「明けない夜」

          (1)

「ずっと容子の匂いを嗅いでいたい」

寛(ひろし)は、その匂いだけが残こされたベッドで、容子に言った

言葉を思い出しながら胎児のように丸まって彼女の追憶に浸ってい

た。容子と別れれてほぼ一月が経った。今となっては追憶の中でし

か彼女に会えなかったが、それでも彼女の居ない今を忘れさせてく

れた。

 寛は、容子と大学のゼミで出会った。彼はそれまで専攻を変更し

たりして留年を繰り返したので彼女より年は2コ上だったが、彼女

は二人姉妹の次女で現実的で、傍目にも二人の年の差はまったく感

じられなかったし、それどころか口論になればいつも寛の方が鼻白

んでしまい、彼女の鼻を明かすことができなかった。やがて就活の

時期を迎えると、就職氷河期と言われて久しい時代だったが、それ

でも容子はあっさり大手スーパーの採用内定を得たが、いったい自

分が何をしたいのかさえ定まらない寛は、仕方なく卒業後の生活の

糧を得るためと、何よりも容子を安心させてこれからもずっと一緒

に居たいという思いから、進まぬ気持ちを無理やり就職という進路

へ追いやったが、まるでその思いを見透かしているかのようにこと

ごとく面接で落とされた。それは進路の選択というより迷路の選択

だった。そして、

「何だ、社会とはそういうことで成り立っているのか」

と、つまり組織に従属しない者は社会で生きていけないことを改め

て知らされた。もちろん、これまでにも書店でのアルバイトや深夜

のコンビニでのレジ係、また、いわゆる「マックジョブ」と呼ばれ

る仕事も経験してきたが、それらは地方出身の彼が東京で糊口を凌

ぐためのもので自らの本分ではなかった。つまり、彼の家庭は彼が

学生としての本分を修めさせるために援助できるほどの経済的余裕

はなかった。

 迷路から抜け出せないまま四回生になって、卒論に追われてそれ

に没頭しているうちに、ところで彼の卒論のテーマは「マルクス『

資本論』への生物学的批判」というものだったが、それは、そもそ

も彼は経済学部専攻で入学したのだったが、マルクスが云うところ

の余剰価値は労働者の搾取によってたらされるという考えに生物学

的視点から違和感を覚え、つまり、すべての生命体は増殖、即ち剰

余価値を生むために生存しているではないか。そして、資本の生産

過程が細胞の分裂増殖過程と類似していることに着目して、逡巡の

末に生物学部に専攻を変えて再入学し直して、とくに生命体を形成

する細胞が分裂増殖するしくみを解明しなければ資本主義の本質は

見えてこないと思ったからで、たとえば、細胞はやがて成体を形成

すると増殖を制御して安定するのだが、ところが資本主義は生産さ

れた剰余価値を資本に蓄積して制御なき増殖を繰り返す。それは生

物学的に見れば明らかに偏った姿であって、制御できない細胞の増

殖とは細胞のガン化であり、成体を志向できない資本主義はやがて

破たんするにちがいないと思ったからだ。ただ彼は、自分の研究課

題がいまや全盛の万能細胞の研究からかけ離れていることから教授

陣に疎んじられ、再び文学部へ再転部して容子と知り合った。

 そうだ、容子との関係を説明するつもりだったが話が逸れてしま

った。いずれ機会をつくって寛の考えを詳しく述べたいと思うが、

こんなふうにして寛は卒論に取り組んでいる間は容子のことは最小

化してタスクバーの片隅に追いやった。一方、容子は社会心理学の

ゼミも掛け持ちして、分けても消費者心理に興味を持ち、もちろん

それは就職に有利になると思ったからで、希望していた大手スーパ

ーに履歴書とともに学習の成果をレポートにして提出すると、すぐ

に担当者から直接デンワが掛ってきて称賛され、間もなく内定をも

らった。もっとも、それらは先進国であるアメリカの研究論文を翻

訳した文献からのパクリがほとんどで、他人の引用文を自分の言葉

で繋いだだけのレポートだった。そして、卒論さえもそのレポート

を拡大して焼き増しただけの使い回しでひと月も費やさずに書き終

えて提出した。進路も決まって後は学生生活最後の青春を思いっ切

り楽しみたいと思っている容子にとって、いつまで経っても迷路か

ら抜け出せずに、昨日認めた文章を今日は否定する思索に耽る夜々

を送る寛が次第に頼りなく思えてきた。じっさい寛は容子の何でも

ない買い物の誘いさえも断った。暗闇に慣れた寛の眼に容子の居る

光あふれる世界は眩しすぎて、自分を失いたくなかった。

「いまは女の時代だから」

寛のことばを容子は黙って聴いた。

「就職にしたって女性はいずれ辞めてくれるから採り易いんだよ」

「そうかもしれないね」

容子は、寛のことばを聴いてやることが彼の慰めになると思った。

しかし、傷つけないように気遣い、自分の思いを打ち明けられない

相手から気持ちは冷めていった。たぶん、思っていることを言って

口論したほうが後腐れがなかったかもしれない。

「ずっと容子の匂いを嗅いでいたい」

ベッドで寛が容子にそう囁くと、容子は、

「じゃあ、眼をつぶって」

寛が言われた通りそうすると、容子は寛の鼻を舐めた。

「何、これ?」

「わたしの匂いするでしょ」

「うっ、臭い!」

 その日を最後に容子はもう寛の部屋に来ることはなかった。

寛が書き直して卒論を提出したのは年が改まった期限ぎりぎりだっ

た。

 就職できない寛を落ち込ませたのは、容子への思い以上に、親父

と離婚してから女手ひとつで大学まで行かせてくれた母を安堵させ

ることが出来ないことだった。それまでにも母に勧められて地元の

会社の入社ガイダンスにも眼を通したが、容子の居る東京を離れて

母と一緒に暮らす決心がつかなかった。容子の居る華やかな東京は

母の居る肩身の狭い地元ととは比べものにならなかった。夢の中で、

足を滑らせて断崖に落ちた自分を崖上から容子と母親が手を伸ばし

て叫んでいたが、ところがいくら踏ん張っても足元が滑って、まる

で蟻地獄に落ちた蟻のようにもがけばもがくほど彼女らの手から遠

退き、ついには奈落の底へと転がり落ちたところで眼が覚めた。汗

まみれだった。

 卒業して働き始めるとすぐに新人研修があって、東京を離れるこ

とになるのでこれまでのように会うことはできなくなるという容子

の言葉どおりメールだけで会えなくなった。そして、そのメールも

これまでの他愛もないやり取りとは違って関われない研修の報告の

ようなものばかりで、ただ「がんばって」とか「いいね」とか他人

事のような返事しか返せなかった。

 一方で、寛自身も好き勝手な生活を送る免罪符だった学生証を返

納して、いつまでも遊んでいるわけにもいかないので、派遣会社に

登録して働き始めると、派遣先の職場で仕事を教えてくれる男が同

じ大学を同期入学した顔見知りだったことに嫌気が差してすぐに辞

め、しばらくは短期のアルバイトで食い繋いでいたが、いろいろ考

えた挙句、出来るだけ他人と関わらずにそれなりに暮らしていける

仕事、当座の生活を凌ぐための非正規だったが警備会社の警備員

として働き始めた。すると二人を繋ぐ共通の話題はいよいよ無くなり

メールさえも途絶えがちになった。警備会社の仕事はイベント会場の

警備から道路工事の交通誘導員まで現場は様々だったが、ただジッ

と立って行き交う人々を眺めているだけで退屈さが紛れた。ちょうど

動物園の飼育員のような眼差しで人間を監視した。人々は彼の制服

を見てその社会的な存在を理解したが、彼はその社会的な存在に隠

れて私的な好奇心から彼らの振る舞いを覗った。すると他人を監視す

る者の自由さえ感じることができた。それは秩序を強いられた人々が

奪われた自由なのかもしれないと思った。支配される者が奪われた自

由は支配する者の手に入る。自由を奪われることを搾取されるという

なら、自由もまた資本主義の「商品」なのだ。否、人は自由を手に入れ

るために生産するのだ。労働者の搾取によってもたらされる剰余価値

とは資本家が自由を手に入れるための手段に過ぎない。つまり、労働

者が搾取されているのは自由なのだ。資本家は奪った自由によって選

択の自由を得るが、労働者は自由を提供するしかない「しかない」選択

しか残されていない。つまり、お金が保証するのは社会的自由なのだ。

これまでそんな風にして社会を見たことがなかった彼は、結構この仕事

が気に入った。もちろん搾取されてはいるが、大概のことは自分の裁量

に委ねられて、社会的自由を奪われずに報酬に与ることができた。

 しばらくして容子のケイタイは繋がらなくなった。


                            

          (2)

 記憶というのは匂いのようなものかもしれない。寛の部屋から容

子の匂いが薄れるとともに彼女への想いも次第に薄れていった。と

ころがある日、部屋にあるはずのケイタイを捜していると、ベッド

の下から白いTシャツが出てきた。それは以前に、容子が就職する

はずの大手スーパーの店舗で買ってきたパック寿司を一緒に食べ

ようとしていた時に、彼女が添えられている醤油の袋を切り裂こうと

して醤油が飛び散って汚したTシャツだった。容子は「切り口」と書い

てある袋を彼に見せて、彼女が切れて文句を言った時のことを思い

出した。容子はまるでスーパーの責任者のように憤慨し、遂には日

本企業のモノ造りへの意識が著しく劣化しているのでないかと彼に

訴えた。寛は、

「それは使命感がないからだよ」

と言うと、容子は、

「使命感?」

「だって非正規社員は言われたことをするだけで、おかしいと思っ

ても黙ってるさ」

「使命感がないから?」

「って言うか、聴いてもらえないから」

「なんで聴かないの?」

「多分めんどくさいんだよ、決めたことを見直すのが」

「そんなのおかしい」

「だって非正規社員なんてもう機械と一緒なんだから」

「寛もバイトでそんな経験したことがある?」

これまで非正規社員として数々のバイトをしてきた寛が、

「何度もある」

と答えて、

「それどころか、余計なことを言うなと叱られたこともあった」

と言った。そして、かつて日本製の品質の高さをもたらしたのが安定

した雇用に支えられた作業者の使命感から生まれたとすれば、不安

定な雇用の下で使命感を持たない作業者の姿勢が品質に反映され

ないはずがない、と言うと、容子はTシャツに飛び散った醤油を拭き

取る手を止めて黙ってしまった。

 それは一年前の思い出だった。今になって、就職が決まって夢を

膨らませている容子に焦りから冷水を浴びせるようなことを言ったこ

とが恥ずかしくなった。寛はケイタイを捜すことなど忘れて、そのTシ

ャツを鼻に近づけて微かに残った彼女の匂いを嗅ぐと、消えていた記

憶が鮮やかに甦ってきた。
 
 すぐに、自分のTシャツを渡して着替えるように言うと、容子はその

場で醤油の飛び散ったTシャツを躊躇わずに脱いで下着だけになった。

そしてすこし頭を傾げて寛を斜めから覗った。寛は容子の眼を見て近

づき彼女の肌に触れた。そして、ふたりはそれだけは決して機械が為

し得ない生産的な行為に耽った。テーブルの上のパック寿司は蓋が開

いたままで手も付けられずに、食べようとした時にはすでに乾ききって

いた。

 思い出に浸る寛は、容子の匂いがするTシャツに顔を埋めた。

                                

          (3)


 契約社員としての警備員の仕事はその日その月を凌ぐだけで精一

杯だったが、協働で作業しなければならない仕事よりはうんと気が

楽だった。とは言っても、例えば交通誘導員の仕事は逐一無線で相

方の指示に従わなければならないし、何よりも勝手に持ち場を離れ

るわけにはいかなかったので生理現象が催してきた時には困った。

仕方なく衆人の眼の届くところで用を足したこともある。主に野外

での任務がほとんどで、穏やかな日ばかりではなく、猛暑や酷寒の

日でも、そして雨が降ろうが槍が降ろうが旗を振らなければならか

った。つまり、人への気遣いから解放されたからといっても決して

楽な仕事とは言えなかった。始業前にラジオ体操が始まり朝礼が終

わって持ち場に着くと、その場を離れられない現実に拘束された自

由意思は思索へ遁れようとした。赤い旗を上げろとか白を下げろと

かの指示に体は無意識に反応しても、頭の中は作業とはまったく関

係のない想念で満たされた。仮に、それらすべての想念を文字化し

て記述できたとしても、たぶん仕事に関する一言の言葉も見当たら

なかっただろう。つまり、彼もまたその仕事に対して使命感を持て

なかった。

 「どうして自分はこんな境遇に陥ってしまったのか?」

と、寛は紅白の旗を上げ下げしながら考えた。それまでにも不採用

通知が届く度に自分の不甲斐なさに落ち込んだが、しかし彼ひとり

だけが就職できなかったわけではなかった。実際、希望する会社に

上手く就職できた者など自分の周りでも限られていたし、また、希

望する会社に就職したはずの先輩たちの話を聴いても将来の明るい

見通しを口にする者などいなかった。それどころか会社に馴染めず

既に辞めてしまった者さえいた。それらの情報に接して次第に自分

だけが著しく劣っているわけではないと自らを慰めた。やはり、長

引く経済成長の停滞によって社会に歪みが生じ、そのしわ寄せが「

ロスジェネ」を生み、さらにグローバル経済によって「失われた二

十年」へと継がれて今に至っているのだ。そして、多分それは一時

的な停滞だとは思えなかった。これまでの国家間格差がグローバル

化によって国境の壁が低くなったために国内格差へと移行し、どこ

の国でも貧富の格差が拡大している。これまで一人に一個のリンゴ

が分け与えられてきたとすれば、これからは一個のリンゴを二人で

、否もっと多くの人と分かち合わなければならなくなるだろう。だ

とすれば、われわれはこれまで望んでいた豊かさを見直すかそれと

も分かち合うべき豊かさを他人から奪い取るかしか残されていない

。彼は、奪い合うこと、つまり本来の目的を見失う競い合いからい

つも身を引いてしまうので、いま身を置く境遇を甘んじて受け入れ

るほかないと悟った。そして、これまで斯くあるべきと望んでいた

理想を見直して、いま在ることの中から喜びを見つけ出すしかない

と思った。



                            

          (4)


 道路工事につき合って交通規制をしていると、何もわざわざ道路

の真下に上下水道のヒューム管を埋設しなくたっていいのじゃない

かと思えてくる。あっ、「ヒューム管」とは土管のことで、何でも

オーストラリアのヒューム兄弟が円筒形の型枠を回転させ遠心力に

よって強度を高める製造方法を考案したことからそう呼ばれてて「

何だ人の名前だったのか」と思ったが、どうせ今埋め戻している道

路もまたすぐに掘り返すことになるだろうという思いが継ぎ接ぎだ

らけのアスファルトを見ていると予測できる。たぶん、土地の所有

権とかがあって埋設できるのは道路の下しか残されていないからだ

ろうが、それならもっと弄りやすい路側帯か歩道の下に敷けばい

いのにと思いながら、通行規制の停止線で止まっている先頭の車に

白旗を上げて発進を促すと、ドライバーはスマホに夢中でまったく

気付かない。スマホが出てから誰もが現実から遁れて架空の世界

へ逃げ込む。「ロマンチシズム」を現実逃避と訳するなら、ネット文

化とはロマンチシズムそのものだ。スマホは退屈な現実からワンタ

ッチで「ここ以外の何処かへ」誘ってくれる夢の装置なのだ。遂に人

間は「退屈」を克服したのだ、ただ、目の前の現実を犠牲にして。仕

方なく先頭の車に注意しようと車の運転席側へ近寄ると、後ろの車

がクラクションを鳴らした。運転手はすぐに気がついて車を急発進さ

せた。そして目の前に居る私に気付くと咄嗟にハンドルを切った。

すると進入を防ぐために並べてあるカラーコーンに接触して5本ほど

なぎ倒して、それでもスピードを落とさずに走り去った。幸いにもコー

ンは工事車線に飛び散ったので後続車の妨げにはならかった。すぐ

に無線で相方に連絡して止めさせようとしたが、

「ああ、今走って行ったわ」

間に合わなかった。相方は、

「そんなことより、監督が今日はもう終わりだってよ」

「えっ、何で?」

「そんなこといちいち教えてくれないさ」

「何かあったのかな?」

「そうに決まってるだろ。5時までの予定だったんだから」

「またですか」

2週間前から始まった工事はこれまでにも二度途中で中止になった

。一度は測量ミスが原因でもう一度は何か教えてくれなかった。相

方は多分事故に違いないと言った。どの作業者もその原因について

口を開かなかったから、隠そうとするのは事故以外考えられないと言

った。

「いいじゃねえか、日当分は出るんだから」

「まあそうですけど」

「じゃあ午前12時から全面規制解除して本日の作業終了。会社の

方には俺が連絡しておく、以上」

「はい、了解しました」

おそらく三十はすでに超えていると思われる相方は、この仕事に就

く前は自衛隊にいたらしい。朝礼の前に少し話すだけでそれ以上の

ことは知らなかったし、知りたくもなかった。駐車場の片隅で制服

から私服に着替えてると、相方は、

「一杯付き合わないか、奢るよ」

「いやあ、自転車なんで」

「いいじゃないか、自転車なら。車じゃないんだし」

そこから自分の部屋までは自転車で優に一時間は掛った。そ

れに、見知らぬ街並みを自転車で走ることは決して嫌いではな

かった。だから覚束ない意識でペダルを踏みたくはなかった。誘

いを断ると、

「なんだ、付き合いの悪い奴だな」

「すみません」

実際、他人と付き合うことが鬱陶しかった。それどころか毎日

のニュースでさえも見出しが目に入ってもまったく関心が湧か

なくって記事を読む気にならなかった。いつの間にか自分だけ

が置いてけぼりにされたような、社会を共有しているという実感

がまるでなかった。だったら、いまさら社会に従って自己変革を

迫られて自己喪失するよりも、自己本位に従って自己満足して

いる方がずっと健全だ、と思った。


 

          (5)

 
 自転車で街の中を駆け抜ける爽快さは、街や通行人を置き去りに

して走り去る快感だ。それなら車やバイクの方がもっと速く走り去

ることができると言うかもしれないが、それらは自らの運動によっ

て車を走らせているのではないから実感が湧かないし、一瞬で通り

過ぎるために周りと間に感情の摩擦が生じない。摩擦のないものを

置き去りにすることはできない、ただ通過するだけだ。ドライバー

はドアを閉めた瞬間に周りから隔てられて世界を共有できなくなる

。たとえば、自転車を漕いで10キロ走った時の実感は、車で10

0キロ走ったとしても決して得られないだろう。諸々の感情は運動

からもたらされるのだ。運動と繋がっていないスピードに実感が追

い付かない。例えば、新幹線の駅のホームで通過する「のぞみ」を

見ても、「のぞみ」は一瞬で消え去って感情の取り付く「暇」がな

い。だから「のぞみ」を待つ人々は押し並べて言葉少なで、仮に個

人的な話でもしようものなら場違いに気付いて「空気を読んで」口

を噤む。すでに東京は到る所が所謂「近代社会」を象徴する都市化

が進んで、そして新幹線の駅のホームのようなよそよそしい場所ば

かりになってしまった。人々は動かなければならない「不自由」を

奪われてしまい、つまり感性を奪われて、所作をなくして理性に身

を委ねるしか術がなくなり、気分に従って道草を食ったり目的以外

のことに関心を寄せたりすることが無意味に思えてくる。すでにわ

れわれ自身も自動化された社会の中を流れる規格化された人格で個

性を矯められて画一化を迫られ、そして規格からハズレた者はハネ

られる。こうして、近代都市東京では「完璧で決定的な蟻塚のよう

な社会が奇跡的に到来しているのを目の当たりに」できる。(ポー

ル・ヴァレリー「精神の危機」より引用)

その日暮らしの切り詰めた生活をしていると不安が先立つ。彼も

「何とかして貯蓄を残しておかないと」と思い、家賃の安い部屋に引

越すつもりでいた。だから自転車で走っていても途中の街の様子だ

ったり「空室あり」と貼紙されたアパートに目がいった。それどころか

、もしも失職して収入が途絶えた時のことまで想定して、かねてより

寝袋を買っておこうと思っていたので、時間があったのでホームセン

ターに立ち寄って、さんざん迷って一番高価なものを買った。実際、

家賃の振込が遅れて何度か督促されて、ホームレスになってしまう

不安を感じたこともあった。そんな時に、たとえば自分が女で、身を

任せることにさえ耐えれば何カ月分かの生活費を手にすることがで

きるとすれば、後々の後悔など犠牲にすることにそれほど迷わなか

っただろう。

 途中でラーメン屋が目に入って空腹を覚えたのでペダルを漕ぐの

を止めた。特別にラーメンが好きというわけではなかったが、何よ

りも早く食えるのでこの頃はラーメンばかり食っていた。東京はや

たらラーメン屋が増えたが、ただラーメンが美味しいからという理

由よりも気軽に「早く」食えることから人気があるのじゃないだろう

か。つまり麺類は日本に古くからある食べる者にとっての「ファスト

」フードなのだ。だからラーメンを並んでまでして食べたいとはまっ

たく思わなかった。もしも、味覚というものが口の中で咀嚼すること

から生まれるとすれば、たぶんラーメン好きの者は味覚オンチに違

いない。何しろ咀嚼などせずに一瞬で呑み込むのだから味なんて覚

えない、ただ通過させるだけだ。その店もかつては行列ができるほ

どの人気店だったが、最近では次々に現れる新しい店に客足を奪わ

れて落着いてしまった。昼時が過ぎて客も疎らになった店内に入って

カウンター席に座ると、応対してくれた店員に見覚えがあった。その男

の顔を見ながら「誰だったかな」と思い出そうとしていると、相手も同じ

ように自分の顔をじっと見て、

「高橋?」

と、寛の名前を言った。するとすぐに寛も、

「もしかして大島?」

と彼の名前を思い出した。彼とは経済学部の同期生で一時期よく話をし

たが、寛が転部してからは会わなくなり、留年してすっかり忘れてしまっ

た。ただ、彼の方は二年前に卒業してリクルーターが羨む大手商社に就

職したと人の口から聞いていた。だから寛は、

「何で、こんなとこに?」

と言ってしまった。彼は笑いながら「ああ」と言って、会社を辞め

てしまったことを打ち明けた。そして、

「簡単に言ってしまえばさ、世の中って搾取する者と搾取される者

がいるだけなんだ。もちろん何をするかもあるけどさ」

「じゃ、搾取する側になるためにラーメン屋を選んだのか?」

「って言うか、もうそういうのにうんざりして、独りでも食ってい

ける仕事を探してたんだ」

奥で腕を組んでいた店長と思しき中年の男が、

「おい、大島!余計なことばかり言ってねえでさっさと注文訊かね

えか」

と怒鳴った。彼は首を竦めて、いずれ独立して自分の店を始める

つもりだ、と小さな声で寛に言った。

          (6)

 寛は、部屋に着くとさっそく寝袋に入ってみた。ポリエステルの

冷たくてツルっとした感触が気持ちよかった。人工羽毛のクセのな

い匂いが新鮮だった。横になって丸まると胎内で産まれ堕ちる時を

俟ち続けた記憶なのか、なんとも言えない懐かしさを感じた。いっ

たい自分はまだ見ぬ世界にどんな夢を思い描いていたのだろうか。

思い描いていた夢を汚されていく現実に絶望して、いつの間にか眠

ってしまった。

「君はどういう仕事を望んでいるの?」

そう問い掛けるのは大学で学生の就職を支援する担当者だ。

「先生、ぼくは荒野を目指したいんです」

「えっ!コウヤ?」

「ええ、荒野です」

「それは、農業関係とかってこと?」

「じゃなくて、誰もやってないことをやりたいんです」

「たとえば?」

「それが、よくわからないんです」

「なんだ、今頃そんなことを言ってるようじゃダメだよ」

「まあそうなんですけど」

「それに、もう荒野なんて地球上には残されていないんじゃないの」

「えっ」

「だってグローバル化ってそういうことでしょ。すでに北極だって

領土化されようとしているんだし」

「そうですね」

「すでに地球は人類によって征服されたんだよ、高橋君」

「なるほど、先生のおっしゃる通りかもしれません」

 夢から覚めた寛は、自ら寝袋を開いて現実の世界に戻ったが、

からだの重さだけが感じられてしばらく動くことができなかった。

「もう荒野なんて地球上には残されていないんじゃないの」

夢の中で就職担当者の言った言葉が頭から離れなかった。確かに、

すでに地上は人間の靴に踏まれない場所などどこにも残されていな

いのだ。アフリカのジャングルもアマゾンの密林の奥地にも舗装道

路が敷かれ、その傍らにはエヤコンが完備された宿泊施設の看板が

立っていることだろう。そして近代文明に接した未開の人々が何を

望むかは明白だ。つまり、世界中の人々が風土や環境を無視して同

じ快適な暮らしを望んでいる。世界中がネットで繋がり近代化の波

は自然との共生に自足していた人々の足元を洗い流す。70億を超

える人々が情報を共有し自然環境に逆らった「人工の楽園」で暮ら

したいと思っている。しかし、荒野を失った世界とは余白を失くし

た世界である。世界という紙面は近代化という画一的な言葉で隙間

なく埋められて、もはや如何なる反論も読み取れなくなってしまっ

た。たぶん世界は、白紙に戻すことよりも黒く塗りつぶしてしまう

方が手間が掛らないだろう。では、黒く塗りつぶすとはいったい?

 体の重さに慣れて起き上がると、寛は机のパソコンを起動させた

。それは卒論を書き上げるために提出期限まで日夜向き合ってきた

デスクトップだった。転部を繰り返したためにファイルに保管され

た資料や論文の量も膨大で、卒業したからといって消去する気には

ならなかった。いや、それどころか卒業した後もそのテーマが頭か

ら離れなかった。そこで、自分の考えを何とかして発表する方法は

ないかと思ってブログを立ち上げた。タイトルは「社会を捉えなお

す」。それは、生命科学者である清水博氏の著書「生命を捉えなお

す――生きている状態とは何か」(中央公論社 中公新書, 1978年)

に感銘してそれからパクッた。

 以下は寛のブログ「社会を捉えなおす」から、全部は載せられな

いのでテーマである「社会を捉えなおす」だけを抜粋して載せます。



      *      *     *


           「社会を捉えなおす」



 人間以外の生命体を観察していると、たとえ微小生物であっても

、それらは生存を存続させるために命懸けで生きている。仮に、彼

らに「何のために生きているのか?」と問えば、もちろんそんな迷

い言に聞く耳など持たないが、きっと「生きるため」と答えるに違

いない。つまり、生命体は死の恐怖に怯えながらも命を繋いで子孫

を残すこと以外に生きる目的など知らない。ただ理性を弄ぶ人間だ

けが生きることだけでは飽き足らなくなって「意味」を求める。「

意味」は生存を目的から手段に転化させて、かつては乏しい知識か

ら神を「創造」したが、いまやサイエンス(知識)という手段を手に

入れて目的(=欲望)を満たす。もはや人間は生存するためにだけ生

きているのではない。欲望が満たされなければ、つまり幸福でなけ

れば生きる意味がない。生きる意味を欲望を満たすことに求めた人

間は、生きる苦しみから逃れるために科学技術を駆使して拠って立

つべき自然環境を凄まじい勢いで破壊して再生の連鎖を断ち切って

しまった。近代化のレシピは世界各国に伝えられてエネルギー資源

に依存した近代社会が世界中に生まれようとしている。グローバル

化した近代社会では電気のない生活は考えられないが、しかし、空

気や水が汚染された環境を何故か考えようともしない。間もなく、

近代人で溢れ返った世界は、資源の枯渇と環境の変化が限界に達し

て、後戻りのできないわれわれは文明の終焉を迎えることだろう。

 たとえば自動車会社は、それまで車など持っていない人に売って

急成長したが、誰もが車を持つようになってしまうと新たな需要は

減る。もちろん買い換える人も居るだろうが当初ほどの需要を生ま

れない。国内での販売が頭打ちになって成長が見込めなくなると勝

ち残った企業は海外に市場を求めるが、やがて世界中の人々が車を

持つようになると再び売れなくなる。残念ながら今のところ地球以

外に人は存在しない。そこで買い換えたくなるようなハイブリッド

車を開発して技術革新によって需要を生もうとするが、それとても

石油がなければ走らない。このようにグローバリズムが行き渡ると

資源の枯渇、環境汚染の拡大とともに地球の資源を資本とする世界

経済も成長の限界を迎える。つまり、グローバリズムとは世界資本

主義の限界のことなのだ。では、その後世界はどうなるのか?

 資本主義経済は自由経済を前提とするが、自由な経済活動が営ま

れるためには製品を産む原材料が無尽蔵になければならない。たと

えば、モータリゼーションをもたらしたのは技術力に由るよりも無

尽蔵に埋蔵する石油に依っている。さらに言えば、排ガスによる大

気汚染が無視できるほど無尽蔵の大気がなければならない。石油が

枯渇すれば車社会はたちどころに立ち止まり、CO2排出による地

球温暖化問題はすでに国際会議の場で話し合われている。自由主義

経済はグローバル化によって資源の枯渇、環境の変化、そして人口

増加をもたらし、そして限界に達すると経済活動の自由度が失われ

てやがて行き詰る。すると世界経済は秩序を訴えて統制経済へと移

行せざるを得なくなる。荒唐無稽だと思われるかもしれないが、実

は地球温暖化防止のためにCO2排出量の削減目標を各国に割当て

た京都議定書とは、もちろん自由な経済活動までも規制していない

が、しかし排出量の規制とは、即ち自由経済の制限に他ならない。

 グローバル経済は、行き詰った世界経済の市場を拡大するために

国境を取っ払って自由経済は拡がったが、一方で地球資本の限界も

見えてきた。グローバル企業は国家間の経済格差を利用して利ざや

を稼いできたが、すでに新興国では物価上昇に伴って賃金が上昇し

利益が見込めなくなっている。いずれ途上国もそうなることはまず

間違いない。やがて国家間格差は平坦化され、もちろん業種間の格

差は残るが世界同一賃金に限りなく近付くのかもしれない。ある新

聞のインタビューでグローバル展開するアパレル企業のオーナーが

世界同一賃金に言及したのにはそれなりの確信があってのことに違

いない。「世界同一賃金」、一体これは何を意味するのだろうか?

たとえば、日本とタイの自動車会社の従業員が団結して賃上げ交渉

に臨むことさえも起こり得るのかもしれない。まず、経済のグロー

バル化を求めたのは資本家だったが、次に世界の労働者が連帯して

グローバル経済の下で待遇改善を求めて運動すれば国際的な労働者

運動、つまり、インターナショナルな社会主義運動が起こる。それ

は、かつてコミュニストたちが思い描いた世界同時革命ではないか

。もう私が何を言いたいのかお解りでしょう。つまり、やがてグロ

ーバル経済は「世界限界論」に阻まれて行き場を失い自由主義経済

が制限され、再び、社会主義経済が見直されるだろう。

          (7)

 年の瀬も押し迫ったころ、寛は半年ほど一緒に交通警備の仕事をし

ていた相棒が年内で会社を辞めるということを、人員を振り分ける担

当者から聞かされた。もともと彼は「何時までも続けるつもりはない」

とは言っていたが、もしも彼が居なくなればまた新しい者と気心を探

りながら付き合わなければならなくなる。さっそく仕事の合間に無線

で聞いてみた。

「誰から聞いた?」

「近藤さん」

「ああ、そうだよ、今週で終わりだよ」

「いい仕事でも見つかったんですか?」

なぜ辞めるのかとは聞かなかった。それは、なぜ辞めないのか言いた

くなるほど待遇は酷かったからだ。何よりも交通警備員を置かなけれ

ばならない道路関係の仕事はすべてが公共工事なので、新年度の予算

が議会で審議されるまでの四月からほぼ三カ月はほとんど仕事がなか

った。大概の者はこの時に辞めてしまう。さらに天候次第で作業が中

止になったりと、出てナンボの非正規にとって安定した収入が見込め

なかった。にもかかわらず建設業界のヒエラルキーの最下層に位置す

る警備業は、期限が迫ってくると元請けの無茶な要望を拒むことさえ

できずに労基法で決っている休憩時間さえも削らされた。そして土建

業界といえども、たとえば作業者が指を落とすほどのケガをした時も

、下請け会社の社長は元請けに監督責任が及ばないようにするために

救急車を呼ばずに自分の車で病院に連れて行き、事故などなかったよ

うに装うために一部始終を見ていた私にも堅く口止めした。そんな酷い

労働環境を放置したままでいくら公共工事をばら撒いても人手が集ま

るはずがない。潤うのは工事を下請けに丸投げして利ザヤだけを稼ぐ

ゼネコンだけだ。

「何をしたってこの仕事よりも悪い仕事なんてないさ」

「まあ、そうですよね」

「短い間だったけど世話になったな」

「あのー、吉崎さん。もしよければ一緒に帰りませんか?」

「ほおー、まさか君の方から声を掛けてくるとは思わなかった」

私は彼の誘いを何度も断ったままで会えなくなってしまうことに不義

理を感じていた。そして、私自身も年収にすれば生活保護費と変わら

ない収入にしかならないこの仕事に見切りをつけるつもりでいたので、

彼には先を越された思いがした。

 天気予報は夜から寒波が襲来して雪になると予報していた。夕方こ

ろから空一面に灰色の雲が覆って急に寒くなると、区切りのいいとこ

ろで作業は早めに切り上げられ片側交互通行の規制が解除された。吉

崎さんが無線で、

「15時48分、規制解除!」

と言うと、

「了解!」

と応えた。さっそく私服に着替え駅前の駐輪場に自転車を預けてから

駅で吉崎さんと落ち合った。

「どこか知ってる店ある?」

「いやあ、卒業してからはまったく出歩いてないんで」

「じゃあ、俺の知ってる店でもいい?」

「ええ」

彼は券売機の方へ行って一枚だけ切符を買って私に差し出した。

「おれはスイカがあるからさ」

都心へと向かう電車に乗って駅を5つくらい見送ってから下車した。

「まず、サウナに行くつもりだけどいいかな?」

「ええ、付き合いますよ」

都内のどこの駅前にもあるカプセルホテルのサウナだったがサウナだ

けでチェックインした。ロッカールームで彼の裸を見てその筋肉隆々

たる身体に驚いた。

「すごい筋肉ですね」

「これでも大分衰えたよ」

すぐに彼が元自衛官だったことを思い出した。自分の貧弱な身体を曝

すのを躊躇っていると、

「心配するな、ホモじゃないから」

そう言って股間を隠さずに浴室に入っていった。5時前だったせいか

広いサウナの室内には先客が二人しか居なかった。肩を並べて黙って

座っていると間が持たないので私の方から話しかけた。

「自衛隊に居たんですか?」

「ああ、春までな」

「ところで憲法って改正されると思いますか?」

「たぶんされる」

「えっ、ほんとですか?」

「たとえば実弾演習で銃を構えて照準を定めるだろ。その照準は何も

ないところに合わせるわけじゃない、敵に合わせるんだ」

「ええ」

「敵とは具体的には敵対する国の軍隊で、その人間の姿が頭に浮かば

なければ集中なんてできないだろ」

「仮想敵国ですね」

「ところが、おれは実際にこんな夢を何度も見たんだ。敵に照準を合

わせていざ引き金を引くと憲法九条というロックが掛っていていくら

引き金を引いても弾が撃てない。焦っているうちに覚った敵が至近距

離まで近づいて来ておれの脳天に照準を合わせて笑いながら引き金を

引く。すると恐怖のあまり目が覚めて全身が汗だらけなんだ」

「・・・」

「では、いったい何のためにそんな演習をするのかと言えばいざとい

う時に国を守るためだが、ところが現行憲法では武力の行使はできな

い。つまり、対外試合が禁じられているのに練習している。しかし実

戦を経験せずにいざという時に戦えると思うか」

「じゃ、集団的自衛権を認めるのはそのためなんですか?」

「憲法改正のための一端に過ぎない。ただ、そんなことよりも、たと

えば北朝鮮のミサイルが本土に着弾でもすればこの国の世論なんてす

ぐにひっくり返るさ」

「えっ、北朝鮮ですか?」

「ああ、おれは中国が何かする時はまず裏で糸を引いて北朝鮮を使う

と思うんだ」

「んん」

「何よりもまず中国は自分たちの支配下で朝鮮半島の統一を望んでい

るんじゃないかな」

「でも韓国は拒むでしょ」

「考えてみろよ、いまや中国は一国二制度なんだぜ。仮に南北の統一

国家ができたなら、共産主義体制の下でも資本主義経済を発展させる

ことができると言うさ。イデオロギーなんかより祖国統一が優先され

る。だってもう韓国なんて着々と中国に取り込まれているじゃないか」

「つまり政治的自由なんかよりも経済的自由だってことか。でもそれって、

この国だってマスコミやメディアを見れば同じじゃないですか」

「まあな」

          (8)

 元自衛官の吉崎さんは頭を丸刈りにしていたが、ところがバランス

を取るためなのか口や顎に髭を蓄えていた。仮に顔の上下を逆さにし

てもそんなに違和感を与えないに違いないその人相を、他人が見て危

ない人物かもしれないと怪しんだとしても仕方なかった。私が彼から

の誘いを避けていたのもその厳つい面構えによる先入観からだった。

見た目で人を判断してはいけないと言うが、見せる方がそのつもりで

威圧的な風貌を拵えているのだから相手に伝わらないはずがない。バ

ラの棘は決して飾りではない。ところがその風貌に反して彼は到って

穏やかな人物だった。何日か彼に着いて一緒に仕事をしているとすぐ

に気付いたが、こんどはその穏やかな性格が仕事上に拵えられたもの

かもしれないと疑いが残った。私はその疑いを残したまま彼を誘った

。そして寒空の下で凍てついた身体を解凍もせずにサウナに投げ込ん

だので急激な体温上昇がわだかまりを溶かし二人は打ち解けた。もっ

とも打ち解けて語り合うには些かその話題は相応しくなかったが。

「どうすれば中国とうまくやって行けるんですかね?」

「元へ返ればいいんじゃないの」

「もと?」

「そう、国交を結んだ頃に」

そもそも私はあまり政治には関心がなかったのでその経緯を詳しくは

知らなかった。

「中国との間で対立している問題は40年以上前にすでに話し合われ

ていたんだ」

「尖閣の問題とかも?」

「もちろん、ただ棚上げにしただけだけどね」

「じゃあ棚上げのままにしておけってことですか」

「戦争したくなければそれしかないだろ。靖国参拝問題にしたって中

国側は二分論によって日本の指導者にその責任を負わせたのだから、

戦犯が祀られている靖国に指導者が参拝するのは合意に反すると非難

されても仕方ないだろ」

「何、にぶんろん?」

「ああ、二分論というのは日中交渉で日本側の謝罪に対して中国側は

、戦争責任は指導者にあっても国民はただ軍国主義者に騙されただけ

だと理解を示してくれた」

「なるほど、それで戦犯が祀られている靖国参拝が許せないのか」

「つまり、日本が恩義に背いて軍国主義者を崇めていると言う訳だ」

やがてサウナ室には仕事を終えた人たちと思われる客がぞろぞろと入っ

て来たのでそんな話をすることが躊躇われた。

 サウナを後にすると外は雪が舞っていた。吉崎さんはすぐ近くの「

焼鳥」と書かれた赤提灯がぶら下がった小さな店に飛び込んだ。その

店は四人掛けの座敷が三卓とカウンター席が十席余りしかなかったが

まだ客は居なかった。カウンターの中には黒のバンダナにTシャツを

着た店主と思しき中年男が親しげに吉崎さんを迎えた。吉崎さんは私

を紹介するとカウンターの奥の席に陣取って隣の席を勧めた。すると

奥の暖簾を割って店主と同じ格好をした女将さんらしき女性がオシボ

リを持って現れた。吉崎さんが、

「まずは生ビール!」

と注文すると彼女は、

「二つ?」

と訊いた。吉崎さんが私の方を見たので私は黙って肯いた。さっそく

乾杯をして一気に喉へ流し込むとサウナで渇いた身体に雑巾が水を吸

うように浸み亘った。吉崎さんは一呑みでジョッキを空にすると、

「大将、串盛り二つといつもの酒」

と店主に注文してから私に何を飲むか訊いた。私は同じでいいと言う

と、女将さんはすぐにもっきり酒の升を二つ運んできた。それはグラ

スからこぼれ落ちた酒が升からも溢れんばかりに注がれていた。たぶん

そのうちに升にこぼれた酒を受けるためのより大きな升が必要になるに

違いない。

「これは北海道の酒なんだ」

「へえ」

「ほら、おれずーっと北海道に居たからさ」

そう言うと手を使わずにグラスに口を近づけて最後に「チュウ」と音

を立てて啜った。その飲みっぷりから酒好きなのが覗えた。

「ああ、そうなんですか」

と言いながら、私はグラスの酒を升にこぼしてから嘗めてみたが、彼

の飲みっぷりが想像させた酒の旨さを共有することはできなかった。

それはちょうど子供がビールや酒の旨さが分らないように、味覚器官

からもたらされる旨さではなく味覚をつかさどる脳そのものが麻痺して

味覚が機能しなくなって旨いと勘違いしているだけに違いない、などと

思いながら、それでもチビリチビリやっていると私の脳が次第に麻痺し

てしまい、いつの間にか升にこぼれた酒まで飲み干していた。そして、

「これ旨い酒ですね」

と言うと、焼き上がった串盛りと一緒にすかさず二杯目のもっきり酒

が運ばれてきた。すると吉崎さんは、

「ここの焼鳥はちょっと他所とは違うよ」

と言ったが、見た目はまったくどこにでもある焼鳥だった。

「何が違うのですか?」

「まあ食べてみればすぐ分かる」

と言うので恐る恐る口にすると、

「なんか肉がすごい軟らかいですね」

「なっ、違うだろ」

「ええ。なんでこんなに軟らかいのですか?」

すると吉崎さんは店主に向かって、

「大将、何でか教えてやって」

と言うと、店主は鳥を焼きながら、

「タンドリーチキンというのを知ってますか?」

「確かインドの方の料理ですよね」

「ええ、そうです」

「あれはヨーグルトに漬け込んで肉を軟らかくするんです」

「じゃあ、この肉もヨーグルトに漬け込んでいるんですか?」

「ええ、一晩漬け込んでいます」

すると吉崎さんが口を挟んだ。

「大将は自分でヨーグルトまで作っているんだって」

「へーっ、そうなんですか」

「ええ、まあ。うちはあくまでも和風の焼鳥なんでね」

「なるほど」

日暮れから降り出した雪は止む気配がなく、玄関の硝子戸越しに見え

る外の景色は行き交う車のヘッドライトに照らされるとうっすら雪化

粧が施されているのがわかった。店主は、

「もう今日は客は来ないだろう」

と呟いた。二人は脳細胞の麻痺によってもたらされた旨い酒と、他では

味わえない美味しい焼鳥に舌鼓を打ちながら、過去も未来も忘れて現

実の幻想に酔い痴れた。

          (9)

「世界限界論からの生き方ってどんな生き方?」

私は、何故そんなことを話してしまったのか酔ってしまってまったく

覚えがなかったが、持論を熱く語っているうちに次第に酔いが醒めて

きて、上辺だけの付き合いでしかない会社の人間にいわゆる思想を語

ってしまったことに後悔した。そして席を立ってトイレに逃げ込んだ

が戻ってくると吉崎さんが改めて聞いてきたので少し自分自身を取り

戻した私は簡単に説明した。

「それは、地球環境にしろ人口爆発にしろそれどころか産業を生むエ

ネルギー資源にしたってグローバル経済の下ですでに限界に達してい

るでしょ」

「うん」

「だから近代文明とは逆行した生き方、敢えて言えば自然に還ろうと

と思っています」

「じゃあ地元へ帰って農業でもするの?」

「どうするか今考えているところです。地元へ帰ってもうちは非農家

なんで」

「どこだっけ地元?」

「三重県です」

「でもさ、自然に還ったからといっても社会と係わっている限りは近

代文明からは遁れられないよ」

「たぶんそうでしょうね」

「おれ、北海道に居たからよく判るんだけど、実際地方じゃ車のない

生活なんて考えられないもん」

「僕は何も近代文明すべてを否定するつもりはありません。車がない

と生活できなければ別に車があったってかまわない。ただ、もう少し

シンプルに生きたい」

「シンプルねえ」

「今の自分は社会の中でただ生かされているだけで自分の考えで生き

ているという実感がまるでない」

「東京で暮らしている限りそうだよ。もしも北海道でいいなら農業を

やってる知り合いが居るから紹介してやってもいいが」

「ありがとうございます。実は何度か新規就農支援の相談会に足を運

んで、震災のあった東北へ行こうと思っています」

「だけどそれじゃあ近代以前の貧しい時代へ戻るだけじゃないか」

「確かに近代文明を棄てれば前近代しかないけれど、だけど近代化へ

向かうしかなかった前近代とは全然違う」

「何が違う?」

「まず意識が違う。つまり世界限界を意識した者とそうでない者と」

「だけど意識が変わっただけで世界が変わるかな?」

「少なくとも意識を変えなければ何も変わらない。たとえば、クロマ

グロが絶滅すればいくらクロマグロの刺身が食べたいと思っても絶対

に食べることはできないように、生存環境が破壊されればどれほど近

代的な生活を望んでも生存そのものが危ぶまれる。クロマグロを食べ

続けるためにはまずクロマグロを食べないことしかない」

「それってジレンマだね」

「そうです、世界限界論は様々な文明のジレンマを生みます。いや、

そもそも内在していた根源的な矛盾が限界に達して転化できなくなっ

ただけなんですけど、たとえば破壊が新たな成長をもたらすだとか、

平和を守るために戦わなければならいだとか」

「なるほど」

「でも、絶滅によってクロマグロが食べられないことと絶滅させない

ために食べないことは同じじゃないでしょ」

「おれさ、クロマグロは食べられなくたって平気だけど、実はいま禁

煙している最中で、ほら、カウンターの中で旨そうにタバコを吸って

いる親父を見ていると、酒の所為もあって何とかして一本だけでも恵

んでもらえまいかという誘惑と闘っているんだけれど、禁煙だけでも

そんなに苦しまなければならないのに、果たして近代人が近代文明を

棄てるなんてできるわけないじゃないか」

「じゃあなぜ禁煙しようと思ったのですか?」

「健康のために決まっているじゃないか」

「ぼくが言っているのはまさにそれなんです。生存環境を損ねてまで

欲望を優先するのかということです。すでに今の日本人の消費生活を

世界中の人々が享受するとすれば地球が二つ以上なければ賄えないと

言われています。つまり日本の豊かさとは途上国の貧困によって支え

られていた。ところが、世界経済のグローバル化によって世界中が近

代化を目指し始めた。地球は一つしかないのに二つ分以上の豊かさを

求め始めた。すると日本の豊かさが賄い切れなくなることは必然で、

それどころか豊かさを奪い合う争いはすでに世界各地で起こり始めて

いるじゃないですか」

「まるで君はこう言ってるようじゃないか、『近代科学はアヘンだ』って」

「・・・」

 傍目にはまったく噛み合っていない会話だったが酔っ払ってる二人

はそんなことはまったく意に介さなかった。すでに私も誰に話してい

るのかなどということはどうでもよくって腹の中に溜まっていた思い

を吐き出す解放感に気が緩んだ。そして吐き出すと同時に酒を呷った

ので、すでに醒めてしまった自分と陶酔へと堕ちる自分が錯綜して意

識はもっぱら二人の自分の折合いを図ることで精一杯だった。

「囲碁というゲームがあるでしょ。あれは碁盤に碁石が埋まって勝敗

が決すれば終局なんだけど、ところが世界というゲームには終局がな

い。歴史が終わっても世界は終わらない。盤上が石で埋めつくされたっ

て終局にはならない。そしてついには相手の石を自分の石に変えようと

する」

「それじゃあまるでオセロゲームだ」

「んんーっ、ちょっと違うけど」

コイツ、じゃなかった吉崎さんのズレた応答にも敢えて拘ろうとは思

わなかった。

「仮に今後日本がアメリカの51番目の州になったとしても、或は中

国共産党に熱烈歓迎されて日本人民共和国という国名に変ったとして

も、もしお望みなら民主主義という肩書を入れたって構わないけど、つ

まり、盤上の石がすべて白か黒かに変わったとしても、終局は勝敗に

よって決するのではなく、盤上を埋め尽くした石によってすでに近代と

いうゲームは終わっているんだ」

「じゃあ、一体これからどうなると言うんだ、世界は?」

「だからさ、さっきも言ったように近代文明を求める限りもう一つ地

球を造らなければならない」

「そんなことできるわけないじゃないか」

「しかしまったくできないという話でもないんですよ。じっさい20

25年には火星への移住計画を実現させようとしている組織だってあ

るくらいなんだから。ただ二度と地球には戻って来れないけど」

「もういいよ、そんな夢ものがたりは」

「だったら、一つしかない地球で二つの地球を求める人間同士が奪い

合うしかない」

「やっぱり戦争か?」

「ええ、世界中の人々が近代生活を求める限り戦争は避けられないよ

うな気がする」

「いつ?」

「だって、もうすでに富を巡る民族間の争いは起こっているじゃない

ですか」

「おれもさ、平和憲法のままじゃあ国は守れないと思うんだ」

「ただ、僕は戦争に勝ったからといって経済的繁栄がもたらされると

は思わない。さっきも言ったように勝敗によって終局が決する時代は

終わったんだ。もちろん、失った分だけ成長の余地が生まれるかもし

れないけれど、それなら大敗して焼け野原になった国の方がよっぽど

経済成長の余地が生まれる。かつての日本やドイツのように」

「それじゃあ何か、経済成長したければ戦争して負けた方がいいと言

うのか。それなら平和憲法も意味があるけど」

「僕はもう一つの地球も、もちろん戦争も御免被りたいので、すべて

をレガシーエネルギーに依存した近代文明を見直すべきだと言ってい

るです」

「レガシーエネルギー?」

「ああ、化石燃料のことです。僕が勝手にそう言ってるだけですけど」

「レガシーって遺産って意味だよね」

「ええ、そうです。つまり生成することのできない遺された資産なんです

化石燃料は」

          (10)

 強風に煽られた雪の礫が入口のドアを叩く音が店内にまで聴こえて

くるほどのわずかばかりの時が過ぎると一転して静けさがおとずれ、

雪が降り止んだことを教えてくれた。しばらくして中年のカップルが

引き戸を開けて飛び込んできた。会社員風の男は幾分年下に見える女

性を我々とは反対側のカウンターの奥に招いてその横に座ると、女将

が慌ただしく出迎えて応対した。すると吉崎さんは椅子を外して暖簾

の奥にあるトイレへ向かった。注文を取って暖簾の奥へ隠れた女将と

トイレから出てきた吉崎さんが一言二言ことばを交わしてから暖簾を

破って吉崎さんが戻ってきた。

「勘定を済ませた。さあ、次行こう」

私は、依然として二人の自分の葛藤に苛まれていた。

「次って何処?」

「すぐ近くだ。さあ、早く立って」

予期していなかった誘いに私の尻は二人分重かったが、急かされるま

まに立ち上がって吉崎さんの後に続いて外へ出た。街は降り止んだ雪

が白く塗装し終えたばかりで美しかった。夜空にはすでに雪雲は去り

凛と輝く半月とそれを慕う無限の星々がひそやかに光っていた。二人

はしばらくその星空を見上げていた。

 吉崎さんが向かったのは本通りに面していた焼鳥屋からひとつ筋違

いの裏通りによくある場末のスナック風の店だった。

「入るよ」

そう言って彼は扉を開けて入った。私は店の前に置かれた明かりの灯

った看板に印された店の名前を読んだ。一番上に「会員制倶楽部」と

あって、その下に「SILVER BEATLES」とあった。「BEAT

LES」の文字は彼の有名なロックバンドのロゴそのままで、本来「

THE」があるべきところにゴシック体で「SILVER」と書かれていた

。「シルバービートルズ」、とっさに浮かんだのは年老いたビートル

ズ世代だった。吉崎さんによれば実際「ザ・ビートルズ」は一時期「

シルバー・ビートルズ」というグループ名で活動していたらしい。

「何をしてる、早く来いよ」

中に入るとすぐに10席余りのボックス席があってその奥に5席ほど

のカウンターがあった。足元が悪いにも関わらずほとんどのボックス

席は客で占められていた。様子を伺っていると緑色のドレスを纏った

一人の中年女性が二人を迎えた。吉崎さんは、

「おれのおふくろです」

と言ってその女性を紹介した。一目でその繋がりが認められるほど二

人の顔立ちは似ていた。

「実はここ、おふくろがやってる店なんだ」

「へー、そうなんですか」

「看板見たろ?」

「ええ、シルバービートルズ」

「そう、この店は高齢者限定の会員制クラブなんだ。まあ、とにか

く席に着こう」

ボックス席は二つの通路を挟んでそれぞれの席から向こう側の席が伺

えないように微妙な角度でずらされていた。とは言っても通路からは

それぞれの席を伺うことはできた。入口近くの席ではソファを外して

車椅子のままホステスと談笑してる初老の男性の姿が見て取れた。そ

して壁のいたる所にはビートルズの写真が飾ってあって、BGMはす

べて彼らの曲だと言った。

「へえー、ビートルズが好きなんですね」

と言うと、

「おれじゃないよ、おふくろだよ」

席に着くとさっそく初老のボーイが現れた。吉崎さんが話をしてすぐ

に二人のホステスが現れた。一人はまだ若い女性だったが、ただも

う一人は中年女性で、しかし胸元を露出させた衣装だとか艶めかしい

化粧でそれなりに男性の欲情をくすぐる細工を施していた。二人は席

に着くと名刺を差し出して自己紹介した。

「ここのホステスはほとんどが子持ちだから気を付けなよ」

吉崎さんの説明によると、母親は最初はこの地で初めてのキャバクラ

を始めたが、若い客から再三ホステスの高齢を指摘されて、とは言っ

てもこんな外れの場末の店に募っても集まる若い女性はほとんどなく

、それならいっそ客そのものを高齢者限定にしてしまおうと考えた。

会員資格は60歳以上で、年金受給者には様々な特典があって毎月1

5日の受給日には料金の割引を行なっている。会員の年齢制限はきび

しく、加減を知らない若造の入店は厳に断っている。口さがない同業

者からは「老人クラブ」とも揶揄されたが、定年退職して暇を持て余

した隠居人や連添いに先立たれて張り合いを失くした独居老人などが

細る行く末の不安を忘れるために酔興を求めて次第に集まりだした。

ホステスも男の扱いに手練れた3、40代のシングルマザーがほとん

どで、それでも高齢者の客からして見れば若い女に違いなかった。

「大概の客は機能不全でただ触りたいだけなんだから黙って触らせて

やりゃあいいじゃないかと、いつもおれは言ってんだ」

すると、この店で一番若い「さくら」と呼ばれるホステスが、

「そんなことないって!小林さんなんてもう70過ぎなのにまだ勃起する

よ」

「何で分かる?」

「いつもわざと触らせるだから」

だからほかの店では決して設置されていない障害者用のトイレやAE

D、さらには車椅子からいざという時のために折りたたみベットまで

用意され、会員からは病状や既往歴まで報告させている。

「男というのは肉欲が衰えても、情欲だけは死ぬまで燃え続けるんだ」

吉崎さんは、昼間は警備員の仕事をしながら夜はこの店を手伝ってき

たが、店の方が忙しくなってきたので警備員の仕事を辞めることにし

た。

「これからの高齢化社会を考えればもっと客が増えると思うんだ。た

だ、酒はあまり飲んでくれないけど」

          (11)

 「シルバービートルズ」でのことは、その後すぐに眠てしまったのでま

ったく覚えていない。目が覚めたらBGMが消え店内の照明が眩しいほ

どに点っていて大勢いた客やホステスもみな居なかった。

「あのー、いま何時ですか?」

と、向かいの席で掃除機を掛けている吉崎さんに訊くと、

「おっ、やっと目が覚めたか。10時過ぎだよ」

そして、

「うちは10時閉店なんだ。ほら老人クラブだから」

「あっ!すっ、すみません。すぐに帰ります」

「いいよ、慌てなくたって。これからみんなで一杯やって飯を食うんだ

から」

店の奥を窺うと、カウンター席に座った吉崎さんのお母さんが背を丸

めて電卓を叩いていた。そのカウンターの中の厨房では白衣を着た男

性と初老のボーイが慌ただしく洗い物や片づけ物をこなしていた。ホ

ールではたぶん最近入ったばかりと思われる中年男性が掃除機を掛け

ている吉崎さんに手順を伺いに何度もトイレを出たり入ったりしてい

た。そして私は、茫っとしながら夢の中で考えていたことを思い出そ

うとしていた。

「繋がった、やっと繋がった」

と、夢の中でまるで啓示のように閃いたことがいざ夢から覚めてみる

と、はて何が繋がったのかまったく思い出すことができなかった。微か

に残った余韻を辿ると、線分ABは二つの端点によって限られ、合理主

義は原点Aから限点Bへの最短を追求するがそれは一本の直線しかな

くそれ以外は棄てられる。こうして近代文明は限られた直線によって世

界を構築するが、自然世界はすべてが円環へと回帰してそもそも限点

などというものは存在しない。ところが科学文明は常に限点をのり越え

て直線をひたすら延長させて何れ火星にまで到達するに違いない。そん

な時代になおも地球環境が我々の生存を支えてくれるかどうかは疑わし

い。つまり、生存環境を失った人類は最先端科学を携えて失われた地球

を求めて宇宙を彷徨うしかない。

「ちがう!そんなんじゃない」

直線的な科学文明を円環する自然に回帰させて再生する仕組みを思い

付いたはずだったが、忘れてしまった。

「ひとりで何をブツブツ言ってんだ」

掃除を終えた吉崎さんが缶ビールを二つ持ってやってきた。するとす

ぐにこの店で一番若いホステスのさくらさんが私服に着替えて現れた

「紹介するよ、おれの彼女。と言ってももう一緒に暮らしてんだけど」

「なんだ、そうだったんですか」

私は彼女が席に着いた時から何となく見覚えがあったが、それ以上は

具体化しなかった。吉崎さんは「泊って行け」と言ってくれたが、

「まだ電車が走っているから」

と断って、駅まで見送ってくれた吉崎さんにそのことを伝えると、

「何だ、お前も隅に置けないな」

「どっ、どういうことですか?」

「実は、彼女は前は女優をしてたんだ」

「へえー、そうなんですか。どおりできれいな人だと思いました」

「とは言ってもAV女優なんだけど」

その言葉を聞いてすぐに、夜な夜な自らを慰めるためにPCの画面に

映し出した彼女のあられもない姿態が具体化した。黙っていると、

「おれはさ、後戻りできない過去なんかに拘りたくないんだ」

二人は駅の改札で握手を交わしてから別れた。

          (12)

 年明けにも仕事を辞めるつもりだったが、会社は、正月はイベント

の警備員や駐車場の誘導員の依頼が殺到していて人手不足なので二月

まで待ってほしいと言うのでそうすることにした。

 新年早々からメディアはテロ組織の犯行による痛ましい事件や民族

対立による紛争を伝えているが、それらは「世界限界論」の下で新天

地を失くした資本主義経済が新たな市場を求めて進出したことによっ

てもたらされる拒絶反応である。近代化(西欧化)によって伝統文化が

廃れ民族アイデンティティーを否定された人々が原理主義へと回帰す

るのは何も他国だけの話ではなく、かつて我が国に於いても欧米列強

に開国を迫られた幕末には攘夷運動が起こって原理主義(天皇制)への

回帰が叫ばれ暗殺テロが横行し対立は激化して内乱へと拡大した。つ

まり、来し方を振り返ればわれわれの覚えのない世界のことだとばか

りは言えない。ただ、わが国にとって幸いにも産業近代化の波は起

こったばかりの時期だったことと、多くの識者が指摘するように、

単一民族として統治されていたことや農耕社会で築かれたその国民性

によって器用に転換を果たして、もちろん幾つかの波乱はあったが維

新を成し遂げた。しかし、たとえ国家体制を即席で近代化(西欧化)さ

せたとしても、伝統文化を拠りどころにした民族アイデンティティー

は途絶えることなく深層を潜って流れ、時を経て湧水のように噴出し

て西欧文化に対するコンプレックスが民族意識を甦らせ原理主義へと

回帰させ対米戦争へと向かわせた。そして更に付け加えるならば、近

年になってかつて侵略した近隣国の台頭による危機感から三度、あた

かも何らかの周期性が潜んでいるのかもしれないと勘繰ってしまうま

さにこの時期に原理主義への回帰が湧き上がっている。こうして見る

と、ただイスラム世界だけが何も特異な世界であるとは思えない。そ

の土地柄からなのか宗教による強力な呪縛から脱け出せないでいるの

だが、仮に近代化がもたらす豊かさが宗教的救済に取って代わられる

とするなら、彼らの民族アイデンティティーが失われることへの反動

から原理主義への回帰が声高に叫ばれることには一定の理解が及ぶ。

つまり、近代化とは宗教からの「解脱」にほかならないからだ。

一月いっぱいで仕事を辞めてから、歯止めが掛からない少子高齢化

と人口減少に頭を痛める地方の自治体が企画した新規就農者を募って

定住してもらうための四泊五日の宿泊体験ツアーに参加した。そもそ

も少子高齢化と人口減少問題は日本全体が今まさに直面している問題

であって何も一地方自治体だけの取り組みで解決できる問題とは思え

なかったが、努々おくびにも出さないように務めた。

 では人口減少がなぜ「問題」なのかというと、それは専ら経済的視

点からの問題であって、つまり商売人たちが客が減るとモノが売れな

くなると騒いでいるだけで、そしてその上前を跳ねる役人や政治家た

ちが提灯持ちしているに過ぎない。そもそもこの狭くて山地だらけの

島国で現人口を越える日本人がかつて存在した例はなく、今まさにそ

の限界を超えたとすれば減少に転ずるのは必然で、ただ闇雲に客、じ

ゃなかった人さえ増せば経済成長できると考えているなら、まるで人

間をブロイラーか家畜などの経済動物と同じようにしか思っていない

経済成長至上主義に毒された経済人の妄想にすぎない。因みに、世界

の国別の人口密度のデータを見ると、日本の336人/Km2は先進国

の中でも抜きん出て高い数値で、加えて居住に適さない山地が全体の

7割以上を占めることを考慮すれば、日本は世界有数の過密国家であ

る。さらに加えてその4分の1以上の人口が、すでに横に収まり切れ

なくなって縦に積み重なって、首都圏域に集中しているのだ。ただ、

その現状だけからも我々の国民性の一端を窺い知ることができる。つ

まり、緊密な社会では統制を乱す言動は窘められて自主性を失い、つ

いには大樹の陰を慕って全体主義が蔓延り、やがて異質な他者を疎む

排他主義が声高に叫ばれる。我々はかつて迷い込んだ道を気付かずに

再び辿っているのかもしれない。おっ、話の方も気付かずに横道に逸

れてしまったようだが、それでは人口の減少はただただ好ましくない

状況しかもたらさないのかと言えば決してそんなことはない。たとえ

ば誰もがすし詰めの満員の電車を見送って次の空いている車両を待つ

ように、人口減少社会は次に生まれてくる世代にとっては決して好ま

しくない環境とばかりは言えない。ところが経済成長のために「産め

よ増やせよ」と言うのはよもや戦前(?)でもあるまいし本末転倒もい

いところだ。経済人や政治家にすれば聞き捨てならないかもしれない

が、私はこの国が平和で安定した社会環境を維持していくためには今

の三分の二くらいの人口がちょうどいいと思っている。世界限界論の

下で徒に人口を増やしてもいずれ賄い切れなくなって有らぬ争いへの

暴走を抑止できなくなる。

 政府が取り組む掛け声倒れの少子化対策なんかよりも地方が呼び掛

けているIターン誘致の方がよっぽど現実的だ。共働き世代に対して

何一つ有効な対策を打ち出せないでいる政治は、未だ男尊女卑の陋習

から抜け出せない企業文化に配慮してか、男女雇用機会均等法や男女

共同参画社会基本法、さらには育児介護休業法と、それだけ聞けば何

と進んだ社会なんだと思ってしまうが強制力のないザル法ばかりで何

一つ実のある成果を上げていない。そもそも公務員にしてからが、育

児休業を申請した男性公務員が上司の無理解と職場での冷たい視線に

苦しんだ様子をネットで綴っているくらいだから況や一般企業におい

てをや、である。保育所の待機児童の問題にしても都市への一極集中

がもたらしたミスマッチで、その反対に地方からは子どもの姿が消え

保育所や少学校は次々と統廃合されている。であるなら地方へ人を呼

び戻す対策を考えればいいのだが、以前には遷都論も真剣に議論され

たが大震災でそれも立ち消えになってしまって、今では専ら地方任せ

になっている。ただ、近代文明都市に憧れを抱く人々に鹿の鳴く音に

目を覚ますわびしい山里への移住を勧めても誰も聴く耳は持たない

だろう。いくら新幹線が日本中を網羅しても便利になるのは結局は東

京であって、つまり東京への一極集中は避けられない。地方は東京イ

ズムに追随している限り地方独自の文化が失われ植民地化し、今や

新幹線の駅前はどこも同じ景観で、東京に本部がある見慣れたフラン

チャイズ店の看板が凌ぎを削り合い、地方色が褪せていくことに侘しさ

を感ぜずにはいられない。ところが政府は国家戦略特別区域法とか地

域再生法だとか相変わらず器を作ることにばかり熱心で中身にはまっ

たく新鮮味がない。結局、東京一極集中の解消だとか地域再生だとかは

それぞれの国民の意識が転換しないことには為し得ないと思う。つまり

、人々がこう嘆くまで待つしかない。

 「山里は もののわびしきことこそあれ

      世の憂きよりは 住みよかりけり    よみ人しらず」

          (13)

 地方自治体の企画した宿泊体験ツアーは、午後一時に現地の最寄駅

に集合しなければならなかったので、出発時間がちょうど早朝の朝の

ラッシュアワーと重なった。

 そもそも自治体は少子化を少しでも食い止めるために企画している

ので、子どものいる家族や独り身でも将来子どもを生むことができる

若い女性を優先して私のような独身男性は敬遠したが、実際、面接で

は将来生活を共にする女性が居るのかと立ち入ったことまで訊いてき

た。そして一度は定員に達したのでと断りの連絡があったが、出発直

前の三日前になって、たまたまキャンセルが出て空きができたので、

担当者は何度も「失礼ですが」を連発したが、始めはムカっときて断

ろうと思ったが、ちょうど仕事を辞めたばかりですることがなかった

ので翻して気晴らしのつもりで参加することにした。

 都心へと向かう電車は一駅ごとに乗客を増やして遂には身動きが取

れなくなった。そして東京駅の2コ手前の駅で停車した時、それまで

乗客を拒むように勢いよく締まったドアがいつまで経っても開いたま

まで動き出す気配がなかった。それに反応してそれまで静粛を保って

いた車内からは話し声やため息が漏れ始めた。誰かが「またか」と呟

いた時、車内放送が流れた。

「先の区間で人身事故が発生したため停止しています。お客様にはお

急ぎのところご迷惑をお掛けして誠に申し訳ありませんが・・・」

アナウンスが流れると同時に大勢の乗客がスマホを操作しながら慌た

だしく降り始めた。

「どれくらい掛かるの?」

「まあ、最低一時間は・・・」

そんな他人の会話を耳にして、私もさっそくスマホで時刻表を確かめ

ると、「ダメだ!」一時間も遅れると乗り継ぎができなくなって集合

時間に間に合わない。仕方なく電車を降りて地下鉄へと向かう人の流

れに身を委ねて東京駅へ向かった。

 ゆっくりと動き出した新幹線「やまびこ」の車窓からは、並行して

走る在来線のホームを大きくはみ出して停車している電車が見えた。

その周りでは鉄道員たちが慌ただしく駆け回っていた。「あれだ!」

晴れ渡った寒空の朝、数時間前にそこで思い詰めた者が命を絶ったの

だ。ただそれ以上関心は湧かなかった。すでにそれらの原因も分析さ

れて誰も今さら気にも掛けない。地方では自然で生きるタヌキが農道

を疾走する車に衝突して早朝の路上に屍をさらすように、首都東京で

は生きる意味を見失ったヒトが電車に飛び込んで自らを消す。東京で

暮らす人々は排便後の便器のコックを回し忘れないように、失敗をし

ないように細心の注意を払いながら社会に適応しようと自分を殺して

生きている。誰もが九死に耐えながら辛うじて一生を得て生きている

ので些細な躓きさえも一死となって、遂にはコックを回し忘れて汚物を

残したままにしてきたことさえも自信を失くす原因になる。

 車両は都心を離れて流れてくる車内アナウンスを何気なく聞いて

いると、どうやら自分の乗った車両は「やまびこ」ではなく、下車駅を

通過する「はやぶさ」だと気付いた。アナウンスは、

「まもなく大宮です。大宮の次は仙台に停まります」

と案内した。

「えっ、仙台!」

慌てて靴を履き直し上着を着て棚から荷物を下ろして乗降ドアへ向か

った。乗り間違えに気付かづに仙台まで行ってしまえば、もしかすれ

ば私も下りの新幹線には飛び乗らずに、自分自身が厭になって車両

そのものに飛び込んだかもしれなかった。

 新幹線大宮駅で「やまびこ」に乗り換えるとあっという間に下車駅

に着いた。そして待ち合わせていた在来線の一両編成の車両に乗車す

ると遠くに見た残雪に覆われた山々が車窓に迫ってきて春から冬へ季

節を逆戻りしているようで、そこはすでに東京圏外だった。単線のた

め停車駅では上り車輛の通過待ちで底冷えのする車両で恐ろしく待た

された。ディーゼル車両のエンジン音だけが響く山々に囲まれた閑散

とした無人駅で時間の流れの緩さに戸惑いながら、東京から遠ざかる

ことの寂しさに襲われた。始発時には座席に3割くらいは居た乗客も

停車する度に次第に減り、集合場所になっている駅に到着すると、車

両は残っていた3人全員を降ろして文字通り運転手だけのワンマンカ

―で発車した。私を除く中年の二人は夫婦で大きなバックを抱えて他

所者としか思えない身形から同じ目的で降り立ったことはすぐに察し

がついた。ところが、無人駅の改札を抜けて駐車場を見渡しても4、

5台の車は停まっていたが、案内では待機しているはずのマイクロバ

スが見当たらなかった。するとすぐ近くに停まっていたワゴン車の助

手席から一人の中年男性が近付いてきて自己紹介をしてから、

「失礼ですが、宿泊体験ツアーの方ですか?」

と訊いた。それ以外には考えられなかったはずだが、

「そうです」

と応えると、

「失礼ですが、マイクロバスはこちらの車に変更させて頂きました」

彼が言うには、定員が予定に満たなかったためワゴン車で対応するこ

とになったらしい。そしてワゴン車のサイドドアを開けながら乗車を

促すと、すでに座席には3人が占めていた。一組の夫婦ともう一人は

まだ若い女性だった。いずれも東京近郊からの参加者で自らの車でや

って来て合流したらしい。中年夫婦と譲り合って私が先に乗り込むと

奥に居る女性に会釈してから三人掛けの席を一つ空けて腰を下ろし

た。担当者は助手席の乗り込むと後ろを振り向いてこれからの予定を

確認した。

「まず失礼ですが、これからすぐ近くにある『道の駅』で食事をとり

ます。その後、失礼ですが、是非とも皆さんには震災の被災地の状況

を見ていただくために、失礼ですが沿岸の方を周ってそれから本日の

宿へと向かいます」

それらは予定表に書かれたままの行動だった。彼は一応の説明を終え

ると前を向いて運転手を促した。ワゴン車は僅かばかりの寂れた商店

街を抜けて幹線道路を疾走した。しばらくすると静まり返った車内に

口笛の音が聞こえ始めた。後部座席の誰もが場違いな口笛の音色の

出所を確かめようとしていると、前の男性が助手席の担当者の背中を指

差した。担当者は後部座席の戸惑いを意に介さず何の歌かは定かでは

ないがいよいよ流暢にさびのメロディーを奏で始めた。するとそれま

で無表情だった後部座席の乗客たちからも笑みが洩れはじめた。さす

がに東京で暮らす者は人前で堂々と口笛などを吹くことなど躊躇った

し、たぶん街中であっても間違いなく頭がおかしいと怪しまれるだろ

う。ところが彼の口笛が奏でる、やっと判った「なだそうそう」の音

色はのどかな山間の田園風景と相まって何とも言えない寛いだ雰囲気

を生み、まるで体裁ばかり気にする都会人の分別をあざ笑っているよう

で何か微笑ましかった。いや、もしかするとそれは車中の雰囲気を和ま

すための彼独特の気遣いだったのかもしれない。

「それにしてもまだこの国には口笛を吹く人がいたんだ」

          (14)

 幹線道路沿いの「道の駅」に到着する頃には担当者の口笛のお陰で

車内の雰囲気もだいぶ和らいで、それぞれの夫婦が交わす遠慮のない

会話が耳に届いた。ただ、独りで参加した女性だけは窓際に座ってイ

ヤホーンをしたままずっと窓の外ばかり眺めて馴染もうとはしなかっ

た。強い意志を感じさせるキリッとした目をしていて顔立ちはまるで

刃物で丸みを削ぎ落としたような輪郭のはっきりしたきれいな女性だ

った。髪は後ろで束ねられて細工されていた。私は、何故か彼女を見

た瞬間に井上靖の小説「敦煌」に出てくる西夏の若い女を思い重ねた。

小説「敦煌」は宋の時代の話で、主人公の趙行徳は念願の官吏試験

に挑むが試験会場で待たされている間に眠入ってしまい、まるで「邯

鄲の夢」のような展開によって試験を受けられなくなってしまう。失

意のうちに城内を歩き回っているうちに城外に出てしまい、市場に黒

山の人集りができていて、そこには不義をはたらいた上に重罪を犯そ

うとした裸の女が切り売りされようとしていた。女は西夏出身で自らが

殺されることにまったく怖じけた様子がない。彼はその女を買い取って

自由にしてやると女は彼に西夏文字が書かれた一枚の布片を与えた。

こうして主人公は西夏の女の激しい気性と謎の西夏文字に惹かれて西

夏へ行こうと決心する。そもそも小説「敦煌」は、1900年の初めに流砂

に埋もれた洞窟から九世紀も前の夥しい量の文書が発見された驚くべき

事実から、井上靖氏がその顛末を空想した物語であって、趙行徳も西夏

の女も架空の存在でしかない。私は趙行徳を西夏へと向かわせる動機に

しては些か無理があると思ったが、どうしてか西夏の女のことだけは記憶

に残っていた。そして農業体験ツアーのワゴン車で始めて彼女を見て「西

夏の女だ」と心の中で叫んだ。私は趙行徳と同じようにどこか陰のある彼

女が気になって仕方なかった。

 ワゴン車が駐車場に停車すると担当者が、

「遅くなって失礼ですが、ここでお昼を取っていただきます」

前の席の者がサイドドアから降り始め、私は奥に座っている彼女のた

めに椅子を移動させようとすると、担当者が助手席から、

「あっ、彼女はもうお昼は済まされてますので降りられません」

と言ったので彼女だけを残して車を降りた。レストランはバイキング

形式で地産地消を謳った料理が大皿に並べられていたが、既に昼のピ

ークが過ぎていたので空の皿が三つ四つあった。ワゴン車に戻ってく

ると相変わらず彼女はイヤホーンをしたまま窓の外を眺めていた。車

は駐車場を出てから幹線道路を右折して未だ震災による大津波の爪跡

が残る沿岸の方へ向かった。海岸線を望める高台に立って海岸線へと

続くきれいに整地された平地には何事も起こらなかったようにも見えた

が、「3.11」までは千人余りの人々が暮らす町があったと担当者の

説明を聴くとあまりにもかけ離れた現実から想像ができなかった。取

り戻すことのできない現実と想像できないもどかしさだけが残った。

ただ私は、この時も車から降りようとしなかった彼女のことが気にな

った。

「どうかされましたか?」

「ちょっと疲れただけですからどうか気になさらないで」

それ以上関与するわけにはいかなかった。ワゴン車が宿舎に着くと、

さすがに彼女も車から降りなければならなかった。私が椅子を移動さ

せてから降りると、彼女は意を決して立ち上がって後に続いた。しば

らくして振り返ると、彼女が片方の足に重心が移る度にそちらの方へ

身体が傾いだ。彼女は足が不自由だった。

          (15)

その日の宿は当地では名の通った老舗旅館で、震災による原発事故

の前ならとても一般が利用することなど憚られたが、しかし風化しな

い放射能汚染の不安から来客が途絶え、否、それどころか代を継いで

住み慣れた地元の者でさえも思いを残して立ち去る始末なので一時は

廃業さえ考えたが、しかし再びかつての暮らしが戻ってくる日がくる

ことを信じて存続させるために破格の料金で宿を提供している、と担

当者は言った。そう言われてみれば、なるほど格調のある建物や趣き

のある庭園などを目にすると他人同士の集りであるツアー客にすれば

些か敷居が高かった。

 しかし部屋はその本館ではない別棟の新館に案内され、夕食もその

別館の個室が宛がわれ、部屋には真ん中に大きなテーブルがあり、す

でに席には漆塗りを模した黒いプラスチックの折箱が蓋をして置かれ

ていた。私が部屋に入った時にはすでに「西夏の女」は席に着いてい

た。軽く会釈をして彼女とは対角の席に腰を下ろすと、彼女も座った

まま会釈を返した。すぐに二組の夫婦がやってきてそれぞれ向かい合

った空席を埋めた。遅れて担当者が現れて「失礼しました」と私の席

とは角を挟んだすぐ横の席に立って改めて自己紹介することを求めて

掌を私の方に向けた。私は座ったまま、

「高橋寛です。東京から来ました。よろしくお願いします」

と簡単に済ますと、担当者はさらに続けるものと思ってしばらく黙っ

て私を見詰めていたが諦めて隣の夫婦に視線を遣って頭を下げながら

掌を差し出した。私の簡単な自己紹介は後の者にも伝播して、最後に

「西夏の女」は小さな声で、

「カガワセイコです。よろしくお願いします」

とだけしか言わなかった。彼女は「カガワセイコ」という名前だった

。彼女のことをもっと知りたかったのに始めに自分の素性を明かさな

かったことを少し悔やんだ。食事の前に担当者が今後の日程のブリ

ーフィングを行ない、その後には振興課の課長が挨拶をする手筈だっ

たが、定員20名の募集に6名しか集まらなかったからなのか、

「失礼ですが、急に仕事が入って来れませんので割愛します」

と、担当者は「割愛」の使い方が間違っていることも知らずに資料に

目を落としたまま小さな声で言った。そして、手にした資料をぞんざ

いに傍らに置いたので、私は何気なく自分の前に置かれたその資料を

覗くと一番上に参加者の名簿があって彼女の名前が載っていた。「カ

ガワセイコ」は「賀川星子」だった。

「それでは食事にしましょう」

と担当者の掛け声によってテーブルに置かれた折箱の蓋を開けると、

色とりどりの料理が升目に並べられた角皿に詰められていた。そして

誰もが箸を止めさせない他愛もない会話をしながら夕食は始まった。

私は一切「西夏の女」、じゃなかった「賀川星子」には目もくれずに

担当者の話や夫婦同士の会話に耳を傾けていた。つまり私は彼女のこ

とばかり意識していた。ただ、彼女と一緒に歩いてこの部屋を出て行

くことが気が引けたので誰よりも早く折箱の蓋をして、

「ごちそうさまでした」

と言うと、担当者は箸を止めて、

「えっ!もう食べたのですか?」

「ええ、先に部屋へ戻ってもいいですか?」

「いいですけど」

私は立ち上がってみんなに一礼して個室を後にした。自分の部屋へ戻

る廊下を歩きながらも頭の中では彼女のことばかり考えていた。もし

かしたらケガだとかの原因によって一時的に跛行せざるを得ないだけ

かもしれない、と他人の境遇を勝手に悲観している自分を慰めた。

 しかし寝床に入っても彼女のことが頭から離れず夜更けになっても

寝付けないので起き上がって窓を開けて外を眺めた。二階の部屋は庭

園に臨んでいた。窓を開けると夜に追い遣られた冬の寒気が流れ込ん

できた。手入れされずに荒れ始めた木々の間から歩道に沿って外灯の

支柱が生えその先端の明かりが私が居る建物の入口へ至る歩道の雑草

を照らしていた。その歩道を独りの女性が跛行してこちらに近づいて

きた。彼女はしばしば立ち止まってはしばらく夜空を見上げた。何度

目かの時に私と目が合った。たぶん5階建の建物の窓に灯りが燈って

いるのは私の部屋だけで、彼女にすれば勝手に目が行ったにちがいな

い。私は思い切って声を掛けた。

「何をしてるんですか?こんな時間に」

彼女は見られていたことを気まずく思ったのかしばらく黙っていたが

「ほら、星があんなにきれい」

と、それまでの暗い表情ではなく笑みを湛えて上を指差した。下ばか

り向いていた私は彼女の指に促されて見上げるとそこには漆黒の夜空

を埋め尽くす無数の星々が生き生きと輝いていた。それは東京では決

して見ることのできない美しい宇宙の神秘だった。

「ね、きれいでしょ」

と、彼女は夜空を見上げながら言った。

「ああ、きれいだ」

と、私は彼女を見下ろして言った。彼女が湛える満面の笑みは満天に

煌めく星々よりも輝いていた。彼女は地上の星だった。

「でも、いつまでもそんなとこに居たら風邪を引きますよ」

「ええ、もう部屋に戻ります」

彼女はそう言うと臆することなく跛行しながら歩き始めた。私は左足

に重心をかける度に傾ぐ彼女を建物の中に隠れるまで見送った。そし

て、彼女が足が不自由なことをまったく気にしていないことを知って自

分の安っぽい同情が恥ずかしくなった。

 彼女が居なくなった後もしばらく漆黒の宇宙に光輝く神秘的な星空

を眺めていた。やがてその神秘性は星々を眺めている自分自身にはね

返ってきて、果たして自分はこの広い宇宙の中でいったい何のために

存在するのかと思い始めた。無限に拡がる生命なき宇宙の中で唯一の

生命体を有する地球とそこで生きる命こそがまさに神秘であり奇跡そ

のものではないか。星々の神秘とはそれを受け止める生命体の神秘に

他ならない。宇宙は神秘的でも何でもない、ただ在るだけだ。存在を

超えた何かなど生命体が描くイリュ―ジョンでしかない。われわれは

何かのために生きているのではない、生きるために何かを求めている

だけだ。おそらく生命の誕生以上の如何なる神秘も奇跡も宇宙では起

こらないだろう。つまり生命こそが奇跡であり神秘なのだ。命を繋い

で生存を存続させること、それこそが命を受け継いだ生命体の使命で

はないか。ところが、ここ福島では「豊かさ」というイリュージョン

のために命を繋ぐための生存環境が破壊され「在るだけの宇宙」が剥

き出しになった。たとえば「何のために生きているのか?」と問われ

れば、そんなこと解るわけがない、ただ生命体ができることは命を繋

いで生き延びることだけだ。しかし、ここ福島では命を繋ぐという神

秘的な営みが絶たれた、「豊かさ」というイリュージョンを追い求め

る自らを知的生命体と名乗る生命体の手によって。

          (16)

 どうやら風邪をひいてしまったようだ。朝起きて出掛ける支度をし

始めるとすぐに躰が熱くなって喉がえがらっぽく、脳がフィルムに包

まれたようにボーッとしていた。それでも予定されていた農場見学に

参加したが、最後の牧場見学では意識がいよいよ利己的になって、年

老いた牧場主が語る体験談を聴いていても、その話よりも彼が話し終

える度に頻りに舌を出す仕草が、すぐ後ろで柵から頭を出して藁を食

む乳牛たちの舌を伸ばす仕草とダブって、笑いを堪えるのに必死だっ

た。帰りの車の中ではフィルムに包まれた脳は外界への意識を朦朧と

させたが、逆にフィルムに閉じ込められた意識は妄想を膨らませた。

 宇宙はビッグバーンによって生まれ、世界を構成する質量そのもの

は宇宙誕生以来不変である。生命体を形成する物質もそれらからもた

らされるとすれば物質の特性から逃れることはできない。その特性と

は、物質はさまざまな分子が結合して生まれ、その分子はまた小さな

原子からなり、原子もさらに小さな素粒子からできていて、素粒子は

電荷を持つ。電荷は異なったもの同士では結合する引力が働き、同じ

電荷同士では反発する斥力が働く。世界を構成する質量とは物質とエ

ネルギー、つまり「存在と力」なのだ。そもそも物質を構成する素粒

子はなぜ電荷を帯びているのかはビッグバーンまで遡らなければなら

ないが、物質は「反」物質と結合して光を放って消滅するはずだった

が、しかし「対称性の破れ」によって反物質と結合できず「無」へ回

帰できずに取り残され引き裂かれたことによって電荷を持つようにな

ったのかもしれない。電荷は反物質との結合を求めているが、しかし

すでに反物質は存在せず、仕方なく他者との結合と反発を繰り返して

いる。つまり、電荷は他者と結合するためにもたらされたのではなく

、反物質と分裂したことによってもたらされたのだ。ところで、生命

体もまたそれらの物質の結合によって細胞を構成し、細胞は分裂増殖

して成体を形成し、成体は生存を存続させるために様々な受容と拒絶

を繰り返して環境への適性を高次元化させた。生命体とは物質の「存

在と力」による引力と斥力がもたらす複雑な自然現象であるとすれば

、と言うのも命が亡くなっても生命体を構成する物質そのものは無く

ならないので、物質から見れば生命体とは複雑な結合がもたらす自然

現象だと言ってもそれほど間違っていないだろう。だとすれば、現象

である生命にその本質を求めても何かが見つかるとは思えない。たと

えば、雲はなぜ斯く在るのかと言えば雲という現象を構成する粒子の

特性と影響を与える外的影響によって説明されるように、では生命と

は何かと問うなら、まず生命体という現象を構成する粒子の特性を語

らなければならない。存在とは「無」から取り残された不完全な物質

によって構成され、絶対「無」への回帰こそが完全な形であるなら、

それらから構成される生命体も不完全な存在で、存在の意義など伴わ

ないただの仮象に過ぎず、すでに存在しない反「自分」を追い求めて

他者との結合と反発を繰り返しながらやがて仮象は、つまり生命は消

滅する。こうして我々という現象は、さながら宿命の人を失った者が

次から次へと及ばぬ相手にその影を求めるように、完全な結合から取

り残された後悔とそれでも生きなければならない虚しさに苛まれなが

ら存在している。もしも、物質が無限に拡がる宇宙空間の中で「無」

への回帰に抗いながら有限を保って存在し、そして消滅から逃れるた

めに結合と反発を繰り返して物体や液体、或いは気体を形成して本来

の姿を変化させたとするなら、それらの物質の結合によってもたらさ

れる生命体もまた、「無」への回帰に抵抗するために存在の限界を保

ちながら変化し続けなければならない。つまり、空虚な宇宙空間の中

で存在そのものに意義があるとすれば、そして存在とは抗いであり有限

であり変化であるなら、またそれらから生成される人間存在も、抗い

、つまり生きるとは闘うことである、有限、つまり無限を追い求めず、変

化、つまり進化し続けなければならない。

          (17)

 宿舎へと戻るワゴン車の中でついに寝てしまった。「着きましたよ」

と呼び掛ける担当者の声で目を覚ますとすでに私以外の乗客は誰も居な

かった。たぶん西夏の女は、寝ている私にはまったく気に掛けずに車か

ら降りたに違いない。と言うのも、朝の食堂で顔を合わせた時も、それ

から私が後から車に乗り込んだ時も、それは昨夜打ち解けて話を交わし

た明るい印象からはまったく想像できないほどに無愛想で、こちらから

声を掛けても煩わしそうに目を逸らしたからだ。彼女にいったい何があ

ったのか知る由もないが、ただ、彼女の人格はもっぱら気分が支配して

いるように思えた。

 担当者に風邪を理由に夕食への出席を断って部屋で寝ていると、旅館

の女中さんが席に出された折箱を部屋まで届けてくれた。そこにはカゼ

薬が添えられていた。その気遣いに感謝しながら折詰を平らげて薬も飲

んで再び眠った。しばらくすると部屋のドアをノックする音で目が覚め

た。部屋の明かりを灯して時計を見るとすでに十時を過ぎていた。訝り

ながらドアを開けると西夏の女が申し訳なさそうに立っていた。

「カゼをひかれたとか、お体の加減はいかがですか?」

私は突然の彼女の訪問に驚いて、その表情から窺える彼女の気分を推し

測りながら、

「どうもご心配をお掛けしました。お蔭で大分元気になりました。たぶ

ん明日の視察には参加できそうです」

「そうですか、それは良かったです。何だかわたしの所為でカゼをひか

せてしまったので気になって」

ドアを挟んでの立ち話だったが、彼女は得体の知れない西夏の女ではな

く賀川星子だった。すぐに会話は途絶えて、彼女は立ち去るものだと思

っていたが一向にその気配がなかった。かと言って出会ったばかりの女

性を深夜に部屋に招くわけにはいかない。短い沈黙のあと私は口を閉じ

たまま喉の奥で咳をした。すると、

「ごめんなさい、ここでの立ち話はお体に障りますよね。あのー、もし

よければお部屋に入ってもいいかしら?」

彼女の言葉に一瞬戸惑いながら、

「あっ、いいですよ、あなたさえ良ければ」

彼女の目を見ながらそう言った。そしてずっと握っていたドアノブを引

いてドアを開いた。彼女は頭を下げてから歩くたびに体を傾げながら部

屋に入った。私はそのうしろ姿を見ながら彼女への想いが次第に失せて

いくのを感じた。彼女に対する憧れのようなものが憐れみへと微妙に変

化したからかもしれない。新館の部屋はすべて洋式のツインルームでど

の部屋も同じ造りだった。彼女はたぶん部屋ごとに違うベットの上に掛

かった小さなリトグラフを一瞥してから窓のカーテンを開けてガラス越

しに外を眺めて、

「今夜も星がきれい」

と言った。私はドアを閉めて、

「カゼがうつらなければいいですが」

「カゼなんて気にしないから」

そう言いながら窓際のベットの端に腰を下ろした。そして、

「ねえ、あなたはどうして農業を始めようと思ったの?」

と聞いた。

「えっ、どうしてって」

私は自分の思っていることを簡単に伝えることができなかったので、

「あなたはどうしてですか?」

と返した。

「わたし。わたしはもう、わたしの人生は終わってしまったから、都会

から逃げ出したかったの」

わたしはその深刻な告白にどう応えていいのか分からなかったので黙っ

ていた。

「ほら、足が悪いでしょ。事故で足を痛めてから何もかも終わってしま

ったの」

「事故ですか?」

「ええ、自動車事故」

「そうなんですか。でも足が悪いだけで人生そのものが終わったわけで

はないでしょ」

「ダメよ、片輪の女なんか。憐れみを買うばかりでいざとなったら誰も

まともに係わろうとは思わないんだから」

「そうかな、そんな大したことだとは思わないけど」

「そうよ。他人にとってはどうだっていいことなんだけど、私にとって

はそれがすべてなの」

わたしは彼女のこれまでの心の葛藤も知らずに軽々しく慰めようとした

ことを恥じた。その苦しみは彼女が言った「片輪」という言葉に表れて

いた。わたしはその言葉に驚かされた。自らの身体を淡々と「片輪」と

言い切るまでにはどれほどの心の葛藤が繰り返されたことだろうか。

「私ね、どうしても農業がしたいからこの視察ツアーに参加したわけじ

ゃないの。もちろん生きていくためには働かなければならないけれど、

もう他人の好奇の目に曝されて身構えながら生きることにウンザリした

の。だから生きるにせよ死ぬにせよ、人知れずのんびりと暮らしたいと

思ったの。でもね・・・」

彼女は現地視察に参加してのんびりと暮らしている自営農家などまった

く存在しないことにガッカリした、と言った。それはわたしも同じ思い

だった。すでに経済至上主義は限界集落で暮らす人々までも洗脳し、面

白くもないイベントやどれもこれも似たり寄ったりの特産品を取り上げ

て「村おこし」に躍起になっている。それらは成功させなければならな

い正に都市イズムそのものだった。そして農家は農業所得を増やすため

に効率化を求め、設備や重機などを揃えるための先行投資を借金をして

購い、すでに農業は機械や薬品に頼らなければ成り立たないほど近代化

が進み、そこで余生をのんびり暮らしたいと思っている定年退職者や、

都会の煩わしさから遁れてゆっくり暮らしたいと願っている新規就農者

などは思いもしないブラック企業以上に過酷な労働を覚悟しなければな

らない。こうして近代化がもたらす効率主義の波は都市を呑み込んで農

村まで及び、農村で暮らす人々は都市で暮らす人々以上に近代化を渇望

している。

「たぶん、ぼくたちは波を避けようとして波の来る方へ逃げようとして

いる」

          (18)

 学生の頃、明け方まで友人たちと飲み歩いた帰り、始発電車を待って

駅から自宅までの道を酩酊しながら辿っていると、向こうから一人の男

が棒切れのようなものを振り回しながら悲鳴のような叫び声を上げてこ

っちへ向かって歩いてきた。寝静まった街は他に人影もなくただ異様な

叫び声だけが響いていた。わたしは酔っ払いだと思って相手にせずに行

き違おうとして道を譲ると、その男が振り回していた棒切れは盲人用の

白い杖だった。彼はわたしの存在にはまったく気付かずに慟哭しながら

白い杖を振り回していた。いったい彼に何があったか知る由もないが、

その悲痛な慟哭は振り回す白い杖そのものに象徴されていて、それ以上

の理由などどうだっていいことに思えた。すれ違った後、どうすること

もできないもどかしさから居た堪れない思いに苛まれてすっかり酔いも

醒め、彼が通り過ぎた後もしばらくわたしの頭の中には彼の悲痛な叫び

声がこだましていた。たぶん彼も人前では決してそのような自棄的な振

舞いは露ほども見せずに自らの境遇を淡々と受け入れて、もちろん生き

ていくためには受け入れざるを得ないのだが、平穏に日々を送っていた

に違いない。人は誰しも大なり小なりどうすることも出来ない苦悩を抱

えていて、生きるためにその苦悩から目を背けている。ところが、身体

の障害は隠すことができない。どれほど自分自身で納得しても生活に戻

ろうとして立ち上がった瞬間に躓く。それくらいのことは覚悟していて

も、健常者の前で奇態を曝け出さなければならなくなった時にその覚悟

は脆く砕け散り、居た堪れない思いに苛まれる。障害が精神の自由まで

も挫くのだ。わたしが感じた「居た堪れなさ」は彼がこれまでに何度も

味わってきた思いに違いない。

「私ね、明日からの研修は参加しないことに決めたの」

賀川星子は座っていたソファから立ち上がってびっこを引きながら窓の

側へ近付いて再び夜空を眺めた。

「どうしてですか?」

「だって農業がしたいから参加したんじゃないのよ」

「そうでしたね」

「ほんとうは一人になってゆっくり考えたかっただけなの」

「ええ」

彼女が話さなかったのでしばらく静まった。そして、振り返って、

「ねえ、お酒飲みません?」

「あります?」

「冷蔵庫に」

そうだった、確かに部屋の冷蔵庫には缶ビールが入っていた。冷蔵庫

から缶ビールを二つ取り出して一つを彼女に手渡した。プルタブを引き

開けてからお互いの缶を合わせた。彼女はすぐに缶に口を付けて傾け

一気に喉に流し込んだ。わたしは熱くなった喉を労わりながらゆっくり飲

んだ。カゼの所為でまったく味はしなかったがその冷たさが美味かった。

味覚は五つあると言われているが、なぜ冷たさや熱さといった温度がそ

の中に数えられていないのか不思議だった。缶を口から離して頭を戻し

た彼女と目が合った。わたしはとっさに目を逸らして二人の間に置かれ

たテーブルに缶ビールを置いた。そして、気になっていることを聞いた。

「でも、どうしてそんなに大胆なんですか?」

「だいたん?」

「だってふつうは警戒して男の部屋に一人で入ったりしないでしょ」

「もしかして迷惑だった?」

「いやそんなことないけれど、ただ驚いただけです」

「ほら、さっきも言ったけど事故で私の人生は終わってしまったから、

もう怖いものなんて何もないのよ」

「ふーん。でもいったいどんな事故だったんですか?」

「私、結婚するつもりで付き合っていた人が居たんだけど、その彼がず

っと前から付き合っていた女性とも続いていたことが分かって、それま

でにも何度かそんなことがあったんで、それで決心が着いて別れようと

思った」

「二股っていうやつですね」

「しばらくして、どうしてももう一度会いたいというので会って最後にしよ

と思ったの」

「うん」

「すると彼は何故か車で来たので仕方なく助手席に座った。何処へ行く

つもりなのかと訊いても教えないで、ただ自分の勝手な言い訳を繰り返

すばかりで私は耳を貸さずに黙っていた。郊外の洒落たレストランに着

いたが、そこは二人が初めてのデートで車で立ち寄った店だった。付き

合い始めた頃はそんな凝った演出も自分を喜ばしてくれるためにしてく

ているんだと好意的に受け入れたけれど、嫌いになると、ウケた話を

何度でも繰り返す無粋さや、別れ話をするためにわざわざそんな所まで

連れて来る鈍感さが耐えられなかった。私はまったくそんな気になれな

かったので入らずに帰ろうとしたけれどどうして帰ればいいのか分から

ない。仕方なく彼に元の場所へ引き返すように訴えて彼も仕方なく了承

した。帰りの車の中では今度は私が彼から受けたストレスをぶちまけた。

彼は黙って聞いていた。そして、次の交差点を右折すればいよいよ私の

家に近付くというところで、彼は何を思ったのか停止していた右折レーン

から車を急発進させたので直進してくる対向車と衝突した。助手席に座っ

ていた私に対向車が全速で突っ込んできた。対向車のヘッドライトの閃

光が眩しかったことは覚えているが、その後のことは何も覚えていない。

気が付けば病院のベットの上で、骨盤と大腿骨など何ヶ所も損傷してい

ると医者が説明した」

言い終わると彼女は缶を逆さにして残ったビールを飲んだ。

          (19)

 あまりにも痛ましい話にどう応じていいのか分からず黙って聞いてい

たが、彼女がビールを飲み終えるとわたしは立ち上がって、

「もう一本飲みますか?」

と、冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出して差し出すと、彼女は「ありが

とう」と言って二本目の缶ビールのプルタブを開けた。そして一口流し

込むと、

「誰かに追い駆けられる夢って見たことあります?」

と聞いた。私は、

「あ、子供のころに何度か見たことがある。おれ、実は走るのが遅くっ

て運動会とか苦手でさ、どうすれば速く走れるのか悩んでいた時に、い

くら足を動かしても全然前に進まない夢をみたことがある」

「へえー、あるんだ。わたしね、足が悪くなってからいつも誰かに追い

駆けられる夢を見るの。それで必死に逃げようとするんだけれどまった

く足が動かないの」

「それで」

「んーん、ただそれだけなんだけど、焦っているうちに目が覚めて気が

つけば体中が汗びっしょりになってる」

「ふーん」

「不自由な身体って言うでしょ、目が覚めた時にわたし体の自由を失っ

たんだと実感した。自由っていうのは思い通りに動けることなんだと思

った」

「なるほど」

「でも、街を歩くと他人の同情的な視線に耐えられなくなって出歩けな

くなってしまった」

「辛かったでしょうね」

「それで人目の少ない夜に出歩いていると、昼と夜の生活が逆転してし

まって、するとどんどん社会から取り残されて、いったい自分は何のた

めに生きてるのか、生きてる意味がわからなくなった」

「・・・」

「それから三年くらい部屋に引き籠って死ぬことばかり考えていた」

「でも死ななかった」

「ええ、死ねなかった」

「あなたは強い人ですね」

「えっ、強い?」

「ええ、そんなに辛い目に遭っても死ななかった。つまり自分に負けな

かった」

「自分に負けなかった?」

「だっていま生きる意味がわからなくなったって言ったじゃないですか。

生きる意味がわからなくても死ななかった」

「でもそれって強いのかしら」

「命が自分の思い通りになるなら、たぶん人間なんてとっくの昔に絶滅

しているよ。何のために生きているのかわかって生きている者なんて誰

も居ないんだから」

「じゃあ、みんな何のために生きているのかわからずに生きているの?」

「あなたがこうして生きていることに意味があって、何かのために生まれて

来たわけじゃない」

          (20)

生物学を勉強していると、例えば顕微鏡でゾウリムシなどの原生生物

を観察していると、次第に彼らと自分の違いが分からなくなってくる。

もちろん構造そのものは比ぶべくもないが、ただ存在することの違いに

、つまり我々だけが何か特別な存在だとは思えなくなってくる。もしも

彼らが意味のない存在だとすれば、構造がどれほど複雑に進化したとし

ても存在の意義が新たに生まれてくるとは思えなかった。

「意味などないですよ、生きることに」

私は自分に言い聞かせるように吐き捨てた。

「虫なんかと一緒にしないでよ」

「じゃあ一体何が違うんですか?」

「だって、・・・」

「生命体を構成する物質なんてまったく同じなんだよ。そしてタンパク

質を作るアミノ酸は炭素、酸素、窒素、水素がほとんどで、それらの物

質のどこを探しても心や精神といった形而上の根源は存在しない。つま

り生存の意味なんてイリュージョンですよ」

「じゃあ私の悩みも妄想だと言うの?」

「ええそうです、そもそもモノに心なんてありませんよ」

「でも、モノと生きものは違うじゃない」

「ええ、違います。でも、何故物質が結合して命が芽生えるのかは解

っていません」

 わたしは確とした思いがあって経済学部に進んだ訳ではなかったが、

身近に国際政治学部を出た先輩が就職できずに生活のため仕方なく新聞

配達をして糊口を凌いでいるのを見て、就職に有利な学部を選ぼうと考

え直して本来は目的であるはずの学問を経済の手段に貶めた。その結果

は明白で関心のない授業について行こうとも思わなくなり、遂には出席

することさえ苦痛になっていたが、たまたま出席した授業でマルクス経

済学を知りそして夢中になった。やがて「資本論」を読んでいるうちに

資本主義経済の剰余価値を産む仕組みが生命体が細胞分裂して増殖する

仕組みと似ていることに気付いて、資本主義経済を知るために生物学部

へ転部した。そして様々な生物を眺めているうちに「なぜ彼らは動ける

のか?」という単純な疑問が頭に浮かんだ。生物を自ら動くことのでき

る様々な物質の結合体と定義すれば、もちろん植物さえもゆっくりでは

あるが動いているのだが、それらが自ら動くことの出来ない物質が結合

して生成されるとすれば、そこには一体如何なる秘密が隠れているのか

知りたかった。生命体を形成する物質は共有結合した分子で、分子は原

子からなり原子は電荷を持った素粒子からなっていて、それらの電荷は

引力や斥力として他者に作用して結合や反発をもたらす。つまり、物質

を構成する原子はただ存在するのではなく電荷を帯びて動いていた。

そして結合を繰り返しながら長い変遷を経て有機結合した分子はその

エネルギーを運動に転化させた。それを生命体と呼べるかどうかは別

にして、まず初めに存在があってやがてそれらが動き出して、そして運

動の選択が様々な「思い」を残したのだ。つまり、運動は精神に先行す

るのだ。

 そのあと、わたしは世界を知るには素粒子しかないと思って物理学部

への転部を考えたが、信頼する先生から、「君は前に進まないで横に転

がってばかりだな」と言われて諦めた。

          (21)          

 しばらく沈黙したあとで彼女は、

「命はモノと違うと言うならそもそも心とか精神の根源がモノに無くた

っていい訳でしょ?」

と言った。わたしは、

「ええ」

としか答えられなかった。唯物論は存在について語ることが出来ても、

心や精神についてはその術がなかった。そして人間、わけても社会的人

間にとってはむしろ心や精神の方が重要なのだ。

「確かにそうかもしれません。だとすれば心や精神といったものは生命

の誕生によってもたらされたということになる」

わたしは考えて言った言葉があまりにもありきたりだったのですぐに後

悔した。心や精神といったもの、簡単に言ってしまえば「良いと悪い」

は、物質の結合によって芽生えた生命がその命を存続させるために進化

を余儀なくされ、更なる結合と排斥を繰り返えして存続を維持するため

にもたらされた記憶がもたらす一種の感覚のようなものでしかないと思

えた。そしてその根源を遡れば素粒子が持つ電荷の性質に辿り着いた。

エネルギーとしての素粒子は絶えず運動をしながら他者との結合と排斥

を繰り返して安定した原子へ転化し、原子もまた同じシステムで分子を

作る。たとえば、集団に身を委ねて生存する個体は集団の存続こそが自

己の生存を左右する限り、集団つまり社会から何らかの恩恵を受けて安

定した生活を得ている個人にとって、社会つまり国家に対して自らの生

活を不安定化させるようなことがらを排斥しようとするのは至極当然で

、我々が右翼思想だとか国家主義だとかという政治思想とは、簡単に言

ってしまえば自己を守るための手段に過ぎず、国家から受ける恩恵の差

が思想の濃淡の差となっているだけで、欲望を充たすための手段に過ぎ

なかった思想がやがて目的へと転化して精神を生む。つまり、心とか精神

とは我々が生存していくための手段であって、手段が目的へと転化して生

存を凌駕するのは倒錯ではないか。何故なら、存在は心とか精神に先行す

るからだ。

しばらくして彼女が言った、

「仮にモノの世界がそうだとしても私は人間なんだから人間として生き

たい」

わたしは、

「ええ尤もです」

と答えるしかなかった。すると彼女は、

「でもあなたの仰ったことが全く受け入れられない訳じゃない。それど

ころか何か救われたような気持ちがする」

その言葉は意外だった。果たして彼女にとって心とか精神が存在しない

物質への回帰が救いなのだろうか。わたしは、

「えっ、救われた?」

と聞き返した。そもそもすべての宗教はたとえ死んでも魂だけは滅ばな

いことが大前提であり、その魂の救済こそが宗教の最大の目的である。

もしも死と共に魂も消滅するとすれば宗教的救済は成り立たない。しか

し彼女は魂の消滅こそが救いだと言った。そして、

「私ね、どうしてこんなことになっちゃったんだろうってずっと悩んだ

わ。宗教の本なんかも読んだりしたけど、でも来世の救いなんていらな

い。もしも救いというものがあるなら元の体に戻してほしい」

そう言うと、テーブルの上の缶ビールを手に取ったがすでに空だったの

でそのままアルミ缶を握り潰した。そして、

「でも、あなたが言うように死んだらモノに帰るとしたら誰も死を避け

ることはできないんだから、なんて言ったらいいのかしら、つまり死の

下では誰もが平等ってことでしょ。つまり、どんなに苦しんで生きたと

しても何れは死が解放してくれる。だったらどんな辛いことだって受け

入れられるような気がするの。それなのに宗教は来世で救うという、終

わらせてくれない」

「だって魂は不滅だもん」

「さっきあなたは存在は精神に先行するって言ったでしょ。それを聞い

てハッと思ったの。どうして今までそんなことに気付かなかったのかし

ら」

「前にね時間を持て余して図書館に入ったことがあって、別に読みたい

本があった訳じゃなかったが、そして何気なくサルトルの本を手に取っ

たら、そこに『実存は本質に先行する』という一行があったんだ。その

時ぼくは今の君のようにそう思った」

「えっ、サルトル?」

「そうサルトル。フランスの有名な作家」

「ふーん」

「でもね、ハイデガーというドイツの哲学者はそれを聞いてそんなもの

はこれまでに何度も転換を繰り返してきたと嗤いながら言ったんだ」

「えっ、どういうこと?」

「つまり時代が変わればすぐに実存よりも本質が先行するって。そして

彼はそもそも哲学的問題を事実存在と本質存在に分けたとしても問題の

本質は何も変わらないと言った。つまり『何のために生きているか』と

考えた時にすでにその答えは本質存在に限定されてしまうと言うのです

。あなたはさっき人間として生きたいと言いましたよね」

「ええ」

「じゃあ人間としていったいどう生きたいと思ってます?」

「理性を失わずに生きることかしら」

「そうです!まさにハイデガーはわれわれの理性こそが事実そのものを

見失わせて本質へ向かわせると言うのです」

「あのー、本質って何んですか?」

「ああ、レーゾン・デートルって存在理由でよかったっけ、さっきあな

たは生きる意味がないと言いましたけれど簡単に言ってしまえばそうい

うことじゃないかな」

「生きる意味ってこと?」

「ええ、そもそも本能だけで生きる動物はそんなことを考えたりはしな

い。敢えて言うならただ生きるために生きている」

「なるほど」

「ところがわれわれの理性はただ生きるだけでは満足できなくなって存

在理由、つまりその本質を求めて遂には生きることを手段におとしめる

彼女はしばらくしてから、

「まあ、あなたの言うことが理解できないわけじゃないけど今の私には

ピンと来ないわ。だって理性を失くしてどうやって生きていけばいいの

、動物のように生きろと言うの?」

「いや、あくまでも理性は生きるための手段であって命を手段にしては

いけないと言っているんです、そもそも命は何かのために生まれてきた

わけじゃないんだから」

そう言うとわたしは手の中で温くなったわずかに残った缶ビールを喉に

流し込んだ。

すると彼女は、

「でもそもそも生きることに意味がないと言うなら、だから死ぬという

ことがそんなに間違っているとは思わないんだけど」

「だって意味がないから死ぬということはつまりは生きることに意味を

求めているってことでしょ。ぼくはその認識が間違っていると言ってる

んですよ」

彼女はしばらく考えてから、

「何だかわけが分からなくなっちゃった。あなたは私が自殺するかもし

れないと思っているのかもしれないけれどもうそんな気はないわ。ただ

事故の後それまでと同じように生きていくのが辛くって、それで東京を

離れようと思ったの」

わたしはその言葉を聞いて少しほっとした。と言うのも彼女が缶ビール

を傾けた時にその袖口から覗いた手首には鮮やかな朱色のケロイド状の

傷跡があったからだ。それは明らかに自傷によるものだった。それを目

にしてからわたしはそのことが頭から離れなったがそのことに触れよう

とはしなかった。彼女は続けた、

「東京で暮らしているとね、回りの目ばかりが気になって気持ちが後退

りして心まで片輪になってしまう」

そう言うと彼女は、抑えきれなくなった感情の昂りを吐き出すように泪

を流しながら、

「いったい自分は何をすればいいのか分らなくなって、生きていても意

味がないと思って、もしそれがあなたの言うように理性の所為なら、理

性を棄てて東京で生きていくことなんて出来ないわよ」

まったく彼女の言うとおりだった。東京では、否、われわれの理性は、

そもそも目的であったはずの生きることを手段へと堕落させ目的を失っ

た存在は生きる意味を失う。そもそも文明社会とは人間が生きるための

手段であったはずだが、目的を見失った存在に取って代わって手段であ

った社会が目的化する。こうして東京では存在そのものが意味を失い社

会こそが意味を有する。

          (22)

「行けるわけないでしょ」

彼女は、弁明によって担当者の白い目に「目入れ」をして開眼させようと

試みたが、成就しなかったので研修ツアーへの参加をあきらめた。そこで

、わたしが無農薬栽培をしている農場を見学に行くので一緒に行かないか

と誘うとあっさり応じた。さっそく担当者を呼んで二人がリタイアするこ

とを告げると、

「これ婚活ツアーじゃないんですけどね」

と嫌みを言った。担当者は二人が「できてる」と信じて疑わなかった。わ

たし達は旅館をチェックアウトして、彼女が車を駐めている駅まで一旦戻

ってから、彼女の車で山間にある農場へ向かった。道中はカーナビが案内

を放棄するほどの山道ですんなりとは辿り着けなかったが、昼過ぎには何

とか到着できた。オーナーの娘さんが迎えてくれて農場内の案内をしてく

れた。その日はすでに農作業を終えていたので、わたし達も寝ていなかっ

たので、娘さんが手配してくれたすぐ近くの温泉宿に宿泊することにした

。応対した係の女性は一部屋しか用意していなかったので、彼女が「二部

屋お願いします」と言うと、しばらく黙って二人の顔を窺った。「できて

いない」男女が温泉宿の相部屋で一夜を過ごすのはさすがに気まずかった

。わたし達は湯に浸かるよりもまず寝ることを優先してそれぞれの部屋に

別れた。

 農家の朝は早い。二人が朝食をすまして農場に着いた時には彼らはすで

に仕事を始めていた。オーナーの娘さんが手袋を外しながら「おはようご

ざいます」と言って現れた。早春の農繁期が始まる前で、今は春野菜を播

種をするための土づくりに忙しいと言いながら、彼らが生活しているログ

ハウスへ招いた。中に入ると傍らの木机で彼女の夫と思しき男性が書類を

拡げて事務作業をしていたが、わたしたちに気付いて手を止めると立ち上

がって、「お早うございます」と関西訛りで名前を名乗った。その側らに

は彼らの幼女がイスの上に立ちあがって何か呟きながら、我々にはまった

く関心を示さずに、ペンを握って夢中で書類に殴り書きしていた。彼が愛

娘に「ゆいちゃん、ご挨拶は?」と促すと、手を止めずに「おはようござ

います」と言って作業を続けた。わたしたちは机の横のソファ―を勧めら

れて一頻り会話をしているとドアが開いて白髪の男性が現れたので、ふた

りは立ち上がって彼を迎えた。オーナーの娘さんは、

「竹口さんです、いまキャベツの栽培をしてもらってます」

彼は名乗ってから自己紹介をした。

「広島からキャベツの無農薬栽培を勉強するために御厄介になってます竹

口です、どうぞよろしく」

そう言って、われわれの方へ掌を差し出した。わたしはてっきり握手を求

められたと思ってその掌を握ると、彼は咄嗟にわたしの手を振り解いた。

一瞬気まずい空気が流れたが、彼が「どうぞ、座って下さい」と言いなが

ら改めて掌でソファーの方を示したので、わたしは自分の勘違いに気付い

て詫びると、みんなが大笑いした。今度は「ゆいちゃん」も作業の手を止

めてみんなと一緒に笑った。

          (23)

 わたし達は竹口さんが運転する軽トラの荷台に乗って圃場へ向かった。

山の端を離れたばかりの朝日は微かな温もりを届けてくれたが、荷台に流

れ込む冷たい春風に追い遣られて吹き飛ばされた。彼女は髪をかき上げな

がら「風が気持ちいい」と言った。まもなくして車は止まったが、辺りは

芽吹いたばかりの樹木に覆われた山の中で何処にも圃場らしき平地は見当

たらなかった。ただ、一か所だけすべての樹木が伐り取られた山の斜面が

見えた。わたしは、

「圃場は何処にあるんですか?」

と聞くと、竹口さんは、

「あそこ」

と言って、その禿山の斜面を指差した。そしてその斜面に続く山道を歩き

始めた。わたしは足の不自由な彼女に「大丈夫?」と聞くと、竹口さんは

気付いて、軽トラへ引き返して鉈を取って、木の枝で杖を作って彼女に渡

した。彼女は礼を言って受け取って、竹口さんの後に続いた。しばらく行

くと、下から見上げていれば気付かなかった斜面は階段状になっていて、

立ち上がりには横たえた丸太を重ねてそれを杭が支えていた。そしてその

一段一段にはキャベツの苗が列をなして植えられていた。わたし達はしば

らくその奇妙な光景を眺めていた。そして、

「何でこんなとこに植えるんですか?」

と聞くと、

「無農薬で作るためだよ」

と言った。わたし達は2日前の研修でキャベツがどれほど農薬を使うのか

を見て来たばかりだったが、それにしても合点がいかなかった。

「でも不便でしょ?」

「確かに便利じゃないけど、慣れればそれほど気にならない」

「でも収穫の時は大変でしょ?」

「いや、収穫ほど楽なことはない」

「えっ、どうしてですか。持って降りるのは大変でしょ?」

「だから持って降りない。転がすんだよ」

わたしはますます合点がいかなくなった。

 そもそも竹口さんは地元の広島でお好み焼き店を営んでいたが、ご存じ

のように広島風お好み焼きは大量のキャベツを入れるが、そのほとんどが

県外産で、地元のキャベツの生産量が消費量に比べて著しく少ないことに

疑問を抱いて、それではと、店を家族に任せて畑を借りて自分でキャベツ

を作り始めた。そもそも広島県は山間地が全体の70%以上占め、農作に

適した平地の少ないところなので、キャベツ栽培など広大な圃場で大量に

栽培しなければ収益が見込めない品目は生産者が敬遠した。そして、まず

始めに驚いたことは、虫による食害や病害からキャベツを守るために大量

の農薬を撒かなければならいことだった。それはわたし達も先日の見学の

ときに実感したが、それを調理して提供する事業者にとっては決して見過

ごすことができないことだった。実際、彼も指導通りに栽培してみて、防

除作業を省くと忽ち食害にやられてキャベツが葉脈だけを残してメッシュ

状になってしまった。それ以来竹口さんはキャベツを無農薬で作りたいと

思い始めたらしい。ちょうどその頃テレビでは「奇跡のリンゴ」という番

組が放送されて大きな話題になっていた頃で、

「それじゃあ私は『奇跡のキャベツ』を作ろうと思った」

と話した。とは言っても、非農家の素人が始めから「奇跡のキャベツ」を

作れるわけがないので、慣行農法による栽培から始めるしかなかった。そ

して最初の年は、借りた圃場がもともと水田だったこともあって、ところ

がキャベツなどのアブラナ科の野菜は水捌けが良くないと育たないので、

思い通りの収穫が得られなかった。それでも自分の店で使うだけなら充分

賄うことができた。翌年は、俄かに「地方再生」だの「地産地消」が叫ば

れて農政が見直され、行政も広島産キャベツの生産を奨励し始めた。竹口

さんは「渡りに船」とばかりに本格的にキャベツ栽培を始めるために中古

のトラクターを買ったり育苗ハウスを建てたりして作付面積を倍に増やし

た。そもそもキャベツは、気候にもよるが、一年で3回作付けできるので

何とか採算が合うと皮算用した。自然が相手の一次産業はどれほど綿密に

計画を立てても思い通りにならないことの方が多い。いきおい計画通りに

収穫できる施設栽培や水耕栽培へと生産者は傾く。

「しかし、カルチャーがないんだよね、カルチャーが。だから面白くない

ほら、農業ってアグリ・カルチャーって言うだろ。あれはアグリ・ファク

トリーだよ、だって耕さないんだから」

わたし達は、竹口さんの話をずーっと聴いて、ほとんど実際の作業をする

ことはなかった。

「えーよ、作業なんて。一日来ただけで何が分かるか」

竹口さんはそう言って話を続けた。

「キャベツを作って大儲けをしたなんてことは一度もなかったが、それど

ころか大損をしたことなら何度もある」

そもそも竹口さんが無農薬栽培を実際に始めようとしたきっかけもそこに

あった。例年のことではあるが、春まきキャベツの収穫は六月下旬頃から

始まるが、まさにその頃は梅雨の真っ最中で、ことに水田を畑に転用した

排水の悪い圃場では湿害によって病気が蔓延して直前で収穫を諦めたこと

もあった。

「水浸しの畦間をジャブジャブ歩きながらキャベツを収穫するなんて思っ

てもいなかった」

そして、七月に入ればキャベツの最大の生産地つま恋産が出回ると価格が

いっきに暴落する。広島県は消費に見合ったキャベツの生産を農家に勧め

るけれど、実際、その甲斐あって広島産のキャベツの生産量は増えたが、

すると、これまで広島の需要を当てにしてきた他県の生産地は何としても

出荷量を減らしたくない。竹口さんは話しながら次第に熱を帯びてきた。

「そこで、どうすると思う?」

「どうするんですか?」

「広島の生産者を潰そうとするんだ」

「えっ。どうやって?」

「今年のキャベツの値段はだいたいキロ60円くらいだったよ、確か」

「へーっ、安いもんですね」

「ああ、まったく儲けにならない。10キロの段ボールで600円。そこ

から箱代や運賃、手数料を取られたらなんぼも残らん」

「そうですよね」

「ところがつま恋が出荷し始めた途端に200円まで下がったんじゃ!」

「赤字じゃないですか」

「それも全国的には600円のままなのに、広島市場だけが200円って

どう考えてもおかしいやろ!」

「えっ!広島だけなんですか?」

「そう広島だけ、狙い撃ちされた」

「だけどつま恋だって損をするわけでしょ」

「本来なら運賃もかかるしそんな値で出荷できるはずがない」

「ええ」

「ところが彼らには損をしない仕組みがあるんじゃ」

「どんな?」

「ま、どこの自治体もそうだけれど安値保証という補助金制度があって、

基準価格を下回ったら補ってくれるんじゃ。だからわざとダンピングして

も損はしない」

「えっ、広島はないんですか?」

「ない!作れ作れ言うくせに」

「へーえっ」

「たぶん、広島ではこれからキャベツを作ろうとする者は減るよ、きっと」

「農家を救うための補助金が別の農家を潰してるんですね」

「そう、補助金が自由経済を歪めてる」

「なんか中国がやってることみたいですね」

 竹口さんは、小規模農家が大規模農家に対抗するには無農薬栽培しかな

いと思っていた。そして、大規模生産者がどんな方法で栽培しているのか

知りたくなって、求人情報でつま恋の収穫作業のアルバイトを見付けて去

年の暮まで働いた。広大な高原に際限なく拡がるキャベツ畑を見て、中国

山地の三反百姓がどう足掻いても敵う訳がない。その時、無農薬栽培しか

ないと確信した。そして、

「おれ、温泉が好きなんだよね、それも寂れた温泉が」

そこで、広島へ帰る序でに足を延ばしてあっちこっちの温泉を巡っている

うちに、わたし達がきのう泊った温泉宿に辿り着いた。

「食事がとにかく美味かった、特に野菜が。それで宿の人に聞いたら無農

薬で作っている農場から毎朝仕入れていると言うんで、教えてもらってこ

こへ来たんじゃ」

竹口さんは、大規模農家への対抗意識から無農薬栽培を考えていたが、野

菜そのものの味についてはそんなに変わらないと思っていたが、とは言っ

ても、そもそもお好み焼き店を営んでいたので食材に無関心なわけではな

かったが、改めて無農薬栽培をやろうと決断した。そしてオーナーに無給

でいいから働かして欲しいと頼み込んだ。わたしは、

「それにしても、どうしてこんな山の斜面を選んだんですか?」

「だってここは山しかないじゃろ」

「まあそうですけど」

「広島だって山ばっかりなんだから。それは前から考えていたんだ。他人

が進んで貸してくれる休耕地はどうしようもない所ばかりなんだから。そ

れにずーっと農薬と化学肥料が撒かれてきたから無農薬ですなんて言えな

い」

「でも、虫が出たらどうするんですか、薬撒けないでしょ?」

「色々考えたが、最終的には寄せ付けないようにするしかない」

「どうやって?」

「一面に防虫ネットを張る」

「へーっ、それって面倒臭いでしょ」

「そう思ったけれど、山の斜面に沿って垂らせば意外と簡単なんじゃ。ほ

ら、あそこにパイプが付けてあるじゃろ」

「ええ」

階段状の畑には各段と傾斜に沿って手摺のようなパイプの柵が付けられ

ていた。わたしは、

「あれは水をやるためですか?」

「違うよ、水は山のてっぺんから一気に放水するんじゃ。あれは防虫ネッ

トを固定するための柵じゃ。もともとはビニールハウスで使う直管なんじ

ゃが、あれにパッカ―でネットを固定するんじゃ」

「パッカ―?」

「ああ、ビニールをハウスに固定するやつ。ほら、ここにもあった」

そう言って竹口さんは青いプラスチックの筒をわたしに見せた。

「へええーっ、これは便利ですね」

「それと、土の中のヨトウ虫なんかは茎を出せるようにした円盤状のプラス

チック・・・、あっ、ちょうど車に積んでた。ちょっと待って」

そう言って、車まで取りに行った。そして、戻ってきて、

「これっ」

と言って、LPレコードをふた回り大きくしたような黒いプラスチックを

わたしに手渡した。それは真ん中に穴が空けてあってそれから半径に当た

る直線で外周までスパッと切られていて、茎を通す穴を拡げても隙間がで

きないように作られていた。

「それはオーナーの知り合いの業者に頼んで作ってもらったんじゃ。もし

かしたら特許を取れるかもしれんて言われたけど。虫だけやないからね、

雑草も防ぐし外葉につく病気からも守ってくれる」

「へーっ、マルチシートをしなくてもいいんですね」

          (24)

 山の端を離れた朝日は、いつしか中天にあって澄んだ春光を届けていた。

竹口さんは腕時計を見て、

「おおっ、もうお昼じゃないか」

わたし達は畔に腰を下ろしたままでいっさい手を汚さずに半日を過ごした。

そして、

「さあ、帰ろう」

と言った。

「えっ、まだ何もしていませんけど」

「したよ、ずーっとわしの話を聞いてたじゃないか。それって貴重な農業

体験だよ」

「まあ、そうですけど」

「始めに言ったじゃろ、一日じゃ何も出来んって」

「ええ」

そして軽トラに乗り込んで本場へ戻った。昼食は宿で用意してもらった弁

当を食べた。そして、竹口さんが言っていた野菜の味を改めて確かめなが

ら口に運んだ。なるほど、それぞれの野菜の味が濃厚だった。もしも昨今

売られているただ甘いだけで味のしない野菜が美味しいとすれば、もっと

もそれらも調味料で味付けしなければ味も素っけもないのだが、ここの野

菜は野菜独特のクセが強くて不味いと思われるのかもしれない。それはペ

ットフードで育った猫が生魚を見ても跨いで去るように、われわれは食べ

物本来の味を見失っているからに違いない。トマトに限らず甘く「加工栽

培」された野菜は野菜本来の個性を奪われて生命力を失う。辛くないピー

マンや甘いレタス、そして臭くないニンニク。食べるという行為はまずそ

の命を殺めなければならないが、もちろん野菜に於いてもそうだが、それ

には幾ばくかの疚しさを伴うものだが、加工栽培された野菜には命を食べ

ることの疚しさを感じない。それは命を継いでいく仕組みが壊されている

からかもしれない。いま売られている野菜からは子孫を残す種は取れない

。ペットフードならぬファストフードで育ったわたしは、クセのある「不

味い」野菜をじっくり味わいながら食べた。

 午後は竹口さんと一緒にキャベツの定植を行なった。階段状の畑はそれ

ほど腰を屈めなくても作業できるので楽だった。夕方には作業を終えて泥

を落とした。そしてオーナーはわたし達が泊っている温泉宿で歓迎会を開

いてくれた。

 オーナーは娘の婿に農場を任せて、自分は専ら小水力発電機の研究に没

頭していた。

「ここの電気もすべてうちの発電機で賄っているや。今は温泉の熱を利用

して発電できんか勉強してるとこなんや」

すると、農場を任されてる婿さんは、

「ゆーさん、もうそれずーっと前から勉強してるやん。いったい何時にな

ったらでき上がるの?」

ここでは関西弁が標準語だった。

「あほ、原発事故の後からやからそんなに経ってへんわ」

「せやかて原発事故いうたらもう6年も前やで」

「もうそないなるか」

しばらくして続々と人が集まってきた。オーナーの娘さんが二人の子供を

連れて農場で働く人たちと一緒にやって来た。その中に竹口さんも居た。

「言うてもここはわしの家じゃけ」

竹口さんはこの宿で寝泊まりしていた。旅館は湯治用に設えてあって自炊

もできた。ここの館長は湯治客だけでなく、「読書温泉」と謳って長逗留

する客のために、電子図書館を使ってタブレットを貸し出し電子書籍を読

めるようにした。それが受けて寂れた湯治場は客足が途絶えることがなか

った。やがて湯治客も騒ぎにつられて顔を出した。オーナーの婿さんは、

「何時もこんなんよ。羊が子を産んだだけでもみんな集まるんやから」

わたし達は圧倒されて黙って聞いていた。オーナーが一通りの説明をして

わたし達を紹介した。わたし達はそれぞれ自己紹介をして頭を下げた。す

ると婿さんが引き継いで歓迎の言葉を述べた。そして「乾杯!」と叫んで

宴は始まった。終始わたしの横に居た賀川さんはいつの間にか居なくなっ

て、娘さんの子供たちと楽しそうに話をしていた。わたしは彼女の屈託の

ない笑い顔をその時に初めて見て、何となく気持ちが和んだ。そして、

この夜が明けないで欲しいと思わずには居られなかった。

               (おわり)

「明けない夜」

「明けない夜」

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-16

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