*星空文庫

2011年夏「疎開」

ALTVENRY 作

  1. 序章
  2. 第1章 6月
  3. 第2章 7月
  4. 第3章 8月
  5. 終章

 2011年3月11日の震災により、多くの人が少なからず変化を余儀なくされたと思います。我々もまた例に洩れず、ホットスポットから少しでも離れていようと実家の富山県に向かいました。「疎開」といえば「疎開」ですが、なんとなく学生時代の夏休みを彷彿とさせる出来事の数々に、味わってはいけない楽しさを覚えてしまいました。しかしあまりにもいろんな事があり、やはり記録しておくべきだという事で、文章にしてみました。

序章

「エダノさんがものすごく汗を流して、『直ちに影響があるレベルではない』と言ってるもんだから、怖くなって、夜逃げのように家を飛び出したのが、そもそもの始まりだったんだ」

 時計が午後9時35分を指していた。
「今しかないよ」
そんな声に煽られたように、スーツケースに何やら急いで詰め込んで、気が付いた時には、妻と二人で車を走らせていた。
 見ればガソリンが底を尽きはじめてたんだが、どこの給油所も赤旗を掲げてしまってる。待てよ、高速なら大丈夫らしいとネットの声。
 入ってすぐのサービスエリアは、入り口付近からガソリン渋滞が起きていて、3列に100メートルくらい伸びていた。それも給油制限とかで10リットルまで……まあ、いいか。
 ロスタイムは30分程度だった。三郷の料金所を越えれば、首都高だが、何年ぶりだろう、夜中の首都高は……。いたずら盛りの頃なら見慣れた景色も、こんな大人になってみて見るとロマンティックこの上なく、あの頃よりもさらに感性が研ぎすまされるようだった。
 環状線から渋谷に入れば、その先は東名だ。東名といえば海老名だ。この巨大SAでさえ、ガソリン渋滞が起きていた。もう少し入れときたかったが、ここはパスして浜名湖で給油することにした。さすがにここまで来れば、福島で何か起こっても次の手だてが考えられる距離だろう。
 目的地は岐阜だった。友人を訪ねるつもりだった。実家は富山だが、3月はまだチェーン規制があったりして、車で向かうにはリスクが大きかった。それで太平洋側を進んで岐阜の友人に目星をたてたのだ。
 そこはまるで別天地のようにのんびりして震災前の我が家と同じだった。そこの人々が見ているテレビ中継は、どことなく他人事だった。日常が大手を振って闊歩していた。
 多少手に入れた安らぎと、消防隊員の活躍で峠を越えたらしいという情報を手みやげに数日間滞在した友人宅を後にした。そのまま真っすぐ帰るのも惜しまれ、静岡県の宿泊施設に追加の1泊をした。
 そこは健康ランドといういわゆるスーパー銭湯を完備したホテルだった。サウナや露天風呂は当たり前、薬膳風呂、電気風呂、ジェット風呂など、大人も子供も大喜びだった。もちろん我々も……。
 そこに泊まった日の、その夜の雨に放射性物質が運ばれ、住まいのある茨城県守谷市に降り注がれていたという事実を後から知るが、もし真っすぐ帰っていて、少しでも雨に濡れたりしていたらと思うと、ぞっとするのだった。
 4日間欠勤という事で5万円弱給料から差し引かれていた。収入が減るのは痛いけれど、後から思い出すと、仕事をする事で生きているという仕事人間に何の疑いも持たなくなっていた。命綱がなくてもすぐには死なないのだ。そして何だろう、この束縛を離れた開放感は……。
 3月11日の地震が要因となって、交通網の麻痺が首都圏では起きた。それは東北の津波の被害に比べれば、規模は小さい。小さいながら通勤は困難を極めていた。運行不可、運行再開後の本数制限、ラッシュ時の殺人的混雑、節電によるエスカレーターの停止も含め、何かと苦痛をともなうことしきりであった。
 ただし、そんな事はある程度復旧が見込まれる事態であって、少々辛抱すれば済む事だった。悩みの種は福島にあった。今回の夜逃げ騒動を生む事になる原発だ。いったんは守谷に戻ったといっても、これには多くの問題が山積みされていて、解決を見る事は困難だと思った。
 それにしてもだ。原発の現状報告で、インターネットではしきりに原発3号機の爆発シーンを見るのに、日本のメディアでは規制されたようにそのシーンは流さず、白い煙が上がってるとか、建屋の外観に変化があると指摘されても、
「ここから見る限りじゃ、詳しい事は言えません」
などと、見識のある人なら当然メルトダウンを考えるはずなのに、意見をぼやかしてしまうのだった。
 それから放射性物質は塵みたいなものだから、当然風向きを考慮しなければならないのに、一律半径10キロメートルとか20キロメートルとか言うもんだから、遭わなくてもいい被爆を招いてしまった人々もいる。
 ただ情報は全くゼロでもなく、良識ある方々の研究を見て、行動を定める事が出来た。それにしても、我々の住む守谷市がホットスポットであると分かった時の無常観……。

第1章 6月


 6月15日付けで24年弱勤めた会社を辞めた。ほんとは数ヶ月休むだけで良かったんだけど、そんな都合がいい話はない。もちろん親の介護や自身の療養を理由に休職する事は出来るのだが、介護証明書とか健康診断書が必要だった。
 とにかく3ヶ月は守谷を離れようと思った。空間線量だけでなく、飲み水や食べ物の心配も出てきたからで、私以上に妻がたいへんであった。数ヶ月前のガソリン、トイレットペーパーは普通に戻ってきていたが、ミネラルウォーターが手に入りにくい状況だった。
 退職に関する話はまた別の機会に書かせてもらうとして……取りあえず、事実だけをピックアップして整理しながら、この夏の出来事を追っていこうという計画である。
 3月は断念した富山行きを決行することになったのだが、問題は時期だった。本当なら梅雨入り前に出発したかった。放射性物質を含んだ雨である。危険であることは明白だ。
 退職日を5月15日か6月15日で迷った。15日は給料の締め日で、経理のSさんの希望でもあった。まあ気持ちよく退職する計画なので、それはいいのだが、実は6月19日に佐野元春のデビュー30周年コンサートがあった。それは本来3月13日に行われるはずだったもので、中止にならずに行われる事になった。退職日は6月15日に決まった。
 15日に退職したら、すぐにでも旅立ちたかったが……しょうがなかった。まあおかげで会社の送別会を部署ごとに16日と17日にしてもらって、19日はコンサートに行って……さらに凄いのは、21日に被災証明書を市役所で手に入れた事だった。前日くらいに偶然市役所のホームページを見ていて気が付いたのだった。
 機は熟し、6月23日富山に向けて出発するのだが、この被災証明書の力はたいしたもので、高速代金が無料になるのだ。本来東北地方の復興支援を目的としたものなので、この使い方は批判を浴びるかもしれないが、我々だって、少なからず被災による不自由を被っているのだ。だからこその被災証明書ではないのか。
 我々は、最寄りの谷和原インターから常磐自動車道に入って水戸に向かった。公布文書には、
「東北地方を発着とする利用を無料開放する」
とある。水戸インターがギリギリ東北地方扱いとなっているのだ。まず水戸着が無料になる。水戸インターから再入場する。水戸発、富山着が無料となる。つまり水戸、富山間を他の有料道路や一般道を通らないコースを行けば良いわけだ。
 水戸インターを入って、友部ジャンクションで北関東自動車道に入る。北関東自動車道は震災後の3月19日に全線開通となっていた。これだって運が良かった。全線開通してないと被災証明書があっても役に立たないからだ。茨城から栃木に入り、栃木都賀ジャンクションから岩舟ジャンクションは東北自動車道を共有し、今回開通した区間を走る。
 最初に休憩を取ったのが、波志江というパーキングエリアで、住所でいうと群馬県伊勢佐木市だ。今回携帯しているWIMAXの電波状況を見ると、なんとか繋がった。
 北関東自動車道は高崎ジャンクションが終点で、関越自動車道を東京方面に少し戻る。そして藤岡ジャンクションで上信越自動車道に入る。この道路の終点は北陸自動車道の上越ジャンクションであり、そこまで来れば一路富山を目指すだけである。
 二回目の休憩は、上信越自動車道の横川サービスエリアで、峠の釜飯弁当とかだるま弁当で有名なところだ。WIMAXの電波状況、ここはOKだったが次の休憩箇所の松代パーキングエリア、それに北陸自動車道の名立谷浜サービスエリアは不通だった。
 計4回のゆっくりした十分な休憩と安全運転を心がけて、8時間強で富山インターを下りた。料金所で例の証明書と通行券、免許証を見せる。
「遠いところ、ご苦労様でした」
温かい言葉が返ってきてなごんだ。



 富山に来る途中で何度もWIMAXのチェックをしていたのは、理由があった。数日前から、福島とはまた別の脅威が我々の行く手を阻んでいたからである。ツイッターでずっと状況確認していたのは、「もんじゅ」だった。
 数ヶ月前に原子炉の中に核燃料交換用の炉内中継装置が落下して、何度も回収作業を繰り返したがどうしても成功しなかった。福島のこともあり、しばらく様子を見ていたものか、ここにきて、新たなる方法で回収作業を開始するというのだ。もしこれが失敗すると福島どころではない大惨事になる。富山の隣の隣が福井県だ。
 もしかすると途中から引き返すなんてことも考えられる。ただ心のどこかで「まさか」という気持ちもあったので、富山の実家に着いた時点では一瞬忘れてしまっていた。
 「(7:48)読売『「もんじゅ」炉内落下の装置、回収完了』 『核燃料交換用の炉内中継装置を引き抜く作業を終えた、と発表した。』周辺の放射線量の急激な上昇は確認されていないため、今のところ大規模な放射性物質の飛散は起きていないようです」
これは6月24日、のNHKニュースのツイートだった。
 それに対する私のツイート。
「23日に高速増殖炉「もんじゅ」の例の作業が行われるので、場合によっては実家の母を連れ立って、逆戻りの構想も描いてました。午前開始が午後になったりして不安が募りましたが、取りあえず成功して良かった」

 胸に支えていたものが消えて、本格的に疎開生活開始となった。
1、3月から浴び続けた放射線のデトックス.
2、実家の生活改善(トイレのウォシュレット化、地デジ化促進)
3、故郷の再認識。
をテーマに抱えていたが、最終的には夏休み的な様相を呈してきた。
 過去に何度か里帰りはしていたものの、大概2、3日なもんだから、ネット環境などまったく考えていなかった。今回はさすがにパソコンを持ってきた。
 また実家では未だにISDNだったりする。ただ70歳の母親がやってるとすればまあ褒めたものかもしれない。まあ、そこでWIMAXに加入しておいたということなのだ。心配された電波状態も良く、十分なネット環境となった。
 またWIMAXと同時購入したiーPodtouchもあり、情報ツールには恵まれていた。そのおかげでテーマの3番目、故郷の再認識にかなり役立った。食べログなどは隠れた名店の検索に役立ったし、グーグルマップで最近の道路状況を把握する事が出来た。 とにかく郊外の発展ぶりが眼につく。正直学生時代の富山なんて何にもなかった。ところがどうだろう。ユニクロ、ダイソー、ニトリ、ココス、ヤマダ、ノジマ、スタバ、ツタヤと、ないものはない、という感じだ。
 それとは逆に廃れてしまった場所も見受けられた。以下はブログからの引用である。

  哀愁のホームタウン

 富山での疎開生活を初めて1週間が経過した。最初は、新しい文化を発掘、発見する生活だった。特に郊外の発展ぶりは私に取っては頼もしいくらいに著しいと思う。
 昨日は、市民プールに家内と二人で行ってきた。数年前にできたので新しいし、実家から1キロちょっとだから、歩いても行ける。
 そして今日は、総曲輪に繰り出した。
 西町は、かつて富山で一番の繁華街だった。大和、西武といったデパート、総曲輪通り、中央通というメインの商店街が元気だった。
 その二つのデパート、大和は一応総曲輪に場所を変えて、老舗の王道を行っている。西武は消滅し、ビルはそのままで、後には何も入る気配がない。大和だって元の店舗ビルは、
取り壊されもせず残っている。
 無惨なのは、中央通り!総曲輪に近いところはまだしも、はずれの方になると閉店やテナント募集のオンパレードだ。
 駅周りが、少し活気を帯びてきているような気がする。北陸新幹線の工事も目につくようになってきているし、駅前のロータリーや駐車場、タクシーやバス乗り場が、変化を遂げていた。
 現在、別々の路面電車も南北がつながる予定だと、計画案に書いてあった。
 たぶん人一人の一生では街の行く末をすべて把握出来るものではないのだ。
 
以上ブログ「坂道の途中」より       

 6月は梅雨でもあり、雨も結構降って、あっという間に過ぎていったという印象だった。長旅で疲れたであろうデミオにむち打って、市内を乗り回していると昔の勘も蘇ってきて、迷った時に何気なく判断した方向に正解があったりする、そしてやはりナビには、かなり助けられた。
 実家は県立中央病院の近くにあるが、このあたりはそんなに変化を感じられない。変わったと感じるのは石金商店街だろうか。実は幼少期にこの商店街に住んだ事があった。当時はそれなりに栄えていた。パチンコ屋や映画館といった娯楽施設もあったのだ。そういえば、この映画館でゴジラシリーズを数多く見たのだった。
 今はほとんど何もない。そう言うと地道に残ってるカメラ屋さんとか、美容院とか、歯医者さんに失礼か。ただその歯医者ももう高齢でなおかつ病気がちという事で近日中に閉院予定という張り紙がしてあった。
 その商店街の外れでもあり、地鉄「不二越」駅の側にあるスーパー銭湯「満天の湯」が唯一存在感がある。ここは天然温泉ではないが、かなり頑張っている。5種類のジェットバス、トルマリンタワーサウナ、それに人口炭酸泉の発泡具合は、後にご説明する「湯めごこち(ゆめごこち)」「ファボーレの湯」と比較しても遜色ない。食事メニューは、もしかするとここが一番豊富かもしれない。
 毎週月曜日を銭湯の日と勝手に定めて、その日の午後はゆっくりそこで過ごした。この銭湯通いは今回の疎開生活のメインイベントだったのかもしれない。その発端がどこにあったかといえば、3月の健康ランドである。
 健康ランドを運営する会社は、甲府プリンスホテルなども経営していて、健康ランドとしては、最初に利用した駿河、そして山梨の石和、長野の信州があった。
 実は3月以降定期的に石和健康ランドに訪れていた。その度に首都高、中央道を利用していた。中央道では必ず談合坂サービスエリアで食事をとった。そこまで来れば、さすがの放射線もいくらか緩和されると信じていた。
 JR石和温泉駅の駅前にあるイオンは、行きがけや帰り際に結構利用していた。また駅から国道20号に出るまでの通りも何だか慣れ親しんでしまってにわかに愛着も生まれていた。4月にはそのあたりの理髪店でヘアカットもお願いしている。
 石和健康ランドの他にも利用した施設があった。群馬県太田市にある「コロナの湯」である。健美効炉(けんびこうろ)というのがあって、800℃まで加熱した鉱石「麦飯石」から放出される遠赤外線のサウナになっている。高温ではなく湿度も低いので蒸れないし長時間非常に効率よく汗をかけるのだ。
 守谷から車で向かうと、坂東市や古河市を抜けて、渡良瀬遊水池のそばを通ってゆく。ここに行く時には、佐野のアウトレットモールに立ち寄ったり、足利フラワーパークを散策した事もあった。
 何だか年齢相応に、年寄り臭い趣味に移行しつつあったのかもしれない。湯に馴染み、花を愛でる。まあ、良いじゃないか。
 というわけで、疎開先の富山でもその傾向は強く、若い時には眼もくれなかった場所に興味を惹かれたりしていた。でもそれを年齢のせいにはしたくない。あくまでも新たなる発見なのだ。

第2章 7月

 ただ遊んでばかりでもいられない、ということもあって、いよいよトイレの便座交換に動き出す。実家のトイレは多分私が東京に出てしまったあとにウォームレットを導入しているが、それとてもう15年くらいは使っている。もちろん壊れているわけではないが、要は我々がもう10年マンション生活でウォシュレットに慣れているということだ。
 果たして自分で取り付けられるかというのが問題だった。TOTOのパンフレットはもちろんホームページに事細かく取り付け手順が紹介されているのに勇気づけられたし、業者に依頼すると1万円強ということもあった。購入した便座には部品はもちろん簡単な工具まで付いていたので、数時間かけて独力で設置に成功した。
 一番の不安は水回りだった。配水管の長さが足りるか、あるいは長過ぎないか、噛み合わせから水漏れしないか、一通りテストしてみたが、大丈夫そうだった。ただやった後で、1万円は高いが、5千円くらいだったら、お願いしてもいいかなと思った。
 果たしてそんな徒労をして設置したウォシュレットを母が望んでいたのだろうか。母のためにという名目だったが、実際は自分たち優先だったかもしれない。しかしながら、雰囲気が変わり、衛生的でもあり、本心かどうかは分からないが、喜んでいるような発言を耳にして、まあいいかとは思った。
 その翌日だったろうか。労働の次は行楽だった。氷見市にある雨晴海岸に足をのばした。照りつけるような日差しに、絶好の海水浴日和と思った。頭の中で、青い空と海、そしてビキニのお姐さん達が踊っていた。
 海といえば、昨年は茨城県に引っ越してきて、茨城の観光地を探索する中、大洗海岸で小学生以来の本格的海水浴を堪能したのだった。中学生くらいから海にいくことがなくなり、20歳前後で湘南に出向いたとしても、まったく目的が違っていたこともあって、水着を着て海水にどっぷり浸かるのは本当に新鮮だった。
 もう数年、あるいは数十年は太平洋で海水浴は無理かもしれなかった。3月の事故以来相当量の放射性物質が海に流れ込んだであろう。太平洋の魚も当分食べられないだろう。漁業に従事する人が気の毒だった。だからといって無理に魚を食べる事が親切とは言えないのだ。病気の人が可哀相だといって、同じ病気になって痛みを分かち合うなんて、とんでもない。病気を治療する事が根本的解決なのだ。
 国道8号線を高岡に向かって車を走らせ、途中から北上して海岸を目指す。海が見えて来ると我々は歓声をあげた。それこそ20歳前後に来た時は、海になど入らず、砂浜に寝転がっているビキニの女の子を見て眼の保養をしたり、青空を見上げて昼寝する程度のつまらない想い出しかない。
 そんな想い出の記憶を辿って、かつての青春の再確認といったところか。勘とナビを頼りに以前利用した無料駐車場にたどり着いた。着いてみると平日とはいえ、閑散としていて、車は1、2台、砂浜には幼児連れの家族が一組と学生らしい男性が一人だけのお粗末な絵柄だった。おそらくギリギリ海開き前だったらしい。
 せっかく用意してきたので、我々は荷物番と交代に海に浸かった。温度的にもちょうど良かったが、あまりにも人がいないし、ドリンクを所望しても販売機さえ停止していて、まあ、とにかく海水浴はしたのだと言い聞かし、我々は移動を開始した。
 シャワーさえ浴びられなかったが、顔から上は浸かってないし、上半身は一応Tシャツに着替えたし、下も程よく乾いてきていて、物足りなさから、私が中学の時に社会見学で訪れた二上山万葉ラインというドライブコースに入った。万葉ラインというのは、万葉歌人の大伴家持が国司として赴任した際、二上山を題材に歌を詠んだ事から付けられているのだそうだ。
 山頂付近にある食堂と土産物屋を兼ねたところでそばを食った。随所に高岡市内を一望出来る箇所があった。社会見学で来たのは良いが、何を学んで帰ったのだろう。記憶というものは、どうしてこうも風化していってしまうのだろう。
 懲りもせず、翌週には宮崎ヒスイ海岸まで足を伸ばす。方向的には、国道8号線を今回は新潟に向けて車を走らせる。滑川市、魚津市、黒部市を抜けて朝日町に入ればもうすぐである。
 子供の頃は、宮崎海岸というだけで、ヒスイ海岸とは言わなかった気がする。確かに他の海岸と違い砂浜ではない。砂利というより小石の海岸で、裸足だと若干足裏が痛かったりする。雨晴海岸と違って、本当にここには小学校以来来ていないと思われる。
 だから勘というよりは、案内図を頼りに近づいていった。そして発見したのだけれど、ここも雨晴同様に人がいない。多分まだ夏休みに入っていないせいだろうか。しかし天気も気温も間違いなく絶好の海水浴日和ではあるのだ。
 ここでも一組だけ泳いでいるカップルを発見したので、安心して我々も海水に浸かった。ここは本当に砂ではなく石なので、海水に浸かって浮かんではいるものの、立って歩くのはたいへんだった。ただそれが功を奏して、海水はかなり透明度合いが強い。
 ここでは雨晴以上に海水浴の醍醐味を味わう事が出来たが、人はもう海水浴などしなくなってしまったのだろうか。途中でカップルもいなくなり、まるでプライベートビーチのようだった。近くの田園でゆっくりこっちを眺めている農作業のおじさんとかおばさんがいることはいるが、それもまた背景の一部だったのかもしれない。
 

同じ泳ぎでも海水浴とプールでは目的が違う。今回は海水浴と共に週1回のプールも計画に入れていた。
守谷市でも常総運動公園にある室内プールを利用していたし、江東区でも区が運営するスポーツセンターで週1回泳いでいた。2007年心臓手術をして、リハビリも兼ねて始めたのが最初だった。泳ぐことで自分の健康状態が確認出来るような気がするのだ。
富山市の市民プールがいつからそこに出来たのかは知らないが、子供の頃はもっと西町という繁華街の近くにあったと記憶し、屋外のプールで泳ぐ、というか遊んだという想い出が証拠写真と共に残っている。
現在、市民プールというと城東ふれあい公園側の荒川というところにあって、実は実家から歩いても20分弱、車なら2、3分で行けてしまうのだ。これを利用しない手はない。料金は大人400円。
ロッカーは100円戻る方式である。このタイプはいくらコインが戻るといっても、コインを用意しなくてはならない煩わしさがあって好きではない。確かどこかのスーパー銭湯でも使っていた。ひどいところは下足と衣類のロッカーが共にこのタイプだったりする。 きっと私が東京(川崎や守谷も含む)に行ってる間の30年内に出来た施設だと思うが、設備自体はきれいで使いやすかった。江東区の某スポーツセンターは25メートルタイプ、常総運動公園のプールは50メートル、この富山市民プールは両方あって、年配者等のウォーキング、小学生以下の子供用に25メートルプール、中学生以上で泳ぎに自信がある人は50メートルと別れて使われていた。
健康のためとはいえ無理をすると逆効果でもあるので、2時間かけて1キロメートルを目標としていた。途中何度もジャグジーや採暖室で休憩をとる。
小中高を過ごした富山だが、今の実家は中学の時に両親が購入した建て売り住宅で、母校である東部小学校にも東部中学校にも通いやすいというロケーションであった。さらにいえば、富山県立中央病院にも歩いていける距離なので、病院としての機能も利用出来る上、駅からのバス停の終点、始点でもあり交通の便も良かった。
父が最後にたどり着いたところなので、それなりの思いもあるが、1階の銀行キャッシュサービス、売店、食堂も利用出来る。久しぶりにのぞいてみると、キャッシュコーナーの横にタリーズが入ってるではないか。
タリーズにも想い出があって、多分最初に入ったのが、水道橋から神保町に向かう通りにあった店舗である。その時飲んだイチゴのフレーバーティーがとにかく旨いと思った。その後浜松町から日の出桟橋に向かう途中の店舗でコーヒーのスワークルをテイクアウトしたが、これも旨かった。
その後いたるところでタリーズに出会う。東京の丸ビルから有楽町に向かう1本ずれた道のあるビルの1階、銀座から京橋に向かうところ、汐留の日テレの近くなど。最も我々を喜ばせてくれたのが、東大病院だ。こんなところにタリーズがという第1弾だった。ちなみに第2弾が守谷駅1階、そしてこの中央病院が第3弾ということになる。
富山市内では、こことあとはもう1店の計2店だそうだが、個人的には頑張ってほしい。とはいえ以前は嫌いだったスターバックスも最近は見直していて、どっちの味方なのかを問われると言葉に窮す。スターバックスは県道の6号線、藤の木というところにツタヤなどと一緒にあって、ここも捨てがたいのだ。
この店だけに限って言うと、店員が温かい。店の雰囲気が良い。長時間いてもくつろげる。そしてこの夏のマンゴースワークルが絶品だった。
この一角、ツタヤの他にも100円ショップのセリア、ファミレスのガストがあり、結構集客力があると思う。数年前に出来た富立大橋で富山市と立山町の行き来がしやすくなり、ここはその中間地点という事も言える。この辺は子供の頃には何もなかった。確か通っていた保育所がこの辺だったと思うが定かではない。
朝食と夕食はだいたい母の手料理で、時々外食をとった。ランチはほとんど外食だった。我々のランチは2時から4時までを指し、夕飯は9時頃をさした。だからランチは、ランチタイムを外れる事しきりだった。
食べログで見つけたランチのおいしい店をマイツイッターより、

「『ロージー&メリッサ』こんなお洒落なカフェレストラン、学生時代の富山にはなかった」
「『トラットリア・エンツォ (trattoria ENZO)』というイタリアン。富山市長江5丁目にある。後は各自調べてくれ。それでなくても混んでるぞ!なかなか本格的!」

その他にも、数店ある。また候補に挙がっていながら行けなかった店もあり、またいつかチャンスをうかがう事とする。


 週1回金曜日のプールと月曜日の銭湯通いは続いていた。「満天の湯」は会員となり、2回続けていった。地鉄(富山地方鉄道)「不二越」駅の側だが、その近くに「わかば」というたいやき屋があって、気が付いた方はその通りで、東京四谷「わかば」の姉妹店だった。東京育ちで、四谷で学生時代を過ごした妻もこれには大感激という一コマだった。 新たなる銭湯の開拓……。「湯めごこち(ゆめごこち)」は、立山町にある天然温泉だ。北陸自動車道の立山インターが非常に近い。富山市内からだと県道の6号線を立山町に向かい、常願寺川に架かる富立(ふりゅう)大橋を渡れば数分で左手に「湯」という大きな看板が見えてくる。
 ジャグジーのような施設はないので、いわゆるスーパー銭湯とは言えないのかもしれない。しかしながら、さすが天然温泉、お湯の質が非常に肌に馴染むので、長時間入っていても苦を感じる事はない。そして落ち着く。 露天風呂が広くて開放的である。湯の上をトンボが回遊する。風が心地よい。そんな夏の直射日光を浴びながらの入浴も乙だが、紫外線を避けたい方には、屋根付きスペースもある。もちろん屋内も同じお湯なので、露天に抵抗がある方にもご利用いただけるというものだ。個人的には露天と屋内を交互に利用する感じだ。大自然の中で真っ裸になるのが、多分好きなのだと思う。
 そんな風に書くと露出狂かと思う人もいるかもしれないが、別に人に見せようというのではない。正直見せられたものじゃない。鍛えられた身体でない事もそうだが、数年前の人工弁装着によるサイボーグ化で、首下から臍に向かっての大きな傷が、きっと見るものを凍り付かせてしまうだろう。だから見せたいわけではない。何だろう、空気と皮膚が直に接触する感じがいいのかもしれない。
 それにしても、この立山町はまさしく田舎で、「湯めごこち」の周りを見ても、民家以外はほぼ田園である。「湯めごこち」の入り口で週に何度か地元野菜を、実際作った方々が販売をしている。実にローカルである。
 いつの間にか、海だ、プールだ、ランチだ、天然温泉だ、と夏休み気分に浸っていた。ウォシュレットを自力で付けただけで、何だか安心しきっていた。しかし特にすることもなかったのも事実。地デジ対策も、結局はテレビはそのまま利用、ケーブルテレビ導入で事は済んでしまった。
 工事はほんの数時間で、電気工事の親父が若いのを一人連れてやってきて、慣れた様子で作業をしていた。ちょうどアナログ終了が近づいていたので、忙しいのだと洩らしていた。
 老朽化した実家のために、つまりは母親のためにしようと思っていた柱の二つが終わって、まあとにかく使命を果たしたような気になった。まだいくらでもやる事はあったが、そこまでするんなら改築すべきではないかとの結論に達し、そろばんを叩いてみて、ただため息をつくだけだった。
 7月も中旬を回った頃、やるべき事があって守谷に戻らなければならなかった。一つには東大病院への通院だった。2ヶ月に1度の定期検診で採血をして、その結果により服用する薬の処方量が変わるのであった。もちろん1ヶ月留守にした守谷のマンションも心配だった。
 来たときの逆のコースを取るわけだが、思いのほか時間がかかった。それは前回と違って日曜日で、なおかつ翌日が祭日だったからだろう。
 ガソリンを満タンにして、立山インターから乗り込んだ。名立谷浜SA、上信越道に入ってからの松代PA、横川SAでの休憩も予定通り前回といっしょだった。
 そこから先が想定外で、関越道に入り込む藤岡JCTまでが結構な渋滞となっていた。おかげで波志江PAまでに1時間ほどロスタイムしてしまった。おまけに足が痛くなってきていた。去年膝に水が溜まった方だった。もう1カ所休憩場所を増やし、栃木都賀ジャンクションを過ぎてから壬生PAでも一休みした。
 結局水戸インターに着いた頃には9時をまわっていたが、インター出口にかなりの行列が出来ている。咄嗟に何の列かは理解したので、すかさず最後尾に付いた。今回の無料借地が招いた結果でもあった。結局守谷の自宅に着いたのが、午後11時頃であった。
 翌日は、郵便受けに溜まってた情報の整理と部屋の清掃、運んできた食料の片付けに追われながら、久しぶりにロックシティやジョイフル本田に顔を出した。この日は祭日だったので、役所などには明日を予定していた。
 郵便受けに入っていた情報の一つに、マンションの官営組合が、ガイガーカウンターを購入して、住民に貸し出しを行っているという。予約制なので、おそらく駄目かもと思いながら、管理組合の窓口に顔を出すと明日の朝8時から1時間は空いているという。何だかラッキーだった。
 あえて数値は記入しないが、室内はかなり低く、通路も高層階に行くに従って低くなるので、まあ安心の範囲。メインエントランス付近は要注意。中庭など草地には近寄らないというのが鉄則である。心配して窓などずっと閉め切っていたが、これにより安心して、外気を取り入れる事が出来た。
 郵便物の中で、マツダからデミオの定期点検の案内が来ていた。これも午後1時からの予約が出来たので、市役所や銀行の用事を済ませてから、預ける事にした。点検中に最近発売された新デミオに魅了されていた。第3のエコカーという事でリッター30キロはやはり凄いと思う。ガソリンに拘ったのが、車屋として評価出来ると思う。
 マツダは購入した取手店と守谷店が一つになってロックシティーのすぐ側に新店舗を構えた。取手店で購入したのは、そもそも守谷に越してきた際、免許の住所変更で取手警察署に行かなければならなかったからである。
 いや、最初は試乗するつもりはなく、見るだけで良く、常総線の稲戸井という駅で下車して、また電車に乗り直すつもりだった。
「そうですか。免許の住所変更で、取手警察署ですか。ああっ、どうです、試乗も兼ねて、行ってこられては!」
えっ!それってあり?ありだよね。眼から鱗だった。電車賃はもちろん、駅からバスに乗ろうと思ってたから、バス代も、乗り換える手間もすべて帳消しになった。
 そんな事があって、引越した翌月には、デミオを乗り回していた。そしてこの愛すべき足は、我々を茨城の素晴らしい観光スポットに誘ったのだった。あみアウトレット、牛久大仏、霞ヶ浦、つくば山、ひたち海浜公園、大洗海岸、震災の少し前には、真壁のひな祭りにも行った。まさかあんな震災という悪夢が起こるなんて……。
 リッター30キロは凄いが、こいつだってリッター26キロだ、と点検が終わったデミオを出迎え、明日に備えることにした。たった2日間の守谷凱旋、明日にはまた旅立たなければ……。
 
 

 先月に続いての富山行きだが、今回の命題は、東大病院の定期検診があった。それと久しぶりに石和健康ランドに泊まる計画を立てていた。
 毎回、東大病院の検診には、つくばエクスプレスを利用していて、車で行くのは初めてだった。怖いのは時間が読めないことと、高速を下りてからの一般道の混み具合、それに東大の駐車場の空き具合だった。
 とにかく早起きをして、早めに東大に着こうという作戦だ。検診の日は朝食を食べては行けないので、東大で採血をしたのち、構内にあるタリーズで軽食をとるのを常としていた。
 今回は被災証明書の出番はなかった。午前8時頃、三郷料金所を過ぎて首都高に入ると予想通り、混んできた。渋滞とまでは行かないが、のろのろ進む感じだ。なんとか9時到着に間に合いそうだ。首都高の神田橋で一般道に出て、とにかくナビを信じて、最短距離を行った。
 病院構内に入り、駐車場の方へ向かった。ここで伝家の宝刀を使うことにした。身障者手帳という奴である。身障者専用駐車場というのを見つけたので、そこを利用した。おかげで予定通りにことは運んだ。
 いつもなら守谷に戻ってから薬局に行くのだが、これから石和健康ランドだったので、病院近くの薬局で処方薬を手に入れた。パーフェクトに予定が進行していた。
 心配事は一つだけだった。台風が来ていたのだ。今朝の段階で中央高速と国道20号線が封鎖されていて、そのままでは石和に行く事は出来なかった。高速に乗らないで、取りあえず国道20号を行けるところまで行って様子を見ようと思った。
 ここでもツイッター情報を常にチェックしていて、封鎖が解除された事を知って、調布インターから中央高速に入り、例によって談合坂で食事をして、石和健康ランドに向かった。ここは以前紹介しているので新たには触れないが、翌日は台風一過で晴天に恵まれた。
 この旅にはもう一つ命題があって、懐かしの野麦街道を走り、阿房峠を越えるか、阿房トンネルを抜けるかして、飛騨の平湯温泉に出て北上して富山に向かおうと計画していた。30代の頃、愛車のスターレットでこの道はかなり利用していた。まあ懐かしさを味わおうという事である。
 30代の頃は、日野市に住んでいて、中央高速で富山に向かうのは最短のコースだったからだ。もちろん上信越自動車道を使うコースもあるが、その頃は全線開通してなかったし、開通したとしても野麦街道と阿房峠が織りなすスリルの誘惑には勝てないだろう。
 石和からは中央高速を使わず、国道20号を上り詰めて、諏訪湖で休憩して、国道158号線、いわゆる野麦街道に入った。諏訪湖の側にあるセブンイレブンで買い物をして、諏訪湖の側で湖を眺めながら軽い食事をした。ちなみに朝食は石和健康ランドの朝食バイキングなので、思いのほか大食いして、お昼がそれほど入らなかった。
 国道158号線は長野県の松本から、岐阜県の高山に向かう国道で、県境に向けてスリル満天の渓谷を走り抜けてゆく。実際怖いと思ったのは、今回の台風で国道の一部が崩れてしまっていて、片側通行にして復旧工事をしていたことだ。何だかテレビで見た場面だった。その部分に金属の一時的な橋を架けて何とか片側だけは通行出来ているという感じだった。
 実は阿房トンネルが有料だとは知らなかった。たいした金額ではないので、まあ峠を越えるよりは安全だろう。今回初めての阿房トンネルだった。とはいえ何の事はなかった。峠を越えるのがいかにたいへんだったかを知ってはいるけど、拍子抜け感は否めなかった。
 とにかくここを越えてしまえば、あとはもう1本だった。途中「道の駅」で休んで、一路富山に向かう。神通川の上流から海に向かっているのだ。神岡鉱山の側を通る時に必ず思いだすのは「イタイイタイ病」だ。今回の福島原発に準えてしまうが、巨悪に立ち向かう姿勢だけは、忘れたくないと思う。
 県境を越えて富山に入った時に新たなる疎開生活の続きが始まったのだった。とにかくその晩はゆっくり休んだ。翌日は金曜日で予定通りプールに行った。7月は雨続きでなかなか出かける機会は減っていたが、プールと銭湯は欠かさなかった。
 プールの翌日には「水橋橋まつり」に行ってきた。水橋町というところは特に知人もなく感想を持たないが、何となく富山市であることは認識していた。調べてみると1966年(昭和41年)に富山市に編入されているが、それまでは上市町や立山町のように独立していたようだ。
 町内を流れる白岩川で、ご神灯流しと花火が始まる夕方以降に出発した。駐車場は無料ではあるが、押しよせる見物客も多く、どこも満車、満車で、どうしても距離のあるところしか空いていなかった。
 打ち上げ本数は2000発程度なので、隅田川などと比べてはいけないが、思いのほか賑わいがあり、花火の他にもご神灯流しといって全国でも珍しい裸火の流し火が幻想的であった。
 7月も後数日、時期は外れていたが、「ほたるいかミュージアム」に行ってみた。それなりに楽しめた。もしホタルイカが水揚げされる春ならば、本物のホタルイカが発光するところなど、そこで実演されるのだそうだ。土産物売り場で、ホタルイカの昆布締めがあったので買って帰った。
 7月末日、「海王丸パーク」に繰り出した。ここは富山でも高岡でもなく射水市である。ここも出来たのは1992年7月という事だから、私にしてみれば30代の頃である。当然知る由もない。
 ただし海王丸は、1930年(昭和5年)に浸水した大型練習用帆船なので歴史は古い。
戦時中は石炭などの輸送、終戦時は復員船、それ以降は、本来の後悔練習船に徹し、数多くの遠洋航海を行ったという。そして1989年、老朽化にともない引退して、富山県が大阪市に競り勝って手に入れたということらしい。
 全体に白く塗装された姿は「海の貴婦人」と言われる所以である。たしかに海の貴婦人は静かにたたずんでいたが、私の視界には、そのバックに見える新湊大橋が何とも気になっていた。
 見た目には、ほぼ完成してるようにも見えるが、細部がまだなのだろう。予定では2012年完成だそうだ。横浜ベイブリッジやレインボーブリッジ並みの橋が出来るのだ。何か希望のようなものを感じる。
 希望といえば、北陸新幹線もいよいよ形を現してきていて、2014年、長野から金沢までが開通するようだ。富山中のいたるところで新幹線が走るための橋桁を作る工事が白熱している。

第3章 8月

 8月1日、神通川の河川敷で花火大会があるというので、暗くなる少し前から待機していた。北日本新聞という地元の新聞社主催で第65回ということであった。私の年齢からすると当然学生時代にもあったイベントだが、今と違って当時はかなり内向的な性格だったこともあり、足を運ぶのは今回が初めてだった。
 土手の一番手前部分に座ったので、目の前を遮るものはなかった。太陽が山の向こうに下りていきつつ、闇が少しずつ勢力を伸ばしていく中で、人の流れも多くなり、隣も後ろも老若男女でいっぱいとなった。
 水橋橋まつりより本数は多いが、もちろん隅田川と比べてはいけない。いや、ただし直前で見られる分だけ迫力は、相当感じられた。疎開中のイベントという意識も加味されて、風情というものを肌で感じていた。
 8月5日からは富山まつりが開催された。第51回である。神通川の花火大会同様学生時代にもあったが、やはり今回が初見参であった。八尾に残る伝統民謡「おわら節」を踊りながら練り歩くというのが、伝え聞く内容なのだが、いつのまにか「よさこい」が付加されていた。
 ここでいう「よさこい」は、高知県のよさこい節ではなく、よさこい祭りの形式を取り入れた、「YOSAKOI」というもので、90年代に札幌の成功を機に各地に広まっていったものである。
 「よさこいとやま」は今年で第13回だが、あくまでも富山まつりの一部というポジションである。それでも8月6日の夕刻から繰り出していった我々の目の前で華麗な演舞が行われ、札幌でいつだったか目撃した光景を彷彿とさせた。
 8月7日のまつり最終日は炎天下の外出を避け、テレビで「よさこい」を見ていた。地デジ対策でケーブルテレビに加入していたから、地元専用チャンネルを見る事が出来るのだ。またテレビ朝日系列のチャンネルが増えたので、選局の幅が広がった。受像機はブラウン管だが、母も一人だとそれほどテレビは見ないという。まだ映っているので、壊れてから交換でしょうね。
 我々のランチタイムは次第に、庶民的なラーメン、カレー、ファミレスにシフトしてきていた。段々金銭を気にするようになってきたのだろうか。「疎開」をどこかで楽しんでいたのかもしれない。反省だ。特に退職金が口座に予定通り振り込んであるのを確認した時に気を大きく持ちすぎたのだろうか……。
 ラーメンといえば、ここ数年「富山ブラック」なる言葉が浸透していて、ツイッター等でも話題にしている人がいたりして、一度は食べておこうということになった。「富山ブラック」を知らなくても「食べた事があるよ」という人は、我々の世代にもいて、スタイル自体は昔からあって、言葉だけが後から付け足され、一人歩きしたと思われる。
 そもそもブラックの正体は、醤油である。それもかなりしょっぱい。使用する量が半端じゃないのだろう。高度成長期の労働者を応援するべくごはんのオカズになるしょっぱいラーメンを提供したのが、きっかけだったということだ。この店が「大喜」という名前で、実は2000年頃に閉店している。
 この屋号を買い取った別のオーナーが「西町大喜」という店舗展開をする。直系ではないが現在ここが富山ブラックの先鋒だ。また旧大喜の閉店前にのれん分けしたと言われる「大喜根塚店」という店もある。
 ブームに乗っかったかどうかは知らないが、比較的味も色も濃いラーメンを出す店が増えたらしい。その中でも唯一県外に店舗展開している「麺屋いろは」がある。他にも「万里」等が比較的有名どころだ。
 最初に「大喜根塚店」に行った。ラーメンだけ頼んだ。他の客を見ると大体ご飯を一緒に頼んでいた。確かにこれは、ご飯があればちょうど良かったかもしれなかった。数日後
「西町大喜」に行った。ご飯を頼んだ。今回はご飯を一緒に食べてさえ、しょっぱい辛さだった。何だか腹具合もよろしくなく、もうブラックは結構、と思ったが、懲りずに「麺屋いろは」にも足を運んだ。3店の中では一番凝った味だった。白エビの出汁を使っているという。
 それにしてもブラックに拘る必要はまったくなかった。普通に市民病院近くにある「つくし」とか、実家でたまに出前をとる「アサクラ」とかの方が、ラーメンの王道であり、味も好みだった。
 大阪でチェーン展開する「船場カリー」の富山第1号店がオープンとあって、初日に試しにいった。関東では唯一新三郷のららぽーとにあるという。まずいとは思わなかったが、金沢の「ゴーゴーカレー」の方が旨いと思った。「ゴーゴーカレー」は都内にも数店舗あり、確か秋葉原と御徒町で食べた事があった。 もちろん金沢といえばお隣なので、富山にもある。我々が行くのは経堂という場所だが、世田谷ではない。その一角にスーパーのアルビスやドラッグストアに混じって「ゴーゴーカレー」がある。そう言えば、これも多少色が黒っぽい。
 そしてカレーといえば、偶然通りかかって見つけた「かれー屋伊東」を紹介せねばならない。住所でいうと大泉1丁目。この辺もローソン、ドラッグストア、ファミレスの「ジョイフル」がいい雰囲気を醸し出す。
 「かれー屋伊東」、ここはかなり旨い。おすすめは必ずチーズトッピングにすることだ。あと野菜卵というカレーメニューがあるが、通常メニューのカツカレーとかメンチカレーにチーズをトッピングすると格別である。
 ラーメンもそうだが、ここでいう旨いとかマズイは、我々に関してであって、味覚は一人一人違うのである。だから、ここに書いてある店に関しては、自分の舌で確認してみて欲しいと思う。
 この時期になると食の不安が頭をもたげてきた。福島や茨城の野菜を応援という形で率先して使用する外食チェーンが出てきた。「ガスト」は月末に東北地方の店舗で赤痢が発症したが、食材の理由で最初から外していた。そう言えば集団食中毒で死亡者を出した「焼肉酒家えびす」は富山の店舗だった。敵は放射性物質だけではない。
 食材の関係で利用しなかった店舗は他にもあるが、取りあえず「ジョイフル」「びっくりドンキー」「マクドナルド」「ケンタッキーフライドチキン」は、取り合えず、疑えばきりがないネット情報を元に信用する事に決めていた。
 
 

 数年前に富山に訪れた時、たいがい実家近辺しか出歩かないのだが、東部小学校を右手に見ながら石金の交番を目指す途中にサンクスがあって、タバコを買ったりするには、そこを利用していた。
 さすがに心臓手術後は、死にたくはないのでタバコは吸っていない。かといって嫌いというわけではない。もし余命いくばくもない、なんていうときが来たら、1本くらいは吸ってから逝きたいものだ。禁煙した人が手のひらを返したように喫煙者を避難する気持ちがよくわからない。
 さて、そのサンクスであるが、なくなっていた。そこは間違いなくつぶれてしまったようだが、サンクス自体が富山県内から消えようとしていた。
 1980年に登場した「サンクス」という会社の母体はもともと「長崎屋」で、その後1991年に中間母体の「サンクスアンドアソシエイツ」を設立する。同じコンビニの「サークルK」を展開する「ユニー」が、2000年頃それを買収するのだ。そこで「サークルKサンクス」という会社が登場する。あくまでも母体はユニーだ。
 ところが富山の「サンクス」は、もともと母体が長崎屋の頃に地元の「なのはな農協」との間に生まれた合弁会社「サンクスアンドアソシエイツ富山」を中間母体としていた。「ユニー」が「サンクスアンドアソシエイツ」を買収した時、「なのはな農協」が主力の「サンクスアンドアソシエイツ富山」は、完全買収でなく、そのままフランチャイズとして残ったというわけだった。
 そして今夏、富山に何が起こったかというと、そのフランチャイズ契約が切れる事で「なのはな農協」が一大決心をしたのだ。それが「サンクス」よりも商品力があり、各オーナーにも旨味があるのではないかという「ローソン」への切り替えだった。
 切り替え費用はすべて「ローソン」が負担したらしい。7月から8月にかけて70店舗の「サンクス」が「ローソン」に変わった。おかげでどこに行っても「ローソン」を見ない事はないという状況になった。しかし、そうなると逆に「ローソン」同士の足の引っ張り合いになりかねない。果たして独自性が出せるのか。
 そんな中注目されたのが、1店舗だけ、「サークルKサンクス」と新たに契約して、「サンクス」としての運営を継続させたという朝日町のオーナーさんだった。長いものに巻かれず、自分自身で冷静に判断した事が評価されると思う。
「1地域に同じコンビニはいらない」
「チェーン店とはいえ、愛着を持って経営してきた。一朝一夕に看板は替えられない」
という言葉に感動した。
 海水浴は、雨晴海岸、宮崎ヒスイ海岸に次ぐ第3弾で「岩瀬浜」である。まあ一番身近で最もポピュラーであることは間違いない。さすがに8月も中旬になるとそれなりに人も出ていて、何度となく思い描いたビキニのギャルもいるし、それに声をかける悪そうなお兄さん達もいるし、小さい子を初めて海に連れてきたような若夫婦や大家族でパラソルに陣取る方々もいて、「これこそ海」であった。 海岸自体は、特に普通の砂浜だが、富山湾の特徴として、遠浅というものはない。すぐに深くなるので要注意だ。
 例によって毎週月曜日の銭湯通いも続いていた。これまた「満天の湯」「湯めごこち」に次ぐ富山第3弾で「ファボーレの湯」だ。
 「ファボーレ」というのは、イオンモールのようないわゆるショッピングモールで、「ファボーレの湯」はその近くにあり、同じ経営者なのだろうと思われる。天然温泉なのでお湯質も悪くない。「湯めごこち」よりは若干熱めだが、熱すぎる事はない。高濃度炭酸泉の温度は多少低めなので、こっちの方は長浴が出来る。
 またここには先に紹介した「コロナの湯」の「健美効炉(けんびこうろ)」ならぬ「火窯発汗房」という施設があり、やはり低温で蒸すことなく、長時間かけて効率よく発汗することができる。別料金ではあるが、漫画や雑誌を読みながらゆっくりするには最適だし、気持ちがいい。
 ここに来たときは、帰りがけにファボーレによって、ランチを食べたり、夕飯の食材を買ったりした。ショッピングモールは、守谷にもロックシティがあるし、日本最大のショッピングモール「越谷レイクタウン」にも行っていたので、特にどうということはない。それでも高岡にイオンモールが出店するまでこの「ファボーレ」が県内随一だったという。
 このファボーレがあるところは富山市婦中町という。JRでは高山本線の速星という駅が最寄りの駅である。まあ電車よりも車で訪れる方が圧倒的に多い。富山に限らず、地方は車社会だ。
 この婦中町は、以前中高年女性を中心に「イタイイタイ病」という骨がもろくなる奇病が多発した地域として有名だった。先にも書いたように神通川上流で神岡鉱山が垂れ流すカドミウム汚染が原因だったわけだが、公害病として認定されるまでに多くの人の努力があった。
 何だか今の東京電力を見る様でもあるが、今でこそカドミウムの毒性は認められているものの、当時はカドミウムでなくビタミンDの不足だという学者もいて、企業の肩をもったりしていたようだ。立ち上がった農民、無報酬で強力を申し出た若手弁護士、多くの努力が実って国に勝訴したのだ。
 そんな歴史のある婦中に近年またも国に反旗を翻したヒーローがいた。1990年代に「平成の米騒動」で話題になった川崎商店の川崎磯信さんである。食糧管理法という悪法を撤廃させた人である。この人のおかげで地元野菜をその場で販売したりできるようになったのではないだろうか。
 それまでは、自身の田んぼで作った米を農協に買い取ってもらい、その米が経済連、国を経由して、卸売り、小売店、そして我々の手元へという流れだった。そしてその流れの中で、安い米や古い米が混ぜられたりしている事実があった。
 だから川崎さんは、自身の田んぼで普通に作ったおいしい米を自分で販売しただけである。ところが、その行為が食糧管理法という法律では犯罪になってしまう。いわゆる「ヤミ米」というものだ。
 お役所から注意を受けても止めなかったことで、裁判化して罰金300万円の実刑は受けたものの、翌年、悪法である食糧管理法は廃止となる。真実がどちらにあったか明白である。
 さて、この川崎商店に実際に行ってみた。というのも米の被爆化も話題になっていて、多分今年の新米はやばいだろうという話だった。出来れば昨年収穫された米を何とか手に入れよう。出来れば富山なら安心だし、川崎商店ならなお心配無用だろうという結論だった。それを備蓄して守谷での生活に備えるつもりだった。
 店の前まで行って、本人が出て来たらどうしようかと、ちょっと弱気になった。でもせっかくだし、と気合いで作業場らしきところに向かった。多分ご子息とお嫁さんか、話の分かりそうな方に、平成22年度の収穫米を求めると、予想通り、珍しく今年はもう残っていないのだという。
 やはり早い人はすでに手を回していて、22年度米を備蓄しているのだ。東北、関東でも22年度米なら大丈夫かもしれないが、富山に越した事はなかったのだが……。富山なら新米でも大丈夫かもしれない。そう思い直した。 


立山山麓音楽祭というイベントがあって、アルペンルートの立山駅の少し手前まで行ってきた。この辺りは有数のスキー場で、らいちょうバレーというエリアだった。隣にある極楽坂スキー場には小学校だか中学校の時に体育の授業の一環で来た事があるのだが、すっかり記憶の彼方だった。
斜面に作られた特設ステージで参加したアーティストが与えられた時間、数曲を歌うのだが、あいにくの雨だった。それでも開演するのだから、たいしたやる気である。ちなみにロックの祭典ではない。司会が白井貴子と高原兄である。参加者は南佳孝とか大橋順子である。30年前ならロックだったかもしれない。
ステージが始まる少し前に普段の半額というのでゴンドラリフトに乗った。観覧車のような乗り物で高低差を移動するわけである。予想よりも長い時間、7、8分乗るのだが、かなりスリルがあった。
お祭りのように屋台の出店があって、お好み焼きとか焼きそばとかを食べた。地元の牛乳で作ったチーズや、それを使って焼かれたパンなどが物珍しく、お土産にした。
ステージ前の斜面に陣取って、手持ちのビニールシートを敷いた。野外イベントの達人のような人を真似して、途中から半分折り曲げて背中からの雨の侵入を防いだ。
白井貴子は、30年前ならロックの女王、学園祭の女王と言われた事もあった。現在はジャンルにとらわれず、幅広い音楽を聴かせてくれている。高原兄はさらに説明が必要かもしれない。この人も30年前なら「アラジン」というロックグループを率いて「完全無欠のロックンローラー」を歌っていたが、今では地元に生きるローカル歌手、あるいはテレビ、ラジオのパーソナリティといった感じで、意外と手広く活躍している。実際彼は、私の母校東部中学校の先輩だから、いつのまにか地元に根付いたというわけだ。最近では「クイズ!ヘキサゴンⅡ」から話題となったあの「羞恥心」の作曲者である。
そういえば、この後島田紳助の芸能界引退問題が浮上するが、まあ詳しくないので、この話題には特に触れようと思わない。ただそんなニュースに隠れて、日の目を見なかった情報の中に大事なものがあるような気がしてならない。
コンサート全体を楽しむほどの余裕はなく、大橋純子の「たそがれマイラブ」が聞ければ良かった。かつて働いていた某眼鏡店で彼女の担当をしたことがある。たいへん庶民的で大人しいという印象だったが、ステージでは豪快に振る舞っていた。司会の二人もたじたじだった。ステージ上での役作りというか、やはり気合いなのだろうか。
参加者の中で特に感心したのは、新人の初音、それに森口博子だ。最近の新人は歌が上手い。若いので声が通る。正直言うとベテランの方が……いや、それ以上は言わない。そして森口博子、何となくお笑いタレントの臭いがしなくもないが、彼女は歌手だ。上手い。恐れ入った。「ETERNAL WIND」の声の伸びは本物だった。
花火で始まった8月だったが、いよいよ下旬にさしかかり、二回目の守谷様子伺いである。先月は東大病院の定期検診という大目的があったが、今回は特になかった。いや、ないはずだった。
実はなおも東京豊島区に暮らす妹達と食事をする予定はあった。それも帰るついでに食事だから大目的ではない。そう勝手に決めていたら、引越の手伝いとなった。それも何時でも良いと連絡をいただいた直後になるべく早めにという内容に変わった。結局それが大目的となった。
個人情報だから、大きくは触れないが、とにかくシングルマザーとして出発することになったのだ。だから荷物を早々に新たな住まいに運び移さなくてはならない。何でも自分で決める性格の妹なので、決まった時点で理由を聞かず助けるというのが常だった。
今回の守谷行きは、飛騨から阿房峠を越えるコースを取った。松本からは、長野自動車道、上信越自動車道、北関東道というお決まりのコースで帰った。阿房トンネルを通らず、15年ぶりくらいで峠道を走ったが、トンネルが出来たおかげで峠を通行する車も少ない。まして今回は富山出発からずっとバケツをひっくり返したような大雨で、誰もそんな危険を冒すものはいないのだろう。ただ怖いのは突然の通行止めだった。
翌日は妹のメール、電話等が鳴り響く中、なんと疲れからか寝坊をしてしまう。高速を乗り継いで豊島区へ。到着してすぐ作業開始。久しぶりにみる妹は少しやつれていただろうか。姪もきっとたいへんなのだろうが、顔を合わせると微笑んでいた。
作業が一通り終わって、やっと予定通りの食事だ。我々夫婦と妹と姪の4人でファミレスに入った。我々が富山に疎開しているせいか、妹は富山に帰りたがっていた。しかし姪は、来年中学という事もあり、こっちでの人間関係を大事にしたいようでもあった。取りあえず予定は未定だった。
一気に疲れてしまい、守谷滞在を1日延ばしてしまった。富山への長旅も3回目で、少し虚しさを感じはじめていた。まあとにかく次に守谷に戻って来るときは、3ヶ月の疎開生活、というよりも長い夏休みの終わりになるのだ。待っているのは現実のみである。もちろん後悔はしない。原発事故というとんでもないことが起きたのだし、少し早めに自分の今後を考えるために必要な時間だったのだ。
今までと同じコースで富山に向かった。なんだかほんとに疲れていた。土曜日に実家に到着、しばらく家から外には出ず、書きかけだった「ゼームス坂マンションストーリー」を仕上げて、星空文庫にアップロードした。
月曜は予定通り「湯めごこち」に行って疲れを取る事にした。ランチは、行きつけのファミレス「ジョイフル」で、チーズインハンバーグとカットステーキのランチセットを食べた。
火曜日には、久しぶりに髪を切る事にして、富山市内のヘアーサロンを隈無く調べて、五福という富山大学がある地域のメンズサロン的美容院に行った。なかなかの腕前で、仕上がり後も妻には評判だった。

終章

 いよいよ9月に入って、中旬には守谷に帰らなければならない。とくに理由はないが、そう決めたのだ。正直状況はほとんど変わってはいないんだけど、どこかで線を引かなければならない。その間にやり残した事や、予定に組んでいた事をこなしていかなければならない。
 まずは、アルペンルート。これは8月のお盆に親戚が一同に会した時、おばさんからいただいたチケットがあって、入り口である立山駅から黒部湖までの無料往復券になっている。富山から長野に出るコースとその逆のコースは今までに体験していたが、往復は初めてだった。
 ちょうど私が30代の時に初めて経験したのが、富山から長野に向かうコースで、季節は同じ9月だった。とにかくまだ残暑が厳しい中、室堂に着いたときの凍えそうな寒さとミクリガ池に残る雪に何か感動を覚えたのをもう一度体験出来るかもしれないと思った。
 山は裏切らなかった。室堂の涼しさを通り越した寒さ、ミクリガ池の残雪、黒部湖を眼下に望むロープウェイ、黒部湖のグリーン、ダムの放出、そして晴天は、放出の水群に架かる虹さえも演出してくれた。
 9月の第2弾は高山。妻が用意してくれた旅で、これはJR高山本線で向かった。駅側にあるベストウェスタンホテルに一泊、飛騨牛のしゃぶしゃぶメインの夕飯と、朝食が付いていた。
 高山は、江戸時代の古い町並みが残っていて「飛騨の小京都」と呼ばれている。高山陣屋という江戸時代の奉行所のような場所を見学した。土産物屋、酒蔵、風情のある橋、翌日は朝食を食べた後に朝市に顔を出した。正直情報を持たない状態で行ったので、機会があればもう一度訪れてみたい。
 車での移動が多かったので、今回のローカル線の旅は精神衛生上も良かった。電車から見る山並み、川の風景も乙なものだった。
 いよいよ9月の第3弾、これはもう守谷への帰宅も含めた車での大移動だった。今回のコースは今までの中で最長だった。というのも岐阜を経由しての帰宅コースだからだ。岐阜というのは、序章で書いたように3月の事件勃発時に助けてもらった岐阜の友人宅にお礼を兼ねて伺おうというものだった。
 もう、しばらくは富山には戻らないつもりで、地元の醤油、みそ、みりんといった調味料やら、ペットボトルの水やらレトルト食材やらを数日前から吟味して、車に詰め込んでいた。
 9月17日、岐阜に向かって出発。この移動はそれほど苦ではない。多分4、5時間で着いてしまうだろう。この時初めて、東海北陸自動車道を利用した。
 多分運転好きは、父親譲りなのかもしれない。私が東京で初めて一人暮らしをした時に、富山で使っていた荷物を自力で運んできてくれた事があった。あの時の父の年をもう1年追い越してしまったが、やっぱり新しい自動車道には眼がなかった。
 北陸自動車道の富山インターから、高岡、金沢方面に車を走らせる。小矢部砺波JCTから東海北陸自動車道は始まる。城端SAで休憩、五箇山インターを過ぎるともうそこは岐阜県だ。ひるがの高原SAで軽食をとる。岐阜各務原インターで下りて、国道に入る。待ち合わせのJR岐阜駅に向かう。
 半年ぶりの再会。お互いの無事を喜び祝杯をあげる。一晩お世話になって軽い朝食をとり、ランチの鰻を共にして、分かれとなる。我々は、手を振って、反対方向へと進む。
 関インターで、東海北陸自動車道に入る。美濃関JCTで東海環状自動車道に入る。土岐JCTで中央高速に入る。後は地図を見てほしいと思うが、迷ったのは岡谷JCTだ。左は長野自動車道、右はそのまま中央道、ただどちらに行っても関越自動車道の高崎JCTで北関東自動車道に入るのだ。
 私の中で、諏訪湖SAから見た諏訪湖の景色が色を帯びてきて、懐かしさがハンドルを右に切らせていた。多少距離はあるが、1時間は違わないだろうと思った。しかし9月18日は日曜日だった。SAの車の数を見て、おや、と思わなければいけなかった。そうすれば、急いでいるわけではない我々は双葉SAあたりで時間をつぶせたのだ。
 甲府昭和インターを過ぎたあたりから、渋滞の波に巻き込まれていた。これは我慢出来なくて、用を足した藤野PAまで続く。多分2、3時間はロスしている。
 情けない話だが、最後まで無料借地に拘っていて、どんなに我慢出来なくても、インターを下りた時点でアウトだった。談合坂で休もうにも談合坂SAに入る渋滞もものすごかった。さらに我慢したものの、藤野が多分ギリギリの選択だった。
 藤野から先は、比較的スムーズになり、八王子の手前、圏央道で関越に抜け、高坂SAで給油して北上、高崎JCTから北関東道に入る。後はとにかく水戸に行くだけだった。
 水戸に着いたのが午前1時、谷和原インターを下りて、我が家にたどり着いたのが、午前2時だった。
 それから数日、咳、鼻水、喘息のような呼吸困難が夜中に発祥し、病院に顔を出す。いろんなことがあり過ぎて、頭ではなく身体が許容出来ないのかも知れなかった。

以上

『2011年夏「疎開」』

 実家に3ヶ月もいて、学生時代の友人には、連絡をとっていません。さすがに東京で過ごした日々の方が長くなると、おいそれと顔を出せるものではないのす。完全にUターンならまだしも、「疎開」って!さあ、後は現実がやってきます。現実の中で何が出来るのか、自分自身今後が楽しみです。

『2011年夏「疎開」』 ALTVENRY 作

 6月に退職した理由は、ホットスポットの守谷を脱出し、3ヶ月間富山にて「疎開」することが目的だった。中には「そんな大袈裟な!」と思われる庶子もおられるだろう。その3ヶ月間に富山で見つけたもの、味わったもの、体験した事などなどを事実に基づきながら書かれている。海、山、まつり、花火、とまるで夏休みのような疎開生活に、避難の集中砲火を浴びせられるかもしれない。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 冒険
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2011-10-05
Copyrighted

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著作権法内での利用のみを許可します。