿だよッ」
 声をあげて泣く智帆の涙は本物だった。もしかしたら彼女の本物の涙を見るのは初めてかもしれない。
「智帆、捺由の敗北を選んだ理由がわかるか?」
 ゆっくりと智帆は首を振った。それもそうだ。わかっていたら、自分と智帆の関係はここまでこじれなかっただろう。この子は求めていただけなんだ。誰も与えてくれないものを誰かに与えて欲しいと願っていただけなんだ。それを奏都に求めたのは間違いだったが。
「捺由がおまえを傷つけられなかったのは……おまえを愛していたからだ。って、レズとかそういう意味じゃねぇぞ。親が子に向けるような愛情を、捺由はおまえに注いだんだ」
「嘘を言うな! 憐みのつもり? わたしは捨てられてから、あのグループに櫻井智帆という名を与えられた恩に報いたいの。でも、でもね……わたしを受け入れてくれたのは、なっちゃんとか空義さんだった。お兄ちゃんも偽りのわたしに惑わされなかった。……うう、なっちゃん……。わたしを置いていかないで。わたしのそばにいてよ……。わたしのこと嫌い? 一緒に遊んでくれないの?」
 そこまで言って智帆は本格的に泣き始めた。嗚咽がまじり、上手く話せない。
 彼女なりの思いがあるのだろうと、自分はその場を離れようとするが、服の裾を智帆につかまれた。ストーカー云々の時よりは弱い強さだ。振りきれなくはない。
「仕方ねぇな」
 自分は智帆の頭を一回だけ撫でた。
「……お兄ちゃ……ん」
「ちげーだろ、おまえは妹なんかじゃない。〝智帆〟だ」
 顔を上げた智帆は瞳を潤ませていた。彼女なら、こちらの真意がわかるだろう。
 智帆は目尻に涙をためたまま、長く目をつむる。そして目を見開いた時の瞳の輝きは普段よりも美しい。これこそが彼女の本来の姿のようだ。
「えへ……絆されちゃったね、智帆……。わたしにこんな日が来るなんて誰か予想していた? 誰もしていないよ。……ね、お兄ちゃん」
「だから、おまえは妹じゃねぇっての。これからは奏都って呼べよ、自分のこと」
「いいの……? 智帆にそんな風に呼ばれて嫌だと思わない?」
「提案している本人が言ってんだぜ? 信じろよ」
「……ありがと、奏都」
「いや、別に……」
 しおらしい智帆が相手だとなんだか照れくさい。
 ――そんな油断が命とりだったのかもしれない。
「マリザ……変わるべきなのはわたしたちなんだよ」
 泣き止んだ智帆は呟き、俯いたままもっと頭を下げていた。腕を組んでいるというよりは、自身の体を抱くような体勢でいる。
「奏都、イシ……わたしは二人に、あの女を止めて欲しいの。それがわたしの……たった一つの願い」 
 たった一つの願い。まるで、これから望まないようなことを言う。将来は長い。たった一つだなんて言う年頃ではないはずだというのに。
「……マリザ。あなたっていう人は」
 後ろから声をかけられて振り返ってみると、イシが神妙な面持ちでいた。自分は急に悪寒がした。イシは眉をひそめ、智帆と真正面に向き合う。彼は膝を付き、彼女へと手を伸ばした。彼が彼女の上半身を起こした時、自分は絶句してしまった。智帆の腹部に短剣が突き刺さっていたのだ。すでに彼女の腹部 は赤く染まっていた。
「あはっ、ばれちゃった? このまま消えるつもりだったのに……、イシは許してくれないんだね。わたしを苦しめたいの? それもそうだよね。わたしがいなければ、あなたの姉は生きていたはずだもん」
 奏都の妹の名が智帆であるのは事実だ。だとしたら、イシの姉は智帆だというのだろうか。つまり自分とイシが兄弟? そんな記憶などない。
「僕はあなたが憎い。櫻井智帆を殺し、あなたを目覚めさせるために彼らはジェノサイドを行った。その行為を僕は断じて許さない。彼らは僕の両親と姉を奪った。それも到底許せることではありません。……誤解しないでください。僕は許し許されるための存在ではありません。僕は僕の意思でこの道を選びました。どんなに罵られたっていい。僕は櫻井暁夜として生きていく、それだけのことです」
「そっか、安心しちゃった……。マリザはイシに恨まれているんじゃないかって憂いていたから、嬉しい……」
「……どうか安らかに眠ってください、〝マリザ〟」
「!? 女の勘って当たるもんなんだねぇ。この選択肢が正解みたい。……イシ、奏都をよろしくね」
「あなたこそ、よろしくお願いします」
「ふふ……イシ、君は変わったんだね。もう君は間違えない。本当に大切なものを君は知っている。どうか失くさないで……多分これはマリザのゆい、ご、ん……」
 智帆の体を白い光りが包んだ。今までの自分だったら智帆に感傷なんてしなかったかもしれない。けれど、彼女の本質に触れた今、心が動く。ただ言葉にはできない。この感情をどう表現すればいいんだろう。誰か教えてくれ。まさかこんなところで人付き合いのなさが裏目に出るとは。
 智帆は自分たちに見守られながら消えた。この白い世界に同化したといっても過言ではない終わり方だった。
「奏都さん、次はあなたの番です」
 イシに告げられた時、自分の意識が遠くなっているのに気付いた。眠くて、だるい。まだ聞きたいことはたくさんあるのに。
「……おまえ、自分の――」
「問いに答えてもあなたは忘れてしまう。なので僕は答えません」
 それは肯定だった。ああ、ここでやっと会えるなんてな。幸せ者だ。
「さ、お目覚めの時間のようですね。よい現実を」
 イシの声が遠い。もう自分は起きようとしている。頭と口が動かないせいで何も言うことができない。でも、イシの晴れやかな笑顔を見ているとどうでもよくなりそうだった。智帆の消失は胸につっかかるが。
 ありがとう、ごめんな、と最後自分は心の中で唱えた。

        *
   
 王国軍と反乱軍の戦いでウーアは負傷していた。特にヤスミノイデスと刃を交えたために、動かない関節が幾つかあった。痛いなんてものではない。身体が動いていることが不思議になるくらいの激痛であった。こんなにも弱ったところを王国軍に知られたら真っ先に打ち首にされるだろう。彼の顔は良い意味でも悪い意味でも広まっていたのだから。
「はっ、こんな痛手を負うなんてな。俺らしくないな」
「うん……珍しい」
「誰だ!?」
 人目を忍んでここまで来たというのに誰かにつけられてきた。周囲は煙に包まれている。相手は一体誰なのか、と不安に駆られながらも剣の鞘に右手をそえ、すぐに抜刀できる体制をとった。
「わからないの? わたしだよ、マリザだよ」
「イシはどうした? おまえはイシと戦ったはずだ」
「彼では役者不足。この舞台から降りてもらった。……あなたもわたしと戦う?」
 戦う者としての勘が危険を告げていた。ウーアではマリザに勝てないと。勝率は万に一もないと。
「そこをどいてくれないか、マリザ。俺にはまだやらなくてはならないことがある。行かなくてはならないんだ」
「行かせない。あなたは何度も巡りを繰り返した。まだその輪廻を続ける気? あなたはわたしと同じ忌み名を持ちし者。ウーア。あなたを待ち受けているものは〝死〟ただ一つ」
「マリザ、俺には目指すものがある。第一、反乱軍挙兵を煽ったのはお前だ。忘れたとは言わせない」
「運命だから動かした。わたしはマリザ。たとえどんな幸福であっても、次の輪廻へと導くために全てを終わらせる。あなたたちは幾つもの巡りを繰り返した。終わり方も多種多彩。出会わなかったときだってある」
「お前……本当にマリザか?」
「この世界にマリザという人間は存在しない。マリザとは概念そのもの。ウーア、イシも概念でしかない。ウーア、あなたも概念を具現化させた存在。現にあなたは様々なものを殺した。逝去した者たちには転生し、輪廻を巡る。……わたしにとってあなたはもう何人目なんだろう。考えるのも飽きるくらい、わたしはあなたに会ってきた」
「ああ、だからか。あいつに出会った時に感じたもの。今まで感じたことのない錯覚。もしそれら全てが経験したものならば納得いく。……だがな、俺だってお前の望みどおりに動く気はない。俺は駒ではない。生きた人間だ!」
「……愚かなウーア」
 突然ウーアは苦しみだした。胸を掴み、過呼吸をしながら必死に酸素を求める。立つのもままならなくなり、地面の上に倒れこんだ。まだ息はあるようだが、長くはないかもしれない。額に浮かべた大粒の汗が彼の身体の異常を訴えかけていた。
「マ、リ、ザ……、何しやがっ……た」
 蚊の鳴くような声でウーアはマリザを問い詰めた。一方、マリザはどこ吹く風のように言葉を返した。
「名を縛った」
 彼女の言葉には情など含まれていない。現実を厳しく突きつけた。
「……っぐ! あの噂、……本当、だった……のか。お前が……人の命を握っているってやつは……!」
「愚かなウーア。わたしが情けをかけて、友人の名を縛らないとでも? 結局あなたは逃げられない。ねぇ……言ってよ、わたしのこと愛してるって。そうすれば助けてあげる」
「そ、れが……目的なのかっ? 大勢の無関係な奴らを巻き込んだ理由がそれなのか!? くだらない、くだらないぞマリザ!」
「……………………。わたしは……」
 マリザの声は震えていた。紡ごうとした言葉を飲み込んだため、彼女の真意は彼女にしかわからない。
「……終焉への導き手・マリザ」
 それは勝利の宣言だった。



 がばっ、と布団を放り投げて目覚めると、そこは四角い空間だった。ベッド、机、パソコン、タンス……。その他生活用品が置かれている。
「ここは……どこだ?」
 見慣れない部屋だった。気になって部屋の中を捜索してみると、格言らしき言葉が書かれたポスターが異彩を放っている。文字を見て意味するところはわかるが、興味は持てなかった。
 回転できる椅子の上に革製の鞄があった。中を見てみると、教科書やノートなどの勉強道具がつまっていた。いたるところに書いてある櫻井奏都という文字はこの荷物の持ち主なのだろうか。自分のではない。だったらなぜ自分はここにいるのだろう。何者かによって連れ去られたのか。
「……行かねぇと」
 身体が先に動いていた。
 普段着だったので躊躇わずに廊下に出た。自分のものだと断言できそうなのは今着ている服くらいか。すぐ近くにまた扉があった。部屋だろうか。中をのぞいてみると、高校生くらいの少女がベッドで寝ていた。起こしたら悪い、と自分はすぐに扉を閉めた。
 階段を下りると、そこはやはり知らない場所だった。それに誰もいない。リビングだろうか、開放感がある。玄関の場所もすぐに分かった。この場所に用はない。だってここは知らない人の家だから。とりあえず誘拐されたということを頭の隅っこに放っておき、玄関で適当に靴を拝借して外に出た。
「あつっ……そうか夏なのか」
 じりじりとした日差しが自分の肌を焼こうとしている。真夏日か。三十度は超えているだろう。熱中症になるのも時間の問題かもしれない。周りに目を向けてみると、住宅地のようだ。家々が連なっている。一戸建てが多い。道は幾多にもわかれているが、大通りに出るまでに時間はそうかからなかった。

 炎天下、自分の足は動いていた。出来るだけ日陰となっている場所を選び、黙々と歩いた。
 虫の音が心地よい。このムシムシさもどこか懐かしい。
 森の中で餓鬼たちが虫取りをしていた。網と虫かごを持って誰が一番多く取れるか競っていた。
 ある家では庭で水遊びをしていた。小さなプールで遊ぶ子供たち。その隣で麦わら帽子をかぶった大人がホースを持っていた。涼しそうだ。きっと子供に冷たい水をかけるのだろうな。
 坂を越え、森を抜け――。
「ここは……そうか……ここは…………そうなんだ」
 まだ十数年しか生きていない自分が感じる郷愁。
「……ただいま」
 そこは懐かしい故郷だった。

 人気など皆無だった。ここにはもう誰もいない。友達も、家族も……ここで失った。目覚めた場所からどうやってここに来たのかは覚えていない。もう陽は傾いている。懐かしさでお腹はいっぱいだった。からからに乾いたのどは公園の水で潤わした。
「あーっ、楽しかったな。学校から帰るたびに遊んでさ。勉強なんてしなかった。まずみんなでワーッと騒いで、近くの家にお邪魔しに行ったよな。口では嫌々言いながらも、結局は折れて家に入れてくれた奴もいたっけ」
 思い出なんて他にもたくさんある。自分はここが好きだった。いや、過去形なんかじゃない。今もここが好きだ。
 霜華市。ここ以外に自分の帰る場所などない。

 夜中。
 ここは人々から忘れ去られてしまったらしい。街灯など一つもついていなかった。虫の鳴き声と星空は素晴らしい。今は夏だから、近くの公園で一夜を明かそうと思っていたら、いつの間にか誰かが近くにいた。
 夏は日が長い。向こうは自分と同じくらいの身長だろうか。だとしたら男だ。この近所の人間? それはない。あれ以来、ここには人など誰も住んではいないはずだ。
 アレを思い出し、少し足が震えた。大丈夫だと自分に言い聞かせ、男に向き合った。
 ただ何も話すことなどないとわかったとき、無性に気まずくなった。帰るべきなのだろうか。今自分の帰るべきところはここなんだ。ここから離れたくはない。そんなことを考えていると、向こうから声をかけてくれた。
「……今日は逃げないのか?」
 男の声はよく通っていたが、意味するところがわからなかった。ここにいるのは二人だけだ。だから向こうはこちらに向かって言っているのだろう。逃げる? 今日は逃げない? まるで会ったことがあるような言い方だ。
「よく顔が見えねェからな、おまえは誰だか知らねーよ」
「……お前……」
 意味深な沈黙だった。すぐに納得してくれるだろうと考えていた自分は出鼻をくじかれたような気分になった。おまえは自分の何を知っているんだ? 
「俺はお前の全てを知っている。お前が生まれた時からずっと、俺はお前と共にあった」  
「まるで幽霊みたいな言い方だな。こんばんわー、幽霊さん。へ、生憎自分は怖がったりしない性質でな。きゃーとか言わなくてごめんなー」
 きゃーという部分は女の子っぽく言ってみた。そこはノリで。
「幽霊……そうかもしれない。俺には実体がない」
「嘘くさっ。体がなくても自分を知っているって? 守護霊か? それともご先祖さん?」
「俺はそういう霊的な存在ではない。あがめられ、信じられる存在でもない」
 風の流れが止まった。木々のせせらぎも聞こえない。虫の鳴き声さえもこの領域を侵すことはできない。サンクチュアリ。例えるならば神聖な領域。向こうからは恐怖や憎しみといった感情は感じ取れない。穏やかだ。水の流れのように。川のせせらぎのように。落ち着く。あながち共に生きてきたというところは嘘ではないかもしれない。
「俺はお前をずっと待っていた。俺の生き写しであるお前を待っていた。これまでに何度も俺は俺の代わりとなれる人物に邂逅した。だが、誰一人も俺の夢を叶えてはくれなかった」
「夢は自分でつかみ取るものだろうが。他力本願すんなよ」
「それは違う。俺はお前たち人間のために作られた。人間のための、人間による所作。それが俺だ」
 こうして会話が成立しているというに、向こうは人として扱われるのを毛嫌いしているようだ。人工頭脳であっても、ここまでの技術は開発されていないだろう。
「そんな奴が自分を見守ってきたっていうのか? 冗談はよしてくれよ。自分はそこまで弱くはねぇぜ。こうやって生きてきて――」
「なら訊こう。お前の名はなんだ?」
「ははん、そんな簡単な問題。自分の名前は――」
 言葉が喉に引っかかった。え? 自分の名前をど忘れしただと? 混乱しているだけだ。自分の名前は、自分の名前は名前はっ!
「オレは……誰なんだ?」
 記憶を掘り返す。最後の記憶はいつだったか。ここ霜華市は覚えている。小学生の頃まで住んでいた。その後、引っ越して……引っ越し? そうだ。
 あの事件の後、ここに人がいなくなった。あの事件? 人がたくさん死んだ。殺された。何のために? そんなこと知るものか。
「聞いてくれ、俺となりし可能性を持つ者。お前が俺と出会ったのも、霜華市が見捨てられたのも仕組まれたものだった」
 仕組まれていた? だから自分たちは狙われた。子どものころから能力を開花させた神童。出た杭。彼らはオレらを狙っていた。あの事件の前、オレは漠然とした考えを持っていた。狙われている、と。予想は現実になった。全ては失われた。残ったのはオレ含めた数人。
「今のお前は名前さえも思い出せない。当たり前だ、お前は乖離性障害だ。しかも遁走か。かなり深いところまで来たな。お前がお前らしい人物になる日は近い。それまであきらめるな。また……会うまで生きろよ」
 最後の一言が重かった。生きろ、そんなこと言われたのはどれぐらいぶりだろう。
 向こうの気配は消えていた。暗くなりすぎていたために、顔も見えない。気配が消えったってのは勘だけどな。
 とりあえず地面の上に座り込む。夜空がきれいだ。星がくっきり見える。高い建物が近くにないせいか、本当によく見える。安心する。ここが……好きだ。
この街が。ここにいた人々が。
 やっぱり……決着をつける日が来た。
 そうだよな、オレ?

 翌朝、懐かしい場所へと足を運んでみた。
 ――生家へ。



 空義が奏都を見つけたのは七月の終わりだった。その時の奏都はふらふらしていた。話を聞いてみると、一週間くらい何も食べていないという。訝しんだ空義は奏都にその行動の理由を尋ねたが、答えは返ってこなかった。
 奏都は久しぶりに地下で眠っている捺由の姿を目に収めた。彼女が眠り始めて約二か月。時間は刻々と迫っている。空義は病院の関係者と約束をしていたのだ。三か月以上特定の症状が続いた場合、植物状態とみなされるからだ。それまであと一か月。時間は足りない。
 空義が退席した後、まるで話をするかのように奏都は何時間も捺由を見続けていた。
   
 帰ると言った奏都を空義は止めた。奏都はどこかおかしい。平常でない。足もとが地についていない浮遊感を奏都は漂わしている。けれそも、奏都の意思は固かった。空義の提案を拒否し帰路につく。空義はメガネの位置を右手の人差し指で直した。

 それから数日後。奏都はぶらぶらと街中を歩いていた。偶然か否か、以前病院で会った女の子と出会った。彼女は言う、大きな手術をするのだと。
 ほぼ同時にとある店のディスプレイに飾ってあったテレビがとあるニュースを映し出す。青年が脳死したため、臓器移植が行われた。その報道はなぜ青年が脳死したのかということをはっきりとは述べていなかった。むしろ臓器移植で助かった人の会見が堂々と映し出されていた。女の子はその映像を見て、テレビを指さして言った。あのおかげで助かるのだと。 
 ちなみに青年の名は柊司土という。

5th stage

  5th stage:侵食されしケレブレム


  
 八月上旬。靄然市の夏祭りである『あいぜん祭り』の準備が佳境にある頃。
 奏都は街中をぶらぶら彷徨っていた。足もとは覚束ない。真夏日だから仕方ない、と誰も彼を気に留めなかった。
 蝉の声が街を包んでいるような錯覚。うっとおしく、生ぬるい風。知らずとも汗で体はべたついている。
 ふらつきながらも、奏都は真っ直ぐどこかに向かっていた。
 その道中、彼は病院を通り過ぎようとしていた。夏休みということもあり、外では家族で見舞いにきたらしき人々を見受けられた。暑さに負けないこどもが親の手をひいている。親子の笑顔。他愛もない会話。手に持った花束。またあるところでは車の中から車いすに乗った人がでてきた。最近は車いす専用車というのもあるため不思議ではない光景。奏都はそれらを茫然と見つめる。
「…………?」
 何か違和感を感じ、ふと足を止めた。周りを見渡すと、とある人物に目を奪われた。銀色の髪。それを認識した瞬間、奏都は自然と言葉を発していた。
「汐世先輩!」
 声をかけられ、病院の前に建てられていたテントにいた汐世は振り返った。目があった瞬間、奏都は尻尾を振る子犬のように彼女に近寄った。
 建てられていたテントの下に『献血』という看板があった。
「献血? ってあの献血?」
 二回言った奏都は、汐世が終わるのを大人しく待つことにした。


「……あら、待っていらしたのですか」
 彼女の素振りが演技か素なのかすでに奏都は気にしなくなっていた。
「はい。オレも献血やってみようかなーと思ったんですが、最近何も食べていないんで。血を採ったら確実に貧血になります」
「食事は大切ですよ?」 
「あはは……気を付けます」
 ばばあの作った料理を食べたくないために、コンビニやポットを愛しているなんて先輩の前じゃ言えねぇっての。最後に家族で食卓を囲んだのはいつだ? そもそも、自分に家族と呼べる存在などいるのだろうか。ばばあ? 誰それ。他人だろ。家族ではない。
 先輩は白い帽子をかぶっていた。強い風が吹くたびに、手で帽子を押さえている。ああっ、先輩可愛すぎ。ほんと、お持ち帰りしてぺろぺろ舐め――失言だ。心の中でこれ以上妄想を広げるのは命の危険につながる。自分の心臓がバクバクしすぎてもたない。
「櫻井さん、話は変わりますけど……私のこと覚えておられますか?」
「勿論です! 先輩のこと一時たりとも忘れたことなんてありません。それは外見から香りまで全部っ。なんなら言いましょうか。あなたの愛を――」
愛だけじゃ足りない。自分が先輩をどうしたいか言ってあげましょうか。ね、先輩……って、こっちを見てない!? 
「私を覚えている? そんなはずは……」
「せんぱーい、無視しないでくださーい」
 それから時々話を食い違えさせながらも歩き始めた。
    
「先輩はなんで献血をするんですか?」
「人助けに理由が要りますか?」
 自分は言葉に詰まった。人助けに理由は要らない。確かにそう考える人も世の中にいるだろうが、自分は奥歯に何かが詰まった感じを拭い去ることが出来ない。まるで使いっぱしりのような印象を受ける。無償の愛など、この世にあるはずはない。無償だと言っている裏では自己陶酔に陥っているに決まってる。もちろん全員がそういうわけではないと思う。
「……私はボンベイ型なのです」
「ボンベイ型って、かなり珍しいやつじゃないですか!」
 どうしてだろう。声はとてもハキハキしているのに、妙に冷めた自分がいる。人助け、愛、無償の、愛。そんなもの本当にあるのか? あったら……? ん? 何を考えていたんだ、自分。
「はい。稀血の一つです。抗H抗体を自然抗体として持ちます」
「H、抗体……」
 先輩の話の内容はさっぱりわからなかった。A抗体、B抗体なら耳にしたことはあるが、H抗体など聞いたこともない。も、もももももしかして先輩……。そんなに……。
「櫻井さん、顔が赤いです。熱でもあるのですか?」
「へ、平気です! 櫻井奏都ぴんぴんしています!」
 姿勢を正し、元気であるとアピールした。
 やましいことを想像してたなんて先輩に言える筈がねぇよっ。
 先輩は首を傾げたが、すぐに真顔&饒舌になった。
「赤血球にはH抗体があります。それにA抗体、B抗体がぶらさがっていると考えると想像し易いと思います。ボンベイ型はそのH抗体が存在しておらず、通常の検査ではO型と判定されてしまいます」
 珍しく自身の知識を披露する先輩はなぜか血液の事に詳しい。その理由よりも、自分には気になることがあった。
 H、Hって何度も言わないでくださいよ、先輩。
「血液の流れる音を聞く方法をご存知ですか? 耳を押さえると、ゴー……という音が聞こえるはずです。音は気体よりも液体、液体よりも固体のほうが伝わりやすいです。つまり、その音は腕を通して聞こえてくるのです。こうして考えていきますと、人間の体は不思議に満ちていると思いませんか? ……櫻井さん?」
 先輩のお金を採れそうなありがたい話をよそに妄想はどんどん膨らむ。
 二次元にはまって約五年。こんなにも生身の女性に恋焦がれたのは初めてだった。行き場のない思いが、溢れだしそうになっている。それを彼女は知らない。   それがとてつもなく悲しい。自分は男として見られていないのだろうか。引きこもりだからって、自分も健全な男子だ。……多分。
 ふと、先輩が手を伸ばした。
「大丈夫ですか?」
「だ、だだだ大丈夫ですっ」
 むしろ先輩の存在が自分を狂わせるんです!
 手が、先輩の白い手が、自分の額の上に置かれている。
 自分の真正面に体を乗り出した先輩は熱を測ろうとしていたのだ。先輩の手はひんやりとしていて気持ちいい。それよりも目のやり場に困った。近距離過ぎて、顔を見られない。自分はそっぽを向いた。そうしないと、胸元を隠すシャツからちらちらと見えている白い肌に釘付けになりそうだった。見たいけど、見てはならないという葛藤に苦しむ。もし見てしまったら、先輩にも嫌われてしまうかもしれない。そのほうが怖い。せっかく得たものを失うのがとてつもなく恐ろしい。先輩のことだから気付かない、に一票をあげたいが。
「良かった。熱はありませんね」
 そうして先輩の手は離れていく。
 ひんやりとした感触が名残惜しかった。しかし、あのままだと自分が別の暑さでやられていたかもしれない。我が青春は来たり。うん、自分の春は来た。すでに夏になっているけれど。
「馬鹿は風邪を引かないって言いますし、心配は無用ですよ」
 自分で馬鹿だと認めるのは少し空しかったが、それ以外の台詞を思いつけなかった。
「次はどこに行きましょうか、先輩」
 今の貴重な時間を大切にしたかった。だから、どうして血液に精通しているのか深く追求しないでおいた。推測はある。実際のところ、先輩は献血以外に目的があるのではないかと。というか最近なにしてたっけ……。覚えてないほど、普通の生活を送っていたんだろうな。それにしても、先輩……今日も綺麗だったなあ。

 終わりは訪れる。
 お前、忘れてはいないだろうな?
 俺はお前と共にあゆんできた。
 ゆめゆめ忘れるな。
 お前は俺。
 俺はお前。
 心の中で俺は楽しみにしてるんだ。
 お前は俺を超えられる。
 そんな気がするんだ。

 先輩に連れられて来たのは高台だった。長年ここに住んでいるというのに、こういう場所を知らなかった。
 あ、今、先輩と二人っきりか……! 先輩と、ふたりっきり!? なにそれフラグ? イベント? 攻略間違っていなかったんすか? いよいよ個別ルート突入!? ……なんて口にしたらドン引きされるだろうなー。
「自分、先輩と一緒にいると……なんというか不思議な感じがするんです」
 先輩は小鳥のように首をかしげた。
「私と櫻井さんが出会ったのはごく最近です」
「あー、まーそうですけど。こう……運命とか前世からの宿縁とか。自分たち以外の力が働いている気がす……します」
 高台からは靄然市が一望できた。緑化運動と称した活動で植林されているらしいが、未だに効果は現れてはいないため景観はよろしくない。先輩とのデートなので、せっかならもっといい雰囲気になれる場所に行きたかった。なのになぜここに来たのかというと、愛しの先輩が来たいと言ったのだ。
「だから……その、自分は――」
「あ」
 無理やりにでもいい雰囲気にもっていこうとしたのに、先輩はふらふらと歩き始める。その先には一匹のトンボがいた。慣れているのか、先輩は一瞬でトンボの羽を掴み、自身の手の甲に止まらせ、それをまじまじと見つめている。
 この時、自分はトンボになりたかった。先輩の視線を独り占めするだけでなく、あの柔らかそうでハリのある手に止まっているのだ。羨ましすぎだ。自分だって先輩と手を繋いだ事は一度もないっていうのに、ずるすぎだ。いっそ、代わってくれ。代われよ。
 自分は嫉妬心を押さえ、トンボを観察している彼女を促した。
「せーんぱーい、高い所に行きたいっておねだりしたのは先輩でしょう? せっかくですから、ここでしか出来ない経験でもしましょーよ」
 駄々をこねているのは自分の方。母親に甘え、独占しようとする子供のようだ。一応自分は十七歳なのでまだ子供であるが、今の母親に甘えたことなど一度もない。本当に、馬鹿みてー。
 無性に笑いが込み上げてきた。他人に甘えようとしている自分が滑稽すぎたからだ。それでは智帆と同類だ、と心の中で嘲笑した。
 智、帆……? 
 頭が痛い。何か忘れているのではないだろうか。智帆。その言葉が……妹の名が胸にしこりを残す。気のせいだと思いたいけど、気のせいだと思えない。
 何となく靄然市を眺めてみたが、その景観は自分の気を紛らわすには面白みというか発見がなかった。素晴らしいとも絶景だとも思えなかった。あの街は人々が生きるためにすがりついている所にすぎないのだから。
 視線を戻すと、先輩はトンボと戯れていた。どうやら聞こえていなかったらしい。
「ほら先輩、トンボなんてどこにもいるじゃないですか。それよりも、自分と遊びましょうよ。ここでしか出来ないことでもして」
「……ここでしか出来ない経験?」
 先輩はやっと食いついてくれた。彼女が振り返った瞬間、トンボは先輩の手から離れ、大空に吸い込まれていった。
 ざまあみろ。先輩はおまえよりも自分(奏都)の方が好きなんだぜ。
「はい、ここでしか出来ないことを」
 思わず自分は唇を舐めた。
「いいえ」
「え?」
 先輩は頭を振り、空を仰いだ。トンボの姿を目で追いかけているのかと思ったが、それは違った。
「向こう」
 無駄毛など一本もない滑らかな彼女の指はある点を指していた。
「向こうに、私の生まれ育った家がありました」
 淡々と告げた先輩は自分の方に顔を向けた。
「私がここに来たかったのはそのためです」
 あった、ということは今はもうないのだと自分は察した。ベタな話のように「ありましたって、なぜ過去形なんですか?」などと尋ねてはいけない気がした。無論、自分はそこまでするほど愚かではない。
「へー……あの辺りは霜華市ですね。懐かしいな」
「懐かしい? 櫻井さんは行ったことがありますか?」
 自分は頷き、
「ここに引っ越す前は霜華市に住んでいました。あ、これは嘘じゃありませんよ。いや、先輩と会ったことがあるっていうのも違いますよ」
 と早口で言った。
 すると先輩の表情が柔らかくなり、懐かしむように遠くを見ていた。伏せがちな瞳は僅かだか憂いを帯びている。
「私の住んでいた区域はとある事情により閉鎖されました。闇に葬らされてから結構経ちます」
「閉鎖というか、立ち入り禁止ですね」
「ええ。足を踏み入れた者は帰ってこれないかもしれません」
 随分大仰な話だ、というのが自分の第一印象である。あの寂れた街に、そんな秘密があるとは思えない。
「なぜなら……あの時帰ってこれたのは、片手で数え切れるほどだけでしたから」
「あの時? そういえば空義らと一緒に引越しした時もそんなこと言っていたっけなー。生還したのは自分と空義と捺由の三人だけだって。何があったのかよく憶えていませんけれど。今から十年ぐらい前だった気がします」
「櫻井さんも霜華小にいたのですか!?」
「あ、そうですよ。あんまりよく憶えていませんけど」
 先輩の剣幕に押された自分はしどろもどろに返事し、問いかけなおした。
「それがどうかしました?」
「……私は……見当違いを……。つまり彼は……」
 それから高台を下りるまで、先輩は上の空だった。

――別れは唐突だった。
 自分は送りますと言ったが、先輩に即断された。
 勿論返事はノー。
 もう少し、この距離が縮められたらいいんだが。
 勇気を振り絞って歩み寄っても、先輩は遠ざかる。つかず離れずの関係が一定に保たれてしまう。だからといって、自分から遠ざかる事はない。
 自分から先輩に離れたら、彼女はいつまでも一人でいるのだろうか。それともすでに彼女の傍には誰かがいるのだろうか。そうであれば彼女が極力他との関係を避けるのも頷ける。どうせ、相手の独占欲だろうが。彼女が付き従うその誰かを想像するたびに、頭に血が上る。
 三次元相手にこんなにマジになるなんて、馬鹿みてぇ。
 小学生の頃に見た実験を思い出した。
 丸い磁石と同じ底面の筒を用意し、そこに磁石を一個入れる。この時表面の極を確認しておく。次にまた同じ種類の磁石を筒の中に入れる。向かい合う極が同じ場合、磁石は反発する。すると後に入れた磁石はぷかぷかと浮く。
 今のこの関係はその反発し合う磁石と瓜二つだった。
 そう考えると、自分の心は一気に安心感で満たされた。
 なぜなら、磁石が反発するのは極が同じだからだ。専門的な理由は知らないが、恐らく的を射ているだろう。
 自分と先輩が似ている……。ああ、だから先輩に惹かれたのか。
 初めて先輩と出会った日を忘れた事は一度もない。昨日の事のように鮮明とまぶたの裏に浮かんでくる。あの頃の彼女は哀愁というか、ただならぬオーラを纏っていた。それを自分は美しいと思った。しかし、それだけではない。それだけでは一瞬で忘れていただろう。そこら辺にいるちょっと綺麗な人として。

 ――別れなど予想もしていなかった。

 先輩は夕日の赤っぽい光を背に受け、こちらを向いていた。
「櫻井くん、私は貴方に言いたい事があります。落ち着いて聞いてくれませんか」
「は、はい」
 咄嗟に口から漏れた声は冷ややかだったが、心の中では、待ってました告白タイム! と、うきうきしていた。終わりよければ全てよしというのはその通りで、先程考えた事全てが頭から葬り去られた。
 先輩は言いにくそうに視線を落とし、やがて迷いを振り切ったように頭を上げた。
 金色の瞳には今までよりも強い意志が宿り、太陽のように自ら輝いていた。その瞳に射竦められ、自分は息を呑んだ。
「私には使命があります。そのためならば邪魔する者を切り捨てるなど厭いません」
「へ?」
 話の内容が自分の頭では理解出来ない。何を話しているか尋ねたかったが、それを許させない空気があった。自然と自分は後ずさっていた。右足の踵が地面にのめり込み、後ろへ倒れそうになった。これ以上話を聞くことを体が拒否していた。
 夕日色に染まった先輩の髪は、まるでこの世には滅多にない芸術品のように評価が高いだろう。くせのない濡れている髪。長いわりにはなめらかで、指がすっと通りそうだ。それらの要素が髪に触れてみたいという劣情を煽っている。
「私は……怖い。貴方を傷つけてしまうことが」
 先輩が人間を傷つける? そんなことありえない。付き合いが短くたってわかる。先輩はそんなことをするような人じゃない。
「先輩、冗談はやめてくださいよ。笑えませんって」
「冗談ではありません」
 笑い飛ばそうとする自分を、先輩は制した。悔しいくらい即答だった。
「貴方は必ず、私を阻む存在と為りうる」
 見え透いた嘘をつくくらい、先輩は自分が嫌いだったんですか?
「申し訳ありません。貴方の素性を知った以上……」
 反論できない自分が憎かった。ここで先輩のことが好きだといえば、彼女と傍にいられるのかもしれないのに。言葉が喉に張り付き、口から出て行かない。声帯はただ震えるだけだ。もしかしたら失語症になってしまったのかと本気で疑った。
 「貴方とはいれません。……ワレーテ」   
 別れ話をもちだした彼女は一人で走り去っていった。彼女の背中は声をかけるのを躊躇するくらいに小さかった。

 自分は絶望した。
 音を立てて、自分の世界は崩れ去った。
 お付き合いという一つの段階を飛び越えて、もう別れかよ。
「くそっ! 変なことでも言ったのか? そんなはずねぇ!」
 何あの人、と好奇な目でひそひそ話している浴衣姿の通行人を睨んだ。すると彼らは怯えて逃げた。ばたばたとした足音が自分の心を逆撫でする。怒りの矛先となるはずだった対象は姿を消してしまった。ここまで先輩を思っている自分は狂っているのだろうか。恋は盲目、その典型的な例が自分なのか。
「やっと、誰かを信じられると思ったんだ。誰かを好きになれると思った……」
 あの事故から自分の時は止まり、昔馴染みである空義と捺由を除いた人と良好な関係を築けることができなかった。
 引っ越した後、口先で友人だといえる人は数人いた。しかしその関係は泡沫のようにもろい。外力が加わると破裂する。後には何も残らない。それから『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』というように、嫌いな人間は増えていった。
 一体、何度裏切られてきただろうか。
 一体、何度騙されてきたのだろうか。
 気付いたら、人と関わるのが億劫になった。学校に行き、人々の輪に入る意味など感じられなくなった。自分は永遠にひとりぼっち。惑星という区分では同じでも、他との距離が大きく離れている地球のように。受けているのは光だけ。影を伸ばす光だけ。自分が地球だと仮定すると、その周りを回る月は鬱陶しい智帆。そして太陽が空義と捺由。その他の天体などどうでもいい。
「はは……奏でし者か。滑稽だよな」
 奏都の名の由来は、都を奏でる者らしい。自力で積み上るという意味合いと、人々が都(奏都)に集まってくるように……らしい。小学校の宿題で尋ねてから随分経つのでおぼろげだが。
「……! こ、この感覚は」
 手が小刻みに震えていた。
 発作で息苦しくなり、咳き込んだ。
 鳥肌が立っていた。
 まるで虫が蠕動しているかのように背中が痒い。
 ああ、またか。この拒絶反応は。
 自分はあいつの訪れを悟った。
 先輩が消えた方向に、下劣な笑みを浮かべたあいつはいた。
「ひゃひゃひゃ、もーしかしてお楽しみだったぁ?」
 自分はすぐさま立ち上がろうとしたが、よろめいて地面に膝をついた。
「今回の鬼ごっこはぁーオレ様の勝ちだぜ。でっひゃっひゃっひゃ」
 数百メートルは離れているのに、あいつの気味悪い声は耳元で囁かれているように鮮明だった。
 自分は動かない足を赤くなるまで叩き、やっとのことで走った。遠くまで。誰も追いついて来れないところまで、遠く。枝を踏みつけ、水溜りを飛び越えた。蝉の重唱が喧しい。うっかり土手から転げ落ちそうになった。
    
 汚れても汚れても自分は進む。辿り着いた先に、自分の生きた証があるような気がする。
 聖域は時として自分を守ってくれる。だがな、自分は気付いたんだ。いつか出ていかなくてはならない日が来る……と。



 命ガラガラで歩いてきた先に彼女は倒れていた。肩の長さまである銀色の髪。似合わない銀色の甲冑。それらはまさしく彼女のものだった。
 彼女――ガルデニアの武道には目を見張るものがあった。女だというのに幾千幾万の人々を従わせる才能も、王女の付き人という地位を得た努力も全て彼女の武道の一つでしかなかった。彼女は自身が女であるということに興味などもっていなかった。毎晩毎晩考えることはこの国の行く末。王女には一般教養を教え、度々護身法も伝授していた。
 そんな彼女が倒れ伏して呻いていることこそが信じられなかった。弓矢で射られたわけでもなく、刃物で切られたのでもない。やや見受けられる切り傷は戦いの最中に負ったものだろう。致命傷はどこにもなかった。だというのに、彼女は苦しそうに息をし、喘いでいるのかと誤解させてしまうほどの醜態をさらしていた。
「何が……あったんだ?」
 彼女の周りにあるのは死体だった。おそらく中庸の兵士のものであろう。彼らは彼女と違い、身体を八つ裂きにされていた。脳漿をぶちまけている者さえいた。
「……まだ、いたのか。私が倒して……っ」
 女は肘を使って体を起こそうとしたが、そんな余力さえないらしい。力を失ってまた倒れ伏した。
「いい様だな、ガルデニア」
 ぴくっ、と女は肩を震わせた。顔をあげ、焦点の合っていない瞳で彼を見た。「貴様か……」と言った表情からは生気が感じ取れない。手遅れだと男は察した。
「ふふ……こんな醜態を一番見られたくない奴に見られてしまうとはな。私も堕ちたものだ。反乱軍よ、この姿を見て笑うがよい」
「笑えないぞ、そんなまるで女みたいな顔をした奴を」
「女、か……。久しい響きぞ。我が名はガルデニア・ヤスミノイデス。女ではない、ガルデニアだ……」
「それは哀願か?」
「戯け。貴様だってぼろぼろだろう。剣を取るのか? 今なら私を殺せるぞ。生憎、剣を握る力さえ残っていないからな。まさか私が同性に一本取られるとはな……手を抜きすぎたものだ。甘くなったかもな……。リリ様、こんな若輩をお側に控えさせてくださり、わたくしめの最高の幸せでした……。さあ、貴様も笑えばいいっ! この地に這いつくばる惨めな姿をっ」
「俺は笑わない。俺はそんなお前が――」
 口に出そうとした言葉を、ウーアは慌てて飲み込んだ。今の状況は戦士である彼女にとって屈辱的なものであるだろう。またウーア自身もこれ以上動ける見込みはない。
「貴様の名、……ウーアといったか。私の最後の願いだ。私をガルデニアとして殺してはくれないだろうか」
「正気なのか、お前。俺の名は忌み名だぞ」
「無論だ。このままでは私は戦士としてはなく、魔女に呪い殺されたことになってしまう。それは一生の恥だ。いっそのこと、ここで戦士として逝かせてくれ」
 ウーアも先の戦いで長くはなかった。心の中ではガルデニアへの劣情を抱き続けている一方、勇気を出して行動に移す気力はない。剣を握り、一回振りおろすことができるかどうかもわかってはいない。
「魔女なんていう存在をお前は信じなかったはずだ。今さらなぜ信じようとする?」
「……あの力を見せびらかせたら、信じられずにはいられない。顔を布で隠した魔女は虚空から現れ、武器の雨を降らした。近衛兵は全員それでやられた。……抵抗する暇なんてなかった。私は驚きのあまり尻餅をついてしまったぞ」
 魔女という単語がマリザを意味していることをウーアはわかっていた。マリザは本物の魔女だ。人々を魅了させ、心を奪い、堕落させる。彼女の術に抵抗できる者などいない。近いものである占術士であれば抵抗できたかもしれないが、力のある者たちはすでにマリザの策によって日の影を歩いた。恐らく暫くは人の目に触れないところで生活しているだろう。
「私は自分の本名など覚えてはいないというのに、あの魔女はすぐに私の真名をあててしまったんだ。そのような芸当、魔術と言わずになんと呼べばいい?」
 盲目の魔女は上っ面に騙されない。隠し事は彼女の心眼によって見破られてしまう。ウーアは誰よりもマリザを知っている。だからこそウーアは己を責めた。戦火はマリザが蒔いた種によって広がり続けていた。
 滅びの時は近かった。
「お前は無知だった。俺も無知だった。そのせいでまんまとマリザの術中にはまってしまった。……この国は滅亡するだろうな」
「あの魔女がこの国を掌握したら、王家はどうなるのやら……。私は心配でならない」
「さあな。マリザはこの戦いで命を回収するみたいなことを話していた。結局、そんな考えに踊らされた奴らが浅はかだったんだ」 
 ガルデニアは嘲笑い、悔し涙を流した。そしてまた苦しみ始める。ウーアと会話が成立したのは奇跡だったのかもしれない。
「……俺が周りを見ていたら、お前と違う未来が描けたのかもしれない」
 力尽いたガルデニアにウーアの言葉は届かない。彼女はうつ伏せのまま両目を閉じていた。傍から見れば眠っているようだ。こんなところに居眠りしやがってと蹴飛ばされるかもしれない。
「やるしかないのかよ。……もう聞こえていないかもしれないけどさ、俺はお前のこと嫌いではなかったぜ……」
 ガルデニアの腰にある鞘から剣を抜いた。返り血を浴びているというのに、それは普段より輝いているように見えた。ウーアは両手で柄を握り、剣を彼女の背中に突き刺した。同時に彼女の体がビクンと動いた。
 反乱軍は勝利した。

        *

 夢から覚めた奏都を何者かが見下ろしていた。
「これは……おまえなのか?」
 奏都の質問に何者かが頷く。
「鬼ごっこは終わりだな。俺はお前が受け入れてくれる日を首を長くして待っていた。わざと狂気に満ちた振る舞いの俺をお前は初め逃げているだけだった。精神がおかしいと疑っただろう?」
「あったりめーだろ。毎回変な奴に追いかけられてさ……つらかったぜ」
 奏都は何者かに向かって手を出した。
 街のどこかで花火が上がっていた。夜空に花が咲いた。
 今日が一体いつなのか、奏都は気にも留めていなかった。
「やっとソート以外の名で呼べる日が来たな、奏都」
 何者かが纏う漆黒のベールがはがされていく。花火の光で何者かの顔が照らされたのではない。奏都自身が相手の顔を見れるようになったのだ。
 何者かは奏都の手を握り返した。
 「やっぱ、おまえ……ウーアだったのか」
 何者かは赤い髪をもつ、奏都が見慣れた青年だった。柔らかく微笑んだ彼からは、昔自分を惑わせようとした狂気は感じられない。
 小学生の時から心に巣食い始めた存在。彼は自分ではなかった。でも、彼は自分だった。
「それ以外に呼び方はないからな。俺はウーア。俺はお前の憤怒で目覚めを迎えた。大切なものを奪われたことへの怒り。そしてその大切なものを奪ったものへの憎み。お前は俺だ」
 今まで見た悪夢が彼の過去だというならば頷ける。
 彼――ウーアは静かに告げる。
「さあ……行こう。お前のために。俺のために」
「もちろん、決まってんだろ。行くぜ、決着をつけに」
 自分もできるだけ自然に笑った。心の中では焦っている。でもそんな焦りが失敗を生み出していく。
 行こうか、自分。恩返しをしよう。
 空義。捺由。智帆。……イシ。
 彼らの思いを無駄にしたら、恩をあだで返すことと同じだ。
 引けねぇな。



 祭りの翌日。
 昨日は賑わっていたこの街も、いつも通りに戻っていた。提灯や屋台も片づけられ雑踏も普段通りだ。通行規制になっていない普段の方がいい。
 お祭りか……行ってみたかったな。捺由と智帆がいない今、心から楽しめたかは疑問だが。空義と一緒にいても盛り上がりには欠けるだろうし。野郎二人で夏祭りってどうよ。寂しすぎて男泣きしそう。その隣には能面の空義。……想像するだけで震えが止まらない。もう、やめよう。
 先輩にさよならと言われたのに、足は自然とあの場所に向かっていた。そこは先輩との思い出の場所。たった一日であったが、貴重な日々だった。あれがヤラセだったら泣いてやる。泣いて泣いて夜まで泣いて、枕を濡らしてやる。
 最近、泣きイベント多いなぁ。
「はぁ~~ここは気持ちいーぜ。なあ?」
 答えてくれる者はいない。別に答えてくれなくってもいいんだけどさ。
 太陽の方向に見える霜華市。ここに来るまで霜華市に住んでいた身として、何とも言えない郷愁に襲われる。靄然市が嫌いっていうわけではない。家庭環境に嫌気がさしているだけだ。もう両親はいない。偽りの家族なんていらない。そんな意志を貫いて生きていけるのだろうか? 後ろ盾もないのに? 資金もないのに?
 学生でいるうちは親のすねをかじっていればいいかもしれない。高校を卒業したらどうすべきだろう。不安は募るばかりだ。学力があるだけじゃ、将来役に立つ人間になれるとは限らない気もする。人間性を自分は忘れてしまったんだ。非現実を選び、現実……人間との関わりから目をそむけた。
 そろそろ正面から立ち向かう日が来たのかもな。ウーア、お前は背中を押してくれるよな?
「う~よっしゃ、そろそろ約束の時間だぜ」
 霜華市。クラスメイトも亡くなった。やるせない教師も亡くなった。顔も知らない地域の人も亡くなった。彼らの命を自分は背負っている、と言ったら大げさだろうか。事実、生き残れたのは片手で数えられるほど。それ以外、みんな死んだ。あんなこと、もう起きて欲しくはない。つらいことなんて忘れて生きていくのも一つの道だろう。けれど、自分にはそんなことできやしない。落とし前をつけないよう。それが自分の一歩になる。
「頑張ろうぜ……〝オレ〟」



 これは現実か、否か。
   
 さっきからずっと先輩は空を眺めている。
 わたあめやマシュマロを彷彿とさせる雲はゆっくりと流れていく。それは自分と先輩の間で流れている時間のようだった。好んで焦るようなことはしない。
 のんびりとこの流れに身を任せる。永遠とはちょっと違くて、なのに全てを忘れさせるような檻の中に自分と先輩はいた。
 先に足を止めたのは先輩だった。彼女は顎を持ち上げ、雲の流れを目で追っている。
「今日もいい天気ですね、先輩」
「……はい」
 彼女は小さく返事をしてくれた。それからまた何もなかったように空を見続ける。隣にいる櫻井奏都という存在を忘れ、自身の世界に浸っていた。反対に自分はそんな美しい彼女の横顔から目を離せなかった。
 正直、彼女がなぜ空を見上げているのかわからない。自分にとって、空なんて当たり前のものでしかない。例えば自分に空義という存在があるように、生活の一部となっている。しかしそれは天気の話だ。晴れの日は外に出るのが億劫になるし、雨だと湿気が鬱陶しい。はーい、引きこもりのできあがり♪ ……ってなに考えているんだ。おかわりください、みたいなノリで言うなよ。
 澄み渡る青空は果てしなく続いている。自分たちはどこかの誰かとこの空を共有している、と思うと空が偉大なものに感じた。だって、生まれ育ち関係なく、誰もが知っているものなのだ。そこに国境や言語など存在しない。きっとこの空を見て感慨深くなっている奴も世界のどこかにはいるだろう。
「どうして空が青いのか、櫻井さんは考えた事がありますか?」
 先輩はロマンチストなのだろうか。空が青かろうが赤かろうが、自分には関係などない。自然現象の一つだと考えていればいいんだ。
 問いに自分は迷わず頭を振った。
「レイリー錯乱の原理によると、光の錯乱量は光の波長の四乗に反比例します。例は省きますが、このレイリー錯乱の結果、錯乱の度合いが非常に大きくたくさん錯乱された青い光があちこちの方向から到来します。ですから空は青く見えます」
 解説の中には感動できるところなんてちっともなかった。むしろ、原理を知ってしまって冷めている自分がいる。
 世の中のほとんどの事象はすでに解明されている。そこに決定的な違いがあるとすれば、人々がそれを知ろうとするかどうかだ。青空を見て綺麗だと思うか、物理学に関連づけるかは人それぞれだ。
 先輩はなんで空を見ているんだろう。その現象が起きる理由を理解しているのに。
 理由を知ってしまったら感動できなくなるなんて日常茶飯事だ。ネタバレされたら、残りの物語を読む気が失せることだってそうだろう。
「私は……この世界が好きです。世の中は不思議であふれていており、それを知悉しようと好奇心が働きます。ですが、知ってはならないことも少なからず存在しているのです」
 憂いをおびた彼女の横顔は今までよりもずっと綺麗だった。気丈さだけでなく、どこか脆い。だから自分は先輩に惹かれたんだ。彼女が持ち合わせている何かに惹かれたんだ。それは現実の人間にしか持ち合わせていないもの。
「……あるところに一人の少女がいました。彼女の家庭はとても温かく、その子は真っ直ぐに成長して、誰もが抱くような夢を持っていました」
 先輩は遠くを見つめながら静かに語りだした。
 思い返すと、先輩は心ここにあらずという状態が多かった気がする。間が抜けているともいえる。今なんでお伽噺をするのか、意図がわからない。
「しかし、彼女は夢を叶えられませんでした。なぜなら、戦渦に巻き込まれてしまったからです」
 自分の胸がちくりと痛んだ。
「戦いの影は彼女を脅かし、次第に彼女も自衛の手段を身につけるようになりました。この時はまだ、家族のお荷物になりたくないという一心でした」
「先輩、そこはおかしくないですか? 温かい家庭だったら、その子を邪魔者扱いなんてしないと思います」
 不意を突かれたのか、邪魔されて迷惑だったのか、先輩は口を閉ざした。それが躊躇いであることに自分はすぐに気付けなかった。
「彼女はその家庭の誰とも血が繋がっていませんでした。その家庭は赤の他人を愚痴一つこぼさずに育てていたのです。自分が何者であるかわからない少女は剣をとりました。自分を育ててくれた人に恩を返そうと技術を身につけました」
 自分は先輩の話に聞き入っていた。今まで先輩の話を聞いたことはあるが、ここまで真剣に聞いているのは初めてかもしれない。血の話も空が青い話もあまり自分の趣向にはあっていなかった。
「やがて彼女は名を捨て、とある国の王女の護衛を勤めるようになりました。幾つもの反乱分子を潰していく中で、彼女は彼に出会いました。彼は外国人でありましたが、彼女は彼と接するうちに自分という絶対的な存在が揺らいでいくのを感じました。彼の目指す理想に彼女は共感してしまったからです。
 しかし、彼女は王国の兵士たる身。彼の目指す理想を実現することそれ即ち、国への反逆を意味していたのです。そして……本格的な争いは始まってしまった」
 人々の逃げ惑う姿を想像せずにはいられなかった。悲鳴が自分を苦しめる。作り話であるはずなのに、まるで現実のように受け止めてしまいそうになる。
 これが……アウルムの言っていた事なのか!?
 それは想像なんてレベルではなかった。まるで自分がその戦争を実際に経験したかのように聴覚・嗅覚・視覚全てが鮮明だった。
 断末魔の叫び。赤ちゃんの鳴き声。爆音。足音。血生臭さ。腐敗臭。血だまり。脳漿。白目。……死体。
 冷や汗は自分の背中を濡らし、額には脂汗が浮かんでいた。
 ……気持ち悪い。
 夢の中で見た映像が何度も脳内で繰り返される。いや、夢の中の映像ではないものも混じっているような気がする。
「戦いの最中でさえも、彼女は彼を捜し求めていました。再会するまで時間は掛かりませんでした。彼は怜悧な視線を彼女に向けました。それは彼女にとって、初めて見た彼の本当の姿……敵として見えた瞬間でした」
 先輩の態度や行動にデジャブをおぼえたのは一度きりではない。先程の空の青さの時にもぼんやりと感じていた。
 先輩と誰かの姿が重なっていく。
「二人の道が交わる事などありませんでした。彼女はその身分ゆえに国を離れる訳にもいかず、そして何よりも本物の家族を裏切ることはできませんでした。それゆえ彼女は葛藤し続けました」
 自分は膝をついた。得体の知れない恐怖が自分に襲い掛かってきていた。
 怖い。先輩が……怖い。
 先輩は無表情のまま、事実をなぞるかのように語る。
「決断を下した彼女は殺しました。己の剣を愛しき者の血で染めました」
「愛しい……か。お前はオレをそう思っていたのか?」
 苦しむ最中、搾り出た声は自分のものではなかった。
「なあ、オレの血はどんな色をしていた? オレの体に剣を刺したとき、どう思った?」
 今までに見てきた夢が全て繋ぎ合わさる。導き出た答えは自分が予想していた通りだった。
「おっと、質問攻めなのは悪いな。……久しぶりだな、ガルデニア。この姿で会うのは」
「ええ、久方ぶりです……歓迎します」
 鈍い光がオレに向けられていた。その光を発している者は高らかに叫ぶ。
「ようこそ、ラストステージ・ケレブレムへ」
 風景が一変し、青空は新しい障壁に覆い隠される。障壁は外界から隔離された空間を作り出し、オレらを取り囲んだ。この世界の正体が暴かれたのだ。数刻前の景色が偽りだったのだ。見ると、ガルデニアも普段の黒衣を纏っていた。それから自身の体に目を向けると、腰には愛用の剣が携わっていた。
 オレは覚悟を決め、その剣に手をかけた。
   
 世界は再構築される。

 そこはどこか懐かしさを感じる欧米風の街。  
「この前はオレがお前に止めをさした。その前は……殺されたのはオレか。ケケケ、汐世っていったかお前。ガルデニアにそっくりだな」
 銀色の髪。金色の瞳。黒衣とブーツという姿は記憶と異なっているが、身体的特徴は何ら変わっていない。生き写しかと目を疑いたくなるほど。
「あなたは以前よりも輝きを失いましたね。カリスマ性を感じられません」
「カリスマ性ねぇ……。人を導くのにたる存在か。オレはそんなものいらない。多くの人を導こうなんて思ってはいない。オレとお前は根本的なものが違う。なのに惹かれあうなんて、運命の悪戯っていうんかね」
「櫻井奏都……いえ、ウーア。ここ――ケレブレムの中枢で終わりにしましょう」
 汐世の宣言と共に世界はまた豹変する。街は崩れ、白い世界になり、やがてまた何色かに彩られる。そしてあらわれたのは世界の中枢。
 汐世の真後ろに巨大な丸いカプセルがあった。直径十メートルはありそうなそれの中には同じく丸みを帯びたもが入っていた。肌色というより黄色に似たそれには皺が刻まれている。またそのカプセルからは幾本ものチューブが天井へ伸びている。
 地面はタイルのようだ。平らでありながら表面はつるつるしている。幾何学模様も描かれており、神秘性を引き立たす。何の意味を持って描かれたのかはわからないが、線は重なり交じり合っている。
「ようこそ、ラストステージ・ケレブレムへ。ここまで足を運んだ方はそうそういません。ようこそいらっしゃいました。最高のおもてなしで歓迎します」
 そう言って汐世は深々とお辞儀をする。
 格式ばったものを感じた奏都は剣を構えた。
「……今回は誰にも邪魔されません。決着をつけましょう」
 今まで聞いたことのない積極的な汐世の台詞に奏都は恐怖を感じていた。 
 
 


「お前はウーアだ」
 そうだ、俺はそう呼ばれ続けた。名付け親は知らない。どうせ両親と同じキャラバンの人だろう。
 ――ウーア。
 旅中、この名前で困ることは一切なかった。忌々しいと眉をひそめられたこともなかった。砂漠を越え、海を渡り、初めてこの名前の意味を教えてくれたのは盲目の少女だった。
「ウーア。呪われた名。意味するものは死」
 死?
「わたしはマリザ。終わりへの導き手。あなたと……同じ」
 終わり?
「いつか……わかる日が来る」
 自身の名が死を意味する。それを知った時、俺に光を与えてくれたのは境遇も生き方も全く違う少年だった。
「僕の名前はイシ。ウーアやマリザとは同じ言語ですが、〝生〟を意味するそうです」
 生?
「心配する必要なんてないよ。僕の名が君の名を打ち消すから」
 それらは遠い原初の記憶。あれから俺らの関係はこじれていく。三人だけで成り立っていたものが四人で成り立つようになった時、崩れ始めたのだ。崩れの前兆はマリザの一言。俺が反乱軍に加担しなければガルデニアと会うことはなかっただろう。俺とガルデニアは特別な関係ではなかった。運命の悪戯か。俺は何度も彼女を戦場で見かけた。惹かれていたのではない。おかしいのは二人が揃った時、必ず大事件が起きて歴史は動いた。
 やはり遠い記憶。過去は美化され、あるいは劣化する。
 
 やがて自身は現在に引き戻される。
 目を開けると、赤に近い髪と暗い水色の瞳をもつ少年がいた。名を奏都というらしい。身長はあまり自分と変わらない。ただ彼は細すぎるような気がした。
 体を鍛えていないのだろう。そんな彼に質問したいことが一つあった。
「奏都、お前の名はどういう意味だ?」
「意味? そんなもの知らねぇよ。漢字は奏でる都って書くけどな。由来を聞いたことはねぇ気がするけど、そのままじゃね? 奏でる都。読み方はかなと。漢字見を見てると、たまーに〝そうと〟だと思っちゃうんだよなー」
 奏都はへらへらと笑う。その笑顔を見ると平和ボケしていると思いたくなるが、彼なりの苦労を俺は理解しているつもりだ。笑顔という仮面をつけ、心の中では別のことを考えている。それは彼の年代の文化と呼べるかもしれない。そう表現したくなるほど彼の周囲も隠し慣れていた。虫唾がし、反吐が出るくらいに。
「あんた、ウーアっていったか。ふーん、イケメンだぜ。一体どれくらいの女を泣かせてきたんだ? 両手で数えるくらい? んなわけないか、もっとだろ。なあなあ実際、どれくらい交際したんだ? チェリーボーイの卒業はいつ?」
「お前は女にしか興味がないのか」
「女に興味があるのは男の性分だろ。好きで何が悪いっ! ああ、先輩……。自分はいつでもお待ちしております。もう終始オープンで! 鍵開けておきます……って鍵開けてたら智帆に侵入されるわボケ。……待てよ、逆に先輩の部屋にお邪魔すれば解決するんじゃね? 先輩の親どうしてるんかな。一人だったら侵入してお楽しみ……グヘヘ。鼻血垂れてきた……」
「もしかしてお前、自分で何を考えているか把握していないのでは?」
「ヘイ、じぇーんぜん。妄想が果てるまで! おっと鼻血鼻血……。ん、ティッシュねぇな。ウーア、ティッシュってどこにある?」
 鼻からつたってきた血を奏都は手で受け止めた。赤く染まった指は生々しく目立つ。鮮やかな血の色。俺の記憶にはその色だけではなく鼻が曲がってしまうような臭いもつきまとう。自分が経験したことを彼に体験させてはならない。お茶を濁したら彼に悟られる。悟られないよう平然といるべきだ。
「ないぞ」
「なぜに? ティッシュぐらいエチケットだろ」
「それはここが……所謂精神世界だからだ」
「ブッ……! ひでぇな、あえて触れないようにしたんだけど」
「わかっていたのか」
「そりゃあな。それ以外、自分とウーアが会話することなんてないと思って。今まではおまえに名前があるなんてちっとも思ってなかったし」
 以外と賢い奴だ。その賢さを何故ゆえ表に出そうとしない。それほど賢ければ目も前の出来事に躍らせられなかったはずだ。真理を見通す目を培われていたはずなのだ。
「おーおー、鼻血止まった。すげーな精神世界」
 奏都、指に付着した血は残っているぞ。
 こうしていると馬鹿な奴に見える。まあそれが彼の本質なのだろう。ならば俺は否定しない。見守ることに徹する。
「なあ、あんた……こっちに生温かい目を向けんな、気持ち悪い。」
「なにぶん、お前が俺の子どものように見えてな」
 勢いよくふく奏都。鼻の下についた血が残っていることを忘れているのだろうか。口元を吹いた手にまた血が着いたぞ。
「その外見にオレみたいな子どもはねぇだろ」
「そうか? 俺はお前が生まれた時から知っているぞ」
「…………」
 奏都は視線を落とし、声を押し殺した。
「……オレ、今の家族が嫌いだ。あいつらはオレを道具だと勘違いしてやがる。あいつらはオレが記憶を失くしているとでも思ってるんだろうけど。確かにオレは生みの親なんて覚えていない。里親がオレの親とどういう関係だったのかも知らない。……なんていうんだろうなこういうの。自分でさえもわかんねぇよ、ダッセーな。別に最初から嫌っていたわけじゃねぇのに」
 髪を手ですき、そのまま指の腹で頭をつかんだ奏都。ぼさぼさな茜色の髪は嫌でも目に付く。
「お前、前髪伸びてきたな。切らないのか?」
「そういう意味のダサいじゃないんだけど。そういえば最近切ってないな。まあ、あんまり気にしてないし」
「瞳の色、かなり珍しいだろう? 隠すよりは見せつけたらどうだ」
「オレさ、自分の外見ってあんま気にしないんだけど、髪と目の色って黒じゃないから気にしてんだよね。空義と捺由のほうが目立ってはいたけど」
「あの双子の髪。若葉色と称するべきか。あれはお前と違って生来のものではない。比較する対象がおかしい」
「いや地毛だろ。じゃなかったらわざわざ空義が染めて隠そうなんてしねぇよ」
「地毛と言えば地毛だ。あれはきっと……母親の胎内で操作されたのだろう。元々、あの二人は一卵性双生児だった。それを無理やり二卵性にされた。科学の進歩とはそのためにあるのか。解せんな」
「あいつらが一卵性? そんなわけないだろ!? ……そう仮定したとしても、誰が何のためにやったんだ。オレの怒りをそいつにぶつけてやるッ。あいつらの代わりに天誅を食らわせてやる」
「目的は知らぬが、行った人物なら知っている」
 だが、やめておけ。奏都、お前一人ではどうにもならない。一人で解決しようとしても手段がなくて匙を投げるだけだ。お前は戦争や権力争いに巻き込まれたことがないから一人で何でもできるとつけあがる。大きな流れを単独で止めようとするのは馬鹿のする真似だ。
「誰だ、教えてくれ」
「お前のよく知る人物だ。……いいのか? 知らない時には戻れないぞ」
「ああ、いいよ。オレは知りたい。元々知らない奴の方が多いし、よく知るっていうのは嘘だろ? そんぐらいでビビるオレじゃねぇよ」
「本当にいいのか?」
「いいぜ、何度も言わせんな」
 瞳は真剣だ。ただ余裕があるのか両腕を組みながら仁王立ちしている。その余裕が命とりであることをそろそろ理解してほしい。
「――――」
 俺の言葉で奏都の顔色は失われていく。そんなはずは……とこぼす彼はもっと馬鹿なら良かったのだ。そうであったら俺の言葉に流されなかった。だからお前に一つ言葉をくれてやる。
「奏都――Salaam Aleokum」 
 意味を理解した奏都は顔を上げた。
 生きてくれ。それが俺の願いであり贖罪なんだ。
 
 
 
 オレは長いこと眠っていたようだ。全身が倦怠感に包まれている。気だるさに負けそうになるが、ここで寝ているわけにもいかない。
「……言い逃げしやがって」
 身体がどの状態なのか気になり、指、足……と部分的に動かしていく。ピアノを弾くように指を動かしてみることもできたし、膝を曲げられた。
 それから最も不安の種である腹を指で押してみた。痛みは感じない。どうやら内臓を負傷している危険はなさそうだ。安心してふっと息をつく。全快しているらしい。あえて痛覚が麻痺しているという可能性は否定しておく。そこまでネガティブになっていたら彼からもらった言葉が失われてしまう。
 記憶が間違っていないならば、自分は最後致命傷を受けて倒れたはずだ。だというのに生きている。この体は奏都以外の誰でもない。
 元の世界に帰れたのか!?
 身体を起こし、剣を探す。幸いにも剣はすぐ近くにあった。やや重く感じるそれは自分がまだ元の世界に帰れていないことを暗示している。淡い希望は打ち砕かれた。
 立ち上がると、今度は異様な空気に押しつぶされそうになった。まるで冬にストーブをつけた時のような空気の悪さ。換気したい。臭いはなくても空気の悪さは自然と肺活量を下げる。こんな空気を吸っていたら身がもたない。
「なんだよ、これ……」
 目を凝らすと瘴気のような靄が空気中を漂っていた。それに背筋がぞくぞくする。見られている気がする。誰に? わからない。ただ何かいる。オレの経験がそう告げている。
 ここはそんなに広くない。たが瘴気のせいで視界が悪い。風系の術が使えたらいいのに。
「あーあ、もしかしたら誰も――」
 いないかもしれないと言おうとした瞬間、自分の体は掻っ攫われていた。腕を誰かに引っ張られた。
「ぼけっとしないで!」
 そのまま空中にもっていかれる。
 どういう原理なんですか? 空中に引っ張られるとかどういうプレイ? それにどさくさに紛れて怒られた気がする。
 空を飛んでいるわけではない。浮いている。足が地面から離れている。
 声の主はすぐ離れたので自分はしばらく放置される。まだ自分は浮いていた。本当にどうなってんだ? 最初は腕を引っ張られたので空を飛んでいるような感覚もあった。今はただ浮いている。それも水に浮かべた浮子のようには上下に動いていない。空中で直立しているのだ。
 茫然としていると、後ろから声をかけられた。
「……奏都さん、無事でしたか」
「おまえ……イシ?」
「説明は後です」
「せめて浮いている理由を教えてくれっ」
 イシも浮いていた。まるで空中に地面があるように立っている。
「わかりました。手短に説明します。本来なら貴方は重傷を受けて死ぬはずでした。ですが、その瞬間に僕とマリザが介入しました。その後、ガルデニアと交戦していたわけですが……」
 二人で空中を走った。イシが指差した場所に人よりも大きな物体がある。遠目でよく見えない。それから離れた場所で誰かが向き合っている。どちらも空に浮いていた。ああ、だから自分も浮いているのか。地面からの直接攻撃をかわせるという利点と上手く動けないという欠点。立ち回りを考えれば浮いている方がいいのかもしれない。
「ガルデニアは形態を変えました。それで今の状況です。マリザが交戦しています」
 ガルデニアとマリザの戦いは熾烈だった。どちらも術主体で戦い、一歩も動いていない。術で生み出されたものは自然法則を破っている。巨大な火の玉、半径一キロはありそうな渦、竜巻、地割れ……もうなんでもアリだ。巻き込まれたらひとたまりもない。火葬されそうだ。
「さっき貴方を拾ったのはマリザですよ。後で感謝しておいてください」
 そう言ってイシは消えた。前線に戻ったということか。
 次元を超えた戦いにオレは成す術がなかった。
 
 
 
 マリザは大きく息を吸い、心を落ち着かせた。攻撃から身を守るための防御壁は展開しておいた。ガルデニアは時々飛び道具を放ってくるが、まだその壁を通過してはいない。ただしこれは力比べ。手を抜いてはならない。勝機までマリザは耐えようとしていた。ここまで耐えられたのは智帆がアニメとかいうもので魔術を研究してくれたおかげだった。詠唱は相変わらず必要であるが、アプローチは多ければ多いほど良い。攻撃力が低くても不規則に変化するものは相手の動揺を誘える。術よりも大切なのはそれを使用する側だ。使用する側が弱ければどんなに威力の高いものも本来の力を発揮できない。
 イシが戻ってきた。ということは安心して詠唱できる。長いものも可能かもしれない。
「Naamini kuwa siku hiyo kurudi(あの日が戻ってくることを私は信じています)」
 マリザはガルデニアからわずかに香るウーアの臭いを察知していた。あれはガルデニアとウーアの融合体だと判断し、気を張る。
 融合体は機械のような体。ウーアの精神は奏都の中にあるため、あれはプログラムでつくった幻影。汐世でもガルデニアでもないあれこそ組織の犬。
 智帆は頑張ってくれた。わたしは彼女の意志を継がなくてはならない。彼女を巻き込んだのはわたしだという負い目もあるけれど、わたしはマリザだから。この輪廻を終わりにさせなければならない。
「Je,unakumbuka(覚えていますか)? Maisha ya hisia(喜怒哀楽の人生) Tunaishi lakini pia ilikuwa chungu(つらいこともあったけれども私たちは生きている)」
 スワヒリ語。malizaに終えるという意味をつけた言語。わたしは日本語よりもこちらの方が好き。母語だもの。忘れはしない。
 ガルデニア。わたしはあなたが羨ましかった。ウーアと対等な関係でいられたんだよね? 
 慈愛と嫉妬。二つの心は二人の幼子に分けられた。今のわたしの核は嫉妬。あの人たちはわたしに慈愛など不必要だと思ったみたい。けれど、ここにある。慈愛はここにある。
 心臓がある場所に両手を添える。鼓動の音が気持ちいい。……ありがとう、智帆。わたしは智帆が大好きだよ。こうしてガルデニアと対峙できるのも智帆がこうして生きているから。あのまま死という道を選ばず、イシに助けられることを願ったから。
 「Lakini kidogo lilikuwa ni kubwa hai(でも少し生きすぎちゃった)」
 本当に生きすぎた。一体何度輪廻を巡っただろう。何度転生しただろう。生まれ変わってもわたしはマリザとして生きるしか選択肢がなくて。マリザとして全てを終わりにするしか選択肢がなくて。
ガルデニア、あなたは苦しくなかったの? わたしは苦しい。もうこんなことしたくない。所詮わたしたちは創られた存在。同情を誘い、対象の心を奪うための存在。そして本という
一方的な視線にとらわれた存在。
 わたしは嫌だよ。こんなことしたくないの! ウーアを苦しめるのも、イシを悲しませるのも、ガルデニアを傷つけるのも! 嫌だっ、こんなことしたくない! わたしはこんな結末のために二人を合わせたんじゃない!
 また新たに始めよう。先入観のない真っ白な心で今度はあなたの前に立ちはだかる。
 だから、もう――
「Kujaribu kumaliza(終わりにしよう)」
 これはMwaliko wa mwisho(終焉への誘い)。
 この輪廻を止めよう。わたしはその礎を築く。
 
   
 
 急に視界が開けた……と同時に落ちる。って、落ちる!? 嘘だろっ!? 
 空中にあったはずの足場が消えていた。情けない声をだしながらオレは落下した。運よく背中で受け身をとれたので打撲はしていない。ぶつかった衝動を耐えたらすぐ立ち上がれる。
「まだ何かいるぜ……とっとと消えろっての」
 瘴気は無くなっていたが、見慣れないものが空気中を漂っていた。ハンドボールを一回り大きくしたような球に一つの目玉がついたそれはぷかぷかと浮いている。外観は鉄の色。機械か。かたそうだな。
 ふと、こちらと目があった。
 一瞬、頭が真っ白になった。怖いってか、気持ち悪い。おいっ、追いかけてくるな!
「来るなっ、気味わりぃ。あっちいけ、しっし」
 まあ小馬鹿にしたら、火に油を注いでしまったようで。
「だから来るなって言ってんだろ! しかも増えてる―ッ」
 どんな罰ゲームですか。一つ目の物体に追いかけられるなんて怖いだろ。
 ……怖い? 見られていることじゃなくて? 追いかけられていることが?
「へへへ……成長してんだな、俺も」
 追いかけてくる一つ目に向かって抜刀する。剣で切れるかは知らないが、なんとかなるだろう。それにしてもさ、あの目を潰したらどうなるかな? 機械だから怒られはしないだろう。
 
 
 
 ガルデニアもマリザも地に落とされた。二人は無傷だが、後者は先程の消耗で息切れしていた。マリザを庇うようにイシは構えていた。ガルデニアは以前とは違う。スピードもパワーも格段にあがっている。互いに真正面からぶつかっていた後、ガルデニアは性能が上がったのだ。万策尽きたと見受けられる危機的な状態だ。
 目覚めた奏都がこの戦いの輪に入ることは不可能だ。まだ未熟な彼では攻撃と防御のタイミングさえ見切れない。自ら死ににいくようなものだ。
 ガルデニアを守るように小さなザコがいっぱいいた。個々の能力的は高くない。問題なのはその数だ。倒しても倒しても増えてくる。イシとマリザの体力とて無限ではない。それゆえガルデニアを攻撃する際に巻き込まれた物体も排除する。
 さきほどの詠唱自体にあまり意味はない。あれは一時的にガルデニアの影響力を減らすコード。ハンデを消し去ったというほうが正しいかもしれない。
「変幻自在とは、手強い相手ですね」
 そう呟いたイシはガルデニアを凝視していた。
 飛べないとわかったのか、ガルデニアの背中から蝙蝠の翼のようなものがにょきっとはえた。バサッバサッと自由に羽を動かす様子は圧巻だ。力の差を見せつけられて、やる気を失いそうになる。ただ翼であるために飛行方向などの癖が出てしまう。その弱点を二人はやる気へと変える。
 先にガルデニアが動き出した。風を切り、上空で円を描くように飛ぶ。そしてマリザと目があった。
「っ!? 来るっ」
 上空に召喚された剣や槍。それらが一斉にマリザに向かって急降下する。
 咄嗟につくった光の壁で身を守ったが、その間にもガルデニアが迫ってきていた。イシが攻撃を逸らしたもののマリザは軽傷を負った。
 ガルデニアはマリザに畳み掛けようとしたが、その目論見はイシに邪魔される。イシの投擲用ナイフは鋼鉄の体に弾き返されたが、その直後に発生した煙幕でガルデニアの動きを一瞬止めた。
 マリザは盲目の少女だ。今、目を開いていられるのは肉体の持ち主の恩恵である。マリザは煙幕や靄という視界不良の中でも詠唱し、術を対象に命中させる。術の発動に必要なのは精神力。終焉への誘いで、精神力をごっそり持っていかれたために大掛かりなものをすぐには発動できない。イシの誘導を先読みし、小規模なものをあてていく。
 イシとマリザの連携は目を見張るものがある。そんな二人の連携でさえもガルデニアを追い詰めることはできない。ここは元々ガルデニアの管理下にある世界。そこで勝とうと思いあがる方が馬鹿なのかもしれない。
 剣も魔法もガルデニアに大したダメージを与えてはいない。
 負ける――。
 そんな考えが二人の頭をよぎり始めた。


 
 暗闇の中で光る巨大なディスプレイ。
 それを男が自身の顎髭をいじりながら見ていた。彼が身に着けている白衣は汚れが目立った。
「……博士」
 誰かが部屋に入ってきた。張りのある声は若さを漂わせる。
 それに見向きもせず、博士と呼ばれた男は思考をめぐらしながらも画面をじっと見つめる。
 画面に映し出されていたのは四人。
 一人は剣で丸い物体を突き壊している少年。
 一人は目を瞑りながら口を動かす少女。
 一人は果敢に攻める少年。
 最後の一人は半分人間で半分機械の体をもつもの。
「博士はこの戦局をどう分析しますか?」
「ううむ……あいつらは本格的にプレイヤーを倒そうとしているのぉ。あの少年にどんな価値があるというのかねぇ」
「失礼ですが博士、それは彼を過小評価しすぎだと思われます。ラストステージがガルデニアだという前代未聞でありながら、彼は白旗を上げずにねばっています」
「彼を選んだのは君ではないか」
「はい。彼はあのジェノサイドで生き残った者の一人。彼が一体何者であるかは知りませんが、大きな力を秘めていると分析しました」
「そういう風にされたんだっけなぁ。違うよ三笠木(みかさぎ)君。彼はあのジェノサイドの首謀者を始末した人間だよ」
「……? あれは十年ぐらい前の話ですよね。ということは当時まだ彼は幼かったはず。子どもが大人を殺せますか?」
「方法はいくらでもあるさ。彼は一本のナイフでやったらしいんだよねぇ。家庭科室のものみたいなんだけど。彼を保護したときはすでに惨状だったなぁ。君も見るべきだったよ。慣れていない人は失神してたかなぁ」
 博士が朗らかに笑う隣で三笠木は肩を震わせた。
「一本のナイフでって、やっぱり子どもの力じゃ想像できません」
「やりかたなんて私は知らんよ。うまーく切れてたらしいがね」
「それはいいとして、当時はその少年を逮捕しようと思わなかったんですか? 危険ですよ。逮捕まではいかなくても監視下に……」
「簡単に逮捕とか言うんじゃないよ。彼の年齢云々よりも、あれは正当防衛であった。表沙汰にできないっていうのが最大の理由なんだが。……あの事件で私も息子夫婦を亡くしてね。初めは正気でいられなかったよ。三笠木君はそういう経験ないでしょう? 理不尽な理由で大切なものを失うという経験」
 ここで初めて博士は画面から視線を外し、隣にいる人物の顔を盗み見た。
 三笠木は気まずそうな表情のまま画面に視線を注ぐ。まるでこれはゲーム画面のようだ、と思いながらも口に出さない。
 その瞬間、四人の内一番目立たないことをしている少年が振り返った。視線が合い、三笠木は小さく声を上げた。
「見られたかと思ったかね? 三笠木君」
「はい、どきってしました。すみません、仕事中に」
「……恐らく彼は気付いているよ。十中八九気付いている。さて、どうしたものか……櫻井奏都」
「あれ? 彼は博士と同じ苗字なんですか。偶然ってあるもんですね」
 博士は眉をひそめた。目力がよりきつくなる。元々健康に気を使っていたが、最近腰が曲がり始めた。これは老いだ。そろそろ次世代に任せるときが来るかもしれない。
「三笠木君は大逆転の策とかあるかね?」
「大逆転の策、ですか……。特にはありません。少年には悪いと思いますが……」
「手立てがない。誰もがそう思う中、たった一人でも立ち向かおうとする心。うむ、友情は麗しきものだ。三笠木くーん」
「はい、なんでしょう」
「彼を呼んでくれ」
「彼とは?」
「〝手〟だ。〝手〟を呼んでくれ」
 急いで三笠木は携帯電話で連絡をとり、やがて通話を切った。
「三笠木君、仕事だ」
「いつものアレですね? わかりました」
 この部屋にはディスプレイ以外にも機械が多くあった。三笠木はパソコンを操作し、準備に取り掛かった。
 キーボードを叩く音の中、博士は静かに画面を見つめていた。それからぼそっと呟き、画面に背を向けた。
 ちょうど画面には全ての球を壊した奏都が映っていた。



 周辺にいた球を全部壊しても、見られている感は無くならなかった。やっぱり誰かいる。こちらを見ている。ここにいるのはオレとマリザ、イシ、ガルデニアの計四人。オレ以外の三人はどんぱちやっている。とどのつまり、オレを見ている奴がいるわけがない。
「あいつに追いかけられていたときと同じ感じがする……。気のせいか? いや、そこまで敏感なほうだったか?」
 口ではどうこういっても、この錯覚は収まらない。何かがこちらを見ている。誰が、何のために?
 もしかしたらオレは何か見落としているんじゃねぇか?
 今までのことを思い返す。
 ここに来たきっかけは多分空義にもらったCDだ。それはあくまでもきっかけだと思うことであって、絶対とは言えない。
 そしてイシと出会い、オルキダケアエと戦った。アウルムとは勝負したわけではない。ニュンのおかげでハリブ戦で生き長らえた。その戦いはマリザによって邪魔されたが。マリザによって邪魔された? あんなにタイミングよく?
 そういえば、なんで不思議に思わなかったのだろう。
 自分がこの世界に来るたびに風景も会う人物も変わっていた。特にイシはタイミングを計っていたかのように登場する。
 そもそもこの世界は一体何だ? いや、話がそれた。今はケレブレムの存在意義を考える場合ではない。
 イシの登場は絶妙だ。呼べば出てくるスーパーマンだ。その上コンビニのように、あったらいいなと思ったら登場する。まさにチートだ。その登場が偶然でなく、オレを見ていたからだとしたら? イシが自分と同じように来ているならば、それを手助けする存在があってもいいはずだ。
『……暗い顔ですね、みっともありません。あ、ハリブに勝てたようですね。辛勝のようでしたが』
『はぁ……、僕言いましたよね? マリザに小細工は通じない。実力勝負でなければ、介入されるだけです』
 イシの言葉が蘇る。やはり彼は見ていたのだ。そうでなかったら、戦いの全貌を知っているはずがないのだ。ハリブと戦った時、イシはいなかった。
『……ええ、僕はあなたを知っています。生まれたときから一時も忘れたことはありません。それだけではありません。オルキダケアエもアウルムも、この世界の管理者でさえも。そして――あなたが次に戦うべき相手を僕は知っています。ですから、受け取ってください』
 ああ、だからウイルスなのか。
 彼は管理者の手が届かないところで用意された人物。ゆえに管理者の手に負えない。 
 
 ケレブレムは創られた世界。創られた理由は知らないが、運営する人たちがいる。管理者だと公言するガルデニアもそっち側。そうすればマリザが以前無詠唱であり、今はそうではないということに頷ける。
 運営陣。これをどうにかすれば勝てる。勝ったら、自分は生きて帰れる。マリザがなぜ生きているかは知らないが……、マリザ……。マリザは智帆だ。
 オレは智帆に勝った。ということは智帆はどうなったんだ? 確認するのを忘れていた。完全に失態だ。許せないところはあるが、智帆は悪い奴じゃない。
 鬱陶しくなければもっと評価は高い。
 ダメだ。考えれば考えるほど泥沼にはまっていく。
「ちくしょーっ! もっと頭が良ければ……!」
 現在をどうにかしなくてはならない。この場面を乗り越えないと。自分のためにイシとマリザが戦っていることを忘れてはならない。
「おい、オレを監視している奴ら! そこにいるのはわかってんだよ、顔だしやがれっ。こんなことやって楽しいんかよ。オレはちっとも楽しくねぇぞ。命かけてここまで来たけどさ、やっていることは殺人と変わんねぇ。ハリブって言ったか、あの男。現実では死因不明らしいな。本当はおまえらが殺したんだろ?」
 どんなに叫んだって反応が変わってくるわけでもない。
「つまり――」
 空気の流れが変わった。
 離れたところから、こちらに向かってくるもの一つ。
 そいつと目があった。そいつは数機の機械を連れている。
 少々でしゃばりすぎたみたいだ。ガルデニアと戦って勝つ自信などない。あのスピードにどうやってついていけというのだろう。倒れる前はウーアがいてくれたが、もういない。力を感じられない。
「ジ・エンドか……。こんなとこでオレは死ぬんだろうな」
『いいえ、あなたを死なせない。それが俺の誓い』
 自分の頭上に光が集まっていた。それは神々しい光。周囲の人々に呼吸をすることを忘れさせるほどの光。その煌めきは星よりも明るく、月よりも人を酔わせる。
 頭に直接響いてくる声。それは気迫を込めていた。
『ごめんなさい、ウーアさん。俺はずっとあなたの力になりたかった』
 謝罪の言葉が耳を打つとともに、光は徐々に強くなる。
「おまえは誰だ?」
『俺はマヌス――』
 マヌスと名乗った声は高い。少女か少年のものか判別できない。けれども心の中で何かが動いた。それはきっと自分のものではなく――。
 ぼんやりとした幻影が自分の前に降り立った。やはり性別は不明だ。幻影は矢筒を背負い、すでに弓を構えている。まだ幼いというのにその姿は凛々しい。恐れをしらず、ガルデニアに立ち向かう壁となる。
『……ありがとう、奏都』
 幻影は矢を放った。矢とともに光も放たれた。その軌跡はまるで流れ星。夜空に線を描くほど疾く速く。
 ガルデニアは一直線にこちらへと飛んできている。ただ片翼を失っていた。その状態のガルデニアを止められないということはイシもマリザも限界だったのだろう。
 ありがとう、みんな。こんなオレのために。こんなアホのために。
『奏都、あとはわかっているな』
 同意を求められ、オレは無意識に頷いていた。何をすればいいなんて、その時になったら考えられるさ。
 光の矢はガルデニアに突き刺さり、爆発を起こした。
 
 
 
 ぷすぷすと焼き焦げた鎧をまとう少女がそこにいた。
 彼女はうつ伏せに倒れていたが、すぐに体を起こした。荒い息とは対照的に瞳は生き生きとしている。黒衣のドレスと銀色の髪はすでに彼女の存在を確定させる。
 奏都は少女――汐世に近寄った。ゆっくりと足音を立てずに近寄る。
 汐世は奏都を拒絶せず、ただ彼を睨み付ける。手には大鎌が収まっている。戦うつもりなのだろう、奏都もその覇気を感じて剣を構えた。
「先輩、こんな意味のないことやめましょうよ。戦って得られるものなんてありません」
「戦う理由……私にはあります。心血を注いできたものが」
「それが何だっているんですか。先輩はオレの大切なものを傷つけた。先輩が直接関わっていなくても、オレは許さない。今までどれくらい捺由のような人を生み出したんですか? それともそれが先輩の本性ですか?」
 大鎌から生み出される衝撃波は奏都の体を狙い続け、着実と間合いを詰めていた。そして汐世は飛び上がる。その鳥のような優雅さに目を奪われている暇は奏都にはない。剣を盾にし、金属が擦れあった音が空しくも木霊する。
「私は"奪う"行為でしか生きられない愚かな人間。ええ、黛捺由さんのように多くの方を窮地に追い込みました。私が直接手をくだす必要はほとんどありませんでしたが」
「先輩は自身の行いの善悪がついていますよね? なら、どうしてこんなことをするんですか?」
 奏都は汐世に押されていた。一撃一撃を見切り、防御あるいは受け流すので精一杯であった。
「分かったような口利きをしないで!」
 怒号に押され、奏都は一瞬怖気づいた。
 その隙を汐世は見逃さない。
「はいやっ」
 と、小さな掛け声とともに大鎌が蝶のように舞う。不規則に数個の円を描き、それらを防御できなかった奏都は皮膚が切り裂かれる瞬間を目にした。血飛沫が黒色の大鎌を赤く染め上げる。
「った」
 声を漏らし、奏都は剣を持つ右腕を押さえた。傷口は思ったよりも浅い。
 奏都の腕から流れ出る血を目にした汐世は間合いを取り、大鎌の柄を地面に突き立てた。その動作には管理者としての風格が滲み出ていた。
「その痛みは迫害されてきた人間に蓄積されてきたものに取って足りません。私は救いの手を差し伸べ、罪のない人々に生きる権利を渡します!」
 汐世は他の人のために献血をし、生き物を大切にした。彼女は名も知らない人々と自身の命を天秤にかけているのだ。この自分という表現には奏都だけでなく、汐世も含まれている。
「精神体であったウーアの降臨。それ即ち、人命を操れるという神にしか行えない冒涜。この世界は人間の精神を蝕み、現実世界に支障をきたす。
 その間にも解離症は水面下で進行し、この世界で"死ぬ"ことにより、脳死を迎える」
「それがケレブレムの存在意義……」
 奏都の呟きに、力強く汐世は頷いた。
「語源は"脳"を意味するラテン語です」
『奏都さんは偽りなく、この世界の存在意義に気付いていますか? ケレブレムの意味を知っていますか?』
 この世界に始めてきた時、イシからの忠告が奏都の頭の中で繰り返される。イシは知っていたのだ。このゲームが殺人のために創作された舞台であることを。
「へっ、自分は自分の脳を探検していたのか。そう考えると気味悪いぜ」
「当たらずとも遠からず。初めは夢のような世界ですから。あなたは友人との生活を望もうとしていた。平均よりは世界を暴くのが早かったようですね」
 汐世はまた、奏都めがけて風の如く襲い掛かる。彼女は空気を裂き、衝撃派を生み出す。まるで王が通行する際、民衆が道をあけるかのように。彼女を阻むものは何もない。 
「先輩はガルデニアと変わらない」
「っ!? 違う! 私は彼女じゃない!」
 再び大鎌を振り上げる汐世。彼女は激昂していた。対する奏都は落ち着き払っていた。それが雌雄を分ける。
 大鎌の予備動作は大きい。奏都はその点に気付き、できるだけ近距離戦を繰り広げていたのだ。
 かかった、と奏都は睨む。決断したら行動は速かった。
 一気に地面を蹴りあげる。一歩目は助走。二歩目で右に飛んだ。これにより汐世の大鎌をかわした。三歩目で真ん中に戻り、四歩目で汐世の懐に潜り込んだ。
 そして軸になっていない方の足で鳩尾を蹴り、すぐさま逆の足で蹴り伏せた。
「いやっ……!」
 汐世の悲鳴も奏都に届かない。寝そべった汐世の体の上に奏都の足があった。
「先輩も悲鳴を上げるんですね。先輩は迫害されてきた人の痛みっていいましたが、捺由はどうだったんですかね? 捺由が負けたのはマリザらしいから何とも言えませんが。結局先輩は自分のことしか考えていない。どうですか蹂躙される気分は? 先輩はそうやって人を踏みにじってきたんだ」
 汐世も奏都も震えていた。どちらも己がしたことを十分理解していたのだ。
「……オレの勝ちだ」
 
 
 
 深い眠りから覚めると、最初に目に飛び込んできたのは片割れの顔だった。片割れは滅多に泣かない。それも当たり前か。何度も輪廻を繰り返してきたから。
 ただ片割れは記憶を次の巡りに持ち越せなかった。だから同じ行動をしていた。今度の巡り。片割れはいつもと逆に完全記憶という能力を持って生まれてきた。
 そのために全て覚えている。嫌なことも全部、覚えているんだ。
 抱きついてくるかな、とワクワクしていたけれども、片割れにそんな素振りはない。今さら乙女になる必要なんてないか。彼女もそういう人だったから。
「……空義、おはよう」
「目が覚めたのか」
「うん……ありがと。最後は空義も手伝ったんだよね?」
「どうだろうな」
 片割れは多く語らない。三人の中で最も早く覚醒したというのに、誰にも語ろうとしなかった。次にあたし。で、最後に奏都くん。奏都くんは目覚めるタイミングが悪かったせいで自分を見失った。どうにかしたくてもどかしかった。その度に無力な自分を責めたくなったものだ。
「今、いつ?」
「八月だ」
 八月ということは夏休みかな。まだ体調は万全じゃないけど、あたしはみんなを元気にさせたい。ニュンパエア、あたしは約束を果たせたよね?
  

Ending

九月。夏休みも終わり、秋の空になりつつある。赤とんぼが目の前を過ぎていった。湿気たっぷりのむしむしとした暑さから乾いた暑さへと変わろうとしている。
 家の玄関。オレは暫く空を眺めた。
 今日は珍しく家族全員で食卓を囲んだ。まだぎくしゃくとしたところはあるけれど、少しずつ改善できるだろう。義親といつか腹を割って会話できる日が来るならば、自分を養子として迎え入れた理由を聞けるかもしれない。オレの苗字はずっと櫻井のままのような気はするけどな。自分から積極的に聞いてもいいし、相手が口を開く日を待ってもいい。その時間が今のオレにはある。
「待ってよぉ」
 慌ただしく義妹が靴を履き、外へ飛び出した。急いでいたのか、髪の毛が跳ねている。指摘する必要はないな。食事の時間は同じだったのに、一体その後に何をしていたんだか。
 智帆は髪の毛を染めたままにするらしい。曰く、気に入っているから……だそうだ。
「行くか、智帆」
「……うん、奏兄」
「その呼び方、悪くないな」
「こっちの方がいいかなーって」
 
    
 今日は久しぶりの登校日だ。一体学校に来るのは何日ぶりだろう。数えられないほど休みすぎたようだな。
 不安なことはある。今だって足がすくんでいる。あー、なんでそんなに自分はチキンなんだろう。哀れすぎねぇか。飛び込み台とかバンジージャンプとか平然にこなしたよな? 脳内で。
 なにか失敗しても親友が助けてくれるだろう。むしろ失敗なんか恐れずに突っこもう。
 そんなことを考えているうちに校門が見え始めた。ぼちぼちだが人はいる。隣にいた智帆はファンクラブに見つからないよう一足先に校門をくぐった。
 オレは道端で立ち止まり、太陽が輝く下、靄然高校を見つめた。この学校に通い始めて二年。感慨深くなっていた自分はすぐに気付けなかった。
「不安ですか? 奏都さん」
 声がする方向に目をやると、イシ――じゃなくて暁夜がいた。陽の下で見ると、彼の髪も瞳も黒というより灰色に近い。身長は男としては低めだが、今後
 成長する余地がある。靄然高校の制服を着ているようだが、入手方法は色々あるだろうから突っこまなくてもいいか。
「おまえか。学校に行かなくてもいいのか?」
「僕の通っている中学は明日始業式です。なので今日はこちらにお邪魔してみました」
「お邪魔って……まあ、いいか。オレが口出す理由なんてねぇし」
「そうですね。高校の制服を着て校門で待っていたら、知らない人に話しかけられるくらいでしたよ?」
「……チッ、モテるアピールかよ」
「僕が着ている制服……、少し今のと違うんです。ちょっと詳しい方に詰め寄られました。……ざまあみろって思いましたか?」
「いや……それ、誰かにもらったものなんだろ。だったら大切にしてやれ」
「はい」
 暁夜はぎこちなく微笑んだ。
 
 いざ教室に入ろうと思うと足が竦んだ。廊下でずっと佇んでいるのも怪しい人なんだろうけど、中に入ることができない。
 怖い。クラスメイトはオレをどう見るのだろうか。嘲笑、無視、噂? どんな対応をしてくるのだろう。ダメだ、ダメだッ。こんな中に入れというのか? 笑いものになれっていってんのか? 
 無意識に後ずさる。教室から離れようとする。
 オレには無理なのか……? ずっと引きこもりでいるべきなのか? 空義と捺由がいればいい、という世界から抜け出すべきなんだ。いつまでもおんぶにだっこされているわけにはいかない。オレには二人がいる。一部の奴らと違って、彼らとは連絡を取り続けている。仲の良い人がゼロではないんだ。今、
 ここで踏み出すことをやめたなら、それは本当に辛い人たちを馬鹿にしていることになるのでは? オレは生きることを選んだんだ。今、進みださないと。
 悩んでいる途中で携帯電話のバイブの音がした。誰からだと思って宛名を見ると、それは見知らぬアドレス。
『お前は俺ではない。俺もお前ではない。お前はお前なりの幸せを探せ』
 内容を見て、不意打ちを受けた。涙腺が崩壊しそうだ。やば、ここで泣いたら本当に笑われ者だぞ。
 オレなりの幸せ。そんなものがあったら、そんなものを見つけられたらオレはどうなるのだろう。わからない。いや、今はわからなくてもいいんだ。
 よし、行こう。
 開けっ放しのドアから教室に入る。その時点ですでに教室が静まり返った。当たり前だ。自分がちゃんと朝から登校し、しかも教室に来ているんだもな。珍獣みたいに見られてもしかたない。
 教室の中に一人だけ雰囲気を変えない生徒がいた。おまえって、そういう奴だよなー。
「……奏都」
「あ、空義先に来てたんかよー。一言いってくれれば良かったのに。おかげで智帆と二人っきりで来る羽目になったんだぜ。勘弁してくれよな」
 智帆の名を出した瞬間、別の殺気を感じた。そういえば智帆にファンクラブがあるってことを忘れていたぜ。どんまい、自分。
「捺由はどうだ? 目が覚めたんだって」
「ああ、お前のおかげだ」
「いやいや、オレは何にもしてねぇぞ」
「……頑張ったな、奏都」
 やっべ、また泣きたくなってきたわ。この人目があるところで男泣きなんてできるわけないんだろ。というか、周りからひそひそ声が……って、決してオレはBLじゃないからな!
 邪念を込めた視線を周囲に送る寸前に、ひそひそ声は誰かの足音でかき消されていた。廊下は走るなって小学生の頃さんざん言われなかったのか? 
「空義、先に行くならそう言ってよ! あたし、部活の仲間とか教師に休学の理由聞かれまくって大変だったんだか……ら?」
「……よお」
 オレがよおと言って手をあげると、廊下走り魔は全身を凍りつかせた。やがて言いたいことが決まったのか、硬直を解いていく。
「よお、じゃないよ奏都くんっ。なんであんな危険なことしたの? 空義も、なんで奏都くんを巻き込んだの? あたしは帰ってこれなくてもよかった。これは天罰だと受け止められたよっ」
 胸元に手を当てて怒る捺由。彼女の言い分もわかる。もしも失敗していたら、自分も帰ってこれなかったのかもしれない。
 空義が何か言うかと思ったが、彼は沈黙を守ったままだ。オレの出方を完全に窺っている。自分の口で言えってことなのか。わかった、言えばいいんだろ。言えば。
「捺由、いいから頭冷やせよ。おまえが助かってよかったし、オレだってそのために頑張ったんだぜ? それにオレは他の奴らにも協力されたんだ。オレ一人じゃ無理だった。捺由だって助けてくれたじゃん。あの時はありがとう。おまえがいなかったら、オレだって死んでたぜ」
「でも、あたしは二人を巻き込んだ。危害を加えたのはあたしなんだよ……」
 自虐する捺由を諌めたのは空義だった。
「自惚れるな。捺由も奏都も己を見つめなおせたはずだ。それが今回の機会であった。それだけの話だ」
「へ、そういえばそうだったな。空義こそお疲れ。最後のアレ、おまえだろ?」
「さあ、なんのことやら」
 空義って、はぐらかすの下手だなー。真顔で正論述べるうえに糾弾できるくせに。照れてるんだろうな。耳が赤くなってるぞ。まあ、言わないけどさ。
 
   
 空義と捺由のおかげで教室には馴染めた。真面目な奴ばっかりかと思ったがそうでもない。皆自分の考えを持ち、日々勉強に励む奴らだった。そして将来を見据えている人の方が多かった。○○がしたい、○○になりたい。あるいはエゴを含めながら彼らは成長していた。
 自分はどうだろう。よくわからない。
 時間は無情にも過ぎていく。
 教室の窓から外を見渡していると、見慣れた人を見つけた。考えるよりも先に体は動いていた。
「先輩っ!」
 銀色の髪の生徒を自分は一人しか知らない。
「せんぱーいっ!」

『侵食されしケレブレム(楠楊)』

書き終えた小説をゲーム用の文章に変更したため、ややゲームに適した表現が含まれています。とくに改行の多さが特徴です。自分に余裕があれば個別ルートありのゲームを作るかもしれません。

『侵食されしケレブレム(楠楊)』 東大文芸部 作

捺由が植物状態になり始めてから早一ヶ月。空義はその原因を特定し、奏都に託した。そして奏都が誘われたのはケレブレムと呼ばれる世界。その世界の存在意義が奏都を苦しめる。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2014-03-28
Copyrighted

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