人魚娘

 頬をなでる風はわずかな塩味と、海のにおいと、潮騒の旋律を運んでくる。

 天におわす太陽から地上までは遮るものはなにもなく、アスファルトはじりじりと焼かれていた。

 心地好い疲労感に包まれながら、俺は愛車のハンドルを握る。

 車中泊1泊を含む3泊3日の小旅行。

 都会の喧騒を忘れてやってきたのは、右手は緑のおい茂る山々。左手には青い海。

 離れて暮らす実家の母の頼みで、昨年に亡くなった叔父の家のあるこの海沿いの田舎町までこうして足を伸ばした次第だ。

 今や主を失った家は無人で、売りに出されているが買い手が着かない状況。

 そこでたまには虫干ししてやらねば、売れないものもますます売れない、ということでこうして俺が旅行を兼ねてやってきたわけだ。

 愛車であるホンダのバモスの助手席には、海釣り用にカスタマイズした一竿。

 え? 助手席に人は乗っていないのかって?

 あー、うん。独身貴族という言葉は知ってるか?

 それは脇に置いておいて、昨日深夜に出発した俺は午前中には叔父の家に到着。

 雨戸、窓ともに全開にして一息入れたところで、愛車で絶好の釣りポイントを探していた。

 「お?」

 愛車で風をまったりと切りながら、俺はアクセルを踏む足を緩める。

 俺は愛車で徐行しつつ、やがて路肩につける。

 前後はおろか、対抗車線にも車はいない。

 風景は先程と変わらない。右手に山、左手に海。

 行く先に伸びるアスファルトからは陽炎がゆらゆらと立ちのぼっている。

 ガードレール越しに海を見る。

 2km程先に大きめの島が一望できた。建物も見えるので有人のようだ。

 そして足下にはテトラポット。

 海を覗くと、緩い波の狭間に魚影らしきものも確認できる。

 「これは……きそうだ!」

 俺の直感が告げている。

 ここは大物が釣れそうだ、と。

 早速、助手席から竿を取り出して準備にかかる。

 餌をつけて――大海原へ向けて放った。



 「つ、釣れん」

 じりじりと降り注ぐ日の光を防ぐのは、薄い麦藁帽子一つ。

 視線の先、水面下には魚影がちらほらと見えているんだが。

 「はて、まいったね、こりゃ」

 竿を引く。

 と。

 「ん?!」

 びん、引いている。

 「キ、キターーー!!!」

 引く。

 引く。

 思いっきり引く。

 ピクリともしない。これは大物だっ!!!

 竿を握る両手に力を込め、

 「ぬぉぉぉぉぉぉ!!」

 気合一閃!

 ばしゃぁぁぁぁ!!

 水面から水飛沫を上げて、そいつが飛び出した。

 日の光を受けたそれは、飛沫をまるで身に纏う宝石のようにきらめかせ、小麦色の肢体を海と空の青の間にさらしたのだった。

 「へ?」

 竿を持つ両手の力が抜ける。

 テトラポットの下、眼下の水面にあるのは、立ち泳ぎをする女の子だ。

 歳の頃は高校生くらいだろうか? 飾り気のない紺色のスクール水着を纏っている。

 染めたことはないのだろう、肩までの黒い髪を海水に濡らして呆然と見つめる俺の視線とぶつかった。

 「よっ!」

 シュピッ、と右手を俺に向けて彼女は挨拶。

 「あ、あぁ」

 曖昧に頷く俺を見て、彼女は視線を背後に移す。

 「んー?」

 小さく首を一つひねると、彼女は、

 とぷん

 現れた時とは正反対に、静かに水の中へと戻る。

 一瞬遅れて、ピクリともしなかった俺の竿が突然あっさりと力が抜けた。

 ぱしゃ!

 再度、少女が水面に戻ってくる。

 「岩に糸、引っかかってたよ」

 「あー、そうだったんだ。ってか」

 糸を手繰り寄せながら俺は彼女に問う。

 「キミ、誰?」

 問われ、彼女は一瞬考えるような顔つきになる。

 そして俺のいる位置より一段低い、テトラポットに腰掛けながら胸を張ってこう答えた。

 「なんと私は人魚なのです!」

 「声出てるじゃん」

 「……へ?」

 「いや、声出てるって」

 「あー、うん。そんな反応するとは思わなかったから」

 人魚姫にもあるけれど、足のある人魚は声が出ないとおとぎ話にはある。

 目の前の彼女は、どう見ても人間の足を弱く打ち寄せる波に曝していた。

 「あー、えーっと、あれから薬も改良を重ねたからねぇ」

 ふむ、そうか。

 「へー、へー、へー」

 「あー、それなんだっけ……ああっ、トリビアかっ!」

 地方でもあの番組はやっていたんだなぁと思わず感心。

 「で。そんな人魚様が告白するお相手は誰かね? もしかして俺? いつだってウェルカムさ!」

 大きく両手を広げて、俺は彼女が飛び込んでくるのを待つ。

 「寝言は寝てから言ったほうがいいよ? もしかして夢遊病が進行系の人?」

 酷い毒舌が浴びせられた。

 「ちゃんと私には告白する相手がいるんですから…」

 そこまで言って、自称人魚娘は「あ!」と小さく叫び、

 とぽん

 再び海へ戻る。

 「?? おい」

 水面を覗き込もうとした俺だが、

 「お、バモスじゃん」

 「なんだ、めずしいのか?」

 そんな声は後ろから。

 見上げれば2人の高校生と思われる少年2人。

 良い感じに日に焼けて、健康スポーツ少年という感じだ。

 「これ、初期のバモスだよ。まだ走ってたんだ」

 「へー」

 ひたすら物珍しそうに車を物色するのは、スポーツ刈りの少年。

 明るい感じの、聡明そうな印象を受ける。

 もう一方はすこし茶色がかった長めの髪を風に揺らした、斜に構えた風な少年。

 こちらはあまり関心がないようで、相方の反応を80%くらいスルーしている。

 「いいよなぁ、このフォルム。サイズといい、名車だよ」

 「うむ、よくわかっているな、少年」

 「「わぁ?!」」

 車の影から現れた俺に、正直に驚く2人。

 「あ、おじさんの?」

 スポーツ刈りの少年が恐る恐る問う。

 「おじさんではない。お兄さんと呼べ」

 ったく、田舎のガキはこれだから。

 「しかし、バモスのよさがわかるとは。関心関心」

 「あ。あの」

 きょろきょろ辺りを、主に海とその向こうの島を眺めてからスポーツ刈りの少年が問う。

 「誰か、泳いでませんでした?」

 「誰か?」

 「あ、いえ。なんでもないです」

 わずかに顔を赤らめて彼は言い、

 「じゃ、さようなら。おじ…あ、いや、お兄さん」

 「じゃあねー」

 そして2人は街の方へ向かって歩いて行った。

 小さくなる後ろ姿を眺めていると、

 「ぷはぁ!」

 海からそんな声が聞こえてくる。

 「お、まだいたのか?」

 「はぁはぁ……、長いわよっ!」

 何故か怒っている人魚娘。

 「今まで潜ってたのか?」

 テトラポットに再度腰掛け、肩で息をしながらも彼女は視線を道路の方へ。

 海沿いに、遠くなってしまっているが、先ほどの少年2人が見えた。

 ふむ。

 「なんだよ、好きな人ってあいつらのどっちかか?」

 ぴくり

 人魚娘の体が一旦震え、黙ってしまった。

 マジか、図星?!

 「で、どっちだ?」

 「知らない!」

 ぷいっと顔を背けると、彼女は海の中へと飛び込み、泳いでいってしまう。

 飛込み際、髪の間に見えた人魚娘の頬が赤く染まっていたように見えたのは、気のせいではなかっただろう。

 海に少女、海沿いの道路に少年2人の計3人が遠くなっていくのを眺めながら、俺は当初の目的である釣り糸を海に垂らし直したのだった。



 「今日も暑いな」

 翌日。

 俺は同じスポットで釣り糸を垂らしていた。

 昨日の釣果は0。今日こそは必ず!

 そうだよ、俺はできる子なんだっ!!

 と。

 朝も早くから穏やかな海に向かっているのだけれど、まったくさっぱり糸に動きがない訳で。

 「あっ、おじ、じゃなかった、お兄さん」

 そんな聞き覚えのある声が背後から投げかけられたのは、太陽が丁度真上に来た辺り。

 「おぅ、なんだ、補習か?」

 振り返れば、昨日の少年2人だ。

 「部活ですよ、オレ達水泳部なんだ」

 「へぇ」

 茶髪の少年の言葉に、なるほど、俺は納得する。

 日焼け慣れした顔や腕は、夏の日差しを存分に浴びているからなのか。

 「で、さ」

 「ん?」

 彼は続ける。

 「ここ、誰か泳いでなかった?」

 「泳ぐ?」

 彼は隣のスポーツ刈りの相棒を指差して、

 「コイツ、向こうの島から泳いでくる娘が気になってるらしくて、ぐふっ!」

 相棒の静かなる肘打ちで、彼の言葉は途切れた。

 言葉の続きをスポーツ刈りの彼が受け持つ。

 「し、島からここまで泳いでるみたいで。すごいフォームがきれいなんですよ、参考になるなぁって」

 あたふたと言葉を紡ぐ彼。

 「しっかし、お前も物好きだよなぁ。あんな泳ぎの鉄人が好きだなんて」

 「好きとかそーじゃなくて……あぁ、もう!」

 「お、おい、待てよ!」

 茶髪の相棒を置いて、行ってしまうスポーツ刈りの少年。

 茶髪の彼は小走りで追い掛けようとするが、ふと足を止めてこちらに振り返る。

 「そうそう今日、街の神社でお祭りがあるんだ」

 「へぇ」

 「アイツと一緒に水泳部主宰のやきそばの出店やるんで、良かったら来てよ」

 「ほぅ、そいつは。考えておくよ」

 「じゃ! おーい、待てったら!!」

 お辞儀一つ、彼は相棒を追って駆けて行く。

 2人の後ろ姿を一瞥後、再び釣り糸の垂れる海面に視線を移すと、

 「ぷはぁ!」

 「お、また会ったな」

 昨日の少女が海面から顔を出した。

 彼女は海岸線沿いの道路を歩く2人の少年を見つめている。

 「どっちを見てるんだ?」

 「な、なんのことかな??」

 慌ててこちらに視線を戻し、彼女はテトラポットに腰を下ろす。

 んー、確率2分の1か。

 どちらに気があるのやら……。

 ぽん、ぽん♪

 小気味良い音が唐突に響き、雲一つない青空に、白い煙の玉が音の数だけ浮んだ。

 あぁ、そうだそうだ。

 「祭り、行ってみたらどうだ?」

 「へ?」

 首を傾げる人魚娘。

 「フラグが立つかもしれないぞ」

 「なに? フラグって??」

 「あー、まぁ、あれだ」

 俺はニヤリと微笑み、

 「運が良ければ、泡にならなくて済むかもってことだ。祭りではやきそば食えよ、やきそば」

 「やきそば、ねぇ?? まー、久々に浴衣着るのも悪くないかな」

 空の煙を見上げ、彼女は呟く。

 「おじさんは行くの?」

 「お兄さんと呼べよ。俺は不動産屋と今夜相談があるからいけないなぁ」

 「ふーん」

 気のない返事をして、人魚娘は首をこきり、一つ鳴らすと。

 「じゃ、今日は早めに練習切り上げるかな。じゃ、ね」

 「おぅ、頑張れよ」

 「?? う、うん」

 ガンバレの意味を練習を、と捉えたのだろうか。

 人魚娘は海へと戻って行ったのだった。

 そして、この日も釣果は0であった。



 「あーぁ、結局」

 今朝も昼まで、最後のチャンスとばかりに釣り糸を垂らしていたが、最後まで引きが来る事はなかった。

 3日間の釣果は、0である。

 帰り道、バモスを駆りながら馴染み始めた港町を後にする。

 相変わらず太陽は眩しく、潮風は海の香りと窓越しに運んでくる。

 もう少し進めば山間に入り、完全に町を後にする事だろう。

 「そーいえば」

 今日は昼まで待っていたが、少年も少女も見ることはなかった。

 「っと」

 町の片手で数えることが出来る数の信号の一つに引っかかり、停車。

 結局、アイツラは昨夜の祭りで会うことは出来たのだろうか?

 信号は青に。

 俺はアクセルを踏む。心地良い加速が俺をシートに押えつけていく。

 「ん?」

 不意にすれ違った制服姿の少年少女。

 その顔は見知った顔に思えたが……。

 「さてさて、人魚娘はハッピーエンドを迎えたのか、それとも泡になって消えたのか」

 その結末は、きっと。

 きっと、背にした海は知っていることだろう。

人魚娘

人魚娘

青春というより青夏の方が的確かもしれない。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-11

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