『武当風雲録』第二章、一、孤島

『武当風雲録』第二章、一、孤島

武当山から去った葉艶一行は、当てもなく歩いた。あやうく武林を覆したこの女性の過去とは、いったい・・・

第二章
見渡せばとりつく島もなかりけり
小舟は浪に揺られ揺られて


一、孤島

 夕日が傾き、一隊の人馬は西へ向かって進んでいく。
 先頭に、晴れやかな服装を纏った女性は白馬に跨り、しょげた容子で俯いている。馬と並んで一人の男は足を遅れず、黙々とに付いている。
 武当派から降りて二時辰ほど進んだところである。葉艶はついさっきまで行われた一連のことについてずっと考えていた。武林大会の日に乗じて各門派を武当派に閉じ込めるのに成功した。中で一番恐れていた武当と少林も予想通り、墨語一人によって封じ込めることができた。
 すべては計画通りだった。しかし――
 葉艶は、はぁとため息をついた。
 しかし、あと一歩の処で、あの見色という坊主に邪魔されてしまった。
 葉艶は横で黙々と付いている墨語を見下ろした。
 自分はいつの間にかこの男を信じきっていた。この人が傍に付いている以上、倒せない相手は居ないと確信していた。ところが今回は違った。見色と手を合わせる前に、墨語はまず自分に向かって一礼をしたのだ。
 それまでに一度もなかったことだ。葉艶はその姿から、何か嫌なものを感じ取った。
 彼を知った日から、無口な人で、普段めったに言葉を発することはなかった。しかし、自分の考えていることを誰よりも早く悟り、これをやってのけてくれるのである。剣がさしてくればこれを防ぎ、指さす相手を間違いなく倒してくれる。自分にとって墨語は手足そのものであった。
 ところが、そんな彼は自分に向かって一礼をしたのだ。
 今回は、負けるかもしれない――
 という意味を、葉艶はそこから読み取った。
 いや、死ぬかもしれぬと墨語は覚悟したであろう。そのためにあらかじめ別れのあいさつをしたのだ。
 墨語が負けるところは一度も見たことはなかった。「墨語が負ける」という言葉は葉艶には想像もできないことである。が、見色の前で、彼は始めてそう「語った」。さすがの葉艶も動揺した。
 実際さっきの戦いで、すべての人の目に見色は劣勢だった。彼はひたすら墨語の剣から逃げ回り、あと一刻もすればやられてしまうだろうと、誰もが思っていた。だが、葉艶は迷った末にやむなく墨語を止めた。
 誰よりも、手を合わせた本人は一番よく分かっている。墨語がそう言うからには、間違いない。ここで墨語を失えば元も子もない。
 「あの見色という坊主は、そんなに強いのか。」
 それでも気になるので、葉艶は聞いてみた。
 「は。師匠以外には、私の剣を止められる者は居なかった。しかも……」
 墨語は黙った。
 葉艶もそれ以上聞こうとしなかった。その顔は一層曇ってきた。
 しかも、たった三本の指で――
 夕日を眺めているうちに、葉艶はさっきの怒りが消え、だんだん悲しくなってきた。
 あの日、自分は未来も希望も失い、義理も信念も悉く捨てた。今日まではただ復讐だけのために生きてきた。それが自分の生きる唯一の生き甲斐、唯一の理由であった。
 しかし、あの見色という坊主のせいで、これらすべてが永遠に叶えられないように思われた。
 「はぁ……」
 葉艶はもう一度ため息をついた。墨語は尚も黙々と付き添っている。
 復讐できなければ、この世に生きていく理由はどこにある。

 道ゆけばたなびく雲のいと暗し
 いずこにわれの帰り路なりや――

 時を遡って七年前、葉艶がまだ羞鶯笛に居る頃であった。ある日、羞鶯笛当主柳尚雲の手に、少林方丈からの書状が届いた。
 近頃、江湖ではさまざまな不思議な事件が起こり、少林や武当の者らによれば、どうも越龍幇は中に絡んでいるらしい。そこで少林をはじめ、武当、古龍ら名門正派の武林同仁らは力をあわせてこれを解決してもらいたい、とのことである。
 柳尚雲は手紙を一瞥して横に置いた。
 聞声の言うことはむろん前から気づいている。最近湖北一帯に強盗事件が流行り、地方役所がまったく役に立たず、駆けつけるところはいつも賊に襲われた後だったり、運良く現場を押さえても、相手に敵わなかった。しかも、調べるところによれば、これらの強盗は、貧富かまわずに襲い、他人の家を我が家のように一巡してから金になるものにはほとんど手をつけずに去っていく。湖北は武当派の縄張りでもあり、これらの事件はやがて武当派の注意を引いた。
 だが、柳尚雲は冷ややかな態度であった。
 事件はどちらかといえば、武当派にかかわることであり、少林寺世間の葛藤とほとんどかかわらない少林はこんな檄を書いてよこすわけがない。武当派は前の掌門徐問亭と自分との関係を憚り、直接に連絡するのを避けて少林に頼んで書状を寄越したに違いない。
 翌日の朝、柳尚雲は羞鶯笛の全員を集めて告げた。
 「ここに少林聞声方丈からの手紙が届いている。」
 柳は手紙を見せてその内容を簡単に述べた。
 「われわれは世間から遠のき、管弦音曲に身を尽くし、本来はこのような江湖の紛争にかかわるのは主旨ではないが、今回は少林じきじきの願いでもあり、ことがわれわれ自身にも及ぼすかもしれぬ故、陰ながら協力してやろうと考える。」
 青々した木々に囲まれた雁蕩山頂の広場に、十数人の女弟子が姿を正して立っている。師姐妹の間に混じって、葉艶も目を輝かしながら熱心に師匠の言葉を聴いていた。
 この年、葉艶はようやく二十歳になるばかりの世間知らずのうぶ娘であった。彼女は二十年前に森に捨てられたのを、通りすがった柳尚雲に拾われた孤児で、以来、雁蕩山で育てられたのである。
 武術を習っているからには、なんとか役に立たせようとするのは自然な感情である。葉艶は買い物や雑事をする以外、めったに雁蕩山から降りることはなかった。外の世界に対する恐れと好奇心をいっしょに持っている。強盗事件を聞いて彼女は世間の恐ろしさを想像した。一方、少林の書状の内容を聞いて、言い知れぬ正義感と闘志を燃やした。
 「しかし――」
 師匠は続けた。
 「日々教えたことだが、世間を甘く見てはいけない。君たちがここに集まり、世間から遠ざかるのはもっとも安全だ。君らに武術を教えるのは身を守るためであって、むやみに戦うために非ず。これに異議ある者は出て行くが良い。だが二度とここに戻れるとは考えぬことだ。今回の事件は一番良い例だ。江湖が広く、如何なる悪人も居る。今日の友は明日の敵に変わることも珍しくない。ことに男の人は信用できぬ。君らもいずれ巣立つ日が来るであろう、だが相手を選ぶときには、必ず私を通さねばならぬ。」
 今日に限らず、羞鶯笛の女子たちはことあるごとに似たような話を聞かされていた。葉艶は真面目な目で柳尚雲の話に耳を傾けた。彼女は柳尚雲を師と仰ぎ、命の恩人と思い、また親とも思っているのであった。
 それから十日ほどのある日、葉艶は大師姐黄雁と連れ立って食料の調達に下山した。戻ってきた時には、すでにたそがれる頃、鳥どもが巣へ戻る時刻となった。雲が低く空を覆い、夕立の到来を告げている。
 二人は話しながら急いだ。山へ戻るべくその麓にある村を通るとき、遠くに犬の吠える声と騒ぐ声を聞きつけて足を止めた。黄雁は見てみようと言って声のするほうへ走っていった。
 近くへ来てみると、騒ぎは雁蕩山麓にある村の村長の家に起こっているらしい。二人が駆けつけた時に、ちょうど一人の中年女性が叫びながら門外へ逃げ出してくるところだった。つづいて後ろから黒い影が躍り出て、剣を揚げると女性を背後から切り殺した。
 さらに、もう一人が部屋から駆け寄って地面に倒れる女を見た。
 「師兄、何もそこまでしなくとも。」
 あとから来る者が言った。声からすると若い男らしい。
 「身分がばれたのだ。しかたがない。それ、退(ひ)くぞ!」
 葉艶は黄雁の隣にしゃがんで、息を殺して目の前の光景を見た。こんな残酷な場面に初めて遭遇し、心の中に怒りを感じながら、体がぶるぶる震えるのをどうすることも出来なかった。
 一方、黄雁のほうは冷静であった。しばらく見てから、突然躍り出て声をかけた。
 「おぬしらは越龍幇の者だな。ここで何をしておる!」
 とつぜん現れた人に、男の二人は驚いた。逃げようとすると、黄雁にすばやく道を塞がれた。
 「師兄、ここは俺に任せろ!先に行け!」
 一人が叫んで黄の剣を遮った。
 「お前、一人で大丈夫か。」
 「案ずるな。早く例のものを持っていけ。ここは任せてくれ。」
 「おぉ、頼んだぞ!」
 師兄と呼ばれた男はその隙に逃げ出して行った。
 しかし、残った男は黄雁より腕が劣っていると見え、二、三回と手を交わさないうちに、すぐに劣勢になった。それでも彼は必死に付きまとって黄を行かせようとしない。そこに、葉艶もようやく落ち着きを取り戻して師姐に加勢した。
 二対一で、男はとうてい相手にならず、あっという間に敗れ、左の脇腹に黄雁の一剣をまともに受けた。彼は右手で腹を押さえながら地面に座り込んで、剣も足元に落ちた。
 「葉艶、この者を見張ってくれ!」
 黄雁はそう言い捨てると、先の男を追うべく林の中へと消えた。
 「師姐……」
 葉艶はいきなり取り残されて心細く思った。突然な出来事でまだ胸が動転しており、握っている剣の柄も冷たく感じた。
 いつの間にか、雨雲が密集して重く圧し掛かり、夜が早めにやってきた。やがて遠くの空はピカッと光り、雷の音が地を這うように響いてくる。
 葉艶は師姐の消えていく方をしばらく見守った。はっと気づいた時、負傷した男の姿はもういない。葉艶はあわてて四方を見渡し、野風が草むらを揺るがせ、どこへ逃げたか見当も付かない。
 葉艶は焦りだした。男は負傷しているので遠くへは行けないはずだと分かっているが、江湖経験が乏しく、どこを追うべきかさっぱり分からない。
 突然、大きな稲妻が頭上に光り、大地を照らした。深まりつつあった夜を一瞬にして白昼のように変え、そのほんの短い間、木々の揺れている向こうに、脇へ手を当てながら一生懸命に逃げていく男の姿が現れた。
 そこかっ
 次の瞬間、闇が再び戻ってきた。葉艶は方向を定めるとすぐに走っていった。後ろから、前よりも重い巨雷の音が追ってくる。
 男はかなりの傷を負い、手当てをする暇もなく逃げ出したので、走るたびに血が流れた。葉艶は二、三町と行かないうちにすぐに追いついた。
 「止まれ!」
 葉艶は自分の声の大きさに驚いた。
 男は立ち止まってこちらを振り向いた。互いに顔を見分けることができないが、暗がりの中で二人はしばらく睨みあった。
 その時、また一つ稲妻が光り、男の姿は光りの中に揺らいだ。覆面の布がすでに剥がれ落ち、大きな目に垢抜けた顔のする立派な容貌の若者である。
光りが収まると、前よりも一層暗くなったようで、上空の雲の反射で辛うじて互いの位置が分かるくらいだ。
 「あれ、師兄!戻ってきたのか!」
 男は突然葉艶の後ろを指差して叫んだ。
 葉艶は驚いて後ろに向き、剣を構えたが、暗闇の中に何も見えなかった。
 騙された――
 と気が付いて振り向いた時、男はすでに先へ逃げていった。
 「止まれ!」
 葉艶は怒鳴(どな)りながら走り出してすぐにまた追いついた。
 「危ない!」
 男はまた後ろを指した。まるでとんでもなく恐ろしいものでも見たようだ。葉艶は思わずその方を見ると、やはり何もなかった。
 葉艶は二度も騙されて怒りを覚えてきた。この男の言うことを決して信じないと心を決めたが、ついつい男の迫真な演技に惑わされてずるずると逃げられていった。
 二人はそうやっておよそ小半時ほど追っかけっこをしたが、ぱらぱらと雨の音が聞こえたかと思うと、ざぁと土砂降りとなった。
 男もだんだんこの手が利かなくなったと悟って、今度は手当たり次第に小石や枝を拾うと、葉艶を目当てに投げては逃げ、投げては逃げていく。負傷したとはいえ、内気が込められたもので、一つでも当たれば大事になる。葉艶はいちいち慎重にこれを避けながら、根気良く追っていく。彼女は心の中でいつの間にか勝負心を起こし、どうしてもこの憎たらしい男を捕まえてやろうと意地を張った。
 二人は林の中を前後にして走っていく。突然目の前が開け、砂浜の先に、暗い海が見えてきた。
 逃げ道を失ったが男はなおも海岸を沿って走り続ける。遮るものもなくなったので、雨はいよいよ激しくなり、容赦なく体を叩きつけた。海面は沸騰したように、無数の泡が跳ね上がっている。数丈先の暗い浪の上に、一隻の小舟が釘に繋がれて上下しているのが見えた。
 男は迷わず乗り込んで綱を切った。舟はたちまち糸の切れた凧のように、荒い波の間に流されていった。
 続いて駆けつけた葉艶は地団駄を踏んで舟の上の男を睨んだ。見渡すと、砂浜の奥にもう一隻の舟が横たわっているのが目に入った。彼女は考えもせずそれを海のほうへ引きずり出して上に乗り込んだが、男の舟はもう見えない。それでも彼女は舟をこぎながら目で一生懸命に海を探した。
 海岸がだんだん遠ざかり、雨が激しく降り注ぎ、海と空は見分けられないほど一つになっている。服がびっしょり濡れて腕を上げるのも重たい。浪に揺られて、すべてのものが絶えず上下しており気分が悪くなってきた。そんななかに、遠くのほうに一つ動かないものがかすかに見えてきた。
 近づくと、それが一つの島だと分かった。雁蕩山は海に近い、ふだん山の上からでも小さな島々が一望できる。今、葉艶は自分がその中のどれかに流されてきたと分かった。昨日まで山の上でのんきに過ごしていた自分はこんな目に遭うとは想像だにしなかった。そう思うと、葉艶はかすかに後悔の念に駆られた。
 と、その時、彼女は島の海岸に一隻の小舟を認めて胸が躍った。
 男もこの島に流されている――
 葉艶はなんとか舟を島に近づけ、ひと躍りすると陸にあがった。見ると、舟の中に人はいない。彼女は剣を握り締めて警戒しながら島の中へ入っていった。
 林の中をほどなく走ると、反対側の海岸へ出た。島は思っていたより小さかった。男はここに居るとすれば、簡単にみつかるだろうと彼女は思った。
 雨はしつこく降り続け、葉艶は思わず身震いをして寒さを覚え始めた。一本の大木の元に身を寄せてしばらくここにて休むことにした。
 夜中になって雨はようやく上がった。梢の間から綺麗な星空が覗かれている。雨が去るとともに、緊張感も薄らいできた。葉艶は剣を抱いて、寒い中でいつのまにか眠りについた。
 ぼたん――
 冷たい雨水が首に落ちて、葉艶はハッと目を覚ました。
 あたりはすっかり明けて、鳥々がやかましく囀り合っている。手足がこわばっていてしばらく思うように動かない。葉艶は気をめぐらしてしばらく体を温めてから、歩き出した。
 少し歩くと、昨日自分が男を追ってここへ漂流してきたことなどことを一々思い出した。そこで再び警戒心を取り戻してあたりを探し出した。
 海岸に出てみると、昨夜と打って変わったように晴れ渡り、海は静かに朝を迎えている。
 「そういえば自分は昨日どのほうからやってきたのだろうか」
 葉艶は青い海を眺めながら考えた。
 と、彼女は急に何かを思い出して海岸をせわしく見渡した。それから、ものに取り付かれたように海岸に沿って走り出した。
 どれくらい走ったことか。島を一周してまた一周した。葉艶は走り疲れてようやく立ち止まった。そして一つの事実を受け入れなければならなくなった。
 舟は流された――
 葉艶は砂浜に両手を突いて伏せた。服がまだ濡れており、重たくて冷たい。その上に空腹感が襲ってきて泣く気力も出ない。とりあえず何か食べ物を探そう。
 彼女は体を引きずりながら一時(いっとき)ほど森の中をさまよった。見つけたのは、半熟した青い林檎二個と茸二、三枚だけだった。茸は食えるかどうかも怪しいから、とりあえず林檎をかじってみた。
 酸っぱくて硬い。
 それでも我慢して無理矢理に呑みこんだが、腹部が痙攣したように動いたかと思うと、すぐに胸からこみ上げられて、わぁと吐き出した。
 吐きに吐いてもうこれ以上口から何も出なくなるようになってから、今度は体を地面に打ち臥してわあわあ泣き出した。
 何故自分はこんな目に遭わねばならないのか。このまま無事に雁蕩山に戻れるだろうか。昨夜から積もってきた悔しさ、挫折感、さまざまなことが一度に湧き上がり、彼女はいじめられたような気持ちになった。
 昼頃になると、日が中天に昇り、暖かい日差しを落とした。葉艶は衣服を脱ぎ枝に掛けて干した。その間に足を組んで、運気調息を始めた。
 気をゆっくりと全身にめぐらし、何回か繰り返すとだいぶ温まってきた。そのうち服もすっかり乾き、着替えると気分も少し良くなってきた。
 だが、相変わらず空腹感に苛まれている。
 葉艶は気を取り直して再び島の探索へ出かけた。夕方頃になって新たにいろんな果物を集めることができ、さらに山の崩れた断面に一つの洞窟を発見した。中に入って見ると、意外と広い。湿気がこもっているが、彼女はひとまずここに身を寄せることに決めた。
 その夜、暗い洞窟の中で、葉艶はただ一人で過ごした。外に獣の吠え声を聞きながらろくに眠れなかった。
 師父や師姐妹らは今頃何をしているだろうか。自分のことを心配し、あちこち探しているのかもしれない。そう考えると葉艶はなんとなく希みが沸いてきた。
 が、もし見つからなくて自分を死んだものと思われはしないか。或いは勝手に羞鶯笛から抜け出し、どこかへ逃げていった裏切り者だと思われはしないだろうか――
 そうやって彼女は一喜一憂のうちに一晩を過ごした。
 再び目が覚めた時に、すでに日もだいぶ昇っていると見え、洞窟の入り口が眩しく映った。二日間というもの、ろくにものも口に出来なかった彼女は、疲れ果てているせいか長い間眠り込んでいたようだ。
 手足を上げる気力もない。このままもうちょっと休もうかと思ったが、いや、なんとか手を打たないと飢え死してしまう、と、また無理やり気を取り戻そうとした。
 しかし、一体どうすれば良いのか――
 そのとき、葉艶は外のけたたましい声に気づいた。よく聞くと、数匹の獣のようで、しかもかなり洞窟の近くに来ているようだ。
 背中に寒さが走った――
 人間の匂いに気づいて寄ってきたのか。獣に食われるより、飢え死にするのはまだましだ。彼女は力を振り絞って、剣を杖代わりに体を支えながら、ふらふらした足で入り口へ近づいていった。
 やがて入り口から二、三丈さきに、二匹の狼が見えた。二匹とも頭を揃って一本の木に向かってしきり吠え立てている。
 体何があるだろう――
 葉艶は静かに、もうすこし体を近づかせてみた。そしてハッと息を呑んだ。
 そこには、一人の人間がぐったりした姿で幹に靠れている。
 全身黒い服に包まれ、髪が乱れている。片手に剣を握り、もう片手はわき腹を押さえている。紛れもなく、自分が追っていた男である。
 二匹の狼は前かがみにして今にも飛びつかんばかりに隙をうかがっている。だが、男の剣に憚り、なかなかその体に触れることは出来ないでいらいらしているようだ。
 突然いっぴきが襲い掛かった。男は力なく剣を挙げて追い返したが、もう一匹がすかさずにその足へ噛み付いた。
 ウゥ……
 男は低くうなった。だが、もはや体を動かす気力は残っていない。
 葉艶はその光景を目にして息が詰まった。やがて獣が人間の体の上で行われることを想像すると、胸が急に絞められるように感じた。彼女は思わず剣に手を掛けた――
 ――気がつくときに、自分は男の前に立っている。一匹の狼は喉が斬られ、体をびくびくしながら二人の間に横たわっている。もう一匹は足が切られ、はぁはぁ言いながらかろうじて逃げ出していった。
 葉艶は死んだ狼と男をかわるがわるに見て、どうすべきか迷った。
 なぜ彼を助けたのか自分でも分からなかった――
 「ご、誤解しないでよ……た、たすけたわけじゃないんだから……わたしはただ……」
 「おい、君……」
 男は力のない声で呼んだ。
 「狼の肉は、うまいと思うか。」
 男は疲れた声で言った。目元だけ、かすかに悪戯のように笑っている。
 葉艶は男の顔を見ながら、どういう意味か判じかねた。やがて口元に了解したような笑いが浮かんだ。
 その夜、洞窟の中で、二人は焚き火を囲んで焼いた狼の肉をほお張った。
 葉艶はさいしょ警戒していたが、男を洞窟へ運ぼうとその腕を自分の肩へかけたとたん、もはやこの人は指を握る気力すら残っていないのを感じてやや安心してきた。
 傷はそれほど深くなく、雨に濡れた上、ろくに休めなかったため、肉が腐り、腫れ上がっている。葉艶は簡単に手当てしてやり、自分が殺した狼を捌いて火に焼いた。それは決してうまい料理とは言えないが、三日間ものを口にしていない二人にとってはこの上もないご馳走だった。
 師姐は私に、この男を見張れと命じた。殺そうなどとは言っていない――
 葉艶は食べながらそう自分に言い訳をした。
 男は肉を腹に入れてから、何も言わずに身体を横にすると火の傍で寝込んだ。今、焚き火を隔てて葉艶は遠慮なくその顔を眺めることが出来た。
 肌がやや黒く、口元にまだ子供のような跡が残っている。鼻すじがまっすぐ通っており、濃い眉毛の下に無心に眠っている目は閉じられている。髪が乱れて邪魔そうに顔へ垂れかかっている。その髪を直してやろうと思って近づこうとした自分に気づいて、葉艶は急に手をひっこめて一人で恥かしくなった。
 三日間のあいだ追いつづけていたこの男が、今こうして自分の目の前で子供のように眠っている。なんだか馬鹿げた気がしてきた。葉艶は心の中で自分を責めた。
 しかし、彼女が自分を責める理由はどこにあろう。三日という間、一人で孤島の中でさまよい、ようやく出会った人間に――たとえそれが敵であろうと――心強く感じたのも、自分と変わらぬ年頃の、まだ子供気が抜け切らない人間に近親間を感じたのも、そのいずれも自然なことではないか。その上に、男は負傷している。瀕死する人間を介護している間、彼女は母性本能が呼び覚まされた。それは死に掛かっている小動物を助けるのとさほど変わらないことであろう。
 火の前で葉艶は両手で膝を抱きながら、自分の運命がこれからどうなっていくだろうかと考えた。
 翌日――
 目が覚めると葉艶はさっそく野菜の採集に出かけた。戻ってくるとき、男は消えた焚き火の前に坐って残りの狼肉を食っているところだった。
 入ってくる葉艶の姿を見ると、男は袖で口元の油を拭いて食べやめた。二人はしばらくにらみ合った。
 男はさいしょに笑いかけた。だが、葉艶はそれを無視して中に入り、無表情で野菜を包む風呂敷を解いた。一方、顔とは裏腹に、胸はどきまきしている。ますます自分のやっていることの矛盾に気づいてきた。
 葉艶に振られて男も覚めてきたようで、身を引いた。壁へ寄りかかり、足を組んで一人で傷の回復を始めた。その容子は少しも葉艶を警戒していないようだ。
 男はどういう気功法を使っているか分からないが、黄雁との戦いを見た限りでは、高が知れている。一時ほどやってから、男はまた伏せて眠り込んだ。すっかり安心しきった容子でそのまま夜中まで起きなかった。
 葉艶は再び火を起こして男と反対側の壁に背をもたせて休んだ。男の徐々に回復してくる様を見て、喜びと不安とが混じりながら彼女の胸の中を去来している。男は長い間寝ている。いつ起きるかわからない。自分は一体いつまで見張っていなければならないのか。
 火の焔を眺めながら、葉艶はうとうとしはじめた――
 顔の近くに気配を感じて葉艶はパッと目を開けた。男の顔が目の前にあって、自分を覗き込んでいる。
 葉艶は「あっ!」と声を上げてあわてて後ろへ身を引いた。
 「何をする!」
 「良い顔しとるな、君。」
 男はさも感心するように笑いながら言った。葉艶は剣を握り締めた。
 「ほらよ、これを食べな。」
 男は懐から何か取り出して転がしてきた。見ると、赤い林檎と柿である。それから後ろを指差して言った。
 「今日はウサギだぜ。」
 警戒していたつもりだが、いつの間にか眠り込んだ。その間に男は起き上がって出かけてきたらしい。
 男は昨日より大分回復したようで、せっせと働いた。手馴れた手つきで兔を捌き、火をおこし、塩の代わりに海水を少しかけてこれを焼いた。
 葉艶は林檎を拾い上げて眺めた。見るにも旨そうな色をしている。
 自分を殺そうと思えば十分できるはずだった。やはりこんな島に閉じ込められた以上、男も自分を必要と考えているだろう。そう思うと、葉艶はほっとしてきて林檎をかじった。
 甘い汁が胸の中に流れ込んだ――
 男はだいぶ野宿の経験があるようで、まもなく兔を焼き上げた。二人は分けてこれを食べた。葉艶の焼いた狼の肉と比べれば、これはずっと旨かった。二人は食べている間だんだん心も解けていろいろ話すようになった。
 男の名は鶴勁武と言い、越龍幇に入ってまもない下っ端の者である。それまではいろんな処を歩き回り、働いて飯代を稼いでいたが、先日いっしょに人家を襲った男と知り合い、二人で越龍幇に身を寄せるようになった。
 村長を襲った事件に触れて葉艶は顔をしかめた。
 「いくらなんでも人を殺すのは良くない。」
 「そうだとも。」
 男はすぐに相槌を打った。
 「俺もああまでやりたくなかったが、兄貴は顔が見られたからまずいと言って殺(や)っちまったんだ。俺は止められなくて悪かった。」
 鶴勁武はさも後悔するような表情を浮かべて言った。
 「そもそも越龍幇は悪いところです。なぜそんなところに入ったの?師匠のお話によれば……」
 「もうこんな話はやめようじゃないか。ここに閉じ込められてりゃ、越龍幇も何もあったもんじゃない。下手すると一生出られなくて二人ともこのまま、じじい、ばばあになっちまうかもしれないぜ。」
 葉艶は怒った目で鶴勁武を睨みつけて、思わず顔を赤くした。
 しかし考えてみれば、鶴勁武の言うことも本当かもしれない。三、四日経って島に舟一つも寄ってこない。自分は広々とした空と海の真ん中に、人間界と完全に隔離されている。今、幇派間の対立を論じても意味がない。よりによって敵の者と一蓮托生になっているのだから、そんなことをやかましく言っては身の為にもならない。
 その日から、二人は仕事を分担して、なんとかその日その日の食料にありつけた。そして、夜になると火を囲みながらいろんなことを話し合った。
 鶴勁武は若いながら江湖をさまざまな処でいろんなことを経験した。彼は危険なことから、おかしなことまでいちいち取り上げ、葉艶に言って聞かせた。幼い頃から羞鶯笛で育った葉艶にとって、それのどれも珍しくて面白かった。
 日が傾けて夜になり、夜が過ぎてまた昼になる。名もない孤島の上で何日過ごしたことか。二人の剣は狩りする以外に抜かれることなく、二人の呼び名もいつの間にか、「武哥」、「艶妹」に変わった。
 ただ一つだけ困ることがあった。――飲む水である。
 海水は飲めないから、葉艶は朝晩に出来た露を集めてきてなんとか凌いだが、到底足りない。二人は互いに言わないが、それが悩みの中心だった。
 ある日、外から戻ってきた葉艶は、鶴勁武が洞窟の前に立って何か熱心に見ているのに気づいた。葉艶は驚かしてやろうと悪戯心を起こしてそっと近づいていった。
 「艶妹、これを見てくれ。」
 鶴勁武は近づいてくる葉艶に振り向きもせずに言った。
 言われる処を見ると、そこは洞窟入り口の横の断面だった。山から流れてくる水に洗われて、断面にいく筋も変色しており、その上を蔦が縦横に這っている。
 「雨が上がってだいぶ経っているのに、ここの水はまだ止まらない……この上に行ってみよう。」
 言われると、葉艶もはっと思った。心に希望が湧いて鶴勁武について登っていった。
 ほどなく頂上に登りきり、思ったとおり草に覆われる下に、小さな池が見えた。水はここから流れてくるものに違いない。すくって飲んでみると、甘くて美味しい。二人は手を取り合って喜んで、思う存分に飲んで帰った。
 鶴勁武は年が若く、体質が良い。日一日回復していった。葉艶も彼の傷が直っていくのを見てうれしく思った。二人は同じ洞窟の中で数日過ごし、口で言わずとも、心は互いに引き寄せられていった。
 或る夜、食事を済ましたあと、葉艶は鶴勁武の傷を見てやった。腫れるところも消えて傷はすっかり治まっている。そっと指で傷跡を撫でてやり、「まだ痛むのですか。」と聞いた。
 鶴勁武は答えず、いきなり彼女の手首を掴んだ。
 葉艶はびっくりして手を抜き取ろうとするが、身体が男の胸に引き寄せられてゆき、両腕でしっかり抱きしめられてしまった。頭の中は真っ白になり、叫ぼうにも声が出ない。
 男の胸の肉を頬で感じながら、驚くやら恥ずかしいやらで一所懸命にもがいたが、もがけばもがくほどますます抜けられなくなった。そんな中で、男の手が自分襟元から忍び込んでくるのを感じてあわてて力を絞り出してそれを止めた。
 「艶妹、俺のこと嫌いか。」
 鶴勁武は真剣な顔で言った。
 「いいえ……」
 葉艶は恥ずかしさで目も合わせられない。
 鶴勁武はまた顔を寄せてきた。額だの、頬だの耳だの唇だの、処かまわずに自分の口をつけていく。男の荒い息を肌に感じながら、葉艶は全身の力が抜けていくように感じた。熱くて逆らえない力に包まれて溶けそうになり、もう何もかも任せてしまおうと思ったが、それでもなんとか両手で男の顔を突き放した。
 「武哥……貴方のことを嫌っているわけではございません。今、妾(わたし)にはもう貴方しか居ません……」
 葉艶は乱れた服を合わせながら言った。
 「ただ……」
 「ただ、なんだ。」
 「ただ、羞鶯笛の弟子は、相手を選ぶとき、師匠を通さねばならぬと決められているので。」
 それを聞いて、鶴勁武は急に心が冷めたように身を離した。
 「ふん、艶妹、俺が越龍幇の人間だってことを、忘れたわけじゃあるまいな。こんな人は、お前の師匠が許してくれると思うか。」
 葉艶も当然それが分かっている。鶴勁武にあらためて言われると悲しくなった。
 「武哥、妾は貴方がどの門派の人でもかまいません。もし師匠のお許しが出なければ……そのときは……そのときは!」
 葉艶は喉にでかかった言葉をどうしても言えなかった。鶴勁武は彼女の肩に両手をかけて目を輝かせた。
 「艶妹!そのときは、俺と一緒に行こう。越龍幇がいやなら、どっか遠いとこへ行こう。二人で、なあ!俺は良いところたくさん知ってるよ。」
 葉艶はうれしくて湧き上がってくる涙を隠すように男の胸に自分の顔を埋めた。
 焔が燃え続け、洞窟の外は静かに眠っている。夜の花は露をたっぷり含んで、今にも開こうとしている。蜜を求める虫が開くばかりの蕾に入り込む。花は震え、森が戦慄し、そして再び静かになり、すべてが調和になった。

 君がため惜しからざりし命さえ
 長くもがなと思ひけるかな――

 二人の思いがぴったり合う時に、希望の炎が燃えてくる。葉艶に追われて孤島に逃げ込んだ鶴勁武は、剣傷と疲労で半死状態になったとき、ほとんど何もかも諦め切って、このまま死んでしまおうと思ったが、今では、女と長く生きていこうとどうしてもここから出て行かなければならないと決めた。翌日になって彼はただちに舟造りに取りかかった。
 いっぽう葉艶には自分の思惑があった。
 鶴勁武に心を打ち明けると、心もだいぶ軽くなった。二人だけでどこか誰も知らぬ土地でいっしょに居られるなら、それは何よりも幸せなことだが、この島を出て人間界に戻ることにはなんとなく不安を感じた。それに、もし師匠に断られるときには、自分は本当に羞鶯笛を見捨てることができるかどうかも自信が持てない。
 島では不便が多いが、いちおう必要最低限なものは備わっている。今の彼女にとって誰にも知られない、鶴勁武と二人だけの世界といえば、この島はいちばん良いのかもしれない。
 ここでなら、師匠のことやら、門派の利害関係など一切考えずに済む――
 葉艶は舟造りを手伝いながら、一方では一日も長くこの島に留まりたいと思った。
 丸木を切り取って縄で縛り、平方一丈ほどの筏(いかだ)が出来上がると、鶴勁武はもうこれで海を渡ろうと言い出したが、葉艶は途中壊れたら大変なのでもっと頑丈にしようと言った。それも出来ると、今度は縁も付けておこうと要求した。
 自分の思いと裏腹に、舟はいよいよ出来上がってきた。葉艶もだんだん心が重くなってきた。
 この日、薄い雲が空いちめんを覆い、そよ風に吹かれて快かった。外で舟造りを続けている鶴勁武は突然洞窟に飛び込んできて葉艶を呼んだ。
 「艶妹!舟だ、舟が来たぞ!」
 葉艶はきょとんとした顔で鶴勁武に手を引っ張られて外へ出た。見ると、確かに、遠い沖に黒い点が一つこっちへ向かって来ているのである。
 鶴勁武は息をするのも忘れたように、熱心に近づいてくる船を見つめた。突然狂喜に飛び上がって、叫び出した。
 「越龍幇の船だ!艶妹、師兄が助けに来てくれたぞ!おーい、おーい!」
 鶴勁武は海に向かって走り出し、両手を振りながら一生懸命に船を呼んだ。
 「武哥、待って……」
 葉艶は走って行く鶴勁武を見て、胸が大きな手に絞められていくように感じた。大事なものを失うような予感に焦りだした。
 (お前らは覚えるがいい。邪はいつまでも邪である。)
 葉艶の耳元に、突然こんな声が聞こえた。
 師匠の声だ。葉艶は思わず追っていこうとする足を止めた――
 (邪派の人間は狼の如く、永遠に変わることはない。)
 師匠の声は次々と蘇ってくる。
 「武哥。戻っておいで……」
 しかし、葉艶の声はもはや鶴勁武の耳に届かない。
 (いったん邪道の者と関係すれば、一生恥と思え!)
 「鶴、鶴勁武、今すぐ戻ってきなさい!」
 (狼の如く、永遠に……)
 「聞こえぬか!止まれ!」
 (いつもでも邪であり……)
 「止まれ!止まれ、止まれ……」
 葉艶の声はだんだん冷たくなってきた。身体は師匠の一語一語に支配されていった。
 彼女は目の前に行われる出来事を夢の中に見るように感じた――
 鶴勁武は海岸に立って躍らんばかりに、海に向かって手を振っている。その背中は急に近づいたかと思うと、ぴたりと動きを止めた。一本の剣が背中から刺し込み、胸の前から突き通している。さらに驚くことに、その剣の柄は自分の手に握られている――
 鶴勁武はゆっくりと葉艶の腕の中へ倒れて、信じられないような目で彼女を見上げて、口を苦しそうに動かしている。
 「艶妹、何故だ、何故……」
 葉艶は鶴勁武を抱きながら、これもやはり信じられないように呆然としている。鶴勁武の口から真っ赤な血がぐんぐん流れ出て、首を傾けると、もう動かなくなった。
 「武哥……武哥!」
 葉艶はいくら呼んでも返事がない。つい昨日まで二人だけで暮らしていこうと誓い合ったこの人、何故急に倒れるのか。何故返事をしてくれないのか、何故血を吐き出している……
 突然、葉艶は天を仰ぎて、あぁーと叫び出した。狂ったように鶴勁武の身体を揺すり、悲しみ悔しさが一つになって胸が裂けんばかりになって、両手で自分の胸元の服をずたずたに引き裂いた。
 その時、越龍幇の船はかなり近くまで来ていた。海岸で行われたことをはっきりと目撃した。船に乗っているのは、先日村長家を襲った、鶴勁武の師兄、呂義という者であった。鶴勁武とは昔からの義理の兄弟でもあり、あの日、運良く黄雁から逃れて盗んだものを越龍幇に持ち帰った。二三日待っても義弟が戻って来ないので心配になり、幇主の薜雷に捜索を申し出たが、薜雷は功利的な人で、大事なものが手に入ればもう用はないというふうに受け入れなかった。まして鶴勁武のような下っ端の者などに人足を使いたくなかった。それでも呂義の再三の願いに負けて、ようやく少人数を分配してやった。
 一帯は羞鶯笛の縄張りなので、一同は余計なことを起こさずに慎重に探した。十日ほど経っても見つからないので、部下からそろそろ引き上げようという声があがった。鶴勁武は殺されたと言う者も居れば、羞鶯笛に捕まったと言う者も居た。もともと江湖で浮浪していた人間なので、どこかへ逃げたろうという意見もあった。しかし、呂義はなおも諦めきれず、殺されるならその死体でも見つけたいと、今度は船を狩り出して近くの海へ出かけた。
 このように運良く鶴勁武と葉艶の居る島へやってきたわけだが、ようやく再会できた義弟は、自分の目の前で殺されるのを見ていながら、どうすることもできなかった。
 陸に上がると、呂義は葉艶を捉えてその場で殺してやろうとした。部下らはなんとか彼を止めて、詳しい事情も知らないので、とりあえず越龍幇に連れ戻って幇主の指示を伺おうと勧めた。
 葉艶の手から鶴勁武の死体を離すことは容易ではなかった。船に乗せられたときから、越龍幇に辿り着いた日まで、道々葉艶の泣き声が聞こえないときはなかった。鶴勁武を殺した張本人は誰よりも鶴勁武のために悲しんでいるのだから、呂義の一行は誰もが彼女を不思議に思った。
 越龍幇では、呂義一同は幇主薜雷の指示を待った。ところが薜雷は彼等の話を聞き終わって一案が生じ、まずは葉艶を厳しく監禁し、翌日彼女を連れて自ら雁蕩山へ向かった。
 薜雷は柳尚雲に会い事情を説明し、葉艶を恭しく返した。その際、幇の弟子が殺される一件にも触れたが、「でもまぁ、そちらの綺麗なお嬢さんは何事もなく戻られて、何よりと存じます。」と軽く流した。
 薜雷の話を聞いているうちに、柳尚雲はだんだん怒りをこみ上げてきた。
 葉艶と越龍幇の弟子が二人きりで島に一月近く過ごし、その間に何があったか葉艶に聞かないと分からない。薜雷の狙いは言わずとも察せる。葉艶を返したのは羞鶯笛の恥をさらすだけでなく、自分らが相手の弟子を殺したのだから、これから両派は仲良くならぬとも、羞鶯笛は越龍幇に対して引け目を感じるようになる。
 しかし、柳尚雲は生来人付き合いの嫌いな性格で、まして邪派に感謝するなど首が刎ねられてもできないことである。葉艶を受け取るとすぐに薜雷ら越龍幇の者を追い返した。
 一方、葉艶は羞鶯笛に戻ってからも泣きつづけ、一時も涙を止めることはなかった。師匠や師姐妹らはいくら慰めても、問い詰めても、その口から言葉一つ聞き出すことは出来なかった。彼女は三日三晩泣き通し、とうとう涙も枯れてしまった。
 柳斬情は葉艶がいったい何が悲しくて泣いているか、詳しい事情が知らなくとも、芳しくないことだと感じた。しかし話せるようになるまで待つしかなかった。一週の間、葉艶の部屋に運ばれる食事は手を付けられることなく下げられてくる。その部屋を監視する弟子らは昼夜かまわずに、人とも獣ともつかぬような唸り声を耳にして過ごした。
 五日目になって、葉艶は監禁部屋から逃れ出したとの報告が柳尚雲のところに届いた。柳はついに葉艶の口から事情を聞くことが出来ずに、悔しく思った。直ちに羞鶯笛弟子全員を集めて、葉艶は羞鶯笛の裏切者とみなし、今日から追放すると宣告した。
 柳尚雲は生来名誉を命よりも重んじている人なので、羞鶯笛を持つようになってから一層甚だしくなった。江湖の各派とかかわらないと称しながら実は江湖の世間体を非常に気にしている。葉艶がこの世で一日生きていれば、自分は一日武林の者たちに笑われる。そう思うと、ますます葉艶を憎むようになった。そんな師匠の性格も熟知しているので、弟子たちはしばらく近寄らないように用心していた。
 人はちょっとした悲しみでは、他人と分かち合い、慰めてもらいたく思う。それは喜びを分かち合うのと同じ次元のものである。しかし本当に絶望のどん底に陥るように悲しむ時には、自分以外の世界はすべて閉ざされ、どんな人も必要と思わない。まして鶴勁武に死なれた葉艶にとっては、人生の中心を失うようなもので、鶴勁武が再び生き返られぬ以上、彼女も救われることは出来まい。
 葉艶は羞鶯笛から逃げ出したところでどうなることもなく、どこへ行く当てもない。また、その行為は師匠や師姐妹ら、及び自分がそれまで信じていた主義に反しているなども、考えていなかった。
 生きるにしても死ぬにしても、彼女はただ静かなところに行って、一人で居たかった。彼女は無我夢中に雁蕩山から降り、森から森へ、町から町へ、夢遊病者のようにただひたすら歩いた。目に浮かぶものは、剣に刺された鶴勁武の姿であり、耳に聞こえるのは、「何故だ、何故……」という鶴勁武の最後の言葉のみ。
 服が汚れた上に破れている。島を出たあれ以来、食わず飲まずに泣きとおしたわけだから、顔がげっそり痩せて、通り過ぎる人は彼女を気違いと思わぬ者はなかった。それでも中では物好きが居ると見えて、葉艶の容貌に目をつけ、近寄ってくれば一剣のもとに斬られる。
 運良く逃れる者も居れば、避け損なって命を失った者も居る。葉艶はこれまで身体に備わる嫌悪感から無意識にそれらの無頼漢を斬りつけたが、死体を見るといつも鶴勁武が浮かんできて、それら知らない者の死体の上に伏せて一通り泣いてはまた先へ進む。
 そのような彼女の姿を目にして、ますます近寄る者は居なかった。殺される者が多くなるにつて、葉艶の心もだんだん冷たくなってきた。好色男どころか、こちらを見ただけでも、誰それかまわず剣を抜いた。
 どれくらい歩いたことか、いよいよ町も消え、森も消え、広々としたところへ出た。葉艶はとうとう力が尽き果てて倒れてしまった。
 彼女は今、この天地の間にたった自分ひとりしかいないと感じた。自分は柳尚雲に拾われた孤児である。生れた土地も、自分の親も知らない。葉艶はここが自分の目指していた土地だと思った。自分はこのまま静かに死んでいくのだ。誰にも知られずに。
 「武哥、まっていらしゃい……」
 死ぬ前に彼女はそう口の中で呟いた。朦朧とした中に、遠くの地平線の上に、一隊の人馬が向かってきているようだ。葉艶はそれらが自分を迎えに来てくれる、あの世の使者だと思って静かに目を閉じた……

『武当風雲録』第二章、一、孤島

『武当風雲録』第二章、一、孤島

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-02-21

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