なき読者(将倫)
この作品は、東大文芸部の部誌で掲載されているなきシリーズの第八作になります。初出は2013年3月発行のNoise41です。
立春を過ぎて十日が経った日の放課後。
先日降った雪はようやく全て溶けるに至ったが、未だ春の訪れを感じさせることはなく、寒い日々が続いている。
教室に残る生徒が少なくなる中、天谷郁太は自分の席で紙の束と対面していた。その眉根には皺が寄っている。
「相変わらず、成長しない……」
思わず漏れた言葉は、誰に聞かれることなく空中で霧散した。郁太が読んでいるのは、文芸系の部活に身を置くわけでもないのにかなりの頻度で書き物をしている淵戸日奈の原稿だ。作品は小説に限らず多岐に渡るが、今回は短編小説だった。それを半強制的に読む羽目になっている郁太であるが、日奈は決して文章が上手くない。だから、郁太は先程からため息を何度も漏らしているのだった。
「内容は別に悪いとは思わないんだけどな」
頬杖をついて、何度目かの独り言を溢す。日奈の作品は基本的に暖かい。人物の内面描写が、稚拙ながらよく伝わってくるのだ。それが郁太は嫌いではなかった。しかし、以前に何作か持ってきた推理小説においては、日奈の持ち味は完全に消えていた。それで郁太は離縁状を突き付けた。以来、日奈は推理小説を持ってこなくなった。
「あ、郁太。やっぱりまだいた」
その快活な声に気付き、郁太は視線を上げた。現在既に日奈の作品を読まされている最中なので、声音にいつもの不穏な響きはなかったが、あまり良い予感はしない。視線を教室後方のドアに移すと、そこには日奈ともう一人生徒が立っている。
「どうした、日奈?」
内心は表に出さないよう、努めて平静に郁太は聞き返した。この状況は以前、修学旅行のときにも一度あった。つまり、そういうことなのだろう。
「あのね、由良ちゃんが困っていることがあるから、郁太に手伝ってもらいたいの」
日奈はそう言うと、隣に控える野辺由良に説明するよう促した。野辺と郁太に接点はなく、野辺は窺うような視線を向けて話し始めた。
「えっと、高校生にもなってとは思ってるんだけど、友達と宝探しゲームをしてたのよ。自分の持ち物を宝物に見立てて。なんだけど、途中でみんな飽きちゃって、それで私の物を隠されたまま帰っちゃって。隠された物を明日使う用事があるから、今日中に見付けたいの。それを日奈に相談したら天谷くんならきっと見付けてくれるって言うからお願いしたいんだけど、いい?」
今度は宝探しときた。本当に、高校生にもなって何をやっているのだろうか。呆れる思いはあるものの、日奈の小説を読むのにもそろそろ疲れてきた頃だ。気分を転換するにはちょうどいい。
「分かった。善処してみるよ。――それで、隠し場所のヒントみたいのはあるの?」
郁太が頷くと、日奈と野辺は二人して表情を明るくさせた。郁太に促された野辺は制服のポケットから一枚の紙を取り出した。
「これがその暗号」
郁太は普段聞き慣れない言葉に少しだけ心が踊るのを感じた。やはり宝探しといえば暗号だ。しかも高校生が作ったものとはいえ、リアルでのこうした出来事などそうそうあるものではない。期待外れにならないことを祈りつつ、郁太は野辺から紙を受け取った。
メモ用紙程度の大きさの紙に視線を走らすと、そこには三行だけ言葉が書かれていた。
score mode
一泡を、凍らして、七つの丸に与すれば、丸い
A312
英語、日本語、数字。並ぶ文字はまるで一貫性を持たない。これでは暗号に秘められたメッセージは伝わらない。だが、それでこその暗号だ。
「あの、さっきも言ったけど、今日中に見つけてほしいの。大丈夫そう?」
野辺が心配そうな顔付きで郁太に尋ねる。郁太は暗号が書かれた紙を裏返してみたが、表の三行以外は何も書かれていない。これが情報の全てのようだ。郁太は顔を上げて視線を野辺と合わせた。
「当然だけど、一見しただけじゃ意味は分からない。けど、――まあ何とかしてみるよ」
郁太がそう言うと、野辺は安堵の顔を浮かべた。やっと肩の荷が下りたように、大きく息を吐いた。それから、今度は申し訳なさそうな色を見せた。
「ありがとう。本当に悪いんだけど、私これから用事があって手伝えないんだけど、後をお願いしてもいい?」
暗号さえあれば何も野辺がいる必要はない。礼儀としては些かどうかとも思うが、郁太からすればどちらでも構わなかった。郁太が答えようと口を開く寸前に、日奈が割って入った。
「うん。郁太がいれば百人力だから、由良ちゃんは自分の用事を優先して」
日奈が態とらしく郁太の代わりに答えると、野辺は「ありがとう、頑張って」と言葉を残して二人の下から去っていった。野辺の後ろ姿を追いながら、郁太は微妙な違和感を覚えた。だが、それよりも与えられた獲物の方が気になったために一先ずそれは置いておくことにした。
「さて、取り掛かるか」
改めて紙に書かれた暗号に目を遣る。三行とも形式が違うことを考えれば、それぞれが独立していると考えていいだろう。情報として考えられるものといえば宝が隠された場所か、宝が何であるかなどだろう。少なくとも必ず繋がりはあるはずだ。暗号の情報量からして、三行目に関しては後回しにした方が懸命だ。となると、まず気になるのは――。
「日奈、この"score mode"って何のことか分かるか?」
郁太は日奈に聞いてみた。三行の中で一番文面の意味がしっかりしている。一行目ということもあるので、最初に切り崩しに掛かるとしたらここからだ。
「うーん、何だろうね。点数と方式?」
日奈はそれだけを言うと押し黙ってしまった。字面だけを追えば郁太も同じところで止まってしまう。それぞれの単語自体はとても簡単なものだ。だが、これらを組み合わせた言葉を郁太は知らない。
「こういう、解く側に知識を必要とする暗号とはあまり考えたくないんだが……」
もしそうなら早くも詰みだ。では発想を変えたらどうだろうか。郁太は考えに志向性を持たせることを止めて、とりあえず頭に浮かんだことを口にした。
「この言葉自体には意味がないとしたら。古典的な暗号といえば換字式、転置式、分置式。この中であり得るとすれば」
換字の可能性は低い。置き換える法則が提示されていないので考えように限りがない。二行目がヒントとも考えられるが、とりあえず一行目だけで考えてみる。分置も、この文字数では考えにくい。実際、二文字置きや三文字置きに読んでみても意味は通じない。そうすると残りは一つしかない。
「転置式――アナグラムか」
日奈が首を傾げて郁太の方を見るが、郁太はそれを無視してアナグラムを組み始めた。説明は後でも十分に伝わる。今は回転を始めた思考を遮ることはしたくない。
九文字の綴り替えは組み合わせだけ考えれば九万に及ぶ。その中から意味のある一つを見付けるのは至難だ。だが、そこに暗号という制限を加えれば、答えまでの道のりはぐっと近くなる。数分の後、郁太は答えに辿り着いた。
「――これだな」
郁太は頭の中で一つの言葉を浮かべながら、日奈にも分かるように説明した。
「転置式の暗号ってのは、要するに文字の並べ替えだ。"score mode"を並べ替えて出来る言葉は"Morse code"――つまりモールス符号のことだ」
それさえ分かれば、二行目の理解は容易になる。郁太はおぼろ気ながらもモールス符号を脳裏に浮かべつつ、口では説明を続けた。
「モールス符号は基本的に長点と短点からなる符号だ。二行目の文がモールス符号を用いた暗号の本文と考えて、長点と短点に対応するものを探せばいい」
文意ではなく、文字の形に注目してみると、分かりやすいほどに長点と短点が目に付く。日奈に答えを促してみても小難しい顔をするばかりで、答えが出る気配はない。郁太は答えを口にした。そこには宝の在りかが記されている。
「着目すべきは漢字の部首だ。一は一、泡はさんずい、凍はにすい、七は一、丸はヽ、与は一だ。一は長点、さんずいとにすい、それにヽは短点とすれば符号の生成は可能だ。不自然な読点からして、一文字の区切りはこれだろう。
それを踏まえてモールス符号と照らし合わせれば、得られる文字はb、i、k、eになる」
郁太がそこまで言ったところで、日奈の表情に変化が見られた。今までちんぷんかんぷんだったものの指す意味にようやく気付けたようだ。
「バイク? ってことはこの暗号の示す場所って――」
日奈の言葉を最後まで言わせず、郁太は校内でバイクに関係する場所を挙げた。
「自転車置き場だ。あそこは区画毎にABCと分かれているし、通しで番号も付いている。三行目は自転車置き場の具体的な場所を表しているとみて間違いないだろう」
そう言うと、郁太は立ち上がった。解いてみれば呆気ないものだったが、本当にそこにあるかどうかを確かめるまで気は抜けない。郁太は日奈を連れて自転車置き場に向かった。
下駄箱で靴を履き替え、校舎の外に出る。二月の空気は制服を通して容赦なく身体を冷やしてくる。
「寒いな。早く確認しよう」
幸い、自転車置き場までの距離は大したことない。ポケットで手の暖を取りつつ、整然と並ぶ自転車の列に沿って歩を進める。
「暗号にあった場所はここか」
A三一二で指定される場所には一台の自転車が停められていた。何の変哲もないただの自転車だ。郁太がその自転車を検分すると、前かごに白い物が留められているのが見える。郁太は少し不穏な空気を感じながら、それを手に取った。
「まあ、一回で終わりだとは決まっていないしな……」
案の定、郁太の手にした紙には暗号が記されていた。しかも、一度目よりも遥かに意味不明であり、それが暗号であることを隠そうともしないほどに露骨であった。
快彩亘丹
なごへぬそるそなふのせく
214
これだけ見ると一枚目よりも難解そうに見えるが、実際はそうではない。一枚目により、暗号の解き方は示されている。なのでむしろ簡単だという予測は立てられる。それよりも問題がある。まずはそれを解決する必要がある。
「日奈、とりあえず戻るぞ」
屋外では寒すぎる。郁太の手は既にかじかみ、震え始めている。
「そうだね。――あ」
頷いてから今一度自転車に視線をやった日奈は、何かに気付いたように声を上げた。
「どうかしたか?」
「この自転車、真央ちゃんのだ。ほら、自転車の鍵のキーホルダーが特徴的なの覚えてる」
真央という名前に一瞬誰のことかと首を捻った郁太だったが、やがてそれが同じクラスの藤岡真央のことであることに気付いた。よくもまあ余所のクラスの人の、自転車のキーホルダーのことなど覚えているものだと、郁太は呆れと感心を日奈に抱いた。
「鍵が差しっぱなしとは不用心だな」
「うん。ちょっと心配だから真央ちゃん見付けたら渡してあげる」
日奈はそう言って自転車から鍵を取り外した。
寒い風から逃げるようにして校舎の中に入った二人は、教室に戻ると一息入れた。だが、これが何回続くか分からない以上、早く二枚目の暗号に取り掛かる必要がある。
「ねえ、二枚目については何か分かった?」
完全に自分で考えることを放棄している日奈は、早くも郁太に答えを求めて聞いてくる。郁太はため息を吐くと、日奈の要望通りに説明を始めた。もうこうした展開は諦めている。頭を働かせろと言うのなら、それに従うのが一番楽なのだ。
「一枚目と二枚目では形式が同じで、暗号は三行で構成されている。ということは、この二枚目も一枚目と同じ解き方で解読出来る可能性が高い。つまり、一行目で暗号の情報、二行目で大まかな場所、三行目で具体的な場所だ」
郁太の解説に日奈は大きく首を縦に振っている。郁太は空回りしている気がしてならなかったが、気にせず続ける。
「一行目、全て漢字だ。ということはこれもモールス符号を用いていると考えていいだろう。一枚目では区切れだった読点はないが、それは一文字毎に区切れていると受け取れる。とすると、快の部首は立心偏、彩は彡、亘は二、丹はヽだ。それぞれを符号化すれば、短長短、長長長、長長、短になる。これを直せば――r、o、m、eが得られる」
「うんと、ローマ? これが暗号なの?」
確かにこの綴りが表すのはローマという単語だ。だが、ローマという暗号は無い。だから、二行目の平仮名を考えて和文モールス符号も考えてみたのだが、それで得られる文字は「なれよへ」だ。これのアナグラムを考えても意味のある言葉は出てこない。
なので、やはり一行目が示すのはローマだと考えるのが妥当だ。それに古代ローマで生まれた暗号というものは存在する。
「ああそうだ。古代ローマで生まれた換字式の代表格、シーザー暗号のことだと思う」
シーザー暗号は文字を辞書順に、決められた数だけずらす暗号だ。本当ならば、何文字分ずらすかが鍵になるのだが、この暗号ではその指定がない。
「元のシーザー暗号だと文字を三つずらしていたらしい。だからこれもそれで解読出来ると思う」
郁太は視線で日奈を促した。これだけ導いてやったのだから、少しくらいは日奈自身で解いてみてほしい。日奈は郁太の視線にこもる意図を感じたのか、途端に真面目な顔をした。ぶつぶつと呟きながら、暗号文に秘められた文章を読み上げた。
「えっと、『つぎはとしよしつのにさお』?」
「次は図書室の二棹。で、三行目が意味するのは図書の十進分類法だろう。図書室で使う三桁の数字なんて他に思い付かないしな」
図書室は同じ階にある上に、今いるB組からは近い。確認も直ぐに済むだろう。郁太は腰掛けた椅子から立ち上がった。もう身体の冷えは取れている。歩き始めた郁太の後を、日奈もついてくる。
階段の隣に位置する図書室に入ると、本が放つ独特の匂いが鼻腔を刺激する。郁太は手前の本棚から、その横に書かれた分類番号を確認していく。
「二〇〇番の棚は、と」
一番手前に雑誌のコーナーがあり、その次から大きめの棚が並んでいる。最初は〇番の総記の棚があり、次が一番の哲学の棚だ。三番目の棚が目的の本棚で、分類上は歴史となっている。
「でも二棹ってどういうこと?」
棚の横を歩きながら、日奈が尋ねてきた。郁太もそれは気に掛かっていたことだ。棹は箪笥などの助数詞であって本棚の助数詞には用いられないが、恐らくは二架目の棚ということだろう。だが、三行目で細かい指定がされている以上、その情報は必要なのだろうか。郁太は、何か別の意味が含まれているような気がしてならなかった。
「さあな。今はまだ情報が少なくて分からないよ」
そうこうしているうちに、三行目に指定されていた二一四の棚までやってきた。分類の上では日本史北陸地方ということらしい。これもよく分からない選択だ。何かがありそうなのに、雲を掴まされている感がある。
ともかくその棚について念入りに調べることにした。とはいっても、棚が制限されているので、探す箇所は精々二三段だ。目的のそれは直ぐに見つかった。
「……まだ続くのか」
本と本の間に挟まれていたのは、三枚目となる紙だ。それには次のように暗号が書かれている。
むろりほくた
よやるくまちゆなた
cooh
その暗号文を見て、郁太は首を傾げざるを得なかった。どうやら今までのようにすんなりとはいかなそうだ。一行目と二行目が噛み合っていない。
「ねえ郁太、今回のも前みたいに解けるんだよね?」
だが日奈は能天気にも目を輝かせて尋ねてくる。
「そう思うなら自分で解いてみたらどうだ?」
郁太はわざと突き放すように日奈に言葉を投げた。シーザー暗号でも日奈が解こうとすれば少しは時間が掛かる。その間に郁太はこの暗号の不具合を紐解けばいい。
「一行目は文字を三つずらせばいいのよね。ということは、『ほりゆひおす』? 何のこと?」
それでも日奈は暗号の意味を解さない。なおも郁太に疑問をぶつけてくる。
「ここは図書室だ。暗号についての本もあるだろう。俺は少し考えてるから、日奈は日奈で考えてくれ」
そう言うと、日奈はわずかに頬を膨らませながらも、郁太の下を離れた。これで静かに考えに没頭出来る。郁太は雑誌のコーナーまで戻ると、そこにあった椅子に腰掛けた。
一行目が示すのは十中八九ポリュビオスの暗号表だろう。これは、五×五の表に順番にアルファベットを並べていき、行と列を指定することで目的のアルファベットを指し示すものだ。一番代表的な例だと行と列を数字で表しており、例えばAならば11、Bならば12という風になる。アルファベットは二十六文字あるが、IとJを同じ升に入れるのが慣例となっている。
今回の暗号で問題なのは、暗号文が平仮名であるということだ。五×五の表の解読に必要な文字数は最低十。対して平仮名は四十六文字もある。これをどう対応付けしていくかがネックだ。
「一番簡単なのは行と段を使うことだが」
行に行を、列に段を当て嵌めれば、重複はあるものの収まりは良い。ここで考えないといけないのが、果たしてこの暗号表が本当に五×五であるかどうかだ。それよりも多い場合、表に入る文字がアルファベットでない可能性すら考慮に入れる必要があり、正直煩雑すぎて考えたくなくなる。とはいえ、まずは最小の暗号表から考えることにする。
「えっと、行に行、列に段だとすると――」
流石に暗号表を頭に浮かべながら暗号を解くのは難しい。記号が直ぐに浮いてしまい、自分がどこに注目しているのかも分からなくなる。ただ、今は日奈がいない。加えて場所は図書室で静謐さが漂っている。集中するには申し分ない条件が整っている。郁太はゆっくりと瞼を閉じると、思考を加速させた。
「『P、L、S、H、F、R、N、V、Q』……。くそ、意味が通じない」
アナグラムをしてみようかとも考えたが、それは一つの暗号文に二つの解読法を混ぜることになりフェアでない。今までの暗号も記された解読法のみで解けている。とすれば、この暗号もポリュビオスの暗号表だけで解けるはずだ。
「これじゃないってことは、行を段に、列を行にするってことか」
もしもこれでも上手くいかなかったら、郁太は素直に降参するつもりでいた。時間を掛ければいずれ解読は出来るだろうが、今日というタイムリミットには間に合う気がしない。
郁太は再び脳内で表を組んでいく。暗号文を思い出して文字を浮かび上がらせていく。
「『X、C、O、M、B、IかJ、N、E、D』だな。一応意味のある単語にはなっている、か」
偶然でここまで長い単語が出来上がるとは思えない。だが、郁太はまだ確信が持てなかった。今までの二つと比べて、あまりに具体性に欠けるからだ。これではまだ次の場所がどこか特定が出来ない。
「XとCOMBINEDがどこを示しているか。あと三行目のcoohもしっくりこない」
郁太はとりあえず英和辞書を引くことにした。つくづく、暗号の置き場所が図書室で良かった。郁太は辞書のある八〇〇番の棚へと移動した。
「まずは割りと意味のはっきりしているcombinedから」
棚の中から辞書を取り出して、ページを捲っていく。単語の大まかな意味自体は知っているが、郁太の記憶から溢れた意味が必要になるかもしれない。
「ええと、形容詞だと結合した、化合した、連合のってところか。動詞なら結合、団結、化合、組み合わせる、兼ねている」
これだけでは分からないし、郁太の持つイメージとほぼ同じだ。次いで郁太はxの項目も調べるべく、一度辞書を閉じて後ろからページを捲っていく。
「流石に少ないな」
xに該当するページは見開きで一ページしかなかった。その中で一番最初に挙げられている単語を目で追っていく。
未知数であるとか、十であるとか、普段はあまり意識せずに使用しているものから、初めて見る意味まであった。その中で、郁太の目に留まったのは一番最後に書かれている意味だった。
「ハロゲン……。ってことは化学か」
Xをそう捉えると、combinedの意味も通る。となれば、あるいはcoohもまだ習っていない単元なだけで化学用語なのかもしれない。
郁太は再びcの項目に戻ると、coohが載っていないかを調べた。だが、生憎と英和辞書には載っていなかったため、今度は化学系の本が置いてある棚に移動した。自然科学の化学分野、四三〇番だ。
適当に取った一冊を捲り、キーワードとなるものを探していく。それほど時間も掛からないで、それは見付かった。
「カルボキシル基――有機化学の範囲か。まだ先の単元だな。道理で知らないわけだ」
しかも困ったことに、カルボキシル基はハロゲンと化合するということはあるのだが、それがどこを示しているか全く分からないのだ。次に向かう場所が化学実験室であることは疑いないだろうが、それ以上の情報が得られない。
「あ、郁太。こんなところにいた。もー勝手にどっか行っちゃうから探したよ」
空気を読まない声に郁太が顔を上げると、日奈が仁王立ちしている姿が目に入った。どうやらポリュビオスの暗号表については解けたようだ。だが、郁太はその先で立ち止まってしまっている。
郁太は、暗号についてとりあえず今分かる限りのことを説明した。そして、それ以上は分からないということも。ところが、郁太の苦悩を知ってか知らずか、日奈は気軽に次の行動を提案した。
「まあでも化学実験室っていうことは分かったんだし、薬品とかを探せばいいんだろうって見当も付いてるんだから、とりあえず実験室行ってみようよ」
実際のところ日奈の言う通りではある。ここで悩んでいても知らないことは知らないし、分からないことは分からない。指針は定まっているのだから、行動する方が建設的だ。身体を動かしながらでも頭は働かせられるのだから、化学実験室で探しているうちに妙案も浮かぶかもしれない。
「そうだな。実験室に行くか」
郁太も日奈の案に同意を示すと、二人は図書室を後にした。
化学実験室は校舎の四階にあるため、二人は図書室横の階段から上った。放課後で誰もいない廊下を歩いている間、郁太は考えを巡らそうとして出来ないでいた。三枚目の暗号は明らかにおかしい。高校一年生ではまだ習わない知識を要求し、しかも具体的な場所を明示していない。これまでの二枚とは、形式こそ同じだがその質はまるで違う。これが何を示しているのか考えようとするのだが、どこを取っ掛かりにすればいいか分からなかった。
郁太が思考に囚われているうちに、化学実験室の前に着いていた。勝手に入っていい教室か定かでないので、郁太は念のために周囲の様子を窺った。階段の方には帰路に向かう三年生の後ろ姿が見えたが、どこかそわそわしており二人に気を向ける様子はない。
それを確認した郁太が再び実験室の戸に視線を戻すのと同時に、がらっという音が耳に届く。郁太の警戒を台無しにするように、日奈は何の配慮もなく平然と戸を開け放っていた。
「おい日奈」
日奈が実験室に入るのを追いながら、郁太は抗議の声を上げた。
「何?」
振り向いた日奈は特に気にしている風もなく、あまりに何も考えてなさそうだったため、郁太はそれ以上責めを言う気も失せてしまった。
実験室に入った二人は、壁際に並ぶ棚を手分けして探すことにした。三行目に基の一種が書かれていた以上、薬品棚に次の暗号が隠されている可能性が高い。とはいえ、どの薬品かは分からないし、そもそもその薬品がどこに配置されているかも二人には分からないので、手当たり次第に探す外はない。
「しかし、薬品棚なんて普通勝手には開けられないよな」
劇物も含まれるので、棚には鍵が掛けられている。これでは戸に紙を挟むなどの方法も取れない。とすると、どこに隠す場所があるだろうか。
「あ、あったよー」
郁太の疑問は空を切り、代わりに日奈の間延びした声が空を震わせた。郁太が顔を横に向ければ、日奈が明るい笑顔を浮かべて紙をひらひらと振っている。
「一応聞いておくが、どこにあった?」
「戸のレールのところに立て掛けてあったよ」
日奈の答えに郁太は思わずため息が出た。あまりに隠そうともしない在り方は、興を削ぐことにもなりかねない。郁太は日奈から紙を受け取ると、そこに書かれている暗号文を読んだ。
おちきわすなめわ
りねたむそへゆうへ
205
形式は同じ三行。とすれば一行目はポリュビオス暗号表で解読可能だろう。郁太はその場で暗号表を頭に思い浮かべる。縦と横に文字を走らせていく。暗号文に記された平仮名は見る見るアルファベットへと転換されていく。
「ええと、『V、IかJ、G、E、N、E、R、E』――おいおい嘘だろ」
そこに示された暗号の解読法を見て、郁太はこの先の労苦を容易に想像することが出来た。ポリュビオスの暗号表の比ではない。とてもではないが頭の中だけで解決出来るものではない。
「どうかしたの?」
日奈の表情は毎度変わらない。不知であることを郁太に押し付けてくる。やはり日奈の厄介事に巻き込まれると心的な疲労が大きい。
「これが表しているのはヴィジュネル暗号だ。本来なら、アルファベットを横に一列書き、次の行には一字ずらして一列書き、それを二十六回繰り返して一つの方陣を作る。そうすると、一番上の行を見ても一番左の列を見ても、アルファベットがAからZまで順に並ぶ格好になる。ヴィジュネル暗号は、ここから鍵を使う。暗号にしたい文章――平文と、鍵である適当な文字の羅列を組み合わせる。平文の一文字目を最上段の行に、鍵の一文字目を左端の列に合わせて、行と列が交わるところが暗号文になる。言葉では中々伝えにくいけど、大体こんな感じだ」
恐らく日奈の理解は追い付いていないだろう。ただ、これだけは理解しているはずだ。日奈はまさにそのことを言った。
「じゃあ郁太は解けるのね?」
そう言われても、郁太は首を横に振らざるを得ない。暗号を解く上で足りないものが二つある。
「そうでもない。まず二行目を見てもらえば分かるけど、平仮名だ。元のヴィジュネル方陣はアルファベットを用いているから二六×二六の方陣になるが、平仮名なら四六×四六の方陣になる。とてもじゃないがそれなりに方陣を用意しないと解けやしない。それから、さっきの説明で鍵が必要だと言ったが、この暗号にはその鍵についての情報がない。それが分からない限り、解法を知ってても暗号は解かれない」
そう、暗号を解くための鍵が必要なのだ。何が鍵になるか。三枚目のことがあるので確実には言えないが、恐らく今までの宝探しの中で鍵となるものがあるはずだ。郁太は顎に手を遣ると、今日回ったところを遡っていった。そこに鍵はなかったか。そう考えると、鍵は至るところに存在している。
薬品棚の鍵、実験室の鍵、図書室の鍵、自転車の鍵――。
そこまで考えて、郁太は思い出した。この中で、自転車の鍵だけが状況として不自然だった。本来そこに無いはずのものがあったのだ。そして、その鍵には特徴があった。
「日奈、藤岡の自転車の鍵を持っていたよな?」
郁太は日奈の肩を揺すりながら確認した。急かされた日奈は目を丸くしながらも制服のポケットから自転車の鍵を取り出して郁太に渡した。
鍵に付いていたのは鳥のキーホルダーだった。一般に言われるような鳥ではない。羽が彩色豊かで、優雅さと気品が窺える。
「これは――、孔雀か」
だとすれば暗号の鍵は「くしやく」になる。暗号文よりも鍵の方が短いので、鍵は何度か繰り返されることになる。これで必要なものは揃った。
「日奈、ヴィジュネル方陣を書きたいから一回教室に戻るぞ」
日奈の返答を待たずに郁太は化学実験室を出ていた。直ぐに日奈も追い付き、二人は並んで二階のB組へと向かった。化学実験室では終始驚きと困惑の顔を浮かべていた日奈だったが、教室へと戻りながら郁太が説明すると、得心のいった顔になった。
郁太は教室の自分の席へ戻ると、直ぐにノートから紙を一枚破き文字を書き始めた。
「方陣作るの?」
「まさか。全部は無理だから、大体八列くらいかな。目安になりそうなところにだけあいうえおを書いていく」
流石に平仮名のヴィジュネル方陣を完成させようと思ったら、二千字以上書くことになる。それは時間も掛かるし手も疲れる。上手く頭を使って両方節約するべきだ。
「大体こんなもんだろ」
郁太はある程度まで方陣を書き上げると、暗号を片手に方陣と向き合った。まずは鍵の一文字目である「く」を左端から探し、そこから右に移動していく。暗号文の一文字目である「り」が出てきたところで、そこから上に進んでいく。上端まで辿り着いたら、それが平文の一文字目だ。これを延々繰り返していく。
「よし、これでいけるだろう。『む、す、ひ、は、く、つ、い、れ、に』――結びは靴入れに」
文脈からして、これで最後のようだ。そしてその場所は一階の下駄箱だ。郁太は顔を上げると、椅子の背もたれに深く凭れた。疲労感と爽快感がいい具合に混ざり、心を穏やかにしてくれる。
「おぉ、郁太凄いね。早く確かめに行こ」
日奈に促されて、郁太は腰を上げた。そのとき目に入った暗号文を見て、郁太は引っ掛かりを覚えた。下駄箱には三桁の通し番号が振られており、生徒一人につき一つの場所を与えられる。それは三年間変わることはなく、三年生が卒業して出来る空きの場所に新入生が割り振られるため、数字の大小に学年は関係はない。郁太はこの数字に見覚えがあった。
「なあ日奈、この二〇五って日奈の番号じゃなかったか?」
郁太が尋ねると、日奈は一拍置いてから小さく頷いた。ああなるほどと、郁太は納得した。今から思い返してみればおかしなところは多々あったのだ。
とりあえず下駄箱に行くため、二人は教室を出て階段を下りていく。暗号を何回も解いていたため、郁太が思っていた以上に時間が経っている。なので校舎内に残る生徒の数も、野辺に宝探しを依頼された頃に比べると大分少なくなっている。
そう、不自然なところは最初からあった。まず、宝探しだ。日奈ならともかく、高校生にもなってそんな子供染みたことをするだろうか。そして、人に物を頼んでおいて自分はさっさとどこかへ行ってしまうだろうか。去り際の頑張ってという言葉も、今となっては別の意味に聞こえる。
それから、自転車もそうだ。鍵の掛け忘れくらいは誰にでもあるだろう。だが、それが最後の暗号の鍵になっているのはいくらなんでも出来すぎだ。
それを言えば化学実験室の暗号の隠し場所も杜撰だった。いつ関係ない人に見付かってもおかしくないような場所に無造作に置かれていた。そして、それを見付けたのは他でもない日奈だ。
極め付けが最後の暗号の示す場所だ。郁太達は一度校舎の外に出ており、そのときは当然下駄箱を利用している。なのに、最後の場所は日奈の下駄箱。最初の段階で気付かないはずがない。
今回やたらと日奈が答えを急かしてきた態度も踏まえて考えれば、得られる結論は一つ。これを仕組んだのは日奈だということだ。暗号を使って郁太に勝負を挑んでいたのだろう。わざわざ人からの依頼という体裁を取ってまで。
下駄箱まで着いた郁太は、二〇五と書かれた日奈の靴入れの前に立った。
「開けるぞ?」
一応日奈に確認を取ってから、郁太は戸を引いた。中を覗くと、日奈の外履きの靴の上に四角い箱が乗っている。サイズ的には暗号が書かれた紙と同じくらいだろうか。厚さもそんなにはない。郁太がそれを手に取ると、かた、という音が聞こえた。中にさらに何かが入っているのだろう。重さも大したことはない。郁太は手にした箱を日奈へと向けた。
「ほら、これが日奈の宝物だろ?」
郁太は幾ばくかの皮肉を込めてそう言った。日奈の表情を見ようとしたが、俯いてしまっていて分からない。郁太の差し出す箱も中々受け取ろうとしない。郁太が焦れてもう一度声を掛けようとしたところで、下を向いた日奈が声を発した。
「それが郁太の答え?」
日奈の言葉の意味が分からなかった郁太は、何も考えずに応えてしまっていた。それが挽回する最後の機会だとも知らずに。
「は? 答えも何も、暗号は解いただろ」
「なら私の勝ちだね」
そう言って顔を上げた日奈は満面の笑みを浮かべていた。そうして何度も跳びはねながら、身体全体で喜びを表していた。その姿があまりに楽しそうで幸せそうだったので、郁太は少しの間ぽかんと突っ立ったままだった。全く何が起きているのか理解が出来なかった。
やがて、自分がどうして負けたのか、一体何を以てして負けたのか混乱が残る頭で考え始めた。日奈の明るさが思考を阻害する。
日奈の態度からして、今回のことは日奈が仕組んだことで間違いない。だが、さらに何かがあるということだ。
「やったー!」
思い返せば、暗号の配置もそうだが、暗号そのものも変だ。シーザー暗号もポリュビオス暗号もヴィジュネル暗号も元は日本語ではないのに、半ば無理矢理日本語になっていた。工夫といえばそうだがどこか作為的だ。解読して得られる文章も一貫性がなく、日本語として違和感を覚えるものもあった。
「まさか郁太に勝てるなんて!」
それに、使用した暗号の手法と暗号文が分かれているのは分かるが、詳細な場所まで分かれているのは妙だ。一つの文章に情報を埋め込んでしまえばいい。三つ目の暗号など、その詳細な場所すらはっきりとはしていなかった。しかも、よく見れば数字の書き方が統一されていない。どこまでも作為的だ。
「この一年頑張ってきた甲斐があったー!」
郁太はこんなことにも気付かなかった自分を詰った。だが、今は一秒でも早く日奈の真意に辿り着くのが先だ。これまでのことから分かることが一つある。
「――ということは、暗号の二行目と三行目のそれぞれに何か意味が隠されている……」
日奈はまだ嬉しさに狂ったようにそこらを跳ね回っている。郁太は熟考を続ける。もう集中が乱されることもなくなっている。どこまでも思考が拡散していきそうだ。
「もう本当に嬉しいよ!」
今回の暗号は基本的なものばかりが使用されていた。換字式と転置式。それなら、分置式の暗号があってもおかしくはない。郁太はこれまでの四枚の暗号文を見比べてみた。二行目の共通点は全て日本語であること。三行目は英数字であることだ。一枚一枚見ていくうちに、郁太はようやく気が付いた。
「――意趣返しってやつか」
暗号文の最初の文字と、最後の文字を並べれば、今回の暗号に託されたメッセージが浮かび上がってくる。
「『ひなより いくたへ』これは俺に向けたものだったのか」
郁太は手にしている箱を眺めながらため息を吐く。全体を俯瞰出来ていれば簡単に見抜けたはずなのだ。しかも、これでまだ日奈の真意の半分だ。つくづく自分に嫌気が差す。
「この調子で次も勝つぞー!」
流石に日奈の歓声も耳についてくる。早く最後まで片付けてしまいたいと、郁太は心の底から思った。
暗号の三行目に関して、英字と数字が入り交じっている。中でも目に付くのは、三桁の数字の中に一桁と二桁が入っていることだ。二つ目に関しては三桁そのままなので何とも言えないが、恐らくこれらの数字は英字に変換出来るはずだ。一般的な換字法といえば、Aから順に数字を当て嵌めていくことだろう。現に二つ目の数字以外はいずれも二十六より小さい。
「二つ目のを保留にして考えれば、得られるアルファベットはA、C、L、C、O、O、H、T、E」
これらの文字を見た瞬間、郁太は暗号に隠された全てを悟った。どうして今まで日付のことを失念していたのだろう。それさえ念頭にあれば日奈に負けることはなかったかもしれない。だがそれも後の祭りだ。
郁太は自分のために贈られた箱を開けた。中には赤い包装紙に包まれた薄い板状のものが入っていた。
「日奈!」
郁太はまだはしゃぎ続ける日奈を呼び止めた。郁太の声音に何を聞いたか、日奈は満足そうな顔で郁太の下に戻ってきた。
「分かった?」
「ああ。手の込んだことしてくれたな。俺の完敗だよ」
郁太は包みを開きながら、素直に負けを認めた。どうしてか、悔しさのようなものはなく、ただただ穏やかな気持ちが胸を満たしている。
「うん。今回のために色々頑張ったからね。でも、暗号の方に時間取られちゃって、安い市販品のしか用意出来なかったよ」
日奈は苦笑いを浮かべて言った。たとえどんな安物でも、郁太は値段以上のものを得ることが出来たと思っている。
「そんなことないよ。――ありがとな」
そう言うと、郁太はチョコレートに歯を立てて一口齧った。
口の中に甘い味が広がっていく。この甘さをいつまでも残していたいと、日奈の笑顔を見ながら郁太は思った。
なき読者(将倫)
タイトルの意味は,日奈が原稿を持ってくるといういつものパターンではないので,日奈の原稿を読む「読者がいない」という意味と,バレンタインにこうしたイベントがない「読者様が万が一いれば泣いてもいいよ」という二つの意味をこめています.