『武当風雲録』第一章、五、武当武林大会

『武当風雲録』第一章、五、武当武林大会

李志清が白虎堂堂主銭有生に無残に殴られ、悶々と過ごした。その一ヵ月後、武林盛典が武当派で行われることとなった。しかし江湖各派武林高手が集まるなか、大会は招かざる客によって思いがけない展開に・・・

五、武当武林大会

 一ヵ月後のある日、武当派の中は急に忙しくなった。数日後には三年に一度の「武当武林大会」であり、掌門から弟子まで全員はその準備に取り掛かった。
 新入りの弟子にとって初めての行事で、古参でも数回しか経験したことのない大事な日である。本来武当派派内の行事だったが、武当派の名が江湖に聞こえるとともに、武林江湖の一つの行事となった。
 前日掌門馬忠自ら招待状を認め、少林寺をはじめ、崑崙山蒼鷹幇、泰山古龍派、雲南金槍幇など、武当派に誼のある武林宗派や、江湖に地位のある名門を招いた。
 当日になると、炊事部をはじめ各部門はせっせと働き始めた。辰の時に、早くも来客ありと告げられた。名を聞くと、越龍幇だというので、馬忠は客の招待を弟子に命じて顔を見せなかった。
 越龍幇は数年前に出来た新しい宗派で、その幇主薜雷は、もともと古龍派の弟子だったが、数年前に離派を願い出て人を集めて新しく幇派を作り上げた。
 越龍幇の名を聞いて馬忠は思わず眉毛を寄せた。越龍幇と古龍派との仲が悪いことは誰もが知っている。今回の武林大会では、越龍幇に招待状を送らなかったが、向こうが自らやってきたのである。
 正午時分になり、招待状を受けた宗派の当主は弟子数人を率いて、ぞくぞくとやってきた。
 少林寺聞声方丈が来たとの知らせを聞くや否や、馬忠は程礼、銭有生らとともに正門へ出迎え、中へ案内した。
 客とはいえ、少林寺は江湖で一二の指に入る武功古宗であり、武当派も古くからその恩恵を蒙っている。聞声方丈はすぐに上座へ勧められ、馬忠と並べて座らせた。
 この時、孫貫明は青龍堂の弟子に混じって遠くで見物していた。
 聞声の姿を見ると、彼は急に李志清のことを思い出した。二年ほど前に、李志清は聞声方丈の手紙を持って武当派に来たのだ。
 妙なことに、孫貫明はその時の師匠と掌門が李志清に接する光景を、まだありありと覚えている。自分はいつの間にか李志清を特別な背景を持っている者と思い込んでいた。その背景から嫉妬を感じ、その性格から嫌悪を覚えてもいた。
 そして今、その「背景」が武当派にやって来た。
 聞声は七十歳の高齢でありながら、歩がしっかりしており、底気が漲っている。馬忠とのさりげない会話は遠くまで届いている。
 李志清も見ているのだろうかと孫貫明は思いながら見渡して見ると、道場の反対側にすぐにその姿を認めた。遠くて顔色は見えないが、なにしろ背が高いので、すぐに見つけることが出来た。
 一方李志清はというと、これは決して聞声の来たことを喜んでは居ない。
 幼いころから世話になってきたと母親から言われていたが、自分はちっともその恩が感じられず、むしろ前から聞かされた母親との間の噂が気になって、出来れば聞声を知らないで居たかった。
 それに加え、ついこの間銭有生に殴られた件で、まだ心身ともに痛みが去らず、この屈辱は誰を恨もうかと悔しく思っていたところに、聞声の姿を見ると、何もかも彼に結びつけていった。
 時刻も時刻なので、招待状を受けた派閥は大体集まったと見て、馬忠は席を立って言った。
 「武林先輩各位、今日ご多忙の中、拙派へおいでくださり真にかたじけのうございます。これにより武当派練武大会を始めたいと存じます。」
 馬忠は掌門になってからも、普段からあまり目立つようなことをしない性格である。さすがに今日武林各宗派の前では、意気込んで声がよく通り、かなりの内気を見せている。
 「ご存知の通り、前徐掌門が御姿をお隠れになられて十数年、何かの間違いで拙者は武当派の掌門になりました。各先輩方々の御支えあればこそ今日まで派と共に歩んで来られたわけでございます。――」
 派門が大きくなれば影響力も増してくる。武当派の一挙一動は常に武林江湖の模倣であり、関心の的となっている。このような重荷を数十年背負ってきた馬忠も容易ではない。
 「我が武当派始祖張三豊様が案出なされた太極気法という書は、それまでの武術の至らぬ所を補い、お一人で武林上下誰もが踏み入らない境地に辿っていたと伝えられております。まさに仙人と肩を並べる業である。しかしながら、太極気法は仙人業なるがゆえに、我々のような愚人にはなかなか理解できないものであり、ついに、廃れてきたわけでございます。真に武当派の憾事であって武林の憾事でござる。わたくし武当派掌門としては、一日も早く武術を改進し、かつての武当派を取り戻したい所存でございますが、なにせ知識も乏しく、才能もたりないゆえ、いまだに成し遂げられずにおります。今日武林同士をお招きして、数年来我が派の衆人の武功をお見せし、その長短をご指摘いただければ幸いと存じます。」
 馬忠の一席演説が終わると、演武が始まった。
 最初に、青龍堂、白虎堂からそれぞれ弟子数人が出て腕前を見せる。三年に一度の見せ場であり、みんなが日々から練武に精を出しているのはこの日のためでもあった。
 弟子らの演武は当然程礼と銭有生の顔にもかかわっている。堂から選ばれた精鋭らのみがこの名誉を授けられた。
 だが武当派の者も達人ならが、観戦に来た各々も武術の名手である。弟子らの演武などそもそも目に入らない。最初は関心を装って見物していたが、やがて雑談があちこちから始まった。
 各当主はそれぞれ中原各地に離れているので、数年も顔を会わせていない者が多かった。幇派同士が互いに述懐することも、大会の目的の一つである。
 中でとりわけ活躍しているのは越龍幇の幇主薜雷だった。薜雷は馬忠、聞声から各幇派の当主のところにあいさつして回り、慇懃な態度で言葉を惜しまなかった。
 みなが越龍幇と古龍派との関係を知っているので、良い顔を見せなかったが、さすがに主催者の馬忠はそうは行かず、あいまいにあいさつを返して、いい加減に敷衍した。
 意外なことに、薜雷は古龍派のところにもあいさつに行った。
 古龍派当主、何仁はかつて薜雷の師匠であり、弟子に裏切られた以来、表面では何事もないように見せながら、心の中では、薜雷および越龍幇のことを目の仇と睨んでいる。
 薜雷がやってきたのを見て、そのずうずうしさが憎くてならない。それに、最後になって自分たちにあいさつするのも、暗に古龍派が江湖の下っ端の門派だと言いた気で、また一つ癪に障った。しかし、衆人の前で怒り出しては却って大人気ないので、何仁は無言で手を合わせて礼を返すと、あとは無視した。
 薜雷らが席に戻ると、青龍白虎両堂弟子の演武も一通り終わった。
 続いて両堂主の試合が始まる。
 程礼と銭有生が道場の中に立つと、周りが急に静かになった。二人は徐問亭直伝弟子で、その腕は馬忠にも劣らない。二人の対決は一つの見物である。
 銭有生はさすがにこの日は、酒一滴も口にせず正気で来ている。だが、程礼と比べればやはりどこかだらしなく見える。李志清は遠くからその容子を眺めながら、出来れば程礼の手を借りて一つ懲らしてもらいたいと思った。
 二人は一礼してゆっくりと手を交わしていった。堂主格ともなればその武術は底知れない。一つ間違えば大変なので、二人とも剣を使っていない。
 程礼は真剣な表情で銭有生を見つめた。この師弟は日ごろから不真面目でだらしない格好をしていながら、決して油断できない相手であることを、彼は一番よく知っている。
 二人は一手一手慎重に運び、互いに相手の心を読みあっている。気がつくと百手近く交わした。
 その時、山の遠くから、楽器のような音がかすかに聞こえてきた。
 武当派は市井から離れた山奥にあり、何者かが山へ登って奏でているだろうことも不思議ではない。二人はもちろんそんなことには構わず、ますます試合に集中した。
 そうするうちに、音楽がだんだん近づいてきた。
 よく聞くと、どうも笛音(ふえのね)のようだ。音色が悠長でありながら、だんだん近寄ってきている。その早さからは、どうも普通の歩き方ではなさそうだ。あまりもの美しさで道場の者たちは関心するように耳を傾けた。
 「待て!」
 突然、程礼の声が聞こえた。
 「どうしたんだい。」
 銭有生も手をやめて師兄を見た。
 程礼は答えずに俯いてしばらく何か考えているようだ。やがてはっと頭を上げて呟いた。
 「羞鶯笛か。」
 これを聞いて道場の一同は、おぉと唸った。
 数里外からそれこそ風に乗って漂ってくる、この音の美しさは、羞鶯笛の人間以外には考えられない。
 羞鶯笛は女性のみが集まった一つの宗派で、普段はめったに江湖に顔を出さない。今日武当派に集まった各幇派数十人でも、実際会ったのは一人二人くらいという程度で、多くの人はただその噂を聞いているだけであった。
 他の門派とは違って、武術剣術より楽器を巧みに奏でられるのがこの派の特徴である。琵琶から古琴までさまざまに奏でられるが、中では笛の音が一番美しく、鶯でもこれを聞いたら己の声を羞じて飛び去ってしまうと言われるところから、「羞鶯笛」の名がつけられた。しかし、実際、鳥たちは飛び去るどころか、羞鶯笛の音楽を聴くと、その音色に惹かれてむしろたくさん寄ってくるのであった。
 羞鶯笛はめったに顔を見せないので、その音曲もなかなか聞けないものである。江湖の多くの人は始めて聞くので、みんな試合もそちのけにして、一心に耳を傾けた。
 一方、そんな衆人とは逆に、馬忠、程礼、銭有生らは顔を曇らせた――
 羞鶯笛はなんの目的で武当派大会の日にやってきたのか。その来意が測りかねていた。何か嫌な予感がする。
 これは武当派前掌門、徐問亭に関することである。
 徐問亭は以前、羞鶯笛の当主柳尚雲とは恋の仲であった。徐問亭は掌門となったのがきっかけで柳斬情と別れることになったが、彼女はそれを恨んで数度武当山へ来ては徐問亭に宥められて帰っていったと聞いている。その後、二人は一体どう発展していたのか誰も知らない。どうもますます悪くなって、しまいには柳尚雲は羞鶯笛を結成し、徐問亭と絶交したのだそうだ。
 「馬掌門、案ずることはない。さぁ、一緒に客を迎えようか。」
 そんな馬忠の心を見透かしたのか、隣で聞声が低い声で言って励ました。
 方丈も事情を知っているとなれば、なんとか手伝ってくれるだろうと、馬忠はやや安心した。そこで試合をいったん中止して数人を率いて正門に向かった。
 気がつくと、笛の音はすでに止んでいる。正門を出ると、外には笠を被った数人の女性が立っている。
 「これは、柳先輩、ご無礼仕ります。どうぞ中へ。」
 馬忠は礼を失わずに柳尚雲を遇した。
 先頭に入ってきたのは、羞鶯笛の当主柳尚雲である。馬忠のあいさつも無視して、鷹揚な態度で堂々と道場に入ってきた。
 これはまずい展開だ――
 馬忠はそう思いながら続いて入り、急いで席を出させた。
 しかし、柳尚雲は立ったまま、馬忠を見ずに言った。
 「今日、我々を武当山に呼んで何用かな。」
 「えっ」
 馬忠はわけが分からなかった。
 「さぁ――、柳先輩の意味は――」
 武当派は大会を開く度に、前もって江湖の各門派に招待状を出しておくのだが、徐問亭との関係を思って、これまで羞鶯笛には一度も送っていないのである。しかし、柳尚雲の言葉ではどうも武当派から招待状をもらっているように聞こえる。馬忠は送っていないとも言えないし戸惑った。
 柳尚雲は凛とした目で馬忠を一目睨んだ。馬忠は思わず小さくなった。
 「この妾(わたくし)をからかうつもりでしょうか。」
 柳尚雲はゆっくりした調子で言った。それが却って不気味に聞こえた。
 「いや、とんでもございません。そんなつもりは毛頭ありません。ただ、柳先輩をお呼びした覚えは――」
 「馬掌門、わたくしたちを何だと思っていらっしゃる?暇でわざわざ雁蕩山からここへ来ていると思っているのか。呼んでないのなら、これは何だ。」
 そういって、袖の中から一つの封筒を取り出すと、馬忠に向かって投げてきた。
 封筒は平らに回転しながらゆっくりと馬忠にむかって飛んでいった。
 言うまでもなく、紙など軽いものは、そう思う通りに動かない。柳尚雲がさりげなく投げてきた封筒に気が込められているのは明らかだ。油断すると受ける者には怪我しかねない。
 馬忠は落ち着いて手に気をためておき、封筒の飛んでくる方向を見定めた。気を送りすぎると、封筒を返してしまっては失礼にあたる。かといって、弱かったらこっちが怪我をする。いきなり厄介な難題を突きつけられた。
 考える間もなく封筒が蝶のようにひらひらと目の前に迫った。馬忠は手を伸ばしてその縁に触れると、瞬時に相手の気力を測り、気を調整してこれを解消し、なんとか無事に受け取った。
 隣で手に汗を握って見守っていた聞声、程礼らも内心ほっとして、柳尚雲もやや馬忠を見直した。
 封筒を見ると、表に「羞鶯笛柳尚雲親展」と書かれており封をしていない。馬忠は程礼と銭有生を見た。二人とも見当がつかない顔をしている。手紙を取り出すと、このように書かれている。

――柳先輩、師匠徐問亭に関する大事あり、武当派と羞鶯笛の存続にかかわることゆえ、五月五日武当武林大会に是非ともお越しください。武当派馬忠親筆――

 馬忠は読み終わって、ますますわけが分からなくなった。武当派から出した招待状はすべて馬忠自ら認めることになっている。しかしこれは自分の字ではないのは明らかだ。
 いったい誰がこんないたずらをしたんだろう――
 馬忠は招待状を聞声方丈に渡した。聞声はざっと一読して髭を撫でた。
 「確かに男の字のようじゃが、一筆一画に女々しい感じがしておる。これは怪しいぞ。」
 聞声にそう言われると、馬忠も少し勇気つけられた。
 「柳先輩、この手紙について、小生には真に心当たりがございません。何者かが武当派の名に成りすまして――」
 「ふん」
 柳尚雲は怒って馬忠の言葉を遮った。
 「武当派の者はみんな嘘つきなのか。手紙を送っておきながら、今更しり込みをする。それとも、わざわざ武林衆派の前で、わたしたち女どもをいじめるつもりなのかしら。」
 「いや、そんなつもりは――」
 「斬情、例のものを見せよ。」
 と、柳尚雲は後ろにいる一人の女弟子に命じた。
 女弟子は馬忠の前に行って、両手で布で包まれた棒のようなものを渡した。
 馬忠は布を解いて見ると、それは一本の匕首である。柄は青い布で縛られ、刃の上に「武当派」と刻まれている。
 「待て。」
 馬忠は去っていこうとする女弟子を呼び止めた。
 「君の名は、何と言う。」
 「柳斬情と申します。」
 この女弟子はきょとんとした表情で答えた。
 「柳、斬情か。君の父親は……」
 「斬情!」
 と、柳尚雲は後ろで怒鳴った。
 「さっさと、戻れ。」
 柳斬情は馬忠に一礼をして戻っていった。
 「馬掌門、それでも知らぬと申すのか。その匕首は武当派の物だろう。」
 柳尚雲は厳しい表情で言った。馬忠はますます縮み上がった。どうすれば良いか分らず、困り果てた。
 その時、後ろ玄武堂のほうからよろめきながら一人が走りこんできた。
 「掌門に申し上げます!後門に侵入者あり。」
 「なにっ!?」
 馬忠をはじめ道場の一同は驚いた。馬忠は報告する弟子の前へ走りよって
 「何者か。」
 弟子はひと息を整えて息切れ切れになりながら、
 「いや、分かりませぬ。向こうは名乗っておらず、守備全員で防いでいたが――」
 そう言い掛けたところに、東青龍堂のほうからも二三の弟子があわてながら走って入り、
 「東山門に敵あり」と報告した。
 続いて白虎堂のほうからも同じような報告が入った。
 馬忠は掌門になって十数年を過ごしたが、こんな緊急事態に初めて遭遇する。
 三つの出口が一斉にやられたということは、敵がかなりの人数だと思われる。そうすると――
 馬忠は朱雀門のほうに走った。
 朱雀門を開けるとたんに、入ってきた一人の弟子とばったりぶつかった。
 やはり正門もやられているのだ――
 この弟子は馬忠の顔を見ると、言葉も発せずに倒れて気絶した。正門は武当派の要であり、守備は必死に守っていたであろう。
 程礼らが剣を抜いて馬忠の周りに集まった。古龍派、蒼鷹幇らの幇派も席を立ってそれぞれ固まって警戒した。
 その時、正門のところから数人の姿が現れた。衣服がさまざまで、武器も一様ではない。ざっと見ると十人くらいで、鷹揚な格好で前後にして道場に入ってきた。
 先頭に立ったのは一人の若い女性である。その顔を見ると一同が思わず息を呑んだ。
 細い眉毛まるで柳の枝。透き通るような肌は赤みが差して熟した桃が如し。小さな唇が赤く染められ、水から拾い上げたるさくらんぼのようで、長い睫の間にこれはまた黒真珠のような目が湖の底に潤っている。
 真っ黒な髪が少し浪を打ちながら肩へ掛かっている。緋色の図案が織り込んだ上着が長い裾を引き、風に揺らいでいる容子はまるで天女のようである。たとえ李太白、杜子美が生き返ったとしてもその美しさを筆頭に表せまい。
 遠くで孫貫明もこの一行を眺めている。顔はよく見えないが、その身体に漂い出る気高さがありありと感じている。彼女が入ってきたとたんに、道場が明るくなったような気がする。
 それは目を背けたくなるような美しさであり、自分たちと同じ人間界の者だとは到底思えない。彼女の前では思わず己自身を下品に感じてならない。馬忠らは口も利けずしばらく唖然として彼女を眺めた。
天女は道場に入ると、ゆっくりと一通り見回した。その目と合うのも恐れ多いようで、見られた者は思わず目を伏せて恥ずかしくなった。
 「葉艶、か。」
 柳尚雲は先に声をかけた。
 「師匠さま、ご無沙汰いたしましたね。」
 葉艶と呼ばれたこの女性は、柳尚雲のほうに向かってゆっくり歩いていった。先ほど羞鶯笛の笛を思わせるような声である。
 「ふん、誰がお前なんかの師匠だ。」
 柳尚雲は軽蔑するようにそっぽを向いた。
 「そうでしたね。もう師匠ではない。たしかに。しかし、今日は良くおいでくださいましたね。来てくれないかと心配していましたよ。」
 葉艶はなおも微笑みながら言った。
 「すると…手紙はお前の仕業か。」
 「そうです。あれはあたしが書いたのです。今日のような武林一大行事では、羞鶯笛の柳先輩に来ていただかないと物足りないと思って、あたしが代わりに招待状を送りましたわ。」
 「ふん、恥知らずめ。数年前におまえに逃げられたが、今日つかまりに来たのか。」
 柳尚雲は凛として応じた。
 すでに中年に差し掛かっている年だが、葉艶と並んで立ってみると、容貌こそ劣っているが、また違った気品が感じられている。
 二人はまるで道場の数百人を無視するように会話を交わした。馬忠らは隣で聞いていていろいろ思案をめぐらした。
 葉艶という名前は聞いたこともない。武当派は突然襲われる理由にも見当がつかない。柳尚雲を「師匠」と呼んだりするのは、羞鶯笛と何かの関係がありそうだが、どうも仲が良くないようだ。今日観戦に来た各門派の多くは武当派の味方だし、まして少林寺方丈がいれば、頼もしい。そこまで考えて、彼は近寄って口を挟んだ。
 「葉さま、失礼ながら、小生は江湖経験が乏しくお名前を存じ上げておりませんが、今日はどのような用件で弊派に来られたでしょうか。」
 葉艶は馬忠に振り向いて、
 「馬掌門、はじめてお目にかかります。こちらこそ突然お邪魔して失礼しましたわ。どうぞあたしたちにかまわず試合を続けてください。」
 言葉遣いが丁寧で、艶かしい声である。馬忠は怒ろうとも怒れず、葉艶と彼女の率いた一行を見回した。
 一同は服装も背丈もまちまちで、入ってきたときから何もせずに、つまらなさそうに見物している。馬忠は自分が言うように、江湖の経験が乏しい。こういう事態でこういう連中に対してどのようにすれば良いか分からなかった。
 そう迷っているところに、後ろから聞声の声がした。
 「いや、葉さま、そうは行かぬ。江湖名門正派の前で、勝手に武当派に進入した上、こちらの弟子を傷つけていては、ただでは済まされぬ。さぁ、わけを話してもらおうか。さもないと、我々客としても見てみぬ振りは出来ぬぞ。」
 聞声の声は道場に響いた。かなりの内功を見せている。
 「あら、少林方丈さまはあたしというひ弱い女人をいじめようとなさるのかしら。どうも武林江湖の人間はいちいち理屈にこだわっていてきりがない。もし試合を続ける気がなければ、あたしがお相手いたしましょうか。」
 「良し来た!」
 銭有生は叫んで出てきた。
 「ならばやってみようじゃねぇか。」
 銭有生はさっきからわけの分からない会話を聞いていてとっくに我慢できなかった。葉艶に挑発されると、とんと前に飛び出した。
 馬忠と程礼も、ここは一戦を免れないと悟り、師弟を止めなかったが、馬忠は一応「手柔らかに」と注意した。
 銭有生は葉艶より三寸ほど背が高く、ニヤニヤしながら葉艶を見下ろした。
 「小娘、可愛い顔しとんな、ちょっと遊んでやっか!好きにかかってくるがいいぜ。」
 「これはこれは、武当派白虎堂の銭堂主ではありませんか。今日はお酒を召さなかったでしょうか。あたしは酒臭い人が苦手なもんだから、誰か代わりに相手にしてくれないか。」
 「俺がやる。」
 後ろに立った一人の男はすぐ応じて出てきた。
 見ると、全身に褐色の布地を纏い、手首足首が黒い布で縛られ、生地がことごとく真新しいが、それは却って地元の三流道場の師範を思わせるような格好である。
 頭のてっぺんがすっかり禿げており、周りに残存している髪に囲まれると、目玉焼きのように見える。しかし、一番衆人の目を引くのはその容貌である。
 これは葉艶とは正反対に二目と見られない顔である。
 鼻先が垂れており、左の唇は歯が見えるほど裂けている。その上にある二つの目は、片方が怪我でもしたのか、閉じている。上下の瞼が藪医者の荒い手つきで縫われているようで、幾筋もの跡が見える。おそらく笑っているつもりであろうが、却って不気味で、子供が見れば泣き出しそうな鬼顔である。
 長く見つめていると背筋が凍りついてきて、思わず尻込みしてしまうような、そんな恐ろしい容貌の持ち主である。葉艶と並んで立っていると、まるで白鳥と蟾蜍、天女と地獄夜叉の如き風景である。
 銭有生は突然現れたこの男に、思わずぎょっとして眉毛を寄せた。
 突然といっても、さっきから道場に立っていたのだが、ほとんどの人は葉艶の美貌に目を奪われていたので、ほかの人には注意を払わなかった。
 様子から見ると、葉艶はこの突然進入してきた一行の首領のようだ。しかし、類は友を呼ぶとも言うから、その手下に何故こんな醜い人が居るのだろうか。
 「お前か。」
 戦う相手が美女からいきなり醜男に変わって、銭有生は些かむかついた。だがやめるわけにもいかないので、
 「良かろう。お前から片付けよう。小娘、あとで俺と戦ってくれよな。」
 そう言って、銭有生は不承不承に剣を抜き出した。
 醜男は両手を腰の後ろへ回すと、一長一短、二つの武器を取り出した。その一つは二寸ほどの長さで、普通の短剣の半分ほどしかない短いものである。もう一つのほうを見ると、これはどのように身体に佩いていたのかと思うほど、目立って長い剣である。
 醜い顔に不釣合いの二つの武器。男はまるで町の手品師の格好になっている。
 銭有生はあきれるような目でしばらく男を眺めた。
 「おまえ、それで戦うつもりかぃ。まともなもん使わないからさんざん顔殴られてんだろう。」
 銭有生の言葉に数人の弟子が思わず吹き出した。
 男は不機嫌そうに表情を改めたが、そのような顔から怒っているのか笑っているのか、なかなか見当がつかない。
 「よく言ってくれたな。」
 顔と同じような醜い声だった。
 「では、武当派の武術を少し見せてもらおうか。」
 男は長剣を胸元へ横たえ、短い匕首で剣身を根元から先までゆっくりと撫でていった。
 ずらーとした音が止むまで少し時間がかかった。それから意味有り気な表情で長剣を眺めて、これから本当に手品でも始めようとでもするかのようだ。
 銭有生は口では相手を馬鹿にしているが、心では決して油断していはいない。武当派に乗り込んできたからには、きっと何か持っているに違いない。彼は剣を突き出し、相手の出方を待った。
男は匕首を引き、長剣をあげるや大股に踏み込んできた。
 剣が長ければそれだけ攻撃に強い。まして男の長剣は珍しく長いものなので、あっという間に銭有生の顔へ迫った。
 銭有生はそこで落ち着いて剣先を見定めた。
 剣が長いが、槍とは違って横叩きに向かないので、守るのに不便である。それさえ撥ね退ければ、あとはこっちのもんだ。
 銭有生はそう考えると、慎重に剣を入れた。剣先に少しの狂いもなかった。
 が、妙なことが起った――
 長剣が槍の如く突き刺さってくる途中に、手を振ると、剣身が急に震えだし、蛇のように浪を打った。
 なんだ、そんなに柔らかいのか――
 銭有生はその時に気づいた。
 男の剣はもともと柔らかい性質である。そもそも金属をあんなふうに長く作っていては強度が落ちるものだ。男が気を注ぎ込んでこれをまっすぐに保っていたであろう。
 だが、もう目の前に迫っている。考える間がない。硬くとも柔らかくともかまわない。銭有生は相手の剣とぶつけた。
 しかし、なんの手ごたえもなかった――
 銭有生の剣はちょうど長剣のまんなかほどに触れたが、少しの気力も感じずにすんなりと撥ねていった。
 撥ねたというより、相手の剣に吸い込まれていったようだ。長剣は殴られると、鞭のように撓んだ。剣身がほとんど折れそうなくらい曲がっている。
 銭有生は訝りながらも、次の手を出そうとするが、急に何か気づいて、大急ぎで頭を下げて転ぶように横へ避けた。
 曲げられた長剣の先が銭有生の頭とすれすれに鬢髪を切り落とした。
 銭有生はすぐ立ち上がって姿勢を取り直した。今までいろんな武器を見てきたが、こんな厄介なものは初めてだ。この柔らかさでは、ほとんど鞭に近い。剣を鞭として使うのもずいぶんと突飛な発想だ。
 「よく避けたもんだな。さすが武当派の堂主、逃げるのもうまい。」
 男はやり返した。
 銭有生は挑発されて頭に血が上った。すぐに取り組んでまた戦った。
 が、長剣の奇妙な動きに戸惑って、結局いつも避けて逃げるしかない。
 鞭ならば一振りで切れるようなものだが、その実はやはり金属だからどうしようもない。思えば、こんなに柔らかく作られたので、男は腰にでも巻いて持っていたのだろう。
 「どうした、さっきの威勢はどこへ行った。」
 男は言いながら鉄の鞭で払ってくる。
 一方、銭有生はやや冷静になって、考えを変えた。
 剣身にぶつければ剣先が曲がってくる。ならばその剣先を払えば良い。
 理屈は通っているが、やや無謀な考え方だ。言うまでもなく、剣身は線であり剣先は点である。まして男の剣が長いので、切ろうと思えばいくらでも触れられようが、その剣先の一点を捉えるのは至難の業。言うなれば空中に飛ぶハエを叩くようなものである。
 銭有生は気を集中した。
 ハエを捉えるには、その次の動きを読まなくてはならない。
 長剣の頭は乱舞しながら動いている。だが、気を高めた銭有生の視界には、それもだんだん鈍く、遅くなってきた……
 これだ、と思うところ、銭有生は手を出した。
 ぱっ――
 二つの剣の先がぴったりとぶつかった。鞭の先はついに撥ねられた。
 銭有生はすかさずに男の胸に剣を躍らせていった。
 手ごたえがあった。いや、自分の剣が撥ねられた――
 男の匕首は間一髪のところでこれを防いだ。
 なるほど、長剣で攻撃し、短剣で身を守る。不釣合いと思っていた二つの武器は実に良い組み合わせであった。
 だが感心してる場合ではない。撥ねられた長剣が戻ってくる。
 これを避けるしかないが、避ければまた最初からやり直すことになる。それも相手が警戒すれば次はうまくいくとは限らない。
 銭有生はそこで瞬時に剣を左手に持ち替えて、振ってくる長剣を素手のままで掴んだ。
 相手が突飛ならばこっちもずいぶんと奇抜なやりかたである。
 これで長剣を止めたが、男はちょっとでも振れば指が切り落とされるのは間違いない。
 だが、そんな余裕を与えずに、銭有生はもう一度剣を突き刺した。
 勝つ方法はこれしかない。
 二人は至近距離にあり、まさに肉迫している。この状態では銭有生の剣が有利である。それを見込んで彼は手を犠牲にしてもこれを狙った。
 腕で狼の爪を遮り、槍でその喉を突き破る。本物の狩人の決意である。
 銭有生の剣は男の喉に迫っていく。
 だが、あと二寸のところで銭はあっと声を上げ、剣先が急に狂った。男の匕首にぱんと叩きおろされ、長剣を握る手も離した。
 瞬時に優劣が逆転し、銭有生は平衡を崩し、非常に危険な姿勢になっている。彼は急いで持ち直そうしたが、心の中では、もうこれまでと思った。
 だが、男はこれ以上せめてこない。それどころか却って後ろへ下がった。
 気がつくと、聞声方丈が隣に立っている。間一髪のところを助けられたのだ。
 「南無阿弥陀仏。老僧もこの年になると、目が狂っていたのか。お主はたしか二十年ほど前に燕冀一帯(河北あたり)に活躍していた丁不来、人が呼ぶ『冥火神人』という者かな。」
 「その通り、俺は丁不来だ。」
 男は素直に認めた。
 「さすが聞声方丈の目は誤魔化されぬ。俺のような無名小卒もご存知とは。」
 冥火神人丁不来――
 聞いたことのあるようなないような名前だ。銭有生はそう思いながら自分の手のひらを見た。長剣を握った手は焼かれている。肉が焦げていてかなりの温度のようだ。「冥火」と呼ばれるこの男の字は分かったような気がしてきた。
 冥火神人丁不来の名を聞いて、古龍派の何氏兄弟も驚いた。それはかつて一度会った者である。しかしあの時はこんな顔ではなかった。
 冀は泰山に近いので、いろんな情報が自然に古龍派の耳に入る。たしかに聞声の言うように、二十年ほど前に、丁不来という者があった。その時、何仁は父から派を受け継いで間もない頃だった。
 青年壮志、抱負無量の年頃で、自分の手に譲られた大事を無事に維持していくだけでは満足できない。何仁は四隣に誼を結び、志を一とする壮士を集め、自分の手で古龍派の名を江湖に広めようと志した。
まもなく、丁不来の名前は何氏兄弟の耳に入った。
 伝えるところによると、もとは一介の鍛冶師であり、武功に疎いものだったが、突然鍛冶屋を畳み、武功を修練するようになった。武林達人に巡りあったという噂もあれば、神妙な武功書を手に入れたという話もあった。ともかく、店を畳んでからわずか一年、丁不来は一風変わった絶世の武術を身に付け、燕冀の国で、市井巷に彼の名を知らぬ者がないほど有名になった。
 何氏兄弟は自ら勧誘に赴いた。が、やんわり断られた。
 訳を聞いてみると、自分は一介の鍛冶師であり、古龍派のような幇派に席を入れるような者ではないと答えて、本音を吐かない。
 人はそれぞれ、無理することもできないので、何氏兄弟二人は惜しいことをしたと思いながら帰ってきたが、しばらくすると、丁不来は他に四人の人と手を組んで、更なる名声を得、なんでも「崑崙五老」と称されるようになったのが伝えられた。
 崑崙五老が結成された当時では、江湖の人々はかなり警戒していたが、この五人は江湖のどの幇派とも対立もしなければ、連絡もしない。かといって一派を樹立しているわけでもなく、長い間中原のあちこちに出没しているとのみ噂されている。
 今日の武当大会で「崑崙五老」に会えるとは、誰にも思いがけないことだった。聞声、馬忠らもこれはまずい相手に来られたと思った。
 「なるほど。久しく尊名を仰いでいたが、今日武当派の場を借りて崑崙五老に会えるとは、老僧もずいぶんと好運と見える。せっかくの機会で、ここにまだ知らぬ者も多かろうから、一つ自己紹介してもらえまいかな。」
 聞声の言葉に、丁不来の後ろから一人の若者は進み出た。一尺ほどの扇子を持ち、聞声に向かって手を合わせると、丁寧に一礼をした。
 「こちらこそ、少林武当の先輩方々に会えて光栄に存じます。それがし杜一平と申しまして、不才ながら辛うじて崑崙五老の一人に数えられております。他の師兄弟が用事に纏わされておりますゆえ、今日は師兄と二人だけで参上しております。せっかくのお言葉ですが、またの機会にお引き合わせいたします。」
 言葉遣いは敵とは思えないほど丁寧で、人に好感を抱かせる態である。
 聞声は念のために聞いてみたのだが、五人が揃っていないと聞いて少し安心した。実際、崑崙五老とは手を合わせたことがないが、その武功は神妙不測で、かなり厄介なものだと伝えられている。もし、ここに来ているのはこの二人だけなら、なんとかなりそうだ。
 それにしても、武当派の堂主ともなる人はこうも簡単にやられるのでは、派の面子にもかかわる。ここは一つ相手を負かして局面を挽回せねばならない。だが、銭有生はすでに武当派一、二の指に数えるほどの武術達人であるから、このほかに誰が立ち向かえると言えよう。金輪際に少林寺の力を借りることも出来るのだが、やはり武当派自身で解決しないと、武林衆派にも示しがつかない。
 一戦勝ち取って葉艶は得意な表情が浮かんだ。
 「聞声方丈、馬掌門。貴派の者に怪我をさせて申し訳ありません。しかし、武当派の武功は天下無敵だと伝わって久しく、わたくしどもも御腕前を拝見しようと思って参りましたが、まさかこんなに容易く勝てるとは、少しがっかりしましたわ。失礼ながら、さきほど手を合わせた者は、本当に堂主様なのでしょうか。弟子が成りすまして我々を騙そうとなさるのではなかったでしょうか。」
 「なにっ」
 銭有生は唸った。
 「あっ、これは失礼しました。武当派の弟子でさえ腕が立っているわけだから、こちらは弟子以下なのかしら……」
 「小娘っ!馬鹿にしやがる。もう一回勝負しろ。さぁ、こい!」
 銭有生は手の痛みも忘れて怒鳴りながら出て行こうとした。馬忠は急いでこれを止めて、代わりに自分が前へ出た。
 「葉艶さま、御腕前は拝見しました。ずいぶんと変わった武術で某も驚いている次第でござる。いかがでしょうか。某に試させてもらえまいでしょうかな。」
 「よろしいわ。それではこちらの……」
 葉艶の言葉が終わらぬところに、馬忠はいきなり剣を差し出した。
 年齢にしても、江湖身分にしても馬忠は葉艶より上である。なのに、少しも手を許していない。まして女人相手に、勝負としてはすこぶる礼儀に欠けている。卑劣といっても過言ではない。
 そんなことはむろん馬忠自身も分かっている。無数の江湖人士の前で敢えてこんな手を使うのもやむを得ない。こちらは人数こそ勝っているものの、いざ手を出してくれるのは少林寺、古龍派くらいだろう。他の幇派は、武当派を武林の兄貴として尊敬しているかもしれないが、葉艶らの強さを目の当たりに見ていれば、敢えて危険を冒して助けてくれるとは思えない。
 そもそもここに集まった者はみな武当派が招いた客であり、自分らの不覚で巻き添えにしている責任もある。ここは、自分一人の江湖地位、名声を全部投げ捨てても敵を退治せねばならぬと、馬忠は覚悟した。
 見ると、葉艶は武器すら持っていないようだ。繊細な体ではとても武術が出来るようには見えないが、むろん見た目では判断できない。馬忠にいきなり剣を突き出されても臆する表情を見せず、自信に満ちた表情で待ち受けた。
 馬忠の剣はすでに間近に迫っている。彼はむろん命を取るつもりはない。剣先は要害を避けている。出来ればその体を捉えて人質にしたいと馬忠は考えた。
 しかし、葉艶は少しも反応を示さない。顔に動揺する色は微塵もない。こういう相手は、とてつもなく腕に自信を持つ達人か、あるいはその反対に、少しも武術を知らぬ素人のどちらかだ。
 どちらにせよ、馬忠は一つ試してみようと思った。
 女は尚も動かない。構えも何もなく、
 隙だらけだ、やはり素人か――
 馬忠はこれが好機だと思い、剣を緩むと、手を伸ばしてその肩を取ろうとした。が、その瞬間に、脇から急に寒気が迫り、彼は大急ぎで体を戻して剣を放してしまった。
 手首に痛みが走った。
 見ると、袖は切り裂かれて腕に剣傷が刻まれている。もう少し反応が遅かったら、手が切られてしまうところだった。
 この女にはそんな早業が出来るのか。
 いや、違う。葉艶ではない。
 いつの間にか、葉艶の前に一人の男が立っている。いつ近づいたのかまったく気づいていなかった。見ると、男もやはり片手に一本の剣を下げており、誰とも目を合わさず、俯いて無関心な表情である。今の急襲はこの男に違いない。
 前に立つと、葉艶より少し背が高く地味な服装をしている。馬忠を退治すると、何食わぬ顔でまた後ろに下がった。その姿は、どちらかといえば僕(しも)べのような者で、自分の腕前を照らす風もなく、顔からはあらゆる表情も認められない。
 馬忠は改めて葉艶の一行を見渡した。一人の僕べですらこれほど強いとならば、ほとんど勝ち目はないのではないか。
 聞声と目を合わすと、これもやはり難しい顔をしている。こちらでは人数が多いようなものの、実力では勝てそうに無い。まして四方の門は同時に破れたほどだから、外にも多数の敵が待機しているだろう。
 馬忠は焦りと怒りで頭がいっぱいになり、腕の痛みも忘れてあれこれ考えた。自分が掌門になって十数年間、無事に過ごせてきたのはまったく運が良かったに過ぎぬ。いざ大難が降りかかると、客人も派の弟子も守れないのでは、掌門失格と言うほかない。師匠が居ればどんな相手でもきっとわけなく退治してくれるだろう。武当派はついに自分の手で滅びてしまうのか……
 「馬掌門。」
 葉艶は再び口を開いた。
 「いきなり手を出されるとは、いささか礼儀に欠けているのではありませんか。」
 葉艶は話しながらゆっくりと近づいてくる。
 「まさか、私のようなか弱い女人にそんなことを。ほんとうにびっくりしましたわ。ねぇ、馬掌門、ほんとうに妾を殺すつもりでしたの?ここに剣を突っ込んで穴を開けてしまうの?」
 葉艶は手を自分の胸に当てながら、ゆっくりと馬忠に近づいていく。なよやかな身体が歩を踏むたびに、肩や腕にいろんな曲線を描き、言い知れぬ官能的な美しさを漂わせてくる。
 「あたくしは馬掌門にも、武当派の者にも恨みはありません。ただここの場を借りて二人の者と決着を付けたいと思います。」
 葉艶が近づくにつれ、馬忠はだんだん動悸が早まるのを感じてくる。手足が縛られたように動けない。彼は結婚こそまだしていないが、これまでいろんな女人も見たし、中にはずいぶんと綺麗なのも居た。しかし、葉艶はこれまで接してきたどのような女性とも違っている。何か人間離れたような美しさを備わっているようだ。近づいてくると一層強く感じる。
 葉艶はついに目の前に来た。上目で自分を見上げている。馬忠のさっきまでの怒りは煙のように散り果てて、すっかり陶酔してしまった。「天女」、と最初に見る瞬間に受けた印象は、もはや動かぬ事実だと感じてきた。
 「それでいいでしょうね。」
 葉艶は甘い声で念を押した。
 「二人の者とは、誰なのか――」
 「薜雷はここにいるか。」
 葉艶はぐるりと回って声を上げて呼んだ。
 道場の一角が騒いだ。薜雷はいきなり名を呼ばれてぎょっとした。この女とはたしか面識はないと思うが、自分に何か関わりでもあるというのか。
 「薜雷、これに参れ。」
 薜雷はいきなり水から掬い出された蛙のように、びくびくしながら出てきた。怯えた目で道場を見渡して、誰か助けてくれまいかと願った。
 「なんの用でしょうか……」
 「薜雷、この私を覚えているでしょうか。」
 葉艶は厳然した顔で聞いた。
 薜雷はすっかり縮み上がった。実際、薜雷だけでなく、武当派の掌門、堂主を瞬時に負かしたこの葉艶の一行は恐ろしい悪魔のように道場にいる人々を支配した。
 「さぁ、某は――」
 「覚えていないでしょうね……では、鶴勁武という者を覚えているか。」
 鶴勁武……
 薜雷は頭の中で一所懸命にこの名前を探し始めた。しかし、思い出せない。
 「さぁ、そのような人物は存じておりませんが……」
 薜雷はそう言うしかなかった。
 鶴勁武は一体誰なのか。葉艶とはどんな関係なのか。敵か仲間か見当もつかない。薜雷は葉艶の顔を見ながら心の中で素早く計算した。そして、彼は急に何か発見したようで、
 「君は……五年、いや、六年前の、あの娘か……」
 「七年前だ。ようやく思い出してくれたね。あのとき薜幇主のお陰で無事雁蕩山に戻ることができたね。」
 「いやはや、七年経てここでまた会えるとは。お元気なご容子で何よりですね。なに、たいしたことではない。武林人としては当たり前のことさ。」
 薜雷は旧友に会えたようで馴れ馴れしい声に変えた。
 「あのとき助けてくれなければ、私はあの島で死んでいたのかもしれない。これは大いに感謝しないと。」
 「あ、いや、礼を言われるほどのことでも……」
 しかし葉艶はじっと自分の顔を見つめている。口調が厳しく、助けられた人のような態度ではない。薜雷はますます訳が分からなくなった。
 薜雷はなんとか七年前のことを思い出そうとした。越龍幇を作り上げたばかりの頃だった。いろんなことがあった。自分が引き起こしたこともあれば、不意に降りかかってくることもあった。そしていろんな人にも会った。悪友どももあれば、今でも憎みあっている者もある。彼にとって葉艶はとくに重要でもなく、印象的な人でもなかった。たまたま部下が助けてきた小娘で、それが羞鶯笛の者だと分かり、羞鶯笛に返しただけのことだ。
 薜雷が思い出せるのはそれだけだった。常に江湖の利害関係で頭がいっぱいでいる彼にとっては、こんなちっぽけな小娘のために記憶を分けてやる余裕がなく、またその必要も感じなかった。要するに葉艶は、自分の肩に落ちかかった葉っぱのようなものだ。一つの予想外ではあるが、取るに足りない存在だった。
 しかし今、この予想外の葉っぱは、いきなり大木に成り変って目の前に立ちはだかってきた。下手すると命にかかわるような黒い木影を覆いかぶせてきた。
 「薜雷、今日ここでまた会えるとは真に御主の運というもの。細かいこと言ったっておぬしは覚えていないだろうから、ここで一つを約束してくれれば、命だけは助けてやる。」
 「……」
 薜雷は条件も言えなければ、訳も聞けない。相手はすべてを絶対的に支配しているのだ。
 「御主の野心のために、罪もない者は命を亡くしたのだ。御主は分っているか。すぐそのなんとか龍の幇を解散し、二度と江湖に顔を現さないこと。よろしいでしょうか。」
 「……は、はい…」
 薜雷は承諾するしかなかった。
 確かに自分は今までいろんなことをやってきた。しかし乱世を生き抜くため、時には他人の犠牲もやむを得ず、それは一つ越龍幇だけではないはずだ。今日武当派に集まっているどの武林宗派にも、多少の咎はある。葉艶はなぜ越龍幇だけ恨んでいるだろうか。
 しかし、ここで逆らっていたら命を落としてしまうかもしれない。越龍幇は江湖の中で悪名高く、いざとなれば助けてくれる希みは薄い。命あっての物種。今日はなんと言われても呑んでやるしかない。とりあえずこの難を逃れれば良い。
 「葉さまはそうおっしゃるなら、某も異議はございません。今日から越龍幇を解散し、江湖と手を切ることにいたしましょう。」
 薜雷は大人しく言った。
 「よろしい。しかし口だけでもなんだから、御主は自分の腕を切り落としてその決心を証明しよ。」
 「……」
 薜雷は思わず後ずさりして恐怖の目で葉艶を見つめた。
 「葉艶、一体この俺とはなんの恨みがあるというのだ。何もそこまでやらなくとも。」
 「やらぬというのか。では妾はかわりに切ってあげよう。」
 「柳掌門!」
 薜雷は突然、柳尚雲を呼んだ。
 「私はかつてこの人を助けて羞鶯笛へお送りした。しかし今、彼女はこの私の命を取ろうとする。これはどういうことだ。」
 「ふん。」
 柳尚雲は冷笑した。
 「その人を連れてきたのは御前の勝手だ。私は何も頼んだ覚えはない。それに、彼女はもう羞鶯笛の者ではない。御前は何をされようと私の知ったことではない。」
 薜雷は葉艶と柳尚雲を代る代るに見た。かつて一度葉艶を助けたことで羞鶯笛に恩を売ろうとしたが、却って撥ねつけられてしまった。
 「羞鶯笛の者はみんな恩知らずでござるか。」
 「口を慎め!」
 柳尚雲は厳しく叱った。
 「もう一度言えば、腕どころか、その首を切ってくれる。」
 「柳掌門、そう怒らなくても。」
 葉艶は柳尚雲に向けて、口を挟んだ。
 「薜幇主の言うことは当たらずとも、まんざら出鱈目でもなかろう。柳掌門、あなたは本当に心に咎めはないのか。ご自分では羞鶯笛を名門正派と銘打って、我々に正義だの、貞操だの唱えていながら、その実は、己一人の虚栄心であって、人から騙されたことを誤魔化しているに過ぎぬ。江湖の中で、みな羞鶯笛に一目を置いているようなものの、結局は武当派の威光に頼るものではないか……」
 「黙れ!」
 柳尚雲は怒りで震えだした。
 「柳掌門、昔の師弟の誼を思って、今日はその腕を取らない。だが、門派を持っていれば、そのために罪のない者は犠牲になるから、羞鶯笛は今日を以て解散してもらう。それから、あなたはみんなの前で、自分は悪かったと一語謝ってくれれば、これまでのことは水に話してあげる。いかがでしょうか。」
 「おのれ――」
 柳尚雲は目に怒りの焔が上がった。今にも飛びつかんばかりな剣幕である。
 その時、人群れの中から一人が出てきた。
 「葉さまの話では、まるで江湖にある武林宗派など、みんな間違っているように聞こえる。すると、我々金槍派も解散すべきなのかね。」
 これを言ったのは雲南からはるばるやってきた金槍派の当主、田沖である。
 まるで着る時間がなく急いで付けたような、ケバケバした色の服装を乱雑に纏い、首や手足にいろんな装飾物がぶら下がっている。年は五十前後で、肌が黒く、顔に深い皺が縦横に刻まれ、長く江湖を歩んできた風采がうかがえる。
 「金槍派とかは聞いたこともない。派をやめたければやめればいい、わたしとは関係のないことだ。今日は特にほかの者とかかわりたくない。」
 葉艶はまともに彼の顔も見ずに応えた。田沖はむっとしてさらに近寄って言った。
 「小娘、自分を何だと思っておる!わてが江湖を踏んだ日には、てめぇなどまだ生れてなかったんだぞ!さぁ、誰でもいいから一つ勝負してみろ!」
 田沖は葉艶に向かって言っているが、身体がすでに丁不来らの前に立った。葉艶は実際武術など出来ず、部下らに頼っていることがなんとなく分かってきた。
 彼は一丈ほどの長槍をどんと地面に擦り付けて、葉艶らを睨んだ。槍身は陽光に光り、木ではなく金属で作られているようだ。
 また一戦が始まろうとしている。葉艶は面倒そうな表情をして、何も答えずに手で髪の毛をいじった。そこで、杜一平は代わりに前へ出て、丁寧に一礼をした、
 「こちらの先輩、礼儀というものをご存じないでしょうか。お嬢様の前ではそのような乱暴をしてはならぬことです。早く武器をしまってください。」
 田沖はもともと口喧嘩の苦手な人で、相手が現れたのを見ると、何も言わずに槍を送り出した。
 槍はよろずの武器の中でも特に長く、遠くから相手を攻めるという利点があるが、長いだけに扱いも難しい。まして金属の槍は重いので、なおさら不便のはずだが、杜一平の肩を目掛けて突き出した槍頭には一寸の狂いもなかった。
 金槍派には古くから「田家槍法」というものがあり、南方一帯でよく知られている。田沖の持つ槍は、代々伝わってきた家宝で、彼は常に携帯し、一日もこれを触れぬ日はなかった。重さ五十斤もあろうが、彼の手にあってはまるで木の枝のようである。
 言うが遅く、槍はすでに目の前に迫っている。杜一平は軽やかに槍先を避けて身を翻ると、手に持った扇子で田沖の手首に切っていった。
 槍使いは主に遠距離で戦うので、敵に接近されるのがもっとも忌まれることである。数々の戦いを経験してきた田沖には当然予想したので、落ち着いて槍を引くと、横に振り払った。
 重い槍が空を切るシュッシュッという音は場内に響き渡った。
 田沖はなるべく相手から距離を取りたいが、いつも付きまとわれてなかなか離れない。しかたなく、彼は槍身を腰へ当て体をぐるると回し、田家槍法の「四面八鋒」の一式を使った。槍が身体とともに高速に回転し、どっちが槍先でどっちが槍尾なのかも見分けられない。これでどんな相手でもいったん身を引かなければならない。
 案の定、杜一平は一旦飛び下がって田沖の猛烈な防御を避けた。ところが、田沖は姿勢を立て直して再び槍を突き出すと、杜一平はまた懐へ飛んできた。
 田家槍法はいわゆる槍の中の槍であり、長年熟練した彼の手の中では突き、撥ね、一式一手がはっきりしていて、傍で見ていても気持ちが良い。しかし、杜一平の動きがもっと早く、数十手交わしたところで、槍鋒は一度もその身体に触れることはなかった。
 杜一平が近寄ってきては、田沖は「四面八鋒」でこれを追い返し、近寄ってはまた追い返す。彼にとって「四面八鋒」は、もはや最終的な防御手段であり、これなしには、身の危険もあり、また田家槍法も発揮できない。
 このような遣り取りを三四回繰り返すと、田沖は面倒になった。
 こんな戦いを望んだわけではない。まるで鳥か蝶を相手にしているようで、いらいらする。たかが一本の扇子だから、切られたところで大した怪我も受けまい。そう思って田沖は心を決めた。
 槍を突き出すと、杜一平はもう一度手首に切ってきた。今度、田沖は引かずに、槍を両手で以て斜めに送り出した。槍鋒が空を切って杜一平の頭に向かった。その時、杜一平の扇子もついに自分の手に触れた。
 そのとたんに、田沖の腕に忽ち痺れが走り、思わず手を離した。続いて肩や足の関節にも瞬時に痺れて、忽ち身体は思うように動かなくなった。
 パタンという音がして槍は地面に落ちた。
 田沖は一瞬のうちに何が起こったかわからず、自分の槍を見つめたまま取ろうとしても腕が上がらない。額から豆粒ほどの汗が流れて、まるで背中に重い石を背負っているようで、立っているだけでも大変な努力が要った。
 一方、杜一平はその正面に立って悠然と扇子を仰ぎ、微笑んでいる。
 「田老先輩、ご自分の無礼を悟られましたでしょうか。お嬢様の前ではそんな危ないものを見せるではない。さぁ、一つお詫びをしてもらいましょうか。さぁ……」
 杜一平の言葉が終わるや否や、田沖はドンと両膝を突いてほんとうに跪いてきた。辛うじて頭を上げて杜一平を睨みながら、喉から唸った。
 「貴様、何をしたっ!」
 「なに、無礼者をしつけるのは小生の仕事です。お嬢様に雇われた以上は、使命を怠ってはなりません。」
 見物している衆人もこの展開に驚いた。さきほどまで覇気満々に振舞っていた田沖はなぜ急に大人しく跪いたのか。杜一平は一羽の白鶴のように彼の槍雨の中を飛び回り、扇子一本で華麗な動きを見せていたが、気づかぬ間に何か特別な技を使ったのだろうか。
 それにしても、一代槍使いの名人ともなる者はこうも侮辱されているのを見て、気の毒に思う者も多かった。聞声は見かねて近寄って言葉を発した。
 「なるほど、軽功の達人と呼ばれる白面書生とは、実に百聞は一見如かず。老僧の目には、その軽功はおそらく天下一と言っても良いだろう。その上、点穴法にも精通しているとは、真に思いがけぬことじゃった。じゃが杜施主よ、今のは些かやりすぎていたではあるまいか。」
 白面書生こと杜一平、その一連の鮮やかな技は、大勢の目を誤魔化せても、聞声にははっきりと看破されていた。
 彼は最初田沖の手首にある陽池、陽渓の二つの穴道を狙い、いったん力が抜けると、続けざまに肘の曲池と肩の天宗を突き、相手の片腕の力を解除し、同時にその武器も奪った。その動きがあまりにも早く、田沖は不意に衝かれてまんまと罠にかかった。杜一平は隙を与えずに、続けてさらに下半身の数箇所の要穴も突き、一瞬のうちに田沖の身体を封じたのだ。
 普通の者なら一たまりもなく倒れていたところだが、田沖は意地を張ってしばらく踏ん張っていた。ついに耐え切れなくなり、崩れて膝を突いてしまったのである。
 一戦を勝ち取って、杜一平は得意な表情を浮かべた。聞声に咎められて、謝りもせず悠然と扇子を使った。
 聞声は田沖の後ろに立ち、その背中に掌を当てて穴道を解こうとした。身体の数箇所が封印されているので、田沖はまるで金縛りされたように、少しも思うように四肢を動かせない。
 田沖は槍一本で半生を生き抜いてきた人間である。もともと穴道についての知識がない上、不意にやられて心が焦っているせいか、いくら力んでも身体は解けず、額に青筋が膨らんできた。
 変に気を回されては却って解きにくいから、聞声はしかたなく、ポンと彼の頭の天辺を叩いて、まずは気絶させた。それから、身体の数箇所から気を送り、いくらか脈をほぐしてやった。
 金槍派の弟子は数人駆け寄って気絶した師匠を道場の隅のほうへ運んで寝かせた。
 聞声は眉毛を寄せて杜一平および葉艶らを見た。銭有生、馬忠に続き、田沖も続けてやられた。並の者に出られても負けるに決まっている。相手の威勢を助長するだけだ。ここは自分が一つ力を見せてやらねば。
 「杜施主、武林に足を踏み込まれてずいぶん経ったと見えるが、江湖の礼儀というものにいささか疎いようじゃの。どうだ、ここは一つ、老僧とやってくれまいか。」
 聞声はあくまで相手を杜一平一人に絞りたかった。さきほど田沖との戦いをよく観察していたので、杜一平ならばやや勝算があると思った。
 「方丈さま相手なら、それがしも光栄でございます。どうぞお手柔らかに。」
 「うむ。とりあえず田様の槍を返してもらおうか。」
 聞声は転がっている田の槍を指差して言った。
 「槍ならここにあります。ほしければどうぞお取りください。」
 杜一平は足で槍を蹴り上げて手で掴み、逆さまにすると、思いっきり槍頭を地面に刺し込んだ。
 細い体にしては相当の内力を持っているようだ。槍の先頭がすっぽり地面に食い込んで赤い穂だけが少し外に残っている。
 聞声は大股に歩き出して槍に手をかけた。同時に杜一平の扇子も聞声の手に伸びてきた。
 相手は当然素直に槍を渡してくれるわけがない。襲撃は予想していた。聞声は襲ってくる扇子にかまわず、もう一方の手を掌にして杜一平の胸に押していった。
 杜一平は直ちに扇子を戻し、身を沈むと、聞声の腕にある神門、少海を狙った。二つとも腕の内側にある穴道である。さきほど田沖と同じように、まず腕から攻め、それから身体を封じようとする戦法であろう。
 動きが早く、避けるのは難しい。しかし、聞声はまるで気づかぬ風で掌を止めずに推していった。杜一平は、はっとしてすぐ出しかけた手を引いて横へ避けた。
 聞声のこの一掌はそれほど早いものではないが、あまりにも強烈な気が込められており、杜一平はたとえ穴道を突いたとしても、直ちにその勢いを止められるものではなかった。彼は動きで勝っているものの、気力ではやはり聞声に及ばなかった。
 杜一平を追い返すと、聞声はおもむろに金槍を抜き取った。
 「田家槍法は少林伏魔棒法と相通じるところもあり、田家が負ければ少林の負け、田家の恥は少林の恥なり。」
 聞声はそう言って両手で以て槍を一振り、斜めに天に突き出し、一式「如来在天」の構えを取って見せた。
 杜一平も負けずに扇子を構えた。少林方丈に底力を見せられ、さきまでの余裕な表情が消え、真剣な顔つきになった。
 二人はしばらく動かずに対峙していた。互いに名前こそを知っているものの、手を交わすのはこれが初めてである。
 やがて聞声は槍を振り回した。袈裟が翻るなかに、金槍は縦横に乱舞している。槍鋒が空を切り裂き、槍尾は地を猛掃す。回りに立って居るだけでも気圧されるような強烈さで、とても七十という高齢に思えない。
 聞声はその勢いで杜一平に攻めていった。力では勝っているが、構えとしては完璧なものではない。杜一平は自分の素早い動きで以て、その身体に触れようと思えば触れられぬものでもない。しかし、聞声の気力を恐れてなかなか手を出せず、しかたなく逃げ回っている。
 幸い道場が広く、いくらでも逃げられる場所はある。だが、ずっと逃げ回っているだけでは勝負はつかないし、面子にもかかわる。杜一平は逃げながら聞声の隙を伺った。
 少林寺では人を傷つけるような刃物を使うのは禁じられているので、普段は主に棒類で練武している。田家槍と少林伏魔棒が相通じると言ったのは、むろん出鱈目である。槍はいわば棒の先端に刃を取り付けたようなものだが、実戦では主に突くことで使われる。それに対して棍棒は振り払うのが特徴である。槍を棒として使うには当然無理がある。聞声がそう言ったのは、あくまでも田沖を庇っているつもりで、金槍派の味方であることを示したのである。
 杜一平は逃げ回りながら絶えず聞声の動きに注意した。
 突然、彼は足を止めると、この上ない速さで聞声に飛びついた。
 その時、聞声はちょうど槍を真上に上げて振り下ろそうとしているところだった。逃げていた敵が不意に逆戻りするのは意外だったが、それでも彼は怯まずに槍を振り下ろした。
 杜一平は目も留まらぬ速さで素早く扇子と指を使い、聞声の身体数箇所を突いた。槍林棒雨の中で、これだけのことがやり遂げられるのも、真に神業としか言いようがない。
 杜一平にとって、一寸の迷いは命取りになる。これだけをやると彼は足で地を蹴り、振り下ろされてくる槍を避けようとした。ところが、門僧の槍は途中急に方向を変え、自分の身体を追ってきた。
 考えられないことだ――
 今の点穴功は、気力も十二分にして、身体前面にある数箇所重要な穴道を突いている。直ちに身体を封じることができなくとも、自由に動けないはずだ。しかし聞声の様子では、まるで効いていないようだ。
 槍は重みを帯びて腰に掃ってくる。もはや考える暇もない。杜一平は大急ぎで地面へ伏して間一髪、辛うじてこれを避けたが、体はすでに最悪の姿勢となっている。
 「もらったぞ。」
 杜一平は急いで上半身だけを持ち上げたが、聞声の掌が声とともにすでに胸の前に迫ってきた。四肢がまだ立ち直っておらず、この一掌はもう避けるすべがない。
 電光石火、杜一平はぱっと扇子を開けて胸元に翳した。同時に聞声の掌もその上に打ち込んだ。
 ぱんっという音がして、杜一平の体は一丈ほど先に飛ばされた。体が二三回転がると、うつ伏せになった。
 道場の一角から、どっと歓声があがった。金槍派の者たちである。
 師匠田が杜一平にやられたのを見て、みんな心の中では憤々に思いながらも、自分らの力ではどうにもならないと分かって黙っていなければならなかった。そこで、聞声が自ら手を出して田を助けた上、少林寺が味方と明言してくれることに、すでに大いに感謝していた。
 そして今、聞声は杜一平を打ち破り、それもほかではなく、師匠の金槍で負かしたのだから、何よりも胸がすっきりする。金槍派の弟子らはまるで自分らが勝ったように喜んだ。
 一方、聞声は追い討ちをやめて杜一平を見下ろしている。
 相手の体を打ったものの何か違和感がある。自分の経験では今の一掌は致命的なもののはずだ。扇子一本で防げるようなものではない。たとえ自分であっても、これと同じような一撃を受ければ重傷を負いかねない。しかし、どうも何かが違う。打ったときの感触も違えば、音も違う。
 杜一平は丁不来に支えられて立ち上がった。手を胸に当てて、息が荒くなっている。聞声の一掌はかなり応えたらしい。
 見ると、杜一平の扇子は折れたまま地面に落ちている。その上に、一つの手のひらの形が食い込んでいる。
 なるほど――
 聞声はこれで納得した。
 普通の扇子ではなかった。鋼鉄、もしくはそれ以上に硬いもので作られた特別なものだ。
 「さすがに少林方丈さま、これは、油断しました……」
 杜一平の声は弱弱しいものになった。
 「少林の『移筋換脈功』というものを忘れていたのは、こちらの失策だった……」
 そう言いかけて急に口を噤んだ。
 扇子にいくらか守られたが、聞声の内力はただならぬものだったので、内臓に衝撃が入り、これ以上話すと気が乱れて危険だと判断した。杜一平は話しを止め、地面に坐って運気調心を始めた。丁不来はその背中に手を当てて手伝った。
 少林寺には、古くから伝わる『易筋経』という書がある。杜一平の言った「移筋換脈功」は、これを基本にして発展されたものである。
 人間の身体中には、大小無数の穴道があり、通常は目鼻のように、決まった部位にある。点穴功を習うには、まずこれらの穴道の位置を覚えなければならない。しかし、少林寺の移筋換脈功は、内功によって筋脈を動かし、一時的に穴道の位置を変えることができる。まさに、点穴功を防ぐに絶好の武功である。
 聞声は一生の間を少林寺で過ごし、易筋経とは数十年も以上も付き合ってきたのだから、もはや身体の一部になっているようなものである。攻撃を受ければ、身体は本能的に反応し、今は移筋換脈功を使ったなど考えもしなかった。
 聞声はこの一戦で、葉艶一同が道場の人々の心の上に翳していた恐怖を吹っ飛ばした。
 あの伝説の「崑崙五老」も勝てないものではないのだ――
 みんなは思わず自信が湧き上がってきた。
 聞声は勝ち誇って威風堂々に葉艶の前へ歩いていった。
 「葉施主、我々武林同志はそう簡単に屈することができなぬものだ。打たれては打ち返す。倒されては必ず立ち上がる。それは中原の魂ということを、そなたも知らぬではあるまい。悪いことは言わぬ、さっさと仲間を連れて武当山を降りて行け。」
 「ふん」
 葉艶は少しも動じる容子がなく笑った。
 「仲間?あたしには仲間というものなど、一人も居らぬ。たかが崑崙五老くらい倒したところで、それがどうしたというのだ?そもそも彼らはあたしと関係なく、勝手についてきたのだ。そのような者らが勝とうが負けようが知ったことじゃないわ。さっきも言ったように、今日武当派へ来たのは、柳尚雲と薜雷、この二人にお仕置きをするだけのためだ。他の者には用はない。どうしても邪魔してくるのは、そっちが悪い。それに、少林寺は出家者らが集まるところと聞きますが、その方丈さまはこんな戦好きだとは知らなかったわ。」
 「葉施主!」
 聞声は図星を指されて顔を成した。
 七十も超える歳の出家者とはいえ、熱血さはまだ若者に劣らない。少林寺では日々の法事作法や読経などが済むと、これといってやることもないので、乱世の中で身を守るためということで昔から練武も日課の一部に入っている。特に聞声のような格が高い者は、掃除炊飯など雑事もやらないので、説経のほかにほとんど練武一心に腕を磨いてきた。
 武術に入り込めば入り込むほど、勝負心が湧き上がってくるのは自然な成り行きであり、たとえ出家者であっても、これは越え難い壁である。聞声は特に自分の武術を衒おうとするつもりはないが、久々にさまざまな武林人に会い、知らずに血が騒ぎ、ましてこれほどの強敵に巡り会うのも千載一遇、体中がうずうずしてついに手を出してしまったのだ。
 しかし、葉艶に言われてもここで引き下がるわけにはいかない。
 「まことにそちらの言うとおり、もともと我々出家する者は俗世の紛争にかかわるべきではない。だが、昔から天地の間に『正』の一字があり、よろずの物事に『理』というものがある。これをむやみに踏み躙る者は仏でも許されまい。わしはここで天に代わってこれを正してやったにすぎぬ。女人とて手加減はせぬぞ。」
 「あら、方丈さまはこのわたくしに手を出されるとおっしゃるのかしら。」
 「何をかまうことやあろう。」
 聞声は言うや身を躍らして葉艶に迫っていった。
 右手が鷲掴みに肩を狙い、左手に持つ槍で相手の逃げ道を封じた。腕が風を扇ぎ、金槍が鉄壁となり、葉艶はたちまち窮地に挟まれることとなった。
 だが、勢い良く攻めて行った聞声は、葉艶の肩に触れる直前に、なんの前触れもなく、急に袖に寒気を感じ慌てて手を引き、頭を守りつつ、足で続けざまに地を蹴りだしてまた戻ってきた。
 ガランという音で、金槍が半分となって葉艶の前に落ちた。見ると、葉艶の前には、また例の男が立っている。
 そうか、この男を忘れていた――
 右腕を上げて見ると、袈裟の袂がきれいに切られてぶら下がっている。
 殺意のない一剣だ。でなければ、今頃この腕はなくなっている。
 聞声はあらためてこの男を見た。
 さきほど、一剣にして馬忠を退けた時にやや驚いたが、何しろ男は地味な服装をしており、いつも葉艶の後ろに立っているので目立たない。自分もなんとか崑崙五老の一人をやりこめし、得意になっているところだったから、うっかりしてついついその存在を忘れていた。
 自分に向かって微笑んでいる葉艶を見て、聞声はようやくその自信の由来が悟った。
 この男が傍に居る以上、たとえハエ一匹ですら、その身体に触れることは出来まい――
 聞声は迷った。この状況は、どうする。
 男はたった二回しか手を出していない。しかしそれだけで、武当掌門と少林方丈を退治した。崑崙五老の一人を倒したことで少し勝ち目が見えてきたのは大間違いだった。まことに天が外にまた天あり、山が上にさらに山ありとは、よく言われるもので、江湖では、自分の上にどんな武林高手が居るか知ることではない。
 「どうなさいましたか、聞声大師。」
 葉艶は聞声の心を見抜いた。
 「このわたくしを捉えようとなさるのではなかったでしょうか。どうせわたくしなんか敵(かな)うものではないから、どうにでも好きにどうぞ。さぁ――」
 聞声の顔は赤くなったり白くなったりしてどうすることもできない。
 武林の中で、威光と武功を一番と推されている少林方丈ですら手を出せないとみれば、他の者はみな大人しくなった。
 いかなる勝負事においても、単に力の差で相手を負かすことは表面的な勝利に過ぎない。相手の心に穴を打ち明け、その中を恐怖でいっぱいに満たすことこそ、真(しん)の勝ちである。
 場内は再び葉艶らの気勢に支配された。この天女の如き女人は、まるで死神のように一同の上に君臨している。
 そのとき、正門のほうから人がもめているような騒ぎが起こった。見ると、正門を包囲している敵の者を押しのけて、一人の僧が入ってきた。
 「いやいや、なぜわしを追い出すのじゃ。貧僧はただ行施をしに参ったのじゃ、武当派は富を懲らし、貧を救うといわれるじゃないか。さあ、通せ通せ――」
 ぼろぼろな袈裟を纏い、体中が垢だらけで、駄々をこねるように言いながら左右に転がりながら無理に入ってきた。不思議にも見張りの者らは、誰もがその身体を捉えることができなかった。
 「見色?……見色なのか。」
 聞声はためらいながらに声をかけた。
 「よう、聞声じゃないか。久しぶりじゃのう。なんじゃ、お前もここに布施をもらいに来たのか。」
 僧は聞声の姿を認めると、なれなれしく応じた。
 「見色、なぜここに来たのか。ずっと探しておったぞ。」
 「ははは――何をするかじゃと。僧なる者はあちこちへ行って施しを頂戴するに決まって居るじゃないか。」
 見色の名を聞くと、各幇派の掌門をはじめ、年を取った武林人はみんな驚いた。
 これが数十年前に江湖から突然姿を消した少林右護法、見色たる者か――
 むろん、その顔を始めて見る人は多い。あらためてこの僧を見ると、年の割には多少内力を持っているようなだけで特別なところは見えない。しかし、聞声がそう言ったからには間違いなかろう。
 一人葉艶だけは、また一人邪魔者が入ったという風に、不機嫌な顔をして彼を眺めた。
 「よう、そこのお嬢様。いちばん金を持って居そうじゃの。どうじゃ、一つお願いできまいかのう。」
 見色は白い髭を下げながら、なんとも呑気な顔をして葉艶のところに近寄ってきた。
 「見色、いかん!危ないっ。」
 聞声がそう呼んだのはもう遅かった。見色はどんどん歩いてきてもう葉艶の前へ近寄ってきた。片手を差し出してなれなれしく、
 「お願いで……」
 言い終わらぬうちに、横から例の男が襲ってきた。
 しまった――
 距離から言って聞声のほうは葉艶より近かったが、男の動きは常識を超え、手に剣を握ったかと思うと、もう葉艶の前に現れた。
 男は馬忠の剣を弾け、聞声の槍を叩き落し、その素早さは常人をはるかに超えている。見色は事情を知らず、たとえ殺意がなくともこのままだと、怪我せずにはおかない。
 閃光が走り、男の剣は見色の腕に切っていく。
 と、その時、見色は出しかけた手を二、三寸引っ込めると、ビンという音がして三本の指でその剣先をしっかりと掴み取った。
 「凌空剣!ほほー、これはめずらしい。お主は虚空の弟子じゃの。」
 「左様。」
 男は始めて口を開いた。見色が指を離すと剣を引いて下がった。
 「うむ。なかなかの使い手じゃ。だが、お主の心に一寸の迷いがあると見えて、十分にその剣法を使いこなして居らぬ。」
 「お見事。」
 男は顔と同じく無表情な声で応じた。
 「ほー、気づいて居るのか、まっすぐでいいの。感心、感心……」
 「墨語!しゃべりすぎだ。早くそれを片付けなさいよ!」
 葉艶は堪忍袋が破れたように男へ向かって叫んだ。
 「はっ」
 男は大人しく返事をした。
 思いがけなく、見色が見事に強敵を受け止めたのを見て、聞声、馬忠らは安堵すると共に、心強い味方を得たと思った。そして改めてこの汚いなりの坊さんを見た。
 見色は嘗て聞声と肩を並べて少林の左右護法と呼ばれた。その武功は聞声とほとんど変わらないことが想像される。聞声は数十年振りに再会した見色を驚異な目で見ずには居られなかった。自分ですら止めることの出来なかった敵を見色は訳もなく制した。そればかりではなく、彼は敵の男の剣法も看破した。
 聞声はやや嫉妬のようなものを感じた。
 見ると、見色は依然として暢気な顔で道場の真ん中に立っている。見色が現れることで、この墨語と呼ばれる男を覆っている謎が少しばかり剥がされてくるような気がした。だがいったい葉艶とはどんな関係なのか、誰もが不思議に思っている。並外れる武術を持ちながら、まるで葉艶の言いなりになっている。
 葉艶の命令を聞くと、彼は剣を抜いて見色に差し向けた。
 場内は一触即発の雰囲気に包まれている。
 男は黙って見色を見つめた。と、何を思ったか、彼は一旦剣を下ろし、葉艶のほうに振り返り、腰を曲げて一礼をした。それから再び剣を見色に向けて、前よりも真剣な顔になった。
 その姿に、葉艶はさっと顔色を変えた。
 何か他人に分からない秘密は彼女を動かしているに違いない。周囲の者は言い合わせたように数歩下がり、二人の一騎打ちを見守った。
 場内は静まり返って固唾を飲み込音すら聞こえそうだ。
 そんな中に、一つ妙なの音が徐々に大きく響き出して道場に広がってきた。
 それは金属のぶつかるようなものでもあるし、また蜂の群れの羽の音にも聞こえる。しばらくすると、ようやく、それは墨語の剣から発しているものだと分った。
 丁不来や杜一平と同じく、この男もまた奇妙な武器を持っているようだ。
 音がだんだん大きくなり、耳を劈(つんざ)かんばかりになってきた。
 と、男は動いた。
 その一瞬の後に、彼にあわせて見色も動き始めた。
 二人は目にも留まらぬ速さで左右前後に位置を変えていく。武器のぶつかる音は一つ聞こえない。墨語の剣身から発する音だけが大きくなったり、弱くなったりしている。しかし何より目を見張るのは男の動き方である。
 通常、飛び上がる前に、まずは足や腰を曲げてからするものだが、墨語にはそのような予備動作がまったく見当たらない。動きが早いからかと思うとそうでもない。腕をあげると次の瞬間も飛び掛っている。剣を握るというよりむしろ剣に引っ張られていくようで、いや、まるで見えない大きな手が墨語の手首を掴んでおり、見色と戦わしているように見える。
 一方、見色は反撃をせず、さっきから相手の攻撃を避け続けている。武器を持っていないということもあろうが、そもそも立ち向かう気配が感じられない。その逃げざまはまた滑稽なものである。地面に転がったり、横へ伏せたり、ときには相手の剣を避(よ)けるために地面へ跪いたりして、見るにも狼狽な姿である。
 みなは見色が再び男の剣を捉えることを願ったが、この様子では到底適わないだろうと思われた。
 墨語の動きはますます早くなり、見色も狼狽さを極めてあちこちに逃げ回った。なにしろ年の差もあるので、聞声と同じぐらい七十の高齢だとすれば、体力も集中力も相手よりずっと劣っているはずである。
 道場の一辺に居る馬忠は、見色という思いがけない心強い見方が現れたことで、ようやく望みをつないだが、力の差で早いとこ相手を倒せばいいのに、逃げてばかりのでは、いずれ斬られるのも、時間の問題としか思えない。彼は、今か今かと思いながら、二人の戦いをはらはらして眺めた。
 「墨語……」
 と、その時、葉艶の声が聞こえた。
 墨語はさっと剣を収め、ぴたりと立ち止まって葉艶を見た。
 「もう良い。下がれ。」
 葉艶は意外なことを言った。
 男は、「はっ」と答えて、何の未練もなく葉艶の後ろに下がっていった。襲い掛かるのと同じような唐突さだったので、見る者みな呆気に取られた。
 見色もようやくひと息ついて立ち直ると、
 「なんだ、もうやめるのか。もう少し見せてもらいたいのう。」
 葉艶は憎いような目で見色を睨んだ。やってきた時の余裕さはすっかり消えうせた。怒りに覆われた彼女の顔は、また特別な風味があった。
 それから、薜雷と柳尚雲のほうをそれぞれ睨みつけて、身を回すと何も言わずに正門のほうに歩いていった。
 これには聞声、馬忠ら武当派に集まる各武林人だけでなく、葉艶の連れてきた部下らもあっけにとられてしまった。
 丁不来は急いで追いついて、
 「おい、どこへ行くのだ。」
 葉艶は立ち止まって皮肉るように彼を見た、
 「お前が残ってここを片付けてくれ。」
 「何っ」
 葉艶はそう言うと振り向きもせず門外へ消えた。
 丁不来は、ぼかんとした顔でそれを見送ってから、見色ら衆人を振り返ったが、所詮自分ひとりではどうすることも出来ないと思い、負傷した杜一平を支えて続いて出て行った。
 黒雲は人々の上から過ぎ去った。敵の最後の一人が門外に消えると、誰もが生き返ったようにほっとした。
 「見色、待て!」
 見ると、見色は外へ歩いて行こうとした。
 「どこへ行く。まだそなたに聞きたいことがある。」
 馬忠も急いで駆け寄って、
 「見色大師、しばしお待ちください。急場を救っていただき、武当派一同はまだお礼を申し上げておりませぬ。」
 「いやいや、わしは天下を歩き回る貧僧に過ぎぬ故、礼を言われるまでもない。これでさらばじゃ。」
 見色は服の埃を叩(はた)いてまた行こうとした。
 「見色!」
 聞声は一足飛び寄って呼び止めた。
 「ここ数十年の間、どこで何をしていたのじゃ。この通り、時代が変わり、武林でも動乱しておる。わしとともに嵩山へ戻り、少林寺を立て直そうではないか。」
 ははははははー
 見色は天に向かって笑い出した。
 「聞声よ、少林は何ぞや、己は何処にありや。」
 「……左様でござるが……しかし――」
 見色は背を向けてつたつたと歩き出した。

 「武林とはなんぞや、江湖とはなんぞや、
 今宵の金欄銀壁も、明日の廃雲敗水。
 武当とはなんぞや、少林とはなんぞや、
 門前乱草のみ払へど、心中雑念は尚消へず。」

 見色はゆっくり朗しながら、外へ出て行った。一字ごとに声が遠ざかり、最後の一字を言い終わるときには、もうかなり遠くへ去っていったようだ。
 馬忠らはしばらく呆然としてその声を聞いていた。それから、思い出したように、続いて外に出た。
 見ると、門番をしていたはずの武当派弟子らは、みな縄で縛られ、口もふさがれている。中には気絶していたのが、ようやく目が覚めたとみえ、きょとんとした顔で掌門らを見ている。
 馬忠はむろん弟子を責める気はない。責めるとしたら自分を責めるしかない。武当派を自分に任せたばかりに、今日のようなことが起こったのだ。幸い武林大会の日に、各門派の武林高手も来ているから助かったものの、自分の無能さでは到底派を長く持ち続けていけるとは思えない。武当派がいつか自分の手で滅びるかと思うと、馬忠は悲しい気持ちになった。
 敵が去り、各幇派もほっとした。三年に一度の武当大会に、こんなことが起こるとは誰でも予想しなかった。みな馬忠の気持ちも察しているので、少林や古龍の者は彼を慰めた。関係の薄い者はそこそこに挨拶をして武当派を後にした。
 その中に、挨拶もせずに去っていく一隊があった。
 「柳先輩、お待ちを。」
 馬忠はわき目も振らずに去って行こうとする柳尚雲を呼び止めた。
 「柳先輩、今日のことは真に申し訳ありません。馬忠のこの人頭を捧げてもお詫びにはなりません。また後の機会にて、お詫びに参りますゆえ、どうかお許しを。」
 柳尚雲は昂然した態度で馬忠を見下ろした。
 今日の件は江湖でも珍しく、武当派に起こったものの、当然すべて武当派の責任に押し付けるわけに行かない。敵も敵だし、噂に聞こえる崑崙五老に加え、あの驚異な剣法を使う男もいた。現に雲のように集まっていた武林人ら誰一人相手になれず、あの見色という僧がいなければ、どうなることか知らない。
 それに、数年ぶりにあった葉艶は、ほかならぬ、自分のためにやってきたのだ。どちらかといえば、責任は自分にある。しかし、柳尚雲はむろん頭を下げて謝る人ではない。
 「ふん、馬掌門はご謙遜を。武当派は江湖に知られたる名門正派であり、悪人を懲らし、弱者を助け、あのような子娘を相手には、手を許していたのでしょう。真に感心でございます。われわれも見習わないと。」
 皮肉たっぷりの言い方である。
 自分と葉艶の一件をさりげなく逸らしただけでなく、暗に葉艶を退治できないことを、武当派及び各門派の責任に押し付けているのである。
 馬忠は一々かしこまって聞いていた。柳尚雲が去っていこうとすると、また引き止めた。
 「おっしゃるとおりでございます。今回の件はすべてわれわれ武当派の責任でございます。それで、せめての償いとして、どうか厚かましいお願いを聞いていただけませんでしょうか。」
 「なんのことでしょう。」
 「恐れ入りますが、そこのお嬢様をしばらく武当派に置いていただきたいと思いますが、いかがでしょうか。」
 馬忠は柳尚雲の隣に立っている柳斬情を指して言った。柳尚雲はむっとした顔で馬忠を見返した。
 「なんですと。羞鶯笛の弟子をここに引き止めてなんの償いになるというのか。」
 「たしかに変な話のようですが、私の考えでは、柳お嬢さんをここにしばらく留まってもらい、武当派の武術を教えてやりたいと存じます。本派ではたいした武術もありませんが、陰流、陽流のいずれも、習いたければ惜しみなくお教えしたいと存じます。いかがでしょうか。私どもの気持ちを受け入れていただけませんでしょうか。先徐掌門もきっと喜ばれるかと存じますが――」 
 徐問亭のことになると、柳斬情はなおさら
 「ふん、誰が武当派の武術なんか……」
 「それがよい!」
 と、横から柳尚雲の言葉を遮るように聞声方丈も加勢した。
 「それがよい!柳施主、馬掌門がここまでお願いしたならば、そうしようではないか。両方にとっても悪い話ではない。今日の不意打ちは真に残念じゃ、二度とこのようなことが起こらぬよう、羞鶯笛の将来を考えても、お互いに武術を習いあうのも一策であろう。」
 柳尚雲は黙って二人を見た。なんだか侮辱された気がする。
 柳斬情は自分の娘ではあるが、徐問亭との間に出来た子であり、生れたときからあまり好きではなかった。だがそうはいうものの、むろん娘をここに置いていくのは気乗りではない。
 だが、少林方丈が口添えすれば、わがままも通らない。「羞鶯笛の将来」なんていう言葉には、暗に今日の事件が羞鶯笛と関係あることをあてつけているわけで、さすがの柳尚雲も強気には反論できない。少林と武当は昔からの誼であり、手を合わせれば自分ひとりでは到底相手にもなれず、武林衆派の前で恥をさらすより、ここは先方の言葉に従うしかない。
 「武林の先輩たる武当派は、われわれ羞鶯笛の女弟子をほしがるなど、これまで聞いたこともないが、聞声方丈がそうおっしゃるなら、私も異存はございません。斬情!」
 柳尚雲は自分の娘を呼んだ。
 「お前はしばらくここに留まろう。馬掌門の気が済んだらいつでも戻るが良い。」
 「師父……」
 柳斬情はおずおずと前へ進み出て、憐れな目で母親を見た。自分はこのまま捨てられるのかと不安に思った。
 だが、彼女は小さい頃から柳尚雲のことを「母親」と思うより、「師匠」だと思うほうが大きかった。自分は羞鶯笛に生れ、師姐師妹たちと共に音曲を稽古し武術を習い、柳尚雲が自分に対して少しも贔屓するようなことはしなかった。
 そして、他の弟子同様に、師匠の命令は絶対であった――
 このように、柳尚雲は一人娘を武当派に残し、羞鶯笛の一同を率いて帰っていった。かつての弟子に翻弄された上、娘とも離れた彼女の胸中には、さまざまな思いでいっぱいであろう。
 後に、とある雅士(ぶんじん)は今日の事件を歌に読んでみた。

 軒の月わか葉ふたすじみすじ舞ひぬれば
 武当の雲はいざ飛ばされぬ

 たまさかに艶やかなる袖ぞひと振りに
 少林の松も去れど甲斐なき

『武当風雲録』第一章、五、武当武林大会

『武当風雲録』第一章、五、武当武林大会

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-01-25

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