終末時計
2010年発表SF短編集セレンより。
「ごめんなさいっ」
その瞬間、何が起きたのかすぐには理解できなかった。
目の前に映るのは、お台場の観覧車。その中央でこれでもかってくらいにまぶしいネオンで彩られた、巨大なデジタル時計が煌びやかに光っている。日を跨ぐまでは、三分を切ったところだろうか。
そして、そのロマンティック全開の完璧なシチュエーションの前で佇む一組の男女。すべて計算通りだったはずだ。待ち合わせの二時間前には駅前で待っていたし、彼女の趣味や流行も事前に調査済みだった。プレゼントも用意したし、終盤の港の海が見えるレストランなんて、予約を取るため皿洗いしてまでお店の人に頼みこんだのに。それなのに。
「ごめんね、太郎くん。私……」
それなのに。
「あきらめな。女なんて所詮、こんなもんだって」
ああ、神様のそんな非情なお告げが聞こえてくるようだ。
夏の夜の、気難しきは、乙女心。字余り。
――こんなところまで、ぱっとしない。
地面に転がった小石が、カタカタ音をたてている。重たい地鳴りが足下で響き、不気味に膨れ上がった月が浮かぶ夜空は、よどんだ紅に染まっていた。
その異様な光景を漢字二文字で表すなら、まさに終末。滅亡。
突然、目の前が闇へと暗転した。視界は消滅し、体の感覚も遠くなる。ついには何も聞こえなくなって、ぼくの意識は奈落の底へと飲み込まれていく。
世界最後の日。ぼくの人生で、最初で最後となろう決死の愛の告白は、辛くも失敗に終わったのだった。
「我々人類がこの星に生まれてから早数万年。それより以前の、はるか神々の時代に建設されたとされるお台場パレットタウン大観覧車の終末時計が、ついに世界滅亡のタイムリミット三日を告げるアラームを鳴らしました」
こんなふざけたニュースが流れたのも、記憶に新しい夏休みの前日のこと。
「おーい」
世界がどうにかなるだなんて、もう何十年も前から騒がれていた。だから今更こんな報道があったところで、誰も気にしちゃいない。近所のおばちゃんたちが今朝「もうすぐ世界滅亡だって、やぁねぇ」と言っていたくらいだ。それこそ、ぼくの生まれるずっと昔から。
「おーいってば」
なにごとにも期限はある、時間にだって。世界にだって。当たり前じゃないか。
「ちょっとあんた、聞こえてんの?」
たとえ本当に終末ってやつが来るんだとしても、ぼくらの生活は何一つ変わりはしない。何も出来やしないんだから。
「聞こえてるんならぁ、うちの話ちょびっと聞いてほしいなぁ」
……でも、それでも何故か。ぼくはそのことが、とても物悲しく感じたんだ。
「おいこらクソガキ。なにのんきにいつまでも浸ってんだよ、いい加減うちの話きかねぇってんなら手が出んぞ。俗に言うゴッドハンドですよ。痛いですよ」
その瞬間、ハッと目が覚めた。視界が一気に広がり先ほどのロマンティックな観覧車はどこへやら。見慣れた壁に使い古された黒板、机の上の落書き。開かれた窓からは夏のじめじめ湿った熱風と、忙しないセミの鳴き声が乱入してくる。ここはぼくの通ってる学校に間違いない。
「お、やっと目ぇ覚ましやがりなすったわね」
間違いないはずなのだが、そこには見知らぬ女の子がなんでか知らないけれども仁王立ち。しかも一応日本語のつもりらしいが、奇妙な国の言葉を喋っているような感じだ。やがりなすった。はたしてどう訳せば良いと言うのか。
「っと、言語機能設定がイマイチ。あー、あー」
女の子は紅白の衣装を身に纏った巫女さんのような格好だが、スカートみたいな造りの袴の丈がやたら短い。もうすんごく短い。人前で階段とか勢いよく駆け上がってほしくない。いや問題はそこじゃなくて。
「なに、人の脚ばっかじろじろ見ちゃってさ。……発情?」
完全にごみ虫を見るような目付きで、女の子は手に持った竹ぼうきの先っちょをぼくに向けてくる。腕に少し刺さって地味に痛い。
「いやいや」
それとなく誤魔化した。あくまでクールに。
て言うか軽くスルーしそうになったけど、ぼくはさっきまで観覧車の前に居たはず。それも夜中だ。同じクラスの、大好きな華子ちゃんに告白して――
「へぇー、あいつ華子って言うんだー。ベタな名前」
「当たり前のように心を読まないでよ。ただでさえ、最初から読んでる人置いてけぼりの内容なんだからさ。だいたい、キミはいったい誰なんだ」
「うち?」
聞いてから、ぼくはしまったと思った。人類としての本能っちゅーか、第六感っちゅーか、シックスセンス的なアレが警告していたのに気付けなかったのだ。この人と、関わってはいけないと。
「神様だよ」
「世界滅亡は信じるのに、神様は信じないってかい」
「当然だろ」
自称神様と言い切る謎のミニスカ巫女服少女と、教室に二人っきりと言う摩訶不思議なシチュエーション。同じ一組の男女でも、先ほどと打って変わってそこにはロマンもマロンも微塵もない。
「しっつれいしちゃうわねぇ」
そもそも、本当に神様だとしてなんでぼくの前に居るって言うんだ。その理由は。
……まさか、ぼくが死んだから? あの後、華子ちゃんにフラれたその三分後。世界が本当に滅亡しちゃって。それで、ここは死後の世界だとしたら。
「時間跳躍。タイムスリップだよ」
そうだ、それならぼくの前にこんな嘘くさい神様が居るってのも、どうにかギリギリ頷ける。
「ここは、アンタが華子ちゃんに告白する日より、三日前の世界」
でも、だとしたら他のみんなは。ぼくの両親。学校の友達。華子ちゃんはどこに行ってしまったのだろう。
「アンタ、タイムリープしてねぇ?」
「オーケー、わかった。信じるから。だから無謀な真似はやめて」
女の子は勝ち誇ったかのように、こっちを見てにやにやと下品に笑っている。
どうやらこの神様ってやつは、かなり厄介な性格をしているもんらしい。敵にも味方にもなってほしくないタイプだ。ぶっちゃけ、相手にすらしたくない。あらゆる意味で。
「あ、ちょっと。どこ行くのよ」
「どこって、家に帰るよ。神様が華子ちゃんにフラれてあまりにも惨めだったぼくを、タイムスリップさせて世界滅亡の三日前まで戻してくれた。まとめるとこうなんでしょ、ありがと。終末時計が三日間を刻むまでの間は、家でおとなしくしてるよ。幸い、明日からは夏休みだし」
急に疲れが押し寄せてきた。告白の緊張から解放されたのと、突然の神様襲来で、身体はかなり参ってしまっている。
ふらふらと千鳥足のそれで教室から出ようとするぼくの袖を、いつの間にか神様の細い手が引いていた。
「華子ちゃんのことは、どうすんのさ」
どうせ断られることは分かってしまったんだ。今さらどうするもこうするもない。彼女だって世界最後の日、ぼくなんかに告白されたりしたら、きっと複雑だろう。しかしすでにこの時期ならば、三日後の約束は行われていたはずなのも事実だ。余計なことをしてくれたとすら感じた。
「あとで断りいれとくよ」
神様の手を雑に振り払って、ぼくは教室から出ていく。後ろからなにか声が聞こえたような気がしたけれど、そこでぼくが振り向くことはなかった。
時刻は夕方。そろそろ晩御飯だ。それは良いとして。
「なんで神様がぼくんちで当たり前のように晩御飯食べてんだよ」
「ママさん、おかわり!」
母さんが、あらあらまぁまぁと言わんばかりに、神様の茶碗を受け取って台所へと消えていく。父さんは父さんで、息子であるぼく以上に神様と親しげだ。
「ほおら、それでこれが太郎の初おねしょ記念の写真だよ」
「へぇー、太郎くんにも可愛い時代があったのねぇ」
おい、食卓囲んで何してくれてんだこの二人。わはははじゃないでしょうが。
「ああ、大丈夫よ。太郎くんは今でも十分可愛いから」
おおよそ神格さの欠片もない、地獄のサタン様もびっくり見事な小悪魔スマイルをぶちまけてくれる神様。じゃなくて。
「どういうことだよ神様」
「何がぁ?」
とぼけてこの場をどうこうできる問題ではない。よく見ると両親の頭からは、何か巨大なネジのような物が生えているではないか。そういえば、目もどこか虚ろな気がしないでもない。
「いやぁ、太郎くんの御両親が親切な人でホント良かったよね! まだまだ人間も捨てたもんじゃないね!」
こいつだ。こんな道理もへったくれもすべて蹴っ飛ばした超展開の原因は、人んちで豪快に丼かっ食らってるこいつ以外に、考えられるわけがない。
悪魔のような神様に両親を改造されちまったぼくは、とっとと食事を終えて自分の部屋でひきこもることにした。華子ちゃんへの断りのメールは、どんな理由にすべきだろうか。どうせ後三日で世界は滅ぶんだ。難しく考える必要がないのは百も承知。別に断る必要だってないんだ。もうなにもかも放ったらかして、それで良い。……良いはずなのに。
「悩んでおるなぁ、少年」
顔をあげたら、天井から神様が逆さまになってこちらを見下ろしていた。もういい加減慣れたけど、とにかくなんでもありなんだなこの人。
「ねぇ、神様」
「なにかな太郎くん」
くるっと一回転して上から降りてきた神様が、ぼくのすぐ隣へと座る。ちょっと安心してしまったのが何よりの不覚。
「なんで世界は、滅びなくちゃならないのかな。それも滅びるなら、勝手に滅んでくれれば良いのに。終末時計なんて物を作って、人間の目でその時がわかるようにしとくなんてさ」
ぼくは知らず知らずのうちに、胸の奥で疑問へと変わりつつあるこの世界の摂理について問うていた。
「なにごとにも期限ってのはあるもんなんでしょ」
扇風機から送られてくる風が、神様の肩まで伸びた黒髪を静かに揺らす。
ぼくから返事がないことを気にしたのか、続けざまに神様は口を開いた。
「世界を滅ぼすのは神様の仕業でもなんでもない。それは単に、この世界の終わりってだけ。賞味期限と同じさ。うちは終末時計の管理が仕事だから、こうして悪あがきっぽいことしかしてあげられないわけよ。太郎くん、めちゃくちゃだっさい最後だったから、見てて気の毒になっちゃって」
そう。わかっていたことだ。いや、フラれたことがじゃなくて。これはきっと、どうしようもないことなんだっていうことを。家族も、友達も、近所のおばちゃんも、全人類みんなが。だから誰も怯えない。
あ、終わっちゃうんだ程度の。そんな、世界の終末。
でも、そうだよなぁ。あんな最後はあんまりだよなぁ。
ぼくは、このままで良いのだろうか。
なにがいけなかった。
なにが心残りだ。
フラれたこと? 違う。
『ごめんね、太郎くん。私……』
――私。あの後に続く言葉は。
そうだ。ぼくはまだ、華子ちゃんの気持ちを。答えを、最後まで聞いちゃいないじゃないか。
「やっと男の顔になったなぁ」
にやりと八重歯をちらつかせる神様。
「神様。ぼくさ、もう一度華子ちゃんに告白してみるよ。レストランとかシチュエーションとか、そんな形にとらわれるのはもうやめてさ。素直に、自分の気持ちって言うのかな。伝えてみようと思う」
「おう、頑張れ太郎くん。神様が直々に応援してっから。うちからの御利益、マジで半端ねぇぜっ」
根拠なんてものはない。論も証拠もありはしない。それでも神様の言葉は心強く、ぼくの背中を後押ししてくれる。
最初は、正直後悔した。あのまま世界が滅亡して、人生ゲームオーバーで良かったのにとすら思っていたのに。今となってみれば、これほど頼もしい味方はいない。
「ありがとう。ぼく、神様に会えてよかったよ」
「ノンノン。口説き文句はうちにじゃなくて、華子ちゃんに渡す時まで大事に大事に取っときな」
神様がガッツポーズと同時に勢いよく立ち上がったその時。またしても扇風機より送られてきた小粋なあんちくしょうが、真っ赤に染まった短すぎる袴の間を前から後ろへ、ふわりと実にきわどく通り抜けて行った。
「……見せてんのよ」
「いやまだなにも言ってないから」
三日後。東京都お台場、大観覧車終末時計前にて。
「もうすぐ、終わりだね」
華子ちゃんの一言で見上げた終末時計のデジタル表記は、滅びの刻まで残り一時間となっていることを知らせてくれた。
歩き疲れ、このまま二人でベンチに座って終わるのも、なかなか悪くはない最後だろう。
でも、それでは駄目なのだ。ぼくは聞かなくてはならない。彼女の真意を。ぼくの大好きな華子ちゃんからの、本当の答えを。
今朝、家の玄関でぼくと神様は別れを交わした。
「気張って行ってらっしゃい。もし駄目だったら天国で特別に、うちが慰めてあげるからさ。思いっきりぶつかって、完膚無きまでに玉砕されてきな」
「それなら何がなんでも、オーケーもらってこないとね」
ぼくらは向かい合い、くすっと笑って互いの掌を弾いた。
前回の告白の時と違って、ぼくの気持ちはとても落ち着いていた。それでも、所詮は表面上だけのことである。心の奥底の、ドキドキとした緊張感だけは何一つ変わらない。
隣りに腰かける華子ちゃんを見れば、その鼓動はさらに高まる。
愛くるしい栗色の髪が夜風に揺られ、シャンプーのいい香りが鼻をくすぐる。今日ぼくはこの香りを、果たして何回嗅いだことだろう。一向に飽きる気配はない。永久に包まれていたいとさえ思った。
「ぼくちょっと飲み物買ってくるよ」
少し気まずくなったぼくは、突然立ち上がってベンチから離れた。そのぎこちない様子がおかしかったのか、華子ちゃんが微笑みながら「うん」と小さく頷いてくれた。さすがはぼくのマイエンジェル、ツボを心得てやがるぜ。
ベンチから離れていく太郎の様子を、巫女服を着た少女が観覧車の中心、デジタル表記である巨大な終末時計のふちから、足を投げ出し眺めていた。
観覧車へと吹き付ける風は、彼女の髪と服を粗雑にはたはたと乱す。
「男なら最後に一発どかんと逆転ホームラン、観客席までブチ込んでみせなさいよ。……ありゃ?」
上半身を前のめりにさせ、華子が一人残されたベンチの方へと顔を覗かせる。
数人の人影。
なびく前髪が邪魔をして、その影を上手く確認することができない。
懐から取り出した双眼鏡のレンズ越しの情景に、少女は息を飲んだ。見るからに柄の悪い男たちの姿。囲まれた華子の怯える表情。
「あー、やっべ。これって乙女のピンチってヤツ?」
双眼鏡片手に緊迫を告げる少女の口許には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
「ねぇ、いいじゃん。どうせ後一時間もしないうちに、全部終わっちゃうんだからさぁ」
男たちは集団で華子を囲み退路を断つと、にやにや卑しい笑みを浮かべていた。
「あの、今友達と来てるんで……」
「じゃあ、お友達も一緒でいいからさ。最後くらい俺らと一緒に楽しいことしようぜ」
「ばっか、彼氏に決まってんじゃん。世界滅亡って時に女だけでこんなとこ来るかよ」
うつむいたまま確認出来て、四人。恐怖でかたかたと震える身体を、華子は隠すことができなかった。
不用心だとは思っていた。世界の終焉が近づく中、世間では犯罪の急増が社会問題となっていたし、テレビのニュース番組でも、連日のように外出は控えるように訴えていたのだから。
親からも当然反対された。最後の日ぐらい、家族全員で過ごそうと。
それでも。華子はそれを押し切り此処へ来た。伝えねばならない想いがあったのだ。
「ほら。お前の顔がおっかないから、怯えちゃった」
「うわ、ひっでぇ。傷付くわぁ」
げらげらと下品に笑う男たちの輪の中で、華子はただ祈ることしか出来なかった。
――助けて。助けて、太郎くんっ。
観覧車近くの自動販売機までやってきたは良いが、無情にもすべてのボタンに『売り切れ』の赤いランプが灯っていた。
「こ、こんな時にかぎって……」
いや、むしろこんな時だからなのか。おそらく、もうしばらく前から補充などはされていないのだろう。
自販機に背中を預け、空を見上げてみる。普段なら雲とスモッグとネオンの光で、星すらも見えない漆黒の夜空がそこにあるだけなのだが……今は違う。
夕焼けとは異なる、紅く不気味に染まった空。今にも降ってきそうなほど接近している月。時折、この星そのものが割れるかのような地鳴りが響く。世界崩壊への序曲だ。この一週間で、鳥は空を飛ばなくなり、海洋の生物たちは次々と死んでいったらしい。
それに比べ、ぼくら人類には大した被害などは出ていなかった。あえて身近で起こった被害をあげるなら、三丁目の吉田さんちのじいさんが、地震で尻もち付いて、ぎっくり腰になった程度だろう。
もしかしたら、明日も変わらずに世界は動いてて。ぼくら人間はしぶとく生き残ってるんじゃないのか。そんな考えにいたっても不思議ではない。
……もし、これから先も、華子ちゃんとずっと一緒に居られるのなら。
淡い期待だった。そんな都合のいい結果なんか在りはしないこと、最初から百も承知じゃないか。
「……よし」
気合いを入れて、握り拳をつくってみる。覚悟はできた。
いざ、告白に――
「おい、太郎くん」
「うをあぁぁっ!」
突然目の前に湧いて現れた神様に、ぼくは思わず飛びのいてしまった。
「な、なんだよいきなり。ていうか、ついてきてたの!?」
「やぼったいことは言いっこなしよ。はい、これ」
そう言われ、神様がいつも大事そうに抱えていた竹ぼうきを、むりやり手渡される。
「え、なに。いったいどういうこと?」
ぼくの質問に答える素振りもなく、神様は華子ちゃんの待つベンチの方を指差し、ウィンクしてみせた。
「ラストスパートだ。しっかり決めてきな」
その瞬間。ぼくの頭の中に直接、助けを求める華子ちゃんの声がはじけた。
「い、いやです! 放してっ」
痺れを切らした男の一人が、華子の細い二の腕を乱暴に掴む。
「仲良くしようとしてるうちに動かないてめぇが悪いんだろうが。ほら、さっさとこっち来い」
必死に抵抗する華子のことなど、まるで赤子のように、力任せにベンチから引き離す男たち。
「へへ、俺一番最初な」
「はぁ? 誰がそんなこと決めたよ」
その手が一斉に華子の華奢な四肢へと伸びた、その時。
「おい待て。……なんか変な音聞こえねぇか?」
男たちの背後から、地鳴りのような怒声が響く。
涙目になりつつあった華子が顔をあげた先には、竹ぼうきを構えこちらへと全力で走って来る少年の姿があった。
「はぁなぁこぉちゃんをぉぉぉ、……放せぇぇぇぇ!」
太郎は手に持った竹ぼうきをぐるんぐるんと振り回し、男たちへと突進して行く。
「な、なんだアイツ」
振り返る男の一人に、有無を言わず竹ぼうきを振り下ろす。
背後からの奇襲に、後頭部を強打した男は頭を抱え転がりこんだ。
「てめぇ、なにしてくれてんだこらぁ!」
残った三人の中で、もっとも巨体な男が太郎へと拳を向けた。
「うあぁっ」
とっさに竹ぼうきを構えるも、間に合わず横へと殴り飛ばされる。
「太郎くん、太郎くんっ!」
殴られた衝撃で、耳鳴りが酷かった。それでも華子の声だけが鮮明に響く。
「けっ。元気なのは威勢だけだぜ、このガキ」
次いで男二人がかりで、倒れこんだ太郎を小石のように蹴飛ばす。
普段からおとなしい性格の太郎が、場馴れしている男の相手になるはずがなかった。
標的が太郎へと変わったことで、男たちは華子の元からは離れていた。
「――まぁ結局こうなるわよね、普通。……うわ、苦っ」
自販機の横で缶コーヒー片手に眺めていた少女は、最後まで佇んだままだった。
ぼくはどれほど殴られ、蹴り続けられただろうか。
身体中が痛む。
口の中は鉄の味でいっぱいだ。
男たちはいつの間にか居なくなっていた。
気付けば、ぼくの頭を華子ちゃんが抱えてくれている。
情けないなぁ。好きな子一人守れないだなんて。それも、もうすぐ世界が滅亡しちゃうって大事な時に。
やっぱりぼくって、どうにもぱっとしないらしい。
しっかり決めろって、神様にも言われていたのに。
水のような何かが、頬にしみる。
華子ちゃんが泣いているように見える。
ああ、くそ。やっぱり……可愛いなぁ。
今なら、言っても良いかな。
「華子ちゃん。ぼく……ずっと前から」
――キミのことが、好きでした。
少女は、終末時計を見上げていた。
観覧車の背景に映る混沌とした赤色の渦が、崩壊へのしるべとなって刻一刻と近づいている。
「面白いものを見せてもらったよ太郎くん。正直、気の毒なことには変わりないけど」
少しばかり離れたベンチにある二つの影を横目に、両手を天に差し伸べ、少女は宙へと浮かんでいく。
「でも」
風が木々を揺らし、観覧車は鈍い音を立て回り続ける。
「意外と……カッコイイとこあるじゃん」
刹那。一筋の稲妻と共に、少女は姿を消していた。
「ごめんなさいっ」
その瞬間、何が起きたのかすぐには理解できなかった。
目の前に映るのは、お台場の観覧車。その中央でこれでもかってくらいにまぶしいネオンで彩られた、巨大なデジタル時計が煌びやかに光っている。日を跨ぐまでは、三分を切ったところだろうか。
そして、そのロマンティック全開の完璧なシチュエーションの前で、ぼろぼろになったぼくと、涙を流す華子ちゃん。
「ごめんね、太郎くん。私……」
ああ、やっぱり駄目だったのか。
「ごめんね、私なんかのために……」
なんかじゃない。華子ちゃんだから、ぼくは最後に頑張れた。世界が無くなっちゃう最後の最後まで。
地面に転がった小石が、カタカタ音をたてている。重たい地鳴りが足下で響き、不気味に膨れ上がった月が浮かぶ夜空は、よどんだ紅に染まっていた。
その異様な光景を漢字二文字で表すなら、まさに終末。滅亡。
「私も、……きだよ」
よく、聞き取れない。でも、それでも良かった。大好きな華子ちゃんと、この日を過ごせて。そのことを教えてくれた、神様にも出会えて。
世界最後の日。ぼくの人生二度目となる決死の愛の告白は結局、当初の予定通り失敗に終わったのだった。
そして、ぼくの耳に。終末時計の告げる最後のメロディが鳴り響いた。
終末時計