Puppets In a love(ツサミ)

       一

 彼と初めて会ったのは花火大会でのことだった。

 地元の河川敷で毎年行われるイベント。今年だけは姉に誘われて行くことにした。花火なんて、何の面白みも無い。ただ一瞬に燃え尽きる芸術。その瞬間の美しさ。それがなんだと言うのだろう。いくら綺麗でも残らなければ意味が無いじゃない。
 人は、忘れていく生き物なんだから。
 開会四十分前にもかかわらず、河川敷は多くの人で賑わっていた。家族連れ、カップル。お友達。みんなめいめいに薄暗がりさえも楽しんでいるように思えた。コロンコロンとためらいがちに少し前を歩む姉は、さっきから携帯電話で誰かと話している。時折キョロキョロと辺りを見回しているから誰かと合流するに違いない。お友達だろうか、はたまた彼氏か。夫は、ないか。家族連れであるのは確かだけれど。
 なんで姉は私を誘ったのだろう?
「うん。わかった」
 電話を切った姉にさっそく私は話しかけた。
「友達?」
 右手で受話器を作る。
「そうだよ」
 振り返る姉。背中まで伸びた細く長い黒髪が揺れ、浴衣の短い袖がヒラリと舞う。今年新しく買ったそれはちょっと地味な紺色だけど、色白の姉に良く似合っていた。暗がりに浮かぶ姉はまるで蛍みたいに、月明かりの下ぼんやりと輝いていた。
「友達と約束してたなら私を誘う必要はなかったんじゃないの」
「へ? まぁ、ね。でもいいじゃない。大勢の方が楽しいし。智花だって除け者は嫌でしょ」
「私は別に」
 深い深い蒼色に似た黒、海の色。そんな瞳に黄金が差し込んでいる。それはただ静かに私を捕らえていた。
「またそんなこと言う。本当は来たかったんでしょ?だからわざわざ着慣れない浴衣なんか着て」
「別にそんなんじゃないよ。折角花火見に行くんだから形から入ろうと思っただけ」
 軽くため息をもらすと、姉はフイと前を向いて歩き出した。私も慌てて後を追う。
「ま、いいわ。とにかく今日はどうしても智花に来て欲しかったから」
「なんで」
「―――から」
 ボソッと何か呟いた姉。聞き返そうと思って姉を見上げた。
 真っ暗になる直前の、ぼんやり白く輝く真夏の夜。
 淡く映し出される、うつ向いたその横顔。
 ほんのりと、赤く染まった頬。
私は、思わず息を飲んだ。
「ん? どうしたの」
 いつの間にか姉が私の顔を覗き込んできていた。
「いや、別になんでもない、です」その瞳に耐えられず、目を反らす。
「それより今なんて」
 私の言葉は打ち上げ花火1号に遮られた。
「今見た見た? すっごい綺麗だったよ」
 子供みたい。
「あ、見てなかった」
「そっか。それは残念ね。まぁまだ始まったばかりだし。それで、何か言った」
「ううん、何でもない」姉を見ていると気が抜けた。
「それにしても、お姉ちゃん子供みたいね。花火くらいでそんなにはしゃいで」
「悪かったね。子供で」
「今までその手で何人の男をその気にさせたのかしらね」
「別に私は」
「そうだね。そんな手を使わなくても勝手に男が寄って来てるもんね。一体どんな手を使っているのかし ら? 今度ご教授くださいね」
「智花。あんまりお姉ちゃんをからかわないようにね」
 そう言って姉は右手で豢骨を作ってニヤリと笑った。
「先生は教鞭ではなく強鞭を振るうのですね。それは痛そう」
 姉は右手をそのまま口元に持っていき、声を抑えて笑った。私は声を出して笑った。
 二人の明るい声は、賑やかな暗がりに紛れていく。

「やっぱり智花を連れてきて良かったわ。心が安らぐから」
「ペット代わりなら今すぐ帰るよ」
 姉はまた笑い出した。
「何がおかしいの」
「あ、ごめんごめん。智花があまりにもペットって感じだったから」
「はぁ? 何わけのわからないことを」
「まぁ知らないだろうけど、petにはすねるって意味もあってね。智花がふてくされてるのが」
 そこまで言うと、我慢できなくなったらしくまた吹き出した。
「まったく。やっぱり帰ろうかな」
「だからごめんって。お願いだから一緒にいて、ね」
「ま、家に帰ってもすることないしね。で? さっきから花火上がってるけど、お姉ちゃんの友達は」
「ん~、そうだね」辺りを見回す。
「さっきの電話からするとこの辺りなんだけどーあっ、いたいた」
 姉の顔が向いている方を見る。男がこっちに向かって真っ直ぐ歩いて来ていた。
 男は私達の目の前で止まった。どうやらこの人が探し人のようだ。
「長谷川君、他の人達は」
 長谷川と呼ばれた男は姉より少し背が高い位。男子としては平均より少し上といったところか。
「場所とって牧原のこと待ってるよ」
 どちらかと言えば細身の体には似合わず、声は低い、か。
「ごめんね。わざわざ迎えにきてもらっちゃって」
「このくらい大したことじゃないよ」
「でも。花火始まってるし。見たかったんじゃないかなって」
 語尾が萎んでいった。
「気にしなくていいって。勝手にやってることなんだから」
「そう」
 姉の表情にはっとした。微笑んでいた。さっき笑ったのとは違う。嬉しいは嬉しいんだろう。だけど、それを出さないように出さないように抑えて。それでも抑えきれない喜びがチョロチョロっと溢れた。そんな、緊張を含んだ柔らかな微笑みだった。
 姉が私を連れてきたがった理由が、わかった気がした。
「ところで」彼が私を指差した。
「この子は」
「あ、そうそう。えーっと、妹の智花」次いで私の方に顔を向ける。
「この人が同級生の長谷川孝俊君」
「牧原春花の妹の智花です。いつも姉がお世話になっています」
 私は品定めをやめ、ぺこりと頭を下げた。
「いやいや、世話になってるのはこっちの方だよ。牧原はしっかりしてるから。クラス中が頼りにするく らいだし」
「そうなんですか?姉はぼーっとしたところがあるから、てっきり皆さんに迷惑をかけているんじゃない かと」
「家ではそうなの」
 私は真顔で言った。
「はい。この間なんて湯船に入ったまんま栓を抜いて」
「智花つ」
 姉が顔を真っ赤にして睨みつけていた。
「っていうのはさすがにありませんでしたけど」
 そっと姉の袖を掴む。それは微かに震えていた。私達の様子を見ていた彼は声を上げて笑った。
「ちょっと、長谷川君。これは嘘よ。嘘」
「分かってるって。でもあまりにも面白いから」
 まだ顔がひくついている。彼にだって何か思い当たることがあったに違いない。
「そんなに面白かったですか」
 顔を真っ赤にしてうつ向いている姉を尻目に私は言った。
「ああ。話も面白いけど」
 彼は姉の方をちらっと見やった。姉は相変わらずうつ向いたままだ。
 ちょっと、からかい過ぎたかな。
「ほら君達そっくりだからさ。何か一人芝居みたいで」
「よく、言われます」
 姉と私は一つ違いでも、よく双子に間違えられる。私達はそれほど似ていて、しかもそんな私達を母は双子も同然に扱った。着るものも髪型も、ほとんどのものが同じだった。姉がどう思っているかは知らないけれど、私はそれが嬉しかった。
 姉は私にとって誰より尊敬する人だったから。
 姉は私なんかと違って頭がいい。高校だって姉の通っている学校に入ろうと迷わず決めたものの、私の学力ではギリギリだった。でも、姉と一緒に通いたい一心で勉強し何とか合格でき、そして今こうして姉の同級生とも話している。
 もう何発目かも分からない花火たちが暗い空に消えていった。
「そろそろ行こうか」
 やっと彼の顔から笑みが消え、姉に話しかけた。姉は黙って頷くだけ。それを確認して彼は歩き出した。少し後ろを姉がついていき、私は姉の隣に並ぶ。
「お姉ちゃん、ごめんね」
 姉は首を横に振った。
「でも」そんな姉が面白くて、私は姉の耳元で囁いた。
「ああいう人がお義兄さんなら大歓迎だよ」
 サッと姉が顔を上げ、私を見下ろす。薄明かりでもはっきりとわかるほど頬が紅いのは、怒っているのか、照れているのか。本当にわかりやすい性格をしている。
「覚えておきなさいよ。あんまり私をからかうとどうなるか思い知らせてやるから」
「顔真っ赤にして言っても説得力ないよ」
「そんなに赤い」顔に手を当てながら言った。
「全く、智花のせいだからね」
「連れてきたのはお姉ちゃんでしょ」
「まぁそれはそうなんだけど」
 姉はそれっきり黙ってしまった。前を歩く彼が時折私達を見ては隠れて笑っているのを、姉は気づいていないらしかった。
 そしてまた、何個目か分からない芸術が消えてゆく。

「ほんと、そっくりね~」
「はい、よく言われます」
 先輩達は土手にビニールシートを敷いて悠々と花火を見ていた。今は次の花火までの準備時間。私は早速先輩達の話の種となっていた。暇つぶしのおもちゃとも言うかもしれない。
「ほんとほんと。こんな美人が世界に二人もいるなんて信じられないよな」
 これは藤谷博史先輩。長谷川先輩とは違いとてもあけすけた男子だ。気さく、とも言うかもしれない。
「な、孝俊もそう思うだろ」
 ヒョイと振り向いて長谷川先輩に話をふる。先輩はさっきからぼーっとして話に交わっていない。私の右隣に座る姉も、不安そうにしばしば視線を投げ掛けていた。長谷川先輩はちらと一瞥寄越しただけですぐに虚空を見つめ、答えた。
「うん。まぁ、そうだな」
「だろ」
「あの~」
 このままいくと止められなくなりそうだったから、私は重い口を挟み、我ながら完璧な潤み視線を送った。
「何?」
「あんまりそういうこと言わないで下さい」
「何で?かわいい子をかわいいって言って何が悪い」
「嬉しいんですけど。その、そういうことを面と言われると、恥ずかしいですから」
 顔の火照りを感じる。この台詞を言っている自分が恥ずかしくて。
「ほらほら、あんたのせいで困ってるじゃない。どうせあんたなんかじゃ釣り合わないんだから諦めなさいって。ねぇ、美智子」
 これは鈴原茜先輩。
「え。ああ。うん、そうだね」
 鈴原先輩に話しかけられて顔を赤くしているこの人が安堂美智子先輩。二人は見た感じ対照的な性格だけど、とても仲がよさそうだ。もっとも、安堂先輩がこんなにオドオドしているのは性格以外にも何か理由があるようだし、鈴原先輩もそれを知ってからかっているようにも見えた。
「そんな。安堂にまでそう言われるなんて。智花ちゃんもそう思う」
 藤谷先輩が必死の形相で私を見つめていた。
 否定するんだ。
その目がそう語っていた。
「そんなことはない、と思いますけど」
 これは本心だろうか?
 自分自身よくわからなかった。確かに見た目は悪くない。寧ろいい方だと思う。でも彼氏にしたいか、と訊かれると、そうでもないかな、と思う。今までそんなこと考えたことなかった。どんな男子でも姉に比べたらどの人も見劣りした。結局、そのまま高校生にまでなってしまい、最近ではちょっとだけ後悔し始めている。
「ほら、智花ちゃんはこう言ってるぞ」
 右隣の鈴原先輩に批判めいた口調で言った。
「何言ってんの。気ぃ使ってるに決まってるでしょ、ねえ」
 そう言って意味ありげに鈴原先輩が私に笑いかけた。
 一緒にコイツをからかいましょう。
その笑顔がそう語っていた。私は面白そうだったからその提案にのった。
「え、そんなことないですよ」
「ほらほら」
 藤谷先輩が目を輝かせていた。
「うっさいわね。だから気ぃ使ってるんだって、美智子もそう思うでしょ」
 鈴原先輩、藤谷先輩、そして私。三人の視線が一気に注がれた。
「私? そうね。智花ちゃんはきっと春花に似て優しいんだと思うわ」
「やっぱりそうよね」
「まだそうと決まったわけじゃないだろ」
 藤谷先輩は必死だ。何をそこまでこだわっているんだろう。
「しつこいわね。じゃあ、いいわ」
 鈴原先輩はにんまりと笑った。背筋に悪寒が走る。目まで笑っている。獲物を追い詰めた猫。そんな印象を受けた。
「春花」
 名前を呼ばれて、つい今まで長谷川先輩を見ていた姉がはっとして私達の方に顔を向けた。
「何?」
 あんたがとどめの一発だからね。
鈴原先輩の目は姉にそう語りかけていた。
「春花はどう思う」
「どうって。何が」
 姉はキョトンとしていた。遂行を目の前に作戦が失敗しかかっているのを察した鈴原先輩が慌ててつなげた。
「何ってあんたね。一体今まで何を聞いてたの。だからね、藤谷があんたの〈かわいい〉妹に釣り合うかって聞いてんの」
 先輩は「かわいい」を強調した。あからさまだが、手段を選んでいる暇はないらしい。
「なんで私が」
 全く、何て場の雰囲気を読めない姉だろう。所謂KYってやつだ。こんなんで本当に迷惑をかけていないのだろうか。
「なんでって。智花ちゃんはあんたの大事なかわいい妹でしょ。いいの? こんな藤谷みたいなやつにとら れて。藤谷があんたをお義姉さんって呼ぶようになるのよ」
 先輩は殊更「かわいい」と「こんな」を強調して言った。姉がちらと私を見る。暗くて表情がよくわからない。
「そうね」今度は藤谷先輩を見て言った。
「別に藤谷君が智花に合うか合わないかはどうでもいいけど。やっぱり嫌だなぁ。智花一人でも手がかかるのに、もう一人手のかかる弟ができるなんて。私やってらんないわ」
 姉の言葉はかなり効いたようだ。藤谷先輩は黙りこくってしまった。
 それにしても、姉は学校だとこんなに毒舌なのだろうか。
「はいはい、残念ね~。お義姉さんがそういうんじゃ仕方ないよね」
 鈴原先輩がカッカッと笑いながら、ポンポンと藤谷先輩の頭を叩いた。それに抵抗するでもなく、沈んでいく藤谷先輩。ちょっと哀愁が漂いすぎている気もする。
「ちょっと、由佳。やりすぎたんじゃない」
 安堂先輩が咎めた。
「大丈夫よ。明日には元通りになってるから」
「でも」
 安堂先輩が心配そうに、うなだれた藤谷先輩を見る。すこし目を細めて。
「そんなに心配ならあんたがなんとかしなさい」
「へつ」
 一瞬にして目は丸く開き、耳たぶは赤く染まっていく。どうやら、安堂先輩も考えていることが顔に出やすい人のようだ。
「嫌なの」
 鈴原先輩が不敵な笑いを浮かべると、安堂先輩は黙って藤谷先輩に近寄って幾つか言葉をかけていた。その様子を満足そうに見ていた鈴原先輩に私は思わず呟く。
「先輩。すごいですね」
「そうでもないわよ。あいつらが単純なだけ」
 そう言って、ニコッと笑った。
 手伝ってくれて有り難う。
そう語っているようだった
「ところでさぁ、春花」
 ガラッと口調を変えて鈴原先輩が言った。
「何?」
「智花ちゃんってそんなに手がかかるの?全然そうは見えないんだけど。こんなに素直だし礼儀正しい し」
 先輩は最後の方は私を見て言った。姉を見たけれど、その横顔からはどんな表情も読み取れなかった。
「うん。昔っからね。何かあったらすぐ泣く、喚く。いつも私の後ばっかりついてくるし。すごく甘えん坊で。そのわりに口だけは達者、弱虫のくせに何度も私に喧嘩を仕掛けてきて。本当に手が焼けるわ」
 自分の耳を疑った。目すら疑った。これらが本当にあの姉から出た言葉なのだろうか。これらは本当にあの姉の、いつも笑いながら冗談を言い合った、あの姉の口から出てきた声なのだろうか。私は信じられなかった。そしてただ願った。姉が笑いかけてくれることを。笑って、冗談だよって言ってくれることを。
「でもさ、妹とかって普通はそうなんじゃないの」
 心臓がバクバクいっている。
「智花の場合は尋常じゃないのよ」
「でも、手がかかるから一層好きっていうのは」
 期待を逃すまいとするかのごとく、ぐっと両手に力が入る。その手の平に汗が滲んでいった。

 ないわよ、全然。もううざったい位だわ。

 心臓が一度、痛いくらいに大きく波打って、止まった。何も感じない。ふわふわ体が浮くような、不思議な感覚に身を任せる。一刻も早く、飛んで逃げてしまいたい。それを妨げるような胸の締め付ける苦しささえ、どうでもよく思われた。
 『うざったい』
これは姉の言葉なんだ、と何度も自分に言い聞かせた。紛れもなく、姉の本心なのだ、と。その度に私はあの虚空に近づいていけるような気がした。あの、真っ暗な一体を成す虚空へと。
「ちょっと、あんたそれは」
 途中で口をつぐむ先輩。姉が近寄っていき、耳元で何やら話している。私は目の端でその様子を見ていた。目を瞑ってみる。遠くから火薬の破裂が聞こえた。

「綺麗だったね、智花」
 帰り道。姉と二人きり並んで歩く。本当に楽しそうに姉は言った。
「うん」
 あんまり話したくなかった。花火なんて殆ど見ていやしなかった。花火が上がっている間中ずっと、姉の言葉のことを考えていたのだから。
「どうしたの? 智花。具合でも悪い」
 姉が手を近付けた。はっとして、私はその手を払った。
「智花」
「お姉ちゃんが悪いんでしょ」
「へ」
「何なのよ、しらばっくれて」
 姉の呆けた表情に、つい声を荒げてしまう。
「ちょっと智花。何怒ってんの」
「うるさいなぁ。どうせ今だって世話のやけるめんどくさい奴だって思ってるんでしょ?なら先に帰って もいいんだよ?私だってもう高校生なんだから保護者がいなくたって迷子になったりなんかしないよ」
 自嘲気味にいった。少し、虚しい。
「もしかして、さっきのこと気にしてるの」
 姉が顔を覗きこんだ。その黒い瞳はいつものようにとても澄んでいて、私を映し出していた。
「別にそんなんじゃ」
 だから、フイと顔を背けてしまう。何だかこばかにされた気分がしたから。いや本当は、そこに映る自分を見たくないから。
「全く、まだまだ子供ね」
「どうせ今だって子供ですよ。世話を焼かせることしかしらない甘えん坊ですよ」
 ため息が聞こえた。突然頭の上に何かが乗る。すぐに分かる。これは姉の手。私が泣いているとき、悩んでいる時、いつでも姉はそうやってくれた。姉の手は一体今まで何回私を励ましてくれただろう。姉の手は誰よりも温かくて優しくて。私はその温もりに浸ってどんな嫌なことでも忘れることができた。
「あれはね、嘘よ嘘」
「えつ」
 恐る恐る姉を見る。姉は今にも吹き出しそうにニンマリとしていた。
「言ったでしょ? 覚えておきなさいよって」
「じゃああれは全部」
「そ。全部冗談。仕返しだよ」
 涙が落ちていくのが分かった。そんな私もまた、その黒の中にいた。
「え、ちょっと。何で泣くのよ」
「私にもよくわかんない。お姉ちゃんにあんなこと言われて悲しいのかもしれないし、冗談だって知って 安心したのかもしれないし、私を騙したお姉ちゃんを怒ってるのかもしれないし。もうわかんないよ」
 私は浴衣の袖で必死に、流れてくるそれを拭った。でもそれは私の努力を嘲笑うかのように、次から次へと流れ出てきて止められなかった。
「しょうがないなあ」
 巾着袋をあさる音。
「ほら、顔上げて。せっかく似合ってる浴衣なのに勿体無い」
 私は言われるがまま顔を上げた。白いハンカチ。その一拭きで、まるで魔法のようにさっきまでのそれはピタと止んだ。
「ごめんね」巾着袋にハンカチをしまいながら言った。
「私ちょっとやり過ぎちゃったみたい」
 ううん、そんなことないよ。
私は代わりに首を振った。
「でもね。智花の方にも問題があるわ。私の言ったこと真に受けすぎだから。私が本気でそんなこと言うわけないでしょ」代わりに頷く。
「それじゃあ、花火も大して見てなかったわけね」
 私がコクコクと頷くと、姉は空を見上げた。その直前に小さく笑ったような気がした。
「花火はもう見えないけど、ほら、星が綺麗。」
「うん。ほんとだ」
 空には数えるのも億劫なほどの星が散りばめられていた。
「こうやってここから沢山星が見えるけど、あの中の一体いくつの星に生命がいるんだろうね」
「そんなのわかりっこないよ」
「そうね。そのわかりっこない内の一つがこの地球で、地球のほんの一部分が日本。そしてその一億数千 万のうちの一人が私であり智花でもある。そしてさらにそんな確率の二人が今こんな、宇宙からみたら針の先にも満たない場所にいる」
「うん」
「そう考えたら。誰があなたを嫌いになるっていうの。私が姉で智花が妹。これは奇跡的なことなんだから。だったらあなたを大事に思うことはあるにせよ、嫌うようなことなんて、あると思う」
「お姉ちゃん。私――」
 夜空から目を離して姉に向ける。
 夜空を見上げる姉。
 星々に照らされて白い肌がぼわっと浮き上がる。
私には姉が泣いていたように思えて、口をつぐんだ。
「わかってくれればいいのよ」顔を私に向け、姉は明るく言った。
「さ、帰ろう」
 差し延べられる手。今度はしっかりと握った。何があっても離れないように、ぎゅっとギュッと握りしめた。
 さっきの涙の理由は分からないけど、どんな理由にせよきっとそれは姉に、姉の優しさに繋がっている。
 握った手から伝わってくる 温かさ 心地よさ
 それらがその、何よりの証拠。


       二

「行ってきます」
 玄関から姉の声が聞こえる。昼食を終えて自分の部屋で漫画を読んでいた私は、ヒョイとドアから半身だけ出して応えた。夏休み中に制服を着るのは部活か、提出物を出しに行く時かのどちらかだ。
「お姉ちゃん」
「何か用?」
 私は無言で、右手の親指を立ててグッと示した。姉は黙って右手でグーを作る。
 それが最近の挨拶みたいなものだった。あの花火大会の後、長谷川先輩のことをよくよく聞くと、姉は先輩目当て、いやこう言ったら下品だ、先輩となるべく近くにいたくて同じ硬式テニス部活に入った、と白状した。花火大会のメンバーは部活仲間だそうだ。それ以来、私は『頑張れ』のつもりでグッと親指を立てて見せている。そんなとき姉は決まって手をグーにするから何だか習慣みたいになってしまった。
「あんた達、なにやってんの」
 そんな私達を見ていた母が怪訝そうに言った。いつもは仕事で忙しい母も今は有給休暇で夏休みを満喫していて一日中家にいる。かといって特に何かやるわけでもなく、ゴロゴロと暮らしているのだけれど。
「別に、何でもないよ。ただの挨拶なんだから」
 私は同意を求めて姉を見た。
「ま、そんなものかな」
 姉が答える。
「随分変わった挨拶ですこと」
 呆れたようにそれだけ言うと、母は居間に行ってしまった。
「全く」姉はため息をついた。
「それじゃあ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
 手も振らずに見送った。が、ドアノブに手を掛けたかと思うと、姉は振り返って私を見た。
「そうだ」
「ん」
「ちゃんと宿題やっとくのよ」
「大丈夫だって、もう高校生なんだからお姉ちゃんがいなくっても宿題くらい」
 思わず声が上擦る。部屋に投げ出された漫画を思い出した。
「そう。ならいいけど」
「ほらほら、私のことなんてほっといて。さっさと行きな」
 自分でも笑顔が堅いことがわかる。隙をつかれると対応が利かないらしい。
「わかってる。それじゃあ、本当に行くよ」
「はいはい」
 今度は軽く手を振って見送った。普段なら、もっとしつこいのに。
 部屋にいても特にやることはなかった。いや、ないわけではないのだけれど、やる気が起きなかった。
「はぁ、暇だな」
 ベッドに横になる。上には姉が使っているベッドの底。そう、二段ベッドなのだ。つまり、この部屋は姉と共有。別々の部屋が欲しいなんて贅沢は言っていられない。そんな部屋なんて無いのだから。そんな余裕があるならわざわざ父も母も働いたりしない。家族皆が同じ部屋ではないだけまだましだ。
寝転がっていたら何だか急に眠気がおそってきた。
「ま、いいか、今日くらい」
 私はその眠気に体を預けた。

「あら、そっくりね~」
「本当、双子みたい」
 誰?
顔がぽやけてよく見えない。
「よく言われるよ」
 隣にいるのはお姉ちゃん?
それにしては小さかった。
「春花、智花。そろそろ帰るよ」
 遠くから母の声が聞こえる。
「はーい」
 後ろを振り向いて姉が返事をした。そのままトコトコと駆けていく。
「あっ、待って」
 私も振り返った。その瞬間、さっきまでぼんやりとしていた風景がぶわっと鮮やかに私の目の前に広がっていった。
 真っ赤な夕陽。
 伸びる母と姉の影。
 昼間は真緑で生き生きとしている木々の葉も、夕陽に照らされて静かにうなだれている。
私を置いて姉は遠くへ駆けていく。
「お姉ちゃん、待って」
 私は追いかけた。必死に追いかけた。けど、姉の影は段々段々と長く細くなっていく。
 懸命に走った。
でも、とうとう姉の姿は見えなくなってしまった。いつの間にか母の姿も見当たらない。
 それでも私は走った。
 いつかきっと追い付けるから。
 そう自分を励ましながら。
ふっと体が浮かんだと思った途端、鼻に衝撃が走る。視界が一瞬にして消えた。

「智花、大丈夫?」
 その声に顔を上げる。そこには姉がいた。さっきよりは大きい姉が。
「あ、お姉ちゃん。私何を」
「知らないよ。逆にこっちが聞きたいくらい。こんな道で転ぶなんて」
「ごめんね心配かけちゃって」
 ヘへっと笑って誤魔化す。
「ほら、起きな」
 差し出された姉の手。私は迷わず掴んだ。うん、見た目は昨日より小さい。それでもグイッと軽々持ち上げられる。
「大丈夫?痛むとこない」
「うん。全然大丈夫だよ」
「そ、なら行こうか」
 姉が安堵の表情を浮かべる。
「うん」
 そうは言ったものの、何処へ行くんだったろう。私は姉に右手を引っ張られながらついていった。
 ここは小学校?
確かにここは私と姉が通っていた小学校のようだ。
 小さい頃はよく遊びに行ったな。
思い出に浸っていると横から姉が入ってきた。
「智花、聞いてるの」
 姉が顔を覗き込んでいた。その仕草と瞳の黒さは今と変わらない。
「あ、ごめん、聞いてなかった。何?」
「全く」両手を腰に当てていかにも呆れたように言った。
「いつもポケーッとしてるけど、今日はなんか変だよ。さっき頭打った」
「だから、大丈夫だって。それより何の話してたの」
「あ、そうだった」
 クルリと後ろを振り返る。そこには見たことない男の子。顔は逆光でよく見えないけど、背はそんなに高くなくて、太ってはいない。
「智花は初めてね。このあいだ転入してきた川井田君。」
 やっぱり思い出せない。そこだけぽっかり穴が空いたように、何も思い出せない。気味が悪かった。
「川井田君、これが妹の智花」
「どうも」
 ペコリと軽く体を傾ける。
「よろしく」
 川井田君はちょっと照れたように笑いながら言った。
 何か、長谷川先輩に似てるなぁ。でもこんな子いたっけ。
「本当にそっくりだね」
「でしょ? ちっちゃいころからほんとは双子なんじゃないかって噂されたくらいなんだから」
 姉が明るく、というより慌てて言った。
「それじゃあ、皆あっちに集まってるから、行こう」
「そうだね」
 二人ともクルッと体を反転させて校庭へ走り出そうとした。
「お姉ちゃん、私は」
 顔だけこっちに向ける。
「もちろん」
 二人は走り出した。私も二人を追いかけた。

懐かしくて楽しい時間はすぐに過ぎた。
 皆で校庭をあっちこっち走り回った。
 私は何度転んだことか。その度に姉より早く川井田君が手を貸してくれた。
 私は何度謝ったことか。その度に彼は照れたようなあの笑顔を見せた。
やっぱり、何となく長谷川先輩に似てるな。ぼんやりと花火大会の時を思い出した。あの時、先輩は何を考えていたのだろうか。何で急にあんなにぼんやりしていたのだろうか。
 夕焼けのチャイムが鳴り響く頃、私達は皆と別れて家路についた。空高く、のんきに烏が鳴いている。
「川井田君っていい人ね」
 右隣を歩く姉に話かけた。
「うん」
 沈んだ声。どうしたのかと思って姉を見た。その横顔はどんな表情もしてなかった。無表情というわけではなくて、色々なことがあってどんな表情をすればいいか迷っている、そんな表情だった。
「お姉ちゃん? 具合でも悪いの」
 ピクッと肩が動く。と、それが合図であったかのように、突然姉が私をキッと睨んだ。
「お姉ちゃん」
 わけが分からなかった。
「うっさい! 智花なんか大っ嫌いだ」
 姉はそのまま走っていってしまった。私はただ呆然とするしかなかった。
 目の前が真っ暗に染まっていく。

 はっと目を開けた。そこには見慣れたベッドの底。もうそんな時間なのか、それは夕焼け色に染まっていた。
「思い出した」
 そうだ。何で今まで忘れていたのだろう。姉が私を嫌いと口に出したのはずっと前、私が小学一年生の時に一度あったんだ。あの後、私は大泣きしながら帰って来たっけ。何度も何度も転んでボロボロになって帰って来た私を見て、姉も一緒になって泣いた。そしてあの時から、姉は一層優しくしてくれた。あの時の私には何で姉がそんなに怒ってるのかわからなかった。でも今なら、分かる気がする。
「あ、起きた」
 声のする方へ顔を向ける。椅子に座った姉が、椅子を回して体ごとこっちを向けていた。夕陽を浴びた姉の笑顔は、ゆったりとしていた。
「あ、帰ってたの」
「今さっきね」
「なんだ、起こしてくれればよかったのに」
「智花があんまりにも気持ちよさそうだったから。涎まで垂らして」
「えつ」
 口元に手を持って行く。
「嘘よ嘘。」
 姉はクスッと笑った。
「お姉ちゃん、最近嘘ばっか」
「智花がバカ正直なだけよ。でも、本当によく寝てたわね。どんな夢見てたの」
「とっても懐かしい夢だったよ」
「へぇ~、どんな」
 興味津々に私を覗き込む。
「小学生の時にね。川井田君っていたでしょ」
 その名前を出した瞬間、姉の顔に陰が差した、ような気がした。
「うん。覚えてるよ」
 気のせいかな。
私は続けた。
「いつのことかは細かくは覚えてないんだけど、その子も混ざってみんなで遊んだ夢。それで、その後帰 り道でお姉ちゃんに言われちゃうの。『大っ嫌い』って」
「そんなことも、あったね」
 姉は窓の外を眺めた。その横顔が夢の中の姉と被る。私は体を起こして言った。
「私、今まですっかり忘れてた。でね、あの時お姉ちゃんが」
「智花」姉が私の言葉を遮った。
「宿題は、やったの」
 鳥肌が一瞬にして立ち、すぐ消えた。冷たい。そんな印象しか残らなかった。今まで見たことがないくらい冷ややかな笑み。それは夕焼け一色に染まりきったこの部屋で、怪しく、私の目の前にあった。
 何も言えなかった。
 姉はクルッと椅子を反転して、黙って作業を再開した。私も黙って隣に並べた自分の机に向かう。ちらっと姉を盗み見ると、姉は機械のように、ただ黙々とシャーペンを動かしていた。

 二人きりの部屋の中。静まりかえったこの空間に、紙の擦れる音だけが時の流れを告げていた。


       三

 夏休みもあと数日を数えるのみ。
 空はどことなく涼やかさを帯び、蝉がラストスパートをかけるようにその儚い命の灯火を一気に燃やし ている。
 公園では小さな子供達がちょっとの時間も惜しむように駆け回り、スーツの似合わない若い男の人がう らやましそうに彼らを眺めている。
 そんな中、私はと言えば学校に向かって足取り重く歩いているのだった。今日は地理のレポートの提出日なのだ。
「全く、何でこんな中途半端なのかな」
 理由は簡単だ。地理の先生が今日位しか学校に行けないらしい。何でも夏休みほとんどをかけてどっかの民族と交流しに行くのだという。名前も聞いたこともない民族で、研究も兼ねているんだとも言ってた。詳しいことは知らないけど、先生は結構その業界では名の知れた人だそうだ。つまり、先生の名誉のため、私は暑い中、制服を着てトロトロと歩かされているわけだ。
 学校はわりと近所で、徒歩区域。自転車でも行けるのだが、ここら辺は坂道が多い上に土手まであってむしろ歩いた方が早いし疲れない。でも、それは普段ならの話。こんな暑い日には自転車で回り道した方がよかったかもしれないと、私は後悔し始めた。
「よくこんな暑いなかテニスなんか出来ることだ」
 姉は午前中にはもう部活に出かけた。今日は一日中部活の日。今は大体二時位。かれこれ五時間位やっていることになる。夏休みの間ほとんどを家の中でのんびりしていたからか、体力が落ちたらしい私は家を出て二十分と歩いてないのにもう諦めかけている。それに比べたらこんな暑い中で部活にいそしんでいる人達は皆超人だ。
「はぁ、やっと着いた」
 黒く染め直された鉄の門。開け放たれているそれもダルそうに私を迎えた。
 仕方ないから通してやるよ。暑苦しいから早く通んな。
そう言っているように思えた。
 悪いね。
心の中で答えながら門を通った。

 校舎に入れば涼しいだろうという期待は容易く裏切られた。廊下は外とあまり変わらない。とにかく暑い。塗り直した白い内装も光を反射して余計暑く感じた。
「冷たい飲み物くらい出してくれなきゃ割に合わないよ」
 先生の顔を思い浮かべる。あの人ならなんとかすれば茶菓子付きで麦茶か何かを出してくれるかもしれない。一度そう思うと、もう頭では先生と麦茶と茶菓子がイコールで結ばれたまま離れなかった。
「仕方ないか」
 私は軽い足取りで長い廊下を歩き始めた。
「あれ? 智花ちゃん」
 聞き覚えのある声にドキリとする。そっと振り返ると、そこには長谷川先輩。本当に部活中なのかと疑うほどに、あまり汗ばんではいない。
「やっぱりそうだ。後ろ姿が牧原そっくりだから」
「当然です。私も牧原なんですから」
 何となくムッとした。
「まぁ、そんな細かいこといいじゃないか」
 チャンスだ。
不意に誰かが語りかけた。と同時に私は口を開いた。
「細かくなんかないですよ。牧原じゃあ区別がつかないじゃないですか。今度からは姉のことも下の名前 で呼んで下さい」
「いやそんなこと言われても」
 明らかな狼狽。後もう一押しだ。
「恥ずかしいのはよく分かります。でも、姉だって本当はそう思ってるんですよ」
「そう」
 よし、かかった。自分でもニヤリとしているのが分かる。
「はい。多分、いや絶対そうですって。だって姉は先輩のこと家では孝俊君って呼ぶんですから」
「それ本当か」
 呆れたように疑いの目を私に向ける。
 嘘は言っていない。でも姉がそう呼んだのはたった一度きり。気の弛んだ姉が、ポロッと溢した一言。姉はすぐ修正したが、私は聞き逃さなかった。うっかりした言い間違いに本心が隠れている。どっかの心理学者もそう言っていた。言うなれば、私は姉の代弁者なのだ。
「本当ですよ。妹の私が言うんですから」
「でもなぁ。この間のこともあるし」
 この間のこととはあの花火大会での冗談のことだと、ちょっと間を置いてから気づく。
「嫌なら別にいいんですよ。姉も本当にそう思ってるかは分からないですもんね」
 私はサッと体を反転させた。
「別に嫌っていうわけじゃないけど。ただ慣れてないから。女子を名前で呼ぶの」
 ボソボソと言っている。
「私のことは智花ちゃんって呼ぶのに?変じゃないですか」
 先輩に背を向けたまま言った。
「訂正するよ。同年代限定だ」
「なら、お姉ちゃんはかわいそう。たったそれだけの理由で私と差つけられちゃって」
 ポロリと、溢れた。
「ん? 今なんて言った」
 いつの間にか私のそばに立っていた先輩が、私を覗き込む。あまりにも急で、思わずたじろいだ。
「どうした」
「え、いや何でもありません」
 花火大会の時は暗くてよく分からなかったけど、明るいところで改めて見ると、姉が惚れたのも無理ないように思えた。絵に描いたような好青年。第一印象、いや花火大会の時を含めると第二印象か。とにかく見た目の印象はそんな感じだった。性格も良さそうだ。少なくとも、意地悪そうには見えない。それに私の姉が選んだ人なんだから、きっと人一倍優しいに違いない。
 この人なら本当にお義兄さんになっても構わないな、と心から思った。でもなぜだか、妙な感じがする。無計画に大きく掘りすぎた落とし穴を必死に隠すような、そんな焦燥感。ただ、私の心臓だけはそんな私を無視してドクドクと鼓動していた。
「とにかく、今度から姉のことは春花って呼んで下さい」
 先輩から目をそらし、私は一語一語はっきりと言った。
「ああ、わかった。最初のうちは慣れないかもしれないけど、何とかやってみる」
 頭をかきながら、笑って言った。
 よくやったな。
さっきの誰かがそう囁いた。
 これは一体、誰のためだったのだろう。
そう考える自分がいた。

「ところで」
 今までの話にピシャリと終止符を打つように先輩は言った。
「智花ちゃんは何の用が」
「レポートの提出です。あと、お菓子――」
「お菓子?」
「いやいや、先輩こそおかしいなぁって。今は部活中じゃないんですか」
 先輩の顔を見ずに言った。漫画のワンシーンみたいだ。
「俺はあれ。ちょっと教室に用事があって」
 先輩はぎこちなく言った。部活中に教室に用事が出来るのか疑問だったけど、部活をやっていない私には分からない用事があるのだろう、と勝手に解釈しておいた。
「じゃあ途中まで一緒ですね」
 教員室は二階、二年生の教室は三階。階段はこの長く白い廊下の先にある。
「そういうことになるね」
 ちらっと先輩に視線を当てて、すぐに前を向いた。私は黙って一歩踏み出した。先輩の動く気配がする。
 廊下を半分も行ってないのに、汗が額に滲みでてきた。私の心臓は大きく波打ち、目が拍動するのも感じる。それに反して地面の感触を伝えない足。廊下がどこまでも続いていくような錯覚。白い塗装がやけに眩しい。私達は一言も話さず長い廊下をスタスタと歩いていった。
 目の前に階段が立ちはだかる。一段一段上がる度にトクントクンと心臓が音をたてた。先輩は私の歩調に合わせてついてきている。踊り場で足が止まる。手摺に体を預けた。窓からの日差しが私を突き抜ける。ふっと光が遮られた。
「智花ちゃん、大丈夫? 熱中症か何かなんじゃ」
 優しい声。その声に顔を向ける。窓を背にした先輩の表情は暗くてよくわからなかった。
 でも、痛い位の強い日光を背にした彼に、荘厳さに似た何かを感じた。そこには、私がずっと憧れてきた姉の姿にも通じるものがあった。
「はい、大丈夫です」
 私はスクッと両足でしっかり地面を踏みしめた。
「最近運動不足なんで、ちょっと疲れただけですから」
 そうは言ったものの、まだ頭痛がするし、全身がだるい。心臓もその激しい運動を抑えようとしなかった。
「でも、顔もすごく赤いし」
「ただの日焼けですって。そんな心配しないでください」
 ははっと笑いながら、踊り場から階段へと足を踏み出した。
と、私は思っていた。
 私の上げた右足は虚しく宙を踏み、その予定外の行動に反応しきれなかった左足がバランスを崩す。
ふらぁっと頭が回る感覚。さっきまで急な坂として立ちはだかっていた階段が、足元で断崖絶壁と化し、視界の下方へと消える。
 薄汚れた天井。背中に柔らかい感触。暗闇に支配されていく視界。薄れていく意識のなかで響く誰かの声。それは私を呼ぶ声。姉にしては低い。かといって姉以外に私を呼び捨てにするような人はこの学校にはいない。
その声は私の中で響いて響いて響いて、
プツッと、途切れた。

 ここは、保健室かな。
「よかった。目ぇ覚めて」真っ先に長谷川先輩が話かけてきた。
「急に倒れたからビックリしたよ」
 安堵が目に見えて分かった。ずっと隣にいてくれたのだろうか。
「すいません。迷惑かけて。もう大丈夫です」
 ベッドから起き上がろうとした私を先輩が止めた。
「まだ、ゆっくりしてなって」
「でも私レポートを出しにいかなきゃ」
「あ、それなら」
 そう言って先輩は私の学生鞄を持って見せた。
「俺が代わりに出して来たよ」
「えっ。それじゃあ、鞄の中」
 私は先輩から鞄をひったくった。比喩ではなく顔から火が出ていそうだ。
「えっ。俺、お節介だったかな」
「いや、そんなことないです。わざわざありがとうございました」
 鞄に顔を埋めた。
「あ、そうだ」唐突に先輩が言った。
「ちょっと待ってて」
 そう言い残し、仕切りの向こう側へ出ていった。上半身だけ起こして右側にある窓を見る。そこには真っ青な空が広がっていた。あれからそれほど時間は経っていないようだ。窓は開いているけれど、それほど暑さを感じない。四分の一ほど窓を塞いでいる白いレースのカーテンが、時折風を運んでくる。
 先輩が帰ってきた。両手に何か持っている。
「はい、これ」
 差し出されたものを慎重に受け取ればそれは缶のオレンジジュース。
「あの、これは」
 先輩の顔を見上げる。
「ああ、冷たいものが飲みたいかなと思って。レポート出す序でに自販機で買って、保健室の冷蔵庫に置いといたんだ」
 缶に付いた水滴で持った手が濡れる。冷えた缶ジュース。冷たさを通り越してほんのちょっと温かい。
「でも、奢ってもらうわけには」
「ああ。お金ならいいよ。先生がくれたから」
「あ、そうなんですか」
 少し、期待外れ。
「それから、こっちも先生から」
 そう言って先輩が差し出したのは、皿に乗った水羊羹。
「これを先生が」
 空いている方の手で受け取る。まさか本当に茶菓子をくれるとは思わなかった。
「そ。俺が頼んだんだ。お菓子も欲しいだろうなって思って」
 いたずらっぽく笑う先輩。
「オレンジジュースと水羊羹じゃあ普通合わないですよ」
 両手にあるものをぼーっと眺めながら言った。私の熱がそれらに吸い込まれていく。
「ごめん。嫌なら別の買ってくるよ」
 心底すまなそうに私を見つめていた。私はゆっくり首を振る。
「いえ、嫌じゃないです。今はこれが最高の組み合わせですから」
 先輩に向かって、自然と笑みが溢れる。
 サワッと葉の擦れる音。
窓から入ってきた涼しい風がカーテンを翻し、私の髪を撫でて、彼の前髪を揺らす。
「そう。ならよかった」
 そう言って先輩は脇にある椅子に座った。水羊羹を、膝に載せた鞄の上に一先ず置く。
「じゃあ」
 カチッと缶を開けて一気に飲み干した。自分でも驚くほど喉が乾いていたことに気づく。その様子を見ていた先輩が吹き出した。
「何かおかしいですか」
「いや、別に。ただ、あんまり組み合わせとか関係なさそうだなと思って」
 言われてみればそんな気もした。
「いやいや、先輩。ジュースの味が口の中で残るから、必ずしも関係ないとは言えませんよ」
「そんなものかな」
「そんなものです」
 きっぱりと言ってのけた。
「そういえば先輩。部活は? さっき言ってた用事はもう済ませたんじゃないんですか」
 空き缶と水羊羹を取り替えながら聞いた。
「ああ、実は用事ってのは嘘でさ。ただちょっとサボろうかなって」
「先輩みたいな人でもサボったりするんですね」
 水羊羹をヒョイと一口食べてから言った。
「別に練習が辛いとかじゃないんだけどね」
「そうなんですか」
 もう一口。
「ああ。ちょっと休憩しようと思ってコートから出たんだ」
 三口目。
「そしたら」
「智花」
 突然のはりさけんばかりの大声に、私も先輩も怯えに似た表情で同時に顔を向ける。そこには息を弾ませ、顔を赤くほてらせた姉が立っていた。
「お姉ちゃん、ビックリさせないでよ」
 部活を抜け出してきたのだろうか。
「智花が倒れたって聞いたから、私、」呼吸を整えている。
「それより大丈夫なの」
 まだ少し息が荒い。
「全然大丈夫だよ。見てわからない」
 上から下までゆっくりと注意深く私を見た。
「まぁ、見たところは大丈夫そうだけど」
 やっと落ち着いたようだ。
「ところでさ」
 状況をよく把握しきれていなかったらしい先輩が割り込んできた。
「えっ、何で長谷川君がここに」
 やっと気づいて、再び顔を赤らめる姉。忙しい人だ。
「あ、俺は妹さんが倒れた時に偶々居会わせたんだよ」
 どことなくぎこちない口調で説明している。
「それじゃあ、智花をここに運んでくれたのは」
 私も今更ながらそれに気づいて御礼を言わなければと先輩に顔を向けると、先輩が視線を送っていることに気付いた。何かを決意したような目に私は軽く頷いた。それを見て、先輩が姉に視線を戻す。
「ところで、春花は何で知ってるんだ」
「え、ああ。さっき保健の先生が教えに来てくれて」
 さすがはKY。てっきり慌てると思ったのに、無反応なんて残念だ。先輩も姉の意外な反応に安心して良いやら困っていいやら複雑な心境らしい。さっきから私を横目で見ている。
「さてと」私への非難をやめて先輩は立ち上がった。
「俺は部活に戻るか」
「本当にありがとう」
 姉が深々と頭を下げる。
「そんな。当たり前のことをしたまでだから」
「でも、もし長谷川君がいなかったら」
「そんなこと考えたって仕方ないだろ。それよりもさ、気をつけろよ、春花も」
 そう言って先輩は足早に去っていった。
「今なんて」
 姉が振り向く。しかし既にそこには先輩の影もなかった。ゆっくりと姉が私に顔を向ける。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
 甘ったるい声。嬉しいのか怒っているのか、はっきりしてもらいたい。サッと水羊羹を差し出す。
「これ、食べない」
 おまけに、ニコッと笑って見せる。姉は不満そうながらも、ヒョイと最後の一つをつまんで口に入れた。
「全く、しょうがないな」
 モゴモゴしながら言う。
「とりあえず、座れば?」
 姉は素直に、チョコンと腰かけたのだった。

 保健医が帰って来た。まだ二十歳後半の若い女の人だ。
「随分元気そうね」
 私を見るなりそう言って笑った。
「先生、妹は結局。」
 姉が訴えるような眼差しを向ける。
「ああ、見たところもう大丈夫みたいだし。軽い熱中症と貧血だったんじゃないかと」
 何て適当な人だろう。だけど、そんな適当な診断にも姉は、比喩ではなく本当に胸を撫で下ろしていた。私ももう帰りたかったからいいのだけど。
「それじゃ、もう帰る」
「そうだね。私も寝疲れたし」
 ひょいとベッドから降りて、スクッと立ち上がって見せる。
「ちょっと校門で待ってて。すぐ行くから」
 そう言い残し保健室を出ていこうとする姉を引き留める。
「お姉ちゃんも帰るの」
 姉が怪訝そうな顔を向ける。
「まだ部活があるんじゃ」
「何言ってんの。倒れた人を一人で帰せるわけないでしょ」
「私なら大丈夫だけど」
 姉の強い姿勢に怯む。
「そういうわけにはいかないの。それとも、そんなに私と帰るのが嫌?」
 私はうつ向き加減で首を振った。それを見て姉は満足そうに出ていった。その足音が聞こえなくなるまで見送る。
「あ、そうだ先生」
 保健医に空の皿を預け、呆然としているその人を後に残し保健室を出た。

 黒塗りの門が赤く染まり始める。
 随分と涼しくなってきたねぇ。さあさあ暗くならない内に早く通りなって。
 ごめんね。あとちょっと待って。
そんな会話を幾度か交しているうちに、ようやく姉が現れた。
「ごめんね、待たせて。意外と時間かかっちゃった」
「別に平気だって。あと一時間位は待てたよ」
 息を切らして走って来た姉を咎めることは出来なかった。
「そう。ならよかった」
「早く帰ろう」
「そうね」
 そう言ったにもかかわらず、進む素振りもみせない。ただ私を見て柔らかい笑みを浮かべていた。
「どうかした」
「ううん。別になんでも」
 そう言うなり歩き出す姉。私も慌て歩き出す。
 ようやくお帰りかい?随分長いこと待ってたじゃないか。
 そ。暇つぶしの相手になってくれてありがとね。
 お安い御用さ。
 それじゃ。
 ああ、気をつけるんだよ。
門を抜ける。

 目の前では橙色の夕方が藍色の夜に侵食されていく。
 徐々に徐々に じわりじわりと。
 両者の間を淡白く輝く光がぼんやりと通り抜け、雲がどちらの味方をするでもなく漂う。
 ひぐらしが歌い、遠くからコオロギの伴奏が聞こえる。
 その音色はまるで夜の訪れを讃えるように、晩夏の静かな街中に響く。

その旋律が、やけに耳について離れなかった。


       四

「はい、牧原さん。ほんと助かったよ。ありがとう」
 友達に貸したノートが返ってきた。ついこの間二学期が始まったと思ったら、秋は急ぎ足で過ぎていくもので、気づいたらもう中間テスト一週間前をきっている。普段授業を聞いてない人達が落ち着きなく右往左往する期間に入った。このノートも今までに何人の手に渡ったことか。やっと手元に戻ってきた水色のノートが愛しくて、その表面を撫でた。
「役に立ってよかったよ」
 私はその友達に言った。
「役に立つどころじゃないのよ。あなたのノートってば細かいとこまできちんと書いてあって。コンクールがあったら絶対優勝よ」
 横からニュッと割り込んできて、敏江が真顔で言った。敏江はこの学校に来て初めて話した友達。ショートヘアーで勝気な目をした、良くいえば活動的な、本人が嫌がるであろう言い方をすれば男勝りな人だ。でも、不真面目というわけではなくて、授業はむしろ熱心に受けているのに、なぜだかノートを真っ先に借りていくのは敏江だった。
「そんなことないって。誉めすぎだから」
「いいや、絶対優勝するわ。ノートの神様に誓って」
 真顔で言う敏江を見て頬が弛む。つられて敏江も表情を弛めた。
「もしノートの神様がいたらどんな人だろうね」
「きっとそれは」ニッと敏江は笑った。
「商人よ」
 そう言って去っていった。その謎の言葉を理解できない私を残して。何でノートの神様が商売してるんだろう。ただ真剣にそう考えていた。

 放課後、みんなせかせかと帰り始めるなか、私はのんびりと荷物を鞄につめる。今更その差が何を産むでもない。最後に筆箱を入れたところで浅沼美奈さんという、こちらはあまり話したことのない同級生がおずおずと話しかけてきた。肩まで伸びた茶色がかった髪の毛。気が弱そうには見えないけれど、きっと慣れないことに緊張しているのだろう。
「あの、牧原さん。この後空いてる」
「うん、何もないけど。何で」
「ちょっと」
 キョロキョロと周りを見て、声を忍ばせて言った。
「相談に乗って欲しいことが、あって」
 美奈さんは申し訳なさそうな目で私を見ていた。その目は初めから私に選択肢を一つしか与えていなかった。
「あの、相談に乗るのは全然構わないんだけど、なんで私なの」
 思ったことをそのまま聞いてみた。
「ええと、敏江から聞いたんだ。牧原さんはとても優しくて、頭がいいから相談するなら牧原さんにしな って」
 高校に入ってまだ数ヶ月しか経っていないのに、私は優しくて頼りになる人という地位をいつの間にか確立していた。別に私は普通に、姉がいつも私にしてくれるように、周りの人達と接していたつもりだったのだけど、それは周りからしてみれば非常なことに思えたのかもしれない。そんな私のところにはしばしば相談がもちこまれていた。ほとんどは敏江を中心とする同級生からだった。
「そう。で、場所は」
 辺りを見回した。さっきまで何人かがせっせと帰り支度をしていたのだが、気付いたら教室には私達だけになっていた。
「ここでいいかな」
 美奈さんに顔を戻す。彼女は黙って首を縦に振った。向かい合うように椅子を置いて座る。どんな足音も聞き逃さないようにドアは開いたままにしておいた。まぁ、今から来るといったら見回りの人位だろうけど。
「それで、相談っていうのは」
「えと、本当によくあることで逆に恥ずかしいんだけど」
 初めは私の方を見ていた顔が段々と下がっていく。
「好きな人が、いてさ」
 うん。確かに。きっと悩み事コンクールがあれば優勝するだけじゃなくて、殿堂入りまで果たすかもしれない。それはつまり、一人では解決できないことであるということ。
「そう。それは良いことじゃない」
「全然よくない」
 うつ向いたまま首をふった。
「どうして」
「だって試験前なのに。まさに恋煩いですよって感じで。その人のこと考えてなくても考えてる自分がい て。ふとした瞬間にドバッて襲ってくる。お前には何か大切なものがあるんじゃなかったのかって。もう私は嫌で嫌で堪らなくて。逃げだしたいほど嫌なんだけど、でも離れたくもなくて」
 話しているうちに、涙声になっていく彼女。
「そっか」
 私には純粋に恋愛に関してはそれしか言えない気がした。ずっと姉の陰だけを追いかけていた私にとって恋愛なんて無縁のものだった。
「随分と、辛いものなのね。男子が好きになるって」
 顔を上げた美奈さんがうるんだ瞳を丸くして私を見た。
「牧原さんはそういったことないの」
 少し憐れみのこもった声。
「うん。まぁ、色々とあってね」
 さっとあの日の影が頭をよぎる。私はそれを振り払うようにテヘッと笑って見せた。
「それよりも今はあなたの相談を聞いてるんだから。大丈夫。恋愛経験はなくても、あなたの力になるくらいは出来ると思うよ」
「ありがとう」
 彼女がやっと笑った。まだぎこちないけど、精一杯笑ってくれた。
「ところでさ。恋愛で悩むってどうしてなんだろうね」
「どうしてって。それはやっぱり、好きな人のことで頭が一杯になるからじゃないの」
「それって、私からすれば幸せなことに思えるんだけど。だって、好きな人のことを考えるって本当なら 楽しいことじゃない。違う」
「でも、その人のこと考えると、陳腐な言い方かもしれないけど、胸が苦しくて。なんだか周りのことが どうでもよくなって。ボーッとして。普段の生活も辛いんだよ」
「ちょっと待って。胸が苦しいのと、普段の生活が辛いって感じるのはなんか違うんじゃ」
「そうかな」
「よく考えてみて。その間に何かあるんじゃない」
 不審そうな目線をちらと覗かせながらも、彼女は考える素振りを見せた。
「どうだろ。よくわからない」
「じゃあ私が疑問に思ってることを聞いてもいい」
 彼女はコクッと頷いた。窓の赤い陰が教室の床から壁にかけて長く伸びてゆく。
「まず、あなたは彼のことが好き」
「もちろん」
「でも、彼のことを考えると幸せじゃない」
「そんなことあるわけないでしょ」
「じゃあ、あなたの感じる胸の苦しみは彼が好きだから」
「そんなの当たり前でしょ。一体どこに、好きでもなんでもない人のこと考えてそんなふうに胸を痛める 人がいるの」
「そうだね。その通りだよ。あなたは彼のことを考えるのが幸せで、彼のことを考えて胸が苦しくなる。 もしその通りだとしたら、その苦しみは幸せな気分からくることになる。違うかな」
 彼女はゆっくりと首を縦に振った。彼女自身もそのことは感じていたのかもしれない。
「次。周りのことがどうでもよくなって、ボーッとするって言ったけど、それはあなたにとって辛いこと」
 あなた、を強調して言った。
「そうね。食欲が出なくて家族も心配してくるし、勉強も手につかないから成績も下がっちゃうし」
「それが辛いの」
「うん」
「家族が心配してくれたら嬉しく思う人もいるし、成績が下がってる人でも気にしてない人達もいるけど。 その人達とあなたはどこが違うの」
「うーん、そうだなあ」
 数分の間天井を見上げて、再び私を見る。
「私の場合は基本的に家族に心配かけるのが嫌なのかな。成績のことだって、自分のこともあるけど結局 は親に心配かけることになるし」
「親に心配かけるののどこが嫌なの」
「もちろん」彼女は晴れやかに笑った。
「家族が大切だから。家族が大切だから、私なんかのことで不安になんかなってほしくない」
「そっか。ならあなたの感じる辛さは家族を大切に思ってるからって考えていいんじゃないかな」
「そうだね。でもそうするとおかしい。好きな人を考えることが大切な家族に邪魔されてる形になってる」
「あなたの言う通りだと私も思う。どっちかをきっぱりと諦められればいいんだけど」
「そんなことできるわけないでしょ」
 声をあらげる。その声は、二人っきりの教室に良く響いた。彼女の赤茶けた瞳は、私を力強く見据えていた。
「もちろん。誰も出来るなんて思ってないよ」彼女の瞳に笑って応える。
「それにね。問題はもっと根本的なところ。やっぱりあなた自身にあると思う」
「私?」
 彼女は自分を指差した。私は黙って頷く。
「あなたは、恋愛とか青春とかってどんなものだと思う」
「口に出したら恥ずかしい。そんなものね」
 きっぱりと言った。
「なんで」
「だって、私青春真っ盛りですって言ったら笑われるわ」
「あぁ、私にもこんな時があったわって」
 女学生と呼ばれていた時代を思い出して話す大人の様子を想像して真似した。
「そ。あ、あの子青春してるなぁって」
 彼女は高校生の真似をして返した。私達は笑いあった。堅い話で体が笑いに飢えていたように、私達は中々笑いを抑えられなかった。
 その笑いが体の隅々まで潤していくようだった。

「つまり私は、あなたが恋愛に対して恥ずかしく思うところがあるからだと思うんだ」
 笑いをようやく抑え、まだ少し痛むお腹を撫でながら言った。
「家族が大切だから心配かけたくない、確かにそれもあると思うし、大部分はそうかもしれない。でもね、 あなたはどこかで嫌だって思ってない?家族にそんな目で見られることを」
「懐かしむ目?」
 彼女も脇腹を抑えながら言った。
「そう。でね、勉強のことはまた違う。勉強の時に感じる辛さは自分自身への怒りからきてると思う」
「自分自身への怒り」
 納得のいかないように首をかしげる。
「勉強は高校生だからやらなきゃいけないこと。でも、恋愛がそれを邪魔する。あなたにとって恋愛が原 因で勉強できませんっていうのは恥ずかしいから勉強したいんだけど、それでもやっぱり恋愛に傾く自 分を見て、恥ずかしくもあり、情けなくもある。そんな感じかなぁって思って」
 彼女はうつ向いて考えごとをしているようだったが、やがて顔を上げ、私を見て笑った。彼女の顔に夕日が当たり、さっきまでの子供っぽい晴れやかな笑みが、角を削られて少し表面が滑らかになった石のような、柔らかな微笑みへと変わった。
「やっぱり牧原さんってすごいね」
「ただの慣れだよ」
 彼女は静かに否定した。
「牧原さんにしか出来ないことよ」
「そうかな。そうだと嬉しいかも」
 ちょっと照れくさい。そんな私を彼女はずっと同じ表情で見つめていた。
「さてと」彼女はスクッと勢いよく立ち上がった。
「相談に乗ってくれて、本当にありがとう」
「でも、私まだ何もアドバイスしてないし」
「あそこまで言ってくれれば十分だよ。本当に牧原さんがいて助かった」
「どういたしまして」私も笑いかける。
「またいつでも相談に乗るわ」
「それじゃあ、バイバイ」
 鞄をさっと持ち上げ、クルッ背を向ける。
「あ、そうだ」
 顔だけ私の方に向けた。
「牧原さんはどう思うの」
「何が」
「恋愛とか青春とかについて」
「離れようと思えば思うほど近くなるもの、そんなところかな」
「ふ~ん。何だか難し」
 再び前を向く。
「でも、分かる気もする」
 そう言い残し、彼女は教室を出ていった。
ピンッと伸びたその背中が私の目には頼もしく映ったのだ。

 校門の所で姉達に会った。鈴原先輩、安堂先輩とはそこで別れ私と姉は久しぶりに二人きりで下校した。いつもは部活があって一緒に帰ることなんてないのに、珍しいこともあるもんだ。
「なに笑ってるの」
「お姉ちゃんと一緒に学校から帰るなんて久しぶりだなって思って」
「そういえばそうね。今日は随分遅いけど何かあった」
「ちょっとね。友達と話してた」
「そっか」
 姉は何だか満足そうな表情を浮かべていた。
 空は雲に覆われ月明かりさえも届かない夜。それきり私達は何も話さずゆっくりと並んで歩いた。ほんの少しでもいい。なるべく長く、こうやって姉の近くにいたい。
 目の前の道は電灯の弱々しい光に照らされ、余計にその暗さを強めていた。
 虫の合唱  猫の鳴き声
私の体は自然と姉の方に寄っていった。

「ただいま~」
 先に着いてドアを開けた姉より早く、家に入り込む。返事はなかった。後ろでドアを締める音。
「どうしたの」
 沓抜で立ったままの私に姉が訝しげにきいてきた。
「うん。いつもならお姉ちゃんが帰ってきたらお母さん、顔出すのになぁと思って」
 家にいないわけではなさそうだ。正面にある居間へと通じるドアのガラスから暗い廊下に光が漏れている。そこの電灯は、切れてもいないのに母が急に新しいものを買ってきて、白っぽいのから暖色のものに変えたのだった。明るい柔らかな光。それでも家の中はひっそりとしていて、まるで人のいる気配がない。
「そうね。お母さんはとっくに帰ってる時間だし。あれつ」玄関の電気をつけた姉。
「お父さんも帰ってるみたい。靴がある」
 姉に言われて初めて足元を見る。綺麗に揃えられた新品の革靴。前のがボロボロになったわけでもないのに、父が買ってきたものだった。それは居心地悪そうにちょこんと並んでいた。
「珍しいね。お父さんがこんな時間に帰ってくるなんて」
 父はいつも私達が寝た後に帰って来る。そして大抵、私達が起きる時には既に出勤した後だから、私達が父と会うのは土日くらいなもの。平日に父と顔を会わすなんて今日の私達以上にありえないことなのだ。
「そうね。さぁ、ほらいつまでつっ立ってんの早く上がってよ」
「あ、ごめん」
 私は急いで靴を脱ぎ家に上がった。脱ぎ捨てられた靴の音が廊下に響く。私はいつものように真っ直ぐ居間に向かった。
 ドアを開けた途端、私はその場の空気に息が詰まりそうになった。夕食が待っているはずのテーブルの上には何もなく、父と母がじっと向かい合って座っていた。二人の視線は何もないテーブルの一ヶ所に注がれている。ポンと、後から来た姉が肩に手を置く。仰ぎ見みると、姉は唇を固く結んでいた。
「あ、春花、智花帰ってたの」
 母が顔を向けて弱々しく笑った。
「うん。たった今。」
 そう答えた私の声は、微かに震えていた。
「二人とも。話があるから座りなさい」
 腕を組んだまま父が言った。父は古風なわけではないけれど厳格な人で、小さい頃は苦手だった。それでも今ではすっかり慣れていた。そんな私が今父を怖いと思う。今日の父は何かがいつもと違うのだ。
「そんな、あなた。いますぐじゃなくても」
 母が慌てて言った。父は黙って首を振る。
「座りなさい」
 父が私達を睨むように見た。背筋に悪寒が走る。部屋に逃げ込みたい衝動に駆られた。
「智花」
 頭の上から静かな、それでいて力のこもった声が聞こえた。背筋に走っていた悪寒は、肩に置かれた姉の手に吸い込まれるように消えていった。
「行こう」
 私は姉に促されるまま母の隣に座った。母は膝に載せた手を握りしめ、黙って俯いていた。私が座ったのを見て、姉は父の隣に座る。
「話っていうのはな」父がおもむろに話し始めた。
「父さん達、離婚することになったんだ」
 言い終るか終らないかの内に母が泣き崩れた。私にはどうすることもできなかった。ただ、呆然と父の言った単語の意味を頭の中で探した。いくら探しても、その言葉は嫌な意味しか持っていなかった。
「それで、お父さん。離婚っていつになるの」
 姉は冷静だった。私にはその冷静さが非情に思えた。
「まだ正式に決まった訳じゃないんだ。ただ母さんとはその方向で話がついてる」
 父は相変わらず物静かに言った。その姿はどこか姉と似ている。
「そう。それで、私達はどうなるの」
「春花と智花についてはまだ決まってない。父さんも母さんもお前達二人を引き取りたいと思ってる。き っと審判になると思うよ」
「なら、実際の離婚はもっと先ね」
「そういうことになるな」
 私はただ黙って二人を交互に見ていた。二人の間に交わされたやり取りはほとんど頭に入って来なかった。なんだか、テーブル越しの二人が遠く感じて、もしかしたら全部夢なんじゃないかと、思ってしまったりもする。夢であったら、と。しかし隣から聞こえてくる母のすすり泣きは、夢としてはあまりにも現実的に響いていた。
「ごめんね」
 唐突に母が声を出す。その濡れた声は、隣にいても聞き取りにくかった。
「そんなことないよ。泣かないでお母さん」
「でも」
「私達なら大丈夫だから」
 ねっと言って私に笑いかけた。その笑顔はテンプレートのように無機質で、固かった。私はそれに黙って頷くしかない。現実には、それしかできない。
「話が済んだから行こっか、智花」
 コクンと頷く。姉の声は、暖かな明るい光で満ちたこの部屋で、また違った異様な明るさを帯びていた。私は椅子から立ち上がり、私達の部屋に一歩ずつ進んでいった。何かから私を守るように、姉が後ろからぴったりとついてきてくれた。
 ふと見上げた時、姉は固く唇を噛み締めていた。

 部屋に入る。姉もすぐに入ってきてドアを閉めた。電気のついていない部屋は真っ暗でほとんど何もみえなかった。不意に全身の力が抜ける。支える力を急速に失った足。私は必死に力を込めた。足が震えた。立っているのがやっとだった。姉も何も言わず後ろに立っている。どうしようもなくて、私は力を振り絞って姉にしがみついた。暗い部屋の中で姉の温かさだけは確かに感じた。
「私。お姉ちゃんと離れ離れになるのは嫌だ。お姉ちゃんだけじゃない。お母さんもお父さんも皆一緒じ ゃなきゃ」
 姉は静かに頭の上に手を置いた。その手は微かに震えていた。その震えに呼応するように、涙は私の意に反してどっと溢れてきた。ギュッと姉にしがみつく。涙は私の目から離れ、姉の制服の左胸に染み渡っていった。姉は何も言ってくれない。

 静まりかえったこの部屋。
 聞こえるのは私のすすり泣きと季節外れの風鈴の音。
 たった、それだけ。


       五

 中間テストは散々だった。あれからやる気が全くでなかったから当たり前だ。机に座ってもただボーッとしているだけ。テストの文字はインクの染みにしか見えなかった。それは姉も同じらしい。勉強はしていたけど、シャーペンの音には重みがなかった。そんな私達を母は怒るでもなく、いつも通り接した。それが余計に自分の置かれている立場を思いしらせた。
「牧原さん。どうかした」
 話しかけられてはっと我に返る。空は赤く染まり始め、教室にはもう誰もいなかった。声のした方に顔を向ける。そこには美奈ちゃんがいた。
「何か悩み事でもあるの? もしかして、私と一緒? それなら相談にのるよ」
 目を輝かせていた。あの日のことを思い出して、すこしほっとする。周りは何も変わってない。いつものように日常が繰り返されていて、その中に殿堂入りの悩み事なんかがちょっとしたスパイスをきかせる。そんな日常の流れの中に、私はまだ足を突っ込んでいるんだ。
「ううん。残念だけど違うよ」
「そう。でも牧原さん最近なんかおかしいからさ。授業中も上の空で。私に出来ることなら相談にのるよ」美奈ちゃんはグッと目に力を入れて私を見ている。あの時の頼もしい背中が頭に浮かんだ。
「ありがとう。それじゃあ、聞いてもらおうかな」
「うんうん」
 再び目を輝かせる。私の悩みを語る。それは川の流れに浸した足を陸にあげるくらい簡単なことなのだ。簡単なことのはずなのに、足には水滴がこびりついて中々離れてくれない。風が吹こうものならゾクゾクっと寒くて、足の裏は泥だらけ。
「実はさ、両親が離婚することになってね」
 私はこみあげて来るものをとっさに堪え、その勇気ある言葉を何とか言いきった。

それなのに。

「そっか」
 ロウソクの火を吹き消すようにあっけなく、彼女の目から光が消えた。
「ごめんね牧原さん。私じゃ役に立ちそうもないわ。私が助言するには重すぎるし、何と言っても私自身 がうすっぺら過ぎる。ここで私がなにか言ったら、逆に牧原さんが悩んじゃうかもしれない。だから。ごめん役に立たなくて」
 彼女は用意された原稿を読み上げるように、よどみなく口に出した。
「気にしないで。私自身が解決しなくちゃ意味のないことだから」
 ニコッと笑って見せる。
「ホントにごめんね」
 そう言って足早に立ち去る彼女の背中。それでもやっぱり私の目には『頼もしく』映るのだった。
「私も帰ろ」
 力なく鞄を手にとる。
 悩み事のある人というのは皆大概、自分の答を既に持っているのだ。けど、彼らはそれに気付いていないか、無意識に拒絶している。そして悩む。だから私は彼らに彼らの言葉で語りかけるだけ。私自身は何の答も持っているわけじゃないんだ。だから私だって悩む。
 でも、鏡は鏡自身を映せない。所詮、私はただ一つ部屋に置かれた鏡に過ぎないんだ。

 外はもう薄暗く、緑の木々は教員室の明かりを頼りにその存在を示していた。残念ながら光の恩恵にあずかれていない花壇の植物を横目に見ながら歩いていると、校門のところで鈴原先輩と安堂先輩に会った。
「よ、 智花ちゃん。こんな時間にトボトボ歩いて。なんかあった」
 鈴原先輩の快活な笑い顔を見るとなんだか緊張がほぐれた。
「いえ。ただお腹空いたなぁと思って」
「そっか。安心したよ。春花の妹のことだから、何か一人でしょいこんでるんじゃないかって思ったんだ けど」
 先輩の笑顔はどことなく堅かった。
「期待に沿えなくてすみません。妹は姉と違って神経が図太いんです」
「確かに。先輩に向かっていきなりつっかかってくるとはね」
「先輩ほどじゃありませんよ」
「ま、いいけどさ」
 先輩の後ろから私たちの様子を見ていた安堂先輩がくすっと笑った。
「なに笑ってんの」
「いや、由佳と対等に話してる人初めて見たから」
「いえ。私なんかより、安堂先輩の方がすごいですよ」
 私もつられて笑った。
「へ? 私? 私なんていつも由佳に言われてばかりだし」
 安堂先輩は大げさに否定した。
「全く、春花の妹なのに何でこんなに口が達者なのかねぇ」
 鈴原先輩はため息をついた。
「姉の妹だからですよ」
「それもそうだ」
 先輩はニッと笑った。安堂先輩は何が何だかわからず、ハハハと笑い合う私達をただ交互に見ていた。
「先輩。ところで姉は」
「私は知らないよ。美智子知ってる」
 はっと我に返る安堂先輩。
「あ。え~っと春花ならまだ練習してたよ」
「だそうだ。迎えに行ってあげな」
 先輩は優しく微笑んだ。
「はい。やっぱり、先輩には敵いませんね」
「当然でしょ。でもね、私だって春花には敵わないんだから」
 そうですか、と私は頷いた。
「ほら、さっさと行った行った」
「すいません。それじゃ、さようなら」
 私は先輩達を置いて走った。

ボールが軽く弾む音が木霊している。姉は広いコート内で一人、明かりもない中で黙々と壁打ちをしていた。大声で姉を呼んだ。姉が動きを止めて私の方へ体を向ける。その影からはなんの表情も見えなかった。でも、その肩のシルエットはいつもより垂れ下っているように見えた。
「あ、智花」
 そのシルエットに走り寄った。
「お姉ちゃん、何やってんの。さあ、帰ろう」
 私は姉を確認すると、ニコッと笑った。なんだ、いつもと変わらないや。
「そうね。もうこんな時間。待ってて、今すぐ帰る支度するから」
 姉は柔らかく微笑んだ。
「夏のときみたいに待たせないでよ」
「はいはい」
 そう言って走っていく姉の背中は、いつもより小さく見えた。
 姉の微笑み。一体いつになったら、私もあんな風に強くなれるんだろう。
 どんなに辛くても自然に笑える強さ。私もそんな強さがほしい。
 でも、その笑顔はあまりにも自然だから。作り物の臭いがしないから。
 あまりにも、不自然だった
 作り物が溢れているこの地上に、その笑顔の居場所はないように思えた。
 だからこそ、その笑顔を見る度に寂しかった。
 悔しかった。
 いつまでも姉にそんな笑顔をさせている自分が情けなかった。
 一体いつになったら、あの孤独な笑い方を姉に忘れさせることができるのだろう。
小さくなっていく姉の背中を、私は見えなくなるまでずっと見つめていた。

それ以来、自然に私達は一緒に帰るようになった。その間私達は何も話さなかった。話す必要なんてなかった。ただ、今は一緒に歩いている。その事実だけで良かった。
 それは、乾いた風が時折吹き抜ける季節のこと。


       六

「ね、智花」
 終業式も終わり、何となく帰り支度をしていた私に、敏江が屈託のない満面の笑みをつきつけてくる。
 あの日、美奈に両親の離婚を打ち明けた日の翌日。敏江は私が教室に入るなり話しかけてきた。
「牧原。大変なことになってるんだってね。美奈から聞いたよ」
 無理に笑おうとしているのが明らかだった。敏江の努力に応え、私も同じ様に笑った。
「私何か力になれるかな」
「ううん。気持ちだけでいい。美奈にも言ったけど、私が解決しなきゃいけないことだから」
「でも、それじゃあ私、自分が嫌になっちゃう」
 さっきまでの敏江の笑みは崩れ、その跡地に暗い影が忍び込み始めた。
「じゃあ、一つだけ」
 ポツリと口に出た。
「なに? 一つと言わずいくらでもいいよ」
 笑顔が再び築かれていく。それを見るためなら、なんだって頼もう。
「ううん。一つだけでいい。私のこと、今度から智花って呼んで欲しいなって」
 敏江は口をあんぐりと開けていた。
「そんなんでいいの」
 私はコクリと頷いた。
「私にとっては冒険だよ。駄目?」
 ニコッと笑ってみせた。友達から名前で呼ばれるなんて当たり前のことが欲しかった。私はただの鏡なんかじゃない。鏡は親しく呼ばれることなんてないんだから。「鏡よ鏡よ鏡さん」ってね。いつだって何かをお願いされる。
「そんなことあるわけないでしょ」
「ありがとう」
 始業を知らせるチャイム。
「あ、じゃあ後でね。智花」
「ありがとう」
 私がそう言うと、敏江は照れ笑いを浮かべて自分の席に戻っていった。

 その後一週間もしない内にクラスの女子全員が私のことを下の名前で呼ぶようになっていた。敏江が気を回してくれたのだろう。友人の行為に感謝していいのかどうか正直わからない。確かにクラスとは親密になれた。でも、私は複雑な人間関係に組み込まれざるをえなくなかったから。
 あの人は好きだけど、この人は嫌い。
そんな、感情本位の関係の中に。だけど私は、そんな風には割り切れなかった。かといって、みんな一人一人違う人。日々増していく交流の中でみんな同じように接することはできない。
 だからその日以来、人と接する度に私は新しい仮面をつけるようになった。
 誰にも嫌われたくない
ただそれだけのために。みんなそのことに気付きもせず、目の前にいる私が智花自身なのだと信じ込んでいたようだった。
 それでいい。そうすれば誰も傷つかない。そう思った。

「智花? 何ボーッとしてんの」
 話しかけても返事もしない私を、探るような目で見ていた。
「ごめんごめん。ちょっと考えごとしてて」
「全く、何度も言ってるでしょ? 何かあったら私に言えって」
 あからさまにため息をつく。
「いやいや、違うって。ただ、晩御飯なにかなぁって思って」
「これから昼を食べるっていうのに」
 じっと私を見つめていた。勝気な瞳を向け、眉をへの字に曲げている。
「そんなのいつ考えようが私の自由でしょ」
 照れた風を装ってその視線を流す。
「それもそうね。ま、それはいいとして」
「何?」
「クリスマスパーティーを家でやることになったんだけど、智花も来ない」
 来てくれるよね。
その真剣な眼差しがそう訴えかけていた。
「え、あの本当に悪いんだけど」私は敏江の瞳を振り切って言った。
「実はもう、お姉ちゃん達の方に行くって言っちゃったんだ」
「先輩達の」
「うん」
「先輩達だけで気まずかったりしない」
 敏江は畳みかけるように聞いてきた。その勢いにちょっと戸惑う。
「大丈夫、だけど」
 敏江がそれまでのしかめっ面をやめると、今度は安堵にも似た表情が浮かんでいた。
「そっか。それじゃあ仕方ないよね。ごめんね無駄に気ぃ使わせちゃって」
「謝るのは私の方。ごめん。折角誘ってくれたのに」
「だから、そんな気使いはいらないって言ってんの。ちゃんと楽しむんだよ。それじゃあ、今度会うのは 来年かな」
「そうだね」
「じゃ、また来年。」
「うん」
 教室を出ていく敏江の背中を最後まで見送る。その背中は寂しげだった。でも、どこか嬉しそうに見えたのは私の思い過ごしだろうか。
 私も帰ろうと思い鞄を持ち上げた。けれど鞄が机にくっついて離れない。不思議に思って鞄を見ると、か細い手が置かれていた。その手を辿る。行き着いた先は美奈の必死の形相。
「何?」
「智花。忘れたの? 今日は掃除当番よ」
 言われてみればそうだった気もする。私が当番だってことは敏江もそうだ。私達三人は同じ掃除組なのだから。はっとして、敏江の去っていった方向をみる。そこには誰もいない。
「敏江は、帰ったけど」
「まぁ、帰っちゃったもんはしょうがないし。それより、智花はもう帰っちゃ駄目だから」
 本当に逃がす気はないようだ。その決意の堅さを示すようにニンマリと口の両端を吊り上げている。
 よくよく辺りを見渡すと、他に誰もいなかった。

「あとはこれを捨てたらおしまいっ」
 はい、と言って渡されたものをとっさに受け取る。普段のサボり具合いが伺える見た目とは裏腹に、案外軽いものだ。
「燃える方だけ」
「燃えない方は智花がのんびりしてる間に行っちゃったよ」
「あ、ごめん」
「掃除してくれるだけで十分だから」
「でも美奈ばかりにやらせてるみたいで」
「いいよ、別に。掃除は趣味みたいなもんだから」
 本当に、楽しそうに笑ってる。そんな美奈が羨ましい、と自分の部屋の有様を思い浮かべた。
「私捨ててくるから先帰ってていいよ」
「それじゃあ悪いよ」
「いいから。これから何かあるんでしょ」
 美奈は瞬時に顔を赤らめて黙りこくってしまった。折角早く帰れる日なのに、夕方まで残されてしまったのだから、待たされる方は酷だろうな。
「じゃあ、また来年。いいお年を」
 さらに顔を真っ赤にした美奈をそのまま残し、サッと教室を出た。

 ゴミは一階にある集積場に捨てることになっている。そこはさすがに学校中のゴミを集めるだけあって、かなり広い。普段四十人いる教室二つ分位は少なくともあるように見える。集積場を脱出し、空になったゴミ箱を引きずるようにして教室へと戻っていた時だった。
 昇降口に誰か立っている。
見たことのあるようなその後ろ姿にふと足を止めた。
「鈴原先輩?」
 いつもとどこかが違うけど、鈴原先輩しか思い当たらなかった。私が声をかけるとピクッとその細い肩が動いた。先輩の右手が上がりかけて、すぐに垂れ落ちた。ちょっとしてから先輩は振り返る。
「あ、智花ちゃん」
 差し込む夕陽が先輩の笑顔を包み込んでいて。
「ほら、見てみ」
 間髪いれずに先輩は視線を戻した。私も視線を移す。安堂先輩と藤谷先輩。今度は後ろ姿でもはっきりとわかった。二人は少し間を空けて、ぜんまい仕掛けの玩具のように、並んで歩いていた。
「どう思う」
 視線を二人に向けたまま先輩は言った。
 今目の前にいる先輩は、どうなのだろう。
 巣立った雛を頼もしく見る親の気持ちだろうか。
 かわいい妹が自分の手から離れていくのを見る姉の気持ちだろうか。
 単純に親友の幸せを喜ぶ友人の気持ちだろうか。
 それとも、それらとは正反対の、黒い気持ちを抱いているのだろうか。
私は答えるのが恐かった。先輩の気持ちが分からないからじゃなくて、本当は痛い程分かっているから。だから、何も言えなかった。私はただ、立ち尽くしている先輩の背中を見つめていた。
 その内に先輩達の姿が見えなくなり、それを確かめて、視線をこちらに向けるでもなく先輩が口を開く。
「ごめんね、変なこと聞いて。今のは無しね」
 普段の先輩からは想像もつかないような、静かな口調。
「いいえ」
 私はそれだけで「両方に」答えようとした。出来るだけ声を出したくなかったから。これ以上声を出したら、私も我慢できそうにないから。
「じゃあね。智花ちゃん。今度はクリスマスね」
「はい」
 先輩はそのまま振り返らず、右手だけ軽く振って帰っていった。私はその場で先輩の背中が見えなくなるまで立っていた。
 沈んでゆく夕陽。
 ピュッと木枯らしが吹き荒れる。
 必死にしがみついていた最後の枯葉が、容赦なく地面に叩きつけられた。
 あの二人がどうなるかは私にはわからない。それはこれから二人が決めていくものだと思う。でも、その時先輩達も忘れてしまうのだろうか。
 誰か二人が結ばれた影には結ばれなかった人達がいるってことを。
 二人の縁は二人のものだけではなくて、そういった人達がいて成り立っているってことを。
 だからこそ、その縁は二人が思っているよりも重く、容易く切っていいものじゃないし切れるものでも
 ないんだってことを。
 あの時、並んで歩いく二人を見て、私は自然と違う誰かに置き換えていた。それは長谷川先輩と、隣にいるのは、私とそっくりな、誰か。

「あれ、智花ちゃんまだいたんだ」
 その声に顔をあげると、ぼんやりとした視界に男子の制服を着た人が映る。
「泣いてる、の? 何かあった」
 私は必死に首を振る。
「目にゴミが入って」
 何て古風な言い訳だろうと我ながら呆れた。
「両目いっぺんに」
「そうなんですよ。ほら、ゴミ集積場って埃っぽいじゃないですか」
 言いながら、片目ずつ擦る。視界が一気にはっきりとする。長谷川先輩が眉間に皺をよせて心配そうに私を見ていた。
「もう大丈夫ですよ。その証拠に先輩の精悍な顔立ちがはっきり見えますし」
 ニコッと笑ってみせた。
「そっか。でもどうやらまだ大丈夫じゃないらしい」先輩もぎこちない笑みを見せた。
「あまり、無理はするなよ」
「私ってそんなにひ弱に見えますか」
 空のゴミ箱を持ち上げて見せ付ける。
「俺の思い違いだったみたいだ」
 先輩の笑みが和らぐ。その表情に姉が重なった。
「ところで。まだ掃除してたんだ」
「え、あ、はい。うちのクラス二人しかいなくて、さっきやっと終わったところです。先輩は」
「俺はクラス委員でちょっとした仕事があったから」
「先輩もクラス委員だったんですか」
 思わず声が大きくなる。クラス委員ってことは、姉と一緒で。姉と一緒ということは、今まで先輩は姉と一緒で。今まで先輩が姉と一緒だったってことは、それはどういう意味?私にとってそれは重要だった?
「そうだけど。何で」
「いや、姉もクラス委員なのに何も聞いてなかったから」
 姉から大抵のことは聞いていると思っていたのに、まさかまだ秘密にしていたことがあったとは。確かにそれはちょっとつまらないけど、だからなんだというんだろう。
「別に話すようなことでもないと思うけど」
「まぁ、そうなんですけど」
「それとも俺だと何か不満でも」
「いえ。寧ろ最適です。先輩なら皆さん気兼ね無く頼みごとができそうです。それに姉と違ってボーッと したところがないですし」
「それは誉めてるのか」
「どっちでもないですよ」
 散々考えた挙句、ニヤッと笑う自分がいた。先輩が何か言おうといていたのを遮る。
「ところで姉は? もう帰ったんですか」
「ああ、春花ならもう来るんじゃないかな。なんか急に黒板の汚いのが気になるって言いだして」
 もう春花って言い方には慣れたようだ。そっと撫で下ろした胸は、燃えたぎっている炎ように熱かった。
「あ、長谷川君まだ帰ってなかったの」姉がゆっくりと階段を降りて来ていた。
「あれ? 智花もいたのね」
「掃除してた」
「じゃあ一緒に帰ろっか」
「そうだね。すぐ戻るからちょっと待ってて」
 階段を駆け上がり、廊下を走り抜け、誰もいない教室に乱入。ゴミ箱を放りなげ、鞄をひったくり、急いで来た道を戻る。そんなアニメみたいな早送りの世界。なんだかいつもより疲れを感じた。
「随分早いね。そんな息切らすまで急がなくてもちゃんと待ってるって」
「お姉ちゃんとは違うってことだよ」自分でも何であんなに急いだのかよく分からなかった。
「あれ。先輩は」
「先に昇降口で待ってるって」
 姉は何の気なしにさらりと言った。
「待ってるって。まさか先輩も一緒に帰るの」
「方向が一緒なのよ」
「何でそんなに平然としてるわけ」
「平然となんかしてないって。智花がはしゃいでる分落ち着いてるだけよ」
「あ、ごめん」
 意識して呼吸を整える。それでも、頑として私の心臓はそのでたらめな鼓動をやめようとはしなかった。
「一体何を謝ってるんだか。さ、行こう。待たせるの悪いし」
「そうだね」

 赤橙の陽が、私の数歩前を歩く二人の影をコンクリートの路地に足下まで映してきている。ゆっくりと伸びたり縮んだりを繰り返す細い影。互いに気張りなく話し、時に笑い声が混じる。一体何を話しているのだろう。私には結局わからないことばかり。姉のことは何でも知ってると思っていた。でも違った。私はほとんど知らないんだ。ただ全てを知っていたいと思っていたかっただけなんだ。
 私が知っていたのはこの影のようなものだったのかもしれない。
今まで私を追い越していた影が、後ろに下がっていく。
「智花、どうしたの?また具合でも悪くなった」
 顔も上げずに首を振る。
「そんなにしょっちゅう具合悪くならないって」
 足元の四本の影を見ていると、よく分からない苛立ちが込み上げてきて抑えられそうにない。奥歯が悲鳴を上げているのが聞こえる。
「智花」
「じゃあ俺はここで曲がるから」
「え、長谷川君?」
 ちょっとの間。
「あ、そういえば家そっちだったね」
「そんなんでクリスマス大丈夫か」
「大丈夫だって。地図も貰ってるし」
「ま、智花ちゃんがいれば大丈夫か」
 私は小さく頷いた。
「じゃあ、また今度な」
「うん」
 影が二本、視界から消えようとする。視線が自然とその動きを追いかけていた。商店街へと先輩の背が消えていくのが見えた。そのまま顔を水平に上げていると重力の法則に逆らえず目に貯まった涙が溢れそう。姉を見上げる。そこには、私の想像していた通りの私がいた。
 ただ、姉には見上げる人がいなかった。
「ごめん。お姉ちゃん。私のせいで」
「何謝ってるの」
 私を見つめる姉。私から見てもその笑みは痛々しかった。夕陽って黄色くもあるんだ。
「だって折角先輩と帰れたのに」
「孝俊君の家はあっちなんだから仕方ないでしょ」
 自分に言い聞かせるように、姉は言った。
「ごめん」
 謝ることしか出来なかった。先輩が私に気を使ったことだけじゃない。もっと違うことも含めて、とにかく謝りたかった。それで気が楽になるわけではなかったけれど、謝らないと、今度は私がその場から消えてしまう気がした。
「全く。あんたは謝ることしか知らないの」
 ポンっと頭に手が乗る。
 姉はきっとスイッチを押しているのだ。
 それは私をさらけだすスイッチ 姉以外には押せないスイッチ
見上げる効果が完全に失われた。何の重さも感じさせずに落ちていく。
 悲しいわけではなかった。悲しいということの根本にある、言葉では言い表せないもの。普段は抑え込まれている、恍惚にも似た畏服感。そんなものが私を襲った。体が自分のものじゃないかのように感じる。身動き一つ、とれなかった。
「さ、帰ろ」
 姉が微笑んで。私も笑った。姉の微笑みを見たら、今までのことが些細なことのように思えた。私はいつまでこうやって甘えているんだろう。
「うん。一緒に、ね」
 先輩のことや、父母の離婚だけじゃない。この先も、姉と別れなければならないことは沢山あるだろう。でも、姉と別れるとはそういうことじゃないんだ。会えなくなることじゃない。姉の笑顔が失われた時。それが私にとって別れの時なんだ。それは姉にとってもまた別れの時なんだろう。
 目の前に広がる住宅街。沈んでいく太陽に私は誓った。
 どんなことがあっても、二度と姉とは別れない、と。
 そして、そのためなら私はなんでもしよう、と。
ほんの少しだけ頭を出した太陽は、私の誓いを何とも思っていないようにそそくさと夜へ場所を譲っていった。
 せいぜい頑張りな
去り際に夕日がそう囁いた。


       七

「うわ。おっきい」
 地図の示す通りにやってきた長谷川先輩の家。私達アパート暮らしの人間からしたら想像も出来ないような広い家だった。昔の武家屋敷を思わせる平屋建て。夜になり始める中、ひんやりした空気をまとったその門の静けさに私達は圧倒されていた。
「大きいとは聞いてたけど、こんなにとは思ってなかった」
「どうすればいいんだろ。とりあえず門叩いてみる」
「ばか。インターホンがついてるでしょ」
 よくよく目を凝らしてみると、門を支える柱にポツンと小さなボタンがあった。
「知ってるなら早く押せばいいのに」
「立派な家だからつい忘れてたのよ」
「じゃあ押してきてよ」
「智花の方が近いでしょ」
「お姉ちゃんの友達ん家なんだから、私がするのって何か変じゃない」
「全っ然変じゃないから、さっさと押しな」
「はいはい」
 姉の意気地の無さは本当に困りものだ。私はしぶしぶインターホンを押した。
 間抜けな音に、不覚にも驚く。相手が出るまでの間がこれほど長く感じたことはなかった。実際は三十秒もなかったに違いないけど。
「はい」
 ほんわかした女の人の声。私はほっと胸を撫で下ろした。
「あの、牧原、です」
「ああ。ちょっと待っててくださいね」
 プツッと切れる。それはこの門が温かさをなくす合図だ。
「良かったね。先輩じゃなかったよ。それとも残念?」
 と、振り向く私。
「また泣かされたい」
 と、ニコやかに笑う姉。
「いえ、遠慮しておきます」
 こんな時の姉の威圧感はすさまじいものがある。目の前の門なんかとは比べものにならない。でもこの威圧感の背後に意気地の無さがチラチラと見え隠れしているのだから、恐さより寧ろかわいらしさを私は感じるのだった。
 来た道を振り返ってみる。辺りにはこれと言って目立つ建物は他になく、こじんまりとしているが暖かな光のもれる住宅が並んでいる。学校へ行くには少し遠く、確かに商店街を通って行くのが一番の近道であるようだった。
「待ってろって言ってたけど。何で待つんだろ」
「家の人が待てって言ったなら待てばいいのよ」
 ちょうどその時、鈍い音をたてながら門が開いていった。
「自動だったんだね」
「そうみたいね」
 それがあまりに別世界みたいだったから、私達は入ることも忘れて呆然としていた。
「お待たせしました。どうぞ」
 インターホンの声で我に返り、急いで門をくぐる。いきなり出迎える松。岩に囲まれた池。鯉の尾びれが水をかき分ける音。そしてまた立派な母屋。玄関に着くまで私達は一言も話せなかった。

「ごめんなさいね。待たせてしまって。色々と準備が出来てなかったようだから」
 出迎えてくれたのは先輩のお母さんだった。いかにもこの家の奥さんだ。和服がよく似合う。こんなところにいると嫌でも似合ってくるのだろうか。でも。そもそも嫌ならこんなところに住むこともないか。
「準備ですか」
「はい、準備が」
 何がおかしいのかクスクスと笑っている。
「さ、ここです」
 と、先輩のお母さんに案内された、縁側のある広い部屋にはもう全員揃っていた。
「みんな早いね」
 今は約束の三十分も前。それなのに、遅刻常習犯だという藤谷先輩まで来ている。
「このくらい普通よ」
 鈴原先輩が周りに同意を求めると、みんな黙って頷いた。黙って。
「皆揃ったことだし。早速はじめよっか」
 みんながそれぞれに満たしたコップを軽く上げる。

メリークリスマス!

鈴原先輩の威勢のいい声にみんな続いた。
それだけで、電灯なしでもこの部屋にいられそうな気分になった。

「さぁここで、プレゼントの交換タイムといこうじゃない」
 自然と、というか当然と鈴原先輩主導でパーティーは進んでいた。
「交換ってどうやるんだ」
 と藤谷先輩。自分の持ってきたプレゼントを抱え込んでいる。
「全く、あんたって物覚え悪いのね。いい? この特製くじを使うのよ」
 テーブルに置いてあった空の皿をのけて、どこからやってきたのか、ドンと白い箱を置いた。上面の真ん中に穴が空いていて、何やら細い棒が何本か突き出ている。
「んで、それぞれ番号決めて、引く順番決めて、その引いた番号の人のプレゼントがもらえるってわけ。簡単だね。わかってるでしょう」
 ジロッと藤谷先輩を一睨みする。
「あぁ。分かったって」
 藤谷先輩が怯えたふうに顔を背ける。その頬が、ほんのりと紅く見えた気がした。
「んじゃ。番号決めるよ」ケロッと笑顔に戻り、藤谷先輩から時計回りに番号をつけていった。
「あの、先輩」
 箱を手にしてにこにこしている先輩に、悪いとは思いながらも話しかけた。
「ん、なに? 四番は嫌?」
「いや、そうじゃなくて。私はお姉ちゃんと二人で一つ買ったから、私の分のプレゼントっていうのが無いんですけど」
「そっか。でも大丈夫。プレゼントなら私から後であげるから」
「でも、それは悪いですよ」
 そう言い終わるか言い終わらないかのうちに、鈴原先輩の笑みが見えた。だめだ。何かを企んでるみたいだけど、どうやらもう逃げられないらしい。
「そういえば、鈴原は何で番号ついてないんだ」
 長谷川先輩が言った。
「あぁ。私は全員分あるしね、一応」
 今更なに? とばかりに平然と言った。
「金は大丈夫だったのか」
「あんたみたいなボンボンに心配されるとムカつくわ」
「あ、ごめん」
「謝られると余計ムカつく」
「んじゃどうすりゃいいんだよ」
 長谷川先輩がため息混じりに言う。
「黙ってじゃんけんして順番決めればいいのよ」
 先輩は苛ついているのか笑っているのかよくわからない表情をしていた。それは焦っているようにも見えた。お祖母さんの振りをした狼の気持ちに近いかもしれない。ウズウズして窓から空を見る気持ち。
「はいはい」
 長谷川先輩は投げやりに答えていた。
「それじゃあ、じゃんけんをして勝っても負けても一人ずつ抜けること」
「一人にならなかったら」
 姉が怪訝そうに聞いた。
「勿論、もう一回だよ」
「変わってるわね」
「いいじゃない。クリスマスなんだし」
「まぁ、いっか」
 ちらと私を見る。呆れたように笑っていた。鈴腹先輩も満足そうに笑っている。どうやら赤ずきんちゃんはドアをノックしたらしい。
「はい。じゃあ四人早くやんな」
 しぶしぶと四人がじゃんけんを始める。
 一回はあいこ。二回目は姉の一人負け。その後は順調に決まり。藤谷先輩、長谷川先輩、安堂先輩の順となった。鈴原先輩は満足そうだった。
「さて春花。ちゃっちゃっと引いた引いた」
 箱を持つ先輩はとても嬉しそう。
「お姉ちゃん」
 姉に向けて小さくピースして見せる。姉は堅く頷いた。これから戦いにでも行くかのように。ゆっくりと静かに細い指がさ迷う。そして、思い切ってひとつを選んだ。
「じゃあ。これ」
 グッと掴んでゆっくりと引き上げると、その円い先端に書かれていたのは《②》。
「おっ。てことはこれだね」
 ヒョイとプレゼントの群集から摘みあげる。
「んじゃ本人が渡してね」
 と言ってそれを本人にパスした。長谷川先輩に……。
「聞いてないけど」
「言ってないもの」箱をいじりながら言う。
「それとも、嫌なの」
 鈴原先輩の手が止まった。
「いいや、全然」
「なら最初から文句言わない」
 再び箱を何やらカチャカチャやりだした。先輩が姉の方を向く。
「はいこれ。クリスマスプレゼント」
 いつもの笑顔付き。さっきまでの反抗的な態度はどこへ消えたのやら。プレゼントが目の前で横切るのを、二人の手を、じっと見つめていた。
「ありがとう」
 はっきりとした口調と笑顔。そこに違和感を覚えずにはいられなかった。
「由佳。これって今開けてもいいの」
 箱の準備を終えて次に引くのを待っていた先輩が面倒くさそうに顔を向けた。
「ん? あぁ、最後にみんなで一斉に開けようと思ってたんだけど、気になるならいいよ」
「ううん。そっちの方がいい」
「なら、春花が早く開けられるように、皆いっぺんに引こうか」
 トンとテーブルの上に置く。三本の棒は各々これを引けと言わんばかりに行儀よく並んでいた。
「じゃんけんの意味ないですね」
 ポツリと呟くと、地獄耳な鈴原先輩がすかさず言った。
「何いってんの。ちゃんとあったよ」
 ニッと笑う先輩。
「そうでしたね」
 先輩の意図がわかり、私も笑って見せた。
 くじは思った通り、藤谷先輩が四番、安堂先輩が一番、そして長谷川先輩が三番。鈴原先輩が花火大会の時に言ってたことを思い出した。あいつらが単純なだけ、か。それとも、ここまでが準備だったのだろうか。姉はさっきと変わらず平然と渡していた。むしろ藤谷、安堂両先輩の方が心配になるくらいあたふたしていたが、鈴原先輩がそんな二人に一喝してようやく二人にも交換を済まさせた。
「さ、皆さん。一斉に。どうぞ開けて下さい」
 満足げな鈴原先輩。カサカサと紙の擦れる音が響き、ちょっとした緊張感が部屋に漂う。
「テニスシューズって。藤谷君、これサイズとか合わなかったらどうすんの」
「大丈夫だって」
「あれ。サイズ合ってる」
「だろ」
 してやったり顔の藤谷先輩。
「そうじゃなくて、サイズの問題とか考えなかったの? もし他の人に渡ってたら合わなかったんだよ」
 頬を赤らめる安堂先輩。
「ま、そこらへんは何とかなるだろうと思って」
 ちらっと鈴原先輩に視線を送る。
「まぁ、何にせよ結果オーライよ。美智子」
 ハハハと笑って肩をポンポンと叩く。
「うん。まぁね」
「それより。安堂のは無難だな。図書券か」
「ダメだった」
 安堂先輩が懇願するような視線をぶつける。
「いいや。結構本読むから嬉しいよ」
 その視線を真っ向から受け止める。
「なら、よかった」
 視線を弱めてころっと笑った。
 さて、こちらは。
「お姉ちゃん。なんだった?なんかやけにでかい袋だったけど」
 ヒョイと姉に視線を戻す。
「ほらこれ。かわいいでしょ」
 座ったまま上半身だけ私に向けた。姉の腕の中にはクマのぬいぐるみ。姉がちょうどうまく抱ける位の大きさだった。姉は、そのクマと同じように笑っていた。
「お姉ちゃん、嬉しい?」
 思わず聞いてしまった。それ位姉の反応は普通だったから。いや、あまりにも普通だったから。
「何言ってんの。当たり前でしょ。こんな大きくてかわいいぬいぐるみ貰って。智花は何か不満なわけ」抱いているその白い腕に力が入った気がした。
「ううん。ただ、もしお姉ちゃんが嬉しくないんだったら私が貰おっかなって思って」
「部屋に置いとくんだからあんまり関係ないと思うけど」
「それもそうだね。それよりあれは」
「あ」
 今度は長谷川先輩の方へ体を向ける。
「あの、長谷川君。気に入ってくれたかな? 私と智花で選んだんだけど」
「これは、オルゴール」
「そう。オルゴールならみんな嫌いじゃないかなって思ったんだけど。やっぱり女の子っぽかったかな」
 私達の買ったそのオルゴールは、黄土色の木製の箱に四つ、綺麗な彫刻が施された脚がついてて、その上にガラスで囲まれたケースが乗っかっている。そのガラスケースのなかには、赤鼻のトナカイと、それが曳くソリに乗り満面の笑みを浮かべたサンタの人形が浮いたように置かれ。彼等の下には雪の積もった街のジオラマが作られていた。
「いや。俺こういうの好きだよ」
「よかったぁ。あ、回してみて」
 騒がしい部屋にクリスマスソングが静かに鳴り始める。
「うわ。すご、綺麗。」
 オルゴールの音と合わせるように、キラキラと雪が舞い漂う仕掛けになっているのだ。私はこれを一目見て気に入った。それは姉も同じだったようで、顔を見合わせて無言で頷き合い、即座に買った。
 それは、動かない空間で唯一動きを与える雪。でもそれはあまりにもゆっくり落ちていくから不完全で。でも不完全だからこそ綺麗だった。
「何このオルゴール。高そうじゃない」
 オルゴールの音に、向こうで話に興じていた先輩達も誘われてきた。
「ちょっとね。一人じゃきつかったかな」
「二人分ですから」
 顔を見て互いに笑った。
「本当、綺麗だな、これ」
「うん。そうだね。いいなぁ長谷川君。」
 それから、最後の一粒が落ちきるまでみんな黙ってそのオルゴールを見つめていた。

「そういえば、鈴原のはどうなったんだ? 全員分あるんだろ」
 藤谷先輩がその余韻を破る。
「勿論。ちゃんとあるよ」
 リュックサックを持ってきて、何か取り出した。
「私からのプレゼントはこれ。サンタ帽子とトナカイ帽子」
「お前。仮装やるんじゃないんだから。しかも二組しかないし」
「いいじゃない。パーティーなんだから。それにあんた達男子にはもうあげたでしょ」
 男衆は顔を見合わせて首をかしげていた。
「わからないなら別によし。とにかく、これは私達のものだから」
「ちょっと待て。まさかお前の分もあるのか」
「そうよ。悪い」
「普通自分にプレゼント買うか」
「別にいいでしょ? 普通なんてつまんないし」おどけた様子で言った。
「さ、あんな外野はほっといて分けよ」
 まだ何か言いたげな藤谷先輩を無視して背後に追いやった。
「さて、どうやって分けようかな。何か希望ある」
「由佳が決めていいんじゃない」
 安堂先輩が申し訳なさそうに言った。
「って言ってるけど、春花達、それじ」
 当然私達に異論などなかった。だって、今の鈴原先輩に何か言っても何も変わらなさそうだったから。
「よし。じゃあまずは私がトナカイね」
「いきなり自分からかよ」
 藤谷先輩がヤジを飛ばす。
「うっさい。あんたは黙ってな」
 ギロッと一睨みしたら藤谷先輩は大人しくなった。今日の先輩は何だか人が変わったみたいに必死だ。
「さて。次はこのサンタ帽子を美智子にあげる」
 そっと被せられた帽子。まだ新米で煙突から落ちても何の対処もできなさそうな頼りないサンタが現れた。それはそれで楽しそうではあるけれども、やっぱりそんなサンタでは夢も期待もあったものじゃない。
「うん。中々似合ってるじゃない」
「それっていいことかな」
 しきりに帽子を気にしている。
「どんなものでも似合ってる方がましよ」
 笑い出しそうなのを堪えて姉が言った。
「まぁ、春花がそう言うなら」
 そう言いながらも、まだ不満そうに帽子の位置を頻繁にずらしている。
「さて、問題はあなた達よね」
「あの、今更なんですけど。私、トナカイがいい」
 おずおずと私は言った。私が意見したことに先輩は意外にも目を輝かせていた。
「お、智花ちゃんがトナカイねえ」
 今にも吹き出しそうにしている。私は自分から罠にかかりにいってしまったのかもしれないと後悔した。
「じゃあ、ハイ。春花はこれね」
 姉はヒョイとそれを被った。
「お姉ちゃん。アルバイトすればよかったね」
 正直な感想だった。街中でこんなサンタがいたら、買う気のない人だってついその店の商品を買ってしまっただろう。そんな、大人の夢見るサンタ像。
「そう」
 姉はちょっと誇らしげに笑った。
「ほら、そこの男子二人。飯ばっか食べてないで、ちょっと見てみ」
「ちょ、由佳。」
「駄目よ。こういうのは内輪だけで楽しんじゃ」
 帽子を取ろうとした姉の腕を私がガッチリ掴んだ。
「ちょっと、離しなさいよ、智花」
「いいよ智花ちゃん。私が許す」
 鈴原先輩がゴーサインを出す。
「というわけで、ごめんねお姉ちゃん」
 ニッと笑う。姉の顔は見る見るうちに真っ赤になっていった。
「もう、智花なんて知らない」
「お、牧原似合ってんじゃん」
 やっと食べるのをやめた藤谷先輩が言った。
「これなら幾つでもケーキ買っちゃいそうだな、孝俊」
「ああ、そうだな。こんなに似合う人初めてだな」
「あんまり誉められてる気がしないんだけど」
「何言ってんの春花。『どんなものでも似合ってる方がまし』でしょ」
 弱ってるところを安堂先輩がすかさず反撃にでる。
「そう、だけどさ」
「ま、いいじゃない。クリスマスだしパーティーなんだから。ちゃんと被ってるのよ」
「分かったわよ」
 姉の腕が垂れ下がる。それを見て満足そうな鈴原先輩。
「それじゃあ次は私達ね」
「そんなもったいぶることじゃないんじゃ」
 ゾクッとした。先輩の目は爛々として、ねこじゃらしを狙うライオンを思わせた。
「さ、まずはこのツノ帽子。」
 先輩が先に被って、もう一つを私に被せた。トナカイのツノはふかふかしていた。先輩は他の人達の視線を遮るように私の前に座っていたから、私からは先輩の顔しかみえなかった。間近に迫る先輩の頬はひくついていた。
「そして、トナカイといえばこれ」
「先輩、これって」
「いいからつべこべ言わずつける」
 先輩はすぐさま自分に取り付け、何も言えぬ間に私にも付けた。
「ああもう、かわいいよ。智花ちゃん」
 それを付けた瞬間、先輩が抱きついてきた。肩越しに皆の顔が見える。
「うん。すごくかわいい」と、安堂先輩。
「ぬいぐるみみたいだな」とは藤谷先輩の弁。
「あぁそうだな」長谷川先輩が楽しそうに笑う。私は耳が熱くなるを感じた。
「智花、似合ってるわよ」姉が意地悪く言った。
「なにさ、お姉ちゃんだってこれつけたら同じなんだからね」
「私より智花の方が似合うって」
「そうそう。やっぱり智花ちゃんの方が似合うよ」
 肩に両手を置いたまま、鈴原先輩が私をまじまじと見た。
「先輩こそ、よく似合ってますよ」
 笑みを絞り出す。私の言葉に藤谷先輩が同調した。
「そうだな。何か鈴原ってそういう笑いとりキャラ似合うよな。もちろん、笑いキャラとして」
 一瞬、肩にのせられた両手にグッと力が入った。パッと手を放すと、ごめんね、と小さく私だけに呟いて先輩は立ち上がり振り返った。
「当たり前でしょ。なんたって私は宴会奉行なんだから。この位付けこなせて当然。」
 異様に誇らしげに語るその姿に、私は不安を抱かずにはいられなかった。
 つけた赤いトナカイ鼻が、その自信たっぷりの顔にとても際立って見えた。

 食べるものもなくなり、皆なんとなくのんびりしているとき、私は鈴原先輩を縁側に誘った。縁側に二人きりで腰かける。見上げれば星々がはっきりと瞬き、背後にはサンタ達と、プレゼントをもらい損ねたと喚く子供たちが時を重ねている。
「先輩。」
 私が口火を切る。
「ん」
 夜空に目を向けたまま。
「大丈夫ですか」
 サッと、丸くした目を私に向けた。そして唐突に笑いだす。それはカラカラに乾いた笑い声だった。
「どうかした」
 後ろで姉が聞いた。
「いいや、何でもないのよ。私達のことは気にしないでそっちはそっちでのんびりしてな」
 まだ笑いを抑えきれずにいた。
「先輩?」
「あぁ。ごめんごめん。やっぱり姉妹だね」
 笑いを必死に堪えている。
「どういう意味ですか」
「ん」ようやく落ち着いてきた呼吸。
「前にね、春花から全く同じこときかれたんだよ。急にただ一言『大丈夫?』って」
「そうだったんですか」
「そ、やっぱりあんた達に隠し事は通用しないのね」
「それじゃあ、ただの詮索好きみたいじゃないですか」
「ま、似たようなものだね」そう言って、トナカイ帽子と赤鼻を取る。
「そうそう。質問に答えてなかったね」
「いえ。いいです。無理に答えなくても」
「それも全く一緒だよ」
 月や星々の明かりに照らされた先輩の笑みには、さっきまでの、電灯に照らされた笑みとは違う脆さと力強さがあった。
「あの時は結局何も答えられなかった。でも今ならできる。聞いてくれる」
「先輩が言うセリフじゃあるませんね」
「こういうことに先輩も後輩もないのよ」
「私でよければ。」
 私も静かに笑った。
「答えは、『大丈夫』よ。このツノ帽子と付け鼻があれば、ね」
「本当ですか」
「もちろん。私、嘘を口にはしない主義なのよ」
 パパッと手慣れた様子で帽子と赤鼻を再びつける。
「真っ赤なお鼻のトナカイはサンタを誘導しなくちゃ、でしょ」
 ニッと歯を見せて笑う。一見難攻不落、敵無しのその笑みにも、どこかに小さな破れ目が見える。
「そうですね」
「私こそ聞きたい。あなたは大丈夫?」
 その言葉に一瞬ギクリとする自分が遠くにいた。眉を必死に押さえつけて鈴原先輩を見つめた。
「別に。大丈夫もなにもないですけど」
「そう。ならよし」
 サッと立ち上がると、先輩は後ろの人達に言った。
「もう遅いし。今日はここら辺で終わり」
見上げた先輩の背中は、やっぱり大きかった。
 立派なツノを手にいれたんだ。
 でもそれは、柔らかくて、いざというときには役に立ちそうもない自分を守れない貧弱なツノ。
 だけどいつか、そんな見せかけのツノなんて要らなくなるときが来る。
 その時までは、偽物だってばれないように、この角をつけていよう。
そう、先輩の背中が語っていた。

「楽しかったねお姉ちゃん」
「本当」
 クマを抱えたままで歩きづらそうだ。
「そうだ。私お姉ちゃんにプレゼントがあるんだよ」
「え、何?」
 クマも私を見つめている。鞄の中から目当てのものを取り出すと、包装を丁寧にとって見せた。
「写真たて」
「そ。必要になると思って」
「何で」
 クマが体全体を傾げる。クマと話している気分だ。
「ほら、写真の一枚や二枚あるんでしょう。ちゃんとフレーム負けしないようにシンプルなのにしたんだ よ」
 ポフッとクマに殴られた。からかった後の姉の顔くらい見なくてもわかる。
「ふざける気は無かったんだよ。真剣にお姉ちゃんのこと考えたら、あのお金の中だと私これしか思いつ かなくて、だから」
 クマが姉の鞄を開いて私にグイと差し出した。
「鞄の中に入れてくれる? 智花からのプレゼントなら何でも嬉しいよ」
 クマ越しに姉の微笑みがうっすらと見えた。
「ありがとう。それじゃあ、早速」
 再び包装紙にくるんだ写真立てを入れる時、私はもう一つ、包装されたものを見つけた。
「お姉ちゃん、この包装紙にくるんであるやつは誰からの? まさか、先輩からじゃ」
「違うって。それは私から智花へのプレゼントだよ」
「私に」
「そ。開けてみ。大したものじゃないけど」
 そろそろと包装をとる。
「鏡?」
「そうよ。智花ったら女の子なのに鏡すら持ち歩かないんだから。それともそういう主義だった」
「ううん。ただ必要なかっただけ」
「そこが分からないわね。まぁとにかく、使わないなら私が貰うけど」
「絶対使うからあげないよ」
 私はそれを両手で握りしめた。
「そう。貰ってくれて嬉しいよ。じゃあ早く帰ろう」
「うん」
 歩きながら、私は姉のくれた鏡で自分を写してみた。
 自分はこうやって笑うのか。
ちょい、と鏡を傾けて姉を見た。クマをしっかり抱いた姉はほくほくと笑っていた。
 もしこれが私だったら?
 もし私だったら、こんな風に笑っていただろうか。
鞄から赤鼻を取り出して付けてみる。鏡に写ったその笑顔はさっき写った自分のものと同じだとはとても思えなかった。
 思えないほど表情がなかった。
 思えないほど嘘がまじっていた。
 思えないほど、独りぼっちだった。
でも、これでいいんだ。もし私が姉だったらなんて考えないためにはこれが一番なんだ。
 私には偽物のツノなんていらない。
 私にはこの赤鼻があればいい。
 これだけあれば、サンタを導くには十分なんだ。
 ソリを曳くだけのトナカイにそもそもツノなんていらないんだ。
鼻に力を入れてみる。でもやっぱりそれは光らない。
 それは私自身が何処にいけばいいかわからないから。
 私が迷ってるから。
どうやったら上手く光るんだろうと考えてきた。でもその方法は見付からなくて。いつまでもサンタを困らせてばかり。
 冷たい風が時折私の足下を通り抜ける。
 その冷たさがそこから体全体を包み込んでいきそうで、
 私をそのまま凍らせてしまいそうで恐かった。
 隣を歩く姉の笑顔。
 そこだけは温かくて。
 この冷たさを受け入れようこの時私はそう決意した。
それは、空気が湿っていたある冬の日。街灯の明かりが月よりも白く怪しげに光る帰り路のこと。


       八

 まるでお寺がすぐ近くにあるように感じさせる番組が今年も一年を締めくくっている。居間で家族全員その番組をぼんやりと眺めていたとき、不意に父がテレビを消した。
「初詣行こうか」
 みんな何も言わず玄関へと向かう。私も姉の後ろにぴったりとついていった。毎年歩く大晦日の町中。いつも同じ道を通るのに、全く同じなんてことはなかった。それは時間が経っている証拠。
 でも、今年だけは同じであって欲しかった。
 そんな願い虚しく今年も、去年とは同じじゃない道を通って同じ神社に着く。その間誰も喋ろうとしなかった。普段はほとんど人が来ないような地元の神社も初詣客でごったがえしていた。和服の人もちらほら見られる。私なんか家にいたそのままで出てきたから私服もいいところだなと思い、手ぶらできたことに今さら気付いた。
「お姉ちゃん」
 前にいる父と母に聞こえないように小声で話しかけた。
「何?」
「私お金持ってきてないや」
 姉がちらと前を見た。
「私が貸してあげる」
「ありがとう」
「家に帰ったら返してよ」
「分かってるって」
 前に視線を戻した姉の横顔。不安そうだった。私も前を見る。目に入ってくるのは階段に並ぶまだまだ長い人々の列と、二人横に並んだ父母の姿。
 決着をつけられない。父も母も頑として私達を手放そうとしなかった。折角そっくりな姉妹なのだから一人ずつに分ければいいじゃないか。表面には出さないものの、家庭裁判所の人達がそれとなくそんなふうにもちかけ、父母もその妥協案には傾きかけているようだった。でも、そんな考え方を、私が受け入れられなかった。意外にも、冷静な姉が私に賛成してくれた。こんな私でも姉はまだ必要としてくれるんだと、本当に嬉しかった。
 結局、私は私で、姉とまだ離れたくないと言い張ったから余計膠着してしまっている。でも、それなら今はみんなと一緒にいられる。ならいいとその時は思っていた。今、目の前の父母を見て、私は自分のしたことがよかったのか分からなくなった。二人はもはや私にとっても他人のようだった。声をかければ二人とも愛想よく答えてくれる。だけど、そこからはお金の臭いがする気がした。
 少しも振り返る素振りを見せないまま、二人は私達の前を行く。列を外れたら参拝できない。私達に出来ることは、ただ列の流れるままに進むことだけ。私の細やかな反抗も無駄だったのかもしれない。
 父と母が参拝する番となった。お金の音と鈴の音が二度ずつ聞こえて格好悪かった。パンパンと今度は揃って拝む後ろ姿。何を願っているのだろうか、ヤケに長い。去り際には、父がちらっと私達に視線を送っただけだった。敵意も愛しさも感じない堅い視線。それを前に、私は小さな頃に戻ったように、父を恐いと思った。
「ほらボケッとしてない」
 グイっと右腕が持っていかれる。危うく転びそうになった。
「ハイ、これ」
 姉がそっと手に置いた五円玉。
「二枚あってよかった」
 姉も五円玉を見せてコロコロと笑っていた。
「人もいっぱいるし早く済ませよう」
「うん」
 私は右手の五円玉を握りしめ、目の前の社を眺めた。その威圧感に押し潰されてしまいそうだ。きっと神様は信心の無いことをお見通しだろう。それでも毎年やって来る人達の願いを聞くだけはしてくれるというのだから、大したものだ。
 でも今回ばかりは聞いてもらうだけではいけないんだ。
 なんとしても叶えてもらわなければならないんだ。
 グッと握る手に力を込め、そっと賽銭箱に投げ込む。
 カラン
 乾いた軽い音が響いた。
「一緒に鳴らそう。さっきみたいにバラバラじゃあかっこ悪いしね」
 太い縄をがっしりと掴んで振る。鈴はリズム良く鳴った。
 パン、パン
 手を叩く音が気持ちよく合わさって、反響した。固く目をつむり必死に願う。
 お姉ちゃんと幸せになれますように
 ただ一つこれだけを心に描いた。これから先いくら願い事があっても叶わなくていい。漠然とした、欲張りな願いだけど、これだけは叶えて欲しかった。瞼をゆっくりとあげ、聞き届けてくれる神様がいるという社の奥を見る。そこは金ぴかに光輝いていた。でもそれだけ。結局、聞いてくれたのかどうかも分からない。たった五円じゃ私の願いを聞きいれてくれないかもしれない。姉はまだ拝んでいた。もう一度社を見る。いくらいれればよかったのかと問掛けてみる。ただそこは金ぴかに光輝いていた。
「ちょっと時間かかっちゃった。行こ」
 少し照れた顔。私は促されるまま、参拝の舞台を降りる。降りきる前、ズラリと並ぶ列を見渡した。これから神様はこんな沢山の人達を相手にしなければいけないのか。
 正月だけ参拝に来る人々。
 一体みんな何を願うんだろう。
 自分のこと他人のこと。
 幸せになりたい。なってほしい
 そんな欲望が押し寄せる今日。私もこうして都合よく願った。きっと私の願いも神様は聞いてないだろう。いくら私が心から助けを求めても、せいぜい耳を傾けるだけで目をとめてくれやしないだろう。それは仕方ないことなんだ。そもそも正月だけその偽りの信心を掲げて参拝し、願いを叶えろというのがあまりに虫のいい話。結局私自身が悪いんだから。
 降りた先には父母が待っていた。父はムスッとした顔で待ち受け、母はハラハラするような笑顔で迎えた。私達が来たのを確認すると、父は何も言わずにゆっくりと帰り道に足を踏み出した。母も後を追うように振り返る。
「お父さん達って本当に別れる気あるのかな」
 その光景は離婚を進めている夫婦には見えなかった。
「さぁ。私には分からない。お父さん達の間には私達の知らない時間も流れているんだから」
「そうだね」
 ちょっと寂しさを感じた私とは対照的に、姉は楽しそうだった。
「でも、もしかしたら智花の作戦は良かったのかも」
「作戦?」
「そ。離婚引き延ばし作戦。」
「私そんなつもりじゃ」
「いいのよ。それで」
 そう言って私の頭を二度軽く叩いた。
「私達も早く帰ろ」
 気付いたら父母はかなり離れていた。私は追い付きたくて姉の手を握って走り出した。姉が何か言った。でもその言葉は耳に入らなかった。父母の背をただ見つめた。ただ、これ以上離れちゃいけないと思った。
 突然、ヌッと黒い棒が行く手を塞ぐ。止まれない私はその棒にお腹からぶつかった。不思議なことに、その棒はゴールテープみたいに曲がり、それでいてガッチリと私の勢いを止めた。
「この人混みで走ると危ないから」
「あ、長谷川君も来てたの」
 長谷川先輩?
 さっきの黒い物体を落ち着いてよくよく見る。人の腕。まさかと思いながら、それを辿る。
「毎年来るんだよ。近いからね」
と言う先輩の顔にいきあたった。サッと身を引いたら、今度は姉にがっしりと両肩を掴まれた。
「全く、いきなり走り出して。子供じゃないんだからそのくらいわかるでしょうに」
 耳たぶに熱さを感じた。
「正月ボケの一種じゃないか」
 からかい口調。熱さが耳全体に急速に広まっていった。
「私。先帰るから」
 姉の手を払って歩き出す。
「ちょっと智花」
 クルッと姉の方に体を向けて、意地悪くニッと笑って見せる。
「大丈夫だって。今度はちゃんとゆーっくり歩くから」
「私も行くわよ」
 それを無視してスタスタと歩いた。最後にちらっと視線があった先輩を残して。

 鳥居への階段を降りているとき、姉が追い付いてきた。息が上がっている。
「走ったら危ないんじゃなかったっけ」
「偶々階段に人がいなかったからいいの」
「もっとゆっくりしてればよかったのに」
「長谷川君も妹を待たせてるんだって」
「妹、いたんだね」
 別にいたって何の不思議はない。でも、何だか騙された気がして悔しかった。
「うん。私も初めて聞いた。クリスマスの時は友達ん家に行ってたみたい」
「残念だったね」
「智花は変な気をきかせなくていいの」
 一段一段確実に降りていく。盗み見た姉の顔はにこやかで、でもやっぱりそれはどこか悲しそうで。神様を心から信じたくなった。そうすれば私の願いは叶うかもしれないから。
「そういえば、お姉ちゃんはどんな願い事したの」
「秘密」
 くすっと笑った。
「ケチ」
「バカね。そういうのは人に言わないものなのよ」
「そうだっけ」
「ま、智花のは言わなくても分かるから、どっちでも変わんないけど」
「じゃあ当ててみてよ」
「私のことでしょ」
 自信たっぷりに言った。
「違うよ。自分のことちゃんとお願いしといた」
「そっか。外れか」
 少しも悔しそうな素振りを見せず、逆に満足そうだ。
「外れたわりに嬉しそうだね」
「そりゃ嬉しいよ」
「何で」
「だって、智花が自分のことを考えて手を合わせたからさ」
「ただ自分勝手ってだけだと思うけど」
「だから、それでいいんだって」
 訳も分からず姉を見上げる。ちゃんと階段を見ろと注意されてしまった。
「みんな自分のことお願いしないとバランスがとれないでしょ? 自分以外の人のことを願ったら、その人に神様の視線は集まっちゃうから。バランスをとるにはその人もまた他人のことを願わなきゃいけなくなるし」
「それでいいんじゃないの?」
「みんながみんな、他人のことを考えられるかは分からないでしょ」
「そうかな」
「じゃあ、例えば。今普通に暮らせていける私達の大部分は貧しい人達が幸せになれば良いと思ってる。 でも、その人達は私達の幸せを本当に望むと思う」
「でもだからって自分のことだけ考えるのはよくないよ」
「そうね。だから、私達は願うんじゃなくて実際に行動しなきゃいけない。行動で他人の力になるならいくらでもやればいい。神様へのお願いは欲張れないけど、行動なら欲張って色んな人を助けられる。だから、自分以外の人達には行動で、自分のことは神頼み。それでいいんじゃないかなって私は思うわけ」
「そっか」
 じゃあ、行動も願いも自分のためじゃなくなったら、どうなるんだろう。やっぱりバランスが崩れてしまうんだろうな。バランスが崩れたらどうなるんだろう。そんな疑問をぶつけようとした時、姉がそれを見透かしたように遮った。
「ほら、お父さん達ちゃんと待ってるでしょ」
鳥居の向こう。参拝の列に邪魔にならないところに父と母が立っていた。
「だから言ったのに。あんなに走らなくても追い付くって」
「聞いてないよ」
「言ったわよ」
 そんなやりとりが続き、最後の一段。鳥居をくぐるとガラリと景色が変わった。高い木々の葉に覆われた空が、いっぺんに白く染まった。
「お前達、遅いぞ」相変わらず不機嫌そうな父。
「早く帰るよ」相変わらず崩れそうな笑みを浮かべる母。
 今度はしっかりと歩いて行った。

 帰り道は来たときとはまた違った。誰も何も話さなかったけど、来たときみたいな静かさはなかった。
「あつ」
 姉の声に顔を上げる。理由は聞くまでもなかった。
「雪だね」
 今年最初の雪。それは積もりそうもないほどちらちらと舞い降りてきていた。
「ね、智花」
「なに」
「今度さ、花見しよ」
「まだまだ先だよ」
 雪を見て花見をしようなんて突飛な提案にちょっと呆れた。
「先のことだから。まだ分からないことだから約束するんでしょ?」
「それもそうだね」
「絶対だからね」
 半ば睨むように私を見つめた。
「先輩はいいの」
「うん、いい。花見は智花と二人だけがいい」
 空を見上げる白い眉間に皺が寄る。
「わかった。約束ね。やっぱりお姉ちゃんは子供っぽい」
 私の頬は自然と弛んだ。
「いいでしょ、別に。桜は綺麗なんだから」
 本当にそんなときの表情は父とそっくりだ。
「あ、そうだ。忘れてた」
「何を」
 まだ機嫌の悪い姉。吹き出しそうになるのを堪えた。
「あけましておめでとう」
 姉の表情がふっと和らぐ。
「全く。智花には敵わないわね。話してるとこっちの調子が狂うよ」
「わざとだよ」
 へへっと笑う。
「知ってる。わざとじゃない方がよっぽど」
 さらりと言ったその言葉は、重みを伴ってコンクリートへ落ちて行った。
「それにしても」姉は続けた。
「ほんと、あけましておめでとう、だね」
「今年もよろしく」
 そこで声が重なった。
 そんなこと言わなくてもいいなんて二人ともわかってたのに。おかしくて二人して声を上げて笑った。その笑い声に、振り返る父の表情は緩み、母の笑顔には力強さが戻る。
 みんな一斉に空を見上げた。雪は真っ白に輝き、私はその眩しさに目を細めた。そのまま姉に顔を向ける。一粒の雪が姉の目尻に落ち、体温で溶けてスッと一筋の線を描いていった。姉はそれに気付かず、一心に空を見つめていた。
 泣いてるの?
なんてからかう気にもなれなかった。
 だって本当に悲しそうだったから。
 いつもみたいに笑っていたから。
もう一度空を見上げる。ひらひらと桜みたいに落ちてくる雪の冷たさに、鼻が赤く熱くなるのを感じた。
 部屋に戻ると、私はそのままの格好でベッドに飛び込んだ。「ちゃんと着替えないと」なんて母親みたいなことを言っている姉。でもそんな姉を無視して、眠気は私を容赦無く包み込んでいった。


       九

 パチッと目が覚める。
 今何時だろ。
 枕元の時計は十時を差していた。体を起こし一度延びてからベッドを飛び下りる。姉は起きているだろうかと覗いてみると、まだスヤスヤと寝息を立てていた。どんな夢をみているのやら。にまにまと無邪気に笑っている。
 そういえば、私はいつ着替えたんだろ。
 寝惚けていた意識がはっきりしてきてようやく自分がパジャマであることに気づく。きっと姉がやってくれたんだろう。
「ありがとう」
 起こさないようにそっと囁いた。
 部屋を出る。居間にはまだ電気がついていないみたいだ。私が一番かと、ちょっと得意になって居間に入った。テーブルには重箱が置いてあった。よく見ると、そのすぐ近くにメモが一枚目、綺麗に置かれている。
 何だろ。
 手にとってみると、それは父と母からだった。
『あけましておめでとう
 今日は大事な用事があって出掛けます。お年玉は帰ってから。
 ちゃんとおせち食べるように。
                             父母より 』
 おせちにはもうすでに二人が食べた跡があった。
 食べるもんか。
 不思議にそう思った。だけど、その気持ちとは裏腹に私の体は食べ物を渇望している。私はそれを振り気って部屋に戻った。
 姉はまだ眠っていた。私はそっと着替えてドスッと椅子に座る。何もすることがない。不意に緑色のライトが目にはいった。メールの着信を知らせるライト。そういえば忘れてたな。机の上にほったらかし同然に置いてあった携帯電話に手を延ばす。メールは全部で十件。全て年賀メール。画像を駆使したもの。絵文字を多用したもの。文字に色んな細工をしたもの。記号で絵を描いたもの。皆それぞれ豪華だった。
 でも、それは電子メールの冷たさをひた隠しにしているようで。
 だから余計その事実が表面に浮かんだ。
 中には動画を添付してきた人もいた。けれど、声を聞いても動画を見ても、私はそれを実感できなかった。 
 つながっているのにつながっていないような感覚。
 メールはそんな不安を私に残していった。
 年賀状はもう来てるかな。
 外に出て一階に下りた。

 『三○三 牧原』
 と書かれた郵便受けを覗く。束の葉書が入っていた。私は急いで取り出し、その場で分けた。
 お父さん、お父さん、お母さん、お姉ちゃん、お母さん、お父さん……
 私の名前がいつになっても出てこない。宛先に私の名前を見つけたと思ったら、
 『牧原 春花様
  智花様』
 となっていた。裏をみると、安堂先輩から。私はそれを自分の分にした。それから後に発見した藤谷先輩のも同じだった。ただ一つ、鈴原先輩だけがわざわざ二枚出してくれた。私は堂々とその一枚を自分の分にして、他の先輩達のを姉の分に戻した。そして最後の一枚。それにはこう宛ててあった。
 『牧原 春花様
  牧原  智花様』
 パッと裏返す。出したのはやっぱり長谷川先輩。こんなちょっとしたことで随分違うな。迷ったけれど、私はそれを姉の分にした。結局、純粋に私宛てなのは一枚だけ。
 こんなに人付き合いが悪かったっけ。
 そんなことはないはずだった。中学の時は毎年たくさん来ていたんだから。でも、中学の友達からはさっきメールで二、三人来ただけ。
 まだ一日だし。
 そう自分に言い聞かせて家に戻った。
 部屋に入ると姉は既に着替えて、椅子に座っていた。
「智花、一体どこに」
 私は何も言わず手に持った束を見せつけた。
「あ、年賀状か」
「はい、これお姉ちゃんの」
「もう分けたの。早いのね」
 パラパラと順に見ていく姉。その顔が色んな風に変わっていって楽しかった。カーペットの敷かれた床に座ってその百面相を見ていた私に、最後までその束に目を通さないで姉が話しかけた。
「残りの束は」
「お父さんとお母さんの」
「智花のは」
 その言葉がズシリときた。
「私のはねえ」
 ピラと一番上の葉書をとり、携帯をポケットからとりだす。
「これだけ」
 自分で言葉に出すと、「だけ」が妙に重くのしかかってきた。そうしている間にも携帯はメールの着信を知らせている。
「一枚?」
「と、携帯に十通以上」
「そう。由佳らしいわ」
 姉はそっと年賀状の束を机の上に置き、私は携帯のライトを消してしまおうとメールを確認する。
 引き出しを開ける音。
「智花」
「ん」
 メールを確認し終えて姉の方へ顔を向けた。
「はい、私から」
「年賀状?」
「そ。出そうと思ったんだけどここに出していいのか、その時はまだ分からなかったから」
 『牧原 智花様』
 はっきりと丁寧な字で書かれていた。裏返してみる。
 『あけましておめでとう
 今頃はまだ一緒に暮らしているかな。もし一緒に暮らしているなら、今年はもう少し手のかからないよ  
 うにしてよ。特に、私をからかわないこと。
  これからもよろしく                                   』 
 文句ばっか。でも一つ一つの字に姉の動きが見てとれたから、それらはとても温かかった。
「ありがとう。お姉ちゃん」
「大げさよ」
 再びパラパラと年賀状を眺める。何枚目かに行き着いてその音が止んだ。ペラっと捲る音。立て続けにトンっと束を机に置く音が聞こえた。
「ねえ」
 静かに話しかけた。
「何?」
 もらった姉の年賀状をじっと見つめていた視線を姉に向ける。
「本当は寂しいんじゃないの?」
 クリスマスの日、鈴原先輩が言っていたことを思い出した。
「そんなことないよ」
 なるべく自然に笑った。
「嘘。顔に書いてあるよ」
「大丈夫だって」
 ため息。
「姉を何年やってると思ってんの? 智花の考えてることなんて簡単に分かるんだから」
 私はただニコニコしてやり過ごそうとした。
「無理しないの。無理して笑っても自分が辛くなるだけよ」
 軽く眉をしかめた呆れ顔を向けてくる。
「お姉ちゃんだって」笑顔の緊張が途切れ、無性にイライラして、つい怒鳴った。
「お姉ちゃんだっていっつもそうやって笑ってるくせに。私に、私に何も言わないで一人で何でもしょいこんでさ。私だけじゃないよ。周りがどんだけ心配してるかわかってるの?みんな何時だって待ってるんだよ。お姉ちゃんが助けを求めてくれるのをずっと待ってるんだよ」
 激しい感情の変化についてこられなくなった頭が、勝手に涙を流させて私をなだめようとする。そんな少しでは熱くなった私を冷やすには足りなかった。それでも頭は命令し続けた。
ポンッと頭に手が置かれたかと思うと、グイッと力強く引き寄せられた。
 姉は震えていた。
 私も腕を回してしっかりと抱き締めた。その震えが収まるように。
 温かい。
 その温もりに私の心も激しさを失っていった。頭が命令を止める。最後の一滴がポトっと音をたててカーペットに落ちた。何となく姉から離れた。
「どう? 落ち着いた」
 私は黙って頷いた。姉はまたあの自然な笑顔を浮かべていた。泣いた形跡なんてどこにも見当たらない。自分の小ささみたいなものを痛感する瞬間だった。すこし間を置いて、姉は覚悟を決めたように話し出した。
「智花、人は最低で何人いれば幸せだと思う?」
 クラスの人数を答える。
 黙って首を振る。
 全校生徒の数。
 静かに首を振る。
 日本の人口。
 ゆっくりと首を振る。
 世界の人口。
 姉は一度目を閉じ、ゆっくりと二度と首を振った。
「正解は、二人」
「え、二人って」
 姉は眉一つ動かさず続けた。
「そうよ。自分ともう一人大切な誰か。それだけで人は十分幸せになれる」
「それなら。それなら何で私はこんなに辛いの?一人だけじゃない。私にとってはみんな大切な人達ばかりなのに」
「それは智花がまだ本当に大切な人に気づいていないだけ。みんながただ漠然と大切だと思ってるだけでは逆に混乱してしまうの」
「混乱するって」
 不意に姉が私の両手をそっと握った。
「いい? 私達はこうやって手を握って皆と繋がってる」握った私の手をいとおしそうに見つめる姉。
「だから、最低でも二人は必要なのよ。そして生きていくうちに、大切だなって思う人が増えてその輪はどんどん広がっていく」
 黙って頷いた。
「それは嬉しいこと。でもね、大切な人達が増えれば増えるほどわからなくなってしまうのよ。一番大切な人は誰だっけって。自分が直接手を握りたいのは誰だっけって。隣にいる人がそうなのかもしれない。でももしかしたら二人の間にそうじゃない誰かが入ってきているかもしれない」
 まるで自分に語りかけるようだった。私はただ黙っていた。
「それでね、あっちこっちその人を探すんだけど、みんながその人にように思えるし、逆にみんなが違うようにも思えてしまう。自分が曖昧だから。自分に、自信がないから」
 姉の握る手に力が入る。姉はただその握られた私達の手を見つめていた。悲しげでもあり嬉しそうでもある目。透明な硝子玉の輝きが永遠に続けばいい。ありえないことだと知りながらも、そう願わずにはいられない。そんな時の目。長い髪が数本姉の顔にかかった。それを振り上げようともせず姉は続けた。
「だけどね。これだけは覚えておいて」握る手に痛みを感じるほど力がこもる。
「私は絶対にこの手を放さない。どんな人が来ても、たとえ智花自身が振り払おうとしても、絶対に。私はいつでも智花の隣にいるから」
 ぐっと顔を向け、力強く私の瞳を見つめた。
「それから、どんなに輪が大きくなっても。たとえどんなに大切な人達がたくさんいても、私は智花をちゃんと見ていてあげる。智花が迷ってキョロキョロしていても私はずっと見てるから。だから。もし、一度見つけた大切な人が偽物だったら、私を見つけなさい。隣にいるんだから簡単でしょ?」
ふっと瞳から力が抜け、照れくさそうに笑った。
「なんで泣いてんの」
「そんなことないよ」
 そう言いながらも、頭に命令されて再び目尻に集まったそれは、逆らうことなく落ちていった。
「ほら」
 いつの間にか姉がハンカチを取り出して、拭いてくれた。
「ごめん」
「なに謝ってんの。それより分かった? ちゃんと覚えておくのよ。困った時の姉頼みってね」
 そう言って姉はニヤリと笑って、グッと親指を立てた。私もグッと返した。
 その間も、私の右手は固く握られたままだった。
 空いた左手は誰が握るんだろう。それともその人は姉の右手を握るのだろうか。分からない。でも少なくとも今、姉の右手にはハンカチが握られていて、姉は私に笑いかけている。それだけは確かなんだ。
 空腹が警告を知らせるまで、私達はずっとそうしていた。その緊張感のない音にお互い声を張り上げて笑った。
 冬もそろそろ旅立つ支度を始め出す頃。
 最後の仕上げだとでもいうように雪が降る。
 それは小さくてすぐ溶けてしまいそうな雪。
 そんな雪が私達の街を静かにゆっくりと自身の色に染めていった。

 
       十

「久しぶりだね。一緒に登校するの」
「そうね。私はいつも朝練があったし」
 短い冬休みが終わり、今日から三学期。桜の蕾はまだまだ固く閉じこもり、刺すように冷たい風が吹き抜けていく。手袋をした手も冷たく、マフラーの匂いに暖かな家を思う朝。
「寒いね」
「そりゃ冬だもの」
 三学期の始まりにはふさわしくない曇天。段々と近づいて来る校門もめんどくさそうに生徒を受け入れている。
「おはよ、智花」
 場違いなほど明るい声と同時にドンッと背中を押された。倒れそうになったのを何とか右足で踏ん張ってキッと振り返る。
「敏江、それに美奈も珍しいね。登校中に会うなんて」
「まぁ、方向が違うからね」
「じゃあ何で今日は」
「偶々だよ偶々」
 相変わらずだなぁ。とほのぼの思う。
 結局、あれから年賀状は来なかった。敏江達からはメールすら来てなかったから、しょうがないかなとは思いつつも、また顔を合わせるのが嫌になった。
 どこか二人に会うのが恐かった。
 でも何も変わらない敏江の笑顔。
 バカだなって自分を笑いたくなった。
「友達?」
 先輩らしい顔つきで姉が言った。
「あ、ハイ。柿谷敏江です」
 どぎまぎしているのが、やっぱり敏江らしい。
「浅沼美奈です。智花ちゃんには色々とお世話になってます」
 ペコリと頭を下げる。しっかりしてそうだけど、堅苦しい言葉に緊張が表れているのが彼女らしい。
「敏江ちゃんに美奈ちゃんね。これからも妹と仲良くしてやってね」
「もちろんです」
「ハイ、むしろ私からお願いしたいくらいですから」
 二人とも笑顔がぎこちなかった。姉が満足そうに笑う。もう少ししたら、吹き出しそうだった。
「それじゃあ、私は先に行くから」
「帰りは」
「時間が合えばね」
「分かった」
 私が時間を合わせることは姉も承知していた。つまり、帰りも一緒に帰ろうということだ。遠ざかる姉。長い髪が一歩踏み出すごとに揺れていた。何だか、いつもより大人っぽく見えた。
「ね、ね。今のってお姉さんでしょう?」
 敏江の頬は赤く染まっていた。今にも頭から湯気が出てきそうだ。
「そうだけど」
「いやぁ、後ろ姿から顔つきまでそっくりだったけど何かこう、違うね」
「えつ」
 初めての反応だった。私と姉が違うなんて、今まで誰からも聞いたことなかったから、私は何て答えればいいか分からなかった。
「美奈はどう思う」
「そうだね。何か先輩のほうが大人っぽいかな」
 敏江と同じ様に頬を赤らめている。
「そうそう。そんな感じ」
「どうせ私はちびの子供ですよ」
 反応に困った私はとっさにこんな時の決まり文句を選んだ。
「いやいや。智花も私からすりゃ十分大人っぽいって。ただ、お姉さんの方は何かこう皆のお姉さんって感じ」
 敏江は笑ってごまかした。
「そうだね。安心感がある」
 美奈が助け舟を出す。
「そうかな? 普段はあんなんじゃ」
「普段はどうでもいいんだって」
 敏江が詰め寄ってきた。
「どうしたの。急に」
「いいから。これ以上は何も言わないように」
 ジッと私を見つめる。その視線は半ば哀願するように、私の夢を壊すなと言っていた。
「分かった分かった」
「ならよし」
 勝ち誇ったように笑った。
「二人とも、早く行かないと遅れるよ」
「そうだね。でもその前に」
 二人は顔を見合わせた。鞄を開いてスッと何かうすっぺらいものを取り出す。
「はい、これ。遅れちゃったけど」
 同時にそれを受け取った。
「年賀状? 今更?」
「いやね。両親関係がどうなってるか分からなかったし、こっちから聞くのもあれだしさ」
 と言って頭を掻く敏江。そのバトンを美奈が引き受ける。
「それでね、散々迷って始業式に渡すのが一番確実なんじゃないかってことになって」
「そ。ほらもし他の学校行くんだとしてもさ、智花なら始業式の日くらい来るだろうと思ってさ」
 二人とも必死だった。私が黙ってたから怒ってると思ったのかもしれない。
「メールが一番手っ取り早かったんじゃない」
 ポツリと独り言のように言った。
「あ」声がそろう。
「ごめん。そこまで気が回らなかったよ」
 手を合わせて、許してと言うように敏江は笑った。
「ううん。私はこっちの方がいい。来年も、どんなに遅れてもいいからこっちにしてね」
「そう? ならよかった」
 美奈が安堵の表情を浮かべる。
 本当は今すぐにでも二人を抱き締めたかった。
 抱き締めて泣きたかった。
 泣いてどんなに二人が大切かを伝えたかった。
 でも、私の顔には笑顔が張り付いて剥がれなかった。
 今までもそうしてきた。そのことは年賀状の枚数に如実に表れていた。私のお面を取れるのはたった一人。 
 私の右手を握った姉だけ。
 だから、私の左手はまだ空いたまま。ただずっと、お面を剥がす人を待っている。
「本当に遅刻しちゃう。走らなきゃ間に合わないよ」
 私は走り出した。
 視界には誰も映らない。ただ、まだ不機嫌そうに私達を待ち構えている校門だけが見えた。

 始業式はすぐ終わった。校長の貫高い声を聞き流すだけでいい。目覚まし時計の音に似た声に対しても立ち寝が出来る強者も中にはいた。
 急いで昇降口に向かう。姉はまだいない。他の人の邪魔にならないように壁に寄りかかって待った。続々と生徒達がやって来る。ちょっとしてその中に姉を見つけた。
 長谷川先輩と一緒だ。
 先に帰ろうと思った矢先に姉に発見されてしまった。
「何帰ろうとしてんの」
 姉が一人歩み寄って来た。
「だって私が一緒だとまた前みたいに」
「まだそんなこと気にしてんの。あれはもういいから、ね、一緒に帰ろう」
 私はしぶしぶ頷いた。
「んじゃ。行こっか」
 先輩がぬっと顔を出し、私は思わず身を固めた。

 結局、あの日とほとんど変わらない。私は姉達の後ろをトボトボ歩く。変わったのは先輩と笑って話す姉の姿。あの日はちょっとぎこちなさが残った笑い方で、今の姉の笑い声はカラカラに乾いた感じ。二人は時折私を見ては話に花を咲かせていた。苛々するのは変わってない。でも今日の私には姉達を見る余裕があった。
「じゃあ、俺はここで」
「うん。またね」
 互いに手を振り合う。先輩はそのまま帰って行った。
「やっぱり。私がいない方がよかったんじゃ」
「何で」
「だってここ、この間別れたところだし」
「長谷川君この道が気に入ったんだって。こっちの方が近いらしいよ。それに、智花がいたから話が弾んだんでしょ」
「話のネタに人を使わないでくれる」
「良いでしょ。別に」ふんっと鼻を鳴らす。
「私達も早く行こう。お腹空いちゃった」
「昼は何にするの」
 期待を込めて姉を見る。今日は誰もいないから、何か買うか作るかだ。あそこのイタリアンもいいし、角のラーメン屋もいい。家で作っても姉の作るものなら何でもおいしい。そんな想像をしているうちに私はそれまでの苛々を忘れていた。
「食べ物のこととなると、すぐこうなるんだから」呆れ顔を露骨に表す。
「じゃあ、昼は私が何か作ってあげよう」
「何かって何?」
「そんなに必死にならなくても。家に着いたらちゃんと考えるから」
「分かった」
 ニパーッと自然に顔がほころぶ。
「じゃあ、早く帰るよ」
「もちろん」
 空は、朝の曇天が嘘のように、吸い込まれそうになるくらい青く澄んでいた。
 まだまだ強い北風に抵抗するように、時折暖かい風が吹く。
 混ざった空気は生暖かくて、少し気持ち悪かった。

 それから半月。最近私は一人で帰るようになった。姉は気にするなって言っていたけど、やっぱり二人の邪魔をしてるのは確かだったから。それに、部活が終わるまで一人で学校にいるのも辛かった。家に帰ってもしばらくは一人だったけど、それでも学校で部活を観ているよりは良かった。
 すごく羨ましかったから。
 私は運動オンチで体力がまるでない。最近はまた体力が落ちたみたいですぐにばててしまう。だから、部活で皆が頑張っている姿を見ると見せつけられてるみたいで嫌だった。
 必死に頑張っている人達を見てそういう風にしか見れない自分がもっと嫌いだった。
結局、私は逃げただけなのかもしれない。


       十一

「智花。何か先輩が呼んでるよ」
 帰り支度を始めていた私に敏江が知らせにきた。
「お姉ちゃんが」
「ううん。知らない人」
 ドアに目を向ける。鈴原先輩がニコニコ顔で手を振っていた。
「分かった。ありがとう」
「どういたしまして」
 敏江は先輩とそっくりな笑みを浮かべていた。
「よっ。久しぶりね」
「先輩は部活があるんでしょ?」
「そ。だから単刀直入に言うよ」
「どうぞ」
 フッと先輩の顔から笑みが消える。意外なことに私は思わず身構えた。
「最近、春花の様子がおかしいんだけど。何かあった?」
「お姉ちゃんが?」
「気付いてなかったの?」
「そういえば最近は時間がすれ違って、ろくに話しもしてないかも」
 姉は私が夕飯を食べている時に帰って来て、部屋に直行。そのままお風呂入って、私がテレビを見ている時に黙々と夕飯食べ始めて、夜はすぐに寝てしまう。確かにおかしいと言われればおかしい。
「私は疲れてるんだなって思ってたんですけど。最近部活が忙しそうだし」
「それならいいんだけどね」伏し目がちに言った。
「この間聞いてみたんだよ。ほら春花近頃は長谷川と帰ってるでしょう?」
 私はコクリと頷いた。まだ続いているらしくてホッとする。
「だから長谷川に何か言われたんじゃないかって」
「それで」
「そしたら春花はさ、『何も言われないよ』って言って笑うんだよ? 何かもう頭来てさ」
「どうしたんですか」
「別にどうもしないよ。っていうかできなかった」
「どうして」
「智花ちゃんにもわかるでしょ? 春花って何か人を和ませる感じがするじゃない」
「そうですね」
 ゆったりと微笑む先輩。そこからは不完全燃焼の怒りなどみじんも感じなかった。その怒りはどこに消えてしまったのだろう。姉が全部吸い取ってしまったのだろうか。
「でもやっぱりもう一度あたってみようと思う」
 目に力が篭っていた。私はそれよりももっと強い力を込めて先輩を見た。
「いえ、これは私の役目ですから」
「でも妹には知られたくないことかもしれないよ」
「だからこそ。私がやります」
 ちょっとの間互いに目を見合った。先輩が目をつむる。
「そうだね。今までずっと姉妹やってきたんだからね。それに、これはトナカイの出番かもしれないし」
 ポンと私の頭に先輩の手が置かれた。その久しぶりの感覚に少し戸惑う。
「優しいですね。先輩って」
「今更気付いても遅いよ」
 ニヒッと笑う先輩。太陽のように明るく。姉とはまた違った強さを感じる。
 私は先輩からはたくさん元気を貰った。
 何時だって先輩は前向きで、ひたすら走り続けていた。
 でもそれは振り返ると止まってしまうから。
 止まると倒れてしまうから。
 そんな緊張が先輩を誰よりも明るくしていた。
「すみません」丁寧に頭をさげた。
「ありがとうございます」
 私の鼻が使命感に燃えるように赤みを帯びた。パッと体を起こす。
「それでは部活、頑張って下さい」
 ニコッと笑って見せてから、直ぐに教室に戻った。
 クラスの人達が不思議そうに私を見ていた。

 先輩にはああ言ったものの機会が無かった。土日はいつも練習試合だといって夜まで帰って来ないし、寝る前に話そうと思っても、私が部屋に入ると決まってベッドを上がり始めていて、その背中が話しかけるなと言っていた。
 そんな日が続き、とうとうチャンスが巡ってきた。

 二月中旬の日曜日。その日部活の無い姉は出かける気もなさそうだ。でもいざとなったら、躊躇してしまい、もう昼食を終えてしまった。
「ご馳走さま」
 のんびりとした口調で姉が言った。
「久しぶりね。一日中家にいるの」
 食器を片付ける母。先に食べ終えた父は部屋に籠って仕事をしている。
「そうだね」
「試合、勝ってる?」
 私も思い切って聞いてみた。
「ん~。まあまあね」
 何だ、いつもと変わらない。やっぱり先輩の考え過ぎかな。
「それじゃ」
 スッと立ち上がって部屋に入っていった。
 先輩の考え過ぎならいいじゃないか。でも、聞かなかったらそれも分からない。
 私は高鳴る胸を抑えて、しっかりとドアノブを握った。

「智花も勉強するの?」
 椅子に座り、姉は視線も寄こさずに言った。
「違うよ。ただお姉ちゃんに聞きたいことがあって」
 後ろ手でドアを締める。
「聞きたいこと」
 体ごと私に向けた。少し姉に近づく。足が鉛みたいに重い。
「あのさ、最近何かあった? お姉ちゃん何だかとても辛そうだよ」
「そうね。部活ばっかで疲れてるかもね」
 ニコッと笑う。頼りない笑顔だった。
「そうじゃなくてさ。何か私に隠してることない」
「心配してくれてありがとう。でもそんなことないから」
 机に向かおうとする姉の腕を掴んだ。何の抵抗もしなかった。
「痛いから離して」
「嫌だ。お姉ちゃんが本当のこと言うまで離さないから」
「だから、何もないって」
 囁くように静か。
「嘘。お姉ちゃん絶対何か隠してる」
 私は思わず叫んだ。いつもと違う姉がいた。掴んだ腕からはいつもの温かさが伝わってこなかった。
「長谷川先輩のことでしょ? 長谷川先輩と何かあったんでしょ?」
 姉が私の手を振り払おうとした。でもその抵抗はあまりにも弱々しかった。
「それはあなたが気にすることじゃないって何度言えば分かるの」
 相変わらず静かに語るような調子。でもそこには凄みがあった。私は怯まずに言い放った。
「何度言ったって分からないよ。お姉ちゃんが心配だから。お姉ちゃんは私にとって一番大事な人だから。幸せになってほしいから。だから、何かあったなら言って欲しいよ。私だって力になりたいよ」
 握る手に力が無くなる。姉が体を向けた。背筋が凍った。姉は笑っていた。でもそれは温かさを少しも残していない。初めて姉を、怖い、と思った。でも同時に、かわいそうだ、とも思った。
「ねぇ、智花」
「何? お姉ちゃん」
 必死に笑おうとした。だけど頬がひくついてそれは上手く形を成してくれなかった。
「智花は考えたことない? 『もし私達が一人だったら』って」
 私の不格好な笑顔が崩れて、どうしようもない怒りに変わったのが自分でもわかった。でもそれは誰に向けられたものでもなかった。特定の何かではなく、全てに向けられていたと言ってもいいような、そんな曖昧で強い感情だった。やり場の失くしたそれは、やっぱり目の前の姉に向かうしかなかった。
「そんなこと考えたことないよ。何でそんなこと考えるの? お姉ちゃんのばか!」
 私はわれを忘れて、あらん限りの声を出していた。
「あんたたちうるさい! 近所迷惑でしょ」
 急にドアが開いて母が怒鳴った。後ろを振り向く。父も一緒だった。
「二人とも、来なさい」父が静かに言った。
「三人で話したいから、御前は買い物でも行っていてくれないか」
 有無を言わさぬ言い方に母も黙って頷いた。
「じゃあ行ってきます」
 支度をした母が玄関に向かう。
 ガチャン
 時間が止まったように誰も動かない家の中で、その音が響く。それが合図であったかのように、私達は居間に向かった。父は私達と対面するように座り、両肘をついた。
「お前達が喧嘩するなんて珍しいな。小学校以来か」
 威圧するような口調とは裏腹に父は嬉しそうに微笑んでいた。
「ごめんなさい」
 姉は堂々と父を見据えている。
「いや。喧嘩自体はいいんだ。それでしか分からないこともある。だけど問題は智花の声しか聞こえなかったってことだ」
 沈黙が時を刻んでいった。意を決したように、父は口を開いた。
「春花。何かあったのか? いくら普段あまり顔を見ないといっても分かるんだぞ。いや、だから分かるのかもしれないが」
「別にそんなんじゃないのよ。ただ疲れてるだけ。それに、智花の声しか聞こえなかったのは、私が大声だすのが嫌いだからってだけよ」
 姉が私の手を握ってきた。表情一つ変えていない。その手はまだ冷たくて、微かに震えていた。
「じゃあ、私戻るから」
 ゆっくりとした動作で部屋に行く。私もその後に付いて行った。その間、父は一言も言わず、ただ目をつむっていた。
 父の頭に、見慣れない白髪が目立っていた。

 パタン
「さっきは私がバカだったわ。あんなこと、私だって本当に考えてるわけじゃないのよ」
 背中を向けたまま言った。
「うん。分かってる」
「ごめん。ちょっと、頭冷やすから一人にして」
 私は黙って部屋を出た。居間にはもう父の姿は無い。居間と一続きになった部屋のソファにドスッと体を沈め、意味も無くテレビをつけた。前に見たことのある番組の再放送が流れている。ぼーっとその様子を眺める。その中の人達は皆楽しそうに笑っていた。食べ物がおいしそうだった。
 でもそれだけ。私にはその楽しさも美味しさも体験出来ない。ただ、こうやって見てるだけ。
 うつ伏せに寝転がってみる。眠くもないのに、私は夢の世界へと誘われていった。

「智花。こんなところで寝たら風邪ひくよ」
 顔を上げる。背中が痛い。
「あ、お母さん」
「あら、泣いてたの? そんなに目を腫らして」
 柔らかく微笑んでいた。そんな母に姉の影を重ねる。私はゆっくりと体を起こした。体中がきしむ。
「本当に。何があったの?」
 首を横にふった。
「お姉ちゃんは」
「部屋。一人になりたいって」
「そう」
 つけっぱなしのテレビからどよめきが起こる。いつの間にか窓からは夕日が差していた。
「ちょっと、安心したわ」
 母が隣に座った。温かさが伝わってくる。
「何で」
「あなたは知らないかもしれないけど、お姉ちゃんは本当は泣き虫で、勉強も大嫌いなのよ」
「そうなの」
 母を見た。同じ高さの目線。微笑む顔に見たことのない皺が目立つ。
「そ。小学生の時は勉強ほったらかしで遊びにいって。男の子に何か言われるとすぐ泣いて帰って来たんだから」
「へー。全然知らなかった」
「あなたの前ではお姉ちゃんらしく振る舞ってたからね。それでもあなたのいない時はそうだったのよ」
「今も」
 母は寂しそうに首を振った。
「ほら、あなたが泣いて帰って来た日あったでしょ」
 コクンと頷いた。夢で思い出したあの日だ。
「その日以来、やけにお姉ちゃんってことを意識したみたいで、そんなことは無くなったわ」
「私の、せい」
「誰のせいでもないのよ。それにしても、やっぱり変わらないのね、あの子。最近は自然に姉らしくしてるなって思ってたけど。全く、お父さんに似て頑固なんだから」
 母は笑いながらため息をついた。
「私、どうすればいいの」
「私に聞いても仕方ないでしょ?あんた達の問題なんだから、自分で考えなさい」
 突き放すような言葉だけど、まだ手助けする準備はしているようだった。
「まずは智花がしっかりしなきゃ。妹がしっかりしてないからお姉ちゃんが苦労するんでしょ?」
 叱りつけるようにじっと見つめてきた。ぼやけてくる視界を通して母を見た。
「ほら、すぐそうやって泣かない」
「はいっ」
 私は歯をくいしばって堪え、笑って見せた。
「よろしい。じゃあ、夕飯作るから手伝って」
「うん」

 わくわくするような音とおいしそうな香りが居間に満ちる。それらに誘われた姉が一緒に手伝ってくれた。 その目はほんの少しだけ赤い。
「全く、智花は不器用なんだから」
 じゃがいもをどんどん小さくしていく私を見て、呆れていた。
「いつかちゃんと出来るように、今練習してるんだって」
「今日のカレーはじゃがいもが随分小さくなるわね」
「しょうがないでしょ。我慢して」
 じゃがいもと包丁をじっと睨む。慎重に皮を剥いているはずなのに、それはやけに分厚い。
「はいはい」
 呆れたように笑った。その笑顔には温かさが戻っていた。そんな私達を満足そうに母が見ていた。

 夜、誰かのしゃくりあげる音で目が覚めた。それは上から聞こえてきた。
「泣いてるの?」
 その音はそれっきりやんだ。物音一つしない部屋。明日、やっぱり長谷川先輩に話をつけなくちゃ。決意を固めた私を暗闇がそっと包みこんでいった。


       十二

 翌日の放課後。私は真っ先に姉の教室へ行った。姉も長谷川先輩も見当たらなかった。
「智花ちゃん、こんなところで何してるの?」
 安堂先輩が近寄ってきた。鞄だけ持っている。
「あれ。先輩、部活は」
 確か姉は部活がないなんて一言も言ってなかった。
「顧問が急用でいないから無くなったって、由佳が」
「姉は」
「私は知らないけど」
「春花ならコートに行ったよ」
 鈴原先輩が顔に出した。
「何でですか?」
「さぁ? また気晴らしでもしてんじゃないの」
「そうですか。ありがとうございます」
 私は危ないのを承知で帰りや部活に急ぐ人混みの中を走った。

 いつの日かと同じようにボールが反響する。私は走り寄って肩を掴んだ。ビクッとして、私を見る。その黒い瞳は微かに揺らいでいた。
「急に横から来たら危ないよ智花。どうしたの?」
「どうしたのじゃないよ。今日部活無いんでしょ。ここだって使っちゃいけないはずだし」
 姉はただ黙ってうつ向いていた。
「一緒に帰ろう」
 コクッと頷く。
「先輩は」
 首を横に振った。
「じゃあ、私が伝えてくるから、その間に着替えといて」
「うん。長谷川君は多分男子の方の部室にいるから」
 その場所を教わり、私は姉を置いて走った。私の心臓は悲鳴をあげていたが、気にせず走り続けた。

 長谷川先輩の姿が視界にはいった。私は一度止まって呼吸を整えてから歩いて先輩の元へ行った。
「あれ、智花ちゃんどうしたの?」
 慌てて繕うように先輩は言った。
「今日は先に帰って下さい、と姉が」
 堂々と先輩の目を見た。
「それから、これは私からなんですけど」
「ん」
 先輩は姉のことどう思ってるんですか?
 壁に寄り掛かる彼をじっと見つめ、その返答を待った。赤い光が彼の頬を染めている。風がカサカサと響き、遠くでカラスが仲間を呼んでいる。
「どうって。仲の良い友達、かな」
 顔色一つ変えなかった。握り拳に力が入る。重い口を開いて私は苦々しい気持ちで言った。
「先輩がそこまで鈍感だなんて思いませんでした」
「言ってる意味がわからないんだけど」
 あくまでも平然としたその態度に、とうとう我慢できなくなった。
「どうして分からないの? お姉ちゃんは先輩のことが好きなんだって。先輩のこと考えてあんなに笑ったり泣いたり悩んだりしてたのに、全然気付く素振りも見せないで。お姉ちゃんかわいそうだよ」
 ぐっと手を握った。奥歯を噛みしめた。彼の足もとを、狭い視界で見つめた。
「智花ちゃん」
 彼はゆっくりと私の方に手を差し出してきた。私はそれを払って彼を力いっぱい睨む。彼はいつもと同じ柔らかな笑みを浮かべていた。
 お姉ちゃんだけじゃない! 私だって、私だって孝俊君のことが!
 自分で言ったことが信じられなかった。撤回してどうにか取り繕おうとした私の言葉は、彼の体に妨げられた。ふっと背中に感じる彼の大きな手。体中に伝わってくる彼の温もり。私はその心地よさに身を傾けた。
「分かってないのは」
 彼を見上げる。彼の表情はこわばっていた。
「君の方だよ」
「えっ」
「俺は君が好きなんだ。一目見た時から気になって仕方ないんだよ。それなのに」
「えっ。でも」
「嫌とは言わせない。君の方から告白してきたんだから」
 彼は再び強く私を抱きしめた。
 その瞬間、姉の色んな笑顔が走馬灯のように頭をよぎった。
 同時に私は彼を突き放した。
「やっぱり、駄目。私には出来ません」
「別に裏切りじゃないだろ」
 私は黙って首を振った。
「じゃあ俺の気持ちはどうなる。本気で好きな奴にフられて、その姉と付き合えっていうのかよ」
「ごめんなさい」
 どうにか声を絞りだした。
 震える声。
 赤く染まり始めた空。
 流れる沈黙。
 私はクルリと方向を変えた。
 もう、帰ろう。
 歩き始めた。
 もうおしまいにしたい。
 でも
 歩き始めた私の左腕を先輩が痛い程に掴み、私はそのまま力一杯引き寄せられた。大きな手を背中に感じる。私は必死に抵抗した。とにかく先輩から離れようとした。もの凄い力。あの夏の日、遠のく意識の中で私が安心感を感じた手と同じだとは、到底思えなかった。その手から痛いほどの熱さが伝わってくる。その熱さに応えるように高鳴る私の鼓動。
 やがて、私の身体が抵抗をやめた。
「やっぱり納得いかない。本当に駄目なのか」
 ブラリと垂れ下がった両腕が先輩の背中に回る。私は黙って首を振って笑った。
 それは自然に溢れてくる笑みだった。
 そっと唇を重ねた。
 遠くで革靴の去って行く音が聞こえた。
 誰かが囁いた。
 よくやった


       十三

 私は姉を裏切った。
 あんなに彼を愛していた姉を。
 彼のことを想い、ある時は子供っぽく笑って、ある時は泣いていた姉を。
 すごく綺麗で輝いていた姉を。
 私は自分の本当の気持ちもあやふやなまま裏切った。
 剥がしてはいけないお面を剥がしてしまった。
 私は本当に彼を愛していたのだろうか。
 私が本当に愛していたのはどっちだったのだろうか。
 ふと後ろを振り返る。小さな女の子が転んだ。同じ恰好をした、転んだ子を少し大きくしたような子がすぐに走って来た。その子は、転んだままうつ伏せで泣いている子をひょいと起き上がらせるなり言った。
「大丈夫だよ。全然痛くないから」
 その子は近づこうとした私を睨めつけた。
 この世の人達皆を疑いつくす。
 そんな覚悟を感じた。
「お姉ちゃん」
 さっきの子は泣き止んでいた。まだ少し涙声だった。
「ん? なぁに?」
 お姉ちゃんはさっきまでとは一変して笑顔を妹にむけた。
「ありがとう」
 ふわっと体の内側から沸き上がるものがあった。
「何言ってんの。いつものことじゃない。さ、帰ろう」
「うん」
 そう言って二人は手を繋いで、来た方向へ帰って行った。
「そうだった」
 一人残された私。
 桜を咲かせる暖かな風が眩しい夕焼けに吹く。
 私は走って家へ向かった。
 その間、一度も後ろを振り返らなかった。

 部屋を覗くと姉は机に座って、明かりもつけずに何かをぼーっと眺めていた。少し遅れて私に気付くと、すぐさまそれを机の引き出しに隠すようにしまい込んだ。
「先に帰ってたの? 探したよ」
「お帰り。私こそ探したのよ」
「何で見付からなかったんだろ」
「えっ。あ。そうね」
 それっきり黙り込む姉。何かおかしい。
「何かあった?」
 姉は黙って首を横に振った。
「ふぅん。怪しいけど。ま、いっか。そんなこともういいや」
「えっ、ちょっと」
 呼び止めようとした姉を無視して私は台所へ行った。今日は父も母も遅くなると言っていた。夕食は冷蔵庫に入っている。今度姉が楽しく夕食を食べるのはいつになるだろう。
「せめて今日ぐらいは、とも思ったけど」
 でも、それは出来ない。
 もう止められない。
 彼と出会ったあの日から、気付かずに下り坂を流れていた。
 私という水。
 徐々に徐々に急になって、
 もう万里の岩さえも塞き止められないほどの勢いになってしまった。
 そしてそれは、あまたの土砂を身に纏う濁流なのだ。
 私は、ゆっくりと包丁を取り出して、後ろ手にそれを持った。

 片手でドアを開ける。姉は両肘をつき、頭をのせてぼーっとしていた。
「ねぇ、お姉ちゃん」
 私の声にピクッと体が反応した。
「びっくりさせないでよ」
 本当にびっくりしたような顔。その顔があまりにも面白くて愛らしくて、思わず笑った。
 そして同時に傷ついた。
「笑うな」
「ごめんごめん」
「全く、何なの? 居間にいるんじゃなかったの」
「ここだって私の部屋なんだから、別にいいでしょ」
「そう、だけどさ」
「それに、お姉ちゃんにはちゃんと話をしたかったから」
なぜか姉が私を睨んでいる。
「話って」
「うん。あのね」
 私は覚悟を決めた。いつまでも姉に起き上がらせてもらうわけにはいかない。今度は私が姉を起き上がらせる番だ。
「私、お姉ちゃんのこと大好きだった。世界で一番って胸を張って言えるわ。私が嬉しい時にはいつもお姉ちゃんが側にいた。私が悲しい時にはいつもお姉ちゃんが側にいて慰めてくれた。なのに私は、私は何も出来なかった。ただお姉ちゃんがくれるものを受け取るだけ。お姉ちゃんから奪うことしかできなかった」
「そんなこと」
 姉は私から目を反らして言った。その視線はさっきの引き出しに向けられていた。
「私思った。このままじゃいけないんだって。このままじゃお姉ちゃん不幸になる一方だって」
 姉は黙っていた。
「だからね」
 後ろ手に持っていた包丁の切っ先を姉に向けた。沈みかけた夕日に照らされ、紅く燃えるように輝くそれを見て、目頭が熱くなった。

 私は笑った。

「ごめん。お姉ちゃん」
「ちょっと、待ちなさい!」
 私は切っ先を翻した。同時に姉が椅子から飛び上がって駆けてくる。
「愛してたよ。お姉ちゃん」
 目を瞑って思いきり包丁を引き寄せた。
 柔らかい感触が皮膚を伝わってきた。痛みも感じないほど一瞬だった。

 ふと目を開ける。部屋の床が見えた。どうやらうつ伏せに倒れているようだ。
 あれ? 死んでない。
 そう思って起き上がった瞬間、私は氷ついた。そこには姉がいた。姉の両手は私の手を力無く覆っていた。そして私が握っていた包丁の先には姉の左胸が。そして其処から夕焼けよりも鮮明な紅い血が流れていた。
「お姉、ちゃん」
 ボソッと自分自身に呟いた。それは紛れもなく姉だった。姉の顔は紅く染まりいつもと何ら変わりはなかった。ただ、無機質なステンレスの塊と異様に鮮明な液体が姉を姉らしからぬモノに仕立てあげていた。
「嘘でしょ。お姉ちゃん、お姉ちゃん」
 姉にしがみついた。
「ほら、私こんなに悲しいよ。いつもみたいに慰めてよ。ねぇお姉ちゃん!」
 さっと、頭に細い手が乗った。姉の顔をみると、姉が私の方を悲しそうに見ていた。
 うっすら微笑んでいる。
「お姉ちゃん」
 姉は私の頭をゆっくりと撫でた。
「ごめんね」
 かすれた声が僅かに聞こえた。
「何で? 何でお姉ちゃんが謝るの」
「もう。智花を、慰められない、から」
「そんなことない。今すぐ救急車呼ぶから」
 姉の瞳はただ私を見つめていた。それだけで私はその場を離れられなかった。
「たとえ、生きてても。私はもう」
「何で? お姉ちゃんは私のこと嫌いなの」
 姉は首を必死に横に振った。
「大好きよ。大好きだった。だから」
「なら、何で」
 今まで私の頭を撫でていた姉の右手が、顔に沿って下がっていき、頬に触れた。ぬたりと生暖かい感触。
「孝俊君と、幸せになってね」
「えっ、今なんて」

 姉は笑った。
 今までで一番綺麗な笑みだった。
 全く自然だけど前みたいな不自然さがなくて
 しがらみの無い純粋な笑顔。
 私の一番見たいと思っていた笑顔。
 姉の手が虚しく床に落ちる。
 姉はもう私を見ていなかった。

 どの位そうしていたのだろう。窓からは月明かりが差し込んで来ている。真っ暗な部屋のなか、その光に浮かび上がった姉の顔は白くて美しかった。
「あれっ。お姉ちゃん。こんなところでなにしてんの?」
 ワタシはアネに話しかけていた。
「そういえば私もなにやってたんだろ」
 辺りを見渡した。暗くて良く見えない中、怪しく光るものを見つけた。
「そうだ。私がお姉ちゃんをこの手で。お姉ちゃんは知ってたんだ。何もかも。だからあんなに悩んで。結局知らなかったのは私だけ」
 ふと、さっきの引き出しに目がいく。中を覗いてみた。そこには私があげた写真立てが不自然にうつ伏せになっておかれていた。手にとって表を向ける。
 私と姉が一緒に写った写真。家族で旅行に行った時の写真だ。
「あれ、もう一枚入ってる」
 急いで引き出しにしまったせいで少しずれた写真の隙間からそれは覗いていた。私達の写った写真を取り出す。
「長谷川先輩」
 多分、修学旅行の時の写真だろう。制服を着た先輩が真ん中で笑っていた。それはこの写真立てが用途通りに使われた証だった。私は静かに手に持っていた写真を元に戻し、写真立てを机の上において、再び、姉に目を向けた。

何でお姉ちゃんは死んでいるの?
 私が殺したから。
何でお姉ちゃんは私に殺されたの?
 私のせいで悩んでたから。
何でお姉ちゃんは悩んでいたの?
 彼と私が両想いだと知っていたから。
何でお姉ちゃんはそのことで悩んでいたの?
 お姉ちゃんは私も愛してくれていたから。
何でお姉ちゃんは私を愛してくれたの?
 私がお姉ちゃんの妹だから。

私がいなければ、姉は姉じゃなかった?
私がいなければ、姉は私を愛さなかった?
私がいなければ、彼は私を愛さなかった?
私がいなければ、姉はあんなに悩まなかった?
私がいなければ、アネはいまここにいなかった?
私がいなければ、姉は、幸せ、だった?

 スッと膝立ちになって赤銀色に輝くそれを抜いた。
「そっか」
 それを力強く握った。そこに映る私も同じように紅く輝いていた。歯を食いしばっても溢れる涙を止められなかった。
「始めから間違ってたんだ」
 思わず笑った。全く気付かなかった。
 最初から何もかも間違っていたなんて全然気付かなかった。
 自分が悪魔だとも知らずに姉の優しさに浸っていたなんて。
 姉を慕うふりをして、姉を地獄に落とす算段をしていただなんて。
「ごめんね。お姉ちゃん。愛してるって言ったけど私、それが本当かもうわからなくなっちゃった」
 だからせめて、形だけでもいい、その気持ちを表したい。
 私は静かに切っ先を左胸に当てた。
 勢い良く引き寄せる
 固い感触。身体を駆け抜ける苦痛。姉も感じた苦痛。
 でもそれは一瞬で消え去ってしまった。


       十四
 ふと目を覚ますと、白ばかり。
 あぁ、ここが地獄、かな?
 よくよくみると白いパネルが張り合わされているようだ。体も仰向けになっているように感じる。
 ということは天井?
 首を回してみる。動く度に左胸が鈍く痛む。右側に窓、足元にはシーツがかけられ、左側にはドア、目線と同じ高さくらいの小さな棚、そして点滴。
 ここは病院?
「また生きてるの」
 その時、ドアが開き、医者らしき人が入ってきた。
「君っ。彼女が目を覚ましたぞ。急いで家族に連絡を」
 医者らしき人は私を見るなり後ろに向かって言った。パタパタと誰かの走る足音が遠のくと、私に向かって笑いながら言った。
「いやいや、よかった。もう一週間近く眠りっぱなしだったんだよ。君は運がいい。ここに運ばれて来たときは血だらけで助からないかと思ったが、包丁が肋骨に当たってたからあまり心臓は傷付いてなかったんだ。いやいやよかったよかった」
「はぁ」
 そっか。姉に拒まれちゃったのかな。
「まぁ、今は起き抜けでよくわからんか。すぐに御家族の方が来るよ」
 何で死ねなかったんだろ。
 私はあんなに私を殺したかったのに。
 いるだけで人を不幸にするならいっそいない方がいい。
 私はお姉ちゃんを、大好きな人をあんなに苦しめたのに。
 そんな私を神様は許すはずない。
 そうだ。きっと私はもういないんだ。
 じゃあいまここにいるワタシは?
 いまここでかんがえているワタシはだれ?
 私はもういない。神様がちゃんと地獄に送ってくれた。
 じゃあワタシはきっと誰でもない。
 真っ白な紙。
 きっとそうだ。
 その時、ドアが開く音がして父と母が入ってきた。
「智花」
 二人とも泣いていた。母がワタシを抱きしめた。
「よかった。あなたが生きていて」
 母が言った。
 ごめんね。ワタシはもう私じゃないの。
「あの」
 母が顔を上げた。
「何?」
「どなたですか」

 その後が大変だった。智花が記憶喪失になったばかりか、何と言っても智花は姉が死んだ事件の重要参考人なのだ。勿論ワタシは記憶など失ってはいやしない。
 ただ私を捨てただけ。
 ワタシはワタシを演じた。記憶を語れば私である智花になってしまう。そうしたら姉は浮かばれないだろう。それでも周りはワタシを智花と呼び続けた。
 事件の方は早く片付いた。だってあれは春花も智花も自殺だったのだから。ワタシにはその場にいたという関係しかない。記憶障害という診断も下っているのだ。『姉が自殺するのを見て自分も自殺したが、あまりのショックに記憶を失った』とするのが妥当だろう。
 トシエやミナは時々、カレは毎日のように見舞いに来た。初めて来た時はさすがに信じられないというような顔を隠しきれていなかったが、
「俺が智花の記憶を戻してやるから」
 と意気込んで、それ以来カレは色々とその類の情報を集めているそうだ。
 そして今も、カレは側の椅子に座って、ベッドから半身起こしたワタシを、何を話すでもなくただじっと見つめている。
 そうしたら、智花が還って来るかのように。必死だった。
 でもだからといってワタシに何が出来るだろう。智花という中身を捨てて、周りの人達の記憶という支えを失った空っぽのワタシに出来ることなんて。
「ねえ」
「ん? 何?」
 カレの必死な眼差しが弛む。
「ワタシはもう智花じゃないのよ」
「だから」
「あなたは智花ていう人の見舞いに来てるんでしょう? なら病室を間違えてるわ」
「お前は智花だろ」
 カレはからっと笑った。
「いいえ。違うわ。ワタシはワタシ。決し智花にはなれない」
「いいや。お前は間違いなく智花だ」
「あなたはいつもそう言うわ。でも何の根拠があるって言うの」
「俺の記憶だよ。俺の記憶がお前は智花だと言ってる。今目の前にいる女の子がお前が愛した人なんだって」
「そう。でもワタシの記憶はあなたが長谷川孝俊だなんて言ってないわ」
「それはお前の記憶がないからだろ」
「そうかしら? じゃあ仮に。容姿も性格もなにもかもが智花と同じ別人がいたらあなたはその人を智花と見なすかしら」
 カレは腕を組んで考えこみ、そしてポツリと言った。
「別人は別人だろ」
「どうして」
「俺にはその人とそっくりな人と過ごした記憶があるけど、その人は俺と過ごした記憶がないから」
「そう。それなら今のワタシ達と全く一緒じゃない」
「いや違うね。その別人にはもう一つないものがある」
「それは何?」
「上手く言えないけど、智花の『源泉』みたいなもの」
「記憶とは違うの」
「違うよ。記憶は外の人達が人を認識するための手段でそれは変わって行く。だけど源泉はその人の内部から出てくるオーラみたいなもんで、周りはそれをパッと見ていつでもその人だと決められるものって感じかな」
「それは失ったり変わったりしないの?」
「ああ、源泉は決して無くならないんだ。一生ずっとそこからはその人が流れ出してくる。そんな感じ」
 カレは照れながら言った。
「そんなもの。ただの感覚に過ぎないわ。それとも、何かあるの? 証拠みたいなものが」
「俺は信じることしかできないけど」
「そう。随分テキトウね」
 カレはうなだれていた。
「でも、よくわかったわ。智花っていう人はあなたの大事な一部なのね。だから何としても失いたくない」
「ああ」
 うなだれたまま答えた。
「ごめんなさい」
 カレが顔を上げる。
「ワタシはやっぱりワタシよ。あなたを支えることなんてワタシには出来ない」
「そんなこと」
「それにね。たとえワタシに彼女の源泉があるのだとしても、ワタシは智花に戻りたくないの」
 カレの手がワタシの両肩を掴む。
 ああ、まただ。またあの時のこわばった表情だ。
「どういうことなんだ」
「ワタシが智花になったら、一緒に亡くなったっていう春花さんがかわいそうだから」
「また。春花なのか」肩を掴む手に力が入る。
「あの時もそうだった。お前は俺よりも姉貴をとるっていうのかよ」
 初めて見る。この人が泣くの。だって彼はいつだって笑って。
 そこでワタシは考えるのを止めた。これ以上考えたらワタシに戻れなくなってしまうから。
「そんなことは知らない。ただワタシはワタシでありたい。智花じゃなくて、ワタシになりたいの」
「何わけのわかんないこと言ってんだよ」
「わからないの? じゃあ率直に言うわ。ワタシはもう嫌なの。みんながみんなワタシのことを智花だって決めつけるのが。だって、みんなが言うような智花ではないワタシには、皆の記憶の輪の中に入れないの。なのに、知りもしない智花としてその輪の中に手を繋ぐわけでもなくいるなんて。もう嫌。ワタシはワタシよ。誰もワタシを知ろうとしない。そんな中にいて楽しいと、あなたは思う」
 カレは何も言わずに、肩を掴んでいた手を背中に回してワタシを抱き締めた。ワタシはただ抱きしめられていた。
 カレが震えている。
 それだけを感じた。
 数分間そうしていたが、急にカレが腕を離し、椅子に座ってワタシを見た。カレは笑っていた。何て静かな笑みなんだろう。今までとは全然質が違う。前に資料集で見た弥勒半跏思惟像みたいな。
 限りなく柔らかで、
 それでいて限りなく脆い。
 そんな笑み。
 この人とはもう会えないんだな
 そう感じた。
「ごめん、なさい」
 ワタシには謝ることしか出来ない。
 だって彼はもう覚悟をきめてしまったんだから。
 ここで私が止めてしまったら、姉が遠くへ行ってしまう。私は少しでも姉の側にいなくちゃいけないんだ。 
 それは私が姉を愛している証だから。
 だから私はワタシでなくてはならない。だからワタシはカレを止めない。
「君が謝ることじゃないよ。君は智花じゃないんだ。あいつはもうこの手の届かないところに行っちゃったんだよ」
 カレは自分の手を見た。
「本当に、ごめんなさい」
 目頭が熱くなるのを感じた。
 泣いたりしてはいけないんだ。
 何度も私はワタシに言い聞かせた。
「全く。君のせいじゃないっていうのに」
 そう言ってカレはワタシの頭にその大きな手をポンと乗せた。涙が一筋ツッと流れ出た。カレはプイと顔を背けた。
「じゃあ。俺もう来ないから。ごめんね迷惑かけて」
 そのまま、病室を出ていった。


       十五

 ベッドから半身起こして窓の外を見る。
 私はいつまで入院しているのだろう。怪我だってもう大分よくなったし、退院位は出来るだろうに。その答えが今日聞かされるとは思ってもみなかった。
 それはたった今、今日の午後の出来事だった。ワタシは突然主治医に呼ばれてトコトコ歩いてついていき、ある部屋に入るように言われた。言われるがまま入ると、そこには父と母がいた。最近聞いたのだが二人の離婚話はなくなったらしい。それにしても、今日は平日だし、会社が終わるにはまだ早い。
「どうしたんですか?」
 母は黙ってうつ向いていた。不穏な空気。こんな中で嬉しいことを想像しろというのが無理というものだ。
「とりあえず。座って」
 主治医が言った。なるほど、主治医の前には椅子が三つ用意されていた。ワタシは残っていた母の隣の椅子に座った。彼の背後にはレントゲン写真が飾ってあった。
 再び沈黙。空気が突き刺すように冷たくて重い。
「牧原智花さん」彼が口火をきった。
「これは言おうかどうか親御さんとも話合ったんですが。実は、心臓に重大な疾患がありまして」
「へ? 誰がですか」
 わざとすっとんきょうな声を上げる。やっぱりそういう展開か、と思った。
「あなたが、です」
 母は泣き崩れた。父が母を支えて励ますように背中に手を当てていた。
 どう反応すればいいんだろう?
 わからなかった。
 悲しめばいい?
 でも涙はでてこなかった。呆然としているというわけでもない。本当にわからない。

 だって、一瞬嬉しいって思ってしまったのだから。

 主治医によると、手術をしなければあと一年もつかどうからしい。いつの間にそんなに重病人になっていたのやら。全く気付かなかった自分が恥ずかしかった。ただ、移植手術なので、ドナーが現れなければ手術もできない。私は、できることならこのまま現れなければいいのに、と思った。
「治療なんてしたら、お姉ちゃんに会うのが遅くなっちゃうもんね」
 私は窓から見える大きな桜に話しかけた。看護婦さんによると、老木でほとんど花を付けないためもうすぐ切り倒されてしまうらしい。私はこの木が姉のように思えた。
 確か今年はなかなか桜が咲かなかったな。そういえばいつか二人で花見に行こうって姉は言ってたっけ。でもその約束は私が破ってしまった。あの日以来、ワタシは智花を捨てたけど、結局また大事な人を亡くしてしまった。
「ごめんね。お姉ちゃん。私また約束破っちゃったね」
 私がワタシでいる限り大事な人達を失ってしまうのだろうか?
 私が、智花という存在が、支えにならないと大事な人達は目の前からいなくなってしまうのだろうか?
 そんなのは嫌だ。もうこれ以上何も失いたくなかった。かといって、ワタシは私でいるわけにはいかない。ちょっと考えてみる。
「何だ。意外に単純じゃない」
 ワタシが「記憶を失った智花」の振りをすればいいのだ。これなら空っぽのワタシでも彼らを形の上で満足させられるだろう。智花を捨てた空っぽのワタシは何にでもなれる。彼らの望む通りの智花を演じればいいんだ。
「それで、いいのかな? お姉ちゃん」
 遠くの老木は何も答えてはくれなかった。
「大丈夫。もう少しで私も本当にお姉ちゃんとこに行くからね」
 どうせまた自殺しても姉に拒まれるに違いない。でも無理にでも姉の元に向かう機会を得たのだ。
 悲しいことなんて何もない。

 はずだった。

「あの日。雪の降る中あなたに出会ったあの日まではね」
 そう言って彼女は笑った。その優しい黒い瞳が、彼女の真っ白な寝間着に、悲しいまでによく映えていた。
 彼女は続けた。


       十六

 その日は初雪だった。
「そういえば、お姉ちゃんは雪も好きだったっけ」
 なんとなく、外に出たくなった。最近は毎日のように発作が起きて、起きているのも中々に辛い状態だ。でも、ワタシは何かに引かれるようにカーディガンだけを羽織って外へこっそりと出ていった。
 病院を抜け出して真っ先にあの老木のところへ行った。それは公園の真ん中にゆったりと立っていた。周りには不思議と誰もいない。
「おっきぃー。今までこんな大きなの見たことないや」
 木を見上げた。近くで見ても大して蕾をつけてない。
「お姉ちゃん。私お姉ちゃんと同い年になったよ」私は力無く木にすがった。
「ごめん。ごめんね」
 不意に誰かが私の右手を握った。顔を上げると、姉がそこに立っていた。笑っていた。あの日の笑顔。一番好きで、一番憎い笑顔。
 声すらでなかった。
 雪の冷たさも感じなかった。
 私の全感覚が姉を求めていた。
「お姉ちゃん」
 私は声を振り絞った。姉は何も言ってくれなかった。ただ黙ってどこかを指差すだけ。私もつられてその方向を見る。それはこの公園の西側に通じる道。姉に視線を戻した。
「嫌だ、私はここにいるから。もう良いでしょう? どうせあと少しなんだから」
 姉は静かに首を振った。フワリと体が自然に立ち上がる。
「何で、何で駄目なの」

 今度は智花自身のために幸せになりな

 声が聞こえたと思ったら不意に誰かに背中を押された。
 あぁ、そうだったね。
 私は歩き出していた。きっともう姉はいない。姉はいつだってそうだ。立ち止まった私が、また歩き出す時にはいつだって姉が、最初にちょっと後押ししてくれた。それが何よりも心強かった。いつでも姉がいてくれるそんな気がした。
 私は一度も振り返らずに歩いて行った。

「ここかな」
 そこは公園の道が集まる場所。真ん中に比較的大きな桜の木が堂々とたっている。
 ふと視界に紅い花が入ってきた。
「椿」
 ベンチの真後ろの植え込みに植えられたそれは、真っ白い雪の降るなか鮮やかに咲いていた。
「椿、か」
ベンチの雪を手で払って座った。
「まるで私みたい。大していい匂いもしないし、散り方も無様だし。それに」
 血塗られて真っ赤だし。
 そのベンチからはあの老木が見えた。
「お姉ちゃん」
 目を細めた。やっぱりあの時、お姉ちゃんについていけばよかったかな。そんなことを考えていると、ぬっと不似合いな黒い傘が視界に現れた。何だかわからないけど私に向けられている。と、突然その傘は走って横切っていった。
「えっ。何?」
 顔が傘を追った。男の子の後ろ姿が見えた。
「孝俊君?」
 根拠もなくそう思った。
「そんなわけないよね」
 『源泉』。彼の言っていたことを思い出して、思わず笑みが溢れた。
「孝俊君。孝俊君の考えはやっぱり間違ってたよ」
 だって、私はあの子にあなたの源泉を感じたんだよ。
 源泉はきっとみんな元は一緒なんだ。
 そこから色んな水が溢れ出てくるんだよ。
「冷たっ」急に寒さを感じた。
「さ、帰ろう」
 帰り道。老木にお辞儀した。また来るよ、と約束した。

 翌朝、さすがに外に出る元気がない。外を眺めていると、昨日のあの子が見えた気がした。すぐにシャーペンと紙を取り出す。
「ごめんね。お姉ちゃん。またお姉ちゃんの言うこと守れそうにないよ」
 だって私はやっぱり十分過ぎるほど幸せだったから。
 私にはお姉ちゃんがいた。孝俊君がいた。お父さんもお母さんも。先輩達も敏江や美奈達もいた。
 でもワタシは独り。
 だから、今度は私のためじゃなくて、ワタシのために。
 なんのしがらみもないワタシが幸せになれるとしたらそれは、あの忌まわしい日を乗り越えたことになる。
「だから、ごめんね」
 紙にスラスラと書いて紙飛行機にした。
「お願い。彼に届いて」
 一向に降りやまない雪。それでも私は飛ばさないといけない気がした。

 スッ。

 紙飛行機が手から離れた。


       一
 彼と初めて会ったのは花火大会でのことだった。

 地元の河川敷で毎年行われるイベント。今年だけは姉に誘われて行くことにした。花火なんて、何の面白みも無い。ただ一瞬に燃え

尽きる芸術。その瞬間の美しさ。それがなんだと言うのだろう。いくら綺麗でも残らなければ意味が無いじゃない。
 人は、忘れていく生き物なんだから。
 開会四十分前にもかかわらず、河川敷は多くの人で賑わっていた。家族連れ、カップル。お友達。みんなめいめいに薄暗がりさえも

楽しんでいるように思えた。コロンコロンとためらいがちに少し前を歩む姉は、さっきから携帯電話で誰かと話している。時折キョロ

キョロと辺りを見回しているから誰かと合流するに違いない。お友達だろうか、はたまた彼氏か。夫は、ないか。家族連れであるのは

確かだけれど。
 なんで姉は私を誘ったのだろう?
「うん。わかった」
 電話を切った姉にさっそく私は話しかけた。
「友達?」
 右手で受話器を作る。
「そうだよ」
 振り返る姉。背中まで伸びた細く長い黒髪が揺れ、浴衣の短い袖がヒラリと舞う。今年新しく買ったそれはちょっと地味な紺色だけ

ど、色白の姉に良く似合っていた。暗がりに浮かぶ姉はまるで蛍みたいに、月明かりの下ぼんやりと輝いていた。
「友達と約束してたなら私を誘う必要はなかったんじゃないの」
「へ? まぁ、ね。でもいいじゃない。大勢の方が楽しいし。智花だって除け者は嫌でしょ」
「私は別に」
 深い深い蒼色に似た黒、海の色。そんな瞳に黄金が差し込んでいる。それはただ静かに私を捕らえていた。
「またそんなこと言う。本当は来たかったんでしょ?だからわざわざ着慣れない浴衣なんか着て」
「別にそんなんじゃないよ。折角花火見に行くんだから形から入ろうと思っただけ」
 軽くため息をもらすと、姉はフイと前を向いて歩き出した。私も慌てて後を追う。
「ま、いいわ。とにかく今日はどうしても智花に来て欲しかったから」
「なんで」
「―――から」
 ボソッと何か呟いた姉。聞き返そうと思って姉を見上げた。
 真っ暗になる直前の、ぼんやり白く輝く真夏の夜。
 淡く映し出される、うつ向いたその横顔。
 ほんのりと、赤く染まった頬。
私は、思わず息を飲んだ。
「ん? どうしたの」
 いつの間にか姉が私の顔を覗き込んできていた。
「いや、別になんでもない、です」その瞳に耐えられず、目を反らす。
「それより今なんて」
 私の言葉は打ち上げ花火1号に遮られた。
「今見た見た? すっごい綺麗だったよ」
 子供みたい。
「あ、見てなかった」
「そっか。それは残念ね。まぁまだ始まったばかりだし。それで、何か言った」
「ううん、何でもない」姉を見ていると気が抜けた。
「それにしても、お姉ちゃん子供みたいね。花火くらいでそんなにはしゃいで」
「悪かったね。子供で」
「今までその手で何人の男をその気にさせたのかしらね」
「別に私は」
「そうだね。そんな手を使わなくても勝手に男が寄って来てるもんね。一体どんな手を使っているのかし ら? 今度ご教授ください

ね」
「智花。あんまりお姉ちゃんをからかわないようにね」
 そう言って姉は右手で豢骨を作ってニヤリと笑った。
「先生は教鞭ではなく強鞭を振るうのですね。それは痛そう」
 姉は右手をそのまま口元に持っていき、声を抑えて笑った。私は声を出して笑った。
 二人の明るい声は、賑やかな暗がりに紛れていく。

「やっぱり智花を連れてきて良かったわ。心が安らぐから」
「ペット代わりなら今すぐ帰るよ」
 姉はまた笑い出した。
「何がおかしいの」
「あ、ごめんごめん。智花があまりにもペットって感じだったから」
「はぁ? 何わけのわからないことを」
「まぁ知らないだろうけど、petにはすねるって意味もあってね。智花がふてくされてるのが」
 そこまで言うと、我慢できなくなったらしくまた吹き出した。
「まったく。やっぱり帰ろうかな」
「だからごめんって。お願いだから一緒にいて、ね」
「ま、家に帰ってもすることないしね。で? さっきから花火上がってるけど、お姉ちゃんの友達は」
「ん~、そうだね」辺りを見回す。
「さっきの電話からするとこの辺りなんだけどーあっ、いたいた」
 姉の顔が向いている方を見る。男がこっちに向かって真っ直ぐ歩いて来ていた。
 男は私達の目の前で止まった。どうやらこの人が探し人のようだ。
「長谷川君、他の人達は」
 長谷川と呼ばれた男は姉より少し背が高い位。男子としては平均より少し上といったところか。
「場所とって牧原のこと待ってるよ」
 どちらかと言えば細身の体には似合わず、声は低い、か。
「ごめんね。わざわざ迎えにきてもらっちゃって」
「このくらい大したことじゃないよ」
「でも。花火始まってるし。見たかったんじゃないかなって」
 語尾が萎んでいった。
「気にしなくていいって。勝手にやってることなんだから」
「そう」
 姉の表情にはっとした。微笑んでいた。さっき笑ったのとは違う。嬉しいは嬉しいんだろう。だけど、それを出さないように出さな

いように抑えて。それでも抑えきれない喜びがチョロチョロっと溢れた。そんな、緊張を含んだ柔らかな微笑みだった。
 姉が私を連れてきたがった理由が、わかった気がした。
「ところで」彼が私を指差した。
「この子は」
「あ、そうそう。えーっと、妹の智花」次いで私の方に顔を向ける。
「この人が同級生の長谷川孝俊君」
「牧原春花の妹の智花です。いつも姉がお世話になっています」
 私は品定めをやめ、ぺこりと頭を下げた。
「いやいや、世話になってるのはこっちの方だよ。牧原はしっかりしてるから。クラス中が頼りにするく らいだし」
「そうなんですか?姉はぼーっとしたところがあるから、てっきり皆さんに迷惑をかけているんじゃない かと」
「家ではそうなの」
 私は真顔で言った。
「はい。この間なんて湯船に入ったまんま栓を抜いて」
「智花つ」
 姉が顔を真っ赤にして睨みつけていた。
「っていうのはさすがにありませんでしたけど」
 そっと姉の袖を掴む。それは微かに震えていた。私達の様子を見ていた彼は声を上げて笑った。
「ちょっと、長谷川君。これは嘘よ。嘘」
「分かってるって。でもあまりにも面白いから」
 まだ顔がひくついている。彼にだって何か思い当たることがあったに違いない。
「そんなに面白かったですか」
 顔を真っ赤にしてうつ向いている姉を尻目に私は言った。
「ああ。話も面白いけど」
 彼は姉の方をちらっと見やった。姉は相変わらずうつ向いたままだ。
 ちょっと、からかい過ぎたかな。
「ほら君達そっくりだからさ。何か一人芝居みたいで」
「よく、言われます」
 姉と私は一つ違いでも、よく双子に間違えられる。私達はそれほど似ていて、しかもそんな私達を母は双子も同然に扱った。着るも

のも髪型も、ほとんどのものが同じだった。姉がどう思っているかは知らないけれど、私はそれが嬉しかった。
 姉は私にとって誰より尊敬する人だったから。
 姉は私なんかと違って頭がいい。高校だって姉の通っている学校に入ろうと迷わず決めたものの、私の学力ではギリギリだった。で

も、姉と一緒に通いたい一心で勉強し何とか合格でき、そして今こうして姉の同級生とも話している。
 もう何発目かも分からない花火たちが暗い空に消えていった。
「そろそろ行こうか」
 やっと彼の顔から笑みが消え、姉に話しかけた。姉は黙って頷くだけ。それを確認して彼は歩き出した。少し後ろを姉がついていき

、私は姉の隣に並ぶ。
「お姉ちゃん、ごめんね」
 姉は首を横に振った。
「でも」そんな姉が面白くて、私は姉の耳元で囁いた。
「ああいう人がお義兄さんなら大歓迎だよ」
 サッと姉が顔を上げ、私を見下ろす。薄明かりでもはっきりとわかるほど頬が紅いのは、怒っているのか、照れているのか。本当に

わかりやすい性格をしている。
「覚えておきなさいよ。あんまり私をからかうとどうなるか思い知らせてやるから」
「顔真っ赤にして言っても説得力ないよ」
「そんなに赤い」顔に手を当てながら言った。
「全く、智花のせいだからね」
「連れてきたのはお姉ちゃんでしょ」
「まぁそれはそうなんだけど」
 姉はそれっきり黙ってしまった。前を歩く彼が時折私達を見ては隠れて笑っているのを、姉は気づいていないらしかった。
 そしてまた、何個目か分からない芸術が消えてゆく。

「ほんと、そっくりね~」
「はい、よく言われます」
 先輩達は土手にビニールシートを敷いて悠々と花火を見ていた。今は次の花火までの準備時間。私は早速先輩達の話の種となってい

た。暇つぶしのおもちゃとも言うかもしれない。
「ほんとほんと。こんな美人が世界に二人もいるなんて信じられないよな」
 これは藤谷博史先輩。長谷川先輩とは違いとてもあけすけた男子だ。気さく、とも言うかもしれない。
「な、孝俊もそう思うだろ」
 ヒョイと振り向いて長谷川先輩に話をふる。先輩はさっきからぼーっとして話に交わっていない。私の右隣に座る姉も、不安そうに

しばしば視線を投げ掛けていた。長谷川先輩はちらと一瞥寄越しただけですぐに虚空を見つめ、答えた。
「うん。まぁ、そうだな」
「だろ」
「あの~」
 このままいくと止められなくなりそうだったから、私は重い口を挟み、我ながら完璧な潤み視線を送った。
「何?」
「あんまりそういうこと言わないで下さい」
「何で?かわいい子をかわいいって言って何が悪い」
「嬉しいんですけど。その、そういうことを面と言われると、恥ずかしいですから」
 顔の火照りを感じる。この台詞を言っている自分が恥ずかしくて。
「ほらほら、あんたのせいで困ってるじゃない。どうせあんたなんかじゃ釣り合わないんだから諦めなさいって。ねぇ、美智子」
 これは鈴原茜先輩。
「え。ああ。うん、そうだね」
 鈴原先輩に話しかけられて顔を赤くしているこの人が安堂美智子先輩。二人は見た感じ対照的な性格だけど、とても仲がよさそうだ

。もっとも、安堂先輩がこんなにオドオドしているのは性格以外にも何か理由があるようだし、鈴原先輩もそれを知ってからかってい

るようにも見えた。
「そんな。安堂にまでそう言われるなんて。智花ちゃんもそう思う」
 藤谷先輩が必死の形相で私を見つめていた。
 否定するんだ。
その目がそう語っていた。
「そんなことはない、と思いますけど」
 これは本心だろうか?
 自分自身よくわからなかった。確かに見た目は悪くない。寧ろいい方だと思う。でも彼氏にしたいか、と訊かれると、そうでもない

かな、と思う。今までそんなこと考えたことなかった。どんな男子でも姉に比べたらどの人も見劣りした。結局、そのまま高校生にま

でなってしまい、最近ではちょっとだけ後悔し始めている。
「ほら、智花ちゃんはこう言ってるぞ」
 右隣の鈴原先輩に批判めいた口調で言った。
「何言ってんの。気ぃ使ってるに決まってるでしょ、ねえ」
 そう言って意味ありげに鈴原先輩が私に笑いかけた。
 一緒にコイツをからかいましょう。
その笑顔がそう語っていた。私は面白そうだったからその提案にのった。
「え、そんなことないですよ」
「ほらほら」
 藤谷先輩が目を輝かせていた。
「うっさいわね。だから気ぃ使ってるんだって、美智子もそう思うでしょ」
 鈴原先輩、藤谷先輩、そして私。三人の視線が一気に注がれた。
「私? そうね。智花ちゃんはきっと春花に似て優しいんだと思うわ」
「やっぱりそうよね」
「まだそうと決まったわけじゃないだろ」
 藤谷先輩は必死だ。何をそこまでこだわっているんだろう。
「しつこいわね。じゃあ、いいわ」
 鈴原先輩はにんまりと笑った。背筋に悪寒が走る。目まで笑っている。獲物を追い詰めた猫。そんな印象を受けた。
「春花」
 名前を呼ばれて、つい今まで長谷川先輩を見ていた姉がはっとして私達の方に顔を向けた。
「何?」
 あんたがとどめの一発だからね。
鈴原先輩の目は姉にそう語りかけていた。
「春花はどう思う」
「どうって。何が」
 姉はキョトンとしていた。遂行を目の前に作戦が失敗しかかっているのを察した鈴原先輩が慌ててつなげた。
「何ってあんたね。一体今まで何を聞いてたの。だからね、藤谷があんたの〈かわいい〉妹に釣り合うかって聞いてんの」
 先輩は「かわいい」を強調した。あからさまだが、手段を選んでいる暇はないらしい。
「なんで私が」
 全く、何て場の雰囲気を読めない姉だろう。所謂KYってやつだ。こんなんで本当に迷惑をかけていないのだろうか。
「なんでって。智花ちゃんはあんたの大事なかわいい妹でしょ。いいの? こんな藤谷みたいなやつにとら れて。藤谷があんたをお

義姉さんって呼ぶようになるのよ」
 先輩は殊更「かわいい」と「こんな」を強調して言った。姉がちらと私を見る。暗くて表情がよくわからない。
「そうね」今度は藤谷先輩を見て言った。
「別に藤谷君が智花に合うか合わないかはどうでもいいけど。やっぱり嫌だなぁ。智花一人でも手がかかるのに、もう一人手のかかる

弟ができるなんて。私やってらんないわ」
 姉の言葉はかなり効いたようだ。藤谷先輩は黙りこくってしまった。
 それにしても、姉は学校だとこんなに毒舌なのだろうか。
「はいはい、残念ね~。お義姉さんがそういうんじゃ仕方ないよね」
 鈴原先輩がカッカッと笑いながら、ポンポンと藤谷先輩の頭を叩いた。それに抵抗するでもなく、沈んでいく藤谷先輩。ちょっと哀

愁が漂いすぎている気もする。
「ちょっと、由佳。やりすぎたんじゃない」
 安堂先輩が咎めた。
「大丈夫よ。明日には元通りになってるから」
「でも」
 安堂先輩が心配そうに、うなだれた藤谷先輩を見る。すこし目を細めて。
「そんなに心配ならあんたがなんとかしなさい」
「へつ」
 一瞬にして目は丸く開き、耳たぶは赤く染まっていく。どうやら、安堂先輩も考えていることが顔に出やすい人のようだ。
「嫌なの」
 鈴原先輩が不敵な笑いを浮かべると、安堂先輩は黙って藤谷先輩に近寄って幾つか言葉をかけていた。その様子を満足そうに見てい

た鈴原先輩に私は思わず呟く。
「先輩。すごいですね」
「そうでもないわよ。あいつらが単純なだけ」
 そう言って、ニコッと笑った。
 手伝ってくれて有り難う。
そう語っているようだった
「ところでさぁ、春花」
 ガラッと口調を変えて鈴原先輩が言った。
「何?」
「智花ちゃんってそんなに手がかかるの?全然そうは見えないんだけど。こんなに素直だし礼儀正しい し」
 先輩は最後の方は私を見て言った。姉を見たけれど、その横顔からはどんな表情も読み取れなかった。
「うん。昔っからね。何かあったらすぐ泣く、喚く。いつも私の後ばっかりついてくるし。すごく甘えん坊で。そのわりに口だけは達

者、弱虫のくせに何度も私に喧嘩を仕掛けてきて。本当に手が焼けるわ」
 自分の耳を疑った。目すら疑った。これらが本当にあの姉から出た言葉なのだろうか。これらは本当にあの姉の、いつも笑いながら

冗談を言い合った、あの姉の口から出てきた声なのだろうか。私は信じられなかった。そしてただ願った。姉が笑いかけてくれること

を。笑って、冗談だよって言ってくれることを。
「でもさ、妹とかって普通はそうなんじゃないの」
 心臓がバクバクいっている。
「智花の場合は尋常じゃないのよ」
「でも、手がかかるから一層好きっていうのは」
 期待を逃すまいとするかのごとく、ぐっと両手に力が入る。その手の平に汗が滲んでいった。

 ないわよ、全然。もううざったい位だわ。

 心臓が一度、痛いくらいに大きく波打って、止まった。何も感じない。ふわふわ体が浮くような、不思議な感覚に身を任せる。一刻

も早く、飛んで逃げてしまいたい。それを妨げるような胸の締め付ける苦しささえ、どうでもよく思われた。
 『うざったい』
これは姉の言葉なんだ、と何度も自分に言い聞かせた。紛れもなく、姉の本心なのだ、と。その度に私はあの虚空に近づいていけるよ

うな気がした。あの、真っ暗な一体を成す虚空へと。
「ちょっと、あんたそれは」
 途中で口をつぐむ先輩。姉が近寄っていき、耳元で何やら話している。私は目の端でその様子を見ていた。目を瞑ってみる。遠くか

ら火薬の破裂が聞こえた。

「綺麗だったね、智花」
 帰り道。姉と二人きり並んで歩く。本当に楽しそうに姉は言った。
「うん」
 あんまり話したくなかった。花火なんて殆ど見ていやしなかった。花火が上がっている間中ずっと、姉の言葉のことを考えていたの

だから。
「どうしたの? 智花。具合でも悪い」
 姉が手を近付けた。はっとして、私はその手を払った。
「智花」
「お姉ちゃんが悪いんでしょ」
「へ」
「何なのよ、しらばっくれて」
 姉の呆けた表情に、つい声を荒げてしまう。
「ちょっと智花。何怒ってんの」
「うるさいなぁ。どうせ今だって世話のやけるめんどくさい奴だって思ってるんでしょ?なら先に帰って もいいんだよ?私だっても

う高校生なんだから保護者がいなくたって迷子になったりなんかしないよ」
 自嘲気味にいった。少し、虚しい。
「もしかして、さっきのこと気にしてるの」
 姉が顔を覗きこんだ。その黒い瞳はいつものようにとても澄んでいて、私を映し出していた。
「別にそんなんじゃ」
 だから、フイと顔を背けてしまう。何だかこばかにされた気分がしたから。いや本当は、そこに映る自分を見たくないから。
「全く、まだまだ子供ね」
「どうせ今だって子供ですよ。世話を焼かせることしかしらない甘えん坊ですよ」
 ため息が聞こえた。突然頭の上に何かが乗る。すぐに分かる。これは姉の手。私が泣いているとき、悩んでいる時、いつでも姉はそ

うやってくれた。姉の手は一体今まで何回私を励ましてくれただろう。姉の手は誰よりも温かくて優しくて。私はその温もりに浸って

どんな嫌なことでも忘れることができた。
「あれはね、嘘よ嘘」
「えつ」
 恐る恐る姉を見る。姉は今にも吹き出しそうにニンマリとしていた。
「言ったでしょ? 覚えておきなさいよって」
「じゃああれは全部」
「そ。全部冗談。仕返しだよ」
 涙が落ちていくのが分かった。そんな私もまた、その黒の中にいた。
「え、ちょっと。何で泣くのよ」
「私にもよくわかんない。お姉ちゃんにあんなこと言われて悲しいのかもしれないし、冗談だって知って 安心したのかもしれないし

、私を騙したお姉ちゃんを怒ってるのかもしれないし。もうわかんないよ」
 私は浴衣の袖で必死に、流れてくるそれを拭った。でもそれは私の努力を嘲笑うかのように、次から次へと流れ出てきて止められな

かった。
「しょうがないなあ」
 巾着袋をあさる音。
「ほら、顔上げて。せっかく似合ってる浴衣なのに勿体無い」
 私は言われるがまま顔を上げた。白いハンカチ。その一拭きで、まるで魔法のようにさっきまでのそれはピタと止んだ。
「ごめんね」巾着袋にハンカチをしまいながら言った。
「私ちょっとやり過ぎちゃったみたい」
 ううん、そんなことないよ。
私は代わりに首を振った。
「でもね。智花の方にも問題があるわ。私の言ったこと真に受けすぎだから。私が本気でそんなこと言うわけないでしょ」代わりに頷

く。
「それじゃあ、花火も大して見てなかったわけね」
 私がコクコクと頷くと、姉は空を見上げた。その直前に小さく笑ったような気がした。
「花火はもう見えないけど、ほら、星が綺麗。」
「うん。ほんとだ」
 空には数えるのも億劫なほどの星が散りばめられていた。
「こうやってここから沢山星が見えるけど、あの中の一体いくつの星に生命がいるんだろうね」
「そんなのわかりっこないよ」
「そうね。そのわかりっこない内の一つがこの地球で、地球のほんの一部分が日本。そしてその一億数千 万のうちの一人が私であり

智花でもある。そしてさらにそんな確率の二人が今こんな、宇宙からみたら針の先にも満たない場所にいる」
「うん」
「そう考えたら。誰があなたを嫌いになるっていうの。私が姉で智花が妹。これは奇跡的なことなんだから。だったらあなたを大事に

思うことはあるにせよ、嫌うようなことなんて、あると思う」
「お姉ちゃん。私――」
 夜空から目を離して姉に向ける。
 夜空を見上げる姉。
 星々に照らされて白い肌がぼわっと浮き上がる。
私には姉が泣いていたように思えて、口をつぐんだ。
「わかってくれればいいのよ」顔を私に向け、姉は明るく言った。
「さ、帰ろう」
 差し延べられる手。今度はしっかりと握った。何があっても離れないように、ぎゅっとギュッと握りしめた。
 さっきの涙の理由は分からないけど、どんな理由にせよきっとそれは姉に、姉の優しさに繋がっている。
 握った手から伝わってくる 温かさ 心地よさ
 それらがその、何よりの証拠。

       二
「行ってきます」
 玄関から姉の声が聞こえる。昼食を終えて自分の部屋で漫画を読んでいた私は、ヒョイとドアから半身だけ出して応えた。夏休み中

に制服を着るのは部活か、提出物を出しに行く時かのどちらかだ。
「お姉ちゃん」
「何か用?」
 私は無言で、右手の親指を立ててグッと示した。姉は黙って右手でグーを作る。
 それが最近の挨拶みたいなものだった。あの花火大会の後、長谷川先輩のことをよくよく聞くと、姉は先輩目当て、いやこう言った

ら下品だ、先輩となるべく近くにいたくて同じ硬式テニス部活に入った、と白状した。花火大会のメンバーは部活仲間だそうだ。それ

以来、私は『頑張れ』のつもりでグッと親指を立てて見せている。そんなとき姉は決まって手をグーにするから何だか習慣みたいにな

ってしまった。
「あんた達、なにやってんの」
 そんな私達を見ていた母が怪訝そうに言った。いつもは仕事で忙しい母も今は有給休暇で夏休みを満喫していて一日中家にいる。か

といって特に何かやるわけでもなく、ゴロゴロと暮らしているのだけれど。
「別に、何でもないよ。ただの挨拶なんだから」
 私は同意を求めて姉を見た。
「ま、そんなものかな」
 姉が答える。
「随分変わった挨拶ですこと」
 呆れたようにそれだけ言うと、母は居間に行ってしまった。
「全く」姉はため息をついた。
「それじゃあ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
 手も振らずに見送った。が、ドアノブに手を掛けたかと思うと、姉は振り返って私を見た。
「そうだ」
「ん」
「ちゃんと宿題やっとくのよ」
「大丈夫だって、もう高校生なんだからお姉ちゃんがいなくっても宿題くらい」
 思わず声が上擦る。部屋に投げ出された漫画を思い出した。
「そう。ならいいけど」
「ほらほら、私のことなんてほっといて。さっさと行きな」
 自分でも笑顔が堅いことがわかる。隙をつかれると対応が利かないらしい。
「わかってる。それじゃあ、本当に行くよ」
「はいはい」
 今度は軽く手を振って見送った。普段なら、もっとしつこいのに。
 部屋にいても特にやることはなかった。いや、ないわけではないのだけれど、やる気が起きなかった。
「はぁ、暇だな」
 ベッドに横になる。上には姉が使っているベッドの底。そう、二段ベッドなのだ。つまり、この部屋は姉と共有。別々の部屋が欲し

いなんて贅沢は言っていられない。そんな部屋なんて無いのだから。そんな余裕があるならわざわざ父も母も働いたりしない。家族皆

が同じ部屋ではないだけまだましだ。
寝転がっていたら何だか急に眠気がおそってきた。
「ま、いいか、今日くらい」
 私はその眠気に体を預けた。

「あら、そっくりね~」
「本当、双子みたい」
 誰?
顔がぽやけてよく見えない。
「よく言われるよ」
 隣にいるのはお姉ちゃん?
それにしては小さかった。
「春花、智花。そろそろ帰るよ」
 遠くから母の声が聞こえる。
「はーい」
 後ろを振り向いて姉が返事をした。そのままトコトコと駆けていく。
「あっ、待って」
 私も振り返った。その瞬間、さっきまでぼんやりとしていた風景がぶわっと鮮やかに私の目の前に広がっていった。
 真っ赤な夕陽。
 伸びる母と姉の影。
 昼間は真緑で生き生きとしている木々の葉も、夕陽に照らされて静かにうなだれている。
私を置いて姉は遠くへ駆けていく。
「お姉ちゃん、待って」
 私は追いかけた。必死に追いかけた。けど、姉の影は段々段々と長く細くなっていく。
 懸命に走った。
でも、とうとう姉の姿は見えなくなってしまった。いつの間にか母の姿も見当たらない。
 それでも私は走った。
 いつかきっと追い付けるから。
 そう自分を励ましながら。
ふっと体が浮かんだと思った途端、鼻に衝撃が走る。視界が一瞬にして消えた。

「智花、大丈夫?」
 その声に顔を上げる。そこには姉がいた。さっきよりは大きい姉が。
「あ、お姉ちゃん。私何を」
「知らないよ。逆にこっちが聞きたいくらい。こんな道で転ぶなんて」
「ごめんね心配かけちゃって」
 ヘへっと笑って誤魔化す。
「ほら、起きな」
 差し出された姉の手。私は迷わず掴んだ。うん、見た目は昨日より小さい。それでもグイッと軽々持ち上げられる。
「大丈夫?痛むとこない」
「うん。全然大丈夫だよ」
「そ、なら行こうか」
 姉が安堵の表情を浮かべる。
「うん」
 そうは言ったものの、何処へ行くんだったろう。私は姉に右手を引っ張られながらついていった。
 ここは小学校?
確かにここは私と姉が通っていた小学校のようだ。
 小さい頃はよく遊びに行ったな。
思い出に浸っていると横から姉が入ってきた。
「智花、聞いてるの」
 姉が顔を覗き込んでいた。その仕草と瞳の黒さは今と変わらない。
「あ、ごめん、聞いてなかった。何?」
「全く」両手を腰に当てていかにも呆れたように言った。
「いつもポケーッとしてるけど、今日はなんか変だよ。さっき頭打った」
「だから、大丈夫だって。それより何の話してたの」
「あ、そうだった」
 クルリと後ろを振り返る。そこには見たことない男の子。顔は逆光でよく見えないけど、背はそんなに高くなくて、太ってはいない


「智花は初めてね。このあいだ転入してきた川井田君。」
 やっぱり思い出せない。そこだけぽっかり穴が空いたように、何も思い出せない。気味が悪かった。
「川井田君、これが妹の智花」
「どうも」
 ペコリと軽く体を傾ける。
「よろしく」
 川井田君はちょっと照れたように笑いながら言った。
 何か、長谷川先輩に似てるなぁ。でもこんな子いたっけ。
「本当にそっくりだね」
「でしょ? ちっちゃいころからほんとは双子なんじゃないかって噂されたくらいなんだから」
 姉が明るく、というより慌てて言った。
「それじゃあ、皆あっちに集まってるから、行こう」
「そうだね」
 二人ともクルッと体を反転させて校庭へ走り出そうとした。
「お姉ちゃん、私は」
 顔だけこっちに向ける。
「もちろん」
 二人は走り出した。私も二人を追いかけた。

懐かしくて楽しい時間はすぐに過ぎた。
 皆で校庭をあっちこっち走り回った。
 私は何度転んだことか。その度に姉より早く川井田君が手を貸してくれた。
 私は何度謝ったことか。その度に彼は照れたようなあの笑顔を見せた。
やっぱり、何となく長谷川先輩に似てるな。ぼんやりと花火大会の時を思い出した。あの時、先輩は何を考えていたのだろうか。何で

急にあんなにぼんやりしていたのだろうか。
 夕焼けのチャイムが鳴り響く頃、私達は皆と別れて家路についた。空高く、のんきに烏が鳴いている。
「川井田君っていい人ね」
 右隣を歩く姉に話かけた。
「うん」
 沈んだ声。どうしたのかと思って姉を見た。その横顔はどんな表情もしてなかった。無表情というわけではなくて、色々なことがあ

ってどんな表情をすればいいか迷っている、そんな表情だった。
「お姉ちゃん? 具合でも悪いの」
 ピクッと肩が動く。と、それが合図であったかのように、突然姉が私をキッと睨んだ。
「お姉ちゃん」
 わけが分からなかった。
「うっさい! 智花なんか大っ嫌いだ」
 姉はそのまま走っていってしまった。私はただ呆然とするしかなかった。
 目の前が真っ暗に染まっていく。

 はっと目を開けた。そこには見慣れたベッドの底。もうそんな時間なのか、それは夕焼け色に染まっていた。
「思い出した」
 そうだ。何で今まで忘れていたのだろう。姉が私を嫌いと口に出したのはずっと前、私が小学一年生の時に一度あったんだ。あの後

、私は大泣きしながら帰って来たっけ。何度も何度も転んでボロボロになって帰って来た私を見て、姉も一緒になって泣いた。そして

あの時から、姉は一層優しくしてくれた。あの時の私には何で姉がそんなに怒ってるのかわからなかった。でも今なら、分かる気がす

る。
「あ、起きた」
 声のする方へ顔を向ける。椅子に座った姉が、椅子を回して体ごとこっちを向けていた。夕陽を浴びた姉の笑顔は、ゆったりとして

いた。
「あ、帰ってたの」
「今さっきね」
「なんだ、起こしてくれればよかったのに」
「智花があんまりにも気持ちよさそうだったから。涎まで垂らして」
「えつ」
 口元に手を持って行く。
「嘘よ嘘。」
 姉はクスッと笑った。
「お姉ちゃん、最近嘘ばっか」
「智花がバカ正直なだけよ。でも、本当によく寝てたわね。どんな夢見てたの」
「とっても懐かしい夢だったよ」
「へぇ~、どんな」
 興味津々に私を覗き込む。
「小学生の時にね。川井田君っていたでしょ」
 その名前を出した瞬間、姉の顔に陰が差した、ような気がした。
「うん。覚えてるよ」
 気のせいかな。
私は続けた。
「いつのことかは細かくは覚えてないんだけど、その子も混ざってみんなで遊んだ夢。それで、その後帰 り道でお姉ちゃんに言われ

ちゃうの。『大っ嫌い』って」
「そんなことも、あったね」
 姉は窓の外を眺めた。その横顔が夢の中の姉と被る。私は体を起こして言った。
「私、今まですっかり忘れてた。でね、あの時お姉ちゃんが」
「智花」姉が私の言葉を遮った。
「宿題は、やったの」
 鳥肌が一瞬にして立ち、すぐ消えた。冷たい。そんな印象しか残らなかった。今まで見たことがないくらい冷ややかな笑み。それは

夕焼け一色に染まりきったこの部屋で、怪しく、私の目の前にあった。
 何も言えなかった。
 姉はクルッと椅子を反転して、黙って作業を再開した。私も黙って隣に並べた自分の机に向かう。ちらっと姉を盗み見ると、姉は機

械のように、ただ黙々とシャーペンを動かしていた。

 二人きりの部屋の中。静まりかえったこの空間に、紙の擦れる音だけが時の流れを告げていた。
       
       三
 夏休みもあと数日を数えるのみ。
 空はどことなく涼やかさを帯び、蝉がラストスパートをかけるようにその儚い命の灯火を一気に燃やし ている。
 公園では小さな子供達がちょっとの時間も惜しむように駆け回り、スーツの似合わない若い男の人がう らやましそうに彼らを眺め

ている。
 そんな中、私はと言えば学校に向かって足取り重く歩いているのだった。今日は地理のレポートの提出日なのだ。
「全く、何でこんな中途半端なのかな」
 理由は簡単だ。地理の先生が今日位しか学校に行けないらしい。何でも夏休みほとんどをかけてどっかの民族と交流しに行くのだと

いう。名前も聞いたこともない民族で、研究も兼ねているんだとも言ってた。詳しいことは知らないけど、先生は結構その業界では名

の知れた人だそうだ。つまり、先生の名誉のため、私は暑い中、制服を着てトロトロと歩かされているわけだ。
 学校はわりと近所で、徒歩区域。自転車でも行けるのだが、ここら辺は坂道が多い上に土手まであってむしろ歩いた方が早いし疲れ

ない。でも、それは普段ならの話。こんな暑い日には自転車で回り道した方がよかったかもしれないと、私は後悔し始めた。
「よくこんな暑いなかテニスなんか出来ることだ」
 姉は午前中にはもう部活に出かけた。今日は一日中部活の日。今は大体二時位。かれこれ五時間位やっていることになる。夏休みの

間ほとんどを家の中でのんびりしていたからか、体力が落ちたらしい私は家を出て二十分と歩いてないのにもう諦めかけている。それ

に比べたらこんな暑い中で部活にいそしんでいる人達は皆超人だ。
「はぁ、やっと着いた」
 黒く染め直された鉄の門。開け放たれているそれもダルそうに私を迎えた。
 仕方ないから通してやるよ。暑苦しいから早く通んな。
そう言っているように思えた。
 悪いね。
心の中で答えながら門を通った。

 校舎に入れば涼しいだろうという期待は容易く裏切られた。廊下は外とあまり変わらない。とにかく暑い。塗り直した白い内装も光

を反射して余計暑く感じた。
「冷たい飲み物くらい出してくれなきゃ割に合わないよ」
 先生の顔を思い浮かべる。あの人ならなんとかすれば茶菓子付きで麦茶か何かを出してくれるかもしれない。一度そう思うと、もう

頭では先生と麦茶と茶菓子がイコールで結ばれたまま離れなかった。
「仕方ないか」
 私は軽い足取りで長い廊下を歩き始めた。
「あれ? 智花ちゃん」
 聞き覚えのある声にドキリとする。そっと振り返ると、そこには長谷川先輩。本当に部活中なのかと疑うほどに、あまり汗ばんでは

いない。
「やっぱりそうだ。後ろ姿が牧原そっくりだから」
「当然です。私も牧原なんですから」
 何となくムッとした。
「まぁ、そんな細かいこといいじゃないか」
 チャンスだ。
不意に誰かが語りかけた。と同時に私は口を開いた。
「細かくなんかないですよ。牧原じゃあ区別がつかないじゃないですか。今度からは姉のことも下の名前 で呼んで下さい」
「いやそんなこと言われても」
 明らかな狼狽。後もう一押しだ。
「恥ずかしいのはよく分かります。でも、姉だって本当はそう思ってるんですよ」
「そう」
 よし、かかった。自分でもニヤリとしているのが分かる。
「はい。多分、いや絶対そうですって。だって姉は先輩のこと家では孝俊君って呼ぶんですから」
「それ本当か」
 呆れたように疑いの目を私に向ける。
 嘘は言っていない。でも姉がそう呼んだのはたった一度きり。気の弛んだ姉が、ポロッと溢した一言。姉はすぐ修正したが、私は聞

き逃さなかった。うっかりした言い間違いに本心が隠れている。どっかの心理学者もそう言っていた。言うなれば、私は姉の代弁者な

のだ。
「本当ですよ。妹の私が言うんですから」
「でもなぁ。この間のこともあるし」
 この間のこととはあの花火大会での冗談のことだと、ちょっと間を置いてから気づく。
「嫌なら別にいいんですよ。姉も本当にそう思ってるかは分からないですもんね」
 私はサッと体を反転させた。
「別に嫌っていうわけじゃないけど。ただ慣れてないから。女子を名前で呼ぶの」
 ボソボソと言っている。
「私のことは智花ちゃんって呼ぶのに?変じゃないですか」
 先輩に背を向けたまま言った。
「訂正するよ。同年代限定だ」
「なら、お姉ちゃんはかわいそう。たったそれだけの理由で私と差つけられちゃって」
 ポロリと、溢れた。
「ん? 今なんて言った」
 いつの間にか私のそばに立っていた先輩が、私を覗き込む。あまりにも急で、思わずたじろいだ。
「どうした」
「え、いや何でもありません」
 花火大会の時は暗くてよく分からなかったけど、明るいところで改めて見ると、姉が惚れたのも無理ないように思えた。絵に描いた

ような好青年。第一印象、いや花火大会の時を含めると第二印象か。とにかく見た目の印象はそんな感じだった。性格も良さそうだ。

少なくとも、意地悪そうには見えない。それに私の姉が選んだ人なんだから、きっと人一倍優しいに違いない。
 この人なら本当にお義兄さんになっても構わないな、と心から思った。でもなぜだか、妙な感じがする。無計画に大きく掘りすぎた

落とし穴を必死に隠すような、そんな焦燥感。ただ、私の心臓だけはそんな私を無視してドクドクと鼓動していた。
「とにかく、今度から姉のことは春花って呼んで下さい」
 先輩から目をそらし、私は一語一語はっきりと言った。
「ああ、わかった。最初のうちは慣れないかもしれないけど、何とかやってみる」
 頭をかきながら、笑って言った。
 よくやったな。
さっきの誰かがそう囁いた。
 これは一体、誰のためだったのだろう。
そう考える自分がいた。

「ところで」
 今までの話にピシャリと終止符を打つように先輩は言った。
「智花ちゃんは何の用が」
「レポートの提出です。あと、お菓子――」
「お菓子?」
「いやいや、先輩こそおかしいなぁって。今は部活中じゃないんですか」
 先輩の顔を見ずに言った。漫画のワンシーンみたいだ。
「俺はあれ。ちょっと教室に用事があって」
 先輩はぎこちなく言った。部活中に教室に用事が出来るのか疑問だったけど、部活をやっていない私には分からない用事があるのだ

ろう、と勝手に解釈しておいた。
「じゃあ途中まで一緒ですね」
 教員室は二階、二年生の教室は三階。階段はこの長く白い廊下の先にある。
「そういうことになるね」
 ちらっと先輩に視線を当てて、すぐに前を向いた。私は黙って一歩踏み出した。先輩の動く気配がする。
 廊下を半分も行ってないのに、汗が額に滲みでてきた。私の心臓は大きく波打ち、目が拍動するのも感じる。それに反して地面の感

触を伝えない足。廊下がどこまでも続いていくような錯覚。白い塗装がやけに眩しい。私達は一言も話さず長い廊下をスタスタと歩い

ていった。
 目の前に階段が立ちはだかる。一段一段上がる度にトクントクンと心臓が音をたてた。先輩は私の歩調に合わせてついてきている。

踊り場で足が止まる。手摺に体を預けた。窓からの日差しが私を突き抜ける。ふっと光が遮られた。
「智花ちゃん、大丈夫? 熱中症か何かなんじゃ」
 優しい声。その声に顔を向ける。窓を背にした先輩の表情は暗くてよくわからなかった。
 でも、痛い位の強い日光を背にした彼に、荘厳さに似た何かを感じた。そこには、私がずっと憧れてきた姉の姿にも通じるものがあ

った。
「はい、大丈夫です」
 私はスクッと両足でしっかり地面を踏みしめた。
「最近運動不足なんで、ちょっと疲れただけですから」
 そうは言ったものの、まだ頭痛がするし、全身がだるい。心臓もその激しい運動を抑えようとしなかった。
「でも、顔もすごく赤いし」
「ただの日焼けですって。そんな心配しないでください」
 ははっと笑いながら、踊り場から階段へと足を踏み出した。
と、私は思っていた。
 私の上げた右足は虚しく宙を踏み、その予定外の行動に反応しきれなかった左足がバランスを崩す。
ふらぁっと頭が回る感覚。さっきまで急な坂として立ちはだかっていた階段が、足元で断崖絶壁と化し、視界の下方へと消える。
 薄汚れた天井。背中に柔らかい感触。暗闇に支配されていく視界。薄れていく意識のなかで響く誰かの声。それは私を呼ぶ声。姉に

しては低い。かといって姉以外に私を呼び捨てにするような人はこの学校にはいない。
その声は私の中で響いて響いて響いて、
プツッと、途切れた。

 ここは、保健室かな。
「よかった。目ぇ覚めて」真っ先に長谷川先輩が話かけてきた。
「急に倒れたからビックリしたよ」
 安堵が目に見えて分かった。ずっと隣にいてくれたのだろうか。
「すいません。迷惑かけて。もう大丈夫です」
 ベッドから起き上がろうとした私を先輩が止めた。
「まだ、ゆっくりしてなって」
「でも私レポートを出しにいかなきゃ」
「あ、それなら」
 そう言って先輩は私の学生鞄を持って見せた。
「俺が代わりに出して来たよ」
「えっ。それじゃあ、鞄の中」
 私は先輩から鞄をひったくった。比喩ではなく顔から火が出ていそうだ。
「えっ。俺、お節介だったかな」
「いや、そんなことないです。わざわざありがとうございました」
 鞄に顔を埋めた。
「あ、そうだ」唐突に先輩が言った。
「ちょっと待ってて」
 そう言い残し、仕切りの向こう側へ出ていった。上半身だけ起こして右側にある窓を見る。そこには真っ青な空が広がっていた。あ

れからそれほど時間は経っていないようだ。窓は開いているけれど、それほど暑さを感じない。四分の一ほど窓を塞いでいる白いレー

スのカーテンが、時折風を運んでくる。
 先輩が帰ってきた。両手に何か持っている。
「はい、これ」
 差し出されたものを慎重に受け取ればそれは缶のオレンジジュース。
「あの、これは」
 先輩の顔を見上げる。
「ああ、冷たいものが飲みたいかなと思って。レポート出す序でに自販機で買って、保健室の冷蔵庫に置いといたんだ」
 缶に付いた水滴で持った手が濡れる。冷えた缶ジュース。冷たさを通り越してほんのちょっと温かい。
「でも、奢ってもらうわけには」
「ああ。お金ならいいよ。先生がくれたから」
「あ、そうなんですか」
 少し、期待外れ。
「それから、こっちも先生から」
 そう言って先輩が差し出したのは、皿に乗った水羊羹。
「これを先生が」
 空いている方の手で受け取る。まさか本当に茶菓子をくれるとは思わなかった。
「そ。俺が頼んだんだ。お菓子も欲しいだろうなって思って」
 いたずらっぽく笑う先輩。
「オレンジジュースと水羊羹じゃあ普通合わないですよ」
 両手にあるものをぼーっと眺めながら言った。私の熱がそれらに吸い込まれていく。
「ごめん。嫌なら別の買ってくるよ」
 心底すまなそうに私を見つめていた。私はゆっくり首を振る。
「いえ、嫌じゃないです。今はこれが最高の組み合わせですから」
 先輩に向かって、自然と笑みが溢れる。
 サワッと葉の擦れる音。
窓から入ってきた涼しい風がカーテンを翻し、私の髪を撫でて、彼の前髪を揺らす。
「そう。ならよかった」
 そう言って先輩は脇にある椅子に座った。水羊羹を、膝に載せた鞄の上に一先ず置く。
「じゃあ」
 カチッと缶を開けて一気に飲み干した。自分でも驚くほど喉が乾いていたことに気づく。その様子を見ていた先輩が吹き出した。
「何かおかしいですか」
「いや、別に。ただ、あんまり組み合わせとか関係なさそうだなと思って」
 言われてみればそんな気もした。
「いやいや、先輩。ジュースの味が口の中で残るから、必ずしも関係ないとは言えませんよ」
「そんなものかな」
「そんなものです」
 きっぱりと言ってのけた。
「そういえば先輩。部活は? さっき言ってた用事はもう済ませたんじゃないんですか」
 空き缶と水羊羹を取り替えながら聞いた。
「ああ、実は用事ってのは嘘でさ。ただちょっとサボろうかなって」
「先輩みたいな人でもサボったりするんですね」
 水羊羹をヒョイと一口食べてから言った。
「別に練習が辛いとかじゃないんだけどね」
「そうなんですか」
 もう一口。
「ああ。ちょっと休憩しようと思ってコートから出たんだ」
 三口目。
「そしたら」
「智花」
 突然のはりさけんばかりの大声に、私も先輩も怯えに似た表情で同時に顔を向ける。そこには息を弾ませ、顔を赤くほてらせた姉が

立っていた。
「お姉ちゃん、ビックリさせないでよ」
 部活を抜け出してきたのだろうか。
「智花が倒れたって聞いたから、私、」呼吸を整えている。
「それより大丈夫なの」
 まだ少し息が荒い。
「全然大丈夫だよ。見てわからない」
 上から下までゆっくりと注意深く私を見た。
「まぁ、見たところは大丈夫そうだけど」
 やっと落ち着いたようだ。
「ところでさ」
 状況をよく把握しきれていなかったらしい先輩が割り込んできた。
「えっ、何で長谷川君がここに」
 やっと気づいて、再び顔を赤らめる姉。忙しい人だ。
「あ、俺は妹さんが倒れた時に偶々居会わせたんだよ」
 どことなくぎこちない口調で説明している。
「それじゃあ、智花をここに運んでくれたのは」
 私も今更ながらそれに気づいて御礼を言わなければと先輩に顔を向けると、先輩が視線を送っていることに気付いた。何かを決意し

たような目に私は軽く頷いた。それを見て、先輩が姉に視線を戻す。
「ところで、春花は何で知ってるんだ」
「え、ああ。さっき保健の先生が教えに来てくれて」
 さすがはKY。てっきり慌てると思ったのに、無反応なんて残念だ。先輩も姉の意外な反応に安心して良いやら困っていいやら複雑

な心境らしい。さっきから私を横目で見ている。
「さてと」私への非難をやめて先輩は立ち上がった。
「俺は部活に戻るか」
「本当にありがとう」
 姉が深々と頭を下げる。
「そんな。当たり前のことをしたまでだから」
「でも、もし長谷川君がいなかったら」
「そんなこと考えたって仕方ないだろ。それよりもさ、気をつけろよ、春花も」
 そう言って先輩は足早に去っていった。
「今なんて」
 姉が振り向く。しかし既にそこには先輩の影もなかった。ゆっくりと姉が私に顔を向ける。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
 甘ったるい声。嬉しいのか怒っているのか、はっきりしてもらいたい。サッと水羊羹を差し出す。
「これ、食べない」
 おまけに、ニコッと笑って見せる。姉は不満そうながらも、ヒョイと最後の一つをつまんで口に入れた。
「全く、しょうがないな」
 モゴモゴしながら言う。
「とりあえず、座れば?」
 姉は素直に、チョコンと腰かけたのだった。

 保健医が帰って来た。まだ二十歳後半の若い女の人だ。
「随分元気そうね」
 私を見るなりそう言って笑った。
「先生、妹は結局。」
 姉が訴えるような眼差しを向ける。
「ああ、見たところもう大丈夫みたいだし。軽い熱中症と貧血だったんじゃないかと」
 何て適当な人だろう。だけど、そんな適当な診断にも姉は、比喩ではなく本当に胸を撫で下ろしていた。私ももう帰りたかったから

いいのだけど。
「それじゃ、もう帰る」
「そうだね。私も寝疲れたし」
 ひょいとベッドから降りて、スクッと立ち上がって見せる。
「ちょっと校門で待ってて。すぐ行くから」
 そう言い残し保健室を出ていこうとする姉を引き留める。
「お姉ちゃんも帰るの」
 姉が怪訝そうな顔を向ける。
「まだ部活があるんじゃ」
「何言ってんの。倒れた人を一人で帰せるわけないでしょ」
「私なら大丈夫だけど」
 姉の強い姿勢に怯む。
「そういうわけにはいかないの。それとも、そんなに私と帰るのが嫌?」
 私はうつ向き加減で首を振った。それを見て姉は満足そうに出ていった。その足音が聞こえなくなるまで見送る。
「あ、そうだ先生」
 保健医に空の皿を預け、呆然としているその人を後に残し保健室を出た。

 黒塗りの門が赤く染まり始める。
 随分と涼しくなってきたねぇ。さあさあ暗くならない内に早く通りなって。
 ごめんね。あとちょっと待って。
そんな会話を幾度か交しているうちに、ようやく姉が現れた。
「ごめんね、待たせて。意外と時間かかっちゃった」
「別に平気だって。あと一時間位は待てたよ」
 息を切らして走って来た姉を咎めることは出来なかった。
「そう。ならよかった」
「早く帰ろう」
「そうね」
 そう言ったにもかかわらず、進む素振りもみせない。ただ私を見て柔らかい笑みを浮かべていた。
「どうかした」
「ううん。別になんでも」
 そう言うなり歩き出す姉。私も慌て歩き出す。
 ようやくお帰りかい?随分長いこと待ってたじゃないか。
 そ。暇つぶしの相手になってくれてありがとね。
 お安い御用さ。
 それじゃ。
 ああ、気をつけるんだよ。
門を抜ける。

 目の前では橙色の夕方が藍色の夜に侵食されていく。
 徐々に徐々に じわりじわりと。
 両者の間を淡白く輝く光がぼんやりと通り抜け、雲がどちらの味方をするでもなく漂う。
 ひぐらしが歌い、遠くからコオロギの伴奏が聞こえる。
 その音色はまるで夜の訪れを讃えるように、晩夏の静かな街中に響く。

その旋律が、やけに耳について離れなかった。

       四
「はい、牧原さん。ほんと助かったよ。ありがとう」
 友達に貸したノートが返ってきた。ついこの間二学期が始まったと思ったら、秋は急ぎ足で過ぎていくもので、気づいたらもう中間

テスト一週間前をきっている。普段授業を聞いてない人達が落ち着きなく右往左往する期間に入った。このノートも今までに何人の手

に渡ったことか。やっと手元に戻ってきた水色のノートが愛しくて、その表面を撫でた。
「役に立ってよかったよ」
 私はその友達に言った。
「役に立つどころじゃないのよ。あなたのノートってば細かいとこまできちんと書いてあって。コンクールがあったら絶対優勝よ」
 横からニュッと割り込んできて、敏江が真顔で言った。敏江はこの学校に来て初めて話した友達。ショートヘアーで勝気な目をした

、良くいえば活動的な、本人が嫌がるであろう言い方をすれば男勝りな人だ。でも、不真面目というわけではなくて、授業はむしろ熱

心に受けているのに、なぜだかノートを真っ先に借りていくのは敏江だった。
「そんなことないって。誉めすぎだから」
「いいや、絶対優勝するわ。ノートの神様に誓って」
 真顔で言う敏江を見て頬が弛む。つられて敏江も表情を弛めた。
「もしノートの神様がいたらどんな人だろうね」
「きっとそれは」ニッと敏江は笑った。
「商人よ」
 そう言って去っていった。その謎の言葉を理解できない私を残して。何でノートの神様が商売してるんだろう。ただ真剣にそう考え

ていた。

 放課後、みんなせかせかと帰り始めるなか、私はのんびりと荷物を鞄につめる。今更その差が何を産むでもない。最後に筆箱を入れ

たところで浅沼美奈さんという、こちらはあまり話したことのない同級生がおずおずと話しかけてきた。肩まで伸びた茶色がかった髪

の毛。気が弱そうには見えないけれど、きっと慣れないことに緊張しているのだろう。
「あの、牧原さん。この後空いてる」
「うん、何もないけど。何で」
「ちょっと」
 キョロキョロと周りを見て、声を忍ばせて言った。
「相談に乗って欲しいことが、あって」
 美奈さんは申し訳なさそうな目で私を見ていた。その目は初めから私に選択肢を一つしか与えていなかった。
「あの、相談に乗るのは全然構わないんだけど、なんで私なの」
 思ったことをそのまま聞いてみた。
「ええと、敏江から聞いたんだ。牧原さんはとても優しくて、頭がいいから相談するなら牧原さんにしな って」
 高校に入ってまだ数ヶ月しか経っていないのに、私は優しくて頼りになる人という地位をいつの間にか確立していた。別に私は普通

に、姉がいつも私にしてくれるように、周りの人達と接していたつもりだったのだけど、それは周りからしてみれば非常なことに思え

たのかもしれない。そんな私のところにはしばしば相談がもちこまれていた。ほとんどは敏江を中心とする同級生からだった。
「そう。で、場所は」
 辺りを見回した。さっきまで何人かがせっせと帰り支度をしていたのだが、気付いたら教室には私達だけになっていた。
「ここでいいかな」
 美奈さんに顔を戻す。彼女は黙って首を縦に振った。向かい合うように椅子を置いて座る。どんな足音も聞き逃さないようにドアは

開いたままにしておいた。まぁ、今から来るといったら見回りの人位だろうけど。
「それで、相談っていうのは」
「えと、本当によくあることで逆に恥ずかしいんだけど」
 初めは私の方を見ていた顔が段々と下がっていく。
「好きな人が、いてさ」
 うん。確かに。きっと悩み事コンクールがあれば優勝するだけじゃなくて、殿堂入りまで果たすかもしれない。それはつまり、一人

では解決できないことであるということ。
「そう。それは良いことじゃない」
「全然よくない」
 うつ向いたまま首をふった。
「どうして」
「だって試験前なのに。まさに恋煩いですよって感じで。その人のこと考えてなくても考えてる自分がい て。ふとした瞬間にドバッ

て襲ってくる。お前には何か大切なものがあるんじゃなかったのかって。もう私は嫌で嫌で堪らなくて。逃げだしたいほど嫌なんだけ

ど、でも離れたくもなくて」
 話しているうちに、涙声になっていく彼女。
「そっか」
 私には純粋に恋愛に関してはそれしか言えない気がした。ずっと姉の陰だけを追いかけていた私にとって恋愛なんて無縁のものだっ

た。
「随分と、辛いものなのね。男子が好きになるって」
 顔を上げた美奈さんがうるんだ瞳を丸くして私を見た。
「牧原さんはそういったことないの」
 少し憐れみのこもった声。
「うん。まぁ、色々とあってね」
 さっとあの日の影が頭をよぎる。私はそれを振り払うようにテヘッと笑って見せた。
「それよりも今はあなたの相談を聞いてるんだから。大丈夫。恋愛経験はなくても、あなたの力になるくらいは出来ると思うよ」
「ありがとう」
 彼女がやっと笑った。まだぎこちないけど、精一杯笑ってくれた。
「ところでさ。恋愛で悩むってどうしてなんだろうね」
「どうしてって。それはやっぱり、好きな人のことで頭が一杯になるからじゃないの」
「それって、私からすれば幸せなことに思えるんだけど。だって、好きな人のことを考えるって本当なら 楽しいことじゃない。違う


「でも、その人のこと考えると、陳腐な言い方かもしれないけど、胸が苦しくて。なんだか周りのことが どうでもよくなって。ボー

ッとして。普段の生活も辛いんだよ」
「ちょっと待って。胸が苦しいのと、普段の生活が辛いって感じるのはなんか違うんじゃ」
「そうかな」
「よく考えてみて。その間に何かあるんじゃない」
 不審そうな目線をちらと覗かせながらも、彼女は考える素振りを見せた。
「どうだろ。よくわからない」
「じゃあ私が疑問に思ってることを聞いてもいい」
 彼女はコクッと頷いた。窓の赤い陰が教室の床から壁にかけて長く伸びてゆく。
「まず、あなたは彼のことが好き」
「もちろん」
「でも、彼のことを考えると幸せじゃない」
「そんなことあるわけないでしょ」
「じゃあ、あなたの感じる胸の苦しみは彼が好きだから」
「そんなの当たり前でしょ。一体どこに、好きでもなんでもない人のこと考えてそんなふうに胸を痛める 人がいるの」
「そうだね。その通りだよ。あなたは彼のことを考えるのが幸せで、彼のことを考えて胸が苦しくなる。 もしその通りだとしたら、

その苦しみは幸せな気分からくることになる。違うかな」
 彼女はゆっくりと首を縦に振った。彼女自身もそのことは感じていたのかもしれない。
「次。周りのことがどうでもよくなって、ボーッとするって言ったけど、それはあなたにとって辛いこと」
 あなた、を強調して言った。
「そうね。食欲が出なくて家族も心配してくるし、勉強も手につかないから成績も下がっちゃうし」
「それが辛いの」
「うん」
「家族が心配してくれたら嬉しく思う人もいるし、成績が下がってる人でも気にしてない人達もいるけど。 その人達とあなたはどこ

が違うの」
「うーん、そうだなあ」
 数分の間天井を見上げて、再び私を見る。
「私の場合は基本的に家族に心配かけるのが嫌なのかな。成績のことだって、自分のこともあるけど結局 は親に心配かけることにな

るし」
「親に心配かけるののどこが嫌なの」
「もちろん」彼女は晴れやかに笑った。
「家族が大切だから。家族が大切だから、私なんかのことで不安になんかなってほしくない」
「そっか。ならあなたの感じる辛さは家族を大切に思ってるからって考えていいんじゃないかな」
「そうだね。でもそうするとおかしい。好きな人を考えることが大切な家族に邪魔されてる形になってる」
「あなたの言う通りだと私も思う。どっちかをきっぱりと諦められればいいんだけど」
「そんなことできるわけないでしょ」
 声をあらげる。その声は、二人っきりの教室に良く響いた。彼女の赤茶けた瞳は、私を力強く見据えていた。
「もちろん。誰も出来るなんて思ってないよ」彼女の瞳に笑って応える。
「それにね。問題はもっと根本的なところ。やっぱりあなた自身にあると思う」
「私?」
 彼女は自分を指差した。私は黙って頷く。
「あなたは、恋愛とか青春とかってどんなものだと思う」
「口に出したら恥ずかしい。そんなものね」
 きっぱりと言った。
「なんで」
「だって、私青春真っ盛りですって言ったら笑われるわ」
「あぁ、私にもこんな時があったわって」
 女学生と呼ばれていた時代を思い出して話す大人の様子を想像して真似した。
「そ。あ、あの子青春してるなぁって」
 彼女は高校生の真似をして返した。私達は笑いあった。堅い話で体が笑いに飢えていたように、私達は中々笑いを抑えられなかった


 その笑いが体の隅々まで潤していくようだった。

「つまり私は、あなたが恋愛に対して恥ずかしく思うところがあるからだと思うんだ」
 笑いをようやく抑え、まだ少し痛むお腹を撫でながら言った。
「家族が大切だから心配かけたくない、確かにそれもあると思うし、大部分はそうかもしれない。でもね、 あなたはどこかで嫌だっ

て思ってない?家族にそんな目で見られることを」
「懐かしむ目?」
 彼女も脇腹を抑えながら言った。
「そう。でね、勉強のことはまた違う。勉強の時に感じる辛さは自分自身への怒りからきてると思う」
「自分自身への怒り」
 納得のいかないように首をかしげる。
「勉強は高校生だからやらなきゃいけないこと。でも、恋愛がそれを邪魔する。あなたにとって恋愛が原 因で勉強できませんってい

うのは恥ずかしいから勉強したいんだけど、それでもやっぱり恋愛に傾く自 分を見て、恥ずかしくもあり、情けなくもある。そんな

感じかなぁって思って」
 彼女はうつ向いて考えごとをしているようだったが、やがて顔を上げ、私を見て笑った。彼女の顔に夕日が当たり、さっきまでの子

供っぽい晴れやかな笑みが、角を削られて少し表面が滑らかになった石のような、柔らかな微笑みへと変わった。
「やっぱり牧原さんってすごいね」
「ただの慣れだよ」
 彼女は静かに否定した。
「牧原さんにしか出来ないことよ」
「そうかな。そうだと嬉しいかも」
 ちょっと照れくさい。そんな私を彼女はずっと同じ表情で見つめていた。
「さてと」彼女はスクッと勢いよく立ち上がった。
「相談に乗ってくれて、本当にありがとう」
「でも、私まだ何もアドバイスしてないし」
「あそこまで言ってくれれば十分だよ。本当に牧原さんがいて助かった」
「どういたしまして」私も笑いかける。
「またいつでも相談に乗るわ」
「それじゃあ、バイバイ」
 鞄をさっと持ち上げ、クルッ背を向ける。
「あ、そうだ」
 顔だけ私の方に向けた。
「牧原さんはどう思うの」
「何が」
「恋愛とか青春とかについて」
「離れようと思えば思うほど近くなるもの、そんなところかな」
「ふ~ん。何だか難し」
 再び前を向く。
「でも、分かる気もする」
 そう言い残し、彼女は教室を出ていった。
ピンッと伸びたその背中が私の目には頼もしく映ったのだ。

 校門の所で姉達に会った。鈴原先輩、安堂先輩とはそこで別れ私と姉は久しぶりに二人きりで下校した。いつもは部活があって一緒

に帰ることなんてないのに、珍しいこともあるもんだ。
「なに笑ってるの」
「お姉ちゃんと一緒に学校から帰るなんて久しぶりだなって思って」
「そういえばそうね。今日は随分遅いけど何かあった」
「ちょっとね。友達と話してた」
「そっか」
 姉は何だか満足そうな表情を浮かべていた。
 空は雲に覆われ月明かりさえも届かない夜。それきり私達は何も話さずゆっくりと並んで歩いた。ほんの少しでもいい。なるべく長

く、こうやって姉の近くにいたい。
 目の前の道は電灯の弱々しい光に照らされ、余計にその暗さを強めていた。
 虫の合唱  猫の鳴き声
私の体は自然と姉の方に寄っていった。

「ただいま~」
 先に着いてドアを開けた姉より早く、家に入り込む。返事はなかった。後ろでドアを締める音。
「どうしたの」
 沓抜で立ったままの私に姉が訝しげにきいてきた。
「うん。いつもならお姉ちゃんが帰ってきたらお母さん、顔出すのになぁと思って」
 家にいないわけではなさそうだ。正面にある居間へと通じるドアのガラスから暗い廊下に光が漏れている。そこの電灯は、切れても

いないのに母が急に新しいものを買ってきて、白っぽいのから暖色のものに変えたのだった。明るい柔らかな光。それでも家の中はひ

っそりとしていて、まるで人のいる気配がない。
「そうね。お母さんはとっくに帰ってる時間だし。あれつ」玄関の電気をつけた姉。
「お父さんも帰ってるみたい。靴がある」
 姉に言われて初めて足元を見る。綺麗に揃えられた新品の革靴。前のがボロボロになったわけでもないのに、父が買ってきたものだ

った。それは居心地悪そうにちょこんと並んでいた。
「珍しいね。お父さんがこんな時間に帰ってくるなんて」
 父はいつも私達が寝た後に帰って来る。そして大抵、私達が起きる時には既に出勤した後だから、私達が父と会うのは土日くらいな

もの。平日に父と顔を会わすなんて今日の私達以上にありえないことなのだ。
「そうね。さぁ、ほらいつまでつっ立ってんの早く上がってよ」
「あ、ごめん」
 私は急いで靴を脱ぎ家に上がった。脱ぎ捨てられた靴の音が廊下に響く。私はいつものように真っ直ぐ居間に向かった。
 ドアを開けた途端、私はその場の空気に息が詰まりそうになった。夕食が待っているはずのテーブルの上には何もなく、父と母がじ

っと向かい合って座っていた。二人の視線は何もないテーブルの一ヶ所に注がれている。ポンと、後から来た姉が肩に手を置く。仰ぎ

見みると、姉は唇を固く結んでいた。
「あ、春花、智花帰ってたの」
 母が顔を向けて弱々しく笑った。
「うん。たった今。」
 そう答えた私の声は、微かに震えていた。
「二人とも。話があるから座りなさい」
 腕を組んだまま父が言った。父は古風なわけではないけれど厳格な人で、小さい頃は苦手だった。それでも今ではすっかり慣れてい

た。そんな私が今父を怖いと思う。今日の父は何かがいつもと違うのだ。
「そんな、あなた。いますぐじゃなくても」
 母が慌てて言った。父は黙って首を振る。
「座りなさい」
 父が私達を睨むように見た。背筋に悪寒が走る。部屋に逃げ込みたい衝動に駆られた。
「智花」
 頭の上から静かな、それでいて力のこもった声が聞こえた。背筋に走っていた悪寒は、肩に置かれた姉の手に吸い込まれるように消

えていった。
「行こう」
 私は姉に促されるまま母の隣に座った。母は膝に載せた手を握りしめ、黙って俯いていた。私が座ったのを見て、姉は父の隣に座る


「話っていうのはな」父がおもむろに話し始めた。
「父さん達、離婚することになったんだ」
 言い終るか終らないかの内に母が泣き崩れた。私にはどうすることもできなかった。ただ、呆然と父の言った単語の意味を頭の中で

探した。いくら探しても、その言葉は嫌な意味しか持っていなかった。
「それで、お父さん。離婚っていつになるの」
 姉は冷静だった。私にはその冷静さが非情に思えた。
「まだ正式に決まった訳じゃないんだ。ただ母さんとはその方向で話がついてる」
 父は相変わらず物静かに言った。その姿はどこか姉と似ている。
「そう。それで、私達はどうなるの」
「春花と智花についてはまだ決まってない。父さんも母さんもお前達二人を引き取りたいと思ってる。き っと審判になると思うよ」
「なら、実際の離婚はもっと先ね」
「そういうことになるな」
 私はただ黙って二人を交互に見ていた。二人の間に交わされたやり取りはほとんど頭に入って来なかった。なんだか、テーブル越し

の二人が遠く感じて、もしかしたら全部夢なんじゃないかと、思ってしまったりもする。夢であったら、と。しかし隣から聞こえてく

る母のすすり泣きは、夢としてはあまりにも現実的に響いていた。
「ごめんね」
 唐突に母が声を出す。その濡れた声は、隣にいても聞き取りにくかった。
「そんなことないよ。泣かないでお母さん」
「でも」
「私達なら大丈夫だから」
 ねっと言って私に笑いかけた。その笑顔はテンプレートのように無機質で、固かった。私はそれに黙って頷くしかない。現実には、

それしかできない。
「話が済んだから行こっか、智花」
 コクンと頷く。姉の声は、暖かな明るい光で満ちたこの部屋で、また違った異様な明るさを帯びていた。私は椅子から立ち上がり、

私達の部屋に一歩ずつ進んでいった。何かから私を守るように、姉が後ろからぴったりとついてきてくれた。
 ふと見上げた時、姉は固く唇を噛み締めていた。

 部屋に入る。姉もすぐに入ってきてドアを閉めた。電気のついていない部屋は真っ暗でほとんど何もみえなかった。不意に全身の力

が抜ける。支える力を急速に失った足。私は必死に力を込めた。足が震えた。立っているのがやっとだった。姉も何も言わず後ろに立

っている。どうしようもなくて、私は力を振り絞って姉にしがみついた。暗い部屋の中で姉の温かさだけは確かに感じた。
「私。お姉ちゃんと離れ離れになるのは嫌だ。お姉ちゃんだけじゃない。お母さんもお父さんも皆一緒じ ゃなきゃ」
 姉は静かに頭の上に手を置いた。その手は微かに震えていた。その震えに呼応するように、涙は私の意に反してどっと溢れてきた。

ギュッと姉にしがみつく。涙は私の目から離れ、姉の制服の左胸に染み渡っていった。姉は何も言ってくれない。

 静まりかえったこの部屋。
 聞こえるのは私のすすり泣きと季節外れの風鈴の音。
 たった、それだけ。

       五
 中間テストは散々だった。あれからやる気が全くでなかったから当たり前だ。机に座ってもただボーッとしているだけ。テストの文

字はインクの染みにしか見えなかった。それは姉も同じらしい。勉強はしていたけど、シャーペンの音には重みがなかった。そんな私

達を母は怒るでもなく、いつも通り接した。それが余計に自分の置かれている立場を思いしらせた。
「牧原さん。どうかした」
 話しかけられてはっと我に返る。空は赤く染まり始め、教室にはもう誰もいなかった。声のした方に顔を向ける。そこには美奈ちゃ

んがいた。
「何か悩み事でもあるの? もしかして、私と一緒? それなら相談にのるよ」
 目を輝かせていた。あの日のことを思い出して、すこしほっとする。周りは何も変わってない。いつものように日常が繰り返されて

いて、その中に殿堂入りの悩み事なんかがちょっとしたスパイスをきかせる。そんな日常の流れの中に、私はまだ足を突っ込んでいる

んだ。
「ううん。残念だけど違うよ」
「そう。でも牧原さん最近なんかおかしいからさ。授業中も上の空で。私に出来ることなら相談にのるよ」美奈ちゃんはグッと目に力

を入れて私を見ている。あの時の頼もしい背中が頭に浮かんだ。
「ありがとう。それじゃあ、聞いてもらおうかな」
「うんうん」
 再び目を輝かせる。私の悩みを語る。それは川の流れに浸した足を陸にあげるくらい簡単なことなのだ。簡単なことのはずなのに、

足には水滴がこびりついて中々離れてくれない。風が吹こうものならゾクゾクっと寒くて、足の裏は泥だらけ。
「実はさ、両親が離婚することになってね」
 私はこみあげて来るものをとっさに堪え、その勇気ある言葉を何とか言いきった。

それなのに。

「そっか」
 ロウソクの火を吹き消すようにあっけなく、彼女の目から光が消えた。
「ごめんね牧原さん。私じゃ役に立ちそうもないわ。私が助言するには重すぎるし、何と言っても私自身 がうすっぺら過ぎる。ここ

で私がなにか言ったら、逆に牧原さんが悩んじゃうかもしれない。だから。ごめん役に立たなくて」
 彼女は用意された原稿を読み上げるように、よどみなく口に出した。
「気にしないで。私自身が解決しなくちゃ意味のないことだから」
 ニコッと笑って見せる。
「ホントにごめんね」
 そう言って足早に立ち去る彼女の背中。それでもやっぱり私の目には『頼もしく』映るのだった。
「私も帰ろ」
 力なく鞄を手にとる。
 悩み事のある人というのは皆大概、自分の答を既に持っているのだ。けど、彼らはそれに気付いていないか、無意識に拒絶している

。そして悩む。だから私は彼らに彼らの言葉で語りかけるだけ。私自身は何の答も持っているわけじゃないんだ。だから私だって悩む


 でも、鏡は鏡自身を映せない。所詮、私はただ一つ部屋に置かれた鏡に過ぎないんだ。

 外はもう薄暗く、緑の木々は教員室の明かりを頼りにその存在を示していた。残念ながら光の恩恵にあずかれていない花壇の植物を

横目に見ながら歩いていると、校門のところで鈴原先輩と安堂先輩に会った。
「よ、 智花ちゃん。こんな時間にトボトボ歩いて。なんかあった」
 鈴原先輩の快活な笑い顔を見るとなんだか緊張がほぐれた。
「いえ。ただお腹空いたなぁと思って」
「そっか。安心したよ。春花の妹のことだから、何か一人でしょいこんでるんじゃないかって思ったんだ けど」
 先輩の笑顔はどことなく堅かった。
「期待に沿えなくてすみません。妹は姉と違って神経が図太いんです」
「確かに。先輩に向かっていきなりつっかかってくるとはね」
「先輩ほどじゃありませんよ」
「ま、いいけどさ」
 先輩の後ろから私たちの様子を見ていた安堂先輩がくすっと笑った。
「なに笑ってんの」
「いや、由佳と対等に話してる人初めて見たから」
「いえ。私なんかより、安堂先輩の方がすごいですよ」
 私もつられて笑った。
「へ? 私? 私なんていつも由佳に言われてばかりだし」
 安堂先輩は大げさに否定した。
「全く、春花の妹なのに何でこんなに口が達者なのかねぇ」
 鈴原先輩はため息をついた。
「姉の妹だからですよ」
「それもそうだ」
 先輩はニッと笑った。安堂先輩は何が何だかわからず、ハハハと笑い合う私達をただ交互に見ていた。
「先輩。ところで姉は」
「私は知らないよ。美智子知ってる」
 はっと我に返る安堂先輩。
「あ。え~っと春花ならまだ練習してたよ」
「だそうだ。迎えに行ってあげな」
 先輩は優しく微笑んだ。
「はい。やっぱり、先輩には敵いませんね」
「当然でしょ。でもね、私だって春花には敵わないんだから」
 そうですか、と私は頷いた。
「ほら、さっさと行った行った」
「すいません。それじゃ、さようなら」
 私は先輩達を置いて走った。

ボールが軽く弾む音が木霊している。姉は広いコート内で一人、明かりもない中で黙々と壁打ちをしていた。大声で姉を呼んだ。姉が

動きを止めて私の方へ体を向ける。その影からはなんの表情も見えなかった。でも、その肩のシルエットはいつもより垂れ下っている

ように見えた。
「あ、智花」
 そのシルエットに走り寄った。
「お姉ちゃん、何やってんの。さあ、帰ろう」
 私は姉を確認すると、ニコッと笑った。なんだ、いつもと変わらないや。
「そうね。もうこんな時間。待ってて、今すぐ帰る支度するから」
 姉は柔らかく微笑んだ。
「夏のときみたいに待たせないでよ」
「はいはい」
 そう言って走っていく姉の背中は、いつもより小さく見えた。
 姉の微笑み。一体いつになったら、私もあんな風に強くなれるんだろう。
 どんなに辛くても自然に笑える強さ。私もそんな強さがほしい。
 でも、その笑顔はあまりにも自然だから。作り物の臭いがしないから。
 あまりにも、不自然だった
 作り物が溢れているこの地上に、その笑顔の居場所はないように思えた。
 だからこそ、その笑顔を見る度に寂しかった。
 悔しかった。
 いつまでも姉にそんな笑顔をさせている自分が情けなかった。
 一体いつになったら、あの孤独な笑い方を姉に忘れさせることができるのだろう。
小さくなっていく姉の背中を、私は見えなくなるまでずっと見つめていた。

それ以来、自然に私達は一緒に帰るようになった。その間私達は何も話さなかった。話す必要なんてなかった。ただ、今は一緒に歩い

ている。その事実だけで良かった。
 それは、乾いた風が時折吹き抜ける季節のこと。


       六
「ね、智花」
 終業式も終わり、何となく帰り支度をしていた私に、敏江が屈託のない満面の笑みをつきつけてくる。
 あの日、美奈に両親の離婚を打ち明けた日の翌日。敏江は私が教室に入るなり話しかけてきた。
「牧原。大変なことになってるんだってね。美奈から聞いたよ」
 無理に笑おうとしているのが明らかだった。敏江の努力に応え、私も同じ様に笑った。
「私何か力になれるかな」
「ううん。気持ちだけでいい。美奈にも言ったけど、私が解決しなきゃいけないことだから」
「でも、それじゃあ私、自分が嫌になっちゃう」
 さっきまでの敏江の笑みは崩れ、その跡地に暗い影が忍び込み始めた。
「じゃあ、一つだけ」
 ポツリと口に出た。
「なに? 一つと言わずいくらでもいいよ」
 笑顔が再び築かれていく。それを見るためなら、なんだって頼もう。
「ううん。一つだけでいい。私のこと、今度から智花って呼んで欲しいなって」
 敏江は口をあんぐりと開けていた。
「そんなんでいいの」
 私はコクリと頷いた。
「私にとっては冒険だよ。駄目?」
 ニコッと笑ってみせた。友達から名前で呼ばれるなんて当たり前のことが欲しかった。私はただの鏡なんかじゃない。鏡は親しく呼

ばれることなんてないんだから。「鏡よ鏡よ鏡さん」ってね。いつだって何かをお願いされる。
「そんなことあるわけないでしょ」
「ありがとう」
 始業を知らせるチャイム。
「あ、じゃあ後でね。智花」
「ありがとう」
 私がそう言うと、敏江は照れ笑いを浮かべて自分の席に戻っていった。

 その後一週間もしない内にクラスの女子全員が私のことを下の名前で呼ぶようになっていた。敏江が気を回してくれたのだろう。友

人の行為に感謝していいのかどうか正直わからない。確かにクラスとは親密になれた。でも、私は複雑な人間関係に組み込まれざるを

えなくなかったから。
 あの人は好きだけど、この人は嫌い。
そんな、感情本位の関係の中に。だけど私は、そんな風には割り切れなかった。かといって、みんな一人一人違う人。日々増していく

交流の中でみんな同じように接することはできない。
 だからその日以来、人と接する度に私は新しい仮面をつけるようになった。
 誰にも嫌われたくない
ただそれだけのために。みんなそのことに気付きもせず、目の前にいる私が智花自身なのだと信じ込んでいたようだった。
 それでいい。そうすれば誰も傷つかない。そう思った。

「智花? 何ボーッとしてんの」
 話しかけても返事もしない私を、探るような目で見ていた。
「ごめんごめん。ちょっと考えごとしてて」
「全く、何度も言ってるでしょ? 何かあったら私に言えって」
 あからさまにため息をつく。
「いやいや、違うって。ただ、晩御飯なにかなぁって思って」
「これから昼を食べるっていうのに」
 じっと私を見つめていた。勝気な瞳を向け、眉をへの字に曲げている。
「そんなのいつ考えようが私の自由でしょ」
 照れた風を装ってその視線を流す。
「それもそうね。ま、それはいいとして」
「何?」
「クリスマスパーティーを家でやることになったんだけど、智花も来ない」
 来てくれるよね。
その真剣な眼差しがそう訴えかけていた。
「え、あの本当に悪いんだけど」私は敏江の瞳を振り切って言った。
「実はもう、お姉ちゃん達の方に行くって言っちゃったんだ」
「先輩達の」
「うん」
「先輩達だけで気まずかったりしない」
 敏江は畳みかけるように聞いてきた。その勢いにちょっと戸惑う。
「大丈夫、だけど」
 敏江がそれまでのしかめっ面をやめると、今度は安堵にも似た表情が浮かんでいた。
「そっか。それじゃあ仕方ないよね。ごめんね無駄に気ぃ使わせちゃって」
「謝るのは私の方。ごめん。折角誘ってくれたのに」
「だから、そんな気使いはいらないって言ってんの。ちゃんと楽しむんだよ。それじゃあ、今度会うのは 来年かな」
「そうだね」
「じゃ、また来年。」
「うん」
 教室を出ていく敏江の背中を最後まで見送る。その背中は寂しげだった。でも、どこか嬉しそうに見えたのは私の思い過ごしだろう

か。
 私も帰ろうと思い鞄を持ち上げた。けれど鞄が机にくっついて離れない。不思議に思って鞄を見ると、か細い手が置かれていた。そ

の手を辿る。行き着いた先は美奈の必死の形相。
「何?」
「智花。忘れたの? 今日は掃除当番よ」
 言われてみればそうだった気もする。私が当番だってことは敏江もそうだ。私達三人は同じ掃除組なのだから。はっとして、敏江の

去っていった方向をみる。そこには誰もいない。
「敏江は、帰ったけど」
「まぁ、帰っちゃったもんはしょうがないし。それより、智花はもう帰っちゃ駄目だから」
 本当に逃がす気はないようだ。その決意の堅さを示すようにニンマリと口の両端を吊り上げている。
 よくよく辺りを見渡すと、他に誰もいなかった。

「あとはこれを捨てたらおしまいっ」
 はい、と言って渡されたものをとっさに受け取る。普段のサボり具合いが伺える見た目とは裏腹に、案外軽いものだ。
「燃える方だけ」
「燃えない方は智花がのんびりしてる間に行っちゃったよ」
「あ、ごめん」
「掃除してくれるだけで十分だから」
「でも美奈ばかりにやらせてるみたいで」
「いいよ、別に。掃除は趣味みたいなもんだから」
 本当に、楽しそうに笑ってる。そんな美奈が羨ましい、と自分の部屋の有様を思い浮かべた。
「私捨ててくるから先帰ってていいよ」
「それじゃあ悪いよ」
「いいから。これから何かあるんでしょ」
 美奈は瞬時に顔を赤らめて黙りこくってしまった。折角早く帰れる日なのに、夕方まで残されてしまったのだから、待たされる方は

酷だろうな。
「じゃあ、また来年。いいお年を」
 さらに顔を真っ赤にした美奈をそのまま残し、サッと教室を出た。

 ゴミは一階にある集積場に捨てることになっている。そこはさすがに学校中のゴミを集めるだけあって、かなり広い。普段四十人い

る教室二つ分位は少なくともあるように見える。集積場を脱出し、空になったゴミ箱を引きずるようにして教室へと戻っていた時だっ

た。
 昇降口に誰か立っている。
見たことのあるようなその後ろ姿にふと足を止めた。
「鈴原先輩?」
 いつもとどこかが違うけど、鈴原先輩しか思い当たらなかった。私が声をかけるとピクッとその細い肩が動いた。先輩の右手が上が

りかけて、すぐに垂れ落ちた。ちょっとしてから先輩は振り返る。
「あ、智花ちゃん」
 差し込む夕陽が先輩の笑顔を包み込んでいて。
「ほら、見てみ」
 間髪いれずに先輩は視線を戻した。私も視線を移す。安堂先輩と藤谷先輩。今度は後ろ姿でもはっきりとわかった。二人は少し間を

空けて、ぜんまい仕掛けの玩具のように、並んで歩いていた。
「どう思う」
 視線を二人に向けたまま先輩は言った。
 今目の前にいる先輩は、どうなのだろう。
 巣立った雛を頼もしく見る親の気持ちだろうか。
 かわいい妹が自分の手から離れていくのを見る姉の気持ちだろうか。
 単純に親友の幸せを喜ぶ友人の気持ちだろうか。
 それとも、それらとは正反対の、黒い気持ちを抱いているのだろうか。
私は答えるのが恐かった。先輩の気持ちが分からないからじゃなくて、本当は痛い程分かっているから。だから、何も言えなかった。

私はただ、立ち尽くしている先輩の背中を見つめていた。
 その内に先輩達の姿が見えなくなり、それを確かめて、視線をこちらに向けるでもなく先輩が口を開く。
「ごめんね、変なこと聞いて。今のは無しね」
 普段の先輩からは想像もつかないような、静かな口調。
「いいえ」
 私はそれだけで「両方に」答えようとした。出来るだけ声を出したくなかったから。これ以上声を出したら、私も我慢できそうにな

いから。
「じゃあね。智花ちゃん。今度はクリスマスね」
「はい」
 先輩はそのまま振り返らず、右手だけ軽く振って帰っていった。私はその場で先輩の背中が見えなくなるまで立っていた。
 沈んでゆく夕陽。
 ピュッと木枯らしが吹き荒れる。
 必死にしがみついていた最後の枯葉が、容赦なく地面に叩きつけられた。
 あの二人がどうなるかは私にはわからない。それはこれから二人が決めていくものだと思う。でも、その時先輩達も忘れてしまうの

だろうか。
 誰か二人が結ばれた影には結ばれなかった人達がいるってことを。
 二人の縁は二人のものだけではなくて、そういった人達がいて成り立っているってことを。
 だからこそ、その縁は二人が思っているよりも重く、容易く切っていいものじゃないし切れるものでも
 ないんだってことを。
 あの時、並んで歩いく二人を見て、私は自然と違う誰かに置き換えていた。それは長谷川先輩と、隣にいるのは、私とそっくりな、

誰か。

「あれ、智花ちゃんまだいたんだ」
 その声に顔をあげると、ぼんやりとした視界に男子の制服を着た人が映る。
「泣いてる、の? 何かあった」
 私は必死に首を振る。
「目にゴミが入って」
 何て古風な言い訳だろうと我ながら呆れた。
「両目いっぺんに」
「そうなんですよ。ほら、ゴミ集積場って埃っぽいじゃないですか」
 言いながら、片目ずつ擦る。視界が一気にはっきりとする。長谷川先輩が眉間に皺をよせて心配そうに私を見ていた。
「もう大丈夫ですよ。その証拠に先輩の精悍な顔立ちがはっきり見えますし」
 ニコッと笑ってみせた。
「そっか。でもどうやらまだ大丈夫じゃないらしい」先輩もぎこちない笑みを見せた。
「あまり、無理はするなよ」
「私ってそんなにひ弱に見えますか」
 空のゴミ箱を持ち上げて見せ付ける。
「俺の思い違いだったみたいだ」
 先輩の笑みが和らぐ。その表情に姉が重なった。
「ところで。まだ掃除してたんだ」
「え、あ、はい。うちのクラス二人しかいなくて、さっきやっと終わったところです。先輩は」
「俺はクラス委員でちょっとした仕事があったから」
「先輩もクラス委員だったんですか」
 思わず声が大きくなる。クラス委員ってことは、姉と一緒で。姉と一緒ということは、今まで先輩は姉と一緒で。今まで先輩が姉と

一緒だったってことは、それはどういう意味?私にとってそれは重要だった?
「そうだけど。何で」
「いや、姉もクラス委員なのに何も聞いてなかったから」
 姉から大抵のことは聞いていると思っていたのに、まさかまだ秘密にしていたことがあったとは。確かにそれはちょっとつまらない

けど、だからなんだというんだろう。
「別に話すようなことでもないと思うけど」
「まぁ、そうなんですけど」
「それとも俺だと何か不満でも」
「いえ。寧ろ最適です。先輩なら皆さん気兼ね無く頼みごとができそうです。それに姉と違ってボーッと したところがないですし」
「それは誉めてるのか」
「どっちでもないですよ」
 散々考えた挙句、ニヤッと笑う自分がいた。先輩が何か言おうといていたのを遮る。
「ところで姉は? もう帰ったんですか」
「ああ、春花ならもう来るんじゃないかな。なんか急に黒板の汚いのが気になるって言いだして」
 もう春花って言い方には慣れたようだ。そっと撫で下ろした胸は、燃えたぎっている炎ように熱かった。
「あ、長谷川君まだ帰ってなかったの」姉がゆっくりと階段を降りて来ていた。
「あれ? 智花もいたのね」
「掃除してた」
「じゃあ一緒に帰ろっか」
「そうだね。すぐ戻るからちょっと待ってて」
 階段を駆け上がり、廊下を走り抜け、誰もいない教室に乱入。ゴミ箱を放りなげ、鞄をひったくり、急いで来た道を戻る。そんなア

ニメみたいな早送りの世界。なんだかいつもより疲れを感じた。
「随分早いね。そんな息切らすまで急がなくてもちゃんと待ってるって」
「お姉ちゃんとは違うってことだよ」自分でも何であんなに急いだのかよく分からなかった。
「あれ。先輩は」
「先に昇降口で待ってるって」
 姉は何の気なしにさらりと言った。
「待ってるって。まさか先輩も一緒に帰るの」
「方向が一緒なのよ」
「何でそんなに平然としてるわけ」
「平然となんかしてないって。智花がはしゃいでる分落ち着いてるだけよ」
「あ、ごめん」
 意識して呼吸を整える。それでも、頑として私の心臓はそのでたらめな鼓動をやめようとはしなかった。
「一体何を謝ってるんだか。さ、行こう。待たせるの悪いし」
「そうだね」

 赤橙の陽が、私の数歩前を歩く二人の影をコンクリートの路地に足下まで映してきている。ゆっくりと伸びたり縮んだりを繰り返す

細い影。互いに気張りなく話し、時に笑い声が混じる。一体何を話しているのだろう。私には結局わからないことばかり。姉のことは

何でも知ってると思っていた。でも違った。私はほとんど知らないんだ。ただ全てを知っていたいと思っていたかっただけなんだ。
 私が知っていたのはこの影のようなものだったのかもしれない。
今まで私を追い越していた影が、後ろに下がっていく。
「智花、どうしたの?また具合でも悪くなった」
 顔も上げずに首を振る。
「そんなにしょっちゅう具合悪くならないって」
 足元の四本の影を見ていると、よく分からない苛立ちが込み上げてきて抑えられそうにない。奥歯が悲鳴を上げているのが聞こえる


「智花」
「じゃあ俺はここで曲がるから」
「え、長谷川君?」
 ちょっとの間。
「あ、そういえば家そっちだったね」
「そんなんでクリスマス大丈夫か」
「大丈夫だって。地図も貰ってるし」
「ま、智花ちゃんがいれば大丈夫か」
 私は小さく頷いた。
「じゃあ、また今度な」
「うん」
 影が二本、視界から消えようとする。視線が自然とその動きを追いかけていた。商店街へと先輩の背が消えていくのが見えた。その

まま顔を水平に上げていると重力の法則に逆らえず目に貯まった涙が溢れそう。姉を見上げる。そこには、私の想像していた通りの私

がいた。
 ただ、姉には見上げる人がいなかった。
「ごめん。お姉ちゃん。私のせいで」
「何謝ってるの」
 私を見つめる姉。私から見てもその笑みは痛々しかった。夕陽って黄色くもあるんだ。
「だって折角先輩と帰れたのに」
「孝俊君の家はあっちなんだから仕方ないでしょ」
 自分に言い聞かせるように、姉は言った。
「ごめん」
 謝ることしか出来なかった。先輩が私に気を使ったことだけじゃない。もっと違うことも含めて、とにかく謝りたかった。それで気

が楽になるわけではなかったけれど、謝らないと、今度は私がその場から消えてしまう気がした。
「全く。あんたは謝ることしか知らないの」
 ポンっと頭に手が乗る。
 姉はきっとスイッチを押しているのだ。
 それは私をさらけだすスイッチ 姉以外には押せないスイッチ
見上げる効果が完全に失われた。何の重さも感じさせずに落ちていく。
 悲しいわけではなかった。悲しいということの根本にある、言葉では言い表せないもの。普段は抑え込まれている、恍惚にも似た畏

服感。そんなものが私を襲った。体が自分のものじゃないかのように感じる。身動き一つ、とれなかった。
「さ、帰ろ」
 姉が微笑んで。私も笑った。姉の微笑みを見たら、今までのことが些細なことのように思えた。私はいつまでこうやって甘えている

んだろう。
「うん。一緒に、ね」
 先輩のことや、父母の離婚だけじゃない。この先も、姉と別れなければならないことは沢山あるだろう。でも、姉と別れるとはそう

いうことじゃないんだ。会えなくなることじゃない。姉の笑顔が失われた時。それが私にとって別れの時なんだ。それは姉にとっても

また別れの時なんだろう。
 目の前に広がる住宅街。沈んでいく太陽に私は誓った。
 どんなことがあっても、二度と姉とは別れない、と。
 そして、そのためなら私はなんでもしよう、と。
ほんの少しだけ頭を出した太陽は、私の誓いを何とも思っていないようにそそくさと夜へ場所を譲っていった。
 せいぜい頑張りな
去り際に夕日がそう囁いた。

       七
「うわ。おっきい」
 地図の示す通りにやってきた長谷川先輩の家。私達アパート暮らしの人間からしたら想像も出来ないような広い家だった。昔の武家

屋敷を思わせる平屋建て。夜になり始める中、ひんやりした空気をまとったその門の静けさに私達は圧倒されていた。
「大きいとは聞いてたけど、こんなにとは思ってなかった」
「どうすればいいんだろ。とりあえず門叩いてみる」
「ばか。インターホンがついてるでしょ」
 よくよく目を凝らしてみると、門を支える柱にポツンと小さなボタンがあった。
「知ってるなら早く押せばいいのに」
「立派な家だからつい忘れてたのよ」
「じゃあ押してきてよ」
「智花の方が近いでしょ」
「お姉ちゃんの友達ん家なんだから、私がするのって何か変じゃない」
「全っ然変じゃないから、さっさと押しな」
「はいはい」
 姉の意気地の無さは本当に困りものだ。私はしぶしぶインターホンを押した。
 間抜けな音に、不覚にも驚く。相手が出るまでの間がこれほど長く感じたことはなかった。実際は三十秒もなかったに違いないけど


「はい」
 ほんわかした女の人の声。私はほっと胸を撫で下ろした。
「あの、牧原、です」
「ああ。ちょっと待っててくださいね」
 プツッと切れる。それはこの門が温かさをなくす合図だ。
「良かったね。先輩じゃなかったよ。それとも残念?」
 と、振り向く私。
「また泣かされたい」
 と、ニコやかに笑う姉。
「いえ、遠慮しておきます」
 こんな時の姉の威圧感はすさまじいものがある。目の前の門なんかとは比べものにならない。でもこの威圧感の背後に意気地の無さ

がチラチラと見え隠れしているのだから、恐さより寧ろかわいらしさを私は感じるのだった。
 来た道を振り返ってみる。辺りにはこれと言って目立つ建物は他になく、こじんまりとしているが暖かな光のもれる住宅が並んでい

る。学校へ行くには少し遠く、確かに商店街を通って行くのが一番の近道であるようだった。
「待ってろって言ってたけど。何で待つんだろ」
「家の人が待てって言ったなら待てばいいのよ」
 ちょうどその時、鈍い音をたてながら門が開いていった。
「自動だったんだね」
「そうみたいね」
 それがあまりに別世界みたいだったから、私達は入ることも忘れて呆然としていた。
「お待たせしました。どうぞ」
 インターホンの声で我に返り、急いで門をくぐる。いきなり出迎える松。岩に囲まれた池。鯉の尾びれが水をかき分ける音。そして

また立派な母屋。玄関に着くまで私達は一言も話せなかった。

「ごめんなさいね。待たせてしまって。色々と準備が出来てなかったようだから」
 出迎えてくれたのは先輩のお母さんだった。いかにもこの家の奥さんだ。和服がよく似合う。こんなところにいると嫌でも似合って

くるのだろうか。でも。そもそも嫌ならこんなところに住むこともないか。
「準備ですか」
「はい、準備が」
 何がおかしいのかクスクスと笑っている。
「さ、ここです」
 と、先輩のお母さんに案内された、縁側のある広い部屋にはもう全員揃っていた。
「みんな早いね」
 今は約束の三十分も前。それなのに、遅刻常習犯だという藤谷先輩まで来ている。
「このくらい普通よ」
 鈴原先輩が周りに同意を求めると、みんな黙って頷いた。黙って。
「皆揃ったことだし。早速はじめよっか」
 みんながそれぞれに満たしたコップを軽く上げる。

メリークリスマス!

鈴原先輩の威勢のいい声にみんな続いた。
それだけで、電灯なしでもこの部屋にいられそうな気分になった。

「さぁここで、プレゼントの交換タイムといこうじゃない」
 自然と、というか当然と鈴原先輩主導でパーティーは進んでいた。
「交換ってどうやるんだ」
 と藤谷先輩。自分の持ってきたプレゼントを抱え込んでいる。
「全く、あんたって物覚え悪いのね。いい? この特製くじを使うのよ」
 テーブルに置いてあった空の皿をのけて、どこからやってきたのか、ドンと白い箱を置いた。上面の真ん中に穴が空いていて、何や

ら細い棒が何本か突き出ている。
「んで、それぞれ番号決めて、引く順番決めて、その引いた番号の人のプレゼントがもらえるってわけ。簡単だね。わかってるでしょ

う」
 ジロッと藤谷先輩を一睨みする。
「あぁ。分かったって」
 藤谷先輩が怯えたふうに顔を背ける。その頬が、ほんのりと紅く見えた気がした。
「んじゃ。番号決めるよ」ケロッと笑顔に戻り、藤谷先輩から時計回りに番号をつけていった。
「あの、先輩」
 箱を手にしてにこにこしている先輩に、悪いとは思いながらも話しかけた。
「ん、なに? 四番は嫌?」
「いや、そうじゃなくて。私はお姉ちゃんと二人で一つ買ったから、私の分のプレゼントっていうのが無いんですけど」
「そっか。でも大丈夫。プレゼントなら私から後であげるから」
「でも、それは悪いですよ」
 そう言い終わるか言い終わらないかのうちに、鈴原先輩の笑みが見えた。だめだ。何かを企んでるみたいだけど、どうやらもう逃げ

られないらしい。
「そういえば、鈴原は何で番号ついてないんだ」
 長谷川先輩が言った。
「あぁ。私は全員分あるしね、一応」
 今更なに? とばかりに平然と言った。
「金は大丈夫だったのか」
「あんたみたいなボンボンに心配されるとムカつくわ」
「あ、ごめん」
「謝られると余計ムカつく」
「んじゃどうすりゃいいんだよ」
 長谷川先輩がため息混じりに言う。
「黙ってじゃんけんして順番決めればいいのよ」
 先輩は苛ついているのか笑っているのかよくわからない表情をしていた。それは焦っているようにも見えた。お祖母さんの振りをし

た狼の気持ちに近いかもしれない。ウズウズして窓から空を見る気持ち。
「はいはい」
 長谷川先輩は投げやりに答えていた。
「それじゃあ、じゃんけんをして勝っても負けても一人ずつ抜けること」
「一人にならなかったら」
 姉が怪訝そうに聞いた。
「勿論、もう一回だよ」
「変わってるわね」
「いいじゃない。クリスマスなんだし」
「まぁ、いっか」
 ちらと私を見る。呆れたように笑っていた。鈴腹先輩も満足そうに笑っている。どうやら赤ずきんちゃんはドアをノックしたらしい


「はい。じゃあ四人早くやんな」
 しぶしぶと四人がじゃんけんを始める。
 一回はあいこ。二回目は姉の一人負け。その後は順調に決まり。藤谷先輩、長谷川先輩、安堂先輩の順となった。鈴原先輩は満足そ

うだった。
「さて春花。ちゃっちゃっと引いた引いた」
 箱を持つ先輩はとても嬉しそう。
「お姉ちゃん」
 姉に向けて小さくピースして見せる。姉は堅く頷いた。これから戦いにでも行くかのように。ゆっくりと静かに細い指がさ迷う。そ

して、思い切ってひとつを選んだ。
「じゃあ。これ」
 グッと掴んでゆっくりと引き上げると、その円い先端に書かれていたのは《②》。
「おっ。てことはこれだね」
 ヒョイとプレゼントの群集から摘みあげる。
「んじゃ本人が渡してね」
 と言ってそれを本人にパスした。長谷川先輩に……。
「聞いてないけど」
「言ってないもの」箱をいじりながら言う。
「それとも、嫌なの」
 鈴原先輩の手が止まった。
「いいや、全然」
「なら最初から文句言わない」
 再び箱を何やらカチャカチャやりだした。先輩が姉の方を向く。
「はいこれ。クリスマスプレゼント」
 いつもの笑顔付き。さっきまでの反抗的な態度はどこへ消えたのやら。プレゼントが目の前で横切るのを、二人の手を、じっと見つ

めていた。
「ありがとう」
 はっきりとした口調と笑顔。そこに違和感を覚えずにはいられなかった。
「由佳。これって今開けてもいいの」
 箱の準備を終えて次に引くのを待っていた先輩が面倒くさそうに顔を向けた。
「ん? あぁ、最後にみんなで一斉に開けようと思ってたんだけど、気になるならいいよ」
「ううん。そっちの方がいい」
「なら、春花が早く開けられるように、皆いっぺんに引こうか」
 トンとテーブルの上に置く。三本の棒は各々これを引けと言わんばかりに行儀よく並んでいた。
「じゃんけんの意味ないですね」
 ポツリと呟くと、地獄耳な鈴原先輩がすかさず言った。
「何いってんの。ちゃんとあったよ」
 ニッと笑う先輩。
「そうでしたね」
 先輩の意図がわかり、私も笑って見せた。
 くじは思った通り、藤谷先輩が四番、安堂先輩が一番、そして長谷川先輩が三番。鈴原先輩が花火大会の時に言ってたことを思い出

した。あいつらが単純なだけ、か。それとも、ここまでが準備だったのだろうか。姉はさっきと変わらず平然と渡していた。むしろ藤

谷、安堂両先輩の方が心配になるくらいあたふたしていたが、鈴原先輩がそんな二人に一喝してようやく二人にも交換を済まさせた。
「さ、皆さん。一斉に。どうぞ開けて下さい」
 満足げな鈴原先輩。カサカサと紙の擦れる音が響き、ちょっとした緊張感が部屋に漂う。
「テニスシューズって。藤谷君、これサイズとか合わなかったらどうすんの」
「大丈夫だって」
「あれ。サイズ合ってる」
「だろ」
 してやったり顔の藤谷先輩。
「そうじゃなくて、サイズの問題とか考えなかったの? もし他の人に渡ってたら合わなかったんだよ」
 頬を赤らめる安堂先輩。
「ま、そこらへんは何とかなるだろうと思って」
 ちらっと鈴原先輩に視線を送る。
「まぁ、何にせよ結果オーライよ。美智子」
 ハハハと笑って肩をポンポンと叩く。
「うん。まぁね」
「それより。安堂のは無難だな。図書券か」
「ダメだった」
 安堂先輩が懇願するような視線をぶつける。
「いいや。結構本読むから嬉しいよ」
 その視線を真っ向から受け止める。
「なら、よかった」
 視線を弱めてころっと笑った。
 さて、こちらは。
「お姉ちゃん。なんだった?なんかやけにでかい袋だったけど」
 ヒョイと姉に視線を戻す。
「ほらこれ。かわいいでしょ」
 座ったまま上半身だけ私に向けた。姉の腕の中にはクマのぬいぐるみ。姉がちょうどうまく抱ける位の大きさだった。姉は、そのク

マと同じように笑っていた。
「お姉ちゃん、嬉しい?」
 思わず聞いてしまった。それ位姉の反応は普通だったから。いや、あまりにも普通だったから。
「何言ってんの。当たり前でしょ。こんな大きくてかわいいぬいぐるみ貰って。智花は何か不満なわけ」抱いているその白い腕に力が

入った気がした。
「ううん。ただ、もしお姉ちゃんが嬉しくないんだったら私が貰おっかなって思って」
「部屋に置いとくんだからあんまり関係ないと思うけど」
「それもそうだね。それよりあれは」
「あ」
 今度は長谷川先輩の方へ体を向ける。
「あの、長谷川君。気に入ってくれたかな? 私と智花で選んだんだけど」
「これは、オルゴール」
「そう。オルゴールならみんな嫌いじゃないかなって思ったんだけど。やっぱり女の子っぽかったかな」
 私達の買ったそのオルゴールは、黄土色の木製の箱に四つ、綺麗な彫刻が施された脚がついてて、その上にガラスで囲まれたケース

が乗っかっている。そのガラスケースのなかには、赤鼻のトナカイと、それが曳くソリに乗り満面の笑みを浮かべたサンタの人形が浮

いたように置かれ。彼等の下には雪の積もった街のジオラマが作られていた。
「いや。俺こういうの好きだよ」
「よかったぁ。あ、回してみて」
 騒がしい部屋にクリスマスソングが静かに鳴り始める。
「うわ。すご、綺麗。」
 オルゴールの音と合わせるように、キラキラと雪が舞い漂う仕掛けになっているのだ。私はこれを一目見て気に入った。それは姉も

同じだったようで、顔を見合わせて無言で頷き合い、即座に買った。
 それは、動かない空間で唯一動きを与える雪。でもそれはあまりにもゆっくり落ちていくから不完全で。でも不完全だからこそ綺麗

だった。
「何このオルゴール。高そうじゃない」
 オルゴールの音に、向こうで話に興じていた先輩達も誘われてきた。
「ちょっとね。一人じゃきつかったかな」
「二人分ですから」
 顔を見て互いに笑った。
「本当、綺麗だな、これ」
「うん。そうだね。いいなぁ長谷川君。」
 それから、最後の一粒が落ちきるまでみんな黙ってそのオルゴールを見つめていた。

「そういえば、鈴原のはどうなったんだ? 全員分あるんだろ」
 藤谷先輩がその余韻を破る。
「勿論。ちゃんとあるよ」
 リュックサックを持ってきて、何か取り出した。
「私からのプレゼントはこれ。サンタ帽子とトナカイ帽子」
「お前。仮装やるんじゃないんだから。しかも二組しかないし」
「いいじゃない。パーティーなんだから。それにあんた達男子にはもうあげたでしょ」
 男衆は顔を見合わせて首をかしげていた。
「わからないなら別によし。とにかく、これは私達のものだから」
「ちょっと待て。まさかお前の分もあるのか」
「そうよ。悪い」
「普通自分にプレゼント買うか」
「別にいいでしょ? 普通なんてつまんないし」おどけた様子で言った。
「さ、あんな外野はほっといて分けよ」
 まだ何か言いたげな藤谷先輩を無視して背後に追いやった。
「さて、どうやって分けようかな。何か希望ある」
「由佳が決めていいんじゃない」
 安堂先輩が申し訳なさそうに言った。
「って言ってるけど、春花達、それじ」
 当然私達に異論などなかった。だって、今の鈴原先輩に何か言っても何も変わらなさそうだったから。
「よし。じゃあまずは私がトナカイね」
「いきなり自分からかよ」
 藤谷先輩がヤジを飛ばす。
「うっさい。あんたは黙ってな」
 ギロッと一睨みしたら藤谷先輩は大人しくなった。今日の先輩は何だか人が変わったみたいに必死だ。
「さて。次はこのサンタ帽子を美智子にあげる」
 そっと被せられた帽子。まだ新米で煙突から落ちても何の対処もできなさそうな頼りないサンタが現れた。それはそれで楽しそうで

はあるけれども、やっぱりそんなサンタでは夢も期待もあったものじゃない。
「うん。中々似合ってるじゃない」
「それっていいことかな」
 しきりに帽子を気にしている。
「どんなものでも似合ってる方がましよ」
 笑い出しそうなのを堪えて姉が言った。
「まぁ、春花がそう言うなら」
 そう言いながらも、まだ不満そうに帽子の位置を頻繁にずらしている。
「さて、問題はあなた達よね」
「あの、今更なんですけど。私、トナカイがいい」
 おずおずと私は言った。私が意見したことに先輩は意外にも目を輝かせていた。
「お、智花ちゃんがトナカイねえ」
 今にも吹き出しそうにしている。私は自分から罠にかかりにいってしまったのかもしれないと後悔した。
「じゃあ、ハイ。春花はこれね」
 姉はヒョイとそれを被った。
「お姉ちゃん。アルバイトすればよかったね」
 正直な感想だった。街中でこんなサンタがいたら、買う気のない人だってついその店の商品を買ってしまっただろう。そんな、大人

の夢見るサンタ像。
「そう」
 姉はちょっと誇らしげに笑った。
「ほら、そこの男子二人。飯ばっか食べてないで、ちょっと見てみ」
「ちょ、由佳。」
「駄目よ。こういうのは内輪だけで楽しんじゃ」
 帽子を取ろうとした姉の腕を私がガッチリ掴んだ。
「ちょっと、離しなさいよ、智花」
「いいよ智花ちゃん。私が許す」
 鈴原先輩がゴーサインを出す。
「というわけで、ごめんねお姉ちゃん」
 ニッと笑う。姉の顔は見る見るうちに真っ赤になっていった。
「もう、智花なんて知らない」
「お、牧原似合ってんじゃん」
 やっと食べるのをやめた藤谷先輩が言った。
「これなら幾つでもケーキ買っちゃいそうだな、孝俊」
「ああ、そうだな。こんなに似合う人初めてだな」
「あんまり誉められてる気がしないんだけど」
「何言ってんの春花。『どんなものでも似合ってる方がまし』でしょ」
 弱ってるところを安堂先輩がすかさず反撃にでる。
「そう、だけどさ」
「ま、いいじゃない。クリスマスだしパーティーなんだから。ちゃんと被ってるのよ」
「分かったわよ」
 姉の腕が垂れ下がる。それを見て満足そうな鈴原先輩。
「それじゃあ次は私達ね」
「そんなもったいぶることじゃないんじゃ」
 ゾクッとした。先輩の目は爛々として、ねこじゃらしを狙うライオンを思わせた。
「さ、まずはこのツノ帽子。」
 先輩が先に被って、もう一つを私に被せた。トナカイのツノはふかふかしていた。先輩は他の人達の視線を遮るように私の前に座っ

ていたから、私からは先輩の顔しかみえなかった。間近に迫る先輩の頬はひくついていた。
「そして、トナカイといえばこれ」
「先輩、これって」
「いいからつべこべ言わずつける」
 先輩はすぐさま自分に取り付け、何も言えぬ間に私にも付けた。
「ああもう、かわいいよ。智花ちゃん」
 それを付けた瞬間、先輩が抱きついてきた。肩越しに皆の顔が見える。
「うん。すごくかわいい」と、安堂先輩。
「ぬいぐるみみたいだな」とは藤谷先輩の弁。
「あぁそうだな」長谷川先輩が楽しそうに笑う。私は耳が熱くなるを感じた。
「智花、似合ってるわよ」姉が意地悪く言った。
「なにさ、お姉ちゃんだってこれつけたら同じなんだからね」
「私より智花の方が似合うって」
「そうそう。やっぱり智花ちゃんの方が似合うよ」
 肩に両手を置いたまま、鈴原先輩が私をまじまじと見た。
「先輩こそ、よく似合ってますよ」
 笑みを絞り出す。私の言葉に藤谷先輩が同調した。
「そうだな。何か鈴原ってそういう笑いとりキャラ似合うよな。もちろん、笑いキャラとして」
 一瞬、肩にのせられた両手にグッと力が入った。パッと手を放すと、ごめんね、と小さく私だけに呟いて先輩は立ち上がり振り返っ

た。
「当たり前でしょ。なんたって私は宴会奉行なんだから。この位付けこなせて当然。」
 異様に誇らしげに語るその姿に、私は不安を抱かずにはいられなかった。
 つけた赤いトナカイ鼻が、その自信たっぷりの顔にとても際立って見えた。

 食べるものもなくなり、皆なんとなくのんびりしているとき、私は鈴原先輩を縁側に誘った。縁側に二人きりで腰かける。見上げれ

ば星々がはっきりと瞬き、背後にはサンタ達と、プレゼントをもらい損ねたと喚く子供たちが時を重ねている。
「先輩。」
 私が口火を切る。
「ん」
 夜空に目を向けたまま。
「大丈夫ですか」
 サッと、丸くした目を私に向けた。そして唐突に笑いだす。それはカラカラに乾いた笑い声だった。
「どうかした」
 後ろで姉が聞いた。
「いいや、何でもないのよ。私達のことは気にしないでそっちはそっちでのんびりしてな」
 まだ笑いを抑えきれずにいた。
「先輩?」
「あぁ。ごめんごめん。やっぱり姉妹だね」
 笑いを必死に堪えている。
「どういう意味ですか」
「ん」ようやく落ち着いてきた呼吸。
「前にね、春花から全く同じこときかれたんだよ。急にただ一言『大丈夫?』って」
「そうだったんですか」
「そ、やっぱりあんた達に隠し事は通用しないのね」
「それじゃあ、ただの詮索好きみたいじゃないですか」
「ま、似たようなものだね」そう言って、トナカイ帽子と赤鼻を取る。
「そうそう。質問に答えてなかったね」
「いえ。いいです。無理に答えなくても」
「それも全く一緒だよ」
 月や星々の明かりに照らされた先輩の笑みには、さっきまでの、電灯に照らされた笑みとは違う脆さと力強さがあった。
「あの時は結局何も答えられなかった。でも今ならできる。聞いてくれる」
「先輩が言うセリフじゃあるませんね」
「こういうことに先輩も後輩もないのよ」
「私でよければ。」
 私も静かに笑った。
「答えは、『大丈夫』よ。このツノ帽子と付け鼻があれば、ね」
「本当ですか」
「もちろん。私、嘘を口にはしない主義なのよ」
 パパッと手慣れた様子で帽子と赤鼻を再びつける。
「真っ赤なお鼻のトナカイはサンタを誘導しなくちゃ、でしょ」
 ニッと歯を見せて笑う。一見難攻不落、敵無しのその笑みにも、どこかに小さな破れ目が見える。
「そうですね」
「私こそ聞きたい。あなたは大丈夫?」
 その言葉に一瞬ギクリとする自分が遠くにいた。眉を必死に押さえつけて鈴原先輩を見つめた。
「別に。大丈夫もなにもないですけど」
「そう。ならよし」
 サッと立ち上がると、先輩は後ろの人達に言った。
「もう遅いし。今日はここら辺で終わり」
見上げた先輩の背中は、やっぱり大きかった。
 立派なツノを手にいれたんだ。
 でもそれは、柔らかくて、いざというときには役に立ちそうもない自分を守れない貧弱なツノ。
 だけどいつか、そんな見せかけのツノなんて要らなくなるときが来る。
 その時までは、偽物だってばれないように、この角をつけていよう。
そう、先輩の背中が語っていた。

「楽しかったねお姉ちゃん」
「本当」
 クマを抱えたままで歩きづらそうだ。
「そうだ。私お姉ちゃんにプレゼントがあるんだよ」
「え、何?」
 クマも私を見つめている。鞄の中から目当てのものを取り出すと、包装を丁寧にとって見せた。
「写真たて」
「そ。必要になると思って」
「何で」
 クマが体全体を傾げる。クマと話している気分だ。
「ほら、写真の一枚や二枚あるんでしょう。ちゃんとフレーム負けしないようにシンプルなのにしたんだ よ」
 ポフッとクマに殴られた。からかった後の姉の顔くらい見なくてもわかる。
「ふざける気は無かったんだよ。真剣にお姉ちゃんのこと考えたら、あのお金の中だと私これしか思いつ かなくて、だから」
 クマが姉の鞄を開いて私にグイと差し出した。
「鞄の中に入れてくれる? 智花からのプレゼントなら何でも嬉しいよ」
 クマ越しに姉の微笑みがうっすらと見えた。
「ありがとう。それじゃあ、早速」
 再び包装紙にくるんだ写真立てを入れる時、私はもう一つ、包装されたものを見つけた。
「お姉ちゃん、この包装紙にくるんであるやつは誰からの? まさか、先輩からじゃ」
「違うって。それは私から智花へのプレゼントだよ」
「私に」
「そ。開けてみ。大したものじゃないけど」
 そろそろと包装をとる。
「鏡?」
「そうよ。智花ったら女の子なのに鏡すら持ち歩かないんだから。それともそういう主義だった」
「ううん。ただ必要なかっただけ」
「そこが分からないわね。まぁとにかく、使わないなら私が貰うけど」
「絶対使うからあげないよ」
 私はそれを両手で握りしめた。
「そう。貰ってくれて嬉しいよ。じゃあ早く帰ろう」
「うん」
 歩きながら、私は姉のくれた鏡で自分を写してみた。
 自分はこうやって笑うのか。
ちょい、と鏡を傾けて姉を見た。クマをしっかり抱いた姉はほくほくと笑っていた。
 もしこれが私だったら?
 もし私だったら、こんな風に笑っていただろうか。
鞄から赤鼻を取り出して付けてみる。鏡に写ったその笑顔はさっき写った自分のものと同じだとはとても思えなかった。
 思えないほど表情がなかった。
 思えないほど嘘がまじっていた。
 思えないほど、独りぼっちだった。
でも、これでいいんだ。もし私が姉だったらなんて考えないためにはこれが一番なんだ。
 私には偽物のツノなんていらない。
 私にはこの赤鼻があればいい。
 これだけあれば、サンタを導くには十分なんだ。
 ソリを曳くだけのトナカイにそもそもツノなんていらないんだ。
鼻に力を入れてみる。でもやっぱりそれは光らない。
 それは私自身が何処にいけばいいかわからないから。
 私が迷ってるから。
どうやったら上手く光るんだろうと考えてきた。でもその方法は見付からなくて。いつまでもサンタを困らせてばかり。
 冷たい風が時折私の足下を通り抜ける。
 その冷たさがそこから体全体を包み込んでいきそうで、
 私をそのまま凍らせてしまいそうで恐かった。
 隣を歩く姉の笑顔。
 そこだけは温かくて。
 この冷たさを受け入れようこの時私はそう決意した。
それは、空気が湿っていたある冬の日。街灯の明かりが月よりも白く怪しげに光る帰り路のこと。

       八
 まるでお寺がすぐ近くにあるように感じさせる番組が今年も一年を締めくくっている。居間で家族全員その番組をぼんやりと眺めて

いたとき、不意に父がテレビを消した。
「初詣行こうか」
 みんな何も言わず玄関へと向かう。私も姉の後ろにぴったりとついていった。毎年歩く大晦日の町中。いつも同じ道を通るのに、全

く同じなんてことはなかった。それは時間が経っている証拠。
 でも、今年だけは同じであって欲しかった。
 そんな願い虚しく今年も、去年とは同じじゃない道を通って同じ神社に着く。その間誰も喋ろうとしなかった。普段はほとんど人が

来ないような地元の神社も初詣客でごったがえしていた。和服の人もちらほら見られる。私なんか家にいたそのままで出てきたから私

服もいいところだなと思い、手ぶらできたことに今さら気付いた。
「お姉ちゃん」
 前にいる父と母に聞こえないように小声で話しかけた。
「何?」
「私お金持ってきてないや」
 姉がちらと前を見た。
「私が貸してあげる」
「ありがとう」
「家に帰ったら返してよ」
「分かってるって」
 前に視線を戻した姉の横顔。不安そうだった。私も前を見る。目に入ってくるのは階段に並ぶまだまだ長い人々の列と、二人横に並

んだ父母の姿。
 決着をつけられない。父も母も頑として私達を手放そうとしなかった。折角そっくりな姉妹なのだから一人ずつに分ければいいじゃ

ないか。表面には出さないものの、家庭裁判所の人達がそれとなくそんなふうにもちかけ、父母もその妥協案には傾きかけているよう

だった。でも、そんな考え方を、私が受け入れられなかった。意外にも、冷静な姉が私に賛成してくれた。こんな私でも姉はまだ必要

としてくれるんだと、本当に嬉しかった。
 結局、私は私で、姉とまだ離れたくないと言い張ったから余計膠着してしまっている。でも、それなら今はみんなと一緒にいられる

。ならいいとその時は思っていた。今、目の前の父母を見て、私は自分のしたことがよかったのか分からなくなった。二人はもはや私

にとっても他人のようだった。声をかければ二人とも愛想よく答えてくれる。だけど、そこからはお金の臭いがする気がした。
 少しも振り返る素振りを見せないまま、二人は私達の前を行く。列を外れたら参拝できない。私達に出 
来ることは、ただ列の流れるままに進むことだけ。私の細やかな反抗も無駄だったのかもしれない。
 父と母が参拝する番となった。お金の音と鈴の音が二度ずつ聞こえて格好悪かった。パンパンと今度は揃って拝む後ろ姿。何を願っ

ているのだろうか、ヤケに長い。去り際には、父がちらっと私達に視線を送っただけだった。敵意も愛しさも感じない堅い視線。それ

を前に、私は小さな頃に戻ったように、父を恐いと思った。
「ほらボケッとしてない」
 グイっと右腕が持っていかれる。危うく転びそうになった。
「ハイ、これ」
 姉がそっと手に置いた五円玉。
「二枚あってよかった」
 姉も五円玉を見せてコロコロと笑っていた。
「人もいっぱいるし早く済ませよう」
「うん」
 私は右手の五円玉を握りしめ、目の前の社を眺めた。その威圧感に押し潰されてしまいそうだ。きっと神様は信心の無いことをお見

通しだろう。それでも毎年やって来る人達の願いを聞くだけはしてくれるというのだから、大したものだ。
 でも今回ばかりは聞いてもらうだけではいけないんだ。
 なんとしても叶えてもらわなければならないんだ。
グッと握る手に力を込め、そっと賽銭箱に投げ込む。
 カラン
乾いた軽い音が響いた。
「一緒に鳴らそう。さっきみたいにバラバラじゃあかっこ悪いしね」
 太い縄をがっしりと掴んで振る。鈴はリズム良く鳴った。
 パン、パン
手を叩く音が気持ちよく合わさって、反響した。固く目をつむり必死に願う。
 お姉ちゃんと幸せになれますように
 ただ一つこれだけを心に描いた。これから先いくら願い事があっても叶わなくていい。漠然とした、欲張りな願いだけど、これだけ

は叶えて欲しかった。瞼をゆっくりとあげ、聞き届けてくれる神様がいるという社の奥を見る。そこは金ぴかに光輝いていた。でもそ

れだけ。結局、聞いてくれたのかどうかも分からない。たった五円じゃ私の願いを聞きいれてくれないかもしれない。姉はまだ拝んで

いた。もう一度社を見る。いくらいれればよかったのかと問掛けてみる。ただそこは金ぴかに光輝いていた。
「ちょっと時間かかっちゃった。行こ」
 少し照れた顔。私は促されるまま、参拝の舞台を降りる。降りきる前、ズラリと並ぶ列を見渡した。これから神様はこんな沢山の人

達を相手にしなければいけないのか。
 正月だけ参拝に来る人々。
 一体みんな何を願うんだろう。
 自分のこと他人のこと。
 幸せになりたい。なってほしい
そんな欲望が押し寄せる今日。私もこうして都合よく願った。きっと私の願いも神様は聞いてないだろう。いくら私が心から助けを求

めても、せいぜい耳を傾けるだけで目をとめてくれやしないだろう。それは仕方ないことなんだ。そもそも正月だけその偽りの信心を

掲げて参拝し、願いを叶えろというのがあまりに虫のいい話。結局私自身が悪いんだから。
 降りた先には父母が待っていた。父はムスッとした顔で待ち受け、母はハラハラするような笑顔で迎えた。私達が来たのを確認する

と、父は何も言わずにゆっくりと帰り道に足を踏み出した。母も後を追うように振り返る。
「お父さん達って本当に別れる気あるのかな」
 その光景は離婚を進めている夫婦には見えなかった。
「さぁ。私には分からない。お父さん達の間には私達の知らない時間も流れているんだから」
「そうだね」
 ちょっと寂しさを感じた私とは対照的に、姉は楽しそうだった。
「でも、もしかしたら智花の作戦は良かったのかも」
「作戦?」
「そ。離婚引き延ばし作戦。」
「私そんなつもりじゃ」
「いいのよ。それで」
 そう言って私の頭を二度軽く叩いた。
「私達も早く帰ろ」
 気付いたら父母はかなり離れていた。私は追い付きたくて姉の手を握って走り出した。姉が何か言った。でもその言葉は耳に入らな

かった。父母の背をただ見つめた。ただ、これ以上離れちゃいけないと思った。
 突然、ヌッと黒い棒が行く手を塞ぐ。止まれない私はその棒にお腹からぶつかった。不思議なことに、その棒はゴールテープみたい

に曲がり、それでいてガッチリと私の勢いを止めた。
「この人混みで走ると危ないから」
「あ、長谷川君も来てたの」
 長谷川先輩?
さっきの黒い物体を落ち着いてよくよく見る。人の腕。まさかと思いながら、それを辿る。
「毎年来るんだよ。近いからね」
 と言う先輩の顔にいきあたった。サッと身を引いたら、今度は姉にがっしりと両肩を掴まれた。
「全く、いきなり走り出して。子供じゃないんだからそのくらいわかるでしょうに」
 耳たぶに熱さを感じた。
「正月ボケの一種じゃないか」
 からかい口調。熱さが耳全体に急速に広まっていった。
「私。先帰るから」
 姉の手を払って歩き出す。
「ちょっと智花」
 クルッと姉の方に体を向けて、意地悪くニッと笑って見せる。
「大丈夫だって。今度はちゃんとゆーっくり歩くから」
「私も行くわよ」
 それを無視してスタスタと歩いた。最後にちらっと視線があった先輩を残して。

 鳥居への階段を降りているとき、姉が追い付いてきた。息が上がっている。
「走ったら危ないんじゃなかったっけ」
「偶々階段に人がいなかったからいいの」
「もっとゆっくりしてればよかったのに」
「長谷川君も妹を待たせてるんだって」
「妹、いたんだね」
 別にいたって何の不思議はない。でも、何だか騙された気がして悔しかった。
「うん。私も初めて聞いた。クリスマスの時は友達ん家に行ってたみたい」
「残念だったね」
「智花は変な気をきかせなくていいの」
 一段一段確実に降りていく。盗み見た姉の顔はにこやかで、でもやっぱりそれはどこか悲しそうで。神様を心から信じたくなった。

そうすれば私の願いは叶うかもしれないから。
「そういえば、お姉ちゃんはどんな願い事したの」
「秘密」
 くすっと笑った。
「ケチ」
「バカね。そういうのは人に言わないものなのよ」
「そうだっけ」
「ま、智花のは言わなくても分かるから、どっちでも変わんないけど」
「じゃあ当ててみてよ」
「私のことでしょ」
 自信たっぷりに言った。
「違うよ。自分のことちゃんとお願いしといた」
「そっか。外れか」
 少しも悔しそうな素振りを見せず、逆に満足そうだ。
「外れたわりに嬉しそうだね」
「そりゃ嬉しいよ」
「何で」
「だって、智花が自分のことを考えて手を合わせたからさ」
「ただ自分勝手ってだけだと思うけど」
「だから、それでいいんだって」
 訳も分からず姉を見上げる。ちゃんと階段を見ろと注意されてしまった。
「みんな自分のことお願いしないとバランスがとれないでしょ? 自分以外の人のことを願ったら、その人に神様の視線は集まっちゃ

うから。バランスをとるにはその人もまた他人のことを願わなきゃいけなくなるし」
「それでいいんじゃないの?」
「みんながみんな、他人のことを考えられるかは分からないでしょ」
「そうかな」
「じゃあ、例えば。今普通に暮らせていける私達の大部分は貧しい人達が幸せになれば良いと思ってる。 でも、その人達は私達の幸

せを本当に望むと思う」
「でもだからって自分のことだけ考えるのはよくないよ」
「そうね。だから、私達は願うんじゃなくて実際に行動しなきゃいけない。行動で他人の力になるならいくらでもやればいい。神様へ

のお願いは欲張れないけど、行動なら欲張って色んな人を助けられる。だから、自分以外の人達には行動で、自分のことは神頼み。そ

れでいいんじゃないかなって私は思うわけ」
「そっか」
 じゃあ、行動も願いも自分のためじゃなくなったら、どうなるんだろう。やっぱりバランスが崩れてしまうんだろうな。バランスが

崩れたらどうなるんだろう。そんな疑問をぶつけようとした時、姉がそれを見透かしたように遮った。
「ほら、お父さん達ちゃんと待ってるでしょ」
 鳥居の向こう。参拝の列に邪魔にならないところに父と母が立っていた。
「だから言ったのに。あんなに走らなくても追い付くって」
「聞いてないよ」
「言ったわよ」
 そんなやりとりが続き、最後の一段。鳥居をくぐるとガラリと景色が変わった。高い木々の葉に覆われた空が、いっぺんに白く染ま

った。
「お前達、遅いぞ」相変わらず不機嫌そうな父。
「早く帰るよ」相変わらず崩れそうな笑みを浮かべる母。
 今度はしっかりと歩いて行った。

 帰り道は来たときとはまた違った。誰も何も話さなかったけど、来たときみたいな静かさはなかった。
「あつ」
 姉の声に顔を上げる。理由は聞くまでもなかった。
「雪だね」
 今年最初の雪。それは積もりそうもないほどちらちらと舞い降りてきていた。
「ね、智花」
「なに」
「今度さ、花見しよ」
「まだまだ先だよ」
 雪を見て花見をしようなんて突飛な提案にちょっと呆れた。
「先のことだから。まだ分からないことだから約束するんでしょ?」
「それもそうだね」
「絶対だからね」
 半ば睨むように私を見つめた。
「先輩はいいの」
「うん、いい。花見は智花と二人だけがいい」
 空を見上げる白い眉間に皺が寄る。
「わかった。約束ね。やっぱりお姉ちゃんは子供っぽい」
 私の頬は自然と弛んだ。
「いいでしょ、別に。桜は綺麗なんだから」
 本当にそんなときの表情は父とそっくりだ。
「あ、そうだ。忘れてた」
「何を」
 まだ機嫌の悪い姉。吹き出しそうになるのを堪えた。
「あけましておめでとう」
 姉の表情がふっと和らぐ。
「全く。智花には敵わないわね。話してるとこっちの調子が狂うよ」
「わざとだよ」
 へへっと笑う。
「知ってる。わざとじゃない方がよっぽど」
 さらりと言ったその言葉は、重みを伴ってコンクリートへ落ちて行った。
「それにしても」姉は続けた。
「ほんと、あけましておめでとう、だね」
「今年もよろしく」
 そこで声が重なった。
 そんなこと言わなくてもいいなんて二人ともわかってたのに。おかしくて二人して声を上げて笑った。その笑い声に、振り返る父の

表情は緩み、母の笑顔には力強さが戻る。
 みんな一斉に空を見上げた。雪は真っ白に輝き、私はその眩しさに目を細めた。そのまま姉に顔を向ける。一粒の雪が姉の目尻に落

ち、体温で溶けてスッと一筋の線を描いていった。姉はそれに気付かず、一心に空を見つめていた。
 泣いてるの?
なんてからかう気にもなれなかった。
 だって本当に悲しそうだったから。
 いつもみたいに笑っていたから。
もう一度空を見上げる。ひらひらと桜みたいに落ちてくる雪の冷たさに、鼻が赤く熱くなるのを感じた。
 部屋に戻ると、私はそのままの格好でベッドに飛び込んだ。「ちゃんと着替えないと」なんて母親みたいなことを言っている姉。で

もそんな姉を無視して、眠気は私を容赦無く包み込んでいった。

       九
 パチッと目が覚める。
 今何時だろ。
 枕元の時計は十時を差していた。体を起こし一度延びてからベッドを飛び下りる。姉は起きているだろうかと覗いてみると、まだス

ヤスヤと寝息を立てていた。どんな夢をみているのやら。にまにまと無邪気に笑っている。
 そういえば、私はいつ着替えたんだろ。
 寝惚けていた意識がはっきりしてきてようやく自分がパジャマであることに気づく。きっと姉がやってくれたんだろう。
「ありがとう」
 起こさないようにそっと囁いた。
 部屋を出る。居間にはまだ電気がついていないみたいだ。私が一番かと、ちょっと得意になって居間に入った。テーブルには重箱が

置いてあった。よく見ると、そのすぐ近くにメモが一枚目、綺麗に置かれている。
 何だろ。
手にとってみると、それは父と母からだった。
『あけましておめでとう
 今日は大事な用事があって出掛けます。お年玉は帰ってから。
 ちゃんとおせち食べるように。
                             父母より 』
 おせちにはもうすでに二人が食べた跡があった。
 食べるもんか。
 不思議にそう思った。だけど、その気持ちとは裏腹に私の体は食べ物を渇望している。私はそれを振り気って部屋に戻った。
 姉はまだ眠っていた。私はそっと着替えてドスッと椅子に座る。何もすることがない。不意に緑色のライトが目にはいった。メール

の着信を知らせるライト。そういえば忘れてたな。机の上にほったらかし同然に置いてあった携帯電話に手を延ばす。メールは全部で

十件。全て年賀メール。画像を駆使したもの。絵文字を多用したもの。文字に色んな細工をしたもの。記号で絵を描いたもの。皆それ

ぞれ豪華だった。
 でも、それは電子メールの冷たさをひた隠しにしているようで。
 だから余計その事実が表面に浮かんだ。
 中には動画を添付してきた人もいた。けれど、声を聞いても動画を見ても、私はそれを実感できなかった。 
 つながっているのにつながっていないような感覚。
 メールはそんな不安を私に残していった。
 年賀状はもう来てるかな。
 外に出て一階に下りた。

『三○三 牧原』
 と書かれた郵便受けを覗く。束の葉書が入っていた。私は急いで取り出し、その場で分けた。
 お父さん、お父さん、お母さん、お姉ちゃん、お母さん、お父さん……
 私の名前がいつになっても出てこない。宛先に私の名前を見つけたと思ったら、
 『牧原 春花様
  智花様』
 となっていた。裏をみると、安堂先輩から。私はそれを自分の分にした。それから後に発見した藤谷先輩のも同じだった。ただ一つ

、鈴原先輩だけがわざわざ二枚出してくれた。私は堂々とその一枚を自分の分にして、他の先輩達のを姉の分に戻した。そして最後の

一枚。それにはこう宛ててあった。
 『牧原 春花様
  牧原  智花様』
 パッと裏返す。出したのはやっぱり長谷川先輩。こんなちょっとしたことで随分違うな。迷ったけれど、私はそれを姉の分にした。

結局、純粋に私宛てなのは一枚だけ。
 こんなに人付き合いが悪かったっけ。
 そんなことはないはずだった。中学の時は毎年たくさん来ていたんだから。でも、中学の友達からはさっきメールで二、三人来ただ

け。
 まだ一日だし。
 そう自分に言い聞かせて家に戻った。
 部屋に入ると姉は既に着替えて、椅子に座っていた。
「智花、一体どこに」
 私は何も言わず手に持った束を見せつけた。
「あ、年賀状か」
「はい、これお姉ちゃんの」
「もう分けたの。早いのね」
 パラパラと順に見ていく姉。その顔が色んな風に変わっていって楽しかった。カーペットの敷かれた床に座ってその百面相を見てい

た私に、最後までその束に目を通さないで姉が話しかけた。
「残りの束は」
「お父さんとお母さんの」
「智花のは」
 その言葉がズシリときた。
「私のはねえ」
 ピラと一番上の葉書をとり、携帯をポケットからとりだす。
「これだけ」
 自分で言葉に出すと、「だけ」が妙に重くのしかかってきた。そうしている間にも携帯はメールの着信を知らせている。
「一枚?」
「と、携帯に十通以上」
「そう。由佳らしいわ」
 姉はそっと年賀状の束を机の上に置き、私は携帯のライトを消してしまおうとメールを確認する。
 引き出しを開ける音。
「智花」
「ん」
 メールを確認し終えて姉の方へ顔を向けた。
「はい、私から」
「年賀状?」
「そ。出そうと思ったんだけどここに出していいのか、その時はまだ分からなかったから」
 『牧原 智花様』
 はっきりと丁寧な字で書かれていた。裏返してみる。
『あけましておめでとう
 今頃はまだ一緒に暮らしているかな。もし一緒に暮らしているなら、今年はもう少し手のかからないよ  
 うにしてよ。特に、私をからかわないこと。
  これからもよろしく                                   』 
 文句ばっか。でも一つ一つの字に姉の動きが見てとれたから、それらはとても温かかった。
「ありがとう。お姉ちゃん」
「大げさよ」
 再びパラパラと年賀状を眺める。何枚目かに行き着いてその音が止んだ。ペラっと捲る音。立て続けにトンっと束を机に置く音が聞

こえた。
「ねえ」
 静かに話しかけた。
「何?」
 もらった姉の年賀状をじっと見つめていた視線を姉に向ける。
「本当は寂しいんじゃないの?」
 クリスマスの日、鈴原先輩が言っていたことを思い出した。
「そんなことないよ」
 なるべく自然に笑った。
「嘘。顔に書いてあるよ」
「大丈夫だって」
 ため息。
「姉を何年やってると思ってんの? 智花の考えてることなんて簡単に分かるんだから」
 私はただニコニコしてやり過ごそうとした。
「無理しないの。無理して笑っても自分が辛くなるだけよ」
 軽く眉をしかめた呆れ顔を向けてくる。
「お姉ちゃんだって」笑顔の緊張が途切れ、無性にイライラして、つい怒鳴った。
「お姉ちゃんだっていっつもそうやって笑ってるくせに。私に、私に何も言わないで一人で何でもしょいこんでさ。私だけじゃないよ

。周りがどんだけ心配してるかわかってるの?みんな何時だって待ってるんだよ。お姉ちゃんが助けを求めてくれるのをずっと待って

るんだよ」
 激しい感情の変化についてこられなくなった頭が、勝手に涙を流させて私をなだめようとする。そんな少しでは熱くなった私を冷や

すには足りなかった。それでも頭は命令し続けた。
 ポンッと頭に手が置かれたかと思うと、グイッと力強く引き寄せられた。
 姉は震えていた。
 私も腕を回してしっかりと抱き締めた。その震えが収まるように。
 温かい。
 その温もりに私の心も激しさを失っていった。頭が命令を止める。最後の一滴がポトっと音をたててカーペットに落ちた。何となく

姉から離れた。
「どう? 落ち着いた」
 私は黙って頷いた。姉はまたあの自然な笑顔を浮かべていた。泣いた形跡なんてどこにも見当たらない。自分の小ささみたいなもの

を痛感する瞬間だった。すこし間を置いて、姉は覚悟を決めたように話し出した。
「智花、人は最低で何人いれば幸せだと思う?」
 クラスの人数を答える。
 黙って首を振る。
 全校生徒の数。
 静かに首を振る。
 日本の人口。
 ゆっくりと首を振る。
 世界の人口。
 姉は一度目を閉じ、ゆっくりと二度と首を振った。
「正解は、二人」
「え、二人って」
 姉は眉一つ動かさず続けた。
「そうよ。自分ともう一人大切な誰か。それだけで人は十分幸せになれる」
「それなら。それなら何で私はこんなに辛いの?一人だけじゃない。私にとってはみんな大切な人達ばかりなのに」
「それは智花がまだ本当に大切な人に気づいていないだけ。みんながただ漠然と大切だと思ってるだけでは逆に混乱してしまうの」
「混乱するって」
 不意に姉が私の両手をそっと握った。
「いい? 私達はこうやって手を握って皆と繋がってる」握った私の手をいとおしそうに見つめる姉。
「だから、最低でも二人は必要なのよ。そして生きていくうちに、大切だなって思う人が増えてその輪はどんどん広がっていく」
 黙って頷いた。
「それは嬉しいこと。でもね、大切な人達が増えれば増えるほどわからなくなってしまうのよ。一番大切な人は誰だっけって。自分が

直接手を握りたいのは誰だっけって。隣にいる人がそうなのかもしれない。でももしかしたら二人の間にそうじゃない誰かが入ってき

ているかもしれない」
 まるで自分に語りかけるようだった。私はただ黙っていた。
「それでね、あっちこっちその人を探すんだけど、みんながその人にように思えるし、逆にみんなが違うようにも思えてしまう。自分

が曖昧だから。自分に、自信がないから」
 姉の握る手に力が入る。姉はただその握られた私達の手を見つめていた。悲しげでもあり嬉しそうでもある目。透明な硝子玉の輝き

が永遠に続けばいい。ありえないことだと知りながらも、そう願わずにはいられない。そんな時の目。長い髪が数本姉の顔にかかった

。それを振り上げようともせず姉は続けた。
「だけどね。これだけは覚えておいて」握る手に痛みを感じるほど力がこもる。
「私は絶対にこの手を放さない。どんな人が来ても、たとえ智花自身が振り払おうとしても、絶対に。私はいつでも智花の隣にいるか

ら」
 ぐっと顔を向け、力強く私の瞳を見つめた。
「それから、どんなに輪が大きくなっても。たとえどんなに大切な人達がたくさんいても、私は智花をちゃんと見ていてあげる。智花

が迷ってキョロキョロしていても私はずっと見てるから。だから。もし、一度見つけた大切な人が偽物だったら、私を見つけなさい。

隣にいるんだから簡単でしょ?」
 ふっと瞳から力が抜け、照れくさそうに笑った。
「なんで泣いてんの」
「そんなことないよ」
 そう言いながらも、頭に命令されて再び目尻に集まったそれは、逆らうことなく落ちていった。
「ほら」
 いつの間にか姉がハンカチを取り出して、拭いてくれた。
「ごめん」
「なに謝ってんの。それより分かった? ちゃんと覚えておくのよ。困った時の姉頼みってね」
 そう言って姉はニヤリと笑って、グッと親指を立てた。私もグッと返した。
 その間も、私の右手は固く握られたままだった。
 空いた左手は誰が握るんだろう。それともその人は姉の右手を握るのだろうか。分からない。でも少なくとも今、姉の右手にはハン

カチが握られていて、姉は私に笑いかけている。それだけは確かなんだ。
 空腹が警告を知らせるまで、私達はずっとそうしていた。その緊張感のない音にお互い声を張り上げて笑った。
 冬もそろそろ旅立つ支度を始め出す頃。
 最後の仕上げだとでもいうように雪が降る。
 それは小さくてすぐ溶けてしまいそうな雪。
 そんな雪が私達の街を静かにゆっくりと自身の色に染めていった。

        十
「久しぶりだね。一緒に登校するの」
「そうね。私はいつも朝練があったし」
 短い冬休みが終わり、今日から三学期。桜の蕾はまだまだ固く閉じこもり、刺すように冷たい風が吹き抜けていく。手袋をした手も

冷たく、マフラーの匂いに暖かな家を思う朝。
「寒いね」
「そりゃ冬だもの」
 三学期の始まりにはふさわしくない曇天。段々と近づいて来る校門もめんどくさそうに生徒を受け入れている。
「おはよ、智花」
 場違いなほど明るい声と同時にドンッと背中を押された。倒れそうになったのを何とか右足で踏ん張ってキッと振り返る。
「敏江、それに美奈も珍しいね。登校中に会うなんて」
「まぁ、方向が違うからね」
「じゃあ何で今日は」
「偶々だよ偶々」
 相変わらずだなぁ。とほのぼの思う。
 結局、あれから年賀状は来なかった。敏江達からはメールすら来てなかったから、しょうがないかなとは思いつつも、また顔を合わ

せるのが嫌になった。
 どこか二人に会うのが恐かった。
 でも何も変わらない敏江の笑顔。
 バカだなって自分を笑いたくなった。
「友達?」
 先輩らしい顔つきで姉が言った。
「あ、ハイ。柿谷敏江です」
 どぎまぎしているのが、やっぱり敏江らしい。
「浅沼美奈です。智花ちゃんには色々とお世話になってます」
 ペコリと頭を下げる。しっかりしてそうだけど、堅苦しい言葉に緊張が表れているのが彼女らしい。
「敏江ちゃんに美奈ちゃんね。これからも妹と仲良くしてやってね」
「もちろんです」
「ハイ、むしろ私からお願いしたいくらいですから」
 二人とも笑顔がぎこちなかった。姉が満足そうに笑う。もう少ししたら、吹き出しそうだった。
「それじゃあ、私は先に行くから」
「帰りは」
「時間が合えばね」
「分かった」
 私が時間を合わせることは姉も承知していた。つまり、帰りも一緒に帰ろうということだ。遠ざかる姉。長い髪が一歩踏み出すごと

に揺れていた。何だか、いつもより大人っぽく見えた。
「ね、ね。今のってお姉さんでしょう?」
 敏江の頬は赤く染まっていた。今にも頭から湯気が出てきそうだ。
「そうだけど」
「いやぁ、後ろ姿から顔つきまでそっくりだったけど何かこう、違うね」
「えつ」
 初めての反応だった。私と姉が違うなんて、今まで誰からも聞いたことなかったから、私は何て答えればいいか分からなかった。
「美奈はどう思う」
「そうだね。何か先輩のほうが大人っぽいかな」
 敏江と同じ様に頬を赤らめている。
「そうそう。そんな感じ」
「どうせ私はちびの子供ですよ」
 反応に困った私はとっさにこんな時の決まり文句を選んだ。
「いやいや。智花も私からすりゃ十分大人っぽいって。ただ、お姉さんの方は何かこう皆のお姉さんって感じ」
 敏江は笑ってごまかした。
「そうだね。安心感がある」
 美奈が助け舟を出す。
「そうかな? 普段はあんなんじゃ」
「普段はどうでもいいんだって」
 敏江が詰め寄ってきた。
「どうしたの。急に」
「いいから。これ以上は何も言わないように」
 ジッと私を見つめる。その視線は半ば哀願するように、私の夢を壊すなと言っていた。
「分かった分かった」
「ならよし」
 勝ち誇ったように笑った。
「二人とも、早く行かないと遅れるよ」
「そうだね。でもその前に」
 二人は顔を見合わせた。鞄を開いてスッと何かうすっぺらいものを取り出す。
「はい、これ。遅れちゃったけど」
 同時にそれを受け取った。
「年賀状? 今更?」
「いやね。両親関係がどうなってるか分からなかったし、こっちから聞くのもあれだしさ」
 と言って頭を掻く敏江。そのバトンを美奈が引き受ける。
「それでね、散々迷って始業式に渡すのが一番確実なんじゃないかってことになって」
「そ。ほらもし他の学校行くんだとしてもさ、智花なら始業式の日くらい来るだろうと思ってさ」
 二人とも必死だった。私が黙ってたから怒ってると思ったのかもしれない。
「メールが一番手っ取り早かったんじゃない」
 ポツリと独り言のように言った。
「あ」声がそろう。
「ごめん。そこまで気が回らなかったよ」
 手を合わせて、許してと言うように敏江は笑った。
「ううん。私はこっちの方がいい。来年も、どんなに遅れてもいいからこっちにしてね」
「そう? ならよかった」
 美奈が安堵の表情を浮かべる。
 本当は今すぐにでも二人を抱き締めたかった。
 抱き締めて泣きたかった。
 泣いてどんなに二人が大切かを伝えたかった。
 でも、私の顔には笑顔が張り付いて剥がれなかった。
 今までもそうしてきた。そのことは年賀状の枚数に如実に表れていた。私のお面を取れるのはたった一人。 
 私の右手を握った姉だけ。
 だから、私の左手はまだ空いたまま。ただずっと、お面を剥がす人を待っている。
「本当に遅刻しちゃう。走らなきゃ間に合わないよ」
 私は走り出した。
 視界には誰も映らない。ただ、まだ不機嫌そうに私達を待ち構えている校門だけが見えた。

 始業式はすぐ終わった。校長の貫高い声を聞き流すだけでいい。目覚まし時計の音に似た声に対しても立ち寝が出来る強者も中には

いた。
 急いで昇降口に向かう。姉はまだいない。他の人の邪魔にならないように壁に寄りかかって待った。続々と生徒達がやって来る。ち

ょっとしてその中に姉を見つけた。
 長谷川先輩と一緒だ。
 先に帰ろうと思った矢先に姉に発見されてしまった。
「何帰ろうとしてんの」
 姉が一人歩み寄って来た。
「だって私が一緒だとまた前みたいに」
「まだそんなこと気にしてんの。あれはもういいから、ね、一緒に帰ろう」
 私はしぶしぶ頷いた。
「んじゃ。行こっか」
 先輩がぬっと顔を出し、私は思わず身を固めた。

 結局、あの日とほとんど変わらない。私は姉達の後ろをトボトボ歩く。変わったのは先輩と笑って話す姉の姿。あの日はちょっとぎ

こちなさが残った笑い方で、今の姉の笑い声はカラカラに乾いた感じ。二人は時折私を見ては話に花を咲かせていた。苛々するのは変

わってない。でも今日の私には姉達を見る余裕があった。
「じゃあ、俺はここで」
「うん。またね」
 互いに手を振り合う。先輩はそのまま帰って行った。
「やっぱり。私がいない方がよかったんじゃ」
「何で」
「だってここ、この間別れたところだし」
「長谷川君この道が気に入ったんだって。こっちの方が近いらしいよ。それに、智花がいたから話が弾んだんでしょ」
「話のネタに人を使わないでくれる」
「良いでしょ。別に」ふんっと鼻を鳴らす。
「私達も早く行こう。お腹空いちゃった」
「昼は何にするの」
 期待を込めて姉を見る。今日は誰もいないから、何か買うか作るかだ。あそこのイタリアンもいいし、角のラーメン屋もいい。家で

作っても姉の作るものなら何でもおいしい。そんな想像をしているうちに私はそれまでの苛々を忘れていた。
「食べ物のこととなると、すぐこうなるんだから」呆れ顔を露骨に表す。
「じゃあ、昼は私が何か作ってあげよう」
「何かって何?」
「そんなに必死にならなくても。家に着いたらちゃんと考えるから」
「分かった」
 ニパーッと自然に顔がほころぶ。
「じゃあ、早く帰るよ」
「もちろん」
 空は、朝の曇天が嘘のように、吸い込まれそうになるくらい青く澄んでいた。
 まだまだ強い北風に抵抗するように、時折暖かい風が吹く。
 混ざった空気は生暖かくて、少し気持ち悪かった。

 それから半月。最近私は一人で帰るようになった。姉は気にするなって言っていたけど、やっぱり二人の邪魔をしてるのは確かだっ

たから。それに、部活が終わるまで一人で学校にいるのも辛かった。家に帰ってもしばらくは一人だったけど、それでも学校で部活を

観ているよりは良かった。
 すごく羨ましかったから。
 私は運動オンチで体力がまるでない。最近はまた体力が落ちたみたいですぐにばててしまう。だから、部活で皆が頑張っている姿を

見ると見せつけられてるみたいで嫌だった。
 必死に頑張っている人達を見てそういう風にしか見れない自分がもっと嫌いだった。
 結局、私は逃げただけなのかもしれない。

       十一
「智花。何か先輩が呼んでるよ」
 帰り支度を始めていた私に敏江が知らせにきた。
「お姉ちゃんが」
「ううん。知らない人」
 ドアに目を向ける。鈴原先輩がニコニコ顔で手を振っていた。
「分かった。ありがとう」
「どういたしまして」
 敏江は先輩とそっくりな笑みを浮かべていた。
「よっ。久しぶりね」
「先輩は部活があるんでしょ?」
「そ。だから単刀直入に言うよ」
「どうぞ」
 フッと先輩の顔から笑みが消える。意外なことに私は思わず身構えた。
「最近、春花の様子がおかしいんだけど。何かあった?」
「お姉ちゃんが?」
「気付いてなかったの?」
「そういえば最近は時間がすれ違って、ろくに話しもしてないかも」
 姉は私が夕飯を食べている時に帰って来て、部屋に直行。そのままお風呂入って、私がテレビを見ている時に黙々と夕飯食べ始めて

、夜はすぐに寝てしまう。確かにおかしいと言われればおかしい。
「私は疲れてるんだなって思ってたんですけど。最近部活が忙しそうだし」
「それならいいんだけどね」伏し目がちに言った。
「この間聞いてみたんだよ。ほら春花近頃は長谷川と帰ってるでしょう?」
 私はコクリと頷いた。まだ続いているらしくてホッとする。
「だから長谷川に何か言われたんじゃないかって」
「それで」
「そしたら春花はさ、『何も言われないよ』って言って笑うんだよ? 何かもう頭来てさ」
「どうしたんですか」
「別にどうもしないよ。っていうかできなかった」
「どうして」
「智花ちゃんにもわかるでしょ? 春花って何か人を和ませる感じがするじゃない」
「そうですね」
 ゆったりと微笑む先輩。そこからは不完全燃焼の怒りなどみじんも感じなかった。その怒りはどこに消えてしまったのだろう。姉が

全部吸い取ってしまったのだろうか。
「でもやっぱりもう一度あたってみようと思う」
 目に力が篭っていた。私はそれよりももっと強い力を込めて先輩を見た。
「いえ、これは私の役目ですから」
「でも妹には知られたくないことかもしれないよ」
「だからこそ。私がやります」
 ちょっとの間互いに目を見合った。先輩が目をつむる。
「そうだね。今までずっと姉妹やってきたんだからね。それに、これはトナカイの出番かもしれないし」
 ポンと私の頭に先輩の手が置かれた。その久しぶりの感覚に少し戸惑う。
「優しいですね。先輩って」
「今更気付いても遅いよ」
 ニヒッと笑う先輩。太陽のように明るく。姉とはまた違った強さを感じる。
 私は先輩からはたくさん元気を貰った。
 何時だって先輩は前向きで、ひたすら走り続けていた。
 でもそれは振り返ると止まってしまうから。
 止まると倒れてしまうから。
 そんな緊張が先輩を誰よりも明るくしていた。
「すみません」丁寧に頭をさげた。
「ありがとうございます」
 私の鼻が使命感に燃えるように赤みを帯びた。パッと体を起こす。
「それでは部活、頑張って下さい」
 ニコッと笑って見せてから、直ぐに教室に戻った。
 クラスの人達が不思議そうに私を見ていた。

 先輩にはああ言ったものの機会が無かった。土日はいつも練習試合だといって夜まで帰って来ないし、寝る前に話そうと思っても、

私が部屋に入ると決まってベッドを上がり始めていて、その背中が話しかけるなと言っていた。
 そんな日が続き、とうとうチャンスが巡ってきた。

 二月中旬の日曜日。その日部活の無い姉は出かける気もなさそうだ。でもいざとなったら、躊躇してしまい、もう昼食を終えてしま

った。
「ご馳走さま」
 のんびりとした口調で姉が言った。
「久しぶりね。一日中家にいるの」
 食器を片付ける母。先に食べ終えた父は部屋に籠って仕事をしている。
「そうだね」
「試合、勝ってる?」
 私も思い切って聞いてみた。
「ん~。まあまあね」
 何だ、いつもと変わらない。やっぱり先輩の考え過ぎかな。
「それじゃ」
 スッと立ち上がって部屋に入っていった。
 先輩の考え過ぎならいいじゃないか。でも、聞かなかったらそれも分からない。
 私は高鳴る胸を抑えて、しっかりとドアノブを握った。

「智花も勉強するの?」
 椅子に座り、姉は視線も寄こさずに言った。
「違うよ。ただお姉ちゃんに聞きたいことがあって」
 後ろ手でドアを締める。
「聞きたいこと」
 体ごと私に向けた。少し姉に近づく。足が鉛みたいに重い。
「あのさ、最近何かあった? お姉ちゃん何だかとても辛そうだよ」
「そうね。部活ばっかで疲れてるかもね」
 ニコッと笑う。頼りない笑顔だった。
「そうじゃなくてさ。何か私に隠してることない」
「心配してくれてありがとう。でもそんなことないから」
 机に向かおうとする姉の腕を掴んだ。何の抵抗もしなかった。
「痛いから離して」
「嫌だ。お姉ちゃんが本当のこと言うまで離さないから」
「だから、何もないって」
 囁くように静か。
「嘘。お姉ちゃん絶対何か隠してる」
 私は思わず叫んだ。いつもと違う姉がいた。掴んだ腕からはいつもの温かさが伝わってこなかった。
「長谷川先輩のことでしょ? 長谷川先輩と何かあったんでしょ?」
 姉が私の手を振り払おうとした。でもその抵抗はあまりにも弱々しかった。
「それはあなたが気にすることじゃないって何度言えば分かるの」
 相変わらず静かに語るような調子。でもそこには凄みがあった。私は怯まずに言い放った。
「何度言ったって分からないよ。お姉ちゃんが心配だから。お姉ちゃんは私にとって一番大事な人だから。幸せになってほしいから。

だから、何かあったなら言って欲しいよ。私だって力になりたいよ」
 握る手に力が無くなる。姉が体を向けた。背筋が凍った。姉は笑っていた。でもそれは温かさを少しも残していない。初めて姉を、

怖い、と思った。でも同時に、かわいそうだ、とも思った。
「ねぇ、智花」
「何? お姉ちゃん」
 必死に笑おうとした。だけど頬がひくついてそれは上手く形を成してくれなかった。
「智花は考えたことない? 『もし私達が一人だったら』って」
 私の不格好な笑顔が崩れて、どうしようもない怒りに変わったのが自分でもわかった。でもそれは誰に向けられたものでもなかった

。特定の何かではなく、全てに向けられていたと言ってもいいような、そんな曖昧で強い感情だった。やり場の失くしたそれは、やっ

ぱり目の前の姉に向かうしかなかった。
「そんなこと考えたことないよ。何でそんなこと考えるの? お姉ちゃんのばか!」
 私はわれを忘れて、あらん限りの声を出していた。
「あんたたちうるさい! 近所迷惑でしょ」
 急にドアが開いて母が怒鳴った。後ろを振り向く。父も一緒だった。
「二人とも、来なさい」父が静かに言った。
「三人で話したいから、御前は買い物でも行っていてくれないか」
 有無を言わさぬ言い方に母も黙って頷いた。
「じゃあ行ってきます」
 支度をした母が玄関に向かう。
 ガチャン
 時間が止まったように誰も動かない家の中で、その音が響く。それが合図であったかのように、私達は居間に向かった。父は私達と

対面するように座り、両肘をついた。
「お前達が喧嘩するなんて珍しいな。小学校以来か」
 威圧するような口調とは裏腹に父は嬉しそうに微笑んでいた。
「ごめんなさい」
 姉は堂々と父を見据えている。
「いや。喧嘩自体はいいんだ。それでしか分からないこともある。だけど問題は智花の声しか聞こえなかったってことだ」
 沈黙が時を刻んでいった。意を決したように、父は口を開いた。
「春花。何かあったのか? いくら普段あまり顔を見ないといっても分かるんだぞ。いや、だから分かるのかもしれないが」
「別にそんなんじゃないのよ。ただ疲れてるだけ。それに、智花の声しか聞こえなかったのは、私が大声だすのが嫌いだからってだけ

よ」
 姉が私の手を握ってきた。表情一つ変えていない。その手はまだ冷たくて、微かに震えていた。
「じゃあ、私戻るから」
 ゆっくりとした動作で部屋に行く。私もその後に付いて行った。その間、父は一言も言わず、ただ目をつむっていた。
 父の頭に、見慣れない白髪が目立っていた。

 パタン
「さっきは私がバカだったわ。あんなこと、私だって本当に考えてるわけじゃないのよ」
 背中を向けたまま言った。
「うん。分かってる」
「ごめん。ちょっと、頭冷やすから一人にして」
 私は黙って部屋を出た。居間にはもう父の姿は無い。居間と一続きになった部屋のソファにドスッと体を沈め、意味も無くテレビを

つけた。前に見たことのある番組の再放送が流れている。ぼーっとその様子を眺める。その中の人達は皆楽しそうに笑っていた。食べ

物がおいしそうだった。
 でもそれだけ。私にはその楽しさも美味しさも体験出来ない。ただ、こうやって見てるだけ。
うつ伏せに寝転がってみる。眠くもないのに、私は夢の世界へと誘われていった。

「智花。こんなところで寝たら風邪ひくよ」
 顔を上げる。背中が痛い。
「あ、お母さん」
「あら、泣いてたの? そんなに目を腫らして」
 柔らかく微笑んでいた。そんな母に姉の影を重ねる。私はゆっくりと体を起こした。体中がきしむ。
「本当に。何があったの?」
 首を横にふった。
「お姉ちゃんは」
「部屋。一人になりたいって」
「そう」
 つけっぱなしのテレビからどよめきが起こる。いつの間にか窓からは夕日が差していた。
「ちょっと、安心したわ」
 母が隣に座った。温かさが伝わってくる。
「何で」
「あなたは知らないかもしれないけど、お姉ちゃんは本当は泣き虫で、勉強も大嫌いなのよ」
「そうなの」
 母を見た。同じ高さの目線。微笑む顔に見たことのない皺が目立つ。
「そ。小学生の時は勉強ほったらかしで遊びにいって。男の子に何か言われるとすぐ泣いて帰って来たんだから」
「へー。全然知らなかった」
「あなたの前ではお姉ちゃんらしく振る舞ってたからね。それでもあなたのいない時はそうだったのよ」
「今も」
 母は寂しそうに首を振った。
「ほら、あなたが泣いて帰って来た日あったでしょ」
 コクンと頷いた。夢で思い出したあの日だ。
「その日以来、やけにお姉ちゃんってことを意識したみたいで、そんなことは無くなったわ」
「私の、せい」
「誰のせいでもないのよ。それにしても、やっぱり変わらないのね、あの子。最近は自然に姉らしくしてるなって思ってたけど。全く

、お父さんに似て頑固なんだから」
 母は笑いながらため息をついた。
「私、どうすればいいの」
「私に聞いても仕方ないでしょ?あんた達の問題なんだから、自分で考えなさい」
 突き放すような言葉だけど、まだ手助けする準備はしているようだった。
「まずは智花がしっかりしなきゃ。妹がしっかりしてないからお姉ちゃんが苦労するんでしょ?」
 叱りつけるようにじっと見つめてきた。ぼやけてくる視界を通して母を見た。
「ほら、すぐそうやって泣かない」
「はいっ」
 私は歯をくいしばって堪え、笑って見せた。
「よろしい。じゃあ、夕飯作るから手伝って」
「うん」

 わくわくするような音とおいしそうな香りが居間に満ちる。それらに誘われた姉が一緒に手伝ってくれた。 その目はほんの少しだ

け赤い。
「全く、智花は不器用なんだから」
 じゃがいもをどんどん小さくしていく私を見て、呆れていた。
「いつかちゃんと出来るように、今練習してるんだって」
「今日のカレーはじゃがいもが随分小さくなるわね」
「しょうがないでしょ。我慢して」
 じゃがいもと包丁をじっと睨む。慎重に皮を剥いているはずなのに、それはやけに分厚い。
「はいはい」
 呆れたように笑った。その笑顔には温かさが戻っていた。そんな私達を満足そうに母が見ていた。

 夜、誰かのしゃくりあげる音で目が覚めた。それは上から聞こえてきた。
「泣いてるの?」
 その音はそれっきりやんだ。物音一つしない部屋。明日、やっぱり長谷川先輩に話をつけなくちゃ。決意を固めた私を暗闇がそっと

包みこんでいった。

       十二
 翌日の放課後。私は真っ先に姉の教室へ行った。姉も長谷川先輩も見当たらなかった。
「智花ちゃん、こんなところで何してるの?」
 安堂先輩が近寄ってきた。鞄だけ持っている。
「あれ。先輩、部活は」
 確か姉は部活がないなんて一言も言ってなかった。
「顧問が急用でいないから無くなったって、由佳が」
「姉は」
「私は知らないけど」
「春花ならコートに行ったよ」
 鈴原先輩が顔に出した。
「何でですか?」
「さぁ? また気晴らしでもしてんじゃないの」
「そうですか。ありがとうございます」
 私は危ないのを承知で帰りや部活に急ぐ人混みの中を走った。

 いつの日かと同じようにボールが反響する。私は走り寄って肩を掴んだ。ビクッとして、私を見る。その黒い瞳は微かに揺らいでい

た。
「急に横から来たら危ないよ智花。どうしたの?」
「どうしたのじゃないよ。今日部活無いんでしょ。ここだって使っちゃいけないはずだし」
 姉はただ黙ってうつ向いていた。
「一緒に帰ろう」
 コクッと頷く。
「先輩は」
 首を横に振った。
「じゃあ、私が伝えてくるから、その間に着替えといて」
「うん。長谷川君は多分男子の方の部室にいるから」
 その場所を教わり、私は姉を置いて走った。私の心臓は悲鳴をあげていたが、気にせず走り続けた。

 長谷川先輩の姿が視界にはいった。私は一度止まって呼吸を整えてから歩いて先輩の元へ行った。
「あれ、智花ちゃんどうしたの?」
 慌てて繕うように先輩は言った。
「今日は先に帰って下さい、と姉が」
 堂々と先輩の目を見た。
「それから、これは私からなんですけど」
「ん」
 先輩は姉のことどう思ってるんですか?
 壁に寄り掛かる彼をじっと見つめ、その返答を待った。赤い光が彼の頬を染めている。風がカサカサと響き、遠くでカラスが仲間を

呼んでいる。
「どうって。仲の良い友達、かな」
 顔色一つ変えなかった。握り拳に力が入る。重い口を開いて私は苦々しい気持ちで言った。
「先輩がそこまで鈍感だなんて思いませんでした」
「言ってる意味がわからないんだけど」
 あくまでも平然としたその態度に、とうとう我慢できなくなった。
「どうして分からないの? お姉ちゃんは先輩のことが好きなんだって。先輩のこと考えてあんなに笑ったり泣いたり悩んだりしてた

のに、全然気付く素振りも見せないで。お姉ちゃんかわいそうだよ」
 ぐっと手を握った。奥歯を噛みしめた。彼の足もとを、狭い視界で見つめた。
「智花ちゃん」
 彼はゆっくりと私の方に手を差し出してきた。私はそれを払って彼を力いっぱい睨む。彼はいつもと同じ柔らかな笑みを浮かべてい

た。
 お姉ちゃんだけじゃない! 私だって、私だって孝俊君のことが!
 自分で言ったことが信じられなかった。撤回してどうにか取り繕おうとした私の言葉は、彼の体に妨げられた。ふっと背中に感じる

彼の大きな手。体中に伝わってくる彼の温もり。私はその心地よさに身を傾けた。
「分かってないのは」
 彼を見上げる。彼の表情はこわばっていた。
「君の方だよ」
「えっ」
「俺は君が好きなんだ。一目見た時から気になって仕方ないんだよ。それなのに」
「えっ。でも」
「嫌とは言わせない。君の方から告白してきたんだから」
 彼は再び強く私を抱きしめた。
 その瞬間、姉の色んな笑顔が走馬灯のように頭をよぎった。
 同時に私は彼を突き放した。
「やっぱり、駄目。私には出来ません」
「別に裏切りじゃないだろ」
 私は黙って首を振った。
「じゃあ俺の気持ちはどうなる。本気で好きな奴にフられて、その姉と付き合えっていうのかよ」
「ごめんなさい」
 どうにか声を絞りだした。
 震える声。
 赤く染まり始めた空。
 流れる沈黙。
私はクルリと方向を変えた。
 もう、帰ろう。
歩き始めた。
 もうおしまいにしたい。
 でも
 歩き始めた私の左腕を先輩が痛い程に掴み、私はそのまま力一杯引き寄せられた。大きな手を背中に感じる。私は必死に抵抗した。

とにかく先輩から離れようとした。もの凄い力。あの夏の日、遠のく意識の中で私が安心感を感じた手と同じだとは、到底思えなかっ

た。その手から痛いほどの熱さが伝わってくる。その熱さに応えるように高鳴る私の鼓動。
 やがて、私の身体が抵抗をやめた。
「やっぱり納得いかない。本当に駄目なのか」
 ブラリと垂れ下がった両腕が先輩の背中に回る。私は黙って首を振って笑った。
 それは自然に溢れてくる笑みだった。
そっと唇を重ねた。
遠くで革靴の去って行く音が聞こえた。
誰かが囁いた。
 よくやった

       十三
 私は姉を裏切った。
 あんなに彼を愛していた姉を。
 彼のことを想い、ある時は子供っぽく笑って、ある時は泣いていた姉を。
 すごく綺麗で輝いていた姉を。
 私は自分の本当の気持ちもあやふやなまま裏切った。
 剥がしてはいけないお面を剥がしてしまった。
 私は本当に彼を愛していたのだろうか。
 私が本当に愛していたのはどっちだったのだろうか。
 ふと後ろを振り返る。小さな女の子が転んだ。同じ恰好をした、転んだ子を少し大きくしたような子がすぐに走って来た。その子は

、転んだままうつ伏せで泣いている子をひょいと起き上がらせるなり言った。
「大丈夫だよ。全然痛くないから」
 その子は近づこうとした私を睨めつけた。
 この世の人達皆を疑いつくす。
そんな覚悟を感じた。
「お姉ちゃん」
 さっきの子は泣き止んでいた。まだ少し涙声だった。
「ん? なぁに?」
 お姉ちゃんはさっきまでとは一変して笑顔を妹にむけた。
「ありがとう」
 ふわっと体の内側から沸き上がるものがあった。
「何言ってんの。いつものことじゃない。さ、帰ろう」
「うん」
 そう言って二人は手を繋いで、来た方向へ帰って行った。
「そうだった」
 一人残された私。
 桜を咲かせる暖かな風が眩しい夕焼けに吹く。
私は走って家へ向かった。
 その間、一度も後ろを振り返らなかった。

 部屋を覗くと姉は机に座って、明かりもつけずに何かをぼーっと眺めていた。少し遅れて私に気付くと、すぐさまそれを机の引き出

しに隠すようにしまい込んだ。
「先に帰ってたの? 探したよ」
「お帰り。私こそ探したのよ」
「何で見付からなかったんだろ」
「えっ。あ。そうね」
 それっきり黙り込む姉。何かおかしい。
「何かあった?」
 姉は黙って首を横に振った。
「ふぅん。怪しいけど。ま、いっか。そんなこともういいや」
「えっ、ちょっと」
 呼び止めようとした姉を無視して私は台所へ行った。今日は父も母も遅くなると言っていた。夕食は冷蔵庫に入っている。今度姉が

楽しく夕食を食べるのはいつになるだろう。
「せめて今日ぐらいは、とも思ったけど」
 でも、それは出来ない。
 もう止められない。
 彼と出会ったあの日から、気付かずに下り坂を流れていた。
 私という水。
 徐々に徐々に急になって、
 もう万里の岩さえも塞き止められないほどの勢いになってしまった。
 そしてそれは、あまたの土砂を身に纏う濁流なのだ。
私は、ゆっくりと包丁を取り出して、後ろ手にそれを持った。

 片手でドアを開ける。姉は両肘をつき、頭をのせてぼーっとしていた。
「ねぇ、お姉ちゃん」
 私の声にピクッと体が反応した。
「びっくりさせないでよ」
 本当にびっくりしたような顔。その顔があまりにも面白くて愛らしくて、思わず笑った。
 そして同時に傷ついた。
「笑うな」
「ごめんごめん」
「全く、何なの? 居間にいるんじゃなかったの」
「ここだって私の部屋なんだから、別にいいでしょ」
「そう、だけどさ」
「それに、お姉ちゃんにはちゃんと話をしたかったから」
 なぜか姉が私を睨んでいる。
「話って」
「うん。あのね」
 私は覚悟を決めた。いつまでも姉に起き上がらせてもらうわけにはいかない。今度は私が姉を起き上がらせる番だ。
「私、お姉ちゃんのこと大好きだった。世界で一番って胸を張って言えるわ。私が嬉しい時にはいつもお姉ちゃんが側にいた。私が悲

しい時にはいつもお姉ちゃんが側にいて慰めてくれた。なのに私は、私は何も出来なかった。ただお姉ちゃんがくれるものを受け取る

だけ。お姉ちゃんから奪うことしかできなかった」
「そんなこと」
 姉は私から目を反らして言った。その視線はさっきの引き出しに向けられていた。
「私思った。このままじゃいけないんだって。このままじゃお姉ちゃん不幸になる一方だって」
 姉は黙っていた。
「だからね」
 後ろ手に持っていた包丁の切っ先を姉に向けた。沈みかけた夕日に照らされ、紅く燃えるように輝くそれを見て、目頭が熱くなった

 私は笑った。

「ごめん。お姉ちゃん」
「ちょっと、待ちなさい!」
 私は切っ先を翻した。同時に姉が椅子から飛び上がって駆けてくる。
「愛してたよ。お姉ちゃん」
 目を瞑って思いきり包丁を引き寄せた。
 柔らかい感触が皮膚を伝わってきた。痛みも感じないほど一瞬だった。

 ふと目を開ける。部屋の床が見えた。どうやらうつ伏せに倒れているようだ。
 あれ? 死んでない。
 そう思って起き上がった瞬間、私は氷ついた。そこには姉がいた。姉の両手は私の手を力無く覆っていた。そして私が握っていた包

丁の先には姉の左胸が。そして其処から夕焼けよりも鮮明な紅い血が流れていた。
「お姉、ちゃん」
 ボソッと自分自身に呟いた。それは紛れもなく姉だった。姉の顔は紅く染まりいつもと何ら変わりはなかった。ただ、無機質なステ

ンレスの塊と異様に鮮明な液体が姉を姉らしからぬモノに仕立てあげていた。
「嘘でしょ。お姉ちゃん、お姉ちゃん」
 姉にしがみついた。
「ほら、私こんなに悲しいよ。いつもみたいに慰めてよ。ねぇお姉ちゃん!」
 さっと、頭に細い手が乗った。姉の顔をみると、姉が私の方を悲しそうに見ていた。
 うっすら微笑んでいる。
「お姉ちゃん」
 姉は私の頭をゆっくりと撫でた。
「ごめんね」
 かすれた声が僅かに聞こえた。
「何で? 何でお姉ちゃんが謝るの」
「もう。智花を、慰められない、から」
「そんなことない。今すぐ救急車呼ぶから」
 姉の瞳はただ私を見つめていた。それだけで私はその場を離れられなかった。
「たとえ、生きてても。私はもう」
「何で? お姉ちゃんは私のこと嫌いなの」
 姉は首を必死に横に振った。
「大好きよ。大好きだった。だから」
「なら、何で」
 今まで私の頭を撫でていた姉の右手が、顔に沿って下がっていき、頬に触れた。ぬたりと生暖かい感触。
「孝俊君と、幸せになってね」
「えっ、今なんて」

 姉は笑った。
 今までで一番綺麗な笑みだった。
 全く自然だけど前みたいな不自然さがなくて
 しがらみの無い純粋な笑顔。
 私の一番見たいと思っていた笑顔。
姉の手が虚しく床に落ちる。
 姉はもう私を見ていなかった。

 どの位そうしていたのだろう。窓からは月明かりが差し込んで来ている。真っ暗な部屋のなか、その光に浮かび上がった姉の顔は白

くて美しかった。
「あれっ。お姉ちゃん。こんなところでなにしてんの?」
 ワタシはアネに話しかけていた。
「そういえば私もなにやってたんだろ」
 辺りを見渡した。暗くて良く見えない中、怪しく光るものを見つけた。
「そうだ。私がお姉ちゃんをこの手で。お姉ちゃんは知ってたんだ。何もかも。だからあんなに悩んで。結局知らなかったのは私だけ


 ふと、さっきの引き出しに目がいく。中を覗いてみた。そこには私があげた写真立てが不自然にうつ伏せになっておかれていた。手

にとって表を向ける。
 私と姉が一緒に写った写真。家族で旅行に行った時の写真だ。
「あれ、もう一枚入ってる」
 急いで引き出しにしまったせいで少しずれた写真の隙間からそれは覗いていた。私達の写った写真を取り出す。
「長谷川先輩」
 多分、修学旅行の時の写真だろう。制服を着た先輩が真ん中で笑っていた。それはこの写真立てが用途通りに使われた証だった。私

は静かに手に持っていた写真を元に戻し、写真立てを机の上において、再び、姉に目を向けた。

何でお姉ちゃんは死んでいるの?
 私が殺したから。
何でお姉ちゃんは私に殺されたの?
 私のせいで悩んでたから。
何でお姉ちゃんは悩んでいたの?
 彼と私が両想いだと知っていたから。
何でお姉ちゃんはそのことで悩んでいたの?
 お姉ちゃんは私も愛してくれていたから。
何でお姉ちゃんは私を愛してくれたの?
 私がお姉ちゃんの妹だから。

私がいなければ、姉は姉じゃなかった?
私がいなければ、姉は私を愛さなかった?
私がいなければ、彼は私を愛さなかった?
私がいなければ、姉はあんなに悩まなかった?
私がいなければ、アネはいまここにいなかった?
私がいなければ、姉は、幸せ、だった?

 スッと膝立ちになって赤銀色に輝くそれを抜いた。
「そっか」
 それを力強く握った。そこに映る私も同じように紅く輝いていた。歯を食いしばっても溢れる涙を止められなかった。
「始めから間違ってたんだ」
 思わず笑った。全く気付かなかった。
 最初から何もかも間違っていたなんて全然気付かなかった。
 自分が悪魔だとも知らずに姉の優しさに浸っていたなんて。
 姉を慕うふりをして、姉を地獄に落とす算段をしていただなんて。
「ごめんね。お姉ちゃん。愛してるって言ったけど私、それが本当かもうわからなくなっちゃった」
 だからせめて、形だけでもいい、その気持ちを表したい。
私は静かに切っ先を左胸に当てた。
勢い良く引き寄せる
 固い感触。身体を駆け抜ける苦痛。姉も感じた苦痛。
 でもそれは一瞬で消え去ってしまった。

       十四
 ふと目を覚ますと、白ばかり。
 あぁ、ここが地獄、かな?
 よくよくみると白いパネルが張り合わされているようだ。体も仰向けになっているように感じる。
 ということは天井?
 首を回してみる。動く度に左胸が鈍く痛む。右側に窓、足元にはシーツがかけられ、左側にはドア、目線と同じ高さくらいの小さな

棚、そして点滴。
 ここは病院?
「また生きてるの」
 その時、ドアが開き、医者らしき人が入ってきた。
「君っ。彼女が目を覚ましたぞ。急いで家族に連絡を」
 医者らしき人は私を見るなり後ろに向かって言った。パタパタと誰かの走る足音が遠のくと、私に向かって笑いながら言った。
「いやいや、よかった。もう一週間近く眠りっぱなしだったんだよ。君は運がいい。ここに運ばれて来たときは血だらけで助からない

かと思ったが、包丁が肋骨に当たってたからあまり心臓は傷付いてなかったんだ。いやいやよかったよかった」
「はぁ」
 そっか。姉に拒まれちゃったのかな。
「まぁ、今は起き抜けでよくわからんか。すぐに御家族の方が来るよ」
 何で死ねなかったんだろ。
 私はあんなに私を殺したかったのに。
 いるだけで人を不幸にするならいっそいない方がいい。
 私はお姉ちゃんを、大好きな人をあんなに苦しめたのに。
 そんな私を神様は許すはずない。
 そうだ。きっと私はもういないんだ。
 じゃあいまここにいるワタシは?
 いまここでかんがえているワタシはだれ?
 私はもういない。神様がちゃんと地獄に送ってくれた。
 じゃあワタシはきっと誰でもない。
 真っ白な紙。
 きっとそうだ。
 その時、ドアが開く音がして父と母が入ってきた。
「智花」
 二人とも泣いていた。母がワタシを抱きしめた。
「よかった。あなたが生きていて」
 母が言った。
 ごめんね。ワタシはもう私じゃないの。
「あの」
 母が顔を上げた。
「何?」
「どなたですか」

 その後が大変だった。智花が記憶喪失になったばかりか、何と言っても智花は姉が死んだ事件の重要参考人なのだ。勿論ワタシは記

憶など失ってはいやしない。
 ただ私を捨てただけ。
 ワタシはワタシを演じた。記憶を語れば私である智花になってしまう。そうしたら姉は浮かばれないだろう。それでも周りはワタシ

を智花と呼び続けた。
 事件の方は早く片付いた。だってあれは春花も智花も自殺だったのだから。ワタシにはその場にいたという関係しかない。記憶障害

という診断も下っているのだ。『姉が自殺するのを見て自分も自殺したが、あまりのショックに記憶を失った』とするのが妥当だろう


 トシエやミナは時々、カレは毎日のように見舞いに来た。初めて来た時はさすがに信じられないというような顔を隠しきれていなか

ったが、
「俺が智花の記憶を戻してやるから」
 と意気込んで、それ以来カレは色々とその類の情報を集めているそうだ。
 そして今も、カレは側の椅子に座って、ベッドから半身起こしたワタシを、何を話すでもなくただじっと見つめている。
 そうしたら、智花が還って来るかのように。必死だった。
 でもだからといってワタシに何が出来るだろう。智花という中身を捨てて、周りの人達の記憶という支えを失った空っぽのワタシに

出来ることなんて。
「ねえ」
「ん? 何?」
 カレの必死な眼差しが弛む。
「ワタシはもう智花じゃないのよ」
「だから」
「あなたは智花ていう人の見舞いに来てるんでしょう? なら病室を間違えてるわ」
「お前は智花だろ」
 カレはからっと笑った。
「いいえ。違うわ。ワタシはワタシ。決し智花にはなれない」
「いいや。お前は間違いなく智花だ」
「あなたはいつもそう言うわ。でも何の根拠があるって言うの」
「俺の記憶だよ。俺の記憶がお前は智花だと言ってる。今目の前にいる女の子がお前が愛した人なんだって」
「そう。でもワタシの記憶はあなたが長谷川孝俊だなんて言ってないわ」
「それはお前の記憶がないからだろ」
「そうかしら? じゃあ仮に。容姿も性格もなにもかもが智花と同じ別人がいたらあなたはその人を智花と見なすかしら」
 カレは腕を組んで考えこみ、そしてポツリと言った。
「別人は別人だろ」
「どうして」
「俺にはその人とそっくりな人と過ごした記憶があるけど、その人は俺と過ごした記憶がないから」
「そう。それなら今のワタシ達と全く一緒じゃない」
「いや違うね。その別人にはもう一つないものがある」
「それは何?」
「上手く言えないけど、智花の『源泉』みたいなもの」
「記憶とは違うの」
「違うよ。記憶は外の人達が人を認識するための手段でそれは変わって行く。だけど源泉はその人の内部から出てくるオーラみたいな

もんで、周りはそれをパッと見ていつでもその人だと決められるものって感じかな」
「それは失ったり変わったりしないの?」
「ああ、源泉は決して無くならないんだ。一生ずっとそこからはその人が流れ出してくる。そんな感じ」
 カレは照れながら言った。
「そんなもの。ただの感覚に過ぎないわ。それとも、何かあるの? 証拠みたいなものが」
「俺は信じることしかできないけど」
「そう。随分テキトウね」
 カレはうなだれていた。
「でも、よくわかったわ。智花っていう人はあなたの大事な一部なのね。だから何としても失いたくない」
「ああ」
 うなだれたまま答えた。
「ごめんなさい」
 カレが顔を上げる。
「ワタシはやっぱりワタシよ。あなたを支えることなんてワタシには出来ない」
「そんなこと」
「それにね。たとえワタシに彼女の源泉があるのだとしても、ワタシは智花に戻りたくないの」
 カレの手がワタシの両肩を掴む。
 ああ、まただ。またあの時のこわばった表情だ。
「どういうことなんだ」
「ワタシが智花になったら、一緒に亡くなったっていう春花さんがかわいそうだから」
「また。春花なのか」肩を掴む手に力が入る。
「あの時もそうだった。お前は俺よりも姉貴をとるっていうのかよ」
 初めて見る。この人が泣くの。だって彼はいつだって笑って。
 そこでワタシは考えるのを止めた。これ以上考えたらワタシに戻れなくなってしまうから。
「そんなことは知らない。ただワタシはワタシでありたい。智花じゃなくて、ワタシになりたいの」
「何わけのわかんないこと言ってんだよ」
「わからないの? じゃあ率直に言うわ。ワタシはもう嫌なの。みんながみんなワタシのことを智花だって決めつけるのが。だって、

みんなが言うような智花ではないワタシには、皆の記憶の輪の中に入れないの。なのに、知りもしない智花としてその輪の中に手を繋

ぐわけでもなくいるなんて。もう嫌。ワタシはワタシよ。誰もワタシを知ろうとしない。そんな中にいて楽しいと、あなたは思う」
 カレは何も言わずに、肩を掴んでいた手を背中に回してワタシを抱き締めた。ワタシはただ抱きしめられていた。
 カレが震えている。
 それだけを感じた。
 数分間そうしていたが、急にカレが腕を離し、椅子に座ってワタシを見た。カレは笑っていた。何て静かな笑みなんだろう。今まで

とは全然質が違う。前に資料集で見た弥勒半跏思惟像みたいな。
 限りなく柔らかで、
 それでいて限りなく脆い。
 そんな笑み。
 この人とはもう会えないんだな
 そう感じた。
「ごめん、なさい」
 ワタシには謝ることしか出来ない。
 だって彼はもう覚悟をきめてしまったんだから。
 ここで私が止めてしまったら、姉が遠くへ行ってしまう。私は少しでも姉の側にいなくちゃいけないんだ。 
 それは私が姉を愛している証だから。
 だから私はワタシでなくてはならない。だからワタシはカレを止めない。
「君が謝ることじゃないよ。君は智花じゃないんだ。あいつはもうこの手の届かないところに行っちゃったんだよ」
 カレは自分の手を見た。
「本当に、ごめんなさい」
 目頭が熱くなるのを感じた。
 泣いたりしてはいけないんだ。
 何度も私はワタシに言い聞かせた。
「全く。君のせいじゃないっていうのに」
 そう言ってカレはワタシの頭にその大きな手をポンと乗せた。涙が一筋ツッと流れ出た。カレはプイと顔を背けた。
「じゃあ。俺もう来ないから。ごめんね迷惑かけて」
 そのまま、病室を出ていった。

       十五

 ベッドから半身起こして窓の外を見る。
 私はいつまで入院しているのだろう。怪我だってもう大分よくなったし、退院位は出来るだろうに。その答えが今日聞かされるとは

思ってもみなかった。
 それはたった今、今日の午後の出来事だった。ワタシは突然主治医に呼ばれてトコトコ歩いてついていき、ある部屋に入るように言

われた。言われるがまま入ると、そこには父と母がいた。最近聞いたのだが二人の離婚話はなくなったらしい。それにしても、今日は

平日だし、会社が終わるにはまだ早い。
「どうしたんですか?」
 母は黙ってうつ向いていた。不穏な空気。こんな中で嬉しいことを想像しろというのが無理というものだ。
「とりあえず。座って」
 主治医が言った。なるほど、主治医の前には椅子が三つ用意されていた。ワタシは残っていた母の隣の椅子に座った。彼の背後には

レントゲン写真が飾ってあった。
 再び沈黙。空気が突き刺すように冷たくて重い。
「牧原智花さん」彼が口火をきった。
「これは言おうかどうか親御さんとも話合ったんですが。実は、心臓に重大な疾患がありまして」
「へ? 誰がですか」
 わざとすっとんきょうな声を上げる。やっぱりそういう展開か、と思った。
「あなたが、です」
 母は泣き崩れた。父が母を支えて励ますように背中に手を当てていた。
 どう反応すればいいんだろう?
 わからなかった。
  悲しめばいい?
でも涙はでてこなかった。呆然としているというわけでもない。本当にわからない。

 だって、一瞬嬉しいって思ってしまったのだから。

 主治医によると、手術をしなければあと一年もつかどうからしい。いつの間にそんなに重病人になっていたのやら。全く気付かなか

った自分が恥ずかしかった。ただ、移植手術なので、ドナーが現れなければ手術もできない。私は、できることならこのまま現れなけ

ればいいのに、と思った。
「治療なんてしたら、お姉ちゃんに会うのが遅くなっちゃうもんね」
 私は窓から見える大きな桜に話しかけた。看護婦さんによると、老木でほとんど花を付けないためもうすぐ切り倒されてしまうらし

い。私はこの木が姉のように思えた。
 確か今年はなかなか桜が咲かなかったな。そういえばいつか二人で花見に行こうって姉は言ってたっけ。でもその約束は私が破って

しまった。あの日以来、ワタシは智花を捨てたけど、結局また大事な人を亡くしてしまった。
「ごめんね。お姉ちゃん。私また約束破っちゃったね」
 私がワタシでいる限り大事な人達を失ってしまうのだろうか?
 私が、智花という存在が、支えにならないと大事な人達は目の前からいなくなってしまうのだろうか?
 そんなのは嫌だ。もうこれ以上何も失いたくなかった。かといって、ワタシは私でいるわけにはいかない。ちょっと考えてみる。
「何だ。意外に単純じゃない」
 ワタシが「記憶を失った智花」の振りをすればいいのだ。これなら空っぽのワタシでも彼らを形の上で満足させられるだろう。智花

を捨てた空っぽのワタシは何にでもなれる。彼らの望む通りの智花を演じればいいんだ。
「それで、いいのかな? お姉ちゃん」
 遠くの老木は何も答えてはくれなかった。
「大丈夫。もう少しで私も本当にお姉ちゃんとこに行くからね」
 どうせまた自殺しても姉に拒まれるに違いない。でも無理にでも姉の元に向かう機会を得たのだ。
 悲しいことなんて何もない。

 はずだった。

「あの日。雪の降る中あなたに出会ったあの日まではね」
 そう言って彼女は笑った。その優しい黒い瞳が、彼女の真っ白な寝間着に、悲しいまでによく映えていた。
 彼女は続けた。

       十六
 その日は初雪だった。
「そういえば、お姉ちゃんは雪も好きだったっけ」
 なんとなく、外に出たくなった。最近は毎日のように発作が起きて、起きているのも中々に辛い状態だ。でも、ワタシは何かに引か

れるようにカーディガンだけを羽織って外へこっそりと出ていった。
 病院を抜け出して真っ先にあの老木のところへ行った。それは公園の真ん中にゆったりと立っていた。周りには不思議と誰もいない


「おっきぃー。今までこんな大きなの見たことないや」
 木を見上げた。近くで見ても大して蕾をつけてない。
「お姉ちゃん。私お姉ちゃんと同い年になったよ」私は力無く木にすがった。
「ごめん。ごめんね」
 不意に誰かが私の右手を握った。顔を上げると、姉がそこに立っていた。笑っていた。あの日の笑顔。一番好きで、一番憎い笑顔。
 声すらでなかった。
 雪の冷たさも感じなかった。
 私の全感覚が姉を求めていた。
「お姉ちゃん」
 私は声を振り絞った。姉は何も言ってくれなかった。ただ黙ってどこかを指差すだけ。私もつられてその方向を見る。それはこの公

園の西側に通じる道。姉に視線を戻した。
「嫌だ、私はここにいるから。もう良いでしょう? どうせあと少しなんだから」
 姉は静かに首を振った。フワリと体が自然に立ち上がる。
「何で、何で駄目なの」

 今度は智花自身のために幸せになりな

声が聞こえたと思ったら不意に誰かに背中を押された。
 あぁ、そうだったね。
私は歩き出していた。きっともう姉はいない。姉はいつだってそうだ。立ち止まった私が、また歩き出す時にはいつだって姉が、最初

にちょっと後押ししてくれた。それが何よりも心強かった。いつでも姉がいてくれるそんな気がした。
 私は一度も振り返らずに歩いて行った。

「ここかな」
 そこは公園の道が集まる場所。真ん中に比較的大きな桜の木が堂々とたっている。
ふと視界に紅い花が入ってきた。
「椿。」
 ベンチの真後ろの植え込みに植えられたそれは、真っ白い雪の降るなか鮮やかに咲いていた。
「椿、か」
 ベンチの雪を手で払って座った。
「まるで私みたい。大していい匂いもしないし、散り方も無様だし。それに」
 血塗られて真っ赤だし。
そのベンチからはあの老木が見えた。
「お姉ちゃん」
 目を細めた。やっぱりあの時、お姉ちゃんについていけばよかったかな。そんなことを考えていると、ぬっと不似合いな黒い傘が視

界に現れた。何だかわからないけど私に向けられている。と、突然その傘は走って横切っていった。
「えっ。何?」
 顔が傘を追った。男の子の後ろ姿が見えた。
「孝俊君?」
 根拠もなくそう思った。
「そんなわけないよね」
 『源泉』。彼の言っていたことを思い出して、思わず笑みが溢れた。
「孝俊君。孝俊君の考えはやっぱり間違ってたよ」
 だって、私はあの子にあなたの源泉を感じたんだよ。
 源泉はきっとみんな元は一緒なんだ。
 そこから色んな水が溢れ出てくるんだよ。
「冷たっ」急に寒さを感じた。
「さ、帰ろう」
 帰り道。老木にお辞儀した。また来るよ、と約束した。

 翌朝、さすがに外に出る元気がない。外を眺めていると、昨日のあの子が見えた気がした。すぐにシャーペンと紙を取り出す。
「ごめんね。お姉ちゃん。またお姉ちゃんの言うこと守れそうにないよ」
 だって私はやっぱり十分過ぎるほど幸せだったから。
 私にはお姉ちゃんがいた。孝俊君がいた。お父さんもお母さんも。先輩達も敏江や美奈達もいた。
 でもワタシは独り。
 だから、今度は私のためじゃなくて、ワタシのために。
なんのしがらみもないワタシが幸せになれるとしたらそれは、あの忌まわしい日を乗り越えたことになる。
「だから、ごめんね」
 紙にスラスラと書いて紙飛行機にした。
「お願い。彼に届いて」
 一向に降りやまない雪。それでも私は飛ばさないといけない気がした。

 スッ。

 紙飛行機が手から離れた。


       十七

「これが私の、牧原智花の話。」
 彼女は、空へ向けていた視線を僕に向け、少し首を傾げて見せた。
「君はまだ、智花さんに戻る気はないの」
「智花はもう死んだの」
「そんなこと、ない」
 彼女は目を細めた。
「ううん。もう智花はいない」
 口を開きかけた僕を、彼女の黒い瞳が制した。
「智花は姉がいないとだめなの。それは宗教にも似てる。神様っていうのは自分の写し姿なのかもしれないね」
 交互に振られる細い脚を見つめているその姿は天使が暇を持て余しているようで。
「だから君は、自信を持てと、僕に言ったんだね」
 人が自分の写し姿にすがって生きているのだとしたら、まず自分を信じなければならない。そうでなければ一生重荷を背負って生きていくことになってしまう。そして、彼女は鏡に映る自らを失ってしまった。自ら手放してしまったのだ。
 それは、自分に自信を持てなくなってしまったから。
 自分自身に裏切られてしまったから。
 今まで姉の幸せを自分の幸せにしていると思っていたのに、彼女は長谷川さんを好きになってしまっていた。そのことに耐えられなくなって彼女は自ら命を絶つことを選んだ。それが、彼女なりに自信を取り戻す手段だったんだろう。
 彼女は、幸せだろうか。
「でも智花さんはひとつ、当たり前のことを見失ってるよ」
 ピタッと足を止め驚いた表情を向ける彼女に、僕は自然と表情が緩んだ。
「いくら智花さんが自分を拒んでも、智花さんはここに、僕の目の前にいるじゃないか」
 一陣の風が彼女の髪をさらっていき、ほんのりと紅潮したその頬が露わになった。
「そんなの、気休めにすぎないわ。なにを根拠にあなたはそんなことをいうの」
 眉間が陰る。今にも泣きそうな顔で笑っていた。それは懇願するようだった。これ以上近寄らないでと訴えるようだった。もう、諦めているんだからって。いくら探したってそんなのありはしないんだって。
「ねえ、答えて」
 彼女の白い肩の向こうには、灰色の雲が広がっていた。その表情は今まで見たことがないくらい、感情に溢れていて、それを抑えきれない自分を嘲笑うように、困った顔で笑っていた。
「今ここに私が生きてるって、何?」彼女の声は少し上擦っているようだった。
「私の肺が呼吸してること? 私の心臓が動いてること? 私の脳が電波を出していること? 私の瞳孔が反応すること? それらを生きてるって言うなら、私は確かに生きていたのかもしれない。けどね。私は生きてるって感じなかった。私の中で私はもう死んでいたの」
「それでも、智花さんは今こうして僕の隣に座ってる」僕は静かに言った。
「なら、なら私はどうすればよかったの? 一生、人になれないことを悩みながら生きていけばよかったの? 自分を信じることを諦めて、手を繋ぐ相手もわからないまま亡霊みたいに彷徨い続けろって言うの? それでも生きてるって、言えるの?」
「うん。それでも智花さんは生きてるんだ」
「どうして。どうしてそんな風に言えるの」
「それは」心臓がバクバクいっているのが自分でもわかった。
「君はまだ自信をもつことができるからだよ」
「さっきも言ったでしょ? 私は一番下の人なのよ。誰も私なんて」
「僕が」耐え切れなくなって、僕は叫んだ。
「僕が君を支えるから。君の目をしっかり見るから。君の左手を握っていてあげるから。だから、死んでるなんて悲しいことは、もう、言わないで。お願いだから」
 僕は一言一言噛み締めるように言った。涙が溢れてきた。止めようとしたけれど、次から次に出てきて止められなかった。どうしようもなくて彼女から顔をそらした。
「死ぬことは、悲しいことなの?」
 彼女の声が微かに聞こえた気がした。
「そんなの悲しいに決まってるだろ」
「何で」
「何でって」
 そう言って彼女を見た。その瞬間、僕は動けなくなった。彼女の白い頬に涙の痕が一筋、スッと刻まれていたから。
「何でそんなに優しくしてくれるの? 私が、可哀想だから」
 彼女の言葉の節々から、抑え切れていない感情が漏れていた。彼女は僕の方を見ているようだ。目の前がぼやけて表情はよくわからない。今にも泣きそうな声をしていた。答えを求めていながらも、それを必死に否定しようとする。あの時の僕と、今の彼女の姿がかぶった。でも、僕は苅部先生とは違う。答えはもうはっきりしていた。
「そんなの決まってるじゃないか。僕が」
 それ以上は言えなかった。彼女の人差し指が後の言葉をせき止めていたから。
「これ以上はだめ。決心が鈍るから」
 僕は涙を拭いて、彼女を見た。彼女は微笑んでいた。柔らかくて優しい笑顔だった。
「決心って」
「私、もう行かなきゃ。時間が無いの」
 そう言って彼女は立ち上がり、くるりと背を向けた。僕はただそれを見ていた。色々言いたいことが一杯あったはずなのに、思い出せなかった。
「あなたに逢えてよかった。あなたと逢えてなかったら私、ずっと自分に自信を持てずにいたかもしれない。でももう大丈夫。どこへ行っても、どんなになっても私は私でいられる」
 彼女は明るい声で言った。
「ありがとう。もっと早くあなたに逢えていたらよかったのに。神様って嫌な人ね。じゃあ、お別れ。さよなら」
 彼女は歩き出した。行ってしまう。僕は夢中でベンチから離れた。頭の中で色々な言葉が錯綜していた。僕はやっとの思いでその内の一つを取り出して、彼女の背中に思い切り叫んだ。
「また会おう」
 声がつぶれて、自分でも何を言っているのかわからなかった。彼女の肩がビクッと動き、彼女は立ち止まった。そしてちょっとの間上を向いて、また歩き出した。右のほうへ曲がって行った。僕は走って追いかけた。だけど、曲がった時には、彼女の姿は見当たらなかった。その場で立ち尽くし、僕は笑った。流れるがままに涙を流した。いつまでも、彼女の消えたほうを見ていた。
 遠くで何か倒れる音がした。
 
 最後に残った寒椿の花が、ゆっくりと地面に落ちていった。
 温かな風がその花を僅かに覗かせた青い空高く舞い上げる。
 その花は、宙で何度かくるくる回った後。
 
 少年の足もとに静かに舞い降りた。

Puppets In a love(ツサミ)

長いです。でもこれが目に触れるっていうことはきっとなんとかなったということなんでしょう。

妹は自分とそっくりな姉を殺めてしまう。自分の理想的な写し身。その神殺しの狂った愛は、自己の存在すら否定し尽くす。それを再生するためのカギはなにか。それを探し続けるのが、人間の一つのあり方なのだろう。

Puppets In a love(ツサミ)

大事な人の好きな人を好きになってしまう。そんなありふれた関係の中に埋没してしまった人たちの話。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-11-29

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