蛍火

エピローグから始まるプロローグ



 最初の言葉は何だろう。ありがとうでもなければ、よくやったでもない、そうだな、おめでとうって所かな、なあ、血を分けた兄弟よ。
最初にお前の父親がどんな男なのかを教えるよ、知りたいだろ、父がどれ程偉大なのかを。
――さあ、聞いてくれ、この物語の結末を。



 蛍火



 父、平岡省吾が突然失踪したのは去年の夏だった。民俗学の権威でもある国立大学教授の父が研究も家族も捨て何故失踪したのかは今もって不明だが、父の書斎の机にはある手帳が残されていた。冒頭には蛍火とだけ記してあり、俺達残された家族に対する謝罪は一切書き込まれていなかった。
 母と妹はこの事に酷く心を痛め連日泣き続けていたが、結局父はその日を境に家に帰ってくる事はなかった。
そして、父の蒸発から既に一年、俺は手帳を頼りに父の消息を求め里見町に辿りついた。
「なんてシケタ町だ」
 電車に八時間以上も揺られ、行き着いた先は寂れた田舎の片隅だ。
 手帳には蛍火と里見町の因果関係に執拗に記されていたが、既に父はこの町にいないだろうという予感が町並みを見ただけで脳内を独占してしまった。
「まあ、まずはホテルに行く。話しはそれからだな」空元気に考えた事を喋ってみる、こんな調子で俺は父を探せるのだろうか。
 バス停からホテルまで歩く。道中、すれ違う人たちの顔を見たがにわかに活気付いていた。それも当然だろう、今宵は年に一度の夏祭りが開催される、祭りの影響では昼間から心踊るのも無理はない、楽しむ事が祭りの道理なら俯いた顔など必要ないのだから。
 ホテルに到着し、受付を済ます。予約した部屋に入り、一息ついてからベッドに倒れこんだ。
 ポケットから手帳を取り出し、蛍火について再度確認する。手帳には蛍火について様々な事が書き込まれているが、最も目立つのが『蛍火を三日間灯し続けた者には願望が一つ成就される』という欄だ、ご丁寧に赤線まで引かれている。
 父は本当にこんなまやかしを信じていたのだろうか、現実味の無い蛍火の為に家族を捨てるなんて俺には到底理解が出来なかった。
 父の失踪の秘密に蛍火が関与しているのは明白だが、それだけでは父が家に帰ってこない事に説明がつかない。母と妹の前では絶対に言わないのだが、恐らく父は既に見知らぬ土地で息をひきとったというのが俺の本音だ。こんな事を話すと母に親不孝者と罵倒されそうだが、しかし父が消えて一年が経っている、そろそろ現実を受け入れて新しい道を探さないといけない時期だ。
 とはいえ、俺も父は他界したと言い聞かせているが、それでも心の片隅ではいつもの仏頂面で家に帰ってくるんじゃないかという期待を振り払う事が出来なかった。だから里見町を訪れたのは一つのケジメだった、ここで父の行方を掴めなかったら母と妹に父の死を伝え、これから三人で父のいない日常を送ろうと、心の踏ん切りをつける為の戒めだ。
 時計を見ると、蛍火の発生時間まではまだ余裕があった。父を探そうにも蛍火と里見町以外に手がかりが無いので、俺は仮眠をして時間を潰す事に決めた。



 窓から飛び込んできた祭りの熱気に俺は突然叩き起こされた。
ドン!という音、目覚ましのアラームにしては心臓に悪いその音は、祭りの佳境を知らせる打ち上げ花火の轟音だった。
 目蓋を擦り、窓際に寄りながら花火を見上げた。花火は変化自在に姿を変え、一瞬の煌きのなか夜空に散っていった。
時計を見るとそろそろ八時を超え始めてしまう、眉唾物だが父の手帳によると蛍火は年に一度、八時から九時までの一時間しか発生しないらしい、つまりこの期を逃してしまうと次に蛍火が現れるのは来年の夏という事になる。
 正直な所、この町を訪れたのは父の消息を探すためなのであって、蛍火の真偽を確かめに来たわけではない。しかし俺は父と同じ民俗学を専攻する大学生で、蛍火に対して全くの興味を抱いていないと言えば嘘になる。蛍火、願望を一つだけ成就させるという奇跡の伝承、民俗学からしたら非常に面白い題材だ。それに言い訳をするなら、父も蛍火を追い求めたのであって、その父の足跡をなぞれば自然と父を探す手がかりも見つかるかも知れないという考えもある。
 ショルダーバッグを肩にかけて、ホテルを出る。次にタクシーに乗って、運転手に目的地である頬日山の駐車場に行ってくれと告げる。
「去年の夏祭りの夜にだが、頬日山に向かう中年男性の話は聞いたことあるか?」ついでに父の写真を運転手に見せる。
「んー知らないな。この人は観光客かい?冬ならともかく夏祭りの日に山に行く人なんてお客さんが初めてだよ」手がかりは無しか、まあ、一朝一夕で探せるものではないか。
「所でお客さんこの時期に山には何もないよ」何しに行くんだい?と聞かないのは運転手の配慮だろう。
「野鳥観察だよ、夜にしか見えない鳥がいるんだ」勿論嘘だ、しかし建前でも無いと不審者扱いされてタクシーから降ろされてしまう。
 これ以上は運転手も何も聞かずにタクシーを走らせる、だがバックミラーで俺の顔をチラチラと窺うのはいけ好かなかった。
 頬日山には十五分で到着した、運転手にはメーターを回してもいいからしばらく待ってもらい、登山道から頬日山を登り始める。父の手帳によると蛍火は登山道の脇道にある祠付近に発生するらしい、地図も事前に持ってきたので俺は祠を目指して山を登る。
 十分ほど歩き祠に辿り着く、辺りを見渡すが手入れのされていない祠と廃屋があるだけで蛍火らしきものは見当たらない。これだけではずれと決め付けるのはまだ早い、とりあえず目の前の古めかしい祠を触ったり空けたりして調べてみるが取り立てて普遍的な祠にしか見えない。次に怪しいのは廃屋だ、木製の壁には苔がびっしりと張り付き人が住んでいる生活感は窺えない、勝手に侵入しても文句は言われないだろう。
 廃屋にお邪魔し、靴を脱がずに廊下を歩く。室内は暗く明かりが無いと先が見えないので、ライターに火をつけてボロボロの襖を一つずつ開けて蛍火を探しながら進んだ。
 蛍火という名前のイメージからして、蛍が放つ光のような発光体だというのは特定できる、ならばこの薄暗い廃屋ではどこからか光が漏れるはずだがそれが一向に見つけられない、お陰で最奥の襖を見たときにはガセネタだったかと既に悪態をついている頃だった。
 最初はライターの火が鏡か何かに反射しているだけだと思っていた、それが間違いだと気付いたのは襖の隙間からライターの光とは色が違うエメラルドグリーンの光が漏れているのを見つけたからだ。
 ライターを消し最奥の襖を開けてみた、ほのかに明るい室内に存在していたのは緑色に発光する拳大の浮遊している何かだった。
 信じられないものを見たという感慨はあったが、思いのほか俺は冷静にこれが蛍火かと、あっさりと眼前の発光体の存在を受け入れてしまった。  
 こんなモノを見ても取り乱さないのは父の教えがあったからだ。俺が大学に入り民俗学を専攻すると告げたとき、父はいつもの仏頂面で真っ先に『何を見聞きしても決して驚くな』と俺に教えた。民俗学は何かを一から作り上げる創造的な学問ではない、古い伝承や言い伝えを頼りに過去の人々の生活を露にし後世に残す、言わば歴史家だ。その民俗学だが学校で学ぶ教科書の歴史とは毛色が違う、焦点を合わせるのは過去に起きた出来事ではなくその時代に生きた人間、特に昔の人達が何を考えていて暮らしていたのかを知る学問だ。
 とは言っても当時の生活苦や快楽的な生き方について調べるわけではない、昨今の科学がものを言う現代日本では考えられないが、日本に八百万も『居る』と言われている神様との共存について、その時代の価値観、見識、常識、禁忌を暴くのだ。
 確かに民俗学は父の言ったとおり驚きの連続だった、特に父すら生まれていない遥昔の世代の人達が何を考え、何を恐れ、何を敬っていたのかそれを知ったときは声すら出なかった。この時になって『驚くな』と言うのは『受け入れろ』と言う事だったのを俺は知った。結局の所、民俗学は八百万も居る神様について調べる学問、主役は人間だが脇役の端から端までは神様が登場する、そしてその神様の些細な悪戯に影響を受けた人達の事を調べ上げるのが民俗学の真髄だった。
だが民俗学について理解が深まるほど次第に神様の伝承に驚いてはいられなくなる、神隠しについても当時は神様の怒りを買ったのだと恐れられていたのだが、俺には神様の存在自体を許容するほど世間知らずな生き方をしていたわけではない、しかし百年以上も昔の人々に取っては神様は確かに『居た』のであって、その神様の機嫌によって生活を左右されていると信じていた人は五万といたわけだ。
 だから蛍火についても過去の人たちが信じきっていた事が時代を超えて自分の身に振りかかっただけ、そう思えてしまった。
暫くの間、俺は蛍火を眺めていた。幾ら神様とはいえこの蛍火自体は特別なものではないだろう、何せ神様は日本に八百万も居るのだ、蛍火も所詮はその中の一つにしか過ぎない、が、しかしそれだけでは気持ちの整理がつかないのも事実だった。基本的に俺は神様を信じていない、民俗学を専攻しているのに神様を許容せず、存在自体を当時の群衆が作り上げた手前勝手な幻想だと決め付けているのだ、だからこそ目の前の蛍火が自分の理屈をひっくり返す斬新な理論の様で腹立たしい感情に苛まれていた。
蛍火は戯れるように宙に浮かび、逃げる気配も消滅する前兆も一切見せずに浮遊している、しかし、いい加減常識外にある蛍火を何時までも放っとくわけにはいかず、俺は試しに蛍火に軽く触れてみた。光を放っているのだからそれなりに熱は持っているだろうと思ったが、触ってみると熱以前に温度を持っていないという事に気付いた、なるほど神様は温かさも冷たさも無い中立の存在なのだな、だから人々が安易に神様神様と叫び都合よく利用しようと躍起になるのか、中立なら自分の不平不満も受け入れてくれるしある程度は自分の言い分も認めてくれるのだから、これほど便利な存在はそうそうないだろう。
 そろそろ潮時だ、タクシーに戻らないと運転手に逃げられるかもしれない。俺はバッグの口を開けて蛍火を手繰り寄せる、蛍火に熱は無いのだが手触りはあった、ゴムボールの様にブニブニしている。お前本当に神様か?
蛍火をバッグにしまい込んだ時に廃屋の床が軋む音がした、俺がたてた音ではない別の誰かだ。咄嗟に背後を振り返ると薄暗い室内に人影が立っているのが見えたので警戒心を剥き出しにする。
「誰だ?」明かりがないので顔すら見えない、でも状況的には好機だ、危なくなったら逃げ出せばいい、幸いに顔は覚えられていない。
 息を飲む音が聞こえ、その一拍後に返事が返ってきた。
「見つけた、私、蛍火に辿りつきました」どうやら俺の質問は聞こえなかったらしい。
 ともかく、暗くて顔は見えないが声の高さからして恐らく女だ、しかも若い、俺と大して変わらない年齢だろう。
「あんたも見たのか、これを?」気を取り直して質問の続きを再開する。
「はい、蛍火ですよね」
「あんたはこれが蛍火だと知っているのか。何故知っている、誰から聞いた?」
「蛍火は付き合っていた彼氏から聞きました、願いを一つだけ叶えてくれる神様の光ですよね。――お願いです!私に蛍火を譲って貰えませんか、どうしても叶えたい願いがあるんです、お願いします!」女の懇願には泣き声が混じっていた、純粋に蛍火のまやかしを信じているのだろう。ただ俺としてはこの女の邪気の無さに警戒心を緩め、蛍火という異常現象について弱みを握られる心配が無くなり安堵の息をついた所だった。
 極端な話し、蛍火自体はくれてやってもかまわない、俺が探しているのは父の行方であって蛍火の伝承にある奇跡の成就には興味が無い、むしろ願い事を叶えるなんて言い伝えは恐らく嘘だ、根拠の無いただの作り話だ。だが、くれてやる何て言ってもこの女の素性や目的がわからない限りには蛍火もただでは渡せない、事前に述べるが「この蛍火は俺が先に見つけたんだ、欲しいと言うならそれなりの金を寄越せ」等という大人気ない事を言いたい訳ではない、俺が恐れているのは蛍火をテレビ局に持っていかれて、価値のわからないコメンテーターに珍獣の如き扱いぶりを全国のお茶の間に流される事を危惧しているのだ。実は蛍火の存在自体を発見するのは民俗学的見地からしたら非常に貴重なケースなのだ、大学にある文献を紐解いても座敷童を実際に見たことがあるなんて言う人は既にこの世にいない、死んでいるのだ。詰まる所、死人が何も語れないのと同じでこちらからも本当なんですか?と問い詰める事も出来はしない、よって伝承の大半には信憑性は認められず全ての学者は民俗学の立証の難解さに常に悩まされている。だからこそ蛍火なんて存在が確固として認められるならこれは民俗学の大きな進歩と言える、神様が目の前に現れたという前例があれば、歴史の闇に埋もれてしまった論文にも説得力を持たせる事が出来てしまうのだから。
「あんた、名前は」
「藤原ユカです」
「先に確認しとく、女だよな?」
「はい、それが何か」何でそんな事聞くんですか、とでも言いたげだ。
 過去に一人、小柄で女性の様な容姿と、声色が高くしかしそこが魅力的に聞こえる美声を持ち合わせた男性の先輩がいた、この先輩は実は俺の二つ上の学年でしかも同じ陸上部の部員だったのがそんな事は俺は知らず、その先輩をマスコットの様な可愛らしい女子マネージャーだと勘違いし、お近付きになろうと男なのに甘い声をかけ密かに狙っていた時期があった。オチとしては、その三日後に男だったという衝撃の真実を知り、俺はショックで一週間陸上部を休んだのだが。とまあ、そんな経験があったわけで声が高いだけで実は男なんじゃないかと人を疑う悪い癖が備わり、それ以来性別は必ず確認して心の平穏を事前に保つように心がけている。
「あんたはどうしても叶えたい願いがあると言ったな、それは何だ?教えてくれ」脱線したので、話を戻す。
「理由を聞いたら笑いませんか?」
「俺を笑わせる事が出来たら、御礼に蛍火をくれてやるよ」茶化してみるが、俺は意外と本気だ。
「死んだ彼氏を生き返らせたいんです。私今でも死んでしまったあの人の事が忘れられなくて、どうしてももう一度会って伝えないといけない事があるんです」
 思わず宙を見上げた、暗闇に目が慣れ始め天上の木目がおぼろげだが視認できる。愛か、悪くない理由だ、薀蓄を垂れるなら古来から続く全ての哲学者が一度は考え、そして答えを見出す事が出来なかった究極のロマンチシズム、そのロマンが蛍火の神秘に引き寄せられ奇跡を起こす、メロドラマなら確実にパーフェクトな筋書きだが、しかしこの女は大切な事を忘れている。
「なあ、あんた本当に死人が生き返るなんて信じているのか?」神様にすがるこの女には残酷な質問だったかも知れないが、こんな簡単な理屈を聞かずにはいられない。
「私は信じています。愛した男性が私に残してくれた最後の言葉を疑うなんて真似は出来ません」相変わらず暗闇で女の表情は見えない、だが女の口調には確かな意志がある、俺が理屈をこねて諭したぐらいでは決して揺るがない強固な信念が言葉に込められている。
「あんた、今でもその男を愛しているのか?」
「はい、でないと神様にお願いなんて真似はしません」
 人はいつか必ず死んでしまう、しかしそこで愛というものが終わってしまうわけではない、この女が死人を想い続けるように愛は相手を忘れてしまわない限り永遠に続いていく。だが愛しているだけで人は満たされない、好きな人と喋って、好きな人と食事をして、好きな人と寝る、俺達には経験を共有して好きな人と一つになりたいという欲求があるのだ、しかしその欲求も相手に死なれてしまうと叶えられない、自分が感じた喜びを伝える事ができず、想い続けるだけというのは涙が流れるほど辛く悲しい苦痛でしかない。俺にだって人を愛した経験は何度もある、だからこそこの女が人を生き返らしたいという夢物語を語るのを鼻で笑い飛ばす事は決して出来なかった。
「愛している人にもう一度逢いたいか、大そうな理由だな、だが嫌いじゃないなそういうのは。さて蛍火だが俺にも事情があるからあんたに譲る事は出来ない、けれど蛍火の奇跡、『願いを一つだけ叶える』という所はあんたにくれてやる、それでいいか?」
「はい、ありがとうございます」
 女の声には感謝の気持ちと死んでしまった男に逢えるという歓喜が混ざっていた。だからこそ不安になる、蛍火が叶える奇跡、これは絶対に嘘だ、死人は生き返らない、この真理は神様でも確実に引っ繰り返す事が出来ない究極的な答えだ、だからこの女が蛍火がまやかしだと知った時どれ程の絶望に突き落とされるのか、それを考えると今からでも胸が痛くなる。
「外にタクシーを待たせている、ついて来てくれ」考えを振り払う。俺は父を探しに来たのだ、この女の面倒までは見れない。
 廃屋を出て、駐車場まで頬日山を降りた。二人で山を降りたのだがその間会話は無い、俺達の共通点は蛍火を知っている事だけでそれ以外の社会的接点は見受けられない、そもそもこの女が何をして暮らしているのかそれすらも俺は知らないが安易に聞こうとも思わなかった、別にこの女が俺の好みではないから話しかけないというわけではなく、俺達の関係は蛍火を灯し続ける三日間だけのその場限りの関係だというのをわかっていたからだ。蛍火の行く末を見届けたら俺達は二度と会わないだろう、行きずりの関係に情は不要だ、相手を理解する必要なんてどこにもない、そんな事もあったと数年後に思い返すだけでいいだろう、大多数の人が決めるお決まりのレールから少し外れるのも人生には大事だ。
「待たせたな」タクシーに乗り込む。夜中に女をつれて戻ってきたわけだが、運転手は一瞬怪訝な顔をしただけでそれ以上は何も言わない。
「お客さん、メーターを回さして貰いましたけど料金はちゃんと払って貰えれます?」
「これで足りるか?」総理大臣より偉い福沢諭吉を見せる。
「毎度。それで行き先はお客さんを乗せたホテル前で構いませんかね?」
「ああ、安全運転でな」
 タクシーが走り出したので横に座っている女、藤原ユカを見た。藤原は寝ていた、その寝顔を見て俺は自分の名前すら教えてない事に気付いたが、そんな些細な事の為に藤原を起こす気にもなれず夜の景色を眺めながら藤原が愛している男について考えていた。大学で民俗学を専攻している俺ですら知らなかった蛍火を藤原に教えた男、考えられるとしたら民俗学に精通している人物かはたまたとても博識な男、どちらにせよとても聡明な男だ。そして年齢は確実に俺より上だろう、民俗学は大学に行かないと学べない学問だ、そこらに溢れている入門書を読んだくらいでは蛍火には辿りつけない、文学青年レベルではよくて聖杯を知っている程度、蛍火なんていうとてつもなくマイナーな伝承は大学で博士号を取得してすらも一度も聞かないだろう、だからこそ蛍火を教えた人物は社会経験が豊富で雑多な知識を持っている人間か、民俗学に十年以上関わり専門性に秀でた男に絞られる。容姿とか口調はどうだろう・・・駄目だな、さっぱりわからん、こんなもの個人の好みだからどんな男かは想像できない、でも死んですらも藤原に愛される男なんだから相当いい男だろう。
「お客さん、着きましたよ」藤原を起こし、運転手に代金を払った。
 藤原を連れてホテルに入り、借りている部屋に戻り部屋中の鍵をかけた。
 バッグの口を空けると緑色に発光する蛍火が勢いよく飛び出し室内を浮遊する。不可思議な光景だ、常識なんて欠片も無いがそこがいい、大衆は自分の理解できる範囲内の常識から外れると何かと劣等的なレッテルを貼りたがるが、そんな事は常識の外にあるものも楽しめないなんてのは単に教養がないだけ、信じられないなんてものは気付いていないだけですぐ隣にあるんだぜ、男に告白しかけた俺が言うんだから説得力あるだろ。
「凄い・・・蛍火、綺麗ですね」
 確かに、綺麗と言えば綺麗だ、宝石店に並べている宝石よりも輝きが違う。宝石の輝きは純真さを映しているだけだ、輝けば輝くほど余分な無駄は無くなり最後には美しさだけが残る、その美しさだけというのには失敗も後悔もデメリットも入り込まない美的意識の完璧さに行き着く、だからこそ宝石は純真さの象徴にも思えるが蛍火の輝きとは種類が違う、蛍火にあるのは人の希望を表した輝き、奇跡という壮大な魅力で人を惹き付けるのだ、その求心力に藤原は美しいと言ったのだろう。
「所で、まだ自己紹介していなかったな。俺は平岡圭吾、S大の大学生だ」
「あ、私の彼氏も平岡って言う苗字なんですよ」
「ああ、そう」適当に聞き流す。だからなんだよ、と言い返すほど俺は子供ではない。
 天上付近を浮遊している蛍火を見上げた。窓や扉を全て閉め切っているので蛍火に逃げ出される心配はないが、困った事に蛍火を三日間どうやって灯し続けるのか具体的な方法を俺は知らない。父の残した手帳にもその方法は記されておらず、結局の所これから先は自分で考えないといけない。
「藤原は蛍火をどうやって消さないようにするかを知っているか?」試しに聞いてみた。ついでに俺の見解は交代で蛍火の挙動を監視する事だ、三日間の間にどうなるかはわからないが非科学的で前例の無い蛍火に対しては慎重にならざるを得ず、具体的な解決案も見出されない。
「蛍火は人が触ると発光しつ続けるらしいですよ」
「それは彼氏が言っていたのか?」
「はい、そうです」彼氏ねえ、俺と同じ苗字で蛍火についても知っている、一体誰だ?まあ、そんな事一々聞くほど野暮でもないから放っておくか。
 触るだけで蛍火が消滅しないというなら俺は一度触れている、問題はない。
 不意に煙草が吸いたくなった、最近では煙草の税金が騰がったのでこの機会に禁煙していたのだが、蛍火の監視に知らない女との共同生活なんかしていたら間が持たない、煙草も高いのだが特に話題も無いまま女と一緒にいるのも辛いので、だったらいっそ煙草でも吸って時間を潰し退屈に慣れておこう。それに女性が近くにいると男も少しは意識するので無関心を装う振りして喫煙するのも必要だ。
「ちょっと煙草を買って来る、蛍火を見張っていてくれ」
 部屋を出て、玄関前の自販機で煙草を三箱買った。一日一箱で三日間、計九百六十円。千円の出費は少し痛いけどアメリカはもっと高いらしい、一箱千円だって、日本でやったら誰も買わなくなるからJT潰れるな。
 玄関を見渡すと喫煙所があったので、煙草の封を切り久しぶりに一本吸う。煙草の煙が肺を焦がすなどと言うと過激すぎるが、健康を害してまで吸う煙草は格段に美味い。価値と言うものは人それぞれだが、俺は何かを犠牲にして得た物ほど自分に対して価値があるものと考える傾向がある、煙草一つ取っても要は寿命を縮めながら吸っているのだが、喫煙に置ける何らかの犠牲がなければ俺は煙草を吸わないだろう、ヘビースモーカはニコチンが切れるとイライラするから喫煙する、と言うか煙草に含まれるニコチンは大麻やLSDに比べて依存性が圧倒的に高いから吸わないと理性を保てないらしいのだが、俺は単に金を払って煙草という嗜好品に価値を勝手に求めて吸っているだけ、副産的に間を持たせたりや時間を潰すためといった理由もあるのだが、なら煙草以外のもでも代用は可能だ音楽でも酒でも何でもいい結局は退屈せず価値があればいいだけだ。
 フィルターだけになった煙草を灰皿に押し付け、部屋の前に戻った。
「藤原、ドア開けていいか!」ドアを開けた瞬間蛍火に逃げられたとなったら一生恨まれるな。
 返事が無いのでもう一度藤原を呼んだ、が、返事は返ってこない。藤原が室内で危機的状況に陥っているという心配は取り立て無かった、ただ返事を返せない状況ぐらいだろと検討をつけていただけで、俺は慎重にドアを開け部屋に戻った。
案の定、藤原は返事を返せない状況に、一言で言うと寝ていたのだ。あれだけ蛍火に神頼みすると言っておきながら俺がいなくなると寝てしまう、逃げられないようにちゃんと蛍火を見とけよと叱りたくなったが、それは藤原の右手からエメラルドグリーンの光が漏れているのを見つけて気が変わった。
 蛍火は発光するだけで熱は持ち合わせていない、だから掴み続けても火傷はしないが、睡眠欲に負けて寝てしまっても蛍火を絶対に逃がさないという藤原の気概には驚かされた。
 おい!神様!もしかしてビビってないか?これが愛の力だよ、人が人を想う力だよ、俺だって執念深いけどこの女は俺以上だ、逃げ出せるなんて考えんなよ、しっかりと最後まで付き合ってもらうからな。
 神様に文句を言ってから、カーペットの上で寝ている藤原にタオルケットをかけて、電気を消した。室内が暗くなると蛍火の明かりがやけに目立つ、太陽の様に見続けると目が悪くなるほど光度は強くないが、それでも蛍火の輝きは眩しい。しかし美しいと感じると同時にいい気味だと思う俺もいた、何て言ったって神様が人間に捕まってジタバタしているのだ、神様なんて聞くと無条件に崇めてしまうが、その神様が一人の女性の都合に付き合わされているのを見ると、少しは神様も馬鹿にしたくもなる。
 まあ、とりあえず、今夜は寝れないな。藤原が熟睡している間に蛍火に逃げられたとなるとこの女は必ず泣く、三日間だけの付き合いとは言えこういう薄幸の女は悲しませたくはない、だったら今夜限りぐらいは俺が蛍火の面倒を見とくべきだろう。まあ、でも俺にだって父である平岡省吾を探すという目的があるのだが、そこの所はうまく折り合いをつけてやっていこう、なに悪いものじゃないさ蛍火を確認出来ただけでも大収穫だよ、息抜きのつもりで三日間楽しんでみるか。まあ、そういうわけで、お休み藤原ユカ、ついでにお前の願いが叶うといいな。



 朝の日差しが差し込む午前六時頃に藤原は飛び起きた、藤原の右手は一晩中蛍火を握りこんでおり、結果として神様を手放す事はなかった。藤原は目が覚めると一番に自分の右手を確認して蛍火の所在を確かめた、そして蛍火から手を離しお祈りするように両手を合わせ蛍火に対して頭を下げた。
 それに似た光景がどこかで見たことがあるような出来事で、少し考えると父である平岡省吾が失踪した後の母と妹の行為だと気付いた。
父が去年蒸発してから母と妹は三日三晩泣き続けた、比喩ではない本当に三日間泣き続けて呻き続けたのだ、その間食事は一切受け付けず綺麗好きの妹は風呂にも入らなかった。俺はというと大学を三日間サボり二人を慰めていたが全く効果はあがらず、大晦日でもないのに家中の掃除をしながら二人を宥める方法を考えていた、そして掃除をしながら考え出した結論は父の写真を家中に貼る事だった。父は死んだのか、誘拐されたのか、家族を捨てたのか、俺達にはそんな事はわからなかったが大事なのは父が家に帰ってこないこと、父を失った喪失感を埋めるもしくは紛らわす事だった。善は急げと俺は家中を駆け回り父が載っている写真を片っ端から掻き集め、居間で泣きじゃくる二人に写真を見せながらこの提案を告げた。結果は上々で父を抜いた家族三人で壁という壁に父の写真を全て貼り付け、そして貼りとめる写真が遂になくなると母と妹は目尻を拭き父の写真に手を合わせ頭を下げた。
 父の失踪から一年経った今でこそ壁一面に貼りあわせた写真の殆どは外されたが、書斎や居間にはまだ父の写真が残されている、最近は写真の前で頭を下げる事はやらなくなったが、父の顔を見るたびに悲しそうな顔を作るのは忘れられない。
「おはようございます。平岡さんはもう目が覚めていたのですね、私も早く起きる事には自信がありますけど、平岡さんは私以上に早起きな人なのですね、感心しちゃいます」
「いや、寝てないだけだよ。俺は蛍火が消滅しないか一晩中見張っていたから眠たくてしょうがないの、藤原が起きたなら俺は寝るから後の事は任せるよ、それでいいか?」
「はい、任されちゃいます」
 承認も取ったのでベッドに倒れこみ目蓋を閉じた、意識が消える間際に母と妹それに藤原の頭を下げる姿が浮かび、三人が何故頭を下げたのかほんの少し考察したが口に出すのも馬鹿馬鹿しい答えだったので、睡魔に任せてそのまま眠った。



 意識が覚醒したのは十二時前、朝と昼との境目だった。目蓋を開けると最初に視界に入ったのは天上付近を浮遊する蛍火で、次に寝返りをうって横を見ると何故か俺を見ている藤原と目があった。
「おはよう」とりあえず、挨拶。
「もう昼です、正しくはこんちはですよ平岡さん」そうですね、と適当に納得する。
「何、見てたの、俺の寝顔?」趣味悪いな、とまでは付け加えない。
「はい、実はずっと平岡さんの寝顔を見てました。寝顔が私の大事な人ととてもそっくりでちょっと元気がでました、眼つきの悪さなんか瓜二つで、眼つきだけ比べたら私の彼氏と平岡さんを区別は出来ないと思います」ふーん、この眼つきは親父譲りなんだけどな、まあ褒め言葉として受け取っておくか。
 ベッドから起きて洗面所に行きシャワーを浴びた。シャワーを終えて別の服に着替えてサッパリしたところで、藤原にちょっと外に出てくるからと話した。
「蛍火はどうします?私一人で部屋に居てもかまわないのなら蛍火を見守りますけど、それでいいですか?」
「俺は蛍火に叶えて貰いたい願望もないし逃げられようとも別に気にしない、それに蛍火が必要なのは藤原の方だろ、逃げられないようにしっかりと見張っとけよ。だいたい俺は人探しにこの町に来たんだよ、こっちにだって都合があるから手ぶらで家に帰るつもりはないよ。いつ戻るかはわからないから部屋の鍵は俺が持っておく、鍵はかけて絶対に俺以外の人間を部屋に呼ぶなよ、いいな」
 ショルダーバッグを肩にかけて部屋を出た。本来の目的は父である平岡省吾の行方を掴む事、蛍火を見つけたのは民俗学を専攻する大学生として単純に興味が沸いたから駄目もとで見に行っただけ、一応父の行方の手がかりを見つけられるかもしれないと期待はしていたが釣れたのは全く別のもの、現実はそんなものなんだな。しょうがない地道にいくか。
 しかし父の消息を求めると言っても俺は一介の大学生であり探偵でもましてや警察でもない、そんな人間がどうやって人探しをするかというと答えは至って単純『聞き込み』それだけ、父が蛍火を探してこの町に宿泊していたのは恐らく確実だ、ならばこの町の町民に父の写真を見せて、去年のこの時期を思い出してもらい父らしき人物を特定する、俺の力ではそれが限界だ。
 手始めに俺が部屋を借りているホテルマン達に写真を見せて話を聞くが、これは空振り、誰も「知らない」の一点張りだ。
 だがこれだけでは諦めない、証拠があるわけではないが父は蛍火を発見し三日間どこかのホテルに宿泊していたはずだ、想像でモノを言っているわけだが蛍火を見つけたならばどこか人目のつかない場所で三日間匿わなければならない、その匿う場所として理想的なのがホテルになる、何と言っても金さえ払えば借りた本人以外は誰も部屋に入り込めない個室が用意できるのだ、蛍火を三日間隠し通すのには余りにも便利すぎて使わない手は無い。それにこの理屈には根拠も存在する、俺自身蛍火を捕まえてしまいその隠し場所としてホテルを選んだ、そして残り二日間は蛍火を部屋に閉じ込めておくつもりだ、そのような経験的な理由からも父がこの町のどこかのホテルに泊まったのは間違いない、だからこそこの町に十数建っているホテルだけに聞き込み対象を絞れば捜索活動も随分捗り、父についての有力な情報ももしかしたら拾えるかも知れない。
 喫煙室で煙草を一本吸って気分転換した後、ホテルの外に出てタクシーを拾った。「近場のホテルに行ってくれ」と頼み、万が一という確率もあるので運転手に父の写真を見せるのも怠らないが、やはり「知らない」と返されてしまった。
 ホテルに着くと代金を払ってタクシーを降り、真っ先にホテルの受付嬢に父の写真を見せて聞き込みを始める。その後、一時間程ホテル中を駆け回り、従業員を見つけ次第父である平岡省吾についてあれこれ尋ねたり質問するのだが、ここでも手がかりは無し、外れだ。仕方ないので喫煙室で煙草を吸いながらバッグからこの町の地図を取り出し、今いるホテルと俺が部屋を借りているホテルに赤色の×印を描き込んでから、煙草を吸い終えてホテルを後にした。
そうやって幾度も色々なホテルに聞き込みを繰り返していると、いつの間にか六時を超え俺の胃が空腹を訴えだすようになった。父を探すのも大事だが、しかし人間の三大欲求である食欲の誘惑には勝てず、タクシーの運転手に俺が借りているホテルの近所にある適当な喫茶店に向かって貰うよう頼んだ。
 タクシーを降りて喫茶店に入った。この店は客の出入りが良いらしく夕方だというのにテーブル席は全て埋まり、空いている席はカウンターの隅の席だけだった。しかたなくカウンター席の一番端っこに座りメニューを開く、ざっとメニューに目を通すが特別に珍しい軽食は無かったので、無難にサンドイッチとアイスコーヒーを頼み一息ついて店内を見渡した。
 客の大半は俺と同世代と窺える若い男女ぐらいなものだ、年寄りと家族連れは一組もいない。カウンターの奥は厨房でエプロンを装着した女性が調理しているが、後ろ姿だけなので美人かブスかもわからないし、それに常に色恋にかまけているほど享楽的でもないので無視する。煙草を吸って料理が運ばれてくるまで時間を潰そうと思ったが、店内禁煙の張り紙を見つけたので煙草に火をつけるのを止めた。文庫本でもバッグに入れておけばよかったのだが、父を探すのにそんな暇は無いだろうと決め付けていたので、手持ち無沙汰に注文品が運ばれてくるまでただ天井を見つめながら待っていた。
「あれ?君は平岡圭吾君?」見知らぬ町で突然名前を呼ばれたので仰天する。
 自分の名前を呼ばれた方に視線を向けると、サンドイッチが乗った皿とアイスコーヒーが淹れられたグラスを持った女性――ではなくて小柄で女性的な容姿をした男が驚いた顔でカウンター越しに俺を見ていた。
「あ――浜田さんですか、随分とお久しぶりですね」
 この浜田さんという人は実は俺の高校大学を合わせた二つ上の先輩で、同じ陸上部で供に汗を流した仲だと説明すれば勘のいい人はもうわかるだろう、そう俺が陸上部に入部した当日に女子マネージャーだと勘違いして、性別が男だというのに告白しかけたあの先輩である。
「あれ、でも、浜田さんは何でこの町に居るんですか?公務員になったはずでは?」
「ああ、公務員、そんな事もあったね。まあ、僕も色々あってね今はこの店の店長をやっているよ。ところでどうだい、先輩後輩の仲で圭吾君がもう一品頼むなら料金は半額にするけど」金もハングリー精神も大事だが、こうゆう使い方をされると苦笑いするしかない。
 所で、二年越しの再会なわけだが浜田さんは二年経っても相変わらず可憐(浜田さんは男です)で、白いワンピースが似合いそうな美少女的(男です)な雰囲気を醸し出している。
「けどいいんですか公務員を辞めて、奥さん、その、高野さんは浜田さんが公務員に成った事を誰よりも喜んでいたじゃないですか」
 高野さん、というのは浜田さんの妻で二人は学生結婚をしている。少し話が逸れるが浜田さん自信実に女性的な体格や特徴をしている男性、要するに小柄で、肩幅が狭く、声が高く、髭も生えず、オマケに女性的な容姿をしているので、奥さんである高野さんと二人で歩いている後ろ姿を見るとどちらが浜田さんなのか全く判別出来なかった、更に話が逸れるが高野さんも女性としては余り凹凸の無い身体をしていて、浜田さんと二人で並んでいる姿はS大の美少女姉妹(片方は男です)として有名だった。
「少し声の質が変わりましたね、別人みたいですよ、調子悪いんですか?」
「最近忙しくて疲れているんだよ、それの影響かな」
「何かありましたか、俺でいいなら相談に乗りますけど」
「じゃあ先に僕が両手に持っている圭吾君の注文品を受け取ってくれないかな、この体勢も結構きついんだよ」カウンター越しに上半身を乗り出して俺に料理を差し出す浜田さん、確かに話しながらこの体勢は辛いだろう。
 サンドイッチとアイスコーヒーを受け取り、アイスコーヒーを一口飲んだ。
「どうだい、僕が淹れたコーヒーは?」
「こういう苦味は好きですよ、出来れば御代わりも頼みたいですね」
「はは、味がわかる男は好きだよ」と浜田さんは笑い「八時に店を閉めるから、暇だったら付き合ってよ」と俺に言い残し、また調理を始める為に厨房に戻った。
 携帯の時計を見ると既に七時になっている、食事を十分で片付けても残りは五十分も残っている、一度ホテルに戻って藤原と蛍火の様子を見ようと思ったが、浜田さんが淹れてくれたコーヒーの味が結構気に入ったので、何度か御代わりしながら八時まで時間を潰した。
 閉店五分前になるとさすがに客も居なくなり、店内に居るのは俺と浜田さんとウエイトレスのアルバイトだけになった。そのアルバイトも俺以外の客が店を出ると奥の更衣室で私服に着替えて、最後に浜田さんに挨拶をして店を後にした。
「繁盛してますね、バイトもちゃんと挨拶しますし評判いいんじゃないですか?」
「まあね、収入も公務員をやっていた時とは雲泥の差だよ。さて、僕は今から皿洗いをするから圭吾君はモップで床を掃除してくれないかな、先輩の頼みだから聞いてくれてもいいだろ」言い終えて笑う浜田さん、そんな子悪魔的な笑顔を向けられて断れる男なんかいないよ。と言うか何でこんな人にチンコが付いてるんだろう、神様は馬鹿なんじゃないか、やっていい事とやってはいけない事があるだろ。
 浜田さんからモップを受け取り店内の床を拭く。テーブルと椅子が邪魔だったから最初に全て右端に運び、空いたスペースの床を徹底的に拭いた。それが終わると今度はテーブルと椅子を左端に運び先ほどした事を再度行った。
「厨房はどうします、モップで拭いても構いませんか?」
「いやそれはいいよ、僕が明日掃除しとく。とりあえず皿洗いも済んだし店を閉めるからちょっと外で待っていてよ」
 店の外に出て煙草を吸い、浜田さんが出て来るまで一服しながら時間を潰した。
 二本目を吸おうとした矢先に浜田さんは車に乗って俺の前に現れた。高校大学を合わせた二つ上の先輩が車に乗っているという出来事は恐らく極々簡単に常識的だという言葉で片付けられるだろうが、俺に取っては指に挟んだ煙草を地面に落としてしまうぐらい度肝を抜かれ、頭が痺れるほど愕然とした。
「どうしたの?乗りなよ」平然と浜田さんは言ってのけるが、俺はその場から動けなかった。
 ようやく、浜田さんが車を運転しているという事実を受け入れると、俺はぎこちない足取りで助手席に乗り込んだ。
「出すよ」どこに行くかは知らないが、浜田さんはアクセルを踏んだ。
「何で浜田さんが車を運転しているんですか?陸上部の遠征でもバスにすら乗る必要があるなら絶対に部活を休む浜田さんが、何で今になってこんな物に乗っているんですか?」真っ先に浮かんだ言葉を浜田さんにぶちまけた。
 浜田さんは中学生の頃妹を亡くしている。死因は交通事故、轢いたのは白のBMW、犯人は捕まり刑務所に送られたがそれでも死んでしまった妹は還って来なかった。その事故以来浜田さんは車を徹底的に嫌悪し、自分自身も車には絶対に乗らないと訴え続けていた。
 車という物は金さえ出せば誰でも買える日本における最悪の凶器だ。これが浜田さんの謳い文句。実際、ナイフやピストルで殺される人達よりも交通事故で亡くなってしまう人達の方が圧倒的に多く、毎日一人は車に轢かれる哀れな犠牲者が後を立たない。車は確かに日本史上最も多く人を殺した最悪の凶器だ、最悪と呼ばれる由縁もドライバーの不注意もしくはアルコール摂取後の平衡感覚の乱れによる運転が原因だ。俺だって酒は飲むしたまには日常生活で何かを間違える事だってある、ただその失敗や飲酒を運転中に行った運転手は最悪人を殺してしまう、たかが不注意、たかが飲酒、人間だったら一度は経験するたったそれだけの行為で人はあっさりと殺されてしまう、だからこそ浜田さんは車を憎みそれでも運転する人には最善の注意を心がけろと、男女年齢問わず叫び続けていた。
 その浜田さんが今俺の隣でハンドルを握っていた。裏切られたとまでは言わない、しかし腑に落ちない感情が確かに俺の心にある。
「僕が車に乗っている理由ねえ。まあ、そうだね、この町では車を持っていないと不便だからとでも言っておこうか」
 そんな答えでは全く納得出来なかったが、浜田さんにだって都合はある、そのような所に俺がしつこく文句を言う気にもなれないのでこの話はここで打ち切った。
「高野さんとはどうしているんです、喫茶店では見てませんけど別の仕事をしているんですか?」
「彼女とは別れたよ、離婚ってやつだね」
「え!学生結婚をするほど仲がよかったのに。俺に何度も『全てを投げ捨てても愛する価値がある女性だ』と自慢していたじゃないですか」
「結婚は地獄の始まり、この言葉の意味が圭吾君にはわかるかな?」
 離婚件数が年々増加しているのは俺だって知っている、ドラマでも離婚を扱った作品が年に一本は放送され好評を受けているのも事実だ、しかし浜田さんと高野さんの二人には離婚は無縁だと考えていた。
 二人が出会ったのは俺が通っているS大学の新入生歓迎会だと聞いた。浜田さんも美しいのだが(男です)高野さんも美人で歓迎会ではトップアイドルの様にちやほやされ歓迎会の大物ゲストだったらしい、所で殆どの大学ではというより全ての若い男は美女を見ると抱きたいと思うのが何時の時代も変わらない世の常で、高野さんもその美貌から歓迎会に参加している男連中に『酒で酔わせて理性を保てなくなった時にホテルに連れ込もう』という画策を建てられていたらしく散々アルコールを飲まされた、しかし最近の大学生もしけた者で飲んでアルコール10%以下のビール、普段はアルコールが無いに等しいチューハイという体たらくだ、当然ビールをジョッキで幾ら飲もうとも高野さんは意識が中々朦朧とせず男達の思惑通りにはいかなかった、そこでどっかの馬鹿が一っ走りしてウイスキーを買いそれを高野さんに飲ませた。俺自身、飲酒喫煙は高校生の時から始めており勿論ウイスキーにも手を出した事がある、その経験から言わせて貰うとウイスキーは『飲み方を知らないと簡単に死ねる非常に危険な酒』だという認識がある、それと言うのもウイスキーに含まれるアルコール濃度の異常な高さが原因だ、ウイスキーは平均的に約40%のアルコールが含まれている、個人差はあるが日本人がそんな物をアイスを入れずにグラス一杯でチビチビ飲んでもすぐにふらついて千鳥足になってしまう、もしも一瓶丸々飲んだら余ほど酒の強い人でもない限り即座に救急車送り確定になる、ウイスキーはそれ程危険な酒だ。で、高野さんだが、彼女はウイスキーを空のジョッキに全て注がれ、周りの『一気飲みコール』に煽られて結局ウイスキーを飲んでしまった。ウイスキーは水割りもしくはロックで飲んでも喉が焼けるような刺激痛がある、だからこそ普通は一口ずつ飲むものだが、この時の高野さんは歓迎会の異常な高揚感とジョッキ数杯分のアルコールの影響で、ウイスキー特有の刺激痛には何の抵抗も無く、この危険な酒をジョッキ半分まで飲み干してしまった。当たり前の話だがウイスキーをストレートで一気飲みなんかすると意識が飛ぶ程度では収まらない、特に高野さんは酒というものを歓迎会で初めて飲んだのだ、そんな女子大生の末路はその場で崩れ落ちて意識が戻らないのが当然の結果だった。この時、危機感を感じ取ったのは浜田さんだけで、周りの男は新入生一の美女の陥落に沸き起こっていた。
 倒れ込む美女に男達は群がるが、すぐにその男達の表情からは血の気が失せ始めた。高野さんの顔と指先が青紫に変色していたのだ、いわゆる典型的な急性アルコール中毒というやつだ。享楽的でお調子者の男達だが、有名なS国立大学に合格するだけはあって自分の保身を守る為の頭は使える、結果として事態を理解した男達は蜘蛛の子を散らす様に居酒屋から逃げ出し、残されたのは何もわからない男女の新入生と、目を覚まさない高野さんと浜田さんだけになった。
最初は歓迎会の目玉とも言える高野さんに、入学したばかりの女子大生達も心配の声を向けるが、実際の所は男達に囲まれていた高野さんを嘲笑い嘲笑の感情を心配という行為に混ぜていただけだった。そんな嫉妬心の強い彼女達も遂に悲鳴を挙げた、高野さんが血を吐いたのだ。急性アルコール中毒の症状の一つに吐血がある、だがそれ以上に危険なのが嘔吐による気道の閉塞だ。血を吐くぐらいはまだ酒の恐ろしさの序の口である、本当に怖いのはその後に待っている仰向けの状態で胃袋の中身を全て吐いてしまう事、これも当たり前の話しだが仰向けで嘔吐すると食道に吐寫物が詰まる、その結果、気道の閉塞による呼吸困難が発生しほぼ確実に命を落とす、この時の高野さんはまさにこういう状態だったのだ。
ただ、不幸中の幸いと言うのかこの飲み会には浜田さんも参加していた。実は俺に酒の飲み方を教えたのは当の浜田さんであり、その浜田さん自身も酒に飲まれた時の危険性及び対処法も身を持って知っている、だからこそ急性アルコール中毒で倒れた高野さんに応急処置を行うのも極めて無駄の無い行動だった。
まずは仰向けに寝ている高野さんの体と顔を横に倒し口におしぼりを突っ込んだ、事情を知らない周りにとってはかなり滑稽な光景だっただろうし実際に笑い声も飛んできたらしい、しかし口内におしぼりを突っ込み、口の中を大雑把でもいいから拭くというのは、嘔吐の事前予防に繋がる、俺自身浜田さんと飲み明かして酔い潰れた時に口内をおしぼりで拭いてもらったことがあるが、味覚を司る舌にアルコールを少しでも感知させなければ多少は胃の蠕動を防ぐ事が出来る。次に浜田さんが羽織っているジャケットを高野さんに被せ、周りからも無理やり上着を奪い取り次々と高野さんに被せ体温の保温に努めた。最後に携帯で救急車を呼び後は高野さんから決して目を離さず一挙一動を凝視した。
連絡から約五分後に救急車は居酒屋に到着して、サイレンの音と供に高野さんは病院に搬送された。
浜田さんの応急処置のお陰もあって何だかんだで高野さんは一命を取り留めたのだが、終わりよければ全てよしとはいかなかった。病院側は事件性の疑いがある搬送には警察への通報義務が存在する、高野さんの件もその例に漏れず歓迎会が解散寸前に警察が事情聴取に居酒屋に乗り込んできた。浜田さんはよく自分の事を『間の悪い人間』だと罵るが確かにその通りでここでも間の悪い人間を演じる事になった、周りに「浜田が高野に酒を飲ませた」と警察に売り飛ばされたのだ、出る杭はめり込まされるという言葉があるように、浜田さんが行った応急処置は周りに取っては出過ぎた行為に映ったのだ。
その後、警察署に連れて行かれた浜田さんが何をされたのかは絶対に教えてくれなかったが「警察は正義でも何でもない、国に雇われている暴力団だ」としか話さなかったので、その間に何があったのかは想像しない事にした。
それで二人の出会いについての後日談を語るとしよう。病院から退院した高野さんと、証拠不十分で警察署から釈放された浜田さんが再会したのは、なんと居酒屋の一騒動の一ヶ月後だった。何故二人の再会がこうも遅れたのかは二つの理由がある、まずは高野さんが自分を介抱してくれたのが上の学年である年上の男だと思い込んでいて、同学年同学部である男達を相手にしなかったのが第一の理由だ。次の理由が浜田さんが警察署に連行された一件以来S大の学生に不信感を抱き、心の窓をガッチリロックした事に一端がある。高野さんは浜田さんの顔を知らないので当てずっぽうに王子様を探し、浜田さんは高野さんに近付くと次はどんな目に逢うのかと恐れ全く話しかけなかった。
 そんな二人が巡り会ったのは学食で浜田さんが昼食を済ましている頃だった。歓迎会の一件で懲りた浜田さんは学友を作らず孤高のロンリーウルフをとおしていた為、自分が男性であるという事実を周りの学生の大半は知らず、高野さんもご多分に漏れず浜田さんが女性だと勘違いしていた。当初から高野さんは自分の命の恩人を年上の男だと決め付けていた為、飲み会に参加していた学友に「私はどんな男に助けられたの?」と聞いても返ってきたのは「浜田という女よ」だったので、嘘をつかれていると思い丸っきり信じていなかった。しかし高野さんも遂に真実に辿り着く。一ヶ月も経つと年上で学内の目ぼしい男全てが外れだと気付き、浜田さんに助けられたとやっと理解したのだ。ただ、高野さんは自分を救ってくれた人が女性だと知って、肩透かしを食らった気分だとぼやいていた。高野さんの高校も進学校で三年間勉強漬けの高校生活を送っていた為、大学に入ったら絶対に恋をしたいと切望しており、入学すると同時に命の恩人が出来たのだ、女性だったら確実に恋に発展するシチュエーションだが残念な事に同性に恋は出来ない、結局高野さんは恋を諦め浜田さんに御礼を言う為学食で隣に座ったのだ。
「この前はありがとう、救急車を呼んでくれたのは浜田ちゃんだったんだね」高野さんは素直に御礼を言っていたのだが、浜田さんは発言の一部に気に障るところがあった。
「『浜田ちゃん』ねえ。僕一応男だから『ちゃん』を付けるのは止めてくれない」浜田さんは『ちゃん』付けで呼ばれると怒る、自分の女性的な容姿や体型にコンプレックスを抱いているのだ。
「え!嘘!あなた男だったの!」
「こんな顔と声と身体だけどね一応男、学籍調べればわかるでしょ」
 この会話が二人の出会いの切っ掛けになり、翌日俺にこんなメールが届いた。
『人生で初めて男性以外から告白されたよ、圭吾君も大学はS大にしなよ、結構良い所だよ』
その二年後に俺もS大に進学し、浜田さんと高野さんの二人が一緒に笑っている所を何度も見た、更には二人が在学中に婚姻届を出したのも教えてもらい、端から見てもある部分を除いては何の問題も無い理想的な夫婦だと思っていたのだが、もしかしたら出会うのが早すぎたのかもしれないという結論に達した。
 結果的に浜田さんと高野さんの二人は離婚してしまった。結婚後、二人の間に何らかのトラブルもしくは意見のすれ違いによる不仲が発生してもおかしくは無い、実を言うと俺は二人が本気でケンカしている姿を一度も見たことが無いしそう言った話も聞いたことが無い、だからこそ結婚後に初めて衝突が起こって二人の間に信頼関係が消え失せてしまうと、離婚もありえると考えてしまった。それに結婚後のトラブルも含めて二人が出会うのも早すぎるという考えもある、ロミオとジュリエットが永遠の愛を誓ったのが13歳と14歳だ、現代日本で言うならば中一と中二の時である、俺はこの時期に恋愛はした事はなかったが周りの話を聞くと中学生で二年以上付き合った事がある恋人は皆無だった、稚拙な恋愛感情は一ヶ月も続かずに破綻するのは珍しくなく、愛と言う感情はアッサリと冷めてまた別の異性と付き合っては別れての繰り返しだった。中学生の時はそういうモノをまざまざと見せつけられていたので、俺は勉強と部活に打ち込んで恋愛に時間を割く生活はしていなかったが、そんな俺でもガキの唱える愛こそ虚構性が余りに強く、愛という言葉に簡単に踊らせられる馬鹿で愚かな年代ぐらいなのは知っている。浜田さんと高野さんの二人も出会ったのは18歳で大学生の時だが、この出会いが運命的だったとは俺は思えない、むしろまともに恋をした事の無い二人の関係は長続きしないだろうと決め込んでいた。だが、俺の意に反して二人の共同生活は円満で学生結婚をする程順調な恋路だった、ここまでくると後輩としては先輩の幸せを応援したくもなるが一抹の不安もある、初めての恋愛こそ不器用で人を盲目的な思考に迷わさせてしまうものだ、『相性がいい』『お互いに愛しているから』その様な言葉を幾ら掲げても苛立ちや不和は必ず発生する、それを二人で乗り越えるかそれとも諦めて別れるのか、この場合前者はとても珍しく後者が圧倒的に多い、特に若い年代こそ新しい出会いを探すのが顕著だ。若い人の専売特許は諦める事、恋愛であろうともそれは例外ではない、浜田さんと高野さんの二人の間にどれ程の愛情と絆があったのかは知らないが二人はまだ若かった、本当に小さな切っ掛けでケンカをして破局してもまだ未来が、まだ恋が出来る年齢だ、初めての恋愛だから愛着があっても、初めての恋愛だからこそ三分の一も想いが伝わらず、愛情の空回りが目立ちお互いを嫌いあっても不思議ではない。二人が大学を卒業してからの二年間に何があったかはわからないが、早すぎる恋愛にはそれなりの苦労を背負わなければならない、そしてその重みに二人は耐えられなかったのだろう。
『愛している』この言葉だけで何の問題も無く同棲生活を送れるのは社会に出たことが無い学生までだ、社会人になると仕事の都合や疲れもあってついつい相手を蔑ろにしてしまう、言うなれば汚い面を見たという事だ。もっと相手を知っていれば、もっと多くの異性の醜悪さを知っていればそんな態度も許容できるが、人生初の恋を抱きしめて学生気分のままで社会に出てから恋愛を続けていても恐らくうまくいかない、二人もその問題に直面して悩んだ末別れたのだろう。けれども浜田さんは後悔していないのだろうか、二人の間に愛情は確かに存在していて、それは簡単に手放せれる程軽い感情ではなかったはずだ。
「高野さんと離婚した事は後悔していないんですか」
「しているよ、今でも惜しかったと思っている。でもね駄目だったんだよ、僕達は一度別れる必要があって、距離を空けて自分自身の事をしっかり考えるべきだったんだ、だって自分の面倒も見れない奴が相手の事なんて考えられないだろ。だけど別れた後でもお互いが好きでいられるならもう一度つきあおうと約束はしたんだ、今はその誓いだけで満足だよ」
 後輩でありながら浜田さんに慰めの言葉を送る必要はなかった、浜田さんはこれから何をやればいいのかを知っている、しっかりと自分の持っている感情に決着をつけた人には応援のエールを送るだけで充分だ。
「ヨリを戻して高野さんと結婚式を開くなら俺も呼んでくださいよ、どんなに忙しくても絶対に駆けつけますから」
 俺達が乗っている車がとある民家の前で停車した。車を降りると浜田さんは民家の玄関を開けて俺を招待した。
「この家に浜田さんが住んでいるんですか、結構古そうで不便に見えますけど」
「この家は僕の家ではないよ、僕の祖母の家」
玄関を上がり、廊下を歩いて居間に出ると、安楽椅子に揺られている老婆が待っていた。
「あんた、誰かね」随分不機嫌そうな声だ、年よりは苦手なんだよな。
「俺はあなたのお孫さんの後輩で平岡圭吾と言います、ちょっとお邪魔しますね」
 自己紹介を終えると、むすっとした顔で老婆はそっぽを向いた。どうやら初対面で嫌われたようだ。
「ごめんね、お婆ちゃんは人見知りが激しいんだよ、でも愛想が無いだけで圭吾君を嫌ったわけではないよ、お婆ちゃんは誰にでもこういう態度なんだ」
 もう一度浜田さんの祖母を見る。目蓋を閉じて安楽椅子に座っているのだが、眠っている様に見せかけて人差し指は何故だか機敏に動いていた。
「あのお婆さんは何をやっているんですか、指だけ異様に動いてますけどこれって何かの合図ですか」
「ああ、あれね、テレビが見たいんだよ、テーブルの上にチャンネルが置いてあるからテレビを点けてあげて」
 浜田さんに言われたとおりチャンネルを取り、テレビを点けた。
「お婆さんは何見ます?この時間帯ならドラマが放送されてますけど、ドラマで構いませんか?」
「ドラマでいいがジャニーズが出ているドラマは止めてな、あいつら演技下手すぎね」
 チャンネルを変え、ジャニーズが出演していないドラマを探し当てた後、浜田さんを探した。浜田さんは台所で包丁を持ち料理をしていた、鍋を沸かして横に味噌を置いているので味噌汁を作っているのだろう。
「手伝いますよ、炒め物ぐらいなら出来ますから火加減見ときましょうか」
「冷蔵庫にキンピラゴボウの冷凍食品があるから、電子レンジで温めてくれないかな。それで温めている間にテーブルを布巾で拭いといて」
 指示通り冷凍食品を電子レンジで温め、次にテーブルを丹念に拭いた。お婆さんはドラマに集中しているので拭き方に力が入っていない等と文句は言われないが、居心地はかなり悪い。何で浜田さんは俺をここに連れてきたんだろう?
 十分も経つとテーブルにお婆さんの食事が並ぶ、俺は料理が簡単な物しか作れない為殆ど役に立っていなかったが、その分皿運びやテレビの音量調節など別の方向で頑張った。
「どう?美味しい、お婆ちゃん」
「まあまあやね」
 二人の会話を聞いていると父を探しに来たという本来の目的を唐突に思い出した。半日かけてこの町のホテルに聞き込みをしたのだが、父の行方は依然わからない。明日も勿論別のホテルに聞き込みをするつもりだが、父である平岡省吾を見たと言う人には出くわさないという予感はある、もしもこの予感が的中したら俺は母と妹に何と言えばいいのだろう、母と妹はいつか父が家に帰ってくると待っているのだ、その二人に「親父はもう死んでいるよ」なんて言ったらまた一年前の逆戻りだ、それでも俺は苦渋の決断をしないといけない、捜索届けを出した警察からは有力な情報は得られないし、この町の住民も父を知らないと言うのなら、心を鬼にして二人に父の死を伝えるべきだ。
「俺、ちょっと外に出て行きますから」熱くなりすぎているので、頭を少し冷やしたかった。
 玄関を出て、煙草に火をつける。考える事は父の行方だけではない、行きがかりとは言え藤原と蛍火についても何らかの答えは出さないといけない。いや、これについてはどうすればいいかはもう知っている、だけどそれを教える勇気が俺には無いだけ、保留と言いながら問題を先延ばしにして逃げているだけだ。
 頭を冷やしに夜風に吹かれているというのに、考える事が難しすぎて頭が逆にショートしかけてしまう。少しでも冷静にするために浜田さんがどんな車に乗っているのかと全然別のことに意識を向けるが、車種がわかると余計に混乱してしまった。
 白のBMW。浜田さんは妹を殺した最も嫌悪している車に乗っていたのだ。高校生の時からBMWを見ると唾を吐きたくなると言っていた浜田さんが、まさかこの車に乗っているとは俺の知らない二年間でどのような心境の変化があったのだろう。口ではなんとも無いよって言っていたが高野さんと別れたのは相当堪えたのだろうか。
 煙草が灰になったので、もう一本取り出し火を付けた、しかし煙草を指に挟むだけで紫煙を肺に溜め込む気にはなれない。俺がやるべき事は父の捜索と蛍火を残り二日間灯し続けること、この二つだ、今こうして煙草に火をつけて立ち尽くしている暇はない。
 煙草を消して、浜田さんを呼びにお婆さんの家に戻る。浜田さんはお婆さんと一緒にテレビを見ながら介護をしていた、祖母を気遣う孫の姿は家族愛という言葉で収まるのだろうが、俺にだって事情があるので無理やりその団欒に介入した。
「用事を思い出したのでそろそろ俺はホテルに帰りたいんですよ、すいませんけど車出してもらえますか」
「ああ、ごめんね圭吾君、無理につき合わせちゃって。じゃあお婆ちゃん僕達は帰るから眠るときはちゃんと布団の上で眠ってね、安楽椅子の上で眠ると翌日身体が疲れるよ」
 お婆さんの家を出て浜田さんの車に乗った。俺が借りているホテルの名を挙げると浜田さんは軽快に車を走らせた。
「所で圭吾君は何でこの町に来たの?」
「もちろん浜田さんに会いにですよ」冗談です。父の蒸発はともかく蛍火の話はいくら浜田さんでも教えれない、というより信じてもらえないと思う。
「はは、それはいいね、なら僕も圭吾君にコーヒーを味わってもらう為に店を建てたと言わせてもらうよ。というわけで、お互い冗談も言い合った事だし真面目な話しをしようか、圭吾君は今年四年だよね就職活動はしないの?」
「俺は大学院に進みますから就職はまだ先の話しなんですよ、博士号も取りたいのでまだ数年は大学に残りますね」
「お父さんは教授だもんね、やっぱり将来はどこかの大学で教授職に就きたいとか考えているの?」
「俺に出来るものならですけどね、でも民俗学は金にならない学問なんで結構いい加減に論文書いてそうですけどね」
「圭吾君なら面白い論文が書けると思うけどね、他にも民俗学に関連する学術書を世に出したりとか」
「俺が教授職に就ければ、そういう事もやってるかも知れませんね」
 俺が熱心に民俗学を学ぶのも、博士号を取得して将来はどこかの機関や大学で研究をしたいという願望を持っているのも、要は大学教授だった父である平岡省吾の影響が強い。父は堅実で家族を愛し民俗学という生き甲斐を持っていた、近頃は駄目な大人やちょい悪親父なんてブームが沸き起こっているが、父はそんな流行に属さず自分の考えを安易に曲げずに俺達一家を守り育ててくれた、そんな父に感謝もしているし影響も多大に受けた、恩を返したいと考えるのは当然で、父と並ぶかそれ以上の幸せを掴みたいと思うのも必然だった。それに数ある学問の中から民俗学を選んだのも父を喜ばしたいという理由だけではなく、父が見ている世界を知りたいという欲求もあった。父である平岡省吾には自分の世界が存在していた、俺や妹が学校や友達の付き合いを話すと父は民俗学の世界で磨いた自分の価値観や見識を交えて会話をし、時には褒めた、その口振りの数々が俺とは住んでいる世界が違う住人にも見えて、親として同じ人間として一層尊敬し、同時に自分の遥上で輝いている天上人にも見えて憧れもした。そんな父である平岡省吾も現在は失踪中の身だが、未だに俺は父に対する敬愛の気持ちを忘れてはいない、それほど父の存在は俺にとって偉大なのだ。
「そろそろホテルに着くよ」
「すいませんね、わざわざ送ってもらって」
「いいんだよ、可愛い後輩の頼みだからこれぐらいはするさ」
 ホテルの前に車が停車したのでドアを開けるが、降りる前に浜田さんに一言伝えた。
「明日も時間が空いたら店に行きますから、お婆さんにもよろしくと言っておいてください」
「うん、わかった、また明日店で待っているから」
 浜田さんを見送りホテルの自室に戻る。半日かけた聞き込みは俺の想像以上に重労働だったので、今すぐベッドに倒れこみたい所だがまだ問題は残っている。
 自室のドアをノックし部屋の様子を伺う、まだ十時前なので藤原は起きているはずだ。
「誰ですか?」
「平岡だ、部屋に入っても大丈夫か?」
部屋の扉が慎重に開かれ、藤原が隙間から顔を出した。その隙間に滑り込むように俺は身体を押し込み、急いでドアを閉めた。
 真っ先に確認するのは俺が昨日捕獲した蛍火の所在だ、俺が見つけた蛍火が幻ではなく現実に存在する信じがたい奇跡なのかを納得する為に天井を見上げた。そこには朝に見た時と同じままエメラルドグリーンに発光する蛍火が宙を漂っていた。
「特に変わったことはなかったか?蛍火が暴れだすとか、発光しなくなったりとか」
「大丈夫です、私はずっと蛍火を見ていましたけど朝からずっと浮かんでいるだけでした」
「そう、ならいいや」重たいショルダーバッグを部屋の隅に置いた。
 疲れたな、昼に起きたというのにこの町に住んでいるホテルの従業員と一日中話をしていたのだ、人と話すのは得意な方だが一日の大半を費やして、見知らぬ人と話し続けているとなるとさすがに疲れも溜まる。
「俺はもう寝るから蛍火は頼む、何かあったら叩き起こしてくれ」
 ソファーに倒れ込み天井を見上げると、蛍火が宙に浮かび俺を見下ろしていた。神様はいつも俺達人間を見下ろし、そのくせ何の施しもしてくれない。そんな存在を崇められるかというと答えはNOだ、むしろ神様が座っている椅子を奪いたくなるが、そんな事は出来ないので蛍火に悪態をついてから俺は目蓋を閉じた。



 目が覚めると何故だか蛍火が俺の鼻先をうろちょろしていた。目障りなので手を使って払い除けるが、その度に蛍火は俺の顔面付近を飛び続けている。
 これは神様にケンカを売られていると考えてもいいのだろうか、蝿叩きが手元にあれば喧嘩上等と叫びながら迷わず叩き潰してやるが、これ以上俺をからかうなら本当にしてやろうか。
「駄目ですよ神様、人の顔に何度もぶつかるなんて失礼ですよ」藤原があたふたしながら蛍火を捕まえ、宙に返した。
「おはよう藤原、朝から大変だな」
寝ていたソファーから起き上がり、シャワーを浴びに洗面所へ向かった。意識はまだ完全に覚醒していなかったが、熱湯を頭から浴びると頭が少し働いて、現実離れしていた朝の光景に笑ってしまった。見知らぬ女と神様との同居生活、羨ましいというべきか苦労の絶えない苦難の道なのかどっちにしろ悪くは無い。
 シャワーを終えて別の服に着替え、洗面所を出た。藤原は蛍火を見上げたまま朝食のロールパンを食べていた。
「そういえば藤原は食事はどうしているんだ、そのパンにしても蛍火を放っておいて近場のスーパーに買いに行ったのか」
「そうなんです、実はスーパーで買ってきました、ここのホテルは食堂が無かったのでお腹が空くとどうしても部屋から出ないといけないんです。でも多分大丈夫ですよ、買い物に出かける時は走っていますから十分ぐらいで部屋に戻れます」
 一応蛍火を三日間匿うだけの共同生活なのだが何かと不都合もある、特にその不都合のお陰で俺達が部屋に居ない間に蛍火に逃げられるという結末だけは避けねばならない。
「今日と明日だけの関係だけど少し話し合わないか、部屋に誰も居ない時に蛍火が何をするかはわからないぜ」
「でも平岡さんは蛍火以外の別の目的があってこの町に来たんですよね、私の都合で平岡さんの邪魔はしたくはありません」
「気は使わなくていいよ、俺も蛍火に逃げられたくはないんだ。まあ、そういうわけで、蛍火の保護についての討論は必要だ、万が一という事もあるからこの部屋を無人にするのはまずい、そこを話し合おう」
「けど、私は後二日間はもう部屋から出ずに蛍火の傍にいますよ、二日分の食料も冷蔵庫の中にいれてますから心配はいりません、蛍火は私に任せて平岡さんは人探しを続けてください」
 藤原が部屋からでる必要が無いというのなら、俺もこれ以上は口を挟めない。問題となっていたのは蛍火から目を離さない事であって、藤原が蛍火を一日中見張るのならその問題もクリアした事になる。けれど。
「一日中ホテルの中にいるのも気が滅入らないか?俺も少しは蛍火の為に時間を作るからその間に散歩でもして気分転換したらどうだ」
 気遣って心配したのだが藤原は意に介さず自分の意見を曲げなかった。
「私は蛍火に恋人を生き返らしてもらいます、これは私の事情ですから平岡さんは気にせず自分の事を考えてください」
 そこまで言われると反論は出来ないし、余計な心配も無用だと気付いた。藤原は遊びで蛍火を守っているわけではない、明確な意思があり蛍火に頼みごとをする為にこのホテルに閉じこもっているのだ、これ以上言葉を加えるとそれはただの大きなお世話にしか聞こえないだろう。
「わかった、蛍火の面倒は藤原が見てくれ。俺は人探しを続行するから日付が変わるまでにはホテルに戻るよ、それまでは頼んだ」
 ショルダーバッグを肩にかけて部屋を出た。バッグから地図を取り出し目を通すと、この町の三分の一のホテルには赤い×印が書き込まれている。残りは三分の二だ、出来る事なら今日中に全てのホテルに聞き込みを終えてホテルに戻りたい。
明日で蛍火を三日間灯し続けた事になる、願望の成就とやらをこの目で確認する為にも今夜までにやれる事の全てを片付けよう。
玄関前の喫煙室でまずは一服する、ついでに煙草を吸っている間にどのホテルから聞き込みを開始して、どのような順番でホテルを回れば効率よく聞き込みを終えられるかのスケジュールを考えた。
スケジュールを組み立てると煙草を灰皿に押し付け、ホテルの外でタクシーを拾った。俺が部屋を借りているホテルの周辺に建っているホテルには全て×印が書き込まれている、なので、今日訪れるホテルの半分以上はここから距離が遠く、タクシー代も嵩むので財布にとっては悩みの種だが泣き言は言っていられない。
朝一番で訪れたホテルはタクシーで三十分もかかった。それに、受付嬢に父の写真を見せたまではいいが、この受付嬢は俺の話しも聞かずに自分が勤めているホテルの利点を次々と挙げ始めるので、俺は会話を強引に打ち切り別の従業員を探して父の写真を見せるが、ここでも従業員はこのホテルの素晴らしさを延々と自慢し続けるだけで俺の質問には答えない、仕方ないのでこのホテルではホテルマン達に写真を見せて「見たことあるか」とだけ尋ねていたが「はい」や「いいえ」すら言わずにすぐに話が脱線するので阿呆らしくなり、三十分も経たずにこのホテルから抜け出した。
 タクシーを拾い別のホテルに向かうが、ホテル間の距離が長いので車内では結構暇を持て余していた。退屈しのぎに運転手に話し掛けるが、この運転手は地元の人らしく方言が強すぎて何を言っているのかわからなかったので、結局曖昧に相槌を打つだけで無駄に時間だけが過ぎていった。
 次に訪れたホテルでは職場の教育が末端にまで行き届いているのか、話しの腰を折られずに俺の質問に理路整然と答えてくれるが、しかし受付嬢とホテルマンを含めた従業員の皆は写真を見せても「心当たりが無い」と残念そうに顔を歪めるだけだった。
そうして俺は根気よく精力尽き果てるまでこの町に存在するホテル全てに聞き込みを行ったが、そんな努力も虚しく何一つ父についての僅かな手がかりすらも得られないまま、太陽が沈むのをタクシーの車内で眺めていた。
 結果として俺の二日間における奮闘ぶりは徒労に終わった、端から一介の大学生が警察や探偵の真似事をするなんて無理だったのだ、そんな当たり前の事を今になって痛感しても悔いは残っている、まだ諦めたくないと強がってみせて最後に悪足掻きをしてしまった。
 行き先を俺が借りているホテルから、浜田さんが経営している喫茶店に進路変更してくれと運転手に告げた。
 タクシーが喫茶店に到着すると代金を払い、車から降りて喫茶店に入った。
 喫茶店は昨日同様テーブル席は満員だったので、カウンター席に腰を下ろした。カウンター席からだと厨房で調理している浜田さんの後ろ姿が見えるが、話しかけて仕事の邪魔はしたくないのでウエイトレスに軽食とコーヒーを注文して突っ伏した。
 想像の域を出ないが、父である平岡省吾がこの町に三日間滞在していたのは確実だ、俺ですら父が残した手帳を頼りに蛍火を探し当てる事が出来たのだから、大学教授の父が蛍火を捕獲するのは当然の成り行きだろう、だから俺は父がどこかのホテルを借りて蛍火を匿ったという事実を想定して、手当たり次第にこの町のホテル全てに聞き込みをしたのだが現実は厳しい、権力も金も持っていない勉強が出来るだけの大学生には、行方不明者をたった一人見つけることすら間々ならなかった。
「やあ、圭吾君、今日も店に来たね。コーヒーの御代わりは自由だから店が閉まるまではゆっくりしていきなよ」
「ええ、そうさせて貰います。それと、今日は浜田さんに頼み事があって来ました、店が閉まってからいいですから後で俺の話しを聞いてくださいよ」
 カウンターの手前で上体を乗り出している浜田さんから注文品を受け取り、サンドイッチとアイスコーヒーを胃に流し込んだ。今朝ホテルを出て以来何も食べてなかったので、お手軽に作れるサンドイッチですらも高級料理の様に感じるのだから空腹というのは恐ろしい。
 その後、俺はアイスコーヒーを延々と御代わりし続け、一時間ほどだが店が閉まるまで居続けた。
 閉店を向かえ、ウエイトレスが店から出ると、浜田さんが真面目な顔をして俺に向き合う。
「さて、頼みごとって何かな?僕に出来る範囲なら何でも協力するよ」
 父の写真を浜田さんに見せた。
「平岡教授だね、圭吾君のお父さんがどうしたの?」
「失踪したんですよ、去年。それで、父が去年の夏ごろにこの町に滞在していたという有力な証拠はあるんですけど、いくら探しても見つからないんですよ、手詰まりってやつですね。もう、どうしようもないので浜田さんの店の前に人探しの張り紙を掲示して欲しいんですけど、お願いしてもかまいませんか?」
「やってもいいけど、望み薄だと思うよ。僕の店に来る客は若い人が大半だから、自分の事だけが大事で他人を気遣う余裕なんて持っていない人たちだけだよ」
 それはわかっている、だからこそ最後の悪足掻きなのだから。正直、張り紙を作ったぐらいで父が見つかるなら、指名手配犯はみんな捕まるし、失踪者の半数も行方が把握できるだろうが、現実はそんなに単純ではない。さらに、俺に出来る事が人頼みしかないと実感すると、自分が如何にちっぽけな人間なのかという無力感に苛まれてしまった。
「とりあえず、張り紙は作っておくよ。その代わり、今夜も掃除の手伝いをしてもらうからね、ギブアンドテイク、安いものだろ」清清しい程の笑顔で俺にモップを渡す浜田さん。
 昨日同様の手順で床をモップで拭いていく。朝から晩までの聞き込みを終えた後での労働なので勘弁してくれと心の中で呟いていたが、一方的に要求だけを通して相手の言い分は一切聞かないというような傲慢な性格ではないので、文句も泣き言も言わずに与えられた仕事を黙々とこなした。
「掃除が終わると僕はお婆ちゃんの家に行くけど、圭吾君はどうする?疲れているなら無理には誘わないけど、僕としては圭吾君とも積もる話でもしたいね、二年という月日でお互いの何を変えたのか、良い意味でも悪い意味でも話題は尽きないだろ。まあ、僕が喫茶店の経営に退屈していて、ちょっと話し相手が欲しいなというのもあるんだけどね」
 気分転換に浜田さんと話をして、少しの間は父の捜索と蛍火の監視を思考から切り離すのも悪くはないだろう。それに浜田さんの顔を見ると癒されるのだ、袋綴じ企画並みの美少女とタメを張れそうな容姿の持ち主(男です)と二人きりだなんて、もう精神とかマインドとかメンタルとかが存分に潤わされてしまう。
「俺はまだ学生やっていますから話すことは特にないですよ、それより浜田さんこそ波乱万丈の人生送っていそうですね、公務員を辞めてから一体何があってこんな田舎で喫茶店の店長をしてるんですか、そこの所を是非話してくださいよ」
 雑談を続けながら掃除を終え、モップを浜田さんに返し、店の外に出て煙草を吸った。身体が重く、今にも崩れ落ちそうなほど疲れているが、俺は自分に出来ない事を人に頼んでしまった、その事に対するツケはきちんと払っておきたい。
 煙草を吸い終える頃に浜田さんが車に乗って現れる。あの車嫌いの浜田さんが車に乗っているという事実を確認するのは二度目だが、二度目でも眩暈がするほどの戸惑いは隠せず、数秒だが俺はその場で立ち竦んでいた。
ようやく我に返ったので助手席に乗り込む。
「何か圭吾君上の空って感じだね、やっぱり疲れてる?嫌なら嫌って言っていいんだよ、僕も先輩の特権を使って強制させているわけではないんだし」
「これで二度目ですけど、浜田さんが車を運転しているという事実が信じられないんですよ。高校の時から車は高い凶器だっていつも言っていたじゃないですか、しかもこの車種は白のBMW、最も毛嫌いしている車を何で運転しているんですか?」
「まあ、それは、僕にも色々と理由があるから」浜田さんは言葉を濁すが、納得がいかないので一層追求した。
「高野さんが関係しているんですか?」
何気ない一言だが一線を越えた気がした、けれど出過ぎた事だと謝ればまだ引き返すことも出来た、でも俺は浜田さんが家族を奪った凶器に何で乗っているのかを知りたかった。真意を知っても俺に損得はない、それでも聞かずにはいられない理由は単純な話し、俺が納得できないだけ。浜田さんの車嫌いは筋金入りだ、この人を車に乗せるならまだフェルマーの最終定理を解く方が簡単だと言い切れる、それほど浜田さんと車の組み合わせは相性が極端に悪いのだ。
「本当なら僕だって車には乗りたくないよ、でもね、預かっていてくれって言われたんだ。いつか取りに来るからそれまではこの車を私だと思って大切にしてくれ、と」
「それを高野さんに言われたんですね、でも普通は結婚指輪を預けるものじゃないですか?何でまた車嫌いの浜田さんに車を押し付けるんですか、高野さんだって浜田さんが車に乗らない事を知っていたのに」
「試されたのか、それともイジワルをされたのか。まあ、この話はここまでにしない、思い返すと結構きつくてさ、続けていると僕は泣くかも知れないよ」
 視線を浜田さんの横顔から車外に移す。茶化して喋っているようにも見えたが、浜田さんに取っては辛く悲しい話しだというのがわかってしまったので、これ以上傷口には触れずそうっとしておいた。
「浜田さんは変わりましたね、陽気に笑っていますけど、実は今にも泣き出しそうなほど追い詰められている様に見えます」
 俺なりに確信を突いたつもりだったが口に出してしまうと後悔してしまった、浜田さんは僅かに喉を鳴らし鼻を啜ったからだ。車内の雰囲気が気まずくなり居た堪れなくなるが、俺は前言撤回をしない。俺の言葉が元に浜田さんが愚痴を溢してくれたら、俺は愚痴に最後まで付き合うつもりだ、支えを失った浜田さんの助けになれるのが今は俺しかいないのだから。
「最近ね、気づいた事があるんだよ」
「何です?」
「他人の人生を語るほど難しい事はない。圭吾君には意味がわかるかな?」
「カーネギでもなければゲーテでもないですね、一体誰の格言ですか?」
「僕の格言さ。どうだい、ちょっと恰好良いだろ」
 精一杯の強がりだ、浜田さんにも自分が切羽詰っているのは知っているのだろう、でも俺の前だけでは頼れる先輩でありたい、弱みを見せたくないと思われたのだろうか。俺の余計な心配は逆効果だったのか、それとも作り笑いの一つぐらいは客に振舞える一縷の支えになれたのか、そんな事を聞くほど配慮に欠けた人間でもなかったので、ただ『他人の人生を語るほど難しい事はない』を反芻した。
 よく似た格言に『君の友達を私に紹介してみせろ、そしたら君の性格を当ててやる』という格言があるが、浜田さんの格言はこの言葉の根本的な問題に直面している。友達を紹介しても、その友達の全てを伝える事が不可能という事だ。例え幼馴染で物心ついた時からの親友でも、人に教えられるのは良くて三割程度、親友がどんな性格についても、もしかしたら自分が思い違いをしているだけで、実際に親友についての確信的な発言も的を得ない紹介になるかも知れない。浜田さんにとっての他人とは誰についてかはわからないが、五年以上付き合いがある人物でも裏表も含めて正確に語れるなんて机上の空論だ、出来っこない。でも何で他人を語るのであって自分を語るのではないのか、そんな所に俺の思考は引っ掛かった。
「お婆ちゃんの家に着いたよ、今晩も僕の手足になってもらうからね、途中退室は認めないからそのつもりで覚悟していてね」
 車を降り、浜田さんの後に続いてお婆さんの家に上がった。廊下を歩き、居間に出ると、浜田さんの祖母が安楽椅子に揺られており、今夜も人差し指を震わせている。
「お婆ちゃん、今晩は。すぐにご飯を作るから待っていてね」
 浜田さんが明るく声をかけるが、今夜も不機嫌だというのは即座に感じ取れた。
「あんた、誰かね」ほらきた、やっぱり嫌われているな俺。
「お婆ちゃん、彼は僕の後輩の――」
「平岡圭吾です、あなたのお孫さんの高校大学を合わせた二つ下の後輩です」
「そんなのは知っているやね、あんたは昨晩も来て似たような事を言ったの覚えているね、まったく年寄りを舐めるんじゃないね」   
 あれ?俺の事を覚えているのに「誰だ?」なんて聞くんだ?まあいいか、年寄りの見栄か戯言だろう。
 気分を損ねて明後日の方向を向いているお婆さんだが、指はしきりに動いてテレビを点けろと無言で訴えている。テーブルの上にあるチャンネルを取り、電源をつけてから番組を一通り変えていく。
「昨日はドラマでしたから、今夜はバラエティ番組でも見ます?この番組とか司会者が面白いらしいですよ」
「あんたの好きに任せるね、面白ければ何でもいいやね」
 有名司会者が出ているクイズ番組にチャンネルを合わせ、浜田さんの手伝いをしに台所に向かった。しかし、浜田さんに頼まれたのは冷凍食品を温めるぐらいで、俺の貢献度は低く余り役に立っていないが、浜田さんの手助けをしたいので与えられた事をテキパキとこなしていく。
 食卓に料理が並ぶと俺は一息つき、煙草を吸いに外へ出た。藤原は今頃どうしているのか?安易に想像するなら、俺と同じ苗字の恋人を蘇らす為に蛍火に祈りを捧げているという所だろう。朝から晩まで飽きもせずお祈りし、翌日も含めた三日間も同じ事の繰り返し、そんな女を馬鹿な女だと笑う程俺は愚か者ではないが、現実を無理やり押し付ける程冷酷な人間にもなれない。
 浜田さんはよく自分の事を間の悪い人間だと言い触らしているが、俺も浜田さんに劣らず間が悪い。そんな似た者同士の二人だからこそ惹かれあう物があるのだが、そんな事で仲間を作って傷の舐めあいはしたくない、自分がよりいっそう惨めに思えるからだ。
「なんだかな」紫煙を吐きながら自問してみる、が、答えは出ない。
 明日で蛍火を三日間灯し続けた事になる、伝承の通りなら神様から褒美を貰える筈なのだが、そんなに美味しい話はないだろうと俺は高を括っている。信じられねえよ、この嘘つきが、と。
煙草を消して、居間に戻った。居間ではお婆さんが食事をし、浜田さんが掃除機を使って掃除をしている。一見、祖母を気遣う健気な孫という構図に見えたのだが、よくよく見ると二人の間にはまるで他人同士の様な余所余所しさが漂っている。お互いが必要なのだが、お互いが遠慮しあって、結局何も変わらないまま現状維持が続く、そんな余所余所しさだ。
「圭吾君、暇だったら皿洗いでもしてくれないかな」
 返事を返し、料理の乗っていない皿を台所まで運び、洗った。その後はお婆さんの横に座り二人でテレビを見ていたが、人の失敗を人生における最上の喜びとしか思えない人種にしか面白さが伝わらない内容だったので、五分でテレビを見るのを止めた。
 やることも特にないので天井の木目を見ていたら掃除機のモーター音が止み、そこで初めてお婆さんの鼾が耳に入った。隣を見るとお婆さんが座りながら寝ていたので、浜田さんを呼び、二人でお婆さんを寝室まで運び、寝かした。
 浜田さんはガスの元栓の閉め忘れや、電気の消し忘れをチェックしていたので、俺は先に外に出てもう一本煙草を吸って時間を潰した。
 しばらくすると浜田さんが現れ、車のロックを外した。車に乗っても俺はある種の不可解さが払拭できず、浜田さんの横顔を盗み見た。二年前に見た浜田さんと今の浜田さんは顔以外は似ても似つかない、不思議な事に別人みたいだと馬鹿げた感想を抱いたが、それ程浜田さんが疲れているのだと解釈した。
 浜田さんの助けになりたいのは山々だが、俺にだって人を思いやるほどの余裕がない。翌日にどんな絶望が待っているのか、それを考えるだけで心が俯いてしまう。
「元気がないね」
「ええ、まあ、・・・そうですね」
 話が続かず、すぐに押し黙ってしまう。揚げ足を取るようで気兼ねしたが、取り立てて話題がなかったので、浜田さんが語った格言について少し尋ねた。
「他人の人生を語るほど難しい事はない、これはどういう意味ですか」
「答えは秘密さ、でも圭吾君ならどう受け止める?」
「前提を崩しますけど、俺だったら『他人の人生を』ではなく『自分の人生を』に変えますよ、だって他人について知ってもらうのも大事ですけど、一番重要なのは自分をアピールする事じゃないですか、他人をいくら褒めても自分が得をする事はそうそうありませんよ、自分に多大に関係がありそれなりの恩や情がある人ならまだわかりますけど」
 今、何かとても重要な事を言った気がした。けれど、その言葉を思い出す前に、今日分の疲労が押し寄せ、俺は少しの間眠ってしまった。
 十分ほどの仮眠を貪っていると、突如浜田さんに肩を揺すられ目を覚ました。
「着いたよ」車がホテルの前で停車している。
「どうも、ホテルまで送ってもらって助かります。明日も喫茶店に顔を出しますから待っていてください。必ず行きますから店を閉めても帰らないで貰えますか、多分、いつもよりも遅れますから」
「遅れるのは君の事情かな?」
「ええ、明日が山場なので。それが終わるとこの町に用はありませんから実家に帰ります、浜田さんとも当分会えなくなりますね」
「そうかい、寂しくなるね」
「張り紙は暇があったら作ってくださいね、俺一人の力ではどうにもならないので、残りは人頼みしか出来ないです。今気づきましたけど、結構恰好悪いですね人に頼るのも」
「そんなことはないさ、圭吾君は精一杯やっているんだから、もっと胸を張りなよ。じゃあ、僕は帰るから明日は気長に待っているよ、それでいいかな?」
「ええ、すいません。最後まで迷惑をかけてしまいそうで」
「いいんだよ、可愛い後輩の頼みなんだから喜んで付き合うさ」
疲れた笑顔のまま浜田さんがアクセルを踏み、車が夜道に消えていく。
 浜田さんが乗っている白のBMWは高野さんが最も愛した車だった。前に浜田さんと高野さんはある問題を除けば理想的な夫婦だと述べたが、そのある問題とは高野さんの車に対する愛好についてだ。車嫌いの浜田さんとは対照的に高野さんは無類の車好きだった、大学に通うのも車で通学し、デートの待ち合わせ場所にも車でやって来る。当然、車を憎んでいる浜田さんは車を運転している高野さんを見るたびに怒りの矛先を向けるが、高野さんは別段悪びれた素顔を見せない、そんな二人が車に関して論じる時にはちょっとした口げんかになり、壁役であり仲介役である俺をよく困らせていた。その高野さんが目を輝かせて絶対にいつか買うわと語っていた車が白のBMWだった、奇しくもその車は浜田さんが忌み嫌う最も存在が許せない車だったのだが、高野さんも自分の趣向を頑として捻じ曲げず、浜田さんの文句や非難を聞き入れなかった。
 現在、浜田さんは白のBMWに乗っているので、高野さんは憧れの車を手にいれた事になるのだが、その大切な愛車を一日で廃車にさせかねない男に預けるというのはどんな心境だったのだろう。浜田さんを試したのかそれとも自分の代わりに愛して貰いたかったのか――いや、この話を考えるのは止めよう、何年後かに二人がヨリを戻した時に祝福する事、それが俺の役割だ。
 部屋の前に戻り、ドアをノックする。数秒後に藤原がドアを開けたので、急いで部屋に入る。
「人探しはどうでしたか?見つかりましたか?」
「いや、駄目だったよ。それより蛍火は、まだ部屋に居る?」
「はい、ちゃんと朝から見張っていました。それより平岡さんは気分が悪いんですか?顔色が随分悪く見えますけど」
「疲れただけだよ、翌朝まで放っといてくれ、今日はもう寝たい」
 ソファーに倒れこみ、目を瞑った。眠ってしまえば何も考えずに済むのだが、心残りが募り藤原が不憫な女に思えたので一言謝った。
「ごめんな、面倒な事だけ押し付けて」
「私は――」
 藤原が何と言ったのかを俺は聞きそびれるのと同時に、意識が睡魔の底へと落ちた。



 翌朝、目が覚めると既に十時を越えていた。ソファーから上体を起こし、軽く頭を振った。寝起きのため暫く呆けていたが、宙に浮かんでいる蛍火を見ると、今日が何の日なのかどんな日になるのか、そんな考えたくない事を思い出してしまった。
「おはようございます、平岡さん。今朝はよく眠れましたか?」
「寝すぎで、まだ眠たい。ちょっとシャワーを浴びてくるから」
 浴室に入り、シャワーを浴びる。
父である平岡省吾の捜索は昨日で打ち切った、頼みの綱も後は浜田さんだけ、けれど手応えはないだろう。二日間における捜索で目ぼしい所には全て足を運んだ、今更張り紙を作ったぐらいで効果が出るくらいなら、最初から懸賞金を掛けて父の張り紙でも何でも全国にばら撒いていた、でもそんな事をしなかったのは俺達残された家族が恐れていたからだ。父は家族を捨てるような人間ではない、家に帰ってこないのは何らかの事情があるからだ、帰ってこられない特別な事情が。その特別な事情が何なのかは俺達も薄々は勘付いている、父が他界したという事を。
「クソ」父の事を考えるだけで、体中の血管が切れそうになる。
 シャワーを終え、服を着替えて、苛立ちを抑える為に煙草を吸おうとしたが少し思い止まる。
「藤原、部屋で煙草吸っていいか?灰皿はあるから灰で部屋は汚さないけど、紫煙が生理的に受け付けないって言うなら、俺は外に出て吸うから」
「大丈夫ですよ、灰皿があるならお気遣いなく吸ってください」
「でも、窓は開けられないから室内の空気が淀むんだが、それでも構わないか?」
「私は気になりませんよ、煙草ぐらいで目くじらを立てる人間ではないので」
 承諾も取ったので煙草に火をつけた。肺に煙を溜め、吐き出す、紫煙と供に俺の怒りが体内から抜け出す事を抜け出す事を期待して煙草を吸うのだが、口元から出て行くのは白い煙だけで苛立ちは収まらない。
「平岡さんは紫煙で輪っかを作れますか?」
「無理、出来ない。でも、こういうのなら作れるよ」
指に挟んだ煙草を縦向きにして、上下に動かした。理屈は知らないがこのように動かすと煙が円を作るのだ。そう言えば煙草の煙で円を作るのも酒に溺れた時の対処法についても浜田さんから色々教わった、非常に感謝をしているので今晩にでもお礼を言いたいな。
「賞味期限が切れかかっているのしかありませんけど、何か食べます?菓子パンやおにぎりぐらいしかありませんけど」
「古い食い物でもいいから何かちょうだい、ここの所ろくに飯を食ってないから腹が減っているんだよ」
 菓子パンの袋を空け、ちょっと遅めの朝食を済ます、しかし腹が減っているのは確かだが中々食指が進まない。
藤原に本当の事を教える勇気が俺の中にはないのだ、蛍火はまやかし、幻想、ファンタジー、願いが叶うなんて嘘なんだよ、その一言がどうしても言い出せない。それでも今夜は否が応でも神様に虚仮にされてしまう日だ、藤原は蛍火という神様を心底信じ、奇跡という名の褒美を貰うつもりなのだろうが、生憎と神様は俺達人間の事なんて路傍の石ころ程度にしか考えていない、そんな事は民俗学の歴史が証明している。誰でも知っている童話には、地蔵に傘を被せるとお礼に小判を貰えるというのがあるが、実際の所あれは完全に作り話、言うなれば詐欺だ。実は神様にも色々な種類があり、気安く肩を叩くだけで遠慮なく殴りにかかるという気性の荒い奴も結構いる。蛍火は俺から見て穏健派なので危害を人間に加えはしないだろうが、俺達が眼中に無いというのは断言出来る。
「今日です、今日で三日間私は蛍火を灯し続けました、絶対にあの人を生き返らしてもらいます」決意のある強い言葉だ、藤原は頭からこんなチンケなものを信じきっているんだな。
 菓子パンを無理やり胃に流し込み、カーペットの上に寝転がった。
 俺は神様が全く信用のならない存在だというのを知っている、だからこそ蛍火には何の期待もしていないが藤原は違う、常識を覆す為に蛍火にすがっている。裏切られるとは考えないのだろうか、俺達の目の前には信じがたいモノが宙に浮かんでいるわけだが、それが自分の言う事を聞いてくれると本気で思っているのだろうか。
 蛍火について考えていると気が滅入ってくるので、どうだっていい事を藤原に提案した。
「酒でも飲まないか?」
「お酒ですか、でも今日は大事な日なので私は遠慮させていただきます」
「素っ気無いねえ、蛍火が藤原の恋人をどうにかしてくれるのはどうせ夜だろ、それまで暇だから酒でも飲んで時間を潰そうぜ、てか、そうでもしないと退屈なんだよ」
「平岡さんがそこまで言うなら、でも私は余り飲みませんよ」
藤原のブロックは強固だったが、何とか指が一本図通るぐらいの隙間は空けたので、その隙間に付け込む事にした。
財布を持ってコンビニへビールを買いに行った。コンビにではカゴ一杯にビールを放り込み、ついでに摘まみを適当に選び、レジで代金を払った後、部屋に戻った。
「沢山ビールを買いましたね、平岡さんは酒豪なんですか」
「そういう訳でもないけど、飲みたい時に手元に酒が無いと一々買いに出かけないといけないから面倒だろ、だから多めに買ってきた。ほら、飲もうぜ」
 プルタブを開け、藤原と乾杯した。藤原に無理に酒を勧めるのも蛍火から意識を逸らす事にある、藤原は紛れも無く蛍火に人生をかけている、そんな健気な女に残酷な未来を押し付ける気にはなれない、だからアルコールで少しでも今夜に待っている絶望を紛らわせてあげたかった。
 酒を飲みながら他愛もない雑談もした。お互いの環境や生い立ちには一切触れなかったが、日は徐々に暮れていき気がつけば月が見える時間帯になっていた。
「意外と飲んじゃいましたね、私ふらふらです」
「藤原は結構酒を飲めるんだな、俺より飲んでいないか」
「そんなことはないですよ、でもお酒っていいですね、時間があっという間に過ぎていきます」
 缶ビールに口を付けながら蛍火を見上げた。そろそろ頃合だ、蛍火が叶える願望の成就、そんな奇跡がこの目で拝める時間なのだが、正直な話し俺は全く奇跡なんてものを信じていない、絶対に騙される、これは予感ではなく確信だ、民俗学に関わっているからわかる神様への不信感だ。
「藤原は願いが叶ったらどうするつもりなんだ、最後に聞かせてくれよ」
「私は謝ります。私が愛した人は妻子持ちなんですけど、あの人の家族にまずは謝らないといけません、勝手に横取りしちゃったわけですから。ごめんなさいで済めばいいんですけどね」
「そうか」
 秒針が刻々と時間を刻んでいく。カウントでもしよう、八時まで後、五、四、三、二、一。
八時になると同時に蛍火が強烈に発光し始めた。奇跡を起こす世紀の瞬間、一瞬だが希望に縋り蛍火の言い伝えを信じてしまったのだが、次の瞬間にそんな馬鹿げた考えを打ち消した。
蛍火は眩いばかりの光を放った後、音も無くエメラルドグリーンの大量の粒子を部屋中に発し、消滅した。
やっぱりな、そう思った。蛍火は僅かな置き土産も残さず、俺達に愛想を尽かして逃げていった。神様が人間に施しをするのは童話の中だけ、現実ではただの人騒がせを起こし、謝りもせずに勝って気ままに去っていく、蛍火も例外ではない。
そんな俺を他所に、藤原は何が起こったかのもわからずに目を輝かせていた。まだ信じているのか?これを見ても信じきっているのか?こんなものを見せられても信じ続けられるのか?死者が蘇るわけはないだろ、お伽話をまともに信じるなよ。
「あれ――蛍火は――あの人を生き返らせてくれるんじゃ――私の願いを叶えてくれるって――え、何で」
 事情を理解した藤原は脱力してその場に崩れ落ちた。何か声をかけるべきなのだと俺は知っていたが、泣き始めた藤原から目を逸らすだけで、自分の弱さと無力さに唇を噛み締める事しかできなかった。
「返して!あの人を返して!神様!お願いします!あの人を返してください!」
藤原は泣き喚きながら蛍火の飛散した粒子を掻き集める、まるでケネディ大統領の脳漿を掻き集めるジャクリーヌ婦人だ。目に見える蛍火の粒子が忌々しい、こんな物の為に藤原は今泣いている、けれど蛍火を責めるのも俺の勝手な責任転嫁だ。俺は結末を知っていた、確信があった、蛍火を崇めている藤原に答えを教える義務があった。俺が始めに説得するべきだった、そうすれば藤原はここまで取り乱さなかっただろうが、藤原は蛍火という神様に救いを求めていた。真実は残酷なだけで誰も救わない、俺は希望を持った人間に絶望を叩き付ける勇気がなかった、真実を知っていたのに藤原から希望を奪い取る事が出来なかった、泣かせたくなく、悲しませたくなく、生きる為の活力を失わせたくなかった。そして、そんな偽善が今の状況を招いた、今更手を伸ばしたぐらいではもう藤原を救えない、絶望の底にある者に光は届かない。
泣きじゃくる藤原を俺はこれ以上正視する事は出来なかった。もう、疲れた、全てを終わりにしたい。
荷物をカバンに詰め込み、部屋を出て行く準備を始めた。臆病者、そう罵られても構わない、俺は漫画の主人公の様に強くは無いのだ。
荷物を詰め込む最中に父が残した手帳を見つけた、蛍火について記されたあの手帳だ。これは父の形見とも言える貴重な手帳なのだが俺にはもう必要ない、神様に付き合わされるのはもう散々だ、だからこの手帳はカバンには入れず放置した。
カバンを担ぎ、部屋を出る。最後に一言藤原に残そうとしたが、往生際が悪く思え無言で部屋を後にした。
ホテルの受付で翌日分の宿泊料も払い、浜田さんの喫茶店に向かう為歩いた。
五分ほど歩き喫茶店に着いた、時計を見ると九時前なのだが店内ではまだ明かりがついていた、俺の来訪を待ってくれているのだろう。
「こんばんは、今夜は遅れました」店に入り、浜田さんに挨拶した。
「ギリギリだね、後五分遅れていたら僕は帰っていたよ。それで、君の事情は片付いたのかな?」
「ええ、何とか、バッドエンドですけどね」
「そっか。でも、終わったのなら後は休むだけだよ、けれどもう一踏ん張りしてもらうけどね」
「今夜もお婆さんの家に行くんですね、疲れていますからあんまり扱き使わないでくださいよ」
 店の外に出て浜田さんを待つ、一分もかからず浜田さんは車に乗って現れた。浜田さんと車との組み合わせが三度目ともなるといい加減慣れて驚かなくなるので、物怖じせず助手席に乗り込んだ。
「圭吾君は酒飲んだ?何か、アルコール臭いんだけど」
「ええ、ビールですけど朝から飲んでいました。ちょっと眠ってもいいですか、酒も入っているんで眠いんですよ」
「着いたら起こすよ、それまではお休み」
 目蓋を閉じると藤原が蛍火に頭を下げている姿を思い出した。今なら言える、藤原が何故頭を下げたか、三日間だけでも自分の生きる希望になってくれた蛍火に感謝をしていたのだろう、幻想でも奇跡でも夢を見せてくれた事に感謝をした。まあ、戯言だな、真相は何とやら。
「起きなよ圭吾君、着いたよ」
 車から降り、お婆さんの家の中にお邪魔する。居間につくとお婆さんがまたも不機嫌そうに安楽椅子に揺られている。
「また来たのかね、あんた誰かね」今日でこの質問も三度目だな、やっぱりこのお婆さんは呆けてんじゃないか?
「俺は貴女のお孫さんの後輩で平岡圭吾と言います、覚えてもらえましたか?」
 気分を害したのかお婆さんはむっつりした顔であらぬ方向を向いた、が、顔の向きを戻し又も同じ質問をした。
「あんた、誰かね」
 いや、だから俺はですね、と言いかけた所でお婆さんが俺を見ていないことに気付いた。『誰だ』という質問は孫である浜田さんに言ったモノだった。流石に温厚な俺でもこの一言には呆れたが、咄嗟に補則する。
「この人は貴女のお孫さんで、浜田――」
「嘘つくのは止めね、そいつは私の孫でもなんでもないね、そこの女はね」
 浜田さんは女性の様な容姿をしているが実は男ですよ、そう説明しようとすると浜田さんが俺の隣で不敵に笑っていた。
「そっか、お婆ちゃんは気付いちゃったか、いや、最初から騙せていなかったのかな、圭吾君は簡単に騙せたのにね」
 何の話だ、俺は騙されていた?突然の話しについていけなくなり混乱してしまう。
「私は貴女の血の繋がった孫ではないわ。高野景子、貴女の孫の奥さんよ」
 え?高野さん?いや、でもその顔は浜田さんだよ、一体何の冗談?
「明日からはもう来なくていいね、自分の事は自分でやるね」
「わかった、お婆ちゃんお別れだね、出来たら長生きしてね。さあ、圭吾君帰りましょう、駅までなら送ってあげるわ」
 わけのわからないまま自称高野さんに手を引かれ、車に乗せられた。俺は暫くの間口が聞けなかった、事情が全く把握できないので当然だが、最大の驚きは目の前の人が俺の先輩である浜田さんではなかったという確証の無い事実だった。
「圭吾君って結構鈍いのね、少し考えれば私が別人だって気付くと思っていたのにね」
「貴女は浜田さんではなくて高野さんなんですか、でもその顔はどうしたんですか?浜田さんの顔じゃないですか」
「整形したの、どう?旦那にそっくりでしょ」
 何かが一本の線に繋がった気がした。車嫌いの浜田さんが白のBMWを乗り回し、声の高さが若干違っている。この矛盾点を女性であり車好きの高野さんに移し変えると、全て辻褄が合い納得がいく。そして、背の高さも後姿も浜田さんと似ている高野さんが顔を整形して浜田さんの顔になれば、二人の区別が簡単には出来ない。それに、高野さんは胸がAカップ(推定)なので、男に変装するには格好の体型だ、小柄な浜田さんに成り代わられたら見破る事は極めて難しい。お婆さんは最初から自分の孫とそっくりな顔をした他人だと知っていたから、『誰だ』と聞いたりや他人同士の様な余所余所しい空気が漂っていたのか。
「他人の人生を語るほど難しい事は無い、今なら圭吾君にも意味がわかるでしょ」
「顔を摩り替えて浜田さんのふりをしていたって事なんですか」
「そうよ、正解」
 返す言葉が見つからなかった。茶番に付き合わされていた事を非難するのでもなければ、自分の考えの至らなさを貶すのでもない、別人に成り済ませて生活を送るという荒唐無稽な発想に唖然としたのだ。
「じゃあ、浜田さんと離婚したってのも嘘だったんですか?」
「あれね、嘘。旦那は死んだよ、交通事故に逢ってね。皮肉なものね、交通事故を嫌っていた人が交通事故によって命を落とすのも」
 浜田さんが、死んだ。お軽い口振りから漏れた何気ない一言に俺は叩きのめされた。信じられない、いや、信じたくない、「それも嘘ですよね」と聞き返したくなるが、高野さんの目尻が潤んでいたので俺は悟ってしまった。ひよっ子だった俺の面倒を見てくれたあの浜田さんがもうこの世にいない、悲しさが込み上げ淀んだ感情が脳裏を巡る、けれど誰よりも辛いのは浜田さんの妻である高野さんだ、俺は今にも涙を流して嗚咽を挙げたいが、高野さんが泣かないというなら俺だって堪えてやる、死んでしまった浜田さんにこれ以上心配をかけたくないから、精一杯に強がって自慢の後輩だと見せ付けてやる。
「高野さんは何で顔を整形したんですか?浜田さんにそっくりな顔に」
「つまらない理由なのよ、旦那がいないなら私が旦那の代わりになろうって思いついて、勢いで顔を変えたの。そうして旦那のふりをして生きてきたけど、どうもここらが潮時みたいね」
「俺は一発で騙されましたけど、お婆さんは騙せなかったですからね。これから高野さんはどうするんです?喫茶店はまだ経営するんですか」
「店を畳んでから一度実家に帰るわ、でも勝手に顔を変えちゃったから私だって気付いてもらえるかしら」
「何かあったらいつでも俺を呼んでくださいよ、浜田さんには色々感謝をしていますから、あの人が愛した高野さんの頼みなら何でも聞きますよ」
「そうね、いざという時は圭吾君に頼らせてもらうわ、その時はよろしくね」
 高野さんがアクセルを踏み、車が駅に向かって走る。最後に予想外のどんでん返しを喰らったが、この町にもう用は無い。唯一の心残りは藤原だが、俺がしてやれる事は何も無いのだ。労いも、気遣いも、慰めも藤原には鬱陶しく感じるだけだろう。翌朝、目が覚めたとき、俺が隣に居なくて夢から覚めたのだと思い至れば、藤原も自分の人生に向き合ってくれるだろうか、俺の勝手な思い上がりだがそうあって欲しいと願いたい。
駅に着いたので、車から降りた。
「さよならって奴ですね高野さん、トリックは教えて貰いましたから次は騙されませんよ」最後に軽口を叩いた。
「ええ、お元気でね。それと、圭吾君は簡単に死んじゃ駄目よ、愛した女を泣かせるような男にはならないでね、これは先輩としての助言よ」
 大きく手を振り、高野さんを見送った。都合よく終電の電車に間に合ったので切符を買って、電車に乗った。
 これで舞台の幕が降りた、三日間の間に色々あったが、俺は上手く舞台の上を立ち回れたのかな。まあ、何だかんだでこの町ともお別れだ、締めには笑顔でさよならと言ってやるよ。



エピローグ



 ――五年後。
 実家に戻った俺は真面目に大学に通い、今では博士号を取得する為に博士課程で勉強を続けている。将来は父である平岡省吾の様な民俗学者になる事を目指しているのだが、実際の所は人使いの荒い教授にいいように使われ、民俗学関連の学術書を作る為に西から東へと走らされているにすぎない。日々、取材の連続で休む暇もあったもんじゃないが、日給として教授から一万円が支払われ、取材における報告書は論文扱いなので一応は勉強になっている、それに俺の担当教官である教授は学生嫌いで有名なのだが、俺にだけは名指しで私の研究室に来いとご指名する程買ってくれているので、今の所は現状に不満は無い。
 そうして日々の出来事に忙殺されている中、神様の悪戯で俺達はもう一度再開することになった。
「平岡、お前に客だ。報告は後で聞くから事務室まで一っ走りしてこい」
 教授の言いつけ通り大学の事務室まで走り、そこで子供を連れたとある女を見つけた。
「久しぶりだな、藤原」
「はい、五年ぶりです平岡さん。この子は私の子供の優吾です」
 事務室の前で待っていた客は藤原ユカだった。五年前に三日間蛍火を灯し続け、最後に神様に騙された哀れな女の藤原。
 立ち話もなんだし二人をキャンバスのベンチにまで連れて行く。途中、自販機で飲み物を買い、それを二人に渡した。
「それで、今日はどうしたんだ?俺に何か用があるんだろ」
「この町に寄る機会がありましたので、借りていた物を返しに来ました、どうぞ受け取ってください」
 藤原がバッグから手帳を取り出し、俺に渡した。多少傷んでいるがこの手帳には見覚えがある、蛍火について記された父である平岡省吾の手帳だ。今更こんな手帳に愛着など無いが、無下に断るほど気遣いが出来ない大人でもないので、とりあえず受け取った。
「なあ、蛍火の事だけど、最後の日は悪かった。実を言うと俺は知っていたんだよ、蛍火は願いを叶えてくれないっていう事を、でも俺はその結果を藤原に伝える勇気がなかった、藤原から希望を奪い取って泣かせたくなかったんだよ、その事で謝らしてくれ、すまなかった」
 五年前の過ちを告白した、言葉足らずな謝罪だが藤原は許してくれるだろうか。
「願いは叶いましたよ、半分だけですけどね。私が愛したあの人には会えませんでしたけど、あの人が残した優吾は産まれました。ですから、蛍火は私の願いを叶えてくれたんです」
 藤原が隣に座っている息子の頭を撫でた。俺に似ていやに眼つきが悪く、大人だろうが気に食わなければすぐに喧嘩を売りそうな顔をした子供だが、藤原が頭を撫でると破顔し、母に向けて満面の笑顔を浮かべた。そんな二人の馴れ合いを見て、藤原は俺の懺悔など期待していない事に気付いた。俺が勝手に負い目を持っているだけで、藤原は俺に感謝をしている。三日目に見捨てられたというのに、礼を言いに大学まで来たのだ。
「藤原が愛した男は俺と同じ苗字なんだよな、ついでだからどんな名前か教えてくれよ」
「平岡省吾さんです、民俗学関係の仕事をしている人でした」
 え?親父?俺の聞き間違いではないよな?今、確かに藤原は俺の父の名前を口にしなかったか?
「ちょ、ちょっと待ってくれ、その平岡省吾という男はS大で民俗学の教授をしていたあの平岡省吾か?」
「ええ、省吾さんは教授の仕事をしていたって聞きましたけど」
 まただ、今、全ての物事に一本の線が繋がった気がした。蛍火というマイナーな伝承を、民俗学を全く知らなさそうな藤原が知っていたのも、俺の眼つきが愛した男にそっくりだと言うのも、更には藤原が産んだ子供の眼つきの悪さが毎朝見ている俺の眼つきと遜色ないと思えるのも、この全てに父である平岡省吾が関わっていれば納得がいく。蛍火という父以外の学者が一度も研究した事のなさそうな分野を藤原に教え、親父譲りの眼つきの悪さが藤原に好評だったのも、父がこの話しに関係していれば全て説明がつく。
 という事は何だ、藤原の子供には俺と同じ血が流れているのか。何だかな、親父も歳だろうによくやるな、母と妹が知ったら縁を切られるぞ。
「その、省吾さんはもう死んでいるんだよな、藤原が生き返らしたというぐらいだから」
「ええ、癌でした。最後の一ヶ月は病院のベッドから起き上がれないぐらい弱っていました」
 そうか、親父は癌だったか。俺達に一言相談でもしてくれればよかったのに、癌を治す為に一人で蛍火を探しに行ったのか、勝手に蒸発したのも俺達に心配させたくない為の親父なりの配慮なのかな、弱みを見せたくなかったのもあるだろうけど、まあ、親父らしいと言えば親父らしいな、まったく。
 まあ、いいや、親父の子供である優吾には兄貴らしく何か言っておくか。
 ――さて、最初の言葉はなんだろう。

蛍火

蛍火

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更新日
登録日
2011-11-16

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