青い空と白い雲と僕と君と

何となく書きはじめたら止まらなくなりました。
何となくなので、ヒロインも絞り切れていません。
最終章も人数分書くつもりでいます。
お気に入りのヒロインがいれば、それをメインにして、
残りはIF…的に読んでもらえれば…と思います。

第一章『Boy Meets Girl』

ジリジリと照りつける太陽、雲一つなく広がる青空の元、高校2年の夏休みを迎えた青春真っ只中の僕、川崎健太郎はとある喫茶店の前に立ち、汗ばむ額を気にする余裕もないほどに緊張している。
時刻は12時50分。
昨日から夏休みに入り、まさに夏真っ盛り。
なぜ緊張しているかって?
それはこれから人生初のオフ会に参加するからだ。
「なんだそんなこと」と思うかもしれないが僕には大変な事だ。
過去に色々あって女性と話すことが苦手なのだ。
色々というか、主に姉にいじめられた経験からなのだけど。
まぁその辺はまたおいおいってことで。
僕は女の子と話すことが苦手なんだけどモテたい。
モテたいという気持ちは古今東西、世の中の青少年の永遠のテーマであり真理である。
その苦手意識を克服する為にオフ会に参加して女の子と喋れるようになろうという算段である。
幸い今日のオフ会は最近始めたネットゲームのオフ会なので話題に困ることはないだろう。
後は女の子を目の前にしてしどろもどろにならないよう気を付けるだけだ。
さて、オフ会の待ち合わせまでにはまだ少し時間があるのでここでなぜ現在のような状況になっているのかお話ししよう。
話は夏休み前に遡る。
—「はぁ…」
学校の昼休み、食後に僕は一つ深いため息をついた。
「なんだ、今日はえらく深刻なため息だなぁ」
と、ちっとも深刻そうに聞こえない言い方で聞いてきたのは隣のクラスの松田梅太郎だ。
この男は僕の幼なじみで、180cm以上はある長身にゴリラのような容姿をしているくせに実家が和菓子屋で細かい作業の和菓子作りが得意というちょっと…いやかなり変わったやつだ。
ちなみにその風貌から、学校中の生徒から密かに恐れられているのだが本人には至ってその自覚がないという非常に幸せな性格の持ち主である。
「何か悩みでもあるのか?」
と、梅太郎。
「もうすぐ夏休みじゃないか」
と僕が言うと、何当たり前のこと言ってんだという顔をして
「…だから?」
と聞いてきた。
「今年もまた彼女の1人もできないままお前と不毛な夏休みを過ごすのかと思うと憂鬱なんだよ」
と顔をしかめて見せると
「じゃあ部活にでも入ればいいじゃないか。それにお前は女が苦手なんだろ?彼女を作る以前の問題だな」
と、至極真っ当な事を言われてしまった。
「俺はさ、女の子とイチャイチャして大切な青春の一ページをピンク色の思い出で埋めたいんだよ。和菓子があれば生きていけるお前とは違うんだ」
と、オブラートに包むことなく本心を打ち明けてやると
「それならまずは女と話せるようにならなきゃな。この夏はまずそれを目標にするといいんじゃないか?」
と、皮肉には何のリアクションもない割とまともな答えが返ってきた。
「そんなこと言われたって、女と向かい合ったら全然しゃべれなくなるし、そもそも夏休みに入ったら女なんておかんとねーちゃんしか会わねぇよ」
と、我ながら身も蓋もない返事をしてしまう僕。
「健太郎、こないだネットゲーム始めたって言ってたろ。仲間も出来たって言ってたし、そのオフ会に参加してみるとかどうだ?中には女もいるんだろ?うまくいけばその仲間と夏休みの予定も埋まるかもしれないぞ」
などと自分の案に妙に納得したのかウンウンとうなずいた所で昼休み終了のチャイムが鳴り響いた。
この時、梅太郎のこの言葉が僕の夏休みを大きく変える事になるなんて考えもしなかったっけ。
(オフ会ねぇ…。行った事ねぇよ…)
と梅太郎の言葉を反芻しながら放課後になり、帰宅した僕はとりあえず自室のPCでネットを覗いた。
やる気になったとは言えなかったけれど、何だか気にもなるので件のネットゲームの攻略サイトを開く。
すると、そこの掲示板ではものすごくタイムリーな事にオフ会の話題になっていた。
会場は結構近所で、ゲーム内で何度か一緒にプレイしたことのある名前もちらほら見えたので、迷いながらも参加の旨を書き込んだのだった。
—そんな感じで、今まさにそのオフ会会場前で僕は立ち尽くしている次第なのである。
ここまできてチキンなことこの上ないが、悲しいかなこれが僕という小市民なのだ。
しかしながら、これ以上この炎天下に外で突っ立っていても熱中症になるのがオチだろうし、オフ会開始の時間も差し迫ってきた。
意を決して僕はその喫茶店に入り、店員に予約を取ってくれたオフ会の主催者の名を告げた。
店員はにこやかに応対し、僕を席に案内した。
時間ギリギリに到着しただけあって、10人ほどの参加者のほとんどがもう席についていた。
席に座る前にざっと参加者の顔ぶれを見回してみると、思ったよりも女子率が高く、早くもテンパってきてしまった。
情けない話である。
参加者は大体男女半数ずつぐらいで、最後の空いた席についた僕の左側には割と普通な…というかむしろ爽やかめな男。
年齢は僕と同じぐらいに見える。
そして右側には女子。
このオフ会の主催者である樫原沙織さんだ。
いかにも可憐な名前とは裏腹に、身長はかなり高く、牛乳瓶の底のように分厚いメガネ。スラリとした身体は控えめな胸とあいまってさながら男のような風体。
しかし、かと言って不潔な印象もなく普通に女の子である。
これは出会いを求める男ならばがっかりする場面かもしれないが、僕には良い位置どりだった。
だって、女の子らしい女の子だと緊張して喋れないじゃないか。
オフ会開始の挨拶などからの印象も気さくな雰囲気だし、女の子とお話をする練習の第一歩としては最適な相手ではなかろうか。
などとこちらの都合を一方的に考えながらぼんやりと談笑したりゲーム内での出来事を語り合う風景を眺めていたらふいに声をかけられた。
声の方を見ると樫原さんが不思議そうにしながら僕の顔を覗き込んでいて
「どうか…しました?」
とはてな顔。
「いや、ちょっと手に入んないアイテムがあってさ、そのこと考えてたんだ」
と、全く考えてもなかったゲームに関する返事をした。
すると樫原さんはとても親身になってああするといいだとかあの敵は何々が弱点だとか物凄くアドバイスをしてくれて少し申し訳なかった。
そう言えば樫原さんのキャラは凄くレベルが高かった気がする。
今夜にでも時間があれば一緒にプレイして手伝ってあげますよ言われてしまった。
彼女もいなければ夜遊びする相手も梅太郎ぐらいしかいない僕は
「じゃあ、今夜9時ぐらいからゲームにインするので時間が合えばお願いします」
と答えると樫原さんは
「ええ、必ず!」
と二つ返事で胸を叩きながら満面の笑みをたたえてにっこりと笑った。
そんなわけで、真っ白な僕の夏休みの二つ目の予定は、樫原さんとのネットゲームとなった。
そんな樫原さんと話したおかげかどうかは分からないが、その後は他の女の子たちともそれなりに自然に話すことができた(と思う)。
そうこうしているうちに時間は過ぎ、夕方近くになって解散と相成った。
多くの人はこれから一緒に買い物に行くらしかったが、何を買うのか聞いたところフィギュアショップに赴くとのことだったので僕は辞退した。
萌えフィギュアよりも僕はロボットのプラモデル派なのだ。
二次元のパンチラよりもビーム兵器のほうがずっとかっこいいんだぜ。
別れ際、樫原さんが
「ほんとに来ないのですか?」
と心底残念そうに言ってくれたのだが、僕の興味はそこにはないのだから仕方がない。
「また夜に」
と約束の確認をしてからみんなと別れてその場を去った。
歩きながらふと腕時計を見ると、まっすぐ帰るには少し早く、晩ご飯の時間までもまだ余裕がある微妙な時間帯だった。
そこで足を止めて少し考える。
「暇だし、あいつん家行くか」
と誰にも聞こえない小さな声で独りごちてから、家に向きかけた道のりを少し方向転換し、梅太郎の家に向かった。
夕方近いとは言え、まだまだ日は高く、照りつける太陽光線は肌を焦がす。
僕の夏はまだ始まったばかりだ。
「で、どうだったんだ?」
梅太郎の家に行くと、店の方にいると言われたので店先に顔を出した僕に、開口一番、梅太郎はこう言った。
それに対し僕は
「何が?」
と、本当に分からないような表情を作って言ってやった。
こいつにはオフ会の日程も教えてあったので、そのことなのは分かりきっていたのだが、色々はしょりすぎている。
せめて主語ぐらいはつけろ我が幼なじみよ…。
「分かってるだろ。オフ会だよ」
と軽く顔をしかめながら梅太郎が言ったので
「あぁ、思ったより喋れたし、結構良かったよ」
と率直な感想を簡潔に述べた。
「そうかー。心配してたんだよ。楽しめたのなら良かったじゃないか」
普段から鉄面皮で表情の変化がわかりづらいこいつが珍しく笑って言った。
「お前の案のおかげだよ。サンキューな」
と、これまたいつもの僕らしくなく素直に礼を言った。
でも梅太郎よ。僕の心配よりもお前が接客しているこの店の売り上げの方を気にした方がいいぞ。
2人で話している間に来店した親子連れのお客さんが梅太郎を見た瞬間フリーズするのをさっき見かけてしまった。
あ、ほら今度は奴と目が合った坊やが泣き出した。
これじゃほんとに売り上げが伸びなくなると思った僕は、梅太郎の襟を引っ張って同じく店内にいた親父さんに
「おじさん、こいつがいたら商売にならないだろ。ちょっと借りるよ」
と断ってから
「梅の部屋で話そうぜ」
と、勝手に家の中へと梅太郎を引っ張りながら上がり込んだ。
梅太郎の部屋では今後の展望などの相談に乗ってもらっているうちに夕飯時になり僕は帰宅した。
家に帰ると、すでに夕飯が出来ていて、母親に
「ちょうどいいとこに帰ってきたわね。今ご飯できたところだから早く食べなさい」
と言われたので洗面所で手を洗い、カレーの香り溢れる食卓に向かった。
食卓にはすでに珍しく帰宅の早かったらしい父親と姉の舞も席についていて、久しぶりに家族揃って夕食を取った。
食後にリビングでテレビを見ていると、舞が
「あんた、今日は機嫌いいじゃない。昼間出かけてたみたいだし彼女でもできた?」
とニヤニヤしながら話しかけてきた。
いつものことだが僕をいじることしか考えていないのだろう。
「まともに女の子と会話もできないのにいきなり彼女なんて出来るわけないだろ。ネットゲームのオフ会に行って、その後に梅んとこ行ってただけだよ」
と答えるとふーんと言いながら右手の人差し指をあごの下につけて何かを思案するような仕草の後、さらにニヤニヤしながら
「なるほど、じゃあそこにいい子がいたわけね」
と、どうしてもそういう野暮な話にしたいらしかったので
「なぜそうなるんだ」
とつっけんどんに返答して、僕は自室に引っ込んだ。
部屋に入ってから時計を見ると、樫原さんとの約束の時間までまだ余裕があったので手短にシャワーで入浴を済まし、9時を待ってPCの電源を入れた。
ゲームにログインすると、もうすでに樫原さんのキャラが目の前にいたのでチャットで挨拶を交わし、早速昼間の話に出たアイテム探しの旅に出た。
このゲームはよくあるオンラインRPGというやつで、モンスターを倒しながら旅をしてお金を稼いで武器や防具を揃え、段々と自分のキャラを育てていくゲームで、キャラクターの属性として戦士、魔法使い、僧侶に忍者、調教師といった職業を選ぶことができる。
さらにレベルが上がっていけば魔法使いと僧侶など、複数の職業を絡めたりできるので実に様々な冒険を楽しむことができるのである。
僕はこの辺りを気に入って、このゲームを始めたのだ。
ちなみに僕はガンガンモンスターと斬り合って戦うのが好きなので戦士を育てている。
体力があるので死ににくいし、武器や防具のコストパフォーマンスも高いので初心者向けなのだ。
一方で樫原さんのキャラクターは一見魔法使いのようである。
しかし回復系など、僧侶が使うような魔法をよく使うので尋ねてみると、さっき述べた魔法使いと僧侶を組み合わせたキャラなのだそうだ。
てことは結構やり込んでるんだなと感心し、同時に僕のような低レベルの冒険に付き合わせて申し訳なくなった。
今まで歯が立たなかったモンスターにも勝てたし、樫原さんのキャラは体力が低いので時には僕の戦士キャラが盾になったり。
息が合うというのはこういうのを言うのだろうなと僕は思った。
お互いに次の動作を理解し、素早くサポートなり攻撃にまわる。
そして高レベルな樫原さんのサポートのおかげで夜が更ける前に目的のアイテム「羊飼いの杖」を手に入れることができた。
まだ寝るには少し早い時間だしということで、まったり戦利品を山分けたりしながらチャットで冒険のことなどを語っているうちに話題は実生活にまで及び、様々なことを話し合った。
その中で、結構共通点が見つかったりして本当に仲良くなった。
そして、そろそろ眠くなったねなんてチャットで言いながら部屋の時計を見るともう午前2時になっていたのでおやすみなさいの挨拶を交わしてログアウト。
樫原さんは最後に、寝る前にPCのメールを確認してほしいと言った。
ゲームのソフトを終了させた僕は重い瞼をこじ開けながらメーラーを立ち上げた。
新着メールが一通。たぶん樫原さんだろう。
ゲームでの相談などの為に昼間にPCアドレスだけは交換しておいたのだ。
何かなと思いながらメールを開くと、
「今日は本当に楽しかったです。もし良かったらまた遊びましょうヾ(@⌒ー⌒@)ノ」
と、書かれており、最後の行には追伸として、携帯のアドレスと、「仲良くなれて嬉しかったので良かったらいつでも連絡してくださいね」という一文が添えられていた。
僕は携帯を手に取ってそのアドレスを新規連絡先として登録してからPCの電源を落として布団に潜り、アドレスありがとう。登録したのでこちらのも登録しといてねといった旨のメールを打って、夢の中に落ちていった。


翌朝。
ピロリロリーン♪
という能天気な電子音で目が覚めた。
携帯メールの着信音だ。
寝ぼけ眼で目をこすりながらメールを確認する。樫原さんからだ。
「昨夜は早速のメールありがとう。突然で申し訳ないのですが、健太郎さんは今日の予定は如何なものでしょうか?もし暇なら少しお付き合いいただきたい所があるのですが。。。_/\○_」
と書かれていた。
まだ目覚めたばかりで全く頭が働かない僕はすぐに返信を打つのを諦め、まずは意識をはっきりと覚醒させる為に洗面所に向かった。
冷たい水で顔をブルブルと洗い、歯磨きを済ませてリビングへ行った。
ふと、「何時なんだろう?」と思い時計に目をやるとまだ8時半だった。
昨夜は遅くまで起きてたのに樫原さんて朝が早いんだなぁと素直に関心しつつ、ずぼらな僕の思わぬ早起きにびっくりした母親が用意してくれた朝食をありがたくいただく。
早起きとは言ったが、時間帯としては実際にはあまり早いとは言えない。
父親はとっくに会社に向かって家を出た後だし、受験生である舞もすでに夏期講習へ出かけた後だ。
ただ、僕の夏休みの日常といえば夜中までネットやゲームをやり、起きてくるのは昼過ぎなんて不摂生極まりないものなので、朝の8時台に起きるなんてまずあり得ないのだ。
母親は驚いた後、しきりに感心しながら
「健ちゃんが真面目になって嬉しい」
なんて恥ずかしいセリフを連発している。
「今日はたまたまだよ。そんなに期待しないでよ」
と朝食の食器を流しに運びながら僕が言うと、それでも嬉しいものは嬉しかったんだとなぜか逆ギレされてしまった。
今はそっと、感動に浸らせておいてあげることにした僕は、リビングのソファに腰掛けて携帯を取り出した。
携帯の画面をしばらく眺めてから返信画面を呼び出し、カチカチと文章を打ち込んでいく。
「予定は毎日真っ白な暇人だから樫原さんの行きたい所、付き合うよ。何時にどこに行けばいいかな?」
と、わざわざ言わなくてもいい恥ずかしいことも暴露しつつ、送信ボタンを押した。
ピロリロリーン♪
「返信早っ!!」
思わず声に出して携帯に喋りかけてしまった。
さっき送信した所なのにもう返事が来たよ。
樫原さんてどんな指の動きしてんだろうと思いながら受信メールを開く。
「それはありがとうございます!では10時に昨日の喫茶店で」
と、今度は短めの文章だった。
了解したとメールを返した後、返信がこなくなったのを確認して出発までの約1時間をテレビを見てぼんやりと過ごした。
今日も雲一つない晴天に恵まれたおかげでジリジリと焼け付くアスファルトの照り返しを浴びながら喫茶店に着くと、まだ10時前で樫原さんはまだ到着していなかった。
僕は店内に入り、アイスコーヒーを注文することにした。
オーダーを取った店員さんがカウンターの奥に行ったのを見ながら携帯を取り出し、樫原さんに中でコーヒー飲んでるよとメールを打った。
数分も経っただろうか、アイスコーヒーがテーブルに届いたのと同時に樫原さんが店内に入ってきた。
「やぁおはよう」
と目が合った樫原さんに少し親しく挨拶をしたら樫原さんもごく普通のことのようにおはようでござると挨拶を返してきた。
昨日知り合ったばかりだけれど、昨夜のチャットでの会話が2人の距離を近くしたようだった。
僕はと言えばこれまで女の子と話すのが苦手だったのが不思議なほど、樫原さんとは普通に話ができている。
樫原さんも
「こんなに男性と色々気楽に話せたことはなかったですよ」
と言っていたが、樫原さんの場合はそのメガネのせいだろうと思ったのだが、敢えて言わなかった。
ひとしきり昨日の話しをしたあとで、
「で、今日はどこに行くの?まだ行き先聞いてなかったよね」
と、今日の目的地について尋ねてみると、父親の誕生日のプレゼントを一緒に買いに行ってほしいとのことだった。
これまでは自分で選んでいたらしいのだが、どうにも男性の喜ぶものが分からなくていつも微妙な顔をされるのですよと、頬の辺りを照れ臭そうにぽりぽりとかいてみせた。
しかし僕はまだ高校2年生だ。
「確かに僕は男だけど、大人の男の人の喜びそうなものはいまいち分からないよ」
と言ったら、買う物は大体決めてあるのでデザインを一緒に選んでもらいたいとのことだったのでそれなら多少は役に立てるかもしれない。
30分ほど、そんなようなことを相談してから喫茶店を後にして電車で2駅先のデパートに向かう為、並んで駅方向へ歩く。
5分ほど歩いて駅がほど近くなってくると道幅も広くなり、交通量や歩く人の数も増えてくる。
この街はさほど都会ではないのでそれなりにしか人も車もいないけれど、それでもやっぱり住宅街よりは多い。
デパートに行くのなんて久しぶりだよなんて樫原さんに言いながら歩いていると、クラスメイトの男子2人組に声をかけられた。
「よう」
と、愛想のない挨拶を交わした後
「俺たちこれからゲーセン行くんだけど一緒に行こうぜ」
と誘ってきた。
「あ、俺今からちょっとデパートに行かなきゃならないんだ。今日はごめん」
と断って、一緒に歩いている樫原さんの方を振り向いたら彼女は10m以上離れたえらく遠い所で佇んでいた。
クラスメイトに紹介しようと思ったのにな。
クラスメイトは、じゃあまた誘うよと言った後、2人連れ立ってゲームセンターの方へ歩いて行った。
2人が離れて行くと樫原さんがまた近付いて来たので
「どうしてあんなに遠くに行ってたの?」
と言うと、樫原さんは少し寂しげにうつむきながら
「いや、私のようなのと一緒に歩いてる所を見られるのが嫌かなぁと思ったので…」
と呟くように彼女は言った。
きっとこれまでに嫌な思いをしたことがあるのだろうなと感じた僕はなんと言っていいか分からなくなって、ふぅんとしか言えなかった。
そうしてしばらくは黙ったまま歩いていたのだけれど、何となく気まずくなった2人の間の空気に我慢がならなくなって、公園に差し掛かった辺りで
「あのさ…」
と沈黙を破ると
「そういうの、気にしなくていいから」
と彼女の方を見ずに言った。まるでいたずらをして怒られた後に素直に謝ることができない小学生みたいで少しかっこ悪いなと思ったけれど、どうにも照れ臭くてこうなってしまった。
半歩ほど後ろを歩く彼女の視線を感じるが、何も言わない。
2人の足音だけがやけに耳に入ってくる。
僕は構わず言葉を続ける。
「俺はさ、一緒にいて恥ずかしいなら初めから友達にはならないよ。さっきの奴らだって同じ。あいつらもゲーム好きだから話も合うかと思って樫原さんのこと紹介しようと思ったんだよ」
と、そこまで言ってから樫原さんの方に振り向いた。
彼女は何だかぽかんとした顔でこちらを見ていた。
その顔を見た僕は悪くなってしまった空気を変えようと思い、わざと冗談ぽく
「どうしたの?魂が抜けたみたいな顔になってるよ」
と言うと、彼女はその場に立ち止まってしまった。
一瞬、泣きそうに見えたその顔は次の瞬間には満面の笑顔になって、
「分かりました!次からは普通にしてるようにします!」
と言って、ついさっきのだんまりは何だったんだよと言いたくなるような変貌ぶりでニコニコしながら歩き始めた。
色々と気にはなったものの、僕は
「ま、楽しく行けそうだしいいか」
と、心の中で納得することにした。
そうしてまた歩き始めたところで樫原さんは急に歩く早さを上げて僕の前に出て、振り向いた。
少し真面目な表情で
「以前にもオフ会で知り合った友人と一緒に歩いていた時に今日のようにその友人の友達と会ったことがあったのですが…。その時、その友人は私のことを知らない人だと友達に説明したことがあって…」
と、悲しそうに言うので
「樫原さんは一つ、勘違いをしている」
と僕は名探偵が真犯人を見つけた時のようなどや顔をして言った。
樫原さんは、
「え?」
と言って、難しい数式を解けと言われたような表情になったが構わず僕は続ける
「確かにオタクというのは避けられ、嫌われる傾向にあるかもしれない。最近はネットも普及したしオタクじゃない人もネットゲームをしたりオフ会に出たりしてる。だからその時の樫原さんの友人もそんな1人だったんだろうね。でも俺は、完全にオタクにカテゴライズされる人間だ。樫原さんを否定するはずがない。それに、見た目や趣味嗜好で人を判断するのは俺は嫌いなんだ」
と、自信満々に言ってやると
樫原さんはまた嬉しそうに笑って
「それなら、良かったです」
と笑った。
うん、やはり樫原さんは明るく笑ってる方がいい。
と、そこで僕はふと思った。思ってしまった。
樫原さんて結構かわいいかもしれないと。
メガネで目はどんなか分からないけれど、メガネを外して野暮ったくまとめた髪を美容院にでも行ってカットしてもらえばかなり印象は変わるはずだ。
そんな考えが頭に浮かんでからは何だか妙に浮き足立ってしまい、デパートまでの道のりをどうやって行ったのか、あまり記憶に残らなかった。
そんな浮き足立った気持ちも目的地であるデパートに着く頃には落ち着いてきて、着いてから何を買うつもりなのかと尋ねると腕時計か万年筆にしようと思っていると言うので、まずは3階にある腕時計売り場に向かった。
万年筆の売り場は4階だったので後にしたのだ。
そこで、樫原さんならどれを選ぶか尋ねてみたら彼女が選んだのはとてもじゃないが大人の男の人がつけるにはあまりにも可愛らしい腕時計ばかりで、彼女のお父さんの微妙な顔が思い浮かんだ。
いや、顔は知らないんだけどね。
まぁ、どんな感じなのかは想像がついた。
そこで僕がいくつか選んでみることになったので予算はいくらかと聞いたらなんと5万円だと返ってきたので僕は思わず
「上流階級ですか?」
と聞いたら
「いいえケフィアです」
と返されて
「意味分かんねぇよ」
とツッコミを入れると彼女は笑って、
「まぁ、それほど上流という程ではないのですけど」
と彼女はぽりぽりと頭をかいた。
否定はしないんだね樫原さん。
そうして妙な敗北感を味わいながらああだこうだと言い合いつつ、予算に見合うシルバーの金属ベルトに黒い文字盤のシックなデザインの腕時計を選んだ。
彼女もそれが気に入ったようで、結局万年筆は見ずにそのままその腕時計を買うことにしてラッピングをしてもらった。
応対してくれた店員さんは僕たちのやり取りがツボにはまったようで、選び終わるまでずっとすごく笑っていた。
そんなに漫才みたいになってたのかな。
そうしてラッピングが完成すると、その店員さんから袋を手渡され、その時に
「お二人はとても仲がいいんですね。ナイスカップルですよ。」
と言ってフフフと笑いながら去っていった。
いや、別に恋人とかじゃないんですよと言いたかったけれど、どうせもう会うこともないだろうし気にしないことにして樫原さんにじゃあ行こうかと声をかけようとしたら
「いやぁ、ベストカップルだなんて照れますなあ〜にへへへ」
などと店員さんの言葉を間に受けてグニャグニャにとろけていた。
その姿を見て思わず噴き出してしまったけれど、いつまでも軟体動物のようにグニャグニャされていても困るので
「あんなのセールストークだよ」
と身も蓋もないことを言ってたしなめてから、デパートに入っているファーストフード店で昼食を取って、地元へと帰ることにした。
そのファーストフード店でも樫原さんは店員さんの言葉を思い出してはグニャグニャしたり、腕時計を選んでくれてありがとうと何度も言ったりしていたので
「友達なんだからプレゼント選びに付き合ったぐらいでそんなにお礼言わなくてもいいよ」
と言って、グニャグニャするのは面白いのでもういいかと放置することに決めた。
そうして地元に戻ってきて駅から喫茶店に向かう道を歩いていると、なんと梅太郎と出くわした。
店の制服のまま自転車をこいでいる所をみるとどうやら配達の途中のようだ。
和菓子に配達というのもおかしな話だが、実際法事の席や、お葬式の時などに数が足りないなどの都合で結構注文が入ったりするそうだ。
そして大体そういう時は家人などは忙しくしているので手が離せない。
そんな時に配達してやるとすごく喜んでもらえるそうだ。
「よう、デートか?」
と自転車を止めて梅が声をかけてきたので、時間は大丈夫なのかと尋ねると配達が終わって店に戻る途中とのことだった。
「デートではないよ。彼女のお父さんの誕生日プレゼントを買いに行くのに付き合ってきたんだ。昨日のオフ会で知り合った樫原さんだ。」
と、今度はちゃんと隣に立っている樫原さんを見ながら紹介して、樫原さんには梅の事を紹介した。
2人はお互いに挨拶を交わす。
「なぁ、彼女にさ、『ナイスカップルですね』って言ってみて」
と、梅に耳打ちをする僕。
梅は不思議そうな顔をしながらも、彼女に向かってベストカップルですねというと、少し緊張気味だった樫原さんは表情を緩ませグニャグニャとし始める。
「・・・何だこれ?」
と、未知の生物に遭遇したような驚きを隠せない梅は僕に聞いてきたので、デパートでの買い物の話を聞かせてやった。
「なんだ、やっぱデートじゃないか。」
と梅は言った後に自分の腕時計を見て、そろそろ戻らないとと言って、樫原さんにじゃあと声をかけて去って行った。
梅の背中を少しばかり見送った後、樫原さんの方を見るとまだグニャグニャしていたので手を引いて喫茶店への道を歩き出した。
歩き出して少しした所で
「あ、あの・・・健太郎さん・・・」
と樫原さんが声を出した。
うん?と思って振り返ると、
「あの、その・・・手を・・・」
と、顔を真っ赤にしている。
そうか、余りに自然にいられるので忘れかけていたけど樫原さんは女の子で僕は男だ。
小さな子供でもないのにこんな風に手をつなぐのはよく考えてみれば恥ずかしい。
僕はパッと手を離して
「あ、ごめんね。あんまりグニャグニャしてたから」
と言って少し照れながら言うと、
「いやいや、いいのですよ。ちょっとびっくりしただけなので。あはははは」
と言って両手を前に出してブンブンと振った。
少し照れ臭くなりながら、ようやく喫茶店にたどり着くと、最後にお茶を飲んでから解散しようということになり、2人して今日2回目の喫茶店へと足を踏み入れた。
席にコーヒーが届くと、樫原さんは
「そうだ、私のことはこれからはサオリンとお呼びください。仲の良い友人は皆そう呼んでいるのでその方がしっくりくるんです」
と、ニコニコしながら言った。
「分かった。これからもよろしく、サオリン」
と、少し照れ臭かったけどニックネームで呼ぶと
「よろしくです」
と、ほんの少し頬を赤くしながら彼女は笑った。
それから、メールだけじゃ連絡を取れない時もあるかもしれないしということで、お互いの電話番号も交換して、その日は互いに帰路についた。
別れ際にサオリンは今日のお礼に今度健太郎氏の買い物にも付き合うのでいつでも誘ってくださいねと言葉を残していった。
その日の夕食は昨日とは違っていつも通り、帰宅の遅い父を除いた3人での夕食だった。
風呂に入って自室でくつろいでいると携帯から電子音が鳴り、見てみるとサオリンからのメールだった。
「今日も楽しい時間が過ごせてありがとうございました。腕時計を父に渡したらとても喜んですぐに身につけてくれましたよ\(^o^)/
健太郎さんのおかげですよ( ´艸`) 」
と綴られていて、あぁよかったと少しばかり肩の荷が降りた気分になった。
選んだ手前、やはり気に入ってもらいたい気持ちがあったのだろう。
ため息をつきながらそんな自分の気持ちに気が付いた僕は、思わずニヤリと笑った。
携帯を握り、返信画面を呼び出す。
「気に入ってもらえて良かった。ていうか、誕生日って今日だったんだね(笑)」
と返信した。
その日は歩き疲れたのもあったのでネットゲームにはログインしなかった。
きっとサオリンも今日は家族水入らずでお父さんの誕生日を祝うだろう。
上流階級の家庭ってどんなだろうと思いを巡らせながら、心地よい足の疲労感とともにその夜は夢に落ちて行った。

第二章『Beautifuldays』

それからの毎日は充実していた。
昼間はサオリンや仲間たちと遊んだり梅の店で和菓子屋の手伝いをしたりして過ごし、夜はサオリンや仲間たちとゲーム内で冒険をする。
オフ会も2回ほどやったっけ。
そんな毎日を繰り返しながら日は過ぎ、やがてお盆が近くなったある日、その日はサオリンと喫茶店でのんびり過ごしていたのだが、サオリンが急に真面目な顔になって
「時に健ちゃん、夏休みの宿題はやっていますか?」
と、物凄くいやぁな現実問題を取り上げてきた。
僕は本当に嫌そうな顔をして
「う、うん、まぁその…あれだよ…ボチボチデンナァ。アハハハ」
とサオリンから目を逸らして、カタコトの変な関西弁で乾いた笑いを響かせる。
「やっぱり…」
と、がっくりと肩を落とされてしまった。
「急に何だよ?俺が宿題してなくてなんでサオリンががっかりするんだ?」
と言うと、サオリンは肩は落としたまま顔だけを上げて、何かを言いかけるように口をパクパクとさせた。
「見ろ、サオリンがフナのようだ」
と有名なアニメ映画のセリフを少し変えて言いながら、最近めっきり常連になった僕たちにマスターがコーヒーカップのお皿の横におまけでつけてくれたクッキーをサオリンの口にぽいと投げ入れてみた。
次の瞬間、鼻に激痛が走る。
サオリンの指が僕の鼻の穴にテクニカルにねじ込まれているのだ。
「もがぁっ!?」
と、言葉にならない悲鳴をあげて僕はもんどりうった。
「人が本気で心配してるのにそんなのダメ!」
普段よりも語気を強めたサオリンは鼻でフンフンと息を荒げながらそう言った。
ちょっとやり過ぎとは思ったが、心配してくれているのにふざけてしまった自分も悪いと思い、
「ごめんごめん。でも急に何で?俺が宿題してなくてもサオリンが怒られるわけじゃないのに」
と先ほどから思っていたことを口にすると、サオリンは口調を元に戻して
「健ちゃん、最近掲示板は見ていないのですか?」
と言った。
「うん、だって最近は生きた攻略サイトと一緒に冒険してるからね。あんま見てないよ」
僕はサオリンを指差して答えると、
「いや、掲示板の方で、せっかく夏休みなんだし泊りがけでみんなで遊びに行こうという話が持ち上がっているのですよ」
「そうなのか。でももし行くとしても俺、そんなに小遣い持ってないよ?」
そこでサオリンはニヤリと笑うと両手を腰に当ててエッヘンと威張るポーズを取りながら
「私の家の別荘を特別に貸してもらえることになったので参加者は交通費と小遣いだけ持ってればいいのです!」
と、この夏一番のどや顔で唇の端をニッと持ち上げて白い歯をキラリと光らせた。
さすが上流階級である。身分の違いを遺憾なく発揮している。
「参加しy「ダメ」
……ノータイムで拒否されたでおい。
「何でだよぅ何でだよぅ」
と子犬のような目で彼女を見つめると、やれやれといった表情になって
「参加資格は、夏休みの宿題を終わらせていることなんです」
と言いながら漫画に出てくる教育ママのように分厚いレンズのメガネの端を人差し指でクイっと持ち上げた。
「で、そう言うサオリンは宿題終わってるの?」
そうだ。彼女だって僕と同じぐらい遊んでるんだ。
ほとんど毎日連絡を取り合っているのだが勉強しているなんてことは一度も聞いたことがない。
きっと僕と同じはずだ。
「愚問です。とっくに全て終了していますよ」
と静かに斬り捨てるように言った彼女のメガネがきらりと光った気がした。。。
続けて彼女は言う
「大体この話は2回目のオフ会の後から上がっていたのに。見ていない健ちゃんが悪いです」
と、取り付く島もない。
その掲示板での約束事として、オフ会などの出欠確認は掲示板内で行うというものがあって、最初の一回以外は毎回サオリンから促されて掲示板を見て出席していたという具合なのだ。
「出発日は?」
「3日後です」
「分かった…諦めよう…」
確かに行きたければ何かにすがってでも宿題を終わらせるべきなのだろう。
しかし僕にも男の意地というものがある。
みじめに泣きついてお涙頂戴をするのも癪に触るし、ぐっと堪える。
何、きっと今回だけじゃない。
またこんな機会があった時には胸を張って参加しよう。
………
沈黙が流れる。
それを破ったのはサオリンの方だった。
「それで…本当にいいのですか?」
「…いいのでござる」
負けてたまるか。
「本当の本当に?」
何だこれ?試されてるのかな?
「いりもはん」
「そうですか、分かr「助けてください」
僕の男の意地は5秒で挫けた。
笑いたければ笑ってもらっても構わない。
意地よりも楽しそうなイベントの方が大事なんだ。
「早くそう言えば良かったのに」
と笑ったサオリンは後光が射して本当に菩薩のように見えた。
僕は無意識のうちに彼女に手を合わせて拝んでいた。

翌日から、サオリン講師による宿題やっつけ大作戦が始まった。
掲示板の方には昨日喫茶店から帰ってすぐに宿題が終われば参加すると書き込みしておいた。
その後僕は掲示板を見ていないのだが、サオリンからみんな応援していたと教えてもらった。
無事に参加できたらお礼を言わないといけないな。
肝心の宿題の方だが、一学期の期末テストの後にゲームを始めてからの授業の記憶がさっぱりないのでまるでチンプンカンプンである。
問題の意味からサオリンに教わるという始末で本当にあと2日で終わるのか不安になってくる。
しかし、こうして勉強を教えてもらって分かったのだが、サオリンは物凄く頭がいい。
教え方も分かりやすく、要点を見落とさないよう丁寧に説明をしてくれる。
お金持ちで頭がいいなんて完璧超人だねと僕が褒めると、
「いやいや、お金持ちなのは両親ですし運動なんかも苦手ですし容姿も良くないので完璧超人とは程遠いですよ~。うへへへへ」
と、いつかのナイスカップルの時のようにグニャグニャし始めた。
どうやらサオリンは褒められるとグニャグニャするらしい。
こんな調子でいつか社交界デビューをした時に褒められたらどうするのだろうと心配になる。
まぁ僕なんかが心配しなくてもその時までにはサオリンも立派なレディーになっていて問題なんてないのだろうけど。
とりあえずその時までにはコンタクトにしておけよと心の中でアドバイスを送った。
そうして図書館の開館から閉館時間まで、休憩を挟みながら2日間で僕は本当に宿題を終えた。
こんなこと、これまでの学生生活で始めてのことだろう。
本当に頑張った。偉いぞ僕。
その日の夜、僕は掲示板に改めて参加の旨と、応援してくれたみんなにお礼の書き込みをした。
携帯メールにも何人かからおめでとうと着信があった。
なんだかすごい達成感である。
そうして書き込みとメールのやり取りの後、明日の出発に備えて準備を整えて床に就いた。

ピピピピッという携帯の目覚まし音で目が覚める。
寝ぼけながら時刻を確認すると5時半。
よし、寝坊しなかった。
ベッドから跳ね起きて窓の方に行きカーテンを開けると、窓ガラスの向こう側には青い空が見えた。絶好の旅行日和である。
「俺の日頃の行いのおかげだな」
などと独り言を述べた後、早速着替えを済ませ、荷物を抱えてリビングに下りていった。
泊りがけで出かけることは家族に伝えてあり、まだみんなが寝ている時間なのでこっそり出て行こうと思っていたのだけれど、母がすでに起きていて朝食の用意をしてくれていた。
驚きつつもおはようと挨拶をしてから洗面所に行って歯磨きをして意識を覚醒させる。
再度リビングに戻るとトーストと目玉焼きが机に置かれていた。
「母さんありがと。いただきます」
と、まだ台所でガチャガチャと用事をしている母に声をかけると
「朝は大事だからね、ちゃんと食べるんだよ」
と言ってうふふと笑った。
どうやら僕が夏休みなのに朝から起きたり、昨日夏休みの宿題を終わらせたのが物凄く嬉しいらしい。
ここ最近は本当に至れり尽くせりで色々してくれる。
何だか悪いなぁと思いながらおいしく朝食をいただいて、時間も差し迫ってきたので荷物を抱えて玄関に向かう。
すると、舞が階段の上の方からひょっこり顔を出して
「避妊具は持っていっときなよ」
などと下世話なおばさんのようなことを言いやがった。
「いや、そんなんじゃないから!」
と言い返したが、イヒヒヒといやらしい笑った後、どうだかねぇ♪なんて言いながらトントンと足音を鳴らして階段を登っていってしまった。
玄関で靴を履きながら、
「全く、なんて事言うんだあいつは…」
と思わず愚痴を声に出して漏らしてから、
「じゃあ行ってきます」
と、母に声をかけて玄関のドアを開けた。
リビングの方からは母の気を付けて行ってくるんだよという声が聞こえてきた。
そうして家を出た僕は、まだ朝もやの残る住宅街を駅に向かって歩き出した。
まだ6時前なので人もまばらで、すれ違う人といえばジョギングや犬の散歩といった昼間にはあまり見かけないような人ばかりだった。
たまにはこういう早朝もいいもんだななんて思いながらいつもの喫茶店の前を通りかかると、もうマスターが来ていてちょうど看板を店の前に置いている所だった。
「おはようございます」
とマスターに声をかけると、
「や、おはよう!今日からいつものメンバーで旅行だって?何日ぐらい行くんだい?」
と聞いてきた。
「学生でお金もないから一泊二日だけですよ」
「そうか。それじゃあ寂しいのは今日だけだな」
と言うと大口を開けてわははと笑った。
「俺たちが行かなくてもお客さんはいつもよく入ってるじゃないですか」
と言うと、店に戻り掛けていたマスターは振り返って
「いくらお客さんが来てくれても、自分が気に入った常連が来なけりゃ寂しいもんだよ」
と優しい目をして言った。
「そんなこと他のお客さんが聞いたら怒りますよ!」
と言い返したらそりゃそうだとまたしても大きな口を開けて笑って、
「まぁとにかく気を付けて行っておいで。若いうちの経験は何よりの宝物だからな!」
と親指を立ててグッと突き出して、唇の端をニカッと持ち上げて今度はニヒルに笑った。
僕は分かりました。行って来ますと答えて、マスターと同じように親指を立てて笑って見せると、マスターは待ってるよと言いながら店の中へと戻っていった。
それから僕は再び歩き出し、駅を目指す。
駅までもう少しというところにある公園に差し掛かった所で、そう言えばここでサオリンが泣きかけたことがあったなぁと思い出した。
あの時はまだサオリンではなくて樫原さんて呼んでたっけか。
まだ、彼女と知り合って3週間しか経ってない。
もっとずっと前から知ってたような不思議な気分になったが、きっと今日までそれだけ長く一緒にいたんだなと感慨深く思いながらさらに駅を目指した。
待ち合わせ場所に着くとサオリンはもう着いていて、僕は2番目の到着だった。
おはようと挨拶を交わして、さっきのマスターとの会話を聞かせてやったりしながらみんなを待っていると、次々に集まってきて、集合時間の7時になる前に5人の参加者が全員集まった。
そう言えば僕は参加者が誰かあまり気にしていなかった。
そんなことを考えていると、サオリンが
「それでは点呼を取るので集まってくださーい」
と声を上げたので、サオリンを中心に扇形に皆が集まった。
「はい、ではメグさん〜」
「はーい」
と答えたのは僕と同じ学校の女子のメグ。
学年も同じで小学校からの知り合いだ。
背が低くてショートカットで、ボーイッシュな印象を持つ彼女はその印象に違わず、バスケットボール部に所属している。
前回のオフ会に初参加してきて、お互いを見るなり驚き合った。
こんな活発な子でもネットゲームしたりするのかと不思議に思ったものである。
つい最近始めたばかりで僕よりもレベルが低いので、ゲーム内ではたまに手伝ってあげたりしている。
ちなみに彼女のキャラは武闘家で、素早い身のこなしの彼女らしいキャラである。
「次はミナトさん〜」
「おいーす」
次に呼ばれたのは僕が初めてオフ会に行った時に左側に座っていた爽やか君である。
彼も同学年だが、通っている高校は僕の学校よりも少しだけランクが高いと言われている所だ。
彼のゲームのキャラは戦士で、レベルも僕とあまり変わらないので2人でよく無謀なモンスターに突撃しては秒殺されてサオリンに助けてもらっている。
「次はナツちゃん〜」
「はいはいはーい!」
と、元気いっぱいに返事をしたのは一つ年下のナツ。
小さなメグよりもさらに小さい元気いっぱいの女の子だ。
長い髪をツインテールに結んでいて、クリクリした目がその妹系の外見によく合っている。
おっちょこちょいでかなり天然な彼女はゲーム内でもその天然ぶりを遺憾なく発揮し、毎回戦場を混沌に陥れている。
その天然ぶりに台風娘の異名を持つほどである。
そんな彼女のゲーム内のキャラは魔法使い。
いつも強烈な攻撃魔法を味方に誤爆させているのである。
「次は健ちゃん〜」
「はいよー」
とここでやっと僕の名前が呼ばれた。
これで点呼は終わったはずだが、サオリンは続けてこう言った。
「今回はもう1人スペシャルゲストがいるので紹介しまーす!」
一同は揃って???である。
呆気に取られる僕たちをそのままにしてサオリンは紹介を続ける。
「スペシャルゲストさん、どうぞで〜す!」
と、駅の建物の方にサオリンが声をかけると、建物の陰から誰かがゆっくりと出てきた。
「初めまして、松田梅太郎です。梅ちゃんと呼んでくだs「異議あり!」
僕は手を挙げて抗議する。
「何でお前が来るんだ?」
と問いただすと、
「保護者です」
「誰の?」
「それを聞くのか?」
「いや、いい」
どうせ僕の保護者だとか言い張るつもりだろう。
しかしこんなゴリラのような巨漢、女子連中は怖がったりしないのだろうかと心配したのだが、案外打ち解けているように見える。
まぁ、それならいいか。もしも不良に絡まれたりしたらあいつを差し出せば逃げていくだろうし、お守りみたいなもんだと思うことにした。
こっそりサオリンの隣に行って、
「何であいつが来たんだ?」
と耳打ちすると、宿題やっつけ大作戦の時にたまたま道ですれ違って、今回の話をしたら一緒に行きたいと懇願してきたらしい。
ゴリラの懇願か…見てみたかったかもしれない。
ひとしきりワイワイとみんなで話した後、じゃあ出発しようかということになって駅の中に入ろうとした所でサオリンが待ったをかけた。
「現地へはバスで向かいます」
と行って駐車場の方に立てた親指をクイクイとやっている。
その方を見ると、マイクロバスが止まっていた。
どうやら自家用車らしく、隣には白手袋をはめて礼儀正しそうに直立する運転手がいた。
僕たちが見ているのに気が付くと律儀にお辞儀をしてくれた。
それを見て最初にテンションが上がったのはナツだった。
「おー!何か修学旅行みたいだー♪」
と言うや否や、バスに向かって駆け出した。
そうしてナツを追いかけるように全員でバスに向かいながら、サオリンに交通費は自腹って言ってたのにどうしてと尋ねると、
「父に今回の旅行に腕時計を一緒に選んでくれた人がいるという話をしたら急にバスまで手配してくれたんですよ。どうやら父は健ちゃんを気に入ったようで、全ては健ちゃんのおかげです」
と、嬉しそうにウフフと笑った。
それを聞かされた僕は何て顔をしたらいいのか分からなくなって、黙ってうつむいてしまった。
いや、嬉しいのは嬉しいんだけど、腕時計を選んだぐらいでそんなに気に入られるのがいまいち腑に落ちないのだが…まぁ結果オーライだな。
出発前から色々なサプライズがあったけれど、各自荷物を荷室に積み込んでようやく出発と相成った。
バスに乗り込んだ後、それぞれが思い思いの席につく。
ナツは真っ先に駆け込んで一番後ろのソファ席ではしゃいでいる。
僕は、ちょうどバスの真ん中辺りの右側の窓際に座った。
定員20人ほどのマイクロバスに運転手さんを除いて6人しか乗らないので席にはかなり余裕がある。
広々と席を使えるので快適な旅になりそうだ。
サオリンに行き先を尋ねると、4時間ほど走って海辺の別荘へ行くとのことなので、僕は目を閉じて少し眠ることにした。
朝が早かったので発車前から少し眠かったのだ。
発車して5分ほど経った頃、後ろの席にからツンツンと頭をこずかれた。
振り返るとメグが青い顔で
「ねえ、あんた酔い止め持ってないの?」
と聞いてきた。
「まさか、乗り物に弱いの?」
と聞き返すと、メグは力なく無言で頷いた。
こんなところでもんじゃパーティーを開かれては困ると思った僕は急いでカバンをゴソゴソと漁り、緊急用のピルケースを取り出すとそこから酔い止め薬を取り出してメグに渡してやった。
「ありがと…」
と小さく言って薬を口に含んだが、すぐに何かを求める小動物のような目で僕をじっと見つめてきた。
「あ、水がいるんだったな」
とメグに声をかけて安心させた後、前に座っていたサオリンに水はないかと尋ねた。
するとすぐにペットボトルの水を運転席のすぐ後ろにある備え付けの冷蔵庫から出してくれたので、それを受け取ってメグにリレーしてやると慌てた様子で蓋を開けて薬を流し込んだ。
慌てて飲んだせいでケホケホと小さく咳き込んで、息が整ってから
「助かったわ。ありがと」
と、もう一度礼を言ってきた。
「でもさっきので酔い止め薬は最後だったから帰るまでに買っとけよ」
と返して、先はまだ長いんだから寝とくようにと言いながら、大人が小さな子供をかわいがる時のように頭をポンポンと叩いてやった。
メグは一瞬ムッとしたような顔をしたが、素直に従うことにしたらしく、すぐに後ろにもたれて眠るように目を閉じた。
その様子を僕の席と通路を挟んで向こう側に座っていた梅が見ていて
「ずいぶん成長したもんだ」
と、本当に保護者のような感想を述べたので
「あぁ、おかげさまでな。だから保護者なんていらないから帰っていいぞ」
とニヤリと笑って見せた。
「いや、それならば俺も楽しむ方に回らせてもらうから最後まで付き合わせろ」
と、相変わらずの無表情で前を向いたまま梅は言った。
そうしてようやく僕も自分の席で目を閉じることができたのである。

——「……ろ」
「んー?」
と、どこかから声がしたような気がして僕は寝返りをうちながら耳をすました。
「…きろ~」
「…」
さらに耳をすます。
「おきろ~」
「おきろ?…起きろ?」
と、そこまで思った瞬間、耳たぶを掴まれたかと思うと耳をつんざくような 声が僕の鼓膜に直撃してきた。
「うへぁーっ!!!」
ジンジンと脈打つように痛む耳を押さえて悲鳴をあげながら僕は目を開いた。
「やっと起きたー!おはよー、ケンタロー!」
と、ニコニコとナツが僕の目の前で笑っている。
こいつか、人の耳元で怒鳴りやがったのは。
と、ジト目でナツを睨んでいると、
「ケンタロー、休憩でサービスエリアに入ったぞ!トイレ行かないと」
と言ってきた。
少し腹が立った僕は、少し首をかしげてナツの言葉がわからないといった意思表示をする。
「だからトイレ行かないとー」
と、さらに重ねて言ってくるナツに、耳を指差した後、顔の前で手を振って聞こえないのジェスチャーをして見せる。
そこでやっと僕の行動の意味が分かったのか、ナツの顔色が変わった。
「え?…聞こえないの?」
ナツの見事な引っかかりっぷりに気を良くした僕は、その言葉にも首をかしげて またわからないの意思表示を表す。
僕の耳はまだジンジンと痛んでいるのだ。
これぐらいの報復はさせてもらう。
すると、ナツの表情がみるみると崩れていって、目に涙をたたえ始めた。
あ、ヤバい。泣いちゃうね、これ。
「ごめんごめん、冗談だよ…」
と僕は声を出してナツに言ったのだが時すでに遅し。
彼女はポロポロと大粒の涙を頬に伝わせて泣いてしまった。
幸い、他のメンバーはみんなバスから出ているようだ。
誰かが戻るまでにナツを泣き止ませなくてはならない。
旅行のこんなしょっぱなで女の子を泣かせたなんてみんなに知られれば女泣かせのレッテルを貼られて惨めに過ごさなければならなくなるのは目に見えている。
それだけは防がなくては。
焦った僕は慌てて弁解をする。
「あんまりでかい声で起こされて悔しかったから仕返ししようと思ったんだけど…ごめん、やり過ぎた。謝るから泣き止んでくれ」
と言うと、 すでに涙の止まったナツが上目遣いで見つめてくる。
見つめながら彼女は一言
「やだ」
とだけ言い放った。
マジデスカ…。
「じゃ、じゃあどうすれば許してもらえるかな?」
もはや立場は逆転し、僕は目を泳がせながら彼女に許しを乞う。
ナツはしばらくの沈黙の後、上目遣いを僕からそらすことなく
「アイス…食べたい。」
と言った。
どうやら彼女も本気で怒ったのではないようである。
自分がいたずらをしかけた方だということもあるのかもしれないが、そんな条件ならば快く乗らせてもらう。
「分かった。おごるよ。買いに行こうぜ」
と言うと、
「うん♪」
と、元の元気なナツに戻ってピョンピョンと飛び跳ねながらバスから降りていった。
僕は遅れないように財布をつかんで彼女を追いかけた。
そういえばメグのやつはバスで寝たままだったよな。
お茶でも差し入れてやることにした僕は、トイレで用を済ませて売店でナツにアイスをおごった後、よく冷えたペットボトルのお茶を買ってバスに戻った。
バスに戻ると、メグは目を覚していて、調子はどうだと尋ねると まぁ、そこそこと答えて笑ってみせた。
どうやら酔い止め薬が効いているらしくて僕も一安心した。
それからさっき買ってきたお茶を手渡してやると、ちょうど喉が 乾いてたのよと言って、喉をゴクゴクと鳴らしておいしそうに飲んでいた。
そうして休憩時間を終え、バスは再び発車した。
僕が寝ている間に道のりの半分まできたようである。
窓の外の風景も、出発した時とはかなり様変わりしている。
駅前のビルが立ち並ぶ風景は跡形もなくなり、今は田園風景が広がっている。
メグもすっかり体調が戻ったようで体を起こして窓の外を見ている。
しっかりと眠って休養を取った僕は眠気もすっかり去り、手持ち無沙汰になってしまった。
それにしてもこんなに充実した夏休みを過ごすことになるとは、夏休み前に梅に愚痴をこぼしていた時は想像もできなかった。
この旅行が終わっても、夏休みが過ぎても、この仲間たちと変わらず過ごしたいなと思って、そういう風に思うのは初めてだなと心の中でひっそりと笑った。
いつまでも続いてほしい。
窓の外には緑溢れる田園風景と、青い空と、白い雲が広がっていた。

果たしてバスは目的地に到着した。
サオリンの別荘は思いの外大きかった。
広い敷地に建つそれは景観を損なわぬよう配慮されたかのように悠然とそこに存在している。
洋風の大きな扉の玄関。
海側に面して大きく窓を取ったリビングの外にはテラスが広がっている。
夜はここでバーベキューをする予定らしい。
このテラスだけでも僕の部屋がいくつ入るのだろうとつい貧乏な計算をしてしまう自分が悲しかったが、隣に立っていたメグも、
「あたしの部屋の何倍かしら…」
なんて呟いていたので少し安心した。
ふとお互いに目が合うと、ため息に似た笑い声をあげた。
ナツは、バスの時と同じように
「広~い!!うわーい!」
などと小学生みたいに走り回って全身で喜びを表現している。
あいつにはちょっと落ち着きを持ってほしい。
梅に力こぶを作らせて、その腕にぶら下がっている様などは本当に高校生かと疑いたくなるほどである。
サオリンの案内で各自の泊まる部屋に荷物を置いて、まずは海で遊ぶことになった。
それぞれが部屋に戻り水着に着替える。
といっても男子たちはあっという間に終わってしまうので当然しばらく女子たちの着替えを待つこととなった。
そこで梅が僕とミナトを呼び寄せると
「なぁ、お前たちは誰が好みなんだ?」
と、突然そう聞いてきた。
「お前、バスで静かだと思ったらそんなこと考えてたのか」
と呆れ顔で僕が言うと、
「目の前に女子たちがいてそれを考えないのは失礼だろ。なぁ、誰がいいと思う?」
と、全く失礼にあたる意味が分からないことを言って、さらに質問を重ねた。
「僕はナツちゃんがいいなぁ。かわいいし」
と、そこまで黙っていたミナトが言った。
律儀にも梅の質問に真面目に考えていたらしい。
「僕は年下の子の方が気が合うみたい」
そう続けた。
「ナツちゃんか。うむ。確かに彼女は小さいし守ってあげたくなるよな」
同調する梅。
僕は思わず梅とナツが一緒にいる所を想像したのだが、完全に犯罪である。
いや、年齢的には何の問題もないのだけど、ビジュアルの問題である。
少女とゴリラなんて、警察に見つかったら絶対に職務質問されるだろう。
うげぇと思っていると、
「で、健太郎はどうなんだよ?樫原さんとずいぶん仲がいいみたいだけど付き合ってるのか?」
「は?いや付き合ってないけど?」
「じゃあ誰がいいんだ?やっぱり樫原さんか?」
「いや、それは考えたことはないな。」
と僕は答える。
「じゃあメグはどうだ?小学生からお互い知っているし気心も知れていいかもしれないぞ」
「うーん、そうは言っても小学生の時しか喋ったことないしなぁ。そりゃ最近は喋るようにはなったけど、気心が知れるかと言われたらそんなこともないぞ?」
「贅沢な奴め。じゃあナツちゃんか?」
「俺は保護者よりも保護される側の人間だと思う」
「まぁ、そうだな」
「否定しろよ。友として」
「バカを言うな。俺にもできる事とできない事がある。」
「ビシッ」
段々と憎たらしくなってきたのでデコピンをかましてやると、梅もおとなしくなった。
「そういうお前はどうなんだ?人に聞くばかりじゃなくて自分のことを言えよ」
僕は逆に聞いて やることにした。
「そうだなぁ、俺は3人ともいいな」
「え?」
「だってよく見たら3人とも素晴らしい逸材じゃないか。俺には優劣を付けるなんてできない」
人に散々選ばせておいてなんてことを言ってのけるのだこの男は。
呆れ果ててはぁーと深いため息をついた所に着替えを終えたナツがやってきた。
「ねぇねぇ、何の話してるの?」
と興味津々といった面持ちで聞いてきたので答えあぐねていると、梅が
「いや、ちょっと男同士の友情を深めていたんだ」
と、さらりと答えた。
ナツはふぅんと言って納得したのかしてないのかよく分からない返事の後、あとの2人はもう少し時間がかかりそうなので先に海にいっててと言われたから行こうと誘ってきた。
確かにこんなところでぼんやり待っていても仕方がないので男子3人組とナツで先に海へと向かう事にした。
テラスから海の方に出ると、砂浜まで一本道が続いていた。
プライベートビーチかよ…。
砂浜に下りると自分たち以外誰もいないプライベートビーチになっていた。
砂浜の左右をゴツゴツした岩の断崖が人目を避けるようにこの砂浜を隠しているようで、見える景色はひたすら広がる海と空と白い雲だけだった。
空と海の境目もどこにあるか分からないほど広大に感じる。
僕たちには何もかも初めての体験だが、サオリンは子供の頃からこういう所で遊んで育ったのだろうか。
確かに仲良くはなったけれど、そういった子供の頃のことやどんな暮らしをしているかというようなことは何も知らない。
いつかそういうことまで知るほどに仲良くなったりするんだろうか。
そんな僕の気持ちとは裏腹にナツと男子2人はひゃっほうとばかりに海に向かって駆け出し、日に焼けた砂に足の裏を焼かれて熱い熱いとわめきながら海に飛び込んではしゃいでいる。
彼らは僕のように何かを感じたりしているのだろうかと考えていると、後ろの方から女の子の話し声が聞こえてきた。
メグとサオリンが着替えを終えてやってきたのだろう。
僕はそちらに目をやることもなく、目の前ではしゃぐ3人を見ながら砂浜に座り込んだ。
するといつの間にか僕のすぐ隣にまでメグが来ていて、すごーい!なんて 言いながら波打ち際ではしゃぐ3人の方へと駆けていく。
「ここは私の最も好きな場所の一つなんです。いかがです?」
と、メグのすぐ後ろにいたのだろうサオリンが声をかけてきた。
僕はなおもそちらに目を向けることなく
「正直今はサオリンの上流階級っぷりに驚くばっかりでそこまで考える余裕がないよ。でもまぁ、綺麗な所だし嫌いではないよ」
と、そこまで言ってから声のした方に振り返った。

「えーと…誰?」
思わず僕は目の前に立っているサオリンと思しき人物に問いかけてしまう。
今僕の目の前には純白のワンピースの水着に身を包んだ大人っぽい女性が立っている。
分厚いメガネの野暮ったく髪をまとめたサオリンの姿はどこにもない。
その女性は僕の方にチラリと視線を寄こすとすぐにまた目の前の海に視線を戻し、
「お、おかしいで…しょうか?」
と、サオリンの声と喋り方でそう言った。
どうやらこの女性はメガネを外して髪をおろしたサオリンのようである。
「いや、どこから突っ込んだらいいのかなと思って」
と、いまだにうまく事態を飲み込めない僕はやっとの思いでそう冗談を言う。
うーむ、夢ではないだろうか。
はっきり言ってこれは反則である。
メガネを外したら美人とか、ベタなマンガでも今時やらないぞ。
「隣、座ってもよろしいですか?」
と、フリーズしている僕にその女性が言うので僕はコクリと声も出せずに頷いた。
そうしてそのサオリンらしき女性は僕の隣に静かに腰をおろす。
頭の中は相変わらず混乱しているが時間が経つにつれて落ち着きも戻ってくる。
「びっくりしました?」
と、サオリンは今度は言い方を変えて再度質問を投げかけてくる。
「そりゃあびっくりしたよ。思ったより美人だったし」
気が動転している僕は心に浮かんだ言葉を口から吐き出すことで精一杯だった。
「そっか…良かった…」
ここでようやく僕の混乱も落ち着いてきたようで、そうすると目の前の人物を観察する余裕が出てきた。
口元や体型、雰囲気などから段々と目の前の女性がサオリンであると確信を持てるようになってきた。
「メガネなくても見えるんだ?」
そう、あの分厚いメガネに度が入っているとすれば相当目が悪いはずなのだ。
コンタクトにしたのかもしれなかったが、敢えてそう聞いてみた。
「あれは…実は伊達なんです」
「どうしてつけてるの?」
つい反射的に問い返してしまったが、もしかすると何か言いたくない理由があるかもしれないと思い直して
「あ、まぁ言いたくない理由もあるかもしれないからさっきの質問はなしにしよう」
というと
「健ちゃんは優しいのですね」
と、遠くを見つめたまま彼女は言った。
「そんなことはないよ」
と僕は言うと、サオリンと同じように海の方へと目を向けた。
「海、行きませんか?」
「そろそろ行こうかと思ってたとこ。一緒に行こう」
そう言って僕はすっと立ち上がると、サオリンの手を引いて立たせてやった。
2人でみんなのいる方へ歩み寄っていく。
サオリンの変貌に気が付いた男子2人は一瞬固まったが、ナツとメグが説明すると納得したようでこちらに向かって手を振って早く来いと大きな声を上げた。
頭を切り替えよう。メガネをかけていて野暮ったくても、今隣にいる男なら誰もが振り向くような美人でも、サオリンはサオリンだ。
今はただこの楽しい時間を精一杯過ごすんだ。

2時間ほど海で遊んだ後、ちょうどおやつの時間になった。
昼食はサービスエリアに寄った時に買ったお菓子なんかをみんなで食べて抜いていたのでみんな腹ペコである。
全員で海から上がって別荘へと引き上げる。
別荘には本来は使用人がいて食事の用意などはやってくれるらしいのだが、僕たちがいる間はいないらしい。
自分たちだけで楽しみたいというサオリンの意向でそうしたのだそうだ。
ほかのみんなは知らないが、僕としてはその方がありがたかった。
別荘に着いてから驚きっぱなしで、その上食事の用意までされてしまってはくつろげない。
キッチンの奥にある業務用の大きな冷蔵庫には食材が満タンに入っていて、自由に使っていいと言われたので、適当に中を漁ってみる。
見たこともない食材がいっぱいでどう調理するのかすら不明なものばかりだ。
そうこうしていると冷凍庫の方を覗いていたナツが
「アイスはっけーん!!」
と大きな声を上げたのでみんなでそれをいただくことになった。
当然ではあるが、アイスも世間一般で食べるような安いものではなかった。
どこぞの高級ホテルの高級な食事の後の高級なデザートといったなんとも庶民な僕では表現しきれない味である。
ただ一つ言えるとすれば間違いなくおいしかった。
こんなアイスの味を知ってしまったら市販されているものに戻れるか不安だ。
それぐらいおいしかった。
そんな高級アイスを梅はバクバクと食っている。
後でお腹壊しても知らないぞ。
そうしてややお腹が落ち着いた所でみんなでバーベキューの準備に取り掛かることとなった。
しかしナツはバーベキューの串を鷲掴みにして
「殺し屋みたい!」
などとほざいているし、梅は炭に火をつけているのかと思ったらどこで見つけて来たのか高そうな酒をあおっていてこれではいつまで経ってもバーベキューにありつけそうもない。
僕は食材の準備をサオリンとメグに任せてミナトと2人で火を起こすことにした。
そうしてようやく準備が整った時にはもうすっかり夕食時になっていた。
ずいぶん余裕を持って始めたはずなのに。
ナツと梅には後片付けをさせよう。
バーベキューの前に、酒でも飲もうという話になって、ビールが各自に回された。
未成年だが私有地内であるし、多少羽目を外して騒いでも怒られることはないだろう。
特に僕とミナトとメグとサオリンは準備に汗だくになり、ビールでも煽らないとやってられないのだ。
「飲み物は行き渡ったでござるか?では、初お泊りオフ会を記念して…」
「かんぱーい!」
乾杯は全員で声を出して宴が始まった。
始めはみんなでワイワイ騒いで居たが、時間がたつにつれそれぞれの時間に陥ってゆく。
梅は乾杯の前に酔いつぶれてそれからずっと寝ているし、ミナトはお気に入りのナツとふざけ合ってギャーギャー騒いでいる。
僕はどちらかというと1人でチビチビと飲むのが好きなのでテラスの海側の柵にもたれて波音を聞いている。
浜からの優しい風が昼間日焼けした火照った肌を撫でるとなんとも言えない気分になってくる。
夏の夜なんてもっと蒸し暑いといった印象があるが、ここは違っている。
建物から出た所ではメグとサオリンがガールズトークでもしているのだろう。
時々笑い声が聞こえる。
ここにきて僕は、この夏の出来事について思いを馳せている。
夏の始まりの頃、僕は女の子と話すことが苦手だった。
小さい頃、姉の舞のちょっとしたいたずらで、僕は死にかけた。
二階の窓際に踏み台を作って外を見ていた僕をおどろかそうとして後ろからわっと言いながら押したら、僕はそのまま窓から転げ落ち、庭に落っこちたのだ。
僕は落ちた本人だからよく分からないのだが、花壇の土を囲うレンガに頭をぶつけて流血沙汰になったそうだ。
舞にはもちろんそんな風に突き落とすつもりはなかったのは分かっている。
そのことを今だに気にしてもいる。
普段はふざけて嫌なことばかり言うくせに。
頭を打ったショックのせいかは分からないが、僕にはそんな記憶は全くないのだけれど。
ただ、それ以来僕は女の子が恐くなった。
最初は見るのも怖かったほどだそうだ。
僕にはさっぱりそんな記憶はなくて、ただ女の子が怖いという気持ちを気付いたら持っていたという感じなのだが、舞にとってはそういう風にはいかないようだ。
僕は憶えていないから分からないが、やはり血まみれの現場を見たらそう簡単にはいかないのだろう。
中学生の頃、一度だけ舞が今でも夢に見る時があるとポロリとこぼした事がある。
そしてそれは、今でも続いているようで、時々、うなされる舞の声を聞く事がある。
早く、彼女の脳裏からそんなシーンは消えてほしいと願うばかりである。

けれど、今この瞬間の僕は、そういった過去を持った自分で良かったと思う。
そうでなければ夏休みの初めの日、あのオフ会には行かなかっただろう。
そしてその後の楽しかった思い出も、今ここにこうしている自分も、きっといなかったはずなのだ。
僕は変わった。あの日を境に。
そしてそれをしてくれたのは紛れもなく、今ここにいる仲間たちだ。
そんな風に思いながら僕はその愛すべき仲間たちの方へと振り向いた。

スコーン!!!

おでこに何かが高速で飛んできた。

「痛っ!」
反射的におでこを押さえて何かが飛んできた方に目をやると、そこには美人モードのままのサオリンが憂いを帯びたような目でこちらを見ながら立っていた。

いや待て。
少し何かがおかしい。
おでこをさすりさすりしながらサオリンを観察する。
どうも、結構酔っ払っているようである。
彼女の足元にはおびただしい量の瓶が転がっている。
その瞳は、憂いを帯びているのではなくて単に座っているだけだった。
「健ちゃ~ん…1人で浸ってんじゃねー!!!」
と、もののけ姫よろしく本気で襲いかかってきた。

「おいサオリン!気をしっかり持て!酒は飲んでも飲まれるな!!」
走って逃げながらどうにかサオリンを落ち着かせようと説得を試みる僕。
「うるさーい!飲めったら飲めー!」
ダメだ!止められない!
おい!愛すべき仲間たちよ!助けてくれ!と、他のみんなの方を見ると全員腹を抱えて笑ってやがる。
ちくしょう、さっきの僕の気持ちを返せ!お前らなんか全然愛せない!
1mmでも大切だと思った自分が情けない。
いくら広いとはいえ、所詮はテラス。
僕は絡み酒MAXのサオリンにじりじりと追い詰められる。
「よせ!話せば分かる!田舎の母さんが泣いてるぞ!カツ丼でも食って酔いを覚ませ!」
昭和の刑事ドラマのようなセリフで逃れようと試みるが
「話は飲んでからでも出来るんらー!」
ヤバい、今にも飛びかかってきそうだ。
しかもろれつが回らなくなってきているではないか。
後ずさり、距離を取ろうとしたが、すぐにドスっと背中に異物が当たる。
柵の所まで追い詰められてしまったのだ。
サオリンは左右にゆらりゆらりと、まるで幽霊のように揺れながら半歩、また半歩とにじり寄ってくる。
頬にたらりと冷たい汗が垂れてくる。
「落ち着けサオリン!」
「うわぁー!」
わけの分からない雄叫びを上げてサオリンは飛びかかってきた。
柵の後ろは小石や雑草の広がる手入れのされていない固い地面だ。
僕がかわせば彼女がケガをすることになるだろう。
どんなに彼女が酔っぱらっていたとしても、それは防がなければならない。
意を決した僕はサオリンを受け止めることにした。
ばっと両手を広げて身構える。
ドサっという音ともに僕の胸に飛び込んできた彼女の体はとても細くて軽くて、女なんだなぁと感じてしまう。
しかもシャンプーのいい匂い。
うわぁダメだ!ドキドキしてきた。
そして顔をあげて僕の方を見た彼女の髪は乱れ、目はとろけきっている。
何だこのエロゲー展開は!
「健ちゃん…」
呟くようにさっきあげた顔を再び僕の胸にうずめてくる。
僕はもう何だか分からなくなって、両手を彼女の肩にそっと添えた。
もうそのままキスまでしてしまいそうな雰囲気である。
しかしそこで、彼女がヒクヒクと小さく肩をしゃくり上げていることに気が付いた。
「サオリン…?」
と、声をかけた瞬間

「げろげろげろげろげー」

………

……


—1時間後。
僕の目の前には少女が土下座をしている。
大量のもんじゃ焼きを僕にゼロ距離発射した後、どうやら正気に戻った彼女は目の前にいた僕を見て絶叫した。
その他の奴らは結局そこでも腹を抱えて笑い続けていた。
なんでこんなに笑われなければならないのだ。
「申し訳…ございません…」
消え入りそうな声で土下座をしている少女が唸る。
惨劇の後、バーベキューはお開きになり、僕は入浴と着替えを済ませ、別荘のリビングでテレビを付けてくつろいでいた。
一番風呂を浴びてリビング一番乗りでテレビを見ていると、申し訳なさそうにサオリンがやってきて、今の状況になっているというわけだ。
「いや、もう顔をあげてよ。」
と僕が言うと、
「そういうわけにはいきません。なんといってお詫びしても足りないですよ」
と、かたくなに土下座を解こうとはしない彼女。
「俺、別に怒ってないからさ。体だってもう洗ったし、服も洗濯してる。それでいいじゃん。それに、追いかけっこはそれなりに楽しかったしね」
と、そこまで言うとサオリンが部屋に来た時に淹れてきてくれたコーヒーを一口すすって、
「だからさ、サオリンも座ってコーヒー飲もう。冷めたらおいしくないよ」
と、付け足した。
「本当に…怒ってない?」
恐る恐る聞いてくる彼女。
「怒ってないよ。ま、ゼロ距離発射はもう勘弁してほしいけどね。あはは」
とおどけてみせるとそこでようやく笑顔を見せて
「もう絡み酒はやめます」
と、ポリポリと頭をかきながらゆっくり立ちあがって隣の席についた。
そうしてようやく普段通りに戻れたところでみんなもぞろぞろとリビングに集まってきた。
きっと僕たちに気を使って遠慮していたのだろう。
どこかで見ていたのかもしれない。
その後はナツが持ってきたトランプで、夜中までワイワイとみんなで騒いだ。

—うーん…。
寝苦しくなって目を覚ます。
見覚えのない場所に一瞬はっとするが、そうか、ここはサオリンの別荘だった。
しかし下がやけに固いのはどうしたことか。
ベッドの感触ではない。
辺りを見渡すと段々と状況が飲み込めてくる。
どうやらリビングで寝込んでしまったらしい。
そういえば何だかんだで僕も結構飲んでいた。
トランプの途中で寝てしまったのだろう。
確かに途中からの記憶がぷっつりと途絶えている。
部屋に戻らないとと思って立ち上がりかけると、腹の辺りにバスタオルがかけられてあった。
サオリンあたりがお腹が冷えないようにかけてくれたのだろう。
僕は立ち上がってそのバスタオルをソファにかけると、部屋に戻ろうとリビングから出て階段を登った。
廊下には月明かりが射し込んでいて、思いの外明るい。
そしてやけに静かで、ここが人里を離れた場所であることを認識させる。
ようやく部屋にたどり着き、僕は布団に潜り込んで再び眠りにつこうとする。
今は何時だろうかとも思ったが、早く寝直したかったので時計は確認しなかった。
そして目を閉じていると、

コンコン

誰かが部屋の扉をノックした。
誰だよ、こんな時間にと思いながら僕はドアに向かって開いてるよと声をかけるとガチャリとノブが回って扉が開き、その人物が入ってきた。
サオリンだろうかと予想していたのだけどどうやら違うようだ。
そのシルエットは明らかに彼女よりも小柄だ。
「メグか?」
と僕が声をかけると
「そう」
と一言だけ返ってきた。
僕は体を起こしてベッドに座ると、隣にメグも腰掛けてきた。
「ちょっとお願いがあるのよ」
「お願い?」
こんな夜更けにわざわざ何のお願いなのだろうか。
不思議に思いながら僕は彼女の次の言葉を待つ。
メグはうつむき加減に押し黙ってしばらく言いにくそうにしていたが、やがて口を開くと
「宿題…」
とだけ呟いた。
「は?」
何とも間の抜けた声を出してしまった。
こんな夜中に、わざわざ改まってのお願いなのだ。
もっと深刻な悩みかと身構えていただけに肩透かしをくらった格好である。
しかしここで僕は気が付く。
「終わってないのか?」
そう、ここにいるメンバーは皆、夏休みの宿題は終わらせているはずなのだ。
メグは黙って頷く。
聞いてみると、出発前に家庭で立て込んだ用事があってどうしても終わらせることが出来なかったのだと言った。
そしてこの旅行の後も忙しいそうで部活にも出られそうになく、夏休み中に終わらせられないかもしれない。だから帰ったら手伝ってほしいというものだった。
わざわざこんな時間を選ぶということは人には知られたくなかったのだろうと思った僕はその願いを承諾し、家庭での立て込んだ事情とやらも深くは聞かなかった。
この件に関しては聞く必要のないことであるし、話したければ彼女の方から話してくれるだろう。
そうしてこのことは秘密にしておこうと約束して彼女を部屋に送り届けた。
その後、自分の部屋に戻って改めて深い眠りについた。

—「……ろ」
んー…また誰か呼んでる…?
「…きろー」
んーんー…。何かどこかで同じようなことがあったような…。
「おきろー」
!!!
バスでの悪夢を思い出し、僕は目をバチッとあけた。
すると視界には満面の笑顔のナツがいる。
おはようと声を出しかけるが、ナツがものすごい勢いでこちらに迫ってくる。
あれ?寝てたのになんで正面にナツが見えるんだ?
と思った瞬間、ドスンと腹に超強烈な衝撃が走る。
一瞬呼吸が止まる。
「ダイビングー!!」
「朝だケンタロー!起きたか?」
どうしてこう、この人は普通に僕を起こせないのだ。
僕は彼女を睨みつけるが、悪びれる様子もなくヘラヘラと笑ってやがる。
「どうしてこんな起こし方ばかりするんだ?」
と、もうやめてほしくてそう聞いてみると、彼女は相変わらず笑いながら
「ケンタローは怒らないからな」
と、そんなことを言う。
そんなことはないと思うんだけどと言うと、昨日のバスでミナトにはほっぺをつねられて梅にはチョップを食らわされたそうだ。
僕だって怒るし、バスの時も今だって怒ってるんだぞと言ってやったのだけれど、彼女はそれでも怒ってるようには見えないよと笑った。
全員が起きたところで朝食を摂り、さて今日はどうするかという話になり、ナツとメグが今日も海に行きたいというのでそうすることになった。
外に出ると今日も快晴で、ジリジリと太陽が肌を焼く。
僕はまだ眠かったので日よけのパラソルの下で砂浜にごろりと転がって海の方を眺めていた。
日陰で寝転んでいると風が心地よい。
昨夜は遅くまで起きていたし、朝方はメグと話したりもしたのでウトウトしてくる。
でも寝たらまたナツあたりがものすごい起こし方をしてくれそうだ。
それはもう勘弁である。
しかしそんな気持ちとは裏腹に僕は夢の中に落ちてゆく。

ふと周りが眩しくなって目を開ける。
どうしたことか体が動かない。
動かないと思ったらどうやら寝ている間に砂に埋められてしまったようだ。
みんなの声が頭の上の方から聞こえる。
ふと右側に目をやると大きな美味しそうなスイカが置かれていた。
これでスイカ割りでもしたら楽しいだろう。
ていうか視界の外のみんなの声は何か盛り上がっているようである。
気になって首を動かすが、相当念入りに埋められてしまったらしく全く動かない。
そうやってジタバタしていると、ジャリジャリと1人の足音が近付いてくる。
しかしその足音は歩いているというよりも、すり足でなにかを確かめながら進んでいるようである。
何だかものすごく嫌な予感がする。
その予感を振り払うように僕はその近付いてきた人物に声をかけようとしたのだが、その瞬間、何かが鋭く空気を切り裂くような音が聞こえた。
ヒュンッ!
ザシュッ!
「うわぁぁああああ!!」
スイカを置いてあるのと反対側の左耳の真横に棒が振り下ろされた。
切り裂かれた空気が風圧となって耳の近くの髪をふわりと持ち上げた。
「待て待て待て待てー!アホか!死ぬわ!!」
僕は叫ぶ。
遠くからぎゃははと笑い転げる声が聞こえる。
そこでその棒を振り下ろした人物が目隠しを外して近寄ってきて僕の視界に入ってきた。
「…やっぱりか」
僕はその顔を見るなりそう呟いていた。
「おはよー、ケンタロー!迂闊な君がいけないんだぞ♪」
そう言って親指を立ててグッジョブとばかりに腕を前に突き出してにっこり笑っているのはやはりナツだった。
「とりあえずさ…発掘してくれ」
怒る気力も失せたというか、さっきの恐怖心がまだ残っているせいかは分からないが、僕は怒ることもなくナツにそう頼んだ。
そして無事に掘り起こされた僕はナツに手を引かれてみんなの輪に戻る。
ナツは自慢げに、ほら怒らなかったでしょと勝ち誇っている。
そういう問題ではないと思う。
下手したら頭から大出血リフレインだぞ。
とりあえず僕はシャレにならないのはやめてほしいと抗議をしたが、みんなの胸にどれほど響いたかは定かではない。
そんなこんなで昼まで遊んでから別荘の食材をもらって昼食を作ってみんなで食べて、後片付けの後に帰路についたのだった。
何かこの旅行中の僕は痛かったり怖かったり散々だった気がするがあまり気にしないことにしておこう。
地元に着いてから全員で喫茶店に行ってマスターにただいまと言って、一服の後に解散となった。
その日の夜は夢も見ないほど深く眠った。

第三章-1『Are You Happy?〜MEGU〜』

旅行から帰った翌日、昼前にメグから電話が鳴った。
忙しくなる前に約束の宿題を教えてほしいというので、予定も特になかったので了解した。
図書館にでも行こうかと持ちかけたのだが、外に出て旅行のメンバーと出くわしたりしたらいちいち説明しなくてはならなくなるので結局僕の家に来る事となった。
母は小学校の時以来となるメグの訪問に喜んでいるようだ。
「あら、メグちゃんじゃないの!久しぶりねぇ。もうすっかり大人になっちゃって」
と親戚のおばさんのようなセリフを言うと、キッチンの方へメグを呼び、何やらコソコソと話をしている。
話の内容が気にならないではなかったが、男には分からない話なのだろうと思い、先に部屋に行ってるよと言って自室に入った。
そうして先に1人で部屋に戻った僕は男子しか買わないような雑誌やDVDの類が見えるところに残っていないかチェックする。
もちろんここに来ると決まったすぐ後にそういったものは全て押入れの奥深くに封印したのだが、ふとした時に出てきたら気まずいものであるし、チェックしすぎという事はないだろう。
そうしているうちに階段を昇る足音が聞こえてくる。
どうやら女同士の話は終わったようだ。
コンコンと律儀にノックをする彼女をどうぞと言って部屋に迎える。
母に託されたのかオレンジジュースの入ったコップが2人分とクッキーを少しばかり入れた小さな皿の載ったお盆を持って入ってきた。
立ったまま部屋のあちこちを見回している。
自分の色んな所を覗かれているようなむず痒い感覚を覚えた僕はまぁ座りなよと彼女を促した。
それでようやく彼女は動き出して、部屋の真ん中に置いた小さなテーブルの横に腰を下ろした。
「ここに来るの久しぶり」
と言った彼女はさらにこう続ける。
「あんまり変わってないね」
「そうかな?っていうかそんなに俺って成長してない?」
自分自身の成長に少し不安になった僕は彼女に尋ねた。
「そんなことないよ。何ていうか、空気が子供の時と同じだなって思ったのよ」
まぁ、部屋の住人は変わってないからある意味それは正しいのかもしれない。
しかし僕が彼女に感じる空気は子供の頃と少し違うような気がする。
「メグは少し変わったような気がするよ」
と言うと彼女はこちらに向き直り
「どんな風に?」
と聞いてきた。
「何ていうか、大人しくなった」
彼女の子供の頃はもっと騒がしくて負けん気が強く、もっとよく笑っていたような気がする。
成長して落ち着きが出てきたと言われればそうかもしれないが、僕にはそれとは違う変化のように感じたのだ。
「昔はもっとよく笑ってたと思う」
と僕が続けると、
彼女は何かを思い出すような顔をして少し間をあけてから、そうかもね。と言って笑った。
いつまでも思い出話に花を咲かせても仕方がないので早速勉強にとりかかる。
僕はサオリンに教えてもらった知識を脳みそをフル回転させて思い出しながらメグの質問や、詰まった問題にアドバイスを出していった。
そしたらそんなに頭良かったっけ?と聞かれたので、サオリンに教えてもらった事の受け売りだよと答えてから、僕はコップを手にして口に運ぶ。
「あんたたちって、付き合ってるの?」
僕は口に含んだジュースをごくりと飲み込んでから
「いや、付き合ってないよ。そんな風に見える?」
と聞いたら、時々そう見えるわよと言って再びノートに目を落とした。
そうしておやつの時間近くになって、彼女の宿題も残すところあと僅かになったので少し休憩を入れる事にした。
休憩の間はまた昔の話しで盛り上がって、いつかはこうだったとか、あそこで何をしただとかとりとめもないことを思い出しながら話した。
そうして話しが一区切りついたところで、彼女はコップに口を付けてジュースを少し飲みながら僕の方をじっと見つめてきた。
どうしたんだと尋ねたら目を逸らして何でもないと言ったが、普通は何でもないのに人の顔なんか見つめたりしないことを僕は知っている。
今、メグの心の中に何か言いたいことがあるのだろう。
思った事は何でも口に出していた昔の彼女からは想像も出来ないことだ。
だから余計に、話さないということは彼女の心の深い所の問題なのだと分かってしまう。
多分彼女はその胸の内を聞いてもらいたいのではないだろうか。
特別な根拠はないがそう思ったので、
「なぁ、何か言いたい事があるなら言えよ。話聞くぐらいしか出来ないと思うけどさ」
と言ってみた。
いつもの彼女であれば、ここで「そんなことないわよ」とか「うん、じゃあ聞いて」とか言い返してくるはずである。
しかし今僕の目の前にいる幼なじみの少女は何も言わずにうつむいてしまった。
やはり彼女は何か大きな悩みを抱えているのだ。
その悩みがどんなものかは分からないが、少なくとも1人で落ち込むよりは誰かに聞いてもらう方が心は軽くなるだろう。
少なくとも、今より悪くなる事はないはずである。
だから僕はさらに言葉を繋げる。
「何も出来なくても、メグが何で悩んでるかぐらいは知っておきたいんだ」
「話したって解決なんてしないのよ」
「解決しなくたって、少しは楽になるんじゃないの?」
「うるっさいわね!あんたなんかにあたしの気持ちなんて分からないわよ!」
段々とヒートアップしてくる。
しかしここで引いたらもう二度と彼女はこの事を口にしようとはしないと思った僕は間髪入れずに言い返す。
「分からないよ!何にも言わない奴の気持ちなんて!分かりたいから聞いてんだろ!」
と強く言い放った。
そこでメグは瞳に涙をいっぱいにためてキッと睨み付けてくる。
もっと言い返したいようだが涙が邪魔をして言葉にならないようだ。
「どうしても嫌ってのなら俺はこれ以上聞かない。でも今日のメグは聞いてもらいたそうに見えたからさ。キツく言って悪かったよ」
ここまで言ってダメならきっとどうしたって言ってはくれないだろうと思った僕は、口調を元に戻してそう言った。
涙を我慢するのを諦めたメグは、泣きすぎた子供みたいにヒックヒックと肩をしゃくりながら
「…そこまでして聞いといて、すごくくだらない事だったらどうするつもり?あたしは今確かに悩んでる。でも、同じような人やもっと辛い人なんていくらでもいるもの。つまらない事でクヨクヨしてるのよ、あたしは。だから放っておいて」
「あのさ、悩みの大小ってのは他人が決める事じゃないんだよ。バカだなぁ。それなら俺なんてどうなるんだよ。女の子と話すのが苦手ってことでついこないだまで悩んでたんだぞ?そんなの普通の人からすればくだらない事この上ないと思わない?でもさ、俺にはそれはものすごく大きな事だったんだ。だからメグの悩みが俺にとって些細な事だとしても、俺はそれをバカにしたり、メグを見る目が変わったりしない。」
それは僕がずっと思っていた事だった。
そしてメグが言ったこともまた、昔の僕が思った事と同じだった。
僕は単純な性格なので途中で開き直る事が出来たけれど、負けん気の強い彼女にはそれはなかなか難しい事だろう。
それにはきっと、誰かが背中を押してやらなければならない。
せっかく乗りかかった船だ。
僕で良ければ力になろう。いや、なってやりたい。
すると彼女は少し肩の力を抜いて
「うちの親ね、離婚…するんだって」
なんてことだ。
それは僕も想定していなかった悩みである。
確かに彼女の言う通り世の中には同じような境遇の人はいくらでもいるだろう。
そしてテレビやなんかではそういう境遇でも幸せに暮らしていたり前向きに頑張る人の姿を放送したりもする。
そういう人たちを見たメグが、自分の悩みなんてつまらないと感じてしまうのも無理のないことかもしれない。
でもそういう人たちだって、その問題に直面していた時は悩み、苦しんだはずである。
そういう時期を過ぎているだけなのだ。
色々な考えが頭の中に浮かんでは消える。
「そうなんだ。いつ頃からそういう風になっちゃったんだ?」
「夏休みに入った頃にね、お父さんが外に女の人がいるって分かったのよ。」
「それは大変だったな。でもそれでよく旅行とか行けたなぁ」
「空気悪いからね、家に居たくなかったのよ。妹には悪いけど、少しだけ息抜きさせてもらったの」
そうして彼女は淡々と自分の家での事を話していく。
浮気の発覚以降、父親が家を出ていって帰ってこなくなってしまった事、父親がいなくなってから母親が家事をしなくなってしまいメグが小学生の妹の面倒を見ている事、近々母親の実家に帰らなければならない事、いつ頃戻ってこられるのかは分からない事など。
そうして一通り言いたい事を言い終えるとふうと一つため息をついた。
彼女は僕の顔をじっと見ながら
「ね、健太郎はどう思う?」
「どうって何を?」
「お父さんの事」
「どうって、まぁやっぱり外に女の人作るのは良くないと思うよ。けどさ、おじさんにはおじさんの悩みとかあったのかもしれないし、片方の話を聞いただけじゃ何とも言えないなぁ」
「そっか…そうだよね」
「メグはこれからどうするの?」
「あたしはお母さんのそばに居ようと思ってる。妹もいるしね。お母さんの実家に行った後に、また今の家に戻ってこられるかは分からないけど…」
「もしそうなったら、寂しいなぁ」
「なるべくね、そうならないようにはするつもりだよ。あたしだって寂しいもん」
「おばさんの実家にはいつから行くの?」
「あさって。明日は泊まりの用意とか色々しなくちゃ。だから今日しかここに来る時間がなかったの」
「そうか、じゃあ行く前に会えて良かった」
「良かったの?こんな話聞かされたのに?」
「そりゃそうだよ。何の事情も知らないまま居なくなられるよりはずっといい」
「そう、だったら、話して良かった…かな」
そうして彼女は寂しそうに微笑んだ。
「でも、ごめんな、全く力になれなくてさ」
家庭の事情にはさすがに割り込む事は出来ない。
本当に話を聞いてやるしか出来なかった自分が悔しくて、さらに僕は言った。
「まぁそれでもさ、俺はずっとメグの幼なじみだからさ」
「うん」
「俺に出来る事があるんなら遠慮なく頼れよ」
「うん…うん…ありがと…」
そこで、一度は泣き止んでいた彼女は涙をボロボロとこぼして再び泣き始めた。
僕は何も出来ず、かと言って黙って見ている事も出来ずに頭を撫でてやると、彼女は僕の胸にもたれてきて、さらに大きく肩を揺らして泣いた。
僕は少し照れ臭かったが、そんな彼女の頭をいつまでも撫でてやった。
夏休みが始まってから今まで、誰にも言わず、誰にも頼らず彼女は耐えて来たのだ。
そしてこれからも様々な事が彼女にのしかかって来るだろう。
幼い妹の世話や家事もそうだし、学校の事だって分からない。
当たり前に明日を迎えていた毎日は彼女にはもうないのだ。
今日ぐらいは泣いてもいいだろう。
僕は、少しは彼女の力になれたのだろうか。
そんな風に思いながら彼女の涙が止まるのを待っていた。
やがてメグの涙も止まって落ち着いてから、彼女は残り数ページの課題をやった。
新学期に、登校出来るかも分からないのに。
彼女はどんな気持ちでこの課題をやっているのだろうと考えているうちに最後の問いの答えが出る。
ノートを静かに閉じて、彼女は僕の方に顔を向けた。
「今日はありがと。ずっと不安だったの。でも、あれだけ泣いたら少しスッキリしたわ」
「そうか、それなら良かった。でも、胸が小さいとかいう悩みならどうしようかと思ったよ。あはは」
ぽりぽりと頭をかきながら言うと
「…コロス…」
元気な時の彼女の反応に少し安心して、
「うむ、それでこそメグだ」
と言いながら頭を撫でてやったのだが
「やかましい!」
彼女の右腕が唸りをあげてまっすぐに伸びてくる。
その速度は発射台から打ち上がるロケットのようだった。
スローモーションを見ているように左頬にめり込んで来る。
ドスぅ!
「幻の右ストレートぉー!」
ノックアウトされてしまったのであった。
はあはあと肩で息をしながら彼女は
「明日、買い物に付き合ったら許してあげるわ」
と言って、こちらの都合も聞かずに明日の予定を決めてしまった。
「いや、でも明日は泊まりの用意で忙しいんじゃないの?」
「うっさい!行くの?行かないの?」
「オトモシマス…」
…どうやら胸の話題は禁句のようである。
そうして明日の予定を決めると2人で部屋を出る。
リビングに降りると、母が作り過ぎたからと言ってメグにおかずの入ったタッパーを持たせた。
母はきっと、彼女の事情を知っていたのだろう。
家に来た時もキッチンでそんな話をしていたのかもしれない。
母も自分と同じように彼女を気にかけてくれているのが少し嬉しかった。
玄関を出る時、
「送ってよ」
と言うので家まで送ったのだけれど、その短い道のりでの彼女は無口だった。
1人になるのが嫌だったのかもしれない。
やがて家に着いて、玄関に入っていく彼女の背中を見ながら僕は改めて彼女の事が心配になってしまった。
その夜は色々な考えや気持ちがもやもやと頭の中を占拠して、なかなか眠れなかった。

チュンチュンと雀の鳴く声で目が覚めた。
窓の外からの光でもう朝なんだと認識する。
しかし何だか薄暗い。
体を起こして窓の方へ行ってみると、空には雨雲が広がっていた。
メグと出かけなければならないのに雨とはついていない。
ともすると出かけるのが億劫になってしまいそうであるが、約束は果たさなければならない。
今の彼女を1人になど出来ない。
リビングに下りて時計を見るとちょうど8時で、父が出かける所だった。
行ってらっしゃいと言うと、メグちゃんは大丈夫だったかと聞いてきたのでそこそこは元気だと思うと答えた。
昨日、母から話を聞いたのだろう。
父も心配しているようだった。
朝食を摂ってリビングでくつろいでいると携帯が鳴った。
待ち合わせの時間に用事が入ったので予定を一時間遅らせてほしいという連絡だった。
待ち合わせは10時の予定だったので、一時間遅らせると11時という事になる。
昼ご飯でもおごってやるかと僕は勝手に決めると財布の中身を確認した。
どうやら大丈夫そうである。
待ち合わせまでかなり余裕が出来たので、喫茶店で時間を潰すことにして、そのうち降り始めるであろう雨に備えて傘を持って家を出た。
出かけに母が声をかけてきて、
「今日はメグちゃんと出かけるのよね?ご飯でもおごって元気付けてあげなさいよね」
と言って千円札を二枚出してきたので、言われなくてもそのつもりだよと言って財布を見せ、お金なら大丈夫と笑ってやった。
外に出ると、ただでさえ高い湿度に今日の天気がさらに追い討ちをかけて湿度を上げていて不快だった。
僕は足早に喫茶店を目指した。

喫茶店に入るとまずコーヒーを頼んでカウンター席に腰を下ろした。
「ん?今日は1人かい?カウンターに座るなんて珍しいじゃないか」
と、奥から出てきたマスターが声をかけてきた。
「これから待ち合わせだから時間潰しに来たんですよ」
「ほう?」
と言うとマスターの目がキラリと光る。
「デートだね?」
「違います」
「お相手はいつものサオリン?」
「ブッブー」
などといいながら時間を潰す。
マスターは人に話を合わせるのがうまい。
前にそんなことを言ったら、商売柄色んな人を見るからねと言っていた。
そうして色んな人を見るうちに、どんな事を思っているかも分かるようになるんだそうだ。
とすると、僕の今の気持ちや、メグが悩んでいる事も見透かされているのだろうか。
そんな風に思いながらマスターと話しているうちに待ち合わせ時間が近くなってきた。
待ち合わせ場所は駅近くの公園だ。
今日の行き先は前にサオリンと行ったデパートなのである。
待ち合わせ場所を決める時には家まで迎えに行く予定だったのだが、予定を遅らせてと言ってきた時に公園に変更となった。
外に出ると、いつからか雨が降っていた。
ザアザアと音をたてている。
本降りである。
水たまりの具合からすると結構前から降っているようだ。
もしかすると僕が喫茶店に着いた後ぐらいから降っていたのかもしれない。
僕は傘を差して公園までの道を急いだ。
こんな天気に誰かを待たせるのは嫌な気分がしたからだ。
バシャバシャと水たまりを避けながら走っていくと間もなく公園が見えてきた。
その入り口付近に誰かが立っている。
傘をさしている様子はない。
まさかと思いながらその人影に近付いてゆくと、やはりメグだった。
いつから雨に打たれているのだろう。
俯き黙ったままの彼女の頬を雨の雫が流れ落ちている。
髪はもちろん、服ももう乾いている所など見当たらない程に濡れている。
真夏といえども雨に打たれれば体温が奪われる。
彼女は小刻みに震えていた。
僕が時間に遅れたわけではなかったが、
「悪い、遅くなった。大丈夫か?」
と、全然大丈夫じゃない彼女に声をかけた。
ゆっくりと顔を上げたが目は虚ろで、まるで魂の抜けた抜け殻のようだった。
ようやくその瞳が僕の姿を捉えると、光を取り戻す。
しかしそれも長くは続かない。
彼女の顔がくしゃくしゃになってゆく。
その頬に雨だけでなく、涙が滴ってゆく。
泣き出してしまった。
何があったのだろうか。
僕には何も分からなかったが、分かった所で出来る事と言えば、昨日のように彼女に胸を貸してやる事だけだ。
僕は彼女に近付く。
吐息が届くほどの距離になった彼女の頭をそっと引き寄せる。
ほどなく揺れ始める彼女の肩に手を置いて、
「待たせて悪かったな。もう泣いてもいいぞ」
と声をかけた。
それからしばらく、彼女は泣きに泣いた。
その間、雨音と、彼女の泣き声と、遠くの車や電車の音が僕たちを包んでいた。

やがて落ち着いてくると、僕はメグの手を引いて自分の家へと連れて帰った。
どの道これでは買い物どころではないし、かと言って彼女の家に帰してはいけないと思ったのである。
玄関を開けると母を呼んで、彼女を風呂に入れてやってほしいと頼んだ。
母は驚いていたが、すぐにバスタオルを持ってきて彼女を風呂に案内していった。
頼まなくても服は舞の物を出してやってくれるだろう。
シャワーの音が聞こえてきたことでようやく一安心した僕は、リビングのソファに腰を下ろしてテレビを付けた。
キッチンでは母が料理をしているようだ。
そう言えば昼前に待ち合わせていたっけ。
時計を見ると12時を過ぎた所で、そうすると彼女は30分近くあの場所で泣いていた計算になる。
しかし彼女は僕がその場所に現れるよりも早くにそこに立っていたのだ。
いったいどれぐらいあそこで雨に打たれていたのだろう。
胸が苦しくなる。
メグがシャワーから戻ると、母は僕たちを食卓に座らせて暖かいスープとご飯を食べさせてくれた。
食事の間もメグは無口で、母の問いかけに二言三言返事をしただけだった。
2人の食事の後片付けの後、じゃあ買い物に行って来るわねと言って母は出かけていった。
しばらく2人でリビングのテレビを見ていたが、やはりずっと無言のままだった。
このまま母が帰ってくるまでここにいてもよかったが、そうすると母に余計な心配をかけるかもしれないと思った僕は彼女を部屋に誘った。
そうして昨日と同じように僕の部屋にやって来た彼女であったが、その様子は昨日とはまるで違う。
誰にも頼らず過ごしてきた昨日までの彼女は張り詰めた緊張感で何とか平静を装っていたのだろう。
僕がその表面張力を破ったのだ。
それがいい事か悪い事かは今はまだ分からないが、少なくとも僕の前では弱った自分をさらけ出している。
その事に関しては僕は喜ぶべきだろう。
昨日、彼女は妹の面倒を見ていると言ったのを思い出した僕は、妹もこっちに呼んであげようかと聞いたのだが、今は親戚のおばさんが家に来てくれているので問題ないとのことだった。
それで少し安心した僕は
「じゃあ、気が済むまでここにいていいぞ」
と言ってやった。
うんと頷いた後、しばらくしてから彼女は口を開いた。
「朝にね、お父さんから電話があったの」
と言った。
家を出ていた父親から電話があって、会ってきたのだそうだ。
そこで父親は、
「母さんとは離婚することになるだろう。後は頼む」
と言ってきたそうだ。
外に女を作って家を出て、今度は娘に後は頼むだなんてあんまりにも勝手だよねと彼女は力なくふふふと笑う。
ただでさえこれからの生活にプレッシャーを感じている彼女にその言葉はあまりに重過ぎたのだろう。
そんな彼女に僕は、
「まぁ、あんまり1人で抱え込まなくていいと思うよ。困ったらさ、周りを頼ればいいんだ」
と言葉をかけた。
そう言っておかなければまた彼女は全てを自分1人で背負おうとするだろうと思ったからである。
そうして話しているうちに夕方になり、その頃には笑顔も見せる程度に元気になってくれたようだ。
夕食の時間前には帰る事になった。
「明日からおばさんの実家だよな?何かあったら電話しろよ」
「そうね。あんたには恥ずかしい所いっぱい見られちゃったし、そうさせてもらうわ。今更後悔しても遅いわよ」
そう言って笑ってみせた。
この調子ならば、しばらくはめげずにやっていけるだろう。
彼女を送る為、玄関から2人で出ると雨は上がっていた。
電線や、木の枝からはまだ雫が滴っているところを見ると、止んでから幾ばくも経っていないのだろうか。
願わくば彼女の心も今の空のように雨上がりに至ってほしい。
彼女の家へと続く道を並んで歩く。
「ありがとうね。あたし、頑張れそう」
急に彼女がそう言って笑った。
昨日から泣き顔ばかりみているせいかひどく懐かしく感じるその顔は、僕の心を揺らす。
「お、おう。まぁ無理はすんなよ」
と、ぎこちない返事になってしまった。
そうしてやがて彼女の家が視界に入ってくる。
この別れを以って、この少女とはしばらく会えなくなってしまうと思と些か寂しい気持ちに囚われてしまう。
そんな僕の変化に気付いた彼女は
「どうしたのよ?」
「いや、何か急に寂しくなった」
「そっか、あたしも同じ」
そう言って握手を求めてきた。
そうして見つめ合う2人。
寂しい気持ちはメグの方が大きいはずだ。
この街を離れるのだから。
「また、連絡するね」
「おう、寝てなけりゃすぐに応答するよ」
「授業中でも?」
「もちろんだ」
「勉強しろよ」
軽口を言い合いながら、家はもうすぐそこなのになかなか帰ろうとしない彼女。
「あ…あのね、あたしは…」
戸惑うように何かを言いかけた彼女だったが、ちょうどその時彼女の妹が玄関を開けてメグを呼んだ。
すぐ戻ると妹に言うと、僕の方に向き直り、またねと笑ってそっと手を離す。
さっき何を言いかけたんだと聞いてみたが、また機会があったら言うわと言って、玄関に向かった。

僕は1人になった帰り道、ずっと彼女の言いかけた事が何だったのか考えたけれど、その答えは出る事はなかった。

第三章-2『Are You Happy?〜NATSU〜』

メグの一件から2日後。
彼女は母の実家に行くとすぐに電話をよこした。
どうやら実家で家族に会って、彼女の母も落ち着きを取り戻してきたそうだ。
長年連れ添った後での離婚なので心の傷はそう簡単には癒えないだろうけれど、この調子でいけば新学期にはメグだけでも戻ってこれそうだという。
ただ、妹はまだ母親のそばに残るそうだ。
親戚のおばさんが、メグのいない時間は見てあげてもいいのよと言ってくれたそうだが、やはり子供と離れるのは寂しいそうで、メグも戻ってきても週末には母の実家に行く事にするよと言っていた。
まだまだ彼女の問題は何一つ解決していないけれど、前向きには進んでいるようだ。
少しでも早く、彼女の日常が苦しいものでなくなってほしい。
今すぐに彼女にしてやれる事は、ある程度やり切れたのかなと思っている。

そうして今はこの街にメグはいなくなってしまったが、時間は進むし、そこに住む人たちの物語は進んでゆく。
今はサオリンと久しぶりに2人でいつもの喫茶店でお茶をしている。
「で、今日の買い物はどこにいくのですか?」
旅行以来、メガネは外して美少女のままのサオリンである。
最初店に入った時はマスターも気が付かず、サオリンだと明かすと腰を抜かしそうな勢いで驚いていた。
まぁ、当然の反応だろう。
「今日は商店街に行きます」
そう、以前に今度買い物に付き合うとサオリンが言っていたので、今日はその約束を果たしてもらおうということで、僕から誘ったのだ。
「商店街…何を買うのですか?」
「CDだよ」
そう、今日は僕がイチオシしているアーティストのCDの発売日なのである。
僕にとってはとても素晴らしいメロディだし、歌詞だって素晴らしいと思うのに、どうにも世間では受け入れられないらしいそのアーティストのCDは、残念ながら大型ショップの平積みになったりする事はないし、急いで行かなければ売り切れになってしまうこともない。
旅行に行く前のある日、好きなアーティストの話になり、僕は大いに憤慨してサオリンに熱く語り、歌を聞かせてやったのだが
「…ごめん…」
どうして謝るの。

…そんなわけで急ぐ事もなくのんびりとコーヒーなどを嗜んでいる次第なのである。
この街の商店街は今僕たちのいる喫茶店を中心にして、駅とは反対側にある。
本やCDなどを買う時は大体みんなそちらにゆくのだが、サオリンは行った事がないという。
じゃあサオリンはCDが欲しい時はどうしてるんだと聞くと、ネット通販か使いの人が買ってきてくれるんだそうだ。
もうなんていうか、僕はそんなぐらいでは驚かなくなっていて、
「ああいうのは店で自分で買うのがいいんじゃないか」
と言ってやった。
ともあれ、いつまでも喫茶店でだらだらしていてもCDが手元にやってくることはないのでそろそろ移動する事にしよう。
一昨日の雨の後は、お盆を過ぎたというのにまた太陽が熱心に地上を照らしている。
外に出た途端に額に汗がにじんでくる。
僕たちは暑さから逃れるように日陰を選んで歩き、商店街を目指す。
歩きながらサオリンに商店街の様子などをあれやこれやと聞かせてやる。
どうやら人生初となる商店街に彼女はウキウキのようで、スキップなんかしちゃったりしている。
恥ずかしいからやめなよと言ったのだが、聞く様子もない。
どうにもこの人はあの旅行以来キャラが変わってしまったようだ。
これは色々な意味で地が出ているということだろうか。
そうであれば、友としては喜ぶべきことだろう。
スキップはちょっと恥ずかしいけれども。
そうこうしながら歩いているうちに商店街に辿り着く。
目当てのCDショップは商店街の入り口近くにあり、店はすぐに目の前に現れた。
ショップの入り口前に立つと、僕の目当てのCDの入荷を知らせるチラシが申し訳程度に隅っこに貼られている。
店内に歩を進め、CDを物色していくと、チラシと同じく隅っこの方にひっそりとそれは並んでいた。
1ファンとしては嘆かわしい事である。
誰にもぶつけられない怒りをぶつぶつと呟きながらそのCDを手に取りジャケットを眺める。
サオリンはというと、さも珍しい物を見るかのように僕のそばを離れ店内を物色して回っている。
他にめぼしいCDも見当たらなかったので、僕は1枚だけCDを持ってレジに向かおうとする。
「すいませ~ん!どいてどいて~!」
店の奥の方からそんな声が聞こえたかと思うと背中に衝撃が走る。
ドスン!
CDを抱えた店員さんが僕の背中に突っ込んできた。
ガシャガシャガシャと音を立てて足元におびただしい数のCDが撒き散らかされる。
衝撃や痛みは大したことはなかったが、散らばったCDに驚いた。
後ろを振り向くと、ショップの店員である事を示すエプロンを身に付けた女の子が立って、地面に届きそうな勢いで頭を下げている。
「すいませんすいません!」
大きな声で謝りながらその女の子はしゃがみ込んでCDを拾い集め始めた。
僕は大丈夫ですかと声をかけて拾い集めるのを手伝おうとしゃがみ込んだ所で思わず声を出してしまう。
「ナツ…か?」
「ほえ…?お!ケンタローだぁ!いらっしゃいませー♪」
「バイトか?」
「うんそうだよー!でも、失敗ばっかりしちゃって大変だよー」
そんな会話をしながらCDを拾い集めていく。
そうして最後の1枚を拾い上げて立ち上がった所で、レジの方から怒鳴り声が響く。
「バカヤロー!一体何回ぶちまけたら気が済むんだ!お前なんかもうクビだクビ!!さっさと帰れ!」
そんなに怒る事ないのにというほどに怒っているのはこの店の店主のおじさんである。
普段はニコニコと愛想のいい人なのに、これほどまでに怒らせたのか。
「・・・」
「・・・」
2人して黙ってしまう。
ナツはしょんぼりした様子でエプロンを外し、僕と一緒にレジに向かった。
僕がレジでCDの代金を払うと、続いてナツはさっきまでつけていたエプロンをおじさんに渡す。
「今日働いた分のバイト代だ。もう来なくていいからな」
そう言ってエプロンと引き換えに薄っぺらい茶封筒をナツに手渡した。
最後にナツは
「ごめんなさい」
としょんぼりしたまま小さな声で謝った。
さっきの怒りようだとバイト代も貰えないんじゃないかと心配していた僕はやっぱりこのおじさんはいい人だなと思った。
騒ぎに気付いて近付いてきたサオリンもナツに気が付いていて、心配そうに見ているが、これ以上この店に長居はしない方がいいだろう。
僕は2人を促して店を後にした。
とりあえず目標を果たした僕は喫茶店にでも行こうかと2人に声をかける。
ナツは暇になったから行くと言ったのだが、サオリンはこの後に予定があるので帰る事になった。
喫茶店の前まで辿り着くと、店の前にはいかにもな高級車がサオリンの到着を待っていて、
「また遊びましょう」
と言ってその車に乗り込むとブロロンとエンジンを吹かして走り去って行った。
走り去る車を見送ると、2人で喫茶店に入る。
ナツは、バイト先を出て以来ずっと無口だ。
席につくと黙っているのが我慢できなかったのか、ナツがどんなCDを買ったのと聞いてきたので僕はさっき買ったCDを袋から取り出し見せてやる。
「あー、私もこれ好きだよ!でも、人気ないんだよねぇ…」
「そうなんだよ!初めてこのアーティスト好きな人に出会ったぞ!」
僕は興奮を隠せず、声を大きくして言うとナツもそうそうと同調してきてしばらく大いに盛り上がった。
どうやらナツも少し元気が出たようなので、そこで僕は何でバイトしてるのかと尋ねてみた。
よくある小遣いが少ないからその為にやっているのだろうと予想していたのだが、彼女は意外にも家の為に働いているという。
父親が体を悪くしていて稼ぎが少なく、小さな妹もいるのでお金がかかる。
その為に自分の学費は稼いでいるのだという。
近年まれにみる勤労少女だったのだ。
ただのアホの子だと思っていてごめんなさい。
「でもね、私おっちょこちょいでどこのバイトもすぐにクビになっちゃうんだぁ…」
さっきのCDショップでの様子を思い出した僕は、
「これまでにはどんなバイトしてきたんだ?」
と尋ねると、皿洗いだとかスーパーの品出しだとか、他にもやったがどれも短期間でクビになってしまったのだと言って、肩を落とした。
皿を盛大にひっくり返したり、野菜を床にぶちまけたりしたのだろう。
光景が目に浮かぶ。
失礼ながら、僕はプッと吹き出してしまった。
ナツは小さな子供のように頬をぶぅと膨らませて不満を露わにして
「なんで笑うのさー!」
「いやいや、ごめん。光景が目に浮かんじゃったよ」
そう言って謝った後、してみたい仕事はあるかと聞いてやった。
すると彼女は表情をコロッと変えて瞳をキラキラ輝かせて
「アイドル!」
と、寝ぼけた事を言うのでオーディション会場に行くといいよと言ってやる。
「あのな、もうちょっと現実的な事を聞きたいんだけど」
「そっか、アイドルじゃバイトにならないもんね。えっとね、レジ係とかやってみたいかも」
なるならないの問題ではなくお前にその器はあるのかと言いたかったし、アイドルの次がレジ係って何なんだよと、色々突っ込みたいのをぐっと堪えて本題の話題を続ける。
「つまり接客ってこと?」
「うん、人と話したりするの好きだしね」
なるほど、彼女の明るさは接客には向いているかもしれない。
そういえば梅の店で以前にアルバイト店員を募集していたことがあったのを思い出した僕は、彼女にちょっと待ってろと言って携帯を取り出し、梅にコールする。
「もしもし」
「あ、梅か?ちょっと聞きたいんだけど、前にお前んとこでバイト募集してたろ?あれっていい人見つかったのか?」
「いや、まだだけど」
「じゃあさ、1人候補者見つけたから、店の方に連れてくわ」
「あ~っと、じゃあ昼間は忙しいから夕方に頼む。親父に言っとくよ」
「了解。よろしく」
と、面接の約束を取り付けて電話を切ると、ナツに
「もしかしたら梅の所でバイトできるかもよ」
と言ってやった。
「ほんとに!?どんな仕事なの?」
「ご希望のレジ係だ。和菓子屋のだけどな」
「おー!味見とかできるのかな?」
と、ちょっと見当違いの期待を始める。
「しょっちゅうは無理だろうけどたまにはできるんじゃないかな。新作が出来た時なんかは俺にも試食頼んでくる時もあるし」
と言ってやると
「楽しみだなぁ♪」
と、もうバイトが決まったように喜んでいたので、とりあえず面接して雇ってもらわないとなとたしなめてやった。
彼女はうん、そうだね。と言って顔を引き締めるが、すぐに和菓子の試食を想像して頬を緩ませている。
大丈夫だろうか、この子は。
一抹の不安を抱えながらも、面接は夕方だからどこで時間をつぶそうかと聞いてみたら、
「公園!」
と元気一杯に答えてくれた。
公園で何をするのだろう。
この子に限って黄昏たりするわけもあるまい。
疑問ではあったが、それは行ってみれば分かる事だ。
2人で並んで喫茶店を出て公園を目指す。
10分ほどの道のりで、僕は公園で何をするんだと聞いたが彼女はニコニコと笑うだけで答えない。
いよいよもって謎である。
やがて公園が見えてくる。
入り口であることを示す門柱を通り過ぎるとナツは僕の背中をバシンと叩き、
「ターッチ!ケンタローの鬼だぞ♪」
と言ってあっかんべーをしながら公園の奥へと走っていった。
鬼ごっこ…?
ちょっと待て。梅の所へ行くまでにたっぷり2時間もあるぞ!
炎天下にそんなにも走り回ったら僕死んじゃう。
「ちょっと待て!それは無謀だ!」
叫ぶが、奴はもう声の届かない所まで逃げている。
仕方なく走り出して追いかける。
とにかく捕まえない事にはやめることも叶わない。

………

……

「どうしたんだ?死にそうな顔してるぞ」

結局約束の時間近くまで走り回らされた僕は息も絶え絶えの状態で梅の店へとたどり着いた。
「ちょ……水………」
「ん?ああ、喉が渇いてるのか?お茶でよかったらここにあるぞ」
随分気の利く事である。
これ幸いにと僕はそのお茶の入った湯のみを掴んでゴクゴクと喉に流し込む。
「グ、アッツァーー!!」
熱いお茶だった。
ジタバタと絶命寸前の僕に冷たい水を差し出してくれたのは梅の母だった。
おばさんは僕の命の恩人です。
それに引き換え、そのどら息子と僕の連れてきた小娘ときたら、旅行の時と同じように腹を抱えて笑ってやがる。
覚えてろよ、お前たちに命の危機が訪れても僕は笑ってやるからな!
そうしてそんな騒動が落ち着いてから、ナツの面接を行う事となった。
父親から面接官を任命された梅とナツが向かい合わせに椅子に座る。
僕はもう一つ椅子を出してきて、ナツの隣にどかりと腰を下ろした。
「…何をしてるんだ?お前も働きたいのか?」
「保護者だ」
「そうか。じゃあナツちゃん、まずは志望動機を聞かせてくれるかな?」
「突っ込めよそこは!」
疲れた体に鞭打った渾身のボケを軽くスルーされて、面接が始まった。
僕はとりあえずおとなしくしておく事にした。
顔を引き締めた梅が再度口を開く。
「ナツちゃん、改めて、志望動機は?」
「えっとねー!和菓子の試食が楽しみです!」
「どんな仕事がしたいですか?」
「頑張ります!」
「…日本語でおk」
彼の手には負えないようである。
僕は通訳を始める。
「志望動機は和菓子に興味があるからです。仕事は接客を希望します。こんなとこかな?」
動機については事実とは異なるが、まあ和菓子好きみたいだし特に問題はないだろう。
「じゃあ採用」
「即答!?」
梅の即答に驚いて思わず声を出してしまったが、そういえばこいつはこんな奴だった。
「やった!ケンタローありがとー!」
とはナツの言葉であるが、この場では梅にお礼を言うべきであろう。
僕がそう言うと
「採用ありがとうございます!頑張ります!」
と、梅に勢いよく頭を下げた。
翌日から早速仕事を始めるらしい。
面接の後、梅がナツちゃんがさっき試食したいと言ってたからと言って、開発中のやつなんだけどと付け加えつつ、その新作を僕たち2人に振る舞ってくれた。
何だかんだで結構いい奴なのである。
そうしてしばらく談笑した後、僕とナツは店を後にする。
時刻は18時少し前といった所で、外に出ると、それぞれの家から夕食の良い匂いが漂っている。
途中まで道が同じという事で、僕とナツは並んで歩く。
歩きながら、両手を後頭部の所で組んで空を見ながらナツが喋り出した。
「おい、ケンタロー」
「何だ?」
「ケンタローって、いい奴だな!」
「何だ、今頃分かったのか。ていうか急にどうした?」
「ううん、何したって怒らないし、ずっとそう思ってたんだけど、今日は特にそう思ったから」
「いや、だからな、俺だって怒るんだって前にも言ったろ」
「でも今日も怒らなかった!あんなに走り回らされたのに」
と言って、ニヤニヤ笑いながらぼくの方へと振り向く。
「ああ、今日はな、怒る気力がなかっただけだ」
「それに、バイトも紹介してくれた」
「たまたま梅のとこで募集してたからな。それに目の前でクビになった奴を放ったらかしにはできないだろ」
と言って、僕もニヤリと笑みを浮かべてナツの方を見ると、
「あぅ…」
と、痛い所を突かれたといった表情である。
「ま、今度は少しでも長く続くように頑張れよ。俺の顔を潰すんじゃないぞ」
「うん!試食のお菓子もおいしかったし、頑張るよ!」
「おう、その意気だ」
そう言った所でちょうど別れ道となり、バイバイと大きく手を振りながらナツは自分の家へと駆けて行った。
落ち着きのない奴め。と思いながら、僕は家路についた。

翌日、外は相変わらず晴れ渡っている。
今日も暑くなりそうだ。
外に出るとセミの大合唱が聞こえてくるのだが、お盆を過ぎると鳴いているセミの種類が変わってきて、もうすぐ夏休みも終わりなんだなという気にさせられる。
特に予定もなく暇だったので、ナツの様子を見がてら梅のところへ行く事にする。
店がほど近くなってくると、何やら店内でドタバタと騒がしい気配である。
早速ナツの奴が何かやらかしてるのかと心配になって、歩く速度を上げて店内に入ると、店のやや奥の方で、うず高く積まれた饅頭を蒸す為のセイロが傾いているのが目に入った。
その角度はピサの斜塔を遥かに超えている。
つまりもう倒れる所だった。
セイロの山の前ではナツがムンクの叫びのような顔をしている。
無意識のうちに僕は走り出していた。
猛然とダッシュして、セイロが倒れないようにと支える。
「あー!止まれない…!!」
しかし、余りにもダッシュし過ぎて止まる事が出来ず、そのまま奥へと転がり込んだ。
ガシャガシャガシャーンと音を立てて、何かにぶつかると、次の瞬間に頭の上に業務用の大きなボウルが落ちてくる。
そのボウルの中身は、よくお餅の表面に付けられている白い粉で、僕は安っぽいコントのオチのように真っ白になった。
むくりと体を起こすと、店内一同で大爆笑されてしまった。
ただ、ナツだけは少し違っていて、どうしてここにいるのと言いたげな表情である。
彼女の隣のセイロの山はどうやら倒れずに済んだようだが、この白い粉をぶちまけた方が損害は大きそうだ。
とりあえずナツの失敗はごまかせたと確信した僕は、真っ白なままナツに向けてグッと親指を立てて見せた。
「グッジョブ俺!」
「グッジョブじゃない!」
その声と同時に後頭部の辺りを平手でバシーンと突っ込まれ、僕は前につんのめる。
どうやら僕の突撃で巻き込まれたのは梅だったようだ。
こいつも全身真っ白になって、恨めしそうにこちらを睨んでいる。
「よう、保護者として見にきたらピンチになってたからな、突っ込んだら余計に大惨事になった」
と、爽やかな口調で軽やかに言い訳をしてみたのだが、
「言わなくても分かる。弁償しろよ」
と、真っ白なままでしかめっ面をして見せる。
そうしてしばらく睨みつけられていたのだが、どうにもお互い真っ白なので格好がつかない。
段々と笑いが込み上げてきて、どちらからともなく、わははと笑い合った。

およそ30分後、僕は店の奥で梅と一緒に饅頭を作っている。
あれから、梅の家のシャワーを浴びさせてもらい、さっきのお詫びにと手伝わせてもらっているのだ。
店先ではナツがたどたどしいながらも時折やってくる客を何とかさばいているようだ。
客のウケも良いようで、梅の親父さんは上機嫌である。
「いやぁ、こんなかわいい嬢ちゃんが居てくれたらこの店も安泰だ!どうだ、うちのバカ息子の嫁に来ないか?」
「えー、無理ですよー♪」
「そうか!まあうちのバカ息子はゴリラだからな!」
そしてあははと笑い合う2人の声が奥で作業中の僕たちの所にまで聞こえてくる。
本人の意向とか関係なしな上に不在のままふられてしまった梅に黙祷である。
当の本人はさして気にする様子でもなく黙々と饅頭を作っている。
凄まじい精神力だ。
…と、思っていたのだが、しばらくすると黙々と手は動かしながら、
「親父…コロス…」
とブツブツと呟いていた。
この親子のケンカは凄そうだ。
背中に冷たいものが一筋流れるのを感じてしまった。
ひたすら皮に餡を詰めて行く工程に飽きた頃、作業が終わった。
たまに手伝って慣れているとはいえ、やはり重労働である。
奥から店の方へ出ていくと、おばさんがよく冷えた麦茶を出してくれた。
親父さんが出てきた僕たちを見つけると、
「おう、健ちゃん!ご苦労さんだな!もう上がっていいぞ!」
と声をかけてくれたので、じゃあお先に失礼しますと言って作業着を抜いでいたら、お客さんの会計を済ませたナツが駆け寄ってくる。
そして、こう言った。
「私の仕事が終わるまでケンタローも働け!」
「……何を言っているのかよく分からない」
僕は構わず帰ろうとするのだが、小娘が服の裾を引っ張る。
「あのな、もう俺の出来る仕事はないんだ。これ以上ここに居ても仕方ないの!」
子犬を叱るようにそう言ってやったのだが
「健ちゃん!健ちゃんに出来る仕事ならまだまだあるぜ?」
と、ニヒルな笑みを浮かべておじさんが余計な事を言いやがる。
「ほらほら!仕事あるんだからナツと最後まで働こー♪」
「待て!俺はこれ以上働いたら死んでしまう病だからもう帰…」
ガシッ
最後まで言わせてもらえず、襟首を梅に掴まれ引きずられていく僕。
倉庫の方まで連れて行かれ、ナツが見えなくなった所で解放してくれるのかと思ったら翌日の材料の品出しをみっちりやらされた。

17時過ぎ。
結局ナツのバイト終了時刻まで働かされた僕は、店の床に這いつくばってへばっていた。
「がはは!健ちゃん!これぐらいでへばって情けねぇなあ!」
と親父さんがからかってくるのだが、その相手をする気力もなく力なく手をヒラヒラと振る。
そこにナツが、バイト中に身に付けているエプロンを外しながら駆け寄ってきて、
「ケンタロー!帰ろう!」
と誘ってきた。
「俺はもうちょっと休まないと動けないから先に帰れ」
「ダメだよ!ケンタローはナツと帰るんだよ!」
「………ガクッ」
「しょうがないから待つ!」
「いや、気にせず帰っていいよ」
「嫌だ!」
「………何で?」
どうしてこの小娘はここまで僕にこだわるのだろうか。
「待っても帰りにジュースなんて奢らないぞ」
「いいよ」
「アイスも奢らないぞ」
「えぇ~~!」
心底残念そうな彼女である。
「じゃあな。気を付けて帰れ」
「………」
やっと帰ったか。
僕は安堵のため息をついてしばしの休息に身を委ねる。

タタタタタッタンッ
おや?小さい子が走ってるのかな。

「フライングアターック!」
……え?

ドスン!
「ほげぇー!」
ナツが旅行の時の朝のように僕の上に飛び乗ってきた。
丸めた新聞紙で叩かれて絶命寸前の黒いあいつのようにピクピクと痙攣する僕の手をナツは掴んで立たせようとする。
「分かった分かった!だからとりあえず少し待て!」
そう言ってナツの手を離させると、僕はヨロヨロと立ち上がった。
そのやり取りを見てがははと笑い転げるおじさんであったが、おばさんはあらあら大丈夫かしらと優しく心配してくれている。
梅はというと、僕に対するナツの傍若無人ぶりに驚いている様子である。
おばさんに大丈夫ですからと無事をアピールし、ナツに手を引かれて店を後にした。
丸一日の肉体労働と、ナツに飛び乗られて痛む背中のせいで満身創痍の僕は何も喋らずナツに手を引かれてただ歩く。
彼女も何も喋らない。
トボトボと、2人で家路を歩く。
やがて梅の店が見えなくなる辺りまで来た所で、ナツが口を開いた。
「おい、ケンタロー」
「ん?」
「公園寄って行こう」
「やだ」
「何で?」
「…もう走る気力はない」
「あはは♪もう走らないから!行こっ!」
そう言って、少し歩を早めて公園に行く。
公園に着くと、小さな子供達が母親に手を引かれて帰って行くのとすれ違った。
ナツはいちいち子供達にバイバイと手を振って歩く。
そうして公園に入って行くと、ここに座ろうとナツが言って、2人でベンチに腰掛ける。
「急にどうした?」
僕は問いかけるが、彼女は黙って足をブラブラさせている。
疲れ果てている僕はそれ以上何も言わず、ナツが口を開くのを待った。
「…ケンタローはさ、何でそんな優しいんだ?」
「ん?別に優しくなんかないぞ?今だって体力さえあればグーパンチしたいぐらいだ」
「そかな?」
「そうさ」
「でも多分、体力満タンでもしないと思うな」
「…そうかもな」
そう言うと、ナツはほらねと言ってウフフと笑った。
「今日は、何でお店に来たの?」
「紹介した手前、お前がヘマやらかさないか監視に行っただけだよ」
「そっか。ナツはね、セイロが倒れそうな時にケンタローが来てくれて嬉しかったよ。ああ、また失敗してクビになるんだって覚悟してたから…」
「そうか。なら俺に感謝して、給料が出たらジュースぐらいおごるといいよ」
「そだね。そうするよ。その時はまた来てね」
「ま、それまでにもまた顔出すと思うけどな」
「うん」
何だろう。
今日のナツはいつもと違う。
正確には、今日のバイトの後からのナツだ。
不思議に思って彼女の方を見ていると、ナツの視線がこちらに向いた。
「私はさ、今、泣きそうだよ」
「何でだよ」
「ケンタローが優しいから」
「それぐらいで泣くなよ」
「うん。でも…ちょっとだけいいかな…」
「まあ、別に構わないけど…」
そう言うと、ナツは俯いてヒクヒクと泣き出した。
メグといい、ナツといい、何でこうもよく泣くのだ。
そして僕も毎回よく付き合っているもんだと自分でツッコミを入れながら彼女が泣き止むのを待った。
10分ほども経っただろうか。
ナツは顔を上げて涙を拭きながら、
「もう大丈夫だよ」
と、えへへと笑いながら言った。
「何で俺が優しいと泣きたくなるんだ?」
もう大丈夫そうだと感じた僕は彼女にそう尋ねた。
彼女は淡々と、今年の春からの事を僕にポツリポツリと話し出す。
父が体調を崩したのは春で、新学期早々ドタバタと忙しくなり、ゴールデンウイークの頃にはバイトを始めたのだが、うまくいかずバイト先を転々としていたのだそうだ。
明るい彼女からは想像も付かないが、かなり参っていたらしい。
そんな頃に、気分転換にと参加したオフ会で、僕たちは出会った。
そして旅行で、みんなと仲良くなれて本当に救われたのだと言う。
「ちょっと大げさなんじゃないの?」
僕はなるべく暗くならないように聞くが、彼女は小さく首を横に振って微笑んだ。
「その中でもね、ケンタローは特別なんだよ」
そんな事を言う。
「何で?」
「旅行の時も私はさ、結構一杯一杯だったんだよ。んで、ムシャクシャしてた」
「ほう」
「それでちょっと無茶苦茶にみんなにぶつかっていってたんだと思う」
「まあ、確かに死ぬかと思った」
「でも…ケンタローは怒んなかったんだよ。ケンタローだけだった…」
「サオリンにもゼロ距離発射食らったりしてたからな。それどころじゃなかったんだよ」
僕は言うが、彼女は認めない。
「梅ちゃんとこのバイトだってそうだよ。わざわざ今日も見に来てくれたし、最後までこうして付き合ってくれてるじゃん」
「そんじゃま、そういう事にしとくか」
「うん、そういう事なんだよ」
ここまで褒められてどういう顔をしていいか分からなくなって、頭をボリボリかいて僕は立ち上がる。
「ナツの家の事はさ、よく知らないんだけど」
「うん」
「1人で頑張ってたんだな。凄いと思う」
「そんなことないよ」
「俺ならきっとそんなに頑張れない」
それは素直な感想だった。
彼女の場合は頑張るしかなかったのだろうけれど、それでもやっぱり凄いと思ったのだ。
そのまましばらく2人で黙ったまま時間を過ごす。
やがて日は傾いてきて、街並みが夕焼けに染まり始めた頃に、ナツがまた話し始めた。
「私はケンタローと知り合えて良かったよ」
「俺もそう思うよ。ナツがいるとドタバタして楽しいぞ」
「うん!じゃあ…そろそろ帰ろっか♪」
ようやく笑顔を取り戻したナツと共に、僕は家路についたのだった。

余談だけれど、翌日僕は鬼のような筋肉痛に見舞われて一日寝込んだ。

第三章-3『Are You Happy?〜SAORI〜』

私は…とてもわがままな人間だ。
たくさんの人を傷付けて生きている。
私は笑ってはいけないのに。
私は笑わなくてはならない。
私は生きていてはならないのに。
私は生きていかなくてはならない。

だから、仮面を付けた。
この分厚いレンズがあれば、私の目に何かが写ることはないだろう。
みんなが私を避けるだろう。
だから、少しだけ、遊んでみたかった。
この分厚いレンズが、私を1人のままでいさせてくれると思っていたのに。

気が付くと私は笑っていた。

気が付くと私は、外す事はないと誓った仮面を外してしまっていた。

どうして…この人たちは…

どうして…この人は…

そうだ!私は……!!

………

……


――「もしもし?おーい」
電話の途中でサオリンが急に黙ってしまった。
もしかして眠ってしまったのだろうか?
「あれ?サオリンさん?寝てるのか?」
「…あ、ああ、いやいや!大丈夫大丈夫!ちょっと考え事してたもので。あはは!」
「ふうん。ならいいけどさ。で、明日はどうする?」
「え?明日?」
「そう。明日は買い物に行くんだろ?だから待ち合わせ。どうする?」
「あ、そうそう!えーっと、11時にいつもの所にしましょう!そういえば私は眠くなってきたのでそろそろ寝ますね!おやすみなさい!」
ブツッ…ツー…ツー…
切ったでおい。
明日は彼女の買い物に付き合う約束をしたのだけれど、電話の途中からの彼女はおかしかった。
最後は意味も分からないまま切られちゃったし。
ま、明日会えば分かる事だ。
そう納得して、僕は部屋の明かりを消して眠りについた。

翌日。
8月25日である。
いよいよ夏休みも残すところあと6日となった。
例年であればそろそろ終わっていない宿題の山を前にソワソワしている頃合いである。
しかし今年の僕はもう宿題を終えているのだ。
休みが終わるその瞬間まで遊んでも良心は咎めないし、誰にも怒られない。
ナツはあれから毎日バイトを頑張っている。
今ではもう、初日のようなドタバタはなくなっている。
彼女はおっちょこちょいなのではなく、仕事の動きを覚えるのに少し時間がかかるだけなのだ。
覚えるまでに大きな失敗をしてしまっていただけで、いざ出来るようになってくると、人並み以上に動くので、梅の店も今ではナツあってのものらしい。
ちょっと大げさな気もするけど、親父さんがそう言っていた。
初日の翌日は筋肉痛で動けなかったが、さらにその翌日に様子を見に行ったらちょこまかと店内を動き回り、手際良く接客をこなしていた。
僕はホッと胸を撫で下ろした。
一方、メグの方も夏休み終了前に戻ってくることになっている。
彼女のいないこの街もあと数日だけである。

さて、待ち合わせ場所へ行くか。
昼前の炎天下をいつもの喫茶店へと歩く。
店に入ってカウンター席に座ると、1人で来たよの合図。
マスターが意気揚々と僕の前までやってくる。
いわゆる『常連さん』というやつだ。
アイスコーヒーを飲みながら、マスターとの会話を楽しむ。
背中にある入り口の方で、カランカランと扉に取り付けたベルの揺れる音がする。
新たなお客さんが来たのだろう。
まだ待ち合わせの時間までは余裕があったので、僕は特に気に留めることもしなかったのだが、いつもならばいらっしゃいと言って、お冷とおしぼりの用意をしにいくマスターが、動く気配も見せずにニコニコとそのお客さんの方を見ているようである。
不思議に思った僕はそちらに振り向く。
振り向いたか否かというその時に
「わっ!!!!」
「にゅおー!!!」
急に大きな声で驚かされた。
頭の中が真っ白になり、胸の鼓動が急速に高鳴り、悲鳴をあげる。
ドキドキしながらも、すぐに周囲の状況が分かり始めてくる。
目の前で笑っているのはサオリンだ。
「ごめんなさい!つい驚かせたくなってやっちゃいました!プクククク!!」
腹を抱えて必死に笑いを堪えているのだが、そこまで笑ったのならいっそ大きな声で笑えばいいのに。
「あのなあ、俺がこんなので驚くわけないだろ?」
と言って水を飲む為にお冷の入ったコップを持ち上げてみせる。
カタカタカタと小刻みに震える。
それを見て、今度は我慢しきれなくなって、サオリンは声を出してあははと笑い出した。
ひとしきり笑った後、席についたサオリンは僕と同じアイスコーヒーを注文した。
今、ここにいるサオリンはいつもと何も変わらない。
昨夜の電話での違和感もない。
何だったんだろう。
眠かったりしたのだろうか。
アイスコーヒーを飲み終わるまでのおよそ30分を、他愛ない会話をして過ごし、それから商店街へと向かった。
今日は、サオリンが新学期の準備に新しく文房具を買いに行くのである。
CDを買いに行った時以来、商店街は彼女のお気に入りなのだそうだ。
それはいいのだが、商店街の入り口に高級車で乗り付けて買い物するのは明らかに浮いてるよサオリン。
いつもと変わらない会話を交わしながら、商店街にたどり着くと、文房具店はすぐそこだ。
小さな商店街なのだ。
高級車で乗り付けるサオリンは商店街では有名になりつつあるようで、いくつかの店の人が親しげに話しかけてくる。
やがて目当ての文房具店に着くと、新しいノートやシャーペンなどといった消耗品の類を物色し始める。
僕にはすぐに必要な物はなかったので、サオリンの隣でぼんやりと彼女の買い物を眺めていた。
やがて必要な物が揃うとレジへと行き、会計を済ませる。
あっという間に目的を果たしてしまった僕達は、じゃあ昼ご飯でも食べに行くかということにして文房具店を後にする。
「なあ、お昼、何が食べたい?」
「うーん、そうですねえ…。暑いことだし、冷たい物がいいかなぁ」
「じゃあさ、ざる蕎麦とかいっとく?」
「お!よろしいですな!」
仕事終わりに一杯いっとく?みたいなノリでメニューをざる蕎麦に絞った僕達は、近くにあったそば屋さんに入った。
特に何の特徴もないような、ありふれた店だったが、冷たく冷えたそばは日差しに焼かれた体に染み渡る様にうまかった。
そうして昼食も終えた僕たちはこれからどうするか相談をする。
「これからどうする?サオリンは行きたいとことかない?」
「行きたい所ですか?」
そう言ってうーんと考えた後、彼女は、僕の家に行きたいと言った。

そうしてサオリンを初めて部屋に通した僕は、この場所で信じられない言葉を聞かされる事となる。
部屋に入って、僕が座るよう勧めると、遠慮がちに彼女は部屋の中央に置かれたテーブルの近くにちょこんと座った。
彼女を待たせてリビングに下り、ジュースをコップに注ぐと部屋に戻る。
母は今日は近所の友達とランチの後、買い物に行くだとかで出かけていた。
姉の舞も、夏期講習が終わり、久々に友達と出かけている。
つまりこの家には今、僕とサオリンの2人だけなのである。
しばらくはいつもの調子で談笑していたのだが、急に彼女は真面目な顔になると、この夏休みが終わるのと同時にもう会えなくなると告げたのだ。
「え?何で?」
余りに突然のその告白によって僕の心がかき乱される。
ついさっきまでの楽しかった時間は何だったのだろう。
とっさに僕は聞き返し、彼女はその理由を話し始めたのだが、ちっともその話は頭に入ってこない。
会えなくなると言った事の理由であるのは理解したが、それだけだ。
「ちょっと待ってくれ」
そう言って彼女の言葉を止めると僕は2度ほど深呼吸をする。
脳に酸素が巡るのが分かる。
僕は呼吸をするのも忘れていたらしい。
しばらく丁寧に呼吸をして、気持ちを落ち着けると
「…もう一度最初から聞かせてくれ」
と言った。
彼女は僕の方を見ながらゆっくりと口を開く。
何て悲しそうな顔をしているのだろう。
そう思ったが、僕は彼女の言葉に耳を傾ける事に集中した。
「私は…私には…友達は必要ないの。1人で生きていくの。この街からも、出て行くつもり」
「それは…何で?」
「そうしてはいけないから」
「意味が分からないよ」
「その方がいいと思う」
「いや、よくないでしょ」
「友達でもないもの。それでいいの」
「何言ってんの」
「ごめんなさい。でも…そうしてほしいの」
彼女は何も話そうとしない。
問い重ねるごとに泣きそうな顔になってゆく。
もしも、彼女が何も感じていないようであれば、或いはその言葉を受け入れたのかもしれないが、僕の目の前の少女は今とても悲しそうなのである。
「友達が必要ないなんてことはないでしょ。悲しそうな顔してる」
「私には、誰かに大切に思われたり、誰かを大切に思ったりする資格がないの」
「いや、あの、俺がそう思ってるんだけど?」
「だから私はこの街からいなくなるの」
しばらくはこんな堂々巡りのやり取りが続いたが、やがて彼女はその理由を話し始める。
「私には…姉がいました」
僕はその言い方でおおよその見当がついたが、黙って彼女の話を聞くことにする。
「私たちがまだ幼かった頃、私たちを乗せた車が事故に合いました。1人はほぼ即死。もう1人は内臓に大きな損傷があり、亡くなるのは時間の問題でした」
「…」
彼女から目を逸らさず、僕は聞き続ける。
「内臓に損傷があった子供は、もう1人の内臓を移植して助かりました。それが、私です」
「お姉さんの事、好きだったんだな」
「はい。とても…」
「それで、どうして1人でいなくちゃならない理由になるんだ?」
「その事故の原因が、私だからです」
「どういう事?」
「その時、姉と口論になった私が、車を運転していた父に味方になって欲しくて…抱きついて…それでハンドルが切れなくなって…」
そこで一旦、大きく息を吸い込んで
「私が…姉を殺したんですよ」
そう言った所で、彼女はその頬に一筋、涙を伝わせた。
「分からないな」
「……」
「お姉さんとは、仲が良かったんだろ?」
何も言わないが、彼女はコクリと小さく頷く。
「だったらさ、お姉さんとしてはサオリンが助かって嬉しかったんじゃないの?」
「きっと、恨んでいますよ。だって、ケンカしていましたから」
「それは、違うな」
「どうしてそんな事が言えるの!?」
キッパリと否定する僕に、少し怒ったように彼女が言う。
「俺の話、聞いてくれるか?」
挑戦的な瞳で僕を見据えながらも彼女は頷いたので、僕は姉との過去の事故について、話した。
姉の悪ふざけで自分が二階から転落した事。それで死にかけた事。姉が今でもその事に責任を感じている事まで。
そして夏の初めのオフ会のおかげで僕は変われたのだという事。その変化が僕にとってどれほど大きなものなのか。
そうして最後に、
「俺は姉のこと、恨んだりしていない。むしろ、早くあの事から立ち直ってもらいたいと思ってる。あの事故のせいで、もしも姉が1人ぼっちでいるなら、俺ならとても悲しいと思う」
「…そんな事…」
「仲直り…したかったんだろ?多分だけどさ、それが出来なくなったから、辛いんだ。でもさ、お姉さんはきっと、とっくに許してるよ」
そう言いながら、僕は旅行の時の事を思い出していた。
時計を一緒に選んでくれた人がいるから父が急にバスを手配してくれたと、彼女は言っていた。
きっと、これまでずっと彼女は友達を作らなかったのだろう。
彼女の父親はそれを気にしていて、時計を一緒に選ぶほどの友達ができた事が嬉しかったのではないだろうか。
僕たちの出会いは、ネットゲームだった。
今、彼女が言うように1人で居たいのだとしたら、わざわざ人と関わるような事はしないだろう。
「1人で、寂しかったんだろ?」
そう言うと、彼女は俯いて、何も言わずに涙を流した。

1時間程が過ぎた。
部屋は沈黙が支配したままだ。
時折、サオリンが鼻をすする音が響く。
壁にかけた時計の秒針の音がやけに大きく感じる。
エアコンの室外機の音も、いつもより耳につく。

「それでも…」
彼女が声を出す。
「それでも、今さら私は変われない…」
「そうか…」
ある程度は予想していた答えだ。
何年もの間、彼女が貫いてきた答えが簡単に覆るわけはない。
それでも、僕の言葉は確実に彼女の心を揺さぶっている。
「まあ、それならいいんじゃない?」
「え?」
「だって仕方ないよ。俺がどれだけ言ったって、何年間も抱えてた気持ちを簡単に変えられるわけないと思うし」
「……」
「たださ、これだけは言わせてもらう。そうやって1人でいるのはいいかもしれないけどさ、今生きていて、サオリンの周りにいる人の事も考えた方がいいと思う」
「……」
「俺が今どんな気持ちなのか。サオリンの家族がどんな気持ちなのか。メグやナツやミナトや梅がこの話を聞いてどんな気持ちになるのかって事」
これぐらい言っておけば、色々な事を考えてもらえるだろう。
彼女の変わろうという決意がなければ、いくら周りが何を頑張っても何も変わらないのだから。
彼女は何も言わなくなった。
「ま、ゆっくり考えていいよ」
そう言ってから、僕も何も言わないように、彼女の隣で静かに過ごした。
やがて日が落ちて、辺りが暗くなる。
さすがにそろそろ帰らなければまずいだろうと思って声をかけたのだけれど、大丈夫。とだけ言って、また黙り込む。
少し前に携帯を触っていたから、家族に連絡はしたのかもしれない。
僕はちょっと部屋を空けるよと声をかけてからリビングに下りると、もうみんな帰っていた。
母に事情を説明すると、部屋に食事を持ってきてくれた。
多分食べないと思うよと言ったのだが、
「お腹がすいた時に何もない方が辛いでしょ」
と言っておにぎりを置いてリビングへと戻っていった。
部屋に入ると、彼女は久しぶりに顔を上げた。
おにぎりだけど食べるかと聞いたら、うんと答えて、一つ、食べた。
彼女がおにぎりを食べ終えたのを見た僕は、良い機会だと思って話しかける。
「今すぐ、答え出さなきゃいけないなんて事ないんだぞ?」
「本当はもう…答えなんて出てるの…。ごめんなさい」
「それは、どんな答え?」
「今、ここにいる事が、答え」
「……それは………愛の告白?」
「………」
呆れた顔でフルフルと首を横に振られてしまった。
ちょっと怒らせたかもしれない。
でも、冗談でも言わなければ、そろそろ僕はこの重苦しい空気に耐えられなくなってきているのだ。
「最初に言ったみたいに、1人でいるつもりなら、すぐに帰ってた。そうじゃないと、おかしいよね」
怒ったようだが、答えてくれて少し安堵した僕は、
「そっか、それなら良かった」
と、昼以来、久々に笑った。
その答えに、少しだけ空気が緩む。
それから彼女は、これまでの思いを打ち明けていった。
僕が言ったように、寂しい気持ちからネットゲームを始めた事。一度だけと思ってオフ会を開いた事。時計の買い物の時は、父を喜ばせたかった一心だった事。その道中の、僕とのやり取りで気持ちが揺らぎ始めた事。
揺らぎ始めた気持ちが止められなくなって、さらにオフ会や、旅行までしてしまったのだと、苦笑しながら話した。
「私は…今日、健ちゃんに言われた事を言ってもらいたかったんだと思う」
「そうか、俺のファインプレイだな」
「いつも、私のほしい言葉をくれたの」
「今日だけじゃないの?」
「旅行の時も、その前も後も、知り合ってからずっとよ」
「なかなか、凄いんだな、俺ってば」
「そう、凄い人」
あんまりストレートに褒められて照れてしまう僕である。
「まあ、そういう風に気持ちが傾いてるならいいと思う。無理はしないようにな」
「うん」
「すっきりした?」
「うん」
「そろそろ、帰るか?」
「もう少しだけ、ここに居たい」
「ん。分かった」
そう言ってからの沈黙は、僕にとっては居心地の悪いものではなく、むしろ心穏やかに過ごすことができた。
日が変わる少し前に、彼女は、もう帰るねと言って、家に連絡を取って迎えを呼んだ。

2人してリビングに下りると、母がまだ起きていて、大丈夫?と尋ねてきた。
サオリンは、遅くまですみませんと丁寧にお礼を述べ、おかげでスッキリできましたと言って、玄関へ向かった。
メグやナツの時とは違い、僕の見送りはここまでである。
家の前にはすでにいつものどでかい車が居座っている。
時間を気にかけて、エンジンは切ってあるようだ。
そして、少しの言葉を交わしたあと、じゃあまた。と言ってクルマに乗り込んで行った。

彼女が玄関から出て、その扉が閉まった後、部屋に戻る為後ろを振り返ると舞が立っていた。
何の用だろうかと思っていると、舞が口を開いた。
「ほほう、メグちゃんの次はまた違う女の子を連れ込むとはねぇ♪」
どこかの名探偵のように右手で顎の辺りをさすりながら言う
なんて事のない軽口だが、僕が女の子といる事が気になっているのだろう。
この夏で僕は昔のトラウマから立ち直る事ができたのだ。
そろそろ、舞にも楽になってもらいたい。
「あのさ、舞姉、ちょっと話があんだけど」
「うん?あんたまさか、実の姉まで毒牙にかける気?」
「アホな事言うな。その、俺はもう大丈夫だから」
「は?」
「もう、女の子と喋れないとかなくなったから。昔の事は忘れろよ」
「あ…。ああ、うん…」
「今でも夢に見る時ある?」
「ん、たまーにね。でも随分回数も減ったし、あんたのこの夏休みの変化見たらちょっと安心したわ」
「そっか。俺はこの夏で変われたんだ。だから、舞姉にも、楽になって欲しいと思ってさ」
「…ありがと。それってさ、さっきのサオリン…って子だっけ?あの子のおかげ?」
「うん、きっかけはあの子。だからある意味恩人みたいなものだから、少しでも力になってやりたくて」
「そう、もう大丈夫なの?あの子」
「分からん。でも、強い子だから、もう平気なんじゃないかな」
「そっか」
「うん。じゃあそろそろ、俺は寝るわ」
「はいはい。おやすみ~♪」
そう言って後ろ手に手を振りながら舞は階段を上がっていった。
「おやすみ」
僕はそう一言だけ返して、舞の後を追って階段を登り、自分の部屋へ戻った。
部屋に入りかけた時、舞が隣の自室の扉から顔だけを少しだけ出して、
「で、あんたは誰が好きなわけ?」
と、いつものからかう口調で聞いてきた。
「え?」
「あたし知ってるんだよー。サオリンとメグちゃん以外にも女の子とウロウロしてたの♪」
「な!ななななな、何の事だっけ?」
う…。ナツと歩いてるとこ見られていたとは…。
思いっきりどもってしまう僕。
その様子を見てニヤリと笑うと、
「ま、あんたが誰を好きでも関係ないんだけどさ。やはり姉としては気になるじゃない?」
などと言っている。
自分が誰を好きなのか。そう言えばそんな事はあんまり考えていなかった。
「好きとかあんま考えてなかった…」
つぶやくように僕がそう言うと、舞はやれやれといった風に大げさにため息をついて見せ、
「そう。まあでも、彼女たちあんたのこと好きみたいだし、泣かせたらバチが当たるわよ~♪」
と、嬉しそうに言った。
「ま、まさか…それはないでしょ」
自分が女の子と喋れるようになる事ばかり考えていてそんな事など考えた事もなかった僕は舞の言葉に動揺を隠せない。
(…俺の事が好き…?あり得ん…)
そんな僕を見て舞は心底楽しそうである。
「どうだろうね~♪でも、女は嫌いな相手に涙見せるなんて事はしないんだよねえ」
「ええい!俺を惑わすな!そんな事はない!もう寝るからな!」
そう言って舞の返事を待たずに自分の部屋に入り、とびらを閉めた。
後ろから舞の声が聞こえてきたが、声が小さくて聞き取れなかった。
布団に潜ると、舞の言葉が頭の中をグルグル回る。
僕は…あの3人の少女たちの事をどう思っているのだろう?
友達と思っていた。
けれど、さっきの舞の言葉を考えると、友達というだけでは済まなくなっているのかもしれない。
舞の言った、自分の事を好きというのは信じる気にはならなかったけど、このままではいけないような気がしてきた僕は、眠りに落ちるまで自分の気持ちを探し続けた。

こうして、出会いと、色んな事があった僕の夏は、もうすぐ終わろうとしていた。

第四章『Boys Be…』

8月28日、午後。
僕らは頭を抱えていた。
いや、正確には僕だけが頭を抱えていた。

梅の宿題が終わっていなかったのである。
そもそも、お盆の時の旅行は宿題が終わった人だけが参加しているはずだったのだが、今、いつもの喫茶店の向かいに座っているゴリラは、
「特別ゲストだからな。お前たちと同じ参加条件ではなかったんだ」
などとすました顔でほざいている。
しかし、夏休みも残すところあと3日という所で、自分ではどうにもならなくなって僕にすがりついてきたのである。
すがりついてきたくせに、冷房の効いた喫茶店でくつろぎ、どうにも態度がでかい。
そして焦っているのはどういうわけか僕だけなのである。
残った宿題は、あと3分の1といった所だが、問題は難関の数学という所だ。
前にサオリンに教えてもらった時はできていたのだが、人の記憶力というものは儚いもので、僕の脳裏からはもうほとんどその数式は消し去られてしまっているのだ。
メグの時はまだそれほど時間が経っていなかったからできただけなのである。
「なあ、梅よ」
「ん?」
「済まないが、今回はあきらめて1人で怒られてくれ」
「嫌だ。このまま帰ったら夏休みが終わるまでお前の携帯に延々と無言電話をかけてやるからな」
「それが教えを乞う人間の態度なのか?見せてやるからそれを写せばいいだろ」
「いや、やはり自分で理解しておきたいのが人情じゃないか」
「……やっぱり帰る」
「ちょっと待て!和菓子一ヶ月食い放題でどうだ!」
「1人で食い放題してもおいしくないから、いらね」
「ペアで!」
「…しょうがねえなあ」
いとも簡単に買収されてしまった僕であるが、失った記憶というものはそう簡単に取り戻されるわけではない。
困った僕はサオリンに電話をしてみたのだが、
「……前に出来たのだから、きっと出来る筈!頑張ってください」
と、冷たくあしらわれ、昨日から家に帰っているメグにもかけたのだが、
「家事に忙しいあたしを駆り出すという事は、後で手伝ってくれるんでしょうね?」
と、等価交換を持ち出されてしまったので丁重に願いを取り下げ、ナツは一学年下なので問題外だし…という始末なのであった。
そこで、僕たちはミナトを呼ぶ事にした。
彼は学校が違うので通常、課題の範囲も違うはずなのだが、偏差値的にはうちよりも上なのでそれに賭けてみる事にしたのだ。
というか、もうそこしか頼れないのだ。
「もしもし、ミナトか?健太郎だけども」
「ああ、健太郎か。急にどした?」
「いや、梅の野郎が宿題教えて欲しいって言ってきたんだけどさ」
「うん」
「教えてやってほしいんだ」
「え?健太郎は終わってるんだろ?教えてやればいいんじゃないの?」
「俺は過去に縛られる男じゃないんだ」
「…つまり…忘れちゃったんだ?」
と、苦笑した後、
「分かった。行くよ」

そうして約30分の後、ミナトが喫茶店に現れ、めでたく梅の課題も終わる事ができたのだった。

梅の課題が終わると、手持ち無沙汰になった僕たちは何をしようかという話になった。
「じゃあ、俺ん家に集まるか?」
僕が言うと、
「オッケー。じゃあ一回家に帰って親に話してくるよ」
と、ミナトが言って、喫茶店を後にした。
夏休み終了も近いという事で、今夜は僕の家で飲み会を開く事にしたのだ。
なぜ僕の家なのかというと、ミナトの家はマンションで、夜は騒げないし、梅の家は一戸建てだが、親父さんが乱入してくるからという理由で断られた。
そうして、自然と僕の家での開催となったのである。
ミナトが一旦帰宅した後、僕と梅は買い出しに行くことにした。
喫茶店を出ると、夏も終わりに近いというのに太陽が熱心に地上を照らしている。
汗ばみながら、梅の家に勉強道具を置き、酒屋で飲み物とつまみを買い込んだ。
ミナトには僕の家の場所を教えてあるので、自力でたどり着けるだろうということで、僕たちは飲み会会場である僕の家へとやって来た。
やがて日が落ち始めると、コオロギだか鈴虫だかが合唱を始める。
気温と湿度は相変わらず高いが、秋の気配が漂ってくる。
虫の声を聞くだけで心なしか夜風も涼しく感じるのだから、人間というものは何とも不思議なものである。
そんなこんなで、男同士の飲み会は幕を開けた。
ミナトは家にたどり着く前に少し迷ったようだが、時間までには到着していた。

酒が回り始めると話題は梅の大好きな女の話になった。
今日も懲りずに旅行の時と同じ話題である。
梅は生き生きとしているが、僕はそういう話題はあまり好まないので適当に聞き流している。
そう言えば、夏休み前には今の梅と僕は言っている事が逆だったような気がする。
それは僕の変化によるものが大きいのだろう。
女の子と喋れないから、余計に気になっていたという感じだろうか。
いざ、女の子と普通に話せるようになってみると、そこまでの執着はなかったのである。
我ながら現金なものだと思う。
ミナトの方は聞き上手というか、寡黙というか、酔っているのかどうかも分からない調子で淡々と酒をあおっている。
要はそれぞれまとまりなく飲んでいる。
これはこれで僕はそういう雰囲気は嫌いではない。
話しながら考え事やとりとめもない事を思ったりできるからだ。
そういう時間を過ごしながら、僕はこの前の舞の言葉を思い出している。
自分の気持ちはどこにあるのだろう?
舞の言ったように3人の少女の誰かに向いているのだろうか。
それともそういう気持ちは全然ないのだろうか。
いや、『ない』ということはない。
それぞれが魅力的な少女であり、それぞれに異なった良い所がある。
僕は彼女たちについて考える。

メグは強い女の子だ。
けれど、その強さは脆く、思い込みの強さから時に間違った方向へ強がったりする。
彼女には肩の力を抜かせてやれる相手が必要だろう。

ナツは底抜けに明るい子だ。
突拍子もない行動で周りを驚かせるが、家族思いで、勤勉な面もある。
でも、不器用だから、やはり彼女にも支えてやれる人がいなければなと思う。

そしてサオリンはとても寂しがりな女の子。
それなのに孤独の中に身を置いて生きてきた。
その分、これからは誰かと共に幸せに笑って生きていってもらいたい。

僕は、この夏に彼女たちの人生の一部に触れた。
3人の少女の顔が頭の中でグルグルと回る。
やはり、まだ分からない。

………

……

気が付けば夜明け前だった。
梅は酒の瓶を抱えたまま、死体のように力尽きてうつ伏せになって眠っている。
ミナトは座ったまま、ウトウトと舟を漕いでいる。
僕はというと、ずっと同じ事を考え続けていた。
冷静に、自分の心を見つめ続けて、ようやく一つの答えが出つつあった。
答えがはっきりと見えてくると、心の中にかかっていたもやが晴れるように、心の中が澄み渡ってゆく。
その何とも言えない爽快感に身を委ねながら、目を覚まし始めた太陽とは逆に、僕は夢の中へと落ちていった。

最終章~メグ編~『you are my Family…』

8月30日。
その日は朝から憂鬱だった。
夏休みは今日を除けば残りは明日一日だけなのに、外は雨模様なのである。
朝食を摂った僕はリビングのソファに腰を下ろして、憂鬱な気持ちを何一つ余すことなくため息と共に吐き出した。
後ろの食卓から舞が声を上げる。
「朝っぱらから辛気臭いため息ついてんじゃないわよ。こっちまで気が滅入っちゃうじゃないのよ」
そう言って不満を口にする彼女もまた憂鬱そうな面持ちである。
「俺がため息つかなかったら、舞姉がため息つくんだろ」
「そんなの、決まってるじゃない」
「じゃあ俺は舞姉を一つ助けたんだから感謝してもらわないとな」
「は?どういう意味よそれ」
「だって、ため息を一つついたら幸せが一つ逃げるって言うじゃん。俺は舞姉の幸せを守ったんだ」
「はあ、朝からよくそんな屁理屈言えるわね。感心するわ」
そう言った舞姉はやれやれといった表情であったが、少し微笑んでいた。
案外ツボだったのか。
そうして離れて座っている2人の視線は、平和なニュースを流しているテレビへと移り、何も喋らずただそのニュースをぼんやりと眺めていた。
キッチンから出てきた母は、あまりにも会話なく過ごしている僕たちを見つけると、あんたたちは仲がいいのか悪いのかよく分からないわねと言った。
舞姉はそうかなと言ったが、僕は結構仲いいと思うけどと答えた。
「そう、そうかもしれないわね。あんたたち2人から同じ憂鬱オーラを感じるわ」
そう言って母は笑いながら、今日はコインランドリーに行かなきゃねと、心なしか僕にわざと聞こえるような少し大きめの声でひとり言を言いながら、洗濯機のある脱衣場へと行った。
母の姿が見えなくなると、
「コインランドリー、行ったげないとね」
と、まるで他人事のように舞がふふんと鼻を鳴らして言った。
「ああ…憂鬱だ……」
そう言って僕はだらしなく腕と足をぶらんと投げ出すと、またため息をついた。
そしてまた、2人とも無言のまま時間が過ぎる。
こういう憂鬱な気分の時には家族と過ごすのが楽だなとぼんやり思った。
気を使うでもなく、一緒にいても黙ったまま過ごす事もできる。
時々は鬱陶しく感じる事もあるけれど、家族との時間は概ねくつろいだ気持ちになれる。
そう言えば、メグは今1人でいるんだっけ。
今頃何してるんだろうな。
1人だとうちみたいにコインランドリーにも行けないだろう。
そんな事を考えていたら、母に呼ばれた。
僕は動きたくなかったのだけど、黙ってコインランドリーについて行くことにした。
母の運転する車に乗り込み、コインランドリーに向かう。
雨はシトシトと降り続いている。
目の前ではワイパーがせわしなく動き、フロントガラスについた水滴をかき分けている。
やがて車はメグの家の前で止まった。
僕は不思議に思って母の方を振り向くと、母は笑いながらメグちゃんも困ってるかもしれないから聞いてきてあげなさいと僕に言った。
この人はエスパーなのかと一瞬疑いたくなったが、長く主婦をやっていれば当たり前に気がつく事なのかもしれないなと思い直した。
特に母はメグの事を気にかけていたし、ある意味当然の行動なのだろう。
そして僕を連れてきたのはこの為だったのかもしれない。
携帯を家に置きっぱなしにしてきた僕は車を降りてメグの家のインターホンを鳴らす。
しばらくすると、ガチャガチャと鍵を開ける音の後、玄関のドアが僅かに開いてメグが顔をだした。
「よう」
「おはよ。どうしたのよ朝っぱらから」
そう言うメグの顔は憂鬱な天気とは裏腹に少し上機嫌に見えた。
1人で天気と同じように沈み込んでいるのではないかと心配したのだが、そんな事もないようで僕は安心した。
「うち今からコインランドリー行くんだけど、母さんがメグも困ってるかもしれないから誘ってみろってさ」
そう言って、右手の親指を立てて、後ろに停車している母の車の方にくいくいとやると、メグは少し覗き込むように背伸びをして車を確認する。
「え?本当に!?ちょうど洗濯終わって干す所で悩んでたのよ。ちょっと待ってて!すぐ用意する!」
そう言うと彼女はパタパタとスリッパの足音を響かせて家の奥の方へと走り去った。
僕は車に戻って母に、ちょうどいいタイミングだったみたいだよと告げると、そんな予感がしたのよねと自慢げに笑った。
やがてメグが洗濯物を抱えて家から出てくると、車に乗り込んで3人でコインランドリーに行ったのだった。
車内ではメグに、あんまりジロジロ見ても下着は入ってないわよと言われたのだが、僕はそんな事ちっとも意識してなかったのに。
妙な事を言われて余計に気になってしまった僕なのであった。
洗濯物が乾くまでの時間は、母のおごりでいつもの喫茶店で時間を潰した。
マスターが今日は珍しい組み合わせだねと話しかけてくると母が不思議そうな顔をしたので、いつもここに来てると言うと、いつも息子がお世話になっておりますといった挨拶を始めたものだから僕は何だか気恥ずかしくて仕方がなかった。
そうして無事に洗濯物を乾かす事が出来たメグは、また1人の家へと帰っていった。
洗濯物を抱えて玄関に向かう小さな背中は、いつかの泣いていた時よりも少し頼もしく見えた。
まだあれからそんなに経ってはいないが、色々な事を乗り越えたのだろう。
いや、今まさに乗り越えようとしているのかもしれない。

家に帰ると、携帯の着信を示すランプがチカチカと点滅している事に気が付いた。
メールの着信である。
リビングのソファに座りながら携帯を開くと、送信者はメグだった。
家に戻ってすぐに送信したようである。
コインランドリーに行けて助かったので、おばさんにありがとうって言っておいてといった内容で、すぐに母にその事を伝えると、気にしなくていいのよと笑っていた。
僕は返信画面を呼び出して、母の言った内容を打ち込んで、送信ボタンを押す。
程なくして、またメールが来た。
メグの返信だ。
今度は何かと思いながらメールを開くと、そこには一言だけの文章が書かれていた。
『今日、暇?』
実にその通りではあるのだけれど、三文字で済まされてしまう僕の予定に泣きたくなる。
それでも何とか気を取り直してとりあえず返信をする。
『まあ、コインランドリーに行くぐらいだから。察してくれ』
そう返信すると、今度は電話がかかってきた。
初めから電話にすればいいのに。
「もしもし」
「ねえ、ちょっとうちに来ない?」
「別にいいけど、どうした?」
「カレーを作り過ぎたのよ。ちょっと食べるの手伝って欲しくて。それに、1人で家にいるとやっぱ色々考えちゃうしね。そしたらあんたの事思い出したからメールしたの」
朝は元気そうだったけれど、やっぱり1人でいると気分は沈み込んでいくのかもしれない。
「そか。じゃあごちそうになろうかな。何時に行けばいい?」
「何時でもいいわよ。夜でもいいし…」
「分かった。じゃあ今から行くよ」
「急がなくていいのよ。あんたも都合あると思うし」
その言葉の裏には早く来いというメッセージが込められている事を僕はずっと昔の体験からすでに承知している。
勝手に予定を決めるくせに、いざ呼び出すとなると変な気を遣うのが彼女という人なのだ。
子供の頃、その言葉を信じてのんびりしてから会いに行ったら物凄く怒られた事がある。
「さっきメールしたろ。察してくれって。暇なんだよ」
「そう。なら、待ってるから。また後でね」
「あいよ」
そうして電話を切った僕は出かける準備をして、母に行き先を告げて家を出た。
玄関を開けると、朝と変わらない強さで雨が振り続いていた。
傘を差して歩き出す。
歩きながら考える。
今朝は元気そうだったが、さっきの電話の時は少し気持ちが沈んだような声だった。
これまで家族で住んできた家に彼女は今、1人でいる。
自分以外の誰も居ない家と言うのは本当に寂しいものだろう。
たまに1人で留守番をするのとはわけが違うのだ。
寝ても覚めても1人というのは僕は経験した事がない。
それでもその寂しさは容易に想像できてしまう。
その中で、彼女は1人で僕を待っている。
自然と早足になり、彼女の家が見えてくる頃にはほとんど駆け足になっていた。
太陽が隠れているのでいつもほどの暑さはないが、まだ夏の余韻を残す8月末である。
汗が浮かび上がり、頬を伝ってシャツを濡らした。
インターホンを鳴らしながら、額の汗を拭い、息を整える。
リビングで待ち兼ねていたのか、すぐに玄関の扉が開く。
「ちょっとあんた、汗だくじゃない!走ってきたの!?」
「まあね」
「そこまで急がなくてよかったのに。上がって待ってて、タオル持ってくるから!」
そう言って洗面所の方へ歩いていく彼女は、さっきの電話の時よりも少し嬉しそうに見えた。
急いだ甲斐があったなと思った。
僕がリビングへ入るのと同じぐらいにタオルを持ってメグが戻ってきた。
受け取ったタオルで僕は汗を拭う。
リビングにはエアコンが効いていて汗ばんだ肌に心地よい冷風を感じる。
程なくして僕の汗はすっかり引いた。
ソファに座りながら、彼女が言う。
「ね、どうしてそんなに急いで来たの?お昼までまだ時間もあるのにさ」
「ん?いや何となく」
寂しそうだったからと言うのが何となくためらわれ、そんな中身のない返事をしてしまう。
ソファの向かいにはテレビがあり、古いドラマの再放送が流れている。
確か3年ほど前に放送されて、当時は人気があったと記憶している。
「このドラマ懐かしいな」
僕が言うと、
「そうなの?あたし、初めて見るの」
「結構人気あったよ。見てなかったのか」
「いつぐらい?」
「3年ぐらい前だったと思うけど」
「そっか。その頃はたぶん部活に夢中だったのかな」
「バスケ部だったっけ?」
「うん。あの時のあたしにはそれしかなかった気がする」
「今は違うの?」
「今は家の事もあるしさ。あたしだって成長するもの。それなりに色んな事に興味もあるわよ」
「そうか。そんなもんだよね」
「ていうか、そろそろ座んなさいよ。もう汗も引いたでしょ?」
そう言って彼女はソファの自分の隣の席をポンポンと叩いた。
僕は少し間を空けて彼女の隣に腰を下ろす。
そして並んで懐かしいドラマを見るのだが、すぐ隣の彼女が気になってドラマどころではない。
ついこの間まで女の子と話す事すらままならなかったのに、少し手を動かすだけで触れてしまう距離に彼女が存在しているのだ。
顔では平静を装っているものの、内心は穏やかではいられない。
しかしそんな僕の気持ちを知らない彼女はただぼんやりとテレビを見ている。
昼間とはいえ、雨天に明かりを点けていない部屋は薄暗く、テレビの光が彼女の顔を薄く照らし、浮かび上がらせている。
憂いに満ちた表情を浮かべる彼女の心は、今どんな気持ちなんだろう?
そんな事を考えていると、彼女が口を開いた。
「ねえ、小さい頃さ、こうやって並んでテレビ見た事あったの、覚えてる?」
「あ、ああ、そんな事もあったね。あの時はアニメ見てたっけ」
「そう。ヒーロー物で、ちょうどさらわれたヒロインを助ける場面だった」
「そうだっけ?そこまでは覚えてないなあ」
とは言ったが、はっきりバッチリと覚えている。
「そうだよ。あの日あたしは男の子に泣かされた後でね、その場面を見て羨ましいなって言ったの」

………

……

ーそう、その日は昼間にメグが男の子に泣かされた。
小さな頃から気の強かった彼女は男の子たちからは割と疎まれていた。
ある日、メグを良く思っていない男の子の1人が自分の兄を連れて来て、メグを泣かせたのだった。
たまたまその場面に通りかかった僕は彼女の元に駆け寄り、彼女を泣かせた年上の子供に殴りかかった。
大きくなった今となっては一年ぐらい先に生まれた人と体力的に大きな差はないが、子供の頃となると話は別である。
全く歯が立たずに僕は返り討ちにあったのだが、結果として彼女を助ける事が出来た。
そうして敵対する相手を追い払った後、僕は泣き続ける彼女の手を引いて立たせると、
「もう、大丈夫だから泣き止みなよ」
と言ったのだが、
「うん…」
と頷いた後も彼女の涙はなかなか止まらなかった。
僕は黙って彼女の頭を撫でてやった。
やがて彼女の涙が止まると、僕は彼女の手を引いて歩く。
彼女は手を引かれて歩きながら、
「ごめんね。あたしのせいで怪我だらけだね」
と、申し訳なさそうに謝った。
僕は体中すり傷だらけでとても痛かったのだけれど、
「こんなの平気だよ。それよりメグは怪我とかないの?女の子なんだから傷跡とか残ったら大変だよ」
やせ我慢をしながらそんなませた事を言った。
あの時の僕は彼女の事が好きだった。
幼い頃にありがちな、結婚しようと軽く約束してしまうような微笑ましいものであったと思う。
彼女は何度もごめんねと繰り返し、僕は何でもないと答えるというような事を繰り返すうちにメグの家にたどり着き、彼女の母に傷の手当てをしてもらった。
その後、2人で並んでテレビを見たのだ。
そうして彼女の言う場面に至るのである。

「そうなの?」
その後、自分が何と答えたのかはっきりと覚えているのだが、照れ臭くて僕は覚えていないような返事をする。
「うん。そしたら健太郎は、『さっきの俺たちと同じじゃん』って言ったのよ」
「へえー」
もう照れ臭いのでやめて欲しい。
心の底からそう願ったのだが、彼女の思い出話は止まってはくれない。
「あたしは…そう言われて嬉しかったよ」
「うん、それは…何ていうか、よかったね。あはは」
乾いた笑いを返す僕を気にも止めず、彼女は続ける。
「その後にあたしがまた守ってくれる?って聞いたら、健太郎はそんなの当たり前じゃんって言ったの」
「…うん」
もうダメだ。顔から火が出そうでたまらず僕は俯く。
恐らく耳まで真っ赤になっているのではないだろうか。
「あたしはそれでやっとその時の怖かった気持ちが和らいだの」
そう言った後、彼女は座り直して、こちらに寄ってきた。
元々近くに座っていたから、体が密着する。
当たった左手を僕が引っ込めると、また密着するように彼女はこちらにもたれかかってきた。
「こうしてるとね、安心するの」
頭を僕の肩に預けながら穏やかな口調で彼女は言うが、僕の心は全く穏やかではない。
「…そうか」
やっとの思いで出た言葉がそれだけである。
情けないが、シャイなチェリーボーイの限界である。
「しばらく、こうしてていい?」
そうだ。
こんな事でドキドキしている場合ではない。
彼女は幼い頃の記憶に残る僕に甘えているだけなのだ。
変な想像をしているのは僕だけじゃないか。
「好きなだけ、してていいよ」
と、いかにも落ち着いているような事を言いながら、自分にしっかりしろと言い聞かせて平静さを保つ。
しばらくすると、密着にも慣れてくる。
冷静になってくると、部屋が肌寒いのに気が付いた。
さっき、汗をかいていたせいで冷えたのかもしれない。
「少し寒くない?」
僕が聞くと、
「うん」
と彼女は答えた。
どうやら設定温度が少し低いようだ。
「エアコンの温度上げようか」
言って、立ち上がろうとしたのだが、彼女は僕の服の裾を引っ張って立たせようとしない。
「くっついてたらあったかいじゃない」
「でも、このままだったら風邪引くよ。夏風邪引いて新学期早々欠席とかしたくないだろ?」
「こうすればあったかくなるから」
そう言って彼女は更に体を寄せてきて、しがみついてくる。
すると、もうほとんど抱き合っているような形になってしまう。
僕は左手を上げて彼女に触れないようにしていた。
触れていいものかしばらく迷ったのだが、持ち上げたままでいるのも無理があるので彼女の肩にそっと手を乗せた。
確かに密着する面積が増えた分、肌寒くは感じなくなったのだが、この態勢は許されるのだろうか。
幸い、密着する事に慣れてきていたので妙に緊張する事はないのだが、こういう態勢には普通恋人同士でもなければならないよね。
そんな事を考えていると、緊張から解きほぐれた体とは裏腹に、何というか、健全な青年男子として非常に正常な反応が僕の体の一部に現れてくる。
待て待て。彼女は今そんな事は望んでいない。
僕は必死にその反応に抗うのだが、こんな時、本能というものに対して、理性はあまりに無力だ。
恨むぞ、僕の若き血潮。
「ね、あったかいでしょう?」
ああ、罪悪感が僕を苛む。
彼女はこんなにも無邪気に幼なじみとの触れ合いを楽しんでいるのに、僕ときたらケダモノの如く体(の一部)が疼いているのだ。
とりあえずはこの事態を彼女に悟られないようにするのが僕にとっての最優先事項である。
もしもばれたらこのまま絞め技に入って落とされかねない。
今はまだパワー全開となっていない荒ぶる龍神は幸いにも彼女の体に触れていない。
この態勢を維持する事が何より大事だ。
自分と彼女の体重を支えてすでに痺れ始めた右手になど構っている余裕はない。
そう言えばもうすぐお昼の時間のはずだ。
あと数分も我慢すればこの状況から解放される。
そうして時計を確認しようとしたのがいけなかった。
体を僅かに捻ったその時、痺れた右手が突然のギブアップをしたのだ。
ガックリと崩れ落ちる僕の体。
あれほど警戒していたのに、呆気なく僕のあそこは彼女のお腹の辺りに触れてしまった。
「どうしたの?急に」
「あ、いや、時計を見ようと思ったら右手が痺れてて支えきれなかった。あはは」
「そろそろ、お腹すいた?」
完全にばれたと思って乾いた笑いを浮かべて返事をしたのだが、彼女はまだ気付いていないようだ。
これは幸いである。
素早く態勢を立て直さねばならない。
「あ、ああ、少しすいてきたかも」
「そう。じゃあそろそろ食べよっか」
そう言って彼女は、僕の体をかわして両手を広げてソファを押さえると、俯いた向きでぐっと体を起こす。
あ。ヤバい。
そう思った時にはもう遅かった。
彼女は立ち上がる動作を止めて一点を見つめている。
つまり僕の荒ぶる龍神部分をマジマジと見ている。
ああ。僕の人生はここで終わるのか。
さよなら、父さん、母さん、舞姉。
覚悟を決めて目を閉じて数秒後、僕は生きている。
そろりと目を開けると、彼女は潤んだ瞳で僕の顔を見つめている。
「あ、あのさ、これは正常な男子の正常な反応であって決してスケべな心があったわけじゃないんだ。つまりあれだよ、子供の頃とは違って僕も成長したって事であって本来は喜ぶべき所だよね。まあつまりそんなわけだから幼なじみの成長を祝ってくれると嬉しいんだけど!あははははは!」
必死に言い訳をする自分が悲しかったが、このような有様を潤んだ瞳で見つめられる方がもっと悲しい。
せめて予想通りに怒ってもらいたい。
粗チンじゃないよね?
「あの、ごめん!」
突然、彼女は謝った。
「は?」
僕は予想していた全ての反応とは違った彼女の言葉に戸惑いを隠せない。
「お、お昼!カレーあたためてくるわね!」
しかし、謝った理由を聞く間もなく彼女はキッチンへと走り去ってしまった。
そうして、ややぎこちないまま、メグの手作りカレーをいただいたのだが、色々な事を考えてしまってあまり味は覚えていない。
ただ、それはまずくはなくて、僕の口に合っていたのは分かった。
食事を終えると僕は、意を決して口を開いた。
「あのさ、ちょっと話があるんだよ」
「…何よ、改まって」
ちょっと焦り気味に彼女が言う。
「まあ、改まらないと言えない話だからな」
「…そうなんだ」
「俺さ、夏休みにメグと久しぶりに会って、それからずっと考えてた事があるんだ」
「…うん」
食事の後片付けを終えた彼女が食卓に戻ってきて、椅子に座りながら曖昧な返事を返してくる。
彼女は今、どんな気持ちなのか考えると心が折れそうになる。
このようなベタな言い方では、この先僕が何を言おうとしているのかはもう分かってしまっているだろう。
しかし僕は伝えなくてはならない。
自分で出した、僕自身の気持ちを。
言おうとする程、声が出にくくなる。
しかしそれを気合いでねじ伏せて言葉を繋げる。
「俺、お前の事放っとけないんだよ」
「……だから?」
「ずっと、おれのそばに居ろよ」
「…命令形なんだ?」
彼女はそう言うと、クスリと笑った。
僕は更に続ける。
「そうだ。もし、この先メグが泣くような事があっても、俺が守る」
それは、子供の頃に2人でテレビ
を見ていたあの時と全く同じセリフだ。
あの事を克明に記憶していた彼女ならば、それに気付くはずだ。
「…何よ…覚えてるんじゃない」
不満そうに言う彼女であるが、さっきまでの神妙な面持ちはもうそこにはなくて、表情は少し笑っているように見える。
「ごめん、照れ臭くてさ。 ははっ」
僕は照れ隠しにそう言った。
「…でも、それは信じられないよ」
「…そうか…」
笑ってたから少し安心していたが、考えが甘かったか。あえなく玉砕か。それもまた青春だよなと自分を納得させようとしたのだけど、少し違うようだ。
「だって子供の頃も同じ事言ったのに、あたしが辛かった時にいなかったじゃないの」
「あ、ああ…。確かにそうだな…」
そう、幼い頃の僕はその約束の後、舞との事件でメグの前から姿を消してしまったのだ。
「あの時、あんたが入院したって聞いて…いっぱい泣いたんだからね」
「そうか…悪かったよ」
「もう…いなくなったり…しないでよね」
「あ、ああ、もちろんだぞ」
「じゃあ、そばにいてあげてもいいよ…」
「俺たちさ、ちゃんと付き合おう」
「…うん」
それは、格好いい告白にはならなかったけれど、幼なじみの僕たちらしい告白になった。
その後、しばらく2人で見つめあっていたのだが、お互いに照れ臭くなって、笑った。
食後にメグがコーヒーを淹れてくれたので、そのマグカップを持って再びソファに並んで腰掛けた。
今度は、初めから身を寄せ合うように座った。
テレビでは、さっきまでのドラマはもう終わっていて今は昼のバラエティ番組を放送している。
僕たちはそれを見ているが、番組に集中しているわけでもなく、ただぼんやりと黙って眺めている。
僕は今朝の舞との時間を思い出した。
舞姉とも、ただ黙ってぼんやりとテレビを眺めていたっけ。
ふっと、家族といる時みたいに自分がリラックスできているんだなと思った。
メグの方はどうだろう。
緊張している事はないだろうが、今の僕と同じようにリラックスできているのだろうか。
彼女の横顔を見る限りでは、リラックスできているようではある。
その時、ふいにテレビの中で大きな笑い声が上がり、再びテレビに視線を戻し、マグカップの温かいコーヒーを一口すする。
「あたしね…」
彼女がひとり言なのか話しかけてきているのか、どちらともつかない口調で話し始めた。
「あたしは、小さい頃にここでテレビ見た時から、ずっと、好きだったよ」
意外な告白である。
「そうなんだ。全然知らなかった」
「ま、そりゃそうでしょ。この前まではあたしの中でもとても小さな気持ちだったし」
「でも、何で?」
思わず僕は聞き返した。
あの時に好きだった事は分かる。
自分もそうだったから。
しかし、それぐらいの事は誰にでもあっておかしくない程度の事であるし、その後の僕の事故からは話す事はおろか、会う事すらほとんどなかったのである。
それに僕は決して美形とは言えない。
モテた記憶もないぐらい平凡な人間なのである。
『ずっと』という言葉にどうしても納得出来ないのだ。
「ま、小さい頃のはね、誰にでもあるような気持ちだったと思う。でも、その後に会えなくなったじゃない?それであたしの中の時間は止まっちゃったんだよ…きっと…」
「そうか、悪いことしたね。もしかしたら今日までにいい人と出会えてたかも」
それは素直な感想だった。
彼女のルックスは決して悪くはない。
確かに気は強かったりもするけれど、子供の頃とは違って今は男子からは割と人気がある。
「んー…あたしは、それでも健太郎が良かったと思うよ」
「これはまた、えらい惚れられたもんだね」
少しおどけたように照れ隠しをしたのだが、彼女はそれは気にかける事もなく、
「あんたはね、タイミングがいいのよ」
「タイミング?」
「うん。子供の時もそうだったんだけど、あたしが辛くて、『誰か助けて!』って思った時に現れるのがいつも健太郎だったの」
「…たまたまだろ?」
「うん…偶然だと思う。でも、本当にいつも現れるんだよ?」
「一応言っとくけど、ストーカーしてないからな?」
「分かってるわよ。バカ!」
言って、さっきから僕の肩にもたれさせている頭を持ち上げて、コツンと突っ込む様にぶつけてくる。
そうして一息ついて、また話し始める。
「…子供の頃の泣かされてた時もそうだし、オフ会で久しぶりに会った時も、買い物に付き合ってって言って、行けなかった時もそうなんだよ。あたしが『助けて』って、強く思った時にはいつも必ず健太郎がいたんだ」
「…そうなんだ…」
そのタイミングを狙っていたわけではない僕は、それ以上言う事ができない。
「そうなのよ。だから、多分急に会えなくなった事がなくて、子供の頃の好きな気持ちを忘れてたとしてもね、きっと同じだったと思う」
「…光栄です」
「だからね、今日の健太郎の告白…嬉しかった」
「うん、まあ、初告白で失恋しなくて俺も嬉しいよ」
「喜ぶとこ、そこなの?」
そう言って2人で笑って、その日は夜までずっと寄り添ってテレビを眺めながら語り合った。

彼女といる時、僕はいつも力を抜いて自然体でいられる。
彼女も同じだと言った。
きっと僕たちは、いつまでも仲良く過ごしていけるだろう。

その日は、結局メグの家で泊まる事になった。
ずっと寄り添って話し続けて、どちらが先に眠ってしまったのか分からない。
目が覚めると、夜が明けていて、雨も上がっていた。
2人で玄関の外に出て空を見上げた。
雨上がりの空は一段と青く、雲は真っ白で、昨日までの関係とは違う僕たちを祝ってくれているようだった。

明日からは新学期が始まる。
僕の…いや、僕たちの人生の変わり目となった夏がようやく終わろうとしている。
2人で過ごす新しい季節が、彼女にとって優しいものでありますように…。

青い空と白い雲と僕と君と

面白いな。と思ってもらえたとしたら、すごく嬉しいです。

青い空と白い雲と僕と君と

主人公はとある事故で女の事話す事が苦手になってしまった高校2年生の男の子。 そんな自分を変えようと、夏休みを機に頑張ります。 そこで出会ったのは。。。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-10-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一章『Boy Meets Girl』
  2. 第二章『Beautifuldays』
  3. 第三章-1『Are You Happy?〜MEGU〜』
  4. 第三章-2『Are You Happy?〜NATSU〜』
  5. 第三章-3『Are You Happy?〜SAORI〜』
  6. 第四章『Boys Be…』
  7. 最終章~メグ編~『you are my Family…』