冬枯れのヴォカリーズ

冬枯れのヴォカリーズ

理美は、都内の女子大に通う、ごく普通の女子大生。
今まで、ごく普通の大学生の生活を描いた小説って少なかったと思います。

この小説では、大学生の生の姿を写し出しています。

どうぞ、お楽しみください。

  
   小説 「冬枯れのヴォカリーズ」 Vol.1      (全vol.32)


 つんとした青空に黄色の葉が映える、私が一年中で最も好きな季節がやってきた。
 教室の窓から見えるその欅の大木に、よく見ると、先程から三羽のシジュウカラが枝に止まって、くちばしをつつき合っている。

「一羽はヒナかな?今の季節にしては珍しいな…」

 などと、ぼんやり思いながら黒板に目を移すと、教科書は既に二ページ進んでおり、慌ててシャープペンを走らせる。

「P141 7.2.1 シュレディンガー方程式の不変性…」

 正直言うと、量子力学2の授業は、もはや私の頭では考えられない、それこそ雲をつかむような内容になっていた。

 今に始まったことではない。大学一年の頃は、まだ高校の延長のようで、力学にしろ、物理学概論にしろ、微・積分にしろ、なんとかくいついていくことができた。いや、物理学概論ではA+までもらったし、自分は数学・物理の分野で一角の人間になれるんじゃないか、など大それた考えもしたものだった。

 それが二年になると電磁気学でつまずき、今、三年の後期となって、この量子力学2の授業は、退屈以外の何ものでもなくなっていた。
  しかし、こうして、内容は分からずとも、とりあえず出席して、窓の景色を眺めている、こんな時間が実は嫌いでもなかったりする。
                            

  「理美、お昼どうする?」

 授業が終わり、ザワついた廊下で奈歩が聞いてきた。

「うん、三限空きだから坂下って食べてくるわ。奈歩も行く?」

「もち!」

 高木奈歩とは大学一年からの大親友で、時間割もほとんど一緒なのでこういうことができる。それに対して緑…永井緑は、数学を専攻したので、三年になってめっきり時間が合わなくなってしまっていた。

 私の大学は東京の文京区、目白台という所に建っている。私のいる理学部は、数学・物理系と化学・生物系、二つの学科があり、私たち三人はいずれも前者だ。

 この周辺には学校が多い。坂を下ると早稲田大学があり、奈歩と緑と私は、インカレの『ベジェッサ西早稲田』というフットサルのサークルに、一年の時から所属している。

 だから、松崎大志のことも、奈歩と緑は、私たちが付き合い始めた頃からよく知っている。

 松崎とは、一年の四月に新歓コンパで知り合って以来、その夏ぐらいからは、もうサークル公認の仲になっていた。同じ三年生だ。

 松崎は、東京のど真ん中で生まれ育ったのに、すれたところがひとつもなかった。彼ほどにピュアな人間を、私は今まで見たことがない。自宅は白金台にある。南仏を思わせる白い壁とオレンジ色の屋根のマンションで、黒ねこがいる。名前は「ルル」という。

 松崎のお父さんは、山梨のぶどう農家の長男だそうだ。東大出で、なんでも半導体技術の開発で成功したということだ。
 お母さんは、浜松出身で、お父さんがヤマハの重役だったらしい。自宅で、ピアノの先生をしている。リビングに置いてあるグランドピアノは、結婚する時に親に買ってもらった、いわば嫁入り道具だ。

「ルルはいつもはりきって、近所をパトロールしているんだ」

 そんなことを松崎は、目をきらきらさせて、私に話す。


 私は、自分の大学から坂を下りて早稲田大学へ行く、そのほんの十分ぐらいのコースがとても好きだ。学校を『束縛』と例えるならば、ベジェッサ西早稲田は『解放』だ。

 奈歩との他愛もない会話も、この爽やかな秋空の下では、最高に気分がいい。

 坂の上から見えるマンションの中庭には、遅咲きのコスモスが一斉に咲き誇り、松の木には、大きな松ぽっくりがなっている。ほんとにここは東京の中心地だろうか、と疑いたくなる、そんな景色だ。

 坂を下りてすぐのところにドラックストアがあり、奈歩と私はよくそこでドリンクを買う。今日も立ち寄って、奈歩はお茶、私はスポーツドリンクを買い、店を出る。

 二分程歩くと、神田川にさしかかる。神田川沿いの桜の木も、一様に紅葉していて、早くもその葉を落とし始めているが、歩道にも道路にも落葉がほとんど見当たらない。きっと、この辺に住む人たちが、早朝に竹ぼうきで落葉整理をしているに違いない。

 ラウンジに着くと、池上雄一郎と小川修平が、私たちを迎えた。

「待ってました!」

 と、おどけた調子で修平が手を振る。

 修平は、中肉中背で、目は細いが愛嬌があり、髪型は坊主を少し長くした感じで、毛先を立たせているのがトレードマークだ。カラオケ屋でバイトしていて、彼のスマイルでお客さんも増えたとか。
 池上くんは、髪の毛は真っ黒で、耳が隠れるぐらいの長さで、目つきが鋭い。背丈も180近くあり、神楽坂でバーテンダーをしていて、学費も自分で稼いでいるしっかり者だ。

 口に出してこそ言わないが、奈歩は、このサークルでは指折りのマドンナだと思う。男なら、誰しも夢中にならずにはいられない、そんなオーラが奈歩にはあるのだ。身長は152センチしかなく、ぱっちりした二重まぶたで、色白で華奢な体つきだ。相手を自分の領域に踏み込ませない、そこんところに男は病みつきになるらしい。修平は可哀想に、すでに一年の時、振られていた。

 私は奈歩とは対照的で、身長は164センチあり、目は一重で、肌はけして白くはなく、太ってはいないと思うが、痩せているわけでもない。

 松崎はいなかった。少しホッとした。三年になってから彼は、専門の液晶ディスプレーの研究に日夜明け暮れていて、会えるのは多くても週一くらいになっていた。


「なあ、今日は天気いいから大隈庭園で食わねぇ?」

 と修平が提案したので、皆それに乗って、近くのコンビニでサンドウィッチやおにぎりを買って、庭へ向かった。

 大隈庭園は、今日も大繁盛だった。無料で入れる割に、上品に手入れのされているこの庭は、早大生はもちろんのこと、近隣の主婦やシニア層などにも人気がある。

 私たちは庭の中央付近に陣取った。芝生は、もう黄はだ色になっているが…。
 隣には主婦が二人、いずれも一歳か二歳ぐらいの子どもを連れて、立派なお弁当を広げて談笑している。
 前方には、つば付き帽子をかぶったおじいさんがいて、子犬を…あれはマルチーズだろうか…愛おしそうになでている。


「今日さ、オレ大失敗したんだよね。昨日夜遅くまで飲んでてさぁ、二限出席重視なのに遅刻してさぁ、ちょうどオレが教室入った時にオレの次のやつの名前呼ばれてて。なんかついてねえよぉ~」

 修平はいつもこんな調子だ。

「昨日の時点で誰かに代返頼むべきだったね」

 奈歩の意見はもっともだ。

 それからしばらくの間、皆秋晴れの空の下、自分の買ったものをほうばった。

 ふと、池上雄一郎が顔をあげた。

「そういや、永井は元気か?」

「それがねぇ、目白祭終わってからデンマにも来なくなっちゃって。ほら、彼女数学専攻だから授業でも会わなくなっちゃったし…」

 目白祭とは私たちの大学の文化祭の呼び名だ。
 デンマとは、奈歩と緑と私が所属しているデンマーク体操のこと。バレエや新体操やジャズダンスの基礎となったもので、NHKラジオ体操も、実はデンマーク体操が基となっている。

「でも、メールぐらいしてんだろう?」

「出してもさ、返事来ないんだよね…」

 と言って、私はため息をついた。

 「それはやばくないか?いつぐらいからだ?」

 いつもは平静を保っている池上が、珍しく目を見開いている。

「もう一週間経つかなぁ…」

 私たちの間では、ケイタイメールに一週間返事が来ないというのは、相手がかなり忙しいか、単に忘れているか、それでなければのっぴきならない事情があるか、のどれかだ。

「今日、夜電話してみるよ」

 私は、目白祭の発表会の為に、毎日のように練習していた八月、九月頃の緑を思い出していた。その時は忙しかったこともあって、あまり気にはしていなかったけれど、そう言えば緑は八月に彼氏に振られていた。
 それ以来、元気がなかったのは確かだ。緑に限って、メールの返事を忘れるということはまずあり得ないのだ。

 緑の彼氏というのは、緑が大人っぽいせいもあってか、15歳も年上の工藤勇哉と言うやつだった。

 工藤勇哉と緑との出会いの場には、私と奈歩も居合わせていた。

 一年の春休み、三人でフィリピンのセブ島に旅行へ行った時、旅先で知り合ったのだ。
 
 日本でなら、単なるナンパだったのだろうが、ビーチにいた時、ジェットスキーに誘われたのだ。南国の解放感も手伝って、私たちはすんなりと仲良くなった。
 夜もホテルのバーベキューに入れてもらったり、ショーパブなんかにも連れていってもらったりした。
 今にして思えば工藤は、始めから緑ねらいだったのだろう。それなのに最終日、私たち三人全員に、ティファニーのネックレスを買ってくれたのだ。


 急に風が吹き出した。主婦の一人が帽子を飛ばされている。
  私たちは急いで庭を後にして、ラウンジに戻った。  

                                                   (つづく)

冬枯れのヴォカリーズ

 
ご拝読、ありがとうございました。

冬枯れのヴォカリーズ

都内の女子大に通う、理美の、大学生活の日常を描く、恋愛小説。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-10-27

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