パラ磯

パラ磯

「耳を挟んでくれ」と言ったのがどうやらトドメらしい

 先日看護師の彼女と別れた。髪を食べさせてもらったところから関係が怪しくなりホッチキスを出し「耳を挟んでくれ」と言ったのがどうやらトドメらしい。
 その際なにかを喋ろうと口を開いた彼女だが、無言で吸いかけのタバコを中断しジャズミュージック流れる3時間5000円の部屋からそそくさと出て行った。
 何故だ、あれだけ注射を上手く出来るよう協力してやったのに。青くなった注射痕を押すとむず痒い、虫女め。
 彼女は話を聞いているこちらが不快に思うほど別れた人の事をボロクソに言う人だったので、私もいずれ彼女と彼女の新しい相手に多少のユーモアを絡まされながら嘲罵されるのだろう。そんなことより最後の願いに頬へタバコでも押し付けてもらえば良かったか。
 後悔の念に駆られていると、ややあって「お連れ様はおかえりですか」フロントから電話が掛かる。
 「あ、ええ」適当に返事をし受話器を置く。
 彼女が身体に巻いていたバスタオルは私だけしか居なくなった部屋、広いベッドの下部。幾重にも押し寄せた小波の様、皺になったシーツと共に追いやられていた。手に取り憂鬱を拭い去るようそれを顔面へ押し当てる。柔らかな木綿地を介して肺一杯に残り香を吸い込むと更にそれを口に含んだ。
 延長という布石から恭しく宿泊に切り替え、朝まで、と目論んでいた計画はご破算に。仕方がないので残ったゴム風船の片割れを鞄へ忍ばせると、屑籠の中、無言で口を結ぶ“白濁した液”に充たされた兄弟にさよならを告げ部屋を出る。
 フロントへ鍵を返す際併せて彼女が摂取した飲料の代金を追加で払う。あんな細い缶なのに300円もするのか、ペットボトルで買えば遥かに安いものを。街へ出、歩く。
 JR山手線の線路沿いに上野から御徒町方面へ抜け、銀杏立ち並ぶ通りへ突き当たる。寝ぼけ眼でインターネットカフェへ入店する。あいにくフラットな席は空いておらず、リクライニングチェアに体を埋める事となる。SNSを確認しログアウトすると靴を脱ぎ、逆さまにしたゴミ箱へ足を置く。通勤ラッシュが始まる0700前にアラームをセット、眠りにつく。
 予定通り退店し駅へ向かう私を信号の赤い目玉が睨みつけた、さっきまで全てを受け入れてくれそうな青色をしていたのにどうしたというのだろう。
 目の前には等間隔の黒と白の縞々が広がっている。正確に云えば石油の残渣(ざんさ)で造られた地面に白い塗料が塗られただけのものであるが、何もないアスファルトに後から来た色が秩序をもたらしたのだ。そう思えばとても感慨深い。
 向こう岸からぬるい拍手のような音を立て、ハイヒールを履いたOLが走ってくる。すれ違う。
 こうあからさまな信号無視ではいつも赤信号で待っているのは私だけだと錯覚させられてしまう。二つ折りの線が付いた得体の知れないチラシが風を受ける度、その緩いL字型を帆にしてアスファルトをざらつかせながら航行してゆく。
 最近人間がサッカー盤で踊らされているプラスチックだとか合成樹脂の、申し訳程度に着色された簡素な人形に見える。足元のマンホール上にドングリが転がっているのに気付く。ドングリの木なんて見当たらないのにこれは珍しい。殻斗(ぼうし)を欠いたソレは樹木という一つの社会的集団から脱落し、これから何も持たず放り出される人間への暗示ではなかろうかと見るものを焦燥させる。その不安を打ち払うが如く踏みつけるも堅い殻へはひびすら入らなかった。
 湿気たダンボール香る朝の風。大容量の水槽へ落とされた一滴。黒い鳥の声が溶けては消え、路地ではチュチュンと鳴く可愛らしい小鳥たちが撒かれた吐瀉物を恐ろしい勢いで殲滅する。
 飽和状態になった闇がまた夕暮れを連れ空に暗幕を掛けに来るのだろう。差し詰め我々の住む世界は演技者と観客が一体となった向かい合わせの舞台だ。
 休日、歩行者天国へと化け、家族連れは少なくパフォーマーや国外からの観光客やオタクで賑わう目の前の通りは車両少なく時折空車のタクシーが駅の方角へ過ぎて行く。チラシで出来た頼りなく薄っぺらな帆船達は排水溝の窪みに吹き溜まり、黙った。
 最近どうも生きた心地がしない。盤上で壊れ、ボールはそっち除けで、別の人形に蹴り転がされている気分だ。軸さえあれば回る事は易いのだが……厚紙をコンパスで測り、切り取って好きな色を塗り爪楊枝を挿した独楽。上手く回すと逆立ちする木の実で出来た独楽たちを思い出す。私は彼らを何処へやってしまったのか。彼らが私達から離れていったのか。
 ただ生存しているだけで曲がりなりにも大人になった私は、側頭部に開いた二つの孔から常識という呪文を吹き込まれ。内側から破る事も叶わずそのまま腐った卵を大切に懐で温め、何と無くたまに取り出しては眺めている。
 本当に形の整ったものこそ奇形なのだ。我々は軸を得たら得たで歪な円を描きながら回り続けなければならない、衝突し弾き出され、或いは自らの遠心力を以て保ち続ける事が出来なくなるまで。
 眩暈がし卵を取り落してしまう。白い額を割り中の汚物を飛び散らかすかに見えたが、クシャンと割れた殻の中身は乾燥してカスのようになった卵黄と卵白であった。卵の中身は割って初めて分かるが、卵も割れて初めて自身の置かれている状況が理解出来たのだろうか。分かった時には後の祭り、全てが終わっている。
 あの独楽は気持ちの悪い蟲が湧いて何の愛着も無く捨てたのだったな。サッカー盤で踊らされる人形の一体も借り物に過ぎなかった。
 携帯電話を曲がらない方向へ二つにする。未練がましく繋がっていたケーブルを引きちぎれば画面は色を失った。
 いつの間にか横に居た人間の一歩で青を知り、私は波にさらわれぬように力強く歩く、誰よりも早く対岸へ辿り着けるよう一歩一歩。

パラ磯

パラ磯

2392文字

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-01-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted