鬼灯館シリーズ「憧憬の杜編」

鬼灯館シリーズ「憧憬の杜編」

プロローグ

「それ、どうしたの?」 
 二階から螺旋階段を伝って一階へと降りてきた霞上時雨は、居間にいた母親の秋子を見るなり頭上から尋ねるようにそう言って声をかけた。
「さっき寝室で見つけたのよ……」
 何やら思案気な表情で返事をして返す秋子の目の前には、額縁に収められた油彩の風景画が壁に立て掛けられた状態で置かれている。近づいた時雨が母親の背中越しに覗き込んだそのキャンバスには、緑豊かな庭園らしき風景が印象派風のタッチで淡い色彩を使って描かれていた。
「もしかしてお爺ちゃんの絵?」
「見た感じだと描かれてから十年も経っていないみたいだし、たぶん違うと思う」
 時雨にそう返事をして返す秋子は娘の方を振り返るでもなく、真剣な眼差しで額縁の中の風景画を見つめている。
 二人がいる室内の壁には他にも大小様々な額縁が四方一面を覆い尽くすように飾られていて、母娘にとってすっかりと見慣れたそれら壁の絵は全て時雨の祖父の手によって描かれたものだった。花や草木が写実的に描かれている祖父の静物画と比べると、二人の眺めている風景画は見た感じの印象が他の絵画とは明らかに違っている。
「じゃあ、三杉のお爺ちゃんの絵?」
「曾お爺ちゃんの絵ならもっともっと古くなるのよ? たぶん知り合いから買うか貰うかしたんじゃないかしら……」
 秋子はそう言うと、徐に眺めていた額縁へと手を伸ばし、時雨の見ている前で手前に向かって引くように傾けた。
「あれ? 一枚だけじゃないんだ」
 空いた壁との隙間には他にも同じ大きさと形をした額縁が二枚ほど重なって立て掛けられていて、それに気付いた時雨が「見てもいい?」と言って手を伸ばすと、額縁を娘の手に委ねた秋子は絵から少し遠ざかるようにして時雨の背後へと移動した。
「これってどうするの?」
「今さらお爺ちゃん以外の人の絵をここに飾るつもりだったとは思えないし、たぶん緑想館に持っていくつもりで置いてあったんじゃないかしら」
 時雨にそう言って返す秋子は額縁を操る娘の後ろ姿に何やら探るような眼差しを向けている。
「……あれ?」
 残りの二枚に手早く目を通した時雨が不思議そうに首を傾げた。
 何か気になる事でもあったのか、もう一度見比べるように三枚の絵に目を通してゆく。
「ねえママ? これって三枚だけしかないの?」
 振り向きざまに時雨がそう言って尋ねると、途端に秋子はひどく残念そうな表情を浮かべた。
「やっぱりね……やっぱりそう思うわよね」
 ため息交じりの秋子のその台詞に時雨も残念そうに呟く。
「って事は、〈冬の絵〉はないんだね」
「それを確認したくても誰からこの絵を手に入れたのか調べる手掛かりが無くて困ってるのよ」
 難しい表情で首を横へと振る秋子に時雨は「あ、そっか」と納得の表情で頷いて返した。
「こうして三枚いっぺんに見てしまうと時雨じゃなくてもすぐに気付くわよね」
 壁に立て掛けられている三枚の絵を前に母娘は揃って思案気な表情を浮かべる。
「どちらかと言えば緑想館向きの絵なんだけど、描いた人すら分からないんじゃ今すぐ向こうに飾るっていうのは無理そうね」
 早や諦めに近い表情を浮かべながら秋子が言った。
「案外と揃ってないから寝室に置いたままだったのかも……」
 緑生い茂る庭園の描かれた油彩画を見つめながら秋子はポツリとそう呟いた。

 第一話 スケッチブックと鍵

 新緑の季節を迎えた鎌倉市内。
 高校入学を間近に控えて短い春休みを過ごしていた霞上時雨は、二週間ほど前に亡くなった母方の祖母、御領小冬の遺品整理を手伝う為に母親の秋子に連れられて同じ市内にある祖母の邸宅を訪れていた。
 煉瓦造りの古い洋風建築の一室、母娘の居る居間にはアンティーク感漂う洋風家具がずらりと並び置かれ、飾り棚にはガラスや金属で作られた古めかしいオブジェが数多く並べられている。
 最近滅多に見なくなった焼杉の黒い床板の上には豪華な模様のペルシャ絨毯が敷かれていて、漆喰塗りの白壁には時雨の祖父の描いた大小様々な絵画が壁一面を覆い尽くすようにして飾られていた。
 何となく小さな画廊を思わせるような、そんな洒落た佇まいの居間を持つ祖母の邸宅は、時雨が生まれるよりもずっと前に亡くなった祖父、御領玲一自らの設計により建てられたものだった。
 時刻は早朝の七時を少し過ぎた頃、外はまだ幾分か肌寒いものの、窓ガラス越しに室内へと届く陽光の暖かさが適度に心地の良い温もりとなって母娘の頬や手先を優しく包み込む。大切な家族を失った二人の寂しい気持ちを和らげてくれるかのような、そんな優しげな朝の雰囲気が室内に満ち溢れていた。
 ハンディモップを手に飾り棚の埃を払っていた時雨が、棚の上に幾つか並んでいたフォトスタンドのひとつへと手を伸ばす。フレームの中に収められた古めかしい写真には、仲睦まじく並ぶ在りし日の祖父母の姿が写し出されているが、寄り添い合う夫婦は見た目に随分と歳が離れているようで、ひと目見た感じは夫婦というよりも、まるで父と娘が並んでいるようにしか見えない。恐らくは若い時分に撮られた写真なのだろう。写真の中で微笑む祖母は今の秋子よりも若く、しかしその横に立つ祖父はと言えば、孫である時雨の目から多少贔屓目に見ようとも若い小冬と釣り合うような年齢にはまるで見えなかった。
「ほらほら、いちいち手を止めてたらいつまでたっても終わらないわよ」
 近くで片付けをする秋子が時雨に向かって注意を促す。
「そういうのは片付けが終わってからにしてちょうだい」
 念を押す母親に時雨は「はーい」と間延びした返事をして返すと、手に持っていたフォトスタンドを元あった場所へとそっと戻した。
「あ、そうそう、忘れるところだったわ」
 不意に何か思い出したように秋子が片付けの手を止める。
「ちょっと待ってて」
 時雨にそう言い残して部屋を出て行くと折染め模様の入った大きな紙の箱を手にすぐに居間へと戻ってきた。
「はい、これ」
 母親の差し出してきた紙箱を不思議そうに時雨が覗き込む。
「なーに、この箱?」
 片手で箱を受け取ろうとするが、見た目よりもズシリと来る箱の重さに気付いて慌ててもう片方の手を添え直した。
「ずいぶん重いね、何が入ってるの?」
「それ、お婆ちゃんからよ。時雨に渡してって」
「えっ、お婆ちゃんから?」
 箱が祖母から自分に宛てられたものだと聞かされた時雨は目を丸くして秋子の目を見つめる。
「詳しくは聞いてないけど、中身は時雨の欲しがっていたものだって言ってたわ」
「えっ? それってもしかして……」
 秋子の口にした祖母の言葉に何かしら思い当たる節でもあったのだろう、何やら慌てた様子で窓際近くの書斎机に足早に駆け寄ると、机の上に紙箱を置き、上蓋を両手でそっと持ち上げた。
「うわぁ……!」
 箱の中を覗き込んだ時雨が両手を口に当てて小さく感嘆の声を漏らす。
「なーに? 何が入ってたの?」
 秋子にそう言って促された時雨は箱の中へと手を差し入れて、中に収められていたものをゆっくりと取り出した。
「あら? それって母さんの大事にしていたスケッチブックじゃない。時雨の欲しがっていたものってそれの事だったの」
 驚く秋子のその言葉に時雨が満面の笑みを浮かべて返す。
「その木の表紙、何だか久しぶりに見たわ」
 近づいて秋子が覗き込んだ視線の先、時雨の手の上には古びた一冊の本が乗せられていた。
 見た目にスケッチブックらしい特徴があるわけではないが、美術本サイズの大きさと五センチほどの厚みがあるその本の表紙には、背表紙も含めて古びた木の板が使われていて、板の表面には楓の葉と思しき図柄が手彫り風の彫刻技法を使って彫りこまれていた。
 恐らくは古いものなのだろう。板の部分部分は変色してかなり黒ずんでいるが、それが程良いアンティーク感となって何となく洒落た雰囲気のようなものを漂わせていた。
 そのまま書斎机の椅子に腰を下ろした時雨はスケッチブックを膝の上へと乗せ、慣れた手つきで木の板の表紙を捲る。
 古びれた表紙と同様、少しばかり色褪せて見えるその頁には自然の風景を描いたと思われるスケッチが淡い水彩色の絵の具に使って描かれていた。
 開いた頁を見つめながら時雨がポツリと呟く。
「約束、ちゃんと覚えていてくれたんだ……」
「約束?」
「うん、約束……いつかこのスケッチブックを私にくれるって」
「あら、そんな約束してたの?」
 思わぬ告白に驚く秋子だったが、その口元には嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
「それ気に入ってるのって昔からだったもんねぇ」
 秋子はそう言いながら机の上の紙箱へと手を伸ばした。
 折り染めの施された色鮮やかな和紙が下箱の表面にまで丁寧に貼り込まれていて、手間のかかるその造りから見る限り恐らくは小冬の手製なのだろう。
 コツン――
 手にした箱を秋子が持ち上げた瞬間、箱の中で何か音がした。
「あら?」
 音に気付いた秋子が箱の中を覗き込む。
 箱の底には玄関の鍵ほどの大きさをした古びた真鍮製の鍵が一本だけ転がっているのが見えた。
「ねえ、時雨?」
 傍らでスケッチブックに眺め入る娘に声を掛けながら指先で摘むようにして鍵を取り出す。
「箱の中にこんなものが残ってたけど、これって何の鍵?」
 そう言って尋ねる秋子は時雨の目の前に箱から取り出した鍵をぶら提げてみせた。
「ん?」
 目の前にぶら提げられたその鍵を時雨がぼんやりとした眼差しで見つめる。
「さあ……、分かんない。その箱の中に入ってたの?」
 時雨が逆に聞き返すと、秋子は「ええ、そうよ」と頷いて返した。
「何の鍵なんだろう……」
 スケッチブックの時とは明らかに違うその反応に、秋子が怪訝そうに時雨の表情を覗き込む。
「本当に分からないの?」
「うーん……」
 時雨は探るような眼差しで鍵を見つめるも、すぐに諦めて秋子に向かって肩を竦めてみせた。
「やっぱり分かんない……、っていうか、お婆ちゃんは何も言ってなかったの?」
「お婆ちゃんが言ってたのは『この箱を渡して欲しい』って、ただそれだけよ」
 秋子のその言葉に時雨が膝の上のスケッチブックへと視線を落とす。
「もしかしてこれに使う鍵……なのかな?」
 そう言いながら表紙の裏や背表紙の部分を指先で探ってみるが、鍵穴らしきものはまるで見当たらない。
「やっぱり違うみたい」
 早々に諦めた時雨は秋子に向かって再び肩を竦めてみせた。
「単に間違えて入れちゃっただけなのかもね。家の中で使っていた鍵なら片付けをしているうちに何か分かるかもしれないわ。時雨に心当たりがないのなら、とりあえずはどこか分かるところにでも置いて預かっておくわね」
 鍵を手にそう言って立ち去ろうとする母親を時雨が慌てて呼び止める。
「ママ待って、それって私が持っていてもいいんでしょ?」
「別にダメではないけど、こんなもの持っていてどうするの?」
 振り向いて尋ねる秋子に時雨が真顔で言った。
「とりあえずはお婆ちゃんが私にくれた箱の中に入っていたわけだし、鍵っていうのが何だか少しだけ気になるの」
 娘のその台詞に秋子が苦笑い浮かべる。
「なんなら家の中で宝探しでもしてみる? でもこの家の中でこんな古い鍵を使うような場所って正直ママにだって心当たりがないのよね」
 苦笑いを浮かべた秋子が冗談交じりにそう言うと、しかし時雨は探るような眼差しを秋子へと向けながら言った。
「……ね、ちょっとだけ探してみてもいい?」
「え? 探すって、もしかして家の中を?」
 驚く秋子に時雨が顔の前で両手を合わせる。
「三十分だけでいいから、ねっ、お願い!」
 そんな娘を困ったような表情で秋子が見つめた。
「新しい鍵っていうのならともかく、そんな古い鍵ならママの記憶にだってある筈だと思うんだけど……たぶんこの家の中を探したって見つからないと思うわよ?」
 かつて暮らしていた母親のその言葉にさえ時雨が諦める様子はない。
 観念した秋子は渋々ながら時雨に言った。
「本当に少しだけなら仕方ないけど、その代わり片付けの邪魔はしないでね」
 秋子のその言葉に時雨は「うん、分かってる」と軽く二つ返事をして返し、秋子から鍵を受け取って嬉々とした表情で居間を飛び出して行った。
「渡すタイミングが悪かったみたいね……」
 ひとり盛り上がる娘の様子に苦笑いを浮かべる秋子は、自嘲気味にそう呟き、時雨がテーブルの上に残していったスケッチブックを箱の中へと戻し、そっと上蓋を閉じた。

第二話 二冊目のスケッチブック

 その日の夕刻過ぎ、祖母宅の片付けを終えて秋子と共に自宅マンションへと戻っていた時雨は、夕食の支度に忙しい秋子を手伝いながら相変わらず鍵の話題でひとりきり盛り上がっていた。
「……屋根裏部屋まで探して見つからなかったんだからさー、あの家の中で使われている鍵じゃないんだよ、きっとー」
 食卓テーブルの上には既に秋子手製の料理が幾つか並べられていて、家族三人分の食器をテーブルの上へと並べてゆく時雨は、キッチンの秋子に向かって大声で言った。
「お婆ちゃんもさー、何か一言ぐらい言ってくれればいいのにさー」
 誰も居ないリビングで時雨がひとり不満げに口を尖らせていると、キッチンからグラタン皿の載ったトレーを手に秋子が姿を現した。
「別に無理に探そうとしなくたっていいんじゃないの?」
 素っ気の無い母親の台詞に時雨はますます不満そうに口を尖らせる。
「そんなこと言ったってお婆ちゃんが鍵をくれた理由が気になるんだもん」
「別に難しく考えなくてもいいんじゃないの? お婆ちゃんにとって何か大切な思い出の品だったのかもしれないし、それを時雨に形見として持っていてもらいたいと思っただけかもしれないじゃない?」
「そうなの?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
 まるで小さな子供に言い聞かせでもするかのように秋子が言う。
「とりあえず今は大事に持ってさえいればいいと思うけど」
 軽い口調で時雨にそう言うと、秋子はわざと横目がちに時雨の目を見つめながら溜息交じりにポツリと呟いた。
「ちなみにお婆ちゃんってば、時雨にはスケッチブックを譲っておいて娘の私には何も残してくれなかったのよね……」
「あ……」
 寂しげな母親の表情を見て時雨が気まずそうに視線を逸らす。
「ふふふ、今のは冗談よ。ママはそんなの全く気にしてませんから。それよりも時雨がその鍵の事を忘れてしまうような話をひとつだけ聞かせてあげられそうなんだけど?」
 案外と素直な娘の反応にすぐに笑顔を浮かべ直した秋子は何やら思わせぶりな台詞を口にした。気まずそうだった表情から一転、時雨が探るような眼差しを秋子へと向ける。
「えっ? 私が鍵の事を忘れられるような話って何?」
「聞きたい?」
 焦らす秋子に時雨は大きく頷いた。
「じゃあ、まずは夕飯の支度を終わらせてしまいましょ!」
「えーっ!」
 まさかの肩透かしに時雨が悲鳴をあげる。
「だって、まだお味噌汁だって作ってないし、ママだって先にやんなきゃいけない事が沢山あるのよ?」
 秋子は澄ました表情でそう言うと、空になったトレーを手にキッチンへと踵を返す。
「ママの意地悪っ!」
 不貞腐れてそっぽを向く時雨に秋子が言った。
「お婆ちゃんの家では時雨の我侭を聞いてあげたんだから、今度は時雨がママのお願いを聞く番よ。夕食が終わったら聞かせてあげるから、ちょっとの間くらい我慢しなさい」
 すっかりと機嫌を損ねた娘を一人きりリビングに残し、あきこは悪びれるどころかむしろ満足そうにキッチンへと戻っていった。


「……真鍮製か」
 夕食を終えたリビングでは、帰宅した時雨の父、霞上誠吾が娘から手渡された鍵を興味深げな表情で眺めていた。
 向かい合って座る時雨の目の前には、祖母の家から持ち帰った例のスケッチブックも置かれている。
「シンチュウセイ?」
 父親の口にした耳慣れない言葉に時雨が首を傾げた。
「鉄や銅と同じで金属の名前よ。真鍮は正確には合金なんだけどね」
 傍らで夕食の片付けをする秋子が誠吾に代わって口を開く。
「ゴウキンって?」
 再び首を傾げる時雨に誠吾が微笑みながら言った。
「トランペットやトロンボーンなんかに使われている金属って言えば時雨には分かりやすいかな? パパ達が生まれるよりもずっと前なんかはこういった真鍮製の鍵がよく使われていたんだよ。御領のお婆ちゃんが持っていたんだから間違いなく古いものなんだろうね」
 誠吾はそう言って手の中の鍵をじっと見つめる。
「見た目に単純な形をした鍵だから、大切なものをしまっておくような場所には使われていないんじゃないかな?」
 時雨に向かって誠吾がそう言うと、秋子は途端にしたり顔を浮かべた。
「ほら、やっぱり慌てて探さなくったって全然問題なさそうじゃない」
 時雨に向かって満足げな表情でそう言い残して食器を載せたトレーを手にキッチン奥へと姿を消す。
「別に慌ててるわけじゃないのに……」
 時雨は恨めしそうな眼差しでキッチンを見つめた。
「とりあえず時雨はどうしたいんだい?」
「とりあえずって?」
「渡された理由が分からないなら持っていても仕方ないと考えているのかい?」
「ううん、その逆でママからはお婆ちゃんの家に置いておくよう言われたんだけど、私が自分で持っていたいって頼んだの。鍵っていうのがなんだかすごく気になるし、一応はお婆ちゃんが私にくれた箱の中に入ってたわけだから……。でもお婆ちゃんの家ではそれらしい場所は見つけられなかったし、やっぱりママの言った通り、ただ間違えて入れちゃっただけなのかなって……」
 半ば諦めたような口ぶりでそう話す時雨は、両腕を伸ばしながらテーブルの上に突っ伏した。
「せめて間違えたのかそうでないのかだけでも知りたいんだけどなぁ」
 テーブルに向かってぼやく娘に誠吾が尋ねる。
「でもそれをお婆ちゃんに聞く事は出来ないわけだろ?」
「うん……」
「だったら今は形見として持っておくくらいしかないだろうなぁ。もしかしたらその理由が分かる日だっていずれ来るかもしれないしね」
「理由……あるのかな?」
 時雨は探るような眼差しで父親の顔を見た。
「時雨はどっちの方がいい?」
 尋ねる誠吾に時雨が聞き返す。
「どっちって……理由があるかどうかって事?」
 そんな娘に誠吾は「そうだね」と頷いて返した。
「うーん……」
 時雨が返事に悩んでいると、トレーを持った秋子が再びキッチンから戻ってきて言った。
「パパ? わざわざ寝た子を起こすような言い方しないでね」
 キッチン奥で二人の会話を聞いていた秋子は、おつまみの乗った小皿を誠吾の前に置きながら困ったような表情を時雨に向ける。
 そんな母親の台詞に時雨が仏頂面を浮かべた。
「私、寝た子なんかじゃないもん!」
 プイッとそっぽを向く娘に秋子が言う。
「そんなふうに苛々したってお婆ちゃんが何も言ってなかったのは事実なんだし仕方ないじゃない?」
「別に苛々なんてしてないもん! ただがっかりしてるだけだもん……」
「あら? どう見ても苛々してるわよ」
 言い争うような母娘のやり取りに誠吾が苦笑いを浮かべながら割って入った。
「とりあえず果報は寝て待てといったところかな? いずれにせよお婆ちゃんの家ではそれらしい場所を見つけられなかった訳なんだし時雨だって今は深く考えないほうがいい。ママだってその為にとっておきの子守唄を歌ってくれるんだろう?」
「子守唄?」
 眉間に皺を寄せる時雨を尻目に秋子ひとりが夫の台詞に笑みを浮かべる。
「ふふ、そうね。確かに子守唄かもしれないわね」
 目の前で笑顔を浮かべ合う二人を冷めた眼差しで時雨が見つめた。
「……なんだかものすごく子供扱いされてる気がする」
「あら、だって時雨は私達の子供でしょ?」
「そういう意味じゃなくて……」
 茶化す秋子に時雨は突っ伏していた上体を起こしながら言う。
「ってゆうか、ママって最初からこの鍵に興味が無い感じだよね。それにママったら……」
 前のめり気味にテーブルの上に身を乗り出す娘を見て、誠吾が咄嗟に口を開いた。
「ねえママ? もう片付けの方は終わったのかい?」
 言葉を遮られた時雨は不満そうに父親の様子を伺う。
 聞かれた秋子が誠吾に言った。
「片付け? 後は洗い物を済ませるだけよ」
「だったら今日は僕がやるよ。どうやら時雨もしびれを切らしちゃっているようだし、ママのとっておきの話とやらを早く時雨にしてあげるといい」
 そう言って誠吾が椅子から立ち上がる。
「あらいいわよ、そんなのすぐに洗っちゃうから」
「まあまあ、たまにはいいじゃないか」
 立ち上がってキッチンへと戻ろうとする妻を誠吾が片手で制した。
 そんな二人のやり取りを眺めていた時雨が慌てて椅子から立ち上がる。
「パ、パパ! 大丈夫よ、今日は私が洗ってくるから!」
 少し慌て気味にそれだけ言うと、二人に有無を言わせぬ素早さで誠吾の脇を抜けてキッチン奥へと走り去った。
 そのあまりの慌てぶりを見て、リビングに取り残された二人が苦笑いを浮かべながら互いの顔を見合わせる。
 キッチンからは食器同士のカチャカチャと触れ合う音が聞こえてきて、それからすぐに蛇口から勢い良く流れる水の音も加わった。
「……例の話、もしかして時雨にも話すつもりでいるのかい?」
 テーブルを挟んで座る妻に誠吾がそう言って声をかける。
「例の話? ううん、そんなんじゃないわ」
 首を横に振って返す秋子は、ほんの一瞬キッチンの方向へと視線を向けた。
 今は食器を洗う賑やかな水の音にかき消され、二人の会話がキッチンにいる時雨の耳に届く心配はない。
「じゃあ時雨には何を話すつもりでいるんだい?」
「スケッチブックに隠された秘密よ」
 夫に探るような眼差しを向け、秋子が言った。
「えっ、そのスケッチブックにも何か秘密があるのかい?」
「別に秘密ってわけじゃないんだけど、時雨にとってみれば秘密みたいなものかしら?」
 秋子はそう言いながらテーブルの上に残されたままのスケッチブックに手を伸ばした。
「考えてみれば、これだって似たようなものなのかもしれないわ」
「似てるって、それどういう意味だい?」
「母さんは私達に思い出を押し付けるつもりはないって言ってたし、私達がそれに縛られてしまうようなことにもなって欲しくはないって……」
「それって例の話の事かい?」
 尋ねる誠吾に秋子は頷きながら言った。
「このスケッチブックって誰が描いたものなのか分からないの。でも母さんは私が小さい頃からずっとこの本を大切にしてたわ」
「え? それって御領のお義父さんが描いたものじゃないのかい?」
「ええそうよ」
 驚く誠吾に秋子が無表情で頷いて返す。
「誰が描いたスケッチなのかは持っていた本人ですら知らないの」
「へぇ、僕はてっきり君のお義父さんか曾お爺ちゃんが描いたものなんだとばかり思っていたよ」
 誠吾はそう言って意外そうな表情を浮かべた。
「母さんがどうしてこのスケッチブックを大切にしていたのか私は全く知らない。でも形見として受け取った時雨ですら母さんが大切にしていた理由を聞かされずに受け取ってるわけだし、そういう意味ではなんだか感じが似てる気がするの。私や時雨にしてみれば今の時点ではどちらも母さんの思い出としてしか受け止めようがないし、母さんがこのスケッチブックにどういう想いを抱いていたか一切口にしなかったっていうのは逆に押し付けるつもりがないっていう言葉に繋がっている気がしなくもないし……」
「なるほどね」
 妻の話に納得したように頷いて返す誠吾は、テーブルの上の鍵を手に取って言った。
「……お義母さんが君や時雨を縛りたくないって言っていたのなら、この鍵の事だって無理やり意味を探る必要なんてないんだろうね」
「うん、きっと何かしら意味はあるんだろうと思うけど、母さんが何も言わずに箱の中に入れたのであれば、たぶんそういう事なんだと思う」
 鍵に関しては何かしら意味があって箱の中に入れられたと考えているのだろう。恐らくはそう考えるのが自然だと思える根拠のようなものが二人の中に何かしら存在しているに違いなかった。
「時雨じゃないけど、僕もなんだか子守唄の歌詞が気になってきたよ」
 そう言って目を輝かせる誠吾に秋子が苦笑いを浮かべて返す。
「得体の知れない鍵一本くらいなんてまだ全然可愛いいほうよ? こっちなんて今も緑想館の事だけで手一杯なんだから」
「ちなみにそっちを探せば何か見つかるって事はないのかい?」
 誠吾はそう言いながら手にした鍵を妻の目の前で振ってみせる。
「そっちって緑想館の事?」
「うん」
 揺れる鍵を見つめながら秋子は首を傾げた。
「あそこに通うようになって、もう二年近く経っているから、大概の場所はさすがに把握してるつもりなんだけど……」
「たぶん無さそう?」
「うーん……絶対とは言い切れないわね、もし可能性があるとしたら美術館の方くらいかしら? 〈オンブラージュ〉の方は私に限らずスタッフなら誰でも立ち入れる場所が殆どだから、もし鍵が閉まってて開かない場所があれば今までに誰かしらが気付いてておかしくないわ」
「だとしたら美術館の方こそ時雨に好き勝手探させるのには好都合じゃないか」
 何やら嬉しそうに話す夫に秋子が眉をひそめて返す。
「母さんの家とは違うんだから時雨の好き勝手にはさせられないわ。ただ、時雨には悪いけど今は考えなきゃいけない事が多すぎて、もう少し落ち着いてからじゃないと鍵の事まではさすがに考えてあげられそうにないの」
「だったらそのスケッチブックの方は?」
「スケッチブック? うん、こっちの方はそれほど手間のかかる話じゃないから大丈夫なの」
 秋子はそう言いながら再びスケッチブックへと視線を落とした。
「母親が亡くなったっていうのになんだか気忙しい事ばかりで嫌になっちゃう。私も時雨と同じようにスケッチブックみたいな形見さえあればそれだけで十分だったのに……」
 しみじみと呟く妻を誠吾が優しげな眼差しで見つめる。
「緑想館の方はともかくとして、例の話について君自身の気持ちは?」
「私? ……うーん、まだ何も考えていないっていうのが正直なところかしら? いっその事あなたが決めてくれてもいいんだけど?」
「僕がかい?」
 聞き返された誠吾が困ったように天井を見上げる。
「僕だったら、うーん、そうだなぁ……」
 真剣に悩み出す夫の表情を秋子が楽しそうに眺めていると、ようやくキッチンから聞こえていた水の音が止み、再びカチャカチャと食器同士が触れ合う音へと変わった。
 それまでの会話を一旦中断して、点けっぱなしだったテレビを二人が眺めていると、暫くして食器を洗いを終えた時雨が二人の待つリビングへと戻ってきた。
「ご苦労様」
 テーブルに腰を下ろす娘に秋子が労いの言葉をかける。
 そんな秋子と目を合わせようともぜず時雨が口を開いた。
「これで今度こそ可愛い娘の為の子守唄とやらを聞かせてもらえるんだよね?」
 皮肉交じりのそのひと言に誠吾と秋子が思わず顔を見合わせる。
「内容次第では大人しく寝てあげてもいいよ」
 続けざま時雨が口にする言葉に秋子は目を丸くしながら言った。
「あら? なんだか随分と上から目線じゃない?」
「そう? ただ早くすっきりしたいだけ」
 悪びれた素振りも見せず、時雨はただ澄ましたような表情を秋子へと向ける。
「あらそうですか」
 多感さを増す年頃の態度に苦笑いを浮かべた秋子は、それ以上何かを言うのは諦めて、大人しく本題へと入った。
「ママが時雨に聞かせたい話っていうのは、実は時雨がお婆ちゃんからもらったこのスケッチブックの事なんだけどね」
「えっ? スケッチブック?」
 秋子のひと言に時雨の表情が一変する。
「誰がこのスケッチブックの絵を描いたのかが分からないのは時雨もよく知っているわよね」
「うん、お婆ちゃんも知らないって言ってた……」
 尋ねる秋子に時雨は真剣な眼差しで頷いて返す。
「そう、お婆ちゃんも知らない。でも誰が描いたか分からないようなスケッチブックをどうして大事にしていたのかしら?」
「描かれている絵が好きだったんじゃないの?」
「そうね、そうかも知れないわね」
 思ったままの答えを口にする娘に秋子もとりあえず頷いて返した。
「時雨は純粋にこれの絵が好きなのよね?」
 秋子はそう言って目の前のスケッチブックを指差す。
「う、うん」
「じゃあ、このスケッチブックが他にもあるとしたらどう思う?」
「えっ?」
 母親の口から飛び出した予想外のひと言に時雨が驚いて目を丸くした。
「実はあるのよ、間違いなくもう一冊」
「あるって……まさかこれと同じスケッチブックが?」
 驚く時雨はそう言いながらテーブルの上のスケッチブックを自らの方へと引き寄せる。
「実はね、むかし小春伯母さんの家でこれと同じモノを見た記憶があってね、まだママが小さかった頃の事だからぼんやりとしか憶えてないんだけど、伯母さんからその時にお婆ちゃんが持っているのと同じものだって教えてもらった記憶があるの」
「小春のお婆ちゃんが?」
「そ、横浜の小春お婆ちゃん」
 その途端、二人の会話を黙って聞いていた誠吾が口を開いた。
「それってつまり横浜の伯母さんも妹が同じものを持っているって知っていたって事なのかい?」
「多分ね。時雨と違って私自身はスケッチブックには興味がなかったから気にもしてなかったんだけど、久しぶりにこれを見たせいで小春伯母さんとの当時の会話を思い出したんだと思う」
「……だとしたらスケッチブックは二冊以上ある可能性も出てくるわけだね」
 思案気な表情で誠吾が呟く。
「え? どういう事?」
 父親の呟きに時雨が不思議そうに首を傾げた。
 眉間に皺を寄せながら誠吾の次の台詞を待つ時雨の様子を見て、秋子が小さな溜息をつく。
「パパ、少し話を端折り過ぎ。時雨が全く話についていけてないじゃない」
 秋子に言われて時雨の顔を覗き込んだ誠吾は、怪訝そうな娘の表情に気付いて恥ずかしそうに頭を掻いた。
「ゴメンゴメン。ついうっかり自分のペースで話しを進めてしまうところだった」
 詫びる誠吾が二人に向かって降参したように両手を挙げてみせる。
「今は黙って聞く側に徹するよ」
 誠吾はそう言うと、片手を振って話を続けるよう秋子を促した。
「別に難しく考える必要なんてないのよ。まず肝心なのは小春の伯母さんがお婆ちゃんと同じスケッチブックを持っていたって事」
「それは私にも分かるけど……、パパが二冊だけじゃないって言ったのは?」
 先ほどの誠吾の言葉の意味を秋子が優しく説明する。
「うん、それはね、有名な画家のスケッチブックだっていうのならともかく、誰が描いたか分からないものを姉妹(きょうだい)揃って大切にしていたわけよね? それって二人が偶然にスケッチブックの絵を気に入って同じものを持っていたのかもしれないけど、もし何か別の共通した思い入れがある品物だったとしたらどうなると思う?」
「ん? どういう事? それってお婆ちゃん達の思い出の品物だったって事?」
「そ! 要するに思い出の品って事」
 娘に向かって秋子は嬉しそうに笑顔を浮かべて返す。
「その話とスケッチブックの数に何か関係があるの?」
「もしもスケッチブックが本当に思い出の品物だったとしたら、それってお婆ちゃんと小春伯母さんの二人だけの思い出だったのかしら?」
「あ……」
 秋子の言葉を聞いて時雨がすぐに何かに気付いた。
「もしかして九州のお婆ちゃん?」
「そう、小夏のお婆ちゃん!」
 嬉しそうに秋子が頷くのを見て時雨は誠吾の口にした言葉の意味をようやく理解したようだった。
「そっか、パパがまだ他にもあるかもって話してたのはそういう意味だったんだ」
 すっきりとした娘の表情を見て、誠吾も安心したように頷いて返す。
「どう? その鍵なんかより分かりやすい話でしょ?」
 テーブルの上の鍵を指差しながら秋子が言った。
「スケッチブックの水彩画は全て直筆でしょ? だから何冊あるかって事よりも時雨の貰ったのとは違う絵が描かれているかもしれないなぁって……ママは単純にそう思って話してみただけなの」
 秋子の言葉に時雨が目を輝かせて頷く。
「もしそうなら私見てみたい」
「お婆ちゃんの四十九日が過ぎたら横浜の檜山さんところに行ってきましょ、でも叔母さんが亡くなってから何年も経っちゃってるから稔彦さんが憶えてなかったら見つけるのにちょっと手間取るかもしれないわね」
 秋子の提案に時雨も真剣な表情で大きく頷いて返す。
「小春伯母さんも大事そうにしていたみたいだったから、多分捨てられたりはしていないと思うのよ」
 母娘の会話がようやくひと段落したのを見て誠吾が言った。
「時雨にとっては思いのほか素敵な子守唄だったみたいだね」
 そう言って微笑む誠吾に向かって時雨も満面の笑みを浮かべて頷いた。

第三話 檜山家への訪問

 遼平の母、檜山早紀子は生クリームが乗ったスプーンを片手にリビングに姿を現すと、ソファーに寝転がってテレビを眺めている息子に声をかけた。
「ねえ遼平、これちょっと味見してみて」
 早紀子はそう言って息子の目の前に持っていたスプーンを近づける。
「ねえ、なんか色が薄いけど、これってもしかしてチョコクリームのつもりだったりする?」 
「ええ、そうよ」
「やっぱり……」
「色が薄いのは気にしないで、少しだけチョコが足りなかったの」
「あんま、ちょっとって感じじゃないんだけど……」
「じゃあ、ただの生クリームでもいいわ、とにかくちょっと味見してみて」
 母親の強引さに諦めてスプーンを受け取った遼平は頼まれるがままに生クリームを口の中へと運んだ。
 口の中に広がる甘い風味と滑らかな舌触りに遼平が頷く。
「うん、確かに生クリームだけど、予想通りチョコの風味は殆どしないね」
「だから言い直したじゃない、ただの生クリームだって。ロールケーキ作るのにどうせ巻いちゃうんだから色なんか気にしなくても大丈夫なの」
 大雑把な母親の台詞に遼平は力無く溜息をついた。
「ねぇ、母さん?」
 満足げにキッチンへと戻ってゆく母親を遼平が呼び止める。
「俺ってやっぱり家にいないとダメな感じ?」
「いないとダメって……、そんなのママに聞かれても分からないわよ、何か用事があるんならパパに聞いてみたら?」
「親戚の子の相手しろったって俺もう高校生なんだぜ、小学生の頃に一度きりしか会ったことないし、しかも相手も同じ高校生、そのうえ女の子ってさぁ……」
 愚痴をこぼす息子に早紀子が言った。
「そんなの美沙ちゃんが遊びに来たんだと思えばいいじゃない」
「アイツはガキの頃からの幼馴染だろ、そもそも初期設定から違うっつーの」
 早紀子の適当なアドバイスに遼平が肩を落とす。
「んー、どうした?」
 二人の声を聞きつけてリビングから家の玄関へと繋がる廊下の向こう、スリッパの足音と共に野太い男性の声が聞こえてきた。
「美沙ちゃんがどうかしたのか?」
 遼平の父、檜山稔彦がそう言いながらリビングに姿を現わすと、途端に遼平がバツの悪そうな表情を浮かべた。
「あ、パパ? なんだか遼平が困ってるみたいなんだけど」
「い、いや、困ってるっていうか……」
「なんだ、お前また美沙ちゃんとケンカでもしたのか?」
「いやケンカは全然してないけど……」
「じゃあ何を困ってるんだ?」
「いや、困ってるっていうかなんというか……」
 言いづらそうに口ごもる遼平を見かねて早紀子が代わりに口を開いた。
「なんだか親戚に会うのが恥ずかしい年頃みたいよ」
「なんだお前、秋子さん達に会うのが嫌なのか?」
 早紀子のひと言に稔彦が息子の顔をじろりと一瞥する。
「い、いや会いたくないワケじゃなくて、なんていうかその、……女の子の相手とか言われても一体何を話せばいいのか分からないし……」
「ん? お前もしかして時雨ちゃんと会うのが恥ずかしいのか?」
「い、いや恥ずかしいっていうか、初対面に近い女の子となんて二人きりで何を話したらいいか分んなくてさ」
「その台詞、美沙ちゃんにも聞かせてあげたいわ」
「だからアイツは別だって!」
 茶化されて不貞腐れる息子に稔彦が呆れ顔で言った。
「なあ遼平、確かに時雨ちゃんの相手をしろとは言ったけど俺は二人きりでと言った覚えは全くないぞ」
「え?」
「お前なぁ、当たり前だろ。どこの親がいい歳をした自分の息子と他人様の娘とを二人きりにさせるっていうんだ。俺が頼んだのはみんなで居る時に時雨ちゃんが退屈しないように歳の近いお前が相手をしてあげてくれって、それだけだ」
 稔彦のその言葉に遼平が頷く。
「……なるほど」
「次にいつ顔を合わせられるか分らないんだから、お前も会って挨拶ぐらいしておけ」
 半ば命令口調でそう言われた遼平は観念したように稔彦に向かって頷いて返した。
「こないだのお葬式でママも挨拶したけど、時雨ちゃんって結構な美人さんだったわよ」
 早紀子が口元に笑みを浮かべてそう言うと、つられたように稔彦も目を閉じて天井を仰ぐ。
「あの子はきっと美沙ちゃんとは真逆のタイプだな」
 そう言って呟くと、自らの言葉に納得するようにウンウンと頷いた。
 他人様の娘と言った台詞はどこへやら、まるで下世話な両親の会話を冷ややかな視線で遼平が見つめた。


 三つ子の末妹として生まれた御領小冬には二人の姉がいた。
 一人が名を小春、もう一人が小夏と言い、遼平の父である檜山稔彦は、そんな三姉妹の長姉となる檜山小春の一人息子だった。
 要するに時雨の母である秋子とは従兄妹同士の間柄で、互いの幼少時代は一緒に遊んだりした事もある一番近しい顔見知りの親戚でもあった。
 しかしながらそれぞれ大人になるにつれ顔を合わせる機会も次第に減ってゆき、六年ほど前に檜山小春が亡くなった以降はその付き合いもせいぜい年賀状を交わす程度のものになってしまっていた。
 五月の連休初日となった日曜日、小冬の葬儀参列へのお礼も兼ねて稔彦の自宅を訪問するを事前に告げていた秋子達は、ほぼ約束していた時刻通りに稔彦達の住むマンション前へと到着した。
「いらっしゃい」
 玄関口で早紀子がにこやかに二人を出迎える。
 その背後には檜山稔彦がいかつい笑顔を浮かべて立っていた。
「やあ、いらっしゃい。時雨ちゃんもようこそ」
 稔彦がそう言って声を掛けると、時雨も秋子の背後で二人に向かってお辞儀をして返した。
「二人がウチに来るなんて初めてだよな」
 嬉しそうに話す稔彦のその言葉に秋子が申し訳無さそうな表情を浮かべて返す。
「でもごめんなさいね、せっかくの連休中に伺ったりなんかして」
「そんなの気にしないでよ、お互い兄弟もいないし数少ない三杉の家の親戚同士なんだからさ。さあさあ、こんなところで立ち話しなんかしてないで、まずはとにかく家の中に上がってよ」
 片手を軽く振る稔彦に促されて秋子達は檜山家の玄関をくぐると、通されたリビングにはソファーテーブルの上に早紀子お手製のオードブルが大皿に豪勢に盛り付けられていた。
「これ、どうぞお仏壇に」
 まずは秋子が持参してきたお土産を早紀子に手渡すと、お礼の言葉を口にする早紀子の横で稔彦も「済まないね」と言って秋子に向かって頭を下げた。
「途中で昼食を食べてきてるんだろうけど、もし良かったらつまんでよ」
 稔彦のその言葉に秋子が申し訳なさそうな表情を早紀子へと向ける。
「なんだか早紀子さんにまで色々と気を使わせてしまったみたいで、本当にごめんなさいね」
 しかし早紀子は首を横へと振りながら秋子に向かって笑顔を浮かべて返した。
 そんな秋子に向かって稔彦が笑顔で言う。
「なあに、コイツはもともとキッチンにいるのが趣味みたいなもんだから全然気にしないでよ、今朝だってかなり早くから張り切って作ってたくらいだし」
 夫のその言葉に早紀子も頷きながら言った。
「作るのが好きってだけだから味のほうはあんまり期待しないでね」
 控えめな早紀子の台詞に秋子が思わずソファーテーブルの上の料理を覗き込む。
「私には美味しそうにしか見えないわ」
 彩り良く並んだ料理を見つめてそう言うと、やはり隣で料理を覗き込む時雨と顔を見合わせて互いに頷きあった。
「息子に言わせると私の味付けは随分と適当らしくって……」
 早紀子はそう言って苦笑いを浮かべる。
「ん? そういえば遼平は部屋か?」
 その場に息子がいない事に気付いた稔彦が廊下の奥を覗き込んだ。
 途端に早紀子がニヤついた表情で胸の辺りへと両手を当て、心臓の鼓動を表すような仕草を夫に向かってしてみせる。
「あら? 遼平くん居るの?」
 秋子が尋ねた。
「この期に及んで何を恥ずかしがっているんだか……、おーい遼平!」
 眉間に皺を寄せた誠吾が廊下の奥に向かって大声で息子の名を呼ぶ。
「三杉の親戚が来るなんて滅多に無い事だし、アイツはこないだの小冬叔母さんの葬儀にも連れていけなかったからね」
 そう話す稔彦の背後で部屋の扉がバタンと閉じられる音がした。
「なんだか二人に会うのが恥ずかしいらしくって」
 時雨に早紀子はそう言うと、何やら楽しげな表情で片目をつぶって見せる。
 そんな早紀子の言葉通り、遼平は照れくさそうに頭を掻きながら四人が待つリビングへと姿を現した。
「こんにちは」
 秋子から声を掛けられて遼平が小さくお辞儀をして返す。
「さすがに男の子ね、前に会った時のイメージとは全然違っていてビックリ。それこそ遼平君と会うのは小春伯母さんのお葬式以来じゃないかしら?」
 甥っ子の成長ぶりに驚く秋子は感嘆交じりにそう言った。
「お義母さんが亡くなった時って事は、遼平はまだ小学生ね」
 早紀子のその言葉に秋子も頷いて返す。
「あの時は時雨が小学校の三、四年生だったから、そうなのかしら? でも小学生の頃と比べればイメージが変わっちゃってて当然よね」
 秋子はそう言ってまじまじと遼平を見つめた。
「でもお互いに覚えてはいないだろうから今日が初対面みたいなものかしら?」
 そんな早紀子の言葉に時雨が首を横へと振る。
「お葬式の時にお寺で遼平さんに遊んでもらった事、私ちゃんと覚えてますよ」
 時雨のその台詞に早紀子よりも先に秋子が驚いた。
「あら本当?」
「もちろんあの頃の記憶にあるのと顔や身体の大きさなんかは全然違いますけど……」
 早紀子に向かって付け加えるようにそう言った後、時雨はちらり遼平と視線を合わせる。
 頷く遼平が後を続けるように言った。
「小学校四年生だろ? 葬式で誰と会ったかくらい普通なら覚えてるよ」
 必要以上に子供扱いしようとする母親達に遼平が不満げな表情を浮かべて返す。
「幼稚園児じゃないんだから」
 遼平からほんの少し強めの口調で言われ、母親二人はバツの悪そうな表情で互いに顔を見合わせた。
「一緒に遊んだ事を覚えているんだから、お互いの事を覚えていたって当然だな」
 苦笑いを浮かべる稔彦の言葉に遼平と時雨が同時に頷く。
「ただ、一緒に遊んだっていうよりは、単にゲームを貸してあげただけなんだけどね」
 遼平がそう言うと、今度は時雨が後に続いた。
「でもゲームとか触った事の無い私に遊び方とか丁寧に教えてくれましたよ」
 
「随分と細かい事まで覚えているもんなんだな」
「小さい頃のああいう場所って普段と雰囲気違うから尚更なんだよ」
「確かにあの時のお寺の中の風景なんかも気持ち悪いくらい鮮明に覚えてたりします」
「そうそう。でも他の葬式もそうかっていうと、俺の場合って婆ちゃんの時ほどでもないんだよな」
「あ、私もそうかも」
 途端に会話の弾み出す二人の様子に親達が顔を見合わせる。
「……なんか若いっていいわね」
 秋子はポツリとそう呟く。
 そして不意に何かを思い出してパチンと両手を叩いた。
「ねえ時雨、思い出話が出たついでなんだし、まず先にあのスケッチブックを稔彦さんに見てもらったら?」
「あ……」
 秋子に促された時雨は手に提げていた紙袋を足元へと置いた。
「実はね、稔彦さんに見てもらいたいものがあるんだけど……」
 そう言って秋子が話を切り出すと、時雨は紙袋の中から例の紙箱を取り出した。
「あら、綺麗な折り染めね」
 色鮮やかな紙箱の模様を見て早紀子が目を輝かせる。
「とりあえず立ち話っていうのもなんだから、まずは二人とも座ってよ」
 稔彦に促されてソファーに腰を下ろした時雨はソファーテーブルの上に紙箱を置いて上蓋を両手でそっと持ち上げた。
「おっ!」
 箱の中身を見て真っ先に反応を示したのはやはり稔彦だった。
 予想通りの稔彦の反応に秋子と時雨が安堵の表情を浮かべる。
 すると次の瞬間、稔彦が大声で叫ぶように言った。
「これ秋ちゃんが持ってたのかぁ!」
稔彦の隣に座る早紀子が驚いて目を丸くする。
「急にそんな大声出したりしてどうしたの?」
 呆れ顔で尋ねる妻に向かって稔彦が箱の中を指で指し示しながら言った。
「早紀子、ほらこれ、前に俺が探してたやつ!」
 夫から同意を求められた早紀子が訝しげな表情でスケッチブックを覗き込む。
「探してたやつ?」
「ほら、母さんの大事にしてた本が一冊だけ見当たらないって、俺が一時探してたのを覚えてないか?」
 稔彦がそう言うのを聞いて秋子と時雨は互いに顔を見合わせた。
「あ……、そういえば四、五年前にパパがそんな話をしていたような……、もしかして実家を売る時の話?」
「そうそう!」
 早紀子の言葉に稔彦が大きく頷いて返す。
「どうりで探したって出て来ないはずだよ。そうか、秋子さんが持ってたのか……」
 稔彦はそう言うと、箱ごと自分の方へと引き寄せて懐かしそうに箱の中を覗き込んだ。
 そんな秋子達の様子に遼平ひとりが気付き、ひとり興奮する父親に声をかけた。
「ねえ父さん、なんだか叔母さん達が困ってるように見えるんだけど……」
「ん?」
 遼平に促されて稔彦が秋子達の様子を伺う。
 秋子が言いずらそうに口を開く。
「あのね、このスケッチブックは昔から母が大切にしていたもので、実は亡くなる前に母から時雨に渡してくれって頼まれたものなの……」
「え?」
 秋子の言葉に稔彦がぽかんとした表情を浮かべる。
「え? それってどういう事?」
 秋子の説明を理解できずに稔彦が聞き返した。
「時雨が持ってきたそれは小春伯母さんのじゃなくて、ウチの母が持っていた本なのよ」
「え、だってこれ、確かに母さんの持っていた本……」
 信じられないといった表情で稔彦が箱の中のスケッチブックを見つめる。
「実はそれと同じものをウチの母と小春伯母さんの両方が持っていたんだけど、なんだか稔彦さんの言い方だと小春伯母さんが持っていたスケッチブックは今は行方が分らなくなっているみたいね」
「二人がこれと同じものを持っていたって……? それ本当の話かい?」
「ええ、かなり昔の話だけど小春伯母さんから直接聞いた話だから……、伯母さんが持っていたスケッチブックも実際に家で見せてもらった事があるし」
 稔彦は眉間に皺を寄せて渋い表情を浮かべた。
「……四、五年ほど前に親父達の住んでいた自宅を売却する事になって、親父や母さんの思い出の品を幾つかだけ手元に残して他のものは粗方処分したんだ。その時にこの本の事も思い出して家中のあちこちを探したんだけど結局は見つからなくってさ……」
 俊彦はそう言って力無く肩を落とす。
「小さい婆ちゃんみたいに欲しがっていた誰かにあげたとか?」
 気落ちした様子の父親を見て遼平が気遣うように尋ねた。
「息子の俺やお前以外の他人に渡したっていうのか? うーん……」
 納得のいかない表情で俊彦が唸る。
 その様子を見て秋子は諦めたように時雨に向かって言った。
「残念だけど小春叔母さんのほうは諦めるしかないわね、後は小夏伯母さんの方だけど、それはまた今度電話で聞いてみましょ」
 母親のその言葉に時雨が素直に頷いてみせる。
 すると、稔彦は二人のその会話を聞いて秋子に向かって尋ねた。
「もしかして九州の小夏叔母さんもこれと同じものを?」
「ううん、そうじゃないのよ。絵が趣味だったウチの母と違って小春伯母さんとスケッチブックってあまりイメージが結びつかない気がしたの。それなのに二人が同じスケッチブックを大切にしていたから、もしかして三人に共通する思い出の品なのかもって……」
 秋子は片手を振りながら自信無げにそう言うと、隣に座る時雨と顔を見合わせて互いに頷き合った。
「この子が小さい頃からこのスケッチブックの絵を気に入っていたものだから、他にまだあるのなら見せてあげたいと思っただけなのよ」
「……ふーん、そうだったの」
 会話を黙って聞いていた早紀子は納得したようにそう呟くと、テーブルに手を伸ばして夫の前に置かれていた箱を自分の近くへと引き寄せる。
「中、見せてもらってもいい?」
 早紀子にそう聞かれて時雨がコクリと頷いた瞬間、稔彦が突然ソファーから立ち上がった。
「二人ともちょっと待っててよ、俺、今から博之さんに電話してみるから」
 そう言いながら秋子と時雨に向かってそこで待てと言わんばかりに片方の手を突き出しみせる。
 俊彦の口にした名前を聞いて秋子が驚きの表情を浮かべた。
「えっ? 博之さんってまさか熊本の?」
 慌てて尋ねる秋子に向かって稔彦は何も言わずただ頷いて返す。
 そんな夫を隣で見上げながら早紀子が小声で秋子に尋ねた。
「熊本ってもしかして九州の小夏叔母さんの?」
「ええ、小夏叔母さんの長男さん」
 秋子がそう答えるのを聞いて早紀子も納得の表情を浮かべる。
「同じものを小夏の叔母さんが持っていたのかどうか、今すぐ博之さんに電話で尋ねてみようと思うんだ」
「今聞くの?」
「どうせ今日は日曜日だし向こうだって休みだろ? こうなるともう気になってしまって仕方ないんだ。電話でちょっと聞いてしまえば済む話だよ」
 そう話す稔彦に戸惑い気味の母親二人を気にしている様子などない。
「稔彦さん、後で私が確認したら結果はちゃんと伝えるわよ」
 そう言って立ち上がろうとする秋子の動きを片手で制しながら稔彦がベランダ近くへと移動した。
「電話番号分かるの?」
 心配そうに尋ねる早紀子に向かってズボンから携帯電話を取り出して自慢げに振ってみせる。
 そして、そのまま携帯電話を操作しながらベランダの方へと姿を消してしまった。
「なんだか時々せっかちなのよね」
 早紀子が不満そうな表情を秋子に向けてみせる。
「うちもよ。男の人って変なとこでマイペースなのよね」
 秋子がそう言って愚痴をこぼすのを聞いて時雨が遼平の様子をチラリと伺った。
 時雨と目があった遼平は、わざとに微妙な表情を浮かべて見せる。
 稔彦は数分ほどで電話を終え、四人が待つリビングへと戻ってきた。
「連絡が取れたよ」
 そう言うと、目を輝かせながらソファーに座り込む。
「秋子さんの想像通り、博之さんにも何となく見覚えがあるそうだよ」
「あら、そうなの?」
 電話に反対していた早紀子も結果を聞いて嬉しそうな表情を浮かべる。
「でも伯母さんの持っていた物は博之さんのとこにはないらしくて、秀美さんに聞いて何か分かったらすぐに連絡してくれるそうだ」
 そう話す稔彦に早紀子が箱から取り出して膝の上に乗せたままだったスケッチブックを手渡した。
「ちなみにね、私、さっき秋子さんの言ったのを聞いていて思ったんだけど……」
 早紀子がそう言いかけた瞬間、稔彦の携帯電話が鳴った。
 画面に表示された文字を見て稔彦が目を丸くする。
「秀美さんからだよ」
 驚いた表情で携帯電話を操作しつつ、稔彦が再びベランダの方へと移動する。
「ねぇ遼平?」
 早紀子が遼平に声をかけた。
「ん、何?」
 呼ばれた遼平がテーブルに座ったまま返事を返す。
「遼平にとって、小春お婆ちゃんのイメージってどんな感じ?」
「イメージって?」
「小冬のお婆ちゃんが絵が好きって言われても私達だって納得よね」
「ああ、そういう事ね」
 母親の言わんとしている事に気付いた遼平が小さく頷きながら言った。
「母さんが言いたいのは、ウチのばあちゃんは絵よりも本だったって事だろ?」
 遼平のその言葉に早紀子が頷く。
 それを聞いた時雨が不思議そうに二人に尋ねた。
「本……ですか?」
 すると、早紀子や遼平が答える前に秋子が口を開いた。
「ウチのお婆ちゃんは絵の鑑賞が趣味だったけど、小春伯母さんは読書が趣味の人だったのよ」
 秋子がそう言って時雨に説明すると、早紀子が続けて言った。
「趣味どころの騒ぎじゃないくらい凄かったのよ」
 そう言いながら稔彦がテーブルに置き去りにしていったスケッチブックを大事そうに手に取る。
「だから、ウチのお義母さんと小冬の叔母さんが同じスケッチブックを持っていた理由って秋子さんの言う通りなのかもね。……あら、キレイなパステルカラー!」
 話しながら表紙を捲った早紀子が中に描かれているスケッチを見て小さく感嘆の声をあげた。
 何やら感心する早紀子の様子を見て遼平も椅子から立ち上がる。
「あれ? もしかしてこれって原画なんですか?」
 早紀子の肩越しにスケッチブックを覗き込んだ遼平が秋子に向かって尋ねた。
「何? ゲンガって?」
「印刷じゃなくて実物って事」
「あら、これってそうなの?」
 息子の言葉に驚く早紀子は覗き込むようにしてスケッチの表面に顔を近づける。
「リアルにスケッチブックなんだ……、ちなみにこれって誰が描いたスケッチなんですか?」
「残念ながら私達二人は誰が描いたものなのか全く知らないの」
「えっ? そうなんですか?」
 秋子の答えを聞いて遼平が驚きの表情を浮かべた。
「ええ、実を言うと、それを時雨にくれた当人すらも誰の絵なのか知らなかったみたいで……」
 そう言って苦笑いする秋子を遼平が不思議そうに見つめる。
「お婆ちゃん達三人に関係があるんだから、やっぱり三杉のお爺ちゃんが描いたスケッチなんじゃないの?」
 早紀子のその言葉にも秋子は首を横へと振ってみせる。
「それを時雨がウチの母に直接尋ねた事があったらしくって、その時に私の父や三杉のお爺ちゃんの絵じゃないのは確かだって、はっきり言われたそうなの」
「あら……」
 早紀子が残念そうな表情で時雨の顔を見る。
 そこに電話を終えた稔彦が戻ってきた。
 さきほどの様子とは違い冴えない表情を浮かべている。
「どうだったの?」
 隣に腰を下ろす夫に早紀子が尋ねる。
「うん、それがなぁ、小夏の叔母さんが元気だった頃にあったはあったらしいんだ……。ただ秀美さんところも何故かウチと同じらしいんだよ」
 俊彦はそう言って後頭部を指で掻いた。
「え、同じって?」
「気づいた時には見当たらなくなっていたって……」
「あら……」
 稔彦を除く全員が唖然とした表情を浮かべる。
「秀美さんも俺と同じで、本の事を思い出して探した時期があったらしいんだ」
「そのスケッチブック以外の残り二冊が揃って行方不明……」
 遼平がポツリと呟くと、秋子と時雨は残念そうに顔を見合わせた。
 秋子は稔彦にお礼を言った。
「稔彦さん、わざわざ電話してくれてありがとうね」
「そんなの全然気にしないでよ、俺だってずっと気になっていた事だったし」
 秋子にそう言いながら、稔彦は早紀子の膝に載っているスケッチブックに手を伸ばす。
「それにしてもこの木の表紙、懐かしいなあ……」
 早紀子から手渡されたスケッチブックを開いてパラパラとページを数枚捲った。
「スケッチブックの絵、もしかして好きだったんですか?」
 懐かしげにスケッチブックを眺める稔彦を見て時雨が尋ねる。
「いいや、母親が大事にしていた本だったから思い出して探していただけだよ」
 稔彦は少し寂しげにそう言うと、スケッチブックをパタリと閉じた。


 スケッチブックの話が一段落した後、親達は多分に漏れずそれぞれの懐かしい思い出話に花を咲かせ始めた。
 一人離れた場所で黙ってその様子を眺めていた遼平は、すっかりと手持ち無沙汰な様子で腰掛けていた椅子から立ち上がり、ソファーテーブルの上に並ぶ料理へと手を伸ばす。
 何を食べようかと大皿の上で手を彷徨わせているうちに時雨の前に置かれていたスケッチブックに目が止まった。
 テーブル越しに持ち主である時雨の様子を伺うと、その視線に気付いた時雨と秋子を挟んで目が合った。
 手の仕草だけでスケッチブックを見ていいか尋ねる遼平に、コクリと頷いた時雨が目の前に置かれているスケッチブックへと手を伸ばす。
 そのままソファから立ち上がると、遼平の座る食卓テーブルへと移動した。
 時雨からスケッチブックを受け取った遼平は木の表紙へと視線を落とした。
「何か意味でもあるのかな……」
「え?」
「気にならない? ……あ、えーっと」
 口ごもる遼平に時雨が言った。
「あ……、下の名前でいいですよ」
「あ……、じゃ、時雨……ちゃん?」
 ぎこちなく呼びかけてくる遼平に時雨はニコリと頷いてみせる。
「時雨ちゃんは気にならない? 誰が描いたものなのかって……」
「うーん……」
 遼平の質問にどう答えればよいのか時雨は迷った。
「婆ちゃん達三人が同じスケッチブックものを持っていたのにそれが分からないってちょっと変だよね」
「でもウチのお婆ちゃんは本当に誰が描いたか知らないって言ってました」
「けど、小さい婆ちゃんもウチの婆ちゃんも大事にしてたって聞くと、誰が描いたか知らないっていうのは一体どうなんだろうなぁって……」
 そう言って真剣な表情を浮かべる遼平とは反対に、時雨は何故か笑いをこらえるような表情を浮かべていた。
「あの……、小さい婆ちゃんって、たぶん私のお婆ちゃんの事ですよね?」
 時雨がそう言って尋ねる
「なんか今、小さい婆ちゃんってフレーズが……」
「……ああ、そうか」
 時雨が笑う理由に気付いた遼平は、照れたように頭を掻いて見せた。
「ウチの婆ちゃんが昔からそう呼んでいたから、つい……」
「じゃあ、小夏のお婆ちゃんは?」
「真ん中の婆ちゃん」
 真面目な顔で遼平がそう言い返すと、時雨がたまらず吹き出した。
「分り易いだろ?」
 遼平に同意を求められた時雨は笑いを堪えつつウンウンと頷いてみせる。
「きっと俺がまだ小さかったから、わざとに分り易くしてくれたんじゃないかな」
「遼平さんの見た目とのギャップが少しだけツボにハマっちゃいました」
 時雨の言葉に遼平は照れくさそうにまた頭を掻いてみせた。
「ウチの婆ちゃんは俺が小学生の頃に死んじゃったけど、お盆とかで小さい婆ちゃんに合っても面影が一緒だったから不思議な感じだったなぁ……」
「若い頃の写真って見た事あります?」
「うん、マジそっくりで見分けつかなかった」
「ですよね」
 二人は互いの顔を見て笑い合った。
 遼平が開いているスケッチブックのページに再び視線を落とす。
「このスケッチブック……、小さい婆ちゃんから時雨ちゃんが貰ったんだ」
 尋ねるよう呟く遼平に向かって時雨が頷いてみせる。
「私、子供の頃から何となくその絵が気に入ってて、欲しい欲しいってよくお婆ちゃんにおねだりしてたんです」
「へぇ、そうなんだ。……でもなんとなく分かる気がするな、これ」
 ページを操りながら遼平が言う。
「なんか優しい感じがする色合いだし、いかにも女の子とかが好きそうな感じ」
「遼平さんも絵に興味あるんですか?」
「別に嫌いじゃないけど好きとも言えない。どっちかって言うと俺も婆ちゃんと同じで本を読んだりするのが性に合ってるみたいだから」
「小春のお婆ちゃんって、そんなに本が好きだったんですか?」
「詳しくは知らないけど、居間のあっちこっちに沢山の本が積まれていたのは今も何となく覚えてる」
 遼平が記憶を探るよう言葉を続ける。
「推理小説が特に好きだったらしいよ。今でも父さんの部屋には婆ちゃんの持ってた推理小説が何十冊か置いてあるしね。ちなみに時雨ちゃん、葉住宗一郎って作家知ってる?」
 その名前に全く心当たりの無い時雨は首を横に振って返す。
「推理モノの小説家としてはかなり有名なんだけど、その人とウチの婆ちゃんが仲良かったらしいんだ」
「ふーん、そうなんですか」
「俺が本好きなのも時雨ちゃんが絵を好きなのも、お互いに婆ちゃん達からの遺伝なのかな?」
 遼平の言葉に時雨が少しだけ口元をほころばせる。
「だったら私は嬉しいです。お婆ちゃんの事が大好きだったから」
「俺も好きだったよ、小さい婆ちゃんの事。正月ぐらいしか会う機会はなかったけどね」
 遼平はそう言うと、ほんの少し時雨の方へと顔を近づけた。
「……でも実を言うとさ、小さい婆ちゃんの家、俺ああいう雰囲気ちょっと苦手でさ」
 時雨に向かって眉間に皺を寄せながら片手を振ってみせる。
「小さい頃からああいう古い建物とかってなんか苦手っていうか……」
 遼平の思わぬ告白に時雨がクスリと失笑を漏らした。
「遼平さんの気持ちはなんとなく分かりますよ。私も小さい頃はひとりで二階に上がれなかったから」
 時雨は同意するように頷いてみせた。
「大好きなアニメ映画とかでああいう雰囲気の家が出てくるんですけど、そういうの観るようになってからは逆にいいなぁって思えるようになったんです」
「アニメとかってあんまり観ないからなぁ」
「大丈夫です。私だって一人きりでお婆ちゃんちに泊まれるかって聞かれたら、それはさすがに無理ですから」
 年下の気遣いに遼平が苦笑いを浮かべる。
「このスケッチブックの話じゃないけどさ、ああいう家ってなんとなく謎めいた雰囲気があるよね」
「あ……」
 謎という言葉を遼平が何気なく口にした瞬間、時雨は連鎖的に小冬から受け取った真鍮製の鍵の事を頭の中に思い浮かべていた。
「謎めいてるって言えば……」
 そう言い掛けて、すぐ傍で話し込んでいる母親の様子をチラリと伺う。
 親達は時雨達の話の内容など気にする様子も見せず、ただ自分達の会話で盛り上がっていた。
「あのですね、実は今から私が話す事を遼平さんだったらどう考えるか、ちょっとだけ意見を聞かせて欲しいんです」
 まるで内緒話でもするように時雨が小声でそう言うと、遼平は「恋愛相談以外ならいいよ」と、冗談混じりに軽く返事をして返した。
「実はこのスケッチブックと一緒に私がお婆ちゃんから貰ったものがあるんですけど……」
 そう言って話を切り出した時雨は例の鍵について遼平に詳しいいきさつを話し始めた。
「私、このスケッチブックをお婆ちゃんから直接貰ったわけじゃなくて、お婆ちゃんがウチのママに預けたのを私が後から受け取ったんです。ママから最初に渡された時はあの箱の中に入っていて、箱を預けられたママも中身がとは聞かされていなくって……」
「それってサプライズ的な感じだったって事?」
 尋ねる遼平に時雨はコクリと頷いて言葉を続ける。
「中に入っていたのがこのスケッチブックだけなら、それで済んじゃう話なんですけど、実は箱の中に鍵が一本だけ一緒に入ってて、お婆ちゃんが間違えて中に入れちゃったのかスケッチブックと一緒に私に渡したかったのか、その辺がよく分からなくて困ってるんです」
「鍵?」
 聞き返す遼平に時雨が頷いて返す。
「シンチュウセイとかいう金属で作られた古い昔の鍵なんです」
「シンチュウセイ? 箱の中に入ってたなら小さい婆ちゃんからのプレゼントなんでしょ?」
 誠吾のその言葉に時雨が首を振る。
「その鍵は今までに一度も見た記憶が無いし、何に使う鍵なのか、どうしてそれを私にくれるのか、何も分からないんです」
「例えばお守りみたいな意味でくれたとかは?」
「うーん」
「……でも鍵っていうのが何となく意味ありげだね」
 遼平はようやく時雨の望む台詞を口にした。
「そうですよね、普通なら絶対気になりますよね」
「うん、すごく気になる。その鍵は確実にこのスケッチブックとセットで考えるべきだよ」
 そう言ってスケッチブックを指先で突いてみせた。
「そもそもこのスケッチを描いたのは一体誰なのか、でしょ。それから婆ちゃん達三人がどうして大事にしていたのか、でしょ。しかも二冊は行方が分からないうえに、とどめはスケッチブックと一緒に時雨ちゃんが渡された鍵……」
 遼平は自分が気になったポイントを指折り数えながら列挙してゆく。
「この中で一番意味不明なのはその鍵なんじゃないかな、見つからない二冊は単に時雨ちゃんのように気に入った誰かに譲ったって可能性もあるわけだし」
「そう……なのかな?」
 時雨は自信なさげに首を傾げる。
「だって普通はさ、普通はだよ、理由も聞かされずに鍵なんて受け取れば、誰だって何に使う鍵なのかくらい知りたがるって考えるよね?」
「はい」
「それって小さい婆ちゃんが時雨ちゃんに何も言わずに鍵を渡した目的のひとつだろうと思うんだ」
「ん? どういう事ですか?」
「だって可愛い孫だろ? 何の理由も無しにわざわざそんな意味深な渡し方はしないんじゃないかな。小さい婆ちゃんが意地悪な人だったんなら、もちろん話は別だけど……」
 遼平の言葉に時雨が黙って首を振る。
「でしょ? だからきっと意味はあるんじゃないかって。ホントに間違って入れたわけじゃないのなら時雨ちゃんがこうして調べようとする事を期待して渡したって考える方が自然な気がするけどな」
 話し終えた遼平の顔をまじまじと時雨が見つめた。
「……遼平さんって、うちのパパみたい」
「え?」
「うちのパパもちょっと話したり聞いたりしただけで大体理解しちゃうから」
「時雨ちゃんのパパって確か大学の教授とかじゃなかったっけ?」
「ううん、まだ助教授です」
 真顔で首を振る時雨に遼平は苦笑いしながら言った。
「俺の場合は単に勝手な想像話をしただけで、全然理解なんかしてないよ」
「でもすごい」
 感心する時雨に遼平が照れくさそうに頭を掻く。
「とりあえず話を戻すけど、小さい婆ちゃんが鍵をスケッチブックと一緒に渡したって事に何か意味があるのかもね」
「やっぱりこれがヒントって事ですかね?」
 時雨はスケッチブックを指差した。
「うん、スケッチブックを渡すついでって可能性ももちろんあるけれど、鍵について何も聞かされていないのなら、とりあえずはそう考えておいた方が無難だと思う……。でも思い当たる事って本当にないの?」
「お婆ちゃん家では、家の中をかなり探してみたんだけど……」
 遼平の問いに時雨が首を振る。
「いやそうじゃなくてさ、例えばスケッチブックが欲しがってたのと似たような会話が全くなかったのかどうかって事なんだけど……」
「あ、そういうのは本当に無いんです」
 再び首を振る時雨に遼平は残念そうに頷いた。
「そっか……、じゃあ、やっぱり今のところの手がかりはこれひとつきりなんだ。……例えば誰が描いたかを探し当てたられたら分かるとか、スケッチブックが三冊揃えば分かるとか、考えられるとした……ん?」
 話しながら指先で表紙の表面を探っていた遼平が不意にその動きを止める。楓の葉の模様が彫られた真下あたり、そこに彫られている模様の上に指先を乗せると、とんとんとリズミカルにつつきながら時雨に尋ねた。
「ねえ、時雨ちゃん?」
「なんですか?」
「この木の表紙なんだけどさ、これ……この模様って時雨ちゃんは気付いてた?」
 遼平が指で指し示す場所を時雨が覗き込む。
「模様……ですか?」
 遼平の指し示す場所には、半円状に弧を描く一本の線上に六つの小さな円が等間隔に配置された幾何学的な図柄が彫り込まれていた。
 楓の葉をモチーフにした彫刻は表紙全体のほぼ三分の二を占め、遼平が指し示している部分は楓の葉の彫刻のすぐ真下に配置されていたが、誰しもが容易に見落としてしまうような目立たないものではない。
「気付いてたって……どういう意味ですか?」
 質問の意図が分からず聞き返す時雨に遼平は図柄を指差して言った。
「これってさ、六つ並んでいる丸のうち、この一つだけ大きさが他の五つと違うんだよね」
 それは注意深く見るまでもなく、確かに遼平の言う通りだった。
 表紙に彫り込まれた六つの丸のうち、左端から数えて二番目だけが他の五つよりも少しだけ大きい。
「そう言われてみれば大きさが違いますね」
 素直に頷く時雨に遼平は言葉を続けた。
「別に左右対称じゃなきゃダメってワケじゃないけどさ、六個の丸の配置は半円の線上に中心から三つずつの左右対称になっているよね? 基本的には左右対称のデザインなのにどうしてここだけ規則性のな……」
「あ、あの、ちょっと待ってください!」
 時雨が慌てた様子で遼平の言葉を遮る。
 遼平はきょとんとした表情を浮かべて時雨を見た。
「なんか急に遼平さんの言葉が難しくなって……」
 恥ずかしそうに時雨がそう言うと、訳に気付いた遼平は「あ……そっか、ごめん」と、時雨に向かって申し訳なさそうに頭を下げた。
「俺が気になったのは六つある丸のうち、この一つだけが大きい事に何か意味でもあるのかなぁって事なんだ」
「意味ですか?」
「うん、……例えばだよ、小さい婆ちゃんの持っていたスケッチブックはこの丸が大きいけど、ウチの婆ちゃんが持っていたスケッチブックだと他に別の丸だけが大きくて、真ん中の婆ちゃんのもまた別の丸がって……、そういう可能性があるかもって思わない?」
「うーん……」
 首を傾げる時雨に遼平が言葉を続ける。
「ま、同じものが確実に三冊あるって事だから、もしかしたらそういう可能性もあるかもねって事なんだけどね。もしそうならスケッチブックの数も三冊じゃなくて六冊あるって事になっちゃうのかな?」
「えーっ! 六冊ですかっ?」
「あくまで三冊それぞれに丸の大きさや場所が違っていたらの話だよ」
 驚く時雨に遼平はそう言って笑顔を浮かべた。
「うーん、こないだママの話で三冊に増えたと思ったら今度は六冊……。もしかしたらその次は十二冊?」
 実物を見れぬまま数だけが増え続けるスケッチブック。
 時雨は肩を落とし気味に皮肉まじりのひと言を口にした。

 檜山家への訪問を終えた秋子達が鎌倉の自宅マンションへと帰宅したのは午後八時を少し回った頃だった。
 リビングのテーブルには誠吾の用意してくれた二人分の夕食の準備が整えられていて、残務を片付けに勤務先の大学に出かけていた誠吾がソファーに座ってひとり寛いでいた。
「やあ、二人とも疲れたかい?」
 帰ってきた二人にそう声をかけながら誠吾がソファーから立ち上がる。
 入れ替わるようにして時雨がソファーへと倒れ込んだ。
「夕食、ありがと」
 テーブルに並ぶ料理を見て秋子が言った。
「どうだった?」
「ええ、早紀子さんや遼平君ともゆっくり話せて楽しかったわ」
 尋ねる夫に疲れた様子を見せるでもなく笑顔で答える。
 ソファーに寝転がって携帯電話を弄る時雨の足元には、手提げの紙袋が置かれている。
「こっちの件はどうだった?」
 紙袋から覗くスケッチブックを指差しながら誠吾が尋ねると、秋子はそれに残念そうに首を振って返した。
「稔彦さんも九州の秀美さんも覚えてはいたけど実物がどこに行ったか分からないんだって……」
「ってことは九州の方にも連絡したのかい?」
「私じゃなくて、あっちで稔彦さんがしてくれたの」
「ふーん……、どこに行ったか分からないっていうのは、もちろん探しても見つからないって事なんだよね?」
「ええ、稔彦さんにも秀美さんにも捨てた記憶は無いようなの。二人とも伯母さん達が亡くなった後でスケッチブックを探した事が実際にあったみたいだし……」
 秋子の言葉に誠吾が納得したように頷く。
「とりあえず姉妹それぞれが一冊ずつスケッチブックを持っていたってところまでは君の想像した通りだったんだね」
「見れないと思うとますます見たくなるわ。時雨の方はそうでもないみたいだけど……」
 ソファーで携帯電話の画面に見入る娘を見下ろしつつ、秋子は不満そうに溜息をついた。
「そっか、少し残念な結果だったね。実際にはスケッチブックが何冊あるのか一冊でも他のが見られればって、僕も期待してたんだ」
 誠吾のその言葉に時雨が跳ね起きるようにしてソファーから上体を起こす。
「パパ? もしかしてそれって六冊?」
 早口で尋ねる娘に誠吾はニヤリと笑みを浮かべた。
「なるほど。時雨もあの模様に気付いてたのか」
「違うの、気付いたのは私じゃないの。二人で話してたら遼平さんがあの模様が気になるって言い始めて、丸の大きさが一つだけ違う事に何か意味があるんじゃないかって……」
「なに? なんの話?」
 怪訝な表情で尋ねる秋子に時雨は紙袋から取り出したスケッチブックをソファーテーブルの上へと乗せ、遼平の指摘した例の模様を指で指し示す。
 それを覗き込む秋子の横で誠吾が模様を指差して言った。
「ほら、この模様、左から二番目だけ丸の大きさが他より大きいだろ?」
 ほんのしばらく模様を見つめてから秋子が頷く。
「あ、なるほどね。表紙の模様なんて全然気にした事なかったけど、そう言われて見ると確かに意味ありげに見えなくないわね」
「私も全然気付いてなかったけど、向こうで遼平さんに鍵の事を話したら、この模様が気になるって言い出したの」
「むしろ今までどうして気にならなかったのかしら」
 首を傾げる妻に誠吾が言った。
「ママも時雨もそんなの気にしないで最初にスケッチブックを見てるだろう? 一度だって見慣れてしまうと改めて疑って見ようとはしないものさ」
「やっぱり六冊あるのかな?」

「さあ、どうなんだろうね。他に一冊でも見比べる事ができたなら何かしら分かるかもしれないって期待してたんだけどね」
「何だか横浜に行って気になる事が増えちゃったって感じ」
 意気消沈する娘にかける言葉を誠吾と秋子の二人は互いに顔を見合わせて肩を竦める事しか出来なかった。

 翌日からは家族
 遅い夕食を食べ終えた時雨は明日からの家族旅行に備えて早々に自室へと引き上げていった。
 夫婦二人きりのリビングでは食器の片付けを終えた秋子がソファーに腰掛けてのんびりとティーカップのスプーンを操っている。
 その隣に座る誠吾は大学の講義で使うレポート用紙を片手にテレビのニュースを眺めていた。
「どうしてあんな話しちゃったんだろう……」
 ぼんやりと宙を眺めながら秋子が後悔の言葉を口にする。
「うん?」
 浮かない顔の妻を誠吾がちらりと横目で伺うと、秋子も横を向いて視線を合わせた。
「スケッチブック」
 誠吾に向かってバツの呟きながら、秋子はバツの悪そうな表情を浮かべる。
「まさか二冊揃って行方が判らないだなんて……、何だかスケッチブックまであの鍵みたいに見えてきちゃった」
 力無くぼやく妻に誠吾は微笑みを浮かべた。
 小春が所有していたスケッチブックについて、その話を最初に時雨に話そうと考えた時、よもや娘を悩ませる結果になろうとは秋子はまるで想像もしていなかった。
 そもそもは鍵に固執する娘の気を逸らす為の話だった筈が、祖母の形見でしかなかったスケッチブックにまで何かしら気になる点が出てきてしまったのである。
「だけど見た目に珍しい表紙だろ? 遺品整理の時に見た記憶が無いっていうならその前から元々無かったんじゃないのかな?」
 誠吾の疑問に秋子も頷く。
「捨てた記憶は全く無いから、たぶん亡くなる前に本人が誰かに譲ったんだろうって……」
「捨てられるって事は絶対に無い?」
 妻の目をじっと見つめて誠吾が尋ねた。
「百パーセントとは言わないけれど、稔彦さんも母親を大事にしていた人だから」
 秋子はそう言って自信無げな表情を浮かべた。
「あとは生前に本人が処分してしまったとか?」
「処分って?」
「例えば燃やすとか」
「うーん……、少なくとも小春の伯母さんに関してはそういう事はしない人だって言えるかも」
 控え目な言い方で夫の意見を否定してみせた。
 母親である小冬はもちろんの事、伯母である小春や小夏の人柄も多少なり誠吾よりは知っている。その三人の中でも特に優しくて穏やかな人柄だったのが三姉妹の長女でもある檜山小春だった。
 若い頃からの読書好きというだけあって、会話の端々に博識さを感じる事がし、三つ子で同い年ながらも長女という立場で常に三姉妹をまとめてきたせいか他人の面倒見もすこぶる良かった。
 はたしてスケッチブックが三姉妹全員に関わりのあるものなのだとしたら、小冬が孫娘である時雨に託したのと同様、それを大切にしてくれる誰かに譲ったと考える方がむしろ自然ではあるが、三杉家の三姉妹が全員他界してしまった今となってはスケッチブックの出自について詳しく語れる人間自体が秋子の周囲に誰一人としておらず、残り二冊の行方を探る手掛かりは現状何一つ残されてはいなかった。
 
 ――やっぱり三杉のお爺ちゃんが描いたスケッチなんじゃないの?――
 
 稔彦の家で早紀子が何気なく口にしていたひと言が秋子の脳裏をよぎる。
 それと同時に秋子の頭の中には、秋子の祖父が自らが描き残した三杉秋亮の自画像が浮かんでいた。
(もしそうだとしたら欲しがる人に譲った可能性だってあるのかも)
 秋子は心の中でそう呟いた。

 三姉妹の父――つまり秋子にとって母方の祖父にあたる三杉秋亮(みすぎしゅうすけ)は、その生涯の大半を売れない画家として過ごした不遇の人物だった。
 その作品が世間的に広く認められるようになったのは秋亮没後の事で、生前の暮らしぶりはと言えば、幼かった三姉妹を不自由なく養ってゆけるだけの稼ぎなどもちろん無く、三姉妹を抱えた一家の生活は妻である楠緒子(なおこ)の内職だけに頼る質素なものだったと小冬の口からは聞かされていた。
 画業で身を立てる夢は終ぞ叶わぬまま、秋子の祖父は四十三歳の若さで妻と三人の娘を残して急逝してしまう。
 それは三姉妹がまだ十八歳の頃の出来事だった。
 人物画のみをその制作テーマとした三杉秋亮の作品は本人の死後に少しずつ評価されてゆく事になるのだが、その画業を世間に広める為に陰ながら尽力をしたのが後に小冬の夫となる秋子の父、御領玲一だった。
 果たしてスケッチブックが三杉家に縁のあるものなのだとすれば、画家であった三杉秋亮が描き残したものだと考えても別に不自然ではない。
 しかし秋子には実際に一度だけ小冬にそれを尋ねた事があった。
 まだ幼かった時雨が幼稚園に通っていた頃、嬉しそうにスケッチブックを眺めている娘を見て小冬にそれを尋ねた際、笑いながら首を横に振る母親の姿を秋子は今もはっきりと覚えていた。
 事実、三杉秋亮は人物を題材にしかしない画家だった。
 それに対し、時雨が譲り受けたスケッチブックに描かれているのは全て風景画だった。
 玲一自身も趣味で油彩画を描いてはいたが、もし玲一が描いたものなのであれば、妻の小冬はともかくとして小春と小夏の姉二人がスケッチブックを大切に保管していた事には多少なり違和感を感じてしまう。
 そもそも実の娘や孫である秋子達にそれを隠すくらいならスケッチブック自体を時雨に譲ったりなどしない筈だった。
「ちなみに、画廊のオーナーから見てスケッチ自体の出来栄えはどうなの?」
 冷やかしにも取れる誠吾のその言い方に秋子がうんざりとした表情を浮かべる。
「やめてよ、そういう言い方」
「何か芸術的に価値のありそうなスケッチブックなら、伯母さん達もだってむやみに処分したりなんかしないだろう?」
 誠吾のその言葉に秋子が首を横へと振った。
「いたって平凡なスケッチよね。描いた画家の銘も無ければ個性的な特徴だって特には無いし……。ただ雑貨として見るのなら二十万くらいの値はつけられそうかも」
 真顔でそう答えた後、夫に向かって更に言葉を続ける。
「水彩を使ったラフスケッチって今の時代はそんなに珍しいものではないし、最近は素人でも絵手紙とかでそれなりの絵を描いたりもするでしょ? ただ、あのスケッチブックは枚数も多くて画集っぽいし、何よりあの古びた木製の板表紙にアンティーク雑貨としての値をつけても良さそうな気がするの」
 冷静に語る妻を見て、誠吾は口元に笑みを浮かべた。
「さすがはオーナーだね」
 感心したような表情で誠吾がそう言うと、秋子は不満気な表情で夫を一瞥して返した。
「いじわるな言い方ね、こっちの苦労も知らないで」
「僕は秋子に向いてると思うよ、お義母さんとはまた違う意味でね」
 機嫌を損ねる妻に向かって誠吾は笑顔でそう言い返すと、テーブルの上のお菓子を指先にひとつ摘んで秋子の口元へと運んだ。
 不機嫌そうに眉根を寄せながらも秋子は素直に口を開く。誠吾はその口に摘んだお菓子を放り込んだ。
「お店の事だけじゃなくて孫娘にまで宿題を残していくなんて、正直言うと少し恨めしい気分よ」
「宿題って、あの鍵の事かい?」
「あんな意味ありげな渡し方なんてするから……、そもそもあの鍵が無かったらスケッチブックを貰ったってだけで終わる話だったのよ?」
「確かに君の話といい時雨の鍵の話といい、どれも妙に秘密めいた匂いがするよなぁ……」
 誠吾は神妙な表情を浮かべながら妻の目をじっと見つめた。
「えっと、伊納さん……だっけ?」
「え? ええそうよ。伊納さん」
「機会があればその人や木想庵の女将さんとかにもスケッチブックや鍵の事を尋ねてみたらどうだい?」
 誠吾の提案に秋子が気乗りしないような表情を浮かべる。
「どうせ彼らと話していかなきゃならないのは時雨の鍵なんかよりもずっと重い内容の話なんだし、事のついでだよ」
「そうねぇ」
 秋子は表情に迷いの色を滲ませながらも誠吾の提案に素直に頷いて返した。
「せっかくのゴールデンウィークだつていうのに何だか色々と気が重いわ」
 溜息混じりに秋子が呟く。
「まずは難しく考えずに家族旅行だけを楽しもうよ」
 浮かない表情の妻を励ますように誠吾が言った。
「どんな宿なのか雰囲気だけでも見ておこうっていうのが今回の目的なんだしさ」
「ええ、そうね」
 表情こそ晴れはしなかったが、秋子は夫の言葉に納得するようにゆっくりと頷いてみせた。


 実の母親の死。
 秋子にとってそれは、不本意ながらも心静かに悲しみだけに浸っていられるような出来事ではなくなってしまっていた。
 誠吾との会話の中で母親の事を恨めしいと秋子が口にしたのにはもちろんそれなりの理由があり、実際のところは小冬からの遺産相続に絡み、時雨が受け取ったスケッチブックや鍵どころの話ではない深刻で厄介な悩みを秋子自身が幾つも抱えなければならない状態になってしまっていた。
 小冬が所有していた緑想館という名の私設美術館、夫の玲一から受け継いでいた小冬名義の別荘の数々、その他にも小冬の住んでいた鎌倉の邸宅など先を見越して整理していかなければならない事が山のように残されていて、小冬が亡くなった日を境に何かしらそれらの遺産相続について日々の時間を多少なり費やさなければならない状態が続いていたのである。
 大きな借金を負うといった深刻さは無いにせよ、つい最近まで専業主婦として平凡な毎日を過ごしてきた秋子にしてみれば、どう扱うべきか見当がつかないほどの遺産を前にして、戸惑う気持ちの方が大きいというのが正直な気持ちだった。
 そんな中、翌日から予定していた家族三人での旅行でさえも、今回の連休に限っては小冬の死に大きく関わりのある場所がその目的地になってしまっていた。
 夫の誠吾はもちろんその事を承知している。
 しかし娘の時雨には伊豆への旅行に隠されたもうひとつの目的を伝えてはいない。
 事の始まりは小冬が亡くなる半年ほど前にまで遡り、その時に小冬の口から初めて聞かされた内容は秋子にとってかなりの衝撃的なものだった。
 
 ――実はね、あなたも私も伊豆の修善寺にある木想庵という宿のオーナーなの――

 最初にそう言って切り出してきた小冬の話の内容を秋子は全く理解する事が出来なかった。
 生まれてこの方、修善寺という地名はおろか伊豆という土地にすら全く縁の無かった秋子にとって、一度も耳にした事の無い宿の名前を聞かされたうえに自分がその宿のオーナーである事をいきなり告げられても状況を理解出来ないのは至極当然の事だった。
 
 ――あなたや時雨にとっては特別な思い入れのある場所ではないし、伊納さんと十分に相談したうえで続けるなり手放すなり好きにして欲しいの――

 戸惑う秋子に小冬は詳細を語ろうとはせず、半ば一方的に話を聞かされた秋子は小冬から伊納という名の人物について聞かされる。
 それまでに一度として面識のある人物ではなかったが、全くの他人であるその伊納との会話だけが、かろうじて小冬の話にかすかな現実味を与えてくれた。
 木想庵という名の実在の宿。
 知らぬ間に自分がその宿のオーナーにされていた事をある日突然知らされただけでなく、小冬から見知らぬ宿の行く末を全て委ねられた秋子にとって、小冬亡き後に頼れるのは伊納という名の老人ともう一人、小冬の余命を知る宿の女将の二人だけだった。

 ――まずは一度宿の方に足をお運びになられてはいかがですかな?――

 伊納は、小冬同様、詳細を深く語る事なく別れ際に秋子に向かってそう言った。

 ――とにかくその木想庵がどんな宿なのか、まずは一度見てみるべきなんじゃないか?――
 
 小冬が亡くなった後、聞かされた事実を誠吾に打ち明けた秋子は、誠吾の理解もあって五月の連休の旅行先に伊豆の修善寺を目的地にする事を決めたのである。

 ――あそこは私にとって思い出の場所なの。でもだからと言ってそれにあなたや時雨を縛りつけるつもりもないの――

 娘に何を委ねるでもなく漠然と秋子にそう語った小冬は、それから亡くなるまでの間、木想庵について二度とその名を口にする事はなかった。
(どうして死ぬ間際まで私に隠していたのかしら?)
 秋子にとって何よりも知りたいのはそこだった。
 幸いな事に伊納という老人とは秋子達の旅行に合わせて修善寺で落ち合える事になっていて、未だ顔すら合わせた事のない宿の女将と二人、宿の現状について改めて詳しい話を聞かせてもらう予定になっていた。
 期待と不安が心の内に複雑に入り混じるなか、秋子は自らのそんな気持ち落ち着かせるかのようにカップの中に残る紅茶を飲み干した。
 

「遠路はるばる、ようこそいらっしゃいました」
 翌日の夕方過ぎ、西伊豆の修善寺にある和風旅館〈木想庵〉に到着した三人を最初に出迎えてくれたのは宿の女将である高綱香津子(たかつなかつこ)だった。
「はじめまして、今晩からお世話になります」
 玄関の上がり口で正座姿でお辞儀をする香津子に向かって誠吾が頭を下げると、それに倣って秋子と時雨も揃って頭を下げた。
「お嬢さんだけは、こちらに見えられるのは二度目ですねぇ」
 顔を上げた香津子は開口一番嬉しそうにそう言って目を細めると、時雨に向かって穏やかな笑みを浮かべてみせた。
 六十代には見えない凛とした佇まいは気品漂う旅館の雰囲気そのままで、立ち上がる際の所作ひとつにさえもベテラン女将としての風格を漂わせている。
「予定していた時刻よりも少しだけ到着が遅れてしまいましたが、夕食の方はまだ大丈夫ですか?」
 腕時計に目をやりながら誠吾が尋ねると、香津子は「ええ、もちろんですとも」と笑顔を浮かべながら頷いて返した。
 揃って玄関を上がった三人が香津子の案内に従って旅館の中へと進むと、まず最初に内部の造作を目にした誠吾が小さく感嘆の声をあげた。
「へぇ……、娘から聞いてはいましたが、本当に落ち着いた佇まいの宿ですねぇ」
「お気に召していただければ幸いです」
 香津子はちらと振り返り嬉しそうにお辞儀をして返す。
 木造の建物は壁も廊下も見るからに時代を感じさせる造りをしてはいるが、日々の手入れが行き届いた様子の梁や襖などは特段古びた感じがするわけでもなく、微に入り細に入り全体的に楚々とした高級感のようなものを漂わせている。
 客室へと続く広い渡り廊下に出ると、視界の左手に立派な石造りの庭園が姿を現した。
 夕刻を過ぎて薄闇に包まれた庭園は、宿の照明設備に彩られて幻想的な景観を生み出している。
 その気品溢れた美しさに誠吾と秋子が思わず足を止めた。
「綺麗ね……」
 秋子は漏らすようにぽつりとそう呟き、誠吾もまた感動の面持ちで「うん」と返事だけをして返す。
 そんな二人を見て、木想庵への来訪が二度目となる時雨は女将の香津子と顔を見合わせてニコリと微笑み合った。
「昨年に御領様といらっしゃった時は、ちょうどあの池の辺りの花菖蒲が見頃の時期でした」
 香津子がそう言って流水紋を描く石庭の向こう、今は穏やかな風に揺らぐ池の水面を指差した。
「そうそう、去年ここに来た時は菖蒲の花がとても素敵にライトアップされていて、綺麗だねってお婆ちゃんと話してたんだよね」
 香津子に促されるようにして時雨が池のある方向へと視線を送る。
 一年前の六月初旬、医者から余命を告げられていた小冬は人生最後の旅行にと伊豆の修善寺を訪れた際、孫の時雨を伴って三泊ほどを木想庵で過ごしていた。
 もちろんその時も宿と祖母とに深い関わりがある事など一切聞かされてはおらず、今回も何も知らされずに時雨が宿を訪れる事は女将の香津子も予め伊納から聞かされて知っている筈であった。
「六月はちょうど咲き始めの時期なんです」
 時雨のいる今は、恐らく誠吾や秋子に対しても努めて普通の宿泊客として接しているに違いなく、そうだと知る誠吾と秋子も香津子の調子に合わせるように振る舞っていた。
「実は来る前にこちらの宿の事をネットで調べようとして、でも全然情報が出てこないんですよね。泊まった方のブログみたいなものをようやく見つけて、『渡り廊下から見える石庭がすごい』って記事に書かれていたのは読んで知っていたんです。でも正直ここまで素晴らしいとは想像もしていませんでした」
「私どもの宿は基本的に一見のお客様からのご予約を受けておりませんので、そういったお話を伺う機会も時々ございます」
「そうだったんですか」
 常連客しか利用が出来ない事を誇るふうでもなく、淡々とした口調でそう語る香津子の言葉に誠吾は感心したような表情で頷いた。
「こちらはいつから?」
「もとは別荘だったものを宿泊施設に改装したのが二十五年ほど前です。その別荘自体は明治中期に建てられていると先代の女将からは聞かされております」
「へぇー明治中期ですか」
 その歴史の古さに誠吾が再び小さく感嘆の声をあげる。
 そんな感心しきりの誠吾に向かって時雨が言った。 
「でもねパパ、私が気に入ってるのはこの庭じゃなくて、もうひとつ別の場所にある庭なの」
「へぇ、ここよりも素敵な庭があるのかい?」
 何やら目を輝かせて話す娘の言葉に誠吾が小さく驚いて見せると、それを聞いた香津子も何故か驚いたような表情で時雨に向かって口を開いた。
「あら? それはもしかして六角館(ろっかくかん)の坂庭(さかにわ)の事をおっしゃられてます?」
「ロッカクカン?」
 自らが口にした言葉を時雨が不思議そうに繰り返すのを見て、香津子が意外そうな表情を浮かべた。
「あら? お嬢さんはあの建物の事は何も知らないでお話しされてたんですね」
「それって山の奥に建てられているあの建物の事ですか?」
 尋ねる時雨に香津子が頷いて返す。
「ええ、あちらの洋館は六角形の六角と書いて六角館と呼ばれています」
「六角形……」
 神妙な表情でぽつりと呟く娘の様子を見て、二人の会話の中身が全く見えずにいる誠吾と秋子は不思議そうな表情を浮かべた。
「そうですか、では随分と奥の方にまで行かれたんですねぇ」
 そう話す香津子は何やら感心したような表情を浮かべている。
「ちょっと退屈……じゃなかった、ちょっと時間があったから石庭の中を探検してて……」
 香津子に向かってそう言うと、時雨は再び両親へと向き直って言った。
「とにかく旅館の裏に素敵な庭付きの建物があるの。それこそお婆ちゃんの家みたいな洋風の建物でね、ここの庭とは違って緑がいっぱいあってとっても素敵な場所なの」
 時雨が目を輝かせながら二人に言った。
「こちらの石庭はこの建物を旅館として使い始めた頃に整えられたお客様が観賞になられる為のお庭なんですが、あちらは逆にこの場所が別荘だった頃からある古いお庭なんです」
「六角館と言うのですか?」
 尋ねる誠吾に向かって香津子が頷いた。
「ええ、ここが別荘だった頃の離れみたいなものなんです」
「へぇ、そちらもぜひ見てみたいものですね」
 誠吾はそう言って秋子と顔を見合わせた。
「宿からはかなり歩かないと辿り着けない場所にあるんですけれど、よくあそこまで歩かれましたねぇ」
 感心したように香津子からそう言われ、時雨は照れくさそうな笑みを浮かべる。
「恐らくは自然の景色を心から楽しまれる素養をお持ちなんでしょうね」
 感心しきりの香津子の表情を見て話の内容は分からないまでも誠吾と秋子は少しだけ嬉しそうに表情をほころばせた。


 一見客の申し込みを受け付けていないとはいえさすがに連休中である。その夜の木想庵もやはり多くの宿泊客で賑わっていた。しかし恐らくは旅館の雰囲気もあるのだろう。土産物を扱う小さな売店コーナーがある以外は館内に子供向けの遊技場を備えているわけではなく、若い子連れ客の姿を館内で見かけることは全く無い。泊まっている客の殆どが年配の客ばかりで、そんな客達の相手をする数名の従業員でさえも、みな年齢的には秋子達よりもひと回り上の世代だった。
 宿自体は修善寺の温泉街からは山側に向かって少し奥まった場所に建てられているせいもあり、通りを行き交う車の音や他の旅館の喧騒が宿まで届く事は殆ど無い。
 石庭から見上げる夜空に穏やかな光を放つ三日月が浮かび、月明かりに照らされた建物には静かで落ち着いた空気が漂い満ちていた。
 寝床に着くまでの残りわずかな時間、一日の余韻を楽しむようにして廊下に佇む年配の客達はそれぞれ何を語るでもなく落ち着いた宿の雰囲気を満喫しているようだった。
 午後十一時を過ぎた頃、今だライトアップされた庭園の奥に小高く起伏した場所があり、そこに建てられている小さな茶室からは温かみのある橙色の光が外に漏れ出ている。茶室の中には女将の高綱香津子ともう一人、浴衣姿の秋子の姿があり、障子に映る二人の影が柔らかな蝋燭の光に揺らめいていた。
「……小冬オーナーのご葬儀の折は秋子さんにきちんとしたご挨拶もせぬままに参列させていただきましたが、改めまして此処を預からせていただいております高綱香津子と申します」
 自らをそう紹介した香津子が深々とお辞儀をすると、向かい合って座る秋子は慌てて居ずまいを正した。
「いっ、いえ、こちらこそ生前は母が色々とお世話になりまして。わたしは御領小冬の娘で霞上秋子と申します」
 香津子に習って秋子が深々とお辞儀をして返すと、顔を上げた香津子がニコリと微笑んで傍に用意してあった茶道具へと手を伸ばす。
「あの…、実は私、茶道の経験がまるでなくて……」
 緊張の面持ちで秋子がそう言うと、香津子は自らの手元を見つめたまま言った。
「ただ静かな時間だけを愉しむ方がいれば、作法に心を研ぎ澄ますのを好まれる方もおります。今夜の茶席は私と秋子さんの互いの心を近づけるために設けさせていただいたもの。形式など気になさらずにどうか気軽にお寛ぎ下さい」
 穏やかな香津子のその言葉に秋子が表情を和らげる。
「お嬢様といらした昨年も小冬様と一緒にこの茶室で一席を楽しまさせていただきましたが、何度も秋子さんの事を頼まれていらっしゃったのを昨日の事のように覚えております」
「え……?」
「色々と秋子さんに委ねていかれる事、それについて深く悩まれていたようでした」
「そうなんですか?」
 香津子の話に秋子が意外そうな表情を浮かべる。
「はい、秋子さんもお嬢さんもお金より大切なものを大事になさる性分だから、きっと色々と苦労されるだろうと仰られておりました」
 母親が自分の事でそんなふうに悩んでいる姿を秋子は全く想像できなかった。
 楽天的でおっとりとした性格の小冬は人前で深刻な話をする事を好まず、自らの余命を秋子達に伝えた時ですら、自分は落ち込む様子も見せずに逆に秋子達を気遣って明るく振る舞っていたのである。
「母がそんな事を……」
 自分の気付かなかった母親の一面を、思いがけず香津子の口から聞かされて知った秋子は、頭の中に亡き母の笑顔を思い出して少しだけ胸が熱くなった。
「私と伊納さんがこうして木想庵をお預かりしてゆけるのも年齢的に見てあと十年ほど。いずれ私どもとは志の違う方にこの宿を委ねなければならないでしょうし、お二人にもそれまでにここをどうするか決めていただかなければなりません。」
 そう言いながら秋子に向かって一礼すると、慣れた手つきで袱紗捌きを始めた。
「もちろん、私も伊納さんも出来る限りの事をお手伝いさせていただくつもりでおります」
「なぜ私の為に?」
 秋子は香津子に尋ねた。
 まったくの見ず知らずとは言わないまでも実際には宿を訪れるまで深い関わりを持った事の無い者同士である。
 そんな香津子がまるで忠誠にも近い物言いをしてくる事が秋子にとっては何より不思議で仕方なかった。
「私が母の方針を純粋に受け継ぐだけの立場だというのなら、女将さんや伊納さんが私に協力的な姿勢である事にも納得がいくんですが、母はこの宿を好きに処分してもいいと私に言い残しました。もし仮に私がそういった判断をしたら女将さんやこの宿の従業員の方々はどうなります? それが分からないなかで闇雲に何でも協力すると仰られるお二人の気持ちが私にはまるで理解できないんです」
 秋子のその言葉を聞いて、茶碗に湯を注ぐ香津子の口元に笑みがこぼれる。
「私どもの事を気にかけないお人柄であれば、今この場所でもそのような事を口にされる事はきっとないのだろうと私自身は感じます」
 本音をつかれた秋子は香津子のその言葉に何も言い返せずに黙り込んだ。
「私の口からせめてお伝えできるのは、御領様から全てを託された小冬様が今また娘である秋子さんに全ての意思を託されたという事……、それに従う事と御領の旦那様の想いに私どもがお応えする事とに何か相違があるのでしょうか?」
 香津子のその台詞からは決意にも似た強い意志を感じ取る事が出来た。
「いかがですか? ここは」
 秋子に向かって香津子が尋ねる。
「ええ、落ち着いた雰囲気でとても素敵な宿だと思います」
 秋子は神妙な顔つきでそう答えた。
「二十五年前、私の父である高綱具視(たかつなともみ)は御領の旦那様からこの場所の景観を守る事のみに専心するよう仰せつかったそうです」
「父に……ですか?」
 尋ねる秋子に香津子が小さく頷いた。
「私の父が亡くなる際にも『儲けなどは二の次だ』と、私に念を押すように言っていたのを今でも覚えております」
「伊納さんからは宿の営業は順調だと伺いました」
 秋子がそう言うと、香津子は口元に控えめな笑みを浮かべた。
「一意専心の思いのみで頑なに御領の旦那様の言伝をお守りしておりましたら、さて、知らぬうちに訪れるお客様のお世話に日々を追われる宿となっておりました」
 そう言った後、茶筅を洗い終えた湯を建水へと注ぎ流し、茶杓を手に取って茶入へと差し入れる。
 暫くの間、香津子が茶を点てる様子を黙って眺めていると、泡点てを始めた頃合いに香津子が「和菓子をどうぞ」と秋子に声をかけた。
「こういうのは父や母の趣味だったんですか?」
 楊枝の先で切り分けた和菓子の欠片を口元へと運びながら秋子が尋ねる。
「この茶室の事をおっしゃられているのでしょうか?」
 香津子はそう聞き返した後、秋子の質問を否定するように首を左右に振ってみせた。
「ここの茶室は木想庵がまだ別荘として使われていた頃からのものです。でも小冬様が宿の管理に口をお出しになられた事は一度もありませんでした」
 香津子の言葉に頷きつつ秋子は質問を重ねた。
「では、ここでの母は一体どういう立場だったんですか?」
 泡点てを終えた香津子は秋子の質問に答えぬまま茶筅を置くと、「お菓子はお口に合いましたでしょうか?」と秋子に尋ねた。
「え? ええ、甘くてとても美味しいお菓子でした」
 話をはぐらかすような香津子の質問に秋子は戸惑いながら答える。
「今宵の秋子さんとの夜噺にと修善寺にあるお店のお菓子をご用意させていただいたんです」
 そう言って点て終えた茶碗をたおやかな手つきで回すと、秋子の前へとスッと差し出した。
「どうぞ」
 差し出された茶碗を前に秋子が小さくお辞儀をして返す。
 色の濃い抹茶が秋子一人に合わせた程良い量で茶碗の中に点てられていた。
 香津子は顔を僅かに伏せ、秋子からわざとに視線を逸らすようにして茶道具を丁寧に並べ直し始める。
 秋子は両手で茶碗を持ち上げると、「頂戴いたします」とひと言添え、抹茶の注がれた茶碗へと口をつけた。
 僅かに残る和菓子の甘さによって、口の中へと流し込まれた抹茶の苦味が丁度良い心地のものへと変わる。
 日頃はコーヒーや紅茶ばかりで日本茶すらなかなか飲む機会の少ない秋子だったが、香津子のお点前は、飲み慣れないながらも秋子が残さずに飲み干すのには程良い量加減と濃さだった。
「とてもお美味しく頂戴いたしました」
 飲み終えた茶碗を膝元へと置き、秋子はお礼の言葉を口にした。
「茶席のお菓子は普段は藤枝の和菓子屋から取り寄せておりますが、一度だけ小冬様が地の店の和菓子で愉しんでみたいと仰られた事がありまして……。先ほどの質問について小冬様がこの宿に対してどういうお立場であったかと尋ねられれば、私の口からお伝えできるのはこういった話くらいのものでしょうか」
 単なる和菓子の話かと思いきや、香津子は直前の秋子の質問に応えるかのように自らの言葉を結ぶ。
 まるで禅問答のような香津子の話し振りに、秋子は何を言って返せばよいか分からず黙り込んだ。
「先ほども申しました通り、小冬様がオーナーとしての立場で宿の方針に口をお出しになられるような事は一切ありませんでした」
「え? そうなんですか?」
 香津子の言葉に秋子が意外そうな表情を浮かべる。
 木想庵と同様、亡くなった小冬に変わって秋子がオーナーとなった美術館の方は、秋子が引き継ぐ以前は小冬自らがその経営に直接携わっていた。
 旅館ほどの規模ではないにせよオーナーとしてやらなければならない事はそれなりに多かったし、二年も前から小冬と二人で引き継ぎの準備をしてきた秋子にとって、旅館のオーナーともなれば美術館以上にやる事は多いのだろうと覚悟していた部分が多少なりあった。
「少し変な言い方に聞こえるかもしれませんが、小冬様は木想庵の事をご自分の宿だとは思っていらっしゃいませんでした。お立場上は確かにここのオーナーでしたが、年に何度かいらっしゃる際も別段それらしい振る舞いをされるわけではなく、宿の従業員ですら私と伊納さん以外は小冬様を常連のお客様くらいにしか見ておりませんでしたから」
 香津子のその話を聞いて母親が宿の存在を家族だけに隠していたわけではない事に秋子が気付く。
「ひとつ伺っても宜しいですか?」
 小冬から宿の事を聞かされて以来、秋子にはずっと気になっている事がもう一つあった。
「仮に私がここのオーナーになったとして、母がそうしていたように私にもそれを周りに隠す必要があるんですか?」
 隠すという行為そのものに後ろめさを感じてしまう秋子にとって、そうしなければいけない理由があるのならば、まずはそれについてしっかり聞いておきたかった。
 女将と伊納以外は宿の従業員達ですら小冬がオーナーである事を知らないというのはどう考えても不自然であり、小冬から初めて木想庵の事を聞かされた際、あまりに唐突すぎる話の内容にその事を尋ねる余裕の無かった秋子には、改めて尋ねる機会すら見つけられないまま秋子自身でさえも今現在、夫の誠吾以外には木想庵の事を打ち明けられずにいたのである。
 真剣な眼差しの秋子を見て、香津子が何か納得したような表情を浮かべた。
「……女将としての立場ではあまり詳しくお話をする事もできませんが、私個人の感覚として答えるなら、小冬様ご自身もオーナーという役割を任されているに過ぎないとお考えになられていたのだと思います」
「役割を任されている?」
 香津子の言葉に秋子が怪訝な表情を浮かべると、香津子は頷いて言葉を続けた。
「小冬様ご自身はオーナーとして自ら望む宿の姿を心の中にお持ちだったわけではありません。実を言えばそれは私や伊納さんとて同じであって、御領の旦那様が望まれた形で今もお守りしようとしている、ただそれだけの事なのです。……それはつまり、この場所には小冬様はもとより私共の意志すら無く、オーナーである事もあくまでひとつの役割でしかないとお考えになられていたからこそ、あえて誰彼にそれを話そうとはされなかったのかもしれません」
 そう言うと、香津子は付け加えるようにして秋子に尋ねた。
「そういう意味では小冬様にとって緑想館こそが、ご自身の思うように振る舞える場所だったのではではないですか?」
 香津子のそう問われて秋子が頷く。
「ええ、それは確かに……」
 香津子が言葉を続けた。
「私の口から詳しくは申せませんが、実際には他人に軽々しくは話せない秘密のようなものがある事も確かです。けれどもそれを話してはいけないという約束のようなものがあるわけではなく、明日の晩に伊納さんとのお話の中でそれをお聞きになられれば、秋子さん自身でもどうすべきかを判断できるようになると思います」
 唐突に香津子の口から秘密という言葉が飛び出した。
「秘密と言いましたが、それについては私や伊納さんだけでなくオーナーである小冬様にとっても秋子さんと置かれている立場は何ら変わりません。単にそれがあるのを知っているか知らないかだけの違いであって、自分でも良く分かっていない事を誰かに話す事はなかなかできませんでしょう?」
 香津子の言う秘密がどんな内容のものなのかは秋子にはまだ分からなかったが、自分が理解していない事を誰かに伝えられるかと問われれば、自分自身でさえも娘である時雨に木想庵についてまだ何も話せない状況であるのと同じ事だと理解する事は出来た。
「……なんとなくですが女将さんの仰りたい事が少しだけ分かったような気がします。母が初めてこの宿の事を私に話した時に私や娘を縛るつもりが無いと言った意味も女将さんの今の話と何かしら重なるところがあるのかなって」
 秋子の言葉に香津子が怪訝そうな表情を浮かべた。
「お二人を縛るつもりが無い……? 小冬様がそんな風に仰られていたのですか?」
 確かめるように香津子が尋ねる。
「ええ、そんな風に話していました」
 頷く秋子を見て香津子の口元に笑みが浮かんだ。
「その仰りようからして、やはり小冬様にとってもこの宿の事はお伝えしずらかったのですね。……ところでお嬢さんには?」
 香津子の質問に秋子は首を左右に振ってみせる。
「話が色々と厄介すぎて……」
 秋子がそう言って本音を吐露すると、香津子が小さな声で呟くように言った。
「実は二年ほど前に私や伊納さんに病気の事を明かされた時、小冬様の中には今とはまた別の選択肢がおありになられていたように感じました」
「え? どういう事ですか?」
「以前は秋子さんやお嬢さんの事を口にされる事が全く無くて、宿の今後の事については『出来る限り二人でここを守っていって欲しい』としか仰られる事がありませんでした。余命についても一年ほど前に小冬様から話を聞かされおりましたが、その時もまだそんな話はされていらっしゃらなくて……、今から思うとお嬢さんと一緒に泊まられた頃を境にして急にお二人の話を口にされるようになった気がするのです。きちんと会ってお話をする機会を作れないまま小冬様が亡くなられたので私の思い過ごしなのかもしれませんが……」
 香津子が何気なく言った言葉を聞いて、秋子が驚きの表情を浮かべる。
「あの、女将さん? もしかして宿のこれからについて母と具体的な話をされてなかったりします?」
「具体的な話ですか? ええ、私の方では何も……」
 不安げな表情で尋ねる秋子に向かって香津子はすんなりと頷いた。
「その辺の事は伊納さんの方でまとめられている筈なのでご心配にならずとも良いと思います」
 沈んだ表情を浮かべる秋子に向かって慰めるような口調で香津子が言った。

 翌日の修善寺は早朝から快晴に恵まれた。
 午前五時に早々と目を覚ました時雨は、カーテンの隙間から室内へと漏れ入る朝日を目にすると、その口元に嬉しそうな笑みを浮かべた。
 布団からそっと上体を起こして右隣を見ると、誠吾も秋子も布団の中でまだぐっすりと眠っている。
(六角館……)
 宿の女将が昨晩口にした洋館の名を時雨は真っ先に頭の中に思い浮かべた。
 眠っている両親を起こさないようそっと布団から抜け出ると、予め居室に用意してあった洋服に着替え部屋を出る。
 部屋を出る間際には目を覚ました両親が心配しないようにと伝言を書いた手帳の切れ端を居室の座卓の上に残した。
 柔らかな朝日が差し込む宿の廊下には数人の人影が見え、しかしその殆どがまだ寝着を纏っていて、外出着で廊下をゆくのは時雨くらいのものだった。
 玄関に着いて靴を履き替えるとそのまま玄関口をくぐって外に出る。
 玄関先を箒で掃いていた初老の男性従業員から「おはようございます」と声をかけられると、時雨は丁寧に挨拶をして返し、その従業員に背中を見送られながら迷う事なく石庭がある方向へと向かった。
 庭園内に踏み入り、庭の端に建物に沿って並べられた踏石の列を進んでゆく。建物の端に合わせて踏石が行き止まると時雨もそこで立ち止まった。
 目の前には行く手を阻むようにして草薮が立ち塞がり、時雨はその中へと手を伸ばすと、まだ朝露に濡れる草薮の奥を何かしら探すようにしてまさぐった。
 すぐに縦垣の場所を探り当てた時雨の腕が手前に引かれると、ギィと音をたてて草薮の一部が動き、目の前に草藪の奥へと続く小道が姿を現した。
 小冬と二人きりで木想庵を訪れた一年前、偶然開いていた草薮の縦垣の先にその小路を見つけた時雨は、進み入ったその先で宿の雰囲気とはまるで正反対の洋風の建物を目にした。
 それが六角館だった。
 時雨は一年前と同様に小路に一歩足を踏み入れると、縦垣をゆっくりと元の状態に戻し、道の先にある洋館を目指して歩き始めた。
 雑木林の間を縫うように続く小路の先、女将の香津子が六角館と呼んでいたその洋館は石庭から十分近く歩き続けなければ辿り着けないような奥まった場所にある。
 それでも時雨は、朝日差し込む雑木林の雰囲気を愉しみながら六角館を目指して小路を歩き続けた。

 ――何か心配な事でもあるのかい?

 時雨がスケッチブックを眺めていると、小冬が決まって優しく声をかけてくれた。

 ――秋子と喧嘩でもしたのかい?

 祖母に余命がある事を初めて秋子から聞かされた日、まだ何も知らない時雨に向かって小冬はいつもと同じように尋ねてきた。

 ――うん。

 その日も時雨は短く返事をして返した。
 いつもならそれだけ尋ねてそっとしておいてくれるのが、その日は珍しく小冬が質問を重ねてきた事を思い出す。

 ――時雨はどうしていつもそのスケッチブックを眺めるんだい?

 ――このスケッチの絵を見ているとなんだかとても気持ちが落ち着くの。

 思ったままを口にする時雨に『そうかい』と小冬が優しげに呟いた。

 ――あとはお婆ちゃんが優しくしてくれるから。

 時雨がそうひと言付け加えると、もう一度『そうかい』と、背後で小冬が嬉しそうに言う声が聞こえた。

 その日の夜、時雨が母親から聞かされたのは時雨を連れて伊豆へ旅行に行きたいと小冬が希望している事と、病気で余命が一年余りしかないという事だった
 人生最後になるかもしれない旅行をなぜ自分と二人きりで行きたいと望んだのか、その理由は時雨自身にも想像はつかなかった。
 もちろん断わる理由など無く、その年の六月初旬、学校を二日ほど休んで四日間の旅行へと出掛けた時雨は、小冬と二人きり、修善寺の木想庵を宿にして伊豆周辺の観光名所をあちこち巡り歩いたのである。
 しかし、その旅行中、殆どの時間を小冬と一緒に過ごしたなかで唯一時雨の記憶にしか残らなかった場所がある。
 その場所こそが時雨がいま歩いている雑木林の小路であり、その先で時雨を待つ六角館と言う名の洋館だった。
 その六角館を目指して歩みを進める時雨の小脇には、小冬から譲り受けた例のスケッチブックが大事そうに挟められていた。


 時雨が部屋を出て小一時間ほどが経った頃、部屋では起床した誠吾が座卓の上に残されていた時雨の書き置きに目を通していた。
「おはよう」
 秋子が朝の挨拶をしながら寝室から出てくる。
 ぼんやりとした眼差しで居室をぐるりと見渡した後、振り返って寝乱れた寝室の布団へと視線を落とす。
「あれ、時雨は?」
 尋ねる秋子に意味ありげな笑みを浮かべた誠吾は手に持っていた紙切れを秋子へと差し出した。
「なに?」
 夫から受け取った紙切れを秋子がぼんやりとした眼差しで見つめる。

〈六角館を見に行ってくる 九時までには必ず戻ります〉

「……だそうだよ」
 書き置きを凝視しながら唖然とした表情を浮かべる妻に向かって苦笑いしながら誠吾が言った。
「……六角館って時雨が昨日話してた場所よね?」
 尋ねる妻に誠吾が頷いて返す。
「確か山の中にあるとか言ってなかったっけ……、時雨ったら一人きりで行っちゃったのかしら?」
 旅行先で両親二人を残して出掛けたのであれば他の連れなど当然いる筈もなかった。
「まだ六時を少し回ったばかりだからね。八時九時っていうのならともかく、宿の従業員が一緒って事も恐らくないんじゃないかな」
 居室の置き時計に目をやりながら誠吾が言った。
「どうする?」 
「とりあえずはその六角館の場所だけでも確認しておこう。別に小さな子供じゃないんだから朝早くに一人で出掛けるくらい構わないだろう?」
「確かにそうだけど……」
 頷く秋子は納得のいかない表情を浮かべる。
 秋子が時計に目をやると、針は六時を少し過ぎた辺りを指していた。
「一体何時に部屋を出たのかしら? 九時前までに戻るって書いてあるけど、まだ三時間近くもあるわよ」
「その辺も受付に聞けば分かるかもしれないよ」
 誠吾はそう言うと寝着の裾を手早く整えて部屋を出て行った。
 夫の後ろ姿を見送った秋子は洗面所へと移動して、寝ぐせのついた髪にブラシを通し始める。
「一体何を考えてるのかしら」
 鏡の中に映る不機嫌そうな自分の顔を見つめながら溜息交じりに娘への文句を口にした。
 中学を卒業した直後の数ヶ月前と比べると高校生になった最近の時雨は自分の考えだけで行動する機会が目に見えて目立つようになり始めていた。自立と言えば聞こえはいいが、不案内な旅先にあって今朝のような行動は決して褒められたものではない。ましてや向かった先がひと気の少ない山中と聞けば、男の子ならまだしも時雨は女の子である。何かしら危険な目に会う可能性だって絶対に無いとは言い切れなかった。
 秋子が朝の身支度を整えていると、五分も経たずに誠吾が部屋へと戻ってきた。
「随分早いのね、もう分かったの?」
 歯ブラシを咥えた秋子が洗面所から顔だけ覗かせて尋ねる。
「廊下に出たら、ちょうど近くに女将さんが居てさ」
「あら、そうだったの」
「どうやら時雨が宿を出たのは五時近くだったらしい。その六角館とやらはこの旅館の敷地内にあるそうだよ」
 宿の敷地内と聞いて秋子の表情にわずかながら安堵の色が浮かぶ。
「宿の裏手を十分ほど山側に向かった場所にあるらしいんだ」
「歩いて十分? 敷地内っていうわりには随分と離れた場所にあるのね」
 秋子の表情が再び曇る。
「朝夕の景色が良い場所だから今朝みたいな晴れた日だと散策していて本当に眺めの良い場所なんだそうだよ」
「どうして私たちに声をかけなかったのかしら? 昨日あんなふうに話してくれたんだから最初から行くつもりだったのなら誘ってくれてもいいのに……」
 秋子はそう言いながら不満そうな表情を誠吾へと向けた。
「どうやらプライベートな場所らしくて一般客が簡単には立ち入れないようにしてあるんだって」
「えっ?」
 誠吾のその言葉を聞いて秋子が目を丸くする。
「プライベートな場所って一体どういう事? どうしてそんな場所に時雨が入ってるの?」
「よくは分からないけど女将さん自体は別に迷惑そうに話してる感じじゃなかったね」
「でも一般客が立ち入れないようにしてあるんでしょ?」
 詰問口調で尋ねてくる秋子に誠吾が思わず苦笑いを浮かべた。
「その辺の話なら僕よりも君の方が立場的に聞き易いだろうから、気になるなら自分で聞いてみるといいよ」と言って、秋子に向かって降参気味に両手を上げる。
「時雨の事はとりあえず時間まで待つとして、僕は朝食前に朝湯をいただいてくるよ」
 誠吾はそう言うと居室へと戻り、何やらバスタオルを大仰に抱えて部屋の出入り口へと向かう。
「このタイミングでお風呂?」
 洗面所の横を通り過ぎる際、誠吾は眉根を寄せる秋子に向けて片手を振ってみせた。
 誠吾が部屋を出ていくと、秋子は寝室へと戻って枕元に置いてあった自分の携帯電話を手に取った。
 念の為に時雨の携帯電話を呼び出してはみるが、宿の裏手に広がる山中にあっては秋子の予想通り呼び出し音に変わる気配はなかった。
 洋館までの道を宿の従業員に尋ねて迎えに行っても良かったのだろうが、案外と心配する様子のない誠吾が言う通り、高校生にもなる娘を掴まえて一人きりどこかへ出掛けたと親が大騒ぎするのも恥ずかしい気がした。
 けれども勝手知ったる鎌倉の街とは違い、今は秋子達でさえ地理には不案内な旅行先である。
 ちらと時計を見ると時刻はまだ七時すら回っておらず、時雨が書き残した時間までにはまだ二時間近く時間もあった。
(やっぱり行ってみようかしら……)
 気付けば秋子は洋服に手を伸ばしていた。
 着替えて部屋を出ると足早に玄関へと向かう。
 鍵を預けようと宿の受付に近づくと、老齢の女性が窓から顔を出した。
「おはようございます、あの、わたし六角館って場所に行きたいんですけど……」
「はぁ、六角館ですかぇ」
 訛り口調で秋子の言葉を繰り返す女性は、見た目にかなりの高齢な感じで恐らくは鍵の受け渡しくらいしかできそうにない雰囲気を漂わせている。
 秋子が別の従業員を探そうか悩んでいると背後から耳慣れた声がした。
「おはようございます」
 秋子が振り返ると、そこには女将の香津子が立っていた。
 出迎え時の和装の出で立ちとは違い、朝方は髪も軽く纏めただけの洋服姿でにこやかな笑みを秋子に向けている。
「あ、おはようございます」
 秋子は慌てて振り向くと、香津子に向かってお辞儀をした。
 受付に置かれた部屋の鍵と洋服姿の秋子を見て、香津子にはすぐにピンと来たのだろう。
「もしかして心配してお嬢さんを迎えに行かれるおつもりですか?」と、香津子の方からそう尋ねてきた。
「い、いえ、心配というか私もちょっと見てみたいというか……」
 心の内を香津子にあっさりと見抜かれ、秋子は動揺したように言葉尻を濁す。
「なんやぇ、この女性は修繕(しゅぜん)さんの館に行きたいようやぁで」 
 受付に座る老齢の女性が秋子の背後で香津子に向かってそう告げると、香津子もその言葉に頷いた。
 香津子が「うん、そうね」と、優しくそう返事をすると、「そかそか」と満足げに呟いて受付から覗かせていた顔を奥へと引っ込めた。
「あ、昨晩は素敵な席をご用意していただきまして、ありがとうございました」
 心を見透かされた気恥ずかしさを誤魔化すように、秋子は茶席へのお礼の言葉を口にする。
「いいえ、私も秋子さんのお人柄に触れられて安心したのか、昨晩は久しぶりにぐっすりと眠る事ができました」
 香津子はそう言ってニコリと笑みを浮かべた。
「大変申し訳ありませんが、朝方は宿の準備も色々と忙しく、今は私もゆっくりとお相手をすることができません。恐らくはお嬢様の事が心配でお出掛けになられるのではと察しますが、どうぞご安心下さい」
「そ、そんな心配だなんて。もう高校生ですからそんなには心配はしてないんですけど……」
 必死に取り繕う秋子に向かって、香津子がさらりと言った。
「つい今し方お嬢様の様子を伺わせに宿の者を一人やらせましたので」
 香津子のその言葉に秋子は「えっ?」と驚いて目を丸くする。
「向かった先はご主人から伺っておりましたので、念の為にと玄関先で今朝お嬢様と挨拶を交わした者に様子を見に行かせております」
 秋子は自分の顔がみるみるうちに恥ずかしさで赤くなっていくのを感じていた。
「む、娘が迷惑をおかけしてしまって申し訳ありませんっ! 朝のお忙しい時にそんなお手間をかけさせてしまって……」
 あまりの恥ずかしさに香津子の顔すらまともに見れぬまま、秋子は深々とお辞儀をしながらお詫びの言葉を口にする。
「私ちょっと用がありますので失礼いたしますが、お嬢様の事についてはそんな訳でどうぞご安心下さい」
 そう言うと、香津子は秋子を残して足早にその場を後にした。
 受付前に一人残された秋子は、宿の従業員が時雨の様子を見に行ってくれているという安堵感よりも、香津子に心の中を見透かされていた事への恥ずかしさですっかり落ち込んでいた。
 廊下の奥に姿を消す香津子に向かって深々と一礼をした秋子は、預けたばかりの部屋の鍵を受け取ろうと先ほどの受付の女性に声をかける。
「あんた、修繕さんの館に行きたいんかぁ?」
 部屋の鍵を手渡しながら、秋子に向かって老齢の女性が尋ねてきた。
「シュゼンサンの館?」
 女性はどうやら建物と思しき名前を口にしているようだったが、ひとまず時雨の件が落ち着いていた秋子は「もう大丈夫です」と丁寧に女性に返事をして返し、部屋へと戻りかけた。
 秋子が聞き覚えのある声を耳にする。
「六角館という建物へはどう行けばよろしいのでしょう?」
 振り返る秋子の目に飛び込んできたのは、心配いらないと言って朝湯を浴びに行ったはずの誠吾が何故かしっかりと外着に着替えて受付に尋ねている姿だった。


「まぁ心配はしちょらんかったが、大丈夫そうじゃね」
 洋館の前で風景を眺めていた時雨に初老の男性従業員はそう言って笑顔を浮かべた。
 宿を出る際に玄関先で挨拶を交わしていた男性は、そのまま時雨の前を通りすぎて目の前の聳え立つ洋館を見上げた。
 東の空から斜めに差し込む朝の日の光を受けて花の咲き誇る庭や洋館が色鮮やかに映え、二人の目の前には絵画のような緑美しき風景が広がっている。
 緩やかな勾配とはいえ、山の中腹に建てられているせいで手前の花壇や奥の洋館が立体的な遠近感をもって独特の景観を生み出していた。
「それにしても、ここへの道は宿のお客様には分からんようになっとるんに、ようお嬢ちゃんはあの縦垣に気ぃ付いたなぁ」
「去年お婆ちゃんとこの旅館に泊まった時、散歩していて偶然あそこに道があるのに気が付いて……」
 時雨は洋館を眺める男性にそう言って事情を説明した。
「ほんにしても、この洋館のあるんを知らんと長いこと雑木林ん中を歩けるっちゅうんもお嬢ちゃんの年頃やったら珍しいじゃろう」
 男性は感心したような表情でふんふんと頷いた。
 時雨の方へと振り向くとスケッチブックを指差す。
「ところで、お嬢ちゃんが抱えとる本はまた随分と大きなものじゃが、まさかここで読書でもしよう思うとったんかの?」
「あ、これですか? これ本じゃなくてスケッチブックなんです」
 そう言ったあと時雨は小さな声で笑った。
「いくらなんでもこんな山奥で読書なんてしませんよ」
「ほなら良かった、最近の若い子はわしらにはよう分からん事を色々とやりよるけ」
 男性はそう言って嬉しそうな表情を浮かべた。
「あの、おじさんは旅館で働いて長いんですか?」
「ん、わしか? 長いといっても二十年ちょっとじゃがここが旅館になった時から世話になっとる」
「それじゃこのスケッチブックを見てくれませんか」
 そう言うと時雨は、持っていたスケッチブックを開いた。
 男性がスケッチブックを覗こうと時雨の傍に歩み寄る。
「えらい値の張りそうな本に見えるが」
「そんなんじゃないんです」
 男性はあれやこれやと呟きながらスケッチブックを覗き込んだ。
「ほぉー、これはまた上手な絵じゃ! これお嬢ちゃんが描いたのかい?」
 男性が感嘆の声をあげながら時雨に尋ねる。
 しかし、時雨は男性の質問には答えずに逆に尋ね返した。
「あの……、このスケッチブックに描かれている絵ってここの風景に似てると思います?」
「ん? 似てるっちゅうのはまたどういった意味じゃろ?」
「んとね、この絵がね、この場所を見ながら描いたのかなって……」
 時雨は男性が理解しやすいよう言い方を替えて尋ね直した。
 男性はうんうんと頷きながら時雨の言葉を聞いてくれたが、「ほうほう、この場所を見ながら描いたんか」と感心したように呟いただけだった。
 時雨がそれ以上尋ねるのを諦めかけた時、ページを捲っていた男性がポツリと呟いた。
「お嬢ちゃんはあそこん池はどうして描かんのか?」
 男性が眺めていたのは建物や庭園らしきものが描かれたページだった。
「あ……」
 男性の呟きを聞いた瞬間、時雨はすぐに自分の考えが間違っているのだと理解した。
 何故なら、時雨が持参したスケッチブックのページには男性が指摘した通り、池らしきものが一切描かれていなかったのである。
 スケッチブックに描かれた水彩画と山奥の洋館。
 この二つの風景が何となく似ているように時雨が感じたのは、今から一年前、初めて雑木林を散策した時の事だった。
 初めて雑木林を歩いた時、何故だかその風景に見慣れた懐かしさのようなものを感じた時雨は、気付けば十分近く林の中を歩き続けて洋館の建てられている場所へと辿り着いた。
 水彩画のスケッチ自体は仔細な描写とは程遠いタッチで描かれていたが、建物のある緑豊かな風景という点でモチーフが共通していたせいもあったのだろう、旅行から帰った後で祖母のスケッチブックを眺める機会があった時、その時に時雨の頭の中で二つの風景が重なったのである。
「あの池って昔からあるんですか」
「わしらは昔から坂庭池っちゅう呼んじょる」
「サカニワ池……」
 時雨は従業員の言葉を繰り返すように呟いた。
「そんでお嬢ちゃんはいつまでここにおるんかい? わしはそろそろ戻らんといかん」
 男性から聞かれた時雨はポケットからスマートフォンを取り出した。
 洋館に着いた時に一度確認はしていたが電波はやはり圏外表示のままだった。
 時刻を確認すると画面の文字は七時五十二分と表示されていて、山を下りる時間を考えると時雨自身もそろそろ戻らなければならない頃合だった。  
「次いつ来られるか分からないし、せっかくのお天気なんでもう少し景色を眺めてから帰ります」
 時雨の言葉に男性が頷いた。
「この辺に危ない動物はおらんけど、下りてくる時は足元だけには気ぃつけて降りてきいなぁ」
「ありがとうございます」
 時雨が礼を言うと、男性は旅館へと続く小路を手を振りながら下っていった。


 自らメモに書き残したとおり、時雨は九時前には宿へと戻ってきた。
 身勝手過ぎる行動に怒り心頭だった秋子から朝食を食べ終わった後、部屋の中で二十分以上にも渡って小言を言われた。
 いつもなら間に入って上手く取りなしてくれる筈の誠吾も、今朝は何故だか歯切れが悪く、時雨に非を認めて詫びるよう説得をしてきた。
 時雨にしてみれば、高校生にもなって一人きり出かけたくらいで怒られる事には納得がいかなかったが、向かった場所が山奥という事と旅行先で地理に不案内な土地という事を考えれば、両親が心配しても仕方がないと理解出来る部分もあった。
 そして最後には両親にきちんと詫び、せめて旅行中は両親の了解を得てから単独行動するよう秋子と約束をさせられた。
「ところでね、時雨はその場所が一般客が立ち入れない場所だって事は知ってたの?」
 表情に苛立ちの色を残したまま、秋子は不意に思い出したように時雨に訊いた。
「え?」
 秋子の質問の意味をすぐに理解できずに時雨が聞き返す。
「あなたの今朝居た場所はね、本当は一般の客が勝手に入ったりしちゃダメな場所らしいのよ」
 人気の無い洋館や雑木林の小路、周囲の草薮に紛れるようにしてあった縦垣など、言われてみれば確かに合点のいく部分が時雨の中には幾つかあった。
「やっぱり何も知らないで行ってたのね……」
 秋子が呆れ顔で溜息をつく。
「え、そうなの?」 
 気付かなかった事へ言い分もあったが、時雨はわざとに驚いた表情を浮かべてみせた。
 もし仮にそうだとしても時雨が洋館の事を話した時に女将がその事を教えてくれても良かったはずだし、様子を見に来てくれた宿の従業員でさえ立入禁止である事は一言も口にしていなかった。
 言い訳のひとつもしたいところだったが、叱られて詫びた直後のタイミングでは明らかに時雨に分が悪い。
「その辺も含めて女将さんや迎えに行ってくれた従業員の方にちゃんとお詫びしてきなさい」
 秋子は時雨にそう言った後、「はいっ、この事はもうこれでお(しま)い!」と言ってパンと両手を叩いた。
「今すぐ?」
 尋ねる娘に秋子はコクリと頷いてみせる。
「十時過ぎにはこの辺りを見に行く予定なんだから、出掛ける前にさっさと済ませておきなさい」
「うん、分かった。ちょっと行って謝ってくる」
 そう言うと時雨はそそくさと廊下へ出て行った。
 時雨が出て行った直後、秋子は思いっきり息を吸い込み、それから両肩をガクンと下げて「ふぅー」と吸った息を吐き出した。
「少しは気が済んだかい?」
 大人しく二人の様子を眺めていた誠吾が秋子に声を掛ける。
「時雨も素直に反省しているようだし、もう勝手に出掛けたりはしないだろうね」
「大人なんだから当たり前よ」
 疲れたように秋子が言う。
「高校生にもなって自分の行動が他人に迷惑をかけるって事に気付かないだなんて……」
「でも行き先はちゃんと書き残してあったじゃないか」
「あなただって心配して探しに行こうとしてたでしょ?」
「まあね」
 誠吾は苦笑いしながら頷いた。
「しかも私にお風呂に行くだなんて嘘までついて」
 呆れ顔で秋子そう言われ、誠吾がバツの悪そうな表情を浮かべる。
「それにしても時雨があのスケッチブックをここに持ってきていたなんてビックリしたよ」
 自分にも飛び火しそうな気配を感じて誠吾が慌てたように話題を振る。
「お義母さんと木想庵との関係は知らないはずなのに、時雨なりに何か感じている事でもあるのかな?」
 夫の言葉に秋子が首を捻る。
「時雨が何か疑っているのだとしてもこの場所は父に関係があっただけで、小春伯母さん達には一切関係がないわ。スケッチブックに描かれているのが仮にその洋館の場所なんだとすれば、関係のない伯母さん達がスケッチブックを大切にしていた理由って何なのって話にもなるし、話がますますややこしくなっちゃう」
 秋子のもっともな意見に誠吾が頷く。
「そもそも時雨は何故あそこまでスケッチブックに拘るんだと思う?」
「それはたぶん……鍵の事よね」
 少し悲しげな表情を浮かべて秋子がそう答えた。

「今の時雨が必要以上にスケッチブックの由来に拘るのはきっと一緒に受け取った例の鍵のせいなんじゃないかと僕は思うんだ」
「鍵ってあの鍵の事?」
 誠吾の言葉に秋子は紙箱に入っていた真鍮製の鍵を頭の中に思い浮かべる。
「スケッチブックが三冊ある
 誠吾が指先で口元をさすりながらそう言うのを見て、秋子が苦笑
 仕事でもプライベートでも頭の中で何かを思い巡らす時、誠吾は決まって口元を触るクセがあった。
「要するにあなたも見てみたいんでしょ?」
「うん?」
「六角館よ」
 誠吾は首を横に振ってみせる。
「絵心の無い僕が見比べたってなおさら分からないよ」
 溜息混じりにそう話す口元に自嘲気味の苦笑いを浮かべていた。
「それよりも機会があったら女将さんと例の……っと、何て言ったっけかな、男の人」
「伊納さん?」
「そう、その伊納さんとかに尋ねてみた方が早いだろうね」
 誠吾がその提案をしてきたのはこれで二度目だった。
「そんなに言うのなら分かったわ、今夜ふたりに会った時に一応聞いてみてあげる」
 仕方なさそうに秋子がそう言うと、誠吾が妻に向かって満足そうな笑みを浮かべた。


 ――ありがとう。

 時雨が初めて六角館を目にしたのは、小冬に連れられて初めて木想庵を訪れた日から三日ほどが経った日の朝の事だった。
〈午前中には戻るからね〉
 あの日、目を覚ました時雨は座卓に置かれたメモを見て祖母がひとりきりどこかへ外出してしまった事を知る。
 小冬が戻るのを待つ間、旅館の敷地内を散策していた時雨は石庭の奥で旅館の裏手へと続く小路の存在に偶然気付いた。
 普段は草薮に隠れて見えない筈の縦垣(たてがき)が開け放たれていたせいもあり、プライベートな場所である事には気付かぬまま足を踏み入れた道の先、暖かい日差し降り注ぐ雰囲気の良い雑木林を抜けた時雨を待っていたのは旅館の和風な趣きとはまるで正反対の洋館だった。
 周囲に木々の生い繁る山の斜面、そこに広がる手入れの行き届いた花壇、花菖蒲が咲き誇る池……、まるで絵ハガキを見ているかのような辺り一面の景観に時雨の心はいっぺんに魅了され、気づけば二時間近くを一人きりその場所で過ごしたのである。
 一人きり? ……いや、しかし実際にはそこにもう一人いた。
 そこがプライベートな場所だと時雨が気付けなかったもう一つ別の理由。それは同じ時刻に時雨以外にも洋館を訪れていた別の人物の存在があったからだった。

 ――もし嫌じゃなかったスケッチのモデルになってくれませんか?

 あの日、名も知らぬ青年は時雨にそう言って微笑みかけた。
 よもやプライベートな場所に自分が足を踏み入れているなどと考えてもいない時雨にとって、見知らぬ人間が不意に目の前に姿を現したとしても特に驚く理由などなく、洋館の脇に立つクヌギの巨木の下、目前に広がる庭の草花を眺めていた時雨の前に突如現れた青年の事を単なる木想庵の泊まり客だろうくらいにしか時雨は思わなかった。
 どちらからとなく軽い会釈を交わした後、スケッチブックのようなものを取り出した青年は洋館を眺めながらデッサンを始め、時雨はといえば二人きりの気まずさを多少なり感じはしたものの、いずれは別の客も現れるだろうと無理に立ち去ることもせず、そのままぼんやりと景色を眺め続けた。

 ――ここって、誰かいるのかな?

 ――さっき入り口の傍まで近づいてみたんですけど、誰も居ないみたいです。

 ――なんだかとっても素敵な場所ですよね。林の中の小径に見惚れて歩いてきたら、まさかこんな場所があるなんて。

 ぎこちない会話を交わした後、青年から風景画のスケッチモデルになって欲しいと頼まれた時雨は場所の居心地の良さもあったせいか青年の頼みを素直に引き受けた。
 それから旅館に戻るまでの小一時間、当然の事ながら二人以外にその場所を訪れる人間は誰一人現れる事はなかった。

 ――ありがとう。

 最後に青年からお礼を言われて別れたものの、同じ旅館の宿泊客だと思っていた青年の姿を見かける事はそれきり一度も無かった。
 一般客の立ち入りが禁止されている場所である事をもしその時に知っていれば、多少なり時雨も青年に対して警戒感を抱いていたに違いなかった。
 だとしても今朝のタイミングでその青年との事を誠吾や秋子に話していたならば、恐らく秋子からはもっときつく注意されていたに違いなかった。


「別に気にしなくてもいいんですよ、お嬢さんはあそこの場所が気に入って見に行かれたのでしょ?」
 玄関先で出発客の見送りをしていた女将の姿を見つけ、秋子に言われた通り時雨が朝の件を詫びると、香津子はそう言いながら笑顔を見せた。
「でもわざわざ草薮で隠してあった扉も勝手に開けたりして……」
「あの扉ですか?」
 香津子は笑みを浮かべた口元を左手で隠しつつ、もう片方の手を胸の前で左右に振ってみせた。
「うふふ、確かにあの場所は誰れ彼れ構わず気安く立ち入られると困る場所ですが、石庭の奥の扉自体は旅館の裏手に私達が出入りする為のものですから……。そもそもあの扉を抜けたところで裏手にある雑木林を十分近くもかけて登ってゆく方なんて、そうそういらっしゃらないですよ」
「そうなんですか?」
 真剣な表情で尋ねる時雨に香津子は微笑みながら頷いた。
 時雨の頭の中にほんの一瞬だけあの時の青年の顔が浮かんだ。
「……あの洋館って誰か人が住んでるんですか?」
 時雨の質問に香津子は首を横に振る。
「いいえ、六角館には誰も住んでおりません」
「あ、やっぱりそうなんですね、あの中に入る事って出来るんですか?」
「あら、あそこにお入りになりたいのですか?」
 いたずらっぽい笑みを浮かべて香津子が尋ねると、時雨は慌てて手を左右に振った。
「ごめんなさい、やっぱり今の話は無かった事にして下さい!」
 秋子の眉間に皺がよる姿を想像した時雨は、懇願するようなポーズで香津子にそう言った。
「こんな事尋ねたのがバレたらママに全然反省してないってまた(しか)られちゃう」
 (かす)かに焦りの表情を浮かべる時雨の言葉に香津子は小さく笑い声をあげた。
「かしこまりました、今のお話は聞かなかったことにいたします」
 香津子がそう言うと、時雨は照れくさそうに頭を掻き、そして苦笑いを浮かべてみせた。


 旅行二日目、家族は揃って修善寺町の名所巡りをする予定だった。
 少しばかり慌しい朝の始まりになってはしまったものの、予定より少し遅れて宿を出た三人は快晴に恵まれるなか大勢の観光客で賑わう修禅寺や竹林の小道などを訪れて回った。
 仕事で外を出歩く機会の少ない誠吾にとって起伏の多い修善寺町の道はなかなかに厄介な代物だったが、それでも趣きのある純日本的な家屋やら景観やらを時間をかけて丁寧に眺めつつ、時には土産店で盛り上がる妻と娘を急かしながらのんびりと名所巡りを楽しんだ。

 ――だったら今度のゴールデンウィークにその木想庵とやらに行ってみないか?

 小冬の四十九日法要を間近に控えた四月の中旬、春の連休を伊豆の修善寺で過ごそうと最初に秋子に提案したのは実は誠吾の方からだった。
 昨年暮れに木想庵について秋子の口から聞かされた時、誠吾の中でさほどの驚きはなかった。
 そもそも亡くなった秋子の父が資産家だった事は結婚する前から分かっていたし、その財産の大半を相続したであろう義母の小冬も、亡き夫の描き遺した油彩画を展示する為だけに所有していた別荘のひとつを私設美術館にしてしまうくらい経済的に恵まれた暮らしぶりである事を充分に承知していたからだった。
 しかし実際はその経済事情について秋子から詳しく聞かされた事は一度として無く、自らの余命を悟った小冬が一人娘である秋子に告白した内容についても、元から何も知らされていない誠吾の立場にしてみれば、初めてその全貌(ぜんぼう)を聞かされた程度の驚きでしかなかったのである。
 もちろん、小冬から聞かされた事実を妻の秋子が相当の驚きで受け止めている事は誠吾にも十分に理解する事は出来た。
 聞けばその旅館は小冬が自ら運営を始めた緑想館という名の美術館よりも古くから小冬自身がオーナーを務めていたにも関わらず、何かしらの理由があって娘の秋子には宿の存在が意図的に隠され続けていたのである。
 その点について秋子が理由を尋ねても小冬は多くを語ろうとしないまま、小冬と同様にオーナーとして関わってゆくも土地や建物を売却して無関係になってしまうも全ては秋子の判断に任せるとだけ言い残したきり他界してしまったのである。
 個人画廊として絵画の販売を行う事も多い緑想館は、日頃から母親がオーナーとして直接携わっている姿を見てこれたからこそ、オーナーを引き継ぐにあたって秋子自身も自らの立ち位置を把握しやすかった。しかし、一方の木想庵に関してはその雰囲気どころか建物すら見た事のない宿なのである。
 結婚して時雨を産んで以降、すっかりと専業主婦の生活に馴染んでしまっていた秋子にとって緑想館のオーナー業だけでも相当に厄介な話だというのに、不意に()いて出た見知らぬ土地の見知らぬ旅館にオーナーとして関わるなど現状を考えればおよそ不可能な事は誠吾にも容易に想像がついた。
 たたひとつ、救いはあった。
 小冬に紹介された伊納という男の存在である。
 富山にある建設会社の役員だと自らを紹介してきたその老齢の男性は、聞けば木想庵について小冬と同様に非常勤の取締役としてその経営に深く関わっている人物である事を秋子からは聞かされていた。
 小冬本人からは何一つ詳しい事が聞けぬ代わりにその伊納という名の男性と実際に旅館の実務を取り仕切る女将の女性が秋子の補佐をしてくれる事になっていた。

 ――近いうちに一度宿の方に足を運ばれてはいかがかな?

 伊納からそう提案された事を秋子の口から聞いていた誠吾は、ちょうど目前に迫っていたゴールデンウィークを利用して木想庵を訪問してみるよう秋子に薦めたのである。

 正午を少し回った頃、〈虹の郷〉という観光名所を目指していた三人は昼の休憩を取る為に途中の道沿いにある大きな蕎麦屋を見つけて立ち寄っていた。お昼時まっさかりの店の入り口付近は空席待ちの客で(あふ)れかえり、三人がその店ののれんを(くぐ)るだけでも二十分近くはかかりそうな気配が見てとれた。
「かなり待ちそうだし、ちょっとお手洗い済ませてくるわ」
 秋子は諦めた表情で二人にそう言い残し、人混()みをかきわけながら店の中へと入っていく。
 入り口の混み具合から見ても秋子は暫くは戻ってきそうになかった。
 隣に並ぶ娘を見ると、時雨は隣で携帯電話の画面を眺めている。
「なあ時雨?」「ねえパパ?」
 二人がほぼ同時に声を掛け合った。
「ん?」「え?」
 驚いた表情を浮かべて互いに顔を見合わせる。
 誠吾が時雨に向かって手を差し出すようにして先を促した。
「あのねパパ、実は私……もう一回だけあの洋館を見に行きたいと思ってるの」
 時雨はそう言うと、不安そうに誠吾の目をじっと見つめた。
「これ言ったら、ママやっぱり怒るかな?」
 少しバツが悪そうに視線を横へと逸らす。
 その様子を見て誠吾は思わず苦笑いを浮かべた。
「うーん、どうだろう……。今朝(けさ)ママが時雨と約束したのは知らない土地で勝手にひとりでは出歩かないって事だからね」
「事前にちゃんと言えば許してくれるかな?」
 時雨は不安そうな眼差しを父親に向けた。
「それにあそこって本当は立入禁止みたいだし……」
六角館(ろっかくかん)とか言ったっけ? うーん……どうなんだろうねぇ。昨日といい今朝といい宿の人達の様子を見る限りでは時雨が足を踏み入れた事に気を悪くしてるような雰囲気はパパには感じられなかったけどなぁ」
「今朝も宿のおじさんが心配して様子を見に来てくれたけど、特に注意はされなかったよ。ママに言われて女将さんに謝りに行った時もそんな感じだった……」
 時雨はそう言うと、訝しげな表情で首を傾げた。
 宿と自分との特殊な関係について時雨は何ひとつ聞かされていない。
 恐らくは秋子が許可さえすれば宿の人達からあれこれ言われる事が無い事は誠
「時雨はどうしてその場所にそんなに(こだわ)るんだい? スケッチブックをわざわざこんな所にまで持ってきたのだって理由があるんだろ?」
 そう尋ねる父親の目を時雨がほんのしばらくじっと見つめる。
「……というよりも時雨が一番気になっているのはあの鍵なんだろ?」
 誠吾のその指摘に時雨がコクリと頷いて返した。
「……鍵の事言うとママが嫌がるから内緒だけど」
 そう呟く時雨の不安そうな表情を見て、誠吾は優しげに笑みを浮かべてみせた。
「パパが想像するに時雨はこう考えたんじゃないか? 小冬のお婆ちゃんが最後の旅行に修善寺を選んだのは偶々(たまたま)じゃなく何か目的があったんじゃないかって……」
 小冬が宿のオーナーだった事を知る秋子や誠吾にとっては当然の疑念である。
 しかし、その事実を知らない時雨が小冬と宿とを関連付けて考えるには何かしらの理由があるのだろうと誠吾は考えていた。
 時雨がおもむろに自分のバッグの中へと手を差し入れる。
 中から取り出したのは例の真鍮製の鍵だった。
「なんだ、鍵まで持ってきてたのか」
 驚く父親に向かって時雨は真剣な眼差しで話し始めた。
「パパの言う通りよ、この鍵の事はパパもママもいつか何か分かる日が来るかもしれないって言ってたけど、一昨日(おととい)檜山(ひやま)叔父(おじさ)()に行って他にも色々と気になる事が増えちゃったでしょ、あの場所がスケッチブックの絵に似てる気がしたのは前に来た時にちょっと思ってたから何かヒントでもあればと思ってとにかく実物と見比べてみようと思ったの」
「つまり時雨はスケッチブックと鍵には何かしら関係があると考えてるんだね?」
「そこら辺はあんま難しく考えてないかも……、でもお婆ちゃんが最後の旅行先に選んだ場所でスケッチブックの絵と似た風景を見つけたのって何となく気にはなるし、私が見た建物って今は使われていないんだって。それで実はね……」
 時雨は耳打ちでもするように小声で言葉を続けた。
「ママには絶対に内緒なんだけど、その建物の入口の扉にこの鍵が使えないかって試してみたの」
「えっ? そうなのか?」
 思いがけない娘の告白に誠吾は目を丸くして驚いた。
 それから呆れたように溜息をついてみせた。
「それはさすがにやりすぎかもしれないな、時雨」
「うん、それは分かってる。でも鍵が扉に合うか合わないか確認してみたかっただけで、もし合ったとしても建物の中に入るつもりは初めから全然(ぜんぜん)無かったの」
「だとしてもダメだ」
 誠吾はわざと眉間に皺を寄せた表情を浮かべ、娘に言い聞かせるように低い声で言った。
「ごめんなさい……」
 秋子とは違い誠吾が娘に対して声を荒げて叱る事はしない。
 だからこそ父親の口調がいつもと違う事に気付いた時、大抵の場合、時雨はすぐに反省の言葉を口にした。
「どんな理由があるにせよ他人(ひと)様の家を勝手に覗き込むのは間違いだよ。そういう軽はずみな行動をしてしまうんだったら鍵の事を調べようとするのをママにあれこれ言われてしまうのもパパは仕方がないと思う」
「うん……」
 誠吾にそう諭されて時雨はションボリと(うな)()れた。
「まあ時雨の話を聞く限り普通の家とは違うようだし、これが住宅街の中に建っている家だったら時雨もそこまでの無茶(むちゃ)はしなかっただろう?」
「うん、それはもちろん」
 時雨は父親に向かって力強く何度も頷いてみせた。
「そこまでしたのにもう一度その建物の場所に行きたいのかい?」
 鍵を試した結果がどうだったか。あえてその事を娘には触れぬまま、誠吾は娘への質問を重ねる。
「うーん、さっきまではそう思っていたんだけど、今はもう行きたいとは言えないかも……」
「つまりは鍵はその建物の扉の鍵だったから今度は中に入りたいってって考えていたんだろう?」
 誠吾がそう言うと時雨は慌ててブンブンと首を横に振った。
「全然! 鍵は全然(ぜんぜん)扉のなんかじゃなかったよ、それはホント。ただ……」
「ただ?」
「……あの建物の中に入りたいって考えてたのはホント」
 そうボソリと呟くと、時雨は再びバツが悪そうに誠吾から視線を逸らした。
 実際は誠吾も時雨と同じ可能性を考えていた。
 小冬が木想庵のオーナーだった事を知る立場であれば、時雨が話した洋館のどこかに受け取った鍵に合う鍵穴があるかもしれないと考えるのは不自然ではない。
 単純な鍵の形状を考えるに、さすがに誠吾も入口の鍵だとは想像しなかったが、持参した鍵が合うかどうかを時雨が試したと知った瞬間、もう一度行きたいと言ったのは入口の鍵だった事を時雨自らが確認したからなのだと勘違いしたのである。
「もしかして入口の鍵は最初から掛かってなかったのかい?」
 誠吾が尋ねると時雨は再び首を横に振った。
「鍵は掛かってたよ」
「それならもう一度行ったとしても建物の中になんて入れないだろ? 鍵は入口のじゃなかったんだし……」
「うん、だから宿の女将さんに頼んでみようかなって」
「…………」
 娘の思惑(おもわく)が想定外に安易(あんい)だった事を知り、誠吾は思わず言葉を失った。
「ホントはね、さっき謝りに行った時に思わずそれっぽい事を口にしちゃったら女将さんから『入りたい?』って聞かれたの」
 時雨の言葉を聞いた誠吾はがっくりと肩を落とす。
「時雨、その建物に行くのは諦めなさい。その事も多分きっとママには言わないほうがいい……とパパは思うぞ」
 呆然とした表情でそう話す父親には気付いていないのか、時雨はただただ残念そうに溜息をついた。

 人知れぬ山中(さんちゅう)に建てられた洋館。
 その建物は小冬がオーナーを務めていた旅館の敷地内に建てられていた。
 木想庵に到着した晩に娘の口から初めてその洋館の存在を聞かされた誠吾は、普段はそこが一般客の立ち入れる場所ではない事も今朝(けさ)知った。
 木想庵(もくそうあん)は小冬が自ら選んで時雨と共に最後に訪れた場所である。
 時雨が小冬から受け取った鍵の件が無ければ、恐らくは誠吾自身も建物に強い興味を持つ事はなかったのかもしれない。
 時雨がスケッチブックを持って洋館を訪ねた事を知った時、鍵の事が頭の片隅にあった事で秘密めいた洋館と鍵とが誠吾の中で当たり前のように繋がった。
 それはつまり、鍵を必要とする何かが小冬によって建物の中に用意されているかもしれないという可能性である。
 果たして時雨に鍵を渡した小冬の意図が何なのか。
 それを知る手がかりはまるで無いなかにあって、駄目元(だめもと)で小冬と洋館との関わりを探ってみる価値は十分にあると感じていた。
 男というのは大概はロマンチストである。
 それはしかし、女から見ればご都合主義的なロマンチシズムにしか映らない事も大概だったりする。
 妻の秋子にしてみれば小冬が間違えて鍵をスケッチブックの箱に入れた程度にしか捉えていないようだったし、やれ美術館の運営だ、やれ旅館のオーナーだと現実感タップリの深刻な悩み事を山ほど抱えている状況下では、あえて面白(おもしろ)可笑(おか)しく鍵の話題を取り上げるのにも気がひけた。
 しかし、義理の息子とはいえ穏やかな小冬の人柄を知る誠吾だからこそ、時雨が受け取った鍵には小冬が祖母として抱く孫への愛情が何かしら込められているような気がしていた。
 いずれは木想庵の事を時雨に打ち明ける時機もくるだろう。
 それはもしかしたら小冬したのと同様に秋子自身が年老いた時かもしれない。
 仮に時雨の求める答えが洋館にあるのだとすれば、そして秋子が時雨に木想庵の事を伝えるのがまだずっと先の未来なのだとすれば、その可能性を予見できた小冬にとって、鍵の答えを孫娘が知るのはずっとずっと後になっても良いと初めから考えていたのかもしれない……。そんな風に誠吾は捉えていた。
 しかし、それはまた逆の可能性も考えられる。
 小冬が亡くなった(あと)、秋子がすぐに木想庵の事実を時雨に伝えていたとすれば、洋館と鍵とを関連付ける可能性は今朝の出来事を見ただけでも容易く想像がついた。
 孫娘に残した鍵ひとつを大仰(おおぎょう)に捉えているわけでは決してなく、木想庵と娘との繋がりを知る立場として明らかに疑わしい建物の存在を知ってしまった以上、それが気になってしまうのは仕方のない事だった。
 母親である秋子の立場にしてみれば自分自身が何も理解していない今現在の状況で娘に木想庵の事を話す事を時機尚早だと考えるのは極々当然の考えであり、仮に洋館の中に鍵の答えがあったとしても時雨がその答えを手にすれば否が応でも木想庵に関する事実をを娘に話さなければいけない事になる。
 夫として父親としてどちらにも協力してやりたいところだったが、現時点では秋子の立場を優先せざるをえず、時雨に関しては本人の行動力に期待するほかなかった。 


 午後三時を過ぎた頃、その晩の宿泊予約を入れていた一組の老夫婦が木想庵に到着していた。
 車の後部トランクから手提げの旅行バックを取り出して二人連れ立って古びた旅館の門をくぐると、宿の敷地に広がる純和風な景観を見て妻らしき女性が嬉しそうに目を細めた。
 宿の入り口へと続く敷石(しきいし)の上を二人(しと)やかに(わた)ってゆくと、途中に敷地内を流れる小さな川が姿を現し、男性が川上(かわかみ)の方向を指差して何やら妻に話しかけると、その指差す方向へと妻らしき女性も目をやりながらにこやかに頷く。
 木造の小さな橋を渡ってその小川を越える途中、橋の手すりから女性が川面(かわも)を覗き込んだ。
 (かわ)べりには苔むした石が風情良く並び、澄んだ水面(みなも)が石庭のある川下に向かって静かに流れていくのが分かった。
 入り口近くまで来ると、宿の建物に沿()って左手に広がる立派な石庭が二人の視界に飛び込んできた。
 石庭も含めて敷地内はどこも掃除が行き届いているのだろう、樹木が多く茂っている割りに地面には落ち葉が殆ど見当たらなかった。
「どうもお疲れ様でございます」
 来客の気配を感じた従業員が宿から出てきて老夫婦に声をかけた。
「これはこれは伊納さんでしたか」
 客が顔見知りである事に気付いた従業員が、お辞儀の途中で相手に向かってニッコリと微笑みかけた。
 男性が片手を小さく挙げてその笑顔に応えると、妻と思しき女性も従業員に向かって深々とお辞儀する。
(かせ)ぎ時で申し訳ないが、客として一晩(ひとばん)お世話になるよ」
 男性がそう言ってお辞儀をすると、従業員もお辞儀をして返した。
「奥様……でらっしゃいますかな?」
 頭をあげた従業員が女性の方を見ながら確認するように尋ねると、男性は「うん、妻の淑子(よしこ)だ」と言って頷いた。
「はじめまして、伊納(いのう)の妻の淑子(よしこ)と申します」
 女性はそう言って自らの姓を伊納と名乗った。
「いつも主人がお世話になっております」
 そうお礼の言葉を口にし、淑子は再び従業員に向かってお辞儀をする。
 老夫婦は御領小冬から木想庵の管理を任されていた伊納(いのう)忠恒(ただつね)とその妻の淑子(よしこ)だった。
「いえいえそんな、(わたし)らのほうこそ伊納さんにはいつもお世話になってばかりで」
 従業員の男はそう言って微笑むと、照れくさそうに後頭部を掻いた。
「どうだい? さすがに忙しいかい?」
 (えら)ぶった物言いではなく伊納は従業員に尋ねた。
「こればっかりは毎年の事ですけぇ」
 その答えに伊納が嬉しそうな表情を浮かべる。
「ふむふむ、香津子さんや調理場なども今頃はきっと大忙しなんだろうねぇ」
「まぁ、これさえ過ぎてしまえば木想庵(ここ)も一週間ほど休館(しめ)てしまいますから、とにかく残りの数日を頑張るだけですなぁ」
私達(わたしら)の方は好き勝手に過ごさせてもらうからね」
 伊納はそう言って従業員の肩を片手でポンポンと叩いた。
「部屋は神無月(かんなづき)で良かったのかね?」
「ありゃりゃ、うっかり立ち話になってしまって失礼しました」
 従業員の男ははたと気付いて慌てて伊納の持っている旅行バックへと手を伸ばしてきた。
 しかし、伊納が笑いながら手を振って従業員を制した。
「いいよいいよ、(わたし)らには気遣いをしないでくれ、案内などなくても(わたし)らだけで行けるから」
 伊納のその言葉に従業員の男が申し訳なさそうに苦笑いを浮かべた。
「そういえば、今年も受付には女将さんが?」
 伊納の質問に従業員の男が頷いた。
大女将(おおおかみ)ですか? ええ、今年も受付に座ってらっしゃいます」
「そうかい」
 伊納が納得したように頷くと、従業員の男は老夫婦を玄関へと誘導するように片手を動かした。
 丁度その時、三人の背後から賑やかな話し声が聞こえてきた。
 伊納がちらと振り返ると、遠くから近づいてくる母娘(おやこ)(おぼ)しき二人の女性が視界の先にいた。
「お客様がお戻りのようだね」
 伊納が言うのと同時に従業員の男も母娘(おやこ)の姿に気付いていた。
「おや、あの()は……」
 三人の視線の先に居たのは秋子と時雨の二人だった。
「今お帰りになられたあちらのお客様なんですが、実は今朝方(けさがた)に若いお(じょ)さんの方が裏の雑木林を通って六角館をご覧になられてたんですわ」
 従業員の男が耳打ちをするように小声で言った。
「ほう、六角館へ? しかし一体どうやってあの場所へ?」
「どうやら以前にも木想庵(うち)に泊まった事があったようで、そんときに偶然に雑木林に迷い込んで見つけられたようですなぁ……」
「ほぉ、よくあんな場所まで」
 伊納は感心したような表情を浮かべた。
 再びちらと振り向くと、母娘(おやこ)の姿はだいぶん近づいていた。
 伊納は隣で黙って待っていた妻の淑子(よしこ)に言った。
「済まないが、ちょっと庭の様子を見たくなった。お前は先に彼と入って受付で待っていてくれないか?」
 伊納のその言葉に淑子(よしこ)は頷いた。
「では、そのお荷物は私が」
 従業員の男が手を差し出すと、伊納は軽く頭を下げて持っていた旅行バッグを手渡した。
「すぐに戻るよ」
 そう言うと、少し早足に妻と従業員の男を残して石庭のある方へと歩き去っていった。
 

「あら?」
 時雨と共に宿へと戻ってきた秋子は、向かう視線の先に一人の男性の姿を見つけ思わず小さな声を漏らした。
 宿の玄関先から石庭のある方へと男性が歩いていく姿を目で追っていると、その様子に気付いた時雨も母親の視線の先を追うようにして前方へと視線を向ける。
 そこには従業員の男性に付き添われて宿の中へと入っていく老齢の女性と(おぼ)しき人物の姿だけが見てとれた。
「誰か知っている人?」
 時雨が女性を指して尋ねているとは知らずに秋子はただ首を横に振ってみせた。
「ううん違った。何となく似ていただけみたい」
 娘の質問は上手く誤魔化(ごまか)した秋子は、石庭のある方へと歩いていったのが今晩遅くに会う約束をしている伊納忠恒だと確信していた。
 伊納と会う事を夫の誠吾には伝えていたが、時雨にはもちろん内緒である。
 女将と会っていた昨晩でさえも時雨にだけは温泉に一人(ひとり)きり(つか)かってくると嘘をついて部屋を出ていた。
 けれども女将の香津子と三人で会うと約束した時間までにはまだ6時間以上もある。
 同じ晩に伊納が木想庵に宿をとっている事を知らされていなかった秋子は、不意に現れた伊納の姿に少しばかり動揺していた。
 玄関前に着くと、宿の中から先ほどの従業員が出てきて二人を出迎えた。
「お戻りご苦労様でこざいます。随分と歩かれてお疲れになりましたでしょう」
 出迎えの従業員が戻ってきた二人に(ねぎら)い言葉をかける。
 秋子は伊納が向かった石庭の方を気にしつつ、既に辺りには居ない事を確認した。
「おや? ご主人さんは?」
 一緒に宿を出た誠吾の姿が見えない事に気付き、従業員の男がそう言って尋ねてきた。
「なんだか陶芸体験に夢中になってしまったみたいで」
 秋子が困ったような笑みを浮かべてそう言うと、「左様(さよう)でしたか」と頷きながら従業員の男も(にこ)やかな笑みを返してきた。
 三人が玄関をくぐると、受付の傍には外で見かけた老齢の女性の姿があった。
 若い女性従業員と(なご)やかに談笑している様子を見て、秋子達を出迎えた従業員の男が受付室の中へと手を伸ばす。
「ごゆっくり」
 そう言って部屋の鍵を渡してくれた従業員の男に軽くお辞儀をして返すと、秋子と時雨は自分達の部屋へと向かって歩き出した。
 部屋に向かって廊下を行く途中、秋子はもう一度石庭の方へと視線を向ける。
 だが、そこに伊納らしき人物の姿を見つける事はできなかった。
「時雨」
「ん? なーに?」
「時雨は何故(なぜ)あのスケッチブックを欲しがったの?」
「え……?」
 突然の秋子の質問に時雨が戸惑いの表情を浮かべた。
「どうしてって……」
 そう言い(よど)む時雨の脳裏に祖母が同じような質問をしてきた日の事が思い出されていた。

 ――時雨はどうしていつもそのスケッチブックを眺めるんだい?

 時雨は咄嗟(とっさ)に小冬の時と同じ台詞を口にしていた。
「……よく分かんないけど、あのスケッチブックの絵を見ているとなんだか気持ちが落ち着くの」
「だから欲しかった?」
「うん。前にお婆ちゃんからも似たようなこと聞かれたけど、気分的に落ち込んだ時とかに眺めたくなるっていうか……」
「お婆ちゃんが? 時雨に?」
「うん、私がスケッチブックを眺めるのはどうしてって……」
「ふーん、そうだったの」
 初めて聞く話だったが、これまでに秋子が不自然に感じていた部分と妙に符合する部分があった。
 言うまでもなく小冬はスケッチブックを大切に所有してきた当人である。
 その当人が気に入った理由を孫に尋ねるというのもおかしな話であり、小冬を含めた三姉妹全員がスケッチブックを持っていた事実だけを考えるならば、絵画を眺めるのが趣味だった小冬本人でさえも、実は案外と時雨のように気に入って持っていたとは限らない可能性が考えられた。
「それで、お婆ちゃんには何て答えたの?」
「ママに言ったのと一緒だよ。何となく気持ちが落ち着くからだって」
 そう言って時雨は苦笑いを浮かべた。
「あんまり深くは聞かないでね、もともと理由なんて深く考えた事ないんだから」
「分かったわよ」
 釘を刺す娘の台詞に秋子も苦笑いを浮かべる。
「でも……いま考えてみるとお婆ちゃんの顔を見たかったっていうのもあるかも」
 時雨はそう言って呟くと、少しばかり物憂げな表情で渡り廊下の横一面に広がる石庭の方へと視線を投げた。
「スケッチブックを眺めているのは私が落ち込んでる時だってお婆ちゃんも分かってくれてたから……、だから私もお婆ちゃんに慰めてもらいたくって無意識にスケッチブックを眺めに行ってた部分があるのかもしれない」
 遠い眼差しでそう語る時雨の横顔をじっと見つめていた秋子は溜息交じりにふっと息を吐いた。
「……ねぇ時雨、パパが戻るまでの間ちょっとだけ二人で雑木林に行ってみない?」
 秋子の意外な提案に時雨は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐにコクリと小さく頷いた。
「ママがいいって言うなら私は全然」
「じゃあスケッチブックも一緒に持っていきましょう。ママもちょっとだけその雑木林と見比べてみたいし」
「それも別にいいけど……、本当はお客さんが入っちゃいけない場所なんでしょ? そっちの方はいいの?」
 時雨が心配そうな眼差しを秋子に向ける。
「今朝の様子を見ても女将さんにきちんと断ってさえおけば問題なさそうな感じだったわ」
 秋子はさらりとした口調で言った。
 二人が雑木林へと踏み入る事で宿の迷惑になる事はないと分かっていても、女将や伊納から詳しい事情を聞くまでは木想庵と自分達と関係を安易に時雨に話すつもりは秋子にはない。
「すぐに行くの?」
 時雨に尋ねられた秋子が自分達の着ている服服を交互に眺める。
 二人ともスカート姿だった。
「さすがにこれで山道を登るのはなんだし、いったん着替えに部屋へ戻りましょ。どっちにしたってスケッチブックも持ってこなきゃいけないし」
「うん」
 秋子の言葉に時雨が再び頷いた。
 部屋に戻ると、時雨はすぐに自分のバッグの中からスケッチブックの入った箱を取り出した。
「ちょっと貸して」
 秋子は時雨からスケッチブックを受け取ると、パラパラとページを捲った。
 スケッチブックには、鉛筆を使ったラフなデッサンにパステル系の水彩色を使って彩りを重ねただけの印象画的なスケッチばかりが綴られている。
 気持ちが落ち着くと話した時雨とっては、例えば幼い頃に眺めた絵本を大人になってから見返した時のように誰しもがそういったものを懐かく感じるのと似た感覚から来ているものなのかもしれない。
 もし仮にそうだったとしても、初めて訪れた旅館の雑木林とスケッチブックに描かれている風景とを重ねようとする時雨の感覚は、秋子自身には全く理解しづらいものだった。
 今だ小冬と木想庵との関係を知らない時雨にとって、木想庵はあくまで祖母と偶々(たまたま)訪れただけの場所でしかなく、仮にスケッチブックと木想庵に何かしら繋がりがあるのだとしたら、何一つ関係性を知らぬままその可能性に辿りついた時雨の感性は本物という事になる。
 それでも秋子の中では時雨が望むような結果にはきっとならないだろうという予感のほうが実際には強かった。

 秋子が父親を亡くしたのは秋子自身がまだ中学校に上がったばかりの頃だった。
 とは言え、幼い娘を残して若くして亡くなったわけではなく、御領玲一と小冬はもともと二十歳以上も歳の離れた夫婦だった。
 小冬が三十歳で秋子を産んだ時、父の玲一は既に五十歳を過ぎていて、孫と子ほど年齢の離れた父親との思い出と言えば、趣味だった絵を描いている姿ぐらいしか秋子にとって思い浮かぶものはなかったのである。
 そんな秋子に物心がつくかつかないかといった頃、既に玲一が建築家としての生活を引退していた事を小冬の口から大人になって聞かされてはいたが、それは年齢的な理由からではなく、多少の贅沢をしようとも親子三人の生活に困らないだけの充分な蓄えがあっての事だった。
 そもそも資産家の家に育ち金銭的な苦労をした事がない玲一は、そんな自身も四十代半ばに建築家としての充分な成功を収めていた。
 故に親から譲り受けた財産にすら手をつける事もなく、残された小冬や秋子が不自由なく暮らしてゆけるだけの土地や財産を残して亡くなった父親に対し、幼い頃に死に別れたからといって感謝の気持ちを忘れた事など秋子自身一度たりともなかった。
 事実、秋子が小学校にあがる以前、父親である玲一は小冬と秋子を連れて季節毎(きせつごと)に国内の別荘地を移り住むという優雅な隠居生活を送っていた。
 その頃の家族の写真を見ると、季節毎に違う家が三人の背景に写り込んでいて、玲一が国内に多数の別荘を所有していたという確かな事実を伺い知る事もできた。
 秋子が小冬からオーナー業を引き継いだ緑想館という名の私設美術館自体、元々は玲一が鎌倉山に所有していた別荘のひとつであり、木想庵が玲一の所有していた財産のひとつだったと小冬から唐突に聞かされても、あえて秋子がそれを疑うのはまるで無意味な事だった。
 そんななかで数日前に時雨と共に訪れた檜山稔彦の家で三冊のスケッチブックの存在が明らかにはなったものの、仮に洋館や雑木林の周辺が時雨の譲り受けたスケッチブックに描かれている風景そのものなのだとしたら、木想庵は自ずと三姉妹に何かしら関わりのある場所という事になる。
 しかし、今現在までに秋子が木想庵について知る事実だけを考えるならば、小冬以外の伯母(おば)二人に玲一が個人的に遺した木想庵との関わりがあるとは考えられず、三姉妹との関わりが深いスケッチブックにも何かしら宿との関連性を疑えるような事実でもない限りは、単なる時雨の思い込みでしかないだろうと秋子自身は考えていたのである。
 いずれにせよ小冬が残した鍵やスケッチブックについて女将の香津子や伊納に尋ねる為には、まず秋子自身が時雨の考えを理解しておかなければならない。
 それ以外にも考えなければならない事が山ほどあるなかで、それほど気乗りはしていなかったが、結果が出るにせよ出ないにせよ、せめて娘の気懸りを失くしてあげられるのならそれだけでも秋子にとって得られるものは充分であるといえた。
「それじゃ素敵な庭を眺めにでも行きましょうか」
 夕刻時を前に外はまだ晴れやかだった。
 そもそもは時雨が素敵な庭だと教えてくれた場所だったし、誠吾と話したゴールデンウィークを楽しむという目的を忘れてなどいない。
 手早く身支度を整えた秋子は、スケッチブックを脇に抱えた時雨と共にいろいと複雑な期待を胸に秘めつつ部屋を後にした。


「お話し中にすみません、〈晩冬の間〉のお客様が女将さんに話があるって受付の前でお待ちなんですが、どうします?」
 事務所のドアをノックして入ってきた従業員の男は香津子にそう言った後、伊納に向かって軽く頭を下げた。
 晩冬の間と聞いて、香津子は向かい合ってソファに座る伊納の表情を伺うように見つめた。
「四、五分ほどで済みそうならここで待ってますよ」
 伊納のその言葉に香津子が頷いて返す。
「それじゃ、ちょっと行ってきます」
 伊納にそう言い残すと香津子は従業員と共に事務所を出て行った。
 十畳ほどの室内には古めかしい木製の事務机と書棚の他に伊納が腰を下ろす応接用のソファーとテーブルが置かれている。
 調度品の見た目の古さとは別に部屋の床や壁などは日々の手入れがしっかりと施されていて、机の上も帳簿や書類の(たぐい)が整理整頓された状態で積まれていた。
 応接テーブルのうえには二人分の湯のみが置かれていて、つい今しがた香津子が入れたばかりのお茶からは白い湯気がわずかに立ちのぼっている。
 事務所に一人残された伊納は、近くの書棚からファイルを一冊取り出すと、かけていた眼鏡を外して綴られている書類へと視線を落とした。
 伊納が手元の書類を眺めていると、間もなくして香津子が事務所へと戻ってきた。
「済んだのかね」
「ええ」
 香津子は頷きながらソファへと腰を下ろす。
「もしかして私の事かね?」
 探るような伊納の問いに香津子は首を振って答えた。
「今からお嬢さんと二人で六角館を見に行かれるようで、その事を私に伝えにいらっしゃったようです」
「ほう」
 香津子の返事に伊納も納得したように頷く。
「さっき玄関先で山崎さんも言っとったよ、何でも娘さんが六角館の事を知っとったそうじゃないか」
「ええ、昨晩到着した際にお嬢さんが急にあの場所の話をし始めたので私も驚きました。しかも、どうやら小冬様からお聞きになったわけじゃなく一人きりであの場所を見つけられたようなんです」
「ほう、六角館がある事も知らずにあんな山奥まで一人で歩いて行ったり出来るものかね?」
 驚く伊納に香津子は微笑みを浮べながら言った。
「案外と景色を眺めて歩かれるのがお好きなのかもしれませんわ」
「ふむ、そんな話を聞かされると秋子さんよりも此処を継ぐにはうってつけなのかと考えてしまう」
「私の立場ではそういうお話は出来ませんけど、秋子さんも小冬様が大事にしてこられた事を誠実に守っていかれる方のように感じられましたよ」
 香津子がそう言うと、それを聞いた伊納も満足そうに頷いた。
「私や白波瀬さんがもっと若ければ、あと十年くらいは秋子さんの手助けの約束をしてあげられるんだが、女将さんはともかくとして私らはいつ動けなくなるか当てにならん年齢だからなぁ」
「代わりになる方を探すというのは?」
 尋ねる香津子に伊納は力なく首を横へと振った。
「そもそも大女将にせよ私にせよ大恩ある方に報いる志があってのご奉仕ですからな」
 伊納はそう言うと真顔で言葉を続けた。
「例えば木想庵(ここ)を続けてゆく為に今後もずっと私らのような人間を必要とするのであれば、逆に言えば私らのような境遇の人間をわざわざ探さねばならんという事になる」
「別に恩だとか義理だとか考えずとも協力してくれる方を探せば……」
「それは遺書の件がなかったらの話だよ」
 伊納の言葉に香津子が押し黙る。
「私らが御領様から託された時間はいずれせよ期限の訪れる事が決まっておるもの。小冬様の存命中、結果として目覚める事のなかった御領の旦那様の遺書は、このまま時が過ぎれば、いずれ旦那様の望まなかった形で行使される事になる……。小冬様がお亡くなりになった今、唯一幸いなのは女将さんの感じられたとおり、秋子さんもまた御領様の志を大切になされる御方かもしれないという事。少なくとも大女将や女将にとってそこだけが大事なんではないかな」
「母はともかくとして私の場合は……」
「此処を離れる事になっても構わないと?」
 伊納がそう言って尋ねると、香津子はそっと目を閉じて首をゆっくりと左右に横に振った。
「自らそう望むわけありませんわ」
 香津子の返した言葉に伊納が「分かっとるよ」と呟いた。 
「私はともかくとして、女将(あんた)を含めて木想庵(ここ)に関わる人間は皆ほとんどがここで生活の糧を得とるわけだろう? 御領の旦那様も小冬様もその点をお考えにならんわけがない。小冬様とて秋子さんがその点をしっかりとお考えになると信じられたから判断を託されたのだろう」
「遺言とやらの期限はいつなんです?」
 香津子の質問に伊納は首を振って答えた。
「十年近く前に匂坂(さぎさか)会長が亡くなって以降、期限について知っているのは白波瀬さんだけで私も彼からは何も聞かされてはおらん」
 香津子は意外そうな表情を浮かべた。
「あら、そうだったんですか」
匂坂(さぎさか)会長や具視(ともみ)さんもそうだったが、大女将にしても私や白波瀬さんにしても、それぞれ互いの領分(りょうぶん)を詮索し合う事は今までずっとしてこなかったではないか」
 伊納はそう言うと、溜息をついた。
「はてさて木想庵(ここ)も一体どうなっていくことやら……」
「頼みの伊納さんがそんな(おっしゃ)りようでは私達も不安になります」
 弱気な台詞を口にする伊納の様子を見て、香津子は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「秋子さんとて(しばら)くは今までと変わらぬ形を望まれるだろうが、御領様の残した遺言に関しては期限とやらが訪れた時に木想庵(ここ)がどうなるのか周知している人間が誰一人おらんというのも困ったものだ」
「昨夜お話しをした感じだと伊納さんが仰っていた通り秋子さんが何も聞かされていらっしゃらないのは本当なのだと感じました」
「私らが変に(かま)えたり勘繰(かんぐ)ったりしても仕方がない。私自身は秋子さんを信じて知っている事は全てお伝えをするつもりだよ」
 伊納の言葉に香津子も頷いた。
「……ところで秋子さんは何か目的があって修繕様の館へ向かわれたのかね?」
 伊納は思い出したように香津子に尋ねた。
「昨晩ご家族で到着された時に六角館(あそこ)について知ってらしたのはお嬢さんだけでしたから恐らくは一緒に見に行かれたのでしょう」
「この歳になるとさすがにあの山道を登るのは身体に堪える。女将にしても案内する手間が省けて良かったのではないかな」
 伊納が冗談めかしてそう言うと、二人は互いの顔を見ながら笑い合った。
「時に、彼の立った後は?」
 尋ねる伊納に香津子が首を振る。
「いいえ、どなたも。宿の勝手な判断だけで誰かにお貸しするような事はいたしませんので」
 そう言って目を閉じると伊納に向かって再び首を横に振ってみせた。
「木想庵を離れたのは確か……昨年十二月頃だったかね?」
「ええ、本当は春先までの予定だったのですが、急な用事がお出来になられたとかで慌しくお立ちになられたのを覚えております」
「で、その後は彼からの連絡は?」
「ええ、もちろん。お世話になったお礼にと宿の私達と小冬オーナーとに宛てた品物も届いておりましたわ」
「ふむ」
「そういえば伊納さんは一度も彼とお会いにならぬままで?」
 香津子が尋ねると伊納は愉快そうに笑った。
「ほっほっほ、半年近くも木想庵(ここ)にいて一度も会えなかったというのもまた何かの(えん)なんでしょうな」
「そうですか。でも同封されていた手紙だと何やら心残りがおありのようで、またいつか宿に立ち寄られる機会もあるとの事でした」
「ふむ、心残りですか……一体何でしょうな?」
 訝しむ伊納に香津子は何も言わず首を傾げて返す。
「いずれにせよ秋子さんがここを引き継ぐにあたって、あそこの扱いも少し考えたいところではある」
 伊納がそう呟くと、途端に香津子が訝しげな表情を浮べた。
「考える……とは?」
「もうすっかりと気まぐれで使うだけの場所になってしまっていますからな、例えば一般客も散策できるように開放するのであれば宿の従業員達の苦労も多少なり報われるでしょう?」
「ああ、そういう事ですか」
 伊納の意見に香津子も納得したように頷いてみせる。
「まあ、建物の事もあるから、そう単純な話にはならんがね。修繕様の館も木想庵と同様に時期が来るまで手をつけてはならんというのが御領様の遺言。匂坂会長もその事は念を押すように何度も仰られていたよ」
 伊納は窓の外へと視線を投げながら思い出を懐かしむような口調でそう言った。
「ご心配なく。私を含めて宿の者達全員、坂庭の手入れを厄介に感じた事はありません。私達にしてみれば今は神社やお寺みたいな存在になってしまっていますから」
 微笑みながら香津子がそう言うと、伊納も満足げな表情で深く頷いた。
「お身体に(こた)えるのは承知しつつも、せっかく奥様といらしたんですから坂庭の方にも足を運ばれては?」
 香津子の提案に伊納はもう一度深く頷く。
「もちろんだとも」
 それを聞いて香津子も満足げに頷いた。
「今日は調理長も腕をふるってお二人のために美味しいものをお出しすると張り切っておりましたから、元気をつけていただいて是非(ぜひ)
 そう言うとニコリと微笑(ほほえ)んだ。
「特別扱いはせんで良いと言っとったのに」
 しかめっ面を浮べる伊納の口元も(ほころ)んでいる。
「ええ、それはもちろん。どんなお客様でも特別扱いしないのが木想庵(うち)のモットーですから」
 二人は互いの顔を見合わせて笑った。


「あら、ここって……?」
 時雨の案内で洋館のある場所へと辿りついた秋子は目の前に広がる景観を見て眉をひそめた。以前どこかで同じ景色を見たような気がして、秋子はそれがどこだったのかを懸命に思い出そうと試みる。
 二人の立ち止まったその場所からは山の斜面に沿って見上げるように庭園が続き、その向こうには山の中にあるとは思えないくらい立派な外観をした建物が見えた。ありふれた景色と言えなくもないが、立体的な景観のせいもあってか、何となく絵本や絵画の中で見るような幻想的な雰囲気を漂わせている。
「ね、私が昨日言った通り素敵なお庭でしょ」
 それを見つけたのは自分だと言わんばかりに時雨が誇らしげな表情を浮かべる。
 宿からは徒歩で十分以上もかかるような不便な場所なのに遠目からでも手入れのしっかりと行き届いている様子がしっかりと見てとれる。
 宿の石庭とはまるで趣きの違う洋風の庭園を前に「ホントにそうね」と感心したように秋子が頷いた。
 秋子の感じた既視感にも似た奇妙な感覚。はたしてそれが時雨の感じているものと同じものであるのだとしたら、二人が幼い頃から目にしているスケッチブックの水彩画に何かしら関わりがあるからなのかもしれない。
「ちょっと見せてくれる?」
 秋子に促された時雨は脇に抱えていた紙袋からスケッチブックを取り出した。
 受け取った秋子がパラパラとページをめくって周囲の景色と見比べ始める。
「私はこの辺りから見た感じが一番近いと思ったんだけど……」
 描かれている風景の構図としては、確かに目の前に広がる景色に近いような印象を受けなくはない。
「今朝、従業員のおじさんが心配して私の事を探しに来てくれたんだけど、実はその時にもそのスケッチブックと見比べてもらってて……」
「あら、そうだったの」
「うん、でもスケッチブックには池が無いって言われて、確かにその通りでやっぱり違うのかなぁって……」
 その言葉に秋子が何枚かページをめくり直す。
 時雨の言った通り、スケッチには建物の手前に向かって広がる庭すら描かれてはおらず、建物近くに見える池らしきものも全く描かれてはいないようだった。
 スケッチ自体、ありきたりな構図なだけに間違いなく同じ場所であると自信を持って断定する事は出来そうにもなかった。
「そもそもスケッチには庭自体が全然描かれていないし、傾斜した場所を描いている感じもしないのよね」
「ってことはやっぱり、ここじゃないんだね」
 時雨はそう言って残念そうな表情を浮かべる。
 早朝の宿の従業員との会話で半ば諦めていたせいか、それほど落胆している様子ではなかった。
 小冬がオーナーを務めていた緑想館(りょくそうかん)を引き継いで二年あまり、職業として絵画を見ている母親の意見は素直に受け入れるべきが当然だった。
「最後の旅行にお婆ちゃんがこの場所を選んだ事には何か訳があるんじゃないかって思ったけど、こうなるとスケッチブックの方は完全にハズレっぽいね」
 両腕を伸ばしながら()()ったように時雨が言う。
「そもそもお婆ちゃん自体がこの場所の事知らなかったんだろうし」
 自らの早とちりに照れ笑いを浮かべる娘の様子を見て、秋子は逆に複雑な表情を浮かべた。
「もし知ってたら一緒に来た時に私に案内してくれたはずだもんね」
 小冬が知っていたという事実を口に出せない気まずさに、秋子はたまらずスケッチブックを小脇に抱えたまま建物に向かって歩き出す。
「ママ?」
 時雨もすぐに秋子の後を追いかけた。
 しかし、歩き出してすぐに秋子はその足を止めた。
 そして振り向きざま時雨に尋ねる。
「……ねえ時雨、今、『案内してくれたはず』って言ったわよね」
「うん」
「お婆ちゃんと一緒にここに来たんじゃなかったの?」
 時雨は首を横に振った。
「ううん、お婆ちゃんとは一度も来てないよ」
「えっ? それ、ホント?」
「うん」
 時雨の返事を聞いた秋子はほんの暫く黙り込む。
 そして何かに気付いたようにひとりごち頷いた。
「……そうよね、普通に考えてみればそうなのよね」
「ママ、急にどうしたの?」
 時雨が不思議そうに尋ねると、秋子が口を開いた。
「ねえ時雨、よく考えてみれば誰が描いたかすらお婆ちゃん自身は知らなかったわけよね」
「うん」
「誰が描いたか分からなくても、どこの風景を見て描いたかは分かっていたって事?」
「ん……」
 秋子に尋ねられて時雨が首を傾げる。
「スケッチブックの絵がここを描いたものだってお婆ちゃんが分かっていたのなら、どうして宿に泊まった時に時雨に教えてくれなかったのかしら?」
「何か教えられない理由があったから?」
 深く考えぬまま即答する時雨に向かって秋子が笑顔を浮かべた。
「じゃあ時雨はどうやってこの場所がある事を知ったのかしら?」
「それは私一人で散歩していたら、たまたま偶然に……、ん?」
 時雨はすぐに気付いた。
「……そっか、そうだよね、私がこの場所に気付かなかったら……」
 時雨の言葉に秋子も大きく頷いた。
「そうよね」
 秋子に促されてようやく肝心な事に気付いた時雨は、指先で自分の頭を掻きながら落胆したような表情を浮かべてみせた。
「お婆ちゃんが時雨にスケッチ場所のヒントをくれるつもりだったのなら、本来なら時雨が入れない筈のこの場所にお婆ちゃんが自分で連れて来る必要があったんじゃないかしら?」
「言われてみれば、確かにお婆ちゃん自体はこの場所知らないんだ……」
 時雨はがっくりと肩を落とす。
(ホントは知ってるんだけど……ごめんね)
 秋子は心の中で時雨に詫びる。
 しかし、小冬が自ら進んで雑木林の存在を時雨に教えなかった事実そのものは変わらない。
 秋子にとって、むしろ重要なのはそれだけだった。
 小冬が旅行先に修善寺を選んだ理由は木想庵があるからに違いなかったが、最後の旅行に時雨一人だけを連れ出した理由は分からない。
 もし仮に時雨に渡すつもりだったスケッチブックが何かしらでも関わっているのだとしたら、せめて小冬自らが雑木林の存在を時雨に教えなければならない筈だった。
 けれども時雨のスケッチブックへのこだわりは、伯母である小春のスケッチブックの存在を思い出した秋子が、それを時雨に伝えた事から始まっている。
 秋子がその事を思い出したのは気まぐれに近い偶然にしか過ぎず、もしそれがなければスケッチブック自体何一つ謎めく事がなかったわけで、時雨が雑木林の存在に気付いたのも単なる偶然であり、スケッチブックの出自に強い興味を持つ事も単なる偶然でしかなかったのである。
 そもそも小冬がスケッチ場所をこの雑木林だと知っていたのなら、それを描いた人物について何も知らない方のはむしろおかしいと秋子は考えていた。
「ママはてっきりお婆ちゃんがこの場所に案内してくれたんだと思っていたから」
「ううん、確か三日目くらいの朝だったかに私が起きたらお婆ちゃん一人でどっかに出掛けちゃってて、なんか昼頃まで戻らないってメモが残ってたの。だから暇つぶしに旅館の中を散歩してて偶然見つけちゃったんだ」
「そうだったの」
 秋子は納得したように頷いた。
「まあ、時雨にしてみれば重要なのは、あの鍵なわけでしょ?」
 秋子の問いに時雨はバツの悪そうな表情を浮べて頷いてみせる。
「スケッチブックに描かれていたのがこの場所なら、あの建物の中に鍵の使える場所だってあるかもしれないって……」
 そう言って時雨は洋館を指差(ゆびさ)した。
 鍵がスケッチブックと一緒に渡されている以上、考え方としてはもっともだと秋子は思った。
「ところであそこって一体なに?」
 洋館を眺めながら秋子が尋ねる。
 木想庵に関係する場所とは言え、香津子や伊納からまだ何ひとつ建物に関する詳しい話を聞かされてはいない。
 周囲の手入れの様子から見て誰かしら住んでいるだろう事は秋子にも容易に想像がついた。
「何って?」
「誰か住んでるんでしょ?」
 当然のような口ぶりでそう尋ねる秋子に時雨が驚いてみせる。
「えっ? 誰も住んでないんじゃないの?」
 よもやの娘のその反応に秋子も驚いた。
「えっ、そうなの?」
 再び聞き返す母親に時雨が首を傾げて返す。
「ちゃんとは知らないけど、誰も住んでいる感じはしなかったから……」
「嘘でしょ?」
 秋子はそう言って訝しげな表情を浮べた。
「もうちょっと近くまで行ってみましょ」
 時雨の言葉を自らの目で確かめようと洋館に向かって歩き出す。
 宿に戻って香津子達に尋ねればすぐに分かる事だったが、時雨が言う人気(ひとけ)のない雰囲気は秋子自身も遠目から見て多少なり感じている部分がない訳ではなかった。
 しかしそうだとすれば実態にそぐわないこの庭の手入れ具合は一体何なのか……。
 秋子は自分の目で何かしらその理由を確認したいという衝動に駆られていた。
 決して緩やかとは言えない傾斜地には煉瓦積みの花壇が幾つも並び、来る途中に歩いてきた雑木林の遊歩道とは違って、敷石の並ぶ小路(こみち)が洋館に向かって二人を(いざな)うように続いている。
 秋子が小路に一歩足を踏み入れると、それまで山の景色の一部だった風景が一変した。
「坂庭って名前、なんだかピッタリね」
 香津子の口にしていた言葉を思い出して秋子が言った。
 洋館が近づくにつれ周囲の雑木が視界から姿を消してゆく。
 煉瓦積みの花壇には沢山の種類の多年草が花を咲かせていて、所々に遅咲きのチューリップなども咲き誇っていた。
「宿の庭なんかより私はこっちの方が断然好き」
 後ろを行く時雨の言葉に秋子が苦笑(くしょう)しながら言う。
「あっちは建物自体が和風だし仕方ないわ。むしろ時雨の年齢(とし)で向こうが好きって言われたら、そっちの方が変よ」
「だって向こうは色が地味なんだもん」
「ふふふ、それは確かに」
 秋子も笑いながら頷いた。
 距離にして五十メートルほどの小路を抜け、二人が洋館の前に辿り着く。
 下で見ていた建物脇の池は、実際に近くで見ると傾斜地に上下(じょうげ)二段(にだん)に分かれていて、建物に近い上段の池から下段に並ぶ池に向かって水が流れ落ちる人口の池である事が分かった。
 池の脇には枝ぶりの良い幹の太さのしっかりとした木が一本だけ立っていて、その木陰には木を真ん中に挟むようにして二脚のベンチが並び置かれている。
「ホントに誰も住んでいないのかしら?」
 二人が立つ位置から見える窓は全てカーテンで遮られていて、中の様子は全く伺えそうにない。
「初めて来た時はかなり長くここに居たんだけど、その時も誰かが出てくるとかって無かったよ」
「確かに人気(ひとけ)を全く感じないわね」
 洋館の中の気配を伺いながら秋子は思った。
(なるほど、『六角』ってそういう事だったのね)
 目の前の洋館を香津子が『六角館(ろっかくかん)』と呼んでいた事は覚えていたが、実際の建物を目の当たりにして、その名の理由をすぐに理解する事ができた。
 二階建ての洋館は山中(さんちゅう)に建てられているとは思えないほどの大きさで、その外観も建物の大きさにそぐわぬ立派なものだった。
 場違いな洋館の大きさもさることながら、秋子がすぐに気付いたのは建物の外壁角度に対するその違和感だった。 
 大き過ぎて建物全体を視界に収める事はできそうになかったが、見晴台(みはらしだい)と思しき二階部分を見る限り、恐らくは上から見た時に正六形の形をしているであろう事は秋子にも容易に想像がついた。
 予め香津子の口から『六角館』という名前を聞いていたせいもあるが、恐らくは一階部分も二階と同様、正六角形の形をしているのだろう。
 木想庵同様、外観のデザインには少し古臭い印象を抱く感じが否めなかったが、庭の手入れ具合同様に建物の手入れもしっかりと施されているのが傍目にも見てとれ、色褪せた様子のない木造の壁もしっかりと塗装し直されているな佇まい。
 けれどもこれほどまでにしっかり手入れがされているのに人が住んでいないとは一体どういう事なのか。
 間近に洋館を見上げる秋子は、湧き上がる疑問にうんざりした。


 観光客向けの陶芸体験に夢中になってしまった誠吾が一人遅れて宿に戻ったのは、秋子と時雨が雑木林に向かって三十分ほどが経過した頃だった。
 部屋に戻った誠吾は座卓の上に残されていたメモを見て口をあんぐりとさせた。
「抜け駆けはズルいなぁ」
 苦笑いを浮かべて呟くようにそう言うと、困ったように後頭部をポリポリと掻く。
 スケッチブックの話をするのを秋子が嫌がる事は時雨もよく分かっている。恐らく洋館へ行こうと言い出したのは秋子の方からに違いなかった。
 今から二人を追いかけたとしても下山する二人と鉢合わせする可能性の方が高いと考えた誠吾は、二人を出迎えがてら石庭の景色でも眺めようと部屋を出た。
 廊下に出た瞬間、近くの窓際で二人並んで石庭の景色を眺めている老夫婦の姿に気付いた。
 すると老夫婦も誠吾に気付き、男性の方から微笑みながら頭を下げてくる。
 誠吾は軽くお辞儀をして返すと、そのままロビーの方へ向かって歩き出した。
 三人が出掛けた午前中は出発する客の姿もあって廊下も賑やかだったが、今は人の気配も殆どなく静かだった。
 恐らく泊り客の多くは外出したまま戻っていないのだろう。
 もともと部屋数が多い訳でもなく、泊り客の中に小さな子供のいる家族連れの姿を全く見かける事もなかった。
 はしゃぐ子供達の声はもちろんの事、夜半に酒席を交える泊り客の喧騒すら無い閑静な宿だった。
 女将の話す一見客からの予約を取っていないというのは、そういった静かな時間こそを愉しみたい常連客が多いせいなのかもしれなかった。
 だからといって、そんな木想庵の落ち着いた雰囲気が誠吾達にとって居心地の良いものであるかどうかはまた別である。
 誠吾にしてみれば義理の母が妻や娘に残していった宿であり、秋子や時雨にしてもゴールデンウィークを過ごすならば木想庵以外に行きたい場所は他にもあった。
 小冬にとって思い入れのある場所だったとしても、秋子や時雨がそう思えるかどうかはこれから先の話である。
 楽しげな様子で会話していた老夫婦の姿を思い浮かべながら、木想庵で過ごす時間をあんなふうに心から愉しむには、誠吾達の年齢ではまだ少し早いような気がしていた。
 受付に鍵を預けて玄関を出る。
 玄関の左手脇に石庭へと続く小道を確認し、こじんまりとした庭の間を抜けるように進むとすぐに広々とした石庭に出た。
 石庭を見渡す事の出来る建物の廊下は、実際には地面よりもかなり高い位置にあり、その廊下から外に出て景色を眺める事の出来る屋外バルコニーが廊下と併走する形で建物の手前から奥へと向かって直伸していた。
 もちろんバルコニーもそれを支える太い梁も石庭の景観を何ら崩す事のない立派な造作(ぞうさく)が施されていた。
 植栽の殆ど無い枯山水とは言え、庭内の奥向こう、茶室の建てられている小高い場所には遠目から眺めても枝ぶりの良さが充分に分かる樹木も立ち並んでいる。枯葉舞う季節ともなれば管理の手間も相当なものなのだろうと下世話な想像をしつつ、眼前に広がる白砂の意匠に誠吾はすっかりと感心させられていた。
 助教授として大学に通う誠吾にとって旅館の経営などまるで専門外の分野ではあったが、人手(ひとで)や手間をかけない事が時流の世にあって、たかだか十数室程度の宿といえどもこれだけの建物や庭を管理していく事が並大抵でない事ぐらいは容易に想像がつく。
 果たしてそれが小冬の経営手腕によるものなのかどうかは定かではなかったが、誠吾が実際に泊まってみて感じたのは、秋子の託されたものが必ずしも家族にとって重いものだけではなさそうだという安堵にも似た感覚だった。
 石庭の景観を右手に眺めつつ、建物に沿って続く敷石の上を奥へと進んでいくと、位置的には自分達の泊まる部屋の辺りで誠吾は立ち止まった。
 歩いてきた道の先、つきあたりで立ち止まった誠吾の目前には草薮がその行く手を遮っている。
 無造作に放置されたものではなく、恐らくは菖蒲やらあじさいやらが開花の状態を考えて見栄えよく植栽されているのだろう。
 この先に続く小路の存在を知らなければ草薮の中に縦垣(たてがき)が隠されている事には誰も気付かないだろうと誠吾は思った。
 秋子と時雨は今はこの草薮の向こう側にいる。
 それ以上先には進むつもりも無かったが、単なる興味から縦垣(たてがき)の場所を探してみようと草薮に手を伸ばす。
 その時だった。
「奥さん達はまだ戻られておらんようだね」
 誠吾は頭上から不意に声をかけられて思わずビクリと両肩を上げた。
 振り返るようにして声の聞こえてきた方向を見上げると、誠吾の視線の先にはバルコニーに立ってこちらを見下ろしている初老の男性の姿があった。
「上からで大変失礼するが、霞上誠吾さんだね」
 唐突に自分の名を呼ばれてたじろぐ誠吾だったが、つい今しがた廊下でお辞儀を交わした相手である事にすぐに気付いた。
 宿の従業員ならばともかく、初対面の客同士であるはずの相手が自分の名を口にした訳についてもすぐに思い当たった。
「もしかして今晩会う……?」
 見上げた姿勢のまま誠吾がそう尋ねると、相手の男性もコクリと頷いた。
「伊納忠常と申します」
 秋子の口から何度か聞かされていた名に誠吾も頷く。
「先ほど廊下ではどうも」
「晩冬の間から出てこられたのを見て霞上さんだろうとすぐに察したのだが、すぐ傍に妻もおったので挨拶は控えさせて頂いた次第」
 そう言って伊納はニコリと微笑んだ。
「そうだったんですか。申し遅れましたが僕は秋子の夫で霞上誠吾と申します」
 誠吾は上に向かってペコリとお辞儀をしてみせた。
「ご一緒には行かれなかったのかな?」
「洋館に……という事でしょうか?」
 伊納の質問に誠吾は草薮の奥を指差して尋ね返した。
 伊納が黙って頷くの見て、誠吾は苦笑いを浮かべながら言った。
「ええ、どうやら置いてけぼりを食わされてしまったみたいで……。本当は私も見てみたかったのですが、昼間に行った虹の郷で陶芸体験に夢中になってしまって妻達とは別行動を取っていたんです」
 誠吾は照れくさそうに頭を掻いてみせた。
「陶芸体験というと、確か匠の村でしたかな?」
「ええ、そんな感じだったと思います」
 誠吾は自信なさげに頷く。
「ふむ、……修善寺に来るようになって長い事なりますが、お恥ずかしい事に私自身は一度も体験した事がありません」
「いつでも行けると思う場所へは案外と足が遠くなるものですからね」
 誠吾の言葉に伊納も深く頷いた。
「……ところで霞上さん、少しお時間はおありかな?」
「私ですか? ええ、妻と娘が戻るのをここでのんびり待っていようと思っていたので今は特には……」
「いずれは霞上さんともお話ししたいと思っておったのだ。ちょうど良い機会だし霞上さんさえ良ければどうかな?」
 伊納の思わぬ誘いに誠吾は少しだけ悩んだが、そうある機会でもない。
「実はこうして見下ろして話すというのが、どうにも性分に合わんようで」
 そう言って伊納は笑顔を浮かべた。
「分かりました、では僕の方からそちらに伺いますね」
 そう言って宿の中へ戻ろうとした誠吾を伊納が制した。
「いやいや、せっかく天気も良い事だし庭に出て話をしよう。館内だと戻ってきた娘さんに私を一緒のところを見られてしまう恐れもある」
 誠吾達が娘である時雨に木想庵の件を一切話していない事は伊納も事前に秋子から聞かされて知っていた。
「五分ほどしたら向かうので、あそこに見える茶室近くで待っていてはくれないかな?」
 そう言って伊納が茶室の建てられている場所を指で指し示す。
「分かりました」
 誠吾がそう返事をして返すと、「では後ほど」と言い残して誠吾の前から姿を消した。


「やあ、急なお願いをして済まなかったね」
 少し遅れて茶室前に姿を現した伊納は、先に来て待っていた誠吾にそう言って声をかけた。
 茶室は小高く起伏した場所のてっぺんに建てられていて、近づいてみるとそれほど大きな建物ではなかった。
 使われていない今は縁側の戸板がしっかりと閉じられていて中に入る事は出来そうにない。
 伊納にしても中で話すつもりは最初から無かった様子で、二人は揃って茶室の縁側へと腰を下ろした。
「この宿に関しては夫である霞上さんにとっても少なからず関わりのあることでしょうから、私としてもあなたの人となりを多少なり知っておきたいと思っておったのです」
 伊納の言葉に誠吾も頷いた。
「ええ、そうですね。この宿の件で積極的に口を出すつもりは僕にはありませんが、秋子に対しては何かしら僕の協力が必要になったとしても多少なり理解しておかないと何もしてあげられなってしまいますから」
「ふむ、そのお考えは秋子さんにとっても非常に心強いといったところでしょうな」
「残念ながらあまり役には立てていないようで……、今のところは緑想館の事ですら相談に乗れる機会が無い有様なんです」
 誠吾は自嘲気味にそう言った。
「彼女は自分自身の考えをしっかりと持っているタイプなので、恐らくはこの宿の事も彼女なりに対処していくつもりなんだろうと」
「今までに二度ほどお会いしたなかでは、確かに霞上さんの仰るようなお人柄を私自身も感じてはおりますな」
「娘だけあってそういうところは母親に似るものなんでしょうか?」
 誠吾が尋ねると伊納は口元に笑みを浮かべた。
「霞上さんに残る小冬様への印象がそうなのであれば、きっとその通りなのでしょう」
 伊納の言葉を聞いた誠吾は、何か奥歯にものでも挟まっているかのような物言いに感じた。
「と言うと?」
 真意を探るような誠吾の眼差しに伊納が口を開く。
「あの方ははあまり公私の別を私達の前で見せる事が無かったのものでね。しかし今の秋子さんは何よりもまず宿に関わる私達への責任を大きく感じていらっしゃるご様子……、それというのはつまりはご自分のお気持ちを優先させているわけではないという事になるでしょう」
 言われてみれば確かに伊納の言う通りだった。
 二年前に緑想館の運営を小冬から引き継いだ際にも秋子が引き継いだ事で周囲に与えるやもしれぬ悪い影響ばかりを心配していた事を思い出した。
「こういったものを責任感だけでやっていくのは辛いだけですからね」
 伊納の言葉に誠吾は深く頷いてみせた。
「まったく仰る通りですね」
「経験上、こういう事は私や女将が言うよりは霞上さんのような立場の方が分かっていたほうが良かったりするものでしてね」
 台詞の意味を理解した様子の誠吾を見て伊納は少し安心したような表情を浮べる。
「時にどうですかな、木想庵に一晩泊まってみての感想は?」
「素敵な宿だと思います」
「そうですか」
 伊納が満足そうに頷く。
「ただ、こういう静かな雰囲気だと僕らのような若い家族連れは多少なり気疲れしてしまう部分を感じてしまいますね」
 誠吾はあえて思ったままの感想を口にした。
「一見したところ泊り客の殆どは伊納さんのような世代の方が多いようですし、一見(いちげん)での予約を取らない事も女将さんから伺っていましたから、客層的には他の旅館などと比べると多少なり偏っているのかなぁと」
 幾分否定的にも受け取れる誠吾の言葉にも伊納が表情を変える様子はない。
「この宿は部屋の数が少ない故に雰囲気を大切になさるお客様しかお泊り頂いておらんのです。いかんせん建物のデザインや設備的な部分を考えると年齢的には私らのような世代が自然と多くなってしまうんでしょうな」
「僕や秋子がこの宿の風情を心底から愉しめるようになるには、もう少し人生経験が必要なのかなぁと」
 冗談めかした口調で誠吾がそう言うと、伊納が目を閉じて小さく首を横に振った。
「それはあくまで客としての立場であって、秋子さんにしても霞上さんにしてもそのように難しく考えておっては早晩気疲れしてしまう」
「確かに少し気疲れしてる感は否めないかもしれません」
 伊納の指摘に誠吾は正直な心情を吐露してみせた。
「ここがまだ別荘だった当時、修禅寺に少しずつ増え始めていた観光客に枯山水の庭園を自由に観賞できるようにと開放し始めたのがそもそもの始まりだったと聞かされておりましてな、次第に園内で茶席を設けたり調理人を呼んで懐石料理を振舞ったりと、そんな事をしている内にいつしか宿として部屋をお貸しするようにもなっていったらしいのです」
「別荘としてはかなり古くからこの場所に建てられていたそうですね」
「最初の建物自体は明治の中頃に建てられていて、土地の所有者が何度か変わっておるようです。戦後間もなくは長野の資産家が所有していたと聞かされておりました」
「あの洋館もその頃から?」
 誠吾は絶好の時機とばかりに洋館について尋ねた。
「洋館とは修繕様……ではなく六角館の事ですな」
「ええ、先ほどの、あの草薮の向こうにある……」
「あの建物についてはあまりはっきりとはせんでしてな、ついさっき話した長野の資産家がこの土地と建物を買った時とほぼ同時期に建てられておるようです。女将や私があの洋館について知っておる事は実のところあまり多くはないんじゃよ」
 伊納の台詞は、尋ねた誠吾を必ずしもがっかりさせるようなものではなかった。
 むしろ誠吾自身はその可能性もあるのではないかと当初から踏んでいた。
 伊納や女将の香津子が洋館について何も知らないという事になれば、自ずと洋館は小冬ひとりが深く関わっていた場所ということになる。
 時雨の受け取った鍵と洋館とに何かしらの繋がりがあると仮定して、意味有りげとも取れる時雨への鍵の渡し方が小冬にとって紛れもなく何かしら意図されたものなのだとすれば、不特定多数の人間が無差別に関わるような場所はむしろ適当ではない。
 使う場所の分からない鍵、行方知れずの二冊のスケッチブック。木想庵を含めて小冬に縁のあるそれら全てに何かしら不透明な点が存在しているのであれば、今は多少なり大袈裟に勘繰ってみるのも、ひとつの手だろうと誠吾は考えていた。
「あまりご存知じゃないというのは……」
「秋子さんから聞いてご存知だとは思うが、私は主に旅館の庶務的な部分を見ておって、運営一切は基本的に女将がひとりで取り仕切っておる。しかしながら私ら二人が最初からその役目を御領の旦那様に直接頼まれていたわけではなくてな。二十年以上前は私自身が今も役員を勤める建設会社の先代社長が今の私の役目を受け持っておられて、女将自体も実の母親である先代の女将さんからその役目を引き継いでおるんじゃよ。つまり、秋子さんをこの木想庵の三代目のオーナーとして数えるならば今の私らは役回りとしては二代目であって、修繕様の……ではなく六角館を含めて当時からの事をご存知なのは引退した大女将の志津子さんだけというわけなんじゃ」
「そうだったんですか」
 伊納の説明に誠吾は深く頷いてみせた。
「ちなみに先ほどから何度か洋館の名前を言い直されていらっしゃるようなんですが、何かあるんでしょうか?」
「ああ、すまないね。六角館が本来の正しい呼び方らしいんじゃが、匂坂の会長や大女将は何故か修繕様の館と呼んでおったもので、私にとってもそっちのほうが馴染みが深いんじゃよ」
「シュゼンというのはこの修善寺温泉の?」
 誠吾の問いに伊納は首を左右に振った。
「ゼンの字はこの温泉に使われている字とは違うくてな、てっきり私もそうだとばかり思っておった」
「違うんですか?」
「ある時に匂坂会長が私宛てに残したメモを見て、初めて糸へんに善悪の善という文字を使ったものだと知ったんじゃよ」
「糸へんに善悪の善……ですか」
 誠吾は頭の中で漢字を想像しながら頷いた。
「やけに呼び名を気にしておるようだが、何か思うところでもあるのかね?」
 伊納の質問に誠吾は笑顔を浮べて返す。
「い、いえ、何度か言い直しているのが気になっただけです」
「あの館については日頃からその名を口にする機会も少ないものでな、尚更のこと馴染みのある呼び名がすぐに口から出てきてしまう」
「なるほど、そこについては良くわかりました」
 そう言うと、誠吾は伊納に向かって満足げな表情で頷いてみせた。
「あと、洋館には誰も住んでる様子が無いと娘が話していたのですが」
 六角館について更に質問を重ねようとする誠吾に伊納が苦笑する。
「秋子さんといい娘さんといい、お三方ともやけにあの館に興味を持たれてるように見受けられますな。しかし、確かに今は誰にも使わせてはおらんようです」
 伊納に図星をつかれた誠吾は内心あせりつつも表情には出さなかった。
「聞けば宿からは随分と遠くにあるんですよね? でもそこに誰かが住んでいるわけじゃなく、かといって宿泊客にすら見せてない山の中の庭の手入れを続けるというのはさぞかし大変な御苦労だろうと……、そんな他人勝手な心配から少し気になってお聞きしただけの事なんです」
「ふむ、そこに関しては私も女将も霞上さんと同意見ではある。だからといって手入れを止めてはならん理由というのもありましてな」
「止められない理由……ですか?」
「左様。但し、そこについては話すべき順序というものもありましてな、気になるのであれば秋子さんの口からからお聞きになられるのが良いだろう」
 自らの立場をわきまえたうえでの発言なのだろうか。
 急に口を閉ざそうとする伊納の様子を見て、誠吾の中にスケッチブックや鍵の時と似たような感覚が蘇る。
「伊納さん」
 誠吾は伊納に向かって真剣な表情を浮べてみせる。
「なんでしょうか?」
 わずかに気色を変えた誠吾の表情に伊納もすぐに気がついた。
「少しおかしな質問になってしまうかもしれませんが……」
 そう前置きをして誠吾は言葉を続けた。
「木想庵の存在を秋子が最近まで知らされていなかったのはお二人ともご存知だろうと思います。もちろんそれには御領のお母さんなりの理由があったんだと彼女自身は理解してるんですが納得はしていませんよね」
「ふむ」
 伊納は真剣な面持ちで耳を傾けつつ誠吾の言葉に短く相づちをうった。
「僕が少しだけ不安に感じているのは、伊納さん達との話が終わった後で秋子がまた何かしら重い宿題を抱えてしまうんじゃないかって事なんです。現に今聞いた庭の手入れの話だって、伊納さんや女将さん達ですら理由を知っていても納得はしていない感じの言い方に聞こえました。その話だって今のこのタイミングで僕に匂わせるくらいですから、話の中身の重さとしては相当に軽いほうなんだろうと想像してしまいます」
「ふむ」
 伊納は再び短く相づちを打った。
「変な言い方ですけど、宿題……とでも言ったところでしょうか。お二人との話が終わって彼女が色々と宿題を抱える事になっていなければ、僕としても安心して旅館の雰囲気を愉しめると思うんです。もしかしたら答えづらい質問かもしれませんが、その辺のことはどうなんでしょうか?」
 誠吾がそう言い終えると、伊納は黙りこくって何かを考え始めた。
(やはりこの宿にも何かしらある……)
 即答出来ない伊納の様子を見て、誠吾は心の中でそう確信した。
 単なる財産相続や経営権の承継だけでは終わらない話のような気がし始めていた。
「そのご様子を見る限りだと、やはり御領のお母さんが秋子に内緒にしていたのには何かしら複雑な事情があるようですね」
 誠吾はあえて核心をつく台詞を口にしてみせた。
 しかし伊納は何も答えようとはせず、難しい表情を浮べたまま目を閉じて何かを考え続けている。
 誠吾は言葉を続けた。
「僕自身が秋子よりも先に知りたいと言っているわけではありません。ただ秋子が何かしら思い悩む可能性があるのだとすれば、そうなる事を予め知っておきたいってだけの事なんです」
 尋ねた本人の前で伊納がじっくりと考えをまとめているのは、何かを悟られまいと悩んでいるのはないと誠吾は想像していた。
 恐らくは誠吾の尋ねた通りである事をどう伝えるべきかで悩んでいるに違いなかった。
「霞上さん」
 伊納がようやく口を開く。
「はい」
「正直を言うと、私自身は霞上さんと話していて非常に安心しておるんです」
「安心……ですか?」
 突拍子もないそのひと言に誠吾が伊納の表情を伺い見る。
「左様、安心です」
 自らが口にしたその言葉に納得するかのように伊納が頷いた。
「わずか十数室程度の旅館といえども土地や建物の資産価値はそこそこにある。ところが秋子さんもそうなんじゃが、霞上さんにしてもそこいら辺について何一つ尋ねてはこられん。つまりは宿の事を自らの利益としてまるで捉えておらんと私からは見てとれる訳ですな」
「はあ……」
 伊納の話に誠吾はぼんやりとした返事をして返した。
「霞上さんもご存知の通り、小冬様は木想庵を売却するも自ら経営するも秋子さんに判断の全てを任せると仰られていた」
「ええ、僕も秋子からそのように聞かされています」
「つまりは売る判断をすればそれなりの金額を遺産として受け取る事のできる立場にあるわけですな」
「はあ……」
 間の抜けたような誠吾の反応に伊納が苦笑いを浮かべる。
「ほれ、そこです。霞上さんの見せるそういった態度に私は安心を覚えておるのです」
 伊納にそう言われて誠吾は困惑気味の表情を浮かべた。
「すみません、先ほどから伊納さんが何を仰りたいのかが僕にはさっぱり分からないんですが……」
 誠吾のその言葉に伊納が苦笑いを浮かべる。
「何ら思い入れの無い宿なれば、単なる財産として見るのが人としては当たり前。しかし私や女将、宿の従業員達にとってみれば木想庵は守りたい場所であり、今となっては私達はその全てに愛着を抱いておる」
「ええ、この宿は本当に風情があって庭も建物もきちんと手入れされていて……泊まってみると、宿を守る皆さんの思いがとても良く伝わってくるような気がします」
 誠吾はそう言って石庭を挟んで見える木想庵を眺めつつ頷いた。
「……さて、先ほど尋ねられた件についての答えじゃが、実のところを言うと、この宿には少しばかり秘密がある」
 意を決めた伊納が最初に発したのは、誠吾にとっても思いがけず核心をつく言葉だった。
「秘密……ですか?」
 伊納の思惑をどう受け止めるべきか判断に迷う誠吾は思わず戸惑いの表情を浮べる。
「それについて知っておるのは小冬様と私と女将、あとは大女将の志津子さん以外に顧問弁護士の五人だけしかおらん」
 伊納の話は誠吾の想像していた範疇を大きく超え、ついには弁護士という言葉まで飛び出してきた。
 もう行方不明のスケッチブックや鍵どころの話ではない。
「べ、弁護士ですか?」
 戸惑う誠吾に向かって伊納は真剣な表情で頷いてみせた。
「私や女将が秋子さんに今晩お話ししなければならないのは、まず何よりもその秘密に関する事でして、聞けば秋子さんは小冬様からは何ひとつ聞かされていないとの事で、その点については実は私達の方でも少々困惑しておるのです。そして……」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 伊納が言葉を続けようとするのを誠吾は慌てて制止した。
 伊納の話しぶりから見て、かなり深い内容についても誠吾に話そうと覚悟を決めている様子が充分に伺い知る事が出来た。
 このまま黙って聞いていれば、恐らくは秋子が聞くよりも先に誠吾が殆どの事を知ってしまうのは間違いがなさそうだった。
 成り行きとはいえ、それを知った秋子が誠吾を責めることはないだろう。
 話しを聞き続けるかどうか思い悩む誠吾の様子を伊納は静かに見守っている。
 たかだか十数分程度の会話であろうとも、誠吾自身が伊納に対して疑念を抱くような瞬間は一度としてなかった。
 むしろ秋子にとっても安心して信頼すべき人物だろうと感じていた。
 伊納が悩んだうえで誠吾に話そうとしている事には何かしらの意味があるに違いなく、これから先に待ち受ける状況を何一つ予測出来ない立場に誠吾達がある以上、今はとにかく伊納を信頼して流れに身を任せた方が良いのかもしれなかった。
 今のこの状況ならば夫婦二人揃って伊納や女将から話を聞くという選択肢が増えてはいるが、何も知らない時雨をひとりきり部屋に残せば変に勘繰られる可能性が高い。
 自らの中で決断をすべく、誠吾は恐る恐る伊納に尋ねた。
「秋子から後で聞くよりも直接伺っておいた方が良いようなお話ですか?」
「私としては霞上さんから尋ねられたからお伝えすると決めたまでの事。秋子さんからの又聞きでも良いが、話を聞いていて霞上さん自身が疑問に思う部分もまた秋子さんと同じではなかろう?」
 確かに伊納の言う通りだった。
 後で秋子から又聞きしたとしても、誠吾の中で疑問が生じた部分について伊納や女将の香津子に聞かなければ即答できない部分も必ず出てくるに違いなかった。
 数分前、わざわざ自分の方から質問した事を誠吾は少しだけ後悔した。
 誠吾が色々と尋ねるだろうと考えるのは秘密が決して単純な中身ではないという厄介な理由からきているものであり、弁護士という存在が出てしまっている以上、恐らくは法的な事柄についても伊納の口から語られるに違いなかった。
 伊納が再び口を開く。
「女将の香津子さんについては分からんが、私自身は秋子さんに秘密をお伝えするかどうかの指示を小冬様からいただいてはおらず、さらに言えば誰に対して隠すべきかですら、この立場を承った時分より誰かから明確に指示されてはおらんのです。先代となる匂坂会長から言われた判断の基準はただひとつ。土地と建物を守る為の事を成せと……。霞上さんにはこの意味がお分かりになるかな?」
 そう尋ねる伊納の口元にはわずかに笑みが浮かんでいた。
「守る為の事を成せ……、それってつまりは僕に今話す事が伊納さんにとっての正しい判断になるという事ですか?」
 誠吾のその言葉に伊納は満足げに頷く。
 伊納の様子に誠吾は苦笑いを浮かべた。
「伊納さんもひどい方ですね、そんな話を先にされてしまったら……」
「誰も霞上さんに守れとは言っておらんよ。心配せんとも木想庵には誰も手出しなど出来ん、それは昔から既にそういう仕組みになっておる」
 伊納の言葉を聞き、誠吾の頭の中に再び弁護士の影がちらつく。
 誠吾はポケットから携帯電話を取り出して時間を確認した。
「先ほど廊下で一緒だったのは伊納さんの奥さんですか?」
「ん? ああ、そうだよ」
「僕の方はこのまま話を続けても構わないんですが、奥さんは宜しいんですか?」
「ああ、今はまだ大女将と一緒だろうからね」
 携帯電話の時間は午後4時を少し回ったところだった。
 秋子や時雨が戻ってきても、その様子は誠吾の居る場所から確認できるはずだった。
 誠吾は伊納に向き直ると大きく頷いてみせる。
 伊納も同じように頷いた。
「では続けようか」
 伊納はそう言って話し始めた。

鬼灯館シリーズ「憧憬の杜編」

鬼灯館シリーズ「憧憬の杜編」

  • 小説
  • 長編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-02-10

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